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『戦後三多摩における社会教育の歩み』
−東京都立多摩(立川)社会教育会館・「歩み」研究−
*第1集〜第12集及び別冊(通算13集、1988年〜1999年)
第10集(1997年)より「東京における・・・」に改題
<小林執筆・担当分>
第T集(1988年) 特集:その揺籃期を探る
戦後三多摩・社会教育の歩み−その歴史を掘ろう
戦後社会教育行政のあゆみ、戦後初期三多摩の婦人会活動と学習(座談会)
第U集(1989年) 特集:その揺籃期を追う
西多摩婦人生活館の顛末、婦人たちの共同学習
ー北多摩、米軍宿舎反対運動と南街婦人会、はじめに住民の学習ありき
第V集(1990年) 三多摩社会教育の歩みについてーその特質と課題
調布地区青年団の記録、
西多摩郡社会教育主事会の歴史、東久留米の社会教育の歩み、など
第W集(1991年) いくつかの挑戦(まえがき)、三多摩博物館のあゆみ、
地域婦人会・生活学校・消費者運動・羽村
第X集(1992年) 歴史の空白を埋める(まえがき)
→下掲
→下掲、三多摩公立博物館の歩みU(座談会)
*斉藤峻・丸田修二資料目録、など
第Y集(1993年) 第三サイクルへの挑戦(まえがき)
→下掲
三多摩の夜間中学−識字実践の歩みーその1
→■
うたでつづる三多摩社会教育実践史(座談会・証言1,2)
別冊:昭和20年代の東京都の社会教育資料集・報告書(1993年)
第Z集(1994年) 戦後40年余の風雪をふりかえる(まえがき)
八王子の織物青年学級、織物学校
→■
演劇でつづる三多摩社会教育実践史(座談会)
三多摩テーゼ20年−経過とその後の展開−
→■
第[集(1995年) あらためて社会教育・半世紀の歩みをふりかえる(まえがき)
→下掲
小平の初期公民館について、有賀三二資料・解題、座談会・解題
新生活運動の歩み(座談会)、勤労青年学校を追う(座談会)
第\集(1997年) 大河の流れをみつめてきた思い(まえがき)
→下掲
三多摩における社会教育をめぐる住民運動−1970年代を中心に
→■
戦後における東京の社会教育のあゆみT−通巻第10集(1997年)
戦後50年の地点にたって(まえがき)
→下掲
東京二三区の公民館ー資料解題的に
→■
戦後における東京の社会教育のあゆみU−通巻・第11集(1999年)
東京社会教育の地域史を(まえがき)
→下掲
葛飾区社会教育の歩み(座談会)、その意味するもの(解題)
「ふだん記」運動について(解題)
戦後における東京の社会教育のあゆみV−通巻・第12集(1999年)
社会教育の歩みを掘り続けよう(まえがき)
→下掲
渋谷区社会教育行政・施設の歩みと展開(座談会)
東京23区障害者青年学級のあゆみ(座談会)
■参考:東京・三多摩の歩み・研究グループ(写真)
町田市鶴川に浪江虔氏を訪ねる(私立鶴川図書館、1998年3月12日)
左より3人目・浪江虔、後列に小林、佐藤進、小川正美、藤田博の各氏ほか都立多摩社会教育会館スタッフ
戦後三多摩における社会教育の歩み<まえがき(小林)>
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)第X集 歴史の空白を埋める (1992年)
早いもので私たちが「三多摩社会教育のあゆみ」を掘る作業を開始してすでに実質5年が経過した。この間どれだけの成果をあげることが出来たのだろうか。研究が進めばそれだけ仕事は終わりに近づく筈であるが、この種の作業はなかなか先が見えず、また今の段階ではなにをもって成果とするかそれほど定かではない。この1年の私たちの実感はやはり「挑戦すべき課題はまた新しく拡大し、道遠しの感」(昨年度報告書「まえがき」)なのである。あらためて歴史の深さと重さを教えられてきた1年でもあった。
しかし私たちは課題に「挑戦」してきたことだけは確かである。もしこの5年間の作業がなければ、時の過ぎゆくままに、風化しあるいは散逸し埋没してしまったかも知れない実践や証言が少なくないと思っている。いままでよく見えなかった道程や、忘れてしまっていた歩みなどが、少しは復元・復権されてきたのではないかと感じている。この1年も手応えのある作業を継続することができて私たちは幸せであった。
さて今年度の研究テ−マはなにか、非力ながら挑戦すべき課題はなにか、年度はじめの研究会で出しあった事項は9項目であった(巻末「1年間の記録」参照)。昨年度までの作業を振り返りながら、おたがい研究員相互の関心も尊重しつつ、ゆっくりとした討議のなかで取り出されたテ−マであった。これを整理してみると、結果的には三つぐらいの視点があったと思われる。
すなわち、一つにはこれまで(前年度まで)にある程度明らかにできた課題をさらに深め補い、継続的に掘り下げること、二つにはこれまでに取り上げることがなかった新しい課題への新たな挑戦−この二つのことをいつも頭のなかにおきながら取り組む必要があるが、意欲はどうしても後者に傾斜しがちである、しかし実際の研究力量には限界がある−−、そして、三つには地域(自治体)社会教育の歴史つづり(ないしはそれへの触発、契機づくり)である。
9項目を三つの視点にしたがってあえて分けてみると、
1− @博物館のあゆみ、C専門職の養成・配置の歴史、G学級・講座のあゆみ
2−A夜間中学・識字教育のあゆみ、B学校(校庭)開放、D公民館運営審議会、
E労働組合と社会教育、F高齢者問題への取り組み
3−H瑞穂町、小平町の社会教育
