竹富島の集落組織と字公民館
     −2007年調査レポート−
            小林 文人


     対談・竹富島憲章と竹富公民館(上勢頭芳徳・小林文人)2007
      
竹富島憲章など
     竹富島訪問記録・レポート

      <関連>
      1,『おきなわの社会教育』(第1章)(2002)→■
     2,沖縄の集落自治と字公民館をめぐる法制(2003〜2004)→■
      3,沖縄の集落(字)育英奨学活動の展開(2005) →■

      4,与那国調査報告(2002)→■
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1,はじめに−竹富島のアイデンティティ

 台湾に近い八重山列島、その中心の石垣島の沖にお盆のように竹富島が浮かんでいる。周囲9q余り、面積5,4平方q、世帯数わずか165戸(人口361人)−2006年現在−の小さな島である。集落は三つ(東・あいのた、西・いんのた、仲筋・なーじ)から成り、島全体としての集落自治組織として、1963年以降、竹富公民館(字公民館)が機能してきた。
 島の東西にはサンゴ礁がよく発達し、隆起サンゴ礁の島は南海の波に洗われ、星砂の島としても知られる美しい島。しかし、この自然豊かな島も耕地は少なく、干魃・台風に見舞われることが多く、経済的には厳しい生活を強いられてきた歴史があった。
 離島であり、生活的には苦難の島だけに、島人たちは相互に協力しあい、困難に立ち向かう必要があった。自らの生活のためにも島を守り維持していく相扶・共同の努力が求められてきた。竹富島特有の“うつぐみ”(打つ組む・協力する)の精神と集落自治の取り組みはこうした歴史のなかで蓄積されてきた。時代のそれぞれの段階において、つねに矛盾と問題を抱えながら、島人として共に助け合って生きる意識、生まれ島への愛着と連帯感、“竹富島のアイデンティティ”が形成されてきたと思われる。
 離島の歴史は、とくに1960年代以降において、人口流出、過疎化・高齢化・少子化、学校等の公共機関閉鎖、そしてシマ共同体の解体といった流れが一般的であったと考えられる。しかし竹富島ではその流れに抗して、伝統的祭祀の維持、集落景観の保存、竹富島憲章の策定(1986年、後述)など、独自のシマおこし・地域づくりの歳月が重ねらてきている。島人たちが取り組んだ町並み保存の運動は、文化財保護法(議員立法による法改正、1975年)による「重要伝統的建造物群保存地区」の選定にも結ぎつき(1987年)、八重山を象徴する観光地として評価をたかめる重要なステップとなった。竹富島の人口は1990年代以降はむしろ増加している。
 島内の喜宝院蒐集館(注1)上勢頭芳徳(館長)が来館者に配布する「竹富島の概況」によれば、島は「美しい島」であり(島全体が国立公園、町並み保存地区)、同時に「芸能の島」(120以上の舞踊・狂言、300以上の歌謡伝承、重要無形文化財指定の種子取祭は毎年盛大に75点の芸能奉納)、「民芸の島」(ミンサー織・芭蕉布・麻布の手染め・手織り)、「史跡の島」(有形文化財に登録された西桟橋、なごみの塔、烽火台、旧与那国家等)、そして「長寿の島」(高齢化率は約35%、高齢者はいたって健康・元気)であると説明されている。
 海や島の天与の美しさ、自然風土の条件とともに、ここに挙げられた美、芸能、民芸、史跡、長寿という島の特長は、これまで島人たちが時代と格闘しつつ、世代的に継承してきた集落活動と文化的営為によって、いわば人為の努力によって、創り出されてきたと言うべきだろう。そしていま「観光の島」となり、島は活気あふれ、人口のUターン、Iターンを可能にし、新生児も子どもも若者も増えている。もちろん観光化にともなう新しい問題も抱えている。
 島の歴史のなかで継承されてきたもの、文化的な諸活動を担い支えてきたものとして、島人たちによるムラ共同体的な自治組織の展開が注目される。集落自治活動はいま「竹富公民館」として機能している。言うまでもなく社会教育法に基づく公立公民館ではなく、住民自治組織としての字公民館である。沖縄各地の字公民館の拡がりのなかでも、竹富公民館の組織と活動は独自の展開をたどってきた。とくに沖縄の日本復帰前後から横行した本土資の土地買い占めに対抗する島人の住民運動、町並み保存と竹富島憲章づくり運動はドラマテイックな展開であり、竹富島の字公民館は(単なる旧慣保持の機能にとどまらず)、すぐれて現代的な諸課題と向き合い格闘してきたことになる。集落の小さな公民館、いわゆる自治公民館の未来的な可能性を考える上でも貴重な事例ということができよう。
 竹富島の集落組織と公民館の関係資料は充全には保存されておらず、さらに探求すべき作業を多く残しているが、2006年末から約1年間の調査記録として、収集し得た主要資料を紹介しつつ、覚書き風に「集落組織と字公民館」についていくつかの課題を考えてみることにする。


