人形劇サークル(東京学芸大学)「麦笛」との出会いは1967年から。当時の活発な活動をよく覚えています。学生運動も盛り上がっていた時期、私は「麦笛」から生まれた「子ども会サークル・麦の子」の顧問となり、その後1973年3月サークル部室棟の火事のあと、「麦笛」の顧問教官となりました。1995年の退職まで、講義やゼミでは味わえない、皆さんとの楽しい充実した付き合いが忘れられません。
幸いなことにその後も、「麦笛」OBG(いまもむぎぶえ)との交流が続いてきました。折々の和気さんのメール、飯田市の人形劇フェスティバルでの出会い、何より4年おきの麦笛人形劇フェスティバル(いつも同時期の社会教育研究全国集会と重なって参加できず)など。ある年の新宿での忘年会も思い出に残っています。振り返ってみると、ちょうど半世紀の「むぎぶえ」交流ということになります。
まだ東京学芸大学に在職していた当時、「麦笛創立30年フエステイバル」記念パンフに、「麦笛の歴史を掘れ−そこに泉が湧く!」(1992年)という一文を書いたことがありました。1960年代から70年代〜80年代の学生サークル・運動の躍動がいま懐かしく思い出されますが、しかしその活津はあまり記録化されていない。その歴史を歩んできた当事者たちが、自らの活動を語り、書き綴っておいてほしいと思うのです。
私が退職した年の「麦笛」には、まだ現役学生が活動していましたが、それから間もなくして大学内のサークル「麦笛」は歴史を閉じてしまいました。それに象徴されるように、いまの学生たちの世代的なエネルギーは大きく変わってしまった。新しい特徴もありそうですが、歳月の経過とともに「学生」世代は変貌し、人形劇サークルのような活動の若々しい活力や躍動は姿を消してきました。それだけに、かって「麦笛」が果敢に取り組んできた活動の記録をいま綴っておいてほしい、「歴史を掘れ、そこに泉が湧く」という思いは変わりません。
余談ですが、昨年夏に『大都市・東京の社会教育ー歴史と現在』(エイデル研究所刊)という本をつくりました。そこに学生運動や児童文化運動の歴史をほとんど盛り込むことができませんでした。大学に閉じこもらないで、地域(東京だけでなく“へき地”も含めて)に飛び出していた「麦笛」の活動は、東京の児童文化運動史の側面も併せもっています。「むぎぶえ50年誌」(仮)企画の試みが動きはじめていることを聞いて嬉しくなっています。ぜひ取り組んでほしい、貴重な記録になるだろうと期待を寄せています。
(2017年2月、むぎぶえOB会通信)
65,サンシンとニガナの話−沖縄・名護からもらった“こころ”−
*東京学芸大学社会教育研究室有志「沖縄友愛発見行」(1993)
沖縄に通いはじめてもう15年あまりになるが、この間にどれほどの“沖縄のこころ”を頂いたことだろう。私たち東京人は、人と人のつきあいを、ともすると“もの”や“かね”のかたちで(いわば合理的に)処理しがちなところがあるが、これまで何度もたしなめられてきた感じがする。頂いた“こころ”には、所詮“こころ”をもってお返しするほかないのだと教えられた思いだ。
こんどの旅でも、名護で、ニガナの“こころ”を頂いた。
ニガナの話をする前に、まずサンシンの“こころ”のことを書かねばならぬ。 1992年2月に生涯学習にかんする「名護セミナー」が開かれた。私たちヤマトンチュ(小林、君塚仁彦など)のほか、沖縄各地から日頃社会教育に格闘している人々が集まった。とくに図書館と博物館の充実を課題として、なかなか面白い論議がかわされた。終了後、余韻さめやらぬままにオリオンビールのホールで、参会者による交流・懇親の楽しい集い。その席上で、私たちは思いがけずサンシンを贈られたのである。
贈り主は、名護市教育委員会学校教育課長(当時)の上間久武さんである。想いだせばもう10年ぐらい前になるのだろうか。上間さんたちは実力派の教師であるが、社会教育主事の資格取得のため国立社会教育研修所(上野、宿舎は松戸市)の講習のため上京されたことがある。約一ヵ月半にわたるつらい東京生活である。それを伝え聞いて、東京「沖縄社会教育研究会」で慰労会をひらいた。皆さん(同行4人と記憶している)で、ある日曜日に、学芸大学・社会教育研究室にお出でいただいた。私たちはとくに盛大なおもてなしをしたわけではない。ただ泡盛だけはすこし用意して、労をねぎらったのである。山口真理子さんがサ−タ−アンダ−ギ−を手づくりでもってきてくれたかも知れない。そんな程度のことだった。
その折、話がはずんで、上間久武さんが「研究室にサンシンはありませんか」という。もちろんある筈がない。あとで分かったことだが、上間先生はサンシンの達人であった。学校でも子どもたちのクラブをつくり、サンシンの特別指導にあたり、地元紙も報道したことがあるぐらいの方だ。そのとき、わずかの泡盛に酔って、きっとサンシンを弾きたくなったのだろう。私は「沖縄研究をしている研究室としてはサンシンぐらいは常備しておくべきですね」などと答えたような気がする。上間さんは「そのうち私が寄贈しましょう」といわれた。私は、そんな話は酒の場のたわむれのこと、すっかり忘れてしまって、10年ちかくが経過したのである。
オリオンビールのホールで上間さんがサンシンを贈呈されたときの記念写真がいま研究室にかざってある。「名護セミナー」に私の“かばんもち”を自称して同行してくれた内藤茂くんが撮ってくれたものだ。内藤くんによれば、このとき上間さんは「沖縄の“こころ”です」と言って、サンシンを渡されたたという。私は、あまりにも突然のことで、感動のあまり、気も動転、胸にじんときて、そのときの上間さんの言葉も覚えていない。
ところで、研究室に贈呈されたサンシンを誰が弾くのか。残念ながら、弾き手がいないのである。私も、せっかく頂いた以上、これを活用するために、サンシンの稽古を始めようか、と思わないでもない。高円寺の駅のガード下の沖縄古書を専門とする球陽書房のおやじさん(西平守良氏)が、夜ときどき初心者向けにサンシンを弾いているという。そのおやじさんの笑い顔が頭をよぎるが、残念ながらそこに通う時間のゆとりがない。
幸いに、今回の沖縄旅行の中心メンバーであった石川仁美(学芸大学3年、生涯教育専攻)さんが、ときどき弦を爪引くことがある。それを聞くとすこし救われた気持になる。ヤマトに贈られてきたサンシンもこの時だけはかすかに音を出すことができるわけだ。しかし、ここでようやく待望の弾き手が誕生するかも知れない、と期待するのは早計だろう。彼女の興味がどこまで持続するか分からない。
ニガナの“こころ”に話を移そう。今度の旅の名護の最後の日、私は名護市史編纂室長の宮里健一郎さんたちが包んでくれたニガナの苗を頂いた。中村誠司さんを通じていただいたその包みは、なぜかずしりと重い。東京まで金平淑(韓国留学生)くんが持ってくれた。帰宅して開いてみたら、しっかりとヤンバルの赤い土をつけた苗が5株も入っていた。
なぜニガナなのか。この話にもすこし経過がある。
沖縄研究を始めた初期のころ、私たちはよく今帰仁(なきじん)に通った。象グループによる今帰仁村「基本構想」、その中に画かれた「集落公民館」、そして赤い柱の中央公民館などに魅せられてのことであったが、あと一つ社会教育主事の玉城勝雄(私たちは親しみをこめて「たまかつ」と呼んだ)の存在があったからだ。大らかで快活、心やさしく歌をよくうたい、誰からも愛されていた。沖縄の社会教育主事の一つの典型を見る思いであった。彼はいつも暖かくヤマトからの私たちを歓迎してくれた。事情があったらしく、彼は失意のなかで職を退くという経過があった。細かなことは知らないが、今でも残念でならない。
もう10年以上も前になろうか、今帰仁の宿に泊まった夜、「たまかつ」はある菜っ葉を差し出して「これを食えば元気になりますよ」と言った。強壮剤的な効果があるというのだ。事実そうだった。翌朝は若者のごとき精気であった。それ以来私はこの菜っ葉の正体を知りたいと思いながら歳月が経過した。
