韓国本の日本出版打合せ (渋谷ロゴスキー、20111226)
伊藤長和さん追悼のページ
◆目次
T,急逝の悲報(2014年2月)、*(付)伊藤長和さんの2014新年会−私たちへの最後のメッセージ
U,「烟台の風」(2009年〜2013年)、「私の闘病生活」など(2013年〜2014年)
V,伊藤長和氏略年譜
W,編著書・論文など著作一覧
X,退職記念講演−(TOAFAEC第117回研究会、2006年4月28日)
   (付)「生と死、そして還暦」 峰岸雑誌 (2005年)
Y,偲ぶ会(2014年4月20日)、案内・追悼文(李時載氏)など
Z,伊藤長和さんの仕事、遺されたこと (TOAFAEC第206回研究会、5月30日) 記録・金宝藍
[,伊藤長和さんとの出会い、足跡を偲ぶ(「東アジア社会教育研究」第19号)  小林文人




T,
伊藤長和さん急逝!
                
「南の風」(小林ぶんじん)


■≪2014年2月、私たちを襲った悲報≫
 
       *南の風3250号(2014年2月17日) 
 2月16日・日曜日の昼。ぶんじんに大阪から久しぶりの妹たちが見舞いにやってきて歓談中。そこに川崎の小田切督剛さんから突然の電話。伊藤長和さん急逝の悲しい知らせでした。
 実はその前日、長女の伊藤和江さんから、お父上の病状が厳しいとの連絡をいただきました。「…文人先生も入院されていると聞いたのですが、父の知り合いの方に、お知らせ頂ければと思い、突然のメールご容赦ください。父は、お医者さまから、あと一週間もたないだろうと言われてしまいました。本日、個室に移動しました。本人は、まだ半年もつと思っています。
 1月末に入院してからは、パソコンも開けず、まだ意識はハッキリしてはいますが、日に日にしゃべれなくなってきています。…たまたま、私がパソコンを開けたので、失礼とは思いましたが、メールさせて頂きました。父からは、もうお返事する事は出来ません。そして、父のアドレスにメールを頂いても読む事が出来ません。すみません。」(15 Feb 2014 15:15)
 おお神よ!と祈らずにはいられないショック。病院から大急ぎでまわりの数人の方に電話しました。「伊藤さんの病状は厳しい、最終段階だ!」
 小田切さんたち川崎メンバーは、翌朝に鎌倉へ。しかし間に合わなかったそうです。同じメールを読んだ和光大学・岩本さんは、15日その足で鎌倉へ。伊藤さんの私たちへの別れの言葉を聞きとってくれました。私自身入院していて、最後のお見舞に行けなかったのが何より残念です。

■≪言い交わしたる二人仲≫ *南の風3251号(2014年2月18日)
 16日・伊藤長和さん逝去のお知らせ。その後、寝ても覚めても、伊藤さんの面影が現われては消え、消えては浮かんできます。そのどれもが元気な伊藤さん、大きな声、活発な動き、まわりをいたわる表情などばかり。
 私たちが出会ったのは、1975年前後、相模原での社全協・調査研究部の集まりでした。あのときも、大きな声での自己紹介を憶えています。当時の伊藤さんは30歳前後か。それから40年近くのお付き合いでした。社会教育を通しての出会い、かけ替えのない同行の士となりました。
 とくに1995年のTOAFAEC 創設から1998年「南の風」創刊以降、走馬燈のようにいろんな場面が蘇ってきます。伊藤さんはTOAFAEC研究会などほとんどすべての集いに参加され、「南の風」の隅々まで読破されてきました。2009年春に中国烟台へ赴任されてからは、日々の記録「烟台の風」を4年間にわたって連載。読むだけでなく自ら執筆し、ときに鋭いクリティークを寄せられました。若い人々(とくに中国人学生)への限りない愛、総じてまわりの仲間への叱咤激励の達人でした。
 4年間の中国生活を終えて昨年7月に帰国され、今から伊藤さんの活躍が始まると誰しも思ったことでしょう。川崎という自治体職員の蓄積、韓国との貴重な交流、そして現代中国での生活経験。その間には大学教員としての独自の見識を確かめてこられました。一緒に何冊か本も創ってきました。あらためて伊藤さんの元気をバネに「東アジア」の新しい歴史に参加しよう、と“言い交わしたる二人仲”。これからだというときに・・・。

■≪伊藤長和さん告別式≫ *南の風3253号(2014年2月21日)
 お通夜(20日)に引き続き、21日11時から伊藤長和さんの告別式がしめやかに取り行われました。この日、鎌倉はいいお天気。長和さんはたくさんの花に埋もれながら、安らかな表情で旅立たれました。一同合掌でお見送り、悲しい別れのひととき。
 式は無宗教による家族葬としてすすめられ、私たち会葬者は脇に控えるかたち。「アチミスル」の曲が流れるなか、ご家族が語る伊藤長和さんへの思いと回想。亡くなられた当日(16日12時46分)、その1時間前には買い物を頼んだり、まったく平常の様子、アッという間の心肺停止だったそうです。末期ガン特有の激痛に襲われることもなかった、昨年8月の大手術から7ヶ月、家族としてしっかり看病することができた、などのお話が切々と会場に流れました。
 TOAFAEC からは、末本誠代表(神戸大学)ほかの皆さんから弔電が寄せられ、韓国・中国・東アジア各研究フォーラム・委員会からの弔電も披露されました。ご配慮ありがとうございました。
 伊藤さんの闘病生活は(ご存知のように)「南の風」に折々の経過が記録されていますが、昨年の七夕の会と今年の新年会への出席が伊藤さんにとって大きな節目となったこと、改めて実感させられました。私たちへの最後のご挨拶をなさった新年会(1月5日)、無理をおして出席された伊藤さんは杖をついておられました。この40日後に逝去されたことになります。ああ!

■≪人間的な関係を紡ぎ出す達人≫ *南の風3254号(2014年2月23日)
 伊藤長和さんへの回想、急逝を悼むメッセージが引きもきらず。永いお付き合いもあれば、ご本人と一度も会ったことがない留学生まで、さまざまです。追悼の言葉のなかに、伊藤さんの生き方やお人柄がにじみ、そこに新たな発見もあって、悲しくなります。
 伊藤さんは、海を越え、世代をこえて、独自のやさしい人間的な関係を紡ぎ出す達人だったのです。ぶんじんゼミの学生たちも、毎年の川崎(たとえば「ふれあい館」)訪問を通して−プログラム終了後は必ず伊藤さん案内のプルコギ屋での忘れがたい交流あり−お世話になってきました。仕事の機会を頂いた学生もあれば、前々号・モンゴル留学生(当時、現在は大学教師=トクタホさん)のように、文化的な演奏・講演・交流の流れをつくっていただいたことも。その回数は川崎だけで、なんと!200回をこえていたと・・・、驚きました。
 会ったこともないのに伊藤さん追慕の文章が寄せられるのは、「南の風」に4年余にわたって連載された「烟台の風」、そして「私の闘病生活」等(全325本、数本の番外編あり、計約330本)の記録によるもの。そのすべてはHPに収録しています。(下掲)






伊藤長和さん・2014新年会(1月5日)へ−私たちへの最後のメッセージ


 
<10歩歩んでは一休み!>伊藤長和(8 Jan 2014) *南の風3226号−鎌倉の風B
 例年のとおり、「文人先生・富美さまご夫妻を囲む新春の集い」は、華やかに賑々しく行われました。今年は、松の内の開催(5日)といったこともあり、いつもより若い方が少なく、ご年配の皆さまが多かったようです。「七夕の会」は、若い世代で、「新春の集い」は高齢の方々が目立つようですね。
 二度の胆石の手術をなさった、富美さまもお元気のご様子で私は安心しました。
 私は文人先生のお弟子さん・教え子とのこんなにも長い触れ合いの機会が続いてきたことに、驚愕とご夫妻のお人柄・教え子への愛の眼差しを感じとり、真の教育者の姿を学ばせていただいたのです。
 ところで私ですが、もしかすると今回が最後の参加となり、皆さまとは、「今生の別れ」になるかもしれないので、医師、家族、友人が反対するのも聞かず、一人で杖を頼りに東京へと向かったのでした。
 日本の若者は未だ「いたわりの心」を失ってはいませんでした。正月休みの日曜日で混み合う電車にヨロヨロと乗り込む私の姿を見ると、皆席を譲ってくれたのです。冬はスキー、スケートで鍛え、夏は野球や水泳・登山で鍛えた私の足腰は無惨でした。見事自信は打ち砕かれたのです。
 <10歩歩んでは一休み、10歩歩んでは一休み>です。勿論、階段は手すりと杖にすがっての歩行です。朝11時15分に自宅を出、午後1時45分に会場到着。2時に開会し、2時半には、途中退席。
 自宅の玄関には5時にたどり着きました。一日中私を心配していた妻の安堵の顔が、今でも眼に焼き付いています。ご夫妻や参加者の皆さまから、励ましと元気をいただいた私は、もう少し自身の内在的生命力を呼び覚まそうかと、今考えているところです。
 帰途の西永福駅まで、私を心配して、見送りにきていただいた、遠藤輝喜さんに感謝、そして参加者の皆さまに感謝。
   *新年会出席・ご挨拶の写真(遠藤輝喜氏撮影)→■(南の風3253号)
                  ↓
遠藤輝喜氏撮影・最後の伊藤さんご挨拶20140105/西永福


西永福・新年会場にて (木村雅俊氏撮影、20140105) 私たちへの最後のスピーチ、この後1ヶ月余りで急逝。


*伊藤長和さんの絶筆。
  私たちとの関係で、伊藤さんの最後の筆は「祝賀!名護市長選」(南の風3235号に収録)
 であった。名護市長選・投開票日に体調をこわして沖縄行きができなかった小林の病状を労
 わる言葉が添えられている。→■(「鎌倉の風」4号−2014年1月20日)




U伊藤長和 「烟台の風」、「私の闘病生活」 など (別ページ)


1,「烟台の風」T・・・・1〜93号 (2009年4月〜2010年7月)→■

2,
「烟台の風」U・・・・94〜171号(2010年9月〜2011年7月)→■

3,
「烟台の風」V・・・・172〜251号 (2011年8月〜2012年7月)→■

4,
「烟台の風」W・・・・252〜309号 (2012年9月〜2013年6月)→■

5,
「私の闘病生活」(1〜12号)、「鎌倉の風」(1〜4号)(2013年7月〜2014年1月)→■




V伊藤長和氏・略年譜


1945年、愛知県に生まれ、小学校2年まで山梨県鳳来村(現、北杜市))に育ち、1953年より川崎市(現在の幸区)で成長した。小・中・高の課程を経て、法政大学法学部に学ぶ。

