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 <2018年以降・訃報>
 もくじ

1,北田耕也さんを襲った悲報、急逝を悲しむ
(南の風4035/36号、2018年3月20日)ほか
2,野々村恵子さん急逝
(南の風4157号、2019年12年4日)
3,訃報:国分寺市・進藤文夫さん、東京学芸大学名誉教授・竹内誠さん
              (南の風4202号、20202年11月)
4,
片野親義さん追悼(南の風4256号【2021年6月29日】)
5,上原文一さんの訃報 (南の風4199号、20201113)
  *関連:「文一と文人の出会い物語 」(TOAFAEC年報26号)
→■
6,
御塚隆満さんご逝去(南の風4257号、2021年7月7日)
7,千野陽一さんを偲ぶ
(南の風4245号)、月刊社会教育2021年月号→■偲ぶ会記録(寄稿)→■
8,徳永功さん追悼・・・
月刊社会教育2022年5月号 関連・南の風記事→■
9,



10,   

<メモ>
51,、御塚、今村勲各氏追悼(ぶんじん日誌4241)
52,







1,北田耕也さんを襲った悲報、急逝を悲しむ (南の風4035号、2018年3月20日)
 NHK ウエッブニュース(03月16日21時32分)「16日午後、埼玉県小川町で、住宅1棟が全焼する火事があり、焼け跡から1人の遺体が見つかりました。16日午後5時すぎ、埼玉県小川町大塚の北田耕也さん(90)の木造2階建ての住宅から煙が出ているのを近所の住民が見つけ、消防に通報しました。火はおよそ2時間半後に消し止められましたが、焼け跡から1人の遺体が見つかりました。また、北田さんの妻(84)も煙を吸って病院に搬送されましたが、命に別状はないということです。火事のあと、北田さんと連絡がとれていないことから警察は、遺体は北田さんとみて身元の確認を進めるとともに、火事の詳しい原因を調べることにしています。現場は、東武東上線の小川町駅から西におよそ 500メートルの住宅地です。」
 こんな悲しいニュースがあろうか。新藤浩伸さん(東大)からも電話あり、このNHK ニュースは誤報ではないようです。北田耕也さん(明治大学名誉教授)とは2歳違い、1960年前後からのお付き合いでした。北田さんの文章にはほれぼれする深みがあり、とくに私の沖縄研究に関心をもって頂き、会うたびに激励していただきました。当方の長期入院もあり、最近はほとんどお会いする機会なし。残念無念のひとこと。
 訃報は重なるもの。やはり1960年前後、一緒に筑豊・穂波町調査に熱中したフイールドワーク仲間・羽江忠彦さん(社会学、もと熊本商科大学教授)が亡くなられました。農中茂徳さんからの報せ(昨日)。入院していたとは聞いていましたが、急逝! これまでのご厚誼を謝し、心からご冥福を祈ります。合掌。
 本欄は、片野親義さんの「回想」シリーズ提起への返信を書いていましたが、差し替えて全文を次号にまわし、残念ながら、お二人の思わぬ訃報記事となってしまいました。

◆その2 南の風4036号【2019年 3月24日】
 北田耕也さんの想い出を書きます。2歳違いと記しましたが、ほぼ同じ世代のように見えて、実は大きな違いがありました。北田さんは、旧制高校(佐賀高校)に入学した世代、ぶんじんは新制高校の卒業でした。しかし同じ九州の出身(北田さんは小倉)ということもあり、親しく話をする仲でした。懐かしい場面がいくつも蘇ります。戦後「教育科学研究会」の再建、雑誌『教育』(国土社)の発刊(1951年)に呼応して、いち早く福岡教科研が動き、九州教科研大会(会場・大分県日田)が開かれた折、勝田守一、大槻健等の先生方が見えました。「教育」編集に実務的に携わっていた北田さんとはその頃からのお付き合い(最初は文通)。教科研(社全協)事務所に日田の集いの写真1葉(ぶんじんの顔も見える)が掲げられていましたが、今はどうか。
 福岡教科研では宗像誠也、周郷博、大田堯等の先生方も来福され、今にして思えば貴重な話を聞く機会に恵まれました。ぶんじん油山書庫に雑誌『教育』(創刊号を含む)バックナンバーが揃っているのは、福岡教科研や「久留米『教育』を読む会」(1955年〜)の活動をしていたからでした。そんな話を北田さんにした記憶が残っています。
 1973年から1976年にかけて、『月刊社会教育』編集長をつとめたことがあります。毎号の編集プランをすべて編集長が提案していた時代。部数がなかなか伸びず、国土社々長に呼ばれ、発行部数増の強い要請を受けたことが何度かあります。その都度、北田さんにご同道願って急場をしのいだものでした。当時は多分、東洋大学教授の頃か。帰路、目白駅近くの酒場で酒を汲みながら、出版社の内情を教えていただき、印刷労働者(当時は活版、活字を拾っていた)の奮闘を聞いたり、いつも励ましていただいたものでした。下の写真は「月刊社会教育」600号祝賀の集い、北田さんスピーチのスナップです。
(2005年10月1日撮影)