今年の正月明け、一人で名護・中央公民館を訪ねた折、例によって社会教育課や市史編纂室の皆さんが歓迎してくれて、たのしい酒の座となった。こういうとき私はなんとも形容できない幸せを感じる。話のなかで久しぶりに「たまかつ」のことがでた。元気にやっているらしいが、なかなか会う機会はないとのことであった。ああ、あの「たまかつ」とまた一緒に飲みたいな、と話した。
その時ふと今帰仁の夜の菜っ葉のことを思い出した。そしてその話を皆さんに披露して「あれは一体何の葉だろう?」と尋ねた。皆さんの推測を総合すると、それは「きっとニガナだろう」ということになった。島袋正敏さんは黒板にニガナの絵を書いてくれた。その数分後には宮里健一郎さんがニガナの実物を持ってきた。公民館の空き地で栽培?されていたものを引っこ抜いてきたらしい。過ぎしあの夜「たまかつ」からもらった菜っ葉はもう少し小振りだったような気もするが、とにかく精のつく菜っ葉であることには間違いない。私は嬉しくなって、卓上のニガナをバリバリと口に入れた。それを見ていたのか、宮里健一郎さんが残った根っこをくるくると新聞紙に包んでくれたのである。
ニガナはもともと野性のもので、海辺の土手などに生えているらしい。正式の学術名はまだ知らない。帰京して「沖縄大百科事典」(沖縄タイムス社刊)などを調べたが、「ニガナ」としては載っていない。
私は早速ニガナを植えた。九州の家の庭に移植したかったが、運ぶ時間的な余裕がない。止むなく東京のマンションのベランダに鉢植えした。根はついた。新しい葉も出始めた。2、3枚は朝のサラダにして食べた。感激であった。名護市教育委員会への手紙の余白に「例のニガナはすくすくと育っています」と書いた。 しかし10日ほど経ったところで、残念なことにニガナは段々と精気を失い、しぼんでいったのである。亜熱帯育ちの植物なのだから、寒帯にも似た当時の東京の冷たい冬に適応できるわけがない、と思った。せめて生き延びて冬を越してくれないか、と願ったが、そのうちにニガナは枯れた。そして、次の便りの余白に、ニガナがついに育たなかったことを書いたように記憶している。
それから約一ヵ月が経過しての今回の名護訪問である。宮里さんには、せっかくの好意のニガナを枯らして申し訳ないという気持であった。直接には挨拶する余裕もなく、私は辺戸岬まわりなどの日程に気をとられて、もうニガナのことなどは全く忘れてしまっていた。そんなところに最後の夜の宿に連絡があり、教育委員会にニガナの苗が用意してあるというのだ。こんどは若い苗だから大丈夫だろう、とメモも入っている。なんという暖かい“こころ”だろう。
私は再びベランダに鉢を用意した。今度は5株だ。鉢も5つ。そして頃は弥生三月、ようやく時も春めいて、花粉がとぶ季節になっている。実は5、6年前から花粉症にかかって、この時期はまったく楽しくないのだが、いい気分で鉢植えをした。
それからほぼ一ヵ月が過ぎた。ニガナは5株とも生きている。それでも今年の春はいつまでも冷たく、どんどんと成長を始めるという状況ではない。ニガナの若い苗たちは、なおまだ寒い東京をじっと耐えている感じである。この数日ようやく新しい葉が下の方から芽生えてきている様子だ。名護から頂いた“こころ”が、東京の過密なマンションの一角で、どうやらしっかりと根付くようだ。この五つの鉢をどのように分けようかといまから楽しみにしている。(1993年4月4日記)
66,沖縄・社会教育との出会い−宮城英次さんを通して
*「宮城英次先生を囲む」集い・パンフ(1993)
私たち社会教育沖縄研究グル−プ(ほかに末本誠・神戸大学助教授、小林平造・鹿児島大学助教授など−当時はまだ大学院生であった)がはじめて宮城英次さんにお会いしたのは、たしか1977年の頃だと記憶している。当時の私たちは沖縄に通い始めたばかりで、まだ(数人の知人を除いて)沖縄・社会教育関係者に知己をもたなかった。復帰後、わずか5年を経過したばかりの頃だ。
その日、私たちは那覇空港に着いて、その足で県の教育委員会に挨拶に行った。当時の県教育庁は、忘れもしない明治橋のたもと、あの「沖配ビル」の7階(8階かな?)だった。そこで初めて宮城英次さんや新城捷也さんなど、当時の若き社会教育主事の方々と会った。
明るく、気さくで、しかも細心、見ず知らずの私たちを心こめて「よくいらっしゃいました!」と歓迎していただいた。お互いに気も合ったのだろう、出会いのその日から惜しみない友情をともに交歓しあったことを忘れない(いまたまに県教育庁社会教育課に行くが、あまり歓迎していただけない)。
私たちの研究テ−マは、戦後アメリカ占領下の沖縄社会教育の実相を明らかにすること、そのための資料収集が課題であった。琉球政府初代社会教育課長・金城英浩氏や復帰時の社会教育課長・金城正光氏などから詳しいお話や貴重資料の提供をうけることから始まって、当時の大城徳次郎課長、すぐ後に課長補佐になられた大嶺自吉さん、それに上地巌、仲本興真、大城節子さんなど、そして元社会教育主事の山本芙美子さん(ユネスコ事務局)など、県・社会教育課の方々にずいぶんとお世話になったものだ。なつかしい顔がうかんでくる。皆さんお元気だろうか。
この数年間の沖縄研究に熱中していたころの精神的な充実、心あたたまる交流、楽しい人たちとの出会い、私は沖縄研究のテ−マを得て幸せであった。研究というものは辛く厳しいものの筈だが、私の沖縄研究は楽しく温かいものであった。夜ごとに親しい友人たちと心かよわし杯をかわすためか、逆に研究の成果は遅々として進まない。(ようやく1988年に共同研究のまとめとして小林・平良共編『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究』エイデル研究所、を出版することができた。)
私たちをつつむ友人たちの中心に、宮城英次さんたちがおられたようなものだ。旅の終り、別れがたく、那覇空港まで送りにきていただいて記念にと大きな“やちむん”を頂いたり(いま拙宅の玄関に大事にかざってある)、東京へ出張の折りであろうか、新城捷也さんとご一緒に東京学芸大学の研究室までお出でいただいたこともある。
時あたかも当時の沖縄県教育委員会は、復帰前・アメリカ占領下の教育資料を収集整理して『沖縄の戦後教育史』(本編・資料編)を編纂中であった。宮城英次さんは社会教育分野の編集委員を担当されていた。ある日、その貴重資料(たとえば琉球政府下「中央教育委員会議事録」など)を見せていただいた。本土の歴史にはない苦難・激動の記録を直接にみることができたときの興奮は、今でも忘れることができない。同時に、あえて私たちにその機会を用意していただいた宮城英次さんのご好意、その心の温かさをいましみじみと噛みしめている。この機会にあらためて御礼を申しあげたい。
その後、宮城英次さんは学校に転じられた。そのニュ−スが東京に伝わったときは、正直いってがっかりしたものだ。沖縄のもっとも代表的な、情熱ほとばしる社会教育主事の典型だと思っていた宮城英次さん、社会教育なかでも青年担当としてこんなピッタリの人はいないような逸材を、学校教育の枠のなかに閉じこめてしまうような人事に失望したのだ。沖縄の元気のいい青年たちが配転反対闘争などはじめないものかと考えたりした。
やはり社会教育を離れられた後は、宮城英次さんと会う機会が極端に少なくなった。それでも交流は続く。津堅島の学校に赴任されているときには、私の学生たちがどやどやと押しかけてお世話になった。校長になられたと聞いて、調査活動の合間にその学校を突然訪問したことも数回ある。たとえばヤンバルの帰り、石川の城前小学校の校長室をたずねた。しかし不在であった。こちらも急に思いついて車を走らせるのだから、もともと無理なことなのだが、しかし宮城英次さんとはなんとなく突然に会いたくなるのだ。
私たちはこれまで、宮城英次さんや新城捷也さんを通して、沖縄の社会教育、そして沖縄の青年たちとほんとの出会いをしたような気がする。これからも新しい出会いをまたお願いしたい。
