◆東京・公民館(二三区・三多摩)研究◆  
                      
(小林 文人)     
         *東京社会教育研究一覧→■

<目次>


1,東京二三区の公民館 ー資料解題的にー
 
−東京都立多摩社会教育会館『戦後における東京の社会教育のあゆみ』T
                       (通巻])1997−


2,三多摩テーゼ20年−経過とその後の展開−

  
−多摩社会教育会館『戦後三多摩における社会教育のあゆみ』(Z・1994)

3,東京社会教育史資料・拾遺三多摩テーゼ」記−40年回想
ほか →■

  *戦後東京社会教育行政・施設史■




 (1) 東京二三区の公民館 ー資料解題的にー
                           
      −東京都立多摩社会教育会館・発行
       『戦後における東京の社会教育のあゆみ』T(通巻])1997−


1,戦後初期・東京の公民館制度

 全国的な比較からみて、戦後東京の公民館制度が遅い立ち上がりであったことは、すでにこれまでの三多摩社会教育「歩み」研究で明らかにされてきたことである。なかでも二三区の公民館については、さらに空白に近い状況からの出発であって、実態が弱いだけに、その記録・資料も、また必要な歴史研究も、これまで不充分なものであったと言わざるを得ない。
 周知のように戦後公民館制度の創設は1946年文部省「次官通牒」からスタートする。これを受けて、東京の場合はどんな経過であったのだろう。
 1992年度「三多摩の社会教育資料の分析研究」報告書の別冊として発行された『昭和20年代の東京都の社会教育資料集』(1993年)をめくってみると、公民館設置についての公式一覧資料としては、1949年「東京都社会教育研究大会資料」の記録が最初である。このなかに三多摩の公民館(由木村、立川市、小平町、保谷町)と並んで、二三区の公民館がはじめて登場する。しかしそれらは公立公民館の設置ではなく、いずれも法人立公民館であった。すなわち中根公民館(1947年設置)、中三公民館(同)、三谷公民館(1948年設置)の3館、これに加えて公民館的施設だからであろう、市谷社会館(1946年設置)が表示されている。ちなみに三谷公民館の事業内容としては、「洋裁講習、音楽講習、定期講演会、結婚式挙行」とあり、いわゆる初期公民館として活発な活動が展開されていたようである。
 次いで1951年「東京都社会教育資料」では、これに九品仏公民館(法人立、1950年設置)が記録されている。合計4法人立公民館となっている。こうしてみると、首都東京の“都市部”公民館の出発は、皮肉なことに都市型の公民館としてではない。かならずしも農村型とは言えないにしても、伝統的な地域住民組織を基盤とするいわゆる旧町会施設に依拠する法人立公民館からの出発であった。このような町会施設による公民館的な施設は、終戦直後の東京では他にも存在したと考えられるが、都「資料」に示されているのはこの4館である。
 そしてようやく翌1952年「東京都社会教育資料」によって、二三区では初めての公立公民館が登場する。北区の赤羽、王子、滝野川の3公民館(いずれも1951年11月設置)である。逆にこの「資料」からは前記4法人立公民館の記載が消えているが、直ちに閉館されたわけではないだろう。これらの法人立公民館が、その後どのような顛末をたどることになるのか、都「資料」からは明らかにされない。
 ところで東京都の数少ない公民館史研究のなかで、これら法人立公民館を含め、貴重な基礎資料を掘り起こし、資料集として刊行の努力をおこなったのは、東京都公民館連絡協議会発行『東京の公民館30年誌ー基礎資料編』(都公連創立30周年記念事業、編纂委員会、委員長・小川正美、1982年)である。
 これによると東京23区の公立公民館は、北区のほか、練馬区、杉並区の3区で設置された。

(1)北区赤羽公民館、王子公民館、滝野川公民館(1951年3月〜7月設置)
 <注>ただし翌1952年の段階で王子公民館は公民館条例から削除され(「区民会館」となる)、相次いで滝野川も「会館」となり、さらに1961年、赤 羽公民館も閉館となった。ちなみに当時の東京都公民館連絡協議会名簿 (1954年1月1日現在、設置より3年後)の段階では、初期の北区公民 館3館のうち、王子、滝野川の両公民館はすでに姿を消し、赤羽公民館 1館のみとなっている。したがって1961年の時点で北区の公民館はすべ て姿を消したことになる。
 またこの名簿には法人立公民館として、前記・目黒区三 谷町公民館、世田谷区九品仏公民館、ならびに南多摩郡七生村(現日野市)七生公民館の3法人立公民館がまだ記載されている。
(2)練馬区立公民館(1953年10月設置)
(3)杉並区立公民館(1953年11月設置、ただし1989年閉館)
 「東京の公民館30年誌ー基礎資料編」はこれら東京の公立公民館について、また東京都公民館連絡協議会の活動、関連する住民運動等について、いまとなっては稀少となった重要な記録・資料を精力的に収集・収録している。委員長・故小川正美を中心とする編纂委員会メンバーの努力は並々ならぬものであった。当時のことを回想しつつ、「30年誌」に盛られた諸資料の歴史的な価値を再発見し、あらためて公民館30年誌編纂委員会の業績に感謝したい。また熱血漢・故小川正美の冥福を祈りたい。
 <注>小川正美(1932年・鹿児島県種子島出身、1961年より三鷹市教育委員会勤務、社会教育主事、同市西社会教育会館長、1992年退職。本「三多摩の社会教育資料の分析研究」委員会では初年度1988年より5年間研究員として貢献した。

 「東京の公民館30年誌」(1982年)の刊行からすでに15年が経過した。その後、東京の公民館について、どのような歴史研究・資料発掘が進展したのだろうか。自治体によっては個別の公民館史などがまとめられたところもあるが、都全域としてはあまり見るべき成果もないように思われる。東京都立教育研究所発行・教育史編纂事業『東京都教育史』が刊行され、その戦後編(通史編四、1997年)において初期の公民館の歴史的な経過が記述されているが、残念ながら与えられた枚数が少なく、詳細な歴史分析にまで至っていないところが惜しまれる。
 以下では二三区の公立公民館、とくに杉並区立公民館ならびに北区公民館について、その後に掘り起こされた記録などを資料解題風に整理・紹介しておくことにする。前記「東京の公民館30年誌」に収録されていない事実、資料に目を注いで、この段階で記録に止めておくべきことを拾い出しておきたい。
 練馬区立公民館については、本報告書のなかに梅地幸子氏の別稿が用意されているので、それに委ねることにする。

2,杉並区立公民館の歴史を掘る

(1)公民館の再編計画と「公民館を存続させる」住民運動
 杉並区立公民館は、1953年11月に開館し、1989年3月に閉館された。公民館の閉館にあたっては、これに反対する住民運動「杉並区立公民館を存続させる会」などが地道な活動に取り組んだ。結果的には、その発展的な形態として杉並区社会教育センター(セシオン)が1989年6月開館し、公民館の機能はこれに継承されるかたちとなった。しかし公民館制度としては、36年の命脈をもってその歴史を閉じたことになる。かっての公民館跡地は荻窪体育館となり、現在その一角に公民館を記念する碑が建てられている。
 <注>杉並区立公民館の歩みについての公的な記録としては、閉館時に作成された次の冊子がある。@『公民館の歴史をさぐるー1954年〜1989年ー三十五年間の記録』、A『公民館の歴史をたどるー閉館記念行事』。いづれも杉並区立公民館編集・発行、1989年3月。

 公民館を解消して社会教育センターに移行しようとする案は、すでに1977年当時の杉並区長期行財政計画の中に示されていた。公民館講座を住民主体で企画運営していたメンバー(講座企画運営委員)たちは、この時期あらためて公民館についての学習会を開き、住民の自主的な学習の場としての公民館の存続について陳情書を提出するなど、取組みが開始されている。区当局の当初の計画では、社会教育センターを図書館との複合施設として1982年11月をめどに完成させるというものであった。その計画が明らかになった1979年には教育長あての要望書や議会への請願などが相次いで提出された。そしてさらに幅広い運動への拡がりが求められ「杉並区立公民館を存続させる会」が結成された。同年7月のことであった。

杉並区立公民館記念の碑・オーロラ(杉並区荻窪、20030312)  *碑文→■


 <注>「杉並区立公民館を存続させる会」(代表・伊藤明美)については、伊藤明美「杉並区の公民館存続運動」(月刊社会教育1979年9月号)、同「歴史の大河は流れつづけるー杉並の公民館を守る私たち」(月刊社会教育1981年1月号)、関連して、田中進「杉並公民館と原水禁運動の歴史」ドキュメント社会教育実践史Z(月刊社会教育1991年5月号)、などに詳しい。

