東京・社会教育史資料・拾遺「三多摩テーゼ」記 ほか

1,二三区の公民館、三多摩テーゼ20年
  −東京都立多摩社会教育会館『戦後三多摩における社会教育のあゆみ』Z・1994
          *戦後東京社会教育行政・施設史
          
*東京・社会教育史研究フォーラム
          
*東京社会教育研究一覧

2,東京社会教育史資料・拾遺三多摩テーゼ」40年回想
<目次>
1,斉藤峻さんの資料        *南の風2963号 2012年9月30日)
2,東京の図書館史について    *南の風3084号 2013年5月12日
3,「三多摩社会教育の歩み」(全13冊)  *南の風3092号(2013年5月26日)

4,東京社会教育史研究の歳月       *南の風3213号(2013年12月19日)
5、拾遺「三多摩テーゼ」記−40年の回想・証言
 @ <資料作成委員会>        *南の風3413号(14年12月9日
 A <躍動期の東京・三多摩>     南の風3414号(2014年12月11日)
 B復刻版・海賊版?5万部>   *南の風3415号 2014年12月13日
 
C公民館:四つの役割と七つの原則  南の風3416号 2014年12月15日
 
D基本理念と職員論・事業論>        *南の風3417号 2014年12月17日
 E「三多摩テーゼ」10年の事業論>      *南の風3419号 2014年12月21日
 F <「三多摩テーゼ」への批判論>        *南の風3422号 2014年12月27日
 G <「三多摩テーゼ」批判(2)      *南の風3427号 2015年1月6日
 H <「館外事業」論の試み>         *南の風3431号 2015年1月13日
 
I 山口県豊浦町公民館        *南の風3435号 2015年1月21日
 
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■(1)斉藤峻さんの資料   *南の風2963号 2012年9月30日)
 9月28日の9月定例会報告「東京社会教育史研究フォーラム・発足」。関連していくつか…。
 「東京社会教育史研究フォーラム」がスタート、こんご定例的に集いを開いていく、比較的に若い世代で事務局が動いていく、ことなどが確認できて、嬉しい夜になりました。事務局長の斉藤真哉さんはじめ、井口啓太郎さん、江頭晃子さん、加えて石川敬史さんなど、どうぞよろしくお願いします。カメラに3人(フォーラム呼びかけ人)の楽しそうな1枚があり、記念としてHPに掲げました。写真→■
 戦後東京の代表的な社会教育主事として、斉藤峻さん(1903〜1968)のことが繰り返し話題になりました。みな親しみをこめて「しゅんさん」と呼んだ方。しゅんさんを直接知っているのは、当夜の出席者ではぶんじんだけ。在職中に「全国社会教育主事協会」を提唱(1951年、実現せず)。約700 点の貴重な「斉藤峻資料」が残されました。資料リストは作成されていますが、現物は廃棄同然の運命に・・、これを取り戻すことも新「研究フォーラム」の課題でしょう。しゅんさんは詩人(詩集に「夢にみた明日」など)。退職後は日本社会教育学理事や、1960年から3年間「月刊社会教育」編集長など活躍された方でした。
 しゅんさんの写真を1枚探し出しました。1960年に九州大学で開かれた社会教育学会大会(第7回)の折、福岡・西公園に遊んだときの1枚。となりは横山宏さん。このお二人と吉田昇・碓井正久・小川利夫など各氏と渋谷のヤキトリ屋でよく飲んだことなどを思い出します。
右・斉藤峻さん、左・横山宏さん(福岡・西公園、1960年11月25日、日本社会教育学会・於九大)



