小林研究室記録・ゼミ関連・報告など
                       
                          *ぶんじん・アーカイブス■



<目次>
<東京学芸大学>
1,麦笛の歴史を掘れ、そこに泉が湧く(「麦笛」創立30年パンフ、1992)→■
2,社会教育研究室外史−ゼミの空間、曲折のあゆみの記録 (東京学芸大学、1996)
3,国立教育系大学・学部の再編問題と社会教育 bP〜3 (「公民館の風」 2002)
4,猛暑の主事講習をふりかえる−東京学芸大学社会教育主事講習の試み(1984)
5,復帰20年を迎える旅(東京学芸大学・社会教育ゼミ沖縄訪問団報告集、1992年)
6,質的に面白い研究空間を(東京学芸大学社会教育研究室「けやき通信」1993年12
月)
7,東京学芸大学「社会教育演習」ゼミ報告集・まえがき等(同報告集、1991〜1994年)
8,春の桜と秋の欅と−思い出はつきず(東京学芸大学キャンパス通信、1995年3月)


<和光大学>
11,1995年度・プロゼミD「地域と生涯学習」をふりかえる
 (小林プロゼミ報告集、1996年2月)
12,1998年の新しい動向と和光ゼミの課題(小林ゼミ報告集、1999年1月)
13、1998小林プロゼミを終わって (ゼミ報告集・1999年1月)
14, いちゃればちょうでい(行き会えば兄弟)和光大学・小林プロゼミ
   沖縄合宿報告集(1999年1月)
15,学生自身による主体的なカリキュラムづくりの「対話」(和光大学、2000)
16,大学と地域と、沖縄と東アジアと ー私のゼミナール
  (和光大学学園報 253、1999年9月)
17,地域と大学の出会い(東海高等教育研究所『大学と教育』第31号2002年)
18,
和光大学、わが“青春”(和光大学人間関係学部紀要第6号、2002年)
19,
最後のプロゼミ「地域を歩く、地域を調べる」
  (和光大学・小林プロゼミ報告集、 2002年1月)

20,和光大学プロゼミ・フイールドワーク記録(写真、1995〜2002)→■




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1,麦笛の歴史を掘れ、そこに泉が湧く
     
(人形劇サークル「麦笛」創立30年記念パンフ、1992)→■(回想 64)



2,社会教育研究室外史 −ゼミの空間、曲折のあゆみの記録−          
       *東京学芸大学教育学科「教育学研究年報」第15号(1996)

                            
 はじめに−28年と1年あまり
 私が東京学芸大学に赴任したのは1967年4月である。九州から引っ越し荷物をかついで東京にたどりついたとき、街は美濃部・革新都知事選挙の真っ只中であった。当時の三多摩は激しい都市化、過密化の波に洗われていた。そのなかで住宅難(公務員住宅は用意されなかった)と子どもの保育所探しに追われ、選挙とも重なって、喧騒と混乱の風景に疲れ果てた出発であった。大学はまだ旧陸軍兵舎をかなり残し、C号館2階のせまい研究室は相部屋、その隣りの時計塔の下にあった大学付属図書館には当時見るべき本もなかった。これは困った、選択を誤ったか、早く九州に帰ろう、と出稼ぎの心境に陥ったことを思い出す。この年、春なのに桜の花の記憶はまったく残っていない。
 しかし結果的には1995年3月定年まで、28年間も東京学芸大学にお世話になったことになる。人生とは分からないものだ。九州民族派を自称していたのに、故郷はるかに遠ざかり、異郷・東京がいつのまにか終の住処になりつつある。ときに挫折、苦悩、怨嗟など織りまぜながら、しかし忘れがたい歓びもあり、なによりも若い人たちとの多くの出会いがあった。学大28年は私の壮年・実年のすべて、この間に自分の生涯のテ−マと道程は大筋において決せられたようなものだ。振りかえってみて、まずは東京学芸大学の皆様に深い感謝を申しあげねばならぬ。
 昨年3月、退官にあたって最終講義の機会を用意していただいた。「社会教育への旅−学大から沖縄、東アジアへ」と題して、私の拙い歩みといくつかの感慨を述べることができた。それからすでに1年あまりが経過している。いま論稿を求められて正直のところ戸惑っている。1年経つと、嬉しいことに定年リタイヤ−の心境はどこかに消えてしまって、終りの「記念論稿」などもう書く気分ではない。枚数も20〜30枚程度らしい。何が書けるだろう。まだ私の研究生活は終了していない、振り返るのでなく新しい道を語りあいたい、最終講義でも「旅はいま一つ終わり、また新しく始まる」というしめくくりだ、とくに惜別の必要もない、などと思いめぐらして筆はあまり進みそうもない。
 最終講義の記録は幸いに遠藤輝喜(1983年・大学院修了、以下敬称略)がテ−プ起しをして『東アジア社会教育研究』(創刊号、TOAFAEC発行、1996年)に収録されている。ま た研究室から巣立った皆さんたちの協力によって<退官記念>『地域と社会教育の創造』(末本誠、小林平造、上野景三編、エイデル研究所、1995年)が上梓された。私のぶきっちょな研究の軌跡、ささやかな課題意識についても、この本の共同執筆者(20名)たちによって、さまざま形をかえながら共有され発展されていることを実感した。これに何を加えることがあろう。
 しかしせっかくの教育学年報編集委員会のご好意だ。失礼になってはならぬ。この機会を活かして東京学芸大学・社会教育研究室・外史のようなものを書き残してみたいと思い直した。記憶も想いも歳月とともに風化していく、短い最終講義では触れ得なかったこともある、「研究室」にかかわる出来事の幾つかを記録しておくことで多少のメッセ−ジにはなるのかも知れないと−。もし年月の誤りや脱落などあれば、ご指摘いただき、別の機会に修正させていただくことでお許しいただきたい。あわせて最終講義の記録をご覧いただければ幸いである。

1, 教員養成大学のなかの苦悩
 1967年に東京学芸大学教授会の一員になって初めて会議に出たときの違和感(体育館で250人前後が席につく)は相当なものであった。マイクの声はよく聞きとれない。ほとん ど自由な発言の雰囲気はない。これに象徴されるような教員養成大学特有の体質、なかなかなじめない毎日が続いた。
 新しく仕事を始める大学のカリキュラムにはそれなりの期待と興奮を感じるものだ。だが正直言ってまったく失望した。その当時の“初心”にふつふつと湧いた私なりの矛盾意識や疑問は今でも鮮烈に記憶している。しかし実際にはその後しだいに鈍麻していく。その後の28年、前半は教授会や代議員会などでかなり発言もしたが、後半は諦めに似た感情も積もり、また管理職(学生部長、付属図書館長)に選ばれてしまうという事情も重なって、必要以上の発言は控えるようになった。慣れと怠惰、管理職化と他方で沖縄などへの逃避、私の反省である。
 東京学芸大学のカリキュラムはその後改正を重ねながら次第に脱皮してきているのであろう。しかしかっては旧師範教育の伝統的な構造が色濃く残り、また国の教員「免許法」からくる拘束、自由選択制の欠落など、カリキュラムの古さ、固さに呻吟してきたのは私だけではなかった筈だ。
 たとえば私が赴任した当時、所属する教育心理科(その後学校教育科、いずれも小学校教員養成課程)のカリキュラムには卒業論文の制度がまだなく、演習(ゼミ)の単位もなく、卒業単位130単位のうち10単位程度を除いて他はすべてクラス別に固定された必修授業であった。大学は方針として少人数制をとっているため、教員は同じ講義(すべて半期2単位)を細切れでクラス毎に繰り返し、そして疲れはて、学生たちもまたうんざりした顔で聞いていた。
 私は自主ゼミ的な読書会を断続的に始めた。また自学科の唯一の担当科目・教育社会学(当時まだ「社会教育」はなかった)のレポ−トを卒論に見立て、少し厳しい水準で研究指導を始めたりした。しかし何よりも正規のゼミの集団ができない。学生たちもゼミの面白さを知らないで卒業する。もったいない話だ。あと一つの難点は、ゼミをおこなう小教室がないことだ。カリキュラムのかたい構造がゼミの自由をゆるさず、またゼミを可能にする空間がなかった。
 この時期は丁度「大学紛争」「学生反乱」の時期と重なる。教員と学生の関係も単純ではなかった。学生の伸びやかな自主ゼミが、教員も参加して、ゆったりと開かれるような雰囲気からは遠いものがあった。しかし私の研究室には次第にいろんな学生が出入りするようになっていく。文科系サ−クルの学生が多く、そのうち1972年前後から、児童文化活動・人形劇サ−クル「麦笛」、同子ども会サ−クル「麦の子」の顧問教師となる。また学生のなかには東大・安田講堂にたてこもった強者もいれば、火炎瓶を抱いて韓国大使館に飛込み、逮捕された女子学生もいた。ヘルメット組だけではなく、これと対抗する自治会系の活動家もいて、研究室で鉢合わせをして大声で論争することもあった。幸いに学生間のいわゆる内ゲバはなかった。過激派学生との忘れがたいエピソ−ドもいくつかあるが、それはまた別の機会にしよう。
 せまい研究室で継続的に自主ゼミが行なわれるようになるのは、いつ頃だったのだろう。ようやく大学院の「教育社会学」を担当(麻生誠さんが大阪大学に転出後、所属は「学校経営」講座)するようになる1974年以降、あるいは沖縄社会教育研究会を始動させる1976年あたりだろうか。この頃には社会教育をテ−マに卒業論文(単位はすでに認められていた)を書こうとする学部学生が少し集まるようになり、卒論ゼミも開かれるようになっていた。学年によっては教育学専攻の大半の学生が集まって少々負担オ−バ−の年もあった。なぜか教員への道を自ら拒否する学生たちが多かった。
 ちなみに学部で初めて卒業論文らしきものを書いたのは農中茂徳、永塚正博など1970年卒業の学生たち、大学院で初めて社会教育をテ−マに修士論文をまとめたのは石黒緑(所属は学校経営講座、1979年修了)、また「社会教育」講座が正式に開設されるのはおくれて1987年、その最初の修了生は韓国からの留学生、金慶淑(1989年、西暦年は卒業年、以下同じ)であった。いまから考えると隔世の感があるが、教員免許必修、しかも一免許状主義を原則とする教員養成カリキュラムのなかに社会教育関係科目を導入するのは予想以上にたいへんなことであった。ようやく学部カリキュラムのなかに社会教育主事資格の授業科目を開講できるのは1979年からであった。曲折をたどった経過があるだけに、そのなかで社会教育のテ−マを選んだ少数派の学生たちのことはいつまでも忘れられない。
 ところでC号館2階の研究室は相部屋であった。ときに学生、院生らが部屋を占拠するかたちとなり、同室の川瀬邦臣氏にはしばしばご迷惑をかけた。その不自由から脱して、研究室が個室になるのは1980年、9階建第二部研究棟が新営されたときからである。しかも別に独立した社会教育研究室が与えられた。私にとって待望のゼミ空間、28年間の学大生活のなかでもっとも画期的なことだった。この部屋の実現には「社会教育」講座の実験講座を根拠にしたためフォ−マルには社会教育「実験室」と称されたが、私は「研究室」と呼んできた。ほんの小さな空間だが、その後のゼミ研究活動の文字通り拠点となった。