旧杉並区立公民館(閉館時、1989年)
 *関連写真(公民館を存続させる会・アルバム、杉並公民館閉館記念行事)→こちら■



 「存続させる会」が第一に取り組んだ課題は、まず杉並区立公民館の歴史を掘る作業であった。会のメンバーたちも足元の公民館の歴史については、当時まったく未知だったのである。東京学芸大学社会教育研究室(小林、園田教子など)も参加して、杉並区立公民館についての記録が収集され始めた。その最初の資料集第1号が急遽編集され、『歴史の大河は流れ続ける』と命名されて刊行されたのは翌1980年4月のことである。手づくりの印刷である。
 この第1集の巻末「解説」として筆者(小林)は、「杉並公民館の独自の歴史、その歴史を綴ることの意義」について5点を指摘している。
 すなわち、@公民館制度をもたない東京都区部のなかでの例外的な公民館であること、A公民館活動と原水爆禁止署名運動との結合、B注目すべき公民館「教養講座」の展開、C図書館と公民館との併設、D法政大学教授(国際政治学者)安井郁氏の館長就任(安井は同時にその前年開設された図書館の館長でもあった)、である。
 ちなみに『歴史の大河は流れ続ける』というタイトルは、1954年4月から62年6月まで毎月第三土曜日に営々と続けられた公民教養講座の最終回「世界の動き」(安井博士連続講演、100回記念)の演題であった。また同じく原水爆禁止署名運動の契機をつくった読書会「杉の子会」の学習テキスト『新しい社会』(E、H、カー)に流れる主要なテーマでもあった。
 「杉並区民が、公民館の閉館という危機に瀕し、探り当てた杉並公民館の歴史は、まばゆいばかりに輝いていた」(第2集「解説」p29)というのはまさに実感であったのだろう。歴史を調べ資料を集める作業は、次々と新しい事実を掘り起こした。それまでの公民館研究では埋もれていた事実、東京の社会教育(公民館)にもこれだけの歴史があったのか、という感動が次のまた新しい課題を浮かびあがらせる。それが『歴史の大河は流れ続ける』第4集までの刊行を生みだすこととなった。
 <注>「杉の子会」は毎年2回程度の機関誌「杉の子」を発行していた。文字通り手づくりのガリ版刷りB5版12ページ前後の小冊子、毎号ともに心温まる内容となっている。「存続させる会」関係者の努力により、この冊子が収集され復刻された。すなわち杉の子読書会「杉の子」全12号(@号1954年12月〜J号1964年5月、そしてK号は5年後1969年6月の発行)である。これももちろん手づくり(私家版)である。

 機関誌「杉の子」に安井郁は毎号の巻頭文を執筆しているが、安井田鶴子夫人もまた中心的な「杉の子」メンバーであり、重要な書き手であった。いくつか引用しておこう。
 「1953年11月7日、新築されたばかりの杉並公民館の一室で、杉の子婦人読書会は生まれました。桃井第二小学校PTAや、上荻窪、三鷹のグループから集まった二十五人が、安井郁公民館長を囲んで、まずE.H.カーの「新しい社会」を手に、社会科学の勉強を始めたのでした。それから十余年、寒い冬の日も、暑い夏も、公民館長室の壁にかけられた詩のように<雨ニモ風ニモ負ケズ>たゆみなく続けられました。ー略」(12号) 
 「ビキニのあの痛ましい事件の後、杉の子会員の間からも何とかして原水爆をやめさせたいという声が高まってきました。その私たちの望みをこめて杉並協議会から発足した原水爆禁止署名運動は全国にひろがり、1954年11月27日現在で18,418,175人に達し、なお毎日およそ15万人づつ増加しています。ー略」(1号)

(2)『歴史の大河は流れ続ける』目次一覧
 第1集(B5版、36頁)に続き、第2集(B5版、56頁)は1981年5月、第3集(B5版、83頁)は1982年8月、第4集(B5版、149頁)は1984年8月に刊行された。資料集は刊を重ねるにつれて厚みを増している。いまはもう残部がなく、貴重な記録になってしまったが、公民館の歴史を探った住民と職員と若い研究者による協同の手づくり作業がいかに重要なものであったか、思い新たなものがある。
 最終号・第4集の編集後記に名前を連ねているのは、安井田鶴子、園田教子、山田幸子、生野忠志、田中進、川添れい、藤本俊司、小林文人、伊藤明美(代表)、大塚利曾子であるが、この作業に参加した人はもちろんこれに止まらない。集団的な活動として進められたのであるが、この中でとくに安井田鶴子夫人の積極的参加、東京学芸大学大学院生・園田教子の資料収集活動(その成果は同修士論文「都市公民館論ー東京都杉並区公民館・安井構想について」1983年、としてまとめられた)、故田中進の資料集刊行・販売活動、もちろん代表・伊藤明美の努力などがいまも記憶に新しい。
 以下に、上記存続させる会編『歴史の大河は流れ続ける』全4集の目次を一覧にして掲げておく。

@第1集ー杉並公民館の歴史(1)
はじめに(伊藤明美)
民衆と平和(抄)(安井郁)
安井田鶴子氏に聞く(横山宏,「月刊社会教育」1979年2月号より再録)
公民教養講座(1954年〜1961年、園田教子)
関連年表
おわりにー解説(小林文人)
編集経過報告・かかわった人
 <注>杉並公民館「公民教養講座」は、毎月第3土曜日、1954年4月から1962年6月(100回)まで継続された。午後1時から1時間・音楽鑑賞(レコード・コンサート)、2時から約2時間・講演というプログラム、講演の前半はゲスト講師による 講演、後半は安井郁館長による「世界の動き」(連続講義)であった。この講座に招かれたゲスト講師は、谷川徹三、朝永振一郎、上原専録、大内兵衛、清水幾太郎、平野義太郎、 丸岡秀子、中村哲、南博、川島武宣、武谷三男、石母田正、 鶴見和子、金子孫市、蝋山政道、大河内一雄、美濃部亮吉、務台理作、阿部知二、中野好夫、平野義太郎、羽仁五郎、大谷章三、など錚々たる陣容であった。

A第2集ー杉並公民館の歴史(2)
特別区の社会教育ー民主社会の基礎工事として(安井郁)
幻の原稿(解説・安井田鶴子)
杉並公民館で開かれた安井郁先生最後の教養講座
     ー1962年6月16日の日記を見て(斉藤鶴子)
杉の子読書会について(島原スミ)
<インタビュー>杉並の社会教育実践ー初期公民館をふりかえりー
           (樫村嘉治ー聞き手・伊藤明美、園田教子)
解説・いま歴史の流れをうけつぎながら(園田教子)
関連年表(1945年〜1962年)

B第3集ー杉並公民館の歴史(3)
社会教育の基地(安井郁、「月刊社会教育」1958年6月号より再録)
公民館成立の前後(菊池喜一郎、松田良吉、中村幸雄、橋尾勇、文責・田中進)
<座談会>杉並公民館初期青年学級をふりかえって(記録する会、文責・藤本俊司)
<鶴見和子氏にインタビュー>綴り方運動をめぐる婦人の移り変わり(文責・伊藤明美)
安井郁館長の戦前・戦後ー細谷千博氏へのインタビュー(文責・園田教子)
杉並図書館の前史ー畔柳哲男氏に聞く(文責・園田教子)
公民館設置に関する審議経過(杉並区議会定例会速記録)
 −昭和27年4月16日、5月30日(臨時会)、8月27日、昭和28年3月10月(条例審議)
戦後杉並の社会教育概観(生野忠志)
解説ー歴史の流れを未来に向けて(安井田鶴子)
編集経過報告

C第4集ー原水爆禁止署名運動の関連資料集
水爆禁止のための署名簿
杉並アピール
原水爆禁止署名運動杉並協議会に関する記録
1,魚商組合陳情ー原水爆禁止署名運動の前史として
2,水爆禁止署名運動杉並協議会発足
3,第一回実行委員会開催ー区議会議長、教育委員らの協力及び新聞発表
4,署名運動杉並全区への拡大ー隣接区への拡大、第二,三回実行委員会
5,運動は全国的なものに
6,原水爆禁止世界大会にへ向けて
7,杉並区議会議事録
 <注>1954年4月17日、杉並区議会が満場一致で可決した「水爆の実験行為禁止に関する決議」は次の通り。「人類の安寧を乱し、然もこれを壊滅に導かんとする最も恐るべき原子兵器即ち水爆の操作は、その目的とその理由の如何に拘わらず、直ちに断じてこれを禁止すべきであり、然も現在行わるるその実験の如きは海洋日本のこれによって受くる被害また洵に甚大である。須らく斯かる脅威は人類生存のためにも或いは世界和平のためにも即時にこれを放棄すべきである。右決議する。」