竹富島・西桟橋ちかく、西表島に入る落日(20080711)


 2,集落史をたどる

 竹富島に関しては、自然・景観、社会・民俗、祭事・芸能等の諸領域において、少なくない研究・出版が行われてきた。心奪われる写真集も刊行されている。(注2)  しかしシマ共同体そのものの記録、集落史についての資料は体系的にはまとめられていない。
 一部に貴重な記録が復刻されている。たとえば、刊行中の『竹富町史』には、第十巻資料編(近代1)「竹富島喜宝院蒐集館文書」として、明治37年〜39年当時の竹富村事務所「村日記」等が、現代文への意訳を付して、収録されている。同書「総説」において、阿佐伊孫良(元竹富公民館長、NPOたきどぅん事務局長)が同「文書」を収集保存した上勢頭亨翁の思い出を語っている。風呂焚きの火付けにされていた村番所時代の古文書について「…数冊を胸をどきどきさせながら持ち帰った、と後に回想している。つまり、亨翁がそれを持ち出さなければ、おそらく灰燼となっていた。また持ち出されたとしても、収集好きの上勢頭亨翁でなければ大事にされず、今日、陽の目をみることはなかったといえよう。」(注3)
 周知のように、上勢頭亨は『竹富島誌』(民話・民俗篇、1976)、同(歌謡・芸能篇、1979)の2冊を著している。自序にいう「この道をただ楽しみ学んで五十余年、いつの間にか集録したノートが42冊」(注4) が公刊されたものである。貴重な記録であり、細部にはシマ共同体・集落組織につながる重要な資料が含まれていると思われるが、いま詳細に分析する力がない。
 竹富島の集落はどのような歩みをたどったのであろうか。集落の起源・形成・御嶽(オン)との関係、祭祀組織とシマ共同体の歴史など興味深いテーマである。明治期以降になると、「沖縄県及島嶼町村制」(1908年)以降の地方行政の経過について(詳細な資料は明らかではないが)大凡の流れをたどることができる。旧「間切」制が廃止され、町村制へと移行、従来の「村」は「字」となり、「村頭」は廃止されて「区長」が登場し、集落では「世持」が選ばれている。竹富島では「区長の下に世持を三名置いた。初代区長には宮良当整氏が就任し、世持として亀加津屋(西)、細原加那(東)、島仲保久利(仲筋)が選ばれた。」とある。(注5) 「世持」は竹富島の玻座間西、玻座間東、仲筋の3集落をそれぞれ代表し、同時に地方行政の末端としての役割を持たせられたのであろう。
 上記・阿佐伊孫良は諸資料を駆使して明治期以降の竹富島に関する詳細な年表を作成している。(注6) 集落組織に関連する主な項目を抜粋してみよう。

1917(大正6)年:竹富島部落民の自治組織として竹富同志会創立。初代会長に上間広起(のち
 竹富村長)。毎年6月30日に総会を開き、予算の決定、決算の承認、その他重要な案件を扱
 い、総会に次ぐ決議機関として評議員会をもち、執行部として会長の下に理事3名、幹事6名を
 置く(注7)
1920(大正9)年:沖縄県及島嶼町村制の廃止、普通町村制の施行。初の竹富村民選村長に
 上間広起が当選
1940(昭和15)年:大政翼賛会の下部組織として、部落会がつくられることになり、同志会を解消
 して、部落会とする。隣組22班(東7班、西10班、南5班)結成。同志会長を部落連合会長、理事
 を部落会長とする
1945(昭和20)年:竹富青年団「団報」発行(注8)
1949(昭和24)年:竹富の神行事を部落行事から切り離す祭政分離が実施され、初代の役とし
 て友利達雄、黒島正行、請盛保久利を選ぶ(任期2年)
1951(昭和26)年:この頃から、部落連合会を部落会長に、部落会長を部落支会長とし、幹事を
 3名に改める
1955(昭和30)年:祭政分離不可能となり、祭事執行部をおかないことになる
1963(昭和38)年:公民館長制が実施される。行政末端の区長、部落行事を分離。初代公民館
 長・野原安雄就任、それにともない部落支会長を主事に改める
1971(昭和46)年:大干ばつと大型台風の襲来、被害甚大。竹富公民館落成。記念して「竹富島
 誌」(山城善三、上勢頭亨共著)発刊
1972(昭和47)年:「竹富島を生かす会」発足
1973(昭和48)年:竹富公民館増築落成
1975(昭和50)年:竹富島を生かす憲章(案)策定
1977(昭和52)年:種子取祭、国の重要無形民俗文化財に指定
1979(昭和54)年:竹富公民館、環境庁長官賞を受ける
1982(昭和57)年:「竹富を守る会」島外資本の観光開発反対のアピール
1984(昭和59)年:竹富公民館機構改革を行う
1985(昭和60)年:竹富公民館機構改革の一部手直し、副館長を置く

