【2020年以降〜報告・回想・エッセイ・追悼W など  TOP  
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 <もくじ> 
2020年
1,半世紀を超える励まし」ー『北田耕也先生追悼集』(追悼委員会編 「直指入心」)→■
2,
野々村恵子追悼(南の風記事)→■
3,文一と文人の出会い物語ー上原文一さん追悼(年報「東アジア」25号)→■

2021年
4,大都市社会教育研究の系譜(南の風記事/1〜10)
→■
5,大都市研究「つどい」40年ー経過・集いへの取り組み回想  TOAFAC「年報」26号
→■
6,千野陽一さんを偲ぶ:南の風記事、「月刊社会教育」8月号→■ 偲ぶ会(2022)本ページ下掲
2022年
7,追悼・徳永功さん(「月刊社会社会教育」5月号)本ページ下掲、(南の風事4293/4294)→■
8,社全協通信300号に寄せて(社全協通信300号)本ページ下掲
9, 「はげまし学ぶ」社会教育の創造を (オホーツク社会教育会50年記念誌) 下掲
10,
TOAFAEC年報27:巻頭言 東アジア社会教育・生涯学習半世紀ー躍動に学び、課題をさぐる(2022)下掲




1〜5,別ページ

6,千野陽一さんとの出会い、想い出など (2022年5月、偲ぶ会・日本青年館)
            *関連:南の風記事・月刊社会教育(追悼記事)2021年8月号→■          
 千野さん(いつものようにこう呼ばせていただく)とは同年の生まれ。1960年・日本社会教育学会(於九州大学)で初めて出会い、それから60年のお付き合いを重ねてきた。学会だけでなく月刊社会教育編集や社会教育推進全国協議会の活動など、いろいろとご一緒する機会が多かった。別に書いたことだが、「月刊」編集長、社全協委員長、学会々長の三つともに、千野さんから小林が引き継ぐという巡り合わせ。その意味では「後輩」でもあった。心くばりいただいた思い出あり、また教えられたことも少なくなかった。当時を想起し、友情に感謝し、あらためて天上の千野さんに御礼申しあげたい。
 勤務先も千野さんの東京農工大学は府中、当方の東京学芸大学は小金井、同じ東京北多摩の隣りの町という位置にあった。同時期に多摩地区で活動し、同じ年(1995年)に国立大学の定年を迎えた。その3月を前にして、何かの集いで同宿した夜、お互いに定年まで頑張った歳月をしみじみ語り合ったことを思い出している。それからすでに四半世紀が経過したことになる。
 千野さんがお元気で、お酒の席で論じ合った昔の想い出は、今はもうはるかおぼろ。むしろ後年、体調管理に慎重に過ごされていた頃の思い出の方が鮮明である。定年後、沖縄・東アジアへの関心から「南の風」という研究通信(20224月に終刊)を発行していた私に、千野さんから久しぶりの電話あり、その「風」を配信するよう依頼があった。その後のパソコンを通しての新たな交流は2003年頃から十数年に及んだ。この通信や研究会年報上に濃密な記録が残されている。
 私たちの研究会(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会、TOAFAEC)が刊行してきた年報『東アジア社会教育研究』には、華東師範大学(上海)呉遵民さん論文の、千野さんによる丹念な日本語訳が4本収録されている。千野さんの若い情熱に蓄積されてきた中国語への造詣を初めて知った人も少なくないだろう。また加えて、私と末本誠(神戸大学・当時)・呉遵民の3名が共編者となって、上海教育出版社より『現代社区教育の展望』(原題『当代社区教育新視野―社区教育理論与実践的国際比較』、2003年)を上梓したことがある。日本からの執筆者11名、日本の公民館や自治体社会教育の状況を中国語で初めて本格的に紹介した出版となったが、千野さんは全文を読んでいただき、「月刊社会教育」に詳細な書評を書いてくださった(20046月号)。いま読み返して、私たちの東アジア・中国研究への大きな励ましの一文。このような先達の激励を受けて、同じ上海で同編者による『現代生涯学習論―学習社会へ向けての架橋』(日本から10名の執筆者、2008年)を出版、また研究会年報の刊行を続け、現在27冊目を迎えている。この機会にあらためて、私たちを励まし続けた千野さんの執念にも似た晩年のお仕事に深い敬意を表させていただきたい。
 私のまわりでは、千野さんの社会教育学会長時代、名コンビであった学会事務局長・野々村恵子さんが急逝され(201911月)、また長野県中野公民館時代の千野さんの実践(「私たちの大学」構想)に刺激を受けたという徳永功さん(国立市公民館長、のち教育長)も亡くなられた(2022年1月)。同じ世代の訃報が相次ぐが、千野さんはじめ友人たちの残したメッセージを確かめながら、在りし日のお互いの活気を懐かしく思いおこしている。(2022年5月記)

