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          (1977年〜1995年〜2010年)

   *沖縄関連・諸報告・資料一覧→■
   *追悼・回想など(1990〜)→■



<目次>
1,シリーズ「沖縄の公民館」「おきなわ短信」(1996年〜) *「南の風」「公民館の風」 →■
2,沖縄の公民館から学ぶもの 新生活運動協会「住民活動」第19号(季刊、1978年) 未入力
3,復帰20年を迎える旅    東京学芸大学・社会教育ゼミ沖縄訪問団報告集(1992年)→■
4,シーサー抱えて−沖縄の友人たちへの礼状(1992)→■
5,サンシンとニガナの話−沖縄・名護からもらった“こころ”−→■
      
東京学芸大学社会教育研究室・沖縄訪問団「沖縄友愛発見行」(1993)
6,地域からの胎動をみるー1993沖縄への旅 東京学芸大学・小林研究室・沖縄調査報告、1993)本頁
7,沖縄・社会教育との出会い−宮城英次さんを通して 「宮城英次先生を囲む」パンフ(1993)→■
8,寺中作雄さんとの出会い、沖縄のこと−追悼にかえて− 公民館史研究会・会報9号(1995年)→■
9,書評・『これが建築なのだ−大竹康市番外地講座』 沖縄タイムス1995年11月21日 本頁
10, 宜野座の祭り、沖縄社会教育研究会20年記念の集いなど  TOAFAECニュース9 (1996) 本頁
11,さらに新しい歩みを祈るー宜野座へのメッセージ   宜野座区「八月遊び百周年」記念誌(1996)→■
12, 海を越えてはばたいてほしい   上門加代子琉舞道場10周年記念誌『輪舞』(1996)→■
13,正義感あふれる知識人、外間政彰さんへの感謝  外間政彰追悼『爽風一過』(1997)→■
14,沖縄との出会い、そして移動大学」    和光大学『エスキス』(1998年)→■
15,いちゃればちょうでい(行き会えば兄弟) 和光大学・小林プロゼミ沖縄合宿報告集(1999年1月)→■
16,仲宗根政善先生を偲ぶ−『追悼・仲宗根政善』に寄せて 「南の風」第177号(1999年2月7日)→■
17,上勢頭芳徳・追悼ページ→■
18,いまから新しい歩みが始まる−名護全国集会の成功を祝って− 社全協通信(2002年10月)→■
19,「やんばる対談」記録―各号「解題」など⇒■
20,沖縄祖国復帰闘争と青年団運動(証言)−解題と経過 
        TOAFAEC「東アジア社会教育研究」12号(2007年)本頁
21,稲嶺進さん、名護市長に当選!  
社会教育推進全国協議会通信 (2010年1月)→■
22,奄美・沖縄青年団運動史の新しい発見(不二出版・推薦文) 2020年 本頁
23, 文一・文人の出会い物語ー上原文一さん追悼(「東アジア社会教育研究」25号,2020年本頁




2,沖縄の公民館から学ぶもの 新生活運動協会「住民活動」第19号(季刊、1978年) 未入力





6,地域からの胎動をみるー1993・沖縄への旅(小林研究室・沖縄調査報告書、1993)

 今度の旅は久しぶりに大人数(15人)であった。車も1台では乗りきれない。いつものことながら上原文一氏の配慮をわずらわして、2台を用意してもらったが、なぜか1台の方はトラブルが相次ぐ。それに「ゆめあーる」(読谷)の2日間は自炊、最後の名護の夜は急ぎ那覇に帰ることになって宿探し、などと話題の多い1週間の旅であった。参加の皆さん、なかでも運転手グループ、ご苦労さま。
 しかし車のおかげで、南の喜屋武岬から北の辺戸岬まで、東の伊計島から西の備瀬(本部)まで、沖縄本島を文字通り駆け抜けることができた。毎日、たくさんの社会教育を担う人たちと会い、また実にいろいろのものを食べかつ飲んだ。予定にはなかったが「組踊り」も観ることができた。お世話になった那覇、糸満、宜野湾、読谷、金武、宜野座、そして名護の皆さまにあらためて御礼を申し上げたい。
 参加者が多いということは、それだけ多彩なメンバーがいるということでもある。3年生を中心にして、1・2年生もいれば、4年生もいる、院生・留学生(中国・韓国)もいる、面白い構成だ。この若者たちが、沖縄とどう出会ったか、ウチナンチュとどんな対話ができたか、興味あるところである。