ということになろう。このなかで、必ずしも充全の資料収集には至っていないが(その意味で中間報告を含む)、一応の調査報告ないし証言(座談会記録)としてまとめることが出来たのが、目次にみるとうり、@、B、C、D、F、G、H(小平)、であった。これらはいずれも完結した報告というより、むしろ研究調査の作業はそれぞれに継続されるべき課題を残し、今後への研究覚え書き、ないし課題提起の意味ももたせてある。
なおF高齢者問題への取り組み(二瓶万代子)およびH地域の社会教育の歴史つづり(小平・大谷貫一)については、お二人の関係者としての「証言」寄稿をお願いした。ご協力に感謝したい。
本報告書のあと一つの特徴は、斉藤峻、丸田修二両氏の資料・文献目録の一覧を収録できたことである。斉藤資料については、すでに本研究報告シリ−ズ「戦後三多摩社会教育−のあゆみ」V(1990)「目録」のなかに「東京都立教育研究所(斉藤峻資料)」としてその重要部分が記載されているが、今回はその後(1991年度)の整理分を一覧にした。丸田 資料は、子ども会・青少年指導関係を中心とする個人所蔵資料の会館寄贈分を整理したものである。まずは資料リストの作成を主眼とし、両氏資料の特色をいかした分類項目としたため、前掲「あゆみ」Vの目録項目とは一致しない。(両氏資料目録の「解題」参照) 本報告書にいたる5年間を振り返ってみて、さらに今後の研究作業の継続に向けて、あらためていくつかの関連する課題を書き添えておきたい。
(1)いま「生涯学習」の時代といわれ、これまでの「社会教育」体制からの転換がことさらに強調される傾向がある。しかし着実な生涯学習が地域から育っていくためにも、これまでの社会教育の歴史や基盤がきちんと位置付けられ、重視される必要がある。これからの新しい歩みのためにも、歴史のなかの教訓や蓄積から学ぶ姿勢が大切なのではないだろうか。むしろ転換点だとすれば今こそ歴史を掘る作業が重要である。
そしていま、戦後教育改革から40余年。歴史の風化はすすみ、先人が生み出したかけがえのない資料の散逸はいちじるしく、それぞれの地域で戦後社会教育の創設にかかわった人たちも多く高齢者となりあるいは物故された方も少なくないだろう。それだけに本研究のような「あゆみ」調査研究の意義は大きく、いろんな方がこの歴史をつづる作業に参加されることを期待したい。
(2)多摩社会教育会館の事業として取り組まれてきた本研究では、調査活動を通して、三多摩のそれぞれの自治体で、あるいはサ−クルや団体等で、いわば“自治体社会教育史”“自己活動史”のような努力が活発化すること、その触媒的な役割をはたすこと、をひとつの目標としてきた。「國に歴史があるように、地域にも集団にも歴史があり、そこに生きる一人ひとりにも歴史がある。自らの歴史は、やはり自分で綴っていこうという姿勢が大切なのではないだろうか」(前掲「あゆみ」V、8ペ-ジ)と考えてきたのである。
事実この10年の間に少なからぬ自治体で「社会教育史」「公民館史」などの努力が重ねられてきた。本研究もこれらの活動に支えられつつ、同時に新しい社会教育の地域史づくりの契機となり、そのような地域エネルギ−を触発していきたいと考えている。三多摩のなかには未だ自治体社会教育史をもたない地域もあり、歴史の空白を一つずつ埋める課題にも挑戦していく必要があろう。
(3)三多摩の社会教育の「あゆみ」研究と同じような作業を、23区の社会教育についても開始することが出来ないだろうか。
(4)東京そして三多摩の社会教育についての通史はまだ編まれていない。かって東京都立教育研究所による「戦後東京都教育史」下巻(社会教育編
1967)が刊行(限定版)され ているが、「体系性と実証的史料の面で隔靴掻痒の感がどうしても残る」(「戦後東京社会教育史の研究」1986、小林)ところがあり、そしてその後すでに25年を経過しているのである。新し
く発掘された市町村・地域資料等を基礎に、他自治体の社会教育通史編纂の事業(たとえば「長野県社会教育史」同「公民館活動史」1982〜87)をも参考にしながら、首都東京の
独自の社会教育史を“通史”としてつづるときが来ているのではないだろうか。幸いに「東京都教育史」全6巻の編纂事業(東京都立教育研究所)が進行中であるが、社会教育にあてられる枚数はあまり多くなさそうである。しかるべきところで社会教育通史づくりの検討がはじめられることを期待しておきたい。
(6)第Y集 第3サイクルへの挑戦を (1993年)
振り返ってみると、戦後三多摩・社会教育の歩みを“掘る”作業が始まったのは1987年の夏であった。その翌年、‘88年に報告書・第1集が刊行されている。それから早いものでもう実質6年が経過し、報告書もこれで6冊を数えることになった。この機会にこれまでの「資料分析研究」のあゆみを若干整理しておくことにしよう。
本研究のねらいや意義については、第T集「序文ー戦後三多摩・社会教育のあゆみーその歴史を掘ろう」に記している。この初期の段階では当面の研究・調査課題として、@子ども会活動・児童文化運動、A青年団活動・学習、B婦人会・女性運動・学習、C社会教育行政・指導、D視聴覚教育・文化行政、の5テーマを設定し、「まずは昭和20年代に焦点をあてて」作業を開始することとした。当時の関係者のリストをつくり、資料をもとめ、証言をあつめ始めた。その第1次の報告が第T集として発刊されたのである。
次年度になると、5っのテーマを基本にしつつ、昭和30年代以降についても次第に資料収集がひろがり、また5テーマの枠をこえる新しい課題についても調査の手が伸び始めた。それまで未知・未見であった事実が少しずつ姿をあらわし始めるのである。たとえば「砂川基地闘争と青年団」「浴恩館」「西多摩婦人生活館」「多摩自由大学」「アメリカ軍宿舎反対運動と婦人会」「村山文庫と青年による図書館運営」などである(第U集「目次」参照)。