「月刊社会教育」600号記念祝賀会、(2005/10/01)

◆北田耕也さんを悼む半世紀を超える励まし    小林 文人
 戦後に雑誌「教育」が創刊され、福岡でも教育科学研究会の活動が始まるが、私には1955年から久留米で「教育」読む会を続けた一時期がある。その頃、九州各地に呼びかけ日田で教科研・作文の会の集いが開かれた歴史もあった。そして北田耕也さん(雑誌「教育」編集)との出会い(文通)が始まった。直接にお会いして話をするようになるのは1960年代後半、社会教育学会か何かの集いであったと思う。いま記憶をたどっても仔細には思い出せないほどのお付き合いが続いてきた。半世紀を超える長い歳月。間断をはさんで、時に語らい、あるいは論じ、ある日は昼から飲みながら励まし慰めていただくこともあった。
 略歴によれば北田さんには旧制佐賀高等学校に在学された一時期がある。久留米に住んでいた私にも近くの佐賀高等学校に入ろうかと思っていた青春があり、結局は学制改革によりその機会を失したが、あるとき、「佐賀の話を―」「そのうちに―」という対話があって・・・そのまま叶わぬ夢となってしまった。
 近年お会いしたのは、小川利夫さんのお別れの日(2007年7月)、そして国立で徳永功さんの出版祝賀の会(2012年3月)。その間には電話やハガキのやりとりがあるのみ。皆で取り組んだ『大都市・東京の社会教育―歴史と現在』へのご返報(ハガキ、2017年9月)が、私にとって北田さんの絶筆となった。
 「励まし慰めて」いただいたのは、国土社『月刊社会教育』編集長として格闘していた時期(1973~1975年)のことである。当時の「月刊」発行部数はわずかに上昇傾向にあったが、長宗泰造社長は初めての挨拶のときから、部数を伸ばすこと、結果が出なければ「手を引く」との厳しい構えだった。私は二度目から北田さんに同道をお願いした。北田さんがいるだけで長宗社長の表情は和らぐ。国土社を出て、目白通りの蕎麦屋で、昼から二人で酒を楽しんだ。忘れられない思い出、何よりの励ましの冷酒であった。社会教育推進協議会の運動が拡がり、全国集会の参加者数も毎年倍増の勢い、「月刊社会教育」部数も一定数の伸びとなり、臨時増刊号(1974年以降)を発刊できるようになった時期のひとコマである。
 その後、私は重い沖縄病にかかって、沖縄に通うようになった。毎月定例の研究会を開くようになって、すでに四半世紀を経過している。沖縄を知れば知るほど、友人との付き合いは深くなるが、いわゆる研究・発表など出来なくなる。それを見透かすように、北田さんは「その後、沖縄はどう?」など声をかけて、励ましていただいた。島酒アワモリの味がわかる人、「沖縄日記」(『談論始末』収録)などレポートが残されているだけに、一度「やんばる」にご一緒して、本場「古酒(ク―スー)」の杯をかわしてみたいな、と思うときがあった。北田さんを知る人たちも誘って・・・、しかし、いまはそれも叶わぬ夢。
*(『直指人心・北田耕也先生追悼集』 同委員会刊、2020年)

北田耕也さんを偲ぶ会(明治大学リバティタワー、20190805)




