南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
3550号【2015年9月11日】
■≪大河の氾濫≫
栃木・茨城・宮城に記録的大雨ニュース、書いていたものは次号まわして。
鬼怒川の氾濫、堤防が崩れて常総市に流れ込む泥水の勢い、目を奪う画像です。床上下への浸水もイヤなものですが、家屋流失をもたらす大河の氾濫。まさに津波の急襲に似て、その爪痕・被害は大変ですね。お見舞申し上げます。
九州・筑紫次郎の川沿いに育ったぶんじんには、少年の頃からいくつもの筑後川氾濫、大水害の思い出があります。なかでも忘れられないのは、1953年6月の集中豪雨、北部九州の河川はほぼ全て?氾濫したといわれる程。「死者・行方不明1,001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人」の記録あり。
北部九州に数日降り続いた豪雨でした。この年、九州大学4年、福岡で教育実習中。久留米が大水害!とのニュース。飛び乗った博多からの列車は鳥栖駅で動かなくなり、線路の上、深いところはほとんど首までの泥水(筑後川氾濫)につかって、乗客互いに手をつないで大洪水のなかを渡ったのでした。水中行軍は、鹿児島へ帰る紡績に働く女工さんたちと一緒の思い出。久留米駅までの2時間余り、いつまでも忘れません。
幸い自宅は浸水を免れていました。風呂を沸かして、水害にあった小森野の九大分校(当時)の先生方が列をなしてお出でになり、大いに喜ばれたことなど懐かしい。そう言えば、このこと、はるか昔に本欄で書いたような…。
翌日は熊本「白川大水害」の救援へ。たしか「九学連」(学生運動)としての活動でした。その数ヶ月前に噴火した阿蘇山の火山灰が大量の泥水となって熊本市内に流入、すべてドロドロになった火山灰にまみれた風景。時計のなかにまで泥の粒子が入り込んだという話を聞きました。水害被災者を校舎に入れなかった熊本大学当局への糾弾の場面を妙に憶えています。
3549号【2015年9月8日】
■≪童らつどいしガジュマルの≫
これも20年余り前のこと。ある人の案内で、沖縄・嘉手納基地を見て回ったことがあります。ドル紙幣で食事をし、教会や映画館や遊園地みたいな楽しい場所もあり、広大な空軍基地の中にアメリカの開けたニュータウンのような風景。広々とした芝生に、ぽつんとガジュマルの樹がさびしく立つていたのが印象的でした。おそらく基地以前(沖縄戦後に接収される前)には、まわりに普通の集落・広場があり、木陰では年寄りが憩い、子どもたちも遊び戯れていたに違いない、と感傷にひたった記憶があります。
基地内の丘に、沖縄降伏調印のモニュメントがありました。「南西諸島の日本軍代表と米第10軍司令官スチルウェル大将らが、第10軍司令部(嘉手納基地内)で降伏文書に署名」(沖縄タイムス社説・9月7日)した場所。東京湾ミズーリ号艦上・降伏文書の調印式から5日後のこと。日本軍司令官が自決した6月23日を過ぎても、2ヶ月半ちかく戦争の惨劇が続いていたことになります(上掲・沖縄タイムス[大弦小弦]9月7日)。
ノートの切れはしに走り書きしていた拙歌数首。初期の「南の風」に載せていました(第47号・1998年6月26日)。この中の一首、こっそりと「月刊社会教育」(1993年1月号・小林「沖縄の社会教育が問いかけるもの−復帰20年に考える」)にも書き入れていた記憶。
◇むらむらの童らつどいしガジュマルよ今ひとり佇つ緑も映えず
◇さんざめく祭りは消えてガジュマルをつつむ静寂そして爆音
◇戦世(いくさゆ)をくぐりて耐えし老木の歴史を語る重き風格
3548号【2015年9月6日】
■≪TOAFAEC・20年の歳月≫
9月5日午後の韓国研究フォーラム、ご参加の皆様、ご苦労さまでした。当日さほど飲んでいないのに、閉会後、3階(風の部屋)から5階への帰路は足がふらついていました。自ら衰えを実感した夜。当日の記録は、その日のうちに松尾有美さん(東大・院)から送信いただきました。有り難う(報告・上掲)。
この席でもお話ししたことですが、今年は TOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)創立から20年。そして年報第20号の刊行(予定)、定例研究会(毎年11回の開催)は次回で220回を迎える・・・記念の年です。遅れている年報の完成と合わせて「20年の集い」をもちたいもの。事務局あたりで企画を検討いただけないものかと期待しています。
20年の歳月については、関係各位のご協力を得て、かなり詳細な記録が残されています。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/toafaec.htm
