上原信夫氏証言記録
    (TOAFAEC定例研究会、「南の風」収録、記録者・石倉祐志・遠藤輝喜)








                        第113回研究会(20051209)



■第102回研究会:上原信夫「アジアを駆けぬけた私の戦後史」(1)
                    −生い立ちから戦争体験へ

日時:2004年11月26日(金)18:30〜20:50
於:高井戸地域区民センター第1和室
テーマ:「アジアを駆けぬけた私の戦後史」(1)
報告:上原信夫氏(NPO・日本中国留学生研修生援護協会・理事長)
参加者:上原信夫、比嘉徹、鍵村修、上里佑子、中山侑義、包聯群、遠藤輝喜、山口真理子、小林文人、石倉祐志

 上原さんのお話には圧倒されました。明治・琉球処分へのレジスタンスだった祖父、そういう人を受け入れた奥(国頭村・沖縄島最北端の)の集落、ブラジル移民がかなわず満蒙開拓青少年義勇軍へ入った話、ハルピンでの反満抗日、被抑圧者の連帯を知り医学を志した話、関東軍に入隊し南下して宮古に上陸、宮古島の住民に「やんばる班長」と信頼されグラマン機との過酷な戦闘に生き残った話。これらを興味深いエピソードを織り交ぜて2時間以上の間、疲れも見せずに語られたのでした。
 お話は生い立ちから1945年までで時間切れとなりました。実はこの後のお話が更に期待されるのです。1947年沖縄初の政党「沖縄民主同盟」青年部長となり、その後沖縄を離れ紆余曲折を経て中国へ…。中国滞在40年余りを経て、ようやく1974年に日本へ。続きのお話を聞く機会をぜひ設定したいものもの。1月定例研究会でできないか現在調整中です。以下の記録は、ご本人の確認(修正)をお願いしなければならない部分がありますが、まずは「風」記録として作成しました。長文になりますが、ご了承下さい。

