東京・三多摩・社会教育研究ー小林文人ー


 
(2016年刊、エイデル研究所)


■東京・社会教育史研究フォーラム(1)(2012〜)→■
                       (2)(2016〜)→■
『大都市・東京の社会教育−歴史と現在』
   同 編集委員会(2016、エイデル研究所)
   まえがき、序論:大都市東京社会教育の歴史をどうみるか→■
            社会教育における委員・審議会活動−住民参加の歩み

■ 社会教育・公民館 研究ページ(一覧、別ページ)→■


<目次>
1,東京・社会教育行政・施設史(1947〜1989) 
  東京都立教育研究所・発行『東京都教育史』
  通史編4(1997)、同5(未刊)

2,
東京の公民館(23区・三多摩)研究 →
  (1)二三区の公民館 ー資料解題的にー
 
   
東京都立多摩社会教育会館『戦後における東京の社会教育のあゆみ』T(通巻])(1997年)
  (2)三多摩テーゼ20年−経過とその後の展開−
     
東京都立多摩社会教育会館・発行『戦後三多摩における社会教育のあゆみ』Z (1994年)

3,東京社会教育史関連・記録、拾遺「三多摩テーゼ」ー40年回想 →
 
  
4,三多摩における社会教育をめぐる住民運動−1970年代を中心にして−
(下掲)
 
 
東京都立多摩社会教育会館『戦後三多摩における社会教育のあゆみ』\集(1997年)

5,三多摩の夜間中学−識字実践の歩み−資料解題 (下掲)
  
東京都立多摩社会教育会館「戦後三多摩における社会教育のあゆみ」Y集(1993)

6,
八王子の織物青年学級・織物学校 (下掲)
  
東京都立多摩社会教育会館「戦後三多摩における社会教育のあゆみ」第Z集(1994年)

7,三多摩の社会教育と住民パワーそのあゆみと展開 (下掲)
   
月刊社会教育・1998年7月号(内田純一と共同執筆)

8,1)市民活動支援の歩み、その歴史を
市民活動サービスコーナー30年 (下掲
    東京都立多摩社会教育会館・「市民活動のひろば」第36号・最終号(2002年)
  2)地域の活力を生み出す市民活動を−2009年を迎えて− (下掲
    
「市民活動のひろば」発行委員会(アンティ多摩)2009年67
(1・2月号)
  3)
市民自らが歴史を創ってきた「挌闘の10年」と「ひろば」 (下掲
  
「市民活動のひろば」発行委員会(アンティ多摩)2012年100(5月号)

9,三多摩における公民館の歩みと活動−1960〜1979年代を中心に(下掲)
  
たましん地域文化財団「多摩のあゆみ」144号(2011年)

10,徳永功さんの仕事 (下掲)
  
徳永功著『個の自立と地域の民主主義をめざして』
   (エイデル研究所、2011年)所収

11,
東京都立多摩(立川)社会教育会館・発行
  『戦後三多摩における社会教育のあゆみ』
   1集〜13集(1988年〜1999年)

12,東京識字実践・識字マップ調査・夜間中学研究
  
(東京学芸大学・和光大学 紀要、1991〜1997年)→

13,杉並の社会教育・公民館・原水禁運動資料研究
 (2003年〜2009年)
 
(1)杉並(旧)公民館・原水禁運動(安井家)史料研究(日程・文献・年表)

 
(2)      々   関連「南の風」記事・記録する会
 
(3)杉並の公民館・原水禁運動に関する報告・資料(小林)→       
 
(4)関連アルバム(19080〜1989〜2005〜)→

14,大都市社会教育・研究と交流のつどい・20年(1997年)
            −なにをめざしてきたか →




国立市公民館・市民交流ロビー「わいがや喫茶」、右側に青年室(2003年11月17日)







4,三多摩における社会教育をめぐる住民運動

            −1970年代を中心にして−
     

             
東京都立多摩社会教育会館
                    「戦後三多摩における社会教育のあゆみ」第\集(1997年)所収


 1,公的社会教育と住民のかかわり

 東京の社会教育は、1970年代に大きな展開をみせた。この時期に、社会教育の新しい公的事業が胎動し、社会教育施設も増加し、対応して職員体制も(相対的に)拡充し、そしてまた予算も明らかに増えた。とくに注目されるのは、戦後四半世紀の経過をへて70年代は、社会教育にかかわる住民の期待や意識が前進し、具体的に新しい社会教育を求める住民の諸運動がさまざま取り組まれた時期であった。
 振り返ってみると、戦後東京の社会教育とその施設は、ほとんど空白からの出発であった。戦災により公共的施設は多く消失し、戦後直後の復興過程では六三三制の学校施設(とくに新しい義務教育機関としての新制中学校)の建設がなによりも優先された。他方で社会教育行政自体がまだ形成過程にあり、東京都レベルでも区市町村のレベルでも、戦後の公的社会教育計画など未発の状況が続いていた。その後、学校施設復旧が一段落したところで、大都市東京の人口急増が激化し過密化が進行していく。社会教育や文化にかかわる行政施策や施設整備などの課題は後まわしにされてきた戦後史であった。
 社会教育の体制が貧困で、行政サ−ビスとしても低い水準であれば、第一段階では、住民の期待や要求もなかなか顕在化していかない。供給が貧しければ新しい需要も生みだされない。社会教育の行政サ−ビスの貧しさとそれに対する住民要求の未発、それがまた社会教育の貧弱な体制を持続させるという悪循環が当時の状況としてみられた。
 しかし、ようやく1960年代に入ると、自治体によって社会教育の諸施策が徐々に具体化されるようになり、それに対して住民の側の公的社会教育に対する認識も一定の関心を示し始めるようになる。東京都もいわば初めて「社会教育長期計画」策定(1965年)を試み、三多摩の各自治体では公民館等の施設や行政事業や社会教育主事等の職員が住民の前に姿を現わす段階になる。公的社会教育と住民の活動が相互に交錯し始めるのである。当然そこには自治体による地域格差もあるが、社会教育の公的サ−ビス(供給)の充実と拡大を求めて住民の側の期待と要求(需要)も顕在化し始める。これが第二段階であろう。公的社会教育の拡充とこれに対する住民意識の成熟の一定の相関、その相互循環がまた次の展開を生みだしていくことになる。
 このような動向のなかで1970年代は明けた。そして以下の自治体報告が示すように、社会教育にかかわる住民の具体的な取組み、運動がさまざまの展開をみせるようになる。住民の意識と運動が顕在化し、それが公的社会教育の新たな発展を創りだすという循環が(矛盾をふくみつつ)具体化していったという意味で、公的社会教育と住民との関わりの第三段階ということができよう。日本の社会教育史のなかでも、1970年代・三多摩はその一つの典型的な歩みをきざんだ地域と考えられる。各自治体にとっても、70年代をどのような歴史をもって経過したかによって、その後の自治体社会教育の体制や方向がある程度形づくられたのではないか、と言うことも可能かもしれない。今後仮設的に検討してみたい課題である。

 2,70年代自治体の社会教育と住民運動についての証言

 社会教育の歩みはもちろん自治体によって多様である。しかし三多摩を総体として見た場合、1960年代とは明らかに異なった状況で70年代の展開があった。模索や挫折もみられたが、それまでにない飛躍と躍動があったのではないだろうか。
 その前段階としては、もちろん1960年代から70年代にいたる各自治体社会教育の歩み、その蓄積と住民意識の成熟のプロセスが重要であろう。そして、70年代の新しい時代的な状況の変化があった。急激な地域変貌にともなうさまざまの課題と都市問題の激発、そして社会教育にせまく限定されない住民運動の胎動、とくに当時の革新自治体が提唱した住民参加論の登場、住民の側の署名・陳情・請願などの社会的政治的な活動など、それらの広がりは社会教育をまきこむかたちで展開した。他方で社会教育の領域における自覚的な学習の深まりは、それら社会的政治的活動を担う住民の主体形成を促した。その意味で興味ふかい10年の展開であったと言えよう。それまでにない公的社会教育とそれをめぐる住民運動の躍動がみられたのである。
 これまで三多摩各地の社会教育と住民運動にかんして、各自治体・地域の事例については、個別に貴重な証言や報告がみられる。また公民館づくり運動や、保育室運動あるいは障害者の社会教育の取組みなど、それぞれの興味深い記録も残されている。しかしこれらの動向について三多摩全域の視野からとらえようとする分析研究は、課題が大きく拡がるだけに、これまで必ずしも充分には行なわれてこなかった。(注)
 本報告では、このような問題意識から1970年代三多摩の社会教育と住民運動をめぐる動向について、それぞれの自治体からの証言・報告を通して、しかしできるかぎり全体的に把握する視点をもって、その具体的な展開を振り返ってみることにした。
 このような課題の設定については、本来はもっと時間をかけて準備をし、また報告の紙数も多くを用意をし、本格的にその全貌にせまる努力が期待されるところである。しかし課題が重いだけにかえって簡単には進まない側面がある。今回は、当面できる範囲での作業とし、まずは基礎的に各自治体のなんらかの記録化に挑戦してみよう、それも一部の自治体にせまく止まるのでなく、できる範囲で三多摩全域から広く報告をお願いしょうと考えた。幸いに多数の報告をお寄せいただいたが、さらに本格的な分析研究はむしろ今後の課題として残されている、とご理解いただきたい。
 以下に収録する各自治体からの報告者についても、厳密な基準を設けてお願いしたわけではない。本分析研究グル−プが知りうる範囲で関係者に個別に依頼することにした。したがってある自治体では公的社会教育に携わった職員の立場での、別の自治体では活動・運動を実際に担った住民の立場からの執筆となった。70年代の実際の当事者もあれば、後発の世代として間接的な立場からの報告もあった。その立場の配慮から一部には執筆に難色を示される向きもあったが、「できる範囲で、気楽に書いていただきたい」というお願いをした。地域・自治体からの報告は、それぞれの個別的かつ自由な判断を尊重して、あまり厳密な執筆枠組みをつくらなかった。そのため執筆の内容や項目については濃淡あり、また執筆枚数についても長短がある。なによりも多くの自治体から基礎的な記録が寄せられること自体をまず期待したのである。
 したがって報告の内容についてはかなり多様にわたり、統一的な報告集にはなっていない。なかには自分史的な記述として報告を寄せていただいたものもある。しかし個性的な記述が、結果的には自治体ごとの地域史的な経過や特長を具体的に綴っていること、またそれぞれの立場からの多彩な執筆がかえって総体としての三多摩「社会教育と住民運動」の実像を広く画くことにもなっているのではないか、と思われる。三多摩の総体的な動向のなかで、それぞれの自治体の地域史的な断面、またそれを担った住民個々の自分史的な哀歓が記録されている、と言うこともできよう。

(注)社会教育推進全国協議会三多摩支部「三多摩の社会教育」1983年(三多摩テ−ゼからの10年)をはじめとして、毎年度の報告集は社教育実践及び住民運動の貴重な資料集である。これに加えて多摩(立川)社会教育会館の「セミナ−」報告集、同サ−ビスコ−ナ−「市民活動」他、東京都公民館連絡協議会(都公連)大会資料、東京都社会教育行政基本資料等に収録されてきた主として社会教育公的サ−ビスに関   する記録を相互関連的に収集し、横断的かつ総合的な視点から(たとえば三多摩全域・市町村別に)リスト化し、資料目録に集大成することができれば貴重な共有財産になろう。特に1970年代に焦点をおいてみると、その躍動的な見取り図が浮かびあがってくるに違いない。

 3、 四つのポイント

 各執筆者への「三多摩各自治体の公的社会教育をめぐる住民運動の動向」についての依頼は次のような内容であった。
 「1、施設(公民館・図書館など)づくり、事業(学級・講座など)づくり、保育室、計画づくり、委員選出、講師派遣、補助金、有料化反対などについての住民運動、その契機、経過、展開について
  2,自治体内の「社会教育を考える会」「すすめる会」「市民の会」などの活動について
  3,上記についての報告、論文、記録など(出典・史料一覧)、また関連して、写真・ビデオ・テ−プなどがあれば付記していただく
  4,時期については、1970年代を中心とするが、必要に応じて1950〜60年代について、また1980年代以降についてもふれていただく。」
 時期的には一応1970年代にしぼっての依頼であるが、内容的にはかなり欲張った包括的なものであり、事実が豊富であればあるほど、わずかの紙数に納まりきれるものではないだろう。それぞれに要約的かつ禁欲的に書いていただいたわけで、この機会に、あわただしくかつ無理な執筆依頼にもかかわらず、快くご協力いただいた方々に御礼を申しあげねばならない。
 三多摩のほぼ全域にわたる各自治体から報告が寄せられたわけであるが、西多摩地区については、すこし広域的な観点から「西多摩における教育・文化運動について」というテ−マで加藤有孝氏に執筆をお願いした。
 上記の4項目のなかで、とくに?についての記述がこんごの継続研究を進めていく上で重要である。自治体によっては貴重な資料を提示(武蔵野、小平、国立、保谷など)していただいたが、しかし全体としては、この点についての記述は必ずしも充実したものになったとは言い難い。前項(注)にも記したように、社会教育と住民運動についての文献・資料一覧の作成については今後に残された課題である。また国立市からの報告では詳細な年表をまとめていただいたが、それだけで予定の紙数をこえてしまっている。年表作成(仮題・三多摩社会教育文化運動史年表)についても今後に取組むべき作業であろう。

 4,拡がりの特徴といくつかの課題

 報告は多様、多彩にわたり、これを総括して、三多摩「社会教育と住民運動」の全体像をまとめあげる、という段階には至っていない。しかし、その多様な拡がりと、その展開のなかに見られる三多摩的な特徴、そして今後の課題、といった点をいくつか「出来る範囲で」整理しておくことにしよう。*自治体名は順不同
 