しかし発足当初は、研究会の活動が20年も続くとは夢にも思わず、数年はあまり充全な記録ではありません。HPらしきものが素人作業で作成できたのはスタートから2年後(1997年)、しかし当時はほとんどスケジュール予告のみ。
→■ http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/1997schedule.htm
「南の風」はそれからさらに1年遅れ(1998年)のスタート。デジタルカメラの画像をなんとか載せ始めるのは今世紀に入ってからのことでした。それ以降は、「風」とHPが重なって、いま読み返してみても、一応の研究史的な内容となっているように思います。
20年の歳月は、ぶんじんにとっては東京学芸大学・定年退職後の歩みでした。さて、これからどのような歴史を刻むことになるか、「風」がどのように吹いていくかを含めて、成り行きに任せ、のんきに歩みたいと思っています。
▼9月5日・韓国研究フォーラム、小田切督剛さん撮影 (風の部屋、150905) 写真移動・関連ページ→■
3547号【2015年9月4日】
■≪10年前の6月・ドイツ≫
「南の風」は創刊以来すでに20年に近く、3550号に達しようとしています。“終盤”を迎えていることは明らか。今、どなたかの遺言のような「継続を!」の声や、数人?の熱烈なご期待に、なんとか応えようとする意地だけで発行を続けているようなもの。…
夜も更けて、少々酔いながら、書いています。
終盤となれば、いささかの回想記事もお許しいただけるかと、前々号「20年前の8月」を書き、本号はその続きです。ドイツ・ポーランドの一人旅、あの旅は、はじめて“ヨーロッパ現代”を垣間見た実感でした。その前に1986年末から87年にかけて、文部省(当時)在外研究の機会を得て、米・英・伊をまわったことがありましたが、断片的な知識・知己を得たに過ぎなかった印象。その後、1990年代(冷戦解体後)に「東アジア」への関心が増幅して、対照的に「ヨーロッパ」を見る意識がふくらんできたのかも知れません。
2000年に入って、和光大学の援助をもらって2ヶ月のドイツ滞在。谷和明さん(東京外国語大学)を通しての「社会文化運動」への関心もあり、ハンブルク・アルトナーレ(市民祭)などへ数年参加しました。この頃は「南の風」発行中、かなり詳しい記録が残されていて、懐かしいものがあります。→■
2005年には珍しく妻・富美を誘ってハンブルク・アルトナーレへの旅を計画しました。ところがリーダーの谷さんが病に倒れ渡独できす、結果的にドイツへの思わぬ二人旅。ちょうど「戦後60年」の年。ベルリン・ブランデンブルク門の“廃墟”(1945年)にたたずむ富美の写真が残っています。
→■
▼戦後60年・ブランデンブルク門。佇む小林富美 (ベルリン、20050620)
3546号【2015年9月2日】
■≪やがて鳳仙花の種が弾け・・・≫
沖縄をともに旅した方は、那覇「苗」の店をご記憶でしょうか。お酒のあと「カツオめし」を注文する慣わし。ここに初めて連れていってくれたのは安里英子さん(ライター・詩人)でした。30年余り前のこと、当時『地域の眼』を主宰。象グループや今帰仁村中央公民館を鮮烈に取り上げていました。
8月8日に出た「時の眼−沖縄」批評誌『N27』第5号に、安里さんは、「朝鮮人軍夫の戦後70年−アジアの視点で琉球・沖縄の主体と自治を考える」を書いています。シマ共同体論だけでなく「私は10数年前から朝鮮人軍夫の問題に関わるようになった」こと、戦時下の阿嘉島に軍夫として強制連行された姜仁昌(1918〜2012年、慶尚北道出身)の貴重な証言、「恨之碑建立を進める会沖縄」の活動など、興味深い報告。読谷村瀬名波の丘に建立(2006年)されている「恨之碑」の写真も掲げられています。その碑文には安里英子さんの詩が刻まれているそうです。その一節を紹介します。
「…日本軍の性奴隷として踏みにじられた姉たち 軍夫として犠牲になった兄たちに深く頭を垂れる やがて固く結んだ鳳仙花の種が弾け 相互の海を越えて花咲くことを信じて…
兄姉よ、あなたたちの辿った苦難を語り継ぎ 地球上から戦争と軍隊を根絶することを この地に果てた兄姉の魂に 私たちは誓う」
『N27』第5号の奥付に安里さんは「ライター」と記されていますが、詩人でもありますね。変わらない健筆に敬意。第5号も『N27』編集人・比嘉豊光さんから送っていただきました。有り難うございました。
3545号【2015年8月31日】
■≪20年前の8月≫
30日深更、J:COMのラインで映画「シンドラーのリスト」が流れていました。何度か観た映画なのに、やはり引き込まれて最後までお付き合い。スティーヴン・スピルバーグ監督作品(1993年、米)が日本で公開されたのは、たしか、1994年と記憶しています。この映画の刺激もあって、ぶんじんは1995年夏、ヨーロッパの一人旅のなかに、当時まだ社会主義体制の名残りが色濃く残っていたポーランド行きを企画。ポ大使館で旅券をとり、ワルシャワからクラコフへ、そしてアウシュヴィッツ強制収容所跡への鎮魂の旅に出たのでした。
ナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)については、『夜と霧』(V.E.フランクル、映画はアラン・レネ監督)ドキュメンタリーが頭に焼き付いていましたが、映画「シンドラーのリスト」もまた衝撃的だったのです。
1995年は、東京学芸大学から解放され、和光大学へ移った年。私立大学の自由な学風は、難なく1ヶ月の欧州・自由遊学を許してくれて嬉しい一人旅。この8月は主としてドイツ(東・西)を動いたのでしたが、そのうち1週間をとって、戦争・東西からの侵略、そして社会主義体制に呻吟してきたポーランドを初めてまわる旅となりました。ワルシャワ・ゲットー、少年たちも闘ったワルシャワ蜂起、慰霊碑の前で謝罪のため崩れ伏したドイツ首脳など、アウシュヴィッツだけでなく、深く心に残るポーランド。それらに、クラコフでのシンドラーの挌闘の映像が重なったのです。
当時まだ「南の風」を発行していませんでしたので、記録は充分ではありませが、旅の報告は、TOAFAEC第4回定例研究会(1995年9月18日)のテーマに。
→■ttp://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/00kenkyukaikiroku.htm
余談ですが1995年は、春に社全協委員長からも解放された年。しかしこの旅が終わってすぐ、秋に社会教育学会長を引き受けることになり、その意味でも8月は二度と味わえない自由のバカンスでもありました。
3544号【2015年8月30日】
■≪全国集会・参加できず≫
基礎教育学会(仮称)設立準備会の次回(第4回)予定。南の風へのご案内(世話人・添田祥史さん)は、「9月18日−東京開催、*決まり次第お知らせします」と(南の風3524号-7月18日)。その後の日程・会場の詳細が気になっていました。今日(29日)「学会設立準備会」MLによれば「9月13日(日)2時〜5時、東京・中野サンプラザ6階バードルーム」とのこと(同世話人・岩本陽児さん)。急ぎのご連絡として、同MLより上記再掲しました。
MLや「風」記事は、所詮は吹き流れていくもの。諸案内・情報のストックとなるHP・ブログ等のページがほしい。日本公民館学会の設立(2003年)にあたっては、その初期段階から中央大学・大学院諸氏の役割が大きく、応援ホームページも賑やかに機能していたことを懐かしく思い出します。
TOAFAEC 年報『東アジア社会教育研究』が今年で第20号を迎えます。全バックナンバーの論文テーマ、執筆者、国・地域別の総索引づくりが進行中。事務局・山口真理子さんの奮闘!です(上掲)。有り難うございます。この年報は1980年代の沖縄社会教育研究の系譜を受け継ぎ、東アジアに視野をひろげて、掲載論稿の大半は中国・韓国・台湾・モンゴル等に関する報告、これまでにない拡がりで編集・刊行されてきました。それだけに索引づくりもたいへん。しかし20年にわたる全索引が完成すれば、大きな財産となること疑いなし!
いま岩手・盛岡で、第55回社会教育研究全国集会が開催されています。今年は(留守中の介護体制が整わず)残念ながら参加できなくなりました。沖縄・名護からの参加者「囲む会」のことも気になりながら、本欄を書いています。
3543号【2015年8月27日】
■≪ガルトゥング氏の訪沖≫
高齢をおして来日した「平和学の父」ガルトゥング氏(Johan Galtung,1930年、ノルウェー生まれ)が、沖縄の辺野古・瀬嵩の浜に立ち、「皆さんは日本の民主主義そのものです」「この海を壊すことは許されない」と“平和を呼ぶ一陣の風”“ウチナーンチュを鼓舞する旋風”を巻き起こしたそうです(上掲・琉球新報「金口木舌」8月26日)。印象的なコラム。同紙25日の社説は「北東アジア共同体、心に響く案追求したい」を書いています。
講演で「北東アジア共同体」設立が歴史の趨勢だと強調、その上で「沖縄ほどその本部を置くのに適した場所はない」。欧州連合(EU)の拠点がブリュッセルやルクセンブルクにあり・・・沖縄がかつて独立国で、各国からほぼ等距離にある点をも重視。あるいは政策提起について、単に『反対』だけでなく政府案よりいい『プランB』を出す視点、たとえば尖閣問題について具体的な政策提言も含まれ、傾聴すべき内容です。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-247786-storytopic-11.html
南の風が、このような平和への風を、「心に響く」構想を、運ぶことができるのは嬉しいことです。ガルトゥングのいう「積極的平和」、それは貧困、抑圧、差別など「構造的暴力」がない状態のこと、それへの取組みをいうのであれば、人権に根ざす社会教育・生涯学習の実践と運動は、まさに本来の積極的平和主義につながる活動そのもの。前を見据えて、歩んでいきたいものです。