 こんどの旅で私自身の一つの興味は、とくに次のようなことであった。丁度一ヵ月前の『月刊社会教育』(1993年1 月号)に「沖縄の社会教育が問いかけるものー復帰20年に考える」を書いているが、これを沖縄の友人たちはどのように読んでくれているか。このテーマは本来むしろ沖縄の地点から発せられるべきものであるが、ヤマトンチュがいわば外側から書いたものを、どのように受けとめてくれたか、ぜひ意見をききたい、批判もききたい、ということであった。
 このなかで私は、本土のどの地域よりも独自の歴史と文化をもつ琉球弧の島々に、国がおろしてくる画一的な社会教育・生涯学習の施策が簡単に適合しないのは当然のこと、本土型に単純に従属するのではなく、地域の側から地域個性的な独自の“沖縄型”ともいうべき計画なり運動を創りだそう、という趣旨のことを書いた。「いまあらためて、戦後沖縄の苦難の歴史のなかで模索・創造されてきた民衆・住民レベルの社会教育実践・運動の“初心”を想起する必要があるのではないか」という立場から、仮設的に6点の課題を提起している。皆さんで少し議論してほしい、というのが私の期待であった。

 残念なことに、台風のように通り過ぎる私たちのスケジュールでは、ゆっくりと語り合う時間などあろうはずがない。しかし、皆さんはやはり私の論文を読んでくれていた。
 二日目の那覇の夜、私たち一行の歓迎会の後のひととき(深夜)、海瀬頭豊の「パピリオン」で平良、玉那覇、佐久本など「おきなわ社会教育研究会」の皆さんとこもごも話した。このままでよいのだろうか、沖縄からの生涯学習論を、地域の視点からものを考えている自治体・職員のネットワークを、などなど。名護では島袋正敏さんたちも同じことを考えているように思った。直前に石垣市で開かれていた沖縄県主催・生涯学習振興大会では、県の施策の在り方について正敏さんは面と向かって発言したそうだ。
 沖縄を歩くと、いつも新しい発見がある。今度の旅で、とくに印象的なことをあげるとすれば、次の三つであろう。いずれも月刊・論文にいう沖縄・独自の、地域からの胎動、集落の自治と協同のエネルギー、との出会いということができる。

 一つは、読谷「ゆめあーる」(都屋区)に泊まった夜、待望の比嘉豊光さんから聞いた楚辺区の字(あざ)誌づくりの活動である。楚辺区公民館編『楚辺誌・戦争編』については昨年刊行された直後すでに入手し、まさに圧倒されたものである。そして前掲・月刊論文にそのことは紹介した。しかし字誌づくりの実際の活動にふれる機会はなかった。「ゆめあーる」代表(?)の比嘉豊光さんは楚辺区・字誌づくりの中心にいる人である。豊光さんがぽつりぽつりと語ってくれた話は実に印象的なものであった。
 この夜、彼は大作『楚辺誌・戦争編』と「楚辺人(すびんちゅ)」「八重山のすびんちゅ」「アカノコ(赤犬子)」3冊の研究報告をもってあらわれた。いずれも「字楚辺誌編集室」発行の資料である。「楚辺人」には「資料a[21」とある。小さな一集落が、大学の研究紀要のようなものをすでに20冊以上も発行しているわけである。そして大学の専門的なスタッフでもつくることができない地域史の堂々たる大著を刊行し始めているのである。それを可能にしたのは何だろう。豊光さんなど字誌づくりスタッフの叡知と情熱がなければそれは実現しなかったであろうが、主要なエネルギーは、やはり楚辺という集落の自治と協同の力によるものだろう。
 二つには、同じく読谷村の座喜味区・子供文庫づくりの活動に出会ったことである。日曜日をつぶして私たちを案内していただいた上地武雄さんは、座喜味城から“やちむんの里”へいく途中、「あ、今日は文庫が開いているよ」とかいって突然に車をとめた。そこは座喜味区公民館の前、その一角に新築の「ざきみ文庫」が赤い屋根の瀟洒な姿をみせていた。聞けば資金(約1300万円)も労力も区民手づくりの努力で、昨年11月28日に落成したばかり。協同の作業は、床はり、内装、本棚づくり、そして子供会育成会のお母さんによる炊き出しなど。文庫の貸し出しなど張り切って仕事をしておられる山城勢津子さんから「建設のしおり」や「文庫だより」などをいただき、地域の内なるエネルギーを実感した。上地武雄さんは、私たちにしっかりと“沖縄らしい”住民レベルの実践活動を見せてくれたように思った。
 あと一つは、名護「源河川にリュウキュウアユを呼び戻す会」の運動である。名護市教育委員会・島福善弘さんがみせてくれた源河区・向上会(成人会)の記録によれば、地域ではすでに1956年当時から「アユ保護」についての協議や密漁監視の取り組みをしている。しかしその後絶滅、いま「呼び戻す」運動が地域ぐるみで展開されている。1991年には奄美大島のみに生息するリュウキュウ・アユを送ってもらい、源河区で「人口種苗生産」の努力がはじまるが、なかなかうまくいかない。しかし今回の旅では、ようやく稚魚が元気よく人工繁殖している現場に案内していただいて感激した。

