【大都市社会教育の研究と交流の集い記録(1978〜2016、2021)

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<目次>                              
1,20回記念の集い(1997年・川崎市)講演記録
2,25回記念・ミニフォーラム・記録(2002年・札幌市)
3,追加記録・2021年「大都市社会教育・研究と交流の集い40年」(TOAFAEC年報26号所収)
   ―前号(年報25号)「今川報告」へのコメント、これから―
4,大都市社会教育の集い・関連写真(1977〜2011〜2016)アルバム→■
5,大都市社会教育研究の系譜(メモ)・東京研究回想・拾遺→■(入力中)
6,東京研究のページ→■

第25回大都市社会教育・研究と交流の集い(札幌、2002年10月7日)


*大都市社会教育の研究と交流の集い(1977〜2001〜2016) album■




1,大都市の社会教育・研究と交流の集い20年
        
   ―私たちはなにをめざしてきたか―
                             小林 文人(和光大学)

                      
―大都市・研究と交流の集い・20回記念
                         ―1997年10月6日午前
                        ―川崎市産業振興会館
                         東京都社会教育史研究

 はじめに―この20年
 「大都市の社会教育研究と交流の集い」が20年を経過して、本年度はいわば記念の集会ですが、最初からかかわってきたものとしての振りかえりの作業と、今後にむけていくつかの課題提起をさせていただきたいと思います。
 昨晩は、私のためにみなさん乾杯をしていただいてありがとうございました。というより、こちらの方から乾杯を強制したようなものですが(笑い)、たいへん嬉しい懇親会でございました。ああ、20年経ったんだと。まわり一人ひとりの年令を聞きました。たとえば45才だと。20才引くと当時はまだ25才の青年。この「集い」も、よくぞ、まあ20才になった。ある意味では何とも曖昧なこの会が、20年もよく続いたものだ、という感慨がありました。
 昨年、広島のこの集いの場で、私は「20年の歩み」を書く、なんらかの形で記録にしよう、その責任を皆さんの前で自ら申しあげました。実は少し書いておりまして、それをまあ、持ってきてコピーしてもよかったんですけれども、途中でやめました。やめたのはですね、やはりこの「集い」は、われわれ学会の研究者集団と、それから、なによりも大都市の社会教育職員を含む労働組合・教育支部の皆さん、自治体労働運動の方々と一緒にやってきたわけです。だから、研究者だけでなく労働組合の皆さんとで、やはり一緒に書くべきだと、そう思ったわけです。
 この大都市社会教育研究の集いの歩みを記録しておこう、そういうことを言い続けてもう4,5年になるんです。鹿児島の第15回の集いで「15年の歩み」をつくろうと提起したのですが、出来ませんでした。とくに最初から一緒にやってきた幹事都市の川崎の皆さんにお願いをして、私はレジュメも出してあるのですが…。初めて参加する人が多い集会ですから、これを読めば「歩み」はよくわかる、大丈夫だ、というような記録がほしい、そのうち是非この集いの記録づくりを実現したいと思います。今日は口頭でのご報告です。
 と言っても、20年の正史があるとすれば、今日の私の話はいわば私史です。多少自分史的にお話してみたい。ちかく正史ができることを期待して、あまり記録にしておくこともないけれども、ま、ありのままを少し、裏話も含めて、申し上げた方が初めての方にもご参考になるかと思いますので、不充分な話になるかと思いますが、お許しをいただきたいと思います。
 お手元にすこし資料を用意いたしました。先ほど司会の上野さんからご紹介いただきましたように、一つはレジュメ、別の資料綴りの方は13枚です。この資料綴り、下にナンバーをうつのを忘れましたので、できましたらナンバーをうってください。時々これをめくっていただきますので。綴りの資料は、これまで「集い」が母胎となって作ってきた調査報告書や刊行物、その主要なものの表紙とか、目次とか、提言とか、それと「月刊社会教育」誌上の集会レポートなどです。内容を全部用意するということはできませんので。もとの原典は、それぞれの教育支部や、あるいは図書館などに所蔵されていると思います。私のレジュメの最後の方にも、この集会の記録や関連文献の一覧をメモして書いておきましたので、後でそういうものを詳しく見ていただければと思います。

 大都市社会教育研究の集い20年一覧表
 資料綴のはじめの2枚は、この「集い20年の歩み」を一覧表にしたものです。1枚目は10年前の集会の時に、川崎の伊藤長和さんが作成されました。2枚目はそれに続けて今回私が同じかたちで作ったものです。
 伊藤さんも今日ご一緒にお話しできればよかったんですが、どうしても無理ということで、私だけでお話しすることになりましたが、20年前の最初の集いのきっかけ、その下準備は伊藤さんと私の二人の企画から始まったようなところがあるんです。とくに最初の10年は文字通り伊藤さんが縁の下の仕事をされました。伊藤さん作成一覧表(1枚目)の「作成資料等」には、この集いに関係ある文献が記載されていますが、され以外のもの約10点ほどレジュメ(添付資料T)の最後に補足したわけです。
 20年の歩み一覧表(添付資料U)で主要な流れはすべて分かるようになっています。第1回の愛知県青年会館から本日の集いまで、すべて明らかです。表の一番上に「期日」、そして「会場」、それからこの集いは日本社会教育学会の最後の日から翌日にかけて開いてきましたので、開催された学会の大学名が一覧になっています。例外が一つございます。第10回の集い、ユネスコのE.ゼルピを招聘した1987年には、ゼルピの訪日の関係で6月開催となりました。ほかは全部、秋の学会の定例研究大会の後で、したがって学会開催の都市で、あるいはその近くの都市で開いてまいりました。
 昨日の夜の懇親会で、仙台の皆さんとこのことで笑い話をしました。仙台・東北大学でも社会教育学会が開かれたのか、しかし我々は知らないと。東北大学で学会を開催したのであれば、この大都市の集いも当然のこと仙台で担当したはずなのに、どうして記録にないのかと。昨日一晩考えておりましたら、第10回のE.ジェルピ招聘の年が1987年、この年の10月に東北大学で学会が開かれたのでした(笑)。ですから、そのうち仙台で独自にこの集いを開いていただきたい、とあらためて思ったわけです。
 一覧表にもどって、その次の欄が「主な討議内容」。これはまったく主要なものだけです。毎年ともに各都市からの状況報告、そしてその年度の主要なテーマや動向に即して討議してきました。学会研究者の側からは理論的な観点から報告し、大都市側からも現実の状況を出してもらう。このように一覧で振りかえってみますと、この20年来の日本の大都市と社会教育・生涯学習をめぐる重要な問題がここにすべて取りあげられてきた、と言っても過言ではないと思います。ときには東京都(第9、10、13回など、)からも報告していただきましたし、ジャーナリストからの鋭いレポート(第16回)もいただきました。 ここに居並ぶ研究者集団もかなり発言してきました。南里、末本、姉崎、長沢、上野などの皆さん、そして私などが、ややしゃべりすぎておりますね(笑)。この集いのいいところでもあり、また悪いところでもありますが、二日目なんかは、勝手に研究者集団が、やや早口で難しいことをしゃべりすぎる。これは私の反省なんです、今日のことを申し上げているわけではないんですけれども、まあ、そんな感じで、元気よくやってきたように思うんです。
 一覧表の最後の欄が、前に述べた作成資料・文献、メモなどであります。それをごらんいただきながら私の話を聞いていただきたい。
 それからあと一つ、昨日配布されております小川利夫先生の、参加できないということで、熱いメッセージが寄せられておりますが、そこに少し歴史が記されています。小川さんは思いをこめて、このメッセージを通して参加するんだと書いておられます。ここに小川先生がいらっしゃるようなおつもりで、小川さんの手書きの、ワープロでないところが大変貴重ですございまして(笑)、手書きのメッセージをご一緒に見ていきたいと思います。

 「集い」の背景―大都市の状況
 実は私は、もうすこし時間をいただけるのかなと思っていたのですが、そうもいかないようですから、短い時間です、すこしとばしながら、レジュメにそって、あらためてこの集いの20年を考えてみたいと思います。まず「集い」が生まれる背景について、いくつかお話ししてみます。
 まず全般的なことから。一つは、「社会教育の集い」と言ってきましたけれども、この20年の間には「生涯教育」「生涯学習」という新しい用語が登場してきて、社会教育との関係で、複雑な拮抗関係といいましょうか、競合の問題がありまして、そういう中での20年であったということです。同時にまたこの20年は、最初は、「都市経営論」などといっておりましたが、いわゆる自治体行政の減量化、スリム化、行財政改革、最近の言葉で言えば規制緩和、それらの背景に新自由主義的な政策の流れが動いてきた中での大都市社会教育の歩みであったと思います。ですから、戦後初期のですね、社会教育法の精神にのっとって、公的条件整備が当然の原則だと考えてきたことが、考え方として転換していく。民間活力の視点が一つの新しい動きとして登場してくる。当然そこに財団とか事業団とか公社の問題などがでてきた20年でもありました。
 だけど考えてみますと、他方でこの時代の社会教育史は別の側面をもっている。日本の大都市というのはだいたい戦災で全部やられて、復興に大変で、そのうち過密化が始まって、都市問題の激発があり、教育行政はひたすら学校建築に追われる、そういう状況が一般的であった。それが一段落して、1970年代、その後半あたりからですね、ようやく社会教育や文化施設といったものが建ち始める時代がやってくる。自治体として社会教育とか文化についての計画や施策に目が向いてくる。中小都市と比べてみて大都市の社会教育が、きわめて貧困な状況から、それまでにない新しい施設づくりや図書館のネットワークや住民運動への公的援助などへの飛躍が生まれてくる時期でもありました。農村や中小都市には見られない、やはり大都市独自の行政能力と相当の水準で社会教育計画が動きはじめる、そういう新しい可能性が見えてきた20年でもあったのではないでしょうか。いわば経済高度成長後の大都市経営への転換と、それまでにない都市行政の飛躍とが競合しながら展開してきた時期とも言えましょう。そういう中で1978年に、第1回の「集い」が始まるわけです。