[付記] いろいろと有難うございました。しかしこの10年あまり、お互いにゆっくりと語りあう機会に恵まれませんでした。そのうちに、また、お会いいたしましょう。さらなるご活躍を祈ります。(ぶんじん)
*関連:新城捷也さんを偲ぶ→■(40)
67,ある回想−15年目の白馬江(韓国・扶余)
「韓国・社会教育及び青少年教育の研究と交流」に関する訪韓事業・報告書(1994年)
はじめて韓国を訪れた日(1980年2月23日)のことを私はいつまでも忘れない。ただ一 人で降り立った金浦空港で、私は徹底的な身体検査をうけねばならなかった。私を招聘してくれた韓国社会教育協会への贈りもの、たとえば日本の社会教育法や制度についての資料、そして出来たての社会教育推進全国協議会編『社会教育ハンドブック』なども徹底的に調べられた。やにわに公衆の面前で上着も脱がされた。「大学教授」と名乗ったのがよくなかったのかもしれない。私はハングルは話せない。不十分な英語も聞いてくれない。非常にこわかった。ようやく出てきた韓国社会教育協会からの招聘状をくりかえし吟味した上で、どうにか入国のゲ−トを通してくれた。やれやれの思いだった。
当時は、朴正熙大統領が暗殺された後の、ひとときの民主化時代、いわゆる“ソウルの春”の頃だ。とは言うものの、まだ夜12時以降は外出禁止、ある曜日には突然すべての車をとめて防空演習が始まる、といった状況であった。金浦空港でのチエックは、はからずも北と南の民族分断、それを背景とする軍事政権の厚み、その思想・イデオロギ−統制の厳しさ、を垣間見た感じであった。
しかしそれから先の5日間の旅はまことに思い出深い、楽しく充実した毎日であった。ソウルから扶余(韓国社会教育協会「社会教育専門家」大会の会場)まで車で私を案内していただいたのは、高名な徐英勲氏(当時・大韓赤十字社事務総長)。丘の上のユ−ス・ホステルで開かれた社会教育専門家会議の席上には、黄宗建氏(当時・啓明大学校教授)はもちろん、金宗西氏(ソウル大学校教授)や当時はまだ若い金信一氏(現・ソウル大学校教授)等のほか、文教部(文部省)関係者も出席されていて、私のつたない講演を聞いていただいた。通訳は文吉麟氏(啓明専門大学教授)、まことに巧みで、私の講演はこの名通訳で救われたのである。忘れもしない、私にとっては生まれて初めての通訳つきの講演であった。
会議が終わって、私たちは丘(扶蘇山)をめぐって流れる白馬江(錦江)のほとりに出かけた。同行の方々は、申泰植ご夫妻(啓明大学校名誉総長、韓国社会教育協会会長)、黄宗建さん、文吉麟ご夫妻、それにうら若い尹福南さん(当時は黄教授の助手か)と記憶している。そして、ゆらりと白馬江に舟を浮かべて、川面にしばし百済の昔の情景を思いえがきながら、ひとときを楽しんだ。百済が新羅・唐連合軍に亡ぼされたとき、数百人の官女たちが身を投じたという落花岩の絶壁には、初夏になると岩間にツツジが咲き乱れ、対岸からみると今でも美女たちが落ちていくようだ、などいう話をなぜか昨日のように覚えている。白馬江の流れがとても澄んで、きれいだった。
川遊びの後、私たちは車で朝鮮半島を横切るかたちで俗離山に一泊し、大邱・啓明大学校に帰り、その後は慶州、釜山の一人旅を楽しんだ。
あれから15年が経過している。韓国ではようやく軍事政権が終わり、1994年はたまたま観光・訪問歓迎の年ということもあって、今回の旅では金浦空港もまことになごやか、入国審査もスム−ス、明洞あたりは深夜まで人の波が途切れない。すこし暗い印象の15年前から比べると、実に活力にみちた明るいさんざめきの街が続いている。車も多くなり、それだけ交通渋滞もひどくなったが、なにか発展の息吹きを感じさせる。
私はこの間、何度か韓国を訪問する機会があったが、なぜか扶余には行くことはなかった。それだけに、今回の旅の日程が進んで扶余が近くなると、過ぎし日のことが想い出されて、ふつふつと懐旧の念が湧きあがってきた。高速道路で錦江を越えたとき、ああ、白馬江だ、と胸のなかでつぶやいた。今も、昔と変わらず、水量豊かにゆったりと流れている。この流れの下に舟を浮かべたのだ、あの日の落花岩はいまも季節にはツツジを咲かせているだろうか、と15年前に心は飛んでいた。
扶余の街なみに車は入った。まず国立博物館(別稿・参照)に行く。立派な建物になっている。昔の博物館とは違う。新しく移転し、拡張・改築されたという。
かっての博物館は扶蘇山の丘のたもとに建っていた。そのすぐ上にはユ−ス・ホステルがあった筈だ。あの丘からおりてきて道をすこしめぐれば、白馬江の船着場に行ける。田舎の小さな道の先に、板で渡したところに小さな舟が、川面にゆらゆらともやっていた。水辺には小さなさざなみに芹に似た草が、やはりゆらゆらと、ゆれていたような記憶がある。15年前には、申泰植ご夫妻もその細い板を渡ってゆらゆらと乗船され、静かな舟遊びを楽しまれた。
しかし田舎の小さな道はなくなっている。車が行き交う舗装の道路に拡張されていた。車だから博物館から船着場まであっという間に着いた。このとき私は「すこし歩いて行きたいな」「ゆっくり行きましょう」と提案しようと思った。しかし、すでに太陽は大きく西に傾き、もう薄暮がしのびよっている。時間に追われるように、がっしりした渡しの板を踏んで、急いで乗船する必要があった。船もすこし大きめ、あまりゆらゆらしない。案内のスピ−カ−もやや大きく耳ざわり。車から船に乗り移りながら、韓国の近代化の歩みを考えていた。
だがすぐに落花岩が見えてきた。季節ではないから、もちろんツツジは咲いていない。15年目の落花岩だ、白馬江の川面だ、と感慨深いものがあった。その流れは変わらず、変わりなくゆったりとした水量だ。日本の河川は多く枯れ果ててしまっているのに、韓国の川は豊かな水量を維持しながらとうとうと流れている。洛東江もそうだし、錦江・白馬江もそうだ。白馬江の流れは西の黄海に注いでいるのだが、なぜか日本の方に流れているようにも見えてきた。
はるか昔、百済の時代に、おそらくこの川を下りながら、仏教も思想も技術も人も、日本に渡ってきたのではないか、そう思いはじめると、流れに深々と頭を垂れたくなった。「扶余八景」と言うそうだが、その第一は言うまでもなく「百済の落日」。この日はとりわけ白馬江に沈む夕日が紅く美しかった。
韓国もまた激動の現代、しかも民族の分断の歴史を背負って、厳しい現実の真っ只中にある。しかし白馬江の流れに身をまかせてその燃ゆる落日をみつめていると、韓国の人びとの歴史の豊かさ、その恵みの豊かさ、を紅い太陽は語りかけているように思った。その昔、百済の人たちもきっとこの夕日を浴びながら、歴史を生きたのであろう。
船からおりて車に乗る頃は、もう濃い夕暮れ。歴史から現代へ駆け抜けるように、車はスピ−ドをあげて走りはじめた。
68,「松花江上」との出会い−社会教育研究のなかで−
*旧満州国教育史研究・2(1994)
私たちの研究室では、この十数年来「松花江上」を歌いついできた。毎年9月18日前後には研究会を呼びかけ、1931年を想い、そして「我的家在東北、松花江上……」を歌うことが恒例となってきた。昨年は沖縄社会教育研究会(1976年発足以来ちょうど120回を数えた)と合同して開き、学外からの関係者も参加して、沖縄の「しまうた」とともに「松花江上」を歌った。
私たちがこの歌を知ったのは、1982年頃、中国からの留学生たちとの出会いからである。思い起せば当時の研究室では、なにか集いがあると、皆でよく歌ったものだ。その年の研究室の主題歌のようなものがあって、ある年は沖縄の「芭蕉布」(普久原恒勇)であり、あるいは「喜瀬武原」(海瀬頭豊)であり、また次の年は“ふるさときゃらばん”の「愛をどこかに」(石塚克彦・寺本健雄)だったりした。マス・メディアにはのらないが、しかし心にのこる歌を大事に皆で歌いついでいこう、という秘かな思いがあった。中国からの留学生たちは、こんな研究室の雰囲気を楽しんではくれたが、最初はとまどい、なかなか人前では歌ってくれなかった。