 東京竹富郷友会発行『創立60周年記念誌・たけとみ』に収録されている阿佐伊の年表はここで終わっているが、その後は同『創立80周年記念誌・たけとみ』に詳細な記録が続く。前述した1986年「竹富島憲章」制定、1987年「重要伝統的建造物群保存地区」選定、そして2000年「まちなみ館」(新公民館)落成、2003年には遺産管理型NPO「たきどぅん」発足、などの展開である。(注9) 紙数の関係で詳述をさける。
 竹富島年表から抜粋したわずかの記録からも、重要な事実がいくつか明らかである。特徴的なことを4点あげてみる。
 一つは、竹富島の集落史は大きく三つの転換を経てきたこと。すなわち、伝統的なシマ共同体(玻座間西、玻座間東、仲筋)の基盤の上に、やや結社(アソシエイション)的な性格を含む「同志会」(1917)、さらに戦時中の国策に対応するかたちでの「部落会」(1940)、そして戦後社会教育制度から導入された住民自治型「公民館」(1963)の組織、これらが継承され発展してきた。偶然であるが、ちょうど23年の周期である。それぞれの時代を背景として、ある種の近代的組織(役員、任期、会議、規約、財政等)の性格が付加されていく。基盤としての伝統的シマ共同体に支えられつつ、また逆に伝統的側面に一定の変容を与えつつ、竹富島の集落組織は現在「竹富公民館」として機能していることになる。公民館「機構改革」も記録されているが、集落自治組織の骨格部分は基本的に揺るぐことなく変容しつつ発展してきた。
 第二は、集落組織を基盤に取り組まれてきたさまざまの行事・活動・インフラ整備等の多様な蓄積である。毎年の祭祀や年中行事はもちろんであるが、上記・抜粋以外にも、年表にはさまざまの事跡が数多く記載されている。興味深いところを列記してみよう。たとえば、敬老会開始(1924)、製糖工場設立(1936)、仲筋井戸改修(1937)、芭蕉工場設立(1939)、母校(竹富小学校)創立50周年記念として井戸と風呂の建設(1942)、スバル座劇団結成(青年活動、1951)、カヤ共同組合発足(1953)、西部落シイク場移転(1954)、部落経営による発電所設置(1956)、仲筋シイク場落成(1956)、(注10) 合同生年祭はじまる(1960)、簡易水道施設なる(1960)、老人クラブ松竹会発足(1962)、竹富牧場設立(1963)、製糖工場廃止(1971)、海底送水工事竣工(1976)、竹富診療所落成(1979)、霊柩車購入(1980)、西・いんのた会館建設(1984)などなど。拾っていけばきりがない。
 これらの事例については、それぞれに語りつくせないほどのドラマが含まれているに違いない。離島に住む島人の切実な生活諸課題に関わって、集落の自治と共同の力で社会的に取り組まれてきたこと、それ自体が集落による具体的な活動でありシマ共同体そのものの実像なのである。同時に伝統的な集落組織を基盤としつつ、歴史の流れのなかで変容と発展を含んでいることに注目しておく必要があろう。そこには現代の激動に対峙し、ときに抵抗し、あるいは妥協し、おそらく多くの苦悩や挫折もあったであろう。

竹富島遠望(石垣島より、20070704)