東京は明らかに秋の気配、夜も少しずつ長くなりました。元気を取り戻しましょう。年報第20号など今年は遅れている作業を一歩ずつ先へ進めましょう。
3542号【2015年8月25日】
■≪ようやく秋の風らしき・・・≫
激しい台風15号が八重山・沖縄本島・奄美・九州を縦断しています。石垣の渡慶次賢康さん(もと中学校長、市社会教育課長)など数人の方にお見舞の電話をしたところ、異口同音に「こわい」台風だった由。石垣市内では瞬間風速70米の記録、驚きました。25日は九州全域の交通機関はマヒ状態。
竹富島ブログ(ta)「台風15号の爪あと−非常に強い台風15号は、八重山地方を直撃しました。定期船は22日から欠航し、通過後の本日も運航を取りやめています。・・・これから石垣島からの給水が止まり、断水するとの島内放送が流れました。復旧のメドはまだ立ちません。」(8月24日)
お見舞い申しあげます。各地の被害が少ないことを祈っています。主のいない油山の寓居も心配。今年の夏はまだ足を運ぶことができないのです。
「南の風」は、沖縄からの通信や動きを(できれば)毎号載せて、「南」の風として面目を保ちたいと【おきなわ短信】欄を設けてきました。加えて、さらにその南、台湾ほか東アジアの関連情報を−折にふれて−掲載し【アジアの動き】を紹介する努力も重ねてきました(本号で128)。もちろん個人で知る範囲でのささやかな試み。今日(24日)の朝日新聞記事「李登輝氏『日本人として祖国のために戦った』−元総統寄稿に台湾で論争−」が目にとまり、久しぶりの台湾の動きを載せました。
もちろん皆さんからのご寄稿が第一。「おきなわ短信」や「アジアの動き」欄が並ぶのは、連日の炎熱に疲れて?皆さんの便りが少ないことの証左でもあります。ようやく夜は秋の風らしき涼しさ、道ばたにチロチロと虫の音も聞こえてきます。一息ついて、そちらからの風を吹いて頂ければ幸い。
3541号【2015年8月21日】
■≪知らなかった話≫
福岡・社会教育研究会の横山孝雄さんより、5月に開催された名護・島袋正敏さんの講演記録が送られてきました。「平和と自治の再生を沖縄・名護から考える」興味深い内容。ペーパー記録(福岡県自治体問題研究所「福岡の暮らしと自治」第451号)なので添付できないのが残念です。
セイビンさんとは三十数年来のお付き合いですが、この記録を読んで、知らないことがいくつもありました。それだけ自由闊達に面白く語されたということでしょう。たとえば1970年のコザ騒動に関連しての話。「私は1960年から64年まで沖縄(コザ)市で仕事をしていました」。米兵相手のキャバレーで会計・税務処理などをやっていたとのこと。知りませんでした。
「そこで仕事をしていると、米兵とのトラブルは日常茶飯事だったわけですよ。…実は私が米兵と取っ組み合いをしているときに、タクシーが来て、運転手さんが顔見知りでも何でもないのですが、俺にも加勢させろと、一緒になって米兵をボコボコにする喧嘩をやったことがあります。そういうことで警察に拘束されたこともあるのです。パークアベニュー側の駐在署、そこの留置所に一晩やっかいになりましたが、そのときに警察官が『もっと徹底的にやればよかったのに』と言いました。コザ騒動は、日頃のそういう鬱積したものが出たということだと思います。」
講演テーマ副題は「沖縄の苦悩と抵抗・戦後70年、たたかいは続く」。横山さんから余部を送っていただきましたので、ご希望の方はどうぞ。手もとにあった7年前のセイビンさんの写真(@松本市での集い)を掲げておきました。さて、8月19日夜・東京社会教育史研究会の論議は活発でした。この記録は次号で。
▼島袋正敏さん- 7年前(松本市の集い、20080217)
3540号【2015年8月19日】
■≪暑さとの闘い≫
あらためて残暑お見舞い申し上げます。秋雨前線?のような天気図と聞きましたが、相変わらず蒸し暑い酷暑。さきほどのニュースでは、「7月に熱中症で病院に運ばれた人は全国で2万4000人余り、7月としてはこれまでで最も多くなった」(消防庁まとめ)とか。地域的には群馬など関東、年齢別ではもちろん高齢者。いまや暑さとの闘いです。
こう暑くては頭も働きません。本日(8月19日夜)の研究会「ご案内」を正式には掲載していなかったようです。上記・お詫びに書きましたが、前回の編集会議(7/20)記録−風3526号・石川報告−に含まれていましたから、ホームページには書き入れていますが・・・風・編集としては申しわけない。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/tokyoforumu2012.htm
