【南の風2019】 4051号〜4100号  
各号目次・後記(ぶんじん日誌)
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【南の風2019】4051号〜4100号・目次一覧(進行中)

4051号【 5月18日】86韓国フォーラム、杉並「沖縄を知ろう」、復帰の日、岡山自主夜中、私の日教組
4052号【 5月23日】5月定例会、町田とびたつ会、夜間中学シンポ、テンチョンニュース、月刊6月号
4053号【 5月27日】台湾研究、韓国研究86、中国映画特集、切り捨てられる「端っこ」、記録づくり熱気
4054号【 5月31日】総会案内、風に参加、台湾社区大学、地域の歴史に学ぶ、TOAFAEC総会の歩み
4055号【 6月 5日】6月定例研究会案内、川崎・/在日コリアンへのデマ、町田とびたつ会、総会の夜
4056号【 6月10日】2019総会報告、第11回日韓学術交流大会開催、70年ぶりの識字調査企画、訃報
4057号【 6月18日】維持会員、竹富島を守る会、国連・表現の自由、阿佐ヶ谷・沖縄を知ろう、7月企画
4058号【 6月20日】やんばる対談テープ起こし、町田、平和を支える杖、映画・主戦場、故石原静子さん
4059号【 6月24日】竹富コンドイのリゾート化反対、月桃の花咲く頃に、竹富島を守る、7月定例会企画
4060号【 6月27日】年報原稿締切、韓国原稿、やんばる対談原稿、辺野古業者から献金、ぶんじん現役
4061号【 7月01日】6月定例会、満洲語の継承、しまくとぅば未来を、維持会員、辺野古と済州島・江汀
4062号【 7月05日】やんばる対談記録、韓国原稿、全夜中研究会、トランプ氏と沖縄、和光大学プロゼミ
4063号【 7月09日】米寿祝い経過、川口市夜間中学の動き、神奈川、松本より、年報24号原稿大詰め
4064号【 7月12日】じんぶんヒストリーV、町田、夜間中学増設集会、年報24号編集、創刊四半世紀
4065号【 7月15日】充実した編集会議、韓国本書評、八重山の参議院選、事務局、八重山の友人たち
4066号【 7月18日】名護エイサー、韓国本書評、喜屋武由放、ソウル平生教育振興院理事長、八重山2
4067号【 7月 日】



*南の風4101号〜4151号(次ページ)





南の風・各号後記(ぶんじん日誌)


4067号【 7月 日】




4066号【 7月18日】
■≪八重山の友人たち(U)≫
 私たちの沖縄研究がスタートしたのは1976年。那覇そして本島各地だけでなく、奄美や八重山にも渡り始めたのが(東京学芸大学・当時の記録をみると)1979年から。数年後に「沖縄社会教育史料」第4集(奄美、1982)や同第6集(宮古・八重山、1986)の史料集づくりに結びついたのでした。→■http://www.bunjin-k.net/okinawasiryou.htm
 八重山調査については、前号に紹介した渡慶次賢康さん(沖縄県・社会教育主事)にたいへんお世話になりました。永いお付き合いが始まりました。私たちの研究室にお出でいただいたことも。八重山に「自由大学をつくろう」などと語り合い、それが八重山毎日新聞のトップ記事に載ったことも。その後、学校に戻られ、竹富島の小中学校教頭や石垣中学校の校長、石垣市社会教育課長等を歴任。
 1991年11月のぶんじんゼミ旅行。竹富島の種子取祭、西表島をめぐり、石垣島へもどって、北部の平久保へ。台湾からの留学生・許銘欽さん(台北・最年少の小学校長)も一緒でした。すべて渡慶次(当時・伊原間中学)校長の計画で動きました。島の北部・平久保のビーチに大きな網を仕掛け、ぴちぴちのボラを刺身に。日頃は誰もいない浜には島の方々も集まってきて、ゼミ学生とともに賑わいました。米盛三千弘さん夫妻(写真)が網から島酒まで用意されたのでした。そのうちカラオケも。忘れることができない一夜。記録が風1137号に記されています。→■http://www.bunjin-k.net/minami1101.htm
 酔ったぶんじんの杯には、のそのそとヤドカリも寄ってきました。紙切れに戯れに詠んだ歌ひとつ。「平久保の十三夜の浜に人群れてヤドカリさえも・・・」は、その後に書家の流麗な筆で額に飾られ、(いくつかのいきさつがあって)驚いたことに2003年9月、平久保・米盛さん経営「浜遊」入り口の歌碑に刻まれました。その建立祝宴の司会・地謡が宮良操さん(風・前号)。この夜、石垣市の主だった方々が集まって(渡慶次校長はもちろん)嬉しい祝宴となったのです。鷲尾真由美・山口真理子お二人の「歌碑建立の記録」が風1138・1139号に載っています(これはホームページにアップしていない)。
 私たちと八重山との出会いは、あと一つの流れ、東京での新垣重雄さん(1970〜80年代・八重山文化研究会、其の後は国会議員秘書、社大党書記長、現・石垣市議)との永いお付き合いがあります。折をみて書くことにします。下掲・写真は、2013年3月、竹富島の喜宝院蒐集館長・上勢頭芳徳さん(故人)の車で、平久保「浜遊」を訪問。ぶんじん歌碑を囲んで撮った1枚。    →■歌碑関連写真
平久保「浜遊」ぶんじん歌碑を囲んで。左・米盛三千弘夫妻、小林、上勢頭芳徳さん(20130318) 山口真理子さん撮影