 3,祭祀行事と集落組織

 第三に、集落組織は島の祭祀・行事に深く関連していることである。年表のなかには、たとえば「竹富の神行事を部落行事から切り離す祭政分離」(1949)が実施され、集落の役員と別に祭祀担当の役員がおかれる時期もあった。集落としては歴史的な“宗教改革”の試みと言えようが、6年後には「祭政分離不可能となり、祭事執行部をおかない」(1955)こととなった。集落にとって、神への祈り、御嶽(オン)に関わる行事、祭りの執行等は、もっとも重要な共同事業であり、集落と不可分の活動なのである。したがって1960年代に「公民館」制度に移行した後においても、字公民館としての年間行事は、その主要部分が島の祭事に関わることは必然であった。この点は沖縄の字公民館にある程度共通する特徴であるが、国指定の重要無形民俗文化財「種子取祭」をはじめとるす伝統的祭祀文化を継承してきた竹富島において特に典型的にみられることであった。
 たとえば、上記・阿佐伊孫良は上勢頭亨翁の事跡を称えた一文の中で次のように書いている。「公民館の最大の任務は、年間の祭祀行事をきちっと執り行うことにあるが、役職は毎年代わるので、どうしても前任者との引き継ぎが求められる。まして数の多い祭祀に対してそのことは欠かせない。亨翁はそのことを憂い、『神前の供物の御飾方』というマニュアルをまとめて残している。」(注11) このマニュアルは公民館文書のなかで重要な意味をもつものであろう。
 竹富公民館は祭祀行事と深く関わる。島の年間行事を記録した写真集やDVD映像等(注12)において、祈りを捧げる「神司」とともに、公民館長をはじめとする公民館執行部(役員)が重要な役割を担って祭事に登場する。種子取祭における「カンタイ(干鯛)の儀式、今年は百歳、大山貞雄翁と内盛佳美・公民館長」(大塚・写真集『うつぐみの竹富島』2005年版、p114)の写真など感動的である。
 次に掲げる表1は、竹富公民館「平成16年度・定期総会」(2004年3月31日)資料に収録されている公式の「竹富公民館祭事・行事表」一覧である。その多彩な行事表のなかに、集落の組織と活動が、祭事と一体となって展開していく姿が示されている。

 表1 平成16年度・竹富公民館祭事・行事表
──────────────────────────────────────
  祭事・行事        新 暦       旧 暦     曜日       干  支
──────────────────────────────────────
 四月大願い       5月19・20日   4月1・2日    水・木      つちのえいぬ・ゐ
 四月祭          6月13日      4月26日     日         みずのと・ゐ
 西塘ばんはじり     7月22・23日   6月6・7日    木・金      みずのえとら・う
 プリ(豊年祭)      8月1・2日     6月16・17日  日・月      みずのえね・うし
 七夕願い         8月22日      7月7日      日         みずのと・とり
 ショーロ(お盆)     8月28〜30日   7月13〜15日 土日月
 第81回敬老会       9月12日      7月28日     日
 節祭            9月17日      8月4日      金        つちのと・ゐ
 結願祭          9月20・21日   8月7・8日    月・火      みずのえ・とら・う
 世迎い           9月21日      8月8日      火         みずのと・う
 十五夜祭         9月28日      8月15日     火
 九月大願い       10月16・17日   9月3・4日    土・日      つちのえたつ・み
──────────────────────────────────────
 種子取祭・トゥルッキ  11月1日      9月19日     月         きのえ・さる
   祈願・幕舎張り   11月5日      9月23日     金         つちのえ・ね
   ンガソージ      11月6日      9月24日     土        つちのと・うし
   奉納芸能初日    11月7日      9月25日     日         かのえ・とら
   奉納芸能二日目   11月8日      9月26日     月         かのと・う
   支払い議会     11月9日      9月27日     火
──────────────────────────────────────
 十月祭          11月19日     10月8日     金         みずのえ・とら
 ナーキ祝い        12月15日     11月4日     水         つちのえ・たつ
 鍛冶屋ぬ願い       12月18日     11月7日     土         かのと・ひつじ
 ピルズマ祭      平成17年1月31日    12月22日    月         きのと・う
 第46回(酉歳)合同祝賀会  2月20日   1月12日     日
 二月祭             3月10日    2月1日       木        みずのと・み
──────────────────────────────────────
                         竹富公民館「平成16年度・定期総会」資料、p24