今夜、編集会議の精鋭メンバーだけで頑張ることになりましょうか。テーマは「最終章“展望”をどう書くか」。まさに正念場。お一人でも多くの皆さんのお知恵をいただきたいところ。あえて同日付「ご案内」を本号に掲載した次第です。暑さに免じて、ご容赦ください。
那覇の鷲尾真由美さんから,「BS11 アーサー・ビナード 日本人探訪 ♯5 沖縄やんばるの森を守る人々」の案内が届きました。ヤンバル(高江)に住む伊佐家(トートーメづくり)をリポートしたもの(8月15日放送)。ヤンバルの森のなかにオスプレイ基地が6個所もつくられる異常さ。辺野古「静かな海への願い」(琉球新報「金口木舌」8月18日)とあわせて「静かな森への願い」を実感しました。
→■https://www.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=ezD311AzK-8&app=desktop
3539号【2015年8月17日】
■≪八月の歌ごこ≫
日中学院(東京・文京区)の胡興智さん(中国語・専任講師)から、今年の八月を詠む歌30首ほどが送られてきました。旺盛な歌づくりの意欲。末尾に「追伸:思うままに書いたものなので、取捨をお任せ致します」とあり、紙数の関係もあり、お言葉に甘えて、8首ほどを選ばせていただきました。いわば、ぶんじん選−光栄なことでした。
胡さんについては、いつぞや本欄に紹介したことがあります。天津に生まれ、東京学芸大学・院に学び、現在は日中学院で中国語教師。しかし単なる言語の教師だけでなく、その土壌となる文化や歴史を大事に考え、たとえば日本の生け花をたしなみ、短歌を詠む努力をし、その歌づくりの素養に磨きをかけている毎日。生け花については、7月の「七夕の会」に華麗な三鉢を創作、私たちの目を楽しませてくれました。
そういえば胡さんは中国(天津?)料理の達人。横浜中華街に叔父さんの店があって(珠江菜館?)、昔はゼミのメンバーで何度か高級料理をご馳走になったものでした。
いま日本の歌づくり、とくに社会詠が活発です。この機会に、胡さんに触発されて、8月の朝日歌壇(今日・15日)から4人の選者が選ぶ秀作のなかから1首ずつ。
◇デモの中おひとついかがと配らるる老女持参のキスチョコゆかし(宇都木まや)
◇九条を傷だらけにして孫に継ぐ七十年目の悲しき節目(田中洋一)
◇祖父の戦死こころに在りて娘らは国会前へ出かけて行きぬ(圓城寺順子)
◇支持されてゐるからと言ひ支持率を下げてもやると今度は言へり(内野修)
・・・前号の続き。七十年前の八月十五日を想う・戯れ歌(ぶ)。
◇戦終り蒼空高く月さやか ◇あの夜の灯の煌めきを忘れまじ
3538号【2015年8月15日】
■≪70年前の8・15−あの青い空≫
今年も8月15日がめぐってきました。あれから70年も経ったのか、というのが正直な驚き。少年Bは当時13才(数え年で15才)、旧制中学2年でした。前号の上平泰博メール「少年護郷隊」に関連して言えば、「…14歳から組織される国民青少年義勇隊が全国で組織化」された場合、戦役に動員されたかも知れない最年少の世代、危ないところでした。沖縄の「少年護郷隊」はまさに少年義勇隊の「先兵的、実験的なとりくみであった」(上平)。「国民義勇兵役法」公布は沖縄戦が終わる6月23日でした。
1945年の学徒「勤労動員」中の少年Bは、間違いなく愛国・軍国少年。教育勅語だけではなく「軍人勅諭」さえも暗記し始めていました。「陸軍幼年学校」を受験したいと思っていたところに、1944年8月・空襲警報下の怪我(大腿骨々折)により入院加療を強いられ、志望挫折したのが“怪我の功名”。このことは自分史風に書いたことがあります。
70年前の今日「8月15日」は、高い青空でした。虚脱感・敗北感とともに、言いしれぬ解放感がありました。食糧に餓え、物資窮乏にあえぎ、一時期は裸足(はだし)で外出していたことも。しかし日常化していた「空襲警報」発令はなくなり、「灯火管制」で真っ暗だった夜が、あの日から明るく輝いて、その煌めきと高揚感はいつまでも忘れません。高い青空と煌めく夜は少年Bのひとつの出発点となりました。
翌1946年の混乱期を経て、47年には六三三制が発足。旧制中学から新制高校への切り替え。少年Bはバレー部(九人制)創設に関わり、あまり勉強などせず、体育館の片隅でタバコに手を出し、授業には出ず映画館に通うグループ。九人制バレーのレギュラーは、大学2年まで続けました。
3537号【2015年8月13日】
■≪旧盆入り・沖縄護郷隊≫
8月も半ばとなりました。父のはまゆう母のゆふがほ盆が来る(伊藤いと子)、畦を来る揚羽のごとく盆の僧(富永成女)。東京では揚羽の蝶も精霊トンボも飛ばず、ただ残暑のみの旧盆入り。