 1978年秋―三つの出会い
 第1回「政令指定都市の社会教育・研究と交流の集い」は、1978年10月9日から10日にかけて、愛知県青年会館で開かれました。日本社会教育学会第25回大会が名古屋大学で開かれ、その最終日から翌日の2日間、同じ名古屋市内を会場としたわけです。ですから、この第1回から小川利夫さん(名古屋大学)には参加していただき、その関係で、のちにE.ゼルピ招聘に尽力される海老原治善さん(当時、関西大学)もお出でいただいたことを記憶しています。この「集い」がどんな契機から開かれることになったのか、関係する三つの団体の面白い出会いがありました。
 一つは、社会教育推進全国協議会です。そのなかでも特に「調査研究部」の役割が大きく、当時、私は調査研究部の担当常任、故高須甫さんや伊藤長和さんなど川崎の皆さんが調査研究部のスタッフとして参加していただきました。調査研究部は、それ以前から藤田博(東京都)、片野親義(浦和市)、安立武晴(相模原市)や、すこし遅れて小林良司(同)などの皆さんと、「条例規則」の調査(1973)をやったり、後にもふれますが、北九州教育文化事業団(1976)、それから福岡の公民館合理化問題(1977)などに果敢に取り組んできた経過があり、民間教育研究運動としてかなり激しく活動し、報告書をまとめてきた、そういうエネルギーがひとつの基盤としてありました。
 二つ目は、日本社会教育学会であります。日本社会教育学会は宿題研究テーマとして「社会教育の計画と施設」を掲げていた時期で、一橋大学の藤岡貞彦さんや私などが理事として研究組織をつくり、そのころ東京都立教育研究所にいた南里さんや、当時まだ若い末本さん、ということはもう若くないということでありますが(笑)、そういう若き侍どもが集まっていた集団がありました。学会・宿題研究の研究活動の一環としても、政令指定都市研究にも取り組もうという話をして、学会側の窓口として、私と藤岡さんが呼びかけ人としての名前を出したという経過です。
 それと三つ目は、言うまでもなく当時の自治労・大都市教育支部連絡会です。幹事都市が、大阪と川崎でした。伊藤長和さんを通して、川崎と大阪の両教育支部の主要な方々に理解を求め、他の政令指定都市にも呼びかけていただき、第1回の集いの開催が実現したのです。参加者は、はじめの段階では、学会関係者が多かったように記憶しています。
 この三つの出会い、なかなかの組み合わせだと思いますが、ただ私史的に申しますと、三つが何となく出会うのではありません。それらをつなぐ中心の役割をはたすのは、1番目の社会教育推進全国協議会・調査研究部です。そして実際の「集い」の実現をもたらしたのは3番目の自治体・教育労働組合であったのです。そして潤滑油的に学会の役割があったのでしょう。
 社会教育推進全国協議会は、略称で社全協と言います。よくご存じの方もございますが、たとえば今年8月、神戸で社全協主催の社会教育研究全国集会が盛大に行われました。神戸市職のみなさんには大変ご協力をいただき、全国の関係者が感謝しているわけです。しかし当時はね、この社全協に対しては、組合運動としてはそんなに好意的な評価ではなかったように思います。誤解もあったようですね。社全協というのはいろいろな立場の人たちが、たとえば「民主的な社会教育の創造」といった共通の思いで、活動している民間教育研究の運動体なのですが、一方、組合は路線問題にかなり神経をつかうところがあって、一定の立場にこだわらざるを得ないところがある。そういう点で社全協はどうも動きが違うのではないかと見る向きもあった。というわけで「集い」の初期の4、5回までは、あまり社全協を前面に出さなかった、社全協という言い方は抑えながら、むしろ組合的な協調を大事にしながら、「集い」の運営にあたってきたように思います。
 しかし当然のことですが、組合の組織内の学習会とも違うところがある。「集い」ではいろんな議論を保障する、お互いにぎくしゃくするところを含めて、自由に発言する、お互いの共通の問題を追求していく、という姿勢がしだいに了解されてきた。このことは大事なことだと考えています。世話人として私自身も、路線がちがっても現実の問題は共通している、問題を共有していこう、意見が分かれても議論を保障していこう、と主張してきました。論争を否定しないでいこう、実際にはきびしい論争はありませんでしたが、論争のなかから創造の萌芽があると。現実の複雑な状況からすれば、意見が分かれる、ぎくしゃくする、というのはむしろ当たり前なんですね。意見の対立、認識の違いは、当然あるはずです。そのことを大事にしようと。
 しかし路線がちがい意見が対立すると、ともに問題を共有し人間的にも連帯していこうということが出来なくなる。路線がちがうとともに交流することも出来なくなる、そんな貧しい状況を「集い」のなかでは跳ねかえしていきたい、と考えるところがありました。研究者というのは勝手なことを言いますし、また言い過ぎたりしますが、しかしあまり遠慮しないで、議論していく。それをお互いに尊重していく。おとなの智恵ですね。何となく、きしむところを潤滑油でつなぐ場もつくっていきたい。それが「集い」の名称のなかに「交流」を含めた積極的な意味です。
 潤滑油というのは、ま、昨日の夜の懇親会のようなものもあり、酒と、昔は歌もうたいましたね。この大都市研究と並行して私は沖縄研究を継続してきましたが、沖縄の歌をうたったり、「インターナショナル」をうたって珍しがられたりしました。そういうなかでの語らい、同じ問題に格闘しているもののなんとはなしの連帯感。ちょっとした摩擦感をまた元に戻しながら、今日までずっと続いてきたわけです。

 社会教育にとっての政令指定都市・大都市とは
 資料綴りをめくっていただきますと、3枚目に「1978年の社会教育施設をめぐる状況」があります。これは社全協・調査研究部資料第7集の表紙と目次です。134頁の報告書です。ここではじめて政令指定都市の横断的な基礎調査が報告されました。調査研究部に参加された川崎市のスタッフ皆さんの労作です。同じ政令指定都市といってもなんと多くの格差があることか、日本を代表する大都市の社会教育をめぐる条件整備がいかに低水準にあるか、その具体的な数値が明らかになった最初の報告です。
 これにいたる経過と課題意識などについて。前にもふれましたが、当時は社全協の調査研究部が、150頁から200頁前後のどっしりした調査報告書を毎年刊行しておりました。この前年1977年には福岡問題を中心とした「公民館“合理化”をめぐる動向―憂うべき状況をどう克服するか」というものでした。福岡だけではなく、西宮、鶴岡、川口、その他図書館や博物館問題を含めた調査、貴重なデーターを含む力作です。自分で言うのですから間違いございません(笑)。その前の1976年は前述した「北九州市教育文化事業団」をめぐる問題の報告、当時の北九州市職労と社全協が中心になってつくりました。それらをうけての1987年調査でした。
 資料綴りの4枚目に、1980年社全協調査研究部報告書(128頁)の、前書きと目次の部分を収録しています。この頁の末尾に「調査研究部資料刊行スタッフ」を掲げています。懐かしいものです。まあ、お互い手弁当でね、私のような大学の研究者もいれば、当時は東京や相模原や、また茅ヶ崎の人もいますが、大半は川崎の方々であります。亡くなられた高須さんなど忘れがたい人でした。こういう方々と、意気投合するわけです。
 社全協の運動はとかく農村・中小都市を舞台とするかたちで展開してきた傾向があります。大都市の社会教育関係者の参加者も相対的に少なく、また大都市についての基礎的なデータがない、という課題もはっきりしてくる。そこに北九州や福岡の公民館合理化問題が浮上してくるのです。
 この両都市に共通しているのは、戦後初期から福岡県の公民館奨励策を背景にして、地域公民館を計画的に設置してきたというところです。しかし都市として人口が増大し、この両都市が1960年代にそれぞれ政令指定都市に「昇格」することによって、地域公民館の体制をもたない他の先発・政令指定都市と横ならびのようなかたちで、公民館制度をかえって解体・縮小する方向が出てきた。それが北九州市では教育文化事業団委託であり、また福岡の場合には公民館主事の引き上げ・嘱託化でした。この「合理化」施策は、市民や職員等の反対にもかかわらず、いわば「強行」されるわけです(1976〜77年)。いったい政令指定都市とはなにか、社会教育にとって大都市とはなにか、戦後それぞれに蓄積してきた地域公民館体制を解体することなのか、せっかく配置してきた専任職員を嘱託化することなのか。それとの関連で、他の政令指定都市の状況をもっと知る必要がある、そんな疑問、そして課題がはっきりしてくるのです。
 福岡市の場合は、政令指定都市に昇格することによって、当初の5つの区(現在は7区)に各1館の市民センターなるものをつくって、在来の小学校区配置の地域公民館から専任職員をすべて引き上げる、あとは地元雇いの嘱託職員を配置する、という結末になりました。大都市にはあたかも公民館はいらない、専任主事は不要だ、という論理ですね。私たちの「大都市こそ地域の施設が必要だ」「大都市社会教育の公的条件整備の低水準をあげていくべき」というような主張は宙にうくわけです。
 いったい日本の大都市は、自治体として、いかなる社会教育を自治的に生み出してきたのだろう。それは地域の公的な社会教育施設を解体することではないはずだ。原理的には政令で指定されることにより、都道府県レベルにならんで大都市としての自治権を拡大できるはずなのに、現実はそうではない。公民館をもたない横浜とか、横浜だけではない、名古屋も、京都も大阪も、神戸も、東京23区も含めて、日本の主要大都市は地域社会教育施設を制度としてほとんど整備してこなかったわけですね。それぞれ自治的というより、きわめて画一的。そこに新しいセンターをビルドする、しかし一方で地域施設をスクラップする、それも類似している。いったい社会教育にとっての大都市とはなにか、みんなで調べてみよう、そんな問題意識から政令指定都市・社会教育調査が取り組まれることになったわけでしょう。

 はじめての大都市社会教育の横断的調査
 1978年の「社会教育施設をめぐる状況」「政令指定都市の社会教育調査」の報告は画期的な内容でした。私たちはそれまで政令指定都市の社会教育についての基礎的データーをもたなかった。この原資料は、もしかしするともうお手元にはないかもしれませんが、これにつづく1980年の第2次「政令指定都市の社会教育」調査とともに、きわめて重要なものです。私どもは研究者として準備段階で参画いたしましたが、実際の作業は、すべて川崎市社会教育関係者、教育支部・自治研活動に結集された皆さんが担われた。自治体労働者としての志のある仕事です。これらの方々にあらためて敬意を表したいと思います。
 調査資料はコピーしてもってこようかと思ったんですが、省略させていただきました。そのうち、20年を経過した段階であらためて調査活動などを企画するとき、比較のため復刻してはどうか、と思います。さきほど触れましたように、日本の大都市社会教育の全般的な貧困のレベル、そして各都市間の水準の格差。たとえば当時名古屋がほぼ各区に図書館を整備していた段階で、京都は市として一館も図書館を持たない、というような現実。福岡は古い歴史のなかで公民館を100前後もっている、いま140前後ですか、もっている。一方では他の都市は公民館をもたない、もたないことが都市としてあたかも現代的であるかのごとき認識が横行している。
貴重なデーターというのは、たとえば3枚目の目次の中の「職員一人当たり市民サービス人口」とか、目次の後ろの方の「市民一人当たりの社会教育費の実態」などを単純に計算して数値で出しますと、まあ、「うーん」とうなるような格差の数字がでるわけです。ある市と別の市の社会教育職員と市民との関係は、格段に違うんですね。市民一人当たりの社会教育費の実態は、失礼ですが、一番低いのは京都です。いや当時、そうでありました。今はどうでしょうか、わかりません。その次は横浜です。高いところは当時の福岡です。平均でだいたい一人当たり2,000円ぐらいの社会教育費でありましょうが、多い福岡では4,000円を超えているのに、低いところでは400円、あるいはそれ以下ですね。10分の1以上の格差です。もちろん費目の取り方などで数値は違ってくるところがあると思いますが、やはり統計的分析による客観的なデーターが示すものは重要です。
 こういうデータをお互いに共有していく必要がある。低いところに行政サービスをおとしめるのではなくて、一定の市民サービスというものを、当時はシビルミニマムという言葉がありましたが、ミニマムに実現していくような、そういう自治体運動、その基礎データーと理論枠組を創り出していく必要がある。あらためて20年を経過した現段階で、大都市社会教育・生涯学習に関する横断的調査を実施できないか。そういう基礎データーを新しく作ろうではないか、新たな大都市・実態調査を、と期待したいところですね。