2,野々村恵子さん急逝南の風4109号 2019年12月4日)
 訃報は突然やってくる。「月刊社会教育」編集や社全協運動の事務局、縁の下の仕事、永年にわたり献身的に運動を支えてこられた野々村恵子さん(もと練馬区社会教育主事)が急逝されました。11月27日の早朝5時頃、急性心不全、自宅で亡くなられたそうです。その前日「10月26日、社全協事務所でお元気なご様子でした」と(荒井容子さん)。まさに突然の訃報、まことに残念と言うほかありません。南の風については熱心なメンバー(あまり投稿はいただけませんでしたが)、いつぞや社全協「通信」に詳細な「風」の紹介記事を書いていただいたことあり、「風」の希望者が急に増えた時期がありました。学会や月刊社会教育メンバーには「南の風」は送らない(むしろ情報弱者の留学生、海外メンバーを優先する)方針だったのです。半世紀ちかいお付き合い、いろんな思い出がよぎります。
 45年ほど前、月刊社会教育が200号を迎えた折(1974年7月号)ぶんじんは月刊編集長でした。三井為友、田辺信一、野呂隆、室俊司、横山宏、吉田昇など編集部各氏ほか、文部省や日青協、地婦連、「母と子」編集の平湯一仁さんなど多彩にお招びして賑やかな祝賀パーティ。そのときの会計・アルバム・記録など一切の事務を担っていただいたのが、大学を出て間もない野々村恵子さんでした。あの記念のアルバム、月刊編集部に保存されているだろうか。
 最近では『大都市・東京の社会教育』出版(エイデル研究所、2016年)、企画を最初に相談したのは野々村さんでした。編集最終段階では実質的な副編集長のような役割、遠慮のない評価・批判が体に充ちていた感じ。その後、ぶんじんは倒れて5ヶ月の入院。退院直後2018年1月「月刊社会教育60年の集い」に強く誘っていただいたのが、その後の社会復帰のスタートとなりました。亡くなられる2か月前、「とーかちin東京」の会にもお出でいただき、それが最後となりました。ながいお付き合い、ご冥福を祈りつつ、月刊「60年の集い」の席で、二人で撮った秘蔵のツーショットをご披露しておきます。


 
 「月刊社会教育」60年のつどい、野々村恵子さん (神楽坂・日本出版クラブ、2018年1月20日)
◆ 2019年12月(第268回定例研究会、東京フォーラム第44回-野々村恵子さんを偲ぶ・記録⇒■



3,,訃報:国分寺市・進藤文夫さん、東京学芸大学名誉教授・竹内誠さん(南の風4202号、20202年11月)
 訃報が相次ぎます。国分寺・進藤文夫さんの訃報(上掲)。国立の徳永功さんとともに同年輩の公民館につながる永い友人。東京学芸大学講師をお願いしていたこともあります。韓国・広州・沖縄などに旅した仲。黄丹青さんを老師として開いていた研究室・中国語学習会では同学の士。素晴らしいバリトンは会の終わり、いつも真打として圧巻の歌声でした。「トロイカ」「ともしび」などロシヤ民謡の歌声がまだ耳に残っています。享年90歳。秘蔵の写真、進藤さんを含む珍しい1枚(横山宏さんも、小林撮影)を1枚掲げました。
 また東京学芸大学で小林の次の学生部長だった歴史学者(江戸学)竹内誠さんが86歳で亡くなられた由。部長引継ぎの時、出来立て『日本史年表』(1984年)を頂戴し、年表づくりの自慢話が妙に記憶に残っています。年表は今でも愛用しています。東京学芸大学のあと江戸東京博物館長をながくつとめ、お元気だったのに残念です。21日朝日・夕刊「惜別」欄が書いています。
記録(発禁)映画「河しょう」を観る (前列右端に進藤文夫さん、後列中央に横山宏氏、19890813) このとき進藤さんは60歳.




4,片野親義さん追悼(南の風4256号【2021年6月29日】)
 埼玉(旧浦和)の公民館で活躍し、社会教育推進全国協議会(社全協)等で重要な役割をになってきた片野親義さん(1944年生まれ)が亡くなられました。ぶんじんよりも一回り若く、晩年は諸活動・会議等を控え、慎重に体調を維持されていたのに、まことに残念の極み。心よりご冥福を祈ります。
 「南の風」はご希望があり送信していました。在宅からくるメールはむしろ元気。また見かけも頑丈そうだったのに・・・惜しい人を喪いました。たくさんの思い出がよぎります。最初の印象的なは出会いは、やはり社全協運動。1970年代に活発な活動をはじめた「調査研究部」の初期メンバーでした。最初の共同の仕事は「学ぶ権利の保障のためにー社会教育「条例・規則」調査報告」(1973)がスタート。彼の公民館(浦和市領家)にも求められてよく行ったものです。
 最近では日本公民館学会の思い出。創設(2003)時に小林は会長を仰せつかりましたが、片野さんに副会長をお願いしました。突然のことで固辞されたのは、体調の心配があってのことか。しかし結局は引き受けてもらって、次期の理事会でも副会長を続けていただいた記憶。たくさんの学会懇親会等の写真が手もとにありますが、片野さんの画像はほとんどない。当時からすでに体調のことあり自重されていたのかと気になっています。2009年に高崎で開いた学会の懇親会。集合写真に二人並んでいる場面あり、トリミングして本欄に掲げます。ほんとに元気あふれる風貌なのにと残念です。
 25日の定例研究会・嘉納報告について、山口事務局長の長文の報告が寄せられました。詳しい内容、ご苦労さまでした。これで6月スケジュールが終わり、7月は年報編集など、私たちの繁忙期にはいります。頑張りましょう。
左・在りし日の片野親義さん(高崎、20091203)