証言ー菅原トミ(魚屋)、飯野カク、小沢綾子、大塚利曽子(婦人団体)
昨日の風はビキニの灰を運び、今日の雨は放射能を帯びる
牧田喜義氏の手記(「改造」1954年9月号)
原水爆禁止運動の論理と倫理ー歴史的社会的条件の尊重(安井郁「民衆と平和」)
新聞記事(スクープ「読売新聞」1954年3月16日朝刊等)
歴代公民館運営審議会委員名簿
解題ー杉並区における原水爆禁止署名運動と公民館の歴史について(田中進)
付ー参考・引用文献一覧
原水爆禁止署名運動関連年表
編集日程
編集後記
 <注>ちなみに杉並区立郷土博物館は「歴史の大河は流れ続ける」第4集収録の資料をベースにして、原水爆禁止反対署名運動についての特別企画展を開催した。(199 年 )

(3)安井郁の社会教育論と公民館構想     
 「存続させる会」の努力により杉並区立公民館の歴史を掘る作業がすすみ、その全貌が少しづつ明らかにされていったわけであるが、その過程であらためて館長・安井郁の指導的役割の大きさが次第にはっきりしてくる。その頃、「存続させる会」のメンバーたちは、発掘した安井郁の古い論文を手にしながら、直接に「安井先生に会ってお話をうかがいたい」と願った。若い世代は誰もみな面識がなかったのである。
 この求めにたいして、安井田鶴子氏は何度かこのように応えられたように記憶している。「最近、安井は体調がすぐれないのです」「大事をとっていま入院しています」「心配なことはありません、そのうち回復したら必ず機会をつくりたい、安井も皆さんにお会いする日を楽しみにしています」「皆さんが杉並公民館の歴史を調べていることにたいへん感謝しています」など。
 そして突然の訃報が伝えられたのである。1980年3月2日のことであった。こんな結果になるのであれば、なぜもっと強くお願いしなかったのだろう、みんなでせめてお見舞いに伺えばよかった、一度お会いしたかった、という後悔が激しくおそったことを記憶している。
 安井郁は、自らの専門的な国際法学、国際政治学あるいは原水爆禁止運動に関する論文や業績はたくさん残している。しかし社会教育ないし公民館については、残念ながら体系的に書かれたものはないと言ってよい。安井田鶴子氏からは、そのうち「体調が恢復したら杉並公民館長時代のことをまとめてみたい」という意向も伝えられていただけに、享年72才の訃報が惜しまれるのである。
 記録として残されている安井郁の社会教育関連論文をみておこう。まず、没後2年余りを経って追悼集『道―安井郁・生の軌跡』(同刊行委員会編、法政大学出版会、1983年)が刊行されているが、遺稿として「2.社会教育」の章が用意されている。ここに収録されている論稿は次の3点である。
@「理想の小社会を」(桃井第二小学校 PTA 機関誌『桃友』1953年)
A「特別区の社会教育ー民主社会の基礎工事として」(『区政春秋』1954年)
B「杉の子会」bP「一周年を迎えて」1954年、bR「腰をおろして」1955年、
        bV「何のための読書か」1959年(読書会会報『杉の子』所収)
 この他に社会教育に関連して、小論であるが、上述の『歴史の大河は流れ続ける』第3集(1982年)に次の論稿が収録されている。(安井郁の社会教育・公民館実践についての関係者の証言は上記・目次一覧に示されている通り。)
C安井郁(法政大学法学部長、杉並公民館長)「社会教育の基地」
               (『月刊社会教育』1958年6月号、巻頭言)
 さらに関連して、杉並から発した原水爆禁止署名運動(1994年)が約1年を経過して、ヘルシンキ世界平和大会へと盛り上がるが、安井郁はヘルシンキからの帰路「パリの旅宿にて」の序文を書き、帰国後直ちに『民衆と平和』を著している。この1年の原水爆禁止署名運動の大展開の渦中にあって、自ら太平洋戦争後の平和運動と国際的状況について「回顧と展望」「警告と提言」を記したものである。そのなかで、平和運動との関連から民衆教育論を書いている。興味深い内容である。
D「地域活動と民衆教育ー平和運動の地盤を固めるもの」
  「杉並からヘルシンキまでー原水爆禁止署名運動の発展」
               『民衆と平和ー未来を創るもの』(大月書店、1955年)
 ちなみに公民館制度創設40年にあたって公民館についての重要文献・資料を精選し編集した『公民館史資料集成』(横山宏・小林文人編、エイデル研究所、1986年)では、「原水爆禁止運動と公民館」の項を設け、この「地域活動と民衆教育」の主要部分が抜粋・収録されている。
 安井郁は上記「特別区の社会教育」のはじめの部分に次のように書いている。
 「私は二十数年来大学教育に従事してきたが、敗戦後の動揺と混乱のさなかに、精神の 支柱を失った民衆のなかに立ち入り、悩みと苦しみを共にして、社会教育の必要を痛感し、まず地元の杉並区からこの仕事に着手した。」
 戦後初期の混乱期いちはやく、安井郁は大谷省三らとともに「荻窪教育懇話会」「桃井第二小学校PTA」といった地域活動にに精力的に取り組んでいる。その背景には、おそらく国際法学者としての戦前、戦時中のあり方についての真摯な反省があったものと推察される。そして新しく「地域」へ、「民衆」とともに、「民主社会」「平和社会」をめざして、専門的な研究者・文化人としての役割が自覚的に問い直され、みずからの地域での活動が開始されたのであろう。その過程で「社会教育」「民衆教育」の重要性についての発見があり、また図書館と公民館との出会いもあったのである。
 安井郁と杉並区立公民館との出会いは、単に杉並だけのことではなく、日本の公民館史上においても重要な意味をもっている。おそらく公民館関係者によっていつまでも語り継がれるであろう新しい一頁を開くことになった。それは公的機関としての公民館と民衆による自覚的な平和・反核運動とのみずみずしい結合である。その接点に公民館長・安井郁の指導的役割があった。杉並の公民館から始まった原水爆禁止署名運動は、日本各地に拡がり、世界に拡がり、多くの民衆の共感を呼びつつ、広範な学習と運動に発展していった。おそらく当時としては―そして現在においても―、一般の自治体の公民館ではなかなか考えられない展開がみられたのである。
 戦後日本の公民館構想の原型となった、いわゆる文部省「寺中構想」(1946年)が重要な歴史的意義をになうことはいうまでもないことである。しかし杉並における公民館構想、いわば安井構想と呼びうる公民館の実際の展開は、明らかに寺中構想とは異質なものである。
 安井郁には体系的な公民館論が残されていないが、上記の部分的な論稿、またその具体的な事実の展開から、杉並公民館にみる「安井構想」の独自な特徴を整理してみると、次のように言えるのではないだろうか。 @地域の公民館活動を基盤としつつ、地域を超える国際的な視野からの事業編成(例、安井「世界の動き」連続講義)、A現代的な思想と研究の第一級水準に立脚した系統的な学習(「公民教養講座」の開設)、B公民館の学習と社会的な運動との結合(原水爆禁止署名運動への取組み)、C地域における民主主義の模索、自主的なグループ学習活動の援助(杉の子会読書会など)、D公民館と公共図書館との連携、である。
 これらの諸特徴は、寺中構想の農村的な性格にたいして、明らかに都市型の公民館の創出と見ることが出来よう。注目しておきたいことは、寺中構想と連続する発展的形態というより、安井郁の民衆教育論と杉並という地域性にもとづく新しい形態、むしろ独自の公民館構想の展開が生み出されてきたことであろう。
 <注>日本の公民館構想の多様性、地域的な独自な展開の可能性については、杉並区立公民館の歴史等を事例として論じたことがある。小林「公民館の50年ー地域的な創造の歩みと可能性」『月刊社会教育』95年12月号