4065号【 7月15日】
■≪八重山の友人たちと≫
 一部の方に風4063号の配信漏れあり、結果的に前号と前々号の配信順が逆になってしまったこと、お詫び申しあげます(上掲)。前々号から本号にかけては、江頭晃子、李正連お二人のメールの中に、7月〜9月にかけての予定スケジュールがいくつか案内されています。ご留意を。略記しますと、7月は最終金曜日26日に7月定例研究会(じんぶんヒストリーV)、8月8日は年報24号・校正作業(東京大学)、8月定例会は全国集会あり休む慣わし、9月16日(日本社会教育学会大会の翌日)ぶんじん・米寿を祝う会などです。また9月の最終金曜日は定例研究会の予定(テーマ未定、入江優子さんに沖縄についてお願いしてはの声あり)、10月の定例会は、すでに内容確定、いずれもそのうち詳細のご案内が出ることになりましょう。
 ところで、本号上掲の【おきなわ短信】(1449)に沖縄参議院選の様子を「八重山毎日新聞」記事から収録いたしました。石垣市の演説会(オール沖縄)では、最後に「宮良操」さん(昨年3月の石垣市長選に立候補、4000票差の善戦、惜しくも・・・)が登場されて「頑張ろう」を三唱したとのこと。この機会に、本欄ホームページに宮良操(みやらみさお)さんの写真1枚掲げました。15年ほど前の写真。宮良さんは私たち研究会といくつか深いお付き合いがある人なのです(「南の風」は配信していない)。
 宮良操さんは、石垣市白保の出身、八重山の地域青年団運動のリーダー。そのつながりで、韓国から初めて黄宗建先生が沖縄を訪問された1998年5月、八重山から那覇に駆けつけ摩文仁の丘めぐりに同伴した人。2003年9月、八重山平久保に「ぶんじん歌碑」が建立されたときの祝宴・司会そして地謡(三線)を担当。ホームページ掲載の写真はその夜の1枚です。昨晩は当時の記録を探し出す中で出てきた副産物、渡慶次(とけし)賢康さん(1978年当時、沖縄県社会教育主事・八重山担当)のケイタイ番号メモを発見し、今朝、久しぶりに懐かしの声と電話することができました。
宮良操さん(石垣市議)、一人おいて渡慶次賢康さん(石垣市平久保・ぶんじん歌碑建立祝宴の夜、20030929) 
 →■関連写真・記事


4064号【 7月12日】 
■≪年報創刊より四半世紀≫
 多少おくれながらも、年報24号関連の作業が進行中。いま最終段階となりました。皆さんご苦労さま。年報は毎年・日本社会教育学会までに刊行する慣わし。今年は例年より大会期日が早く(9月13日〜)、これに間に合わせようと編集委員会も頑張っています。当方は担当の「やんばる対談」の最終チェック。だんだん目がうすくなって、かなり難儀していますが、対談当日の雰囲気を想いおこしながら、奮闘しています。
 最近「風」参加の新しいメンバーあり、あらためて年報の歴史をたどっておきましょう。TOAFAEC(研究会)創設が1995年。その日から記録(年報)づくりを模索して、翌96年の学会大会時に創刊号を実現しました。その頃、仲良しになっていた韓国・金宗西教授(ソウル大学、故人)の意欲的な「韓国の文解(識字)教育」論文を日本訳にして巻頭にかざり、こちらの大学院ゼミメンバーの習作、沖縄からの寄稿等を一緒に並べ、歴史的な第1号を創ったのでした。東京学芸大学・最終講義のテープおこし記録も、ページを埋めるかたちで収録、創刊号を世に出すことができた感激は忘れられません。
 一緒に苦労したのは内田純一さん(当時、東京都立教育研究所)。その頃はまだ編集委員会はない。金もなく、見通しもなし。小林・内田の二人で「せめて3号まで続けよう」と言い交したことを憶えています。もちろん維持会員制度も未発、必要経費は個人で負担、学会で会う人ごとに売りつけて、なんとか第2号へつなぎました。当時のこと、あえて自賛すれば「100点満点で200点」ぐらいの思い。
 今年で24号。沖縄だけでなく中国・韓国・台湾等へと海を越える編集ネットの拡がり。よくぞ続いてきたものです。小さな民間的な研究団体の、大きな志が四半世紀の歩みを創り出してきました。類書のない仕事、これからがまた楽しみ。維持会員をはじめ皆様のお力を得て、新たな道を拓いていきましょう。各位のご声援!どうぞよろしく。
 付記:いま(12日23:25)年報編集会議(第4回)から帰宅したところです。いろんな話をして愉快でした。イーストビレッジでワインを飲んで、まだ酔いがさめませんが、送信作業へ。うまく皆さんのお手元に届くかどうか、遺漏あればご一報を!

