【南の風2019】 4051号〜4100号  
各号目次・後記(ぶんじん日誌)
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【南の風2019】4051号〜4100号・目次一覧

4051号【 5月18日】86韓国フォーラム、杉並「沖縄を知ろう」、復帰の日、岡山自主夜中、私の日教組
4052号【 5月23日】5月定例会、町田とびたつ会、夜間中学シンポ、テンチョンニュース、月刊6月号
4053号【 5月27日】台湾研究、韓国研究86、中国映画特集、切り捨てられる「端っこ」、記録づくり熱気
4054号【 5月31日】総会案内、風に参加、台湾社区大学、地域の歴史に学ぶ、TOAFAEC総会の歩み
4055号【 6月 5日】6月定例研究会案内、川崎・/在日コリアンへのデマ、町田とびたつ会、総会の夜
4056号【 6月10日】2019総会報告、第11回日韓学術交流大会開催、70年ぶりの識字調査企画、訃報
4057号【 6月18日】維持会員、竹富島を守る会、国連・表現の自由、阿佐ヶ谷・沖縄を知ろう、7月企画
4058号【 6月20日】やんばる対談テープ起こし、町田、平和を支える杖、映画・主戦場、故石原静子さん
4059号【 6月24日】竹富コンドイのリゾート化反対、月桃の花咲く頃に、竹富島を守る、7月定例会企画
4060号【 6月27日】年報原稿締切、韓国原稿、やんばる対談原稿、辺野古業者から献金、ぶんじん現役
4061号【 7月01日】6月定例会、満洲語の継承、しまくとぅば未来を、維持会員、辺野古と済州島・江汀
4062号【 7月05日】やんばる対談記録、韓国原稿、全夜中研究会、トランプ氏と沖縄、和光大学プロゼミ
4063号【 7月09日】米寿祝い経過、川口市夜間中学の動き、神奈川、松本より、年報24号原稿大詰め
4064号【 7月12日】じんぶんヒストリーV、町田、夜間中学増設集会、年報24号編集、創刊四半世紀
4065号【 7月15日】充実した編集会議、韓国本書評、八重山の参議院選、事務局、八重山の友人たち
4066号【 7月18日】名護エイサー、韓国本書評、喜屋武由放、ソウル平生教育振興院理事長、八重山2
4067号【 7月23日】竹富島リゾート反対、竹富島憲章、沖縄タイムス・コラム、原稿、古い写真再発見
4068号【 7月25日】国立大学の状況、町田とびたつ会、川崎市ヘイトスピーチ禁止条例案、吉田昇先生
4069号【 7月29日】日韓はパートナー署名, 定例会、糸満市の少年院、奈良全国集会、「楽天」の人生
4070号【 7月31日】奈良全国集会(59回)、社会教育と住民自治、名護市城、東アジアフォーラム韓国本
4071号【 8月 3日】つくば市教育大綱策定へ、町田、やんばるの自然と米軍、日中韓教育学会長シンポ、
4072号【 8月 7日】24号校正、8月6日伊江島と広島、旧開智学校「負の歴史」、北田耕也さんを偲ぶ夜
4073号【 8月12日】じんぶんヒストリーV報告、夜間中学スピーチ大会、走り続ける被爆者、24号校正
4074号【 8月14日】日中韓教育学会会長シンポ、名護青年旧盆エイサ−、八重山開拓・住吉、南に台風
4075号【 8月18日】日韓市民交流、熊取町図書館協議会答申、沖縄の心とは、とびたつ会、風の部屋
4076号【 8月20日】東アジア研究交流委員会、日韓・川崎の動き、八紘一宇の塔、東アジア交流・回想
4077号【 8月22日】年報24号入稿、目次・執筆者・訳者一覧、琉球新報コラム、年報刊行の喜び
4078号【 8月25日】福岡コリア研究会、夜間中学全国キャラバン,「こんばんは」上映、奈良で全国集会
4079号【 8月27日】ぶんじん米壽(トーカチin 東京)ご案内、希望連帯、対馬丸の子どもたち、Facebook
4080号【 8月29日】全国集会終る、日韓関係、竹富島入島料、「主戦場」、現代組踊「肝高の阿麻和利」
4081号【 8月31日】肝高の阿麻和利、奈良全国集会、年報第24号、弾圧の順番、がじゅまるの木の写真
4082号【 9月 3日】9月定例・年報24号合評、社会教育法70年と東アジア(1)、沖縄3図書館が警察に情報
4083号【 9月 7日】稀少図書資料コーナー、とびたつ会、社会教育法70年と東アジア(2)、稀少本の蘇り作戦
4084号【 9月10日】内モンゴルより、夜間中学キャラバン,、漂着船が沖縄、社会教育法70年(3)、米寿祝い
4085号【 9月12日】24号発送、北海自主夜間中学交流、地域の交流、社教法七〇年、年報めでたく刊行!
4086号【 9月15日】66社会教育学会、東アジアフォーラム史1、防弾チョッキ工場、学会ビッグニュース 
4087号【 9月18日】トーカチ祝い琉歌、全国夜間中学キャラバン、竹富の公民館、米寿の祝い終わる
4088号【 9月23日】第265回研究会レジメ案、北京フォーラム(1)、喜納昌吉、NHKラジオ中国語講座
4089号【 9月25日】大学の不当支配への闘い、札幌「こんばんはU」、東アジアフオーラム史2、回想
4090号【 9月29日】9月定例会報告、北京フォーラム、八重山の方言、東アジアフォーラム史3、定例会
4091号【10月 3日】『社会教育生涯学習辞典』、草京子先生、トゥンベリ演説、東アジアフォーラム史4
4092号【10月 5日】266回研究会、竹富島コンドイ開発問題、東アジアフォーラム史5、65年のつきあい
4093号【10月 8日】「こんばんはU」上映キャラバン、札幌スタート、300年前の組踊、北京フォーラム
4094号【10月11日】上野英信33年忌/名護、地域文化資源研究所構想、『辞典』、町田・10・10 空襲
4095号【10月15日】辞典これから、栃木県夜間中学ニーズ調査、東アジアフォーラム史6、台風19号
4096号【10月19日】24号増刷、夜間中学全国キャラバン、神奈川、町田、東アジアと自治体との対話
4097号【10月22日】定例会、川崎から声を挙げる会、沖縄で台湾展、北京フォーラム、88歳現役研究者
4098号【10月28日】266定例会報告、八重山への移民、11月上海スケジュール、「南の風」のこれから
4099号【10月30日】ゲスト、三つの感想、日韓識字学習者共同宣、東京赤羽、三重県、旧友ふたり
4100号【11月 4日】北京フォーラム修正版、竹富町祖納公民館、11月定例研究会へ、首里城を悼む


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《昇順》

南の風・各号後記(ぶんじん日誌)


4100号【11月4日】
■≪首里城を悼む≫
 本号冒頭には、11月下旬・北京で開かれる東アジア・フォーラム(第5回)のプログラム修正版(確定版?)が送られてきましたので、煩を厭わず収録しました(抄録)→■。日本語訳をされた黄丹青さん、諸連絡いろいろご苦労さまです。、
 10月31日の未明、衝撃的なニュース。那覇・首里城正殿から出火。赤い炎は天を焦がし、約半日燃え続けて、主要な建物はすべて焼け落ちたと。龍潭(池)のあたりから大火災を見つめる人たち、みな茫然、祈る人、涙を流す人たちをテレビが映し出していました。
 私たちにとっても首里城との永い物語があります。沖縄調査を始めた頃(1976年)、首里城はまだ再建されず、バラックの(印象の)琉球大学の時代がありました。1980年に学大・学生部長になって、ご挨拶に琉大の学生部長室を訪問したことも。首里城正殿あたりにあった建物か。その後に首里城の再建計画が進み、数年がかりで目を見張る首里城の復元、確か1992年、初めて首里城正殿を見学したときの驚き・感激は忘れません。あの朱色の歴史がつまった風格の正殿。その正殿が、まわりの建物を含めて、すべて焼け落ちたとはまさに悪夢。琉球・沖縄のアイデンティティを象徴する首里城だったのです。
 毎年の沖縄ゼミ、学生の大半は初めての沖縄なので、ゼミ日程では(中部・やんばるへ動く前に)まず南部戦跡をまわり、そして首里城にのぼったものでした。首里城にご挨拶しなければ琉球を歩けない思い。皆さんが見学をしている間、引率者はひとり龍潭のあたりに寝転んで待つ慣わし。近くの山城まんじゅう屋の温かいお饅頭を仕入れて、見学が終わり正殿から出てくるゼミ一行と輪になって饅頭を食べながら、第32軍司令部跡(地下壕)の説明などしたものでした。上海の華東師範大学一行を案内(2008年)し、中国と琉球との歴史を語りあった思い出も。ドイツ・ハンブルクの建築家トールマンを案内(2000年)した日、帰路は夕日を浴びながら金城町の石畳をおりて、那覇の街にもどったこともありました。思い出尽きず。
 ラグビー・ワールド杯、いよいよ終幕。11月1日に準決勝、2日に決勝戦。南アフリカとイングランドが熱闘し、優勝は南アフリカ(RSA)。いつぞやのヨハネスブルク大会に現れた故マンドラ大統領の笑顔が浮かんできました。

4099号【10月30日】
■≪旧友ふたり≫
 25日定例会のゲスト・阿部洋さんからメール来信(上掲)。当日の研究会に集う若いエネルギーに刺激を受けた由。また研究会記録(山口香苗さん作成)を丁寧に見ていただき、加筆・補正意見を朱書きでいただきました。恐縮し、御礼申し上げます。
 私たちの研究会は、そう厳密な記録づくりをしてきた経過ではなく、しかし当日の雰囲気ぐらいは、欠席のメンバーあるいは活動に関心ある人々に、むしろ速報的に書いてもらって「風」に載せ、それをホームページにもアップしてきた程度のこと。今回の山口さんの記録は久々に詳細! それだけにゲスト・阿部さんも補筆されたのでしょう。せっかくのご意見、ホームページ・研究会記録に朱書きで入れました。後日、黒字にいたします。⇒■http://www.bunjin-k.net/kenkyukai2019.htm  
 当夜のイーストビレッジ(ゲスト歓迎会)は談論風発、盛り上がりました。遅くまで付き合っていただいた皆さんに感謝! 会も終わりの頃、旧友ふたりのツーショットを、の声あり、88×2=176歳、の記念写真。当夜のスナップと合わせ、2枚を本欄(HP)に掲げてました(下掲)。研究会の撮り手は松尾有美さん、懇親会は江頭晃子さん撮影。お二人、いつもありがとうございます。久しぶりに(阿部さんとは初めての人もあり)皆さんのお名前も付しておきましtょう。
 月日の経つのは早いもの、10月が終わろうとしています。11月は下旬(22〜25日)の北京フォーラム(第5回東アジア生涯学習フォーラム)が大きな行事。ぶんじんは久しぶりに上海の友人たちに会いたくて(前号・呉遵民さんメールご参照)上海経由で北京入りします。心配してか、山口真理子さんと江頭晃子さんが同道いただくことになりました。しかも江頭さんは北京フォーラムで発表予定、国際会議に晴れて登場。11月定例会(11月29日・金)は江頭さんを中心に、フォーラム参加者による北京報告会のプログラムで開催予定です。

ゲスト歓迎会。左列:孫佳茹、中篠雫、松尾有美、金亨善、阿部洋、李正連。右列:呉世蓮、入江優子、包聯群、
小林文人、上田孝典。後方:山口真理子、マスター夫妻 (敬称略、イーストビレッジ:20191025)*江頭晃子さん撮影

旧友ふたり:左・阿部洋、右・小林文人(イーストビレッジ、20191025)


4098号【10月27日】
■≪「南の風」のこれから≫
 10月25日・定例研究会の当日、朝から大雨。千葉・福島では各地にまた死者を含む災害が報じられました。昨日・今日のワールドラグビー(準決勝)も黙祷から試合が始まりました。あらためて被害のあった各地の皆様にお見舞い申しあげます。
 研究会当日、ゲストの阿部洋さんは横浜から。雨で難儀するのではと心配しましたが幸い夕刻には傘が要らない空模様となり一安心。それでも米寿の人、遠路はるばる高井戸まで、まことにご苦労さまでした。遅くまで賑わったイーストビレッジの歓迎・懇親会も最後までお付き合いいただき恐縮しています。当夜は、小さな研究会としては多数の参加者、皆さんもお疲れさま。(HPに記録・写真⇒■
 山口香苗さん(早稲田大学)が長文の報告を書いていただきました(上掲)。丁寧な報告を有難うございました。いつもより早く始めましたから、阿部レクチャーと関連して案外とたくさんの話題が出ましたね。東アジア近代・植民地教育、もちろん清末・中華民国初期・朝鮮、日本近代教育百年史、歴史概念としての社会教育、国の研究機関の現状などいろいろ。阿部さんとブンジンは個人的な回想話も。参会者のなかには、焼酎持参で大分から包聯群さん。入江優子さん(東京学芸大)からは銘菓もいただき、阿部さんに渡せばよかったと帰宅後に思いついた時は、すでに遅し。皆さま、ありがとうございました。
 「南の風」があと2号で4100号。最近は皆さんからの投稿少なく、大部分の人が「読むだけ」の人。当方の疲労感もあり、何らかの区切りを探しています。当夜、この数号を送っている阿部洋さんに「風」の感想を聞いてみたり。雑然感があり、この種の通信の意味を計りかねている感想でした。本号は「東アジア」で比較的にトピックスがつながっていますが、最近の夜間中学や識字関連のメールを次号にまわしたからです。「南」の意味はほんらい「沖縄」。この雑然・多様な拡がりをもってきたからこそ20年(4000号)余り続いてきたことも確か。しかし東京・中国各フォーラムの姿も消え、ある転機にきていることを皆さんで考えてほしいと思っています。
 上海・呉遵民さん(華東師範大学)より11月・北京フォーラム関連のメール(上掲)をいただきました。フライト便名や再会希望の方々など、別便でご返報いたします。 
中列・右より二人目に阿部洋さん (高井戸、20191025) *松尾有美さん撮影