 東京の公民館の歩みは立ち上がりがおそく、施設数も決して多くはないが、1960年代の国立公民館「市民大学」(徳永)構想、あるいは公民館三階建て論、1970年代の「新しい公民館像をめざして」(三多摩テーゼ)など、多くの注目を集めてきた。これらは日本の公民館史上に確かな地歩を画している。しかし1950年代の杉並区・安井構想は、皮肉なことに公民館の廃止計画が出され、その存続運動が提起されるまで、上に述べてきた独自の展開についてほとんど知られることがなかった。今後さらに当時の資料・証言を収集し、批判的な考察(安井の個人的な指導性、教養主義、啓蒙主義的な傾向、など)を含めて、評価を深めていく必要があろう。
 安井郁は1959年4月より杉並区立公民館・図書館の名誉館長となり、1962年6月の公民館連続講演「世界の動き」の最終回記念「歴史の大河は流れ続ける」講演により一応の役割を終えるが、その後も公民館において「杉並講座」「荻窪講座」等のかたちで隔月の講演会を開いている。(前記『道』p83など参照、この講演記録も追悼集に収録されている。)
 1962年以降の公民館「教養講座」は、その後は「講演と映画の会」(1963年〜1972年)として継続され、1973年からは再び「教養講座」「公民館講座」として再生された。とくに1978年前後からは、受講者の積極的な参加によるテーマ設定と主体的な講座編成が進められてきた。取り上げられるテーマも、教育、子どもと文化、平和、くらしと経済、人権、家族など多彩なものであったが、さらに1980年代になると、一貫して「平和」問題が掲げられ、充実したプログラムが作成された。毎年の講座づくりは、多数の杉並の女性たちの学びのひろばとして定着をみせてきた。そのなかでの1989年公民館閉館であった。
 安井郁のすぐれた指導性に支えられて展開されてきた杉並区立公民館「教養講座」は、1980年代において学習者相互による主体的な参加と意欲による講座づくりへと新しい脱皮をみせたと言ってよいだろう。その意味で歴史は(停滞を含みつつ)継承され発展し、まさに「流れ続け」ている。

3,北区公民館の終熄過程

(1)北区公民館についての研究史
 北区公民館は、1951年設置され、1961年閉館された。わずか10年の短い歴史であった。北区公民館の歩みを記した記録はきわめて少ない。しかし、公的機関としての公民館「閉館」という事例は重要であって、少なくともその理由、経過、背景等を明らかにしておく必要がある。「閉館」の事実そのものが自ら資料を消去していく宿命にあるからである。
 北区公民館については、前述した東京都公民館連絡協議会発行『東京の公民館30年誌ー基礎資料編』(同編纂委員会編、都公連創立30周年記念事業、1982年)がその創設期の資料を収録している。社会教育関係の公的な刊行物による記録としてはこれが唯一のものかもしれない。同『30年誌』の「北区公民館の建設」(p62〜67)の出典は、同区『北区議会史』(1971年、p265〜271)である。
1984年から85年にかけて「東京社会教育史研究会」(東京学芸大学社会教育研究室)が戦後東京・社会教育関係者の証言収集の作業を試みたことがある。そのなかで、当時の北区社会教育課勤務の宇田川誠、石川正之の両氏から「北区の社会教育行政と公民館の歩み」についての聞き書活動を行っている。しかし正確な資料や記録の基礎がなく、充分な証言収集に至らなかった。 
 <注>東京学芸大学社会教育研究室『沖縄社会教育史料』(第6集、1986年、p166、所収、小林文人「戦後東京社会教育史の研究ー研究覚え書きとして」)

 また同じ時期に、初代の北区公民館長であった龍野定一氏を鎌倉の自宅に訪問し、当時の公民館活動についてインタビューした経過がある。『東京の公民館30年誌』編纂委員会委員長の重責をつとめた小川正美氏(三鷹市立西社会教育館々長)が同道し、また当時、東京学芸大学大学院生であった園田教子、上野景三の二人も一緒であった。龍野定一氏はすでに高齢であり、北区公民館についての具体的な事実についてはほとんど記憶がうすれ、大先達として社会教育一般について高説を承るかたちに止まった。同行4人で「この調査活動があと数年早ければ収穫もあったろうに‐‐‐」と語りながら帰路についたことを思い出す。
 しかし、関係者からの証言収集はすでに無理であるとしても、今後さらに時間をかけて、@北区内(議会、教育委員会等)での資料収集、A龍野定一氏の個人保存資料の問い合わせ、B雑誌「社会教育」「月刊公民館」ほか全国公民館連絡協議会関係の資料調査、C東京都社会教育関係資料の精査、などを重ねれば、新しい資料発掘の可能性は残されていると考える。
 ちなみに東京都公民館連絡協議会(1951年設立)は初代会長として北区赤羽公民館長・龍野定一氏を選んだが、その事務局もまた赤羽公民館においていた。龍野定一氏はまた初期の全国公民館連絡協議会の評議員(東京都選出)であり、1953年度から1956年度までの4年間は全公連会長をつとめた人物である。
 以下ここでは、前記『東京の公民館30年誌』に記載されているもの(北区公民館の設置過程についての資料など)を除き、それ以外の記録について、北区議会事務局・議事録などを調査した際に収集したもの、とくに『30年誌』ではまったく記載されていない北区公民館の終熄過程についての資料を収録しておくことにする。

(2)北区公民館設置についての補足資料
 『北区議会史』(1971年、1994年)は、1949年から1950年にかけての公民館の建設準備、とくに敷地選定についての経過を記している。公民館予定地の選定は難航し、当時の公民館建設敷地選定審査委員会による最終の委員会(1950年6月27日)においても結論を得ることができず、委員の投票によって決定している。投票の結果は、赤羽8票、王子6票、無効1票で、赤羽地区と決定した。選定に漏れた地区(王子)については、将来理事者においてなんらかの措置を講ずるという条件が付された。建設工事は1951年1月1日竣工予定であったが、同年秋まで遅延を重ねる。北区議会は建物の完成に先立ち、3月29日定例会において「北区立公民館設置条例」を定め、同時に「北区会館設置条例」(王子)をあわせて可決している。(『北区議会史・通史編』1994年、p37)
 この間の経過をしめす北区議会・公民館建設敷地選定審査委員会(自昭和25年2月ー至昭和25年7月)については、一件綴りが保存されている。
 その4ヶ月後、北区議会は1951年7月26日臨時会において新しく「北区公民館条例」を可決している。これにともなって3月「北区立公民館設置条例」は廃止されたが、この両条例の関連については前記『30年誌』(p65)に収録されている。
 新公民館条例の案文審議にあたった総務委員会の会議録から関係部分を抜粋しておく。

[北区議会総務委員会]昭和24年〜26年綴
北区公民館条例案についての審議(昭和26年7月19日)
小林(委員長)公民館条例案ニツイテ説明ヲ求ム
森下  説明ヲナス
高木  審議委員ノ選出ノ方法ハ
森下  社会教育法デ決定シテ居ル
北島  公民館運営ニ対スル費用及期待スル人員トノ関係如何
森下  説明ス
北島  施設ニ条件ナキカ
森下  ナイ
北島  審議会委員ニ対シ区議会議員ガドノ位入ルノカ、其点判ラナイ、又人数ハ25名位デ
     ヨクナイカ
森下  三ツ出来ル訳デアルカラ必ズシモ多クナイ
片野  第5条ニツキ、数ハ出来ルダケ少ナクスルコトガヨイト思ウ、区会議員ノ数モ明示ス
     ル必要ガアル
下村  北島、片野氏ノ説ニ賛スルモノデアル、減ズルコトニシタイ
片野  全体デ15名、議員ハ3名位デヨイ
北島  24名位、学校長5名、区内各種10名、学識9名位ガヨイ
中村  片野サンノ15名ガヨイ
森下  三館ソレゾレ特徴ヲ生カシテ行クトイウコトヲ申シアゲタノデアル
菅佐原 小委員会ヲ作ルトスレバ15名デハ少ナイト思ウ
高木  審議会ニオイテ運営ヲ考エルノデアルノニ課長ガドウイウ様ニスルトイウコトハ
     オカシイト思ウ
片野  小委員会ノ如キモノハ不可デアル
下村  館長ガ計画スルト思ウ、年中出テ審議スルトイウ様ナコトハアルマイト思ウ故ニ多
     クナイ方ガ可デアル
北島  21名ニシタラ如何
 賛成
小林  21名ヲドノヨウニスルカ
菅佐原  4,9,8,ニシタラ
 異議ナシ (注、第五条は原案30名を修正して25名となる)
菅佐原  議員ハ6名位入ルコトガヨイ
北島  委員会ノ空気ヲ区長ニ伝ヘテヤッテ貰ウ
 異議ナシ
北島  各館ニ長ヲオクノカ又ソノ数ハ如何
森下  赤羽ニ7名位ヲ置キ、専属主事1名、他ハ兼務トイウ様ニ考エテ居ル、北区会館
     専属1人兼務ガ3人位トシ、滝野川モソノ程度デ行キタイ
片野 独立経済カ又1年収入ガドノ位アル予定カ
森下 独立デハナイ、又収入ハ見通シガツカナイ
小林 公民館条例ハ決定シテヨイカ
 異議ナシ