 自然と環境を取り戻す運動が沖縄でも緊急の課題となっている。それに地域ぐるみで取り組む集落と住民の活動がある。このような地域課題と実践に根ざして社会教育や生涯学習の行政もまた役割を果たす必要があるのだ。沖縄という地域の視座から、地域の胎動に眼をこらしてみると、いろいろなことが見えてくるようだ。




9, 書評 OJ会編「これが建築なのだ」−大竹康市番外地講座−」TOTO出版
       地域への行動的メッセージ     
沖縄タイムス1995年11月21日

 一九八〇年代のはじめ、私たちの研究室は大竹康市さんにお出でいただいて、何度か象グループの話をうかがったことがある。今帰仁村中央公民館や名護市役所など「象」の仕事をスライドでパチパチ映しながら、BMに「網走番外地」のメロディがながれていたことを想いだす。
 編者たちは書名に「大竹康市番外地講座」と銘打っている。ポストモダーンの建築論にはなぜか「番外地」が似合うのだ。生前の大竹さん(一九八三年急逝)の面影がいまあざやかによみがえる。
 私たちは沖縄を通して大竹康市に出会った。それから東京でもつきあいが始まる。沖縄は出会いの十字路だ。当時の私たちは戦後沖縄の社会教育史を追っかけていた。専攻はまったく違う。しかし象グループの建築論、その独自の発想、大胆な挑戦のエネルギーなどから、私たちは多くの刺激をうけてきた。
 単なる建物論に止まるのでなく、まわりの風土・環境、そして地域の人びとの暮らしと文化、さらに自治体計画とも連結させて「これが建築なのだ」というメッセージがある。地域への実に暖かい眼差し、愛着がある。ともすると古く貧しい「集落」や「公民館」についても、視点を変えれば現代的に新しい、豊かな可能性が見えてくる。いわばその「発見的方法」を学んで私たちの社会教育史研究も深めることができた。
 名護市役所についてはもちろんだが、私たちにとってはとくに今帰仁村の中央公民館(芸術選奨文部大臣新人賞、一九七六年)を見たときの衝撃を忘れない。緑なす芝生と緑映える屋根、それをつなぐ紅い柱。毎年、屋根の緑は拡がる。なるほど建築は固定しているのではなく“発達”するのだ、ということを実感してきた。(その後、屋根の緑が消えて寂しい思いだ。)
 本書には大竹康市・建築論の行動的なメッセージがぎっしりつまっている。大竹の仲間とその教えをうけたメンバー(OJ会)の熱い愛惜の情が満ちあふれている。久しぶりにずしりと重い本だ。




10,宜野座の祭り、沖縄社会教育研究会20年記念の集いなど
 TOAFAECニュース9 (1996)
               