4097号【10月22日】
■≪25日定例会、88歳の現役研究者の語り合い≫
 前号・一部のグループにうっかり古い号(4087号)を誤信、申しわけありません。すぐ気が付いて、あわてて4096号を送り直しましたが、枯れ木は山の間違い?ご容赦ください。最近、自分でも理解できない、こんな間違いが多くなりました。気づくだけまだましか?
 さて、上掲【リマインド】10月定例研究会(李正連さん)の通り、25日は阿部洋さんをお招きしての10月定例研究会(第266回)です。いつもより早めの時間(18:15〜)での開始、皆さん、お気をつけてお出かけください。本欄には、当研究会について、当日のゲスト・旧友の阿部洋さんに出した私信(10月6日)、ご参考までにご紹介いたします。
 「ご無沙汰しています。10月25日、当方の10月例会にお出でいただけるそうで喜んでいます。李正連さんが「ご案内」を書きましたので、研究通信「南の風」に載せて配信。同(ぶ)欄(後記)に私なりの思いを書いています。ホームページにも載せています。
 こちらの研究会は「東アジア研究」を掲げていますが、大半は社会教育職員や市民、専門研究者ではありません。いつも少人数の、小さな研究会です。やわらかめの話にしていただければ幸い。ただ24年余、毎月の例会を続けてきたことが自慢。もともとは「沖縄研究会」でしたが・・・。また毎回、終わって懇親・交流する慣わしです。今回はとくゲストの歓迎会。時間の許す範囲で、お付き合い願えれば幸いです。
 当方、一応元気にしています。しかし一昨年に妻を亡くし、そのあと長期の入院、股関節の入れ替え(人工関節)、なんとか生き延びました。いま杖をつきながら、沖縄や韓国などにも出かけるようになりました。お互い「88歳の現役研究者の語り合い、皆さんお出かけを!」と書いておきました(案内・後記)。いつぞや Facebook で貴メッセージを見ましたが、「南の風」のライバルFacebook にはレスポンスしない方針、失礼しました。当日(はるばる高井戸まで)どうぞよろしくお願いします。」

4096号【10月19日
■≪東アジアと日本自治体の対話を≫
 今年度の年報『東アジア社会教育研究』24号、増刷することになったそうです(山口事務局長・上掲)。松本の矢久保学さんはじめ、追加注文が相次いで寄せられ、嬉しい悲鳴とのこと。有難うございます。
 半世紀前、徒手空拳で始めた年報出版。財政的条件が全くありませんでしたが、なにより編集の手がかりもネットワークも皆無のなかでの決断でした。ただ“思い・心意気”だけ。この時代・1990年代は、ちょうど東アジア各国では教育改革の新しい胎動のさなか。韓国から、もちろん中国から、また台湾からも、そのような息吹きが伝わってくる背景がありました。振り返ってみて、やはり決断してよかった。この四半世紀の東アジア社会教育・生涯学習の時代を記録することができたのです。
 ただ「東アジア」年報は、はたしてどう読まれているか、気になるところ。日本語バージョンですから、韓・中そして台湾では日本語ができる(わずかな)人にしか読まれていない。日本国内でも多く読まれている?とは言えない。今年度の年報が増刷となったのは、国内自治体から力のこもった報告が寄せられ、東アジアと日本社会教育との確かな対話が(不十分でも)始まったことによるのだろうと思われます。改めて松本の矢久保学、貝塚について村田和子、川崎について小田切督剛の執筆者各位に御礼を申しあげます。
 本号もまた夜間中学増設に向けての全国キャラバンの報告が2本寄せられました。最近の「南の風」には毎号に全国キャラバンの運動熱気が伝わってきます。関係の皆様に敬意を。風・誌面が全国キャラバンに少しでもお役に立てばと念じています。

4095号【10月15日】
■≪台風19号の爪痕≫
 台風19号は、思いのほか各地で甚大な被害をもたらしました。風だけでなく大雨の災害。千曲川や阿武隈川などの大きな河川で氾濫・決壊のニュース(32河川、57箇所)に驚きました。皆さんのまわりではいかがでしたか? お見舞い申しあげます。
 ぶんじんは、九州・筑紫次郎のそばで育ち、その流れで泳ぎも覚えた身。水害の多いところでしたので、古い家に川船を格納している農家も見てきました。大水が出そうなとき、まず家財を2階に移す、1階の畳は積みあげる、飲み水の用意をする、などの対処を子ども心に教えられた記憶。家は幸いに筑後川の堤防より高所にあり、床下に水が入った記憶もありません。しかし大水害の記憶はいまなお鮮明。何より1953(昭和二八)年水害の激しさを忘れません(いつか本欄で書いた?記憶)。大学4年の教育実習中。福岡から鳥栖で列車が停まり、首まで水につかって線路を歩いて久留米へ。翌日は「九学連」として熊本救援へ。白川の氾濫により、熊本の友人宅はビッシリと時計の中まで阿蘇火山灰にまみれた大水害でした。他方で、道路冠水や床下浸水などは「水害」のなかに入らないような妙な少年時代でもありました。
 こんどの19号台風、伊豆半島に上陸して東京直撃、杉並の真上を通って、筑波から東北へ抜けたようです。よく降り、よく吹きました。その割に東京は被害が少なかったようですね。そして台風一過の13日夜、ワールド・ラグビーは日本・スコットランド戦、見事な勝負でした。九州産業大学に勤務中、創設したばかりのラグビー部に乞われて、ラグビー部長を務めた2年。2歳の長男を連れて、よく応援に行ったものでした。福岡の自宅(貝塚団地)のすぐ近くに九州大学グランドあり、応援部長。いつまでも忘れない思い出。
 本号の資料・東アジア生涯学習フォーラム史6(昨年・2018韓国・公州フォーラムの記録)。風に載せていませんでしたので(長文ですが)上掲しました。公州フォーラムの報告は、年報24号にヤンビョンチャンさん等により掲載されています。資料:東アジア・フォーラム史1〜6 の歩み記録は本号でおしまい。

4094号【10月11日】
■≪空から降ってくる災害と戦争≫
 南方に不気味な巨大台風(19号)、いま北上中です。予報によれば、先月千葉に多くの災害をもたらした15号を更に上回る化けもの台風。首都圏を直撃するらしい。台風に慣れない東京、大いに心配です。被害のないことを祈るのみ。もし(千葉のような)大規模停電が発生すれば、どういうことになるか。大都市の陥穽、個別の用心だけではどうにもならない混乱も予想されます。お互い頑張りましょう。
 本号には島袋正敏(名護)、渡部幹雄(大分)、末本誠(神戸)、そして松田泰幸(町田)などの各氏、南の風・初期メンバーからの懐かしい便りが並びました。ありがとうございました。「まつだひろゆき」さんの「とびたつ会」ニュース(10月6日号)は、前号に収録すべきところ、遅れて失礼しました。いつもニュースそのものは省略して申し訳ありませんが、本号には(お詫びして)「とびたつ会」ニュースを添付しました。いちど「とびたつ会」の略史を、「風」に書いてくださいませんか。連載でぜひ! お待ちします。
 昨日(10月10日)は、中国では「辛亥革命」記念日(台湾では双十節)。そして沖縄ではいわゆる「10・10空襲」から75年の日でした。琉球新報はコラムで「悲劇の序章」と題して「10・10空襲は沖縄戦の前触れであった。モダンな街が消えたこの日、沖縄が戦場となることを多くの県民は恐怖とともに自覚した。悲劇の序章、語り伝えるべきことは多い」と書いています。この日、那覇の街が消失しただけでなく、沖縄全島の主要な施設・港湾等が5波にわたって空爆されたのでした。沖縄島だけではない、奄美・徳之島・宮古島・石垣島もすべて、つまり南西諸島すべてが米軍グラマン機(空母艦載機)の爆撃にさらされた悲劇の日でした(沖縄大百科事典・中巻)。
 制空権を失った日本軍、1945年に入ると九州もほとんどグラマンが乱舞する毎日。軍都と言われた久留米(第12師団がおかれていた)はとくにひどかったようです。あの不気味な爆音や機銃掃射の音を少年Bは今でも忘れない。戦争と災害は空から降ってくるのか?

4093号【10月05日】
■≪風への返信ふたつ≫
 本号は、夜間中学設置に向けての全国キャラバン→「こんばんはU」上映会開催ご協力を!の特集号となりました。とくに具体的な呼びかけとして「滋賀県・山口県・三重県でご協力いただける方、いらっしゃいませんでしょうか」(黒川優子さん)とのこと。南の風メンバーとしては、残念ながら、この3県いずれも具体的にご紹介できる方がいらっしゃいません。ただ滋賀県については、渡部幹雄さん(もと愛知川町図書館長)の顔が浮かびますが、和歌山大学(付属図書館長)を退任されて、その後は「自由人」となられたのでしょうか。その後どんなお立場なのか、この機会にお伺いしたく、メールをいただければ幸いです。滋賀県下で「夜間中学」キャラバンの関連で、どなたかご紹介していただければ更に有り難い。
 風・前号で、10月定例研究会(25日予定)のご案内を載せました。当日のゲスト予定・阿部洋さんから、次のようなメールを拝受(Sun, 6 Oct 2019 09:57、抄録)。「お久しぶりです。・・(略)・・今回は、思いもかけず、貴研究会で話しをする機会を作っていただき、感謝しております。高井戸にはかつて(福岡に転ずる前)1年半ほど公務員宿舎にいたことがあり、なつかしい場所です。なお、当方の談話にあたり、二・三点資料を準備したいと思います。大体の参加者数をご教示いただければ幸甚です。(略)」 当方は小さな研究会、いつも少人数(10名内外)ですが、ゲストの令名を知って少し多くなるのかも。それでも20名をこえることはない?と思います。
 また風・前々号に載せた久しぶりの野島薫さん(朝倉書店『社会教育・生涯学習辞典』編集担当)からのメール(Mon, 07 Oct 2019 14:21、抄録)。「ご返信と,そして南の風への掲載をありがとうございました。HPのほうで拝見しましたが(略)・・・刊行から7年,時の流れは本当に速いです。私も「5年後」再刊の話は印象がとても強いです。大がかりな改訂は現状では厳しいかもしれませんが,項目の文章内での修正や,五十音の末尾ページにもし余裕があれば,ページが増えない範囲でにはなりますが,項目追加も可能かもしれません。そういった手を加える作業なら改訂よりハードルは低いかと思われます。(略)」 ご返報ありがとうございました。

4092号【10月05日】
■≪65年余のつきあい≫
 前号を出して、ちょうど1日経ったところで本欄を書き始めています。昔(南の風創刊から15年ほど)はいつもこうでした。つまり風・隔日刊のリズム。最近は各週に2回ぐらいの配信ですから、昔が懐かしくなり、また若くなったのかな、と錯覚も覚えたり。記事が予定スペースの枠に埋まり、次の記事(夜間中学全国キャラバンへの協力を)も編集を待っているからのことです。
 本号には10月定例研究会(10月25日)ご案内を冒頭に。李正連さん(東大)の執筆。阿部洋さん(近代東アジア・植民地教育の研究)がゲストとして来て頂くことになりました。「1世紀に1度あるかどうかというくらい歴史的な研究会となると思います」(上掲・案内)とは大げさな。
⇒■http://www.bunjin-k.net/kenkyukai2019.htm

 阿部洋さんとぶんじんは大学の同級生。1952年の出会いですから、65年をこえる付き合いとなりました。当時の勤務先・目黒の国立教育研究所にはよく行きましたが、故横山宏さんの研究室(社会教育)や会議(日本近代教育百年史関連)が主。ほとんど会う機会はありませんでした。その後も電話で話す機会があった程度。今回、思わぬ経過となりました。
 こんどの企画は、数か月前の韓国研究フォーラムのあと(風の部屋、飲みながら)、李さんが「阿部先生がお元気です」という話から始まりました。いつもの調子で「電話しよう」と番号を探しましたが、その席ではわからず・・・。会って、久しぶりに一献かたむけ旧交を温めよう、そんな程度のことでしたが、李さんたちが張り切って、まともな研究会プログラムへ。題して「わが教育史研究を振り返るー近代東アジアの教育をめぐって」。ともに88歳、しかしお互い現役!研究者としての語り合いです。まさに乞ご期待!というところ。いつもより早い時間の開始となります(18:15〜)。ご来会をお待ちします。

4091号【10月03日】
■≪『社会教育・生涯学習辞典』編集の回想≫
 2012年秋、朝倉書店から『社会教育・生涯学習辞典』を刊行することができました。その編集担当・野島薫さんから、久しぶりにメール(上掲)を頂き、ありがとうございました。「辞典」(事典ではない!)はちょうど10年の歳月を要した難事業。10年とは時間がかかりすぎ、初めに出した原稿はすでに古くなったなどのご批判と、よくぞ出来た! 編集委員会の力技に敬服!などの賛辞をいただいた思い出。なにしろ1500項目、執筆者320人(うち3分の1は学会外の専門家)にのぼり、なかに素稿を残して鬼籍に入られた方もあり、襟を正して校正ゲラを読んだ夜もありました。専門的な概念・用語の英訳には末本誠さんなど神戸大学メンバーが約1年ちかく取り組んでいただき、和文索引だけでなく欧文索引が出色。
 こう書いてくると、当時の興奮が蘇ってきます。野島さんの編集力量に負うところも大きく、一般書の本づくりと違って、やはり「辞典」づくりは貴重な経験となりました。幸いに着実な売れ行き、そして残部僅少だそうです(上掲)。大学・研究室でこの辞典を常備していないところはない?と思いますが、できれば自治体の社会教育担当のデスクの上にも1冊置いてほしいと願ってきました。
 もちろん課題も多く、また刊行後の時代の変化、また法制度の改正もあり、大局的に見て「改定」版に取り組みたいところ。「世界の動き」にも目をこらした編集につとめましたが、東アジアの躍動にはまったく対応できていないことなど。そして「改定」に向けて新しい世代がどう取り組むかの現実問題もありましょう。
 TOAFAEC ホームページのなかに、辞典編集の回想(「南の風」に連載)を載せています。「研究史ノート・17」→■http://www.bunjin-k.net/kenkyusi2012.htm0
『社会教育・生涯学習辞典』(朝倉書店、2012)


4090号【 9月29日】
■≪9月定例会・ご苦労さま!≫
 昨日(9月27日)の定例研究会、ご参加の皆さん、お疲れさまでした。年報24号の合評会。報告の小田切さん・呉さん、レジメも興味深く、ご苦労さまでした。そしてさきほど、研究会の記録、早速に送っていただいた松尾有美さん、ありがとうございました。皆さんのエネルギーに支えられ研究会は活発、そして本号も元気に発行することができます。松尾さんの研究会記録に「松本・貝塚・川崎など自治体独自の展開、とくに公民館(市民館)職員の専門職化に向けての取り組み」の1行を加えさせていただきました。ご了承を。→■
 日本の社会教育法70年と東アジアの生涯教育法制の歩み、それらを横に貫きながら、今後の課題・展望を追求していく、定例会の論議は興味深いものがありました。とくに台湾の社会教育法(1953年〜2005年)の歴史的な検討(山口香苗さん執筆)は興味深く、あらためて日本・社会教育法のもつ意義・課題を深く考えることができました。東アジアの視点を加えて日本の社会教育・生涯学習のこれからを追求していく大事さを確かめた夜でした。
 ・・・とここまで書いてワールド・ラグビー。日本はアイルランドにみごと競り勝ちし、驚きました。こちらもビールでひとり祝杯。そのまま本欄は日曜日へ(お許しを)。その後に黄丹青さんより「北京フオーラム」準備の状況もお送りいただきました(上掲)。
 本号の「資料:東アジアフォーラム史3」は、2016年・新「上海フォーラム」を準備する経過を寄せてきた呉遵民さん(華東師範大学)メール(南の風3764号、2016年12月5日)を載せました。この年、ぶんじんは上海へ行けず。呉さんそして韓民さんには申しわけない思い。それだけ逆にいつまでも忘れることがない記念のメールとなったのです。3年が過ぎて、今年は杖をつきながら、なんとか上海・北京へ参上したいと思っています。
9月定例(第265回)研究会後の交流(黄丹青さんなど退出後、高井戸、20190927) 関連記録・写真→■