2,研究室をひらくベクトル
 周知のように社会教育施設(たとえば公民館)論のなかに「たまり場」「多目的空間」論がある。市民の自由で、気軽な、日常的な出会いと交流、そして参加的な活動空間をどう創りだすか、という発想のなかから提起されてきた。この「市民」を「学生」に置きかえてみるとどうなるか。
 市民と同じように学生たちにも、自由な日常的な出会いと交流、研究的な「たまり場」が必要なのではないか。つまり彼らもキャンパスのなかで案外と孤独であり、自分たちの自由な空間をもたず、講義やゼミを受ける単なる客体に止まりがちだ。学生たちの積極的な参加を考えていく上で、研究と学習の「たまり場」「多目的空間」を具体的に考えてみたい、研究室は本来そのような機能を多面的にもつべきではないか、そんなことを論じあった記憶がある。
 あと一つ、地域にたいして閉鎖的な(国立)大学をどう市民に開いていくかという課題がある。とくに「社会教育研究室」としては、他の研究室以上に独自かつ柔軟に外部に開いていく工夫があってよい。社会教育の研究・教育機能のなかに位置づけて、学生と市民が、研究室と地域が、もっと交流し交錯していくような状況を創りだしていくことはできないか。心のなかでいつも屈折しながら胎動していた潜在的な思いが、新しい研究室で少し具体化するかもしれない、そんな期待があった。
 この時期にさらに新しい変化があった。留学生の登場である。東京学芸大学は教員養成大学であるが故に、留学生の受け入れはもっとも遅れた(国立)大学であった。学生部長関連の会議で他大学との比較資料をみせられ、恥ずかしい思いをしたことがある。留学生のための特別選考制度をもたなかった学部では最近に至るまでほとんど留学生がいなかったが、それでも大学院と研究生では1980年代から留学生が次第に顔を見せるようになった。社会教育研究室への正規の留学生は朴英淑(韓国・ソウル、1984年)が最初である。
 しかし実質的には韓民(北京、1983年)と羅李争(上海、1984年)の二人の中国人が早かった→■。二人とも正式には他専攻の所属であったが、社会教育研究室によく出入りし、私の自宅にも頻繁に遊びにくるようになり、両君を中心にした中国語学習会が研究室で開かれるようになった。中国文化大革命後の初期の国費留学生は優秀な人たちが多く、かけがえのない出会いとなった。台湾からは少しおくれて陳東園(台北、1987年)が最初の留学生である。留学生はその後多様化し大衆化するが、初期の人たちの好印象が大きく、それが現在でも留学生とつきあう動因となっている。エジプトからの留学生アミン・ア−デル(カイロ大学卒、1989年)も忘れがたい。
 振りかえると新しい研究室には、これを開く方向で、(1)学生の動き、(2)地域・市民の期待、(3)留学生(東アジア)の参加、の三つのベクトルが働いてきたとも言えよう。小さな研究室だ。人数もそれほど多いわけではない。しかし結果的には「研究室をひらく」という可能性を追求して15年前後にわたる挑戦を試みたことになる。
 研究室入口の左の壁いっぱいに白いボ−ドが掲げられていた。いまでも脳裏にあざやかだが、青マジックで「社会教育研究室ですよ!」の案内。樋口知子(院生、1985年?)の字だ。おそらく10年ほどは消されることなく、廊下を通る人たちにいつも微笑んでいる感じだった。この白ボ−ドは、1980年代末から90年代にかけて、研究室活動が活発に動いた時期には、次のような案内(日時、内容など)が毎週あるいは毎月と書き継がれ、余白もない状態であった。
 まずボ−ド指定席の枠で、(1)中国語学習会(定例・火曜日夜、1984年から95年まで継続された)、(2)アジア・フォ−ラム(留学生特別ゼミから出発、火曜日午後、1989〜95年)→■、(3)「月刊社会教育」読む会(毎月第2木曜日、1992〜95年)、(4)社会教育入門ゼミ(1〜2年生中心、なかなか軌道にのらなかった)、(5)社会教育自主ゼミ(3〜4年生中心、1991年、のち月刊社会教育読む会に合流)、(6)ハングル学習会(韓国留学生が中心、数年で消滅)、さらに臨時のかたちで、たとえば(7)P,フレイレを読む会、「識字運動とは」読書会、夜間中学研究会、あるいは映画会「同胞」「サラ−ム・ボンベイ」「河殤」など、といった自主ゼミや諸企画の案内など。
 以上は学生、院生そして留学生に開かれた研究室活動であるが、これに加えて、(8)沖縄社会教育研究会(1976年秋第1回、1995年まで通算128回開催)→■、(9)社会教育理論研究会 (研究室OB・OGの学習会、1984〜95年)、(10)三多摩社会教育の群像(臨時開催、進藤文夫、徳永功、福長笑子氏などを招く)など、地域に開かれた研究会の案内があった。国分寺、国立、小金井などの市民が多数参加される集いもあった。最盛時に白いボ−ドは、楽しい伝言メッセ−ジを含めて、ぎっしりいっぱいに埋まった。研究室横のロッカ−にはひそかに紐つき鍵がつるされていた。
 社会教育研究室ではもちろんカリキュラム上の小講義・ゼミが行なわれる。また会議も開かれた。入学選考の際には面接(留学生など)会場にもなり、論文の口述試問もここで行なわれた。大学・研究室としてのいわば正規の機能である。
 しかしそれだけではなく、ときにコンパも、留学生の春節の祝いも、沖縄研究会としてのウチナンチュ歓迎会も、また非常勤講師歓迎や早春の研究室送別の集いなど、まさに多目的に活用されてきた。たくさんの歌もうたったし、沖縄のサンシンが響くときもあり、また料理もつくった。たとえば奄美調査で出合った鶏飯、中国留学生による餃子会、モンゴルの鍋もの、沖縄から持参したエラブウミヘビや子豚丸焼きなど、思いだせばきりがない。4階研究室からもれる料理の香りが9階建研究棟にひろがり、少々困ったときもある。あえて意図的にやったわけではないが、貧しい留学生たちもともに参加できる交流の集いを考えると、自然にこういう手作りの企画になるのだ。ときに自由すぎて乱雑にもなりがちな研究室活動を寛容に許していただいた同僚諸氏にこの機会にお礼を申しあげたい。ただ間違いなく研究室はゼミ集団の「たまり場」となり、共同の生活空間となってきた。

3,歳月の風化に抗して−研究室活動の軌跡
 28年の歩みは、実感として言えば、駆け足で通り抜けたようなものだ。とくに1980年以降の研究室活動の15年は、多くのことがあり過ぎ、いつも忙し過ぎで、じっくり落ち着いた仕事になったかどうか反省もある。最近の10年は日本人学生よりもむしろ留学生にかけたエネルギ−の方が多く、研究指導だけでなく、生活上の雑事に追われた年もあった。
 この間、1984年は夏に文部省委嘱・社会教育主事講習(静岡、神奈川、東京から約100 名参加)が開かれ、また秋には日本社会教育学会第31回研究大会を開催した。それぞれ記録が残されているが、研究室の学生・院生のゼミ集団が推進力となった。
 研究室の体制としては小林・長浜の両スタッフとともに、外部から多くの非常勤講師の助力をいただいた。年度は異なるが、池田弘、板橋文夫、川村善二郎、小松恒夫、坂巻久、佐藤進、進藤文夫、末本誠、故・土田孝、畑潤、比嘉佑典、久田邦明、平林正夫、さらに遡れば奥田泰弘、横山宏などの各氏(順不同)からご指導をいただいた。多彩な顔ぶれだ。院生・学生たちはこの方々から多くの刺激をうけた。
 ほかに大学が受け入れた正式の「研究員」として1年(ないし半年)程度、研究室に在籍された方々がいる。森山沾一(佐賀大学、当時)、小林平造(鹿児島大学)、司陰貞(北京師範大学)、袁允偉(上海市業余大学)、李一群(中国・国家教育委員会)、呉忠魁(北京師範大学、しかし事情あって一時期のみ)などの諸氏であった。また毎年「夜間中学」をテ−マとして見城慶和氏(1985年頃〜1994年)、のちに関本保孝氏(1991年〜1994年)に加わっていただいて、お二人の出講をお願いしてきた。この間、文部省在外研究(1986〜1987年)により欧米成人教育調査にでかけた際、英国に滞在して以来の友人であるI,Neary博士(ニュ−・カッスル大学)を招き、研究室で英国の大学エクステンションについて講義をお願いし、懇親の機会をもったこともある(1987年6月)。
 以下、紙数の範囲で、研究室・外史として、おそらく歳月の経過とともに後年忘れ去られるであろうことを幾つか記録しておくことにする。記憶が不確かなところもあり、修正すべき点もあるに違いない。当時の研究室メンバ−にご指摘いただければ幸いである。

 (1)歌でつづる研究室史
 私たちの社会教育研究室活動についてはこれまで5度ほど新聞がとりあげてくれた。まず「杉並区立公民館活動−現代史つづった教養講座」についての調査活動(朝日、1980・1・26)、そして「戦後沖縄社会教育研究会」(琉球新報、1983・7・20)、「ゼミ歌は喜瀬武原」(朝日、1983・1・4)、「フォ−クで沖縄研究」(毎日、1985・12・28)、さらに「日本 語学びとり生活の幅広げたい−識字学級調査から」(朝日、1993・1・24)である。ほかに 小林個人の記事(「うちな−・まいらぶ」琉球新報、1995・6・3、など)のなかに研究室のことが触れられている。ところで、このうち2点は研究室・ゼミの歌に関するものだ。たとえば1983年1月4日の朝日記事は次のように書き出している。
 「東京学芸大の小林文人教授(社会教育学)の研究室にはゼミ歌?がある。沖縄のフォ−ク歌手、海瀬頭(うみせど)豊さんの喜瀬武原(きせんばる)、米軍基地への闘争から生まれた 反戦歌である。“いまの学生には自分の歌がない(略)”と嘆く同教授は、コンパに出ると学生たちに“自分の歌をうたえ”と迫る。大抵は立ち往生し−−(略)。それに刺激されてか、沖縄研究を続けている同教授の研究室に出入りする学生たちは喜瀬武原に魅せられてしまった。“喜瀬武原 陽は落ちて 月が昇るころ 君はどこにいるのか 姿も見せず 風が泣いている 山が泣いている 皆が泣いている 母が泣いている、っていうんです、いい歌ですよ”と同教授。」
 当初は、かっての社会教育実践のなかでうたいつがれた歌を社会教育研究を志す若い人たちにも伝えたい、そんな動機から、コンパの席などで下手な歌を披露するかたちで始まったと思う。ときには「またか」と顰蹙をかう場面もあったが、しかしいつの間にか、楽しい集いがあれば歌をうたおうという流れになった。講師の進藤文夫さんの歌唱がまた絶品で、いつも最後をかざっていただいた。よくうたった歌を思いおこすと、ほぼ四つの系譜に整理できるようだ。(作詞・作曲者名−略)
 @「歌ごえ運動」に象徴されるような社会教育の現場や学生たちがうたった歌(「ともしび」「黒き瞳」「心さわぐ青春の歌」などのロシヤ民謡、「仕事の歌」「トルコの娘」「たんぽぽ」「赤い花白い花」「なごり雪」「インタ−ナショナル」「国際学連歌」「東京学芸大学学生歌・若草もゆる」など)。ほかにもたくさんあった。
 A地域文化運動を通して交流があり、小金井に本部をもち、また研究室OBの八朔友二(6年在学して1980年卒業)が参加している劇団「ふるさと・きゃらばん」の歌(映画「同胞」の主題歌「ふるさと」、「愛をどこかに」「とるに足りない人生だけど」「結婚は白い花」「捨てるわけにはいかないさ」「乾杯の歌」など)。白井健二(1982年)、樋口知子(前出)のコンビがうたう「愛をどこかに」など今でも耳に残っている。
 B沖縄の歌(「てぃんさぐぬ花」「芭蕉布」「ゆうなの花」「十九の春」「いった−あんま−ま−かいが」「汗水節」「さとうきび畑−ざわわざわわ」など、海瀬頭豊の歌「喜瀬武原」「海の子守歌」「月桃(げっとう)」「琉球讃歌」「さとうきびの花」など)。園田 教子(院生、1981年)は一時期サンシンを爪引いていた。
 Cアジアの歌(中国「草原情歌」「大海−我故郷」「松花江上」「高山清」「梅花」ほか、韓国「アチミスル(朝の露)」「ボンソンア(鳳仙花)」、エジプト「ブラディ」など)。主に留学生と一緒にうたった。
 それぞれその年の主題歌、いわば研究室の流行歌のようなものがあった。1990年代に入るとカラオケ全盛となり、研究室コンパでも歌う回数が自然に少なくなっていった。私はこの時期からカラオケ反対運動を始めた。

 (2)研究室合宿
 学部の生涯教育専攻新入生の御岳山合宿はとくに研究室の主催ではなかったが、大学院生、研究生による毎年恒例の研究室合宿が行なわれた。主として大学院修了者をかこむ合宿だが、OB・OGも参加するようになった。これに大学院新入生歓迎の趣旨が加わるようになって、1980年代後半からは研究室所属の留学生(研究生)が参加者の大半をしめるようになった。第1回は、初めて社会教育をテ−マに修士論文を提出した石黒緑をかこんで行なわれた (1)1979年−箱根・強羅(小林他、7人参加)の合宿である。毎年5月前後に企画された。以下、年次毎の経過のみ記す。
 (2)1980年−伊豆・伊東(8人−特別参加・小川利夫氏)、(3)1981年−伊豆・熱川(5人)、(4)1982年−箱根(10人)、(5)1983年−伊豆・川奈(8人)、(6)1984年−秩父(11人)、(7)1985年−奥多摩・数馬(8人)、(8)1986年−伊豆・天城(13人)、(9)1987年−十日町(11人)、(10)1988年−茅が崎・鎌倉(13人)、(11)1989年−山梨・勝沼(14人)、(12)1990年−三浦海岸(17人−特別参加・森山沾一氏)、(13)1991年−秩父(16人)、(14)1992年−山梨・勝沼(18人)、(15)1993年−群馬・渡良瀬(22人−案内・板橋文夫氏)、(16)1994年−山梨・勝沼(22人)、(17)1995年−十日町・堀ノ内(10人)、*参考(18)1996年−松本・小川村(12人)。
 なお研究室の旅行は、この合宿のほかに、神戸市「学校公園」調査(1975年)、山形県鶴岡市公民館・生活協同組合訪問(1980年)、後述する鹿島町調査(1984年)、松川町調査(1984年)、群馬県「ふるさと・きゃらばん」公演参加(1987年)などいろいろあるが、もっとも密度濃く通いつづけたのは沖縄であった。「戦後沖縄社会教育研究会」の記録によれば、1976年研究開始から1995年3月までに沖縄調査・訪問は53回に及ぶが、そのうち大半は研究室としての取り組みであり、この間に院生・学生(留学生を含む)が延べ相当数の規模で間断なく沖縄の地を踏んだ。紙数の関係で詳細は略する。沖縄研究および戦後沖縄社会教育研究会の経過については、後述の「沖縄社会教育史料」全7集(1977年〜1988年)にほぼ明らかであるが、それ以降の動きを記録としてまとめておく必要がある。

 (3) 研究室・年中行事
 定年退官にあたって学生部「キャンパス通信」157(1995・3・10)に書いたことだが、研究室活動は年数を重ねていく過程でいつの間にかある種の年中行事を創りだすことになった。幸いなことに学大キャンパスは首都圏大学のなかでも緑ゆたか、花咲きほこり、自然の移りかわりのあざやかな大学である。欅の並木からみる夕日はたとえようもなく美しく、また夜の研究会をおえてキャンパスを帰る中天に満月でも出ていれば、お月さまと一緒に若い仲間と人生を語りたくなる。そんな結びつきのなかで研究も進めていきたい、無味になりがちな研究室活動もそれなりの面白さ、豊かさをもつことになるのではないか、と考えてきた。
 研究室の年中行事とは次のようなことであった。4月初旬・花見、5月中旬・研究室合宿、6月下旬・非常勤講師を囲む会、7月初旬・七夕の会、9月・九一八(反戦)の集い、10月・月見の会(サ−クル「麦笛」及び「麦の子」と合同)、11月・沖縄研究旅行、12月下旬・忘年会、1月下旬・卒論完成祝い、2月・春節(留学生の餃子会)、3月中旬・研究室送別会、など。
 もちろん年によって違いもあり、また予定していても開かれなかった行事もある。「雪見の会」だけは予告できないので、ついに一度も実現しなかった。