作業の過程では、あらためて三多摩の社会教育の歴史の豊かさを実感させられることがしばしばであった。そのことを“静かな感動”として次のように書いている。「いま歴史に触れ、歴史を掘ることの感動を静かにかみしめている。努力して、調査の歩みを一歩進めれば、その一歩ごとに、必ずといってよいほど、新たな事実に出合った、そんな幸せな感じなのである。」(第V集、p5)
3年目の作業をおえて、この段階の一応のまとめとして刊行されたのが報告書・第V集である(1990年)。報告書の冒頭において「三多摩・社会教育のあゆみについてーその特質と課題ー」(小林)として中間的な総括を試みている。主要には、@社会教育の公的条件整備、A社会教育を担う職員集団の形成、B住民のエネルギーと運動、C学校と教師の役割、の4点についてその特徴と課題を整理している。各項目ごとの調査報告とあわせて、この3年間に収集し得た証言、文献、各種資料(写真、フィルム等を含む)の目録一覧と各市町村別の社会教育(体育)行政・施設変遷図を巻末に付している。この作業がなければ、歴史のなかに埋没したに違いない事実や資料も少なくないと考えている。
1987年から89年(報告書刊行は90年)にいたる5テーマを軸とする基礎的な資料収集の段階を本研究の第1サイクルとすれば、これに続く90年から93年までの「継続研究」は、いわばその第2サイクルということができよう。(この調査研究作業が、関係者のご努力により継続されたことは誠に幸いなことであった。この場をかりて感謝したい。)
第2サイクルの報告書としては、91年・第W集、92年・第X集、そして93年の本報告書・第Y集の3冊が刊行されたことになる。
第2サイクル・継続研究の視点は、主に次の3点であった。
1,当然のことであるが、第1サイクルの研究作業を補足・深化し、さらに発展させること。対象とする時期も昭和20年代・30年代に止まらず、これをこえて40年代以降にもひろげていく。
この視点にたって取り組んだ作業としては、@社会教育主事配置の経緯、A公民館運営審議会・委員の状況、B学級・講座の流れ(第X集「目次」参照)、C教育委員会組織図と社会教育機関の位置付け(本報告書第Y集「目次」参照)などのほか、資料目録の追加(斎藤峻・丸田修二両氏資料ー第X集収録)等があげられる。
2,これまで取り上げるに至らなかった新しい課題について挑戦していくこと。第1サイクルのまとめ(第V集「三多摩の社会教育のあゆみについてーその特質と課題ー」)の最後の部分でも、残された研究課題について8点(略)をあげている。これをもとにさらに検討をすすめ、新しく挑戦すべき(個別)テーマとして提起されてきたのは、次のような項目であった。
@図書館、A博物館、BPTA、C障害者の社会教育、D人権教育・同和教育、E新生活運動・生活学校(第W集「まえがきーいくつかの挑戦」参照)、さらにこれに加えて、F学校開放、G高齢者と社会教育、H識字教育・夜間中学、I労働組合・運動と社会教育(第X集「まえがきー歴史の空白を埋める」参照)などであった。そしてさらに、本報告書第Y集・目次に明らかなように、J社会体育、K共同作業所運動、L「うた」と「おどり」の社会教育実践史、などの新しい項目がこれに加わる。
これらの個別課題のなかには、その分野ですでにある程度の歴史研究や年表づくりが行なわれている場合(たとえば@図書館など)もあって一様ではない。しかし概して初めてその「あゆみ」が語られるというテ−マが大部分であり、その意味で新しい“挑戦”であった。
3,三多摩の各自治体のなかで、社会教育の「あゆみ」研究が比較的に未開拓な地域への触媒的・触発的な役割。この点については、第1サイクルの3年間でも証言・資料の収集の過程において留意してきたことであった。報告書第V集では、証言・資料の「市町村別一覧」を示しているが、これをみると不十分ではあるが、ほぼ三多摩全域にひろがる調査活動の努力が反映されているといえよう。
しかしそこには勿論地域的な精粗がのこされていた。第2サイクルでは、第X集「まえがき」にも記したように、これまでの地域研究を補うかたちで、出来るかぎり多くの地点での調査報告や証言を収録することに努めた。資料を収集し、証言をお願いすることを通じて、その地域・社会教育の歩みについての関心がすこしでも刺激されることを期待したのである。
第2サイクルを終わってみて、あらためて「あゆみ」研究の地域的なひろがりを点検してみる必要がある。この3年間の証言・資料収集の市町村別の地点を振り返ってみてみると、第1サイクルの段階よりも若干はひろがりを増したように思われる。しかし触発的な役割を果たし得たかどうかについては、今の段階では何とも言えない。
また地域的な空白を埋めようという課題を意識するあまり、これまで比較的に社会教育関連の雑誌や文献などに登場してきた自治体(たとえば国立市、三鷹市、国分寺市など)の方が、かえって本報告書T〜Yへの収録数が少なくなっている傾向もみえる。
しかしその一方で、戦後・三多摩・社会教育の「あゆみ」にかんするテ−マを出来るかぎり包括的に、地域的にも三多摩全域のひろがりで、というような姿勢が(その問題意識は正しいとしても)、それがかえって調査研究の課題設定を網羅的にし、探求のレベルを浅いものにしているのではないか、という反省もないわけではない。
本報告書の編集過程において、あらためて残された課題の多さを実感させられた。たとえば「うたでつづる社会教育実践史」についていえば、続いて「演劇」の実践史が、識字教育(夜間中学)については朝鮮人学校の問題が、あるいは八王子市第五中学校夜間部の歩みと関連しては同じ八王子市の青年学級の問題が、という具合に次の課題が導きだされてくる。面白い歴史に出会えば、さらに新たな歴史への関心が生み出されるのである。