 以上のような経過で成立した「東京都北区立公民館条例」において、第2条(設置)では、赤羽、王子、滝野川の3公民館が定められていた。しかし昭和27年度・総務委員会の記録によると、次のように改正が行われている。
 (昭和27年10月24日)第2条中「東京都北区立王子公民館、東京都北区王子町1302番地」を削る
附則「この条例は昭和27年11月1日から施行する」
 この時点で、制度としての王子公民館は姿を消したわけである。もともと王子公民館は、同住所に設置されていた「北区会館内」におかれていたのであるから、条例上の変更があったとしても、これを利用する区民としては施設利用上とくに「閉館」とは受け取らなかったとも考えられる。

(3)北区赤羽公民館の閉館     
 1961年・赤羽公民館の閉館にいたる経過はどのようなものであったのだろうか。その前年1960年9月30日区議会定例会において「区民館公民館建設特別委員会」の設置が明らかにされ、新施設「建設」についての審議・対応にあたっている。「特別委員会」の記録については一件綴(全1冊、昭和35、36年)が残されているが、とくに難しい問題があったわけではないようだ。区民館、公民館の両施設の建設は順調に進行したのである。
 特別委員会は1960年から61年にかけて、次のような経過で推移した。

1960年11月7日 理事会、経過報告と陳情について
1961年 1月19日 設計変更についての懇談会(隣の保育園からこの設計では「太陽の光が奪われる」との陳情にたいして。しかし設計変更の意志はないこと、が明らかにされ、陳情者は納得の上、これを取り下げた。)
2月 7日 板橋区民館、品川文化会館の視察
2月16日 内部施設協議
3月 2日 公民館の設計一部変更
4月14日 北区会館の落成式(4月26日)について
5月30日 赤羽公民館工事視察
6月19日 旧第二特別出張所の改装について、赤羽公民館の視察

 区民館とならんで赤羽公民館の「建設」(新装)はまことに順調にすすんでいるのである。しかしその新装が完成に近づいたところで「名称を赤羽会館として発足すること」となり、「赤羽会館条例」案が区議会に提出されることとなった。1961年6月23日の定例会においてであった。
 この条例案では、付則として「東京都北区公民館条例(昭和26年7月北区条例第15号)は廃止する」となっていた。
 赤羽公民館廃止、そして赤羽会館新設についての当日の区長提案理由説明は次のような内容であった。「本区立赤羽公民館は昭和二十六年岩淵二丁目に建設されて以来、社会教育法第五章の精神に基づき、また地域住民のつどいの場として今日までよくその使命を果たして参りましたが、戦後物資払底の際建築されたため、建物の規模も小さく、またその施設についても不十分のため、最近の社会の発展に伴う一般区民の需要には充分に応じ得られぬ現状となって参りました。従いまして今回規模の一新をはかるため、北区会館の建設に引き続き本館の改築を進めて参りましたところ、その完成も迫りましたので、従来の赤羽公民館を発展的に解消し、新たに赤羽会館として発足せしめ、いよいよ住民の向上、情操の純化をはかり、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与せしめたいと存じます。」(『北区議会史』1971年、p695)
 区長「(略)ことに十年に余る赤羽公民館の廃止は、今回これを改めまして社会教育ですべてこれを行いたい。そうして赤羽会館の新築の建物については一般区民に開放、旧第二特別出張所の建物を改造いたしまして、公民館の事業を今後は社会教育という面で実施したいということが含まれているわけでございまして、これが参考といたしまして別紙公民館事業一覧表がお配りしてあると思いますが、後ほど御覧願いたいと思います。」(北区議会・昭和三六年第二定例会・会議録第四号)
 赤羽会館条例案は異議なく所管委員会に審査が付託され、6月30日の本会議で可決となった。また関連して、旧滝野川公民館から移行した滝野川会館についても改築計画がすすみ、これに青年館を併設することとなった。滝野川会館の改築・落成式は、1962年11月5日に行われた。併設の青年館の名称は「北区青年館」と決定し、「滝野川会館条例」とあわせて「北区青年館条例」が同年12月10日の本会議で可決している。(『北区議会史・通史編』1994年、p95)

(4)公民館の終熄―いくつかの検討課題
 以上のように、赤羽公民館の「閉館」は実にあっけなく決定した。公民館は「発展的に解消し」、その事業は「社会教育」として実施していく、とされている。おそらく教育委員会部局、社会教育行政において実施していく、という意味であろう。公民館「廃止」の区長提案理由の説明が、社会教育法第20条、公民館の「目的」の文言を転用して行われているところがなんとも皮肉である。
 もともと北区は、東京二三区のなかでも、戦後いち早く社会教育の施策にとりくんだところであった。区議会でも、1951年6月4日教育委員会(常任委員会)において、とくに社会教育推進のための具体的な活動方法を討議している。資料を見る限り、きわめて体系的な内容である。その重要施策のなかに公民館活動が位置づけられていた。「計画概要」として、社会教育委員の設置、成人学校、団体育成、校外施設活動、青少年指導奨励など、積極的な方針が示されている。(『北区議会史』1971年、p386〜394)
 その背景には、1949年成立した社会教育法の施行があった。他区にさきがけて公民館を設置しようとした行政施策の基礎には、社会教育法制定とくに公民館の法制化があったのである。しかし、わずか10年にして、三つの公民館がすべて制度的に廃止された。
 その要因としてどんなことが考えられるのだろう。全般的には、東京(とくに二三区)の公民館制度の未・非定着があろう。北区においても「公民館」についての一般的理解は弱く、1951年創設から10年の歳月をもってしても、社会教育の中核的施設(機関)としての独自性や専門的機能(区民会館との違いなど)は区民のなかにも未だ充分に認識されるに至らなかったのであろう。戦後初期の施設の貧困が嘆かれ、施設の改築・新装が課題とされ、そして10年を経て新施設がようやく完成していくその過程において、公民館は「発展的に解消」され、「区民会館」に衣替えされた。ここでは公民館と区民会館の異同はまったく問題とならなかったのである。いったい公民館とはなにか、についての認識は行政のなかにも、また公民館を利用していた区民の側にも、いまだ定着していなかったのであろう。
 北区では、公民館から赤羽会館への新築・転換の時期は、新庁舎の建設も重なって、「実に大規模な」施設充実の時期と評価されている。「公会堂をはじめ北区会館・赤羽会館・滝野川会館・北区青年館など、それぞれ大いに区民によって活用されることとなった」(前掲『北区議会史』1971年、p698)。しかし公民館制度としては解体されていく時期となっている。
 このような北区公民館の制度的な廃止について、いくつか考えてみたい問題がある。
 @北区教育委員会はどのように対応したのであろうか。教育委員会は1952年一斉設置からほぼ10年を経過している。公民館制度の廃止は基本的には公的教育機関の廃止であり、一般行政の優位のなかでも、教育行政としての専門的な見識が問われる問題であろう。
 A公民館を利用していた一般区民はこの経過をどのように受け止めていたのであろうか。たとえば、これからほぼ20年後の杉並の場合は「公民館を存続させる」住民運動が取り組まれたが、1960年代ではまだそのような状況は生まれなかったのだろうか。
 B全国公民館連絡協議会(当時)会長、東京都公民館連絡協議会の初代会長でもあった龍野定一・公民館長の役割はどのようなものであったか。また公民館職員や公民館運営審議会の対応はどうであったのだろう。赤羽公民館の廃止は、ある意味で龍野館長ないしは公民館職員、公運審の存在否定という側面をもっている。
 C赤羽公民館廃止という事態について、東京都教育委員会はどのような姿勢をとったのだろうか。なんらかの動きがあったのだろうか。
 このような課題について、今後さらに機会があれば関係資料・証言収集の努力をしてみたい。