4,研究室からの発信−「通信」と「報告」
 (4)けやき会と「けやき通信」
 思いだしたくもない学生部長時代(1980〜1984年)、仕事の主要部分は管理的かつ対策的、現状維持的な性格のものが多かったが、それでも多少新しい仕事をした記憶もある。その一つは社会教育主事資格取得のカリキュラムを軌道にのせ、すでに開設されていた図書館司書資格とあわせて、博物館学芸員資格に必要な科目開設を始動(担当講師・故伊藤寿郎氏)させたことである。この実施のため学長諮問委員会「学芸員等資格取得に関する検討委員会」が組織された。委員会の役割は、新しく発足した「学芸員」についてはもちろん、教員養成以外の他の専門職資格取得のための授業や実習、そしてその進路や就職について情報をあつめ、学生への指導、サ−ビスを開始しようとしたのである。他の私立大学等と比べてこの領域については、教員養成大学であるが故に大きく遅れをとっていた。
 東京学芸大学の同窓会組織をみると、教員就職組はがっちりと組織ができているが、それ以外の分野に進んだ卒業生は同窓会名簿にも記載されていない。学大の卒業生は教師の道に進むものが圧倒的に多かったが、そのなかで少数者ではあるが、社会教育、図書館司書、博物館関係、社会体育、児童館、その他福祉施設など教員以外の分野で仕事をしている人たちがいる。大学としてはじめてその人たちの調査を行い、委員会として「博物館・社会教育等への就職者一覧」(第1次調査・1984年、第2次・1986年)を作成した。この名簿「一覧」にもとづいて開催したのが「けやき会」である。
 卒業生への呼びかけは、本来は大学全体の課題として学生部厚生課あたりが就職対策活動と結びつけて実施してもよさそうだが、簡単にはすすまない。そこで社会教育研究室のボランティア活動として、院生有志が「一覧」記載の卒業生に案内を出し、夏8月、ビ−ルを汲みかわしながら相互の交流と情報の交換、卒業生と学生との出会いの集いをもったのである。予めそれぞれの分野の中心的な人たちに相談し、こじんまりした規模であったが、いい会合となった。また来年もやろうということになって、1985年から1987年にかけて、3年ほど続いた。しかしある筋から雑音が入って意欲をなくし中止された。だが置き土産が一つあった。社会教育研究室ニュ−ス「けやき通信」の発行である。
 けやき会は正式には「小金井けやき会」と称した。第1回の発起人は、小林文人、土田孝、池谷徹、平林正夫、山口真理子、藤田雅之、清水孝明の7人、学生代表の清水孝明を除けば、みな社会教育行政・施設、図書館等で活躍している卒業生である。この集いを母体に発行された「けやき」通信は、第1号(1986年8月)、第2号(1987年8月)ともに藤田雅之(相模原市教育委員会勤務)が編集・発行の労をとった。そして、これに刺激されたかのように、平行して「社会教育研究室ニュ−ス」bP(1987年4月)が発行されている。こちらは三浦千春(院生)が中心となって発行したと記憶している。記念すべき創刊第1頁の記事の一部を再録しておこう。1987年は研究室にとっていくつかの点で重要な年であったことがわかる。                    
 「祝!長浜先生教授昇任−この度、4月1日をもちまして社会教育研究室・長浜功先生が教授に昇任されました。研究室では小林先生の図書館長就任と併せて二重の喜びであります。今年度より独立した社会教育講座の柱として院生・学生をご指導下さいますようお願い申しあげます。(略)今回の第7集の発行によって『沖縄社会教育史料』も一応の完成となります。−小林平造助手の労をねぎらうとともに−(略)」などなど。
 この両ニュ−スは合体するかたちで第4号(1989年4月)より「けやきつうしん(社会教育研究室ニュ−ス)」となり、これより大学院の内田純一、渡部幹雄等が編集を担当した。その後「けやきつうしん」は10(1993年12月)まで発行され、その間、梶野光信や江頭晃子等が編集にあたった。1980年代後半の「けやき会」、「けやき」通信は姿を消したままとなっている。
 なお、毎年6月下旬に研究室が開く恒例の非常勤講師歓迎の会には、院生・学生が協同してパンフ「社会教育関係諸先生を囲む会」(小綴)を作成してきた。1988年より1993年まで6冊子が残されている。他に1990年前後には社会教育研究会(自主ゼミ)「報告」等の記録も出された。

 (5)研究報告とゼミ・レポ−ト集
 1990年代の社会教育研究室には、1988年度より大学改組による新課程「生涯教育」専攻の学部学生30名(定員)が毎年入学(ただし社会教育、図書館、博物館の3専修に分かれ、社会教育は10〜15名前後)するようになった。また大学院は87年に社会教育講座が正式に独立し、また1992・93両年度は「生涯教育」講座と2本建て(ただし94年度より両講座は合体)となって、学生・院生の数が増え、留学生もますます多くなり、かなり過密な生活条件となった。しかし量は質を創りだす。90年代の社会教育研究室ゼミ活動は多彩な展開をみせた。前述「けやきつうしん」10に私は「質的におもしろい研究空間を」と題してこう書いている。「社会教育関係の大学・研究室としては、博士課程をもっている大学をふくめて、遜色のない共同研究に取り組んでいる活発な研究室、といってよいのではないだろうか。」
 別掲の「業績」一覧→■のなかに記載している東京学芸大学社会教育研究室発行の諸研究報告(「沖縄社会教育史料」全7集、1977〜1988年、「東京の識字実践・92」「東京の識字実践・94」、「東アジアの社会教育・成人教育法制」1993年→■)以外に、次のようなゼミ報告集がある。これらは上記・研究報告書と違って、公刊されたものではなく、コピ−版を50部前後作成して、関係者に配布したものである。いわば研究室の私家版であるが、社会教育ゼミのメンバ−がエネルギ−を傾注した労作であり、その時代を反映したすぐれた資料集となっている部分も少なくなく、記録にとどめておくことにする。年度によって相異するが、B5版、150〜200頁程度の内容である。
 一覧にしてみると、結果的には、1980〜84年学生部長、1987〜91年付属図書館長の仕事に追われた年度は、ゼミ報告書をまとめるには至っていない。
 1985年「Y字港のある町ー茨城県鹿島町社会教育調査報告」(1)(2)
 1986年「夜空に星は輝いているか−夜間中学・自主夜間中学運動の記録」
 1992年「嵐への挑戦−1991年度社会教育演習報告書」
 1993年「激動のなかで−1992年度社会教育演習報告書」
 1994年「社会教育に光あれ−1993年社会教育演習報告書」
 1995年「小林先生と仲間たち−1994年社会教育演習報告書」
 たとえば1992年報告書を見てみると、その構成は、生涯学習、生涯スポ−ツ、障害者福祉、高齢化問題、外国人労働者と識字実践、子どもの地域活動と権利条約、週休2日制と学校週五日制、環境リサイクル運動、自治体社会教育計画、青年団運動、沖縄と平和問題、などの項目がならんでいる。その年度の特徴はそれぞれ加わるが、基本としては同じ骨格で問題・項目を設定し、20〜30人前後のゼミ参加者で分担して、年次毎にその課題を追求しつつ、報告集としてまとめられたものである。
 これらの作業に参加した皆さんは、いまもなお元気だろうか。

[追記]
 この機会に、(1)「戦後沖縄社会教育研究会」(1976〜95年、研究会128回、沖縄訪問・ 調査53回、学会発表12回、史料刊行7集、『民衆と社会教育』1冊、研究論文多数)や、(2)留学生特別ゼミ・社会教育「アジア・フォ−ラム」(1989〜95年、研究会等161回、中国・韓国・台湾等訪問13回)、(3)研究室OB・OGによる「社会教育理論研究会」など、の活動史年表を記録しておきたかったが、紙数の関係で省略した。また沖縄・奄美調査をはじめ、各種集会のビデオ、テ−プなど記録リストも一覧にしておきたかったが、これも果たせなかった。現物は和光大学社会教育研究室に保存している。
 上記の三つの研究会は、1995年5月に合流し、新研究会「東京・沖縄・東アジア社会教育フォ−ラム」(TOAFAEC:Tokyo-Okinawa-east Asia Forum on Adult Edudation and Cultures)のかたちで継続して新しい活動を始めている→■。活動記録については、同研究会・TOAFAEC 編『東アジア社会教育研究』創刊号(和光大学社会教育研究室、1996年)を参照されたい。(1996年6月20日記)








3,国立教育系大学・学部の再編問題と社会教育

       *小林「公民館の風」256号〜260号、2002年1月31日〜2月12日



 国立教育系大学・学部の再編問題と社会教育(1) 
                      公民館の風256号 2002年1月31日

 いま国立大学が「構造改革」「独立行政法人化」「遠山プラン」等で大揺れ。同じ「改革」にしても大学自らの内発的な動きでなく、外圧に組み伏せられるかたちで事態が進行しているところが残念!
 なかでもこれと連動して教育系大学・教育学部の再編統合問題が急をつげている。「風」メンバーのなかにも関係者が少なくなく、いま連日の会議・調整作業に追われて大変らしい(・・と他人事みたいで申しわけない、私もかってはそういう大学に身をおいていた)。むしろ国立大学再編問題は「教育学部絡み複雑化」(朝日新聞、1月29日)なのだ。
 この間の経過では、文部科学省におかれた「国立の教員養成大学・学部の在り方に関する懇談会」が昨年11月24日に検討結果を公表し、文科省は強い姿勢で本1月末までに何らかの「改組」「統合」「再編」の方向を求めている。
 この緊急事態を受けて、日本教育学会では、年末の12月24日、東京で「教員養成系大学・学部の再編動向を考える」シンポジウム(小笠原道雄・在り方懇委員、横須賀薫・宮城教育大学長、など)を開いた。全国各地から多数の関係者が集まり、普段の学会シンポジウムに見られない緊迫感がただよっていた。
 弱小教員養成学部の再編・統廃合、県域をこえたスクラップ・アンド・ビルドの動き、これまでにない規模で情勢は推移しつつある。大学相互の結論が出ない場合は、文科省が(大学と共同で)2002年度内に組み合わせを確定させるという。とくに規模の小さな大学の教員養成学部(地域と結びついて独自の役割をもつところが少なくない)の命運が憂慮されている。
 ところで、このような大学「改革」の動きは、自治体の社会教育や公民館とは直接の関連はないように見える。そうだろうか?
 「公民館の風」では静岡大学・石井山竜平さんが何度か国立大学・教育学部の改組問題を訴えてきた(202号2001年8月26日、227号同11月6日)。この問題がなぜ公民館や社会教育と関連があるのか、そんな疑問をおもちの方もきっとあったに違いない。これが大ありなのだ。

 国立教育系大学・学部の再編問題と社会教育(2)
   −教員養成学部への社会教育の位置づけ      公民館の風257号 2002年2月4日
 教員養成学部のカリキュラムに社会教育関連の授業科目が登場するようになるのは、そう古いことではない。戦後半世紀のなかの後半部分?にようやく姿を見せてくる。
 なぜだろう。「教員養成」とはもちろん学校の「教員」養成であり、それ以外の(たとえば社会教育の)教育専門職は含んでいない。しかも今と違って、人口増・多子化の時代であり、とくに首都圏などでは新規教員の確保は急務の課題であった。旧師範学校からの体質も残り、国立教員養成大学・学部は、教員の「計画養成」施策にそって、教員免許取得を必須としたカリキュラムを組み、卒業生はすべて教員の道に進むかたちが当然と考えられてきた。そして反面、教員養成学部における教育職員免許法を基軸としたカリキュラム編成は、教学上の「大学の自治」を大きく制限されていたことになる。
 私が東京学芸大学に採用(1967年)されたのも、社会教育専攻としてでなく、教育社会学の担当としてであり、同時に社会教育についても講義が出来る、という理由であった。卒業単位130単位前後(免許法との関係で必修科目の比重がきわめて多い)のなかの、社会教育は自由選択科目(わずか2単位)の一つに過ぎなかった。それでも授業科目として掲げられたこと自体はむしろ注目すべきことであって、この時期、多くの教員養成学部ではまだ社会教育の科目は位置づいていない場合が多かったと思う。
 したがって、社会教育担当者も教員養成学部にはまだほとんど配置されていなかった。日本社会教育学会の会員としては、千葉大学に福尾武彦、大阪教育大学に宇佐川満、などの先輩がようやく“散見”される程度であった。しかし、この頃に旧帝大系の国立教育学部に社会教育の講座が設置(大阪大学は同和教育がらみ・・・)されるようになり、その波及もあって、次第に教員養成学部にも社会教育の講義が開かれるようになった。1970年前後のことである。
 首都圏の人口増・児童生徒数の急増を背景とする教員養成学部の学生定員増・教官定数増によって、東京学芸大学・教育学研究室の体制も拡充され、私はすぐに社会教育関係の授業科目に専念することが出来るようになった。そして、全国に先がけて社会教育を担当する教官が2名体制となった(1974年)。むしろ大阪教育大学が「同和教育」担当を設置することの関連で、東京学芸大学の社会教育担当教官の1名増(2名体制)が実現したと記憶している。大学カリキュラムに「解放教育・同和教育を!」という運動が社会教育の科目(定員)増設にも効果をもたらしたのである。
 1970年代に、教員養成学部に社会教育専攻の研究者を採用する動きが少しづつ多くなるのは、上述のような流れとともに、研究費・予算積算上「社会教育」科目を実験講座と位置づけた文部省の措置が大きかった。たしか教育社会学の実験講座化より1年早かった。これには当時、数期にわたって日本社会教育学会々長をされた吉田昇氏(お茶の水大学教授、初代の社会教育推進全国協議会委員長、同時に文部省社会教育審議会の委員)のなみなみならぬ努力があったことを特記しておきたい。
 「社会教育の研究者は、いろいろ活発に空中戦のような論戦はするが、地を這う思いでお金を工面することをしない」と笑いながら述懐されていたことを想い出す。私は当時の大蔵省・主計官に友人がいたこともあり、若造ながら「小林くん、どう思う?」と相談を受けたりしたことがあった。
 そして、1980年代になると、少子化と児童生徒数減の兆候がはっきりとあらわれ、それにともなう教員採用の激減と教員養成学部の再編・縮小、ゼロ免と「新課程」設置の動きが始まることになる。
 この時期、私は幸か不幸か、大学の中枢の役職(学生部長、付属図書館長)を延べ4期にわたって務めることになった。教員養成の端っこだった社会教育は、教員養成を主たる目的としない「新課程」の中心に位置することになった。結果として東京学芸大学の中に「生涯教育」専攻を立ち上げ、そこに社会教育・図書館学・博物館学の3コースを設置し、それぞれ2名、1名、1名の専任教官定数を確保して、2名体制から4名(従来の学校図書館学1名を加えれば5名)体制へと“躍進”したのだ。
 80年代から90年代に向けて、各大学では「生涯学習センター」的施設の設置も増える。これに「新課程」の潮流を加えて、教育系大学のなかでの社会教育関連のカリキュラムと教官の比重は、大きく増大してきた。社会教育を専攻する若い研究者が少なからずポストを確保できるようになった。
 その見直しが、いま始まっているのである。