第2サイクルの個別課題(上記@〜L)についても入口から垣間見た程度で止まっているものもあり、さらに新しいテーマ(たとえば、社会教育委員会議の答申活動、公民館以外の地域・社会教育施設の展開、社会教育職員集団の形成など)も提起されている。この間に新しく収集し得た資料の目録作成・補充も必要であろう。
いずれにしても、三多摩・社会教育の「あゆみ」を掘る作業は、いよいよ第3サイクルに踏み込まなければならない段階に到達したことは確かなようだ。第1・第2サイクルの作業を足場に、さらに歩みをすすめ、新しい課題に挑戦していく必要を痛感している。
(7)
(8) 第[集 あらためて社会教育・半世紀の歩みをふりかえる (1995年)
今年は言うまでもなく戦後50年にあたる。戦後教育改革の初期から胎動した社会教育の新しい動きは、三多摩の各自治体では一様の経過ではない。しかし三多摩の社会教育総体としてはほぼ半世紀の歳月を経てきたことにになる。今年の私たちの研究調査活動でも、とくに後に述べる有賀三二氏(小平市)の戦後初期の貴重な資料綴りを拝見しながら、半世紀になんなんとする歴史の重みを実感させられた一年であった。
三多摩の社会教育改革の歩みは、戦後日本の社会教育全体の展開のなかに位置づけると、決して先進的なものではない。戦後の首都・東京の事情、あるいは都の行政施策の特徴もあって、むしろ一歩も二歩も遅れて動き始めたと見た方が適当であろう。それだけ自治体によって戦後社会教育の歩みは多様な展開をとった。たとえば小平市(当時は町)のように戦後いち早く公民館活動を始動させた自治体もあれば、ようやく1980年代になって公民館を設置した(あるいはまだ設置していない)自治体もある。ほぼ半世紀といっても、地域・自治体による多様な社会教育の歴史があるわけである。それは地域的な格差を示しているが、他方で地域的な社会教育の自治性、その可能性をも意味している。この多様性と自治性が、三多摩社会教育の歩みの重要な特徴でもあろう。
あらためて社会教育の歩みにとって“半世紀”とは何であったのか、について考える時期がきたとも言えよう。
今年で私たちの「三多摩社会教育の歩み」分析研究の報告書も第[集となった。今年の研究活動とこの報告書の主要な視点ないし構成について、特徴的なことをとくに次の4点について書き記しておきたい。
1,まず、これまでの私たちの“歴史を掘る”作業の継続である。昨年の報告書第Z集、またこれにいたる研究調査活動(各報告書の目次)を振り返っていただくと明らかであるが、私たちは一つには、自治体の公的社会教育の制度形成(行政、施設、職員制度など)の歩みについて、他方では地域の住民活動・民間運動(子ども、青年、「婦人」などの諸運動)について、資料収集や証言・調査活動を重ねてきた。取り組んできたテ−マのなかで、継続的なテ−マは、社会教育職員制度の歩み−職員採用の経過調査、青年学級・勤労青年学校、砂川の婦人会活動、川崎大治「子ども会活動」、などの報告がこれにあたる。
2,第2に、これまで課題として追求しながら取り上げることが不充分であったテ−マへの挑戦である。一つは、新生活運動・生活学校について、これまでの課題(報告書第W集「まえがき−いくつかの挑戦」、第Y集「まえがき−第三サイクルへの挑戦」参照)を想起しつつ、関係者の座談会による証言収集と、必要な分析・解題を試みた。
あと一つは、青年学級の歴史研究に関連して、とくに青梅市で開設された経過がある「勤労青年学校」についての証言を収録できたことである。戦後の「勤労青年教育」にかんする歴史のなかでは、全国的にも数少ない事例の一つであって、これまでかかえてきた宿題の一つ、その側面が明らかになったといえよう。
3,とくに本報告の大きな収穫は、有賀三二氏所蔵の希少資料(教育刷新委員会関係)に接触することができ、同資料綴りの目次一覧を作成することができたことである。有賀三二氏は、旧小平青年学校長として、戦後日本の教育改革を方向づけた教育刷新委員会(1946年)の委員に加わり、その前身ともいうべき(アメリカ教育使節団に対応する)日本側教育家委員会の資料を含めて、当時の重要資料が二つの綴りに保存されてきた。ずしりと重い資料綴りである。
これまで小平市教育史資料集(小平市中央図書館所蔵)などを通して、有賀氏の青年学校長、戦後の初代小平公民館長としての足跡はある程度は記録に留められてきたが、教育刷新委員会関係については資料を拝見する機会がなかった。今回ようやく文部省レベルの重要資料の存在とその主要な内容が明らかになったことになる。この資料公開については、いまなお健在である有賀三二氏とその周辺の関係者の方々のご理解とご協力があった。この機会に御礼を申しあげたい。
4,本報告書では、とくに私たち研究員だけではなく、とくに次の三氏からの特別寄稿をいただいた。「三多摩社会教育の歩み」研究として重要な資料ないし解題の提供をいただいたわけである。
@有賀三二氏資料に関連して、とくに(戦前)青年学校制度の(戦後)終息過程にかんする解説について、小林平造氏(鹿児島大学助教授)。ちなみに同氏は本分析研究が発足した1987年当時の研究員メンバ−であった。
A青年学級法制化初期の「青年学級における技能者養成」の問題について、浅野かおる氏(東京都立大学大学院)。三多摩のみならず東京都全域にわたる青年学級の技能者養成の当時の状況について、広汎な資料収集を含め、1994年度(第41回)日本社会教育学会において報告されたものの一部を紹介していただいた。
B東京都公民館大会の第1回大会(1962年)以降の歩みについて、とくに東京都公民館連絡協議会の歴史とその役割にもふれて、進藤文夫氏(元国分寺市社会教育部長)。最近の東京都公民館大会の在り方や運営の問題が論議されているだけに貴重な証言である。