4089号【 9月25日】
■≪東アジア・フオーラム史2≫
 
3号前の4086号・本欄に「東アジアフォーラム史(1)」として、故伊藤長和さんの懐かしい一文「第1回東アジア(日中韓)社会教育・生涯学習国際フォーラム」を掲載したことをご記憶でしょうか。亡くなられて早や5年が経過していますから、最近の風メンバーには馴染みのない方もありましょうが、古いメンバーには忘れ難い人、TOAFAEC 副代表でした。ぶんじんはHP上に(いつでも会いにいけるように)「追悼ページ」を掲載しています。→■http://www.bunjin-k.net/itoutuitou20140216.htm
 本号には、東アジアフォーラム史(2)として「日中韓・生涯学習学術交流協議書」(上海、2010年11月27日)を上掲しました。すでに9年が経過した古い文書。しかし国際「協議書」です。日本代表として同文書に署名したのは石井山竜平さん。「生涯学習フォーラムは三か国が順番に2年に1度開催」することを約束したもの。しかし当時の尖閣列島をめぐる日中間の厳しい政治状況あり、中国側の参加が見込めず、2012年は実施されませんでした。日本側の参加予定者は、相い語らって、開催地となるはずであった韓国・済州島へ遊んだ楽しい思い出が残りました。韓国・公州大学ヤンビョンチャンさんたちが迎えてくださって、旅の一行には伊藤さんの元気な顔も。玄界灘の海は青く輝いていました。(写真)
 そして2016年に再び上海で「東アジアフォーラム」が開かれたのでした。ただし2010年の上海フォーラムとは、別の主催メンバー・プログラム・会議の流れ。続いて2017佐賀へ、そして2018公州、今年予定の北京フォーラムへと歴史が動いてきています。これらの記録は、私たちの年報「東アジア社会教育研究」にかなり詳細に残されています。幸いなるかな! ぶんじんは、2010年・フォーラムの際には積極的に動きましたが、2016・17両年は(亡妻介護、自らの入院等のため)参加できませんでしたが。
 昨年の公州フォーラムを(2010年を起点として)第4回と呼ぶ場合(韓国グループ・年報24号)と、今年の北京フォーラムを第4回という場合(黄丹青さん)あり、次に集まる機会にナンバリングを整えておく必要がありましょう。
済州島にて、後列右より3人目に伊藤長和さん(20121118)


4088号【 9月23日】
■≪NHKラジオ中国語講座≫
 いま(9月23日未明)台風17号が沖縄から北上、長崎沖から玄界灘を通り日本海へ。日本列島沿いに北上中です。最近の台風は、明らかに昔と違って、急速に巨大化し、竜巻を起こしゲリラ豪雨を伴って油断なりません。今回もまた(九州だけでも)停電10万戸とか。地球温暖化による異常気象の常態化。地球温暖化への対応に現世代が失敗し、若い世代・子どもたちが「未来のための金曜日」に400万以上も参加しているとのニュース!にも目を奪われました。
 東京の夏は、亜熱帯(沖縄)より暑くなり、9月に入ってようやく秋かと救われる思いでしたが、さわやかな秋空にまだ恵まれません。仲秋の月への渇望、切なるものあり。その思いを察してか、今年も胡興智さん(日中学院)から銘菓「月餅」を送っていただきました。この場をかりて御礼。最近、仲良しになった10歳の龍ちゃん(1階下の男の子)にもお裾分け、美味しく頂きました。
 胡興智さんは放送中の NHKラジオ中国語講座のレギュラー・メンバー。聞きごたえあるバスの声が懐かしい。胡さんは天津出身、東京外国語大学から、大学院を学芸大学へ。南の風メンバーです。何年か前の「七夕の会」で、いけばなを活けた人。NHK テキスト「まいにち中国語」の出演者紹介では、「東京学芸大学院修了、日中学院専任講師、上智大学非常勤講師」と並んで「趣味はいけばな」とあり、嬉しくなりました。短歌にもたしなみあり、沖縄の海軍壕やひめゆりを詠んだ歌が風誌上を飾った時期もありました。最近はどんな歌を詠んでいるのかしら。
 昭和が平成に変わった日、研究室ゼミ旅行で一緒に沖縄(名護)滞在中。その日、泡盛を痛飲したことを想い出しました。2001年頃よりTOAFAEC 常任委員の一人。日中学院を会場にTOAFAEC 総会を開いたことも(2003年)。近くの店で楽しんだ交流会の写真が残っています。→■
 右端が胡興智さん(20030621)


4087号【 9月18日】
■≪トーカチin 東京・米寿の祝い≫
 本日は九一八(チュイパー)。はるか88年前のこの日、「満州事変」が勃発し十五年戦争のつらい歴史が始まったのでした。年報『東アジア社会教育研究』は今年もこの日付で見事刊行。力作誕生を皆さんとともに祝いたいと思います。社会教育学会々場では山口事務局長がコーナーを設けてご披露(上掲)。年を重ねるごとに充実した編集、四半世紀の蓄積、知る人ぞ知る快挙!と言うべき。
 さて、ぶんじんも同じ年、九一八の2ヶ月後に生まれ、88歳を迎えることとなりますが、北京で開催予定の「東アジア・フォーラム」日程との関係で(2ヶ月早めて)9月16日に「トーカチin東京」米寿の祝いを開いて頂きました。4月名護「トーカチ」祝いの際、島袋正敏さんが大書して詠まれた琉歌三首(上掲)も再送いただき感激。とくに「いま道半ば」の言葉に励ましのメッセージ、思いを深くしています。
 当日、ご参加の皆さん、まことに有難うございました。内モンゴルのトクタホさん(風4084号)からの祝いを携えるかたちで馬頭琴奏者センジャーさん登場。目の前で奏でられる馬頭琴の響き、久しぶりに酔いました。北京の韓民さんからの祝意も。黄丹青さんの花束には北京メッセージも含まれているのでしょう。見城慶和ハーモニカは切々として心に響きました。実は「若草燃ゆる」(東京学芸大学学生歌)をリクエストしたかったのですが、次に大崎靖史さん(もと学大「解放研」学生)のギターが控えていたので遠慮。大崎さんは、狭山裁判元被告・石川一雄モノローグ「無実という自由」(おおさき作詞作曲)を熱唱。かっての学生運動の激情が蘇るよう。歌声が耳に残っています。
 20年ぶりの萩原啓子さん(2000年の独・仏や香港・大連にともに旅した)や、思いがけなく野々村恵子さん(もと練馬区社教主事)、そして韓国研究フォーラムの皆さんも。風の部屋の二次会。ぶんじんの次の本づくりが酒の肴・ワインのつまみ。この日、最後はしたたかに酔った人もいたような。
後列右2人目にセンジャー(馬頭琴奏者)、同左より2人目に大崎靖史(ギター)、前列右より4人目に
見城慶和(ハーモニカ演奏)の各氏、遠藤輝喜さんなど退出後、撮影・江頭晃子さん(蘭、20190916)
 
関連写真→■


4086号【 9月15日】
■≪社会教育学会ビッグニュース≫
 9月16日「トーカチin東京」の開催について、江頭晃子さんから再々度の呼びかけが寄せられました(上掲)。ぶんじんは前々号本欄に「皆さん、無理をしてお出で下さらないよう願います」と書いた身、申し訳なく、せっかくのメールなので、急ぎ風・本号を編集して皆さまに配信することにしました。いつもと違って、スペースの余裕がたくさん。そこで、小田切さんから送られてきた社会教育学会(会場・早稲田大学)二日目の雰囲気を伝える写真、私信ですが、キャプションのみ掲載させていただきました。小田切さんご了承ください。(ご親切に感謝!)
 ビッグニュースがあったからです。この日、学会の役員改選が行われ、新会長に私たちTOAFAEC 代表の上野景三さん(佐賀大学)が選ばれたそうです。小田切さんから送られた写真のうち、新会長ご挨拶の1枚を本ページにアップ。公民館学会長に引き続いての重責、しかも佐賀からの理事会出席など負担も大きいはず、まことにご苦労さまです。
 あと残りのスペースに、どんな資料を入れようかと思案。北京の東アジア・フォーラム(第5回)が11月に開催されますので、上海で開かれた第1回フォーラムについて、故伊藤長和さんがまとめた記録(2010年11月、南の風2544号収録)を掲げておくことにしました。ぶんじんにとっては思い出深い上海フォーラム。長さんの肉声が聞こえてくるようで懐かしい。小林「韓国の躍動、中国の発展、日本の低迷・脱皮への模索」のフレーズはこの上海の集いで出したものでした。また、ホームページ上には、上海・佐賀・公州へと動く東アジア・フォーラムの記録及び写真を収録しています。何かの折、役に立てば幸いです。→■http://www.bunjin-k.net/3kokusinpo2010.htm

社会教育学会・新会長の挨拶・上野景三さん(右端、@早稲田大学・懇親会、20190914) *小田切さん撮影

4085号【 9月12日】
■≪年報24号めでたく刊行!≫
 本日午後、真新しい年報「東アジア社会教育研究」第24号(9月18日発行)が届きました。江頭さん・山口さん、ご苦労さまでした。本号の目次一覧については、執筆者・訳者を含めて、今年は前もって「南の風」に紹介(風4077号)、またホームページにも、すでに入力済みです。それだけ24号への期待は大! →■http://www.bunjin-k.net/21gou.htm
 いま本年報の維持会員は36人と1団体。本誌に関わった執筆者・訳者は47人、最終ページに一覧がありますが、日本人は約半数、東アジアの拡がりで多民族による雑誌づくり(ただし日本語版)です。このようなサポート体制とスタッフ集団が形成されてきたこと、この四半世紀の歩みのなかでほぼ安定的に定着してきたことを喜びあいたい。
 第1特集は「社会教育法70年と東アジア社会教育法制」、本誌だけが組むことが出来るテーマ・意欲偏です。何より韓国・台湾の動きが刺激的。また中国も国家法としてはまだ実現できていなけれど、私たちの友人・韓民さんが書いているように、積極的な前向きの方向。他方で、日本の社会教育法はどうか、を問いあう必要がありましょう。
 本特集・編集のねらいについて、前もって、風誌上に3回に分けて(4082,83,84号)掲載しました。東アジア諸国・地域と比べて、日本の低迷をどう考えるか。前号にこう書いています。「国家政策のなかに社会教育・生涯教育が位置づいていないこと、市民レベルでも「市民の学習権」論議・運動が拡がっていないこと、学会研究者間では社会教育法の防衛論は根強いが、立法論は弱く、政策形成の仕組みに参画できていない」などをあげていますが、いかがでしょうか。ご議論いただければ幸い。
 本誌販売については、明日から開かれる日本社会教育学会の会場(早稲田大学)で、事務局長・山口真理子さんが今年もコーナーをひらいて販売・普及につとめるとのこと。ご苦労さまです。ぶんじんは「枯れ木も山の賑わい」の譬え、馳せ参じたいのですが、何しろ杖をつく身、足手まといになってはならず、会場には失礼いたします。お許しください。

4084号【 9月10日】
■≪9月16日の米寿祝い≫
 8日深更から9日未明にかけて、台風15号が首都圏を直撃。一晩中吹き荒れました。台風の眼は上手に東京湾を北に貫いて、一番奥の千葉市あたりに上陸、茨城県方面へ。東京側は停電を含めて千葉側より被害が少ないようですが、皆さんのまわりに被害はありませんでしたか?お見舞い申しあげます。
 翌日9日の京王井の頭線は復旧がおくれ、駅の改札に入るのになが〜い行列、こんなこと初めてでした。2日経っても千葉県側の停電はなんと60万戸。電気がとまるとまず水に困り、食事ができず、トイレも困って、まして猛暑がぶりかえし、たいへんな毎日が続いています。九州・筑紫次郎の川筋に育ったぶんじんは、水害にも台風にもめげずに生きる知恵を身につけた少年でしたが、大都市型の台風災害はまた別の様相、公共交通の混乱や停電にともなう生活困窮には立ち往生しますね。我が家はひとりでマンションの雨漏りないかなど点検、停電はなく、被害はBSテレビのアンテナがうまくいかなくなったことぐらい。ご放心を。被害があった方々の早い復旧をお祈りします。
 久しぶりに内モンゴル(民族大学)のトクタホさんからメール(上掲)、お元気のようで何よりです。9月16日の米寿祝いについては、いくつかのいきさつがあって、本祝いは90歳に延ばし、例年の「七夕の集い」に「米寿」をくっつける程度の小さな企画にしようということになりました。今年の4月、沖縄名護ですでに「トーカチ」(米寿)を祝っていただいた経過がありますし、それに11月誕生日は、上海・北京日程と重なる事情もあり、9月日程を学会続きで企画したという経過です。皆さん、無理をしてお出で下さらないよう願います。しかし馬頭琴の「センジヤー君が来れるかもしれない」とは朗報、久しぶりに「草原の王子様」による「萬馬の轟き」演奏を聴きたいもの。ぜひ愛器を携えて来るよう、モンゴルから東京へ要請してください。ぶんじんは幸せものです。

4083号【 9月7日】
■≪稀少本・資料の蘇り作戦 ≫
 いま西方海上に台風13号、南方に台風15号が北上中。先島や沖縄では、すでにかなり吹いた模様。沖縄の皆さん、大事ありませんでしたか? 13号はこれから韓国? そして15号は明後日?には本州のド真ん中をうかがう気配。東京もこんどは直撃かと思わせる台風進路図です。春から夏への異常気象は、秋にかけても騒がしく、ゲリラ豪雨など異常が常態化する時代となりました。ご用心!ご用心!
 さて9月に入って皆さんからの風をお待ちしていました。期待の来信なく、手持ち無沙汰で過ごしました。9月になると大学は忙しいのか、猛暑の疲れか、人待ち顔でお待ちするのは楽しくありません。やむなく本号は「ぶんじん」の文章を並べて出します。年報24号「特集のねらい」の続き(2)と、冒頭に載せた「稀少図書・資料コーナー」構想についてです。
 ホームページ上に「稀少図書・資料コナー」を常設する構想、皆さんのご意見をお寄せいただければ幸い。当面は、ぶんじん「風の部屋」所蔵の重複本・資料からスタートして、できれば風メンバー・その周辺のご協力を得て、各書庫に眠っている稀少本・遊休本・資料を、若い世代へ、ゆっくりと手渡ししていく、循環・再生の仕組みを創っていければと考えています。その模索を始めたいのです。たとえば今、入手困難になっている『公民館史資料集成』(横山・小林編、エイデル研究所、1986年)について、譲ってもいいよ、という方があれば、協力いただけないものか。あるいは、年報『東アジア社会教育研究』の欠落号(創刊1996年の初期号)や、旧『沖縄社会教育史料』(創刊1977年〜1987年、全7冊)、さらに遡って学会・社会教育法制研究会編『社会教育法制研究資料』(1969年〜1973年、全15集)などにも思いが及びます。この法制研究会資料は、もうすぐ発行される年報24号に内田純一さんが紹介しています。