 4,町並み保存運動と竹富島憲章

 第四の特徴は、竹富島における本土資本による土地買い占め、それに対抗する島を守る住民運動、その具体的な展開としての憲章づくり、文化庁による重要伝統的建築物群保存地区への選定、まちなみ館設立、その後の集落景観保存と観光地としての対応、など30年余にわたる一連の町並み保存・地域づくりのテーマに公民館が取り組んできたことである。とくに1986年「竹富島憲章」制定過程から、公民館は自らの課題として組織的かつ積極的に関わってきた。
 竹富島年表には、1962年「この年、観光客が大幅にふえる」との記述がみえる。島人たちが営々と守ってきた集落の景観や伝統的祭祀文化への評価が拡がっていくのである。復帰前において、すでに島を訪れる人たちが増えてきた。碧い海、赤瓦と(珊瑚の砂を敷きつめた)白い道、咲く花々と囀る鳥たち、祈りの静寂と祭りのどよめき。島人の生活は早朝の落ち葉掃きから始まる、といわれるような日常的な努力の集積が島と集落の美しさを創り出してきた。
 本土資本の土地買い占めは、沖縄復帰(1972年)前後から襲来する。高度経済成長の最盛期にあって本土のリゾート資本、不動産業者等による沖縄への進出は猛烈な勢いで進められた。竹富島は1971年の大干魃と大型台風による被害の時期と重なり、低価格で土地は売られていった。名鉄、ヤマハ、日本習字連盟等による土地買い占めの規模は、必ずしも詳細ではないが、竹富島の面積の四分の一、あるいは三分の一に及んだとされる。(注13)
 島の将来を憂えた人々の運動が始まる。日本民芸協会など島外有識者による「古・竹富島保存会」(1971年)、島内有志による「竹富島を生かす会」(1972年)の活動が連動してすすめられた。そのなかで町並み保存運動の先駆となった信州・妻籠の「妻籠宿を守る住民憲章」(「売らない、貸さない、こわさない」三原則、1971年)(注14)との出会いがあり、竹富島の住民憲章は「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」の五つの保全優先の基本原則を打ち出すことになる。案文としては「生かす会」のなかで作成された経過があり、これが公民館の組織的な取り組みによって1986年「竹富島住民の総意に基づき」(同憲章・前文)正式に制定されたこととなった。その過程では東京竹富郷友会の「…他資本の誘致を考えることは将来に禍根を残します」等の提言も寄せられている。(注15)
 1970年代・復帰前後の段階では、竹富島あげての(公民館としての)抵抗運動ではなかったと考えられる。土地買い占め問題の重大性を察知した人々による勇気ある取り組みとして始まった。“金は一代、土地は末代”の立て看がたち、プラカードをもって“土地を売るな”シュプレヒコールが小さな集落に響くというような状況であった。それから10年余を経過して、再び島外資本による進出・跳梁の動きがあり、東京竹富郷友会等を含めて、反対の住民運動は集落内に拡がっていった。住民憲章として「竹富島憲章」が正式に採択される至る過程では、全国町並み保存ゼミナール等の全国規模での関心を呼び、1980年代後半の段階において公民館が集落全体の合意形成・住民意志決定の重要な役割を果たすこととなった。その具体的な手続きについて、上勢頭芳徳は次のように証言している。
 「昭和61年には、住民の総意で竹富島憲章を制定いたしました。…これを住民の総会で決定いたしました。私ども憲章を制定するまでの順序はふんできたつもりです。まず公民館長の諮問委員会をつくりまして、そこで憲章検討委員会をつくり、検討委員会での案を公民館議会にあげていきました。それから総会で決定するというふうに四段階を経てやってきました。住民の総意のものであると断言できると思います。」*16 竹富公民館では「総会」に次ぐ議決機関として「公民館議会」(規約第24条〜28条)を設けていることが注目される。 