■(2)東京の図書館史について     *南の風3084号 2013年5月12日
 5月10日夜は東京社会教育史研究フォーラム(第6回)。昨年秋にスタートし、この間「風の部屋」での数回の事務局会議(勉強会)を加えると、すでに東京研究フォーラムとして(TOAFAEC 定例研究会とは別に)10回の集いを重ねてきたことになります。
 この夜の報告者は石川敬史さん(十文字学園女子大学)。「東京の戦後図書館史を考える視点」をテーマに、面白い資料・データを用意してのお話。日本の公共図書館の歩みは、1960〜70年代に東京を舞台に先進的に展開してきたとの指摘が印象的でした。ぶんじんも補足的に二つの話題提供。
 一つは『社会教育ハンドブック』(初版、1979年)「図書館」項目(担当・故小川剛氏)の重要性。とくに1970年代の東京・図書館振興政策、専門的「司書職」制度化への施策構想(実現しなかった)など、当時の美濃部都政下の積極的な動き・諸資料が含まれています。この時期、東京の図書館運動は、公民館「三多摩テーゼ」づくりや博物館の「地域博物館」実践を牽引する上でも、先導的な位置をもっていたと言えましょう。同『ハンドブック』はいま『社会教育・生涯学習ハンドブック』として改訂8版(エイデル研究所、2011年)を重ねていることはご承知の通り。 
 あと一つは、司書職制度にかかわる「陰山配転問題」についての東京都人事委員会裁定(1978年)資料。今はあまり目に触れることがなく、この機会に「別冊ジュリスト」118「教育判例百選」所収の解説(小林文人)を紹介させていただきました。
 この夜は1970年代の東京・図書館史の躍動を回想する機会となりました。都も区市自治体も職員も市民も、それぞれに積極的な関わりをもって動いていた時代だったのです。

(3)三多摩社会教育の歩み(全13冊)    *南の風3092号(2013年5月26日)
<メモ・ぶ>2012年秋に発足した東京社会教育史研究フォーラムは、5月までに7回の研究会を重ねてきた。その間には事務局会議(西永福「風の部屋」)が開かれてきた。事務局会議の記録はとくに残されていないが、梶野光信(東京都庁)、山添路子(エイデル研究所)、打越雅祥(東京都児童相談所)などの皆さんから話を聞くなど、自由で深い論議がおこなわれてきた。5月24日はとくにゲストを招かず、今後の研究フォーラムの進め方について論議した夜であった。
 5月24日の東京社会教育史研究フォーラム・事務局会議。今後に向けて課題や段取りなど、話はつきませんでした。夜の集いはいつも時間が足りませんね。ぶんじんは忘れてはならない課題として、あらためて10点の「視点」を出しました。識字、地域児童文化運動、PTA,大学開放、学生の地域活動(サークル・セツル)、都市型の文化たまり場、うたごえ運動、専門職論とスタッフ論、諸施設・コミュニテイセンターを含めての都市型施設運動の相互関連などなど。
 1988年から1999年まで旧多摩社会教育会館によって刊行された「三多摩社会教育の歩み」(全13冊)→■ のなかに(当夜、話が及びませんでしたが)この10視点はほどんど先駆的に取り上げられていることも再発見しました。
 この夜の収穫としては、作業をすすめていくための年表づくり、そして資料センターを再していく必要が再確認できたこと。とくに「斉藤峻」資料の取り戻しや、(23区)公文書館の可能性をさぐることも。斉藤資料については、幸いに「目録」(約700点)が「三多摩社会教育の歩み」第3号、第5号(丸田修二資料も)に残されていること。これは私たちの大きな光明です。短い時間ながら、いい夜となりました。

■(4)東京社会教育史研究の歳月  *南の風3213号(2013年12月19日)
 風3212号(ぶ)欄の“苦言”に応えて、折り返しの勢いで、東京社会教育史研究フォーラム・12月12日の記録が届きました。早速HP→■に研究フォーラム第10回記録として収録。有り難うございました。
 昨年9月末に第1回を開いた同フォーラム。この1年余りに5〜6回の事務局会議(風の部屋ほか)も精力的に動き、まずまず活発に1年を刻んできた実感があります。事務局の諸氏、ご苦労さまです。来年は本づくりへ向けて、苦しく・・・いや楽しい作業が待っています。
 1年の終わりに、いくつかの回想が蘇ってきます。東京の社会教育史については、これまで何度かの取り組みがありました。まず、1980年からの杉並(原水禁運動と公民館)研究。次いで1984年の科研費による沖縄・地域史研究と連動した東京都社会教育関係者の証言収集。それを受けて1987年から10年余り続いた三多摩社会教育の歩み研究。そして2000年代に入って再度の杉並研究など。いずれも記録や資料集を(不充分ながら)残すことができました。その概要は当HPの、とくに同ページの「前史」部分(A,B,C,D,E)をご覧下さい。代表的な東京都社会教育主事・故斉藤峻さんの写真(上掲)も掲載しています。
 この1年を通して再確認できたこと。@首都・東京の社会教育史資料は多彩、そのなかには光彩を放つ部分が少なくない。Aそれらがいま忘れられ風化しつつある。B証言者や貴重な資料が今だと現存し、再生できる。C世代から世代への語り継ぎ、世代間の対話が大事だ。D歩みの再発見を通して、(行政だけでなく)市民活動・実践を含め、これからの展望や可能性をえがきだす必要がある。振り返ると重要な1年でもありました。