 1,70年代・三多摩「社会教育と住民運動」は、広汎な拡がりをもって躍動してきたことがあらためて確認されるが、共通して、
  @地域的に多様かつ個性的な歴史をもっている、
  A1950年代から60代へ、70年代をへて80年代へと、時代的な継承と蓄積を経てきていること、
   またその反面に挫折や停滞も内包されている、
  Bしかし多くの自治体において、70年代は地域史的に記録されるべき大きな展開を示した時期
   であり、公的社会教育とかかわって住民が(はじめて)積極的に発言し、また主体的に運動に
   取組んだ注目すべき10年であった、と言うことができよう。

 2,各自治体からの報告は、次のような事項について、多岐にわたっている。
  @公民館など社会教育施設づくり (立川、三鷹、武蔵野、昭島、福生、調布、町田、小金井、東
   村山、国分寺、国立(年表)、東大和、東久留米、稲城、多摩、狛江、田無、有料化について羽村
   など)
  A図書館づくり、文庫の運動(調布、保谷、東久留米、東大和、西多摩、など)
  B社会教育委員、公民館運営審議会のかかわり、公民館利用者連絡会など(稲城、武蔵村山、
   東村山、東大和、町田、国分寺、など)
  C職員体制、配転問題、主事会に関して(小平、稲城、田無、、西多摩、など)
  D学級・講座や事業企画への住民参加、自主グル−プ援助(小金井、府中、稲城、など)
  E障害者青年学級など(日野、保谷、府中、小金井、国立(年表)、など)
  F保育室の実践(三鷹、国立(年表)、狛江、国分寺、など)
  G青年、女性、PTA、サ−クルなどの運動(西多摩、青梅、八王子、清瀬、小金井、調布、保谷、
    東久留米、町田、保谷、など)
  H社会教育「考える会」「市民の会」など(東久留米、武蔵野、町田、調布、多摩など)
  I親子映画・子ども劇場等の文化運動、福祉運動など(西多摩、東久留米、町田、など)その他。

 3,執筆者の立場や報告のテ−マ限定、また用意された紙数の関係で、今回の報告からは省略された歴史も少なくない。これらは当然今後の課題として残されたわけであるが、その主要なものをいくつかメモとして掲げておくと、次のようなことであろう。すなわち、 
 ・国立−年表に提示された公民館諸実践とそれをめぐる住民運動、あわせて1950年代公民館設立
      以降の住民の取組み、
 ・三鷹−青年学級と地域の青年運動、
 ・町田−障害者青年学級と住民運動、
 ・田無−公民館運営審議会の活動と住民参加の歩み、
 ・羽村−消費者運動と女性の学習、
 ・西多摩−各自治体個別の社会教育をめぐる住民運動、などがあげられよう。

 4,各自治体の報告のなかには、自治体の枠組みをこえて、自治体間の交流(たとえば多摩→調布、東久留米→国分寺など)や、三多摩の広域的な規模にわたる機関、研修、学習等の重要性に言及したものが少なくなかった。
 たとえば、東京都社会教育行政事業(稲城市−かっての「婦人学級」リ−ダ−研修や国内研修からの刺激)、多摩(旧立川)社会教育会館「セミナ−」研修事業や市民活動サ−ビス・コ−ナ−(多摩市−たとえばサ−ビス・コ−ナ−資料室など)の役割、あるいは東京都公民館連絡協議会(都公連)大会、東京都教育庁社会教育部「新しい公民館像をめざして」(1973〜4年)学習会、月刊社会教育を読む会、社会教育推進全国協議会三多摩支部 の活動などについての指摘があった。また一部に研究者の参加も記録されている。
 5,前々節4の(注)、あるいは前節末尾でもふれたように、関連する文献・資料の目録一 覧等の作成が今後の課題であるが、とくに活字資料だけではなく、ビデオ・テ−プ・映像や「うた」やミニコミなどの収集・保存もまた重要であろう。たとえば東久留米市からの報告では、公民館づくり運動のなかで「公民館建てよう」のオリジナルソングが作成されているし、また“一人でも「なんでもニュ−ス」”発行のことが指摘されていて興味深い。このような歌やミニコミや映像やテ−プなどについても、たとえばサ−ビス・コ−ナ−資料室などに収録・保存できないものであろうか。

 以上のように、1970年代の社会教育と住民運動の歴史をふりかってみると、多くの住民、そして職員のさまざまの人間的な関わりが浮かびあがってくる。「公民館づくり」住民運動との出会いが、いわば地域の「住民運動」の入口となったこと、その過程でのかけがえのない人と人との出会い、人間的な交流、またグル−プの発見、そして自らの自己実現の歩み、などもまた語られている。「社会教育と住民運動」をテ−マに、70年代三多摩の地域史に分け入る作業から、思いがけなくもその歴史を担った人々の貴重な自分史にも触れさせていただく結果となった。あらためて感謝申しあげたい。 







5,三多摩の夜間中学−識字実践の歩み−その1(資料解題)

               東京都立多摩社会教育会館
                    「戦後三多摩における社会教育のあゆみ」第Y集(1993年)所収


                        
1 最近の新しい識字実践

 戦後の社会教育実践の歩みを振り返ってみると、それぞれの時代的背景のもとで、いろいろの新しい事業・運動が胎動してきた。特徴的なものをあげれば、たとえば1950年代の青年の学習や婦人学級、、60年代の市民大学や消費者運動、70年代の公民館保育室や障害者学級、80年代の高齢者のための事業や各種交流活動、などが想起される。新しい実践が登場する経過には、必ずそれを求める時代的・社会的要因があり、そして実際にその実践を担う公的社会教育=職員の条件や、あるいは市民=運動の側の知恵とエネルギ−が存在してきた。
 さらに今ひとつ、1980年代を色どる特徴的な動きとして、日本語学級・講座などの識字実践の新しい“潮流”が注目される。とくに80年代後半から三多摩地区にも姿を現わし始めるいわゆる「ニュ−カマ−」と呼ばれる外国人労働者の増加を背景としつつ、1990年・国際識字年を直接的な契機として、日本語学級・教室・講座などの新しい試みが急速な展開を見せてくる。この間の動向については、東京学芸大学・社会教育研究室が「識字マップ」調査活動に取り組み、その結果を報告書にまとめている(同「東京の識字実践・1992−第2次識字マップ調査報告」)。→■
 これによれば、三多摩地区の識字実践の歩みとして、比較的に早く登場するのは重度身体障害者授産施設「日の出舎」(秋川市)の「夜間小学校・ふきのとう学級」(1975年開設)であり、80年代に入って町田市公民館による障害者青年学級を母体として生み出された「やさしい文章サ−クル」(1980年)、「さなえサ−クル」(1982年)があった。また同じ頃、東久留米市中央公民館は「障害者教養講座」(1981年)を開設し、「学校に行かれなかった障害者のため」「社会生活ができるくらいの知識を身につけるため」の識字実践が取り組まれている。障害者にたいする社会教育の事業が、識字実践の流れを創り出している点が注目される。
 さらに東京ではこの時期に中国帰国者を対象とする「日本語教室」(塩崎荘・1979年、常盤寮・1979年、YWCA・1981年)が開始されている。三多摩地区ではこれより少しおくれて、立川や三鷹で中国帰国者のための識字実践がはじまった(1985年頃)。 そして1987〜8年以降になると「ニュ−カマ−」あるいは「留学生」「就学生」の増加、その地域への流入を背景として、在日外国人のための識字実践が自治体・公的機関(公民館など)や民間・市民団体等において、まさに“潮流”のように動き始めるのである。このなかで、“内なる識字問題”としての日本人の識字教育の場を組織した事例として注目をあつめた福生市公民館松林分館の識字学級「ことばの会」の開設は1987年のことであった。
 このようにみてくると、三多摩の識字実践の歩みは、1975年に最初の取り組みがあり、1980年代にそれが一つの流れとして動きはじめ、その後半から、さらには1990年代に入って大きな展開をみせるようになったということになる。
 しかし、識字実践の歩みはこれだけではない。学校教育にまで目を移せば、識字実践の源流はまず義務教育未修了・不就学者にたいする取り組みとして、すでに1950年代から始まっている。いわゆる夜間中学の運動として、まずは教師集団による積極果敢な努力よって取り組まれてきた。夜間中学(公立中学校・夜間学級、あるいは夜間部、二部などと呼ばれた。以下「夜間中学」という)は、制度的には社会教育の領域には含まれるわけではないが、その問題の性格や内容を考えれば、社会教育と重要な関連をもっていることはいうまでもない。
 三多摩地区の「夜間中学」は、八王子市立第五中学校と立川市立第三中学校(ただし立川三中は9年後に廃止)の2校に設置されてきた。東京では早い時期(1952年5月)の設置である。どんな背景と経過のなかで設置されきたのであろうか。その歩みを残されている資料を中心に振り返ってみることとする。

2 三多摩「夜間中学」創設の経緯

 戦後の混乱期において、新制・六三制の義務教育学校にさえも就学できない「不就学」「長欠」生徒の対策として、大阪(1948年)、神戸(1949年)から夜間中学を発足させる努力が始まった。東京ではそれから2年おくれて、まず足立区がその先頭を切って夜間中学(同・第四中学校)を開設した(1951年、この間の経過については、東京都夜間中学校研究会『東京都の夜間中学校の歩み』1992年、に詳しい)。
 三多摩地区で夜間中学の開設がみられるのは、その翌年・1952年5月、八王子市と立川市の両市が相次いで夜間中学を出発させるのである。
 両市が夜間中学を開設するにいたる地域的な背景、その経緯はかならずしも一様ではないが、ともに経済的貧困、家庭的事情、就労などの理由により不就学・長欠の子どもたちになんとか勉学の機会を保障したいという、校長・教師たちや教育行政関係者の努力による点で共通するものがあった。そこには戦後教育改革の基本理念である教育権・教育の機会均等の思想を実現していこうという姿勢があった。
 たとえば、文部省による「夜間に授業を行なう学級をもつ中学校」にたいする調査にたいして、当時の八王子第五中・校長は「開設するにいたった事情」として次のように回答している。
 「主として貧困のため、昼間就学不可能のものに均しく教育を受ける権利を与え、もって青少年の不良化防止の面より、社会教育に役立たせんとした。」(文部省初等中等教育局・中央青少年問題協議会『夜間に授業を行う学級をもつ中学校にかんする調査報告書』1953年12月現在、19頁)

 (1)八王子市立第5中学校・夜間中学の歩み
 当時の八王子市の地域的特性としては、地場産業である織物・紡績産業の中小企業的零細経営、そこに働く年少労働者、あるいは経済的貧困家庭が少なくなく、そこから義務教育未修了工員の問題もあれば、昼間通学することが出来ない子どもたちの不就学・長欠の問題もあった。八王子市の長欠生徒の割合は他地域に比して高く、5.4%(248人)を 数えていたという。(前掲『東京都の夜間中学校の歩み』1992年、より。以下特記しないかぎりこの資料からの引用による。)
 八王子市教育委員会は、市内中学校在籍生徒の二十分の一をこえる長欠生徒指導のために訪問教師1名(田中喜八郎氏)を配置していた。このような状況のなかで足立四中二部(夜間中学)発足(1951年)を知り、さっそく視察を行い、訪問教師を中心に長欠者の実態をさらに具体的に調査し、夜間中学の開設に踏みきるのである。開設当時の考え方は次のようなものであった。
 「学校教育法第二十二条・第三十五条には、小学校及び中学校の義務教育を定め、憲法第二十六条には『ひとしく教育を受ける権利を有する』とうたっている。然しながら、当然受けるべき者も諸種の事情によりこの機会に恵まれていないことは、はなはだ遺憾である。何らかの手段を講じ且救済し、且教育を施すべきである。中学校二部の設置に当たっている文部省当局の反対があるが、既に都内足立区では、東京都教育委員会の承認のもとに昨年七月より実施しているものであり、全国に幾多の例がある。」(八王子五五中二部開設趣意書より)
 1952年4月27日に教頭(滝本善一氏)と教務主任(原正一氏)が再度、足立四中を視察、5月1日には正式に開校の運びとなり、同10日に行われた入学式には36名の生徒が出席、翌年3月にはほぼ倍ちかい60名にふくれあがったという。
 全国中学校夜間部教育研究協議会(第5回、1958年)の記録によれば、八王子五中の状況は、学級数3、生徒数54、専任教諭5、兼任2、講師3、給食有、後援会有、となっている。
 夜間中学・開設にあったての地域の対応はどうであったのだろう。別の資料によれば八王子五中・夜間部の沿革として次のような記述がある。「地場産業の零細織物工場で働く多数の義務教育未修了工員の救済策として地元関係者の要望で、八王子市立第五中学校に併設された」という(東京都教育委員会「東京都公立中学校・夜間学級要覧」昭和56年度)。地域・関係者からの働きかけがあったというのである。