7,徳永功さん追悼―都市公民館論を語り継ぐ課題   関連・(南の風事4293/4294)→■
             (「月刊社会教育」2022年5月号)
 
徳永功さん急逝の報せは114日深更。その数日前に短いメールを頂いていたので、わが耳を疑った。20年をこえる1日おきの人工透析、厳しい闘病生活の歳月を知っているだけに、病状急変の事態は(残念ながら)すぐに理解できた。享年91歳。「よくぞ頑張ってこられた」と、心からご冥福を祈るほかない。
 徳永さんは私より1歳年長、同世代ながら社会教育の道では先輩格であった。おぼろげに日本社会教育学会の出会いを憶えているが、縁があって1967年より、革新自治体時代の国立市に15年近く居住し(徳永さんは一橋大学近く、当方は南の団地住い)、濃密な付き合いを重ねた仲であった。ともに語り論じ飲みかつ歌い、励まし合ってきた。東京都「新しい公民館像をめざして」(1973~4年、いわゆる「三多摩テーゼ」)論議はそんな雰囲気で素稿を書き合った記憶がある。当時、私たちの青年期はまだ続いていたようだ。一緒に沖縄へ渡り、中国への旅も始まった。
 1979年に徳永さんは公民館長・社会教育課長より市行政の政策・企画部門へ、さらに教育長職を8年。その後も社会教育への情熱は衰えず、退職後に単著『個の自立と地域の民主主義をめざしてー徳永功の社会教育』を上梓されている(2011年、エイデル研究所)。請われて解説「徳永功さんの仕事」を執筆、巻末に収めていただいた。国立・三多摩を舞台に、とくに都市公民館の歴史に貴重なページを刻んだ労作。学生・市民の地域活動、市民運動による公民館づくり、都市型公民館構想(公民館三階建論、三多摩テーゼ)、公民館事業の構造化論などなど。また持論の諸課題、たとえば職員の専門職化、運営審議会、館報発行(毎月全戸配布)、ロビー・たまり場等の施設論ほか、「くにたち公民館」の歩みが提起した課題は多く、大きい。
 人口7万をこえる国立市、公民館はついに2館目の実現を見ることなく徳永さんは逝ってしまわれた。国立だけの問題ではない。大都市部における公民館の未発の状況、設置されても停滞しつつある都市公民館の実態、これらをどう回復・改善していくか。あらためて諸課題を洗い出し、徳永さんが196070年代に格闘した努力に重ねて、現代的状況のなかに諸課題を据え直し再論議したいものだ。泉下でぶつぶつ言い続けている姿が見えてくる。その霊安かれと祈りつつ、あらためて都市型の、そして日本公民館の歩みと課題を語り継ぎたいものである。(写真=三多摩の公民館を創り支えてきた群像)
前列左2人目に小林、4人目に徳永功さん、右端・中腰は平林正夫さん(徳永教育長「ご苦労さん」会、1991年9月
(後列)横山宏・北田耕也・奥田泰弘、(中)小川利夫、(前列)進藤文夫・徳永功・野々村恵子等の各位、大半の方が鬼籍に入った。



8,「社全協通信」が刻む運動の歴史と証言
    ―300号に寄せてー(通信300号、2022年5月25日)