(5)拾遺「三多摩テーゼ」記−40年の回想・証言

 @<資料作成委員会>
 南の風3413号 2014年12月9日
 小林ぶんじん
 
風3412号に書いたように、今年の日本公民館学会(第13回研究大会、12月6〜7日、木更津)で「三多摩テーゼ」が歴史的視点から論議され、小林も少し発言しました。会が終わって、年長の会員からも「初めて聞いた事があった」「この機会に書いておいてほしい」など、二、三の要望を受けました。折しも,今年は「三多摩テーゼ」40年。記憶に残っていることを拾い集め、何回になるか分かりませんが、拾遺「三多摩テーゼ」記を載せておこうと思います。煩瑣になりますが、文献・出典等も含めて。
 「三多摩テーゼ」は通称。正式には、東京都教育庁社会教育部「新しい公民館像をめざして」(1973〜74年)です。東京都社会教育部は、公民館資料作成委員会を組織し、そのまとめを都の「主要刊行物」として位置づけ、両年にわたって正・続2冊の「…めざして」を発行しました。この委員会のことは、小林「三多摩テーゼ20年−経過とその後の展開」(1994年)に詳しく書いています。
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/tokyou23ku.htm
 委員会の中心メンバーは、東京都公民館連絡協議会(都公連)の公民館関係者。研究者は小林ただ一人、脇役というべき存在です。もちろん論議のまとめや執筆に積極的に関わりましたが、主役ではない、といつも自らに言いきかせてきたことです。徳永功(国立市)、進藤文夫(国分寺市)、2年目に委員会に参加した佐藤進(国分寺)−敬称略−などの貴重な証言が世に出ています。
 最近では、たとえば徳永功「三多摩テーゼについて」(同著『個の自立と地域の民主主義をめざして−徳永功の社会教育』エイデル研究所、2011年)、進藤文夫「三多摩テーゼ作成の頃と、市民活動のあり方の変化」(『多摩のあゆみ』第144号、たましん地域文化財団、2011年)等。

東京都教育庁社会教育部「新しい公民館像をめざして」 (三多摩テーゼ、1973〜74年)


A<躍動期の東京・三多摩> 
*南の風3414号 2014年12月11日
 東京都が委嘱した「新しい公民館像」作成委員会は、初年(1973年)度のメンバー5人、当時みな40歳前後の世代。お互いに「東京の公民館」をなんとか前進させたいという仲間意識に結ばれ、遠慮のない語り合い、活発な議論が出来て、いい委員会、いろいろ想い出が残っています。会場は、いつも国分寺市に新しく出来た恋ヶ窪公民館。1階は図書館、2階が公民館のスペース、狭いながらも活発な活動が始まっていました。
 三多摩では、1970年代の初頭、公民館をつくる(改築、増設を含む)運動が各地に胎動しつつありました。公民館側では、若い職員集団の形成が始まり、模索のなかで新しい実践が取り組まれていた時期。都のレベルでは、革新都政が2期目に入り、社会教育委員会議「都民の社会活動における市民教育」の積極的な答申に象徴されるような動きがあり、三多摩では都立立川社会教育会館の、たとえば「セミナー方式」による職員研修の拡がりが注目されていました。この頃、東京・三多摩の社会教育は躍動期にありました。
 委員会の論議は、10年前の三多摩社会教育懇談会(小川利夫、徳永功など)の「公民館三階建論」からどう脱皮していくか、が一つのポイントだったように思います。それは同時に1970年代の胎動しつつある公民館実践や住民運動の新しい地平をふまえて、どのように新しい公民館像を画いていくかという課題への挑戦と言えましょう。あと一つ、「中小レポート」や「市民の図書館」を提起してきた図書館関係者の作業に刺激を受けて、公民館としても、分かりやすく、具体的かつ実践的に、その基本的な役割や方向性を提示していく必要が強く意識されていたことを憶えています。