もともとお盆は正月とならぶ我が家(久留米)の二大年中行事でした。お寺(浄土真宗・東派)と深い関わりのあった祖父の影響が大きく、旧盆の3日間は親戚が集まり、お経があがって・・・初盆の家にお詣りに行き、など案外と忙しい。本でも読んいようものなら、「閻魔さまも休み、地獄の窯の蓋もあくのに」と母にたしなめられたものでした。
福岡に家をつくって、1970年代からは、8月のお盆は油山で遊ぶようになりました。沖縄から(東京へ帰らず)福岡へ、いつも集まるメンバーがいて、庭の白樺に蝉、ムクゲが咲き、日陰に揚羽の舞い、夕暮れから手作りベンチを持ち出して、ビールを飲む至福のひととき。
閑話休題。上平泰博さん(協同総合研究所)から「沖縄護郷隊」の話題が届きました。11日夜のNHK番組「あの日、僕らは戦場で(アニメ・ドキュ)」がいい出来映え。これまで語られなかった少年ゲリラ隊の記録。
「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり」などの学徒隊に比べて、旧青年学校や国民学校高等科卒の在農少年たちの「護郷隊」については、記録・証言が稀少。陸軍中野学校を出た将校に率いられたスパイ・ゲリラ組織だったのです。沖縄ではなかなか話せないと、十日町の雪祭りに招いた夜、「はじめて話します!」と護郷隊の過酷な証言を聞いた夜がありました。
3536号【2015年8月11日】
■≪編集会議−ワインの空き瓶≫
前号の標題・タイトルの部分、一部の方に見苦しい乱れがありました。いつものことながら、指のもたつき・目のカスミ、ご容赦ください。
先島諸島から台湾・中国大陸へ抜けた台風13号。大きな被害が報じられています。幸いに竹富島では「家屋倒壊など甚大な被害」はなかったものの、多くの樹木がなぎ倒されるなど「久しぶりに“恐怖”を感じさせる威力」だった模様、お見舞い申しあげます。しかし「台風の影響がなくなると直ちに島内の清掃」が始まり、いつもの御嶽の美しさが戻っていると(上掲・おきなわ短信1032−A)。情景が目に浮んできます。
さて、10日「風の部屋」は年報20号の編集会議(第5回)。作業は遅れていますが、賑やかな集いとなりました。論議と飲みっぷりは猛暑をはねかえす勢い。あとに残ったワインのカラ瓶を数えてみると、1人ほぼ1瓶を飲んだ勘定。若者をしのぐ壮年・老人の元気、お見事でした。ぶんじんも当夜は久しぶりに深く酔いました。高知の内田編集長はじめ皆さんご苦労さまでした。
遅れて参加した人の感想。「昨日はお疲れさまでした。編集会議だったのやら、飲み会だったのやら…」とコメントあり。もちろん、たしかな編集会議でした。骨格部分の論議が一段落して、オケクラフト・ワインクーラーのお出まし。いい20号となる予感。詳細は(いずれ届く)編集長報告をご覧下さい。
8月11日は、1年のなかでも終生忘れることが出来ない日。旧制中学2年の夏、故郷・久留米が米軍大空襲で消失した日(1945年)。長崎原爆から2日後、4日後は15日「天皇放送」という瀬戸際の惨事でした。この記録は本欄で何度か書きました。ホームページに、こっそりと記録を残しています。
3535号【2015年8月9日】
■≪明日は編集会議≫
強烈な台風13号、石垣・竹富など先島諸島から台湾へ。皆様に被害はありませんでしたか。相次いで台風14号は小笠原あたりから北上中。忙しいことです。
東京は昨(8日)夜は幾分しのぎやすい風が吹いていました。深夜の散歩でもと思ったほど。結局は懐メロ番組をみているうちに出足がとまり、相変わらずの運動不足、そして(やや?)飲み過ぎ。
本号は、TOAFAEC 新代表の上野景三さん「就任のごあいさつ」を掲載しました。もともとTOAFAEC(年報発行)「維持会員」あての文書、抄録しました。南の風あての「ご挨拶」も、とお願いしていたのですが(風3532号「猛暑のなか取越し苦労」)、すこし時日も経過しましたので…。ご了承ください。
8日夜のモンゴル・チャリティイベント、結局行けませんでした。包聯群さんに出したお詫びのメール。「モンゴルチャリティコンサートのお誘い、ありがとうございました。楽しみにしていたのですが、行けなくなりました。いま妻を一人にできないので、誰かに介護を頼むのですが、当夜、いつもの方がどうしても都合がつかず、外出できなくなりました。せっかくの機会なのにと残念です。…」
当夜、チャガンボルグ君の消息が聞けたそう(上掲・岩本メール)、驚きました。チャガンボルグは和光大学へのモンゴル留学生としては初期メンバーの一人。おそらく2001年春(九州大学・院より)研究室にやってきたと記憶しています。2010年頃には西池袋で「ボルグ(泉)」というモンゴル料理屋を開いていた時期もあり、しかし、うまく成功しませんでした。もしこの文章を読む機会があれば、ぜひTOAFAEC
研究会に顔を見せてください。明日(10日)は編集会議、暑中ご苦労さまですが頑張ってお出かけ下さい。
3534号【2015年8月7日】
■≪妻と語らう原爆忌≫