(2) 三多摩テーゼ20年−経過とその後の展開−
      
  
−都立多摩社会教育会館発行『戦後三多摩における社会教育のあ00ゆみ』(Z・1994)所収

                           
 *戦後東京社会教育行政・施設史■
                         
*東京社会教育史関連記録・「三多摩テーゼ」拾遺■

 (1)「新しい公民館像をめざして」作成の経過

 東京都教育庁社会教育部(当時)が「新しい公民館像をめざして」(1973年版、同庁主要刊行物登録・昭和47年度・社第16号、1974年版、同・昭和48年度・第15号)を公表して早いものですでに20年が経過した。
 この作成に当たったのは、1972年度に東京都教育庁社会教育部によって設置された「公民館資料作成委員会」であった。委員会は初年度の報告(1973年版)をまとめた後、後述するように残された課題について、翌73年度も継続され、第2次報告(1974年版)を仕上げて一応の役割を終えた。
 委員会の実務は、初年度から都教育庁社会教育部成人教育課が担当(小川昭文氏)し、次年度は当時出来たばかりの同部・社会教育主事室が担当(佐々木貢氏)した。「公民館資料作成委員会」の設置については、当時の成人教育課長であった内田和一氏の役割が大きい。同氏はその前に立川社会教育会館(現多摩社会教育会館)副館長でもあり、また三多摩の公民館にかんする委員会だということで、立川社会教育会館の間接的な協力もあったように記憶している。当時、内田和一氏が研究室に来室され、協力を依頼されたことを憶えている。
 周知のように東京都の公民館にたいする施策は、まことに貧困というほかなく、1972年の段階では、公民館総数はわずかに26館に過ぎなかった。この年に本土復帰した沖縄県を除いて東京都の公民館設置率は全国最低であった(その後沖縄県での公民館設置がすすみ、現在でも東京都は全国最低である)。時あたかも1967年に誕生した美濃部革新都政が2期目に入り、図書館にたいする都の積極的な振興施策と対応して、公民館施策をも前進させようと都公連など公民館関係者(たとえば国立市・徳永功氏や、都公連事務局長であった国分寺市・進藤文夫氏など)が精力的な努力を重ねていることは知っていた。
 「東京都公民館資料作成委員会」の設置は、公民館関係者とこれに理解ある東京都教育庁関係者の相互努力の具体的なあらわれといってよかろう(その背景・経過については本号後掲の徳永功氏や進藤文夫氏の「回想」にくわしい)。
 委員会のメンバ−は、1973年度が小嶋道男、小林文人、進藤文夫、徳永功、西村弘(あいうえお順)の5人、1974年度はこれに臨時委員として石間資生、小川正美、川廷宗之、佐藤進、吉田徹(同)の新しいメンバ−(若い世代?)も加わった。行政的に設置されたこの種の委員会としてはなかなか活発な論議・検討が重ねられた。とくに初年度において「四つの役割・七つの原則」が構想されたが、「東京の公民館」の新しいイメ−ジを創り出そうという意気に燃え、談論風発、時間をこえ、予定をこえて、論議はつきることがなかった。懐かしい思い出である。
 「新しい公民館像をめざして」1973年版では、T公民館とは何か−四つの役割、U公民館運営の基本−七つの原則、に基づいて、V公民館の施設(標準的施設・設備の規模と内容)、が示され、最後に、Wいま何をめざすべきか、がまとめとして提示されている。
 「四つの役割・七つの原則」(略)については、比較的に有名であるが、「いま何をめざすべきか」もまたこの委員会が思いをこめて書きあげた部分である。念のため項目のみ再録しておこう。
  1,公民館は住民が自らつくりあげていくべきものです。
  2,既存施設の内容を変えさせ、新しい施設につくりかえさせましょう。
  3,市の基本構想の中に公民館をはっきり位置づけさせよう。
  4,公民館を図書館と共に地域社会に必要不可欠な二本の柱にしよう。
 
 初年度の報告では、この段階での「新しい公民館」の理念・原則および施設論は明らかにされたが、具体的にその事業・運営を担う職員の在り方(職員論)については提示するに至らなかった。この残された課題への追求が、翌年の1974年版を生み出すことになる。委員会のメンバ−に新しく公民館実践の場で情熱をかたむけ、格闘している職員5氏が参加したのも、まさに新しい「職員像」の探求のためであった。
 したがって1974年版では、73年版「新しい公民館像をめざして」に加えて、第二部「公民館職員の役割」があと一つの主題となっている。内容をみると、T基本的な役割、U組織体制、V職務内容、W勤務条件、X任用、Y研修、Z職員集団、の構成により職員論が展開された。そして末尾に「公民館主事の宣言(提案)」を掲げている。いずれも、実践的な蓄積をふりかえりつつ、追求すべき方向を求めて論議をつくし、まとめられたものであった。
 公民館職員の基本的な役割としては、当時ようやく注目されてきた「学習権」をキィワ−ドとした。「公民館職員は−−すべての住民の学習権保障のための奉仕者−−」であり「住民みずからが学習・文化活動をより豊かに編成し発展していくための援助者」と規定している。この理念に立脚して、組織、職務、条件、任用、研修、職場等の各論が展開されたわけである。
 とくに最後の頁をかざる「公民館主事の宣言(提案)」については、図書館関係者が共有している「図書館の自由に関する宣言」(日本図書館協会・1954年採択、その後1979年改訂)や、専門職集団としての「倫理綱領」のようなものを、公民館職員の立場から“提案”してみようではないか、という考え方から練り上げられた。これも当時の思いを想起するために、再録しておくことにしよう。
  1,公民館職員は、いつでも、住民の立場に立ちます。
  2,公民館職員は、住民自治のために積極的に努力します。
  3,公民館職員は、科学の成果を尊重し、地域における文化創造をめざします。
  4,公民館職員は、集会・学習の自由を保障し、集団の秘密を守ります。
  5,公民館職員は、労働者として、みずからの権利を守ります。

 
「新しい公民館像をめざして」(三多摩テーゼ、1973〜74年)



 (2)黄色いレポ−トの波紋
 
 「新しい公民館像をめざして」の理念や内容がまとめられていく過程の論点や詳細はここでは省略せざるを得ない。参加した委員それぞれによって考え方の差異はもちろんあった筈であるが、私なりに、報告作成にあたって心していたことを幾つか列挙すれば、次のようなことであったと記憶している。
 ・東京都や市町村の行政関係者だけではなく、公民館を知らない住民にも読んでもらえるような内容にする。したがって分かりやすく、簡潔に、項目も分節化して書く。  
 ・基本となる理念を明確にする。それは公民館のイメ−ジ(像)をはっきり打ち出すことになる。
 ・しかし単なる抽象的な考え方ではなく、何らかの具体的かつ実践的な事実に基礎をおいて展開する。
 ・時間的制約もあり、課題を残しつつ、当然さらに新しく発展させられるべき提案として位置づける。その意味で「関係各位の忌憚のないご批判」(はしがき)が重要である。
 たとえば1974年版「あとがき」はこのように記している。
 「私たちは、この二年間、それぞれの本務をかかえながら、せい一杯この資料づくりに没頭してきた。制度的にも不備な面をのこし、実態としても多様であいまいな公民館に、一つの新しい未来像をえがき出そうというのが共通のねがいであった。
 しかしこの作業はこれで完結したのではない。今後とも、この“新しい公民館像”はたえず新しくえがき出されなければならない。−−(略)−− 委員一同」(1974・3・31) 

 報告は黄色の表紙のパンフレットにあざやかに刷りあがった。黄色のレポ−トはそれから静かな反響を呼びはじめる。三多摩・公民館関係者だけでなく、東京都外(例えば神奈川、埼玉、長野など)でも、また日本社会教育学会や社会教育推進全国協議会の研究集会などでも、話題が広がっていった。東京都社会教育部によりパンフレットは2000部印刷されたが、ぢきに在庫がなくなったと聞いた。そのうちに、「新しい公民館像をめざして」は東京・三多摩の公民館関係者が作成したというところから、誰いうとなく「三多摩テ−ゼ」と呼ばれるようになった。それはこの黄色いレポ−トが、東京都関係者だけのものではなく、いつの間にか全国的規模でひろく読まれ、論議されはじめたことの反映でもあったのだろう。
 「三多摩テ−ゼ」としての一定の評価が生まれてきた頃から、黄色いレポ−トの原本が入手できない事情もあって、さまざまのコピ−、復刻版、海賊版?が作られている。たとえば小さな学習会のテキストとして、自治体・公民館運営審議会の配布資料として、あるいは県や市・郡の公民館連絡協議会の研修資料としてなど、かなりの部数が世にでたと思われる。社会教育関係の単行本への収録まで加えると、合計五万部をこえるのではないかと推定されている(東京都立川社会教育会館「東京の公民館の現状と課題」T、総論−はじめに−3頁、1982年)。
 公刊されている単行本、研究物、行政資料等への「三多摩テ−ゼ」の収録は、主要なものだけで次のようなものがあげられる。
1,東京都教育庁社会教育部「社会教育行政基本資料集」3、1974年
2,社会教育推進全国協議会・資料委員会編「社会教育・四つのテ−ゼ」社全協通信別冊、1976年
3,島田修一編「社会教育の自由」教育基本法文献選集六、学陽書房、1978年(抜粋)
4,社会教育推進全国協議会編「社会教育ハンドブック」1979年、1984年、同新版「生涯学習・社会教育ハンドブック」1989年(主要項目のみ)
5,横山宏・小林文人編「公民館史資料集成」エイデル研究所、1986年