 集いへの思い、ねらい、その初心
 すこし話がながくなりましたが、私自身の回想としても、この調査活動は、私たちの「集い」を発足させることの意義に確信を与えてくれました。1978年調査(第1次)は伊藤長和、古橋富美雄さんたちによって、同年の日本社会教育学会に報告されました。その点で、あらためて社全協調査研究部の役割についても、資料など含め、お話したわけです。 しかし、社全協というのでは、多少、まだお互いにミスコミュニケーションがございますので、学会の研究組織をブリッジにして、学会の研究者集団と自治労大都市教育支部連絡会の皆さんと一緒に、研究交流活動をやっていこうと、まあ、そういう出発があったわけです。
 この点を小川利夫さんは、手書きのメッセージにもあるように「日本型WEA」という表現で独自の意味を指摘されました。資料綴でも5枚目に第2回集いの「月刊社会教育」に掲載された報告を入れておきました。執筆者は若き末本さん、後ろの肩書きを見ますと、当時はまだ東京大学大学院ですね。神戸市職の方々に協力していただいて有馬温泉で第2回の集いが開かれたときのことでした。小川利夫さんが「まとめ」の話のなかで、この集いを日本型WEAだとおっしゃった。つまり、イギリスの伝統的な成人教育の、労働組合と大学との協同的なパートナーシップになぞらえて、この集いの積極的な意義と期待を言われたのでしょう。
 月刊社会教育のレポートの最後に、末本さんが書いておりますが、「討議の散漫さの方にばかり気持ちが向いていた」けれども、「これ(日本型WEA)を聞いてにわかに元気づけれ」「来年の再会を確認して別れた」とあります。
 今日の論議も散漫とお感じの方もありましょうが、だいたいこういう論議は、錯綜し、また散漫なところもあるものでしょう。いつも課題が残って、そんなにきちんと結論が出て終わるという具合にはならない、ですから妙な余韻が残りまして、だからまた来年も会おう、ということになるのかな、とまあ、勝手なことを言っておりますが…(笑)。
 私のレジュメ(1)のまとめとして、この集いの「背景とねらい」を書いておきました。内容はもうお話ししましたので、ポイントだけにとどめますが、4点です。
 一つは、大都市社会教育研究の空白を埋めていこうということ。社会教育の理論的研究や、あるいは実践・運動のなかでいろんなテーゼ、たとえば枚方テーゼ、下伊那テーゼなどの提起にしても、農村・中小都市中心の社会教育論であった。大都市の固有の実態と課題を明らかにしていく必要がある、ということです。
 第二は、とくに福岡や北九州の問題に典型的に現れてきた公民館などの委託・合理化問題、大都市の社会教育の厳しい動きについての実態把握と分析の課題。この集いはまさにこの両都市の委託・職員嘱託化問題に刺激されて始まったようなものです。これらの問題をどう考えるか、これにどう対抗していくか、市民の、地域の、社会教育の蓄積と発展にとって、どのような方向こそが目ざされなければならないか、を各自治体の現実に即して明らかにしていこうと。
 三番目に、集いの組織論、運営論に関することですが、前にもふれた運動的「交流」を拡げていこう、その積極的な意義を重視していく。研究集会はいろいろあるけれども、なんとお互いの、横の交流がないことか。交流については大きく二つです。一つは言うまでもなく研究者と自治体職員・労働運動を担っている皆さんとの交流、もう一つは、各自治体間の社会教育運動の交流です。自治体の労働運動としては大都市教育支部連絡会がありますが、研究と結びついて、自治体間の交流の流れを創り出す必要がある。たとえば財団委託問題などでは、当局側はかなり豊富な情報交流をやっておるのですね。北九州ではこうだ、福岡ではこうだったと、じゃあ京都ではどうするか、あるいは名古屋では一元化をどうするか、というふうにね。どこかに司令塔があるんじゃないかと思われるくらい政策的な「交流」があるのに、運動の側では、あるようでない、いや、あるんでしょうけれどもね、有効な研究や情報の共有ができていない。大学の研究者集団も加わって、研究と交流の「集い」を始めようということになったのです。
 お互いに疲れ果てるときもあろう、展望が見えないときもある。そんなとき智恵と教訓を出しあって、情報やデーターを交流しあって、元気を出してやっていこうではないか。お互いの励まし合いを一つの大事な目的にしようと考えてきたと思います。

 社会教育運動における労働組合の役割
 あと一つは、社会教育運動の中で労働組合が、どういう役割を果たしうるのかということです。日本の社会教育運動の特徴は、前にもふれたように、だいたい農村や中小都市の自治体を中心に、主として地域レベルで、むしろ住民運動の役割が注目されてきた。それに個別に社会教育職員が連帯をしていくというようなかたちですね。そういいうなかで非常に印象的だったのは、福岡や北九州が委託・合理化問題で闘ったときには自治体の労働組合が重要な役割を果たしてきた。
 つまり中小都市では見られない運動の構図がある。中小都市・職員労働組合では教育支部のような組織をもたないけれども、大都市では、教育問題が自治体労働運動一般に埋没されないで、教育支部という固有の組織が、独自の運動課題として、社会教育施策や職員問題について当局と交渉し、協議し、政策なり方針を確定していく。そういう蓄積や展望が創り出されてきたのですね。たとえば大阪の例では、当局案の図書館委託問題を跳ね返してきた経過がある。当時私たちは全く大阪の方々を知りませんでした。それだけに後で教育支部の当局との協議資料などを見せていただいて、なるほど、労働組合がこういう力をもっているのかと教えられるところがありました。
 日本の自治体労働運動では、運動方針として社会教育の認識はきわめて微弱なのですね。たとえばこの集いの初期の頃、当時の自治労の運動方針や自治研活動のなかには社会教育についての運動論や課題提起は皆無といってよいでしょう。大都市教育支部連絡協議会の皆さんの努力で、当時「地域生活圏闘争」の課題のなかに社会教育が位置づけられるというのが最初でしょうか。その後、自治労本部への働きかけにより、あとでふれる「地域・自治体の社会教育はどうあるべきかー七つの提言」の作成・刊行がおこなわれた。この自治体労働運動の課題として社会教育の問題を位置づけていこう、という取り組みはなかなか面白いものがあったと思います。あのときは自治労の政策局長なんかも見えて、その成果が「20年の歩み」一覧表の1986年・第9回の「七つの提言」に結びつくわけです。その後この集いの会場を自治労会館でやったりしながら、E.ゼルピ招聘に一役かってもらったり、自治体労働運動の中に社会教育を、さらに言えば「生涯学習」の課題も加えて、取り組んでいこうという努力があったわけですね。
 関連して、思い出しましたので加えますと、1974年当時、ILOが「有給教育休暇条約」を国際的に採択をするわけです。この会議に日本政府も入っていますが、きわめて消極的な対応でしかない。この問題は社会教育あるいは生涯学習に関連するきわめて重要な
課題なのですね。はじめ日本政府はこれに反対したと記憶していますが、しかし用語などを調整して、その後ILOの国際的な条約として採択されるわけです。日本政府は現在でもこれを批准していませんけれども、このような問題について、なぜ総評や、あるいは連合など日本の労働運動は取り組まないのか。たとえば労働省と協議するとか、国民的なキャンペーンを展開するとか、などというようなことを当時の総評の人たちとずいぶん議論したことがあります。
 ヨーロッパでは、有給教育休暇条約にいたる過程では、労働組合が政策提起し、重要な役割を果たしてきている。日本では、まずこういう労働時間や休暇問題が社会教育ないし生涯教育に関連する問題であることの認識が弱い。それだけに労働運動の側が、運動的なテーマとして打ち出して、労働者の立場から具体的なかたちでその制度の実現をめざしていく必要があるのではないでしょうか。総体的に、労働運動がこのような政策編成に力量を発揮できず、大きく国の政策決定の枠のなかに埋没させられて、それを下に受けとめる、「反対」の意志表示はあっても、積極的な政策提起が弱いのですね。カウンター・パーツとして、労働運動の立場から、職業訓練・労働者教育や社会教育・文化政策というような問題に対しても、積極的に政策提起をきちんとやっていってほしい。そういう構図と力量を創り出す上で、この自治体労働運動のなかでも、とくに私たちの「集い」が一つの役割を果たすことが出来ないものか、と考えるのです。

 実際に取り組んできたこと―20年の歳月のなかで
 この20年を振りかえって、私たちはどんな道を歩いてきたのでしょうか。労働組合の学習会でもなく、学会の研究会でもない、しかしそれらの性格を併せもって、かなり複雑な、相当に曖昧な「集い」を20年間続けてきたのです。複雑な時代には複雑な視点でものを見る必要があるし、曖昧ということは、一面的ではなく多元的な人々の出会いと交流を可能にする側面もあったのではないか。私たちの集いで取り組んできたこと、レジメにも書いていますが、6点ほどに絞って申しあげたいと思います。
 まず第1は、毎年、2日間の「研究」と「交流」の集いをもってきたこと、この「集い」それ自体です。とくに、多少繰り返しになりますが、お互い各都市の「交流」を大事にしてきた。各都市の動向・状況、その年の新しい展開・課題を報告しあう、交流しあってきたのです。そこに出てきている問題を、認識の違いはあっても、つねに意見の一致を見なくてもいいから、しかしお互いが抱えている共通の問題として共有しあう、そんな作業を20年繰り返してきた、と思います。
 毎年の集いの第1日目、午後の「各都市からの報告」がどんなに貴重であったことか。うっかりするとセレモニーになりかねない、しかし各都市からのそれぞれの報告は、いつも短い時間でしたが、充実したひとときでした。問題の共有というお互いの意識があったからでしょう。1981年に「京都市社会教育振興財団をめぐって」の報告を聞きましたが、その次か次の集いで京都の財団職員の方々が、図書館司書の方だったと記憶していますが、労働組合づくりの話をされたんですね。財団職員の労働組合づくりの報告は、私など実に新鮮にうかがいました。私だけではない、その場にいた姉崎さんが、その話を聞いて「この集いにでてよかった」と言ったことを覚えていますが、他の集会では聞けない刺激的な報告でした。
 各都市でどんなことが起こっているのかということを、資料を含めてここに報告しあう、その報告をなによりも聞きたいと思ってきました。しかし第1日目のこの時間帯はまだ日本社会教育学会の最終日、「宿題研究」の時間帯です。学会というのはだいたい午後4時ぐらいまで正規のプログラムがあるんですね。だから、お昼過ぎから私ども数人は学会を抜けてこちらに馳せ参じますと、当時の学会会長、小川利夫先生から怒られましてね、「おまえたちは学会を抜け出して」「学会にいろ」と叱られました。第14回の群馬大会のときは、夜、そのことで小川・小林の大論争になり、酒が入ったせいもあって、あまりの大声に、同宿した日本教育新聞Y記者など驚いていました。会長を辞められると自分が先にこられたのではないか(笑)。いや、そうではないかも知れませんが、各都市報告は、研究者にとっていつも聞きのがせないものでした。
 第2の取り組み。この集いは、発足のきっかけが北九州・福岡の委託・合理化問題であったこともあり、大都市社会教育がかかえる厳しい現実、その認識を深め共有する、という問題意識が主でした。危機的な状況をお互い認めざるをえない、なかなか大変なことだ、ということですね。しかし回を重ねていくごとに、そういう厳しい側面だけではなくて、大都市だからこそもつ可能性、そういう視点から大都市社会教育の展望を見る姿勢が少しずつ芽生えてきたんじゃないでしょうか。中小都市とは異なる、やはり大きな自治体がもつ力量、職員体制、あるいは教育支部という労働組合の役割の発見ですね、新しい見方で事態をとらえかえす「再発見」の視点が少しずつこの集会の中では芽生えてきたのですね。
 20年の歩み一覧表からそれを読みとっていただければ有り難い。「主な討議内容」の流れは、「厳しい事実認識」と「新しい可能性」の二つの側面が入り交じっているのですね。たとえば、第1回は政令指定都市調査報告、これは「厳しい現実」の認識です。第2回の有馬では、神戸市の学校公園構想を出していただいた。これは中小都市にはない、大都市的な動きなのですね。あるいは名古屋の図書館のネットワーク、それから、当時の川崎・社会教育委員会議の水準の高い社会教育計画、あるいは大阪市の社会教育行政の指針など、そういう大都市的な「新しい可能性」をずっと追っかけてきたのです。
 特にこの1980年代後半から90年代になりますと、各都市から生涯学習計画の動きが報告されました。横浜が一番早い時期に報告されたように思いますが、相ついで川崎の報告があって、地域の校区組織の積極的な位置づけが示された。校区の問題は、福岡ではむしろ古い体制として論議されてきた経過がありますが、川崎では大都市における校区からの教育改革という新しいメッセージが出されてきた。現在はそれが「地域教育会議」や、学校区ごとの「子ども文化センター」の機能や地域レベルの社会教育施設設置を含めて、あるいは「ふれあい館」の活動とか、大都市的状況のなかでの地域からの計画論など、そういう可能性の側面をお互いに追求していこう、そういう視点が加わってきたように思います。