B<復刻版・海賊版?5万部 *南の風3415号 2014年12月13日 
 黄色の表紙「新しい公民館像をめざして」は東京都が2000部印刷(1974年)。しかし全国的に関心がひろがるにつれて現物の入手は困難となりました。前出・小林「三多摩テーゼ20年」は、次のように書いています。
 「一定の評価が生まれてきた頃から、黄色いレポ−トの原本が入手できない事情もあって、さまざまのコピ−、復刻版、海賊版?が作られている。たとえば小さな学習会のテキストとして、自治体・公民館運営審議会の配布資料として、あるいは県や市・郡の公民館連絡協議会の研修資料としてなど、かなりの部数が世に出たと思われる。社会教育関係の単行本への収録(抄録を含む)まで加えると、合計5万部をこえるのではないかと推定している(東京都立川社会教育会館「東京の公民館の現状と課題」T、はじめに−3頁、1982年)」。
 単行本や公的出版物で「三多摩テーゼ」全文を収録したのは、次の3点ではないかと思います。他に、いろんな著作・論文等で紹介・引用されていますが、多くは項目のみの抜粋、一部の抄録にとどまる場合が多かったのです。
1,東京都教育庁社会教育部『社会教育行政基本資料集』3、1974年
2,社会教育推進全国協議会・資料委員会編『社会教育・四つのテ−ゼ』
  社全協通信別冊、1976年
3,横山宏・小林文人編『公民館史資料集成』エイデル研究所、1986年
 歳月が経過し、40年が経過した現在、これらはいずれも入手困難です。図書館等でも1,2を所蔵しているところはほとんどなく、『公民館史資料集成』も稀少図書となってしまいました。もしまわりに「三多摩テーゼ」復刻版(たとえば長野県公民館連絡協議会発行)があれば、それなりに貴重資料と言えるかも知れません。

■C公民館:四つの役割と七つの原則 南の風3416号 2014年12月15日 
 東京都「新しい公民館像をめざして」全文(B5版、52頁)を原文で紹介したいところですが、データ未入力。HP掲載の工夫は今後に待つことにし、まずは主項目のみ(あらためて)抄録しておくことにします。「X,いま何をめざすべきか」までが1973年版。「第二部 公民館職員の役割」を追加して1974年版が発行されました。編集は「東京都公民館資料作成委員会」、発行は「東京都教育庁社会教育部社会教育主事室」となっています。
○新しい公民館像をめざして(抄録)
T,はじめに
U,公民館とは何か−四つの役割
 
公民館は地域における住民の自由なたまり場、交流の場をかねそなえた学習と文化の殿堂です。
 
1,公民館は住民の自由なたまり場です  
 2,公民館は住民の集団活動の拠点です
 3,公民館は住民にとっての『私の大学』です 
 4,公民館は住民による文化創造のひろばです
V,公民館運営の基本−七つの原則
 1,自由と均等の原則  2,無料の原則  3,学習文化機関としての独自性のの原則  4,職員必置の原則  5,地域配置の原則(案・中学校区(人口2万人)1館) 6,豊かな施設整備の原則  7,住民参加の原則
W,公民館の施設 (各施設数・標準面積-略、1館標準面積合計-1,940 u・案)
 (1)市民交流ロビー (2)ギャラリー (3)集会室 (4)和室 (5)団体交流室 (6)青年室  (7)ホール (8)保育室 (9)学習室 (10)図書室  (11)美術室 (12)音楽室 (13)実験・実習室  (14)視聴覚室  (15)その他必要な施設・・・事務室、応接室、研究室、休憩室、宿直室、印刷室、倉庫、機械室、車庫、便所など
 付表:公民館の標準的な施設・設備の規模と内容(室名、面積、用途、設備)
 ここにあげた部屋数と面積(計1940u)は一応の目安です。実際の建設にあたっては、住民の要求や地域の条件を考慮して創意工夫する必要があります。
X,いま何をめざすべきか
 1,公民館は住民がみずからつくりあげていくべきものです。
 2,既存施設の内容を新しいものにつくりかえましょう。
 3,自治体の基本構想の中に公民館をはっきり位置づけよう。
 4,公民館を図書館とともに地域社会に当面必要な二本の柱にしよう。