 5,竹富公民館の組織と財政

 竹富公民館は、上記・阿佐伊年表によれば1963年「公民館長制の実施」となっているが、実際に公民館としてそれ以前からの始動してようである。(注17) しかし戦後沖縄における公民館制度が1953年(琉球政府・中央教育委員会「公民館の設置奨励について」)から発足していることを考えると、八重山・竹富では10年前後の遅れがあったことになる。
 公民館制度の導入にあたって、どのような規約・機構・財政等がスタートするのか、従来の「部落会」と対比していかなる変化があるのか、残念ながら、資料的に充分に解明できない。
公民館規約(全21条)が残されているのは、1979(昭和54)年度からであり、現在の公民館規約(全40条)と比べると、いたって素朴な内容である。たとえば「第一条 本館は竹富公民館と称し、部落住民を以て組織す」とあり、「第五条 本館に左の機関を置く」として「総会、審議員会、監査委員会、執行部」が示されている。ここではまだ「公民館議会」は登場していない。「審議員会」が実質的な審議・決議機関としての位置づけを与えられていて、これがその後は「公民館議会」として活発に機能していくことになる。(注18)
 現規約に至る過程において、公民館規約は格段に法的整備を重ねてきた。「公民館議会」は、少なくとも1992(平成4)年改正の規約には明確に規定され、さらに現規約に継承されて「年中行事の実施計画及び負担金の賦課に関する事項」(第25条4)をはじめとする重要事項の決議機関となっている。「議員」は三つの支会(集落)から各3人(計9名)と老人、婦人、青年の三団体の代表3名から成り(学校長と郵便局長が同席できる)、あたかも地方自治体における議会と相似した集落「議会」としての権能と実質を積極的に志向している。「議会」の名称は、1980年代の町並み保存運動を背景としつつ、集落の合意形成、意志決定にあたる実質的な自治機構としての執着を感じさせる。
 公民館の役員体制は、現規約第9条により、館長、副館長、主事、幹事(各1名)、顧問(3)、議会議員(9)、監査役(3)、衛生部員(3)となっており、いずれも基礎集落である3支会が選出基盤となっている。加えて総会資料「公民館役員」表によれば、参議(6、顧問を含む)、塵芥処理(3)のほか、町並み調整委員(12)、財産管理委員(6)、公民館運営検討委員並びに機構改革委員(6)、環状道路建設委員(6)−平成16年度の場合−がおかれている。集落自治を担う行政的執行部と議会、加えて課題別の特別委員会ないし専門委員会の構成がよみとれる。なかでも町並み調整委員は「竹富島集落景観保存調整委員会」を構成し、文化庁による「重要伝統的建築物群保存地区」選定にともなう竹富島集落・町並み保存の具体的事項を審議する委員会として、他の字公民館にはみられない機能を担っている。
 竹富公民館の「行政」執行および「議会」組織と並んで、独自の「財政」制度が注目される。毎年4月に開かれる公民館「初議会」の主要議案は、その年度の祭事日程や緒課題と並んで、公民館予算を構成する住民からの賦課金、その等級や「生産人」制(注19)あるいは祭事賦課等の確認が主要な内容となっている。公民館の一般会計とは別に、祭事、塵芥処理、祭壇基金は別会計として運営し、また特例として、敬老会、結願祭、種子取祭の三行事については、個別に特別予算を組み公民館議会の承認を受けた上で経費を「賦課」し、さらに種子取祭のみは特別の「賦課」方式をとって運営されてきた。等級割、生産人割等の賦課率や負担金額の設定は詳細をきわめ、公民館「議会」による承認・決定の手続きによってはじめて運営が可能となる。
 公民館一般会計のなかで竹富独自の項目は「公民館協力費」であろう。島内で観光事業に関わる事業所(石垣市を含む)、旅館・民宿、喫茶・食堂、おみやげ品店及び自家用車について、営業規模等から納入額を査定し、公民館への協力費として「収入」に繰り込むのである。
 前述・上勢頭芳徳は、「観光税」の用語も使って、次のように説明している。
 「…島の祭をはじめ、いろんな行事を行うのは公民館が中心になるわけです。観光業者は、いろんな租税等を納めたほかに、公民館に観光税を納めることになっています。観光税というと支障があるとのことで現在は公民館協力費といっています。これは各業種ごとに、さらにまたABCとランク分けして金額をを設定するわけです。観光業者から集めるのが年間65万円くらいになります。公民館の一般会計が約240万円ですので、四分の一以上を観光業者からの税で賄っております。ということは、それだけ観光をやっていない人も、公民館への負担が減ることになります。観光業者と観光をやっていない人との対立構図が、かなり薄らいでいっているということになると思います。…」(注20)  それから約10年余を経過して、平成18年度公民館一般会計(予算)をみると、「収入」3,437,000円、そのなかで「公民館協力費」1,320,000円、その占める割合は三分の一を超えている。公民館協力費の占める比率は上昇し、その実額は倍増している。(平成18年度「定期総会」資料、2007年3月31日)