4082号【 9月3日】
■≪年報特集(東アジアの法制)の「ねらい」≫
 戦後の教育改革期、新しく社会教育法が施行されて今年は70年。「月刊社会教育」6月号で「70年」特集が組まれ、また、9月13日から始まる日本社会教育学会大会(早稲田大学)では初日に特別企画「社会教育法70年と社会教育研究の課題」と題するプログラムが用意されています。私たちTOAFAEC 年報(24号)では、「東アジア」の視点から日本「社会教育法70年」の展開・課題を考える特集を企画。現物はまだ皆さんに届いていませんが、手もとに同「特集のねらい」(編集委員会)小文がありますので、数回にわけてご紹介することにいたします(上掲)。
 要点は、国家実定法としての社会教育法は、東アジアでは日本がもっとも早く、注目もされてきましたが、いま韓国・台湾そして(国家法としては未発ながら)中国の“躍動”がある。現代のこの動きに比べて、日本社会教育法はむしろ低迷に沈みつつあるのではないか。しかし他方で、70年の歳月は地方自治体の社会教育にさまざまの蓄積を生み、地域独自の社会教育体制づくりを(格差を含みつつ)創出してきた。その実像と課題について、自治体の具体的な事例(松本市、貝塚市、川崎市)を通し、その自治的な地域創造の歩みを考えていこうという「特集のねらい」。3回にわけて掲載します。
 あと一つ、沖縄の図書館について。数日前、沖縄タイムス(編集)より電話取材を受けました。小林「アメリカ占領下・沖縄の図書館」(『図書館雑誌』第86巻8号、1992年)を読みながら(多分?)のながい電話。9月1日・タイムス社説に関連しての取材だった様子です。日頃、「南の風」としては沖縄各紙にお世話になっている身。「3図書館が警察に情報」に関する同社説を記録として全文掲げておくことにします。すこし固い文章が並んだ号となり、申し訳ありませんが、中心はもちろん!冒頭に掲げた9月27日・定例研究会のご案内
→■、皆さん、ご予定ください。

4081号【 8月31日】
■≪がじゅまるの木の写真≫
 前号冒頭に載せた奈良・稲富(坂口)和美さんの「全国集会終わる」のメールには写真が1枚添えられていました。しかし前号には、「肝高の阿麻和利」の観劇記と故上江洲安吉先生の写真を掲げたため、1号おくれで本欄に載せます(下掲)。元気そうな愛息・阪口慧くんと山口真理子さんとのツーショット。折よく真理子さんからも奈良・全国集会の参加記が届きましたので上掲しました。
 いま全国集会の資料集を見ながら書いていますが、奈良の皆さんの熱のこもった取組みで、資料集に収録されたレポートも読み応えあるものばかり。全国集会史の上でも記録に残る集いになったのではないでしょうか。参加もしていないのに、集会の話を聞き、資料集を読んで、そんな感じがしています。集会開催に努力された関係の皆さんに大きな拍手!
 前号を受けて、いまスコットランド滞在中の岡幸江さん(九州大学)から、ほとんど折り返しのような勢いで、「肝高の阿麻和利」についての感想が寄せられました。2003年当時の関東公演の取り組み(写真記録→こちら■http://www.bunjin-k.net/yotei0308.htm)、その後も並々ならぬ力の入れよう。ヨーロッパの旅先で「肝高の阿麻和利」国立劇場公演の記事をみた興奮が伝わってきました。熱い思いのご返報、有難うございました。
 企画者とも言うべき故上江洲安吉先生(勝連町教育長)の琉歌一首、国立劇場公演パンフの冒頭に掲げられていますので、ことのついでにご紹介に及びましょう。和歌とちがって琉歌は八八八六、「あまわりの心 萬国(しけ)に道拓き 我した肝高の 誇い高さ」。ちょうど関東公演(埼玉)の2003年に詠まれた歌ですね。

左・阪口慧くんと山口真理子さん(奈良・がじゅまるの木、20190826


4080号【 8月29日】
■≪肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)≫
 もう2週間あまり前、国立劇場大ホールで現代版組踊「肝高の阿麻和利」が上演されました。誘われて猛暑のなか観にいきました。大ホールは若い世代でぎっしり。なにしろ役者はもちろん、現代版のダンスも伝統的芸能(平敷屋エイサー、浜の京太郎=ちょんだらー)も、歌や演奏のバンドも、出演者がすべて地元(勝連町いま「うるま市」)の中高生たち。この現代版組踊を立ち上げて(初演2000年)すでに20年近く、総公演数320回,総入場者は18万人を超えたとのこと。ぶんじんはたしか2003年に岡幸江さん(当時・埼玉大学)たちが学生と一緒に総がかりで取り組んだ埼玉公演(大成功!)を観た記憶があります。
 当時は国立劇場しかも大劇場での公演など考えられなかった時代。よくぞここまで!の思い。記憶をたどると、勝連町の東(あずま)武さん(沖縄復帰当時の沖青協会長)のお宅に泊めてもらった夜、「肝高の阿麻和利」初演の感激を聞いたことがあります。東さんは目に涙しながら、勝連城址で演じられた初演、地元の豪族「阿麻和利」が誇り高い(肝高の)英雄として、子どもたちが堂々と演じたこと、観衆(地域の皆さん)がともに泣いて拍手!をおくった情景を語ってくれたことがありました。
 舞台のオリジナル演出は平田大一(和光大学卒、小浜島出身)。当夜の開演のはじめにステージに登場して、企画者であった勝連町教育長:上江州安吉先生(昨年6月に逝去)のことを語りました。三つのことを演出に求められたそうです。敵討ちの伝統組踊では逆臣として登場する豪族「阿麻和利」を、誇り高い郷土の英雄として描いてほしい(中世「オモロ」では徳の高い畏敬すべき存在として謡われている)、地元の中学生(高校生も参加)で演じること、そして郷土の芸能を盛り込むこと。しみじみと聞きました。故上江州先生の在りし日の写真一枚を掲げます。2003年公演は→こちら■http://www.bunjin-k.net/yotei0308.htm 
沖縄(旧)勝連町教育長 (故)上江州安吉氏(教育長室、20041002) *東武さん撮影


4079号【 8月27日】
■≪Facebook とのかかわりーお詫びとお願い ≫
 韓国のヤンビュンチャン氏(公州大学)が8月15日、韓国・光復節にぶんじん宛に出されたご挨拶を、昨夜ポロリと発見しました(上掲)。もう10日以上経っている。Facebookを介してのメールでした、たいへん失礼しました。
 FBと「南の風」との関係は複雑、ある意味では競合の関係です。ほぼ2010年あたりから南の風の有力寄稿者がFBにご熱心、風には寄稿がなくなりました。同じころ「友達になりたい」方々がどっさり登場。韓国のヤンさんなども含まれていましたので、はじめ30人ほどは「友達になる」ご返事をして戻しましたが、予想もつかない数が予備軍にあり「これは大混乱だ!」と、その後はすべての友達作業を停止しました。せっかくのリクエストがありながら、大部分の方にすげないご返事(無返事)をする結果となり、熱心なFBメンバーに失礼を重ねることになりました。この場を借りてお詫びいたします。
 しかし「友達になる」返事をした方々に、逆に「友達ではない」返事が逆走されてもまた失礼になる、そうならないようにFBから完全撤収のかたちはとらず、中途半端に残っていて、時々は見ているかたち。そんななかで10日前のメールを発見するなどの結果を招来することになったのです。
 FBの皆様、これから「ぶんじん」宛のメッセ―ジは(FBを介さず)直接に「ぶんじんアドレス(風)」宛にお送りください。板橋区の斎藤真哉さんや竹富島の阿佐伊拓さんほかの皆さん、よろしくご配慮ください。

4078号【 8月25日】
■≪奈良で社会教育研究全国集会≫
 
昨日から社会教育研究全国集会(第59回、奈良)が開かれています。TOAFAEC事務局長・山口真理子さんは元気に出かけたそうです。福岡の横山孝雄さんからはメール(上掲)、茅ケ崎の西山正子さんは「息吹き」最新号に書き添えあり、奈良へのお誘いあり。しかしぶんじんはいま自重して東京に逼塞しています。1960年代後半から2017年(韓国本の出版祝賀会、相模原)まで、公務等を除いて約50回余りを参加してきましたから、お許しいただこうと。しかも、かなりの集会が(一参加者でなく)集会担当や責任者、あるいは委員長として関わってきましたから、全国集会はお腹いっぱい!の実感です。
 今回は名護から島袋一平くん(名護市教育委員会)が参加しているとのこと。予告がなかったので、今回は(市長交代もあり)沖縄・名護からは誰も参加しないのではないかと思っていたのでした。集会が賑やかに、たくさんの議論が出来ることを祈っています。ご参加の皆さま、大会の印象的なところを風にお寄せいただければ幸いです。
 昨日夜の朝日・夕刊「惜別」欄が、故北田耕也さんの追悼記事(編集委員・宮代栄一)を載せています。「学問の鬼、周囲には優しく」のタイトル。あらためて在りし日の北田さんを想いました。内容的には、私の北田像とすこし違いあり。「学問の鬼」というより、学問を超えて、人間論的な、文化論的な北田教育学であったようなイメージ。学会発表や論文報告などのレベルではない北田節の名文に打たれてきたのでした。北田さんは沖縄にも強い関心をもっておられました。電話で話すたびに、最近の沖縄行きはどう?などの話題があり。いつかゆっくり沖縄について話をしたいものだと願っていたのでしたが、かなわぬ夢となりました。
 松本の矢久保学さんが私たちの年報24号に「松本市公民館70年」に関わって力作を書いていただき、久しぶりにメール交換がありました。風に久しぶりなので、やや私的なことながら上掲させていただきました。ご了承を。

4077号【 8月22日】
■≪年報24号刊行の喜び≫
 
TOAFAEC 年報が今年で24号を迎え、日本社会教育学会(9月)に向けて執筆・発行に鋭意取り組んでいること、風の誌面でご存知のことと思います。昨夜、年報担当の江頭晃子さんより「印刷屋に入稿!」の知らせがきました(上掲)。出版関係者はもちろん、この種の仕事に係わりがある人には「入稿」は格別の響き。思わずひとりでワインをあけグラスを傾けながら本欄を書いています。
 今年で24冊目、年数で数えればちょど25年、つまり四半世紀の歳月を頑張ってきたことになります。ふと思いついて「目次」と執筆者・訳者の一覧を風に載せよう、善は急げと書き始めました。江頭さんからデータを頂くのももどかしく手書き、入力ミスがないことを祈りながら・・・。副題は少し抄録、執筆・翻訳に参加された皆さんのお名前はすべて入力。今号はとりわけ嬉しく、指がスムースに動きました。長期の入院を強いられた身としては、多分もう原稿を書くこともあるまい、と思っていましたから、24号に3本も書けるとは想像もしていなかったのです。
 李正連さんがが編集長、東京大学(院)の皆さんが文章を書き、また訳者としても大活躍。依頼したすべての方、ヤンビョンチャンさんはじめ韓国の皆さんはもちろん、中國の韓民さんからも原稿が届いて、実に充実した1冊に仕上がっています。「社会教育法70年」が大きなテーマ、本年報では独自に「東アジア」からとらえてみようというのが第1特集。昨年の公州で開かれた「東アジアフォーラム」記録が第2特集。毎号の目玉になっているのが各国・地域「この1年」。今年は石井山竜平さんが日本社会教育・この1年を書いていただきました。
 本年報はもちろん日本語バージョン、だけど日本の皆さんにあまり読んでいただけない。「東アジア」はやはり遠いのでしょうか。ぜひ!本年報から「日本と東アジア」を考えていただければ幸いです。松本・貝塚・川崎の3報告が力作、沖縄「やんばる対談」も収録。そして「香港の成人教育と生涯学習」について肖蘭さんから寄稿いただき感謝!です。最後になりましたが、この年報刊行を支えていただいている維持会員各位に伏して御礼申しあげます。

4076号【 8月20日】
■≪東アジア研究交流委員会・回想≫
 上掲・石井山竜平さんメール(今年度の北京フォーラム案内)は、久しぶりに「東アジア研究交流委員会」からのお知らせ。ありがとうございました。この機会に東アジア研究交流委員会について、少し復習させていただきます。
 いまから10年前、韓国研究フォーラムと中国研究フォーラムをつなぐかたちで「東アジア研究交流委員会」が動きはじめました。ちょうど韓国から梁炳贊(ヤンビョンチャン)さんが来日、定例研究会に参加され、翌日に中国研究フォーラムが開かれて、韓国・中国関係者をはじめ、TOAFAEC の主要メンバーの顔が揃った昼食会で、「東アジア」の動きに対応する窓口が必要だ、といた意見から構想が具体化されたものです。その1週間前には中国・国務院の「日本教育政策考察団」(韓民さんが副団長として帯同)も来日、福岡で上野景三さんにも来ていただいて対応した記憶があります。海をこえるこのような活発な動きに、個人的な対応では限度がある!という思い。学会などでしかるべき窓口・受け皿をつくって組織的に対応してほしい、と働きかけたこともありますが、なかなか。そんな背景からの「東アジア研究交流委員会」への期待でした。皆さんから推されて委員長は石井山竜平さん(東北大学)、事務局長には上田孝典さん(筑波大学)。活発な動きがホームページ記録に残されています。→■http://www.bunjin-k.net/higasiasia0905.htm  
 話しのついでに回想を。私たちは2006年に初めて『韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル版)をまとめましたが、韓国に向けても『日本の社会教育・生涯学習』を出版しようと思い立ち、学会の主要メンバー(約20人)に執筆をお願いして部厚な1冊を構想。編者は小林と梁炳贊、故伊藤長和、事務局長は李正連の体制。ソウルの「学志社」が引き受けて、2009年は鋭意督促そして翻訳中でした。ハングル訳は韓国研究フォーラムの皆さんの奮闘により力作となりました。翌2010年に待望のハングル版完成、写真を見ると懐かしい思い出。秋10月に盛大な出版祝賀会が大邱で開催されたのでした。その翌11月には、よく話題となる「日中韓・生涯学習国際シンポジウム」が上海で開かれ、中韓2国とともに日本代表(石井山氏)が協定書にサインをする、という流れでした。
『日本の社会教育・生涯学習』出版祝賀会、日本からの参加約10人、前列・小林の右に金信一・元副総理 (大邱、20101007)