 独自の役割を果たしてきた社全協通信、事務通信にとどまらない思いのこもった編集。社全協事務局が紡ぎ出してきた通信が300号を迎えたとのこと。これを担ってきたエネルギーと心意気、持続的な努力の積み重ねに、あらためて敬意と感謝を申し上げます。委員長退任後にも、何度も「自著を語る」ページなどに執筆の機会を頂きました。当時の私にとっては、いつも故野々村恵子さん(201911月急逝)のやさしい声が「通信」からのメッセージ。あらためて野々村恵子さんのご冥福を祈ります。
 この機会に歩みを少し振り返ってみます。19639月、社会教育推進全国協議会・結成の集い(神奈川・金沢八景)に参加した想い出(2カ月後に「社全協通信」1号が創刊されている)。1970年代には、調査研究部(当時)を担い、初めての社会教育条例規則調査(1973、この年に三多摩テーゼ)。北九州教育文化事業団委託問題(1976)、福岡公民館主事嘱託化問題(1977)の調査報告、公民館「合理化」全国状況調査(1988)など、毎年夏には1冊の社全協刊行物として世に送り出してきました。その流れが『社会教育・生涯学習ハンドブック』(社全協編、エイデル研究所)編集発行へと続いていくのです。
 社全協活動を通して、課題と出会い、それに取り組む仲間と出会い、研究運動の活力を拡げてきたように思います。この10年は、毎年の夏すべて社全協「調査研究」と全国集会開催に集中してきた時期でした。そして10年の蓄積が1980年代「臨調行革」闘争へとつながり、1990年代の地域づくり・自治体計画策定の運動へと展開していったように思います。
 小川利夫委員長のもと副委員長(1984〜)、千野陽一さんのあと委員長(1991〜)、そこで迎えた松本市の全国集会(第31回、1991)は一つの到達点。松本「根っこワーキング」と名づけられた資料集、その後に「づくだせ学びの森づくり」と副題がつけられた自治体生涯学習計画は、松本市独自の策定ですが、私には社全協運動の蓄積も背景にもっているように思われます。私自身の研究の歩みも、沖縄研究へと進み、名護市の全国集会(第42回、2002)開催へと結実。また全国集会に韓国から参加してきた人たちと「東アジア」研究へのステップを刻むことに。これらの動きには、いつも社全協運動が伏流水のように流れていることに気づかされてきました。そのような研究と実践、課題と運動、研究者と職員・市民との出会い、が拡がってきた歩みを「社全協通信」は横に結び応援してくれたのです。しかし、私自身は実際に一度も「通信」発行の実務に携わったことはなく、まったく申し訳ない思い。
 一つだけ課題を。かねがね(「通信」を含め)社全協の運動、そして全国集会分科会の財産を記録としてまとめておく必要を痛感してきました。今ならまだ間に合うのではないか。訃報が相次ぐたびに歴史が消えていく。そうならないように今後に向けて大事な歴史と証言の記録化を急ぐ必要があるのではないかと思っています。


9,「はげまし学ぶ」社会教育の創造を
     (オホーツク社会教育会50年記念誌―2022年7月14日送稿)

 「北の大地」になかなか立つことができない。コロナ禍だけではない。南の沖縄をテーマとしてきたので(「オホーツク社会教育研究会20年記念誌」にも書いたことだが)、これまで旅する機会があれば、足はまず南へ向く。実は、1990年の社会教育研究全国集会(第30回・知床集会)にも参加できなかった。当時は大学管理職の立場、当方の主催行事と重なって東京を離れることができなかった。残念無念の思いでいたところ、大学院生・森田はるみさんが単身で集会参加、それが機縁となって、置戸町教育委員会に就職するという思いがけない慶事。そのご縁ができて、その後に置戸町になんどか参上する機会があった。
 何より知床集会から2年目のオホーツク社会教育研究会(第18回、199212月)の集いにお招きいただいたことが忘れられない。北大・山田定市さんとご一緒、懐かしい写真が残っている。この夜、話に聞いていた「北の大地」に生きる社会教育群像各位にお会いすることができた。談論風発、いつまでも忘れられない北の宿の一夜であった。いつもは会えない人たちとの出会い、それだけに印象は強烈に残るものだ。あのとき、帰途「オケクラフト」工房で見事なワインクーラーを発見し、欲しそうな顔をしていたのだろう、皆さんから記念の贈りものとして頂戴することになってしまった。恐縮しつつ、今でも(いつまでも)座右において愛用している。ことさらにワインの香りがただよい続ける。そのたびにオホーツク社会教育研究会を想いおこす。あらためて御礼を申し上げたい。
 この年からすでに30年が経過している。この間に物故された方々あり、とくにここ数年、私と同じ世代の人たち、たとえば故千野陽一さん(知床集会当時の社全協委員長)など、逝去される人が相次いだ。私は千野さんから(知床集会の半年後)委員長のバトンを受け継ぎ、1991年の全国集会・松本集会の成功に向けて頑張った思い出が蘇る。その後に斜里町はじめオホーツク各地の社会教育「たより」や「通信」「報告」等をいただくようになった。たとえば置戸町『社会教育50年のあゆみ』(2001)の力作。ときに開いて、「社会教育5か年計画」の項を読み、その後も(今でも)継続・蓄積されているだろうかとホームページを確かめたりしている。日常的に会えないだけに北の「自治体」の個性的な取り組みに想いを馳せたくなるのである。思い出はつきない。