●「アジアを駆けぬけた私の戦中・戦後史」(1) 
語り:上原信夫、聞き手:小林文人(2004.11.26高井戸区民センター)
○明治政府へのレジスタンスだった祖父と祖父を受け入れた奥
 私はなぜ奥(国頭村・沖縄島最北端の集落)に生まれたか。明治政府に抵抗した兄弟が那覇にいた。その兄弟は薩摩の屯田兵から逃れて山原に逃げ込んだのだった。最初は国頭の浜という集落に逃げた。兄は美しい字を書いたので「墨学問がある」と言われ国頭間切の吏員となり、宮城家の婿となった。自分の祖父である弟は奥まで逃げた。首里から山原に逃げて住んだ屋取(ヤードゥイ)、奥では差別されずに普通に住むことができた。(註:屋取とは王国時代に首里や那覇の士族が沖縄本島各地に移住・帰農したこと。その集落を屋取集落という。)奥には色々な所から流れてきた人が住んだ。奥の共同店は、兵役で九州に行き炭鉱の消費組合を学んで帰った人たちが作った。奥は、新しいものを受け入れ、差別をしないという土地柄である。父は製材所を作った。が本土の商品に押されて倒産した。
○ブラジル移民かなわず満蒙開拓青少年義勇軍へ
 当時は沖縄経済が悪化し農業は疲弊。次男以下は家を出されることも多かった。高等小学校2年?のときブラジル移民に加わろうとした。ブラジル移民も制限が厳しくなってきていたが「呼び寄せ移民」ということで応募した。しかしその希望はかなえられなかった。沖縄県庁で初めて募集された満蒙開拓青少年義勇軍に応募したら、無試験で合格となった。茨城の内原の訓練所に入った。ここには徳田球一の弟がいて沖縄の人を探しているということで知り合いになった。青少年義勇軍では幹部訓練を受けた。満州国の官吏の半分はその中から出すとのことだった。
 渡満は13歳。満州ではハルピンの訓練所に入った。ハルピンは白系ロシア人が作った美しい街。満州国は部長(大臣)や知事は中国人だったが、実権を持つ副部長、副知事は日本人だった。訓練所で習ったことの中には石原莞爾の思想的影響が強く見られた。旧満州国とその支配の論理は支離滅裂なものであった。
○反満抗日、被抑圧者の連帯を知り医者を志す
 1939年14歳の正月に、街で反日ビラをもらった。表は中国語で裏は日本語。内容は中国、朝鮮、琉球が日本帝国主義の犠牲となっており、反日闘争の兄弟として連帯を呼びかけるというもので、反満抗日司令ヤンチンユエ?によるものだった。彼は中国共産党満州支部の軍指令だった。
 私は、このビラを小さく折りたたんで上着のポケットに隠し持ち歩いた。天皇制に対する疑問が生じ、おりしも紀元二千六百年(1940年)を迎えようとしていたが、中国史を調べてその矛盾に気づかされた。秦の始皇帝は天皇より古いではないか。そこで奥地へ馬に乗り銃を携えて約2週間、反満抗日の軍に会いに行った。あちこち探したが会えず、ある人にまだ子どもだからと返れと諭されて帰った。その後「兄弟」に役立つ仕事がしたいと思い、医者を志した。義勇軍は転職を認められていなかったが、ハルピンの秋林百貨店の近くに新設された義勇軍病院にコネをつけて見習いとなり、成績優秀だったので、訓練所長加藤完治のはからいで兵役が終了すれば医者の勉強をさせてやる(ハルピン医科大学へ入学)ということになった。
○関東軍に入隊し南下して宮古に上陸
 そこですぐ兵役に志願し、吉林で関東軍に入った。太平洋戦争急をつげ1944年の関東軍南下策により、釜山、呉、桜島を通って南進したが、宮古島でそれ以上進めなくなり上陸することになった。人口4、5万の島に約2万の軍隊が駐留したのである。食料を自給しなければならず食料を生産する「自活部隊」の班長に任命された。私は畑を接収された農民が「この畑は命です」と言って抵抗するのを目の当たりにした。私は軍が島民の家畜や財産などを盗むことに抗議したため、島民の間ではしだいに有名になった。軍は海上特攻隊として、あかつき部隊を組織した。
 軍用車のエンジンと爆弾を使ってベニヤ板で特攻用の舟艇を作る計画を立てたが、設計図も技術も無く米軍仰撃には間に合わなかった。本土から最後の輸送船が来た。乗員の中に朝鮮人軍夫200人がいた。この船を陸地に座礁させた後、人力で積荷を陸揚げするための要員だった。積荷には航空用ガソリンや連合国製の機関銃があった。私は、この機銃を船に据え付けて、米グラマン戦闘機の攻撃に備える部隊の指揮官に任命された。部隊は各隊で不要となった兵の寄せ集めで、中には3回以上も徴兵され、子どもも多い四十代の人らもいた。輸送船でもたらされた酒を飲ませて話を聞くと、徴兵に対する怨嗟の声が噴出した。機関銃を操作できるのは私だけだった。勝ち目はほとんどなかったが「おれが必ず敵機を撃ち落して守ってやる」と言って、部下の兵士を鼓舞した。人殺しはしてはならないと本当に思うが、兄弟である朝鮮人軍夫も守らなくてはと思った。
○「やんばる班長」は死なず
 グラマン戦闘機がやってくると周囲にいた弾帯を持つ係りの兵士などはあっという間にやられてしまった。私は機関銃を何発か撃ったがすぐに周囲の炎に目をやられてしまった。船は沈み、意識もほとんどなく誰かに押し上げられて何かにつかまることができ、かろうじて浮いていた。
 長い時間がたって海軍の船が助けに来た。野戦病院では生死の境をさまよった。たくさんの人が歌を歌っていたのをおぼろげながら記憶している。見ていた人によれば私はグラマンを2機か3機撃墜したということになっていた。当時「やんばる班長」とよばれていた私は島民に信頼があり、しかも敵機を2機撃ち落したというので英雄扱い、野戦病院でも破格の待遇を受けた。多くの人が輸血をしてくれたし、意識のない私に海軍秘蔵のウイスキーを飲ませて気付けをこころみたり、皆で歌を歌って私を元気付けようとしたということだ。自分でやっと動けるようになったころ軍の使者が来て、私は二階級特進して少尉となった上に金鵄勲章を授与されるとのことだった。しかしその後に待ち構える過酷な運命について、私は全く知るすべもなかった。時は1945年だった。
*【南の風】第1381号(石倉祐志、Sun, 28 Nov 2004 21:43)



■第104回研究会:上原信夫「アジアを駆けぬけた私の戦後史」(2)
                         −戦後の沖縄へ−

日時:2005年1月28日(金)18:30〜21:00
於:永福和泉地域区民センター第4集会室
テーマ:「アジアを駆けぬけた私の戦後史」上原信夫氏が語る(2)
はなし:上原信夫、聞き手:小林文人
参加者:上原信夫(日本中国留学生研修生援護協会理事長)、羅建中(作曲家)、田畑晶吾(名護市教育委員会)、上里佑子(日露歴史研究センター)、比嘉徹(調布市在住)、トックタホ(都立大・院)、小林文人、石倉祐志(TOAFAEC 事務局)