4075号【 8月18日】
■≪久しぶりに風の部屋で≫
 山本健慈さん(国大協・専務)から、つくば市「教育大綱」づくりの動きにつて刺激的なメールをいただきましたが(4071号)、今回は思いがけなく、大阪府「熊取町図書館協議会」会長としての「答申」づくりのお便り。(国大協だけでなく)精力的なご活躍で何よりです。熊取町の図書館の管理運営については、直営での運営を、住民と協働しながら、の答申。答申末尾には「地域協働による図書館づくりの深まり」の一文も付されています。「職員と住民の継続的関係」による蓄積、「公共施設としての図書館の意味があるという認識を共有してきた住民と職員そして町長はじめ行政担当者の経験と見識」が大事と。委託・民営化の流れに抗して・・・元気づけられますね。
 8月16日午後、久しぶりに「風の部屋」(西永福)が賑わいました。東アジア生涯学習研究フォーラム・今年度の集い(11月・北京の予定)についての準備的な協議。この間の経過については折にふれて「風」でご紹介し、またホームページ上で関連アルバム(2010年以降)も載せてきました。→■http://www.bunjin-k.net/albumhigasiasia.htm
 まず、2010年に上海で大規模な「日中韓・生涯学習国際シンポジウム」が開かれた経過あり、しかし尖閣など政治的きしみで中断。その後、一段落して、小規模な集いとして、2016上海、2017佐賀、2018公州、と開催されてきました。昨年・公州の集いは、TOAFAEC の今年度年報(24号)特集として日中韓台の報告が集まりました。今年は北京で、ご存知の韓民さんを中心に準備が進んでいます。黄丹青さんが連絡役。日本側がどう対応していくか、やや心配。というわけで、暑さしのぎもあり、5人ほどの有志でいちど相談しようという経過での「風の部屋」。仙台から石井山竜平さんが参加、風にご報告がいただける予定です。

4074号【 8月14日】
■≪日中韓の教育学会長シンポ、名護・城(ぐすく)の旧盆エイサー≫
 大きな台風が南の海から迫ってきています。ゆっくりした速度、大きな雲と風の渦が不気味です。旧盆といえども、こんな来訪者は困りますね。皆さん、ご用心を。
 この8月初旬、東京で開かれた世界教育学会大会では、日中韓の教育学会長による初めてのシンポジウムが開かれました(風4071号・既報)。韓国教育学会会長のアテンド・通訳をつとめた金亨善(ヒョンソン)さん−東大院―から、その記録を送っていただきました(上掲)。興味深いシンポ、有難うございました。「韓国では研究者と政策決定者との関係が深くつながっている反面、日本と中国では教育政策は研究者より官僚が作るものだという認識」の指摘、生涯学習・社会教育の領域でも確かにその通り。教育学者がもっと政策形成に発言し参画していきたいもの。学会の役割が大事! その意味で三国学会長のシンポジウムは貴重、今後も期待したいものです。
 さて、8月旧盆となりました。沖縄では賑やかなエイサー、八重山ではアンガマの行事。いづれも青年たちの出番です。本号には、名護の中心部・城(ぐすく)区の渡口裕さんから、南の風参加のご挨拶、あわせてエイサー・地謡・地方(じかた)の解説そして写真も送っていただきました。町の路地を踊りながら練り歩く道ジュネ、地謡の写真2枚を添付。他の写真はホームページに収録しました。→■http://www.bunjin-k.net/yanbar2019.htm
 ぶんじんは昨年、故郷・久留米の古い家(1間の仏壇があった)を処分しました。さびしい旧盆です。振り返って生家にいたのは20歳まで、旧盆の思い出はずいぶん昔のことなのに、生れた家を失うことは、やはり大きな喪失感。あらためて沖縄のエイサーやアンガマのような集落・盆行事、若者たちの躍動、の豊かさに思いをはせています。
名護・城区の通りを道ジュネする旧盆エイサー(渡口裕さん提供、2011年) *関連写真→■


4073号【 8月12日】
■≪年報24号の校正作業 ≫
 8月8日は終日、年報24号の校正作業(東京大学・研究室)、賑やかでした。終わって赤門前「おおさわ」(魚料理)で「お疲れさん会」。店で飲みながら、執筆者の矢久保さん(松本)や石井山さん(仙台)などにいろいろ電話、皆さんご苦労さまでした。
 写真(下掲)にもあふれている若いエネルギーに支えられて作業は進行しました。年報創刊の初期(1996〜2000年頃)は、わずかな人数で、しょぼしょぼとやっていた記憶。隔世の感だ、そんな懐旧談も。中心の中国・韓国・台湾の論文は翻訳の作業も必要・・・難事業の年報づくりを24年間も続けてきて、来年は25冊目を迎えることになります。早や四半世紀。来年の記念の特集、どんな構想にするか、今から楽しみです。躍動する東アジアの四半世紀を記録してきた年報でなければ出来ない課題に挑戦しましょう。
 さて8月は、広島・長崎忌、8/15と続き、旧盆の休み、また月末には恒例の社会教育研究全国集会(今年は第59回・奈良、8/24〜26)が開かれますので、TOAFAEC 定例研究会は8月は開かない慣わしです。次は9月の諸行事となり、ホームページに順次書き入れていくことになります。→■http://www.bunjin-k.net/yotei1905.htm
 9月末の定例研究会は今のところプログラム未定。ご希望のテーマなどあれば、ご提案ください。年報24号刊行を受けて、関係のどなたかをスピーカーにお願いし、「24号・合評会」とするのが一案か。ご意見をおまいたします。
 8月も10日を過ぎました。74年前の8月9日、11時過ぎの久留米、遠雷のような、そうでないような「ドォ〜ン」という不気味な音を聞いたような。少年Bは友人のYっちゃんと「何じゃろか?」と顔を見合わせた記憶が残っています。今にして思えば長崎に落された原子爆弾(新聞は「新型爆弾」)だったのです。その直後、久留米には双胴のロッキードが飛来してきて、あわてて防空壕へ。グラマンという艦載機も、当時はほとんど毎日、九州を乱舞していました。そして翌々日・11日はB29による久留米大空襲、私たちの故郷はほとんど焼失、悲惨な焼け跡のままで、8月15日を迎えたのでした。
年報24号校正、終了後お疲れさん会、前列右4人目に上海・屈さんも。 (赤門前「おおさわ」、20190808)


4072号【 8月7日】
■≪故北田耕也さんを偲ぶ夜≫
 8月5日夜「北田耕也先生を偲ぶ会」、猛暑の中、久しぶりに都心へ出かけました。3月16日の急逝を悼む心はみな深く、たくさんの方々が集まっていました。偲ぶ会の準備・進行にあたられた各位、これから追悼集も刊行されるそうで、ご苦労さまです。南の風メンバーには、北田耕也さんをご存知ない向きもあるやと思い、昨夜配布された「北田耕也先生、略歴および著作等目録」のうち「略歴」を転記させていただきます。
〇略歴「1928年4月2日、福岡県小倉市に生まれる。その後東京に出て、渋谷尋常高等小学校に通う。1941年攻玉社中学校入学、1945年旧制佐賀高等学校(文科)入学後、佐世保海軍工廠に動員されそこで終戦を迎える。1947年武蔵高等学校に転校。1951年東京大学教育学部(教育行政学科)入学。卒業後、国土社で5年間雑誌『教育』の編集に携わる。東洋大学社会学部(1959〜75年)、明治大学(1975〜1999年)を経て、明治大学名誉教授。早稲田大学、東京大学、駒沢大学兼任講師。」
 旧制高等学校に入学した最後の世代。年齢的には3歳しか違わないのに、1世代上の感じ、半世紀を超えるお付き合いとなりました。とくに「月刊社会教育」編集長時代に力添えを頂いたことなど、当夜ご挨拶の機会に、ひとこと御礼のつもりで発言できました。北田さんのペンネームは「大音寺一雄」、藤原書店から3冊が出版されています。『下天の内』(2013)、『一塵四記・下天の内第2部』(2014)、そして今年4月(遺作)『姉弟私記』。そのオビにこう記されています。「鬼かこの身は・・。自分の出生が姉の悲運につながっていた。おのが身の存在の罪障。姉とは裏腹に安泰となった自らの人生の悔恨の記」と。
 北田さんが取り持つ縁、当夜、思いがけない人とも出会いました。常民大学運営や日本地名研究所(編集長)の小田富英さん。友人の東京学芸大学出身の尾崎・石黒夫妻へ電話しようということに。尾崎君とは40数年ぶりに話しました。国立の書庫(別宅)の番人をしていた人。松本の手塚英男さんからは通信(朝日新聞記事20190629)を頂きました(上掲)。
北田耕也さんを偲ぶ会(明治大学リバティタワー、20190805)


4071号【 8月3日】
■≪歴史のジグザグがどこに向かうか≫
 8月5日から8日にかけて開かれる日本教育学会(第78回)大会では、WERA・世界教育学会が並行して開かれます(東京大学・学習院大学)。そこに中国と韓国の教育学会会長を招いて、日中韓教育学会会長シンポジウムが開かれるそうです(学習院大学 中央教育研究棟301、6日(火)14:30〜16:15)。三国の教育学会会長の顔合わせは初めてのことではないでしょうか。TOAFAEC としても関心あるところ。どなたかご出席の方があれば、どんな論議になったのか、短くて結構ですので「風」にご紹介ください。
 3月16日に急逝された北田耕也さん(明治大学名誉教授)を偲ぶ会が明後日5日(月)18時〜に開かれます。新藤浩伸さん(月刊社会教育・新編集長、東京大学)から写真についてご相談あり、TOAFAEC ホームページに収録している写真数点がお役に立ちそうです。今できるだけ外出を控えていると風・前号に書きましたが、半世紀にわたる永いお付き合い、こちらにはなんとしても出席したいと思っています。
 本号には、山本健慈さん(国立大学協会)から「つくば市教育大綱」づくりにまつわる一文を拝受、有難うございました。数号前に国大協専務として「儀礼的なご挨拶」を頂戴しましたが、今回は久しぶりに(懐かしい!)ヤマケン節、独自の「語り合う共同学習」論にも再会した感じ。いま「つくば市」では活発な論議が交わされ、来年に向けて自治体独自の「教育大綱」が策定されるとのこと。教育長は教育社会学者の門脇厚司さん、詳細な会議録が市のホームページに収録され、自由なやりとりに刺激されました。余談ですが昨年『教育社会学会の20人』(学会編、東洋館)が刊行されましたが、その中に登場するお一人。日頃“無力な教育学者”を嘆いている身として嬉しいことでした。筑波大学の「軍事研究を行わない」宣言についても、初めて全文をよむことができました。感謝!→■ https://www.tsukuba.ac.jp/public/ho_kisoku/s-05/2018m01.pdf  「・・・歴史のジグザグがどこに向かうのか。主権者国民の存在がみえない、この社会において、学問の自由、大学の自治、は存在できるのか、ぜひ各位に関心を持ち続けていただきたい」とのこと。私たちも「歴史のジグザグ」に参加していきたいものです。

4070号【 7月31日】
■≪奈良の沖縄料理「がじゅまるの木」≫
 前号についてお詫び。一部の方に風の号数「4069号」のあとのタイトルが未記入のまま配信しました。申し訳ありません。もし保存の場合、記録追記が可能の場合「署名のお願い」と書き入れて下さい。
 奈良・全国集会(社会教育推進全国協議会)「チラシ」など風・前号に添付したところ、久しぶりに稲富和美さん(奈良市三笠公民館)よりメール来信(上掲)。佐賀の出身・和光大学卒、南の風がとりもつ縁で、奈良に就職できたようなもの。育ち盛りの二人のお子さんと「苦戦中」とのこと。公民館の仕事と両立できているようで、何よりです。お連れ合いは近鉄・奈良駅近くで沖縄料理店(「がじゅまるの木」11時30分〜14時・17時〜22時30分、日曜日定休、0742-27-7655)を開店。全国集会でまた一段と繁盛することでしょう。 田中伸一君(和光大学卒)も全国集会で登壇するとの便り。奈良集会に行きたいところですが、杖をつく身・ぶんじんは今、学会を含めて、この種の集会への参加を控えています。足手まといになってはいけないし、とくに全国集会は、終日座って分科会に参加する気力も体力もなく、失礼をいたします。一度「がじゅまるの木」に参上するという約束は忘れていませんが、残念です。お連れ合いによろしくお伝えください。稲富さん結婚報告会(2010年11月21日)、お二人を囲む写真が出てきましたので、下に掲げます。 
 昨年の東アジアフォーラム(in 韓国・公州)について、まとめの本を出版するという動き(上掲)、李さん・石井山さんのメールは内部メールですが、小生の名もあがっていましたので、あえて収録・上掲させていただきました(ご了承を)。加えて、まだ風・誌上では報告されていませんが、『躍動する韓国の社会教育・生涯学習』(梁炳賛・小田切督剛ほか編、日本語版、2017年)が、版を改めて中国で出版されるニュース(中国語訳がほぼ完成)、これまでにない「東アジア」の活発な動きですね。海を越えて、新しいうねりが動いていることは確か、さらにどんなかたちに展開していくか、「東アジア」をテーマに掲げてきた私たちとしても、わくわく感あり。ぶんじんも「枯れ木も山の賑わい」のたとえ、出来る範囲の参加をしていきたいと思っています。
 東京も梅雨明け宣言。冷ややかな梅雨空から突然の猛暑、しばらく暑い毎日が続くそうです。お互い、声をかけあって「暑気払い」を。
稲富和美さん(左より2人目)結婚報告の会(東京、20101121)  *和光大学OBGに囲まれて


4069号【 7月29日】
■≪「楽天」の人生≫
 
26日・7月定例会(じんぶんヒストリーV)、ご出席の皆様、ご苦労さまでした。とくに遠路の上野景三さん(佐賀大学)、お疲れさまでした。話し手としては「社会教育研究への道」について、ほぼ1960年代以降の歩み(先回で1950年代「青年B」の話は済んだ・)と考えて、メモも用意していきました。ところがご質問は、むしろ大学時代にもどって、さらに大学院・「助手」時代の、屈折を含む当時の話題となりました。つまり1950年代後半に逆戻り、「じんぶんヒストリー」はほとんど前に進みませんでしたね。しかし「本当におもしろかった」(上掲・小田切メール)の感想も寄せられ、話し手も充実感あり。
 人生には、誰しも模索や反発の時代がある、挫折・混迷のつらい思い出がある、そんないきさつを少しお話しした結果になったようです。下に苦しく語る写真一枚をアップ(江頭さん撮影)。
 私の旧制中学(久留米・明善)の校訓に「楽天」という言葉がありました。いま企業やプロ球団の名称となってしまって、あまり口にしなくなりましたが、私なりに(友人たちも)大事にし自慢もしてきた言葉です。ただし「克己」「尽力」と並んで「楽天」。当時の“尽忠報国”などが叫ばれていた軍国主義時代に、「楽天」には独自の響きがありました。「お國のために」という流れの中に、個人の生きる思想、といったニュアンスが含まれているようです。自分なりに力を尽くせば楽天の境地が拓ける、頑張れば必ずや何かが待っている、そして天命を楽しむ、と励ましの響きもあったような。当夜のぶんじんの話には、この「楽天」について触れるべきでしたが、余裕がありませんでした。若いときだけでなく、いま年を重ねて、ときどき思い出す大事な言葉です。さて、今年の年報24号、予定スケジュールから遅れて、担当の江頭晃子さんにかなり苦しい思いをおかけしていますね。申しわけない。こんなときこそ楽天主義でいきましょう。
じんぶんヒストリーV 左・ぶんじん、右・上野景三さん (高井戸・20190726)