4063号【 7月9日】
■≪年報24号の原稿・最終段階へ≫
 この間、上掲・李正連編集長より7月12日・編集会議のご案内、TOAFAEC 年報24号への原稿提出が大詰めを迎えています。松本・矢久保学さんがこの春めでたく要職ご退任。私たちの年報に記念の論稿をお願いしました。今年の年報特集テーマは「社会教育法70年」、松本からの報告は自治体として「松本らしい」独自の蓄積を書いていただき、特集企画のなかにうまく位置づけることができればとの思い。矢久保さんからの「原稿送付」メールは、新しい職場も記されていますので、内部メーながら、久しぶりに上掲させていただきました。かって一緒に上海にも行った仲(2003年11月、『社区教育の展望』出版祝賀会・写真HP)、小地域・集落の公民館研究の活動もあり、思い出はいろいろ。→■http://www.bunjin-k.net/minami4051.htm
 「やんばる対談」のテープ起こし(山城千秋さん担当)についても、島袋正敏さんより名護側の修正原稿がとどきました。東京側の出席(発言)者の修正意見を含めて、山口真理子さんに最終入力作業をお願いしました。ほぼ完成。7月12日編集会議に提出できそうです。写真その他、残った仕事。山城千秋さんにあと一ふんばりお願いします。
 やんばる対談に出席・発言された渡口裕さん(名護市教育委員会)に名護市城(ぐすく)区(字)青年会の活動について書いていただき、写真もたくさん拝受しました。すこし削減する必要ありそう(近く連絡予定)。今年も面白い「やんばる対談」(12)が出来上がる見通しです。各位のご協力にあらためて感謝。渡口裕さんには「南の風」の送信を開始しました。新しい方には風誌面に「自己紹介」をお願いする慣わし。一文を寄せていただければ幸いです。
 これから編集委員会(7/12)を経て、江頭晃子さんにしんどい仕事をお願いすることになります。編集委員各位を含めて、年報完成へ向けて、今年もまた皆さまのご協力、最後までどうぞよろしくお願いします。
 この数か月、風の配信メールのうち、1本だけ戻ってくる方あり。アドレス(gache・)からどなたか分からず、心配していました。当方のアドレス帳管理も2017年入院以降、不備なところがありますので、混乱があるのでは?と心配。いろいろ調べて、ようやく澤井留里さん(東京)と想定していたところ。昨日の工藤慶一さん(北海道に夜間中学をつくる会)への返信に澤井さんのお名前を発見(メール上掲)、安心しています。メールアドレス、変更なさったのでしょうか。
『社区教育の展望』(上海教育出版社)出版祝賀会 (20031121)。  後列右端に矢久保学さん、右6人目に美若忠生さんも。
 前列に伊藤長和さん、末本誠さん(編者)、小林(編者)。あと一人の編者・呉遵民さんは後列・右より2人目。



4062号【 7月5日】 
■≪和光大学・プロゼミ≫
 中野光(著)『梅根悟―その生涯としごと』(新評論、2019)について、この間、断続的ながら5回ほど(梅根先生に直接お会いする機会がなかった)私なりの思い出・エピソードを書いてきましたが、まだ書きたいことが残っています。
 梅根が大学論を主導して和光大学の初代学長となり、本欄で紹介した故池田貞雄、故石原静子両先生をはじめ(中野光さん自身も和光で教鞭をとられた)幾多の信奉者を擁して和光のユニークな大学づくり、「小さな実験大学」の歩みが重ねられてきたのでした。しかし梅根が「構想した大学」は、現実には「思い通りにはいかなかった」と(中野,p126〜)。1995年、私が和光大学に赴任した頃は、まだ「自由な学習と研究の共同体」などの梅根ロマンが普通に教授会などで語られていた時代。石原先生(風4058号)などは、授業研究と称して、新任の小林「プロゼミ」に“乱入”し、遠慮のないコメントの矢が飛んできたこともありました。その日「とんでもないところに就職したものだ」と思いましたが、いま振り返って、他の大学ではありえない稀有の大学「授業研究」の実践、小さな実験大学の試みだったのです。石原先生のひたむきな顔が懐かしく浮かんできます。
 和光大学独特の「プロ・ゼミナール」(1年次に必修、全教員で担当)のこと、中野さんも本のなかで難渋された様子を書いておられます。基礎的な理論を学び、研究テーマも決まっている4年卒論や大学院の専門的なゼミ指導の経験しかなかった私も、最初に担当したプロゼミには苦労しました。風にときどき登場する石川敬史や飯沢美美樹などが最初のプロゼミ生。大学に出会った学生たちに、学問とか研究とかに興味をもってもらえるか、選択してきたプロゼミの学生たち相互で仲間「共同体」をつくれるかどうか、真剣勝負のようなところがありました。
 ぶんじんプロゼミの場合、「地域」「沖縄」をテーマに掲げることで、なんとかゼミとしてのまとまりができたように思います。毎年のゼミで、一緒に名護へ出かけました。いつも暖かく迎えていただいた名護の皆さんに感謝!です。プロゼミでは分厚なゼミ・レポート集を作成しました。そこに書いた拙文をホームページに収録しています。とくに「最後のプロゼミ」などは今でも懐かしく読み返すことがあります。
→■http://www.bunjin-k.net/bunjinronbun.htm
和光大学「最後のプロゼミ」風景 (大学プレハブ合宿所、2001年5月10日)