1968年 4月     川崎市役所入職(御幸支所市民課−現幸区役所)
1971年 4月     教育委員会社会教育部社会教育課成人教育係
1973年           *この年、社会教育推進全国協議会調査研究部に参加
1974年11月      国立社会教育研修所「社会教育主事講習」修了
1978年 9月.     社会教育部社会教育課管理係
1978年10月        *「政令指定都市 (大都市)社会教育研究交流の集い」開催(名古屋市)
1979年 4月      社会教育部社会教育課(幸市民館・図書館建設担当)
1980年10月     幸市民館社会教育振興係
1981年 7月        *川崎市職員労働組合教育支部副支部長(社会教育施設部会長)
1983年10月     幸市民館社会教育振興係主任、社会教育主事
1984年 1月      産業文化会館教養課教養係主任
1985年 4月      社会教育部社会教育課成人教育係主任
1988年 4月      社会教育部社会教育課成人教育係長
1990年 5月      社会教育部社会教育課主査(生涯学習基本構想担当)
1993年 4月      市民局国際室主幹
1996年 4月      総務局総務部国際交流課長
1997年 4月      生涯学習部生涯学習推進課長
2000年 4月      生涯学習振興事業団総務室長・参事
2001年 4月      生涯学習振興事業団事務局長・参事、 
             *TOAFAEC副代表
2004年 4月      高津市民館長
            
*日本公民館学会理事、國學院大學非常勤講師
2005年 4月       *日本女子大学非常勤講師
2006年 3月      川崎市定年退職
2006年 4月      川崎市教育委員会・学習情報室長
             同 生涯学習推進課非常勤職員(研修等担当)

2009年 4月      中国へ渡る(山東省・烟台本州日本語学校教師)
2010年 9月      中国・山東工商学院外国語学院外国人教師
2013年 7月      同上・退職、帰国。その直後に胆管ガンlが発見され入院加療
2014年 2月      2月16日(12時46分)永眠




W編著書・論文など著作一覧(伊藤長和氏)





1995年3月18日 地域生涯学習計画の創造
           (末本誠他編『地域と社会教育の創造』 エイデル研究所)
1995年3月18日 川崎市の外国人市民代表者会議の設置に向けて
           (『地方自治職員研修〜自治体と定住外国人』公職研編集部編 公職研)
1998年4月30日 大都市の生涯学習推進基本構想
            (岩渕英之編『生涯学習と学校5日制』 エイデル研究所)
1998年5月31日 在日韓国・朝鮮人の経験に立つ総合的外国人市民政策 (駒井洋・渡戸一郎編
           『自治体の外国人政策〜内なる国際化への取り組み〜』明石書房)
1999年9月15日 大都市における公民館〜川崎市の公民館のあゆみ (日本社会教育学会編
           『現代公民館の創造〜公民館50年の歩みと展望』東洋館出版社)
1999年9月18日 市民がつくり出した富川(プチョン)市との友好都市交流
           (TOAFAEC 『東アジア社会教育研究』4)
1999年12月15日 大都市の公民館と識字実践〜川崎市市民館・ふれあい館の活動
            (小林文人編『これから公民館〜新しい時代への挑戦』 国土社)
2000年12月1日  教育地域共同体の創造を目指す川崎の地域教育会議
             (葉養正明編『学校評議員ガイド』 ぎょうせい)
2003年9月25日  川崎市における子どもの権利に関する条例制定の経過と意味
             (日本社会教育学会編『社会教育関連法制の現代的検討』東洋館出版社)
2003年11月20日  川崎市の地域社会教育計画と実践(中国語版)
              (小林文人・末本誠・呉遵民編『当代社区教育新視野』上海教育出版社
2004年9月10日  川崎市の生涯教育と市民大学〜川崎市の市民社会を構築する「かわさき市民
         アカデミー」(韓国・聖公会大学校『「市民大学」国際シンポジウム資料』)
2005年9月18日  全国に名高い川崎市の社会教育が変わる(「東アジア社会教育研究」10号) 
2005年       生と死、そして還暦」(エッセイ)峰岸雑誌
2006年3月 3日   コミュニティ関連施設〜施設間ネットワーク
       (日本公民館学会『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』エイデル研究所)
2006年9月9日   黄宗建・小林文人・伊藤長和編『韓国の社会教育・生涯学習』→■
             (エイデル研究所)  *序章−小林と共同執筆、あとがき、他
2006年9月18日  黄宗建先生が日韓の社会教育研究に架けた橋を(追悼)
           川崎の社会教育と韓国との交流−自分史を中心に 
             (TOAFAEC 『東アジア社会教育研究』11集)
2007年10月1日  川崎市の多文化共生社会の創造
             (矢野泉編 『多文化共生と生涯学習』 明石書店)
2008年9月18日 黄宗建先生の精霊を呼び起こす(『東アジア社会教育研究』13集)
2009年9月18日  韓国の平生教育・市民活動との出会い―2009年7月訪韓記録
            中国・烟台の三ヶ月            (『東アジア社会教育研究』14集)
2010年9月18日  烟台市全市民の読書活動提案書(訳) (『東アジア社会教育研究』15集)
2010年10月1日 小林文人・伊藤長和・梁炳賛共編『日本の社会教育と生涯学習
             −草の根の住民自治と文化創造に向けて』(ソウル学志社 ハングル版)→■
              *序章「日本の社会教育・生涯学習の特質と課題」小林と共同執筆
2011年 4月28日  日本大地震与社会教育(中国語版)  福建省『終身教育』第9巻2号
2012年11月30日   「地域教育会議」「青丘社」 (『社会教育・生涯学習辞典』朝倉書店)
2013年10月20日 小林文人・伊藤長和・李正連共編『日本の社会教育と生涯学習→■
             −新しい時代に向けて』(大学教育出版社)*序章・小林との共同執筆


『韓国の社会教育・生涯学習』(2006年出版)編者3人、右より伊藤長和・黄宗建・小林文人(20031030、川崎・編集会議)





W伊藤長和さん退職記念講演とお祝いの会

   TOAFAEC第117回研究会 (2006年4月28日 高井戸地域区民センター)
    *『東アジア社会教育研究』(TOAFAED 発行、2006年)所収

はじめに 「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC)では、副代表の伊藤長和さんが、本年(2006年)3月末をもって川崎市教育委員会を定年退職されたことを受けて、去る4月28日(金)に杉並区高井戸区民センターで、お祝いの集いを開催しました。その時の伊藤長和さんのお話を記録として氏の友人の小田切督剛さん(川崎市教育委員会)にまとめていただきました。(TOAFAEC)

◇小林文人代表ごあいさつ◇

 30数年前に、社全協で伊藤長和さんと出会いました。伊藤さんと出会ったことで、実現できたこととして特筆されるのが、「大都市の社会教育研究と交流の集い」であります。東京・沖縄・東アジア社会教育研究会においては、数年前に規約を作った際に、神戸大学の末本誠さんと共に伊藤さんに副代表になっていただきました。伊藤さんは、川崎の自治体の仕事の中でも、他の自治体には見られない独自の仕事をやってこられました。韓国の富川市(プチョンシ)との友好都市交流などの水路を開いてこられことなどその一つ。短い時間ですが伊藤さんのお話を皆さんとともにお聞きし、定年退職をお祝いしたいと思います。

 【講演記録】
 川崎の社会教育と韓国との交流〜自分史を中心に〜


 伊藤長和
(川崎市教育委員会・学習情報室長) 
  *記録:小田切督剛(同教育委員会)

1.ごあいさつ
 本日は、TOAFAECの第117回研究会で私の退職祝いの企画をして下さいました関係者の皆様に心から感謝を申し上げたいと思います。私はこの間、いろいろなところで送別の宴、定年退職を祝う会を開いていただいておりますが、その都度私は、「私にとって豊かな出会いが、私を育ててくれました。」と皆様に申し上げています。
 私にとって松下圭一先生(法政大学政治学教授)との出会いが無ければ、自治体職員にはなっていなかったでしょう。小林文人先生(東京学芸大学社会教育学教授)との出会いがなければ、生涯にわたり社会教育主事を目指すことはなかったでしょう。
 私は高校卒業までは、美術大学への進学を目指していました。ところが、たまたま受検直前に父親が倒れ、長男でもあり、絵画で生きていくのは難しいだろうと考えて、法学部に進んだのです。高校時代に民主青年同盟に席をおいていたため、ロシア語が選択できて、学生運動が盛んだ、という理由から法政大学の法学部を選んだのです。ただし、核実験をめぐる「部分的核実験停止条約」(1963年)問題で、「中国やソ連の核実験は正しい」と主張する民主青年同盟とは衝突して、抜けたのです。
 就職はマスコミ志望でしたが、私は幼児の頃に患った肋膜炎の影響でレントゲン写真に影がでるため、身体検査で落とされてしまいます。あきらめざるを得ませんでした。やけになって大阪で森下仁丹を受験しました。日本画研究会の戸隠高原の合宿先から、大阪に向かったのです。社長面接で、「日焼けをしているが、どうしてだ」と問われた私は、合宿先で炎天下に絵を描いていたと答えたのです。すると、森下泰社長は社長室に飾られた一枚の日本画を指差し、「この絵は私が描いたものだが、どう思うか」、と私にたずねたのです。魚の絵でした。「良く描けているが、勢いが無い」、と申し上げました。当然これで、落とされるだろうと覚悟を決めていました。後日、内定通知を受け取りびっくりしました。
 ちょうどその頃、ゼミの松下圭一先生は講義の中で、「君たちは自治体職員となり革新自治体を創り、中央政府を包囲し、政権を変えよう!」とおっしゃったのです。この言葉に感動した私は、森下仁丹には迷惑をかけたのですが辞退をして、川崎市に就職をしました。
 小林文人先生にお目にかかったのは、相模原市の公民館で開かれた社会教育推進全国協議会(社全協)の研究会に参加した時が最初です。その時社全協の常任委員をしていた高須甫という友人に誘われたのです。文献でしかお目にかかったことのない大変ご高名な先生が、研究会終了後、相模原駅前の焼き鳥屋に私をお誘い下さったのです。小林先生の人間的な魅力に私は強く引きつけられたのでした。高潔なお人柄で社会教育への強い情熱を持たれている小林先生との出会いが無かったら私はこんなにも長く社会教育をやってはこれなかっただろうと思います。
 小林先生にはその後、私は社全協の常任委員会の調査研究部で、直接ご指導いただき、「大都市社会教育調査」、「大都市(政令指定都市)の社会教育研究と交流の集い」の開催(これは今でも続けられていて今年で29回目を迎えます。)、などに取り組ませていただき、全国的な視野で川崎の社会教育を見る目を育てていただいたのです。
 今でも思い出されますが、小林先生は「日本の社会教育は農村社会教育が中心であった」、「日本の人口の4分の1は、大都市・政令指定都市で占められている。そこでの社会教育たるや惨憺たる状況である。しかし、他への影響は大きい。」、「長さん、だから大都市研究をやろう」、と私に声をかけて下さったのです。
 行政の政策形成の面でも、私は小林先生に無理を申し上げて、助けていただきました。それは、川崎市の「文化問題懇談会」でのキャンパス都市計画(『キャンパス都市・川崎の創造』1986年)、や「生涯学習懇話会」の委員としてご指導いただいたのです。ユネスコの生涯教育部長のエトーレ・ジェルピ氏の二度(1982年、1987年)にわたる川崎への招致は、最初は文化問題懇談会に、二度目は政令指定都市の社会教育の研究と交流の集いに関わる大都市の職員労働組合教育支部に小林先生が(二度目は海老原治善先生とご一緒に)働きかけられたことがきっかけとなって実現したのです。
 私個人としては、韓国・大邱(テグ)市で開催された「第3回日韓社会教育セミナー」への参加、翌年(1993年)川崎市で開催された第4回のセミナーの実施、そして1995年ソウル大学で開催されたEAFAE(東アジア成人教育フォーラム)に参加することができたのは、小林先生の強いお誘いがあったからです。小林先生には、ドイツのハンブルク、エジプト、中国の上海、韓国の富川市・光明市にご一緒させていただきました。残念ながら、小林先生のライフワークの沖縄には、未だご一緒させていただいてはいないのですが、今年秋に予定されている内モンゴルへの旅を楽しみにしています。
 小林文人先生ありがとうございました。先生のおかげで、社会教育マンとしての職場生活を実りあるものに、満足あるものに、することができました。公務員の中で自分の好きな仕事を定年まで続けられる者はほとんどいないと思いますが、私は、自分の好きな仕事を定年までできた幸せを今噛み締めています。