 国立教育系大学・学部の再編問題と社会教育(3)
   −大きな転換点、なにが失われるか       公民館の風260号 2002年2月12日
 昨年から今年初頭にかけて、国立教育系大学・教員養成学部は今後の方向を決めていくための協議・調整に追われ、なかには消耗的な議論も重なり、たいへんだったようだ。なにしろ文科省は強い姿勢で「改組」「統合」「再編」について何らかの方向を1月末までにまとめるよう求めてきているのだ。公民館の風・メンバーのなかでも、静岡大学はじめ、北海道教育、鹿児島、佐賀など、また他の大学でも、苦渋のなかで、すでに何らかの対応がとられているのであろう。
 教員養成学部の見直し問題は、「公民館の風」257号にも記したように、いわゆる「新課程」の位置づけが大きな焦点だ。「在り方懇」(文科省高等教育局長裁定「国立の教員養成系大学・学部の在り方に関する懇談会」)報告に収録されている資料によると、教員養成課程の入学定員・9,750にたいして新課程の定員は6,180(38.8%)に達する(合計15,930)。定員の少ない小規模教員養成学部でとくに新課程の比重がたかい。
 ちなみに新課程の専攻分野別の内訳では、生涯教育・社会教育(入学定員1,411)がもっとも多く(22.8%)、ついで国際理解・国際文化(872)、情報処理・情報教育(824)、芸術・文化(819)、生涯スポーツ・健康科学(787)、環境教育(780)、ついで社会福祉・臨床心理(415)、総合科学・自然科学(272)の順になっている。教員養成学部の教科主義(国語、社会、理科など)の枠組から脱皮し、現代の諸課題に挑戦しようとする面白い専攻が並んでいる。
 新課程が登場しはじめた背景には、教員養成学部が体質的に残してきた旧師範学校以来の伝統的な学科構成とカリキュラム構造を大きく転換・改革していこうとする活発な論議があった。現在の外圧的な「改革」動向と違って、教育系大学内の内発的な努力が新しい課程を志向する改革を生み出してきたのは確かであろう。
 その歩みは1980年代後半から90年代以降のこと、まだ10年余りの模索に過ぎない。しかし、これまでにない新しい動きがいろいろとあらわれ始めてきた“10年余”であった。もちろん教員養成学部の個別の事情によって一様ではないが、若い世代の研究者も迎えて、新しい視点からの転換が、静かに胎動しているという実感がある。どのような変化が見られてきたのか。
 たとえば次のようなことがあげられよう。
1,学校教育・教科主義中心の枠組による教員養成制度を、広い視野から「教育専門職」(その中に社会教育関連専門職を含む)養成へ改革していこうとする新しい視点の登場。
2,教育学、教育心理学、教科教育学等に依拠してきたこれまでのカリキュラムから、関連諸科学の学際的な研究成果を積極的に活用していこうとするアカデミックな水準の向上と拡充。
3、現代社会の切実な諸問題と地域の市民活動へのまなざし。
4,生涯学習センターの設置とも連動して、大学を地域へ開く活動の活発化。それも、大学から地域への一方向のエクステンションでなく、地域と大学の双方向性のエクステンションの始動。総じて大学と地域との出会い。日本でもようやくそういう時代が本格的に始まった、と言えるかもしれない。
5,社会教育・生涯学習を学ぶ学生の増加。上記のように新課程「生涯教育・社会教育(入学定員1,411)」のコースが少なくとも10年の蓄積をもったことを考えれば、延べ1万4千人の若い人々が社会教育・生涯学習を新しく学んだことになる。社会教育主事資格の取得はこれまで主として私立大学が中心であったが(社会教育・就職難を背景にいま退潮気味)、国立大学でのこのような動向は初めてのことであった。学生定員の増は当然ながら教員増を招来し、国立大学内での社会教育研究者ポストがこれまでになく拡大した。
 このような「新課程」がこの10年余静かに展開してきたのである。もちろん多くの課題・矛盾を抱えつつ、苦労の多い10年余でもあった。
 教員養成大学は各都道府県毎に設置されてきた。その意味で地域主義に立脚してコミュニテイ・カレッジの性格をもっている。この間、生涯学習の政策潮流もあり、開かれた大学としての動きが次第に活発になり、ようやく大学と地域の、そして大学と社会教育・公民館との出会いが始まった段階において、その見直しが求められる事態になったことになる。これから1年、さらに独立法人化を含めての数年、どのように推移するのであろうか。
 とくに教育学部・再編成の動きが憂慮される。地域・自治体の社会教育・公民館の観点から、大いに関心をもっておく必要がある。

○教員養成学部再編問題と社会教育(4〜6) *以下・略
 ・北海道教育大学(内田和浩) 公民館の風・263号 2002年2月19日
 ・山梨大・横浜国立大・教員養成、存続か廃止か
 ・静岡大学(石井山竜平) 公民館の風265号(2002年2月23日)公民館の風267号(2002年2月27日)






4,猛暑の主事講習をふりかえる
   −
1984年・東京学芸大学社会教育主事講習の試み(抄)


         *小林文人「猛暑の主事講習をふりかえる」
                  東京学芸大学社会教育主事講習集録、1984年、2〜6頁。
           この抄録は社会教育推進全国協議会編 『社会教育・生涯学習ハンドブック』
            (1989年、エイデル研究所)に収録された。


 …(略)… 講習の骨格とプログラムの大枠が確定していく過程で、主任講師として考えたこと
は次のようなことであった。
1,大学において社会教育主事講習を開催するということの意義を積極的に考えたい。それは
 やはり、学問探究の研究的精神、自由の精神、自治的な集団の形成、といった大学的な理
 念を、主事講習の運営においても、できるだけ尊重することであろう。
2,講師陣は、その分野における第一線の研究者・専門家を依頼し、高い水準の講習プログラ
 ムを編成したい。学内スタッフだけでなく、積極的に都内・都外の大学・研究機関から講師を
 招く。
3,「演習」を重視する。「演習」を通して自由闊達な研究集団を形成する。受講生相互のできる
 かぎり自主的な交流が深まるよう援助する。
4,受講生による自治的な運営を尊重する。大学から受講生へ与えるかたちの受身の講習でな
 く、積極的な参加と自治による講習にしたい。
5,本学が位置する東京・三多摩の社会教育機関(公民館、図書館等)を見学し、それと交流す
 る機会を設けて、大学だけでなく、地域の実践の具体的な展開を通して学習できるような講習
 にできないものか。
 …(受講生、講習プログラム、演習と施設見学−中略)…  

 受講生の自治組織
 社会教育の本質は、自主的な自己教育活動であり、自発的な参加と自治が尊重されなければならないということからすれば、社会教育にかかわる主事講習そのものが、自主的、自発的に、「参加と自治」を大事な原則として運営されることは、きわめて重要な課題でなければならなかった。この点は、講習の第1日目に主任講師から問題提起し、積極的な取り組みを受講生に求めたことであった。
 受講生の皆さんは、これに真正面から応えていただいたと思う。まず、数日にして、総務委員会が組織された。はじめての総務委員会で委員に選ばれた各位が、大事な問題について自発的かつ積極的に発言を始められたとき、「あぁ、この講習は半ば成功したようなものだ」と思った。
 総務委員会の話し合いに基づいて、さらに数日後、生活・レク・広報・記録、図書・資料、編集の各委員会が発足した。これらの委員会はそれぞれに委員長(副委員長)を選び、主事講習の全期間を通して、創意あふれる活動に取り組んでいただいた。この「自治」活動は、本講習のなかでも最も成功した、ひろく語り継ぐべき点ではなかろうか。広報・記録委員会による「せんぷうき」の発行、生活・レク委員会の毎朝のレク活動、図書・資料委員会による図書あっせん、販売活動、そして編集委員会による本「集録」の自主編集、などその典型的な活動である。
 なかでも、「せんぷうき」は学外にも旋風をまきおこし、群馬大学や信州大学の主事講習に波及し、これに似たミニ・コミの発行が行われたと聞く。「せんぷうき」は最終号67号を数えた。毎日(多いときは1日に8号)の発行に努力された委員会の皆さんと、根気よくその印刷を担当してくれた大学教務課をはじめとする関係の皆さんに、脱帽したい。(以下、略)






5,沖縄・復帰20年を迎えての旅
                 
        東京学芸大学・社会教育ゼミ・沖縄訪問団報告「魅惑の土地・沖縄へ」(1992年)


 1991年はよく沖縄に通った年だった。1月、4月、そして10月の久茂地文庫15周年、そしてまた竹富島・種子取祭(11月)など、沖縄に興味をいだいたメンバ−との楽しい旅が続いた(少し疲れたが−−)。11月の竹富・八重山をまわる旅からの波及があって、1992年1月の正月早々に相次いで沖縄を訪問することとなった。
 いつも私が誘い出すことが多いのに、今回はそうではなく、同行の学生諸君の方から誘い出されたかたちだ。その熱意には何としても応えねばならないと思った。そして本報告集の作成(学期末の忙しい中にも拘らず)も頑張ってくれた。生涯教育専攻・三年・社会教育ゼミ(小林ゼミ)有志の若々しいエネルギ−にまず敬意を表しておきたい。
 振り返ってみると、1992年は、沖縄の本土復帰から丁度20年の記念すべき年にあたる。この20年という歳月は一体どんな経過であったのだろうか。私たちが沖縄研究にたずさわるようになって15年経つが、当時から比べても、沖縄は随分変わった。そして沖縄を取り巻く国際的な情勢も大きく動いた。
 とくに最近数年の東西をめぐる政治状況の激動には目を奪われる。ソ連邦の解体に示される冷戦構造の変化は、当然に極東の“キイ・スト−ン”である沖縄の政治的かつ軍事的位置にも大きな変化をもたらした筈である。復帰当時の状況から比較して、それはどんなかたちでいま具体的に現れているのであろうか。沖縄を旅しても、その実相はなかなか姿を見せてくれない。とりわけ単純な観光旅行の気分では何も見えはしない。
 東西の冷戦の構図が崩れてきて、沖縄の軍事基地は次第に縮小・返還の方向をたどるだろうというのが一般的な見方であろう。しかし今度の旅では、むしろ逆の印象を受けた。空港に隣接する那覇港の軍用地は妙に騒がしい。フイリッピンの米軍基地から運ばれてきたらしい戦車や砲車がぎっしりだ。韓国駐留の米軍部隊が沖縄に移動してきているという報道もある。これは一体どういうことか。
 国内的にはどうか。昨年来からさかんに沖縄が話題になる。マスコミでもなかなかの取り扱いだ。たとえば、はじめての沖縄からの大臣(沖縄開発庁長官)、NHK紅白出場の 喜納昌吉、国立博物館の「海上の道」特別展(復帰20周年記念)、そして来年のNHK大河
ドラマに「琉球」の登場、などである。
 沖縄が話題になることはいいことだ。沖縄には、現代の歴史と政治が、国家と民衆が、あるいは戦争と平和、などの問題がぎっしりと凝縮されている。ただそれがどのように取りあげられるかが問われなければなるまい。うわべだけではなかなか見えない実相を、現実の深みにおりて、しっかりと見つめる努力を忘れてはならない。
 今回の旅で、若者たちは沖縄の何を見ただろうか。彼らは「ひめゆり平和記念資料館」の“語り部”のお話に涙を流した(私の話で泣いたことは一度もない)。このみずみずしい感性をもってすれば、きっと沖縄の深くそして重い何かを見つめたに違いない。






6,質的におもしろい研究空間を

         
 東京学芸大学社会教育研究室「けやき通信」12月(1993年)


 今年の研究室はにぎやかだ。おそらく社会教育研究室はじまって以来のにぎやかさだろう。これまでの大学院「社会教育」講座が、新しく始まった教養系の学年進行にともなって、92・93年度は「生涯教育」講座と二本立てになった。院生・留学生ともに定員が増えたわけである(ただし94年度からは両講座は一本になる)。それに加えて学部の社会教育専攻の諸君もかなり元気だ。
 振り返ってみると、いま社会教育学会や社全協運動などの第一線で活躍している小林平造(鹿児島大学)や上野景三(佐賀大学)などが院生だった頃は、社会教育講座そのものがなかった。平造くんは教育史講座、景三くんは学校経営学講座に所属していた。いまの社会教育「実験室」もなかった。留学生は一人もいなかった。別の先生と相部屋の小林研究室を文字通り“占拠”して研究会をもっていた。それでもなかなか熱気あふれる論議をかわしていた。そうだ、園田(現・平井)教子もいて、せまい部屋で「社会教育ハンドブック」初版の編集・索引づくりに取り組んだことを思い出す(1979年冬)。
 当時すでに沖縄研究会は始まっていた。初代・事務局長は末本誠(神戸大学)、2代目は野村千寿子(大田区教委)。80年代に入って、いまの研究棟が新築された。小林・長浜の研究室も個室になり、「実験室」という名称で新しい共同の研究室もできた。その頃から少しずつ留学生が顔をみせるようになった。記憶では81年に中国語学習会、そして88年あたりに「アジア・フォ−ラム」が発足した。
 いま研究室はにぎやかだ。留学生をふくめて多彩な陣容だ。それを基盤に昨年は共同調査の成果を「東京の識字実践・1992」として刊行した。このときは内田純一(東京都立教育研究所)や梶野光信(東京都教育庁)が中心だった。今年は現メンバ−の総力をあげて、もうすぐ「東アジアの社会教育・成人教育法制」が完成する。嬉しいことだ。社会教育関係の大学・研究室としては、博士課程をもっている大学をふくめて、遜色のない共同・研究活動に取り組んでいる活発な研究室、といっていいのではないだろうか。
 しかし課題もある。この量的なにぎやかさを、多彩な陣容を、あと一つ質的なにぎやかさに、それぞれの内面的な充実に、どう結びつけていくか。お互いの個々の研究テ−マを積極的に出しあって、共同の研究論議をどう燃え盛らせていくか。せまく、決して清潔ではない研究室だが、ここを拠点にして、お互いの貴重な研究的“青春”(小生も含めて)を創りだしていきたいものである。歴史は、案外とせまくて、清潔ではないところから、しかし心をよせあう共同の空間・たまり場から始まるものだ。