「松花江上」のことは、私より先に、同じ沖縄研究の仲間である末本誠(神戸大学助教授、当時は東京大学院生)が耳にした。ある日彼が「韓民くんがたいへんな歌をもっている」という。韓民は、文化大革命後の最初の国費留学生(北京師範大学出身、現中国・国家教育委員会勤務)である。誰からも愛されるやさしい人柄であるが、声もやさしく、思いのこもったいい歌い手だ。しかし皆の前では歌わなかった。
次の研究室のなにかの集い(誰かの歓迎会?)の折りに、私は韓民に「松花江上」を歌ってほしいと頼んだ。かなり強引に求めた(私には研究室メンバ−に歌を強制する性癖があって、よく批判された)。すこし逡巡したあと、彼は立ち上がって、静かに歌いはじめた。「……九一八、九一八……流浪、流浪……」 この時の韓民の切ない歌ごえは今でも耳にのこっている。はじめてのことで、当時は歌詞の意味をこまかく理解できたわけではないが、最後の小節「…父よ母よ、いつの日また一堂にあいまみえることができるのだろう…」という高揚のところでは、思わず目頭があつくなったのを憶えている。もしかすると韓民はこの歌を日本人の前では歌いたくなかったのかも知れないと思った。
そのすぐあと、一夜私のせまいマンション(杉並)に横山宏さんなどにおいでいただいたことがあった。この時も私たちは、国立に住んでいた韓民を電話で呼び出し、そして夜もおそく「松花江上」を歌ってもらった。戦前の北京大学に学ばれた横山宏さんも感慨深げで、次のような想い出話をされたように記憶している。「当時、五・四の日になると、大学構内の一角で学生(中国人)たちがひそかに集まって、松花江上を歌っていた」「その歌声は低く、悲しみの調べがながくながく続いていた」「決して明るい調子の歌ではない」などなど。
私たちが歌をうたうときは、まわりにいい仲間がいて、また横に美酒でもあると、とかく楽しく歌いたがる。なによりも私たち日本人は、日本人としてのレジスタンスの歌をほとんどもたないのではないかと思う。(カラオケの悲恋の歌は別にして)お互いに悲痛な心を歌いあうという体験に乏しいのだ。だから「松花江上」も楽しくなってしまう。この歌を通していろんなことを考えた。また、たどたどしく中国語の学習も始めた。(研究室の中国語学習会は、中国留学生の力をかりて倦むことなく今も続いている。)
1989年(天安門事件の年)夏、8月15日、私たちの研究室でビデオ「河殤」をみる会を催したことがある。このときも親しい仲間が残って二次会となり、お酒もはいり、楽しい集いになった。そして誰いうとなく「松花江上」を歌おうということになった。このときも横山宏さんから「楽しそうに歌うものではない」とたしなめられた。それから自戒していることである。
同じ年、自治労・大都市社会教育関係者と訪中した際、瀋陽師範学院に招かれたことがある。夜の会食の席上「そうだ、ここは旧奉天だ」という思いがつのり、また同行の海老原治善さんにも勧められて、拙い調子ながら「松花江上」を歌った。静かに悲しく歌ったつもりだが−−、楽しい拍手をいただいた。私の矛盾である。
その後折りにふれて、中国の留学生と会う機会があれば「松花江上」「9・18」のことを聞いてみることにしている。ほとんど皆知っている。一方の当事者である日本の若者たちは皆「9・18」のことを知らない。歴史教育の責任の問題でもあろうが、あと一つには、中国ではこの「松花江上」が歌いつがれてきたことが、9・18の歴史認識につながっているようにも思われる。
私は沖縄の研究にたずさわっている立場から「6・23」(沖縄県民慰霊の日)のことが気になる。講義で若い学生たちに「みなさん、6・23を知っていますか」と問いかけてみる。ほとんど知らない。しかし「8・15」はほとんど知っている。続いて12・8や、7・7のことを聞いてみる。あまり知らない。そして最後に「9・18はどんな日か知っているか」と聞いてみる。もちろん知らない。そこで私はいつも「松花江上」の歌の話をすることにしている。
69,震災時における社会教育の在り方について
杉並区社会教育委員の会議・意見具申(案・小林担当分、1996・4・9)
はじめに−総括的に
昨年1月の阪神・淡路を襲った大震災は私たちに大きな衝撃を与えた。その被害状況やその後の復興経過からは、多くのかけがえのない事実や貴重な経験が明らかにされているが、また社会教育の立場からも学ぶべき教訓や検討すべき課題が少なくない。
私たち杉並区社会教育委員の会議では、昨年10月2日から4日にかけて、神戸市と西宮市を中心に「大震災と社会教育」についての視察研修をおこなう機会をもつことができた。その際に得た資料の分析やその後の協議などをへて、社会教育の立場から考えるべき視点や課題を以下のようにまとめてみた。もちろん不充分な点を残しているが、今後の杉並区の社会教育を進めていく上での留意点として検討していただければ幸いである。
とくに私たちが注目してきたことは、阪神地区の震災時およびその後の復興過程において、学校をはじめとする地域公共施設とならんで、社会教育あるいは社会体育の施設がきわめて重要な役割を果たしてきた事実である。それも単に施設のハ−ド的な側面に止まらず、社会教育を通じての団体やサ−クルのつながり、各種住民組織やボランティア・ネットワ−ク、住民の交流や自治的な地域づくりの活動など、いわばソフトの側面における社会教育実践の独自の役割が顕著であった。また西宮市では社会教育委員の会議が社会教育の機能回復にかかわって貴重な提言をおこなった事例も注目される。
あらためて大都市においてもまた、地域に根ざす社会教育の日常的な取り組みの重要性が認識される必要があろう。いま盛んに進められている生涯学習の諸事業も、同じく住民の日常的な活動と地域に根ざす視点を忘れてはならないだろう。
なお東京二三区のなかでも、とくに杉並区においては、神戸市の「学校公園」構想を参考にして学校づくり(杉並区立第十小学校)が試みられた経過がある。今次の神戸市の大震災の貴重な経験をふまえて、杉並区の学校公園・防災センタ−の在り方をさらに深める必要があろう。
社会教育施設・職員の対応
阪神・淡路大震災においては、多くの社会教育・体育施設が被害をうけると同時に、緊急の避難・救援施設としての役割を担った。地域に配置されている公民館・社会教育会館や体育館だけではなく、図書館・博物館も例外ではなかった。社会教育職員もしたがって住民の緊急避難に対応する必要があり、あるいは人命の救援活動にもあたった。日常的に住民に開かれるべき社会教育施設の公共的性格、その本来的機能からすれば当然のことであろう。
それだけに防災施設としての準備体制と職員の対応があらかじめ検討されておく必要があろう。たとえば、阪神社会教育研究会の報告によれば、「@緊急時の人員配置、A連絡体制、B必要物資の備蓄、C鍵の住民委託」などの整備が指摘されている。
しかし、緊急避難・救援施設としての段階から、復旧・復興に移行する段階では、当然ながら社会教育・体育施設としての機能回復の課題が忘れられてはならない。芦屋市などでは施設の被害が甚大であったこともあって、中央公民館としての機能回復がおくれた。西宮市では先述したように社会教育委員会議が、「社会教育推進」のために「大胆かつ柔軟な事業展開」の要望(意見)を提出している。
震災被害からの復興と住民自治エネルギ−再生のために、社会教育事業が犠牲になるのではなく、逆に、住民相互の交流、情報交換、ボランティア・ネットワ−クとの連結、文化・学習・娯楽活動など社会教育活動の本来の機能が強く求められたのである。(以下・略)
70,海を越えてはばたいてほしい−上門加代子琉舞道場10周年を祝う−
上門琉舞道場10周年記念誌『輪舞』(1996)
道場の開設から10周年を迎えられた由、まことにお目出度うございます。
たまたま今年は、私たちが沖縄研究を志してちょうど20周年の記念の年にもあたります。偶然の一致ではありますが、はるばる越えし10年の道のり、その間のご労苦と哀歓、人ごとではなく、こころからのお祝いを申しあげます。