強烈な台風13号が南太平洋上に。八重山から台湾へ向かっています。本号には竹富島「豊年祭」記事(おきなわ短信1030)。台風を前にして、ひと足先に祭りは終わったところでしょうか。しかし、これから暴風圏内、無事通り過ぎることを祈っています。日本列島は猛暑が続いています。南の沖縄よりも、北海道の方が気温が高い日も。亜熱帯と亜寒帯が逆転の様相。驚くべき異常気象です。本欄は少しでも暑苦しくない話題をと思いながら、ついつい猛暑の話、お許しください。
今日(6日)の朝日新聞「文芸論」は、朝日俳壇・朝日歌壇の選者が対談しています。最近は「自然詠」に対して、社会で起きていることを詠む「社会詠」が急に増えている。60年安保闘争に向けて「社会詠」が大いに盛り上がった時代がありましたが、いま「それ以来の盛り上がりのようだ」と。
俳人・金子兜太は「新聞俳壇はジャーナリズムだと捉えていますので、意識して選んでいる」と。「憲法が散華してをる揚花火(馬目空)」「積極的従属主義や夏の陣(大井みるく)」を紹介しています。歌人・佐々木信綱は「作者の真剣な表情」を思いながら、「憲法が守りてくれし我が人生、銃撃たざりき撃たれざりけり(松下三千男)」「戦争になぜ反対をしなかったそう賢(さか)しげに我ら言ったはず(春原正彦)」などを。
猛暑のなか、当方の歌ごごろは萎えています。毎日の雑事に追われ言葉が出てきません。夏の夜の月を見上げて、思わずの自分詠、場ふさぎの戯れ歌です。
◇つらい夜の十三夜ことさらに美しく 悲しい夜に仰ぐ満月は笑っている
◇桃冷やし妻と語らう原爆忌
3533号【2015年8月5日】
■≪米軍キャンプシュワブ・ゲート前≫
8月4日のニュース。官房長官は午前の記者会見で「米軍普天間飛行場の辺野古移設計画について、今月10日から9月9日までの1カ月、移設計画にかかる一切の工事を停止し、県と移設問題について集中的に協議する」(東京)と発表。那覇でも翁長県知事が同じく1ヶ月の工事中止と「当該期間中に、県による(大浦湾)岩礁破砕立ち入り調査を実施する」と。沖縄各紙は号外を出し、翁長知事会見の動画を流しています。
琉球新報・辺野古問題取材班による辺野古の米軍キャンプ・シュワブ前の様子。「新基地建設に反対する市民らは、4日午前…工事関係車両の基地内への通行を阻止しようと抗議行動を展開した。午前7時ごろ、機動隊と衝突する場面もあったが、けが人はなかった。午前10時20分ごろ、一か月の作業中断の一報が入り、市民らからは拍手と歓声が上がった。…
辺野古の海上では辺野古崎付近のフロート(浮具)を撤去している様子が見られたが、スパッド台船は付近で確認できず、海上作業は見られなかった。市民らは船2隻とカヌー少なくとも14艇を出して新基地建設に抗議した」など。
当方、いまちょうど今年3月の名護「やんばる対談」の記録・原稿づくりに汗を流しています。あの日(3月28日)、私たち訪問団は、名護側の島袋正敏さんとキャンプ・シュワブ市民座り込みテントで落ち合いました。ぶんじんはテントの皆さんの前で短い挨拶を求められ、韓国から参加の崔一先さん(慶煕大学)は即興で抗議座り込みの人たちに向け“珍島アリラン”を絶唱。これに和して呉世蓮さん(早稲田大学)は優雅に舞ったのでした(風3470号)。忘れがたい思い出のひとコマ。遅ればせながら写真一葉(歌う崔先生と踊る呉世蓮さん)。
▼左・崔一先さん(慶煕大学)、右・呉世蓮さん(早稲田大学)、カメラ・鷲尾真由美さん(名護・辺野古、20150328)
3532号【2015年8月3日】
■≪猛暑のなかの取越し苦労≫
ご記憶でしょうか、6月6日の学会・六月集会の夜に、私たちTOAFAEC の総会が開かれ、その報告は「南の風」3512号(6月19日)に掲載されました。今年はこれまでにない大きな決定(代表交代、維持会員の会費変更−半額へ)が注目されるところ。しかし維持会費の件など事務局レベルでの充分な検討がないままでの総会決定。こんごのしっかりした取り組みが大事。
新代表の挨拶と維持会員への「お願い」が発送されたとのこと(上掲・事務局コーナー153)。会計・山口真理子さん、ご苦労さまでした。総会からすでに2ヶ月が経過、こんなにゆったりしたリズムで大丈夫かいな?と気になっています。今年はとくに年報編集作業が大きく遅れていることへの心配が重なっているのかも知れません。取り越し苦労であれば幸い。
7月末の編集会議が延期され、8月10日あたりの線で開催と聞いていますが、早急に時間・場所などの確定ご案内を「南の風」にも送ってください。猛暑に負けず・・・頑張りましょう。一両日うちに維持会員への文書が届くそうですから、あらためて「南の風」へ載せるメッセージ(上野新代表の挨拶)や諸報告も頂ければ幸い。
本号には、日韓学術交流研究大会(第7回−10月17日〜18日、韓国済州島)、モンゴル民族文化基金・チャリティコンサート(第10回−8月8日、東京)のご案内が寄せられました。「本コンサートの収益の全てを教育支援にあてる」とのこと。ご都合つく方は、ぜひ!ご一緒にまいりましょう。