本報告書の内容に厚みと拡がりをもたらしていただいた三氏に感謝したい。
以上のように三多摩地区における社会教育「歩み」研究を続けてきて、すでに8年を経過したわけであるが、最近とくに、同時に都レベルおよび二三区の社会教育「歩み」研究を平行させる必要を痛感する。幸いに東京都立教育研究所によって新しく「東京都教育史」編纂の事業が開始され、すでに第1巻、第2巻の刊行(全5巻予定)が実現した。各巻には当然のことであるが、社会教育編も含まれている。それと連動するかたちで、「二三区社会教育あゆみ研究会」が岡田忠男氏などを中心に開始されている。
本報告書のなかでも、取り上げたテ−マから言えば、新生活運動にせよ、あるいは青年学級や職員制度・採用の問題にせよ、また地域の子どもや青年・婦人等の運動にしても、事がらは三多摩だけに限定されず、広く東京全域の問題として“歴史を掘る”作業を開始していく必要があろう。そのような視野の拡がりをもって歴史を綴り、状況を歴史的におさえながら、これからの方向を模索していく課題を考え続けた1年でもあった。
本研究の来年度へのさらなる継続と充実を期待したい。
(9)第\集 大河の流れをみつめてきた思い(1997年)
私たちが「三多摩における社会教育のあゆみ」研究にたずさわって、実質10年が経過している。毎年1冊ずつの「まとめ」を重ねてきたが、本報告書によって第\集を数えることとなった。いま振り返ってみて、一つのテ−マについてこのように継続的な作業が出来ようとは正直のところ思わなかった。
当初の計画では、このテ−マは3年間の調査研究事業として完結するはずであった。しかし戦後激動期からの半世紀にちかい三多摩社会教育の“大河の流れ”のごとき歩みは、ささやかな3年間の作業では画きつくせるものではなかった。むしろそのことは最初から予想されたことでもあった。少しずつ事実が掘り出されるにつれて、たしかに研究作業は進捗するわけであるが、逆に未知の歴史がだんだん増えてくるのだ。
3年が経過したところで私たちは一応の総括的な報告書を作成(第V集、1990年)した。この第V集「まとめ」の末尾に次のようなことを記している。
「私たちの研究グル−プは、会館の調査研究事業の仕事はおわっても、三多摩の社会教育の歩 みを“掘る”作業は継続させようと話しあっている。社会教育の歴史に出合う感動を味わった からである。」
当時、私たちは3年間の作業によってもなお、多くの課題が残されていることを発見していた。この時期をはずしては歴史のなかに埋没してしまう「歩み」が少なくないのではないか、ある種の切迫したような思いから、私たちは自主的なかたちでも研究調査活動を持続しようと考えていたのである。
そして幸いにも、この調査研究活動は多摩社会教育会館の事業としてそれから6年間も継続できたことになる。この機会にあらためて会館の辛抱強さと地味な歴史研究をこのように位置づけてきた判断に敬意を表したい。
十年一昔というが、私たちの最初のころの報告書に登場された方のなかには、その後に物故された方もあり、もっと語っておいていただきたかったと悔やむ思いも痛切なものがある。しかし他方この報告書が重ねられることによって、歴史の貴重な断面が風化することなく再び日の光をあてられた事実もある。当初は皆目見当がつかなかった歴史の流れも、一つ一つ事実を掘りおこすことによって、その輪郭が少しずつ見えてくるようになったと思う。やはり「継続」は貴重である。ささやかな歩みでも、歩み続けることによって、たしかな道が見えてくる。
本報告書\集では、これまでの「三多摩における社会教育のあゆみ」調査研究で未だ挑戦できなかった課題について取り上げることを主眼とした。それは次のようなことであっった。
(1)これまで1940年代、50年代、60年代と歴史を追っかけてきたが、1970年代「三多摩の社会教育」について本格的に踏み込んでみる。
(2)自治体行政による公的条件整備の歴史だけでなく、その背景にある住民の学習と運動にしっかりと焦点をあててみる。この観点から、「1970年代を中心とする社会教育をめぐる住民運動」について関係者の証言を収録することとなった。
(3)自治体行政以外のセクタ−ですすめられている社会教育ないし生涯学習の取り組みについて、三多摩でどのような展開があるのか、歴史の視点をもって、挑戦してみる。
その一つが、大学公開講座についての調査活動であり、またあと一つが「日野社会教育センタ−」の独自の歩みを明らかにすることであった。
(4)このことと関連して、企業による社会貢献事業の事例を調査してみる。その典型的な事業として多摩信用金庫による「たましん歴史・美術館」の歴史に注目してみる。
(5)社会教育の領域はある意味でせまく、また生涯学習の展開をみても学習・文化にかかわる領域に限定されているが、本来は職業・労働にかんする技術訓練や資格取得の諸活動もまた視野のなかに含めて考える必要があろう。その一つの典型的な試みとしての「公民館における保母養成講座」(稲城市)の実践事例を記録化しておく。
(6)労働者教育ないし勤労者学習にかんする資料や証言を収集する。
総じてこの1年の調査研究活動では、「三多摩の社会教育」の地域的かつ歴史的な特質をどう考えるか、日本各地の社会教育の歴史的な展開過程と比較して、三多摩という地域はどのような独自の歩みをたどってきたのか、その特徴は何か、を考え続けてきた1年だったと思う。