 大都市の先進性―良くも悪くも
 レジメでは少し先の(3)のところに、大都市というのは「良くも悪くも先進的」と書いていますが、やはり大都市に先に動きが出てくる。国の政策や都市経営論などが、大都市にスーっと現れてくる。たとえば公民館の委託・合理化や職員の嘱託化などそうです。しかし同時に、自治体独自の施策や運動など、新しい動きが先進的に現れてくることも見逃せない。中小都市にはない大都市の特性です。その場合、どこを「厳しい現実」ととらえ、なにを「新しい先進性」とみるか、だいじな「先進性」をしっかり注目していく、その視点をお互いにとぎすましていく必要があるだろうと。この大都市社会教育の可能性、先進性をとらえる目を、私たちは鍛えられてきたように思います。
 そのような立場から、この集いの前半では、第3の取り組みとして、とくに次の二つの課題が積極的に取りあげられてきました。一つは、大都市社会教育の現実の客観的な把握、調査活動です。あと一つは「大都市社会教育テーゼづくり」の作業でした。1981年の集いで提起され、1986年の集いで報告されるまで、5年にわたる取り組みでした。
 大都市社会教育実態調査は、この集いが発足する土台にあったもので、すでにその経過は前に詳しくのべました。あらためて集いに参集する各都市労働組合の協力を得て、幹事都市の川崎と、当時私が勤務していた東京学芸大学社会教育研究室が協力するかたちで、いわば東日本グループで調査活動のまとめがおこなわれました。その結果が、第6回の集いで「大都市社会教育をめぐる状況―政令指定都市社会教育実態調査報告書」(1983)として、自治労出版物のかたちで刊行されます。
 その「はじめに」「目次」を資料綴りの9枚目に収録しておきました。調査報告の内容は、各都市社会教育の諸統計の比較分析がかなり詳細にまとめられたものです。図書館・博物館の分析も含まれています。つまり私たちは「集い」として、1978年及び1980年段階の資料・データと、1983年のデータをもっているわけです。それから15年、すでに20年を経過して、今いったいどんな状況であるのか、新しい段階での調査をお互いに取り組んでいく課題もみえてきた、そういう時期ではないでしょうか。それぞれに厳しい組合の仕事があり、研究者もいろいろと仕事に追われて、そこまでいかないということでありますが、これまでの蓄積とこの集いの力量をいかして、課題として考えてみたいところです。
 1983年の調査報告「大都市社会教育をめぐる状況」は、いまや貴重な文献になりました。自治労の組織も衣替え、この種の資料は、もともと市販されるものではありませんので、この冊子がもし組合のどこか隅っこにありましたら、大事にしていただきたいと思います。こういう文献は一般にはもう姿を消してしまいましたので。こんごの調査・研究のベースにしていければと願っています。

 大都市社会教育テーゼの試み
 あと一つの取り組みは、幹事都市の大阪と、名古屋大学社会教育研究室が協力して、「大都市社会教育行政のあり方」いわゆる「大都市テーゼ」づくりへの挑戦でした。つまり西日本グループの作業です。資料綴りの6,7,8枚目及び10枚目がそれに関連するものです。大阪の皆さんと、名古屋大学教授・小川利夫先生と、その当時の若き姉崎洋一さんと、いま若くないんですけれども、少ししつこくいっておりますが(笑)、この二人でかなり執筆をされたようでありますが、社会教育行政の「あり方」「どうあるべきか」「どう改めるか」など提起されてきました。
 「大都市社会教育行政のあり方を求めて−第一次草案−」は第5回の集い(1982年)に報告され、議論されました。この年には私も「大都市社会教育テーゼの提唱」の一文を草し、この報告書のなかに収録していただきました(資料綴り8枚目)。「第一次草案」はさらに東日本グループによる実態調査をも活用して、「第二次草案」(1986年)に発展します。時間の関係で、細かな議論の経過は省略いたしますが、これらの作業がベースになって、第9回の集い(1986年)に「地域自治体の社会教育(学習・文化・スポーツ活動)はどうあるべきか−臨調行革・臨教審下の七つの緊急提言−」がまとめられることになります。この報告書は「全日本自治団体労働組合」として刊行され、自治労委員長の丸山康雄氏が「発刊にあたって」を書いています。その「七つの緊急提言」は資料綴りの後ろの三枚に収録しておきました。
 当時のいわゆる中曽根・行政改革と教育改革の政策が連動して、「臨時行政調査会」と「臨時教育会議」が洪水のように答申を出し、ある種の危機感があり、「緊急提言」という表現になったと記憶しています。しかし作業は付け焼き刃ではなく、1980年代からのこの「集い」の論議や調査の蓄積が基礎にありました。
 時間があれば、いろんなエピソードを紹介したいところですが、残念です。ところは東京・四谷のある旅館、小川さんと私、それに北条さんを中心とする川崎の皆さん、ここにおられる高畠正昌さんがおそらく一番若いメンバーでした。みなで分担して、徹夜気味で原稿を書き、推敲しあって、この七つの提言になったわけです。俗に「四谷会談」と言います。「人は誰しも太陽の光に浴し、きれいな空気を吸い……」で始まる「学習権」への思いは、思い出深い文章となりました。
 この翌年、1987年に私たちはユネスコのE.ゼルピを招聘しましたが、ゼルピを通して世界にも発信しようというわけで、「七つの宣言」は英訳されました。このあたりのことは、お手元の小川利夫さんのメッセージの中にも言及されています。小川メッセージの4枚目の終わりのところ。しかしゼルピは、これにあまり積極的な評価を与えませんでした。日本の社会教育については、とくに運動的・実践的文書が、ユネスコをはじめとして、あまり海外に紹介されたものはなく、それだけにこれが論議になっていくことが期待されていただけに、失望したことを憶えています。
 「七つの宣言」「大都市社会教育テーゼ」の試みは、社会教育推進全国協議会編『社会教育・生涯学習ハンドブック』(1989年)にも収録されました。しかし、このあたりから「生涯学習体制への移行」や「生涯学習振興整備法」制定の動きが激しく、時代はさらに新しい段階へ動いていく。大都市の社会教育ないし生涯学習をめぐる「あり方」論も、その時代の変化に対応して、さらにあと一段、ステップ・アップしていく必要があるのでしょう。

 E.ゼルピ招聘、そして中国へ
 取り組みの第4は、いま申し上げたE.ゼルピの招聘です。ご承知のように、ゼルピはユネスコの運動のなかでも、第三世界の立場を大事にして、積極的に生涯教育論を展開してきた人です。1980年代とくにその後半は、国の生涯学習政策が異様なかたちで上から下ろされてくる状況があって、それに対抗するキーワードとして第4回世界成人教育会議(パリ)で採択された「学習権」宣言(1985年)に注目があつまっていました。ユネスコでは、P.フレィレとともに、その生涯教育論などからみて、ゼルピなどはこの宣言にも主要な役割を果たしてきたのではないか、学習権に根ざす国際的に通用する生涯教育・生涯学習論への期待のなかから、E.ゼルピ招聘の計画がもちあがったのです。
 ゼルピ招聘に大きな役割を果たされるのは、海老原治善さんです。関西大学から当時は東京学芸大学教授、私と同僚でした。海老原・前平泰志訳『生涯教育−抑圧と解放の弁証法』というゼルピの本の貴重な紹介があります。生涯教育をどう考えるか、「抑圧と解放」の矛盾論のなかでとらえようとする視点は、非常に新鮮でありました。つまり、生涯教育、生涯学習をバラ色にだけ描くのではなくて、それが抑圧的な側面を含んでいること、人間的な解放の方向性をもって、いわば民衆の立場に立って生涯教育というものをどう構想していくか、「自己決定学習」などというキーワードをどう具体化していくか。そういうところに、私たちの集いに、ゼルピを呼ぼう、という呼びかけがあったのです。
 この提案をした海老原治善さんは、いま病床でございますが、当時はまったく精力的に仕事をしておられました。日本教育学会や日本社会教育学会にも呼びかけ、一緒に協力しながら、計画を進めました。
 忘れもしません、第9回の集い、1986年9月15日にこの集いが終わった午後、市ヶ谷の自治労会館のそばの小さなレストランで、ビールを飲んで「ご苦労さん」といっているときに、海老原さんから「ゼルピを呼ぼう!」という話が持ちあがりました。この席には幹事都市の方のほか、小川、藤岡、それに私などがいました。歴史はビールから始まる、という一つの例でございますけど(笑)、ゼルピ招聘計画が具体化していったわけです。自治労大都市教育支部連絡会にご参加の各都市から負担金も出していただいた。学会は金がありませんから、名前を出す、招聘状を出す(笑)。各都市でそれぞれ分担をしていただき、面白い講演会を全国的に組織いたしました。最後にゼルピは沖縄まで動き、嘉手納基地をとり囲む「人間の鎖」にも加わってもらいました。
 いまでもゼルピを招いた都市では思い出が残っていますね。福岡でも、大阪でも、川崎でも、沖縄でも、そうです。ゼルピはやっぱりいい話をするんですね、そしてエネルギッシュに議論をする人なんですね。ゼルピ招聘の記録は、幸いに一冊の本にまとめられて出版されました。E.ゼルピ・海老原治善共編『生涯教育のアイデンティティ』(エイデル研究所、1988年)です。ゼルピのスピーチもすべてその中に収録され、また各都市関係者の方々の報告もございますので、是非一度眼をとおしていただきたい。この本は、この大都市社会教育・研究と交流の集い、が創り出した本と言ってもよいと思います。
 このころは、国の内側、また自分たちの自治体の内側を見る眼と同時に、少し外を見ようというような、そういう視野の広がりが急速に増幅していった時期でした。ユネスコのE.ゼルピ招聘がそうでした。そして、中国や韓国との大都市間の交流についても、この頃から関心が胎芽していきました。各都市もアジアの諸都市と交流をもつようになり、また私たち研究者も、欧米研究に加えて、アジア研究の視点をもたざるを得ない状況が増えてきました。それが第5の取り組み、中国への視察団の派遣となって具体化するのです。
 「中国教育文化事情視察団」を組織し、中国への旅を企画しようというのも、ちょっとした話のはずみからだったと思いますが、意識のなかでは、海の外への関心、東アジアへのまなざし、が底流にあったのです。この視察団の団長は海老原さん、副団長が私、大阪、川崎、横浜、神戸などの各都市から参加がありました。研究者では、当時は弘前の若い上野景三さんが同行しました。総勢15名。1989年春、時あたかも中国では天安門事件の直前、東欧では社会主義体制の崩壊の年でした。今日のご出席のなかにも、4、5人、このときのメンバーがいらっしゃるようですが、思い出にのこる旅でした。川崎は潘陽と姉妹都市、大阪は上海と姉妹都市というような関係もありまして、東アジア大都市間の社会教育(中国では成人教育)関係者の新しい交流がここで始まったと思います。ただし、残念ながら、この訪中団について記録はまとめられませんでした。