第二部 公民館職員の役割
(抄録)
T,基本的な役割
 公民館職員は、すべての住民の学習権を保障していくための奉仕者です。
U,組織体制
 独立性豊かな公民館に充実した職員配置が必要です。
 1,組織体制の独立性 2,職員の職務の自律性 3,充分な職員配置(館長1名、成人担当2名、青年担当2名、文化担当1名、広報資料担当1名)
V,職務内容
 あふれる情熱と研究心に裏付けられた人間性、それが職務を支える基本です。
 1,施設の提供と整備 2,相談 3,集団への援助 4,資料提供 5,編成 6,広報 7,庶務、経理
W,勤務条件
 職員の条件を改善し、不安なく職務に専念できる体制を確立しなければなりません。
 1,労働時間 2,超過勤務手当・旅費 3,休業・代休について 4,職員厚生施設 5,職務専念条件
X,任用 専門的な力量と豊かな経験をもった職員が任用されることが不可欠です。
 1,採用 2,選考方法 3,養成
Y,研修  研修は自己研修こそ必要で重要なことです。
 1,研修の機会の保障、2,研修の経費の保障、3,研修内容
Z、職員集団  民主的な職員集団の形成こそ住民要求にこたえる決め手です。
 1,職場会議 2,役割分担 3,館長の役割、4,行政職員との関係
○「公民館主事の宣言」(提案)
 
あらゆる住民が自由に集会し、自主的に学習し、文化創造をめざすことは、、民主主義社会における住民の権利です。公民館の存在理由は、この集会・学習・文化創造の権利を具体的に保障していくことにあります。この任務を全うするために、公民館職員は、次のことを確認し、実践します。
   1,公民館職員は、いつでも、住民の立場に立ちます。

  2,民館職員は、住民自治のために積極的に努力します。
  
3,民館職員は、科学の成果を尊重し、地域における文化創造をめざします。
  
4,民館職員は、集会・学習の自由を保障し、集団の秘密を守ります。
  
5,民館職員は、労働者として、みずからの権利を守ります。
 あとがき

■D 基本理念と職員論・事業論 *南の風3417号 2014年12月17日 
 これまで「新しい公民館像をめざして」は、公民館に関する学会年報や『ハンドブック』等に多く引用・抄録されてきました。たとえば日本社会教育学会編『現代公民館の創造』(公民館50年・特別年報、東洋館、1999年)には約25ヶ所の引用。社全協編『社会教育ハンドブック』(1979年、1989年改訂版より『社会教育・生涯学習ハンドブック』、エイデル研究所)には、基本項目と職員論、「公民館主事の宣言」等。同第8版(2011年)は「四つの役割」の抄録。日本公民館学会編『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』(エイデル研究所、2006年)には「公民館運営・七つの原則」部分の抄録、といった具合です。東京が提起した「公民館像」の、ある断面が切り取られながら各所に紹介されている印象もないわけではありません。
 1973年版にえがいた公民館の基本理念(四つの役割と七つの原則)については、幸いに多くの論議があり、その評価とともに、いくつもの批判が出されました。たとえば、理想論であり指針に止まっている、“私の大学”の具体的なイメージは?などなど。 *「三多摩テーゼ」批判は別にまとめて後述予定。
 まず、基本的な役割・原則等の理念に関わって、特にその具体的かつ実践的な提示・展開が求められたことへの対応。課題は大きく2点。一つは公民館の職員論、あと一つは事業論についてでした。
 資料作成委員会としては、当時の実践・運動の動きをふまえながら、間延びしないで「公民館像」に加えていく必要を語り合いました。まず職員論について、急ぎの論議が重ねられ、佐藤進等の努力あり、1974年版収録「第二部 公民館職員の役割」(前号に紹介)がまとめらたという経過でした。課題を残し時間に追われながらの作業。74年版の「あとがき」を電車の座席で書いて、都の社会教育主事室に届けたことなど、懐かしく想起しています。
 公民館・事業論については、その8年後、東京都立・立川社会教育会館の研究事業として取り組まれることになります。