 上原信夫氏の語りの「その1」は、昨年(2004)11月の102 回研究会で、生い立ちから1945年までのことでした(風1381号に報告)。今回のお話は、同年の宮古島から始まりましたが、泉のように話が湧き出てきて1946年で時間切れとなりました。
 宮古で手柄を立てて英雄になった上原青年は、軍に略奪される農民をかばったことなどが反抗的とされ、突然、部隊長から死刑を宣告され逃亡。農民に匿われて終戦を迎えた。ようやく1946年1月、密航船で沖縄本島へ向う。緑豊かな南部の山々が、艦砲射撃で真っ白に変わっていた。馬天の港あたり上陸寸前に米軍の監視船に捕まる。逃亡兵なので身分を証明するものがなく監獄に入れられそうになるが、ゴミに潜り込んで収容所を脱走し、故郷の国頭村・奥に辿り着く。家族は無事だったが多くの親戚知人が亡くなっていた。
 集落の青年たちの心は荒廃しきっていた。そこで青年文庫をつくり青年会活動を始めた。この動きは国頭から名護まで広がっていった。次に農民の自給自足(自食)運動に取り組む。衛生上の理由で禁止とされていた屋敷内での豚の飼育を当時の沖縄民政府に直訴して事実上認めさせるのに成功、絶えていた在来種の黒豚の飼育を再開した。1946年5月、立ち入りを禁じられていた南部へ、一人で調査に出かけた(約2週間)。集落はまだ無人で収容されないままの白骨があちこちに見られた。その後、米軍に逮捕される。
 今回はここまで。1947年の沖縄民主同盟結成などメインディッシュの話はまだこれからです。さらに折りを見てその後のお話を聞く機会を設けることになりました。宮古島での死刑宣告と逃亡生活にまつわる戦後30年後の関係者との再会や、関連して頭山満や孫文などについての話は多岐にわり、圧倒されるものがありました。
 終了後の交流会は西永福メープル食堂に移動。上里佑子さんのパートナー上里一雄さん、さらに小林冨美さんも加わって、ビールで乾杯。
*【南の風】第1412号(石倉祐志、Tue, 1 Feb 2005 00:10)



■第113回研究会:上原信夫「アジアを駆けぬけた私の戦後史」(3)
                        −沖縄民主同盟前後−    

日時:2005年12月9日(金)18:30〜20:30  
於:高井戸地域区民センター第5集会室
テーマ:アジアを駆けぬけた私の戦後史(その3)
おはなし:上原信夫氏 聞き手:小林文人氏
参加者:澤麗子、加藤賀津子、天田美保子、小林茂子、栗山究、岩本陽児、上里祐子、
    トクタホ、遠藤輝喜、山口真理子、上原信夫、小林文人、石倉祐志
 3回目を迎える上原信夫さんのお話は、前回から1年進み1947年まで来ました。簡単にまとめると…・・・。
 この1年の間に、青年を中心とする農民自給運動に取り組んでいた上原青年は、当事立ち入りが禁じられていた南部を彷徨ってある考えを得た。夜は遺体の転がる中に寝た。そうしながら帝国主義とはなんだろうかと考えた。満州にいた14歳のとき中国の反満抗日の「匪賊」が語ってくれたことはこういうことだったのか。帝国主義が遅れた国を侵略していく様がこれなのだ。南部でMP(米軍の憲兵)に逮捕されて収監されてしまう。反抗的だったため「減食」されて立てなくなるが、囚人仲間に助けられ回復。不思議な偶然から、身元を引き受ける人が現れ出獄。
 山原に帰った後、大宜味で山城善光に出会い意気投合した。桑江朝幸が持ってきた謄写版で、苦労して機関紙を発行し二千部を沖縄じゅうに配布した。1947年4月ごろ知念で、当時の生き残った著名人を調べて約30人を集めて第1回沖縄建設懇談会を開催、これを経て同年7月、仲宗根源和を主席に立てて「沖縄民主同盟」結成に至る。沖縄民主同盟は、少し遅れて結成された階級闘争論の人民党とは違い、沖縄には啓蒙がまず必要という段階論を取った。しかしその思いは琉球共和国樹立だった…。ここで時間が来ました。
 沖縄民主同盟の結成は1947年6月とする資料もありますが、上原さんは自然に「7月」とおっしゃいました。沖縄民主同盟結成の場所が、その後1959年に米軍機墜落の惨事が起きた石川の宮森小学校の校舎だったというのも驚きでした。1946年死体が放置されていた沖縄南部を彷徨ったことで、帝国主義に対する考えが固まっていったいうお話に、歴史の中に生きる人間の姿を見た思いでした。
 終了後の忘年会はイーストビレッジから予定を変更して和(かず)という店で行いました。今回は初参加者が3人。久々のの顔も見られ楽しい「望」年会になりました。上里祐子さんの歌った「芭蕉布」もなかなかでしたよ。(石倉祐志、Mon, 12 Dec 2005 00:12)
*【南の風】第1574号(石倉祐志、2005年12月12日)収録
                                ▼第113回研究会(高井戸)20051209