4061号【 7月1日】 
■≪辺野古と済州島・江汀(カンジョン)と≫
 6月28日(金)夜の定例(第263回)研究会、ご参加の皆さん、お疲れさまでした。終わってイーストビレッジの店を出たのは、11時をまわっていましたね。辺野古の丹念な調査をもとに「沖縄の基地問題と地方自治のゆくえ−本土が問われているもの」についてご報告いただいた熊本博之さん(明星大学)、有難うございました。充実した定例会となりました。入江優子さん(東京学芸大学)から当夜の詳細記録(上掲)感謝!です。ご丁寧に「原稿は熊本先生にもご確認いただき」とのこと、恐縮しています。これまでにないこと。前例とならないように。
 また辺野古の写真4葉もありがたく拝受。本欄には当夜の写真が入りますので、「やんばる対談」記録等を載せている別ページ(沖縄社会教育研究フオーラム・最下部)に4枚を並べてアップしました。ご覧ください。→■http://www.bunjin-k.net/yanbaru2016.htm
 ・辺野古集落、・中心部、・旧社交街、・子どもたちの相撲大会、と仮のキャプションを入れておきましたが、ご指示があれば書き直しますので、どうぞよろしく。この4枚をみただけでも、辺野古の戦後史・その変転、いろいろと思い複雑です。私たちが東海岸を歩き回っていた頃(宜野座など、1980年前後)、金武町のハンセン・ゲート前は別にして、辺野古の社交街はすでに閑散、写真のように閉じた店が少なくありませんでした。
 当夜、韓国済州島・江汀(カンジョン)マウルの軍港反対運動について触れました。江汀と辺野古はアメリカ極東戦略でつながっていると。私たちが江汀に行った日(2012年11月)は、今の辺野古とまったく同じ状況。機動隊に守られて工事車両がゲートを通過、反対する江汀の人たちと支援の皆さん(日本人もいた)の怒号と悲鳴が今でも耳に残っています。「江汀マウルの悲しみ」と題する日誌(南の風2989号)と写真がHPに残されています。当時、伊藤長和さんがまだお元気。気が逸ったぶんじんは当日「5回も転んだ」などの記録も。→■http://www.bunjin-k.net/minami2951.htm
 済州大学・金民浩さん(教授、たしか平生教育学会長もされた)が江汀マウルの調査報告を学会誌にまとめられています。辺野古の調査を重ねてきた熊本博之さんと金民浩さんが出会う機会をつくれないものかなどと考えていた夜でした。
263定例研究会・懇親会(イーストビレッジ、20190628) *関連写真


4060号【 6月27日】 
■≪ぶんじんもまだ現役≫
 TOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)は、いま今年の年報24号・原稿締め切りに向けて緊迫中。ぶんじんパソコンには関係メールが飛び交っています。ある意味で内部資料、内幕をさらすようなメール交換ですが、本号にはあえてこれら通信の一部を収録させていただきました。関係の皆さま、ご了承ください。昔の「南の風」は、この種の内部メールの共有の場として機能していたのでした。いま各担当が役割を分担し、とくに韓国フオーラム「この1年」の原稿づくりなどでは、あたかも1冊の本をつくるような取り組みとなって、相互リライトが繰り返されています。年報発行前に力作を読む機会を与えられることになり、年報編集の充実を、しみじみ味わっています。
 ぶんじんもまだ現役。5万字に近い「やんばる対談」(テープ起こしは山城千秋さん)の素稿チェック、最終原稿に向けて、夜を徹するような作業を重ねています。この年にして妙な充実感。疲れながら、とくに小さなパソコン文字に苦しみ、格闘中です。おそらく見逃したミスもきっとあるに違いない、それでも若い世代に伍して仕事をする、頑張ろう、このあとのビールは美味しいぞ、と自らを励ましながら朝を迎えるのです。
 さて明日の6月定例研究会は、沖縄・辺野古のフイールドワークを重ねてきた社会学者・熊本博之さん(明星大学教授)を囲んでお話を聞きます。できれば雑誌『世界』4月号「辺野古に積み重ねられた記憶について」(熊本さん執筆)に目を通してお出でください。詳細はこちら。→■
http://www.bunjin-k.net/kenkyukai2019.htm
 私たちの沖縄研究も歳月を重ね、基地問題として「辺野古」を取り上げ、ゲート前で歌もうたいましたが、集落としての辺野古、そこに暮らす人々の歩み、その実像を知っているわけではありません。熊本さんから「辺野古に積み重ねられた記憶」についてお話を聞くのは貴重です。予報によれば、折悪しく沖縄から急発達した台風が北上中。うまく通り過ぎてくれることを祈っています。明晩、お会いしましょう。

4059号【 6月24日】 
■≪竹富島・集落を守る公民館≫
 本号は、2号前にも収録した「竹富島を守る会」コンドイ浜に計画されている「リゾートホテル」反対運動の訴え(阿佐伊拓・会長)を載せました。これまでにも数回、竹富島の取り組みについて取り上げてきましたが、今回はとくにリゾートホテル問題の背景・経過が詳細に書かれていますので、長文ですが、全文を収録。“Facebook”に投稿されたもの、守る会はホームページも Facebook に開いています(風は Facebook から借用しない原則、直接「訴え」データを送ってもらってもよかったのですが・・)。会長・阿佐伊拓さんのMアドレスを(念のため)付記しました(上掲)。
 竹富島についてとくに注目しておきたいことは、「守る会」が一つの住民運動に見えて、実質は集落あげての「公民館」活動の側面をもっている点。竹富島ではこれまでも外部資本のリゾート化の嵐に、字(3集落)の総力をあげて取り組んできた歴史があり、その基本精神として共同の「こころ」(合言葉「うつぐみどまさる」=協力・共同の心こそ第一)を大事にしてきました。それを可能にしてきたのは集落「公民館」です。島の土地を守り環境を維持し、町並み保存運動に取り組み、祭祀・文化・芸能(たとえば「種子取祭」)を豊かに継承してきた−その基盤に竹富島公民館がありました。そして、その総合力が竹富島の観光を支えてきたこと、にも注目しておく必要があります。涙ぐましい歴史を知る一人として、今回の「守る会」の活動は歴史的な意味をもっていると思われます。阿佐伊拓くんのお父さん(孫良さん)や、最南端の博物館(喜宝院蒐集館)館長であった上勢頭芳徳さん(いずれも2015年、2017年に亡くなられた)など島んちゅリーダーの生前の活躍を想い出しています。*小林・関連論文→■http://www.bunjin-k.net/taketomironnbunn08.htm
 ところで、同じ2号前の風・本欄に、7月定例研究会(7月26日)の企画(台湾を含む中国研究フォーラムの再開について)を書きましたが、担当の江頭晃子さんより連絡あり別案が登場。佐賀・上野景三さんの参加も得て「じんぶんヒストリー第3回」を開きたいとの企画。すでに案内の案文が作成されているらしい。ご了承ください。台湾を含む中国研究フォーラムの再開は、9月定例会として計画されてはいかがでしょうか。