〈註〉夜間中学の開設にあたって、地元とくに八王子・織物産業関係者からの「要望」がどのような経緯・内容をもって出されたか、については資料的にさらに明らかにされる必要がある。この問題は、その後の青年学級振興法(1953年施行)にともなう八王子市・青年学級の開設とも関連性をもっていると考えられる。
 「青年学級」についての歴史研究も重要な課題であるが、八王子市の場合どのような経過であったのだろうか。東京都のこれにたいする公的な施策・予算化は1952年(青年学級振興法施行の前年)年からはじまっているるが、すでにその前から「青年講座」あるいは「成人学校」の一部として青年学級が実験的に開設されていた。都全域で、昭和27年度11学級、28年度155学級、29年度214学級、30年度237学級という規模で開設されている。この間の八王子市の青年学級の動きはどうであったのか。この経過についても、とくに地場産業・織物工場関係者の対応をふくめて、資料的に調査しておくべき課題であろう。東京都は青年学級振興法施行後、研究指定・実験学級や技能者養成学級・広域学級などの青年学級奨励の施策を講じるが、八王子の青年学級としては、昭和30年度の都研究指定学級とし「八王子市川口第一青年学級」(研究課題−農村改善・生活の合理化)が実施され、さらに翌年31年には「八王子織物青年学級」(研究課題−社会教育と地域織物産業との直結)が開設されている。また1年おいて、33年にも「八王子織物青年学級」(研究課題−青年学級と生産活動との結びつき)が指定・実施されている。(東京都立教育研究所「戦後東京都教育史」下巻、社会教育編、99頁)

 このような社会教育・青年学級サイドの動きと、八王子五中・夜間中学のその後の展開については、どのように関連していたのであろうか。さらに資料的にも明らにかされる必要があろう。
 なお後掲の資料Cとして、八王子五中・夜間中学(二部)生徒の文集(1958年)のなかから、働きながら学ぶ彼らの「職場」「労働」に関するもの数点を選んで収録した。そこに「織物工場」のことも記されている。当時の夜間中学の果たした役割を垣間見ることができる。*資料・略

 (2)立川市立第三中学校・夜間中学の場合      
 立川市の地域的状況については、八王子市とはまた様相を異にする。立川は、戦後アメリカ占領下において、かっての旧日本軍施設(飛行場等)はアメリカ極東空軍基地として接収され、それにともなってとくに朝鮮戦争(1950年)後、基地周辺地域の歓楽街・風俗営業化がすすみ、地域は「あたかも植民地的様相を呈し“教育の真空地帯”などと批判の対象になった」という状況があった。児童生徒の地域生活環境は悪化し、やはり長欠の比率がたかく、それも経済的貧困による長欠というだけでなく、「基地の町という特殊状況とからんだ家庭の不幸や悲劇的な事柄が直接子供たちの肩にのしかかっていたことを容易にうかがわせる」(前掲『東京都の夜間中学校の歩み』21頁)というような事例が少なくなかった。 
 立川三中の場合、「夜間中学」開設のきっかけとなったのは、長欠対策に苦慮していた市教育委員会の指示であった。ただ、開設の経過はごく単純なもので、当時の新設校である三中(立川一中から分離)に「何となく」夜間学級併設(複式1学級)が決まってしまったという(1952年4月)。充分の準備があるわけではなく、広報も不足であった。5月開設当時の生徒数は8名、専任教諭1名(風間方美氏)という出発であった。
 そして、後に資料を別掲するように、立川三中・夜間中学は1961年3月に廃止される。ただ一人の専任教諭であった風間氏は孤軍奮闘のかたちで、立川の夜間中学の歴史を担ってきた感がある。1954年11月19〜20日の日程でひらかれた第1回全国中学校夜間部教育研究協議会(於、京都市洛東中)にも出席し、研究発表を行い、それ以降の全国夜間中学校研究大会にも毎回出席者のなかに名前がみえる。しかし第8回(1961年11月)からは出席していない。立川三中・夜間中学の廃校によるものである。
 因みに前掲の全国中学校夜間部教育研究協議会(第5回、1958年)の記録では、立川三中の状況は、この時点で、学級数1、生徒数12、専任教諭2、兼任2、講師1、給食無、後援会無、となっている。念のため両校の卒業生数を一覧にしておこう。

   年度   1952 53  54  55  56  57  58  59  60  61  62 63 64 65 66 67 68
八王子五中  14  21 16  13  17  15   15  16   9  14  13  8  8  4  7  4  2
立川三中    2   8   9   5   1   8    2   4   ×

   年度 → 69 70 71 72  73 74 75 76 77 78  79  80  81  82 83  84 85  86  87
   八五中→ 5  6  4   2   5  5  5  6  7   4   5  6  12  13 17  9  18  28  22

3 夜間中学・関係者の証言と資料
 八王子および立川の夜間中学が開設されて、すでに40年あまりが経過した。当時の関係者について、とくに開設経過の証言を得るため、その消息をたずねた。開設にあたってはそこにかならず誰か(校長、教師、行政関係者、あるいは地域関係者など)の努力があったに違いないからである。当時の教職員のリストなどをつくり、長く夜間中学の仕事にかかわってこられた見城慶和氏(現・小松川二中・日本語学級担当教諭)などの助言も得ながら、関係者をさがし、あるいは「尋ね人」の要領で、住所・電話などを追っかけた。しかし結果的には期待した方々に行きつくことが出来なかった。もうすでに物故されていたり、ご存命の情報はあっても、知り得た電話からは別の人の声がむなしく聞こえるばかり(八王子五中・石川元重氏、熊坂欽二氏など)、という具合であった。
 ただ立川三中の風間方美氏は、すでに90歳をこえる長命でありながら、まだお元気のご様子であり、ご子息と接触できたが、すでにご記憶も定かでなく、資料なども残されていないとのことであった。また八王子五中の故阿川元教諭は、同校・夜間部の現主事である阿川雅俊氏の厳父であり、あるいは当時の記録や資料をおもちではないかと期待している。立川三中には、当時の夜間中学にかんする記録はほとんど残されず、八王子五中には若干の資料が保存されている。

 以下、立川三中(資料A)および八王子五中(資料C)に保存されている記録及び小松川二中資料室に収集されている資料(資料@B)のななかから、重要と思われるものを4点選んで、一部抜粋のうえ収録する。
 なお、この資料収集の過程で、次の方々のご協力をいただいた。記して感謝を申しあげる。見城慶和氏(前記)、阿川雅俊氏(前記)、立川市立第三中学校(教頭先生)、八王子市立第五中学校(夜間部諸先生)、江戸川区立小松川第二中学校(資料室)ほか。

[収録資料](略)
 @立川市立第三中学校・夜間部の開設から廃止まで (東京都夜間中学校研究協議会編「東京都
  夜間中学校十四年の歩み」1964年、25〜28頁)
 A夜間中学の反省(風間方美)(立川市立第三中学校・創立十周年記念誌「足跡」1961年、16〜
  17頁)
 B八王子市立第五中学校二部「学校要覧−昭和三十年三月末現在」(抄録)
 C八王子市立第五中学校「二部文集」5編(1958年)








6,八王子の織物青年学級・織物学校

                東京都立多摩社会教育会館
                    「戦後三多摩における社会教育のあゆみ」第Z集(1994年)所収



1,地場産業と社会教育

 戦後日本の社会教育は、地域の産業やそこで働く労働者の職業訓練等とは直接に関わらないかたちで展開されるというのが一般的であった。
 しかし、教育基本法第7条は「−−勤労の場所−−において行なわれる教育」を含めて国および地方公共団体が社会教育「奨励」につとめるべき責務を定めている。そして、文部省・社会教育局長と労働省・労政局長による労働者教育にかんする「了解事項」(1943・7・28)にもかかわらず、実際に地域・自治体レベルにおいて、地場産業の技能者養成や 職業訓練に関連して具体的な社会教育事業・実践に取り組む事例も見られたのである。それは、必要な条件整備も不充分であり、決して本格的なものとは言えない水準のものであったが、自治体の社会教育行政が「当該地方の必要に応じ」(社会教育法第5条)ようとした挑戦の軌跡として注目しておく必要があると思われる。
 その一つは、言うまでもなく「青年学級」の歴史にみることができる。いまあらためて青年学級振興法(1953年)をふりかえってみると、教育基本法・社会教育法をうけて、そこには「−−勤労青年教育がわが国の産業の振興に寄与−−」(同第1条)するものであり、「−−勤労に従事し、又は従事しようとする青年に対し、実際生活に必要な職業又は家事に関する知識及び技能を習得−−」(同第2条)させようとする青年学級の事業が規定されている。
 東京都の場合とくに初期の青年学級(実験学級)において、単に地域だけではなく「職域・職場で勤労青年をとらえていく」視点が考えられた。たとえば岡本ゴム青年学級(江戸川区)をはじめとして、東京商工青年文化教室(中央区)、八王子織物青年学級(八王子市)などの事例がそうであった。(東京都都立教育研究所「戦後東京都教育史」下巻・社会教育編、1967年)
 八王子市の場合、明治以来の重要な地場産業であった織物工業は、第二次大戦末期の戦災(1945年8月2日・八王子空襲)により大打撃をうけたとはいえ、戦後復興のなかで活況を取り戻していた。人口9万5千人の規模で、織物工場数はすでに1000を越え、そこに工員として働く男女青少年労働者は、5000人以上と推定されていた。そして「これらの人々は大部分が小学校卒又は中学校卒程度で教育を受ける機会に恵まれない人たち」であった(八王子市教育委員会社会教育課「八王子市青年学級について」1954年)。
 八王子市教育委員会が八王子織物協同組合と協議して、これらの織物工業に働く青少年労働者のみを対象として「織物専門成人学校」を開設したのは、1951年ないし1952年(註参照)のことであった。織物専門成人学校は、前記1953年青年学級振興法制定以降は「青年学級」となる。ただし八王子織物協同組合のサイドでは、「青年学級」という名称は使われず、この事業を「織物学校」と称してきた。→後掲資料@参照

 〈註〉「織物専門成人学校」の開設年については、記録によって「昭和26年」(1951年)とするものと、「昭和27年」とする記述があり、必ずしも一致しない。
 (1)八王子市教育委員会による記録は「昭和26年春」としている。→後掲資料A(略)参照
 (2)八王子織物協同組合の「事業報告」あるいは「組合報」によれば、昭和27年3月に開設され、同4月より開講されたものと判断される。
 たとえば同「事業報告」昭和26年度(昭和26年4月〜27年3月)は次のように記している。
 「八王子織物専門成人学校開講:八王子市内外の織物工業従業者を対象としてその一般的教養と職業専門技能を向上(1字アキ)助成することを目的とし八王子市教育委員会並びに本組合共催の八王子織物専門成人学校は三月三十一日第一小学校で開校式を挙行した。四月一日より五月二十三日に至る六週間にわたる予定で毎週五日間二時間宛、織物原材料、電気、時事、洋裁、珠算、そのほかが開講されるが、受講申込は男子九二名、女子二一六名に達した。」 ここにいう「三月三十一日」は昭和27年と考えられる。→後掲資料@「組合報」1952年3月15日号(略)参照       
 (3)『八王子市史』上巻(1963年)は次のように記述している。   
 「本市成人学校の開設は、昭和二六年二月、第八小学校を会場として開かれたのが初めてである。主眼は、生産関係の指導と、職業指導とにおき、農閑期を利用し農業・生活改善を中心としたものであった。科目は農業経営・生活改善・郷土史・政治経済・時事問題・英語・珠算・家庭医学・音楽・洋裁・文学等で、講師は小・中・高校の教員および東京都技師外各々の専門家を招き、二三二名の受講申込みを得て成功裏(ママ)に終了した。
 続いて翌二七年四月、本市教育委員会の主張であった地域社会の生産と直結した社会教育の推進という観点から、本市主幹産業である織物業の女子従業員を対象に織物専門成人学校を開設した。課目は、原料学・時事問題・洋裁・華道・珠算・電気・郷土史・保健美容・音楽等で、245名の受講生をもって開講された。」

 このように「織物専門成人学校」の開設年度は資料により一致しない。またその内容や人数等に関する記述も一様ではない。今後他の資料の検討も含めて確定していく必要がある。いまの段階では相対的にみて、『八王子市史』上巻の記述が事実に近いのではないかと思われる。

2,青年学級の展開過程

 八王子市の公民館の制度化と設置(1962年)は、三多摩他市町村よりおくれるが、青年学級(その前身としての成人学校)の取り組みは比較的に活発であった。1951年の成人学校(ないし織物専門成人学校)を前史として、53年以降は「織物学校」(男女)2学級、同年の青年学級振興法施行に伴い「織物青年学級」となり(八王子市教育委員会「八王子市青年学級について」前掲)、さらに周辺6村の町村合併により農村部青年学級をあわせて7学級(1955年)、最盛期には11学級を数えた(1959年、1961年)。この時期、八王 子市は東京都のなかでも青年学級がもっとも多い自治体であった。
 *後掲・別表参照(八王子市教育委員会「八王子の青年学級−女子青年学級開設20周年」1973年)
 この間には全国規模での成人学校研究大会(文部省、東京都、八王子市共催、1952年)が開かれ、「織物専門成人学校」が注目をあつめた経過もある。また1955年には関東地区青年学級大会も八王子市を会場として開催されている(1955年)。
 しかし1950年代後半の繊維工業の不況、また1960年代の農村地域変貌、都市化現象、さらには高校進学率の上昇等により、織物青年学級をふくめて青年学級生数は減少の一途をたどり、とくに1960年代後半には青年学級は大きく衰退していくことになる。
 八王子市における青年学級の推移は概略次のようであった。