E <「三多摩テーゼ」10年の事業論 *南の風3419号 2014年12月21日  
 1970年代前半の躍動期から70年代後半、そして1980年代への時代変化(低成長期、行財政の見直し、予算の削減や職員体制の縮小など)を背景としながら、動き始めた「新しい公民館像」の歩みは、むしろ活発なものものがありました。この文書が、各地に胎動していた公民館づくり運動(増改築運動を含む)を刺激した側面もありました。単に施設をつくるだけでなく、住民にとっての公民館事業や職員の役割の“質”を問う時代に入ったと言えるかもしれません。
 三多摩テーゼに関わる「事業論」の構築作業は、都教育庁ではなく立川社会教育会館(都立、のち多摩社会教育会館)の社会教育「資料分析」として取り組まれました。記録をたどると、1980年11月から1983年3月まで延べ37回の研究会。研究員メンバーとして三多摩テーゼ作成メンバー・進藤文夫(国分寺市)、佐藤進(同)と小林、それに野沢久人(羽村市、のち市長)、平林正夫(国立市)、川上千代(稲城市)各氏が参加。これに2年目には井藤鉄男(保谷市)、山崎功(昭島市)が加わります。
 三多摩各市の公民館をまわりながらの、比較的にじっくりと取り組んだ思い出が残っています。研究成果は「東京の公民館の現状と課題−公民館の事業を中心に」(立川社会教育会館、1982年)、「同U−公民館事業論の構築をめざして」(同、1983年)の2冊に残されています。「新しい公民館像をめざして」初版から、ちょうど10年目の報告となりました。
 2冊目の報告書から、事業論構築として取り組んだ10の課題を項目のみ掲げておきましょう。1,「たまり場」−教育と形成の接点、2,相談−個人と公民館をつなぐもの、3,学習−都市公民館における講座の検討、4,文化事業、5,体育・スポーツ事業、6,広報−保谷市公民館の実践、7,グループ・団体援助、8,集会(つどい)事業、9,館外事業、10、公民館事業論の構築。
 小林は、9と10の二課題を担当し、仮設的な提案を試みました。「三多摩テーゼ」との関連をもつ「事業論」の試み。しかし、その後ほとんど論議される機会はありませんでした。2冊の報告書も限られた範囲に配布されたまま、その後は多摩社会教育会館自体の命脈も尽きて、この2冊の資料もまったく入手できなくなってしまったのです。

■F <「三多摩テーゼ」への批判論 *南の風3422号 2014年12月27日 
 「新しい公民館像をめざして」(1973〜74年)は、もともと東京の貧弱な公民館設置状況を改善するために、東京都公民館連絡協議会の関係者が提起した公民館「条件整備」要請運動を起点とするものでした。その経緯については前出@の徳永功や進藤文夫の証言の通り。東京都への働きかけは功を奏せず、その無理解を嘆きつつ、しかし都民にも理解されるような「公民館像」を明確にしていく作業として取り組まれたのでした。
 「自治体の基本構想の中に公民館をはっきり位置づけよう」など、公的セクターとしての公民館の施設整備・配置、職員体制等の「条件整備」提起。しかし現実にはオイルショック(1973年10月)後、低成長期の自治体行財政見直し、職員削減等、つまり公的セクター後退のなかで「三多摩テーゼ」は展開を求められるという経過でした。同時に、「新しい公民館像」は各地の公民館づくり住民運動、つまり市民セクターにおける公民館像として位置づく側面を獲得し始めたことが、それまでにない特徴と言えましょう。
 「三多摩テーゼ」は東京だけでなく、各地で多くの論議を生みました。都市型公民館論としての一定の評価とともに、それに対する積極的な批判には傾聴すべきものが少なくありません。前出・小林「三多摩テーゼ20年−経過とその後の展開」(1994年)は、5点ににわたって諸批判を整理しています。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/tokyou23ku.htm
 詳細はそれにゆずることとし、以下に項目のみ掲げておきます。
(1) 全体的に理念に走り、甘い条件整備論に傾斜。現実認識と実践論提起の要。
(2) 公民館像の抽象性を克服し、公民館を担う具体的な職員像・事業論の構築。
(3) 住民自治・住民主体活動を援助する視点に弱く、その拠点の役割を明確に。
(4) 社会的教育的に不利な立場にある“忘れられた人々”の学習権保障の視点。
(5) 地域住民組織との遊離、地域集会施設との分離、公民館を支える地域基盤論の欠如、自治(集落)公民館論の可能性と結ぶ課題。