2.「私と韓国」・自分史の紹介
 さて、本日私にいただきましたテーマは、「川崎の社会教育と韓国との交流」ですが、むしろ「私と韓国」という題で、自分史を語らせていただきたいと思います。
 私と韓国の最初の出会いの原風景は、同級生の成本君との出会いです。私は小学校2年生の秋に山梨県の鳳来村(現、北杜市)から川崎市に引越しをして来ました。三菱重工で働く父の転勤によるものです。鳳来村はサントリーの白州町工場のある所です(南アルプスの水のCMで有名)。鳳来村では「疎開さん」と呼ばれて暮らしていました。そこでの子どもの仕事は、子守りと山での焚き木拾いと、それから川からの水汲みです。冬などは、凍りついた川を、マサカリで氷を割って水を汲むのです。ところが、1952年(昭和27年)に川崎市に来てびっくり。水はひねれば出る(薬臭くて、不味かったが!)し、火はおこさずともプロパンガスで直ぐに火がつくのです。これは私にとっては大変なカルチャーショックでした。
 山梨弁のソーズラー、「ズラー弁」丸出しの私は、ずいぶん級友にからかわれました。その時、私をかばってくれたのが、柔道をやっていた人一倍体の大きな在日朝鮮人の成本君でした。成本君はチューリップと発音できないため、「チョーロッポ、チョーロッポ」と、級友にからかわれていました。彼は「方言」でからかわれている私を見て、自分自身に重ね合わせたのでしょうね。
 それ以来、彼と私は仲が良くなり、彼の家に私は度々遊びに行くようになったのです。成本君の家は町外れにあり、ブタを飼っていて、生業は廃品回収業をしていました。いつもハルモニは白いチマチョゴリを着ていました。彼は4年生の時に民族学校に転校してしまいました。その後、2度ばかりクラス会に参加してくれましたが、突然音信不通になってしまったのです。
 私が大学生の頃、神田で偶然成本君に出会いました。「オイ!おさちゃん」(チョウさんと呼ばれる前の私の愛称です)と、懐かしい声でした。近況を訊ねると、会津若松市でパチンコ屋を経営していて、神田ではサラリーマンローン(高利貸し)をしているとのことでした。再開を約してその場は別れたのです。その後、音信はまた途絶えてしまいました。
 後年、私が国際交流課長の時に、朝鮮総連の幹部と何度か交渉の場を持ちました。なかなかうまく進展しないため、何度か夜の席を設けて酒を酌み交わしたのです。その時、川崎の朝鮮総連の副委員長で朝鮮商工会会長の車栄鎬(チャ・ヨンホ)さんに、小学生の時に成本君に助けてもらった話をしました。すると、車栄鎬さんは「それ、私の教え子だよ!」と言われたのです。車栄鎬さんは朝鮮大学卒業後、しばらく朝鮮高校の教師をしていたそうです。成本君はその時の教え子だったとのこと。不思議な縁だな、と感激していると、車栄鎬さんは「成本君は若くして癌で亡くなった!」と言われたのです。成本君の細い目の笑顔が急に私の瞼に浮かびました。それからの朝鮮総連との交渉は、成本君のお陰でトントン拍子に前進したのでした。
 私は大学では「沖縄文化研究会」に1年生から所属して、沖縄解放闘争(沖縄本土復帰運動)を行っていました。その動機は小学生の時、図書室で岩波の写真文庫『沖縄−新風土記―』を手にしたことに起因します。沖縄の海水浴場に日本人が入れないビーチが紹介されていたからです。それと母から聞いた映画『姫ゆりの塔』(香川京子主演1958年・東映)の話が子供心に焼き付いていたからでしょう。
 沖縄には1964年の夏、鹿児島港から「波の上丸」に乗り初めて訪れました。ベトナム戦争の激しい頃です。空軍労組や沖教組の人々と話し合ったり、伊江島の爆撃演習場に突入したり、嘉手納米軍基地を視察(大山朝常コザ市長の紹介)したり、エイサーで黒人兵と飲み明かしたりしたものでした。基地の町コザ(現、沖縄市)には、黒人街と白人街がありました。当時は施政権返還前で、パスポート(身分証明書)が必要で、申請には身元引受人が求められたのです。私の身元引受人は沖縄社会大衆党の委員長だった、平良良松(後の那覇市長)さんでした。宿舎は、公民館か役場の宿直部屋などでしたが、平良良松さんのお宅にも1泊させていただきました。当時は米が不足していたため、特産の泡盛はとても不味く、コーラで割って毎晩飲み交わしたものです。
 沖縄文化研究会で朝鮮大学の学生と交流会を持ったことがあります。その時、彼らの祖国の文化に対する想いと自信に私は圧倒されました。そうです、私はロマンローラン、トルストイ、ドストイスキー、やセザンヌ、ゴヤ、ブラック、ユトリロ、には関心があっても日本の作家や絵描きにはほとんど関心が無かったことをその時恥じ入ったのでした。「自分は日本のことは何も分かっていない」と。小・中・高と美術クラブにいた私は当然油絵を描いていましたが、そこで「日本画研究会」の創立に関わったのです。顧問には、鍋島藩の末裔の鍋島直康先生に、絵画指導は日本美術院の持田卓人画伯に依頼したのです。
 余談ですが、卒業後の1年目、川崎市の市美展で私は日本画部門の奨励賞をいただきました。朝鮮大学の学生との出会いがなければ、私は日本文化には疎い人間となっていたことでしょう。このことがきっかけとなり、「本当の国際人は自分の国のことを良く知っている人なのだ!」と、私は国際理解、国際交流の場面で話すことにしているのです。
 私の学生時代は、学園紛争の真っ只中で、授業はほとんど休講でした。そのためか、ベトナム反戦運動のデモなどに参加していました。そうそう、韓国との関係では、日韓会談粉砕デモ(無届け)に参加して拘束されました。
 なぜ日韓会談反対運動に参加したかといえば、日本による植民地支配の戦後保障問題への取り組みや歴史認識問題への不満、さらに民衆を弾圧する軍事独裁政権への嫌悪感からでした。小学生の頃は「李承晩ライン」の漁船拿捕のニュースに腹を立てていた私です。