4068号【 7月25日】
■≪故吉田昇先生の遺影≫
 今年のTOAFAEC 年報(第24号)原稿の仕上がり、皆さん、如何でしょうか。私がかかえている最終仕上げの原稿(「やんばる対談」など)もありますが、思いのほか遅くなっているようですね。関係各位、あと一つの頑張りで、充実した年報24号に結実させていただきたく、どうぞよろしくお願いします。いま私たちは、他に類書のない「東アジア」「沖縄」のテーマを掲げて、四半世紀の蓄積を目指している!苦しくてあたりまえ、頑張りましょう。
 明晩は、高井戸で第264回定例研究会、ぶんじんが話し手(「じんぶんヒストリーV、インタビューアー・上野景三さん)。わざわざ佐賀からご苦労さま。まったく打ち合わせもしていない、どんな展開になるか分からない。いささか緊張して、メモ風のレジメをつくり始めました。ぶんじんなりのテーマは「社会教育研究への道」。時代は先回のはなしを引き継いで、1950代年後半から1960〜70年代へ。当時の記録・資料を調べていたら、お世話になった吉田昇先生(お茶の水女子大教授、日本社会教育学会長、1979年急逝、享年63歳)の追悼記事が出てきました。追悼集『この道を』(1980年)に載せていただいた別記事「吉田先生と沖縄」はすでにホームページにも入力済でしたが、あと一つ、月刊社会教育・特集「吉田昇先生の死を悼む」(1979年4月号)に書いた「一枚のキップ」と題する追悼文、今度の機会に再会したという経過です。社全協・社教学会等を通して、ぶんじんの社会教育研究の道を歩む一つの証言でもありますので、山口真理子さんに入力を依頼、早速ホームページにもアップしました。→■http://www.bunjin-k.net/archives.htm
 この欄に掲げている吉田先生の写真は、ぶんじん自慢作の一つ。月刊社会教育 200号記念座談会(1974年7月号)の司会をお願いしたときのスナップです。慈愛あふれる先生のお人柄が蘇ってきます。(写真・下掲)
 本号は久しぶりに山本健慈さん(国大協)からの一文。川崎市ヘイトスピーチ禁止条例案について小田切・富沢お二人の同趣旨の要請文が並びました。ぜひご協力ください。
月刊社会教育200号記念座談会・司会(1974年7月号) 小林撮影


4067号【 7月23日】
■≪古い写真・再発見≫
 股関節の大手術(2017年)をして人工関節を装着し、いま杖をつく身。かってフィールドワークを誇っていましたが、残念ながら大事な脚力を失い、運動不足もさることながら、新しい見聞をご披露することはできなくなりました。残念無念!と(風・編集のたびに)悲嘆にくれています。しかし手術前の堪えがたい痛みから解放され、術後は順調に経過していること、また足はダメとしても頭は辛うじて生きている!それは大きな喜びだ、などと思いかえしている昨今です。
 というわけで最近の「南の風」は、回想や古い資料紹介などの記事が多くなっていることにお気づきだろうと思います。逆に皆さんからは、新しいニュースや動きを寄せていただきたい思い、切なるものがあります。折にふれて、小さなことでも結構ですので、お気軽に、よろしくお願いします。
 この20年来、TOAFAEC と「ぶんじん」合同ホームページを動かしてきました。記事に関連して写真もいろいろ。ときに各位の肖像権も気なりながら折々の画像をアップしてきました。写真は年とともに古くなって、だんだんとその価値が増幅していくことも再発見。先日、Justnetからsonetへプロバイダーを切り替えた際に放棄したと思っていた写真がどっさりと出てきました。ホームページ初期2001〜02年あたりの写真、まず数枚を当時の和光大学記録などに再挿入する作業。まったくの「古い記録」、別にページをつくらないとすべてを救出できないことも分かって、そこで中断。皮肉にも活発にフィールドワークに動いていた時期の画像でした。2000年のページ、エジプト・ドイツ・中国・韓国・沖縄へと、海をこえて動いていたころ。記憶をたどりながら、少しづつ埋めていきたいと思っています。
→■http://www.bunjin-k.net/2000schedule.htm

4066号【 7月18日】
■≪八重山の友人たち(U)≫
 私たちの沖縄研究がスタートしたのは1976年。那覇そして本島各地だけでなく、奄美や八重山にも渡り始めたのが(東京学芸大学・当時の記録をみると)1979年から。数年後に「沖縄社会教育史料」第4集(奄美、1982)や同第6集(宮古・八重山、1986)の史料集づくりに結びついたのでした。→■http://www.bunjin-k.net/okinawasiryou.htm
 八重山調査については、前号に紹介した渡慶次賢康さん(沖縄県・社会教育主事)にたいへんお世話になりました。永いお付き合いが始まりました。私たちの研究室にお出でいただいたことも。八重山に「自由大学をつくろう」などと語り合い、それが八重山毎日新聞のトップ記事に載ったことも。その後、学校に戻られ、竹富島の小中学校教頭や石垣中学校の校長、石垣市社会教育課長等を歴任。
 1991年11月のぶんじんゼミ旅行。竹富島の種子取祭、西表島をめぐり、石垣島へもどって、北部の平久保へ。台湾からの留学生・許銘欽さん(台北・最年少の小学校長)も一緒でした。すべて渡慶次(当時・伊原間中学)校長の計画で動きました。島の北部・平久保のビーチに大きな網を仕掛け、ぴちぴちのボラを刺身に。日頃は誰もいない浜には島の方々も集まってきて、ゼミ学生とともに賑わいました。米盛三千弘さん夫妻(写真)が網から島酒まで用意されたのでした。そのうちカラオケも。忘れることができない一夜。記録が風1137号に記されています。→■http://www.bunjin-k.net/minami1101.htm
 酔ったぶんじんの杯には、のそのそとヤドカリも寄ってきました。紙切れに戯れに詠んだ歌ひとつ。「平久保の十三夜の浜に人群れてヤドカリさえも・・・」は、その後に書家の流麗な筆で額に飾られ、(いくつかのいきさつがあって)驚いたことに2003年9月、平久保・米盛さん経営「浜遊」入り口の歌碑に刻まれました。その建立祝宴の司会・地謡が宮良操さん(風・前号)。この夜、石垣市の主だった方々が集まって(渡慶次校長はもちろん)嬉しい祝宴となったのです。鷲尾真由美・山口真理子お二人の「歌碑建立の記録」が風1138・1139号に載っています(これはホームページにアップしていない)。
 私たちと八重山との出会いは、あと一つの流れ、東京での新垣重雄さん(1970〜80年代・八重山文化研究会、其の後は国会議員秘書、社大党書記長、現・石垣市議)との永いお付き合いがあります。折をみて書くことにします。下掲・写真は、2013年3月、竹富島の喜宝院蒐集館長・上勢頭芳徳さん(故人)の車で、平久保「浜遊」を訪問。ぶんじん歌碑を囲んで撮った1枚。    →■歌碑関連写真
平久保「浜遊」ぶんじん歌碑を囲んで。左・米盛三千弘夫妻、小林、上勢頭芳徳さん(20130318) 山口真理子さん撮影


4065号【 7月15日】
■≪八重山の友人たちと≫
 一部の方に風4063号の配信漏れあり、結果的に前号と前々号の配信順が逆になってしまったこと、お詫び申しあげます(上掲)。前々号から本号にかけては、江頭晃子、李正連お二人のメールの中に、7月〜9月にかけての予定スケジュールがいくつか案内されています。ご留意を。略記しますと、7月は最終金曜日26日に7月定例研究会(じんぶんヒストリーV)、8月8日は年報24号・校正作業(東京大学)、8月定例会は全国集会あり休む慣わし、9月16日(日本社会教育学会大会の翌日)ぶんじん・米寿を祝う会などです。また9月の最終金曜日は定例研究会の予定(テーマ未定、入江優子さんに沖縄についてお願いしてはの声あり)、10月の定例会は、すでに内容確定、いずれもそのうち詳細のご案内が出ることになりましょう。
 ところで、本号上掲の【おきなわ短信】(1449)に沖縄参議院選の様子を「八重山毎日新聞」記事から収録いたしました。石垣市の演説会(オール沖縄)では、最後に「宮良操」さん(昨年3月の石垣市長選に立候補、4000票差の善戦、惜しくも・・・)が登場されて「頑張ろう」を三唱したとのこと。この機会に、本欄ホームページに宮良操(みやらみさお)さんの写真1枚掲げました。15年ほど前の写真。宮良さんは私たち研究会といくつか深いお付き合いがある人なのです(「南の風」は配信していない)。
 宮良操さんは、石垣市白保の出身、八重山の地域青年団運動のリーダー。そのつながりで、韓国から初めて黄宗建先生が沖縄を訪問された1998年5月、八重山から那覇に駆けつけ摩文仁の丘めぐりに同伴した人。2003年9月、八重山平久保に「ぶんじん歌碑」が建立されたときの祝宴・司会そして地謡(三線)を担当。ホームページ掲載の写真はその夜の1枚です。昨晩は当時の記録を探し出す中で出てきた副産物、渡慶次(とけし)賢康さん(1978年当時、沖縄県社会教育主事・八重山担当)のケイタイ番号メモを発見し、今朝、久しぶりに懐かしの声と電話することができました。
宮良操さん(石垣市議)、一人おいて渡慶次賢康さん(石垣市平久保・ぶんじん歌碑建立祝宴の夜、20030929) 
 →■関連写真・記事


4064号【 7月12日】 
■≪年報創刊より四半世紀≫
 多少おくれながらも、年報24号関連の作業が進行中。いま最終段階となりました。皆さんご苦労さま。年報は毎年・日本社会教育学会までに刊行する慣わし。今年は例年より大会期日が早く(9月13日〜)、これに間に合わせようと編集委員会も頑張っています。当方は担当の「やんばる対談」の最終チェック。だんだん目がうすくなって、かなり難儀していますが、対談当日の雰囲気を想いおこしながら、奮闘しています。
 最近「風」参加の新しいメンバーあり、あらためて年報の歴史をたどっておきましょう。TOAFAEC(研究会)創設が1995年。その日から記録(年報)づくりを模索して、翌96年の学会大会時に創刊号を実現しました。その頃、仲良しになっていた韓国・金宗西教授(ソウル大学、故人)の意欲的な「韓国の文解(識字)教育」論文を日本訳にして巻頭にかざり、こちらの大学院ゼミメンバーの習作、沖縄からの寄稿等を一緒に並べ、歴史的な第1号を創ったのでした。東京学芸大学・最終講義のテープおこし記録も、ページを埋めるかたちで収録、創刊号を世に出すことができた感激は忘れられません。
 一緒に苦労したのは内田純一さん(当時、東京都立教育研究所)。その頃はまだ編集委員会はない。金もなく、見通しもなし。小林・内田の二人で「せめて3号まで続けよう」と言い交したことを憶えています。もちろん維持会員制度も未発、必要経費は個人で負担、学会で会う人ごとに売りつけて、なんとか第2号へつなぎました。当時のこと、あえて自賛すれば「100点満点で200点」ぐらいの思い。
 今年で24号。沖縄だけでなく中国・韓国・台湾等へと海を越える編集ネットの拡がり。よくぞ続いてきたものです。小さな民間的な研究団体の、大きな志が四半世紀の歩みを創り出してきました。類書のない仕事、これからがまた楽しみ。維持会員をはじめ皆様のお力を得て、新たな道を拓いていきましょう。各位のご声援!どうぞよろしく。
 付記:いま(12日23:25)年報編集会議(第4回)から帰宅したところです。いろんな話をして愉快でした。イーストビレッジでワインを飲んで、まだ酔いがさめませんが、送信作業へ。うまく皆さんのお手元に届くかどうか、遺漏あればご一報を!

4063号【 7月9日】
■≪年報24号の原稿・最終段階へ≫
 この間、上掲・李正連編集長より7月12日・編集会議のご案内、TOAFAEC 年報24号への原稿提出が大詰めを迎えています。松本・矢久保学さんがこの春めでたく要職ご退任。私たちの年報に記念の論稿をお願いしました。今年の年報特集テーマは「社会教育法70年」、松本からの報告は自治体として「松本らしい」独自の蓄積を書いていただき、特集企画のなかにうまく位置づけることができればとの思い。矢久保さんからの「原稿送付」メールは、新しい職場も記されていますので、内部メーながら、久しぶりに上掲させていただきました。かって一緒に上海にも行った仲(2003年11月、『社区教育の展望』出版祝賀会・写真HP)、小地域・集落の公民館研究の活動もあり、思い出はいろいろ。→■http://www.bunjin-k.net/minami4051.htm
 「やんばる対談」のテープ起こし(山城千秋さん担当)についても、島袋正敏さんより名護側の修正原稿がとどきました。東京側の出席(発言)者の修正意見を含めて、山口真理子さんに最終入力作業をお願いしました。ほぼ完成。7月12日編集会議に提出できそうです。写真その他、残った仕事。山城千秋さんにあと一ふんばりお願いします。
 やんばる対談に出席・発言された渡口裕さん(名護市教育委員会)に名護市城(ぐすく)区(字)青年会の活動について書いていただき、写真もたくさん拝受しました。すこし削減する必要ありそう(近く連絡予定)。今年も面白い「やんばる対談」(12)が出来上がる見通しです。各位のご協力にあらためて感謝。渡口裕さんには「南の風」の送信を開始しました。新しい方には風誌面に「自己紹介」をお願いする慣わし。一文を寄せていただければ幸いです。
 これから編集委員会(7/12)を経て、江頭晃子さんにしんどい仕事をお願いすることになります。編集委員各位を含めて、年報完成へ向けて、今年もまた皆さまのご協力、最後までどうぞよろしくお願いします。
 この数か月、風の配信メールのうち、1本だけ戻ってくる方あり。アドレス(gache・)からどなたか分からず、心配していました。当方のアドレス帳管理も2017年入院以降、不備なところがありますので、混乱があるのでは?と心配。いろいろ調べて、ようやく澤井留里さん(東京)と想定していたところ。昨日の工藤慶一さん(北海道に夜間中学をつくる会)への返信に澤井さんのお名前を発見(メール上掲)、安心しています。メールアドレス、変更なさったのでしょうか。
『社区教育の展望』(上海教育出版社)出版祝賀会 (20031121)。  後列右端に矢久保学さん、右6人目に美若忠生さんも。
 前列に伊藤長和さん、末本誠さん(編者)、小林(編者)。あと一人の編者・呉遵民さんは後列・右より2人目。