5,上原文一さんの訃報 (南の風4199号、20201113)  *別稿「文一と文人の出会い物語」→■
 沖縄・具志頭村(現八重瀬町)の上原文一さん(もと社会教育主事、のち福祉課長など、「おきなわ社会教育研究会」初期メンバー、同事務局長など歴任)が亡くなられたそうです。今年はコロナ蔓延のなか名護での恒例「やんばる対談」も中止。まったく沖縄へ行く機会がありませんでした。虫の知らせか、すこし気になって那覇・名城ふじ子さんに電話。上原文一さんのその後について聞いてもらったところ、今年9月初旬、膵臓ガン転移が進行し、永眠されたそうです。享年75才。残念です。
 すぐに当方から上原家に電話。臓ガンの発症は3年前とのこと。そのことを知りませんでした。入院・手術はうまくいって、その後元気に社会復帰。しかし今年になって再発、転移はげしく、最後は終末医療病院で安らかだったとのこと。しかしコロナ禍の病院、横に付き添うかたちはできなかったそうです。
 上原文一さんは、私たちの沖縄研究、現地調査の重要なきっかけをつくってくれた人でした。1976年夏、上野で開かれた社会教育研究全国集会(第16回)に沖縄からただ一人で登場。小金井の東京学芸大学・研究室にも来てもらって、彼の話を聞くかたちで第1回沖縄社会教育研究会をもちました。その12月には具志頭村社会教育振興大会に招かれるかたちで、ぶんじんの沖縄フィールドワークが開始できました。それからの長い付き合い。学生や留学生を自宅に泊めてくれたり、小林ゼミはいろいろとお世話になった人でした。東京永福そして福岡油山の自宅にもに来訪し、妻・富美がソーミンチャンプルーの作り方を教えてもらったり、想い出はたくさん。韓国・黄宗建先生、ドイツ・トールマンさんの沖縄訪問の際には歓迎の琉球舞踊の宴を用意していただいた人でした。
 ホームページの中から、上原文一さんが登場する一文(和光大学「エスキス」)を本号へ。また在りし日の写真を下に載せました。45年にわたるお付き合いに感謝し、はるかにご冥福を祈ります。(ぶ)
具志頭・NPO「カタンクラブ」創設、右より上原文一、福地拡昭(もと沖教組委員長)、小林、名城ふじ子の皆さん(20030629)



上原文一さんの訃報に接して  早稲田大学・新保敦子
 上原文一さんの訃報を受け取り、驚いております。膵臓がんに罹患されたものの、経過は良好とお伺いしていました。ただ、其の後、ご連絡しても返信が無かったため、少し気になっておりました。先日も家を整理していましたところ、『上原文一・青春の譜 論考集』が出てきて、どうされておられるかなと思っていた所です。訃報のお知らせ、本当に悲しいです。
 大学時代に、文人先生のおかげで沖縄を訪問し、その時以来、大変に御世話になってきました。早稲田に就職後は、ゼミ生の沖縄訪問時に暖かいおもてなしをして下さったり、早稲田大学でもゲスト・スピーカーとしてお話をして頂いたりといった交流がありました。残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。お知らせ頂きましたこと、有り難く存じております。御礼まで。新保敦子(2020年11月14日10:24)
早稲田大・新保ゼミーゲストスピーカー(前列右・上原文一氏、左に新保さん・小林ぶ、20120330)



御塚隆満さんの訃報(南の風4257号、2021年7月7日)
  福岡から御塚隆満さんの訃報。入院されていると聞いて心配していました。千野さん、片野さんなどに続く悲しい知らせ、残念です。あらためて、E.ジェルピを招いた折の記録、『生涯教育のアイデンテイテイ』(エイデル、1988)の福岡・御塚報告を読みました。いい文章です。得難い人でした。振り返ると50年来のお付き合い。TOAFAEC の皆さんとは直接の出会いはありませんでしたが、一人
息子の伸也くん夫妻(ぶんじん媒酌)は七夕の会の常連だった一時期がありました。もうお葬式も済ませられた由、電話でお悔み申し上げました。下に福岡・研究会(あるいは九大・松田ゼミか)2003年5月の集い写真を掲げました。珍しく亡妻・富美(後列中央)も一緒でした。





7,千野陽一さんを偲ぶ(南の風4245号)、月刊社会教育2021年8月号ほか→■
  偲ぶ会記録(寄稿)→■

徳永功さん追悼・・・月刊社会教育2022年5月号 関連・南の風4293号記事 →■




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