3.柳宗悦に学ぶ、沖縄・韓国
 川崎市の面接で私は社会教育を希望したのですが、「川崎市は近い将来政令指定都市になるので、その準備をしてもらいます」、と言われました。最初は住民基本台帳(住民票)をコンピュータ化する仕事を担当しました。教育行政と一般行政の間で職員異動が現在のように簡単にできる時代ではなかったので、私は論文を書いて異動希望をしたのでした。そして、3年目にしてようやく実現したのです。私は念願かなって1971年(昭和46年)に社会教育課成人教育係に着任しました。
 最初の仕事は、「通信制幼児家庭教育学級」(通信制幼稚園)の担当でした。川崎市は、京浜工業地帯にあって戦後復興のため人口が急増して、幼稚園が不足していました。そこで、幼稚園教育の6領域のテキストを作成して、毎週家庭に郵送したのです。お母さんと子どもは、毎週日曜日公立幼稚園に来ていただき、子どもは幼稚園教諭による集団生活を、お母さんたちは、私たち社会教育課職員の手で家庭教育学級を行うのです。年間24回の長期プログラムで、学社連携のはしりの事業でした。
 後に市長になる高橋清学校教育の指導課長と、やはり後に教育長になる岩渕英之社会教育課長を私の両脇に助言者として迎えて、私が司会を行うのです。異動したてで何も知らない私が学級を担当するのですからとても乱暴な話なのですが、その分は自分で勉強しなければならないので、力がついたと思います。当時は、先輩からはほとんど何も教えてもらえない時代でした。この通信制幼稚園は、注目されて、NHK広島支局テレビのインタビューを受けたり、毎日新聞の雑誌『教育の森』に原稿依頼を受けたりしたものです。
 私は新婚ホヤホヤの時でしたが、毎週日曜日の出勤は苦にはなりませんでした。それどころか、川崎の遠隔地の有馬団地集会所で開催した出前講座の「成人講座」などは夜の7時から始まるのですから、いつも深夜帰宅となったものです。
 その後、自分が担当した幸区の市民館と図書館の複合施設「幸文化センター」に異動(80年)をしました。ここでは「平和教育学級」の開設のきっかけとなった「平和学入門」を「市民大学講座」で実施しました。高齢者教室では、「自分史づくり」を行いました。美術講座では日本画を取り上げたのです。
 数年後、私は前述した友人高須甫さんの急逝により、川崎区の産業文化会館教養課教養係(現、教育文化会館)に異動しました。ここでは、「人権尊重学級」で在日韓国・朝鮮人問題を取り上げました。市民大学講座では、「沖縄学入門」を開催しました。ここから私の韓国への関心が本格的に始まります。川崎区は在日韓国・朝鮮人と沖縄県出身者の多住地域なのです。
 「沖縄学入門」を企画するにあたって、産業文化会館学芸課(市民ミュージアムの前身)の学芸員の塚越正明さんに相談をしました。彼は、東京芸術大学の陶芸を専攻しており、浜田庄司や日本画の安田靭彦さんと親交を結んでいた方でした。私が陶磁器に関心があり、日本画が好きだというので、親しくしてくれたのです。余談ですが、私の祖父は三重県の四日市で「万古焼き」の窯元でした。重要無形文化財保持者(人間国宝)の浜田庄司(1894〜1978年)は川崎市の溝口生まれですが、沖縄の壷屋でバナードリーチと共に作陶の修行をしているのです。ここで沖縄と川崎がつながります。
 沖縄方言をプログラムに取り上げようとした私に、塚越さんは、「長さん、これを読みなさい」と貸してくれたのが、筑摩書房の「柳宗悦全集」の一冊でした。そこには、「沖縄語問題―国語問題に関し沖縄県学務部に答ふるの書」という柳宗悦(1889〜1961年)の論文が掲載されていました。言論統制・弾圧の厳しい軍国主義の時代に、柳宗悦は方言追放を推進する県当局に反論したのです。一時、柳宗悦は警察に拘束されます。この事件は1940年(昭和15年)のことです。
 しかし、柳宗悦の沖縄方言を守る論文にも増して何よりも私が驚いたのは、韓国の有名な1919年(大正8年)の3.1独立運動に関して、柳宗悦がそれを支持する論文をその年の5月に発表していることでした。それは「朝鮮人を想う」、「朝鮮人の友に贈る書」の2編です。1910年(明治43年)に日本は韓国を併合して植民地支配を行います。厳しい植民地政策が展開されている時代に、柳宗悦はそれに反対したのですね。
 柳宗悦の業績は、白樺派の文芸運動や民芸運動、韓国や沖縄、中国、日本の民芸品の蒐集保存、そして淺川巧(1891〜1931年)と共に開設した「朝鮮民芸美術館」、駒場にある「日本民藝館」の設立、などが高く評価されていますが、私は、言論弾圧と厳しい植民地政策が展開されている時に、総督府を鋭く批判する柳宗悦の人類愛の思想に何よりも高い評価をしたいのであります。
 柳宗悦は続いて1922年(大生11年)には、「失われんとする一朝鮮建築のために」という論文を発表しています。総督府は王宮の景福宮の正門である、光化門を取り壊そうと決定しますが、それに反対したのが柳宗悦でした。民族の文化財を破壊することは許されないと反対したのです。彼の論文は海外にも紹介され、反響を呼び起こし、ついに取り壊しはやめられたのです。私の韓国への関心は、柳宗悦を通して沖縄から韓国へと急に広がったのです。
 韓国のテレビドラマの「冬のソナタ」以来韓流ブームが続いています。私の知人のとんかつ屋の女将さんは、韓国映画、韓国ドラマにはまり、DVDを集めていましたが、最近ではハングルを学び出し、韓国にも旅行をするようになりました。「動機は何でもいい、切り口は何でもいいから、関心を広げよう!」、と私は国際理解教育の基本を説いていますが、まさに彼女はその見本です。グルメ、ショッピング、スポーツ、音楽、映画、歴史、など入口はたくさんあります。振り返って見れば、私自身ハングルを学ぶ時に『音楽で学ぶハングル』という本で「釜山港に帰れ」などの歌をとおして学んだものでした。
 私の最初の韓国訪問は、歴史と陶磁器への関心でした。1986年がアジア大会、1988年がオリンピックの開催ですが、その前の時期でソウルの街はいたる所で催涙弾のガスが漂っていました。民主化を求める学生運動が盛んな頃です。1987年7月には、後の13代大統領の魯泰愚(ノ・テウ)民生党党首が民主化宣言をします。
 川崎の文化財審議会委員の慶応大学の江坂輝弥先生に案内をお願いして、2度ばかり韓国歴史探訪の旅行を友人たちと組んだのが最初です。それまでは、軍事独裁政権が「民衆を弾圧する暗い国」というイメージでしか、韓国を見ていなかった私は、柳宗悦と焼き物を通して急速に韓国への関心が広がったのです。

4・在日の運動と私の社会教育実践
 そろそろ川崎の社会教育についてお話しなければなりませんが、教育委員会が主催する学習の場に在日韓国・朝鮮人が参加を始めたのは、1982年(昭和57年)5月に開設された、「社会人学級」が最初です。この社会人学級は、同年4月に開設された夜間中学校の「川崎市立西中原中学校夜間学級」を補完するために発足しています。夜間中学校が義務教育未修了者を対象に開設されたのに対して、社会人学級は義務教育の卒業証書はもってはいても、実質的に学ぶことのできなかった「形式卒業者」で、再度中学校程度の国語、数学、英語の学習を希望する人を対象に社会教育事業として開設されました。
 川崎市の夜間中学校は、1953年(昭和28年)に開設され、1965(昭和40年)まで続けられていました。その後中断していて、再開までの間は「川崎に夜間中学校を作る会」の手で自主夜間中学校が開設されていたのです。ようやく彼らの運動を受けとめた教育委員会が1982年から夜間中学校を始めたのです。
 社会人学級には、自主夜間中学校や西中原の夜間中学校で学んでいた在日韓国・朝鮮人の高齢女性(ハルモニ)1世が数名参加していました。文字を奪われた人々が、文字を取り戻し自分を表現するために学んでいたのです。1984年からは、カンボジアからの難民青年が社会人学級で学ぶようになり、国語コースから「日本語教室」が独立しました。在日のお年寄りが、真剣に学ぶ姿に接し、それまで突っ張 って生きてきた若者が頑張って学ぶようになるのです。
 1988年頃から急激に増加したニューカマーの登場により、日本語教室は各市民館や市民グループでも開設するようになりました。1990年の国際識字年を機に日本語教室は「識字学級」と改められ、ふれあい館、国際交流センターも含め、全市的に展開されるようになったのです。
 現在、7つの市民館では昼間のコースと夜間コースの識字学級を開設しています。昼間のコースは日本人と結婚して川崎に暮らす女性が多く、夜間コースは圧倒的に働く男性が多いのが特徴です。この学級の目的は、外国人市民の学習権保障をとおして、川崎の地での生活の質の向上に向けて、外国人市民の自立と自己実現をめざすものです。
 学級の運営は職員と日本語ボランティアとが協働で行い、学習支援はボランティアが行っています。日本語ボランティアは、市民館で開設したボランティア講座を修了した人々です。ボランティアと受講者の関係は、お互いに学びあう共同学習者です。現在全15学級(市民グループは除く)に1403人が学んでおり、国籍は53カ国にのぼります。またそれを支えているボランティアの登録は400人を超えています。
 ここで特筆すべきは、社会人学級が生まれた1982年に「川崎在日韓国・朝鮮人教育をすすめる会」が発足して、7月に教育委員会に要望書を提出したことです。この背景には、川崎市の桜本の「在日大韓基督教川崎教会」の李仁夏(イ・イナ)牧師が桜本保育園を開設(1969年)し、本名を名乗る運動を展開し、社会福祉法人「青丘社」(1973年)を設立したことがあげられます。そこでの学びをとおして民族の誇りを取り戻した人々が学校教育における民族差別に立ち上がり、違いを認め合う共生の教育を主張したのです。
 1985年には伊藤三郎川崎市長が「法も規則も人間愛を超えるものではない」との有名な発言をして、指紋押捺拒否者の告発をしないことを市議会で宣言しております。そして、1986年3月に「川崎市在日外国人教育基本方針〜主として在日韓国・朝鮮人教育」が策定されました。この間、すすめる会と市教委は19回の交渉を重ねています。1986年3月には「民族差別と闘う神奈川連絡協議会」(民闘連)が組織されています。
 また、1988年6月には彼らの願い(12回交渉)が実り、在日韓国・朝鮮人と日本人がふれあい、学びあうための施設で、児童館と公民館を併設した「川崎市ふれあい館」が開館しています。その設立までの過程では、子ども会や町内会が一時反対するという事態も起きています。私は「国際交流センター」の建設にも関わってきましたが、この時も、外国人に対する差別的な発言を投げつけたり、また、韓国・富川市との友好都市締結を強硬に反対する議員もいて、悲しい思いをしました。
 1996年に発足した「外国人市民代表者会議」は、市政への参加と同時に外国人市民が地方自治を学習する場、多文化交流の場となっています。その成果は、外国人市民への住宅入居差別をなくすための「住宅基本条例」の制定や多言語による広報紙の発行と公共施設への情報コーナーの設置などの実現となっています。