はじめて上門加代子師匠にお会いしたのは、おそらく道場開設の直後、具志頭村役場の上原文一さんを介してであったと記憶しています。若々しく気丈に頑張っておられるご様子が伝わってきました。張りつめた思い、爽快な心意気、そんな雰囲気が印象的でした。それからほとんど毎年といってよい位にお会いする機会がありました。学生たちを同行すると、いつも踊りを見せていただきました。学生たちは琉舞を鑑賞するのは初体験のものがほとんどで、一同感激いたしました。とくに中国や韓国からの留学生にとっては強烈な印象だったようです。
私にとって忘れられないのは、10年越しの努力がみのってようやく共同研究『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究−』(1988年春)を上梓できたときのことです。沖縄の皆様にその出版記念会(那覇・青年会館)を開いていただき、席上で上門加代子さんにお祝いの舞いをご披露いただきました。琉装でなく和服だったと記憶していますが、実にあでやか、私たちにとっては至福の一刻でした。
国際的な学者の沖縄訪問の折りも上門加代子さんの舞いが歓迎に花をそえました。1987年には、日本社会教育学会等の招聘によりユネスコ・生涯教育担当責任者・世界のリ−ダ−であるエットレ−・ゼルピ氏が来日しましたが、沖縄滞在の一夜、歓迎交流の席上で舞っていただきました。最近では1995年春、韓国・平生(生涯)教育研究所長の黄宗建氏が訪沖されたとき、具志頭村・上門加代子道場の皆さんの踊りで歓迎していただきました。黄宗建博士は文字通り韓国を代表する高名な学者長老ですが、この日のことをいつまでも忘れず、1年経った今年、私の韓国滞在のホテルでお会いした夜、思い出話に花が咲きました。「カンサハムニダ」(有難う)を伝えてほしい、と繰り返されました。
海を越えた人々との交流も始まったわけです。道場もまた、海をこえて、はばたいてほしい、と願っています。これから新しい21世紀にむけて、ますますのご発展をお祈りしています。
71, 社会教育運動の歴史を担って ー林貞樹さんの自分史に寄せるー
*林貞樹『福岡の公民館と歩いて30年』(1994)所収
振り返ってみると、林貞樹さんとはもうかれこれ30年来の友人だ。もちろん私の方が十歳あまり年上ではあるが、しかし二人はほぼ同じ時期に「社会教育」という道を歩みはじめ、それから(職場は違うけれどー)同じようなテーマに取り組み、そして悩み、ともに「公民館」の問題と格闘しながら、ここまでやってきたという実感がある。厳しい道をともに歩いてきた同行の友という思いである。
最初に二人が出会ったのは、たしか1965年前後のこと、林さんが新任の公民館主事として舞鶴公民館に着任して間もなくのころだったと思う。当時の彼は文字通り初々しい若者であった。私に林さんのことを教えてくれたのは、今は亡き畏友・川崎隆夫(福岡県教育庁勤務)だ。「福岡市の公民館にいい人が入った」というような表現で紹介してくれたように記憶している。
その後私はすぐに福岡から東京の今の職場に移った(1967年)。だから、30年の大部分は別々のところで仕事をしてきたことになる。それなのにともに同じ道を歩いてきたという実感を共有できるのはなぜだろう。それはお互いそれぞれに厳しい状況に抗しながら、ともに地域の社会教育・公民館の拡充のために、またそのなかで民主主義の発展のために、ささやかに取り組んできたものがあるからだろう。いや林さんのこれまでの道程は、大学勤めの私などよりもはるかに険しいものがあった。
30年の道のりを思いおこすと、私たちは大事な場面で必ずといってよいほど、どこかで出会ってきた。福岡市の公民館「合理化」闘争、地域公民館の調査、学習・交流活動、毎年の社会教育研究全国集会、とくに第17回の全国集会(於福岡)、政令指定都市社会教育研究の集い、などなど思い出はつきない。これらは、いずれも日本の社会教育運動の重要な断面だ。私たちは、その歴史にともに加わり、その一端をそれぞれの役割で担ってきた。お互いにご苦労さまです。
これまでいつも元気でたくましく、病気などしたことがないような林貞樹さんが、最近体調をこわし、療養しているという。ながい道のりには無理もあったのだろう。しかし林さんは必ずやこれを克服して、また一諸に元気に歩き始めるだろう。この自分史に脈うっているエネルギーがそのことを私たちに語りかけている。道はなおつづく。ともに歩いていけば、そこにきっと新しい風景が開けてくるに違いない。(社会教育推進全国協議会委員長、東京学芸大学教授)
72,さらに新しい歩みを祈ってー宜野座の皆様へのメッセージ
*沖縄県宜野座村宜野座「八月遊び百周年」記念誌(1996)
人生の出会いとは実にすばらしいものですね。ある日、お互いのたまたまの出会いがきっかけになって、皆様とはもう20年ちかくのお付き合いとなりました。そしてこのたびは宜野座区八月遊び百周年に参上することができました。あらためて百周年のお祝いを申し上げ、また学生たちともども御礼を申し上げます。
私たち(当時、東京学芸大学)沖縄社会教育研究グループと宜野座区との最初の出会いは1979年正月でした。北部の社会教育主事会、公民館関係者との合同の集いが今帰仁村中央公民館の広場で行なわれましたが、その会場で長浜宗夫氏(当時、社会教育主事)や城間盛春氏(当時、宜野座区公民館長)と初めてお会いしました。この年3月、宜野座区「京太郎」は国立劇場の檜舞台に出演されましたが、私たちの研究室はみんなで応援に参りました。この日の興奮、夜の新宿での交流、いつまでも忘れることができません。これがきっかけとなって、宜野座区という「やんばる」の集落と大学の研究室は暖かい友情と信頼の糸で結ばれて今日に至っています。有り難いことです。
宜野座からも私たちの研究室にお出でいただいたことがありますが、むしろ東京から数えきれないほどの頻度で宜野座区を訪問いたしました。私は学生たちを連れて沖縄を旅行するとき、たとえわずかの時間でも宜野座区へ行きたくなるのです。若い学生たちをいつも暖かく迎えていただきました。中国などの留学生もいました。韓民くんは北京に帰って活躍していますし、牛剛くんはいまボストンにいます。彼らにもいい思い出がいっぱいのこっているようです。野村千寿子さんは宜野座へ通って修士論文をまとめました。研究室の主要メンバーはみな宜野座区を訪問して歓迎していただいた感じがします。
祭りへの参加は、1979年10月に山口真理子さんをはじめ学生4人、1986年9月には神戸大学、東京学芸大学など19人、1990年11月は宜野座村の第一回民俗芸能祭(村体育館)に同じく16人が参加し、その日も夜は宜野座区公民館で歓迎会をしていただきました。今回の百周年もそうでしたが、楽しい楽しい一夜でした。
「八月遊び」百周年は台風が連れてきた風雨のなかで始まりましたが、この祭りに参加して、私たちは楽しみ、また驚き(後述の学生の感想をご覧ください)、そして多くのことを考えました。一つは百年の歳月の重み、二つは祭事に集う人びとの顔の輝き、三つは芸能の種目の豊かさ、四つは若者(二才)たちがいきいきと動いていたこと、五つは集落(区)の自治とエネルギー、相互の規律と連帯感、それを支えるゆったりしたリーダーシップ、などなどです。
私はあらためて自分の故郷(九州)の集落のことを想っています。もちろん宜野座区の祭りには及びもつきませんが、それでも私の子ども時代には思い出深い祭りの一夜がありました。戦争中でも途絶えることがなかったのに、戦後の経済高度成長期の変貌のなかでいつの間にか祭りは姿を消してしまいました。それは集落の自治とエネルギーの崩壊を示しています。故郷の消失を意味しています。