考えてみると三多摩地域は、いうまでもなく首都の一部を構成しているが、かってはその首都エリアのなかの農村であり、それが急速に都市化し過密化してきた独自の戦後史をもっている。いわゆる三多摩格差とよばれる行政上の課題を背負いつつ、そこにはもちろん企業があり、労働組合があり、そして市民運動が生まれ、文化運動が展開してきた。あるいはまた米軍基地があり、さらには日本のなかでもっとも多くの大学が位置している地域でもある。それは戦後のなかでもせいぜいこの30年前後のことである。そのような激しい変化と注目すべき地域特性をもっている三多摩の社会教育が、いったいどのような独自の歴史的な特徴をもって歩んできたのか、そのことを深く問いかけてみる必要があるのだ。
たとえば「長野県公民館活動史」や「長野県の社会教育」等の部厚い報告をまとめてきた“信州の社会教育”と比較して、東京・三多摩の社会教育史が同じ歩みであるはずがない。その地域史的な違いは何だろう。その特徴をかりに一つあげるとすれば、地域・自治体というセクタ−の公的社会教育活動だけではなく、企業や労働組合や文化運動や、あるいは米軍基地をめぐる住民運動や大学の公開講座など、いわば多元的なセクタ−や運動による社会教育にかかわる諸活動が展開してきたことではないだろうか。
しかし私たちは「三多摩の社会教育」の特徴は何かと問い続けつつ、まだその輪郭を充分に明らかにしてはいない。今後まだまだ東京二三区の歴史を含めて、社会教育の“大河の流れ”を見つめつづける必要があるようだ。
今年の報告書では、とくに上記の諸課題にかかわって多くの方々からのご協力をいただいた。窮屈なスケジュ−ルのなかにもかかわらず、貴重な証言を賜わった「社会教育をめぐる住民運動」関係者の皆様、「たましん歴史・美術館」原嘉文氏、「日野社会教育センタ−」矢島 雄氏、東海大学・川廷宗之氏、また座談会にご参加いただき、あるいは資料提供ご協力いただいた皆様、に心からの御礼を申し上げたい。
三多摩社会教育の歩み研究については、本報告書で一つの区切りをつける意味で簡単な索引などを巻末に付した。ご利用いだきたい。今後とも関係各位のご協力をお願いしたい。
(10) 戦後における東京の社会教育のあゆみT(通巻10号)−1997年−
<まえがき> 戦後50年の地点にたって
1977年度の多摩社会教育会館・調査研究事業として始まった「三多摩社会教育の歩み」を掘る資料分析事業は、10年を経過して、今年度より新しいサイクルに入った。三多摩だけでなく、これまでの課題であった「二三区社会教育の歩み」研究を正式に開始することになったのである。いわば首都・東京の社会教育の歴史研究に真正面から取り組もう、というわけだ。
これまでの「三多摩」研究については、毎年1冊のリズムで報告書を刊行することができた。その内容については、1997年3月刊行の報告書第\集『戦後三多摩における社会教育の歩み』において、報告書全9冊の目次一覧、執筆者一覧、地域・項目別一覧等の索引を付している。もちろん多くの課題を残しているが、しかし振り返ってみて、歳月の経過とともに散逸・風化しがちな歴史の断面についてある程度は記録的に復元し、資料的に収集・保存することが出来たと思っている。多摩社会教育会館・社会教育研究室の一隅におかれている社会教育史料棚は、斉藤峻資料とともに、ささやかながらコレクションとしてのある風格をもち始めている。これまでいろんな形でこの作業にご協力いただいた関係各位にこの機会をかりて、あらためて感謝の意を表したい。
これまでの東京の社会教育史研究はきわめて稀少であり、未だ体系的かつ包括的な歴史記述には至っていないというべきであろう。しかしそれでもいろんな機会に社会教育史を綴る挑戦があり、断続的に努力が重ねられてきている。この機会に手元の文献・資料から拾い出してみると、次のようなものがあげられる。まず全般的なものから、さらにとくに個別的なものを列記してみる。
@東京都立教育研究所編集・発行『戦後東京都教育史』上巻(教育行政編、1964年)、
下巻(社会教育編、1967年)
A東京都立教育研究所編集・発行『東京都教育史』通史編、第1巻〜第5巻(1994年〜97年)
*第6巻は未刊
→■
B各区・自治体史および教育史の「社会教育」の項、各自治体「社会教育史」「公民館史」
あるいは「市史編纂資料」「社会教育だより」復刻版など(書名等は略)
C東京都公民館連絡協議会発行『東京の公民館30年誌―基礎資料編』
(都公連創立30周年記念事業、1982年)
D特別区社会教育主事会・東京社会教育懇話会編・発行『学びの援助者として』
(特別区社会教育主事制度30周年記念誌、1990年)など
E東京都社会教育指導員会発行『社会教育指導員制度発足三十周年記念誌
―30年の歩み』 (1987年)
F東京都青少年委員連絡会発行『三十周年におもう』(1984年)
G東京都立教育研究所・部内資料「社会教育の出発」(座談会記録、1974年)
H社会教育推進全国協議会東京23区支部「聞き書き・東京23区の社会教育」(1988年)
I社会教育推進全国協議会・三多摩支部『三多摩テーゼからの10年』
(「三多摩の社会教育」[、1983年)など
J多摩社会教育会館・社会教育実践史セミナー記録
「戦後三多摩の社会教育実践の歴史に学ぶ」(1980年)など
K東京学芸大学社会教育研究室・小林文人「戦後東京社会教育史の研究」
(同研究室『沖縄社会教育史料』第六集、1986年)
L小川正美退職記念出版委員会『酒会教育』(1993年)、松本武編著『社会教育を創る』
(1993年)など個人史、自分史
M東京都立多摩社会教育会館発行『戦後三多摩社会教育のあゆみ』
第T集〜第\集(1988年〜1997年)他、