5.韓国・富川市との交流
 韓国の富川市との交流に話を移します。1991年にソウル大学の地域総合研究所からの調査団が川崎市を訪れます。その時の団長が李時載(イ・シジェ)聖心女子大学校(現カトリック大学校)の教授でした。聖心女子大学校は富川市にあります。彼はソウル大学卒業後、東京大学の大学院で社会学を専攻なさいました。そのころ川崎の桜本を調査したそうです。ソウル大学調査団は、その後3年間ほど毎年川崎を調査に訪れています。李時載教授とは、1991年に日本研究で来日したおり、私は社会教育や町内会の調査について援助したことが縁でその後今日までご厚情いただいております。
 その時、在日韓国・朝鮮人が多く暮らす桜本商店街と富川市の遠美(ウォンミ)市場との交流の橋渡しを李時載教授がなさったのです。友好都市交流の道筋を切り開いたのは、多様で実質的な市民レベルの交流の蓄積によります。行政レベルで言えば、川崎地方自治研究センターです。今まで、PTA,婦人会、美術、教組、剣道、サッカー、職員、川崎アカデミー、高校生、議会、商工会議所、などの交流が展開されています。
 富川市との友好都市締結については、友好都市締結をするかどうかを審議するために、関係局長で構成する政策調整会議が2度開かれましたが、2度とも流れました。高橋清市長は時々冗談を言います。1回目は、「北朝鮮と韓国と同時に交流できる都市は無いのか」、ということで流れました。2回目は、「中央政府と富川市の政権政党は与野党のねじれが出ているけど、問題ないのか」、という話でした。富川市との友好都市締結は、1996年10月に調印しました。7月に李海宣(イ・ヘソン)富川市長を迎え川崎市で仮調印、10月に高橋清川崎市長が富川市を訪れて本調印でした。、過去の歴史への民族的感情を踏また私のこの提案に対しては担当助役に反対されましたが、なんとか実現にこぎつけたのです。本年9月9日には、締結10周年を記念して、富川フィルハーモニック・オーケストラを川崎市に招きます。富川フィルは韓国でもトップクラスの交響楽団です。
 この時期は前述した1987年の盧泰愚(ノ・テウ)代表の民主化宣言により、1991年に地方議会復活し、1993年には初の民間出身の金泳三(キム・ヨンサム)大統領が誕生し、1995年には自治体首長の公選が復活して、本格的な地方自治が歩みだした時でした。そのため「自治体政策づくり」に向けて、韓国各地の自治体から連日のように、職員研修団が川崎市を訪れています。そのなかで、富川市はいち早く川崎のオンブズマン制度を1997年に取り入れます。まだ成功していませんが、「緑の富川づくり21実践協議会」(ローカルアジェンダ21)が「子どもの権利条例」づくりに取り組んでいます。〔2002年12月:子どもの権利条例づくり懇談会(伊藤長和・山崎信喜・小田切督剛、参加)、2003年3月:子どもの権利条例づくり懇談会(喜多明人・荒牧重人、参加)〕 海を渡る自治体政策の一例です。こうした、交流を支えているのは、友好都市締結で交わした両市の交換派遣職員(小田切督剛、等)の活躍です。その他、長澤成次先生にご紹介いただいた、光州市北区役所主催の「街づくりシンポジュウム」への参加や、光明市(聖公会大学校)との交流、カトリック大学校、ソウル大学校国際大学との交流などの広がりがあります。生涯学習による街づくりを目指す、「第4回全国生涯教育フェスティバル」への参加は、光明市と聖公会大学校との交流がきっかけとなり実現したのです。その前年(2004年)は、聖公会大学校の招待で私は北朝鮮の金剛山を訪れています。
 多文化共生社会の創造に向けた、外国人市民施策についてお話申し上げます。私が国際室に異動した時には、「民族差別と闘う神奈川連絡協議会」や、「外国人市民施策推進幹事会」の努力で24項目提言が出来上がっていまして、私が関わったのは、次の53項目の外国人市民施策提言です。ここでの強烈な出会いは、貼り紙事件です。民闘連と定期的に人数を定め話し合いをもっていましたが、ある日大勢の在日が押しかけるとの情報に、紳士協定に反するということで、会議室の扉に貼り紙をして会議をボイコットした事件です。その当事者は、すっかり悪役になっておりますが、私の知る限り、少なくとも在日問題や、歴史認識問題を市政の政策に採り上げた中心人物なのです。それから、私は市長と相談して密かに北朝鮮に米を送りました。その時誰がチクッタのか分かりませんが、自民党の市議会議員にバレて議員控え室に呼びつけられました。その時助けてくれたのは、高校の先輩でした。
 そうそう、川崎市看護短期大学の受験資格をめぐる「一条校問題」も外国人市民施策の大きな課題でした。政策転換をさせるため、私は署名活動を朝鮮総連に提案したのです。もちろんその署名アピール文は私伊藤が書いたのです。
 次に、「外国人市民代表者会議」について、お話申し上げます。「地方新時代・市町村シンポジウム」で私にマイクを向けないという約束を担当者と交わして、私は会場に出かけました。ところがシナリオできていたのです。李仁夏牧師から指名されたのです。「ここに国際室(後の国際交流課)の伊藤課長さんがいます。フランクフルトの外国人市民代表者会議を川崎でも設置できないだろうか、ちょっと聞いてみましょう!」と、発言を求められたのです。しまった、と思ったのは後の祭りでした。
 この外国人市民代表者会議を創設するために調査委員会を設置しました。最終段階で、条例設置か要綱設置かという決定をしなければならない場面です。篠原一委員長の意向を受けて、要綱設置に傾きかけた時、普段温厚な(猫をかぶっていた)「重度さんは、突然語気を荒らげて、条例設置でなければ、意味が無い、とおっしゃったのです。今思えば、条例設置だったからこそ、いまの川崎市の政権でも存続機能しているのですね。「重度さんに感謝。
 もう一つ、桜川公園の水門通りに、韓国の国花ムクゲの花を植えるという林充澤(イム・ユンテク)さんの要望が国際室に持ち込まれました。当然OKです。ところがその後、朝鮮総連の張柄泰(イム・ビョンテ)委員長が抗議に乗り込んできました。「韓国の国花は植えさせない」と。彼とは、何度か居酒屋に誘い出して、話し合いました。「それなら、共和国の大山レンゲも一緒に植えれば」と、私が提案してまとまったのです。
 彼とはそれから胸襟を開いて話ができる関係になったのです。もちろん、その後の外国人市民代表者会議の代表者数(南北同数)についても了解してくれました。ところがモデル会議を経ていざ本番となると、民団・総連の代表者は同数だが、青丘社は韓国に含めるべきだから同数ではないので反対だ、と突然彼は更迭されてしまいます。そして生まれたのがオブザーバー委員制度です。
 それから、国籍条項撤廃について、こんな思い出があります。水道庁舎の脇道の文房具店前で、ある職員に出会いました。すると彼は「長さん、高橋市長が国籍条項撤廃を発表した」と、眼にうっすら涙を浮かべて報告してくれたのです。途中大阪市が挫折してしまった時でした。男の涙は美しいとその時思いました。

6.まとめにかえて
 人権擁護に立ち上がった在日韓国・朝鮮人の運動に川崎市の労働組合の運動が連動して、人と人の信頼関係、結びつきが作り出された結果、内なる国際化と外に向けた国際化が自治体政策として川崎市で実現したのだと思います。当事者が立ち上がり、それを民主的な市民団体や労働組合が支援をしてきたことを強調したいと思います。「なぜ川崎で」、と問えば、川崎の社会教育実践による学びが、そうした運動を支えてきたからだと申し上げたいのです。最後になりました。TOAFAEC皆様のお陰で、幅広い人々との出会い、様々な経験と学びをさせていただきました。そして楽しい職場生活をさせていただきました。本当にありがとうございました。(拍手)


伊藤長和さん退職記念講演・お祝い会-二次会、合唱「沖縄を返せ」 (2006年4月28日、高井戸)






中国山東省・烟台に赴任する伊藤長和さん壮行会
  (TOAFAEC第149回研究会、2009年3月25日、東京・荻窪,)






 生と死、そして還暦     伊藤長和     
               (峰岸雑誌・2005年)

私も人並みに来春定年を迎える。「人並みに」と言うのには訳がある。よくぞここまでという意味が込められているからである。私は小学校に入学する前は、病弱な虚弱児であった。今は亡き両親も「この子が還暦を迎えるまで生きながなえるはずはない」、と思っていたそうである。私は五歳の時に肋膜炎を患った。戦後間もない物資の乏しい頃で、アメリカから輸入したとても高価なストレプトマイシンを一年間六二本打ち続け、私は一命をとりとめたのだった。

脇道にそれるが、私の絵画好きは、この頃病床にあった私にクレパスを持たせて絵を描かせてくれた母親のお陰である。当時山梨県の鳳来村ではクレパスを持つ子どもは私だけで、皆クレヨンを使っていた時代であった。今思えば、私が本好きになったのも、やはり病床の私に童話の本を読み聞かせてくれた母親のお陰だと思う。鳳来村は、父親が勤めていた三菱重工の工場疎開先で、私は母親の実家の愛知県の岡崎市で生まれ、その直後に連れて来られたのだった。

今でも思い浮かべるのは、私をおぶって遠く甲府の中央病院までバスで通う若き母親の姿であった。北に南アルプスの甲斐駒ケ岳、南に八ヶ岳に挟まれた釜無川沿いの山里の村には漢方医が一軒あったが、診療所はなかった。私を抱いて涙を流す母親の横顔が懐かしい。

小学校の入学も病弱な私を心配した両親は一年遅らすことを決心していた。私が住む鳳来村の松原から小学校のある鳳来村の鳥原までは一里程の道を歩かねばならなかったからである。しかし担任をしていただいた堀内久義先生が我が家を訪れ、「私が毎朝自転車で迎えにあがりますので、入学させて下さい。」、とお申し出いただいたのである。堀内先生の自転車の荷台で私は鳳来小学校に毎日通った。もちろん帰路は、級友たちと遊びながら歩いて帰宅した。堀内先生のご厚意は私の体力が回復するまで約一年間続いたのである。その堀内先生も今は他界されている。

学校生活はメキメキと私の体力を向上させて体も大きくなった。しかし毎年のツベルクリン反応はいつも陽転で、結局私は小学校の六年間、体育の時間は一人ポツンと見学をしなければならなかったのである。そう言えば、親族の中で私一人が頭髪が薄いが、これはたぶんストマイの副作用か他の人に比べ、人一倍浴び過ぎたレントゲン線の影響であろう。

最近知った話である。妻の君江から聞いたものだ。今はたった一人となった名古屋の叔母が君江に私との結婚を前にして語った言葉である。「長和は幼い頃は病弱だった。今でも手は震え、気が短いが、あれは死に急いでいる証拠だ。」「君江さんは定年まで長和が生きられると思わぬよう覚悟しておきなさい。」、と言われたそうである。結婚式前の喜びと期待、そして一抹の不安を抱く甥の婚約者に向けて、「そこまで言うか」、と私は思う反面、「良くぞ言ってくれた」と叔母の気遣いに感謝の気持ちを持ったのだった。これを聞いた時の妻は、やっぱり、目の前が真っ暗になったそうである。

そう言えば、もう一人私の健康を心配してくれた人がいる。職場の先輩の中野敏雄さんである。「長さんは長生きできないな。もう少し自分の健康を考えろよ!」「定年まではもたないぞ。」、と注意してくれた。酒と友人との語らいの好きな私は毎晩痛飲していた。その上連日、社会教育の研究会だの集いだのと飛び回りいつも深夜帰宅であった。遠距離通勤者の私はいつも慢性的寝不足人間であった。今でも私は昼休みの一○分間、午睡が日課となっている。先天性の高血圧による私の手の震えを見て、中野さんは私の健康を心配してくれたのである。中野さんの忠告は、私と中野さんと共通の友人であった、高須甫さんを亡くした直後だったこともあって、私はありがたく受け止めさせていただいたのだった。

もう何年も前のことであったが、心電図をとると、必ず普通の人と違う波形のグラフに疑問を持った私はMRIを撮影してもらった。年配の医師はフィルムを指差して説明をはじめた。「右の肺が機能していないね。たぶん幼児期の肋膜炎で石灰化した肺に毛細血管が育たなかったのだろう。」「その石灰化した肺が心臓を圧迫しているため、心電図の波形がおかしいのだ。」