 6,竹富島からのメッセージ

 本報告では、紙数の関係から、細かな資料・データを提示することができないまま、すでに残りの紙幅も尽きようとしている。できれば第2次報告の機会を得て、さらに掘り下げた検討を試みたい。小稿を閉じるにあたって、今回の竹富島調査を通して考えたこと、今後の研究課題を含めて、簡潔に3点ほど提起しておきたい。
 (1)小さな集落が発するメッセージ。
 竹富島は人口わずか360人前後の(この10年で100人近く増えた)小さな集落である。そこに生きてきた人たちの歴史と現在を知るとき、人々の相互の濃密な共同の関係と集落自治への取り組みの大きな集積を発見できる。竹富島には古謡に歌われる「うつぐみ」(打つ組み、協力)の言葉があり、島人に語り継がれてきた。しかし現実の過程には(おそらく)対立や葛藤が含まれ、また島外資本の跳梁にみられるような外部の要因もあり、集落自治・自立の立場からは抵抗や闘いを含んでの展開であった。伝統と文化の遺産を守り、集落景観を保存するという課題は、一面で古いものを維持する方向でありながら、他面では、そのためにも新しい文化や社会的仕組みを創造していく努力が求められる。そういう矛盾や問題をかかえながら、小さなシマ集落は町並み保存・地域づくりという大きな課題に挑戦してきた。全国の厳しい状況にある小集落へ向けての、竹富島からの大きなメッセージと励ましを確かめておきたい。
 (2)字公民館の可能性を考える。
 竹富島が1960年代に「公民館」制度を導入することによって、集落の組織・活動にいかなる展開をもたらすことになったか、またそこに機能した公民館は、竹島島の集落を基盤とすることによってどのような実像を与えられてきたのか。竹富の集落活動は、この40年余り竹富公民館として「規約」をもち、「行政」「議会」「財政」を執行してきた。竹富島憲章や町並み保存運動に取り組んですでに20年、毎年の祭祀行事を含めて、注目すべき字公民館の歩みというべきであろう。集落と公民館はきわめて一体的に運営され、両者は不可分の関係にあるが、あえて分析的に、字公民館としての独自の可能性をさらに明らかにしていく必要があろう。
 (3)地域科学としての研究視点。
 脱温暖化、脱近代主義化の立場から、「生存」科学の方法論を追求している堀尾正靭らは、現代の縦割り・分断状況を克服して、横断的総合的な視点から地域ガバナンスの再構築を提示して示唆的である(松永澄夫編『環境−設計の思想』所収・堀尾論文、2007)。同じ問題意識にたって、「地域」科学を構想し、竹富島を総合的かつ分析的にとらえると何がみえてくるか。地域の目(例:町並み保存についての「情報」)、地域の頭脳(例:地域づくりをすすめる智恵、「じんぶん」)、地域の手(例:工芸・芸能・生活等の「技術」)、地域の足(例:集落組織、人と人との「ネットワーク」)、地域の心(例:竹富島への愛着と連帯、「うつぐみ」の思想)、の五つの視点(仮説)をもって、地域科学的に竹富島と字公民館の可能性を追求していくことはできないか。新しい視点から、地域の活力と公民館のこれからを考えていく作業を続けていきたいものだ。竹富島の白い道を歩きながら考えていた。