もちろんこれに尽きるものではない。個別の領域についてはさらにいくつもの“歴史を掘る”作業が試みられてきたに違いない。しかし全体として体系的な社会教育史がまとめられていないと同時に、そのような個々の諸研究・記録そのものが個別の領域に沈潜し、あるいは歳月の経過とともに時間のなかに埋没してきているというのが実態であろう。そして戦後社会教育の出発からすでに50年、当時の社会教育活動に情熱を燃やし、また行政を担い、活躍してこられた関係者にもすでに物故された方々があり、また当然のことであるが貴重な証言者の高齢化がすすんでいる。社会教育の生証人が亡くなられたことを知るとき、半世紀にわたる歴史の重みを一方では実感しつつ、他方では歴史の非情をも味わされる。
この「資料分析」事業は実にささやかな委員会である。研究員4名はみな本務をかかえ、またとくに研究費など用意されているわけではない。出来ることには限度がある。しかしその年度の小さな作業でも、継続の努力をしていけば、新しい事実との出会いがあり、埋もれていた史料に再び光をあて価値を再生させる感動を味わうことができる。やはり継続は力なのだ。これまでの三多摩研究の経験のなかで確信をもつてきたことである。
今年度「二三区社会教育の歩み」研究をすすめるにあたって留意してきたことは次の4点である。いずれも三多摩研究の考え方を継承している。
(1)これまでの東京「社会教育の歩み」研究のなかで未だ明らかされていない空白の部分に挑戦する。埋もれた事実・史料の発掘に努力する。
(2)稀少史料や退蔵資料を再生し記録化する。戦後社会教育の歴史を担った関係者の証言を収録する。
(3)二三区のなかの典型的な区について「社会教育の歩み」を綴る作業、とくに詳細な年表作成を試みる。次年度以降も継続し、事例的に蓄積していく。
(4)時期的にはまず戦後初期、昭和20年代ないし1945年以降から1950年代の社会教育の展開過程についての解明に力点をおく。
本研究の「思い」としては、単なる報告書の作成に止まることなく、資料収集や聞き書き活動などを通して、各自治体や機関・施設、また社会教育関係の諸団体(たとえばPTA、青少年団体)などが自らの「歴史を綴る」作業を開始するような触発的な役割、波及的な効果が生まれないものか、と願っている。
ユネスコ「学習権宣言」(1985年)も「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」とうたっているではないか。私たちのこれからの「二三区社会教育の歩み」研究について、関係各位の一層のご協力、ご助言をお願いしたい。
(11) 戦後における東京の社会教育のあゆみU(通巻11号)−1999年−
<まえがき> 東京社会教育の地域史を
東京社会教育史の分析研究は、平成八年度より(三多摩だけでなく)二三区研究へフィールドをひろげ、新しいサイクルへ入った。その経過については昨年度報告書「まえがき」に記しているが、平成九年度研究は新サイクルの2年目、本書は二三区研究報告の2冊目(三多摩研究から数えれば通巻11冊目)にあたる。
戦後50年を経過した段階において、首都・東京の社会教育史は思いのほか明らかにされていない、というのが私たちの共通の課題認識であった。いまのうちに貴重な歴史を風化、埋没させるのでなく、研究調査の光をあてて復元、回生させていこうと考えてきた。とくに特別区制度による二三区の社会教育は、その独自性によってかえって記録、資料が充分に残されていない。戦後社会教育の創設期の関係者もこの間に高齢化がすすみ、その証言や回想も稀少になってしまった。
他方で、東京都立教育研究所による『戦後東京都教育史』(とくに下巻「社会教育編」昭和四二年)や今次の『東京都教育史』(とくに通史編四巻、平成九年、同五巻、未刊)によって、東京都全域の社会教育史はかなり明らかになってきた。しかし通史的にはある程度の復元がすすめられたにしても、各区・地域の多様な個別の展開過程については、さらに研究調査が深められる必要がある。全体の把握も、地域の個別史を含めトータルにとらえかえすことによって精緻なものになる。
本研究で意図してきたことは、東京の社会教育の歴史研究において、とくにその“地域史”的な視点をもって、事実を掘りおこし、証言・資料を収集していこうということであった。昭和六二年度からはじまる研究作業のこれまでの報告書(10冊)を通覧していただけば、この研究視点、その方法論が理解していただけると思う。
地域史的な事例研究としては、昨年はたとえば大田区の社会教育史年表づくりがあった。今年度は葛飾区の社会教育の歩み研究がおこなわれた。来年はまた次のどの区かにフィールドを移しながら歴史を掘ってみる。このような地域事例研究をすこしづつ蓄積していければ、東京の社会教育の歩みが地域実証的に復元されていくことになるだろう。
平成九年度研究では、事例研究としての葛飾区社会教育についての座談会、また児童文化運動と社会教育の歩みについての座談会、を開催した。ご出席、ご協力いただいた関係の方々に感謝したい。また私たち研究員のレポート以外に、四宮さつき、竹門正夫、山崎康平、の3人の方から貴重な証言をいただいた。御礼を申し上げる。
戦後東京の50年、その間に各区・自治体において取り組まれてたきた社会教育の歩み、また各地域・民間の学習文化運動は、大きな海のような広がりと深さをもっている。海の広さを泳ぎ、その深みにもぐっていけば、さまざまの証言や資料に出会うことが出来るはずである。果たしてそれらをどのように記録化していけるか、歴史の歩みをどのように復元していけるか、課題は大きい。
今後とも心ある方々のご教示、ご協力をお願いしたい。
(12) 戦後における東京の社会教育のあゆみV(通巻12号)−1999年度−
<まえがき> 社会教育の歩みを掘り続けよう
本報告書は、「戦後三多摩における社会教育のあゆみ」から数えれば通巻12冊目、東京二三区「あゆみ」研究の報告書としては3冊目にあたる。この「社会教育資料の分析研究」事業が始まったのは1987年、多摩社会教育会館の改築・オープンの時期と重なるが、それから足かけ13年の蓄積をもったことになる。1996年からは、三多摩から東京全域(二三区)に研究対象が拡大され、それから3年が経過している。