 第2サイクルへ、路線をこえて… 
 第6の取り組み。ここで「第2サイクルへ」といいますのは、20年の歩み一覧表を見ていただきますと、1992年から93年にかけて、一つの大きな転換があり、それとの対応で「集い」のもち方も新しい段階に移行することになります。その背景には、総評から連合(1989年)へ、自治労と自治労連の二つの流れ、などが背景にあります。そしてこのような組合組織間の状況のもとでは、自治労大都市教育支部連絡会そのものが主体として「集い」を呼びかけるには、すこし無理がある。むしろ社会教育学会がブリッジになって、学会会員が有志として各都市へ「集い」の案内を出すようにしてはどうか、ということになりました。組合そのものでは、路線問題から参加できない場合もある、というわけです。そんな問題が1993年の第15回鹿児島集会あたりから出てきて、研究者相互でも論議し、また私としては川崎や横浜の方々と協議しまして、第2サイクルとしての方向が生まれたのです。
 この時期は、いわゆるバブル経済が崩壊し、国の「生涯学習振興整備法」(1990年)に象徴される政策の混迷もあり、大都市の自治体としての社会教育・生涯学習の新たな課題なり展望が、あらためて切実に追求されていたときでした。大都市の生涯学習計画づくり、あらたな委託・合理化問題、学校のリニューアル、地域の国際化と識字実践などなどの諸問題、あるいは仙台や千葉の政令指定都市化にともなう動き、そして1995年に入ると、神戸・阪神地区の大災害など、課題はつねに新しく生起してくる。組合運動として、たしかに路線問題があるが、路線をこえて、大都市固有の社会教育・生涯学習のあり方についての研究と交流を継続していく必要もまた痛感されたと思います。
 第16回の集いから、名称を「政令指定都市の社会教育・研究と交流の集い」から、「大都市」に変えました。それまで「政令指定都市」として集まってきましたから、東京はいつも客分になるわけです。東京の重要な問題が抜けてしまう。といっても、20年の歩みの初期の段階から都職労・教育支部には参加をお願いし、実際に金田さんなど東京からほとんど毎回参加していただいたのです。また何度も都・教育支部の活動の歴史や、財団問題についての協定書などについても報告していただいた経過があります。やはり一緒に入っていただこう、政令指定都市問題も含めて、「大都市」研究と交流、に取り組んでいこう、ということになったわけです。
 学会メンバーが一応の世話人となり、自治労、自治労連の大都市教育支部の皆さんに呼びかける、学会の会員にも案内を出す、そういうスタイルに変わって、第2サイクルの数年が経過しました。お互いそれぞれの組合運動の歴史があり、組合としての立場があります。しかし、それぞれの路線に違いはありながら、大都市のもつ社会教育固有の問題は共通して切実に存在し、かつまた新しく激しく、つねに生成されてくる。そのような共通する問題を、緩やかに、お互いにですね、路線を超えて交流し、共有しあう、必要な論議はたたかわしていこう、そういう場を失うことがあってはならないだろう、と思います。研究と交流、その継続と発展、あらためて初心をふりかえり、そして今後どういう方向に発展させていくか、大都市としての社会教育・生涯学習の政策論をどう構築していくか、などを考えあっていきたい。
 
 新たな課題を―いま新しい計画化の時代
 予定の時間が大幅に過ぎてしまいまして、司会の上野さんが「そろそろやめろ」という顔をしておりますので、ここでやめたいのでありますが、最後の、これからの課題について、あと項目だけ申しあげて終わることにいたします。
 レジメに、これからの課題として7点だけ掲げておきました。
 まず第一は、大都市が自治体としてつくり出してきた社会教育計画、あるいは生涯学習計画、その推進構想や実施計画等の相互検証です。この間、1980年代後半から90年代は各都市でたくさんの計画が作られました。計画がこれほど世に出た時代はこれまでにないのではないか。「計画の時代」の到来ですね。いま各都市が社会教育・生涯学習に関連してなんらかの計画をもっている。それぞれに自治体の個別の経過があり、内容的にも固有の違いがあり、たしかに一面的ではない。それはまた自治的な計画化を示している。それらをこの集いで、総合的に分析検討してみる課題があるのではないでしょうか。
 国の生涯学習政策との関連や異同、自治体計画としての独自性はなにか、主権者たる市民の立場がどのように活かされているか、職員や労働組合の参画はどうか、福祉や労働などの関連行政との位置づけ、地域・区の計画論、社会的少数者の問題など、たくさんの検討課題が含まれている。あるいはまた、ペーパーの上ではいいプランが書かれたけれど現実には全く動かない計画もありましょう。「青い鳥は足もとに、新しい風、○○生涯学習計画」などという、いい内容が出来あがりましたが、あとはまったく「青い鳥」は羽ばたかない(笑)、というジレンマもあります。お互い共通の問題も少なくないのですね。
 しかし、なによりも自治体として計画をつくっていこうという流れ、そのエネルギー、自治的な力量が明らかに蓄積されてきている。それが生涯学習や老人福祉などの計画化として示されている。この間のそういう歩みは注目されていいと思うのです。ここ10年の大都市・自治体に共通にみられる計画づくりの蓄積を土台にして、それらの相互検証、新たな計画づくりへの政策提起など試みることはできないか。こういう作業は、これまでの大都市テーゼづくりの努力を継承し発展させていくことでありましょうし、「学習権」理念の実践的な計画化とも言えるのではないでしょうか。
 第二は、公的社会教育の委託・合理化問題、その経過と実態の実証的な分析です。北九州と福岡の財団委託や公民館主事嘱託化から20年が経過しました。とりあげる時間がありませんでしたが、東京の教育振興財団問題から10年です。各都市でもなんらかの委託が進行し財団・事業団が発足してほぼそんな歳月が過ぎているのではないでしょうか。東京では、教育支部と当局との間で水準の高い協定書(1985年)が交わさ、この集いでも数度にわたって論議してきましたが、それからの10余年、この間に実際にはどんな事態が動いてきたのでしょうか。かって提起されてきた憂慮すべきこと、仮説的に出された問題などが現実にはどのように推移してきたのか。私たちの「集い」はこの問題を真正面から取りあげてきただけに、その後の経過を分析しこれからの課題を提起する責任もあれば、また力量ももっているはずです。
 いわゆる委託合理化問題は、10年ないし20年が経過して、今また新しく公社とか事業団が始動しはじめている。たとえば広島の「ひと・まちネットワーク」など、従来型のものとは異なる装置をもっているように思われます。単なる財政削減のための暗い事業団というより、「おやっ」と思うような動き方をしている。若い職員も採用しているのですね。今回の日本社会教育学会で九州大学の石井山竜平君が、これまでの動きと「少し違うぞ」という報告をしましたね、私はそこに注目しているんですが、このような新しい動きをしっかり捉えて行く必要があります。その意味で、あらためて大都市の社会教育と生涯学習の実態調査に取り組んでいく、いや、継続的に自らの足元を調査し確かめていくことを期待したいのです。これまでの横断的な調査分析に重ねて、いま、時間的経過の軸をたてて、いわば縦断的に分析検討していくことも可能でありましょう。

 職員集団と学習権保障
 第三には、社会教育をめぐる人的な体制について、とくにこの間に職員集団の実態が大きく変化し、多様化してきています。実際の状況をふまえて、その実態と課題を明らかにしていく必要がありましよう。職員体制は、明らかに一枚岩ではなくなってきた。この20年の間の変容をしっかりと見つめる必要がある。そこには行革路線の影響があり、また人事管理の強化もあり、全般的に施設の増加に対比して、職員集団は相対的に縮小かつ流動傾向にあり、配置転換も頻繁におこなわれ、職場の勤務年数は短くなってきた。社会教育職員の専門性や専任性が単純に拡充されるという状況ではなくなってきています。
 他方で、財団雇用の職員や、派遣職員や、また嘱託職員や、パートの指導員や、あるいはボランティア活用などが複雑にからみあっている。そのような実態を前提にして、職員集団・職場集団論を組み立てていかなければ、職員論の構築も空論に終わらないとも限らないのです。
 同時にまた、週休2日制にともなう労働時間・条件の変化もあって、社会教育・生涯学習の現場は厳しく、相対的にみて3K職場という人さえいます。しかも首長によっては、サービス向上をうたって短絡的に「年中無休」を唱えたりする。やはりこれからの課題として、基本的に職場を面白く楽しいものにしていかなければならない。そういう状況と変化に対応して、市民の立場にたって職員集団をどう確保し、職場をどう充実していくかが問われているのです。
 職員集団の多様な構成をトータルに見ながら、新しく職場集団をつくっていく視点が必要でしょう。これまで、組合の立場でいいますと「嘱託化反対」「財団化反対」をテーマにしてきた。それはつまり、公的な行政サービスをきちんとする立場、条件整備論の充実の課題から言って、当然のことでありました。しかし実際に委託や嘱託化が実施されていく場合、同じ職場に財団職員や嘱託職員が多様に配置される事態が生まれてきている。そういう事実をふまえれば、簡単なスローガンだけでは対応できない。たとえば、福岡には140人の公民館嘱託主事さんが働き、実際に公民館実践を担っているのですね。都市によっては、いまや財団や嘱託の職員がむし主流になっているところもありましょうか。そういう現実からすれば、「嘱託化反対」がそのまま「嘱託職員反対」とはなり得ないし、なってはいけないのです。
 嘱託職員や非常勤・臨時職員の不安定な位置づけ、あるいは多くは劣悪な労働条件の中で呻吟している財団職員などの問題を含めて、職員集団のあり方を、新しい視点から、考えていく。新しい発想が求められている。自治体の社会教育行政・施設を担う職場、職員体制のこれからの展望をどう描くか、重要な課題なのです。
 第四として、いわゆる「被差別」「社会的弱者」「マイノリティ」といわれる人たちの学習権保障をどう実現していくかという課題があります。この問題は、私たちの集いの20年の間に、実践的には大きな前進があると思います。社会福祉の課題としてだけでなく、社会教育・生涯学習の領域でこれまでにない拡がりがある。実践的にも、運動的にも、大きな飛躍があると思います。
 たとえば識字実践は、従来まで西日本や大阪の被差別部落の同和・識字学級のなかだけで取り組まれてきた。しかしいま川崎や東京で、とくに1990年国際識字年を契機として、そのほかの都市でも、いわゆる外国籍市民の日本語教室、そういう意味での識字学級が急速に増えてきました。川崎では「ふれあい館」など在日韓国・朝鮮人の皆さんが積極的に参画する新しい施設が登場してきました。障害者の社会教育実践もまた多様な拡がりをみせています。やはり大都市がもっている大きなエネルギーを実感させられます。しかし、これらの各都市のさまざまな実践や運動も、思いのほか相互の交流をもたないのではないでしょうか。
 ユネスコや国際成人教育会議(ICAE)などでは、生涯教育の進展を楽観的にはみていない。その過程では「忘れられた人びと」を生みおとし、機会の格差、その不均等がむしろ拡大してきていることが指摘されてきました。日本の生涯学習政策の動きではどうか、大都市ではどうか、そういうことをお互いにしっかり考えていく必要がある。自治体の教育にかかわる労働組合が、あるいは社会教育職員集団が、こういう問題についても発言し、取り組みを拡げ、実践的な研究と交流をすすめていく必要がありましょう。
 