脚注

*1 日本最南端の寺院・喜宝院(浄土真宗・西本願寺派、1957年)に併設された歴史民俗資料を展示する地域博物館。1962年に上勢頭亨(うえせどとうる、1919〜1984)によって創設された。展示は稀少資料を含む約4,000点。「概況」はB4版1枚の簡潔なガイドペーパー。
*2 大塚勝久写真集『うつぐみの心 竹富島』(葦書房、1992)、同『うつぐみの竹富島』(琉球新報社、2005)、前原基男写真集『ふるさとへの想い 竹富島』(2005)、竹富町史編集委員会編『写真集ぱいぬしまじま』(竹富町史・別巻3、1993)など。
*3 竹富町史編集委員会編『竹富町史』第十巻資料編(近代1、竹富島喜宝院蒐集館文書)阿佐伊孫良「解説」p18。竹富島NPO「たきどぅん」(2003年認証)メンバーを中心とする「見習い・聞き習いの会」では、同文書「村日記」を読みあう学習会(毎週1回)を開いてきた。
*4 上勢頭亨『竹富島誌』民話・民俗篇(法政大学出版会、1976)「自序」
*5 山城善三・上勢頭亨共著『おきなわのふるさと竹富島』(字竹富公民館発行、1971)p11
*6 「年表・竹富島の変遷と郷友の歩み」、東京竹富郷友会発行『創立60周年記念誌・たけとみ』(1985)所収、pp140〜156.
*7 上間広起は竹富同志会の設立について次のように回顧している。「字の行政は従来、重立有志会の協議を以って総て行れて来ましたが、斯くては自治を尊重せねばならない今日、字統制上弊害少なからざるものがあるは当然であります。故に大正六年五月、同志会を組織設立し…(以下略)」『竹富村初代民選村長・上間広起生誕百年記念誌』(同記念事業期成会発行、1987年)p23。のちに村長となる上間は、当時は竹富村吏員(年令31才)であった。
*8 戦後の混乱期、青年団組織結成後1ヶ月にしていち早く(1945年10月)発刊された「団報」は2年間にわたって20数号まで続き、注目された。『戦後八重山教育の歩み』(同編集委員会編、1982年)pp.663〜666
*9 東京竹富郷友会発行『創立80周年記念誌・たけとみ』(2006)所収「東京竹富郷友の歩みと竹富島の歩み」pp96〜127.
*10 「シイク場」とは養蚕が行われた時代の共同「飼育場」。三集落にそれぞれ置かれ、集会所としても機能してきた。現在は改築され「会館」と呼ばれている。
*11 前掲・注3『竹富町史』阿佐伊孫良「解説」p17
*12 前掲・注2、大塚尚久写真集、あるいは環境省制作・DVD「うつぐみの島・竹富島」、同「竹富島公民館の活動」等(竹富島「ゆがふ館」常備)、2005年。 
*13 上勢頭芳徳・小林文人「竹富島憲章と竹富公民館(対談)」、TOAFAEC編『東アジア社会教育研究』第12号、2007年、pp198〜218。上勢頭芳徳の詳細な証言とともに、竹富島憲章(全文)をはじめとする諸資料・解説等を収録している。
*14 妻籠宿を守る住民運動の歴史的系譜をたどると、戦後初期からの妻籠公民館活動の役割が大きいことに注目させられる。遠山高志「コミュニテイと町並み保存」、大槻宏樹編『コミュニテイづくりと社会教育』全日本社会教育連合会、1986、pp91〜114.。
*15 「竹富島における島外資本の観光開発をめぐって」東京竹富郷友会長名の意見書。前掲注6,同郷友会『創立60周年記念誌・たけとみ』(1985)、pp44〜45.
*16 上勢頭芳徳「町並み保存で何を得、何を失ったか」、宮沢智士(東京ソルボンヌ塾)編『竹富島に何が可能か』(竹富島喜宝院蒐集館発行)1996年、p23
*17 1962年には「竹富公民館」の名称が現れる。前掲・『戦後八重山教育の歩み』p773
*18 公民館規約・財政等の諸資料は、阿佐伊孫良所蔵「2004(平成16)公民館」関係フアイルによる。関連して同氏からは詳細な説明・証言をいただいた。
*19 一般会計予算や祭事費の賦課は、等級割(0.5)、生産人制(0.3)、平等割(0.2)から成る。等級割は男・女、年令(18才〜69才、70才〜79才、80才〜)によりA〜G等級、生産人制は男・女、年令により上級、中級、下級(女性は上・中のみ)に分けて比率を設定する。平等割は全戸数に平等賦課。竹富公民館資料「公民館運営の基本的な考え方」(2000年以降)。
*20 前掲・注16、上勢頭芳徳「町並み保存で何を得、何を失ったか」p21


付記:2006年11月にはじまる竹富島調査、対談「竹富島憲章と竹富公民館」(『東アジア社会教育研究』第12号)、証言・資料の収集にあたって、阿佐伊孫良、上勢頭芳徳、前本多美子の各氏をはじめ竹富島の皆様にたいへんお世話になりました。あつく御礼申しあげます。

出典:松田武雄(研究代表者、九州大学)「沖縄の字公民館における地域福祉・社会教育の推進と青年の自立支援に関する研究」平成18・19年度 日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究C)研究報告書、2008年3月、所収


関連:竹富島憲章など→こちら■
    竹富島訪問記録・レポート→こちら■
    対談・竹富島憲章と竹富公民館→こちら■



竹富島・星砂の浜・はまゆう(20070219)




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