4058号【 6月20日】 
■≪和光大学・石原静子さんのこと≫
 前号本欄で、南の風への投稿が(時代のすう勢か)鈍くなった、とボヤいたら、早速に映画を観た話が飛び込んできました。山口真理子さんなど(上掲)。当方は最近あまり映画館に足を運びませんが、私も話題になったドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」三上智恵・大矢英代の共同監督、キネマ旬報賞(第92回)、の話を書こうかと思ったりしていたのでした。「南の風」20年史を振り返って、投稿が間延びする度に思うことは、大資本 Facebook こそ、手づくりパソコン通信「南の風」最大のライバル! 有力な書き手が「南の風」には書かなくなって、 Facebook には長文の投稿が頻繁に載っている。徒手空拳ながら、大資本と闘うぞ!と月に向かって吠えた夜もないではありません。
 閑話休題。総会や訃報などのページに追われて、中野光著『梅根悟.その生涯としごと』(新評論、新刊)についての話が中途半端になっていました。あといくつか書きたいことがあります。いずれも和光大学にかかわっての話題ですが、一つは、写真だけご紹介した石原静子さん(風4046号→■、心理学者、名誉教授、学園理事長)のこと。中野本では、梅根悟に関わって最も多く登場する人でしょう。惜しくも2010年に逝去され、すべての遺産を和光学園に寄贈された人。和光大学での私の研究室は、石原研究室の斜め前。住まいはお互いに井の頭線、石原さんは浜田山、ぶんじんは西永福、隣の駅というご縁でした。
 石原さんには、研究者・学長として梅根先生を追慕する文章の一つに「酒の師として」を書いておられます(梅根追悼『生活教育』追悼号・1981年1月号)。梅根先生は「私を大きく変えた。その最大のものは酒なのである」と。和光大学には卓上に一升ビンを転がして冷や酒を飲むような文化がありましたが、その中には石原さん、という感じ。和光に就任する数ヶ月前に小林の招聘講演会が大学主催で開かれた思い出はいまでも鮮烈。終わってのパーティで、石原さんはすでに少し酔っていて、私の講演を酒のサカナに、さんざんにイジラレた記憶あり。さすがにゲストに失礼だと、横にいた梅原利夫さん(教授)がトメに入ったような。今となっては懐かしい。教授会などのあと、同じ電車に乗ると、後輩のぶんじんは、恐れ謹んで、浜田山の駅までエスコートしたものでした。(つづく)
 こう書きながら、私に梅根先生のことを静かに語り通した海老原治善さん(国民教育研究所→関西大学→東京学芸大学、2005年没)を思い出しました。上平泰博さん(協同総合研究所)は和光大学で海老原ゼミ(多分)。もう本号に紙数なく、後日に書くことにして、忘れないように、写真が出てきましたので、本ページに掲げておきます。
海老原治善さん(19880903、東京学芸大学教授・当時)


4057号【 6月 18日】
■≪7月定例研究会の企画を≫
 本号の発行、思いもかけず1週間もの間隔、発行が遅れてしまいました。実は、6月1日開催「総会」論議が面白く(24号編集、韓国の動き、中国出版、台湾を含む中国フォーラム開催、東京板橋の集いの活気など)、その割に時間がなかったので、おそらく「風」への投稿があれこれあるに違いない(一人よがり)・・・と期待していたのでした。しかし山口事務局長の総会報告以外には(結果的に)来信なく、少々期待はずれ。打てば響くようなレスポンスがあれば、お互い元気も出るもの。しかし待ってもこないラブレターはことさら失望のほかなく、上掲の誌面ご覧のように、山口真理子事務局長からのレポートが過度に多くなった本号編集。真理子さん、お許しください。
 しかし怪我の功名、TOAFAEC「維持会員」制度について、やや丁寧な経過説明「お誘い」を収録することが出来ました(上掲)。維持会員50名をめざし、お互い頑張りましょう。
 竹富島のリゾート型ホテル建設への動きに、「竹富島を守る会」阿佐伊拓(会長)さんなどが「ならぬ!」と頑張っています。FaceBook に竹富島「守る会」ホームページあり。小生も「竹富島憲章」について、上勢頭芳徳さんとの対談・資料を添えました。
→■(上勢頭・小林対談「竹富島憲章」)http://www.bunjin-k.net/taketomitaidan07.htm
 あわせて、ホームページ表紙の写真を、いまリゾートホテル計画が持ち上がっている竹富島コンドイビーチの一枚に更新しました。コンドイビーチは、いわゆる星砂の浜。砂浜にいる二人は、おそらく星砂を探している恋人たちでしょう。私には、コンドイビーチまで足がまだ延びない頃、先にゼミの学生から1瓶の星砂を土産にもらった楽しい思い出あり。この写真1枚を撮ったとき、恋人カップルが浜に立つスナップがほしくて、待ちかねてやっとものにした1枚。思い出いろいろ、あの頃の竹富島、心癒す潮騒・寄せ返す波々。
 もうすぐ6月定例研究会。7月の企画がまだ決まっていません。かえって10月研究会の提案(風に載せていません)が動いています。7月26日(最終金曜日)は、暑気払いいを兼ねて、総会で語られた「(台湾を含む)中国研究フオーラム」再登場の集いにしてはどうでしょうか。黄さん(目白大学)、上田さん(筑波大学)、山口さん(早稲田大学)など各位のご都合いかが? 目を奪う香港の若者たちの動きも誰かに聞きたいところ。高井戸の会場はすでに用意してあります。
石垣島より望む竹富島(20070704)