[八王子市青年学級略年表]
1951年 「成人学校」または「織物専門成人学校」
1952年 「織物専門成人学校」(男女、約480名)、小学校3教室開放
     全国成人学校研究大会(文部省等主催)
1953年 「八王子織物学校」として男(都立繊維工業試験場、織物技術中心)、女(第一小学校、
     家庭科中心)別々に学習
     青年学級振興法により「織物青年学級」男女2学級(男100名、女59名)となる 
1954年 「織物青年学級」男子部103名、女子部40名
1955年 女子だけの「織物青年学級」として独立(教育委員会所管)、町村合併による周辺農村部
     6村の青年学級をあわせて7学級、関東地区青年学級大会の開催
    *ただし八王子織物協同組合「組合報」「事業報告」等によれば、この年も「男子部」は「八王
     子織物技能者共同養成所」として募集(再募集)、入学式・修了式を行なっている
     →後掲・資料@(略)参照
    *「八王子市立織物学校」という名称も(通称として)使用されている(同「女子教養部生徒会」
      発行「織音の中から」1955年→後掲・資料B(略)参照
1956年 八王子市・青年学級連絡協議会の設置(毎月定例会)
1957年 7学級
1958年 7学級
1959年 浅川町の合併、由井地区に3学級新設、計11学級、ただし学級生数は減少
1960年 10学級
1961年 11学級
1962年 10学級、織物関係の女子従業員に限定せず対象を一般女子青年に広げ「八王子市女子
      青年学級」とする(織物青年学級の名称は廃止)
     *ただし八王子織物協同組合のサイドでは、「織物学校」女子部の名称を引き続き維持し
      「青年学級の一環として開講中である」としている→後掲・資料@「組合報」「事業報告」略
1963年 学級生数減少、内容の伴わない学級は廃止し4学級とする、婦人層の多い学級は「社会学
      級」に衣替え
1964年 4学級  
1965年 4学級 横山青年学級中止、八王子市公民館に新しく「中央青年学級」開設、しかし継続で
      きず
1966年 2学級(女子青年学級、恩方青年学級)
1967年 1学級(女子青年学級のみとなる、会場・第2小学校の教職員の協力あり)
1968年 1学級
1969年 1学級
1970年 1学級
1971年 1学級
1972年 1学級(女子青年学級20周年、記念誌発行)
[別表 八王子市青年学級在籍者数の推移−1953〜72年] (略)








社会教育と住民パワーそのあゆみと展開
                  
                  月刊社会教育・1998年7月号(内田純一と共同執筆)


1,はじめに
 
 東京・三多摩の社会教育や住民運動は、これまでに多くの注目を集めてきた。たとえば本号・特集の「ねらい」(編集部)は次のようにいう。
 「三多摩テーゼ創生の背景には、一九六〇年代半ば以降の急激な都市化で噴出した生活課題、地域課題に対する住民のさまざまな運動や実践の蓄積がある。
 三多摩社会教育のあゆみは“はじめに住民ありき”と言われるように、住民自治を基本とする運動、実践の宝庫である。この運動や実践が公民館や社会教育行政の質や量を豊かにし、同時に公民館で学んだ住民がくらしをひらく自治の力をつけていくという、相互の螺旋関係をもって発展してきたのが三多摩社会教育の特色だと言える。」
 筆者(小林)はこれを複雑な思いで読んだ。たしかにそう評価される側面はあるかもしれない。いや、そうあってほしい。しかし反面、「蓄積」や「宝庫」、あるいは「相互の螺旋関係」などがそんなに豊かに存在するかどうか、なにか気恥ずかしい思いが残るのも否めなかった。
 三多摩の社会教育や公民館活動については、「三多摩テーゼ」など多くの喧伝が重ねられるなかで、ある種の虚像的な部分が増幅されてきたきらいはないだろうか。歴史的な展開のなかで、蓄積や住民自治のエネルギーが前向きに発展してきているだろうか。また「住民パワー」それ自体の新しい展開はどうか。
 これまでの歩みをふりかえり、その実像的な現実をしかと見つめ、これからの課題を確かめてみる必要があるだろう。

2,東京の社会教育の苦難の歩み 

 まず三多摩を含めて、東京の社会教育の歴史的な特徴、その実像を簡潔にみてみよう。全国的な比較からみて、それは決して先進的なものではなく、むしろ苦しく、厳しい道程で始まった。戦後五〇年の前段階の歩みとして、次のような特徴があげられよう。
 1、戦後教育改革期において、首都東京は戦災の痛手がひどく、さらにその後の人口急増・都市化の急激な進展のなかで学校教育整備に追われ、社会教育の計画化は大きく立ち遅れた。
 2,国から下ろされてくる初期の社会教育施策は、大都市の地域性に直ちになじまない側面があり、たとえば農村型の公民館構想は東京(とくに二三区)になかなか定着をみせなかった。公民館の普及率は全国でもっとも遅く、そして低い水準であった。
 3,東京の特別区制度(区は自治体というより東京都「内部団体」)、そしていわゆる三多摩格差等の条件のなかで、区市町村社会教育職員の体制整備は緩慢かつ不充分であり、人口規模との比較でいえば職員配置状況はつねに貧弱な状況にあえいできた。 
4,ようやく胎動をはじめた公的社会教育も、大都市・東京特有の多様な市民運動、文化運動あるいは労働組合・学習文化運動などとの接点をもちえず、草の根の住民パワーと出会う状況などただちには創出されなかった。

 ひとつ興味深いのは、戦後東京の社会教育が、国の社会教育法制や施策の上から下への単純な浸透定着という経過をたどらなかった点である。二三区にほとんど公民館が設置されなかった事実(三区のみ設置、現在は練馬区1館のみ)、社会教育委員制度もまた普及が限られてきたこと(二三区中十区のみ)、あるいは派遣社会教育主事制度を東京都のみ受け入れてこなかった事実などはその例証である。これらはある意味で、地方公共団体としての独自性や自治性を示していることでもあろう。
 とすれば国の法制や施策にかわって、東京都独自の計画や自治的な制度の展開がみられたかどうか。公民館制度にかわる青年館の設置(一九六〇年代後半)や社会教育委員にかわる青少年委員制度(一九五三年創設)等は東京都独自の施策であったが、その後の経過から明らかなように、広範な展開に至らず、積極的な役割を発揮することにならなかった。
 大都市固有の条件を活かした施策、たとえば、多彩な大学開放施策、都市型の成人学校、職業訓練施設との連結、国際化に対応する社会教育事業、あるいはユニークな社会教育施設計画、そして住民の民間学習・文化運動の公的援助など、東京で考え得る独自の社会教育構想は、未発のまま推移してきたのではないか。強いてあげれば、その後の革新都政下(一九七〇年代)に大きな展開をみせた公立図書館の普及が東京らしい独自の展開と言えるのかもしれない。
 なによりもこの段階では、民間の市民運動や地域の住民パワーとは大きく遊離したかたちでの公的社会教育の歩みであった。

3,革新自治体の社会教育がもたらしたもの
 
 戦後五〇年の後段階は、東京の場合、革新自治体の登場を重要な契機とする。美濃部都政の出現(一九六七年)だけでなく、三多摩のかなりの自治体で革新市政の新しい潮流が始まった。これを背景として、一九七〇年代の社会教育はどんな展開をみせたのだろうか。
 1,住民主権にねざす社会教育の新しい理念が提示された。たとえば東京都社会教育委員の会議答申「東京都の自治体行政と都民の社会活動における市民教育のあり方について」(一九七三年)は、この時期の新しい社会教育の方向を求めた象徴的な文書であるが、キーワード風にいえば「主権者としての市民」「市民活動と市民教育の支援」「都民の学習する権利」「住民参加の社会教育行政」などの諸理念が新鮮なひびきで登場している。
 2,自治体の社会教育計画が意欲的に策定される時代となった。東京都としては「社会教育長期計画」(一九六五年)がはじめての体系的な計画化の試みであったが、革新都政下ではさらに「社会教育振興整備計画」(一九七一年)同「改訂」として拡充された。たとえば立川社会教育会館(当時)のような都立広域施設を20館ないし13館を設置する構想等が示されていた。区や市でも新しい社会教育「計画」「答申」「助言」等が作成され始める。┫都だけでなく、各自治体においても自らの政策や計画を編成する努力があり、またそのなかで社会教育専門職集団の役割も社会的な評価を得るようになってくる。
 3,社会教育行政の方向としては、「社会教育施設を中心とする体制と援助者としての専任職員の配置」(前記・答申)が課題として追求された。この時期に図書館振興政策(一九七〇年)と司書職制度の拡充案(一九七二年)が出され、そして公民館関係者による「新しい公民館像をめざして」(いわゆる「三多摩テーゼ」、一九七三〜四年)が発表されたのである。
 4,公的社会教育の展開のプロセスにようやく住民が積極的に位置づくようになってくる。たとえば、社会教育における市民要求の尊重、住民参加による事業編成、住民主体の学級・講座づくりなどの新しい方向が、住民自身による主体的な学習文化活動を育て、また民間の市民運動、文化運動と公的社会教育との接点を創り出すという状況が生まれた。
  
 しかし多くの問題点があったことも事実である。たとえば、社会教育の新しい理念が果たしてどのように具体化され実践化されたか。施設・職員等の条件整備を求める積極的な計画は現実にどのように実施に移されたのか。
 東京都の社会教育関係者が求めた計画構想は、美濃部革新都政下・知事部局の行財政実施計画のなかには(図書館・市民集会施設の一部建設を除いて)具体的に盛りこまれなかった。革新自治体は総じて社会教育の古い体質の批判にきびしく、しかし新しい施策の構築には蓄積がよわく、とくに行財政上の措置にはむしろ冷淡であった。図書館建設の補助金も一九七〇年代後半の都財政の窮迫化にともなって打ち切られた。専門職としての司書職制度も実現しなかったし、三多摩テーゼにいう「人口二万人に1館、二〇〇〇u程度の施設規模と職員数8人」の公民館配置計画も行財政施策としては空論に止まった。
 都立広域社会教育会館構想は保守都政のもとに造られた1館(立川)のみで打ち止めとなった。故磯村英一氏を中心に策定された全都主要ターミナルに広域「社会教育センター」を設置しようとする構想が、20館は無理としても、せめて二三区にあと1館の具体化もみなかったことが惜しまれる。
しかしこの時期に提起された住民参加、住民主体、住民自治に根ざす社会教育の考え方は、一九七〇年代以降の実践・運動の基本理念として広く支持されていく。もちろん自治体によって格差はあるが、こういった理念に基づく社会教育における住民パワーの胎動が始まる。その後、図書館建設の補助金は打ち切られたが、図書館づくりの住民運動は各地にひろがり、また「三多摩テーゼ」の説く「四つの役割」「七つの原則」の理念に触発されて公民館づくり運動もまた各地で多彩な展開をみせるのである。
 一九七〇年代は、社会教育や公民館をめぐる「行政の時代」「職員の時代」から、明らかに「住民の時代」へのステップを刻みはじめた一〇年であったと言えるだろう。

4,社会教育をめぐる住民運動、その展開

 東京都立多摩(旧、立川)社会教育会館は、この一〇年来、三多摩の社会教育の歴史を掘る作業を継続し、各年次の報告書をまとめてきた(同会館『戦後三多摩における社会教育のあゆみ』一九八八年以降)。同・第\集(一九九六年)では「社会教育をめぐる住民運動ー一九七〇年代を中心にして」を特集している。ここには三多摩のほぼ全域からの報告が収録されているが、七〇年代は「社会教育にかかわる住民の期待や意識が前進し」「新しい社会教育を求める住民の諸運動がさまざま取り組まれた時期であった」という。それまでにない状況が動きはじめている。この報告書をよむと、あらためて一九七〇年代の「社会教育をめぐる住民運動」の活発な風景がよみがえってくる(ちなみに同第Z集・一九九四年版は「三多摩テーゼ二〇年」特集)。
 自治体の社会教育の体制は、歴史的にみると、一つには戦後初期ほぼ一〇年の制度創設期の歴史と体験によってその骨格がつくられ、あと一つ、一九七〇年代の住民パワーとの出会い、住民の学習・文化運動の質量によってその内実が形成されたと言えないだろうか。この時期の住民との出会い、その緊張と連帯の体験の如何が、その後の自治体社会教育の展開を左右するところが大きかったと思われる。
 前記・報告書に取りあげられている二六事例余はまことに多彩である。公民館・図書館等の施設づくり運動、自主サークルや文庫活動、社会教育委員や審議会委員とのかかわり、職員(配転等)問題への取組み、学級・講座・事業の自主編成、公民館保育室運動、障害者青年学級への取組み、社会教育を考える「市民の会」等の活動、子ども劇場運動等の地域文化運動、など躍動的な内容であった。
 冒頭にふれた「はじめに住民の学習ありき」(手塚英男、本誌一九九一年七月号)という場合も、住民と自治体の公的社会教育の関係は単純なものではない。歴史的には、両者は調和的というより、多くは遊離しまた対立しあう歴史があり、むしろ相互に無関係の状況が普通であった(第一段階)。公的社会教育と住民の結合的な関係はもともと社会教育法の理念が求めた方向であるが、両者がともに矛盾を内包しつつ、それぞれへの期待と要求をもちあう「出会い」が始まるのはその後のことである(第二段階)。三多摩では一九六〇年代後半からとくに七〇年代がそういう時代であったと言えよう。そしてお互いの役割と可能性を認知しつつ相互に協同し支え合う「螺旋」的な関係(第三段階)が発展的に期待される。いま、地域・自治体の社会教育がどのような発達段階にあるのか、公的社会教育と住民パワーの関係を歴史のなかで問いあう必要があろう。
 ところで、公的社会教育と住民活動の接点にあるのは社会教育職員である。住民との出会いを求め、両者の結合的な関係を創り出す努力は、いうまでもなく社会教育職員集団のだいじな役割であった。三多摩では、一九六〇年代に社会教育職員の集団的なつながりが生まれ、自治体をこえる横断的なネットワークが一つの水脈となって動きはじめている。「三多摩社会教育懇談会」(いわゆる三多摩社懇)「三多摩新人会」「西多摩社会教育主事会」などがそうである。しかしこの段階では、まだ住民活動家たちの参加はみられない。職員主導の動きであった。三多摩テーゼ作成にしても、職員と研究者による作業であって、住民はまだその「読み手」の存在でしかなかった。
 しかし七〇年代後半になると状況は大きく展開していく。社会教育にかかわる住民集団の組織と活動が、職員集団の活動に伍して、三多摩社会教育を支えるあと一つの地下水脈となって流れはじめる。たとえば社全協三多摩支部活動、東京都公民館連絡協議会(都公連)の諸集会、立川社会教育会館・同市民活動サービスコーナー、などの活動のなかに住民層の主体的な参加がみられるようになる。この時期に東京二三区では「民主的な社会教育を発展させる都民の会」も活発な活動を展開していた。「三多摩テーゼ」についても、その読み手からいわば「創り手」への意識の転化が見られる。公民館の発展をもとめる住民パワーによってその後の低迷する公民館を支える状況も生まれてくるのである。