いま改めて各年度の報告書を読み返してみると、感慨新たなものがある。首都・東京の、少なからざる社会教育「あゆみ」の歴史が復元され、あるいは稀少資料の復刻が行われてきたのである。この「歴史を掘る」(報告書第1集・序文)事業によって、歳月の経過のなかで埋没・風化したかもしれない貴重な「あゆみ」が幾つも復元された。そこに新しい光をあて、歴史のなかで復権させることが出来た。
もともと本研究のスタートは、東京の社会教育の歴史がかけがえのない歩みをもっているにもかかわらず、基礎的な歴史記述が少なく、重要な資料さえ散逸しがちであること、そのことを憂慮してきた関係者の努力から始まった。ささやかな努力も、毎年度に継続され年月の蓄積があれば、やはり一定の成果を生みだすのである。この13年の作業によって「継続」することの価値を今更ながら実感している。
この機会を借りて、本研究の関係者(社会教育会館側、研究員ほか協力者)、ならびに証言・資料提供など、さまざまな協力を惜しまれなかった各区、市民、諸団体の多くの方々に深い感謝の意を表したい。
いくつか本研究がめざしてきた課題、その視点なり方法、を整理しておこう。その初心は『戦後三多摩における社会教育のあゆみ』第V集(1990年、小林「三多摩の社会教育の歩みについてーその特質と課題」)に記している。
といっても、その後の研究事業のなかで、それほど体系的に調査方法論が確立してきたわけではない。当初の課題意識がすべてそのままま実現されたのでもない。とくに委嘱された研究員は、すべて本務をもちながらの作業であり、また経費的には貧弱であり、調査や執筆のために特別な予算が用意されたのでもない。しかし「歴史を掘る」ことへの興味と情熱、そして東京の貴重な社会教育史を復元させていこういう想い、は切なるものがあった。それが本報告書を含めて、12冊の結実となったのである。
1,まず何よりも、戦後社会教育に関する基礎的な史・資料の収集と保存を第一に心がけた。作業としては戦後初期(昭和20年代)の資料調査を急いだが、関係当事者の多く は高齢でありまた物故者も少なくなく、本研究がせめてあと10年早く企画されていればと惜しまれるところがあった。
2,主要なテーマは、都及び区・市町村の社会教育行政や施設、それを担う職員集団と専門職制、いわば社会教育の公的体制の形成・整備過程の歩みを復元する作業であった。もちろん区市町村によって取り組まれた「教育史」や「公民館史」等の刊行があり、資料的にも重要な意味をもつが、他方で社会教育史づくりがほとんど皆無の自治体があり、本研究が地域・自治体社会教育「自分史」づくりへの一定の触媒的な役割を果たすこと も課題とした。
3,言うまでもなく社会教育活動の主体は市民である。公的な体制のみでなく、「はじめ に住民の学習ありき」の視点をもって、その自主的な学習活動、サークルや社会教育関係団体、市民活動や地域運動、あるいは住民運動など、市民側の実践と運動の歴史的な展開を明らかにすることがあと一つの重要な課題となってきた。
4,同時に、せまく社会教育の領域だけに限ることなく、関連する多様な社会的文化的な諸運動、たとえば労働運動と学習文化活動、「うたごえ」「演劇」等の文化運動、児童文化運動、「ふだん記」など生活記録、あるいは夜間中学や「ひの社会教育センター」 「たましん」美術館、馬込文士村、などの歴史を少しでも多元的に掘り起こす努力を試みた。これらのもつ社会教育的な意義、公的な社会教育との関連は、東京の社会教育史づくりにとって欠かせない視点だと考えてきた。
5,このことは同時に、日本全体の各地域・都市の社会教育の歩みのなかで、首都・東京の大都市的な社会教育史の特徴、他の地域に見られない独自の歴史は何か、を問うことでもある。たとえば長野(信州)の、あるいは川崎の、精力的な社会教育史や公民館史づくりが注目されているが、それらと比較して、東京はいかなる社会教育・生涯学習の歩みを創ってきたのか、その歴史的な特徴は何か、が明らかにされていく必要がある。 今後とも追究していくべき課題であろう。
今回の研究作業は、本報告書で一応の終了となる。思い半ばで中断する感じが無きにしもあらず、その意味では残念であるが、しかし他方では、同じ研究プロジェクトが13年間にわたって継続されてきたことへの充足感もある。いずれまた近い機会に本研究を継承する努力がきっと始まるであろうことに期待し、また確信もしている。
本研究の成果は12冊の報告書に凝縮されているが、そのなかで、とくに中間的な総括の努力を試みている。関連の図版、年表、行政・施設形成図表(第V集、1990年)、執筆者一覧、収録地域索引、目次一覧(第\集)等がそうである。また研究調査活動の進展のなかで収集され、あるいは心ある方々から寄贈された資料がかなりの内容をもって蓄積されてきた。いわば「戦後東京社会教育資料・コレクション」である。研究活動の貴重な副産物、いや歳月が経過していけば大きな主産物、宝の山と言うべき価値をもっている。この資料コレクションの保存と管理、また絶えざる拡充の努力も、関係の方々に強く期待しておきたいことである。
「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる」(ワイツゼッカー・前独大統領)という言葉があるが、これにあと一つ加えておこう。「また未来への確たる歩みをもきざむことができない」のではないかと。(小林文人)
*東京社会教育史研究のページ→■
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