宜野座区「八月遊び」の百年の歴史がどんなに価値あるものか、あらためて実感させていただきました。この歴史をさらに受け継ぎ、新しく発展させていくことの大事さ、それは単に祭り芸能だけのことではなく、毎日のくらし、そこに生きる人たちの誇り、自治と連帯の精神、地域の活力、のかけがえのない価値を継承し発展させていくことでもあるのでしょう。宜野座区の皆様にはるかに敬意を表し、心からの拍手をおくります。ますますの繁栄を祈念いたします。
73,下村湖人 (しもむらこじん 1884〜1955) *台湾における下村湖人→■
現代学校教育大事典 (ぎょうせい、1993年)
佐賀県神崎郡に生れ、本名・虎六郎。東京帝国大学文学部(英文学専攻)卒業後、旧制中学校教師(佐賀県、台湾)をへて1929(昭和4)年旧台北高等学校長、わずか2年で退任、転じてその後大日本連合青年団において青年指導者養成にあたる(同・青年団講習所長)。1936(昭和11)年より雑誌『青年』に「次郎物語」の連載を始める。しかし軍国主義的な潮流のなかで“自由主義”的との非難をうけ、翌1937年には連載中止となり、青年団講習所長をも辞し、以後は在野のまま文筆生活・講演活動に専念した。『次郎物語』は1941年に出版(第1部)され、好評を博し、戦後1954年に第5部まで刊行され、第6部の構想を抱いたまま成らず、1955年死去した。
湖人には歌集『冬青葉』(1933年)や『論語物語』(1938年)ほかの著作があり、戦後は月刊『新風土』の創刊(1948〜50年)にもあたったが、作家、文学者といはれるよりも教育者と呼ばれることを喜んだという。「浴恩館」(小金井市)における青年団指導者養成やそれをモデルとした『次郎物語』にみられる共同、友愛、自己規律、自治あるいは塾風教育などの理念にその教育思想をみることが出来よう。また『葉隠』からとった「煙仲間」の運動も提唱した。
青年団講習所長時代に指導にあたった「社会教育研究生」はその後社会教育行政の専門職員・指導者として活躍した人が多く、湖人の教育思想は戦後の青年団運動や公民館構想にも少なからぬ影響を与えたとみることも可能である。 <小林文人>
[参考文献]『下村湖人全集』全18巻、池田書店、1957
永杉喜輔『下村湖人伝-「次郎物語」のモデル』 柏樹社、1970
明石晴代『父・下村湖人』 読売新聞社、1970
74.どんな社会・地域・人間をめざすか−IT革命のゆくえ
― 『月刊社会教育』 2001年6月号(特集・IT革命のゆくえ<かがり火>)
いまIT(情報技術)革命という怪物がのし歩いている。政・官・財あげての大合唱。今年に入って自治体の社会教育も、その一環としてIT講習を担わされたところが多く、「革命」に参入させられている。一過性のものでなく、新しい世紀の少なくとも前半は、IT革命の時代として位置づけられている。
いったいIT革命は、これからどのような社会をつくろうとしているのか。IT革命に荷担して社会教育は、どのような地域を、そしていかなる市民像をめざそうとするのか。この段階でしかと考えてみる必要がありそうだ。
政府のIT基本戦略は当面、経済再生・浮揚の切り札として打ち出されているが、必ずやこれまでにない社会と地域と市民の生活革命をもたらすことになるだろう。そしてこれから出現するだろう“ネット社会”とは、いかなる性格のものか。草の根の民主主義にとって、地域の連帯にかかわって、人びとの人間らしい暮らしにとって、それはどのような効果をもたらすのだろう。
高速デジタル・ネットの構築によって、例えば効率のたかい生活便宜と自由な個人が謳歌?される反面、その個人はばらばらに分断され、激しい市場化のなかに投げ込まれていく構図も透けて見える。情報の共有が進みながら、情報格差の断面はむしろ拡大していく予感もある。ITとは所詮は技術、この技術をどう人間化し活用していくかが問われている。
筆者は、数年前からこの技術に乱入して、たどたどしく「南の風」(沖縄・東アジア)、「公民館の風」(社会教育・公民館)などという研究・交流の通信を出してきた。想いは、草の根からの発信、その相互交流、人と人をつなぎ地域と地域が出会う視点、情報の可能な限りでの共有、そして人間的な連帯。
手づくりの風を吹かせようというひそかなチャレンジ、さて・・・。
75.いまから新しい歩みが始まる
−沖縄・名護全国集会の成功を祝って−
社会教育推進全国協議会通信(2002年10月)
“沖縄で全国集会を”の願いが、名護の地で、今年ようやく達成された。集会開催を引き受け、その準備にあたり、集会を成功に導いた名護の皆さんに、まずは心からの感謝と敬意を表したい。
いろんな思い出がよぎる。沖縄と社会教育研究全国集会の出会いは、1977年夏、第17回集会(福岡)である。その前年に私たちの沖縄研究がスタートし、新しい出会いがあって、喜納勝代さん(久茂地文庫)はじめ5名の方が初めて全国集会に参加した。その後はほぼ毎年、沖縄から誰かが全国集会に顔を見せてくれた。
名護からの初参加は、私の記憶では、1982年(第22回)富士見集会の稲嶺進さん(当時社会教育主事、現収入役)たち。全国集会開催に向けての忘れがたい思い出は、1994年(第34回)の雲仙集会。この集会に島袋正敏さんたち名護グループは豚の足1本をもって参加した。夜の「この指とまれ(沖縄を囲む)」では豚を肴に泡盛を飲み、豪勢な夜となった。三日間の大会スケジュールが終わり、九州の現地実行委員会とともに「ご苦労さん!」の乾杯をした席で、島袋正敏さんは「機が熟せば、沖縄でも全国集会を開きたい」という趣旨の挨拶をした。この時期、私は社全協委員長、この挨拶は印象的に覚えている。当の正敏さんはあまり覚えていないというのだが・・。
“沖縄で全国集会を”の経過(略史)は、別に書いたことがあるので(「公民館の風」319号・320号、本年7月)詳述はさけるが、集会開催の具体的な検討が始まるのは1998年うりずんの頃。2000年開催か、会場地をどこにするか、などをめぐって検討が続き、最終的に2002年・名護開催が確定。この間にいくつもの曲折があったが、話が始まって20年、具体的論議から4年、名護での準備開始から2年の助走があったことになる。名護の地での開催が、第42回全国集会の性格をはっきりと方向づけることになった。
ところで私たち「沖縄社会教育研究会」(現在「沖縄・東アジア社会教育研究会」TOAFAEC、代表・小林、事務局長・内田純一)は結成以来すでに四半世紀余、戦後のアメリカ統治下から今日まで、長年、沖縄社会教育の歩みを見続けてきた。その立場から全国集会に関わって、どのような役割を果たしうるか、何が期待されているか、と考えてきた。折りにふれて名護の皆さんとも語りあってきた。
一つは『おきなわの社会教育』(もともと書名案は「沖縄の社会教育実践」)の刊行、二つは(全国集会の期日までに本をつくるのでなく)集会の準備過程に刊行を実現し、八重山・宮古を含め沖縄全域への集会参加呼びかけ“琉球列島キャラバン”を試みること、三つには、編集・執筆・キャラバン活動を通して沖縄社会教育関係者の横のネットワークを再構築していくこと、四つには、日本各地の社会教育関係者と沖縄との実践・運動レベルの“対話と交流”を拡げていくこと、などである。振り返ってみて、出来たことと出来なかったことがある。
本づくりは、昨年の新潟県聖籠町全国集会の夜から始まった。ほぼ毎月1回、主に名護で編集会議を開いてきた。約70人の執筆者の協力を得て、今年7月ようやく本が完成、その翌日から那覇・名護・石垣・平良での出版記念会・全国集会キャラバンが、台風をぬって敢行された。嵐の夜、キャラバン開催を案じたことなど、思い出せばきりがない。
全国集会は成功裡にめでたく終了した。しかし、むしろこれから新しい課題がまっている。今次の全国集会開催が沖縄の社会教育の歩みにどのような意味をもったのか、そのことを検証しつつ、沖縄(やんばるだけでなく)各地をつなぐ研究・交流活動をどう活性化していくか。同時にまた、全国集会開催を契機として、全国各地の社会教育と沖縄との出会い(対話と交流)がこれから息ながく幅ひろい潮流として、どのように動いていくか。