5,住民パワーの新しい局面
 
 その後、一九八〇年代か九〇年代への社会教育をめぐる住民パワーの展開はどのようなものであったのだろうか。いくつかの新しい局面を要点的に示してみよう。
1、行財政改革、社会教育施設の委託合理化等にともなう社会教育職員集団の流動・縮小傾向と、八〇年代住民運動の退潮のなか、社会教育にかかわる住民活動の全般的な停滞。
2,しかし新しい胎動もはじまる。地域のなかの住民相互の、また地域・自治体をこえる広がりでの、横断的な協同・ネットワークづくりの努力。この点では「市民活動サービスコーナー」等の役割が大きい。
3,公的社会教育の問題にせまく限定されない、環境、福祉、子育て、平和、地域国際化(外国籍住民)等の新しい諸課題に取り組む住民活動の新たな取り組み。
4,対行政要求、公的条件整備中心の住民運動にとどまらない自立的、協同的なネットワーク重視の新しい非営利市民活動(NPO)の動き。
このようななかで、公的社会教育から巣立ってきた自主的な住民たちだけでなく、新しい現代諸課題に取り組むさまざまな住民ネットワーク活動が、ときに競合し、ときには連動しながら、これまでにない住民パワーのこれまでにない拡がりとなってきている。それが公的な社会教育に新しい息吹きと課題を吹きこむ状況も生まれてきている。
 一つの例をあげてみよう。その典型的なものとして「日本語教室」への取り組みの事例がある。三多摩の場合、八〇年代半ば以降、身近に外国籍住民が増えてくるなかで、地域のなかでこれを支援する住民活動が増加する。単に教育や子育て問題だけではなく、生活全般にかかわる協同的な生活支援のネットワークが胎動してくる。公的社会教育における「日本語教室」などが開設されるのは、これらに刺激される形で遅れて出発することになる。外国人住民への生活支援は、オーバーステイの問題もあり、公的なセクションとしては触れ難かった(見えなかった)課題でもあったが、明らかに住民パワーの取り組みが先行して社会教育実践の新しい展開がみられたのである(東京学芸大学社会教育研究室『東京の識字実践1992』、同『1994』を参照)。
 いま三多摩で、公民館の日本語教室の事業は、日本語支援にとどまらず、医・職・住や
子育てといった生活全般にかかわる課題への取組みを求められてきている。そこでは、日本人住民と外国籍住民との協同の取り組みがあり、医者・不動産屋・教師など、さまざまな人々が重層的にかかわる新しいネットワーク活動を生みだしつつある。さらに、従来の
公的社会教育の「講師−職員−住民」という枠組みに加えて、「スタッフ」(主に日本語ボランティア)等の、公民館にかかわる新たな活動主体を登場させ、それらを地域の住民パワーが支え、また新たな住民パワーを創出してきている。

6,新たな視点・発想の転換を−まとめにかえて−

 しかし住民パワー展開のなかにはつねに矛盾がうずまき、また停滞をふくむ地域的な状況の違いもあるだろう。しかしこの新しい潮流のなかで、公的社会教育と住民パワーの相互の関連をどのように考えたらよいか。新しい視点にたって、発想を転換していく必要が求められている。さしあたり三つのことを提起しておこう。
1.公的社会教育への「住民参加」を重視してきた発想から、それに加えて、住民パワーへの「行政参加」を追求していく視点。行政・施設が主体ではなく、あきらかに住民の学習と活動とその豊かな拡がりこそが基本なのであって、それに公的社会教育がどう「参加」していくか、を考える時代が到来したのではないか。
2.公的社会教育や公民館活動のこれまでの慣れ親しんだ事業編成を再構築する。たとえば学級・講座、各種事業の「住民へ提供する」式の安易な発想から、住民パワーのネットワークづくりや内的活性化にどう「参加」していくか、「個々の住民」に向けての「講師−職員−住民」といった単層的な事業論から、重層的広がりをもつ公民館事業へと転換していく。この点は生涯学習事業のあり方の基本的な見直し、その再構築の視点としても共通する課題であろう。
3.三多摩の社会教育・公民館にかかわる住民活動は、広く地域に広がりをもっていることは確かであろうが、その意識や活動スタイルはむしろ基礎的な「地域」(町会、自治会、集落、校区など)から遊離し、その意味で広域「市民」運動的な側面が一つの特徴でもあった。たとえば全国的に普及している「自治公民館」は存在せず、三多摩テーゼもこれにまったく言及していない。
 しかしあらためて住民生活の日常的基盤、住民自治の基礎単位としての「地域」のもつ意味、本稿の課題である住民パワーの基層としての「地域」活動について、新たな発想をもってその可能性を“発見”する必要がある。地区会館やコミュニティセンターを拠点とする草の根の住民活動との関連も当然視野のなかに入れるべきであろう。「地域」からの環境、福祉、子育て、人権など、くらしの諸課題への取り組みは、都市部だからこそ、むしろ重要な視点となるはずだ。
 その意味で住民パワーと社会教育の関係についての新しい発想の転換が求められている。








(1)市民活動支援の歩み、その歴史を語り継ごう
            ー市民活動サービスコーナー30年ー               
                  
       東京都立多摩社会教育会館市民活動市民活動サービスコーナー 
               『市民活動のひろば』第36号・最終号(2002年3月)

 驚いたことに『市民活動のひろば』が最終号という。まさかこの時期に「市民活動サービスコーナー」が閉じられるとは思いもしなかった。ものごとには歴史があり、いつかは終わりがあるものだろうが、“いまNPOの時代”に「市民活動」支援の独自な役割を果たしてきた「コーナー」を終焉させるというのは、なんとも残念!の一語につきる。どうしてこういう事態になったのだろう?
 サービスコーナーを人にたとえれば、いまだ三〇才の働きざかり、これまでの蓄積をもとにまさにこれから本領を発揮する有為の若者。今こそ出番というときに挽歌を綴らなければならないことになる。なんとも辛く悲しい。気は重く筆もすすまない。
 しかし三〇歳の足跡は貴重だ。いったいサービスコーナーの三〇年は何であったのか。
二〇世紀に生をうけ二一世紀に向けて何を創り出そうとしてきたのか。私たちはその道程をしっかり確かめあい語り継ぎ、これからの歩みに生かしていく必要がある。
 振り返ってみれば、都立立川(現・多摩)社会教育会館に「サービスコーナー」が誕生したのは一九七二年。当時の三多摩は、人口急増と激しい都市化の波のなか、古い地縁的な団体や社会関係が大きく後退し、新しい市民の活動やサークルがようやく活発に登場してきた時期であった。そのような状況を背景として、行政主導の社会教育が脱皮を求められ、公民館の新しいイメージが創り出され(いわゆる三多摩テーゼ「新しい公民館像をめざして」、一九七三年)、これらと重なって、社会教育会館事業係の意欲的な取り組み(たとえばセミナー方式による職員研修)があり、そして、市民活動サービスコーナーの躍動的な展開がみられたのである。三多摩の公民館テーゼ、職員セミナー、サービスコーナー等の動きは全国的な注目を集めてきた。
 なかでもサービスコーナーの挑戦は、旧来の行政と市民の関係について重要な問題提起を含み、市民主導の新しいあり方を問いかけてきた。その意味で先駆的な試みであった。基本的なところをいくつかあげてみよう。
 まず、行政と市民の対峙的な構図のなかで、いわばその中間点に位置し、市民こそが主体であり、行政はその活動を援助しサービスするという視点を提起したこと。市民と行政の相互のパートナーシップと協同への模索、ということもできよう。
 事業のなかでとくに注目されるのは、市民と市民の、市民活動相互の、そして地域と地域の、多彩な交流と“ひろば”の思想を具体化しようと挑戦してきたこと。サービスコーナーを拠点として三多摩の市民活動の輪が拡がってきた。
 さらに社会教育行政との関わりをもって、市民活動における“学習”実践を位置づけ、その条件整備に努めてきたこと。市民が主導し企画する質のたかい学習活動が(私的な試みにとどまらず)新しい公共性をもって定着してきた。
 これらに関連して(図書館資料として収蔵されにくい)市民活動の資料、実践・運動の過程で作成されてきた(多く散逸しがちな)記録や報告、チラシ・ポスター等や新聞記事を含めて、収集・保存・展示・公開などの資料室活動が蓄積されてきたこと。個別の活動の小さな資料が、三多摩全域のかけがえのない財産として共有され、貴重な活動資料・地域史資料としての価値を与えられ活用されてきた。
 このような視点から、サービスコーナーの諸事業、たとえば「つどい」等交流集会、講師派遣、印刷コピーサービス、集会室提供、相談サービス、そして図書・資料室活動、各種展示活動、「だより」「市民活動」の刊行物発行、などが具体的に展開され、この三〇年間に蓄積されてきたのである。
 もちろん、職員・スタッフの体制や予算的な条件は貧弱であって、つねに課題をかかえ、苦悶・呻吟し、多くの混迷や矛盾を含む歩みだったに違いない。しかし三〇年の歳月は、草の根の市民活動を援助し続け、団体相互のネットワークを三多摩各地に形成し、さまざまの現代的課題に取り組む社会的な活力を創出してきたことは確かであろう。
 市民活動サービスコーナーの歩みのなかで、三多摩の地域と市民が、行政とも協同して蓄積してきた社会的な(その意味で公共的な)財産を見失うことがあってはならない。この歴史を語り継ぎつつ、さらにこれからどう発展させていくかが課題として問われている。

8,(2)地域の活力を生み出す市民活動をー2009年を迎えて     
      「市民活動のひろば」発行委員会(アンティ多摩)2009年67(1・2月号)

 二〇〇九年は、社会教育法の制定(昭和二四年)からちょうど六〇年の年にあたる。この間いくたびも法改正があったが、制定当初の基本骨格は変わっていないと言えよう。六〇年の歳月のなかで、法はどのように定着し、何を創り出してきたのだろうか。
 また市民活動団体にとって昨年は、特定非営利活動促進法の制定(平成一〇年)から一〇年の年であった。ボランテイア活動や「市民が行う自由な社会貢献活動」(第一条)は、社会教育と深い関連をもっている。この一〇年はいったいどんな歳月であったのだろう。
 東京の社会教育法の定着は、たとえば公民館の設置状況に見られるように、全国的にみて遅れた歩みであった。しかし(とくに三多摩地区において)一九六〇年代から七〇年代の社会教育に関わる市民意識や住民運動には躍動的な展開があり、全国的な注目を集めてきた。残念なことに八〇年代以降は、行財政改革やそれと連動する生涯学習施策の導入、そして最近の新自由主義路線による規制緩和や民間委託等の流れのなかで、社会教育の公的体制は全般的に停滞し後退が目立つ。
 しかし地域の社会教育史を調べていくと、社会教育行政の事業や施設の実践は、実に多くのものを生み出してきたことに驚かされる。市民が個人として学ぶ機会を用意しただけでなく、そこから地域の自主サークルが生まれ、文化活動が胎動し、あるいはPTA活動、地域教育運動、消費者運動、環境・福祉に関わる市民運動など興味深い展開があった。もちろん地域史的な格差や曲折もあり、世代的な断続もみられるが・・・。
 この一〇年の市民活動の新たな展開もまた、歴史をたどれば、社会教育の地域史に源流をもち、その水脈からエネルギーをもらってきた側面は少なくないだろう。
 しかし市民活動はときに地域から遊離しがちである。たしかにそのテーマやミッションは地域を超えるものもある。つねにグローバルな視野をもつことが期待される。しかし活動の具体的な展開においては、ローカルに取り組む必要があり、“地域の眼”をもつことが求められる。それが、私たちが生きている地域の活力や再生につながってくる。
 東京・三多摩の社会教育史が、いまひとつ地域の活力につながらない側面があり、次なる転換・再生の局面にあえいでいる今、新たな展開を始めている市民活動が、地域の視点をもって、その独自の役割を果たす方向が期待される。
(東京学芸大学・和光大学等で社会教育の研究・教育にたずさわってきた。日本社会教育学会・日本公民館学会の元会長。)