 (3)三多摩テ−ゼをめぐる論議
 
 「新しい公民館像をめざして」が作成され、またそれが広く読まれていった背景ないし要因として、当時の三多摩における住民の側からの公民館への期待・要求・運動があったことを忘れてはならない。公民館がいまだ地域に定着せず、住民の公民館への認識も育っていなかった段階から、「1960年代後半から70年代にかけて、ようやく公民館をもとめる住民運動が高まって」(前掲「社会教育・四つのテ−ゼ」、進藤文夫“新しい公民館像をめざして”解説)きたのである。このような公民館にたいする住民意識の成長や公民館づくりの住民運動が「新しい公民館像」づくりの背景にあり、同時にまた、「新しい公民館像」の提示が公民館をもとめる住民運動を刺激し活発化したということができる。 住民の側のこのような動きは、戦後教育改革期以降の細々とした公民館実践が、ようやく三多摩の地にも一定の厚みをもって定着してきたことを意味している。地域のなかで公民館の実績と職員の役割が住民にも具体的に見えるかたちで蓄積されてきた、1970年代はそういう段階でもあったのである。
 70年代後半、三多摩各地で取り組まれた公民館づくり住民運動のなかで「三多摩テ−ゼ」はそのテキストとしてよく読まれた。たくさんの証言がある。
 <注>東村山、福生、国分寺、武蔵野、東大和など各市の住民運動。社全協三多摩支部「三多摩の社会教育[−三多摩テ−ゼからの10年」1983年、三多摩公民館研究所編「研究紀要」第1号、三多摩テ−ゼの思い出と公民館大学論、1991年など)
 三多摩だけではない。埼玉(たとえば草加市、上福岡市など)や神奈川(茅ケ崎市、相模原市など)で、あるいは長野、京都、山口などで(もちろんそれ以外の地域でも)、三多摩テ−ゼはよく読まれ、活用された。山口県豊浦町では、三多摩テ−ゼをモデルとして実際に町立の中央公民館が建設された(1977年)。
 <注>本号には典型的な動きとして、茅ケ崎市・相模原市・京都府・豊浦町からの「証言」  を収録している。−後掲資料参照)
 戦後日本の、とくに1960年代以降の社会教育実践・運動のなかで生みだされてきたテ−ゼとして、主要には三つのテ−ゼが有名である。あえて(誤解をおそれず)その際立った特徴をあげれば、枚方テ−ゼ(1963年)は自治体が“発見”し、下伊那テ−ゼ(1965年)は職員集団が“創出”し、そして三多摩テ−ゼ(1973年)は住民が“活用”した、といえるのかもしれない。
 
 さて、このように三多摩テ−ゼが広く波及していくなかで、その積極的な評価とともにさまざまの論議、意見、そして批判が出されてきている。それは、理論的なもの、実践的なもの、そして運動的なもの、それぞれの観点をもちつつ、いずれも公民館運動の発展・創造にむけて貴重な意味をもつものであった。積極的な評価の部分は別にして、むしろ批判的な論議を今後にむけてどう創造的に活かしていくか。三多摩テ−ゼがさらに新しく挑戦すべき課題について、なお十分な検討が必要であろうが、ここでは一応次の5点に整理しておくことにする。                 
 
@東京の公民館がおかれている貧しい実態・条件を改善・充実していこうという問題意識が起点にあったため、三多摩テ−ゼは全体として理念的であるとともに、具体的な部分は条件整備論につよく傾斜した内容になっている(たとえば「施設の地域設置」「充分な職員配置」など)。しかし都市化・過密化を背景として自治体財政が一定の条件をもっていた70年代の段階から、自治体をめぐる状況は明らかに変化してきている。80年代において、たとえば都市減量経営論や公的サ−ビス(公的社会教育)の見直し、あるいは「行政改革」の考え方が主流となってくる段階では、甘い単純な条件整備論だけでは充分に対応しきれない。新たな政策動向をしっかりと見据えて、これに対抗しつつ、なおかつ公民館が公共的機関として存在しなければならない厳密な理念と現実的な根拠を、幅広い構図をもってシャ−プに提示していく必要があるのではないか。その視点での「公民館像」の新たな構築がもとめられる。

A三多摩テ−ゼは、全体的に「理想論であり、指針に止まっている」「具現化のための運動論が提示されていない」などの指摘(社全協三多摩支部「三多摩テ−ゼをよりよく活かすために」)にどのように応えていくか。条件整備論の非現実性だけの問題にとどまらず、公民館像そのものの抽象性を克服していく必要がある。たとえば「公民館が“大学”であるというイメ−ジはもちにくい」「−−“文化創造”という点がその後の実践のなかで豊かになってきているのでしょうか」(石間資生「三多摩テ−ゼの思いとイメ−ジを語る」三多摩公民館研究所・研究会記録、1986年10月13日)という発言などはその点を指しているのだろう。すなわち「四つの役割」や「七つの原則」が、単なるイメ−ジ、あるいは「理想論」として語られるのでなく、そのイメ−ジを具体化していく実践的な方法論を実際の事例にも即しながら、もっと深く追求していく必要がある。それは、公民館実践を担う「職員論」とともに、いわば公民館「事業論」を生き生きと描きだす課題といってもよかろう。
 <注>後述の立川社会教育会館によってすすめられた「社会教育資料分析研究」(1980〜82年度)は、「三多摩テ−ゼから10年」をふりかえりつつ「新しい公民館像」を実践的に具体化していく「事業論の構築」を主要な課題とした。
 
B三多摩テ−ゼの理念のなかでは「住民自治」「住民主体の活動の援助」といった視点が弱いのではないか、という指摘が少なくない(小林「公民館活動は前進する」福尾・千野編「公民館入門」草土文化、第10章、1979年)。たとえば神奈川県茅ケ崎市の「公民館をつくる会」による「茅ケ崎市の公民館像をもとめて」では、三多摩テ−ゼの「四つの役割」の表現を修正しつつ、新たに「 公民館は住民自治をすすめる原点です」を追加し、「五つの役割」とした(後述)。あるいはまた町田市公民館運営審議会では、公民館改築(1978年)に向けての答申のなかで、七つの原則を評価しつつも、「まだ便宜の提供が主であり、住民参加も主催事業を目的とし−−(略)、そこでこの基本を補うために、 主体援助の原則(自主的な活動にたいする援助・推進)を追加したい」として、「八つの原則」を示している。これらの課題提起にたいして、三多摩テ−ゼが住民自治・住民主体の思想をどのように具体化していくか(とくに生涯学習の段階において)が課題であろう。

C三多摩テ−ゼは、社会的・教育的に不利な立場におかれている人々の学習権保障についてほとんどふれていない。この点については、三多摩テ−ゼ・作成委員会みずから自覚していたことであった。1974年版「あとがき」はこのように記している。
 「−−子どもたちの社会教育・地域活動にたいする援助、あるいは障害者の学習権を保障する公民館のあり方、など多くの問題があとに残されている。」 この時期は「障害者青年学級」などの実践がようやく始動しはじめる頃であった。三多摩テ−ゼの記述は、当然のことであるが、当時の公民館実践の水準・到達点を反映している。
 問題は子どもや障害者への取組みだけではない。高齢者にたいする公民館事業や、とくに1980年代後半になると、三多摩地区に生活しはじめた在日外国人(外国籍住民)への識字教育の実践が胎動してくる。つまり高齢化、国際化など新しい地域状況の変化は、20年前の三多摩テ−ゼの段階ではみえなかった「忘れられた人々」やあるいは「被差別少数者」の学習権保障の課題を投げかけている。

D三多摩テ−ゼは、いうまでもなく三多摩という地域に根ざした都市型公民館の構想である。しかし実際には全国的規模で広く論議される過程のなかで、“地域”とのかかわりにおいて、逆照射的にこの公民館構想の弱点が浮かび上がってきている。一つには、「地域に根ざした」という意味での地域主義的な施設論が、そのような地域主義の現実的な条件に乏しい大都市・政令指定都市の施設構想としては定着しにくいという問題がある。あと一つには、逆に「都市型公民館」構想に内在する没地域性、悪しき施設主義とでもいうべき問題である。たとえば都市型公民館としては、さまざまの(都市的な)地域組織・地域活動・地域団体等から多く遊離し、あるいは地域づくり運動や市民運動とも交錯せず、地域・住民自治の拠点(戦後公民館構想の原点)としての役割を欠落している、などの弱点が明らかにされてきた。(小林編「公民館の再発見」T−9、国土社、1988年、参照) 地域的な基盤のつよいところ(決して農村地域に限定されない)では、集落レベルの自治的(類似)公民館組織に支えられながら公民館の制度が展開してきた場合が多い。それらは日本各地に、たとえば自治公民館(福岡など)、町内公民館(松本)、字(アザ)公民館(沖縄)、組織公民館(相模原)、あるいは分館・地区館など、さまざまの名称・形態で存在してきた。そして全般的な地域基盤の弱体化傾向のなかで、これら「集落公民館」の悩みも深いものがある。地域のもっとも基層にある住民自治組織の可能性をどうえがくことができるか、という課題である。しかし三多摩テ−ゼはこのことについて何らふれるところがない。
 <注>三多摩テ−ゼは「集落公民館」についての構想を含まない。それだけにこの欠落に逆に触発されるかたちで、それぞれの地域状況に根ざして「集落公民館」の構想をえがき、その可能性を明らかにしようとする努力がみられたのではないか。たとえば松本市教育委員会「町内公民館活動のてびき−住民によるまちづくりのために」1976年、79年改訂、あるいは沖縄について、小林・平良編「民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究」エイデル研究所、1988年、などの事例。 