■第118回研究会:上原信夫「アジアを駆けぬけた私の戦後史」(その4)
                               −弾圧と密航−

 <第118回TOAFAEC(5月)定例研究会報告>
日時:2006年5月26日(金)18:30〜20:30
於:高井戸地域区民センター第5集会室
テーマ:アジアを駆けぬけた私の戦後史(その4)−密航で沖縄脱出1950年−
おはなし:上原信夫氏 聞き手:小林文人氏
参加者:小林文人、丸浜江里子(交流会のみ)、石倉祐志
今回は、上原信夫さんの聞き取りの4回目。1949年前後のお話が中心となりました。
○山城善光、桑江朝幸の高等軍事裁判(1948年)
 沖縄民主同盟の機関紙「自由沖縄」は、民主化を促すという趣旨で民政部の了解を得ていた。苦心して刷った2000部を配布し始めて4日目に「軍法違反、秘密出版」で逮捕状が出た。山城善光、桑江朝幸は捕まり私は国頭に逃げた。つかまった二人は高等軍事裁判にかけられることになったが、政党責任者の立ち会いが必要とのことで、危険だったが私が出た。裁判は「大城ちよ」という裁判所の通訳が何とかとりなし罰金刑60ドルで決着した。その後大城の家で命拾いのお祝いをした。
○国頭村議会議員に
 その年、国頭村議会議員選挙では私は選挙運動も何もしなかったが最高点で当選した。知らせが来たとき、私は「まだ23歳なのに」と言ったが、政権をとったら満18歳から選挙権を与え、被選挙権は23歳からにしようといわれ、それ以降、村会議員をかねることになった。
○弾圧と密航(1949年年)
 1949年ころは、講演会、各党共同演説会などに出た。バスを降りると「上原先生、所長が用事です」とCIC(米軍防諜機関)が待っている。7〜8月ころからバス停の1、2里手前から降りて歩くことにした。当時は配給物資不足、食料値上げで、私はその関連で暴露演説をしたが、いつ逮捕されてもおかしくない状況だった。本部(もとぶ)で講演会があったとき、私は山城と兼次佐一宅に泊まった。そのとき極秘にヤマトの密航船に渡りをつけて乗り込んだ。沖縄を出ようということは、「自由沖縄」発行事件以降、計画していたことだった。四国を経由して大阪へ、その後すぐに共産党に入党した…。さらにシンガポールをへて、香港そして中国へ入国。日本国籍を離れての中国生活が始まった。
○後日談:1974年の帰国の経緯
 その後、沖縄では山城善光らは「上原は死んだ」と思っていたが、読谷の電波傍受施設「象の檻」の職員が中国ニュースを聞いて、上原は北京にいるということをつかんだ。これをきっかけに平良幸市知事らも加わって署名活動が行われ、中国の周恩来首相に渡した。日中国交回復の頃だったが、上原は国籍も戸籍もなく、父も家族もおらず、そのまま日本大使館へ行ったら出入国違反で逮捕される恐れがあったので、私の戸籍探しからはじまった。
 1974年にようやく帰国。そして沖縄へ、山城らと感激の再会をした。
那覇の料亭で50名ほどで歓迎会をしてくれた。しかし宴たけなわのとき、別室に移され人払いしたうえで、「すぐ帰れ」と言われた。「沖縄の証言」にも載っているが、地下で知事暗殺計画の情報が流布されていて私はその首謀者として捕まるかもしれなということだった。私はすぐに沖縄を離れることになった…。(以下、次回)
○今回は参加者が少なかった点が反省です。しかしどこまで行っても興味が尽きないお話。録音もしており、上原信夫氏の語りはまだまだ続きます。交流会に駆けつけてくださった丸浜江里子さんに感謝!
*南の風1665号 2006年6月15日(石倉祐志、Thu, 15 Jun 2006 01:52)