8,(3)市民自らが歴史を創ってきた「挌闘の10年」と「ひろば」
      「市民活動のひろば」発行委員会(アンティ多摩)2012年100(5月号)
 『市民活動のひろば』が100号を迎えたこと、歳月にしてちょうど10年、何よりも着実に、しかも内容豊かに発行が重ねられてきたことに、まずは大きな拍手! 発行委員会と編集協力をしている市民活動サポートセンター・アンティ多摩の皆様の奮闘に深い敬意と感謝を申しあげます。
 10年前のことを思い出しています。東京都立多摩社会教育会館・市民活動サービスコーナーが閉じられ、旧「市民活動のひろば」最終号に綴った "挽歌"のこと。「市民活動支援の歩み、その歴史をどう発展させていくか」というタイトルで書きました。つまり、現「ひろば」はこの10年の歳月とともに、その前身ともいうべき30年の歴史と旧「ひろば」発行の軌跡とつながっています。三多摩の市民活動の、いわば40年にわたる歩みを背景とした現「ひろば」100号の道のりでもありましょう。その間に「ひろば」の発行主体は変わったとは言え、市民活動サポートの思いは一貫して折れずに、歴史的に蓄積され発展されて、この100号を迎えていることを喜びあいたいと思います。
 もちろん旧「ひろば」から現「市民活動のひろば」へ格段の発展がありました。何より自由闊達な編集企画。少ない誌面に、さまざまの内容と思いが、これほど凝縮されている「ひろば」はそうざらにはない、と毎号手にとるたびに(軽い「ひろば」を)重く感じてきました。文字が小さく、古い世代にはやさしくない編集(ときにルーペを出して読む)、しかし単なる情報・お知らせ版にとどまらず、現代的課題を見据えた特集づくりの挑戦もあり、お見事!と思うときが少なくありませんでした。三多摩の現代の地域史へ、市民の側から参加しつつ、その歩みを自ら記録してきた貴重な仕事といえましょう。

 この10年をどう見るか。この間の暗く沈んだ現実や「失われた10年」などの時代状況
にも関わらず、見方を変えれば、市民が歴史を自ら創り出す「挌闘の10年」でもあったと思われます。私たちはその具体的な胎動を「市民活動のひろば」誌面や同封ちらしから発見してきました。市民、集い、ネットワーク、アクション、学校などなど、「ひろば」情報欄から勝手に拾った言葉の中から、その挌闘の歴史が見えてくるように思われ、ずいぶんと元気をもらってきました。"市民"の視点から時代の動きを見据えると、10年前にはなかった新しいい躍動が確実に動いているのではないでしょうか。
 短い紙数なので論議し検討を深めたい具体的な課題を書ききれません。市民活動が"地域の目"をもつ必要があること(67に書いたことがある)、小さな地域共同体づくりの市民活動、子どもと若者へのまなざし、多摩に多数住んでいる(世界でおそらく最も比率がたかい)学生たちとの協働、横のひろがりと縦のつながりの連結、市民活動記録のデーターベース化など。そんな課題を語り合う楽しい場をつくってほしい(「ひろば」の空間化)などを考えあってみたい。
 こばやし ぶんじん=社会教育研究者、東京学芸大学・和光大学元教授、「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」を主宰し、月1回定例研究会を開催、詳細はHP








9,三多摩における公民館の歩みと活動−1960〜1979年代を中心に
            たましん地域文化財団「多摩のあゆみ」144号

                                   
*23区・三多摩の公民館研究→■

 はじめにー首都東京の公民館
 いま日本の公民館が国際的に注目されている。中国の「社区教育」(コミュニテイ教育)や韓国の「平生学習」(生涯学習)が躍動するなか、地域教育や文化活動の拠点として日本「公民館」への熱いまなざしがある。東南アジア(タイ、インドネシヤ、ベトナムなど)でもこの十年来、「地域学習センター」(CLC)が急速に普及しているが、日本の公民館が重要なモデルとして注目されてきた。日本では、最近むしろ公民館が停滞傾向にあることとは対照的な動きである。
 公民館の制度は、戦後日本の教育改革のなかで、社会教育の地域基幹施設として構想された(一九四六年)。戦争で荒廃した地域を復興し、民主主義や平和を希求する新憲法の普及とあわせて公民館の設置が奨励された。法制的には教育基本法(旧七条)・社会教育法(五章)に基礎をもち、図書館・博物館と並ぶ社会教育機関として位置づき、それからほぼ六十年の歳月が経過したことになる。
 全国各地に定着してきた公民館の発達史をみると、その地域実態には大きな格差があった。とくに首都東京は公民館の設置が大きく遅れ、「東京都は都道府県のなかでも公民館制度の定着率がもっとも低い」ところであった(東京都立教育研究所編『東京教育史』通史編四、一九九七年)。周知のように東京二三区は(類似の社会教育施設は一部設置されてきたが)統計的にみて日本最大の公民館空白地である。
 なぜ東京に公民館制度の定着が低いのか、あるいはその普及が遅れたのか。一つは首都東京が受けた戦災が激甚であり、戦後復興と六三三制による学校建設に追われてきた事情がある。社会教育施設の整備まで当時は手がまわらなかった。二つに東京では、文部省「公民館の設置運営について」(次官通牒、一九四六年)に基づく具体的な奨励施策にほとんど見るべき動きがなかった。三つには公民館構想自体の農村的性格によるところがあったと考えられる。他方で、公民館構想にかわる都市的な社会教育・成人教育の施策(たとえば大学開放、成人学校、労働者教育等)の独自な展開がみられることもなかった。国際的にみても、首都東京の社会教育・成人教育・生涯教育における水準は低い状況が固定したまま戦後史が推移してきた。

 公民館制度の低迷
 公民館構想を世にひろめた文部省・寺中作雄著『公民館の建設』(一九四六年)には「新しい町村の文化施設」という副題がつけられていた。この「寺中構想」に基づく公民館は、事実、まず町村・農村部に普及していく。東京でも、当時の農村であった三多摩において設置が始まっている。小平、保谷、立川などの自治体は設置が早く、それぞれ独自の歴史をたどっているが、全般的に公民館構想の導入は遅々とした歩みでしかなかった。
 文部統計によれば、市町村の公民館設置率は全国で一九六〇年代に九〇%を超える。一九六八年の時点で、全国・公民館総数は一万三七八五館、本館に限っても八二一三館を数えているが、ほぼ同時期(一九六五年)の東京の公民館数は本館わずか二二館、分館一〇館、自治体の公民館設置率は三四%にとどまっていた。東京の公民館の普及がいかに遅れていたかが分かる。
文部省は一九五九年「公民館の設置及び運営に関する基準」を公布する。当時の東京の実態は、公民館設置数が少ないだけでなく、施設設備の条件、職員体制、予算等の面で、きわめて貧弱な状況におかれていた。東京都は文部省「基準」から数年後に「公民館調査」報告(「東京の公民館ーその現状と将来」東京の社会教育シリーズnO三、一九六三年)をまとめているが、公民館関係者の悩みは深いものがあった。国の基準それ自体も高い水準ではなく、かつ任意のものであったが、対比して東京の公民館の実態はそれを大きく下まわっていた。たとえば公民館が設置される「対象区域」は、「当該市町村の小学校又は中学校の通学区域」(文部省「基準」第一条)とされていたが、東京ではこの基準に合致する自治体は皆無であった。
ちなみに東京二三区において公民館を設置したのは北区、練馬区、杉並区の三区のみであった。しかし北区は早くも一九六二年に廃止、杉並区は一九八九年に社会教育センター(セシオン)へ移行し、公民館制度を置いているのは練馬区のみである。(その経過は、小林「東京二三区の公民館」東京都立多摩社会教育会館『戦後における東京の社会教育の歩み』通巻]、一九九七年、に詳しい。)

 一九六〇年代〜七〇年代の展開
 しかし一九六〇年代、それも後半になると、三多摩の公民館の歩みは、注目すべき展開を見せ始める。三多摩の急激な都市化状況を背景として、農村的公民館から都市型公民館へ脱皮する方向で新しい歩みが拡がっていく。主要な経過をみてみよう。
 公民館の設置形態は、国立市公民館など市民運動による取り組みも見られたが(後述)、多くは自治体行政による、いわば上からの行政主導による設置がほとんどであった。それだけに自治体行政の施策と条件に左右されることになる。六〇年代には、戦後改革から一〇年余を経過して、公民館等の社会教育施設整備への一定の施策が動いた時期でもあった。
ます、社会教育行政は一九四九年の社会教育法に基礎をおき、一九五二年の市町村教育委員会制度の発足によって新しいスタートをきることになる。それぞれの教育委員会に社会教育行政の組織が置かれるようになり、地域間格差を含みつつ、自治体としての社会教育行政の歩みが始まることとなった。社会教育史としてもこの時期の自治体社会教育行政の始動は画期的なことであった。そして社会教育法が規定する基幹社会教育施設としての公民館の設置について、各自治体が主要な政策課題として検討する時代が到来する。東京三多摩の場合、遅れた出発ながら、一九六〇年代が幕開けとなり拡がりをもつこととなったのである。
この時期には、市町村だけでなく東京都レベルの社会教育行政も活発な動きを始めていた。社会教育主事集団の積極的な意欲もあり、都として初めての体系的な内容をもった「東京都社会教育長期計画」(社会教育委員の会議答申、一九六五年)が策定されている。社会教育施設に関しては、初めて「人口五万人規模に一館、公民館、図書館、青年館等を整備し、社会教育専門職を含めて最低五名の職員配置」などの積極的な提言が含まれていた。もちろん直ちに財政的措置を伴うものではなく、そのまま現実化する計画ではなかったが、地域配置の社会教育施設が重要であるとする課題が明確にされたという点で大きな意味をもつものであった。
さらに同計画では広域の都立社会教育センター構想が盛り込まれていた。第一号として一九六八年「立川社会教育会館」が開館する。社会教育主事集団を含む職員体制と大ホール等の大型施設を備えた本格的なセンター型社会教育施設の登場であった。東京における社会教育センター(全都二〇館構想)の第一号の、結果的には唯一の、都立広域施設であった。三多摩において、いわば"都立"公民館ともいうべき施設機能の展開が始ったのである。立川社会教育会館(のちに都立多摩社会教育会館と改称)が三多摩住民の集会活動や文化活動の拠点施設として、また各自治体公民館の実践交流や職員の相互研修(セミナー方式と呼ばれた)に果たした役割は大きいものがあった。
公民館の設置は、三多摩のうち北多摩が先行し、ついで西・南の両多摩が遅れて徐々に進行していく。一九六〇年代後半から七〇年代以降に公民館設置数は大きく前進することになった(後掲・別表)。東京都教育庁は前述「社会教育長期計画」をさらに発展させて「東京都社会教育振興整備計画」(一九七一年)、「東京都の自治体行政と都民の社会活動における市民教育のあり方について」(社会教育委員の会議答申、一九七三年)等をまとめ、いずれも三多摩における公民館の設置促進の課題を打ち出している。しかし一九六七年から始まる美濃部革新都政による市民自治の施策や、"広場と青空"構想等の計画のなかに公民館が積極的に位置づくまでには至らず、また都の財政計画(東京都「シビルミニマム構想」「中期計画」等)のなかに具体化されることにはならなかった。このことが公民館関係者による「新しい公民館像をめざして」(三多摩テーゼ、後述)運動の大きな契機となったのである。

 職員集団の形成と住民運動
 公民館の施設増は、同時に公民館事業を担う職員集団の拡大につながっていく。とくに専門職としての社会教育主事については、一九五九年の社会教育法改正が市町村教育委員会に社会教育主事を配置することを求め、これが大学等で専門資格を取得した(当時の)若い世代の専門職員集団を公民館に登場させる転機ともなった。個別の自治体に社会教育主事有資格者が配置されることになると同時に、それだけにとどまらず、自治体をこえる三多摩の職員相互の連絡組織や、学習・研修・実践の横の集団形成への道をひらき、「公民館主事」としての職能集団の胎動を思わせるものがあった。
六〇年代後半から七〇年代における三多摩・公民館の躍動は、これら専門職員集団の活発な活動に象徴されているとも言えよう。彼らは行政職員でありながら、公民館の職能団体(たとえば「東京都公民館連絡協議会」都公連)を活性化させ、自治的な学習・研修活動(たとえば「三多摩社会教育懇談会」(三多摩社懇)後述、「三多摩新人会」、社会教育推進全国協議会「三多摩支部」、「西多摩社会教育主事会」等)の多彩な展開を創り出していった。七〇年代になると、前記・都立「立川社会教育会館」主催の各種研修セミナー(青年、女性、成人、少年等の八コース)の成果が自治体レベルの実践にも波及していく。これらの活動に多面的に参加した小川利夫(故人、当時日本社会事業大学)をはじめとする社会教育研究者の果たした役割も見逃せない。
あと一つ、この時期の象徴的な動きとして、公民館をめぐる住民の意識変化と住民運動の拡がりに注目しておく必要がある。公民館活動の初期段階では、公民館構想の農村的性格や行政的体質についての、都市中間層・知識層のある種の違和感や批判がないわけではなかった。たとえば、公民館は行政浸透の末端組織だ、地域保守のたまり場ではないか、といった認識である。しかし次第に、公民館が住民の自由なたまり場となり、自主的な学習活動の拠点として、あるいは従来にない文化運動のひろば的な役割をもちはじめることによって、その可能性への期待が次第に拡がっていく。公民館の実像に対する住民認識には確かな変化が見られるようになっていくのである。
前述「東京都の自治体行政と都民の社会活動における市民教育のあり方について」(社会教育委員の会議答申、一九七三年)は、社会教育行政のあり方に大きな転換を求め、新しいキーワードとして「都民の学習する権利」(都民は知りたいことを知る、都民は学びたいことを学ぶ、都民は集会し学習する自由な場をもつ)を理念として掲げていた。公民館に対してそのような自由な学習の拠点としての期待が増幅していく。一九七〇年代に三多摩各地に広汎に拡がった「公民館づくり住民運動」はまさにそのことを実証していると言えよう。