「片翼の天使」という小説があるが、私は「片肺飛行の紳士」ということらしい。青年の頃から尿道結石持ちの私であるが、まさか肺までが、と愕然とする。病院からの帰りは鉄球をくくり付けられた囚人のような重い足取りであった。この上「石頭だ」、と言われたらどうしよう。

私は頑固で融通のきかないタイプではないと思う。意志(石)堅固ではなく、どちらかというと軟弱な性格なのだが、肺と腎臓は石ころだらけなのだ。「まあ、良くここまで生きてこられたものだ!」、と痛感する。感謝、感謝。

真っ暗な海だ。漆黒の闇。波の音だけが、そこが海だと主張している。深酒で目がさめた時は、一駅乗り越していた。江ノ電の七里ガ浜駅の次の鎌倉高校前駅で慌てて飛び降りた。惨めさ、哀れさ、愚かさ、に押しつぶされて、私は人っ子一人いないフォームの木製ベンチに身を投げ出した。 

しばらく暗闇の天空と海原の境をボンヤリと見つめ、水平線の位置を探った。

突然それは現れた。今は亡き人々がかわるがわる現れた。肉親、親族、堀内先生、高須さん、岩渕さん、碓井先生、…………そして多くの友人。次から次へと現れては消える。言葉は無いが、笑顔で私に手招きをしている。

 「おい、長さん遅いじゃないか、早くこいよ。」、とでも言っているかのように。
 「君が言っていたとおり、『ニライカナイ』はいいところだ。」「早く来たまえ。」
 「ニライカナイは、沖縄や南西諸島の民間信仰の神々の国で、神話の国だとばかり思っていたが、本当にあったんだよ、海の南のこちら側にさ。」
 「早く来たまえ。」
「まてよ、『補陀洛世界』を忘れては困るよ。」
 「補陀洛を教えてくれたのは、長さん、あんただぜ。」

「紀州や土佐の海から仏の国、補陀洛をめざして生き仏になるため、小さな箱舟で海上に乗り出した渡海僧のはなしさ。」「思い出したかい。」
 「その時俺は、悲しい話だ、と思ったし、宗教は残酷だ、と思ったものだ。」

 「そう、だけど補陀洛それがあったんだよ。」
 「観音様の国だ。極楽浄土だよ。」
 
「長さん、待ってるよ。早くこいよ。」
 「ニライカナイは隣の国だ。途中たち寄ったらいい。」「補陀洛で待っているぞ。」
 
 私は立ちあがった。黒い海をめざそうと。

 その時、上りの最終電車の音が響きわたった。私は、我にかえった。

思わず「皆さんありがとう、もう少し時間をくれよ。」、と私はつぶやきながら乗客のいない電車に跳び乗った。七里ガ浜の海は新田軍に敗れた鎌倉武士の霊が今も漂っている。

 還暦とは、十干と十二支の組み合わせによる干支が一回りするのに六十年かかることから、これを祝うもので、私の干支は乙酉(きのとのとり)である。論語の為政第二の巻の四章には、「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩をこえず。」、と書かれている。約二千五百年前の孔子の言葉である。孔子は、思想家としては聖人と崇められる第一級の人物ではあるが、政治家としては落ちこぼれであっただけに、この言葉のもつ意味は大きい。

それでは、「お前の人生はどうなのだ。」、と自分に問うことにする。孔子の人生観に達するには、未だ程遠い。絵描きになりたかった私だが、今度生まれてくるとしたら、古本屋の親父か、花屋の親父になりたいな、と私は答える。

役人生活としては恵まれていた。いろいろな政策形成に直接携わさせてもらったし、重要な仕事も経験してきた。仕事をとおして多くの職員、市民、研究者の知己も得た。多くの国々も訪れることができた。今では大学で若い人達に教える喜びを楽しんでいる。

社会教育という好きな仕事を定年までさせていただいたことに感謝しなければならない。そう、それと同時に、ここまで生きてこられたことへの感謝を述べなければならない。そして妻にも。
 「七十にして心の欲する所に従って矩をこえず。」、までは無理だとはしても、もう少し……。



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東アジア研究交流委員会  中日韓をつなぐ東アジア生涯学習研究ネットの研究会 
  後列
左端に代表の石井山竜平氏、2人目に伊藤長和さん (2011年1月29日、東京杉並・高井戸)





Y,伊藤長和さんを偲ぶ会(2014年4月20日)

 ご案内
 2014年2月16日(日)午後12時46分、伊藤長和さんは湘南鎌倉総合病院で逝去されました。
享年68歳でした。
 伊藤さんは、山梨県で小学2年生までを過ごし、その後、川崎市(現在の幸区)で成長し、美大進学を志すもご尊父の病により進路を転換、ロシア語選択と学生運動の勢いに惹かれて法政大学法学部に進みました。大学では、沖縄文化研究会・沖縄解放闘争その他で奮闘する一方、朝鮮大学の学生から刺激を受け母文化に開眼、「日本画研究会」創立に関わるなど、後の伊藤さんを先取りする多彩な活動力を示しました。さらに松下圭一氏のゼミで革新自治体の職員となる志を得て、1968年、川崎市役所に入所し御幸支所(現幸区役所)に赴任しました。
 ある日、友人に誘われ相模原市で開かれた社会教育推進協議会(社全協)の研究会に参加。待っていたのは焼き鳥屋での社会教育をご専門とする小林文人氏との半生を決する出会いでした。伊藤さんの社会教育への道が拓かれたのです。直後から社会教育職場への異動を模索。1971年に念願の教育委員会社会教育課着任となりました。
 初仕事の「通信制幼児家庭教育学級(通信制幼稚園)」ではNHKや毎日新聞などから取材を受け原稿を求められました。始めから広く耳目を集めた仕事ぶりは晩年まで続きます。人権・平和、在日韓国・朝鮮人をはじめとする外国人と日本人の共生、国際交流、社会教育・生涯学習の制度、計画等の政策、職員研修・育成など、社会教育施設や行政での公務、併行して行われた組合活動における自治研究・運動とりわけ市内での社会教育推進活動、大都市・政令指定都市社会教育研究、自治労としての社会教育政策づくりなど、さらに、社全協、社会教育学会、公民館学会などへの自主参加研究・運動と3つの領域いずれにおいても後塵を拝することのないような活躍ぶりでした。さらに、それまでの貴重な蓄積を後代の若い人々に託すべく教育にも情熱を傾けました。その情熱は日本女子大学、國學院大学、海を渡り中国烟台・山東工商学院へと及んでいきました。
 伊藤さんは健筆の人でもあります。『韓国の社会教育・生涯学習』、『日本の社会教育・生涯学習』、「川崎市における子どもの権利に関する条例制定の経過と意味」など著書・論文を多数ものにしました。硬い文もさることながら小林文人先生主宰の「南の風」に寄せていた「烟台の風」など柔らかなものは伊藤さんの人柄や知見にあふれ、まことに興趣に富んだものです。
 そのような伊藤さんですが、近年は「東アジア社会教育研究TOAFAEC(TOKYO-OKINAWA-EAST・ASIA FORUM on ADULT EDUCATION and CULTURES)」に代表される、韓国、中国への関心と活動の広がりが顕著でした。川崎から始まり沖縄、アジアへ。そして、さらに旅立っていきました。
 伊藤さんは離れた人々とも近しく交わりましたが、身近な人々をいつまでも大切にする人でもありました。そのような伊藤さんですから、旅立ちの見送りを近親者のみとする遺志を示されましたが、同時に、今回の幹事のような者たちが勝手に自分を囲む会を開くと望見していたに違いありません。幸いなことにご家族ご同意のもと下記のとおり「偲ぶ会」を企画することとなりました。
 伊藤さんのあの声が聞こえ、あの笑顔がはじけたような、明るい会にしたいものと念じています。
 皆様のご参加を心からお待ちしております。
          記
 と き:4月20日(日)午後2時〜(開場1時30分)
 ところ:武蔵小杉 ホテル精養軒  川崎市中原区小杉町3丁目10 電話044-711-8855
     JR南武線・東急東横線他 武蔵小杉駅 徒歩5分  www.seiyoken.com/?
 会 費:8千円
 申込み:同封のはがきを3月末日までにご投函ください
発起人:小林文人、「重度、星野修美、大下勝巳、竹野内千代子
幹 事 :中野敏雄、北條秀衛、寺内藤雄、山崎信喜、島田秀雄、小田切督剛


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追悼の辞    李時載(韓国・カトリック大学校名誉教授)
 
 私は韓国のカトリック大学校名誉教授である李時載(イ・シジェ)と申します。富川(プチョン)・川崎市民交流会の共同代表を務めております。本日は「伊藤長和さんを偲ぶ会」の席に私も当然出席し、追慕の御挨拶を申し上げるべきところですが、どうしても避けられない事情があり直接お伺いできないため、遠方から追悼の辞を送らせていただきます。
 昨年夏、伊藤さんが癌の手術を受け闘病生活を送っておられるとの知らせを聞きました。また、2014年新年の年賀状では、病院に通っておられるとのお知らせをいただきました。しかしこのように急にお亡くなりになるとは想像すらできませんでした。お亡くなりになったとの報に2月末の海外旅行中に接しましたが、礼を尽くしてお見舞い申し上げることもできず、心から申し訳なく又残念でなりません。
 私が伊藤さんと初めてお会いしたのは、1991年1月でした。当時韓国では30年ぶりに地方自治が実施され、川崎の先進的な地方自治を研究するため、私たちは川崎を訪ねました。その時教育委員会社会教育課におられた伊藤さんが日本の先進的な社会教育について情熱的に説明し、貴重な資料をくださいました。この研究がきっかけとなって、川崎市と韓国の富川(プチョン)市は1996年に友好都市協定を締結しました。伊藤さんは富川をたびたび訪れ、私が勤務していたカトリック大学校でも日本の社会教育について講演されました。伊藤さんは東アジア最高の社会教育の専門家、実践家として韓・中・日の社会教育関連の本を編集・著述され、私も富川市の社会教育について執筆いたしました。
 伊藤さんは、1996年に富川市と川崎市が友好都市協定を締結した当時、国際交流課長としてこの締結を担当されました。両市の執行部は友好都市交流に積極的でしたが、議会等から問題提起があったと聞いています。伊藤さんはさまざまな難関を何とか克服し、富川市と川崎市の友好都市協定締結を成し遂げたのです。
 両市の協定締結をきっかけに、公務員の交換派遣勤務、両市の市長と幹部たちの相互訪問、多様な市民交流が実現し、富川市と川崎市はこの20年間、もっとも模範的な国際交流を行ってきたと思います。こうした交流は、伊藤さんの誠実で粘り強い努力がなければ実現し難かったと私は思います。富川市と川崎市の交流の始まりを切り開いたのは我々の研究活動でしたが、これを制度という土台に据え付けたのは、伊藤さんの功績です。
 伊藤さんとは、個人的な友情も深まりました。伊藤さんが定年後に中国の烟台で日本語を教えている間に、私は彼の招待に応じて日本の自治体公務員やOBたちとともに、山東省を何日か旅行したことがあります。また、私が2011年に中国人民大学の交換教授だった時は、伊藤さんは北京を訪問して3泊4日間、私が滞在する大学のアパートで共に寝起きしながら北京市内を見て回りました。一緒にご飯を作り、夜遅くまで日本、中国、韓国の文化や歴史について談笑しました。
 振り返ってみれば、伊藤さんは人間的な誠実さ以外にも、文化的、詩的な情緒が豊かな、感性的な方でした。東アジアの人文、歴史、文学に造詣が深く、また情熱的な学究派でした。私は伊藤さんの生き様を通じて、残された私たちがどう生きるべきかを学んでいます。
 伊藤さんを喪った奥様、そしてお嬢様に心から慰労の言葉を申し上げます。御家族のもとを離れて外国で暮らしてこられた間にも多くの困難があったことと思いますが、今、伊藤さんが去ったあとが御家族にとってどれほど虚しいものであるか、想像することも難しいです。どうか、残された御家族たちが新たに力づけられ、しっかりと生きていかれることを願います。これが伊藤さんの願いでもあることでしょう。
 最後にもう一度、生前に富川市と川崎市の間の架け橋を作ってくださった、無限の友情をくださった伊藤さんに感謝しつつ、御冥福をお祈り申し上げます。