7,東京学芸大学「社会教育演習」ゼミ報告書−まえがき・まとめ等

○1991年度「はじめに−激動の時代に生きて」(1992年1月)

 1991〜2年にかけての社会教育演習(水3・4)は、これまでの伝統?を生かしてゼミの記録集をまとめることになった。ゼミ幹事の五頭和美さん、作業にあたった有志、そして執筆に努力したゼミの皆さん、ご苦労さまでした。
 今年度のゼミはどのような時代的背景のもとにすすめられたのか。学問研究というものは、移り変わる時代から超越して理念・理論の世界を抽象的に動いているようにもみえるが、決してそうではないのだ。一九九一年度の社会教育演習もまたグロ−バルな規模での激しい状況の変化を背景にして、言葉をかえれば、世界の激動を体にうけて、ゼミはすすめられたといっても過言ではない。
 いうまでもなく現代の学生の皆さんは、これまでの世界史が経験したことのない程の激変の時代に学生生活を送った。1989年以降の中国・天安門の事件から始まって、東欧・ベルリンの壁の崩壊から、湾岸戦争、そしてソ連邦の解体にいたるここ数年の歴史は後まで記憶される“時代”であろう。ただそのような時代に学生として敏感に生きたたかどうかの違いはあるだろうが、妙な言い方だが、ある意味ではいい時に“学生”であったわけである。   
 社会教育も当然その時代の“社会”と“歴史”に敏感に関連して動いていく。1945年以降の戦後教育改革からすでに40年あまり、ここ数年の動きをふりかえってみると、いままさに社会教育“激動”の時代といっていいだろう。その主要なものをあげれば、一つは1990年に制定された「生涯学習振興整備法」にともなう動き、それにともなう社会教育法制の見直し路線、二つには学校五日制・週休二日制にかかわる問題、そして三つには国際識字年を契機とする新しい識字実践の取り組み、四つには外国人労働者などにみられる日本社会の“内なる国際化”問題、五つにはこれらに連動する国内の環境・福祉・地域・文化・労働・差別などの新たな諸問題とそれらが社会教育・生涯学習に提起する問題、などである。 
 今年度の社会教育ゼミは、これらの現代的諸課題の“嵐”のなかで、非力ながらその嵐に挑戦するかたちですすめられた。まず?テキスト「生涯学習計画と社会教育条件整備」(小林・藤岡編)をとりあげ、?上記の現代的課題への認識を深めつつ、?東京二三区の識字実践について調査し(有志による−日本社会教育学会年報「国際識字十年と日本の識字問題」に収録)、そしてこれが契機となって?後半は本報告集に盛り込まれているテ−マを設定し、それぞれ関心ある課題についてグル−プで分担し、?調査・報告・検討を重ねながらレポ−トをまとめる、という経過であった。出来栄えは見てのお楽しみ!
 このゼミを通じて学生の皆さんが何を得たか。一人ひとりに細かく聞く機会をもてないのが残念であるが、時代と歴史にたいする敏感な感性(知識だけでなく)と、課題を調べ分析しそして挑戦する精神を持ち続けてほしい、と願っている。「自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利」(ユネスコ・学習権宣言)を自分のものにしてほしい。


○1993年度ゼミ・報告集はじめに−激動の時代に生きて」 (1994年1月)
                                           
 1993年度「社会教育演習」(水・4・5限)参加者は、社会教育・専攻の学生ではなく、他学科・他専攻の学生たちである。みなそれぞれの、社会教育以外のテ−マあるいは卒業論文の課題をかかえている。
 しかしそれぞれの立場で社会教育についての関心をもっている。今年度は、昨年度の経過も考えながら、ゼミ開始の段階で、次のような〈課題−10のキワ−ド〉を提起した。@生涯学習・政策をめぐる動向、A生涯スポ−、B障害者・高齢者・社会福祉、C企業メセナ、D外国人労働者、難民、在日韓国・朝鮮人、E日本語教室、F週休二日制、学校週五日制、学校開放、G子そもの権利条約、H地域文化運動、I自治体社会教育・施設、の10点であった。
 この柱を起点に、新しい課題も加え(たとえば「部落問題、同和教育」など)参加者が課題を共有しかつ分担するかたで、それぞれのテ−マを設定した。ゼミは各テ−マ・グル−プの報告を重ねるかたちで進められたが、最終的なレポ−トとしてまとめられたものが、目次にしめされるように結実したのである。
 このゼミの進行、そしてレポ−ト集の作成にあたった受講生の皆さん、とくに幹事(編集長)や副幹事、コンパ担当の労を多としたい。

 この機会にこのゼミの背景でもあった国の政治状況、そして社会教育・生涯学習をめぐる政策の動きを振り返っておくことにしよう。
 1993年は政治的には激動の1年であった。この年の夏、政権は交代し、細川連立内閣が発足した。この連立内閣は、社会教育ないし生涯学習にかんしてどのような政策・方針をもっているのだろうか。歴史的にみて、どんな役割を果たすのだろう。
 周知のように、1990年7月に成立した生涯学習振興整備法からすでに3年あまりが経過している。この間には、法(第10条)に基づいて設置された生涯学習審議会が答申をまとめ(1992年7月)、また通産省・産業構造審議会・生涯学習振興部会も「生涯学習の振興方策について」の中間答申(同年9月)を示している。それから約1年を経過したところでの新内閣の発足であった。
 皮肉なことに新内閣は、前政権下のいわゆるバブル経済がみごとに崩壊し、経済不況の長期化が深刻化するその真只中で誕生した。生涯学習振興整備法を生み落とした経済的背景と政策要因は大きく変動している。先行き不透明な経済状況のもとで、この法の目玉商品である「地域生涯学習振興基本構想」「基準」(同第5、6条)は、法成立から3年半ばを経過した現在でもまだ策定さていない状況である。
 だからこの生涯学習の政策については、ある文部省・某担当官によれば「高速道路はつくったが、車が走ってくれない」のだそうである。しかしむしろ高速道路の基盤そのものが大きくゆらぎ、高速道路自体がたがたの実態なのではないだろうか。
 他方で、都道府県レベルの生涯学習推進体制は、この1990年・法施行以降に急速に進行している。行政組織上の「社会教育」を見直して「生涯学習」へ再編する動きが顕著であり、あるいは生涯学習関係の審議会・推進会議等が設けられ、「計画」が策定されるなど、実際には明らかな転換が始まっている(文部省生涯学習局調べ、1993年10月)。
 そして細川内閣は、この半年、小選挙区制・政治改革と規制緩和の大合唱を展開してきた。首相の私的諮問機関である経済改革研究会(平岩・経団連・会長)は「教育も聖域ではない」として社会教育法・図書館法・博物館法をふくむ教育関係法の見直しを指示し、また生涯学習審議会社会教育分科審議会は社会教育主事・司書・学芸員等の資格、養成、研修等についての「規制緩和」にかんする専門委員会を発足させた(94年1月27日)。細川・熊本県知事時代から話題になった(国庫補助)公立図書館長に司書資格を求めている現行図書館法の規制を緩和する問題を契機として、「図書館法を抜本的に見なおす」(『地方行政』、93年8月30日号)動きも見逃せない。1994年は、いままで取り沙汰されてきた社会教 育関係法制の“改正”問題が新しく急浮上するおそれもでてきている。
 いまや生涯学習政策は単純な教育政策の位置にとどまるものではない。国の政治改革や自治体政策と複雑に絡み合い(たとえば小選挙区制と生涯学習圏域との重なり)、経済戦略や規制緩和の政策と深く関連している。大きく国家政策のなかに位置づけながら、生涯学習の問題の構図をしっかりと読みとる必要がある。 それにもかかわらず、この間注目されるのは、とくに市町村レベルにおける地域からの生涯学習計画づくり、自治体政策づくりの動きが活発なことである。少なくない自治体において、住民主体のエネルギ−が躍動し、それにかかわって職員が格闘し、また研究者が参加して、内容のある生涯学習の計画などが策定されている。そこには共通して主権者たる住民の学習権保障の立場が基底にあり、暮らし、環境、健康、福祉などの生きた諸課題と切り結んで、広い視野からの自治体「生涯学習計画」を創りあげようという努力が拡がりをみせている。
 このような新しい動きも視野にいれて、日本の生涯学習・社会教育のこれからの望ましい展開に関心をもち続けてもらいたいものだ。





8,春の桜と秋の欅と−思い出はつきず

                             東京学芸大学キャンパス通信(1995年3月)

 この大学に赴任したのは1967年。当時は、春の桜も秋の欅の紅葉も愛でる余裕はなく、早くここから脱出したい、などと考えていたことを想い出します。なぜそうだったのか、その理由をここに書く余裕はありません。その後、私自身の紆余曲折があり、歳月が経過してくると、いつの間にか大学の春の桜が待遠しく、また紅く色づいた欅並木を通るたびに、いい大学だなあ、としみじみ思うようになりました。そしてついに定年を迎えるまで本学にお世話になったわけです。いろいろと有難うございました。
 首都圏の大学としては自然豊かなキャンパス、9階建ての新研究室がオ−プンした時期(1980年)あたりから、積極的に研究室づくりと年中行事を提唱してきました。4月・花見、5月・春合宿(歓迎会)、6月・(非)講師を囲む会、7月・七夕の会、9月・九一八の集い、10月・月見の会、11月・沖縄への研究旅行、12月・忘年会、1月・卒論祝い、2月・春節、3月・送別会、などです。 もちろん開かれなかった行事もあり(「雪見の会」は予告できないのでついに一度も実現しなかった)、また年によって違いもありますが、この10数年ほぼ研究室行事として実施されてきました。これに留学生中心のアジア・フォ−ラムや中国語学習会、それに沖縄研究会が重なって、まことに賑やかな研究室となりました。数年前までは研究室でよく歌もうたいました(カラオケ・ブ−ム以降は歌わなくなった)。いつまでも忘れることができない思い出となりましょう。
 苦しいこともありました。なによりも70年前後の大学紛争のこと、いつの日か書いておきたい出来事があります。それから学生部長の4年間(1980〜84年)、そして新課程をつくる際の生みの苦しみ、などです。これは、思い出したくもありません。この間、私はとくに心ある事務官の方々に支えていただきました。あらためて御礼を申しあげます。





 和光大学

11,
1995年度・プロゼミD「地域と生涯学習」をふりかえる(小林ぶんじん)

  
 プロゼミの出発
 私にとっての初めての和光大学・プロゼミ、出会いは1995年4月に始まった。期待は大きい。大学教師30年余の経験のなかでも、ピカピカ(そうでもないか?)の新入生「ゼミ」というのは初体験、参加してくる学生諸君にとっても大学生としての初めてのゼミ、双方“初めて”づくしだ。
 いまプロゼミの報告集がまとめられるにあたって、どんな経過でこのゼミが進行したか、担当者として、思い出すままに振り返っておくことにしよう。
 最初の4月12日、19日の2回のオリエンティションでは、主に次のようなことを話したと思う。
 「地域」には教育・文化・福祉などをめぐるさまざまの活動がある、あるいは住民の運動もあろう、これまでの受験勉強ではおそらく見ることがなかった「地域」、その生きた事実に出会ってみたい、中心のテ−マは「生涯学習」、本も読みながら、本を持ってフィ−ルドに出よう(その昔、全共闘世代には“本を捨てて街に出よう”という主張があった)、かけがえのない青春にいい仲間とも出会ってほしい、楽しくやっていきたい、などなど。
 その結果、5プロゼミのなかからこのゼミを選択して集まってきた参加者は34名。エントリ−した仲間の最初の名簿は飯澤美樹が作ってくれた。7月の合宿を含めて会計は石田博子(補助は大澤直子か)、全体の代表は、なぜか遅れて参加した柿森圭樹が引き受けてくれた。ミニコミの担当は「宮岡亮太」(宮公美子、岡大輔、田中亮太)。みな自主的かつ積極的な姿勢が垣間見えて嬉しい。
 しかし、34名のうち当初から2名の欠席が続き(1人は病気、1人は家庭の事情)、結果的には32名の集団となった。和光大学独特のプロゼミ制度(新学部・新カリキュラムでは必修)が創りだした仲間集団、さてこのゼミがどのように動いていくのか。

 四つの班づくりと「地域」との出会い
 人間発達学科1年の人数から考えると、5プロゼミの平均人数は20名余りとなる筈だから、私たちのプロゼミDは10名余り多いということになる。しかし学生の意志を尊重して人数の調整はせずに、希望通りにそのまま受け入れることになった。しかしゼミ集団としては、32名はやはりすこし多い。
 4月から5月にかけて、担当者・小林はこれまでの研究者としての自己紹介を含めて、「地域と生涯学習」の現代的な動向や課題などに関して、いくつかの問題提起をした。沖縄や川崎など、あるいは「東京の識字実践」(1995年)などの具体的な地域の動きも紹介した。その上で、参加者各自がもつそれぞれの研究課題を出しあうことになった。参加者の問題関心はかなり多様なひろがりがあり、それを整理して、この段階でも各自の興味、研究関心を尊重するかたちで四つのグル−プが編成された。四つの班のテ−マ及びゼミ幹事は次の通りである。 
1,沖縄班 7名(幹事・山本信義)
2、識字班 7名(幹事・森本涼子)
3,生涯学習班 8名(幹事・安藤久晴)
4,福祉・人権班 10名(幹事・岡本亜香)−部落・同和教育への関心を含む
 自己のテ−マは自らの意志で設定すること、その上で四(ないし部落・同和教育を含めば五)のグル−プごとの共同研究にチャレンジすること、そして課題にそくして関連するいずれかの「地域」(フィ−ルド)を発見すること、小林は「求めに応じて」(社会教育法)助言し、興味に即して「地域」を紹介する、などが話しあわれた。
 最初に相談に来たのは、福祉班の曽根香織、渡辺亜希子など。町田市公民館の障害者青年学級(大石洋子氏担当)へお願いし、濃密な出会いが始まった。各班ともに識字学級や地域の活動へのアプロ−チが少しづつ進んでいった。

 プロゼミの展開から「まとめ」へ
 6月以降になると、各班によってその活動とレポ−トが開始された。プロゼミ全体の展開のなかでは、次のようなテ−マ・活動がとくに思い出される。
 5月17日  プロゼミ合同コンパ
 5月31日  「掛川市の生涯学習」(報告者・金田智之)
 6月7日  沖縄1フィ−ト運動による映像「未来への証言」
 7月17〜19日 プロゼミ・合宿(静岡県青部)
 8月26〜28日 第35回社会教育研究全国集会(山形県蔵王、参加・飯澤美樹)
 10月11〜17日 沖縄研究旅行(沖縄班、他に宮公美子、葭田朱美、生津真一、
                    長崎大輔、羽間祥子が参加)
 11月8日  川崎市ふれあい館の見学、終了後懇親会(生涯学習班ほか)
 12月13日  ゼミ「まとめ」に向けて(小林レクチャ−)、編集委員会の編成 1996年1月に入って、各班のレポ−トがまとめられ、編集委員会による報告集の刊行の努力が重ねられた。みなさん、ご苦労さま。
 このプロゼミ活動が、参加者それぞれの和光大学4年間の充実のために、そのいい出発になることを祈っている。以下、今後の記録として、@5月ゼミ発足、A7月合宿、B「まとめ」についての小林レクチャ−のレジメを収録しておく。(略)






12,1998年の新しい動向と生涯学習論ゼミの課題
 
             和光京大学人間関係学部・生涯学習論(小林担当)ゼミ報告集(1999年2月)


 あとひとつの充実感がほしいなと思いながら、今年のゼミも終わった。
振り返ってみると、1998年は生涯学習・社会教育をめぐって、国際的に、また国内的にも、大きな動きがあった年だ。
 主な出来事を掲げてみよう。
(1)1997年7月に開催された第5回世界成人教育会議の最終文書が確定し、日本語訳が公刊され
 た(いわゆる「ハンブルグ宣言」)。
(2)特定非営利活動促進法(NPO法)が3月国会で成立し、そのなかで「社会教育の推進を図る
 活動」が盛り込まれた(第2条別表)。
(3)文部省・生涯学習審議会が9月最終答申を出し、地方分権推進委員会第2次勧告の規制緩和
 策にそって、社会教育法・図書館法・博物館法の大幅な改 正案が示された。近く法改正案が国
 会に上程される見込み。これは危ない!
(4)バブル崩壊後の経済不況の影響により、自治体財政の危機が深まり、社会教育行財政の水準
 は大きく停滞ないし低落した。これも残念!
 