 地域からの教育改革、大都市における住民自治の問題
 そして第五には自治体の教育改革の課題です。社会教育・生涯学習の問題は、学校教育の問題とつねに関連している、相互に切り離しては考えられない。このことは、小川利夫さんがこの集いでいつも力説されてきたことです。学校教育をふくめて、地域からの、自治体としての、教育改革をどう進めていくか、川崎などはこの観点からの取り組みを続けてこられました。いま「地域教育会議」の構想がその具体的な努力として注目されているところです。
 最近はとくに学校の余裕教室、そのリニューアル、あるいは横浜のコミュニティ・スクール構想、大阪の生涯学習ルームなどの新たな展開がみられます。少子化と児童生徒数の減が背景にありますが、それだけでなく、ひとことで言えば学校を地域にひらく、地域のなかの学校、そのあり方の追求ということでしょう。
 また小・中・高校だけではなく、先ほどからちょっと話題に出ました大学の開放をどうすすめるかという問題もあります。大学を地域にどうひらくか、地域のなかに市民の大学をどう創るか、という課題です。自治体におかれている公立大学だけではなく、国立大学そして私立大学を含めて、大学の開放が近年たしかに進んできた。これら学校制度の開放と関連させて、自治体の公的社会教育行政また生涯学習の体制を新しくどのように再構築していくか、学校を含めて、いわば多元的な構造を考えていく必要がある。大都市のこれからの方向として、学校・地域・市民・社会教育、そして生涯学習の新しい構図を描きだしていく段階がきているのではないでしょうか。
 第六の課題として、大都市社会教育における住民自治の問題がありましょう。新しい観点からどう考えていくか。これまで、1970年代の住民運動の高揚にたいして、80年代、90年代の住民運動の停滞とか、冬の時代とか言われてきた経過があります。しかし、そうでしょうか。住民自治の思想や運動は、たしかに、かっての運動の形態がそのまま持続されているわけではないが、しかし形をかえ、質を変化させながら、これまでとは異なる相をもって、いわば新しく動きはじめているのではないか。「民主主義の分流化」という言葉があるようですが、私にはむしろ「多層化」、あるいは「多元化」しながら、地域のなかに住民自治の意識と運動が面白く展開しはじめている、ように思われます。それらが大都市状況において、社会教育・生涯学習とどのように出会うのか、どんな接点をもちはじめているか、興味あるところです。
 たとえば具体的に、環境・リサイクルのネットワーク、地域からの平和を考えるサークル、地域福祉や老後を考える市民の集い、子育て支援のネットワーク、文化協同運動、ボランティア活動、それらから胎動したNPO法運動などなど、さまざまです。新たな展開がみられる。これらは、とくに大都市のなから産声をあげ、多様な市民層のなかで育ち、拡がってきている。市民運動の新しい局面が、多元化しながら、地域のなかで動いている、と思うのです。これまでにない状況の展開が始まっているのではないでしょうか。
 10月6日、今朝のテレビは、名護市の海上ヘリポート基地をめぐる問題について、ついに議会が住民投票条例を可決したと報じていました。私は名護に2週間前にいましたけれども、住民投票推進派はもともと議会では野党、少数派です。しかし「住民投票やるべし」という住民の意志、その運動におされて、多数だった与党側がですね、雪崩のように変わってきて、ついに議会では住民投票をやる立場が過半数となり、昨日、議会は決定したというんですね。地先に海上基地予定の海がみえる小さな辺野古(ヘノコ)という300戸の集落の反対運動が起点です。それが名護市という地域の住民運動に拡がり、住民投票条例という局面での議会決定を引き出し、大きく日本の基地問題や安保体制のあり方を問う刃となっている。政府当局はいま大慌て。大田知事が動かないので、経済振興策などをもって地元対策に走り回っている。名護では「地場ゼネコン、商工業者など活性化の基地を、辺野古の沖に海上都市を普天間からもってこい」というスローガンもある中で、住民たちの意志が貫かれている。今朝のテレビは私にとって感慨あらたなものがありました。
 いわゆるNPO的活動やボランティア・ネットワークの問題についても、これを従来型の活動として一面的に見てはならないということを、先ほど南里さんや姉崎さんがおっしゃいましたが、私もそうだと思います。行政下請け論だけで見ないで、住民の自発的・自主的・自治的なエネルギーを、あるいはボランティア活動の住民自治的な鼓動を、見る必要がある。これまでにない新しいスタイルの活動が始まっている。そういう観点もふくめて、どういうふうに大都市社会教育の新しい展開を構築していくかが課題でしょう。 

 東アジアへのまなざし
 最後の課題として、海を越えて、東アジアの大都市の社会教育あるいは成人教育(中国)との交流、ともにこの仕事を担う人たちとの連帯をつくっていこう、というとことです。日本に社会教育法(1949年)があるように、東アジアには同じ名称の、内容もかなり類似性がある社会教育法が、韓国(1982年)と台湾(1953年)にあります。いまそれぞれにこれらの法制を生涯教育の観点から改正しよう、あるいは新しい法律を作ろう、という点でも共通するところがあります。中国政府は「成人教育法」という名称で法案づくりの準備が行われていると伝えられます。
 私たちは、案外と欧米の成人教育や生涯教育については勉強もし、また人的な交流もありますが、隣りの国、歴史的にも深く、また植民地支配や戦争の歴史を考えると、きわめて厳しい関係にあるこれら東アジアの国や地域とは、驚くほど交流がない。また相互に社会教育・成人教育・生涯教育がどんな実態であるのかについて、知識もなければ、友人もいない。お互いの立場を尊重して、まずは仲良くなろう、ということです。
 東欧でベルリンの壁が崩壊し、あるいは民族的な自立や統一がすすんだ1980年代から90年代の動きのなかで、東アジアでは、朝鮮でも南北の分裂があり、また台湾海峡をめぐって両岸の緊張関係がある。政治的には伸びやかな自由や自治をゆるさない統制・拘束の歴史が続いてきました。しかし、この10年来、それぞれの国・地域で、地方自治の制度が進展し、また大都市を中心にして、「奔流」「躍動」「激動」などの言葉がおどる変化と発展の時代に入りました。いま世界で最も激しく変わっている大都市は上海、それから南の広州、あるいは香港など、東アジアの都市です。ものすごい勢いで動いておりまして、まさに「奔流する激動の大都市」なんです。
 そういう都市の激動、開発、奔流の中で、都市装置として、社会教育や成人教育はどんな役割を果たしているのでしょうか。中国の場合は、社会教育と言わず成人教育といいますが、内容的には地域の学習・文化活動というより、労働者教育・職業訓練が主で、自分たちの都市の未来と発展を担うような意気込みで、元気よく仕事をしているわけです。そして、日本の大都市の社会教育、生涯学習の動きに非常な関心を持っておりまして、交流を求めているのですね。
 私たちの集いでは、1989年に中国の関係者との交流の旅を企画しましたが、その後、それぞれの都市でいろんな東アジア大都市間の出会いが進んできたのではないでしょうか。研究者のレベルでも、日韓の社会教育合同セミナーが大阪や川崎で開かれましたし、また末本さんは、私も参加しましたが、上海と神戸・大阪をつなぐ大都市間研究セミナーを開いたり、私自身は南の広州の関係者を呼んで福岡、大阪、それから川崎と交流を深めてきました。今年1月には台北に招かれて、私と末本さん、上野さん、内田さんなどで行って来ました。研究室では、この3年、韓国の識字(文解)教育を学ぶ旅を企画して、日本で韓国問題の認識が弱いこと、識字の実践が少ないこと、など学生たちとともに学んできたわけです。ここにお集まりの方々、それぞれの立場で、この間にかなりの研究と交流の実績が積み重ねられてきているのではないか、と思います。
 国と国(地域)との緊張関係では超えられない境界も、都市と都市との交流では可能になる可能性もあるように思います。たとえば、沖縄で、台北と上海が、あるいはソウルやプサンの関係者が集まり、日本の大都市関係者が中心になって「研究と交流」を深めていく、そんな企画など夢見ているわけです。それをつなぎ、友人の輪をつくっていく上で、この「集い」なんかは絶好の集団じゃないか、この中で関心をもつ人たちが、事情が許す範囲で、年に一度ぐらい、企画を立ててね、海を越えて交流するとか、あるいは向こうの人たちを招いて、半日ぐらい議論して四日ぐらい遊ぶというような、そんな楽しいプログラムなどを(笑)、おもしろくやっていけないものかと思うわけです。

 予定の時間を大きく超過してしまって、司会の上野さん、それと次の報告者である南里さんにお詫び申しあげます。本当はもっとお話しいたしたいんですけれども(笑)、これでおしまいにさせていただきます。ご静聴いただき、どうも有り難うございました。
       
   *九州大学大学院・石井山竜平氏によるテープおこしの原稿に、若干の補筆訂正を
    加えた。石井山君の好意に感謝したい。
   *本論は『大都市の社会教育・研究と交流の集い』20周年記念誌(1998年)に収録
    されている。

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 <別紙・添付資料T>
   当日発表レジメ

「大都市の社会教育」研究と交流の集い20年      -1997/10/06-
           ―なにをめざしてきたか―      
                         和光大学 小林文人

はじめに―この20年
(1)「集い」の始まり―1978年秋(名古屋)    *別添資料U(略)参照
   三つの出会い―学会研究・民間運動・労働組合
 1)社会教育推進全国協議会(調査研究部―委託「合理化」問題)
              1976北九州、1977福岡→指定都市調査
 2)日本社会教育学会(宿題研究「社会教育の計画と施設」年報24)  
              小林、藤岡、南里、末本など
 3)自治労・大都市教育支部連絡会(幹事都市―川崎、大阪)
   背景とねらい・大都市社会教育研究の空白(農村・中小都市の社会教育論)
        →とくに政令指定都市について(北九州・福岡「合理化」)
         ・委託「合理化」問題の激発、実態把握・比較分析
         ・運動的「交流」(各都市相互、学会研究者と自治体労働者)
         ・社会教育運動における労働組合の役割
          自治体労働運動(自治労)のなかに社会教育の政策提起を
 