Z,伊藤長和さんの仕事、遺されたこと
      (TOAFAEC第206回研究会、2014年5月30日)


1,韓国研究フォーラム第50回記念:伊藤長和さんを語る会−ご案内(小田切督剛)
 (TOAFAEC 5月(第206回)定例研究会、韓国生涯学習研究フォーラムと合同開催
 TOAFAEC 副代表を長く務め、韓国生涯学習研究フォーラムの土台となった川崎市と韓国・富川(プチョン)市との交流の生みの親でもあった伊藤長和さん。
 2月16日にお亡くなりになり、4月20日に川崎の市民・職員が中心となって「偲ぶ会」を開きました。
 川崎での社会教育職員としての活躍、市民との厚い信頼関係、社会教育と学校教育をつなぎ、労組から「大都市のつどい」へと広げ、富川と川崎の国際友好都市交流を開拓するなど、いかに大きな役割を果たされたのか、いろいろな方からお話しいただきました。
 これを受けて、伊藤さんの原点である沖縄体験や、中国行きを決意した背景にある黄宗建(ファン・ジョンゴン)先生との関係など、東アジアでのスケールの大きな活動について、「偲ぶ会」だけでは十分語られなかったことがあるように思います。あらためて伊藤さんの独自の世界を語りあってみたい、それにふさわしい場は、まさにTOAFAECです!
 当日は、小林文人先生から伊藤さんとの40年をふりかえる長めのお話をいただいた後、川崎はもちろん、韓国、中国などで伊藤さんから刺激を受けてきたメンバーたちに、おおいに語っていただきます。
 伊藤さんの人生の多面的な拡がり、どの角度から見てもキラキラ輝くその魅力を再発見できる、そんな時間にしたいと思います。皆さま、ぜひお越しください!
○<韓国生涯学習研究フォーラム第50回記念:伊藤長和さんを語る>
日時:2014年5月30日(金)18時30分〜20時45分
内容:伊藤長和さんの仕事、遺したもの 伊藤長和さんを語る 
    1,中野敏雄「伊藤長和さんのこと、出会いなど」
    2,小林文人「伊藤長和さんとの40年」
     3,参加者それぞれの伊藤長和さんを語る
会場:東京杉並・高井戸地域区民センター 第1集会室 
    〒168−0072杉並区高井戸東3−7−5 TEL 03−3331−7841
    *京王井の頭線「高井戸」駅下車3分(環八を渡ってすぐ)
研究会後 21:00〜 伊藤長和さんへの献杯、懇親・交流会「イーストビレッジ」03-5346-2077
   *高井戸駅から徒歩2分 環八・神田川傍マンションビル(裏側)1階

2,報告 金宝藍(東京大学(院) 韓国生涯学習研究フォーラム) - Sun, 29 Jun 2014 15:52-
参加者:(敬称略・順不同)小林文人、中野敏雄、大下勝巳、小田切督剛、武田拡明、瀬川理恵、
遠藤輝喜、江頭晃子、桑原重美、島田和代、岩本陽児、山口真理子、李正連、金侖貞、ロク秋月、
郭珍榮、呉世蓮、松尾有美、金陽太(和光大学生)、金宝藍=記録(計20名)
お話:「伊藤長和さんの仕事」 中野敏雄さん(川崎市スポーツ協会・副会長)
     「伊藤長和さんとの40年」小林文人先生 
内容:川崎の市民・職員が中心となって行われた「伊藤長和さんを偲ぶ会(4月20日)」だけでは十分に語られなかった思いをじっくり語り合える「伊藤長和さんを語る会」が設けられました。TOAFAEC 副代表を長く務め、韓国生涯学習研究フォーラム創立に多大な影響を与えてくださった伊藤さんの国境を越えた活躍ぶり、その思い出を描くため、TOAFAECと韓国生涯学習研究フォーラムが共同して開きました。
 まず中野敏雄さん(川崎市スポーツ協会・副会長)から伊藤さんの主な経歴・職歴と、それと一緒に行われてきた「市民と共に地域課題を掘り起し、探求し続けた川崎市の社会教育事業」の流れについてお話をいただきました。
 伊藤さんは、社会教育の本質に対する強い思いを持って、いつも後輩職員たちに、「地域に出て行け!公民館は箱のなかに閉じ込められるものではない!地域に出て行って、いつも地域住民と直接出会って、みんなの声に耳を傾け、深く交流しながら学習要求をつかむべきだ!」と叫んでいた怖い先輩だったそうです。常に市民の立場にたって、市民の平和・人権・自治・生活・学び・つながりに、満身の力を込めてこられたことがよく伝わってきました。
 次に小林先生が「伊藤長和さんとの40年」を語ってくださいました。1970年代の出会いから始まり、社全協・調査研究部や社会教育学会での研究活動、川崎市の社会教育職員集団(教育支部=労働組合)組織など、研究と実践を横断するような活躍を鮮明に描かれました。とくに大都市社会教育の研究、韓国研究と交流、中国・東アジアの視点からの研究は、小林先生と伊藤さんの出会いがなかったら実現できなかったことであって、長い間ともに楽しく歩んできたことが社会教育の研究・運動の歴史のなかで一歩を画したこと、大切な仲間との出会いの大切さを改めて感じることができました。伊藤さんは執筆活動も旺盛に行ってきましたが、その中でも小林先生との共編著『韓国の社会教育と生涯学習』『日本の社会教育・生涯学習』を通して、さらに「仲間」というだけでなく、「兄弟」へと深まっていったそうです(小林先生はいつも、本の共同編集に一緒にかかわった人は“兄弟”だ、と仰います)。

 続いて、教え子のロク秋月さん(首都大学東京・留学生)から「伊藤長和先生への中国学生たちの追悼メッセージ」を紹介していただきました。伊藤先生から励まされた学生さんたちは、尊敬される先生であっただけでなく、ほんとうに大切な“友人”のような存在であったというメッセージが次々と続きました。また、ご自身で直接に日本料理も作ってくださったり、学生たちの将来をともに語り合ったり、旅行にも一緒に行ってくださったことなど、とても優しい先生であったこと。伊藤先生と一緒に過ごした時間がもっとも幸せな時間であって、先生と一緒にとった写真は宝物になったというメッセージなど、非常に心に響きました。職員や研究者にはとても厳しくて怖い先輩でしたが、学生や市民の方々には限りなくやさしい友人だったことがよくわかりました。
 それ以外にも、韓国からわざわざ足を運んでくださった瀬川理恵さんをはじめ、参加された皆様同士で伊藤さんとの思い出や伊藤さんの情熱と人柄を語り合いましたが…、それでもまだまだ語り切れず、その余韻は懇親会でもずっと続きました。「イーストビレッジ」では武田さんがもってきてくださった「偲ぶ会」表紙に載せられていた伊藤さんの仁慈に富んだ微笑みが映し出された写真を前に、皆さんの献杯から始まり、伊藤さんへの話りかけはより深まっていきました。
 伊藤さんが中国に行かれた切っ掛けを汲み取ってみたり、在りし日により多くの話を聞いておけばよかったという後悔もしたり、それぞれしまい込んでいた伊藤さんへの大切な思い出を語り合い、皆で楽しく共有しながら慰められる時間となりました。偲ぶ会で伊藤さんの映像のBGMとしてながれていた「アチミスル」と「友よ」を、今回は私たちが一緒に歌いましたが、一緒に歌っている伊藤さんの力強い声も聞こえるような気もしました。
 今回の「語る会」は、伊藤さんとの過ぎしの日の思い出を語り合う機会でしたが、同時に伊藤さんの志を継いでいく残された「私たち」のこれからの課題や役割と将来を考える場でもあったようです。人間と社会への愛情が溢れ、現場では市民の側に、学校では学生の側に立って頂き、つねに彼らの喜びと辛さを共にしながら支えてくださっていた伊藤さん、いつまでも職員・学生・市民たちを見守っていただき、その対話の時間がずっと続くことを信じています。







東京-TOAFAEC第175回研究会: 伊藤長和さん(前列・左端)の一時帰国を祝って。あわせて韓国より
 来日の梁炳賛・崔一先両氏(前列・中央)歓迎の集い 。 江頭晃子・撮影 (高井戸、20110818)






[,伊藤長和さん
との出会い、足跡を偲ぶ
               
    
小林 文人 (「東アジア社会教育研究」第19号、2014年9月18日)


 1973年−出会い
 伊藤長和さんが亡くなられて、すでに半年近く経つのに、まだ「伊藤さんの声」が聞こえてくる。よく通る大きな声、「皆さ〜ん」と呼びかける親しみあふれる声。いつまでも私たちの脳裡から消えないだろう。伊藤さん独特の声は、おそらく社会教育の仕事のなかで培われてきたに違いない。
 伊藤さんとは同郷・同窓でもなく、職場も違えば住処も近くない。私たちを結びつけたのは、それぞれの社会教育の道、それが偶然に交わったところでの、社会教育研究の語らいからであった。1970年代、小林は社会教育推進全国協議会(社全協)常任委員として主に調査研究部を担当していたが、相模原市での同研究会に初めて伊藤さんが出席された。多分1973年の夏か秋、大きな声でのご挨拶が印象的であった。伊藤さんは退職記念「自分史」を語る講演会(TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第11号所収、2006年→本ページ。上掲)で、小林が「駅前の焼き鳥屋に私(伊藤)を誘った」想い出を語っているが、とにかく大きな声量の、堂々とした自己紹介だけは強く記憶に残っている。それから40年余の歳月、二人は折々の機会に出会い、論じあい時に歌いあって、胆嚢相照らす仲を楽しんできた。