 社会教育・生涯学習をめぐる国内の政策・行政の動きが失速気味なのに対して、国際的な潮流は活溌な展開をみせている。また、公的セクターの水準が停滞しているのに対して、民間の市民活動や実践はこれまでにない大きな胎動が始まっている、と言えるだろう。
 今年のゼミは、このような状況のなかで、動いてきたのである。
 ところで、これまでゼミ運営は基本的に学生が主体的に担う、自主・自治・自由の精神でいこうと考えてきた。なによりも、学生それぞれの課題意識、研究テーマ(卒業論文テーマに結びつく)を尊重し、それを育て深めることを大事にしてきたつもり。卒論ゼミも取り組んだ。果たしてうまくいっただろうか。

 ゼミ担当教員としての悩みがある。一つには、学生諸君のそれぞれ個別の問題意識・テーマを基本にしつつ、二つには、まわりで動いている大きな状況についての認識をどう深めるか。今年は、少なくとも後者については、充分な取り組みにならなかった。また、川崎や町田をフィールドにして、ゼミとして継続的な調査活動を重ねていきたいと考えてきたが、今年はこの両自治体のフィールドワークは前進しなかった。来年以降の課題にしよう。
 しかし、ゼミのなかで、「ハンブルグ宣言」やNPO法を取りあげたら、松本合宿では、直ちにクイズに出題してくれた。ゼミとして、川崎・町田は歩かなかったが、個別に「ふれあい館」活動に参加したメンバーもいたし、「ゆう杉並」に行ったし、松本には2回も行った。なによりも人権班が自主ゼミ風に和歌山、三重などに出かけ、被差別部落問題についてフィールドワークを試み、2冊のレポート集を創ったのには驚いた。和光ゼミらしいエネルギーだ。
 ゼミ幹事(前・後期、やや元気のない林くんを含めて)の諸君、合宿、会計、ミニコミ、このレポート集作成などの各担当、自発的に労を惜しまなかったすべての皆さん、ご苦労さまでした。 

 <おまけ>
 1998年は、春から沖縄・東アジア社会教育の研究通信【南の風】を発信してきた。その意味でこれまでにない年となった。99年2月現在、180号を数える。ほぼ2日に1回。各号末尾に、日記がわりの戯れ歌を載せる習わし(あまりの拙さに皆驚いて最後まで読む?)があり、その中には和光ゼミ活動に関しても詠んだ歌がある。文字通りの拙歌だが、記録として、いくつかここに収録しておくことにしよう。なお今後とも小林(TOAFAEC)にアクセスを。
 Eメール:fumito.kobayashi@ma2.justnet.ne.jp
 ホームページ:http://www2.justnet.ne.jp/ ~fumito.kobayashi/

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 戯れ歌シリーズ(1998〜1999年)
        ―川沿いの道、学生が遠くから声かけてくれる―
◇緑もえ鶴見の流れに鯉ひそみ水鳥あそび吾呼ぶ声あり (5/7)
◇あえぎつつ和光の坂にたどりつく励ますごとき蛙の合唱 (6/4)
◇この竹は七夕若竹ご自由にお持ちなさいと張り紙のあり (七夕の会、7/7) 
◇モンゴルの若人ふたり謹んでチンギス・ハーン像白布で飾る (7/12)
              ―亡き学生の「感想」(絶筆)―       
◇このゼミで「識字」にはじめて出会ったと遺せし文字は勢いのあり (9/12)
              ―和光大学キャンパスの金木犀、10/7―
◇車椅子のスロープぞいに花かおる「こちら」「こちらよ」といざなう如く
              ―鶴見川のほとり、柿実る―
◇我が道は柿の実色づき鳥あそび流れの淵に鯉群れひそむ (10/3)
◇紅き柿の実ひとつ啄(ついば)み嬉しげに濡れ羽のカラ低く飛びゆく (11/27)
              ―ゼミ・コンパ、アンコル・トム―
◇ポルポトに夫奪われし女たちのつくる料理は激しく辛し (10/21)
◇恩讐をこえてやさしさ説く人は天女の如し学生聞きいる (セタリンさん,10/21)
              ―松本合宿、浅間温泉―
◇深更の宿の広間にみな踊るダンス・セラピーの誘いに惹かれ (10/25)
◇さんざめく階下の騒ぎ心地よく子守歌にし夢路をさぐる (10/25)
◇しらじらと夜は明けそめし浅間宿あふれるお湯をあかず楽しむ (10/25)
◇ぶんじんも社会教育も若きらのクイズの素材におとしめられし (おやきの里、10/25) 
         ―松本・移動大学、旧地下工場跡―
◇七千の怨念を秘め暗黒の岩壁の文字ギラリ光れり (11/29)
               ―西永福、グラン・メール―
◇年の瀬のゼミのコンパのビールよし語らいつきず冬夜更けゆく (12/21)
        ―2月5日、卒論発表会、コンパ・のむぎ―
◇のんびりと遊び暮らせし学生も卒論書けば顔ひきしまる (2/5)
◇信州の酒くみかわす別れ宴「花」歌いあい思いきわまる (のむぎ・送別会、2/5)
  (*今年の卒業生たちは「ぶんじん」と一緒に和光大に入学した1995同級生)






13,
いちゃればちょうでい(行き会えば兄弟)
           和光大学・小林文人プロゼミ沖縄合宿報告集(1998)

               
 私が沖縄と出会い、研究テーマ上の愛人のように意識し始めて、沖縄に通い始めたのは1976年、もう20年を越えました。こんど一緒に沖縄を旅した和光大学1年プロゼミの皆さんが生まれる前のことです。 
 これまで何度沖縄に行ったことでしょう。数えることが出来ません。ある年などは毎月沖縄に出かけました。それも1人ではなく、いつも誰かを誘って賑やかに訪沖してきました。ほとんど若い人たちと一緒です。
 沖縄の友人たちも、そのことをよく知っていて、「ぶんじん」先生が来たら、集まってともに語りかつ飲み歌う場を用意してくれます。今回もそうでした。那覇で、とくに名護の博物館中庭での、歓迎会など忘れることができません。「いちゃればちょうでい」という沖縄の心の温かさ、優しさをあらためて実感いたしました。有り難いことです。

 今回の沖縄の旅は、ひとことで言えば、楽しい旅でした。楽しかったということは、内容的にも充実した旅であったと言えるでしょう。余韻が残り、想い出がよみがえります。プロゼミの皆さんもよく準備し、活溌に動き、あまり遠慮せず、和光大らしく自由に旅をしてきました。事故もなく(失せ物1点のみ)いい旅でした。思いつくままに、こんどの旅で印象的なこと、これまでにもなかったこと、いくつか私なりに書いておきましょう。
1,台風18号襲来により1ヶ月延期した。台風で帰れないことはあったが、行 けなかったことは初めて。(それだけ事前学習が充実した、いや、必ずしもそ うではない?)  
2,全カラーの表紙(高橋潤作)・パンフ2冊が作られた。
3,南部戦跡めぐりの1日、なんども涙、夜の歓迎会でも泣いた人がいた。
4,海中道路を越えて、伊計島の東端へ。皆が泳いでいる間、リゾートホテルの サロンで昼寝した。
5,東海岸と西海岸で、二度も泳いだ。
6,読谷では、集団自決のチビチリガマ、救命洞窟のシムクガマへ。
7,薪火の「組踊り」をはじめて鑑賞した。(「ひんぷんがじゅまる」の広場)
8,名護の歓迎会、博物館の中庭、秋の月、「やんばる船」の歓迎エイサー。
9,安和の「うすでーく」、ここでも秋の名月。
10、最終日、那覇・パピリオンは和光プロゼミで占拠されたかたち。「にーな」 がお父さんの歌を絶唱。「新しい歌手の誕生」と海瀬頭豊は太鼓判、などなど。
  
 沖縄を知ることは、アジアを知ることであり、アメリカ(極東戦略)を知ることです。沖縄をじっと見ていると、世界が見えてきます。そんな視点で、日本を捉えかえす、自らの日本を複眼的に見つめなおす、そういう目をこれから鍛えていってほしい。沖縄の人たちの心と期待に応えていきたいものですね。
 幹事役の辻口、高橋(絵)、小峰、それに協力した皆さん、ご苦労さまでした。  2000年へ向けて、新しい歩みを期待しつつ。    99DプロゼミA担当 小林文人


14,
1998小林プロゼミを終わって (ゼミ報告集・1999年1月)

 ことしのプロゼミのテーマは、「地域と生涯学習−足で調べる」と設定した。これまでの受験準備の勉強では、みな頭で考える学習を強いられてきた。しかし、本のなかだけでなく、まわりの生活空間のなかに、そして地域・社会のなかに、さまざまの興味深い「人間発達」の生きた現実がある。それに触れてみよう、地域を歩いてみよう、歩きながら考えよう、できれば沖縄の地にも立ってみよう、そういう呼びかけで始まった(講義要目p152)。
 集まってきたプロゼミAの皆さんは、本報告集・レポートに凝縮されているように、なかなか主体的かつ積極的な姿勢で参加してくれたように思う。もちろん大学入学直後の初めてのゼミだから、戸惑いもあり、また模索や曲折もあったわけだが、ゼミの雰囲気としては生き生きと活溌なスタートをきることができた。最初の時間の自己紹介、そしてゼミの幹事、合宿やコンパやミニコミなどの担当を決める経過のなかで、みな率直に語り、また自らすすんで手をあげてくれたときに、「いいぞ、このゼミはうまくいくぞ」という予感があった。
 いまゼミの終わりを迎えて、この1年ちかく、ほぼ期待通りの展開をみることが出来たのではないかと思う。ゼミ活動の中心を担ってくれた北村、川島の両幹事はじめ、各担当の皆さん、ゼミすべてのメンバーに感謝したい。

 それぞれの関心を出し合うかたちで、ゼミは始まったが、結果的には、いわゆる福祉班、教育班、そして沖縄班(文化と戦争のサブグループに分かれる)の3ないし4グループの編成となった。その間に「ゼミの進め方」「3グループの課題に関するいくつかの提案」「ゼミ後半の進め方」(別紙1,2,3)を提起したが、主な流れとしては、基本的に学生側の自主的な運営にゆだねた。コンパ・合宿が企画され、沖縄旅行(合宿ゼミ)の計画が進められた。
 いくつか、最近のゼミには珍しい出来事もあった。たとえば最初のコンパで昔の学生歌をうたったこと、合宿では男子学生(2人)の参加がなく、女子学生だけに囲まれて戸惑ったこと、沖縄合宿のスケジュールに合わせるように台風18
号が襲来し、1ヶ月の延期を強いられたこと、などなど。しかし結果的には、諸計画はほぼ順調に進行した。
 沖縄グループは、この報告書とは別に「沖縄合宿報告集」(全58頁)を編集・刊行している。事前の2冊のパンフとともに、旅の記録・感想を率直に記録した報告書は面白い出来ばえであった。別紙4はそこに寄稿した一文である。
   
 もちろんすべてがうまく運んだわけではない。しかし課題を残しながらも、活溌にゼミが進行したのは、学生の主体性による自主的な運営、積極的な発言・提案、ミニコミの発行、コンパと合宿、仲間づくり、などによるものであろう。今後のゼミ活動に活かしほしいものである。最後に、この報告集の編集にあたった編集委員会、とくに木田、羽ヶ崎、北川の3代表、ご苦労さまでした。







15,学生自身による主体的なカリキュラムづくりにむけての「対話」

                     和光京大学人間関係学部・5年間をふりかえって(2000年4月)