 1996年9月24日から30日(予定)までの今回の沖縄訪問は、もともとは宜野座区の村祭り(八月一五夜遊び)への参加が最初の動機だった。
 実は、数年前から長浜宗夫さん(宜野座村元社会教育主事、その後教育長、現在は収入役)や城間盛春さん(元宜野座区公民館長、現二才団長)から、今年の100周年記念祭へ のお誘いをいただいていた。私たちの研究会と宜野座区とは、1979年国立劇場で伝統芸能「京太郎」を観て(応援して)以来の親戚同然の付き合いだ。これまでに数えきれないほどの回数で宜野座区を訪問している。100周年ということであれば、これは見逃せない。 ぜひ行こう、と旧八月十五夜(9月27日)を楽しみにしていた。
 1986年秋にも宜野座区の祭り(90周年祭)に同道したことがある末本誠(神戸大学)に声をかけ、東京のTOAFAEC研究会の皆さんにも案内したところ、驚いたことに、総勢38名 が参加することになった。神戸大学グル−プ16名、和光大学9名、中央大学3名、九州大学2名、一橋大学1名、小平、所沢、狭山など社会教育関係者、TOAFAECメンバ−など計 7名という構成だ。訪問団全体の事務局は山口真理子が担当。忘れがたい旅となった。
 宜野座区の八月一五夜遊(あし)び100周年記念祭については、同区より記念誌が刊行 されることになっている。小林、末本、山口をはじめとして学生の皆さんもこの記念誌に感想を寄せることになっているので、ここでは省略することにする。
 また宜野座区村祭りの前日(旧八月十四夜)、島袋正敏さん(名護市立図書館長)など名護の方々が、私たちを歓迎して楽しい交流の集いを催してくださった。場所は名護市中央公民館の中庭、みんなで緑の芝生に思い思い座りこんで、ゆらゆらとのぼる十四夜の月光を浴びながら、オリオンを飲み、サンシンで踊った。丸焼きの子豚一頭、私たちのために犠牲になってくれた。

 ところで、今年は私たちの「戦後沖縄社会教育研究会」が発足して20年の年である。記録によれば、第1回研究会は1976年9月23日、東京学芸大学教育学研究室で開かれている。ゲストは当時上京中であった上原文一さん(当時具志頭村社会教育主事、現保健福祉課長)。そしてこの年10月、那覇では喜納勝代さんが久茂地文庫を始めている。私たちの沖縄研究・調査活動は、初期の頃は、いつも久茂地文庫が大事な活動拠点であった。
 今回の私たちの沖縄滞在中に「久茂地文庫」と「戦後沖縄社会教育研究会」合同の20周年記念の集いが開かれることになった。9月29日午後、会場は沖縄青年会館、喜納勝代さんと小林が話したあと、参加者で語り合い、懇親パ−テイが計画されていた。
 しかし当日、台風21号が沖縄を襲った。県内交通はストップし、飛行機もすべて欠航となった。この日の朝、私たちは風雨のなか宜野座区のバスで出発し、行き交う車もほとんどない国道58号線を南下して、どうにか那覇まで到着することができたが、平良研一(沖縄大学教授)、上原文一(前出)、玉那覇正幸(宜野湾市役所)、佐久本全(那覇市中央図書館長)など研究会の主要メンバ−の判断により、「20周年の集い」は中止、延期されることとなった。出席予定の人たちに電話連絡が始まった。残念なことだが、私たちの研究会もまた久茂地文庫も、20年の蓄積といえども、台風には勝てなかったわけだ。
 だが面白いことに、午後の予定の時間になると、風雨(すこしおさまっていた)のなか本土からの参加者を含めて約40人ほどが集まってきた。宮城英次(元県社会教育主事、青年担当)、新城捷也(同)、名城ふじ子(那覇市役所)、東武(元沖縄県青年団協議会会長)、組原洋子(那覇市中央図書館)、上原美智子(元県社会教育主事)などの皆さんの懐かしい顔ぶれも見える。進行役の玉那覇正幸が用意していた墨痕あざやかな「20周年の集い」の大きな張り紙がいつの間にか会場にかざられた。
 ビ−ルが用意され、平良さんの挨拶が始まり、小林の話が求められ、その後に喜納さんも久茂地文庫の回想を短く語った。末本誠をはじめ、本土からの参加者を含めてみな一言ずつ感想を述べた。20周年を記念して喜納さんの短歌に曲がつけられ、披露された。青年会館の常務理事・安谷屋幸勇は手づくりのカンカラサンシンを弾いた。中止された筈なのに「20周年の集い」は息を吹き返したような夕べとなった。
 台風21号はその夜沖縄近海に停滞した。航空便はこの日から二日間も欠航し、本土からの参加者はそのまま沖縄に閉じこめられた。しかし沖縄の友人たちは次から次へと差し入れを持参され、学生たちは食べきれないほどの感激を味わった。台風がもたらしてくれた沖縄の方々の人情、その再発見の旅であった。
 以下に当日に配布される予定であった小林の幻の発言レジメを記録として収めておく。
(略)