4056号【 6月 10日】
■≪訃報・上原信夫さん(国頭村奥出身)疾風怒涛の人生>
 5月23日、私たちの敬愛する上原信夫さん(国頭村奥ご出身)が亡くなられたそうです(享年95歳)。かって杉並にお住まいで私たちの研究会と上原信夫さんをつないでいただいた上里佑子さん(現在は那覇在住)が電話でお報せくださいました。TOAFAEC 定例会では、2004年11月・第102回研究会から2006年12月・第124回にかけて6回ほど、疾風怒涛の人生「東アジアを駆け抜けた私の戦前・戦後史」を語っていただきました。これほどの数奇な人生は他に類をみないと思われるほど。
 アメリカ占領下に(大阪を経て)中国に密航。中国滞在25年、その間には文化大革命も体験されました。1974年に奇跡のように帰国され、東京にお住まいでした。私たちの研究会にお出でいただいた頃は、NPO 日本中国留学生研修生援護協会理事長の立部でお元気に活躍されていました。お話を記録した故石倉祐志(TOAFAEC 事務局長)は、その冒頭に、次のような前書きを付して、「東アジアを駆け抜けた」証言記録を作成、TOAFAECホームページに収録されています。→■http://www.bunjin-k.net/okinawauehara.htm
 「上原さんのお話には圧倒されました。明治・琉球処分へのレジスタンスだった祖父、そういう人を受け入れた奥(国頭村・沖縄島最北端の)の集落、ブラジル移民がかなわず満蒙開拓青少年義勇軍へ入った話、ハルピンでの反満抗日、被抑圧者の連帯を知り医学を志した話、関東軍に入隊し南下して宮古に上陸、宮古島の住民に「やんばる班長」と信頼されグラマン機との過酷な戦闘に生き残った話。これらを興味深いエピソードを織り交ぜて2時間以上の間、疲れも見せずに語られたのでした。
 お話は生い立ちから1945年までで時間切れとなりました。この後のお話は次回以降に期待されます。1947年沖縄初の政党「沖縄民主同盟」青年部長となり、その後沖縄を離れ紆余曲折を経て中国へ…。中国滞在25年を経て、ようやく1974年に日本へ。続きのお話が楽しみ。」(第1回証言、南の風1381号、20041126)
 なおその後、上原信夫さんの証言は、詳細な記録として『上原信夫オーラルヒストリー』(2005、政策研究大学院大学・COEオーラル政策研究プロジュエクト、A4版273頁)としてまとめられました。ホームページ(上掲)の写真のなかから1枚を選び本欄に掲げます。在りし日の面影、何事もなかったかのような自由闊達なお人柄を偲び、心からご冥福をお祈りいたします。
在りし日の上原信夫さん (第124研究会・高井戸、20061226)


4055号【 6月 5日】
■≪TOAFAEC 総会の夜≫
 今年のTOAFAEC 総会(6月1日)滞りなく終了しました。代表・上野景三さん、事務局長山口真理子さんはじめ、年報編集委員会ほか、ご参加の皆さん、ご苦労さまでした。社会教育学会の理事・幹事の方も(全国理事会終了後)駆けつけてくださって、賑やかな総会となりました。この数年15〜20人ちかくの方が継続して参加されるようになり、TOAFAEC 活動の定着・拡がりを象徴するもの。嬉しい一夜となりました。関係の皆様、たいへんお疲れさまでした。
 短い時間帯でしたが、なかに熱っぽいお話もありました。元副代表の伊藤長和さんが逝去されて以来、副代表ポストは名護・島袋正敏さんお一人のみ。それ以外は空席、ややブランクの感じでした。その後(沖縄名護の島袋さん以外に)中国研究フォーラムより黄丹青さん、韓国研究ォーラムは小田切督剛さん、東京社会教育史フォーラムから斎藤真哉さんに副代表をお願いすることが出来、当夜は各副代表が揃ってご出席、これは画期的なことでした。懇談のなかでは、活発な活動を日常化している韓国研究フォーラムに続いて中国・台湾研究フォーラムを再開しようというお話も出ました(筑波大学・上田孝典さん)。東京フォーラムの斎藤さん(成増生涯学習センター)には、最近活発な集いに取り組んでいる板橋区の動きについて発言していただき(写真)、東アジアとの関連でもたいへ刺激的なお話でした。いつもは1枚しか掲げない総会写真も、今年は年報編集委員会の充実し報告(李正連編集長)を含めて3枚アップ。→■
 終わって、学会理事会・幹事として活躍中の松尾さんや金さん(東京大学・院、遅れて参加)等も誘って神田神保町へ。一行8人。久しぶりのドイツビヤの店・放心亭はタイムアウトで入れず、すでに看板の灯を落していた店に入りこんで(上野代表が交渉)、遅くまで二次会の語らいを楽しみました。いろいろと話が出来て、いい夜となりました。
 山口真理子さんより、6月1日「総会・記録」も届いていますが、次号へおくります。ご参加の皆さんからも、当夜の感想など、お寄せいただければ幸い。
2019 TOAFAEC総会−山口香苗さん・松尾有美さんなどはまだ到着していない  (本郷、20190601)