 今年(2022年)の全国集会は(私の故郷のちかく)北九州の地で開かれる。しかしオンライン開催らしく、参加の意欲は萎えた。大会準備の過程ではさかんに「励まし学ぶ」が語られていると聞く。この言葉は今は亡き小川利夫さん(千野さんの前の社全協委員長、名古屋大学)と議論しながら創出したフレーズであった。私が書いた原題は「はげまし学ぶ主事たちの動き」(小川編『住民の学習権と社会教育の自由』勁草書房、1976、所収)。つまり当時の職員相互の連帯の課題として提起したものであった。いま歴史が求めているのは、さらに住民と職員の、そして住民相互の、とくに格差にあえぐ人たちとの「はげまし学ぶ」連帯の課題について、学習権の主体である“住民”の視点を基本に据えて、考えていく必要があるだろう。こんな議論を、北の大地で、地域の課題を語りつつ、皆さんと談論風発したいものだ。

1992年12月19日−北海道・オホーツク社会教育研究会(10周年記念セレモニー)の夜−北見、
前列中央に山田定市氏(北大)、その左に小林、菊池一春氏、2列右2人目・森田はるみさんなどオホーツクの群像。


10, 年報27号(2022)
巻頭言
   東アジア社会教育・生涯学習半世紀の歩み -東アジアの躍動に学び、課題をさぐる

 本誌は1996年9月の創刊、すでに四半世紀をこえる道のりを歩いてきた。四苦八苦しながら衆知を集め、「東アジア社会教育・生涯学習」という類書のないテーマに挑んできた歳月。毎年300ページ前後の各年報に盛られている論文・報告・諸資料のファイルは、すでに小さな山を築くほどの蓄積となった。本年は激動の1972年から数えて50年、この半世紀を振り返る記念特集を組むこととなった。各国・地域から予定された主要論文が出揃い、また記念座談会の記録も出来上がって、これまでにない充実した「半世紀」まとめ号を世に送り出すこととなった。創刊号から携わってきた一人として、本書執筆の皆さま、翻訳の労をとられた若いメンバー、編集実務にあたった編集委員会各位、すべての方々にまず御礼を申し上げたい。

 東アジアをめぐる政治状況は、歴史的につねに激動の連続であった。第二次大戦終結後においても、朝鮮半島の民族分断と軍事政権、革命後中国の文化大革命等の混乱、台湾海峡の緊張、アメリカ極東戦略におけるキーストーンとしての沖縄の基地要塞化等が続いてきた。「社会教育・生涯学習」の歩みは、これら東アジアの政治状況に翻弄され、分断・統制・支配に呻吟しつつ、自由で伸びやかな歩みは大きく制約される状況が続いてきた。
 そういう中、日本を基点に考えると1972年に大きな転機が訪れる。一つはアメリカ支配下にあった「太平洋の要石」沖縄の施政権返還(いわゆる沖縄本土復帰、515日)。そして日本・中国の国交交正常化(925日、日中平和友好条約は1978年)が実現した。
 この年から沖縄と本土の往来が自由になり、戦後教育改革・教育基本法制による社会教育の本格的適用がはじまった。アメリカ型施設(琉米文化会館等)は撤去され、青年団・婦人会等の自由な活動も始まった。私たちの沖縄社会教育研究もこの年を起点として始まったようなものである。中国との関係では、文化大革命の収束にしばしの歳月を要したが、1980年代に入ると日中双方からの研究交流・親善友好の新しい活動が始まり、画期的ともいえる留学生の交換が開始された。国を越えて新しい友人との出会いがあり、日中間には一時緊張の年を含むが、研究交流の流れは確実に拡がりをみせて、この半世紀を彩ってきた。
 韓国及び台湾との関係はどんな状況であったのか。それぞれに「社会教育法」が制定(韓国・1982年、台湾・1953年)されていたが、その後の現実は、韓国では軍事政権下、台湾は国民党一等支配による長い戒厳令下におかれ、自由な研究交流・友好親善の流れは直ちには現実化しなかった。奇しくも同じ1987年、韓国における民主化抗争の闘い、台湾では38年間にわたる戒厳令の解除により、新しい自由の時代が到来した。この時期、中国では天安門事件が起こるが(1989年)、折しもヨーロッパではベルリンの壁崩壊に次ぐ東西両ドイツの統一(198990年)、ソ連共産党解散(1991年)等、厳しい東西冷戦構造は終結の時代を迎えていた。東アジアでも海をこえて自由な「社会教育・生涯学習」の研究交流、国際的な研究集会(日韓社会教育セミナー、199193年)の開催、学会間の交流、資料交換等が可能な時代がやってきた。筆者が初めて東アジアの海を渡ったのは1980年・韓国へ。この旅の興奮はいつまでも忘れない。
 1990年代に入ると、とくにその後半、東アジア各国・地域はともに新しい教育改革の時代を迎えたと言える。中国では改革開放政策とともに「生涯教育」「学習システム」が唱導され、“単位”社会の改造とも重なって「社区教育」の潮流が大きな展開を見せた。韓国・台湾でも「生涯学習」理念の拡がりとともに、旧社会教育法の見直しがあり「平生学習法」(韓国、旧法全面改正、1999年)、「終身学習法」(台湾、2002年、旧社会教育法廃止)の時代へ。今世紀に入って「社会教育法」を堅持している国は日本のみとなった。本年報でも東アジア「教育改革」の動きを特集(東アジア教育改革「新しい地平」16号・2011年、「教育改革から20年」22号、2017年)に組み、認識を広めたのは周知の通り。因みに私たちのTOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会、19956)も、新しい東アジア教育改革の潮流を背景として創立されたことを付記しておきたい。