G <「三多摩テーゼ」批判(2)>−沖縄の集落公民館、松本の町内公民館など 
  *南の風3427号 2015年1月6日 小林ぶんじん
 「三多摩テーゼ」への批判は、もちろん前掲・5点(風3422号)に尽きるわけではありません。たとえば、いつぞや(昨年?)の日本公民館学会のシンポ討論のなかで、岡山・美若忠生さん(かって京都「ろば懇」にも参画)は、三多摩テーゼに内包される都市型公民館の「悪しき施設主義」、地域と暮らしの現実に向きあわない公民館論について、厳しい批判をされました。記憶は今も脳裡にあり。このあたりで、美若さんの「三多摩テーゼ」批判を風に寄せていただければと期待しています。
 あるいは沖縄の皆さんからは、その独自の歴史や文化の視点からの批判を聞いたことが忘れられません。1970年代の終わり、那覇「おきなわ社会教育研究会」主催シンポジウムで、乞われて「三多摩テーゼ」の話をしたところ、その学級・講座主義(教える方式)に傾斜した公民民館事業論に、激しい反撥(故外間政彰氏・那覇市図書館長)がありました。地域のなかで機能する住民の公民館としての役割、その実像が見えてこないという地域主義的批判でした。
 小林は、三多摩テーゼの余韻さめやらぬ中、1976年冬から沖縄の戦後社会教育史研究に没頭するようになります。なぜ沖縄では典型としての公立公民館が(那覇市など都市部を除いて)未発なのか、集落(アザ、シマ)レベル=住民セクター、の自治公民館が歴史的な役割を果たしてきた事実、を知ることになりました(小林・島袋正敏編『おきなわの社会教育−自治・文化・地域おこし』エイデル研究所、2002年、ほか)。
 また同じ頃、信州の公民館では「身近な自治会や町会の分館・自治公民館の活動を大事にする」ことが一つの原則として示されていました(信州の公民館・七つの原則)。そのような実践が各地で重ねられてきている。たとえば松本市『町内公民館の手引き』(1976年〜、その後さらも改訂・重版)は、ある意味で「三多摩テーゼ」への“アンチテーゼ”としての側面をもっているのではないでしょうか。

小林・島袋編『おきなわの社会教育』エイデル研究所、2002年


■H
<「館外事業」論の試み>   *南の風3431号 2015年1月13日  
 「三多摩テーゼ」が展開される地域背景として、東京の過密・都市化状況がありまました。地域の激動は、その後は農村部の過疎化・都市との亀裂を含みつつ、日本社会を覆う全般的な地域“解体”が拡散されていきます。そういうなかで都市型公民館論は各地に広く流布されることとなりました。同時に都市型公民館論が、公民館の「新しい教育機関の創造」と目される側面もあったのです。たとえば奥田泰弘「農村型公民館から都市型公民館へ」、小林・佐藤編『世界の社会教育施設と公民館』エイデル研究所、2001年、所収)など。
 「三多摩テーゼ」は、むしろ「自由なたまり場」「集団活動の拠点」「文化創造のひろば」など、せまい教育機関論論から脱皮する拡がりが意図されていたはずでしたが、現実には、地域基盤を欠落した「施設主義」と、“専門的”「教育機関」化が志向され、そのような公民館イメージが喧伝・普及されたことは否めません。
 都市型公民館への志向は、その多くが集落・自治公民館や住民自治組織等の地域基盤を内包しきれていませんでした。大都市の地域実態そのものが、そういう地域基盤を喪失してしまっている現実があったのです。しかし東京もそうであるように、町会集会所、商店街事務所、団地自治会など、住民セクターによる地域類似施設が皆無というわけではなかったのです。むしろ従来の行政従属的な住民組織・自治公民館等に対する消極的評価が、都市型公民館論のなかに、これら地域住民セクターを積極的に位置づけようとする視点を失わせる結果となったのでしょう。
 前掲E「三多摩テーゼ」10年の事業論(風3419号)では、集落・自治公民館など地域基盤をもたない現実を前提として、公的セクターとしての公民館「館外事業」論を積極的に提起する試みがありました。(立川社会教育会館「東京の公民館の現状と課題U−公民館事業論の構築をめざして」1983年)。図書館法第3条「図書館奉仕」(四・五・六)や、公共図書館「館外奉仕」論(たとえば図書館「中小レポート」等)に大きく学ぶところがありました。
 それは「悪しき施設主義」を乗り越える視点として、4点を提起しています。具体的に (1)館内事業の「館外」化、(2)地域組織・地域活動への援助、(3)分館・分室、地域集会施設とのネットワーク、(4) 公民館主事の「地域主事」的役割、についての積極的な提言です。地域創造型の公民館実践には、多かれ少なかれ、ある程度共通する事業論の視点と言えましょうか。
 日本公民館学会の創設(2003年)時の考え方では、公民館の機能を幅広くとらえ、またコミュニテイ・センターなど地域諸施設との連携をも視野に入れて、とくに集落・自治公民館の役割を再発見していく方向が打ち出されたと言えましょう。(日本公民館学会編『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』エイデル研究所、2006年−第1部「公民館の現代的課題」など)