  
 はじめにー人間発達学科の5年
 この5年をどう総括するか。振りかえってみると、新学部の創設(1995年)と同時に和光大学へ移ってきたわけだから、創設期の人間発達学科の一員としての総括と同時に、ながい大学教師生活のなかの最近5年の、自分自身の総括という意味あいももっている。
 前に勤務した大学では、(教員養成大学、教育職員免許法の枠組を前提としていた関係から)相対的にカリキュラムの構造が固く、必修科目の比重が大きく、学生に課すべき授業科目・単位がしっかりと確定していた。それだけに、和光大学が独自に形づくってきたいくつかの特性、たとえば伸びやかなカリキュラムの構造、自由な選択制、学生自身による主体的なカリキュラムづくりの発想、そしてカリキュラムの柔軟な修正(の可能性)、など対照的にきわめて新鮮なものがあった。「自由な学習と研究の共同体」というキーワードも耳に心地よく響いた。最初の1年は、新しい学部・学科の一員としての意欲と、反面、それまでとはかなり勝手が違うことからくる私自身の困惑もあった。
 第3世界を代表する教育学者、P.フレイレ(ブラジル、1921〜1997)の学説を紹介した訳書のなかに『伝達か対話か』(亜紀書房、1982)という一冊がある。学習者をカラッパの器と考えそれに教師が知識を貯めこんでいく銀行型教育の批判と、それに対する問題提起型の教育、人間化・意識化としての識字・学習など、共感するところが少なくない。私は和光大学のカリキュラムと学生たちに出会って、あらためて「対話」の意味を考えさせられてきた。それまでの大学での講義・ゼミがきわめて「伝達」的な姿勢ではなかったかと反省させられた。
 同時に、5年の歳月の経過のなかで、和光大学・カリキュラムがめざす理念と現実とのずれ、虚像と実像のギャップのようなもの、についても考えさせられてきた。いくつか具体的なところから、いま総括として自らを問う作業を記しておきたい。

 プロゼミでの試み
 他の大学ではあまり例がない1年次の「プロゼミ」は、文字通り初めての経験であった。3,4年生や大学院生の専門的なゼミのイメージから脱皮して、まだ学問とか研究とかの世界を知らない、それだけフレッシュな若者たちとゼミの集団をつくるというのは正直楽しみであった。1995年、97年、99年の3回、いずれもテーマは「地域と生涯学習」と設定し、幅広い問題の拡がりのなかで、参加学生がそれぞれ自己の研究テーマ(福祉、人権、障害者問題、市民活動、児童館、学童保育など)を発見していく、個別のテーマを結びあっていくつかのサブ・グループをつくる、これに加えて各年度ともに沖縄問題に関心をもつグループを設け、沖縄への研究旅行(約1週間)を実施する、3回ともそんな流れでプロゼミを運営してきた。
 担当者としての思いは、三つの「出会い」を実現したいということ。すなわち(1)それぞれ個別の研究テーマとの出会い、(2)地域との出会い、フィールドワークの試み、(3)仲間との出会い、相互の分担によるゼミ自主運営、である。その間に、ミニコミ(ゼミ新聞)、コンパ、合宿、を重視した。3回ともに200ページ前後の、ずしりと重いゼミ報告集を発行することが出来た。
 最初の95ゼミは、沖縄で米兵少女暴行事件が起きた年であり、やや興奮気味に沖縄旅行をしたことが想起されるが、まずまずの成功、2回目の97ゼミはいい調子で進行しながら、なぜか後半に失速、今年度99ゼミは参加学生の自由闊達な取り組みによって大成功、という経過であった。プロゼミの経験のなかで、若い学生たちとの「対話」の意味を
反芻し、「伝達」的姿勢をたしなめられてきた感がある。

 社会教育論・生涯学習論など
 人間発達学科は創設時よりこの二つの科目を専門科目として位置づけてきた。同時に文部省「社会教育主事講習等規程」により「社会教育論」は、社会教育主事・図書館司書・博物館学芸員のそれぞれの資格取得上の必修科目であった。さらに1996年8月の同省令改正により、1997年度以降は「生涯学習論」が必修科目(「社会教育論」は選択科目)となった。和光大学カリキュラムのなかで「必修」科目というのはむしろ例外で、比較的に受講生数も多く(約100名)、人間発達学科の学生にとどまらず、他学部・学科の多様な専攻の学生がさまざま(資格取得上の必要から)受講してきた。そのため不本意ながら概論・基礎論的に講義形式で進めるという傾向になりがちである。文字通り「伝達」的な授業のかたちである。多人数を相手にする授業の中でどのように「対話」を試みていくかが毎年の悩みであり、課題となってきた。
 ときにゲスト講師を招き、川崎や町田など周辺自治体の社会教育・生涯学習のなまの話を入れたり、ビデオ映像を活用して感想を出し合ったり、また夏休みの課題レポート(自治体見学・調査)にもとづき学生からの報告を求めたりしてきた。このような中規模の講義形式の授業をどのように「対話」的に活性化していくか、さらに挑戦を試みたいところである。
 「社会教育論」(1997年度以降)は「識字問題と教育実践」をテーマに掲げて、むしろ特論的かつゼミ的に運営してきた。毎回(可能なかぎり)諸資料・文献に基づく学生のレポート、私のミニレクチャー、関連するビデオ映像、の3者を組み合わせる授業を企画した。おそらく学部レベルの授業で識字(Literacy)問題を真正面から取りあげている例は、日本の大学にあまりないのではないかと思われるが、受講学生は新しい問題との出会い(夜間中学、被差別部落の識字実践、自治体の日本語教室、国際的動向など)に興味をもって参加してくれた人たちも多かったように思う。
 あと一つ、関連してこの5年間「ライフスタイルと学習」(共通教養・現代の課題)を
担当してきた。大きく二つの柱で、つまり前半は地域の文化協同運動・市民活動について、後半は自分史の世界をさぐるというテーマで、やはり具体的な地域事例や実践的資料を手もとにおいて、できるかぎりゼミ的に進めてきた。
 両科目ともに必ずゲスト講師を招くなどして、多角的に授業をすすめる努力をしてきたつもりであるが、受講学生たちがどれほどの充実感をもつことができているか、もちろん課題は残されているだろう。
 
 生涯学習論演習(3・4年ゼミ)と卒業論文作成へ
 上記のような授業科目に重ねて、3・4年ゼミ(生涯学習論演習)と卒業論文指導へと進んでいくわけであるが、いくつもの悩みをかかえている。
 「生涯学習論」「社会教育論」そして「ライフスタイルと学習」のような関係科目の履修を(同時並行的にでも)積み上げながら、3・4年生涯学習論ゼミに参加する、ゼミでの論議や調査を基礎にして卒論テーマを設定し、それぞれの課題に挑戦していい論文に仕上げる、という構造的な積み重ねの流れをなかなか創り出し得ないのである。
 学生たちは、多彩に編成された和光大学カリキュラムを、おそらく最大限に拡げられた選択の自由を活用して、あれやこれやと、あるいはあれもこれもと、履修する。熱心な学生たちはさらに教員免許や資格取得のために必要な単位(ここには必修があるから拘束される)を取らなければならない。他大学に比較すると、きっちりと別枠での必修単位が用意されている(読み替え規定が少ない)から、なかには免許・資格取得の時間割編成と単位取得に追われて疲労困憊の様子も見受けられる。
 自己のテーマを充分に確立できないまま、卒論・題目の提出時期を迎え、悩む学生が少なくない。それまでの単位履修が、多様に横に広がってはいるが、いい意味で縦に蓄積されていないのである。選択制の自由の楽しさに幻惑されて履修は多彩であるが、もともと期待されている「学生自身による主体的なカリキュラムづくり」がしっかり出来ない状況が少なくないのではないだろうか。そして3.4年ゼミを迎え、問題意識も研究能力も充分に鍛えられないまま、卒論制作に突入していくということになる。
 この問題については、おそらく学生と教員側との双方の自覚と責任が問われる必要があるとは思うが、主要にはやはり教員側からの学生にむけての積極的な「対話」の姿勢と働きかけが弱いこと、学科として工夫すべき「対話システム」が不充分なところに課題があるように思う。学生の主体性と問題意識の幼さは当然のことであって、その「発達」可能性に確信をもちつつ、それをもっと遠慮しないで刺激し喚起し「対話」的に働きかけていく必要をいま痛感している。
 本来は、学科専門科目のカリキュラムと免許・資格カリキュラムの相互関係について、
またカリキュラム内のゼミ活動と学外・地域でのゼミ活動、あるいはフィールドワークの問題について、論を進めたいところであるが、すでに与えられて紙数をこえてしまった。






16,大学と地域と、沖縄と東アジアと ー私のゼミナール
         
                 和光大学学園報 253(1999年9月)


 
 大学のなかの、いわば「研究室・ゼミナール」(社会教育論・生涯学習論ゼミ、プロゼミ)がもちろん基本的に重要であるが、それだけでなく、大学のそとの「地域・ゼミナール」といった活動が大事だ、と考え続けてきた。
 そして、この二つのゼミが相互に響きあい、連合し結合しあうような関係を模索してきた。しかし実際には、なかなかうまく行かないものだ。
 内と外の二つのゼミの発想は、研究室と地域、理論と実践、思索とフィルードワーク、を結びつけようという試みである。幸いに和光の学生たちは、研究室のなかに閉じこもるのでなく、フィルードに出ることに興味をもつメンバーが少なくない。これは嬉しいことだ。
 
 大学の外の「地域・ゼミナール」とは、私の場合、大学の周辺の地域(川崎、町田など)、沖縄、東アジア、についての研究活動である。前に勤務していた大学まで遡れば、沖縄研究はもう二十年の歳月を重ねている。
 現在は、いくつかの研究サークルを合体して「東京・沖縄・東アジア社会教育研究フォーラム」(TOAFAEC、代表・小林)という、いかにも欲ばった名称の研究会が動いている。研究者もいれば、自治体職員、市民、他大学の院生、留学生などが参加している。定例研究会は毎月一回、かっての小林ゼミの先輩もいれば、一般の市民の参加もある。
 一九九六年からは年報『東アジア社会教育研究』を発刊し、国内・沖縄だけでなく、韓国・中国、台北等からの寄稿を収録している(現在、第四号を編集中)。大学の外のこのような研究活動と、大学の内の「研究室・ゼミナール」をなんとか結びつけたいと願ってきた。

 一九九九年の歩みを振りかえってみよう。毎月の定例研究会(毎週第三金曜日・夜)のことは別にして、今年は初頭から、海を越えて、嬉しい誘いが舞い込んだ。こいつは春から縁起がいいぞ、といった感じで今年の暦は始まった。
 まず二月末から和光(三、四年)ゼミの有志と韓国へ(三・一をはさんで一週間、毎年の恒例行事)、三月下旬には与那国(調査活動、ただし学生の参加は求めず)へ、四月から五月にかけて、再び韓国そして中国からの招聘を受け、ソウルー上海ー湘潭ー広州へと旅をした。ソウルまでは、かってのゼミ生(OG)が同行してくれた。
 韓国からの招聘では、「韓国文解教育協会」年次(第十回)大会で、日本の識字問題と東アジア間の国際的協力についての講演を求められた。「文解」とは「識字」のことである。韓国では、日本の植民地統治の深い傷として、解放後も深刻な識字問題をかかえてきた。韓国の社会教育・生涯教育研究の系譜では「文解」教育を抜きにしては語れない。韓国の研究者(黄宗建など)たちに触発されて、日本の識字問題調査に足を踏み入れた私が、師匠格の韓国文解教育協会の面々を前にして話をするということは、なんとも光栄なことであった。
上海では華東師範大学との研究交流、閘北区業余大学との合作学院づくりの協議、湘潭および広州では、それぞれの大学や教育委員会での講演が主な仕事であった。

 昔と比較すると、想像もできない拡がりで、海を越えて、研究交流が可能になった。私の「社会教育論」では具体的に「識字実践について」を授業題目に掲げているが、韓国の「文解教育の実践」に触れることも可能になった。今年三月の韓国訪問では、実際に大邱市の新岩教会「文解教室」を学生有志で訪問した。
 「プロゼミ」では九月下旬の沖縄旅行を計画中である。「生涯学習論ゼミ」では川崎・町田などのフィルードサーベイに意欲的な学生が取り組んでいる。こうしてみると、大学の内と外とのゼミナールの結合は、いま少しづつ始まっているようにも思われる。

 しかしもちろん課題は少なくない。なによりも、肝心の内なるゼミナールの凝集力が次第に弱くなりつつあることが気になる。そして経費の問題もあり、外なるゼミナールへの参加はすべて「学生有志」の活動にとどまる。これからどのような展開になるか、さらに模索と挑戦は続くのであろう。






17,地域と大学の出会い

                  
東海高等教育研究所『大学と教育』第31号(2002年)


 もともと日本の大学は、地域ないしは社会・市民のなかから萌芽し発展していくという歴史をもっていない。主として国家によって創設され、公立や私立の大学と言えども、国家が定める基準に拘束されて運営されてきたというのが主要な流れであろう。地域や市民の側も、自らの社会的装置として「大学」を創り出すという意識や運動において、これまで自覚的な認識をもつことができなかった。
 このような日本・大学史の特徴を、いわばいびつな体質として捉えるようになる契機が私には二つあった。一つは、十九世紀後半の(たとえばイギリスの)大学拡張運動の歴史を知ったときである。そこには大学を“開く“改革努力と民衆教育運動の胎動があった。大学を開くという努力は(単に公開講座を設けるにとどまらず)大学の閉鎖性や特権性から脱皮しようとする近代化への改革と連動していたし、またそれを求める民衆教育運動を呼び起こし、労働者教育協会(WEA)等の組織化につながっていったのである。
 あと一つは、戦前日本においても類似の大学開放の努力がみられたこと、また地域のなかにも民衆大学を創ろうとする模索があった事実である。たとえば明治期の東京専門学校(現・早稲田大学)校外教育運動に見られる「学の独立」「社会的な存立」「開かれた大学」への取り組みがあった(田中征男『大学拡張運動の歴史的研究』一九七八年)。あるいは大正デモクラシー期の「信濃自由大学」の試みは、まさに地域からの民衆による大学づくり運動の貴重な足跡である。しかし、もちろんこれらが日本の大学史の主流とはなってこなかった。
 信濃自由大学について『枯れた二枝』(猪坂直一、一九六七年)が書かれたように、それらは戦前の国家主義的教育体制のなかに埋没し、そして枯れていったのである。