                             ▲第118回研究会(20060526)



■第124回:上原信夫「アジアを駆けぬけた私の戦後史」(その5)
                     −香港、そして中国へ
             
 <第124回TOAFAEC定例(12月)研究会−馬頭琴演奏の忘年会> 
日時:2006年12月22日
場所:高井戸区民センター 第3集会室
ゲスト:上原信夫「アジアを駆けぬけた私の戦後史−証言−」(5)、聞き手:小林文人
参加者:上原信夫、小林文人、石原静子、上里祐子、伊東秀明、岩本陽児、青山真理子、遠藤輝喜、(忘年会のみ参加:トクタホ、セーンジャー、山口真理子、上里一雄)

〇「密航」−1950年ストックホルム第1回世界平和大会へ向けて、沖縄問題(アメリカ極東戦略下の基地問題、生活苦他)を報告するための密航計画。沖縄・香港を経てシンガポールへ。そこで英国海軍に拘束され香港へ強制送還。香港の新聞社「大公報」の食客を経て、51年1月ごろ香港から中国へ脱出(その後1974年まで中国で生活)。
○当初は北海道から樺太、モスクワそしてストックホルムへのルートを考えたが、北海道は警戒が厳しく南の路線へ。パスポート、ビザもない無国籍の旅が始まる。
○香港までの台湾海峡は米軍船がうようよ、そのなか沖縄の小さな漁船で香港まで行った。フランス船のコックと仲良しになって、フランス行き便のコック室にしのぶ。しかしシンガポールに滞留中イギリス海軍に逮捕・投獄され、香港へ。海に飛び込んで逃げ、香港の新聞社「大公報」に助けを求める。沖縄報告のための日本代表として社長に面会し、事情を理解してくれた社長が面倒を見るかたちで、記者のようになっていた。中国語は旧満州で覚えたもの、社長は北京出身で言葉が通じた。当時26〜27歳。ストックホルム行きは断念。中国をめざす。
〇香港から中国(広東省)汕頭へ。船の底に隠れて香港を発つ。珠江をのぼる広州への道はチェックが厳しく、福建省近くの汕頭へ、そこから広州へ向かう。当時、朝鮮戦争真っ只中。北朝鮮(金日成)、ソ連(スターリン)、中国(毛沢東)との関係は複雑。
〇中国解放軍と出会えれば大丈夫だと考えていた。暖かく受け入れられ、汕頭から広州へ、3〜4日の馬車やトラックでの移動。ヨーロッパへの密航は失敗したが、中国(広州)では日本−琉球代表しての扱い。
〇広州では中山公園近くの4階建邸宅の1、2階に住んでいた。中国の現状、朝鮮問題など勉強できた。中山大学で討論会に出席したり、にぎやかな生活をおくった。アメリカ占領下の日本・沖縄において直接に闘ってきたことが評価され、優遇されたと思う。その後は北京へ。
〇当時、アメリカ統治下の悲惨な沖縄の実情はあまり知られず、戦争を生き延びた人々の生活現実を世界に伝える必要があった。密航前、関西での労働団体、婦人団体等での沖縄問題報告会では、苦難の道のり、厳しい実態、基地への土地収奪等を聞いて声を出して泣く人さえあり、世界に報告しなくてはと思っていた。

○上原信夫さんの報告は、詳細な記録として『上原信夫オーラルヒストリー』(2005、政策研究大学院大学・COEオーラル政策研究プロジュエクト、A4版273頁)が出たこともあり、今回のお話で一区切りの予定でしたが、1950〜51年「密航」の回想で時間切れとなりました。証言の続きについて、できればさらに次の機会をお願いすることになりました。

○終了後、高井戸駅近く「イーストビレッジ」で忘年会。
 上記参加者のなか、セーンジャーさんは馬頭琴、上里一雄さんはギターを持参して合流、素晴らしい一夜となりました。セーンジャーの馬頭琴「草原のとばり」演奏から始まり、トクタホ・青山真理子さんによるモンゴル式の座開き(献杯)、岩本陽児さんや山口真理子さんの熱唱など、一年を締めくくるにふさわしい、これまでにない忘年会となりました。
*南の風1767号 2006年12月26日(遠藤輝喜、Mon, 25 Dec 2006 03:35
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 上原信夫氏
   
     

トクタホ・青山真理子ご両人による歓迎の歌                     

上里一雄・祐子夫妻 (右からのお二人)



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