11,さらに新しい歩みを祈るー宜野座へのメッセージ   宜野座区「八月遊び百周年」記念誌(1996)→■
12, 海を越えてはばたいてほしい    上門加代子琉舞道場10周年記念誌『輪舞』(1996)→■
13,正義感あふれる知識人、外間政彰さんへの感謝  外間政彰追悼文集『爽風一過』(1997)→■
14,沖縄との出会い、そして移動大学」    和光大学『エスキス』(1998年)→■
15,いちゃればちょうでい(行き会えば兄弟)     和光大学・小林プロゼミ沖縄合宿報告集(1999年1月)→■
16,仲宗根政善先生を偲ぶ−『追悼・仲宗根政善』に寄せて    「南の風」第177号(1999年2月7日
17, 上勢頭芳徳・追悼ページ→■
18,いまから新しい歩みが始まる−沖縄・名護全国集会の成功を祝って− 
                
社会教育推進全国協議会通信(2002年10月)→■
19,「やんばる対談」記録―各号「解題」など⇒■



20,沖縄祖国復帰闘争と青年団運動
  −戦後沖縄青年運動史の証言(その1)−解題と経過

  
    TOAFAEC「東アジア社会教育研究」第12号(2007年)所収

 戦後日本史のなかで沖縄「祖国復帰運動」は、そのテーマ・規模・展開からみて、いまなお輝かしい光彩を放つ一大民衆運動と言えるだろう。多くの団体、労働組合、政党等が参加してきたが、そのなかでもとくに地域の青年団運動が果たした役割を忘れることがあってはならない。沖縄県祖国復帰協議会(復帰協と略称)が躍動する前の初期段階では、むしろ沖縄県青年団協議会(沖青協と略称)に結集する地域青年運動が復帰運動の主要なエネルギーであったとみることもできる。その流れのなかで、復帰協の組織結成(1960年、加盟団体28)当時において、初代・第2代の役員構成は、官公労(会長)、教職員会(副会長)と並んで、沖青協が副会長、事務局長さらに総務部長の要職を担っていた(『沖縄県祖国復帰闘争史・資料編』1982年)。そして沖青協と復帰協をつなぐ象徴的なキイパースンが外ならぬ仲宗根悟氏(1953年〜1957年=沖青協事務局長、1958年=同副会長、1966年〜1975年=復帰協事務局長)であった。政党や労働組合の錯綜する復帰協・共闘組織のなかにあって困難な事務局長の任務を担い、1972年復帰からその後の運動終息過程にいたるまで責任ある立場にあった。

 同時に戦後日本青年団運動史における沖縄県青年団運動の独自の歴史、稀有の活動史についても思いを馳せておく必要がある。沖縄では、悲惨な戦争の体験をくぐり、焦土と化した集落(ムラ・シマ・アザ)を復興し、アメリカ占領支配下における基地問題・土地収奪等に対しても果敢に闘ってきた歳月があったが、その中心に地域の青年団の役割が重要でった。祭祀行事や地域文化の担い手としても若者たちの活力が大きかった。そのような集落の地域青年活動が市町村や郡レベルで連合し、沖縄全体の連絡協議体として沖青協の組織が活発に機能したのである。ローカルな青年活動とナショナルな(さらにアメリカの極東戦略に関わる)政治課題が結びつく側面があった。日常の生活・生産・文化の取り組みが日常の地域を超える国家・国際的な問題と連動して展開していった。地域・日常に安住してきた日本各地の青年団活動には見られない、沖縄「地域青年運動」の独自の厳しさと激しさ、拡がりと豊かさが注目されるのである。
 沖縄の青年団運動史については、貴重な労作『沖縄県青年団史−沖青協十周年記念』(沖縄県青年団協議会発行、新垣栄一編、1961年)が公刊されている。しかしその後1960年代以降の歴史については体系的な記録はまとめられていない。沖縄青年会館(沖青協事務局)や各地にさまざまな資料が残存していると思われるが、今むしろその散逸・風化が心配される。
 当時の関係者たちも、いま高齢化がすすみ、歴史を担った貴重な証言者のなかには物故される人たちもある。この段階で当時の証言を収集し、重要な資料を整理保存していく作業が急がなければならない。そんな課題意識が私たちに「沖縄青年運動史研究会」を発足させる契機となった。そして2005年末あたりから、まず中頭郡青年団運動関係者からの証言収集を開始しようとする流れが始まったのである。