年報24号編集長・李正連さん(東京大学) −本郷、20190601

副代表(東京研究フォーラム)斎藤真哉さん、板橋の集いを語る(本郷、20190601) *小田切さんカメラ


4054号【 5月31日】
■≪TOAFAEC「総会」の歩み≫
 明日は日本社会教育学会六月集会、例年のように初日夜、本年度のTOAFAEC 総会が開催されます。上掲(再)案内に山口真理子・事務局長も書いているように、学会日程を利用しての総会開催、学会の全国理事会と同じ時間帯ですから、当年度の理事・幹事の方々には申し訳ないかたちですが、夜の交流懇親の絶好の機会でもあり、初めての方も(関心ある方は)ぜひご来会ください。
 最近「南の風」に4、5名の新しいご参加がありますので、この機会にTOAFAEC「総会」史を少し書いておきます。TOAFAEC の組織論とも関わりますが、当初は総会など形式的なものは開いていませんでした。数人の中心メンバーがいわば事務局となり、そのまわりに(特に留学生を意識した)関心ある人々のゆるやかな拡がりを、市民・職員にも呼び掛けて、楽しく創っていこうと。会費など定めず、会則や規約ももたない、しかし沖縄・東アジアという共通の関心をともにする研究仲間の拡がりを創っていく、ひそかに共同体的なものをめざしていこうとの思い。中心メンバーには経費を含めて若干の負担が伴うけれど、新しい課題への挑戦、可能な程度の負担であれば、むしろ望むところ。形式を重んずる大きな学会とはむしろ対照的な、小さなな研究サークルをめざすイメージでした。この精神はいまも維持されているように思います。
 TOAFAEC の創設が1995年、「南の風」創刊は1998年。この間に東アジアからの留学生をブリッジに、中国や台湾、そして韓国などへの訪問が始まりました。とくに改革開放政策を打ち出した中国側(上海、広州、福建など)から、訪日招聘の要請・ビザ取得のためのTOAFAEC の公的機関としての文書発行、上海閘北区(業余大学)からの合作学院の構想などあり、規約・役員体制・公印づくりなどの組織機構を制定する必要にせまられる事態に。1997年あたりのことです。この間の記録はホームページに残っています。心ならずも形式を整えた団体の恰好を求められた感じ。→■http://www.bunjin-k.net/tyuugokuhyousi.htm
 総会もこの過程で開くようになりました。当初は國を超えた留学生の出会いの場でもありました。2001年から記録が残っています。→■http://www.bunjin-k.net/03soukai2.htm 同時に内部的には年報『東アジア社会教育研究』(1996年創刊)を発行する経費をどうするかの課題あり。2001年度までは個人負担でやりくりしてきましたが、有志「維持会員」制度(一口2万円、いま1万円)を導入、規約改正をし、2003年度年報8号より「総会」で予算づくりや会計報告・監査等お願するようになりました。
 振り返って、上海・廣州・福建など各都市の(大学を含めて)錚々たる機関・団体の招聘は10あまり。合作学院の構想は双方合意「定款」作成、調印までしましたが、結果的に実現しませんでした。こんな経過があり、福建あたりには、今でもTOAFAEC を大きな団体と誤解をしている人がいます。そんな過程で「総会」が毎年動いてきたのです。2000年代に入ると、国際フォーラムや出版構想にTOAFAEC が独自の役割を果たしてきた自負もあり・・・など書き始めると、つい長文、お許し下さい。いずれ詳細に書くつもりです。
第86韓国研究フオーラム、瀬川理恵さん退出後(風の部屋、20190525)*カメラ:呉セヨンさん


4053号【 5月27日】
■≪研究会記録づくりの熱気≫
 3月「やんばる対談」あたりから、ぶんじんの新しいカメラが動き始め、皆さんのスマホ撮影の画像に加えて、以前のように(ぶ)写真をホームページに並べ始めています。2001年(まだスマホ撮影はない)ころから活躍してきた古い懐かしのデジカメは十分にその役割を終え、いま静かに自宅机上で老後をおくっています。ぶんじんの老後を見る思い。
 ホームページには毎月の研究会・各フォーラムの記録(画像と文章)を掲載・収蔵してきました。写真は約2000枚ちかく。25日(韓国)研究会後の語らいでは、その収蔵の山が、ひとしきり話題となりました。もしホームページより削除した方がいい画像があれば、この機会に(遠慮なく!)ご指摘願います。すぐに作業をしますので。
 今回の24日・25日研究会についても、賑やかに写真を載せています。加えて24日定例会後「イーストビレッジ」交流会については、「上からのアングルですと皆さん表情が明るくなることに気づきました!」(上掲)と松尾有美さん(東大院)の天井からの1枚の写真も届きましたので、追加掲載しました。→■http://www.bunjin-k.net/yotei1905.htm
 この1両日、定例会・韓国フオーラムともに、両日よく飲みました。「風の部屋」では、韓国フオーラムの皆さんが元気。皆さんが帰ったあと、夢のなごりのように、久しぶりにワインの瓶が並びました。いい文章(研究)とワインのビン数は比例するという経験則からすれば、今年の年報・韓国フォーラム「この1年」づくりは、さぞかしいい出来上がりになるに違いない!と楽しみ。
 台湾からの留学生・林忠賢さん(東京大学・院)からは、24日の研究・交流会が終わって6時間も経過していない明け方、窓外はまだ暗いうちに、前夜の記録が長文で送られてきました(上掲)。驚きました。まさに徹夜の記録づくり。こちらは両日の研究会とその後の語らいに酔い疲れ、ようやく三日後の今、本号を編集しています。台湾報告は山口香苗さんの濃密な内容、林さんの記録づくりも難渋したのではないか。当方で少し言葉を削ったり補ったりしました。ご了承を。台湾の報告と記録づくりの熱気に、あらためて御礼!です。
後列・右2人目に山口香苗さん、左端は記録・林忠賢さん (高井戸イーストビレッジ、20190524)