沖縄の社会教育の実践・運動は、その厳しい戦後史のなかに胎動して、本土の社会教育には見られない地域史、個性とエネルギーをもっている。たとえば東京三多摩中心の視点からは沖縄の社会教育は“特殊”なものとしか見えてこない。しかし沖縄から何を学んでいくかという姿勢をもてば別の風景が見えてくる。社全協が文字通り“全国”組織であるためには、単に沖縄で集会を開催できたというだけでなく、沖縄のアイデンティティを主張する独自の社会教育の歩みを視野にいれて、いま一つの拡がりと迫力をもった社会教育運動論を組み立てていく必要があるだろう。(TOAFAEC代表・小林文人)
*関連写真→第42回社会教育研究全国集会・名護集会 2002年8月30日〜9月1日→■
▼第42回全国集会(名護市)最終全体会おわる、島袋正敏氏(実行委員会事務局長)カチャシー
▼第42回全国集会 同カチャシー、小林ぶんじん
76.学会の研究活動、出版活動のことなど−いくつかの思い出−
日本社会教育学会「50年のあゆみ」創立50周年記念誌 2003年
初めて日本社会教育学会に参加したのは1960年(第7回大会、九州大学)。それまでの他学会の“権威”ある雰囲気に比べて、“若々しい”論議がなんとも印象的であった。学会は創設からまだ10年を経過していない時期である。会員数も少なく研究的蓄積も少なく幼い学会、しかし躍動的な活気と自由な精神がみなぎっていたように思う。開場校の助手としてこの大会に出会い、準備・運営に参加し、そしてその後の六月集会や研究大会のはずむような論議に誘われて、社会教育研究への道を歩むこととなった。
その後学会は、歳月とともに組織的に拡大し研究活動も着実に蓄積してきている。年報も紀要も軌道にのり、会員数は今や1000名の大台に近づいたとか。
このような学会の拡充と蓄積はもちろん喜ぶべきことだが、同時に初期創造の頃の躍動的な論議や挑戦の気風を懐かしく想い起こすときがある。学会組織が組み立てられ、活動が定着していくことの反面として、ある種の形式性と固定化が避けがたく付着してきた側面もあるのではないか。たとえば常任理事会の会議が停滞し盛り上がりを欠く夜など、どんな脱皮を試みることができるだろうかと思案したことなどを想い出す。
学会創設の頃と比べて、学会会員に社会教育(専門)職員や市民活動家の比重が少なくなったこともまた一つの変化である。毎年の研究大会プログラムにも大学関係者以外の研究発表はほとんど見あたらない?ほどだ。若い研究者世代の意欲的な報告を心強く思う一方で、いったい学会の研究活動と成果が、社会教育あるいは生涯学習と呼ばれる現場・実践・運動にいかなる意味をもっているのか、を考えさせられてきた。
1995年から1997年にかけての会長時代、当時の三輪事務局長や常任理事会の助力を得て、多少の努力をしてきたつもりであるが、やはり課題は多く残されているというのが偽らざる気持である。たとえば、大会運営としてはラウンド・テーブルを位置づけたこと、
対外的にはアジア南太平洋成人教育協議会(ASPBAE)への加盟、研究活動としては公民館創設50年記念の特別年報『現代公民館の創造』への取り組み開始、などが新しい試みとして想起できるが、更にやるべきことがあったのではないか、と忸怩たる思いも残っている。
学会が専門的な出版機能を安定的にもつことができるか、いつも課題となってきた。当初の紀要(現・年報)出版は国土社、その後は東洋館出版社が引き受けてくれた。しかし学会の出版物はあまり販売部数が伸びない。吉田昇氏や横山宏氏にくっついて東洋館に出向き、当時の錦織社長と歓談しつつ年報刊行の継続をお願いし、学会引き受け部数等の手書き確認書をかわしたことなどの記憶はいまなお鮮明だ。
しかし積年の課題として、学会費に年報代金を組み入れることを強く要請されてきた。東洋館の西村嘉之さんは、会うたびに(年報の安定的な刊行のために)「なんとかなりませんか」と繰り返された。ようやく理事会及び会員多数(総会)の理解を得て、学会費組み入れを確定できたとき(たしか1997年)がもっとも印象的な思い出だ。学会と出版社との相互信頼が、その後のスムースな特別年報刊行を実現することになったと思う。
学会出版活動についてあと一つの想い出は、年報あるいは紀要だけではなく、宿題研究(当時)に関わって、研究活動記録を資料集として作成し刊行してきたことである。かなりのエネルギーを注いだものとして、横山宏氏とともに取り組んだ「社会教育法制研究資料」(全15冊、1968〜1975年)がある。これを基に学会年報がまとめられただけでなく、稀少資料を選んで編集した『社会教育法成立過程資料集成』(横山・小林編、1981年)に結実し、さらにその後の公民館関係資料を加えて『公民館史資料集成』(同、1988年)を刊行できた。学会の宿題研究と資料集刊行がなければ出来なかったことである。
77.北の大地と南の風と
オホーツク社会教育研究会設立20周年『OXOTCKU』2003年
オホーツク社会教育研究会に出席したのは、研究会創立10周年記念の集いでした。今年が20周年だとすると、もう10年も経ったのですね。札幌からは山田定市さんも見えていました。あの夜の和気あいあいとした語らい、(東京のように)時間に追われず、ゆっくりと、そして率直に語りあっていた研究会の皆さん、いまでも鮮明に憶えています。お世話になり、有り難うございました。20周年を迎え、そして本格的な20周年記念誌への取り組み、ご立派です。お祝いとともに心からの敬意を表します。
私は九州の生まれ、東京での生活が40年になりますが、各地の社会教育の研究会や集いなどによく出かけました。なぜか足は西の方へ、そして南の沖縄に向かいます。比較的に継続して付き合ってきたのは、福山、宇部、長門、豊浦、そして(事業団問題当時の)北九州、福岡、いちばん通ったのは沖縄です。各地の研究会の“盛衰”をみてきました。20年というのはやはり長い歳月ですね。
私たちの東京・沖縄社会教育研究会(いま沖縄・東アジア研究会)も20年をこえましたが、足の便のいい東京の地でのこと。オホーツクの北の大地とは比べものになりません。持続することの意味、そのエネルギーと心意気のようなもの、をあらためて実感させられています。
北の大地へなかなか足が向かないのは、興味がないからではありません。余裕がなかったからです。逆に大いなる関心を持ち続けてきました。たとえば澤田正春さんから図書館やオケクラフトの話を初めて聞いたとき、別の機会に北の地域史・民衆史の歩みにふれたとき、あるいは斜里町の博物館をみたとき、など他のどこにもない取り組みに驚きと感動をおぼえました。沖縄での字(集落)公民館の出会い、楚辺の字誌・戦争編を頂いたとき、名護の博物館を初めて訪問したとき、などの感動と同じものでした。その地域の独自のアイデンティティが主張されているからでしょう。
ときどき北の大地と南の沖縄とを結ぶ仕事は出来ないものか、と考えたりします。東京三多摩や首都圏の社会教育が比較的に世に紹介されるのに比べて、地域と格闘しながら独自の取り組みをしてきた“辺境”の実践があまり知られていない。たとえば「北の大地と南の風」をつないで一緒に本でも創ってみたらどうだろう、かなり迫力のある一冊になるに違いない、などと夢見ているのです。
10周年の集いの帰途、皆さんから(結果的に)頂いたオケクラフト・ワインクーラーは我が家の大事な宝もの。みんなで集まってわいわい楽しむときには、妙なる天女の優美な腰の曲線をもった白い器にワインを冷やして、ひとしきりオホーツク研究会と森田はるみさんのことを話題にしてきました。今年の新年会もそうでした。
北の大地と南の風の出会いを、お互いの課題にして、また次の歩みを刻みましょう。
▼北海道・オホーツク社会教育研究会(10周年記念セレモニー)の夜−北見、1992年12月19日−
前列中央に山田定市氏(北大)、その左に小林、菊池一春氏、2列右2人目・森田はるみさん、などオホーツクの群像。
78.