(2)取り組んできたこと(経過)
 1)状況の交流(各都市の動向報告)と問題の共有
 2)厳しい現実認識と大都市社会教育の可能性の追求
                   →“発見”の視点をもつ
 3)とくに二つの課題
   @大都市社会教育実態調査(東日本グループ)
     幹事都市・川崎と東京学芸大学研究室の協力
     →1983「大都市社会教育をめぐる状況」自治労
   A大都市社会教育テーゼづくり(西日本グループ)
     幹事都市・大阪と名古屋大学研究室の協力
     →1982「大都市社会教育行政のあり方・第1次草案」
       1986「地域・自治体の社会教育はどうあるべきか」
     →七つの緊急提言―、第2次草案」自治労
 4)ユネスコ・E,ゼルピの招聘(第10回、1987)
     海老原治善編「生涯教育のアイデンティティ」1988 (エイデル研究所)
 5)中国教育文化事情視察団(1989)各都市、研究者参加
             ―東アジア大都市間交流の視点
 6)第2サイクルへ(1993)、東京を含め「大都市」研究へ
    学会研究者世話人と自治労大都市教育支部の共催から  
   学会々員有志(研究者と自治体関係者)の呼びかけへ
             →路線をこえて、大都市固有の問題を研究交流する

(3)いま、新たな課題を ―この20年の展開
  良くも悪くも「先進的」な状況
  自治体労働運動として社会教育・生涯学習政策論の構築
 1)大都市・自治体生涯学習「計画」相互検証、新たな計画づくり、
  政策課題の追求 *「大都市テーゼ」づくり(1980年代)の発展 
 2)北九州・福岡20年、東京・財団委託から10年―各都市の委託 
  「合理化」、行政改革の経過と分析
        *あらためて「大都市社会教育・生涯学習」実態調査を
 3)職員集団の多様化、嘱託化、労働条件の変化(週休二日制など)、
   スタッフ・ボランテイア集団との関係
            *とりわけ嘱託職員、財団職員が抱えている問題    
 4)非差別少数者、マイノリィ集団の学習権保障の課題
    ―生涯学習政策は「忘れられた人々」を生み落とす?
            *外国籍市民への識字実践、川崎「ふれあい館」など  
 5)学校のリニューアル、コミュニテイスクール、生涯学習ルーム、
   あるいは市民大学構想など                
            *学校と地域の関係の再構築、「地域教育会議」の試み
 6)住民自治の思想、文化協同運動、NPO的活動、ボランテイア・
   ネットワーク等の新たな展開   
            *区行政の自治的構築、住民の視点からの施策・事業
 7)東アジアにおける大都市の躍動―都市から新しい地平が見える!
  上海、広州、台北、ソウルなど
             *関係者交流への期待
              たとえば「東アジア大都市社会教育研究と交流の集い」

[文献・資料]
    ―別添資料U「20年の歩み」一覧表(略)に記載分は省略
(1)集会記録・月刊社会教育  
    1978年12月号(社全協調査研究部)
   1980年1月号 (末本誠)
   1981年12月号(古橋富美雄)
   1987年1月号 (梅沢忠利)  
   1987年9月号(伊藤長和)
   1989年4月号 (岸陽一)
   1998年5月号(石井山竜平)
(2)論文・文献
  藤岡貞彦編『社会教育の計画と施設』(学会年報24集、1980、東洋館)
  伊藤長和、小林平造、古川富美雄「大都市社会教育の可能性」(学会年報27、1983)
  遠藤輝喜「大都市社会教育の可能性の追求」
  末本・小林・上野編『地域と社会教育おの創造』(1995,エイデル研究所)所収
  東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)編『東アジア社会教育研究』
              創刊号(1996)東京学芸大学、 第2号(1997)和光大学

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<別紙・添付資料U>
  大都市(政令指定都市)の社会教育・研究と交流の集い
               ―20年の歩み(1978〜1997)一覧表(略)
  *別紙・配布資料Vに綴じ込み

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<別紙・配布資料V>
 発表レジメ関連・資料綴―資料リスト(目次)―

(1)「政令指定都市の社会教育」研究と交流の集い10年の歩み
(2)大都市(政令指定都市)    〃 20年の歩み(1988〜1997年)
(3)社会教育推進全国協議会(社全協)調査研究部「1978年の社会教育をめぐる状況」
        (調査研 究部資料第7集、1978年)表紙および目次
(4)社会教育推進全国協議会・調査研究部「 1980年の社会教育施設をめぐる状況」
        (調査研究部資料第8集、1980年)まえがき、目次
(5)末本誠「有馬に集う日本型WEAー第2回政令都市社会教育研究交流の集い」
   (月刊社会教育1980年1月号)
(6)「大都市(指定都市)社会教育行政のあり方を求めてー第1次草案」1982年
 (日本社会教育学会政令指定都市社会教育研究会・自治労大都市教育支部連絡会)目次
(7)同上・はじめに
(8)小林文人「大都市(政令指定都市)社会教育の課題―大都市社会教育テーゼの提唱」
        (同上・付属資料、1982・9・10)
(9)全日本自治団体労働組合「大都市社会教育行政をめぐる状況ー政令指定都市社会教育
  実態調査報告書」(1983年)はじめに、目次
(10)「大都市(指定都市)社会教育行政のあり方を求めてー第2次草案」(1986年)
  全日本自治団体労働組合「地域・自治体の社会教育はどうあるべきか」所収
(11)「七つの提言ー地域・自治体に社会教育の自由と自治と連帯を」
  全日本自治団体労働組合「地域・自治体の社会教育はどうあるべきか
    ー臨調行革・臨教審下の七つの緊急提言ー」表紙、七つの提言(1)
(12)同上、七つの提言(2)
(13)同上、七つの提言(3)





2,つどい25回記念 ミニフォーラム
 これからの大都市の社会教育、可能性を問う

                        
小林 文人(和光大学)

                       
―大都市・研究と交流の集い・25回記念
                           札幌市、2002年10月7日

1,私たちが大事にしてきた視点
 私たちの「つどい」25回記念として「これからの大都市の社会教育」への思いを語ろうという企画ですが、打ち合わせもなくて,しかもこんなに大きなテーマ、好き勝手にそれぞれしゃべろうということでしょうか。それにしても10分で何を語ることができるか。私なりにこの「つどい」にかけてきた期待を述べて、今晩から明日への論議へつなげていきたいと思います。
 1978年第1回「つどい」を「なぜはじめたか」ということ、またその後の歩みと展開については、20周年のときにかなり時間をいただいて話した経過があります。その記録は冊子『20周年記念誌』(1998年、神戸大学社会教育研究室)にまとめられていますので、ご覧いただければ幸いです。
 振り返ってみて、私たちが大事にしてきた視点は「大都市社会教育の可能性」を追求していくことだったと思います。日本の社会教育は、農村部や中小都市の活発な事例が注目され、他方で、大都市の社会教育はその貧しさや遅れた状況が指摘されてきた傾向があります。その実態をおさえながらも、大都市独自の可能性に着目していこう、大都市ならではの展開を見つめよう、という課題意識がありました。欧米の成人教育はむしろ都市から胎動してきた歴史がありますが、日本ではどうなのかと。

2,都市装置としての社会教育
 大都市の戦後史では、社会教育・生涯学習の歩みとして、どのような公共的制度・都市装置を作り出してきたのか、そのことを明らかにしていきたいということが思いの底にあります。たとえば、1950年代の旧八幡市は、全市にわたって中学校区規模に一定の職員体制をもった本格的な都市型の公民館づくりに挑戦してきました。しかも公民館単位に幼稚園を設置し、学校教育と並んで、今で言えば生涯学習、つまり大人の教育と幼児の施設をともに整備するという公共的な装置への取り組みです。農村部ではみられない展開でしょう。しかし、この体制もその後の北九州五市合併で変容し、いま公民館制度自体が崩壊しようとしているわけですね。
もちろん旧八幡市のような動きが他の都市にいくつもみられたわけではない。むしろ都市部では公民館はもちろん、社会教育計画自体が未発の地域が少なくなかった。日本の大都市はすべて第2次大戦で激しい戦災をうけました。戦後まずは学校施設の復旧に追われ、一段落したところで人口急増への対応を強いられ、社会教育や文化施設まですぐには手がまわりませんでした。東京に典型的にみられるように、かっての農村部であった三多摩地区では少しづつ公民館が設置されますが、大都市部・二三区ではそういう動きは弱く、800万の人口に対して現在わずか1館の公民館という実態が定着してしまいました。関連の社会教育施設は別に設置されてきましたが、人口規模からすればきわめて貧しい。首都・東京といえども、独自の社会教育計画は不充分な歩みでした。大都市で社会教育や文化の領域の新しい展開が現れ始めるのは、都市によって違いはあるものの、1970年代後半あるいは80年代以降のことでしょうか。

3,政令指定都市社会教育調査
 しかし皮肉なことに、その時期に福岡や北九州などでは、政令指定都市に“昇格”することによって、かえって公民館主事が嘱託化され、あるいは施設が事業団等に委託されていく、社会教育の公的な水準が低下していくという事態がありました。大都市の社会的装置として整備されるべきなのに、どうして社会教育の体制が貧しくなるのか? そういう疑問、危機感がありました。何とか論議を深めよう、情報を交流しよう,研究的に取り組もう、そういう思いからこの「研究と交流のつどい」はスタートしたのです。
 その当時、私は東京学芸大学にいたのですが,川崎の「政令指定都市社会教育調査」活動に学芸大グループが関わり,大阪の「社会教育行政のあり方」研究に名古屋大学グループが協力する、それぞれに活発な研究活動でした。いずれも報告がまとめられています。川崎の皆さんは貴重な調査報告を作成しました。1978年から80年にかけての調査報告、これは大都市社会教育に関するはじめての統計分析なんです。1983年には当時の自治労からも報告書が出ました。大都市の社会教育がいかに貧しいか,自治体間でいかに格差があるか、そういう事実が歴然と示されました。そして、その後「つどい」活動が25年を経過したことになります。
 私たちのこの25年は、日本の大都市社会教育の歩みの中での,一つの大きな飛躍の四半世紀と言えるのではないか、大都市社会教育の独自性や可能性がはじめて展開を見せた25年なのではないか、と思います。

4,この25年をどうみるか
 それぞれの都市でこの25年をぜひ振り返っていただきたい。この四半世紀に何がどう動いてきたか。例えば施設の数が飛躍的に増えてきている、その多彩な展開がある、職員体制はどう推移してきているか、財政的にはどうか。そういうハードな面だけでなく,それぞれの都市の社会教育計画や構想がこれまでにない独自性を示してきているのではないか。単純な評価は避けなければなりませんが、たとえば神戸の学校公園構想、名古屋の図書館整備計画、大阪の社会教育行政指針づくり。あるいは東京の図書館・公民館をめぐる住民運動、川崎の生涯学習計画や地域教育会議から「子どもの権利条例」づくりへの運動など。これまでにない動きです。小さな自治体ではできない大都市固有の取り組みがありました。
 あと一つ、大都市の動きとして注目させられてきたのは、社会教育関係職員を基軸とする労働組合(教育支部)が、組織として社会教育・生涯学習に関する運動方針を論議し提起し、たとえば議案書をつくり、ときに団交し抵抗して、運動的に一定の社会教育の水準をつくってきたことです。この間、私は毎年の大阪の「教育支部定期大会議案書」に感動してきました。京都では図書館の嘱託職員の方々が組合をつくり、労働条件問題に取り組んできた報告を聞いたときには胸にじんときました。
 そういう視点から25年を振り返ってみると,それぞれの都市が固有の歩みをもち、明らかに前進してきた。大都市社会教育の可能性を実証する歴史だったと思うんです。
 