 国立公民館と公民館三階建論
 三多摩の公民館の歩みのなかで、牽引車的な役割を果たしたのは国立市公民館であろう。多くの公民館が行政主導で設置される流れのなかで、国立の公民館(一九五五年設立、当時は町立)は、地域の民主化や政治刷新を求める市民運動と連動して誕生した。青年・学生(もちろん女性)を含む市民サークル活動・文化運動に支えられ、草の根からの公民館づくり運動の先駆的事例となった。旧施設は自治体警察の転用施設であったが、その後の公民館の運営体制や事業編成が注目された。専門的力量を重視した職員配置(一九六〇年代に六人の専任主事)、活発な公民館運営審議会、毎月発行の「公民館だより」全戸配布、公民館図書室運営、若いミセスの教室と保育室、青年室活動(一九八〇年代に障害者青年学級、「わいがや」喫茶へと展開)など、公民館活動の先頭を歩いてきた。三多摩のまわりの公民館に強い刺激を与え、日本社会教育学会等でも公民館論議の焦点となった時期がある。
 公民館の役割は何か、市民のためにどんな事業を編成していくか。この問いは、公民館創設の時代から関係者がつねに追求してきたテーマであった。国立公民館の場合は、公民館事業を並列的に並べるのではなく、市民の学習の拡がりと深まりの視点から、事業の構造的編成に努力してきた(徳永功「公民館活動の可能性と限界」社会教育学会年報『現代公民館論』、一九六五年)。現代教養講座から集中講義方式へ、そして市民大学セミナー方式(一九六六年〜)へいたる一連の「市民の大学」としての公民館事業論の創出はそのことを示している。
 公民館活動"構造化"に関して、直ちに思い出されるのは「公民館三階建論」(一九六四年)であろう。話は前後するが、前出・三多摩社会教育懇談会(各地の公民館職員、教師、研究者など参加)は一九六一年頃より国立公民館を会場に毎月の熱っぽい議論を重ねていた。当時の三多摩の公民館実践の拡がりを土台にしつつ、論議のなかから公民館の主要な三つの役割論が提起された。いわゆる「公民館三階建論」である。論議の中心にいた小川利夫は次のように書いている。
「…建物を三階にするということではない…公民館活動の形態と内容を、そのようなものとして組織し発展させること…。すなわち一階では体育・レクリエーションまたは社交を主とした活動が行われ、二階ではグループ・サークルの集団的な学習・文化活動が行われる。そして三階では社会科学・自然科学についての基礎講座や現代史の学習についての講座が系統的に行われる…。」(おがわとしお「都市社会教育論の構想」三多摩社会教育懇談会『三多摩の社会教育』研究集録第一集、一九六五年)
 日本公民館史において、三多摩の公民館が広く注目されるようになるのは、この時期からであろう。日本戦後初期公民館の多くが農村的な体質から出発した流れから、いわゆる都市型公民館への脱皮の具体的な方向を示すものであった。この提起は公民館に関する一つのイメージに過ぎなかったが、三多摩の都市化状況のなかで挌闘していた(国立をはじめとする)公民館の事業論・実践論の模索のなかから紡ぎ出されたものでもあった。

 東京都「新しい公民館像をめざして」(三多摩テーゼ)
 
三階建論の提起から九年後に三多摩公民館関係者による「新しい公民館像をめざして」(一九七三〜七四年)がまとめられる。東京都より委嘱された公民館資料作成委員会による報告書であったが、全国の公民館関係者に広く読まれ、社会教育に関する大阪「枚方テーゼ」(一九六三年)、長野「下伊那テーゼ」(一九六五年)と並んで、いつしか「三多摩テーゼ」と通称されるようになった。「新しい公民館像をめざして」(以下、三多摩テーゼ)の作成経過や内容については、本号に別稿が用意されるようなので、ここではその詳細は省略する。公民館三階建論との異同、その後の経過や課題について、いくつかのことを記しておく。
 三階建論と三多摩テーゼは、よく混同されることがある。同じ三多摩の土壌から生まれていること、思想・方向に共通するところがあり、作成に関わった人にも一部重複があることなどによろう。三多摩テーゼの下書きとして三階建論を位置づけている論説もある。  
両者に共通する面があることは否定できないが、しかし基本的にそれぞれの独自性があること、とくに前者から後者への発展の側面を見逃すことがあってはならない。
まず両者の違いは、それぞれ一九六〇年代と七〇年代の公民館実践・運動の地平を反映していることに留意しておく必要がある。たとえば七〇年代の三多摩テーゼ「はじめに」には次のような一節がある。「…三多摩のいくつかの地域で最近新しく公民館を求める住民運動の着実なたかまりが見られます。公民館をもたない地域では公民館設置の諸運動(町田、昭島、福生、田無、狛江、武蔵野など)、その増設運動(小平、国分寺、小金井、八丈島など)、既設の公民館をつくりかえる運動(国立、小平など)が拡がっています。ここ一・二年の間にも稲城、多摩、東大和などの各市で新しい公民館が建設されました。…」
 このような公民館づくりの住民運動的な取り組みは、六〇年代の三階建論の段階では未発の状況であった。あるいはまた、三多摩テーゼに盛られている「標準的施設」表も、これら公民館づくり住民運動による施設要求を反映して論議され作成されたものであった。
 社会教育研究サークルによる三階建論という公民館イメージとは異なって、三多摩テーゼは東京都が委嘱した委員会によってまとめられ、その報告は東京都印刷物として発行された。わずか二千部ほどの印刷と記憶しているが、全国的な反響を得て、各地で多くのコピー・復刻版がつくられ、社会教育関連図書にも転載されるなど、その数は五万部を超える部数になったと推定している。
 内容についても大きな進展があった。項目だけあげても、公民館の四つの役割(住民のたまり場、集団活動の拠点、市民の大学、文化創造のひろば)だけでなく、運営の七つの原則、標準的施設表、いま何をめざすべきか(以上、一九七三年版)、加えて公民館職員の役割論(組織、職務、勤務条件、任用、研修、職員集団)、公民館主事宣言(以上、七四年版)等は、体系的な公民館像の提起となっている。いずれも、当時の公民館実践を下敷きとしつつ、新しい公民館像に向けて創造的な提言を試みるものであった。
 三多摩テーゼについては、その後も残された課題について多くの論議がかわされてきた。理念的すぎること、実践的な事業論の欠落、住民自治論の弱さ、社会的不利益者の学習権保障の課題、とりわけ都市型公民館論の地域・集落からの遊離性など。これらについては、三多摩テーゼが全国的に波及した積極的な側面を含めて、すでに論究したことがあり、詳細はそれを参照していただきたい。(小林「三多摩テーゼ二〇年」多摩社会教育会館『戦後三多摩における社会教育の歩み』Z、一九九四年)

 公民館は地域を豊かにする
 
一九七〇年代初頭までの公民館をめぐる実践と運動が「三多摩テーゼ」を創出し、同時に三多摩テーゼが実践・運動の次なるステージを拓いていくという循環があった。三多摩テーゼは公民館づくり運動(改築・増設を含む)のテキストとしてよく読まれたし、公民館という日本独自の社会教育施設の可能性と展望をえがく見取り図として活用された。公民館職員層だけでなく、住民によく読まれたことも三多摩テーゼの特徴であろう。
 別表「社会教育施設の推移」に明らかなように、三多摩テーゼ以降に、公民館の施設数は着実に増加してきた。区部の公民館数(二館)は変わらないが、三多摩では八〇年代に向けて飛躍的とも言える上昇傾向を見せている。公民館建設に対する東京都補助金等が拡大したわけではなく、建設費を含むほとんどの経費は個別自治体の負担によるものであって、公民館に対する住民要求とそれに応える自治体行政施策が大きく前進したことを意味している。

別表 区市町村社会教育施設の推移(1973年〜1987年)
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施設種別     1973年         1977年        1982年          1987年 
東京       区 市町村  計   区  市町村 計   区 市町村  計    区 市町村  計
──────────────────────────────────────――
公民館       2   32   34   2   57   59    2   74   76    2   82  84
社会教育会館 13    1   14   21    5   26   34   4   38   44    4  48
図書館      77   40   117  101  84   185  140  134  274   167   149 316
博物館・資料館 3    5    8    6   11   17   15   13   28    22    24  46
青少年施設   29    1   30   34   7     41  38   16   54   39    18  57
その他社教施設 8   23    31   24  49   73   23   95  118   38   114  152
──────────────────────────────────────――
合計        132 102   234  188  213  401  252   336  588   312  391  703
───────────────────────────────────────――
         *東京都教育庁社会教育部「区市町村社会教育行政の現状」各年度よより作表

 この別表からは、図書館その他の社会教育施設が大きく増加したことも読みとれる。七〇年代から八〇年代にかけて、一〇年余りの歳月に社会教育施設の総数は約三倍になっている。六〇年代初頭には、図書館が動いている自治体に公民館の影はうすく、公民館が活発な自治体では逆に図書館の設置なしといった実態があった。しかし七〇年代から八〇年代に入ると、平均的な自治体では図書館も公民館もともに活発に動いている時代が到来したのである。同じく博物館や資料館、郷土文化館や他の諸施設も増加し、統計的に多彩な展開をみせていることがうかがわれる。
 公民館をはじめとする各種の社会教育施設が、出会うはずもない住民たちの交流の場をつくり、学習・サークル活動・文化運動などのさまざまな拠点となり、当たりまえの日常的な生活空間・都市空間として機能していく状況が生まれてきたのである。出会いと交流、学習と文化活動の拠点としての公民館は、地域を豊かに創り出していくことにつながる。
 しかし、三多摩テーゼにえがかれたような理念と方向が、そのまま現実となるわけではない。公民館に関しては自治体間の格差も大きく、その後に平坦な道が開けているという単純な構図ではなかった。一九八〇年代に国家的規模で導入される生涯学習政策は、その第一の地域拠点となるはずの公民館については冷淡であって、政策的な振興策はとられなかった。九〇年代の経済バブル期を経て進行する新自由主義政策下では、行財政改革、公共セクター見直し、職員削減、民間委託等が唱導され、公民館など社会教育施設はいま冬の時代を迎えている。とくにこの十年余り、東京都の社会教育行政施策は大きく後退してしまった。
一九六〇〜七〇年代の躍動と蓄積をもつ自治体と公民館、それを支える住民のエネルギーがなお生き続けていることが救いである。戦後改革期から歩き続けてきた公民館へかける思い、それから六〇年の歳月。一九六〇〜七〇年代に躍動した公民館の時代からもすでに三〇年が経過した。いま国際的にも大きな期待を寄せられる公民館。現代的な課題に応える公民館の再生と再創造をめざして、われわれは再び重要な基点に立っている思いである。
 (こばやしぶんじん  東京学芸大学名誉教授  日本公民館学会初代会長  杉並区在住


掲載写真・別掲(古いアルバム bP1)→こちら◆
三多摩の公民館運動を担った群像 (1991年9月撮影) 
敬称略  
 後段<左より>:内田和一(立川社会教育館→都庁)、横山宏(早稲田大学)、北田耕也(明治大学)、佐藤進(国分寺公民館)、青木紘一(国立公民館)、奥田泰弘(中央大学)。中段:山崎功(昭島公民館)、西村弘(小平公民館、のち教育長)、小川利夫(日本社会事業大学→名古屋大学)、平林正夫(国立公民館)。前段:進藤文夫(国分寺公民館、のち教育次長)、小林文人(東京学芸大学)、安立武晴(相模原)、徳永功(国立公民館、教育長)、近藤春雄(小平市公民館)、野々村恵子(練馬区教育委員会)ほか。











徳永功さん
著書出版「祝う会」−中央に花束をもつ徳永さん (国立、20120204)



10, 徳永功さんの仕事−日本公民館史のなかで−
                
               
徳永功著『個の自立と地域の民主主義をめざして
               −徳永功の社会教育』(エイデル研究所、2011年)所収



               
 出会い

 徳永功さん(以下・敬称略)と小林は同じ世代である。戦後一九五〇年代前半の朝鮮戦争下に学生生活を送り、後半から六〇年代にかけて社会教育の道を歩いてきた。それから現在までほぼ半世紀の道のり、いわば同行の士である。
 徳永がその創設を担った国立市(当時は町)公民館の正式開館は一九五五年。その頃、小林は九州にいた。社会教育の道は、いろんな意味で徳永が一歩先を歩いてきた。たとえば「月刊社会教育」への登場は一九五八年十二月号の久野収氏との鼎談(小林は六一年一月号)。社会教育推進全国協議会については、徳永は結成準備委員の一人であり、一九六三年発足時からの運営委員、一九七〇年より副委員長(四年間)であった(小林は六八年より運営委員)。加えて日本公民館史に光彩を放つ国立(くにたち)公民館の創設の中心にあり、そこに至る市民活動や、公民館創成期の企画運営と条件整備に携わってきた経歴を考えると、徳永は小林にとってむしろ瞠目の先輩の存在であった。
  二人の初めての出会いは多分、一九六一年の日本社会教育学会だろうと思われる。学会史をみると第十回研究大会(六三年、東大)において、宿題研究「公民館の研究」部会報告者として二人の名前が並んでいる。司会は小川利夫氏(日本社会事業大学・当時)。この研究プロジェクトは二年後に学会年報『現代公民館論』(小川利夫編、六五年)へと結実した。そこに徳永功「公民館活動の可能性と限界」が収録され、多くの注目を集めた。小林も同書に「社会教育計画と公民館」を書いている。
 数年を経て、小林は九州から小金井の東京学芸大学へ転じ(一九六七年)、縁あって国立に住むこととなった。この年は国立が市政をしき、東京に美濃部革新都政が誕生した年、国立を含む三多摩は激動の時代であった。私は引っ越し作業が一段落して、早速に市民として旧公民館(木造)に出かけた日のことを憶えている。その後、一九八〇年杉並に居を移すまで、国立市の社会教育・公民館活動にどっぷりつかって過ごす十三年間があった。公民館運営審議会、社会教育委員会議、図書館建設審議会、公民館改築委員会、芸術小ホール建設委員会などの委員として市の社会教育に関わり、あるいは中学校PTA会長等として市民活動の一角にいた。この時期、徳永は公民館の副館長、館長あるいは社会教育課長を歴任した時期であった。徳永にまず非公式に要請され、小林も期待に応えたい思いから委員をつとめてきたような関係でもあった。二人はよく語り、ときに論じ、愚痴を言い合い、飲みかつ歌い、思い出深い付き合いを重ねてきた歳月。沖縄へ、のちに中国などへ一緒に旅した仲でもあった。