 このように躍動を見せる東アジアのなか、さて、日本「社会教育・生涯学習」の改革動向は、どのような展開であったか。1980年代に遡ると、「生涯学習体系への移行」策を提言した臨時教育審議会(最終答申、1987年)、それをうけるかたちで施行された「生涯学習振興整備法」(1990年、社会教育法と併行)の施策が動いた。その意義、可能性をどう評価するかが問われる。この時期、日本の教育改革の流れは、行政改革(公的セクター縮小・財政削減・民間委託等=臨調行革路線)と並行して進められた不幸な組み合わせを想起しておきたい。加えて異常なバブル経済の崩壊(1990年)、経済失速=失われた10年、の流れに「生涯学習体系移行」策は陥没したというのが実態であろう。長期不況のなか、生涯学習の担い手と期待された「民間事業者」(上記法・第5条)の姿は見えず、「社会教育・生涯学習」移行策は名称のみ踊って、その公共的整備の夢は画餅と消えた感がある。社会教育法が鮮明に規定している行政の公的条件整備・環境醸成の役割も、新自由主義・公的セクター縮小の動きのなか、その後は後退の一途をたどることとなった。国の積極的計画は見えず、これからどのような道を拓いていこうとするのか、展望は不明、今後が憂慮される。
 とりわけ経済成長下、人口が集中した大都市部における社会教育・生涯学習の停滞・低水準、むしろ空白ともいうべき実態を凝視する必要があろう。筆者らが取り組んできた首都・東京の社会教育・生涯学習(1980年代に生涯学習「移行」策)の実態は、その後「生涯学習」施策は低迷し、いまやその “解体”が憂慮されている。今世紀に入って対照的に躍動を見せている東アジア諸国・地域の活力あふれる計画・施策・実践の躍動に学ぶ必要を痛感する。
 もちろん日本の社会教育法制が(格差を含みつつ)地域/自治体レベルに蓄積してきたもの、あるいは沖縄の集落自治や地域文化など法制によらない地域の活力、それらを再発見し、東アジア「生涯学習」に向けて提言していく努力も期待されるところであろう。大都市部の空白の一方で、充実した公民館体制を拠点に住民自治を拡げてきた「松本モデル」(手塚英男、2022)など、東アジア「生涯学習」の動きとどのように交叉していくか興味深い。東アジアの半世紀の歩みのなかで、「社会教育」と「生涯学習」の二つの概念・実践が登場し、多くの議論・検討が重ねられてきたが、この二本柱を背反的ではなく、「地域に根ざす社会許育」と「市民の生涯にわたる学習」として結合してとらえる論点もありうるのではないか。課題は尽きず、思いは海を越えてひろがる。


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