 (4)三多摩テ−ゼ10年

 以上のような論議の展開のなかで、三多摩テ−ゼ10年にあたる1983年前後には、やはり注目すべき論議があり、資料がまとめられている。いわば三多摩テ−ゼ10歳の歩みをふりかえり、20歳にむけての進路を確かめあう総括(第1次)の試みでもあった。ここには主要な次の2資料をとりあげておきたい。それぞれの目次を参考資料として収録しておく(後掲)。
 
 1,東京都立川社会教育会館(社会教育資料分析)「東京の公民館の現状と課題」
   T「公民館の事業を中心に」1981年度・U「公民館事業論の構築をめざして」1982年度
 立川社会教育会館は、1980年10月、三多摩テ−ゼ10年を意識しつつ「1980年代の都市公民館のありかたをさぐる」を研究主題として「社会教育資料分析研究」を発足させた。委嘱された委員は、川上千代、小林文人、佐藤進、進藤文夫、野沢久人、平林正夫(あいうえお順)の6人、当時の館長は奇しくもかっての副館長・内田和一氏であった。この研究プロゼクトは、80・81・82年度にわたり、前半の報告Tが82年3月、後半の報告Uが83年3月に刊行さている。いずれも公民館の「事業論」を中心テ−マにおいているのは、前節3− に述べたような課題意識からであった。後半の報告作成には、臨時委員として井藤鉄男、山崎功の両氏も参加している。
 最初の「総論」の部分には次のような記述がある。
 「1970年代には、公民館実践は質量ともに大きく前進した。本資料集では、三多摩テ−ゼ以降に蓄積された新しい公民館実践をふまえて、その実践的な到達点を明確にし、公民館の性格と役割についての理論を一歩進める作業を試みてみたい。できうれば新しい「三多摩テ−ゼ」に発展させていければ、と考えている。」
 もちろん新しいテ−ゼがまとめられるという展開にはならなかった。しかし三多摩の公民館が、80年代の歩みをた確かに刻んでいくための「事業論」の論議・追求は真摯なものがあったと思う。
 報告書Uのまとめとして「公民館事業論の構築」が試みられている。仮設的であるが、公民館事業を組み立てていくにあたっての「八つの柱」が提起されている。項目のみ抜粋しておこう。
 10 公民館事業論の構築 @公民館事業論の弱さ、A事業のあり方を考える四つの視点(ミニマムな事業、すべての住民にたいする機会保障、出会いと学習の構造化、地域・館外事業)、B公民館事業の八つの柱−前提(対象、内容、体系)・事業の柱−1相談・援助(人)、2施設提供(物)、3企画・編成(活動)、4資料・広報(情報)、5集会・行事(出会い)、6館外事業(地域)、7参加・連絡(自治)、8調査・収集(研究)。
               
「東京の公民館像の現状と課題ー事業論の構築をざして」(T、U、1982〜83年)



 2,社会教育推進全国協議会三多摩支部編「三多摩の社会教育[−三多摩テ−ゼからの10年」1983年
 社会教育研究全国集会(第23回)記念特集号もかねた本資料は、「三多摩テ−ゼからの10年」にあたって「テ−ゼの再創造にむけて、三多摩の社会教育の到達点と課題を明らかにする」ことを出発点に位置づけて編集された。「編集後記」は次のようにいう。
 「三多摩においてもこの10年、施設づくりをはじめ社会教育の条件整備の水準は前進し、少なからぬ自治体の行動施策のうえでテ−ゼは一つの指標として活かされてきた。しかしその歩みは順調であるとはいえない。職員態勢づくりとその専門性保障の面での一定の前進と停滞、地域の教育・文化の発展にとっての公民館の位置と意義、多様な形態による住民参加の試みの広がりにもかかわらず、それが住民自治の発展に必ずしもつながりえていないという問題など、さらにたちいって検討すべき課題もはっきりしてきている。とくに行革路線のもとで、社会教育の権利性、公共性があらためてするどく問われているのである。これらの課題は、つまるところ、三多摩テ−ゼの再創造を、ということに焦点化されるように思われる。」
 しかし、目次(後掲資料)に明らかなように、ここに収録されている各市の公民館設置や住民参加の状況、あるいは公民館を拠点とするさまざまな実践と住民の主体的な学習と運動の広がりは−それぞれに課題は当然あるにしても−、なによりも「三多摩テ−ゼからの10年」の蓄積と発展を実感させるものがある。なかでも、第U章「地域教育計画の主体としての成長をめざす住民の学習・運動」をかざっているそれぞれの地域住民運動(保谷、東大和、国分寺、東村山、立川、昭島、国立など)の報告は、社会教育ないしは「公民館は、住民がみずからつくりあげていくものです」(三多摩テ−ゼ・いま何をめざすべきか)という方向が潮流のように動いていることを語りかけている。
 問題は、これから後の10年、つまりテ−ゼ20年にむけての歩みがどのような展開をたどってきたか、行政改革や生涯学習政策の動向のなかで、職員の体制や住民の運動的エネルギ−がさらに蓄積され、前進してきているかどうか、ということであろう。
 テ−ゼ20年の新しい状況において、あらためて「三多摩テ−ゼの再創造を」という問いかけをかみしめておきたい。

 (5)各地への波及とテ−ゼづくり

 ここには、前述したように三多摩テ−ゼに刺激され、あるいはこれと連動するかたちで模索・追求された全国各地のテ−ゼづくりのなかから、四つの事例をあげる。
1,「茅ケ崎市の公民館像をもとめて」
 @茅ケ崎市・市民学習グル−プ・公民館について勉強する会「茅ケ崎市の公民館像をもとめて−(付)私たちがつくった茅ケ崎市公民館条例案」(抄) (1978年4月)
 A回想−「茅ケ崎市の公民館像をもとめて」をまとめる−渡辺保子(茅ケ崎市に公民館をつくる会)
2,京都府公民館連絡協議会「公民館の望ましいあり方」
 @公民館の望ましいあり方検討委員会の報告「公民館の望ましいあり方」(抄) (1980年度) 
 A回想−「新しい公民館像をめざして」を横目に見ながら−八木隆明(京都府宇治市役所)
3,相模原市教育委員会「公民館運営のてびき」
 @相模原市教育委員会「公民館運営のてびき」(抄)(1980年)
 A回想−三多摩テ−ゼと相模原の公民館−小林良司(相模原市役所)
4,山口県豊浦町「中央公民館のあるべき姿」(1977年)
 @回想−豊浦町と三多摩テ−ゼと私−片山房一(山口県豊浦町役場)
 
 三多摩テ−ゼの各地への波及、あるいはさまざまの賑やかな論議は、もちろん以上につきるわけではない。そして今後もさらに論議は続いていくだろう。以上の四つの地域の事例についても、それぞれの経過や内容について資料解題を付する必要もあろうが、各事例の「証言」にゆだねることとし、ここでは紙幅もつきたので、いずれまた(20年後の動きもふくめて)次の機会をまつことにしよう。 〈小林文人〉
 
 〈メモ〉収録資料(略)
1,「三多摩テ−ゼ」作成当時の回想 
   −徳永功(国立市元公民館長・教育長、現・社会福祉協議会)
2,回想「三多摩テ−ゼ」作成委員会の背景と経過 −進藤文夫(国分寺市元教育次長)
3,東京都立川社会教育会館「東京の公民館の現状と課題」T、U、−各目次による検討   
4,社会教育推進全国協議会三多摩支部「三多摩の社会教育」[−目次        
5,→上記「各地のテ−ゼづくり」    




3,東京社会教育史資料拾遺三多摩テーゼ」40年記ほか →■