4052号【 5月23日】
■≪天王寺夜間中学開設から半世紀≫
 前号の「梅根さんの“私の日教組”」(「私の城下町」替え歌)については、「面白く読みました」「いいですね!」など、いくつか反応がありました(信州・米山義盛さんなど)。なんらかのレスポンスがあるのは嬉しいこと。いつも折り返しのように「風・読みました」と読後感をいただく小田切督剛さんにはとくに感謝。本号には出たばかりの『月刊社会教育』6月号「かがり火」(小林「社会教育法70年」)について感想を寄せていただきました。また6月1日予定「TOAFAEC 総会」(風4050号に案内)に「出席予定です、ご安心ください」とのご返事(上掲)、有難うございました。
 総会(社会教育学会六月集会・初日の夜)もあと1週間に迫りました。佐賀から上野景三代表にも上京いただき、事務局会議(5月16日)が開かれたこと、既報の通り。これを受けて事務局長・山口真理子さんからは連日の総会資料作成・修正のメール、ご苦労さまです。維持会員の皆様には、総会の前に資料送付を考えているとのことでしたが、間に合うでしょうか。頑張ってください。最近、新しく風に参加された方も数人あり、あらためて「維持会員」制度(TOAFAEC)について、そのうち書いていただければ幸い。
 本欄には、中野光 (著)『梅根悟:その生涯としごと』に関連して、私なりのいくつかの感想・エピソ―ド(の続き)を書くつもりでしたが、夜間中・基礎教育保障学会学関係のメール相次ぎ(上記・関本保孝さんなど)、本欄もスペースなく、次号にまわします。とくに大阪・黒川優子さんから転送いただいた上掲メール、印象深く読みました。「1969年6月5日、天王寺夜間中学は第1回入学式の日を迎えた。その日から今年で50年、半世紀が経過したことになる。この日を迎えるにあたって、いくつかの関連行事が計画」とのお知らせ。添付ファイルには、「夜間中学が初めから存在したのではなく、国や文部省は一貫して開設に反対したにもかかわらず、開設され営まれてきた・・・」と。

4051号【 5月18日】
■≪梅根「私の日教組」替え歌≫
 一昨日16日の夜、風の部屋でTOAFAEC(総会準備のための)事務局会議でした。佐賀から上野代表を迎え(ご苦労さま!)、山口事務局長、遠藤同次長、小林顧問と揃い踏み。資料表記のことなど細部は事務局長にお任せし、会計(維持会員拡大)や出版局(独自の本づくり)構想など、案外と大きな話(課題)も出て、ぶんじんには元気がでる事務局会議でした。各研究フォーラムから出ていただいている副代表(東京ー斎藤真哉、中国−黄丹青、韓国−小田切督剛の各氏)、ぜひ総会にはご出席いただこう、などの話も出ました。
 さて、、中野光(著)『梅根悟―その生涯としごと』(新評論、2019)にまた話を戻しましょう。ぶんじんにとって「梅根悟」のあれこれは、和光大学の仕事を通してたっぷりと聞いてきましたが、あと一つは海老原治善(国民教育研究所・関西大学→東京学芸大学)と小川利夫(社会事業大学→名古屋大学)お二人を通してでした。お二人は同年(ぶんじんより5歳上)、ともに故人となられましたが、海老原さんは学芸大学の同僚、小川さんとは日本社会教育学会や社会教育推進全国協議会(小川委員長、小林副委員長の仲)の活動を通して、いろいろと梅根像の思い出があります。
 梅根先生没後の日教組・第二次教育制度検討委員会には、社会教育・生涯学習についての第5委員会として、小林や笹川幸一(法政大学)等が参加していました(報告書・日本の教育をどう改めるかー私たちの求める教育改革提言―、日教組「教育評論」1985年11月号、1988年4月「みんなで教育改革を」最終13号など)。微醺をおびた席で小川さんがよく歌った「梅根さんの“私の日教組”」が想い出されます。小柳ルミ子「私の城下町」の替え歌、思い出すままに再録しておきます。「格子戸をくぐり抜け、見上げる夕焼けの空に、だれがうたうのか組合歌、わたしの日教組、好きだともいえずに、歩く川のほとり、往きかう人に、なぜか目を伏せながら、心は燃えていく」(原曲作詞・安井かずみ)。
 ついでに二番も。同じ“わたしの日教組”「(略)橋のたもとにともる、灯りのように、ゆらゆらゆれる、初恋のもどかしさ、気まずく別れたの」。懐かしい小川利夫さんの声が聞こえてくるような。もちろん時代は1989年「連合」の前。「日教組」に結集していた頃の「好きだとも言えずに、心は燃えていく・・・ゆらゆらゆれる、気まずく別れたの」など絶妙の替え歌でした。息抜きにご紹介しておきます。




*南の風4001号〜4050号(前ページ)

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