 戦後教育改革期において、大学改革はどのように進展したのか。本論の主題に則して、大学を社会に開く、大学と地域が出会う、その協働、という視点にたってみた場合、戦後教育改革は残念ながら成功したとは言い難い。日本の大学は一面で戦後的な脱皮をとげつつ、しかし、なお閉鎖的な制度のなかに安住してすでに半世紀が経過したことになる。そしていま、行政改革路線の外圧による「大学の構造改革」の嵐に苦しんでいるというのが実状であろう。
 それだけに、いまあらためて「地域と大学の出会い」が課題として問われることになる。この点では一九九〇年代には新しい状況が生れてきたように思われる。一つは生涯学習の潮流である。生涯学習振興整備法(一九九〇年)自体は(残念ながら)一言も「大学」にふれていないが、九〇年代の中央教育審議会や大学審議会等の答申は「生涯学習機関としての大学」の役割を提示し、生涯学習審議会もリカレント教育について言及している。いま再編成が求められている全国各地の教育系大学・学部等では生涯学習センター設置が大勢となる時代となった。
 いま一つは、地域の新しい動きである。これまでにない展開を見せて始めている地域・自治体がある。各種の参加型市民活動、NPO的組織、ボランティア・ネットワーク、生活協同・学習文化運動等の新しい展開。そこでは現代的課題に取り組む高度かつ実践的な知識・技能・思想・運動への学びが求められている。地域と大学の出会いの新たな契機、その可能性は明らかに増大している。

 このような状況から考えると、大学を地域に開く、というこれまでの伝統的な「大学拡張」「公開講座」の方式はいま大きく修正を迫られているのではないか。地域と大学の出会いの構図は、新しい現代的な方向を模索していく必要がある。
 いくつかの課題を思いつくまま列挙してみよう。
一、大学が講壇的かつ恩恵的に地域に「公開」するのではなく、むしろ地域を発見し、地域の活力
 に出会う姿勢をもつこと。
二、それはとりもなおさず、大学から地域への一方向的な流れではなく、地域から大学への流れや、
 地域への大学の参加や、地域と大学の協働など、双方向性の回路を多元的につくっていくことで
 あろう。
三、「地域と大学の協働」への市民の行動的な参加と、同時に(教員のみでなく)学生の積極的な
 参加が期待される。
四、具体的に大学側のゼミ等による地域活動への参加やフィールドワーク、それへの市民の参加・
 協力、市民によるゲスト講師制度、地域の各種施設・機関の(見学、実習等)協力ネットワーク化、
 それらの継続的な展開のための条件整備、など。
五、教員・市民の実践的取り組みとその自治的制度化の課題。
 筆者が勤務する和光大学では、このような課題を意識しつつ、「地域と大学の出会い」をテーマとする連続・公開シンポジウムを実施してきた。問題提起とはなったと思うが、しかしその具体的な展開は容易ではない。道は遠い。しかし・・・。







18,和光大学、わが“青春”
                         和光大学人間関係学部紀要第6号(2002年)



 和光大学の生活はわずか7年、短い歳月だった、そんな実感である。やれやれ、やっと店仕舞いか、という気持ちと、あれ、もう終わるのか、という気持ちが複雑に交錯している。振り返って、これまでに通学し、また通勤したいくつかの大学とは、かなり違った面白いキャンパス生活を経験させていただいた。自分なりに充実した7年だったと言える。まずは和光大学に心から感謝したい。
 私が和光大学に着任したのは1995年、この年は大学創立30年目、そして新しく人間関係学部が誕生した記念の年。連続の公開シンポなど記念の行事がいくつも開かれ、なにか華やいだ雰囲気だった。小さな大学の活気を感じた。当時の研究室はG棟3階、夏の酷暑に驚いたが、学生がよく出入りし、研究室ごとの自由気ままな活動があり、教員相互にも寛容の精神のようなものがあって、私には心地よい空間であった。何よりもプロゼミをはじめとする多様な学生との交流を楽しんできた。この7年間、多くの学生たちとの出会いはかけがえのないものとなった。
 もちろん、いろいろと当惑したこともある。たとえば、教授会自治の反面なのか会議の時間が長いこと、学生について言えば、その自主・自由を尊重?するあまり乱雑な受講・履修の常態化、また「学習と研究の共同体」「小さな実験大学」「開かれた大学」などの理念と現実のずれ、その虚像と実像の問題など、考えさせられてきた7年でもあった。1年に数回は大学教師を早く辞めたいと思うことがあった。しかしそれ以上に、若い人たちとともに学びあう喜びを実感する度合いがはるかに多かった。7年間をほぼ健康に過ごすことが出来たのも幸いであった。
 幸いといえば、この7年間、自らの研究生活が断続することなく、いくつもの発展があったことである。一つは沖縄へ通い続けることが出来た。二つには、さらに東アジアへの研究視角を拡げることができた。三つには、その研究組織として「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC、通称・東亜社会教育研究会、1995年)が発足し、研究年報『東アジア社会教育研究』が発行され、軌道に乗って2001年現在、第6集まで刊行できた。四つには、日中の共同研究体制が始動しはじめ、上海に具体的な研究拠点が誕生した(上海閘北区社区大学「小林国際交流閲覧室」、通称・中日文人図書室)。そして五つには、これらと連動してパソコン研究通信「南の風」(現在、800号余)、「公民館の風」(現在、250号余)が活発に吹き続けてきた。これまでの45年余の研究生活のなかでも、この7年間は、幾つ目かの“わが青春”だったのかもしれない。
 何冊かの本を上梓することが出来たし、拙いながら論文を書く機会を数多く与えられた。末尾に記録としてその主なものの一覧を掲げさせて頂いた。感謝をこめて。*(一覧・略)全リスト→■

 申しわけないことであるが、私は校務に関わる委員会や諸会議についてはそう勤勉ではなかった。沖縄や上海への研究旅行などと日程がダブったりすると、よく会議を休んだ。
普段の会議でもあまり発言しなかった。前任の大学では激職の管理職に何度も選出された経過があり、校務に追われて、ときに地獄の苦しみを味わったことがある。その反動なのか、新任の和光大学では“研究の自由”をなんとか確保したいという意識が先行したきらいがある。会議については怠慢の誹りを免れない。そんな我が儘を寛容に許していただいた学科及び教授会の各位に深く感謝している。
 そういうなかで、大学開放世話人会と学科主催・公開講座の仕事については、多少の責任を与えられて、かなりのエネルギーを傾注した(と本人は思っている)。前者は、とくに「移動大学」について、後者は「地域における人間発達」に関する連続公開シンポジウム(1999年〜2000年)開催についてである。
 いずれも共通して「開かれた大学」「地域と大学の出会い」をテーマとする仕事である。この領域は、社会教育専攻のスタッフとして当然担うべき役割であった。
 私なりには、大学を開くことについてのある種の実験・挑戦を試みてきた思いをもっている。たとえば人間発達学科の連続シンポジウムについては、学部紀要5号に「五つの視点」を書いている。充分に論議が深まったわけではないが、担当者としては「ひそかに“五つの挑戦”として考えてきた」(同2ページ)ことであった。とくに大学を開くという場合の双方向性の関係づくり、大学から地域へという方向性だけでなく、地域からの大学への流れ、地域と大学の相互の参加・交流の可能性、を追求していきたいと考えてきた。
 その過程で、教育研究のフィールドづくり、調査実習ポイントづくり、市民によるゲスト講師ネットワーク、大学にとってのコミュニテイ・スタッフの構想、そんな課題をひそかに模索してきたつもりである。しかし具体化の段階には到達しなかった。公開シンポジウムの記録を読み返すと、さまざまな可能性が見えてくる。だがこの時点で、和光大学での私の仕事は終了することとなった。

 最後に、同僚の教員・職員の皆様にあらためて御礼を申しあげます。ときに我が儘で怠慢な私を温かく受け入れて下さったことを忘れません。同時に、多様・多彩な和光の学生・卒業生に感謝します。教授・指導する立場にありながら、よく考えてみると、逆に教えられ、刺激をうけ、励まされたことが少なくありませんでした。ただこの7年間は、社会教育分野で仕事をもつことが厳しい時代と重なり、残念でなりません。大学で学んだことを活かして社会的に活躍していく場が容易に得られない現実は、教員として寂しいことです。負けずに乗りこえていってほしいと願っています。







19,最後のプロゼミ「地域を歩く、地域を調べる」
      
            
和光大学人間発達学科(D)小林プロゼミ報告集、2002年1月)


 
 プロゼミというの和光大学独自のユニークな1年ゼミです。1995年春、前任の大学から和光に赴任して、はじめてその年の新入生のプロゼミを担当しました。6年前です。
 それまでの大学カリキュラムの常識では、概論や基礎論を1,2年で終えて、それを基礎に3,4年ゼミに参加していく、あるいは大学院の専門的なゼミにすすむ、という考え方が普通でした。今でも他の大学ではそうでしょう。
 しかし、和光ではゼミといえば、まず1年のプロゼミ。だから、95年当時は「ゼミ」のイメージがまったく変わって、正直言って当惑しました。専門的な文献を読みあう、それを基礎にしてテーマをしぼった調査活動をする、というゼミのかたちが成立しない、みな1年生ですから。私自身のゼミ・イメージを転換させる必要がある、さて、どう進めていこう、思いめぐらした数夜を思い出します。
 参加したゼミ・メンバーはもちろん初めて、担当教員の側も初めて、という出会いから始まって、なんとかいい雰囲気でプロゼミがスタートできたときはほっとしたものです。学生と教員の、また学生の仲間相互の、初心のぶつけあいと遠慮のない“対話”が少しづつ成立していきました。学生による自主的なゼミ運営もしだいに軌道に乗りました。和光の学生たちは案外とそういうことが好きなんだなぁと感心させられることもありました。学生の皆さんにとっても(恐らく)そうだったと思いますが、教員にとっては、これまでにない忘れがたい「ゼミ」の1年。初めて担当した95Dプロゼミ・メンバーの初々しい顔は、今でもくっきりと記憶にあざやかです。

 和光に来て今年で7年目、プロゼミは4回目です。さて、今年の01Dプロゼミは、お互い振り返ってみて、どんな評価なのでしょう。
 プロゼミへの呼びかけのテーマは、“地域”をキイワードにしてきました。初年度は「地域と生涯学習」でした。今年は「地域を歩く、地域を調べる」をテーマに掲げました。そして、あと一つ“沖縄”をテーマにしました。
 最初のプロゼミの1995年は、米兵による少女暴行事件が起こった年です。それまで無関心だった若者たちも、否応なく沖縄に目を向けざるを得ない状況がありました。プロゼミ有志十数人で沖縄合宿をした9月下旬は、事件が起きた直後、緊迫した雰囲気のなかでの旅でした。いや、今年だってテロ事件直後の沖縄行き、沖縄はいつでもそういう緊張のなかにあるのかも知れません。
 “地域”をテーマにしてきたのは、教員側の関心が現代の地域と教育・生涯学習にあることに加えて、高校生活を終えて大学に入ってきた学生たちの「地域」経験が驚くほど少なくなっていること、地域活動・市民組織への参加経験が貧弱というだけでなく、たとえば祭りも知らなければ年中行事へ出る機会もない、マチのオジサンたちとの付き合いもなければ酒の飲みかたも知らない、まったくの没地域人間だというところにあります。それは受験戦争のなかで過ごしてきた学生側に責任があるのでなく、むしろ現代日本の「地域」それ自体が壊れてしまっているということでしょう。だからこそ、なんとかプロゼミの取り組みで、「地域を再発見」したいという思いがありました。
 同時にまた、発達学科プロゼミのテーマのなかに、研究室から目を外に転じて「地域」を考える視点が一つはあっていいだろう、ということもあります。
 地域のテーマは、沖縄のテーマと結びついて、問題意識を面白く喚起するところがあるようです。もちろんゼミ・メンバーが全員で沖縄に行くわけではありません。地域は、いわば小さな宇宙ですから、いろんな問題を内包しています。子ども・教育・文化、あるいは福祉・環境・ゴミなどをめぐってさまざまの問題が動いています。それらのへの素朴な問題関心を出発にして、今年がそうであったように、これまでのプロゼミでも、3〜4のグループが組織されてきました。また地域は沖縄だけでなく、川崎だって町田だって、なかなか面白い地域なのです。しかし、沖縄のテーマがひとつ加わることによって、問題が立体的になり、それを考えていく視点が複眼的になるように思われます。プロゼミとしてはいいテーマに出会ってきたと言えるでしょう。

 今年のプロゼミ出発の冒頭に、学生の皆さんにいくつかの期待を表明しました。
1,ゼミの運営は学生が主体となる。運営に必要な役割をみんなで分担していく。ゼミメ ンバーは
 一人必ず一つの役割を担う。率先して、手を挙げてほしい。
2,ゼミ仲間の横のネットワークを創っていきたい。欠席した人に声をかけあっていく。
3,にぎやかに楽しく進めていこう。コンパや合宿を企画し成功させよう。
4,ミニ・コミの発行。毎回、必ず前回の記録や当日の課題を、またゼミ・各グループの 動きを掲載
 してほしい。
5,最後に充実した報告文集をつくる。編集委員会によって面白く編集し、最終的には印刷し、各自
 のレポートをみんなで共有したい。

 この5点は、これまでのプロゼミでも大事にしてきたポイントですが、今年はどうだったのでしょう。いま、この報告集も出来上がりました。それぞれ担当したメンバーの努力によって、コンパも合宿も、ミニコミも沖縄旅行も、そして最終文集も実現できたわけです。ミニコミは間断はあったが、ときに力作もあったし、松本合宿は、引率者・小林に突然の訃報が届いて早朝帰京したにもかかわらず、充実した内容でした。まずまずのプロゼミと言えるでしょう。
 しかし、学生の皆さん自身がよく知っているように、何度も充実感を欠く時間があったことも事実ですね。うまくいかないな、と心配した一時期がありました。声をはりあげて教員がしゃべり、みんなが白けたこともありましたね。
 だが、なんとかしよう、と皆さんで努力したことも知っています。その建て直しの一時期に、タケシの手話をみんなで習ったあの時間を後ろの席から見ていて、これはいいぞ、と嬉しくなりました。プロゼミは、まさに学生の主体的な努力でよみがえりつつある、と思いました。11月から12月にかけて、各グループから、また沖縄グループからの報告があいついで、いい終幕を迎えているな、という実感がありました。今年のプロゼミは、やはり、まずまずの出来上がり、と言うことが出来ましょう
 幹事をはじめ報告集編集委員会その他担当の皆さん、ご苦労さまでした。私にとっては最後のプロゼミ、参加していただき、有り難う。いつまでも忘れないでしょう。(2002年1月)


*関連スケジュール(HP記載)、写真→■






20,和光大学・プロゼミほかフイールドワーク記録(写真 1995〜2002)→■






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