 本記録は、上記・仲宗根悟氏による証言を中心に、当時の中頭郡青年団関係者による関連の証言を集めたものである。聞き書きによる実際の記録は量が多く、また重複もあるため、数回の聞き書き記録を(生の証言を再現することに留意しつつ)要約的に抜粋・整理し、証言集としてまとめることとした。調査活動の日時・場所は次の通りである。
1,2005年11月25日 浦添市・田場盛順氏宅
2,2005年11月26日 沖縄市・中根章氏事務所
3,2005年12月24日 沖縄市・クラウンホテル(仲宗根悟氏聞き取り1)
4,2006年 3月19日 沖縄市・喫茶店(仲宗根悟氏聞き取り2)
5,2006年 5月31日 沖縄市・中根章氏事務所
 各調査は小林文人が中心として聞き取りを行ったが、山城千秋(2005年11月25日)、石倉祐志(2006年 3月19日)が同行した。またこれらのスケジュール調整には東武氏があたって頂いた。記録起こしと整理、用語解説はすべて山城千秋が担当した。仲宗根悟氏をはじめ調査に協力いただいた方々とともに深く感謝したい。

 沖縄青年運動史に関連する証言の聞き取り調査としては、その後、外間喜明氏(1958年=沖青協会長、面接聞き取り日・2006年12月28日)、平田嗣功氏(1962、1963年=沖青協事務局長、同2007年2月12日)、山内徳信氏(1950年代=読谷村及び中頭郡青年団活動、同2007年2月13日)、長嶺徳助氏(1969年=沖青協会長、同2007年4月20日)等の協力を得て、さらに続行中である。すでに山城千秋によって証言記録として完成しているものもあるが、紙数の関係で本誌に収録できず、次の機会に掲載したい。 




21,稲嶺進さん、名護市長に当選!  社会教育推進全国協議会通信 (2010年1月)→■





22 奄美・沖縄青年団運動史の新しい発見
  
 (占領期奄美・沖縄の青年団資料集(不二出版)刊行 推薦文) 2019年

 戦後奄美・沖縄の青年団資料は、何よりもアメリカ占領支配下において、それと対峙し抵抗しつつ、日本復帰運動に取り組んだ地域青年団の記録として貴重だ。戦後日本の他のどの地域にも例を見ない激しい青年団運動の歩みであった。生活や文化、環境や産業あるいは祭りや娯楽などの活動と並んで、極東情勢・戦争と平和の問題、基地(土地)対応そして復帰運動などへの政治的な取り組みが注目される。奄美の場合は、アメリカ軍政府によって青年団長が逮捕・拘禁(1950年)されるという情勢下での活動に驚かされる。国家・政治を論じ、民族主義的な性格をもった地域青年団運動、「政治と生活の結合」の視点をもった運動と学習の記録が『資料集』として復刻された意義は大きい。
 南西諸島の島々では、集落レベルの青年たちの動きは、自警団的な役割を含めて、戦後直後から独自の展開を見せてきた。ただアメリカ軍政府は青年たちの政治的な動きを警戒し、集落や自治体をこえる連合青年団組織が許可されるのは、戦後3年後(1948年末)のことであった。本『資料集』に収録されている奄美「新青年」「沖縄青年」等も1949年以降の発行である。いくつかの欠号が惜しまれる。沖縄各地に見られる最近の活発な集落史(字誌)の拡がりを精査していけば、また新しい青年団活動資料も発掘されるであろう。
 ほとんど幻となっていた『沖縄県青年団史(十周年記念)』(沖縄県青年団協議会)の復刻も嬉しい。本『資料集』刊行によって地域青年団研究の新しい課題もまた見えてくる。そして停滞過程にある全国各地の地域青年団運動の活性化を刺激することにつながってほしい。



23,文一・文人の出会い物語 ―――上原文一さん追悼
       (小林ぶんじん)
 「東アジア社会教育研究」第25号(2020年12月)