I 山口県豊浦町公民館*南の風3435号 2015年1月21日
 「三多摩テーゼ」は、東京三多摩の少なからぬ自治体で公民館づくり(改築・増設を含む)市民運動を刺激しました。1970年代後半から1980年代にかけて、小林が直接に関わった「改築委員会」(国立市公民館),「建設委員会」(東村山市中央公民館)等を振り返っても、自治体の公民館構想論議が「三多摩テーゼ」を下敷きとして活発に展開し、市民参加の活動に活力を与えたと思われます。
 全国各地への波及も興味深い拡がりでした。前出「三多摩テーゼ20年−経過とその後の展開」(『戦後三多摩における社会教育のあゆみ』Z、1994年)では、茅ヶ崎市、相模原市、京都府(宇治市)、山口県豊浦町、の四つの事例と証言を収録しています。ここでは豊浦町立公民館(現在は下関市)誕生のエピソードを書き添えておきましょう。
 おそらく1978年のある日、大学の研究室に電話がかかってきました。豊浦町教育委員会から「このたび町立中央公民館が完成しました。記念講演をお願いしたい」と。聞けば「三多摩テーゼ」の“四つの役割と七つの原則”構想を基本に据えたこと、同「標準的施設・設備の規模と内容」表に準拠して建築した(2200u)ことなど。役場のすぐ横に風格ある白亜の殿堂が完成していました。当時の同町社会教育指導員・片山房一さんの証言は次の通り。
 「私は大学で社会教育を学んでいましたし、社会教育を学ぶ全国学生の連絡会(社教学連)の活動を通じて得た知識や人的なつながりがありました。公民館建設の担当者は、青年団活動の経験をもつ柔軟な発想の持ち主でした。私の持つ公民館に関する情報をすべて出すように求めました。この中に三多摩テーゼも含まれていたわけです」(前出「三多摩テーゼ20年」所収)。片山さんは(記憶が正しければ)社教学連の初代委員長。豊浦町では冊子「豊浦町の新しい公民館像をめざして」が作成されていました。
 小林はこの縁で「豊浦町立公民館運営審議会委員を委嘱する」(豊浦町教育委員会)辞令を頂きました。意外な展開、1979年から3通、つまり6年間も同公民館「運審」委員をつとめることに。旅費の支給はありませんでしたが、折にふれて九州等に出かける機会に豊浦町に立ち寄り、審議会の夜には、近くの川棚温泉の湯を楽しみ、玄海(響灘)の活きのいい魚を堪能しました。故佐々木軍八氏(山口県豊浦町中央公民館長)の思い出もしみじみと蘇ります。同追悼ページ
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/archives.htm

J   拾遺「三多摩テーゼ」記−40年の回想
                      *南の風343 号 2015年1月 日