4062号【 7月5日】 
■≪和光大学・プロゼミ≫
 中野光(著)『梅根悟―その生涯としごと』(新評論、2019)について、この間、断続的ながら5回ほど(梅根先生に直接お会いする機会がなかった)私なりの思い出・エピソードを書いてきましたが、まだ書きたいことが残っています。
 梅根が大学論を主導して和光大学の初代学長となり、本欄で紹介した故池田貞雄、故石原静子両先生をはじめ(中野光さん自身も和光で教鞭をとられた)幾多の信奉者を擁して和光のユニークな大学づくり、「小さな実験大学」の歩みが重ねられてきたのでした。しかし梅根が「構想した大学」は、現実には「思い通りにはいかなかった」と(中野,p126〜)。1995年、私が和光大学に赴任した頃は、まだ「自由な学習と研究の共同体」などの梅根ロマンが普通に教授会などで語られていた時代。石原先生(風4058号)などは、授業研究と称して、新任の小林「プロゼミ」に“乱入”し、遠慮のないコメントの矢が飛んできたこともありました。その日「とんでもないところに就職したものだ」と思いましたが、いま振り返って、他の大学ではありえない稀有の大学「授業研究」の実践、小さな実験大学の試みだったのです。石原先生のひたむきな顔が懐かしく浮かんできます。
 和光大学独特の「プロ・ゼミナール」(1年次に必修、全教員で担当)のこと、中野さんも本のなかで難渋された様子を書いておられます。基礎的な理論を学び、研究テーマも決まっている4年卒論や大学院の専門的なゼミ指導の経験しかなかった私も、最初に担当したプロゼミには苦労しました。風にときどき登場する石川敬史や飯沢美美樹などが最初のプロゼミ生。大学に出会った学生たちに、学問とか研究とかに興味をもってもらえるか、選択してきたプロゼミの学生たち相互で仲間「共同体」をつくれるかどうか、真剣勝負のようなところがありました。
 ぶんじんプロゼミの場合、「地域」「沖縄」をテーマに掲げることで、なんとかゼミとしてのまとまりができたように思います。毎年のゼミで、一緒に名護へ出かけました。いつも暖かく迎えていただいた名護の皆さんに感謝!です。プロゼミでは分厚なゼミ・レポート集を作成しました。そこに書いた拙文をホームページに収録しています。とくに「最後のプロゼミ」などは今でも懐かしく読み返すことがあります。
→■http://www.bunjin-k.net/bunjinronbun.htm
和光大学「最後のプロゼミ」風景 (大学プレハブ合宿所、2001年5月10日)


4061号【 7月1日】 
■≪辺野古と済州島・江汀(カンジョン)と≫
 6月28日(金)夜の定例(第263回)研究会、ご参加の皆さん、お疲れさまでした。終わってイーストビレッジの店を出たのは、11時をまわっていましたね。辺野古の丹念な調査をもとに「沖縄の基地問題と地方自治のゆくえ−本土が問われているもの」についてご報告いただいた熊本博之さん(明星大学)、有難うございました。充実した定例会となりました。入江優子さん(東京学芸大学)から当夜の詳細記録(上掲)感謝!です。ご丁寧に「原稿は熊本先生にもご確認いただき」とのこと、恐縮しています。これまでにないこと。前例とならないように。
 また辺野古の写真4葉もありがたく拝受。本欄には当夜の写真が入りますので、「やんばる対談」記録等を載せている別ページ(沖縄社会教育研究フオーラム・最下部)に4枚を並べてアップしました。ご覧ください。→■http://www.bunjin-k.net/yanbaru2016.htm
 ・辺野古集落、・中心部、・旧社交街、・子どもたちの相撲大会、と仮のキャプションを入れておきましたが、ご指示があれば書き直しますので、どうぞよろしく。この4枚をみただけでも、辺野古の戦後史・その変転、いろいろと思い複雑です。私たちが東海岸を歩き回っていた頃(宜野座など、1980年前後)、金武町のハンセン・ゲート前は別にして、辺野古の社交街はすでに閑散、写真のように閉じた店が少なくありませんでした。
 当夜、韓国済州島・江汀(カンジョン)マウルの軍港反対運動について触れました。江汀と辺野古はアメリカ極東戦略でつながっていると。私たちが江汀に行った日(2012年11月)は、今の辺野古とまったく同じ状況。機動隊に守られて工事車両がゲートを通過、反対する江汀の人たちと支援の皆さん(日本人もいた)の怒号と悲鳴が今でも耳に残っています。「江汀マウルの悲しみ」と題する日誌(南の風2989号)と写真がHPに残されています。当時、伊藤長和さんがまだお元気。気が逸ったぶんじんは当日「5回も転んだ」などの記録も。→■http://www.bunjin-k.net/minami2951.htm
 済州大学・金民浩さん(教授、たしか平生教育学会長もされた)が江汀マウルの調査報告を学会誌にまとめられています。辺野古の調査を重ねてきた熊本博之さんと金民浩さんが出会う機会をつくれないものかなどと考えていた夜でした。
263定例研究会・懇親会(イーストビレッジ、20190628) *関連写真


4060号【 6月27日】 
■≪ぶんじんもまだ現役≫
 TOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)は、いま今年の年報24号・原稿締め切りに向けて緊迫中。ぶんじんパソコンには関係メールが飛び交っています。ある意味で内部資料、内幕をさらすようなメール交換ですが、本号にはあえてこれら通信の一部を収録させていただきました。関係の皆さま、ご了承ください。昔の「南の風」は、この種の内部メールの共有の場として機能していたのでした。いま各担当が役割を分担し、とくに韓国フオーラム「この1年」の原稿づくりなどでは、あたかも1冊の本をつくるような取り組みとなって、相互リライトが繰り返されています。年報発行前に力作を読む機会を与えられることになり、年報編集の充実を、しみじみ味わっています。
 ぶんじんもまだ現役。5万字に近い「やんばる対談」(テープ起こしは山城千秋さん)の素稿チェック、最終原稿に向けて、夜を徹するような作業を重ねています。この年にして妙な充実感。疲れながら、とくに小さなパソコン文字に苦しみ、格闘中です。おそらく見逃したミスもきっとあるに違いない、それでも若い世代に伍して仕事をする、頑張ろう、このあとのビールは美味しいぞ、と自らを励ましながら朝を迎えるのです。
 さて明日の6月定例研究会は、沖縄・辺野古のフイールドワークを重ねてきた社会学者・熊本博之さん(明星大学教授)を囲んでお話を聞きます。できれば雑誌『世界』4月号「辺野古に積み重ねられた記憶について」(熊本さん執筆)に目を通してお出でください。詳細はこちら。→■
http://www.bunjin-k.net/kenkyukai2019.htm
 私たちの沖縄研究も歳月を重ね、基地問題として「辺野古」を取り上げ、ゲート前で歌もうたいましたが、集落としての辺野古、そこに暮らす人々の歩み、その実像を知っているわけではありません。熊本さんから「辺野古に積み重ねられた記憶」についてお話を聞くのは貴重です。予報によれば、折悪しく沖縄から急発達した台風が北上中。うまく通り過ぎてくれることを祈っています。明晩、お会いしましょう。

4059号【 6月24日】 
■≪竹富島・集落を守る公民館≫
 本号は、2号前にも収録した「竹富島を守る会」コンドイ浜に計画されている「リゾートホテル」反対運動の訴え(阿佐伊拓・会長)を載せました。これまでにも数回、竹富島の取り組みについて取り上げてきましたが、今回はとくにリゾートホテル問題の背景・経過が詳細に書かれていますので、長文ですが、全文を収録。“Facebook”に投稿されたもの、守る会はホームページも Facebook に開いています(風は Facebook から借用しない原則、直接「訴え」データを送ってもらってもよかったのですが・・)。会長・阿佐伊拓さんのMアドレスを(念のため)付記しました(上掲)。
 竹富島についてとくに注目しておきたいことは、「守る会」が一つの住民運動に見えて、実質は集落あげての「公民館」活動の側面をもっている点。竹富島ではこれまでも外部資本のリゾート化の嵐に、字(3集落)の総力をあげて取り組んできた歴史があり、その基本精神として共同の「こころ」(合言葉「うつぐみどまさる」=協力・共同の心こそ第一)を大事にしてきました。それを可能にしてきたのは集落「公民館」です。島の土地を守り環境を維持し、町並み保存運動に取り組み、祭祀・文化・芸能(たとえば「種子取祭」)を豊かに継承してきた−その基盤に竹富島公民館がありました。そして、その総合力が竹富島の観光を支えてきたこと、にも注目しておく必要があります。涙ぐましい歴史を知る一人として、今回の「守る会」の活動は歴史的な意味をもっていると思われます。阿佐伊拓くんのお父さん(孫良さん)や、最南端の博物館(喜宝院蒐集館)館長であった上勢頭芳徳さん(いずれも2015年、2017年に亡くなられた)など島んちゅリーダーの生前の活躍を想い出しています。*小林・関連論文→■http://www.bunjin-k.net/taketomironnbunn08.htm
 ところで、同じ2号前の風・本欄に、7月定例研究会(7月26日)の企画(台湾を含む中国研究フォーラムの再開について)を書きましたが、担当の江頭晃子さんより連絡あり別案が登場。佐賀・上野景三さんの参加も得て「じんぶんヒストリー第3回」を開きたいとの企画。すでに案内の案文が作成されているらしい。ご了承ください。台湾を含む中国研究フォーラムの再開は、9月定例会として計画されてはいかがでしょうか。

4058号【 6月20日】 
■≪和光大学・石原静子さんのこと≫
 前号本欄で、南の風への投稿が(時代のすう勢か)鈍くなった、とボヤいたら、早速に映画を観た話が飛び込んできました。山口真理子さんなど(上掲)。当方は最近あまり映画館に足を運びませんが、私も話題になったドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」三上智恵・大矢英代の共同監督、キネマ旬報賞(第92回)、の話を書こうかと思ったりしていたのでした。「南の風」20年史を振り返って、投稿が間延びする度に思うことは、大資本 Facebook こそ、手づくりパソコン通信「南の風」最大のライバル! 有力な書き手が「南の風」には書かなくなって、 Facebook には長文の投稿が頻繁に載っている。徒手空拳ながら、大資本と闘うぞ!と月に向かって吠えた夜もないではありません。
 閑話休題。総会や訃報などのページに追われて、中野光著『梅根悟.その生涯としごと』(新評論、新刊)についての話が中途半端になっていました。あといくつか書きたいことがあります。いずれも和光大学にかかわっての話題ですが、一つは、写真だけご紹介した石原静子さん(風4046号→■、心理学者、名誉教授、学園理事長)のこと。中野本では、梅根悟に関わって最も多く登場する人でしょう。惜しくも2010年に逝去され、すべての遺産を和光学園に寄贈された人。和光大学での私の研究室は、石原研究室の斜め前。住まいはお互いに井の頭線、石原さんは浜田山、ぶんじんは西永福、隣の駅というご縁でした。
 石原さんには、研究者・学長として梅根先生を追慕する文章の一つに「酒の師として」を書いておられます(梅根追悼『生活教育』追悼号・1981年1月号)。梅根先生は「私を大きく変えた。その最大のものは酒なのである」と。和光大学には卓上に一升ビンを転がして冷や酒を飲むような文化がありましたが、その中には石原さん、という感じ。和光に就任する数ヶ月前に小林の招聘講演会が大学主催で開かれた思い出はいまでも鮮烈。終わってのパーティで、石原さんはすでに少し酔っていて、私の講演を酒のサカナに、さんざんにイジラレた記憶あり。さすがにゲストに失礼だと、横にいた梅原利夫さん(教授)がトメに入ったような。今となっては懐かしい。教授会などのあと、同じ電車に乗ると、後輩のぶんじんは、恐れ謹んで、浜田山の駅までエスコートしたものでした。(つづく)
 こう書きながら、私に梅根先生のことを静かに語り通した海老原治善さん(国民教育研究所→関西大学→東京学芸大学、2005年没)を思い出しました。上平泰博さん(協同総合研究所)は和光大学で海老原ゼミ(多分)。もう本号に紙数なく、後日に書くことにして、忘れないように、写真が出てきましたので、本ページに掲げておきます。
海老原治善さん(19880903、東京学芸大学教授・当時)


4057号【 6月 18日】
■≪7月定例研究会の企画を≫
 本号の発行、思いもかけず1週間もの間隔、発行が遅れてしまいました。実は、6月1日開催「総会」論議が面白く(24号編集、韓国の動き、中国出版、台湾を含む中国フォーラム開催、東京板橋の集いの活気など)、その割に時間がなかったので、おそらく「風」への投稿があれこれあるに違いない(一人よがり)・・・と期待していたのでした。しかし山口事務局長の総会報告以外には(結果的に)来信なく、少々期待はずれ。打てば響くようなレスポンスがあれば、お互い元気も出るもの。しかし待ってもこないラブレターはことさら失望のほかなく、上掲の誌面ご覧のように、山口真理子事務局長からのレポートが過度に多くなった本号編集。真理子さん、お許しください。
 しかし怪我の功名、TOAFAEC「維持会員」制度について、やや丁寧な経過説明「お誘い」を収録することが出来ました(上掲)。維持会員50名をめざし、お互い頑張りましょう。
 竹富島のリゾート型ホテル建設への動きに、「竹富島を守る会」阿佐伊拓(会長)さんなどが「ならぬ!」と頑張っています。FaceBook に竹富島「守る会」ホームページあり。小生も「竹富島憲章」について、上勢頭芳徳さんとの対談・資料を添えました。
→■(上勢頭・小林対談「竹富島憲章」)http://www.bunjin-k.net/taketomitaidan07.htm
 あわせて、ホームページ表紙の写真を、いまリゾートホテル計画が持ち上がっている竹富島コンドイビーチの一枚に更新しました。コンドイビーチは、いわゆる星砂の浜。砂浜にいる二人は、おそらく星砂を探している恋人たちでしょう。私には、コンドイビーチまで足がまだ延びない頃、先にゼミの学生から1瓶の星砂を土産にもらった楽しい思い出あり。この写真1枚を撮ったとき、恋人カップルが浜に立つスナップがほしくて、待ちかねてやっとものにした1枚。思い出いろいろ、あの頃の竹富島、心癒す潮騒・寄せ返す波々。
 もうすぐ6月定例研究会。7月の企画がまだ決まっていません。かえって10月研究会の提案(風に載せていません)が動いています。7月26日(最終金曜日)は、暑気払いいを兼ねて、総会で語られた「(台湾を含む)中国研究フオーラム」再登場の集いにしてはどうでしょうか。黄さん(目白大学)、上田さん(筑波大学)、山口さん(早稲田大学)など各位のご都合いかが? 目を奪う香港の若者たちの動きも誰かに聞きたいところ。高井戸の会場はすでに用意してあります。
石垣島より望む竹富島(20070704)