5,見直し路線にどう対抗するか
 しかし同時に最近の数年は、バブル経済崩壊・自治体財政問題を背景として、社会教育の行政改革や施設委託、職員削減や事業縮小が急速に進行しています。教育基本法改正問題や教育行政そのものの“見直し”論も横行しています。これまでのあり方に痛撃が加えられている時代。しかも生涯学習の名のもとに“見直し”が叫ばれているというのが奇妙です。ほんらい生涯学習というのは、すべての人の学習権保障を差別なく生涯を通して実現していく方向で、新しい拡充と発展を求めていく思想のはずです。
 とくに最近の東京などをみると、石原都政のもと目に余る崩壊現象。今日まで先人が営々と積み上げてきたものが、こんなにあっけなくつぶれていくのか,というのが実感です。大都市社会教育の可能性や独自性といっても、実はもろい蓄積でしかないのですね。それは、一元的な公的条件整備論の弱さ、条件整備運動の狭さを示している。市民の活動や運動に支えられ、多元的に蓄積され定着してこなかったことによるのではないでしょうか。
 たしかに今、大きな転換点にあると思います。つねに見直しが必要でしょう。問題はどのような方向で見直すのか、いかなる転換をめざすのか、その方向性が問われることになります。
 いまあらためて、自治体行政のあり方や条件整備の水準とともに、それと市民との関係、
市民の活動と運動にとってそれがいかなる意味をもっているのかを問い直してみる必要がありましょう。自治体職員としても労働運動においても、市民との関わりを考える視点がこれまで弱かったのではないか。

6,市民的な運動と社会的定着と
 欧米的な成人教育の歴史をたずねてみると、行政の役割はもちろん無関係ではないが、行政から与えられてきたものではない。市民や労働者や開明的な知識人たちの運動の積み重ねのなかから、創り出されてきている。ほぼ19世紀の後半以降一世紀をこえる蓄積をもっている。例えばドイツのどの都市にもある「市民大学」(フォルクス・ホッホ・シューレ)はそういう歴史を多彩にもっているようですし、日本の公民館とよく似た機能をもって最近活発な活動をしている「社会文化センター」も、歴史は浅いが、基本的には市民がNPO的に担っている、その取り組みを行政が支援をしている、そういう関係がはっきり読みとれます。
 しかし日本の都市の歩みでは、市民的な運動とその社会的な定着として社会教育の都市装置が創り出される歴史をこれまでもってこなかった。むしろ今、そのような創造の歩みが始まっている、今その重要な転換点に立っているのではないか、と思うのです。
 大都市の社会教育は、これまでの行政の条件整備努力で蓄積されてきたものがあり、それがいま後退している事実がある。市民の立場に立たないこの「行政改革」の切り捨て路線には抵抗しなければならない。状況は厳しいわけです。しかしもう一つ、何をもって後退というのか。公共的条件整備の後退を問題とするだけではなく、これを拠点に、市民の自立的な市民活動・学習文化活動はむしろこの間に前進してきているのではないか。この25年の歩みは市民活力の蓄積と市民ネットワークの拡がりを創り出してきているのではないか。そういう視点からの歴史の歩みをしっかりと捉えていく必要がある。その意味では状況は厳しい側面と同時に、明るい可能性、方向性を含んでいると思うのです。
 施設が委託になったり,職員が引き上げられたりするなかで,みな元気が出ない。しかし他方で、公民館などもたない地域で、市民たちが自らの活力をいかして元気あふれる活動をしてきた歴史がある。大都市にはそんな事例がたくさんあります。そういう事実を明らかにしていくと、公民館がないから社会教育の水準が低い、などと単純に言うことはできない。市民が、たとえば子育て共同ネットに取り組み、文庫活動に参加し、地域の環境問題を考え,白書をつくり,そんな地域の歩みのなかから社会教育の本質的な水準を見る視点をもってみたい。その市民エネルギーに施設や職員の役割がどう結びつくかを問う必要があるのではないでしょうか。

7,大都市社会教育の創造的な視点
 あらためて大都市の市民活動と運動の拡がりの観点から、25年の社会教育の歩みを振り返ってみたい。そこから、これからの大都市の社会教育の方向性を模索していきたい。基本的なポイントは,市民のエネルギー,市民活動・運動の拡がり、そのためにどういう公的装置が必要なのかという観点から行政の役割を考える。条件整備の切り捨てや見直し論には抵抗しなければならないけれども,市民の立場から市民とともに創造的に取り組んでいく必要がありましょう。職場論からの単なる批判と抵抗だけではやはり防衛論にとどまるのであって,新しい可能性をさぐる方向で創造的な視点を忘れないようにしたい。市民のために何を創っていくかという課題意識をしっかりもちたいと思います。
 大都市の社会教育の問題は、そのまま日本の社会教育の問題です。それぞれの自治体の歴史が違うように、これからの方向を創り出していく課題もそれぞれに違いましょう。そういう個別の課題を出し合い,交流しつつ、社会教育そして生涯学習の大きな転換の方向を考えあっていく、そういう大事な地点に私たちはいるのではないかと思います。


第30回大都市社会教育・研究と交流の集い(川崎市.・いさご会館、2007年9月10日)






3,追加資料
  「大都市社会教育・研究と交流の集い」40年をふりかえる
  
ー年報26号「今川報告」へのコメント、これから―
                  小林 文人 (TOAFAEC年報26号所収 2021年)


(1) はじめにー経過「集い」への取り組みー総括的に
 「大都市社会教育・研究と交流の集い」(1998年発足時、当初「政令指定都市の・・集い」、1993年以降・第2サイクルより「大都市・・」と改称)は、2016年に第39回「集い」を開いたあと、休会状態となり、そのまま再開されることなく今日に至っている。この間には、集いの記録として「20周年記念誌」(1998年、神戸大学・社会教育研究室発行)ならびに「第25回・つどい報告書」(2003年、仙台市職員労働組合教育支部発行)がまとめられている。また「集い」第10回記念として企画されたユネスコ・E.ジェルピ氏招聘事業にかかわる出版(海老原治善編『生涯教育のアイデンティティ』エイデル研究所、1988年)をはじめ、自治労出版物としてまとめられた調査報告や「七つの提言」、社会教育推進全国協議会(社全協)調査研究部資料、「月刊社会教育」(国土社)に掲載された「集会報告」等の諸記録が10点あまり残されている。
 しかし第25回以降、「集い」としては盛会裡に開催されながら、その後の資料・記録は少ない。東京グループにより2016年『大都市・東京の社会教育―歴史と現在』(小林文人編、エイデル研究所)が刊行されたが、同書をテーマに論議した同年「集い」(第39回)以降、継続して開催されてこなかった。

 各年度の「集い」参加者数は一様ではないが、学会(研究者)側が10名前後、各都市(職員労働組合・教育支部)側が20〜30名。毎年度に各都市から持ち込まれる自治体諸資料を共有しながら、活発な論議が交わされてきた。
 「集い」のスケジュールは、日本社会教育学会・年次研究大会に合わせ、会場もその近くに設定された。したがって、北は北海道から南は鹿児島まで、全国規模で開催されている。学会プログラム最終日(三日目)午後から大都市「集い」が平行して開始され、翌日まで一泊二日の濃密なプログラムが組まれた。1日目の夜は、全参加者が集う交流・懇親の催しが通例となり、年度により濃淡はあるが、楽しく賑やかな「集い」の印象も残っている。
 毎年恒例となってきたこの「集い」が、開かれなくなって4年。昨2020年夏に、「集い」の後半部分(第27回・2004年以降)の事務局を担当された今川義博氏(仙台市職員労働組合教育支部)にお願いして、とくに資料記録が不十分な第25回以降を含め、休会状態に陥っている「集い」記録を一定復元していただくこととなった。年報25号(2020年12月刊)に収録された「大都市の社会教育・研究と交流の集いに関わって」(今川義博、pp243〜255)がそれである。第1回(1978年)から第39回(2016年)までの全「集い」記録(開催年、学会会場、集い会場、開催プログラム、論議テーマ、作成資料(25回まで)、懇親会場等)が一覧となって蘇った。仙台市職労・中央執行委員長の激務のなか、労を惜しまず作業を進めていただいたことに深く感謝したい。
 今川復元資料を共通素材にして、大都市「集い」に参加してきた主要メンバーに、以下それぞれの立場から自由なコメントをお願いすることとした。大都市「集い」の「これまでとこれから」について、短い紙数しか用意できないが、自由に書いていただいた。各位のご協力に感謝したい。石井山竜平さん(東北大学)は他稿あり、次の機会(があれば)お願いすることにしたい。
(2)「集い」の背景・取り組み

 「集い」がスタートした1970年代の複雑な高揚を、今まざまざと思い出す。当時の背景を概観してみる。東京三多摩(旧農村部)では「新しい公民館像をめざして」(三多摩テーゼ)の普及があり、自治体レベルの公民館づくりが躍動しつつあった一方で、戦後初期から独自の公民館体制を創出してきた旧八幡市、福岡市(あるいは西宮市ほか)では、すでに職員削減いわゆる公民館「合理化」策が進行していた。北九州市(五市合併)は「教育文化事業団」を発足させ、旧八幡市公民館体制を丸ごと委託(1976年)、福岡市では政令市昇格後に公民館主事嘱託化(1977年)を強行した。つまり地方都市として確立しつつあった公民館体制は、政令市となることによって放棄されたといってよい。そこには戦後社会教育法制の根幹部分(公民館制度)が大都市部に定着してこなかった「非定着の定着」の大きな空洞が口をあけていた。いったい社会教育にとって「大都市」とは何か!
 旧六大都市の公的社会教育体制はなべて貧弱である。人口あたり社会教育費の比較では京都・横浜の貧しさは目にあまる。ところが新政令市・川崎市は旧公民館制度を定着させ、政令市移行後はこれをベースに「市民館」を図書館とともに各区に配置、専門職員を含む職員集団を充実させてきた。自治体職員労働組合運動のなかに「教育支部」が組織されるようになる。自治体計画や公民館研究に取り組んできた日本社会教育学会や社会教育推進全国協議会調査研究部のメンバーと川崎市職労「教育支部」との出会いは1975年前後。前者の北九州の財団委託・福岡の公民館主事嘱託化反対運動と、川崎の大都市社会教育調査を前史として、本「集い」構想へ論議は、1977年から始まっていたように記憶している。とくに川崎の故伊藤長和さんの果たした役割が大きかった。
 当時のこと、「集い」開催のその後の展開については、前掲「大都市の社会教育研究と交流の集い20年−私たちはなにをめざしてきたか」(1998、小林)に証言として記録されている。


 
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