 1945年・港川の生まれ
 沖縄・南部の具志頭村(いま八重瀬町)港川の生れ、海んちゅの父をもつ上原文一(敬称略、以下同じ)と、九州久留米の生れ小林文人はどのように出会ったのか。名前に同じ「ぶん」を冠する二人は、ときに混同されることもあった。那覇一銀通りの古書店主人は、「ぶんじん」を何度も「ぶんいち」さんと呼んだ。これも何かの縁だと訂正もせず古書1冊を求めた日があった。
 文一は1945年3月の生れ。文人は193111月、満州事変が始まった九一八のわずか2か月後に生れた。二人は戦争の歴史のなかで生を受けた点で共通するね、と語りあったこともあった。
 しかし、米軍が上陸し、地上戦となった沖縄と九州では比較すらできない。1945年沖縄戦の開始直前、文一が生まれた港川の沖では米海軍の激しい陽動作戦が始まっていた。想像するだに恐ろしい艦砲射撃にも見舞われたのではないか。海に面していた上原家から祖母や母上はどのように逃れたのか。嬰児の文一を守り、育てた歳月の話を一度詳しく聞きたいと、母上にお願いしたことがあった。しかしその機会はもてないまま。文一は父上も幼くして亡くしていた。家の鴨居には、父上の形見か、海人のモリが掲げてあったような記憶。
 ほぼ半世紀前に断片的に聞いたいろんな話、いま記憶はおぼろ。戦後、子どもたちはみな窮乏と混乱のなかで学校に通った。文一はたしか沖縄大学(二部)に入学したが、卒業はしなかった。具志頭村に入職する前は警察に勤めていたとか。旧琉球立法院の前で、「教公二法」阻止(1967年)デモ隊と対峙する警官隊の側にいた話を聞いたことがある。那覇桜坂の歓楽街に連れられて飲みにいくと、バーの戸口に立つ女性たちがみな挨拶、そのなかを悠然と歩く姿に、ふざけて「夜の帝王」と名づけたこともあった。

 1976年の夏・出会い
 たしか復帰の年に具志頭村役場に採用された。その後、教育委員会社会教育の仕事に配属され、社会教育主事の資格をとるため上京、東京上野・社会教育研修所(当時)へ通った。1976年夏の終りの頃であった。ぶんじんの記憶は、このあたりから鮮明になる。
 当時の国電上野駅・公園口を出ると、目の前に東京文化会館。その当日、第16回社会教育研究全国集会が開かれていた。大きな垂れ幕「住民自治をきづく社会教育の創造を」と大会テーマ。彼は目的地・社会教育研修所に向かわず、興味赴くまま全国集会場の中へ。 当日は集会の三日目、第二全体会で閉会行事が始まろうとしていた。受付から「沖縄から迷い込んだ人がいる」との連絡、文人が対応することになった。もちろん初対面、印象的な出会いであった。閉会行事では、最後に来年の開催地・福岡から挨拶する慣わし。たしか田岡鎮男(福岡・鳥飼公民館)が「来年は福岡の地で会いましょう、頑張ります!」と決意表明した。そのあと文一の顔を見ると、臆することなく壇上に立ちたい面持ち。ぶんじんは「本日の飛び入り」と彼を紹介して、初めて沖縄からの参加挨拶となった。当日、集会運営側の一人として忙しく、後日に大学研究室で再会する約束をして別れた。
 彼はその後、約1か月ほど東京に滞在(宿舎は松戸)した。そして主事講習中に小金井の東京学芸大学に来てくれた。「沖縄の社会教育について」報告、この日、私たちの「戦後沖縄社会教育研究会」は発足(事務局長・末本誠)、第1回研究会として歴史を刻むことになった。キャンパスのヨモギの葉っぱをむしりとって、どうしてヤマトゥは「ふーちばを食べないんだろ?」と言ったことを妙に憶えている。沖縄に帰りたくなっていたのだろう。
 文一の話のなかで、喜納勝代(歌人)が那覇「久茂地文庫」を同年10月にオープンすること、私設文庫ながら積極的な文化活動への意欲が紹介された。文人は、「月刊社会教育」編集長として喜納勝代から歌集『おなり神』等を受贈されていた。那覇の中心部(沖縄教育会館すぐ前)の同文庫は、その後、1977年から始まった私たち沖縄社会教育資料収集フィールドワークの活動拠点となった。那覇に着けばここに荷物を置き、各地に動き、同文庫を通して多くの人たちに出会ってきた。久茂地文庫の二十周年祝い(1996年)は、同時に私たち沖縄社会教育研究会の20年でもあった。
 話を文一との出会いに戻そう。同年12月に文人は具志頭村「社会教育振興大会」に招かれた。初めて沖縄の地に立つことができた。講演では東京の公民館「明日をめざして」(三多摩テーゼ)を話したと記憶している。その後に、沖縄の集落公民館の奥深い実像を知るにつけ、当日を想起して今なお赤面する。大会の終わりにカチャシーを踊らされた。初めて沖縄の踊りの文化にとまどい、満場の皆さんに笑われた。
 その翌日から文一の手配により、沖縄県教育委員会や那覇市中央公民館、あるいは県社会教育員会委員長、中部へ足を伸ばして読谷村公民館、浦添市教育委員会などを訪問。沖縄大学に平良研一を訪ね、その後の共同研究のスタートとなった。今は亡き琉球大学・玉城嗣久、歌集のみの出会いであった喜納勝代、さらに当間(名城)ふじ子、比嘉洋子、安里英子などの女性各位に出会った。皆さんと島酒の卓をかこんだ一銀通り「あんつく」店の一夜は生涯忘れないだろう。当間ふじ子は復帰運動当時の東京学芸大学々生、なんと!文人の講義を受講していた。その後の(いまでも)沖縄フィールドワークの現地事務局の役割を担ってくれた。