 大都市(政令指定都市)研究
 伊藤さんとの交流は、1995年をはさんで、前半と後半に分かれる。小林は東京学芸大学と1995年以降は和光大学の時代。伊藤さんは川崎市の社会教育行政に携わりながら、1993年〜1997年は教育委員会を離れて市民局国際室・総務局国際交流課長として活躍された時期であった。二人の友情だけではなく、当方はよくゼミの学生や留学生を連れて川崎にお邪魔し、また伊藤さんを介して、故岩淵英之さん(市教育長)をはじめ多士済々の皆さんとのお付き合いを頂いてきた。大都市ならではの社会教育の計画・事業・実践、地域からの国際交流、とくに韓国との草の根の自治体(富川市)提携など、川崎から多くのことを学んできた。伊藤さんを起点として出会いが始まり、拡がり深まっていった経過であった。
 たくさんの出来事が想起される。前半の流れでは、なんといっても「大都市(政令指定都市)社会教育」研究に共同して取り組んだことが忘れられない。日本の社会教育研究は、農村や中小都市を舞台に展開してきた傾向があり、1970年代まで大都市研究はほとんど未発の状態であった。この時期、経済高度成長政策がもたらした都市膨張があり、その反面、大都市に共通して公的社会教育の条件整備水準は(人口規模から考えると)貧弱なレベルで推移していた。むしろ政令指定都市化によって施設委託(北九州市)や公民館主事嘱託化(福岡市)など社会教育の公的体制が解体しかねない動きが憂慮された。前記・社全協調査研究部による北九州・福岡市問題への挌闘が始まり、これに日本社会教育学会・日本教育法学会「条件整備研究」の動きが重なり、そして川崎市職員労働組合教育支部と当時の自治労(大都市)教育支部・自治研活動との出会いがあった。民間社会教育運動と学会研究活動と労働組合の「三つの出会い」が注目された。川崎市職労教育支部「社会教育施設部会」(支部長・伊藤長和)による全都市社会教育調査(行財政・施設・職員等)、各都市の比較分析については、画期的な調査報告がまとめられている(『大都市社会教育行政をめぐる状況−政令都市社会教育実態調査報告書』全日本自治団体労働組合、1983年)。その牽引役を担った伊藤さんの高揚感をいま思い出す。
 この「三つの出会い」は、1978年秋から(日本社会教育学会研究大会と連動して)スタートした「政令指定都市の社会教育・研究と交流の集い」のなかで論議を深めることになった。名称はその後「大都市の社会教育」と解消されるが、大都市職員労働組合)間で事務局を分担しつつ毎年開催され、2013年度で第36回「集い」の歴史を刻んでいる。振り返って、1978年の発足から1983年の全都市調査への、伊藤長和さんと川崎市職労教育支部の努力がなかったら、今日にいたる大都市研究「集い」の歩みは、現在と異なるものとなったに違いない。(『大都市の社会教育研究と交流の集い・20周年記念誌−日本型"WEA"の創造にむけての歩み』神戸大学社会教育研究室発行、1998年。記録・証言が収録されている。→■

 韓国研究、TOAFAECの活動
 日韓間の画期的な自治体「友好都市」−川崎市と富川市(京畿道)−締結は1996年秋、伊藤さんは川崎側の担当課長として大きな役割を果たされた。その記録は「川崎の社会教育と韓国との交流」(前掲・自分史、2006年)に詳しい。伊藤さんの韓国への関心は、社会教育関係者のなかでまさに先駆的、「韓国との交流」は人生後半を貫く主テーマとなり、そこにかける情熱は並々ならぬものがあった。
 はじめて二人で韓国を訪問したのは1992年「日韓社会教育セミナー」(第3回、大邱)参加であった、このとき伊藤さんはまだハングルをあまり話さなかったと記憶している。その後、翌93年の第4回セミナー「川崎集会」では責任者の一人として盛大な集会を成功させた。この年から足かけ5年間、川崎市国際交流担当のポストにあり、この間にハングル習熟は長足の進歩をとげた。
 そのころ小林たちは、沖縄研究から東アジアに視野を拡げ「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)」を創立(1995年)。ほぼ毎月開いた研究会例会に、伊藤さんは多忙のため、当初あまり出席がなかったが、数年後(1998年5月研究会など→写真■)には毎回出席の常連メンバーとなり、2001年度よりTOAFAEC 副代表をお願いすることとなった(TOAFAEC記録→写真■)。代表は小林、常任委員に大学関係者が多いなか、自治体・行政現場から東アジアとの研究・交流を担い、豊富な日韓交流の実務経験が期待された。もちろん無給、というより「維持会員」として特別の負担を毎年お願いしてきたのである。
 TOAFAECの活動を通して、私たちには韓国「平生教育」についての本格的な出版への思いがあった。もちろん本邦初の試み、執筆者・翻訳スタッフの実情を考えると難事業である。企画は、2002年冬の(おそらく)大都市研究会・忘年会の席で始まったと記憶している。お酒の勢いもかりて、「韓国・平生教育」の本をつくろうという小林の夢の提案に即座に賛同したのは伊藤さん、同席の大学関係者の逡巡・困惑の表情と対照的であった。その夜ソウルに電話して、韓国社会教育界の長老・黄宗建さんに共編者として参加をお願いし、編集作業が始まった。こうして5年越しの作業が実って、黄宗建・小林・伊藤共編『韓国の社会教育・生涯学習−市民社会の創造に向けて』(2006年、エイデル究所→■)出版が実現したのである。刊行を目前にして、黄先生が急逝された悲しい思い出も蘇る。→■
 伊藤さんの勇気が小林の夢に結びつき、難航の末、本が完成したときの喜びは格別のものがあった。この本が契機となって、4年後に韓国へ向けて小林・伊藤・梁炳賛共編『日本の社会教育・生涯学習−草の根の住民自治と文化創造』(ハングル版、ソウル・学志社刊、2010年→■)を出版することができた。日本社会教育を韓国に向けて体系的に紹介する理論書として、これも初めての試みであった。その日本語版が同書名で2013年に刊行された(小林・伊藤・李正連共編、大学教育出版)。共編者は"義兄弟"の喩え、伊藤さんと小林は深い契りを三度結んだことになる。


小林文人・伊藤長和・梁炳賛編「日本の社会教育・生涯学習」(ハングル版) 出版記念会(韓国・大邱、2010年10月7日)
 卓上に故黄宗建氏の遺影、前列右より2人目に編者・伊藤長和氏、4人目に金信一氏 (元副総理、教育人的資源部長官)


 中国・若者たちとの交流
 小林は研究通信「南の風」を1998年から発行してきたが、伊藤さんは最も熱心なメンバーであった。お互いに誘い合いながら、韓国(大邱・富川・光明・済州島など)だけでなく、ドイツ、エジプト、内モンゴル、上海、沖縄などを旅してきた。その記録はすべて「南の風」に収めている。しかし、伊藤さんが(川崎市退職後)日本語教師として中国に渡ることになろうとは想像だにしなかった。
 1997年頃より上海・閘北区「業余大学」関係者とTOAFAECとの間に日中合作の学院づくり構想が進められ、あと一歩のところで実現にいたらなかった(2001年→■)。その経過を伝え聞いて山東省烟台に「烟台本州日本語学校」が開校(2003年)した際、小林は名誉校長となり、学校紹介や教師募集記事などを「南の風」に掲載してきた。韓国との深い交流を重ねてきた伊藤さんは、さらにジャンプして、烟台日本語学校への赴任というかたちで中国行きを決意された。学校側と直接に交渉が進んでいることを知らず、2008年11月のある夜、藤沢に招かれた食事の席で「実は来年4月から烟台へ…」の話を聞き、びっくり仰天。
 事情があって烟台日本語学校は翌2010年に閉校となり、伊藤さんの中国生活は2年目から山東工商学院外国語学院・外国人教師(日本語担当)として晩年3年を勤務された。三顧の礼をもって迎えられた人事と聞いている。1年目の日本語教師としての評価が高く、名声は響きわたったのである。その後の教師生活、研究関心、若者との交流、エピソード等は、「南の風」に送られてきた「烟台の風」(全309本、帰国後の闘病記録など16本→■)に詳しい。
 「伊藤老師」としてどのような仕事をされたのか。素晴らしい教師!の一語に尽きる。日本語だけでなく日本の文化を伝えること、現代中国の学生との積極的な心の交流、若者たちに寄り添い親身になっての相談役、それらの細かな実像を「烟台の風」は伝えてくれる。川崎市社会教育に関わる熟達行政マンとしての経験、学会参加等を通しての研究的探求心、東アジアにつながる国際的な感覚、加えて中国生活4年にわたる教師としての見識と人間愛、それらがさらに結び合って、これから新しい活躍の舞台が始まるというときに、伊藤さんは逝ってしまわれた。

 伊藤さんの大きな声
 伊藤さんは晩年、日本でゆったり老後を過ごす道ではなく、中国へ渡って教師として新たな活動を始める選択をされた。ご家族は中国行きに必ずしも賛成ではなかったと聞くが、伊藤さんの「青雲の志」に似た思いは小林には通じるところがあった。しかし歓送の席で「伊藤さん、中国へ行く以上、やはり2年は頑張ってほしい」と言ったことをいま悔いている。実際には2年でなく4年も頑張られた。その間には恐らくいろいろ苦労があり、異国での緊張やストレスも重なったに違いない。まわりとの信頼関係をとくに大切にしてきた人だけに、国を超えてのお付き合いは誠実すぎるほど尽くされたに違いない。1年目に、いやせめて2年が経ったときに、伊藤さんの帰国運動を提唱すべきであった。
 年の順でいけば、ほんらい伊藤さんに追悼文を書いてもらいたかった。今はそれも叶わぬこと。せめて夢のなかで「伊藤さんの大きな声」を聞きながら、これからの励みにしたい。過ぎし40年にわたる歳月を思い、感謝と敬意を捧げ、誠実・果敢な人生に心からの拍手!をお贈りします。




韓国・慶州にて(20101009)

TOFAEC副代表・伊藤長和さんを偲び語る会 (韓国研究フォーラム50回記念) .ー高井戸、20140530−  →■



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