79.重い心と体を引きずりながら−社全協委員長の4年
社会教育推進全国協議会40周年記念誌(2004年)
1991年春から95年春まで、4年間の委員長でした。早いもので、もう10年が経過したことになります。
当時は大学の仕事とも重なって、いつも疲労感と切迫感にあえぎながら、社全協事務所までの神楽坂の道をくだり、のぼりしてきたことを思い出します。たどりつくまでは心重く、帰りの坂道は体重く・・・の繰り返しでした。それでも1995年総会・退任にあたっては、(つらいこともあったけれど)「楽しい4年間でした」と挨拶しました。あぁ、これで一仕事終わったよ、という解放感がそういう言葉になったのでしょう。
社全協運動としてのこの4年間の大きなテーマは、この時期、自治体生涯学習のあり方の追求、生涯学習の理念を地域にどう創造していくか、ということであったと思います。1990年には「生涯学習振興整備法」が成立していましたし、上からの生涯学習施策が、雪が降るように、下りてくる状況がありました。そのような地域から遊離した「生涯学習」の流れに対して、生涯学習そのものの単純な否定論もみられました。
私たちを励ましたのは、住民の視点にたった自治体生涯学習計画づくりの胎動(たとえば松本、川崎など)と、さまざまの職員・住民による地域生涯学習の実践がみられたことです。もちろん自治体によっては「合理化」による後退があり、停滞や格差もみられましたが、時代の大きな潮流を実感してきた4年間でした。国際的にはユネスコ「学習権」宣言(1985年)の思想が大きな励ましでした。
全国集会の開催は、松本(1991年)、木更津(1993年)、雲仙(1994年)に見られるように、自治体と地域的運動によって担われるかたちが明確になりました。「村むら、町まちから住民の生涯学習宣言を」(湯河原集会・基調提案、1992年)の呼びかけが印象的に残っています。
ふり返ってみると、韓国社会教育協会(当時)との研究交流が始まったことも新しい展開でした。韓国の利川で開かれた全国集会(1994年)に委員長として参加しましたし、先方からは木更津集会に金信一氏、雲仙集会に鄭址雄氏の両会長が出席されたことを懐かしく想い出します。それから10年、さらにまた新しい歴史がきざまれることでしょう。
<参考>さまざま課題を残してー委員長退任のご挨拶ー (社全協通信、1995年)
四年前、松本・浅間温泉の総会で、委員長をお引き受けしたとき、私は「二年間だけ頑張ります」とご挨拶しました。しかし結果的には二期四年にわたってしまいました。 私の非力は自分自身でよく知っています。社全協の運動の発展にとって、早く新しい方と交代すべきだと考えてきました。それだけに先月の総会で退任することが決まり、ほっと肩の力がぬけて、一休み。いろいろと有難うございました。
全般的に民間教育研究運動が停滞傾向にあるなかで、社全協の運動はどうか、全国集会の参加者数をみてもそう停滞しているわけではない、と思います。しかし大きく“発展”しているかと問えば、そうも言えないのです。会員数も一定数を確保しているとしても増加はしていません。
私は社全協運動のなかでは「調査研究部」育ちです。一九七〇年代(当時は私も若かった)に毎年必ず重量感のある社全協出版物を一冊は刊行しよう、と張り切ってきました。その作業が社全協『社会教育ハンドブック』編集にも連結したと思います。
しかし、この四年間、社全協はしっかりした調査報告や出版ができたかどうか。あるいは公開学習会を定例的に開けたかどうか、各地の地域集会を組織できたかどうか、などと考えていきますと、残念な思いが残ります。
つまり全国集会は実行委員会の努力で盛大であったとしても、日常的な研究・調査・組織・地域集会等の活動は決して盛況だとは言えません。 東京を中心とする運営体制を出来るだけ地域に分権化する、という課題も残されています。いろいろ方向を模索しながら、しかし前進していきたいものです。
長沢成次さんを中心とする社全協事務局の皆様に心からの御礼を申しあげます。
80,
81,「月刊社会教育」50年−地下水脈の流れとなって
−さらに50年の歩みへ− *「月刊社会教育」2008年1月号 →■
82,「南の風」2000号のご挨拶
小林ぶんじん発行「南の風」第2000号(2008年3月8日)
この一文を書く日を夢見てきました。1998年2月に吹き始めた風、十年と一ヶ月で到達した2000号。いろんなことを思い出します。五年目の1000号のとき、あのころ併行して出していた「公民館の風」を休刊し、「南」だけにしぼって沖縄・東アジアの交流空間づくりの新たな一歩を踏み出すか、などと相談した夜。横にいた誰かが「2000号まで頑張れ!」と挑発したことを思い出しています。とてもそこまでは無理だ、というのが正直な気持ちでしたが、なんとか体も頭?も持ち堪えて、ここまで吹き続けることができました。
最初から参加していただいた方々は、なんと十年の、しかも1日おきのお付き合い。よくぞ辛抱してくださった。迷惑メールの氾濫が始まって以来、何度も「風」を止めようと思いました。しかし皆さんの期待と激励、いや寛容と忍耐、に助けられて今日を迎えました。これまでのご愛顧に心から感謝しています。有り難うございました。
これから「風」をどう吹くか。いまだに、考えが定まりませんが、まずは休刊にすることをお許し下さい。とくに、最近新しく参加された方々、この間「風」を継続するよう激励していただいた方々(そのたくさんのメールを「風」に載せる号数がなく、残念!)、皆様のご期待に直ちに応えることができず、申しわけありません。
しかし、1997号「これからの風をどうする?」にも書いたように、いくつも課題があることは確か。新しくやりたいこともないわけではない。ここで書くと、妙な決意表明みたいになってしまいますから、控えておきます。ちょっと立ちどまって、ひと休み。ゆっくりと次のステップを考えてみます。風として継続していくか、別のかたちか、1週間後か、半年後か、まだ分かりません。
好きな歌の一節、♪… 結婚は白い雲、これから〜どんな空を飛んでいくのか、それは成り行き風まかせ〜♪の気分。
継続して、多少なりとも期待していただける方は、その旨のメールをお寄せいただければ幸いです。ゆっくりと、新しい配信アドレス・リストをつくることにします。
いつもの調子、最後のご挨拶もまた長くなってしまいました。ここでお別れする皆様には、あらためて感謝申し上げ、ご健勝をお祈りします。
83,南の風3000号の歩みに参加された皆様へ−感謝のご挨拶
小林ぶんじん(2012年12月15日)
本号は「南の風」15年マラソンのゴールイン記念号です。この間、3001号以降への期待を含めて、皆様からの便りは受信箱にあふれました。本号にすべてを収録したいところですが、とても無理。多くの(とくに長文の)メールを3001号以降にまわすことになります。ご容赦下さい。それでも風の歴史で、もっとも長い特別号となりました。
多忙のなか、ヤマケンさん(山本健児・和歌山大学長)から貴重なメッセージ(上掲)が寄せられ、たくさんの方々から「南の風」に過分の言葉を頂戴しています。心にしみる励まし、暖かい声援、を胸にきざんで、次の歩みに踏み出したいと思います。
南の風は、吹き始めた15年前は10人前後、親しい仲間だけのネットでした。だんだんと拡がって人数が増え、東アジアの海をこえる友人たちにも繋がり、多様多彩な顔ぶれへ。留学生たちも中国(もちろん台湾を含む)、韓国、モンゴルなど、ときにはエジプトの留学生も、この風に吹かれながら、巣立っていきました。日本各地の地域・自治体の関係者もこのネットに参加いただき、かけがえのない出会いが続いています。これまでの歩みを振り返って、参加された皆さんとの交流・友情に感謝あるのみ。
仲間うちのネットからスタートしただけに、ときには不躾な、遠慮のない言葉がとびかって、失礼な号もあったと反省しきり。以前の風を読み直すと赤面するときがあります。ご寛恕ください。
本号でお別れの方も少なくありません。お付きあい頂き有り難うございました。次々号あたりから新アドレス帳に切り替わります。さらに継続ご希望の方があれば、今後も遠慮なくお申し出ください。
84,
<目次U2010年〜以降のページ> →■
TOP