 1977年・おきなわ社会教育研究会
 沖縄県教育委員会社会教育課(当時、明治橋たもと)もまた、私たち沖縄研究グループを歓迎し応援いただいた。大城徳次郎課長の笑顔、とくに青年担当の宮城英次・新城捷也の両社会教育主事の熱意、この二人を通して沖縄県青年団協議会の田場盛順、東武、玉那覇正幸(のち研究会事務局長)など復帰運動を闘った青年団リーダーたち、そして中頭青年会との出会いがあった。県社会教育課にはアルバイトで新城隆子(宮古城辺の出身)がいた。私たちの調査活動が、久茂地文庫に集う人たちと、県教委の新城捷也や沖青協活動家たちとが出会う契機となっていたかもしれない。東京(1976研究会結成)に刺激されるかたちで、これらの人たちによる那覇「おきなわ社会教育研究会」が旗揚げしたのは翌197711月のことであった。文一は結成当初からその事務局長を担った。
  「おきなわ社会教育研究会」については、いくつかの記録が残されている。年報「東アジア社会教育研究」23号に名城ふじ子がその「歩み(回想)」を書いている。文一自身にも退職後に出版した『半生随感−戦後史とともに歩いてきた男がみたそのときの記録』(2003年、NPOカタンニユウクラブ発行、私家版)に「おきなわ社会教育研究会」の記禄がある。沖縄・社会教育では初めての民間研究運動、発足当時の熱気、1980年代の盛り上がり。月例研究会だけでなく、訪沖した研究者(福尾武彦、大前哲彦、奥田泰弘、酒匂一雄、小林など)を交えた大シンポジウムが4回ほど開かれた。。その後の盛衰あり、19854月から「再刊」の研究会通信が事務局長・文一により毎月発行された時期もあった。

 感謝をこめて、冥福を祈る
 1990年代には韓国学者・黄宗建の歓迎をはじめ、小林ゼミ学生そして留学生との忘れられない交流があった。港川の上原家に泊めてもらった留学生(中国・羅李争、エジプト・アーデルなど)も数人いた。昨年、上海で羅李争は、三十余年前の上原家民泊の夜を懐かしく語っていた。彼らにかわり、この場をかりて感謝申し上げたい。
 交流は近年まで断続的に続いてきた。福岡油山(別宅)にも東京永福(自宅)にも来ていただいたし、家族ぐるみで赤坂のホテルの上で花火を観たこともあった。また文一は突然に一人で姿を現す記憶も多い。国分寺市・進藤文夫市長選の応援のとき、雲仙・全国集会への参加、今世紀に入って平久保(八重山)ぶんじん歌碑建立式など。さまざまな思い出、しかし二度とかえらぬ場面 ばかりが蘇る。
 私たちの思わぬ出会いから、沖縄社会教育研究会(東京・1976年)の永い歴史が流れ始め、さらに韓国・中国・沖縄を含む東アジア社会教育研究会(TOAFAEC1995年創設)へと川は流れ続けている。ただ、ぶんじんより14歳も若い文一に追想をしたためる事態になって残念至極。お互いの出会いから半世紀、永く続いてきた得難い交誼の有難さをかみしめている。またどこかで再会し、声をかけ手をとりあって、乾杯したい夢、それもかなわない。いまはただ文一の冥福を祈るのみ。





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