 公民館史を担う世代
 日本公民館史のなかで、国立市公民館の歩みは、語り継ぐべき幾つかの重要な特徴をもっている。地域の民主主義を求める運動から公民館が胎動したこと、自治的に公立公民館が創り出されていく過程、本格的な公民館事業体系の追求など、公民館としての積極的な創造の歩みが注目された。当時、まわりの民館に強い刺激を与え、学会等でも公民館論議の焦点となってきた。その歩みの中心に徳永がいた。各地の公民館の一般的な風景とは異なる国立公民館の独自な展開は、徳永の意欲、叡智、情熱に負うところが大であった。
 一九五五年の公民館の発足は、公民館の空白地・東京のなかでは遅くはないが、全国的な公民館史から見れば、決して早い出発ではない。公民館設置の文部次官通牒(一九四六年)、いわゆる初期公民館の時期から十年近くが経過している。戦後初期の公民館啓蒙運動期を担った群像たちを第一世代とすれば、徳永はいわば第二世代に属することになる。
 しかし初期公民館の時代は、教育委員会法や社会教育法などの制度的基礎がまだ定まらず、文字通り草創の試行錯誤の過程にあった。それでも戦後特有の地域再建・郷土復興の課題に挑戦した運動的実践が「優良公民館」表彰等として記録されているが、職員集団の形成も未発であり、制度的な定着や蓄積にはなかなか結びつかなった。事実、その後の町村合併の嵐に吸収されたこともあり、初期公民館の多くは姿を消していった。
 社会教育法の施行(一九四九年)に続いて、旧教育委員会法による公選制教育委員会が市町村に一斉設置(一九五二年十一月)される。市町村教育委員会を一つの制度的前提とし、社会教育法の公民館条項を法的基礎にして、公立公民館が展開し始める。公民館史はこの段階で初期公民館の時代から大きく脱皮し、全国の市町村に公立公民館が普及する時代がやってくる。次官通牒からは六年余が経過した頃である。ここで公民館は単なる一般行政施設ではなくなり、教育行政の独立性の枠組に位置づいて、専門的な社会教育機関としての方向を発見することになる。東京では国立公民館がその典型的な歩みを拓いた。
 自治体の自治性、教育行政(公選制教育委員会)の独立性、社会教育機関としての専門性の原則を目指して、新しい公立公民館の制度創設と骨格づくりに取り組んだという点では、徳永たちの世代が実質的に最初の世代ということになろう。

 地域民主主義の運動のなかから
 徳永は一九五〇年代の「くにたち公民館−創設期のの歩み」について、いくつかの記録
(「月刊社会教育」一九七〇年八月号など)を書いているが、実に興味深い内容である。読むたびに当時の(若かりし頃の)意気盛んな徳永の相貌が浮かんでくる。自分たちの住む町をいい町にしていこうという自治への思いと誇りが伝わってくる。学生の文化サークル活動が地域市民運動と結合していく姿も見えてくる。あれからすでに半世紀を経過した現在、なお新しい響きをもって迫ってくるものがある。
 その特徴をいくつか取りあげてみる。何よりも地域の民主化や政治刷新を求める市民運動、そして青年・学生(一橋大学)を含む市民サークル活動・文化運動など、草の根からの運動的な公民館設置の取り組みがあったことである。当時、青年の文化サークル「土曜会」(徳永は活動の中心にいた)は、パンフレット「公民館はどういうものか−国立町に公民館の設置を願うにあたって」(一九五三年)を作成しているが、社会教育法条文を援用した質の高い内容である。公民館開館の二年前、住民に向けて「立派な公民館を是非誕生させたい」という趣旨の訴えであった。(国立市公民館創立三〇周年記念誌、八五年)
 周知のように日本公民館の一般的な設置形態は、社会教育法の基礎に基づきながら、多くは行政主導により「施し設ける」(施設)かたち、住民は客体としてそれを受ける流れが大部分であった。例外的に、たとえば木曽御料林解放運動を視野に入れた信州・妻籠公民館の誕生(一九四六年)、あるいは原水爆禁止署名運動の拠点となった東京・杉並区立公民館(一九五三年)など、運動との関連をもった公民館がないわけではない。いわゆる「村づくり町づくり」と連動した公民館の事例もあった。国立の場合は、首都圏における文教都市の、学生や知識人を含む市民たちの、地域民主化と「町の政治」刷新等を求める(その意味で政治的な視点をもった)運動の拡がりのなかから公民館創設の歩みがすすめられた。日本公民館史における市民運動による公民館づくりの典型的な事例ということができよう。その後、一九七〇年代の三多摩など首都圏に広汎に拡がった公民館・図書館づくり運動の先駆をなすものであった。
 上記「土曜会」の活動は、実際に「のちの公民館活動の内容を用意することになった」(徳永「くにたち公民館−創設期のあゆみ」)点が重要であろう。公民館の開設以前に、コーラス、人形劇、演劇、詩、読書、新聞などサークル活動や、図書館活動等が活発に動いてきた。「文教地区指定運動」や「町政懇話会」等の活動のなかでは講演会や政治学習もあったに違いない。まさに「はじめに住民の学習ありき」(『長野県公民館活動史U』二〇〇八年)であり、この歴史が公民館の「主体性の確立」(徳永・前掲「あゆみ」)や、公民館事業編成における市民的視点の追求に結びついてくるのであろう。

 創造の歩みと構造化の試み
 公民館発足時に徳永はまず公民館運営審議会委員(実質的には職員の役割)となるが、正式に職員となるのは職員給与が認められる翌年(一九五六年)のことであった。施設は旧自治体警察署の転用、市民の集会機能を実現していくために一歩ずつ改造していく歩みであった。旧警察の部屋を壊しながら、市民に開かれた空間を創造する作業、その流れのなかから、ホールの新設(六一年)、集会室の増設(六三年)、保育室・青年室の新設(六七年)などが続く。すべて市民諸団体の「積極的な努力と運動によってかちとられたもの」と徳永は述懐している。これが一九七〇年代後半になると多元的な市民参加による公民館改築の論議となり(いくつかの妥協を経て)本格的な現在の公民館施設が実現する。七〇年代を経て八〇年代の公民館活動の高揚は、この新しい施設(公民館保育室、わいがや喫茶・青年室、市民交流ロビー、ホール、公民館図書室等)を拠点とする展開であった。当時、小林も公民館運営審議会委員、改築委員として参加していたが、委員会の活発な議論と熱気はいつまでも忘れない。木造の旧公民館のたたずまいとともに今も脳裏に深く残っている。
 施設の作り直しは施設空間の創出の過程であったが、併行して職員集団の形成の歩みがこれに重ねられていく。当初はゼロであった人的体制が、年を追うごとに次第に充実していく。それも量的な集団化にとどまらず、専門職集団としての質的な充実が求められた。国家法制において公民館主事の専門職的位置づけは不備である。それだけに国立では自治体として主事専門職化の努力をしてきた点が重要である。教育委員会規則として「公民館指導係の職員は、社会教育主事又は主事補をもってあてる」(公民館処務規則第四条)こと、公民館主事の機構上の位置づけ、課長職としての副館長等の制度上の改善だけでなく、職員相互の専門的力量の尊重、職務の自律性、討議や研修の活発化など、公民館運営上での努力や工夫があった。公民館職場の、ときには論争を含む自由な雰囲気が印象的であった。
 あと一つ、徳永の公民館創設の仕事は、当然のことながら公民館の事業編成をどうすすめていくかに大きな力点があった。一九五五年の出発からの十年は、その骨格づくりの歳月であったと思われる。注目を集めた徳永論文「公民館活動の可能性と限界」(社会教育学会年報『現代公民館論』、一九六五年)は、その挑戦の記録である。求められる人間像、新しい市民像、それに応えようとする公民館活動の三つの役割論、具体的な事業計画、諸講座の編成など多彩である。とくに一九五七年から始まる現代教養講座(連続講演会方式、申込者が殺到したという)、さらに歴史・思想・経済についての集中講義方式(一九六四年〜)、そして「市民大学セミナー」方式(一九六六年〜)への発展は、市民の学習の構造化と公民館事業の構造的編成・体系化への取り組みと言えるものであった。公民館の事業を構造的に組み立てながら、その中心に「私の大学」「市民の大学」としての公民館イメージをくっきりと浮かびあがらせることになった。日本公民館史に残る鮮やかな足跡である。

 公民館三階建論と三多摩テーゼ
 公民館活動の"構造化"に関して、すぐに思い出されるのは「公民館三階建論」(一九六四年)であろう。徳永の呼びかけにより一九六一年に始まった「三多摩社会教育懇談会」(略称・三多摩社懇)、これに二年ほど遅れて参加した小川利夫氏(当時は三多摩が主な活動フィールド)、年齢的には三十歳代を中心とする若い世代の活発な論議から「三階建論」は提唱された。その具体的な実像として、国立公民館の「三つの役割」(住民の自己解放の場、集団的な学習と文化創造の場、継続的な政治学習)の実践があったことを見逃してはならない。上海工人文化宮の紹介に刺激されつつ、小川の「感性豊かな詩的直感」や「飲んでは語り、語っては飲む反復」(徳永)の議論から生まれたが、国立公民館の存在がなければ、この構想は世に出なかったのではないかと推測される。従来の農村型公民館の立地条件とは異なる都市化の激しい三多摩という土壌に開花した都市型公民館像であった。公民館とは何か、いかなる役割を果たすべきか、と模索する公民館関係者に、分かり易い言葉で、具体的かつ構造的なイメージを用意した「三階建論」の意義は大きい。
 そして一九七〇年代へ。都市化が進み都市問題が激発する状況のもと、「三階建論」をさらに発展させる方向で提唱されたのが東京「新しい公民館像をめざして」(三多摩テーゼ、一九七三〜七四年、東京都パンフレット)であった。小林は「三階建論」の論議には加わっていない(まだ九州にいた)が、「三多摩テーゼ」づくりでは徳永とともに東京都が委嘱した「資料作成委員」の一人であった。一九七二年から七四年にかけて続いた楽しい論議が忘れられない。国分寺市公民館の進藤文夫氏なども一緒で、当時の躍動する三多摩各地公民館の実践潮流に脊を押されるかたちで、「新しい公民館像」を描いた記憶が蘇ってくる。市民だれにも理解できるような表現で、公民館「四つの役割と七つの原則」が提起された。構想づくりの基礎には、国立市公民館はじめ三多摩各地の公民館の実像があったのである。
 社会教育専門家のなかには、公民館三階建論と三多摩テーゼを同一視する人がいるほど、両者は同根の構想であり、都市型公民館像として同じ系譜に属していると言えよう。しかし、前者から後者への発展をどう打ち出すか、当時の論議のなかで強く意識されたことであった。この間にはすでに十年の歳月があり、地域の「新しい公民館を求める住民運動の高まり」(同「はじめに」)は、国立にとどまらず、大きな展開をみせていた。公民館の基本的役割は、三つの役割だけでなく、「文化創造の場」を特立した四つの役割となり、さらに運営についての七つの原則、具体的な施設空間の表示、とくに公民館職員論(七つの職務論を含む)の体系化が盛り込まれている。同パンフの最終頁には「公民館主事の宣言」五項目が掲げられているが、この部分は、とくに徳永の主導によって作成されたことを記しておきたい。
 
 いまひとたびの
 ここまで書き進めてきて、与えられた紙数が尽きてしまった。徳永の仕事はもちろんその後も精力的に続く。小林は三多摩テーゼに関わった数年後に沖縄研究に目を移し、東アジアとの交流に追われるようになった。しかし三多摩を忘れたわけではない。その後、三多摩テーゼについて、公民館「事業論」が弱いこと、住民自治やマイノリテイへの視座が少ないこと、公民館の地域創造に果たす役割こそが重要であり、都市型を超える公民館の展望を拓く必要を書いたこともある。(小林「三多摩テーゼ二十年」、徳永「テーゼ作成の回想」『三多摩における社会教育のあゆみ』Z、多摩社会教育会館、一九九四年)
 徳永の仕事は、その後は公民館のステージから大きく跳躍して、国立市の政策企画行政に携わり、さらに教育行政全般を束ねる教育長の要職を十年もつとめた。国立市公民館だけでなく、図書館や郷土文化館や芸術小ホールを含む自治体の社会教育・生涯学習の計画化とその発展に重要な役割を果たしてきた。
 しかし日本公民館史から見ると、徳永の仕事は一九八〇年頃から公民館に限定されるものではなくなった。小林は心の隅で「いま日本の公民館に徳永さんがいたら、どんな発言をするだろうか?」と考えたときがあった。日本の公民館の退潮が続くなか、現代的な公民館の再生の議論を"いまひとたび"赤々と燃やしたい、とくに公民館主事(社会教育職員)の専門職化へ向けて全国的な組織と運動を一緒に始めたい、そんな夢をもっている。


 
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