4056号【 6月 10日】
■≪訃報・上原信夫さん(国頭村奥出身)疾風怒涛の人生>
 5月23日、私たちの敬愛する上原信夫さん(国頭村奥ご出身)が亡くなられたそうです(享年95歳)。かって杉並にお住まいで私たちの研究会と上原信夫さんをつないでいただいた上里佑子さん(現在は那覇在住)が電話でお報せくださいました。TOAFAEC 定例会では、2004年11月・第102回研究会から2006年12月・第124回にかけて6回ほど、疾風怒涛の人生「東アジアを駆け抜けた私の戦前・戦後史」を語っていただきました。これほどの数奇な人生は他に類をみないと思われるほど。
 アメリカ占領下に(大阪を経て)中国に密航。中国滞在25年、その間には文化大革命も体験されました。1974年に奇跡のように帰国され、東京にお住まいでした。私たちの研究会にお出でいただいた頃は、NPO 日本中国留学生研修生援護協会理事長の立部でお元気に活躍されていました。お話を記録した故石倉祐志(TOAFAEC 事務局長)は、その冒頭に、次のような前書きを付して、「東アジアを駆け抜けた」証言記録を作成、TOAFAECホームページに収録されています。→■http://www.bunjin-k.net/okinawauehara.htm
 「上原さんのお話には圧倒されました。明治・琉球処分へのレジスタンスだった祖父、そういう人を受け入れた奥(国頭村・沖縄島最北端の)の集落、ブラジル移民がかなわず満蒙開拓青少年義勇軍へ入った話、ハルピンでの反満抗日、被抑圧者の連帯を知り医学を志した話、関東軍に入隊し南下して宮古に上陸、宮古島の住民に「やんばる班長」と信頼されグラマン機との過酷な戦闘に生き残った話。これらを興味深いエピソードを織り交ぜて2時間以上の間、疲れも見せずに語られたのでした。
 お話は生い立ちから1945年までで時間切れとなりました。この後のお話は次回以降に期待されます。1947年沖縄初の政党「沖縄民主同盟」青年部長となり、その後沖縄を離れ紆余曲折を経て中国へ…。中国滞在25年を経て、ようやく1974年に日本へ。続きのお話が楽しみ。」(第1回証言、南の風1381号、20041126)
 なおその後、上原信夫さんの証言は、詳細な記録として『上原信夫オーラルヒストリー』(2005、政策研究大学院大学・COEオーラル政策研究プロジュエクト、A4版273頁)としてまとめられました。ホームページ(上掲)の写真のなかから1枚を選び本欄に掲げます。在りし日の面影、何事もなかったかのような自由闊達なお人柄を偲び、心からご冥福をお祈りいたします。
在りし日の上原信夫さん (第124研究会・高井戸、20061226)


4055号【 6月 5日】
■≪TOAFAEC 総会の夜≫
 今年のTOAFAEC 総会(6月1日)滞りなく終了しました。代表・上野景三さん、事務局長山口真理子さんはじめ、年報編集委員会ほか、ご参加の皆さん、ご苦労さまでした。社会教育学会の理事・幹事の方も(全国理事会終了後)駆けつけてくださって、賑やかな総会となりました。この数年15〜20人ちかくの方が継続して参加されるようになり、TOAFAEC 活動の定着・拡がりを象徴するもの。嬉しい一夜となりました。関係の皆様、たいへんお疲れさまでした。
 短い時間帯でしたが、なかに熱っぽいお話もありました。元副代表の伊藤長和さんが逝去されて以来、副代表ポストは名護・島袋正敏さんお一人のみ。それ以外は空席、ややブランクの感じでした。その後(沖縄名護の島袋さん以外に)中国研究フォーラムより黄丹青さん、韓国研究ォーラムは小田切督剛さん、東京社会教育史フォーラムから斎藤真哉さんに副代表をお願いすることが出来、当夜は各副代表が揃ってご出席、これは画期的なことでした。懇談のなかでは、活発な活動を日常化している韓国研究フォーラムに続いて中国・台湾研究フォーラムを再開しようというお話も出ました(筑波大学・上田孝典さん)。東京フォーラムの斎藤さん(成増生涯学習センター)には、最近活発な集いに取り組んでいる板橋区の動きについて発言していただき(写真)、東アジアとの関連でもたいへ刺激的なお話でした。いつもは1枚しか掲げない総会写真も、今年は年報編集委員会の充実し報告(李正連編集長)を含めて3枚アップ。→■
 終わって、学会理事会・幹事として活躍中の松尾さんや金さん(東京大学・院、遅れて参加)等も誘って神田神保町へ。一行8人。久しぶりのドイツビヤの店・放心亭はタイムアウトで入れず、すでに看板の灯を落していた店に入りこんで(上野代表が交渉)、遅くまで二次会の語らいを楽しみました。いろいろと話が出来て、いい夜となりました。
 山口真理子さんより、6月1日「総会・記録」も届いていますが、次号へおくります。ご参加の皆さんからも、当夜の感想など、お寄せいただければ幸い。
2019 TOAFAEC総会−山口香苗さん・松尾有美さんなどはまだ到着していない  (本郷、20190601)

年報24号編集長・李正連さん(東京大学) −本郷、20190601

副代表(東京研究フォーラム)斎藤真哉さん、板橋の集いを語る(本郷、20190601) *小田切さんカメラ


4054号【 5月31日】
■≪TOAFAEC「総会」の歩み≫
 明日は日本社会教育学会六月集会、例年のように初日夜、本年度のTOAFAEC 総会が開催されます。上掲(再)案内に山口真理子・事務局長も書いているように、学会日程を利用しての総会開催、学会の全国理事会と同じ時間帯ですから、当年度の理事・幹事の方々には申し訳ないかたちですが、夜の交流懇親の絶好の機会でもあり、初めての方も(関心ある方は)ぜひご来会ください。
 最近「南の風」に4、5名の新しいご参加がありますので、この機会にTOAFAEC「総会」史を少し書いておきます。TOAFAEC の組織論とも関わりますが、当初は総会など形式的なものは開いていませんでした。数人の中心メンバーがいわば事務局となり、そのまわりに(特に留学生を意識した)関心ある人々のゆるやかな拡がりを、市民・職員にも呼び掛けて、楽しく創っていこうと。会費など定めず、会則や規約ももたない、しかし沖縄・東アジアという共通の関心をともにする研究仲間の拡がりを創っていく、ひそかに共同体的なものをめざしていこうとの思い。中心メンバーには経費を含めて若干の負担が伴うけれど、新しい課題への挑戦、可能な程度の負担であれば、むしろ望むところ。形式を重んずる大きな学会とはむしろ対照的な、小さなな研究サークルをめざすイメージでした。この精神はいまも維持されているように思います。
 TOAFAEC の創設が1995年、「南の風」創刊は1998年。この間に東アジアからの留学生をブリッジに、中国や台湾、そして韓国などへの訪問が始まりました。とくに改革開放政策を打ち出した中国側(上海、広州、福建など)から、訪日招聘の要請・ビザ取得のためのTOAFAEC の公的機関としての文書発行、上海閘北区(業余大学)からの合作学院の構想などあり、規約・役員体制・公印づくりなどの組織機構を制定する必要にせまられる事態に。1997年あたりのことです。この間の記録はホームページに残っています。心ならずも形式を整えた団体の恰好を求められた感じ。→■http://www.bunjin-k.net/tyuugokuhyousi.htm
 総会もこの過程で開くようになりました。当初は國を超えた留学生の出会いの場でもありました。2001年から記録が残っています。→■http://www.bunjin-k.net/03soukai2.htm 同時に内部的には年報『東アジア社会教育研究』(1996年創刊)を発行する経費をどうするかの課題あり。2001年度までは個人負担でやりくりしてきましたが、有志「維持会員」制度(一口2万円、いま1万円)を導入、規約改正をし、2003年度年報8号より「総会」で予算づくりや会計報告・監査等お願するようになりました。
 振り返って、上海・廣州・福建など各都市の(大学を含めて)錚々たる機関・団体の招聘は10あまり。合作学院の構想は双方合意「定款」作成、調印までしましたが、結果的に実現しませんでした。こんな経過があり、福建あたりには、今でもTOAFAEC を大きな団体と誤解をしている人がいます。そんな過程で「総会」が毎年動いてきたのです。2000年代に入ると、国際フォーラムや出版構想にTOAFAEC が独自の役割を果たしてきた自負もあり・・・など書き始めると、つい長文、お許し下さい。いずれ詳細に書くつもりです。
第86韓国研究フオーラム、瀬川理恵さん退出後(風の部屋、20190525)*カメラ:呉セヨンさん


4053号【 5月27日】
■≪研究会記録づくりの熱気≫
 3月「やんばる対談」あたりから、ぶんじんの新しいカメラが動き始め、皆さんのスマホ撮影の画像に加えて、以前のように(ぶ)写真をホームページに並べ始めています。2001年(まだスマホ撮影はない)ころから活躍してきた古い懐かしのデジカメは十分にその役割を終え、いま静かに自宅机上で老後をおくっています。ぶんじんの老後を見る思い。
 ホームページには毎月の研究会・各フォーラムの記録(画像と文章)を掲載・収蔵してきました。写真は約2000枚ちかく。25日(韓国)研究会後の語らいでは、その収蔵の山が、ひとしきり話題となりました。もしホームページより削除した方がいい画像があれば、この機会に(遠慮なく!)ご指摘願います。すぐに作業をしますので。
 今回の24日・25日研究会についても、賑やかに写真を載せています。加えて24日定例会後「イーストビレッジ」交流会については、「上からのアングルですと皆さん表情が明るくなることに気づきました!」(上掲)と松尾有美さん(東大院)の天井からの1枚の写真も届きましたので、追加掲載しました。→■http://www.bunjin-k.net/yotei1905.htm
 この1両日、定例会・韓国フオーラムともに、両日よく飲みました。「風の部屋」では、韓国フオーラムの皆さんが元気。皆さんが帰ったあと、夢のなごりのように、久しぶりにワインの瓶が並びました。いい文章(研究)とワインのビン数は比例するという経験則からすれば、今年の年報・韓国フォーラム「この1年」づくりは、さぞかしいい出来上がりになるに違いない!と楽しみ。
 台湾からの留学生・林忠賢さん(東京大学・院)からは、24日の研究・交流会が終わって6時間も経過していない明け方、窓外はまだ暗いうちに、前夜の記録が長文で送られてきました(上掲)。驚きました。まさに徹夜の記録づくり。こちらは両日の研究会とその後の語らいに酔い疲れ、ようやく三日後の今、本号を編集しています。台湾報告は山口香苗さんの濃密な内容、林さんの記録づくりも難渋したのではないか。当方で少し言葉を削ったり補ったりしました。ご了承を。台湾の報告と記録づくりの熱気に、あらためて御礼!です。
後列・右2人目に山口香苗さん、左端は記録・林忠賢さん (高井戸イーストビレッジ、20190524)


4052号【 5月23日】
■≪天王寺夜間中学開設から半世紀≫
 前号の「梅根さんの“私の日教組”」(「私の城下町」替え歌)については、「面白く読みました」「いいですね!」など、いくつか反応がありました(信州・米山義盛さんなど)。なんらかのレスポンスがあるのは嬉しいこと。いつも折り返しのように「風・読みました」と読後感をいただく小田切督剛さんにはとくに感謝。本号には出たばかりの『月刊社会教育』6月号「かがり火」(小林「社会教育法70年」)について感想を寄せていただきました。また6月1日予定「TOAFAEC 総会」(風4050号に案内)に「出席予定です、ご安心ください」とのご返事(上掲)、有難うございました。
 総会(社会教育学会六月集会・初日の夜)もあと1週間に迫りました。佐賀から上野景三代表にも上京いただき、事務局会議(5月16日)が開かれたこと、既報の通り。これを受けて事務局長・山口真理子さんからは連日の総会資料作成・修正のメール、ご苦労さまです。維持会員の皆様には、総会の前に資料送付を考えているとのことでしたが、間に合うでしょうか。頑張ってください。最近、新しく風に参加された方も数人あり、あらためて「維持会員」制度(TOAFAEC)について、そのうち書いていただければ幸い。
 本欄には、中野光 (著)『梅根悟:その生涯としごと』に関連して、私なりのいくつかの感想・エピソ―ド(の続き)を書くつもりでしたが、夜間中・基礎教育保障学会学関係のメール相次ぎ(上記・関本保孝さんなど)、本欄もスペースなく、次号にまわします。とくに大阪・黒川優子さんから転送いただいた上掲メール、印象深く読みました。「1969年6月5日、天王寺夜間中学は第1回入学式の日を迎えた。その日から今年で50年、半世紀が経過したことになる。この日を迎えるにあたって、いくつかの関連行事が計画」とのお知らせ。添付ファイルには、「夜間中学が初めから存在したのではなく、国や文部省は一貫して開設に反対したにもかかわらず、開設され営まれてきた・・・」と。

4051号【 5月18日】
■≪梅根「私の日教組」替え歌≫
 一昨日16日の夜、風の部屋でTOAFAEC(総会準備のための)事務局会議でした。佐賀から上野代表を迎え(ご苦労さま!)、山口事務局長、遠藤同次長、小林顧問と揃い踏み。資料表記のことなど細部は事務局長にお任せし、会計(維持会員拡大)や出版局(独自の本づくり)構想など、案外と大きな話(課題)も出て、ぶんじんには元気がでる事務局会議でした。各研究フォーラムから出ていただいている副代表(東京ー斎藤真哉、中国−黄丹青、韓国−小田切督剛の各氏)、ぜひ総会にはご出席いただこう、などの話も出ました。
 さて、、中野光(著)『梅根悟―その生涯としごと』(新評論、2019)にまた話を戻しましょう。ぶんじんにとって「梅根悟」のあれこれは、和光大学の仕事を通してたっぷりと聞いてきましたが、あと一つは海老原治善(国民教育研究所・関西大学→東京学芸大学)と小川利夫(社会事業大学→名古屋大学)お二人を通してでした。お二人は同年(ぶんじんより5歳上)、ともに故人となられましたが、海老原さんは学芸大学の同僚、小川さんとは日本社会教育学会や社会教育推進全国協議会(小川委員長、小林副委員長の仲)の活動を通して、いろいろと梅根像の思い出があります。
 梅根先生没後の日教組・第二次教育制度検討委員会には、社会教育・生涯学習についての第5委員会として、小林や笹川幸一(法政大学)等が参加していました(報告書・日本の教育をどう改めるかー私たちの求める教育改革提言―、日教組「教育評論」1985年11月号、1988年4月「みんなで教育改革を」最終13号など)。微醺をおびた席で小川さんがよく歌った「梅根さんの“私の日教組”」が想い出されます。小柳ルミ子「私の城下町」の替え歌、思い出すままに再録しておきます。「格子戸をくぐり抜け、見上げる夕焼けの空に、だれがうたうのか組合歌、わたしの日教組、好きだともいえずに、歩く川のほとり、往きかう人に、なぜか目を伏せながら、心は燃えていく」(原曲作詞・安井かずみ)。
 ついでに二番も。同じ“わたしの日教組”「(略)橋のたもとにともる、灯りのように、ゆらゆらゆれる、初恋のもどかしさ、気まずく別れたの」。懐かしい小川利夫さんの声が聞こえてくるような。もちろん時代は1989年「連合」の前。「日教組」に結集していた頃の「好きだとも言えずに、心は燃えていく・・・ゆらゆらゆれる、気まずく別れたの」など絶妙の替え歌でした。息抜きにご紹介しておきます。




*南の風4001号〜4050号(前ページ)

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