3531号【2015年8月1日】
■≪夏の夜の暑気払い≫
昨夜(7月31日)は、第219回定例(7月)研究会でした。毎年(8月をお休みにして)毎月1回、着実に開いてきた定例会、ちょうど20年目を迎えた今年。来月220
回の研究会で満20年となります。取り上げたテーマは、沖縄をはじめとして東アジア(韓国・中国・台湾・モンゴル)、ときにエジプトあるいはドイツ、もちろん東京・川崎など・・・自由・多彩な拡がりで20年を歩んできました。そして今回は、ネパールの識字問題に関わる実践と課題について、興味深いお話でした。報告の長岡智寿子さん、ご参加の皆さま、お疲れさまでした。
終わってイーストビレッジへ、賑やかな暑気払い。ひとり先に帰った江頭晃子さんから、3時間後に当夜の報告が届きました(上掲)。私たちがイーストビレッジで楽しく飲んでいる間に・・・ひとり記録を書いていた感じ。お見事、有り難うございました。
実は当日は夜だけでなく、午後の会(年報編集会議)も予定されていました。老々介護の身、留守の時間がながくなると別の介護の方をお願いしなければなりません。編集会議は事情により延期となりましたが(残念!)、この夜、留守中の体制は万全。解放感をもって、ゆっくりと飲める夜となりました。やや酔って、例のようにしゃべり過ぎ?の暑気払い。お許しください。
8月の定例会は、例年のようにお休み。9月定例会(最終金曜日)が220回研究会となります。どんな企画にしましょうか。年報20号の完成をまって、一緒に「TOAFAEC
20年」の集い、のイメージでしょうか、ご意見を。
▼左から2人目に長岡智寿子さん(高井戸、20150731)
3530号【2015年7月30日】
■≪「まぼろしの復帰闘争史」≫
昨日(7月29日)の琉球新報・コラム「金口木舌」は、沖縄「復帰男」として、最後の復帰協事務局長・仲宗根悟さんを悼む言葉で綴られています。「近年、杖を手に集会に参加する姿は青年運動を率いた若き日を想像させた」(上掲)と。2005年冬はじめて青年運動・復帰運動の証言を聞いたとき、悟さんはまだ杖ではありませんでしたが、その翌年春、2回目の聞き取りの日は、たしか杖をついておられました。
悟さんが編集責任者としてまとめられた大作『沖縄県祖国復帰闘争史』(資料編・写真集、1982年)。膨大な文書記録・資料・写真が収録されています。しかし「復帰闘争史」そのものについては、具体的な章・節の構成が第2次案まで提示されながら、「まぼろし」とされています(同・資料編
p.1332〜42)。
小林は悟さんにこう聞きました。「復帰協に参加した運動体(政党・労働組合)には、それぞれの路線の違いもあるわけだから、簡単じゃないことはよく分かりますが・・・あの“まぼろし”の目次編は、少しは文章になったんですか?」
仲宗根「なりません。目次は私が準備したんですけどね、… 何回も集まったんですよ。集まって議論して、分担して、そして、できるだけ早めに書こうとしたんですけどね。結果的には原稿は、執行委員会でチェックするもんですからね、執筆の先生方も書けないんですよね。結局うまくいかない。…」
同席の有銘政夫さんの発言。「今、資料編をひっくり返してみてると、よく分かる。10年くらいして、その気になれば、僕は「復帰闘争史」は可能だと思う。…」(『東アジア社会教育研究』第12号p.246〜7、2007年)
当時のご苦労がしのばれます。あれから、そろそろ10年が経ちます。
▼仲宗根悟さん(第1次聞き取り、まだ杖は手にしておられなかった。沖縄市・クラウンホテル、20051224)
3529号【2015年7月28日】
■≪仲宗根悟さんを悼む≫
前号に続いて、25日の韓国研究会・編集会議後の楽しい語らい、カンネヨンさんから「ソウル宣言」(2013年)が送られてきたので、そのことを書きはじめたところ、山城千秋さんより沖縄からの訃報が届きました。沖縄の日本復帰運動に大きな役割を果たされた仲宗根悟さんが25日亡くなられ、今日28日、すでに告別式が終わったそうです。享年88歳。在りし日のご活躍をしのび、心からご冥福を祈ります。
琉球新報は大きく訃報記事を掲げています。「仲宗根さんは1966年から75年まで、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)の事務局長として復帰運動の先頭に立ち、運動の象徴となった辺戸岬沖での4・28海上集会などを通して全国に沖縄の復帰を呼び掛けた。沖縄青年連合会(沖青連)の幹事や県青年団協議会の副会長も担った。復帰後は社会党県本の書記長を務めた。辺戸岬の祖国復帰闘争碑の碑文は、仲宗根さんの揮毫」(2015年7月28日記事)など。
いくつか忘れてはならないことを書いておきます。仲宗根悟さんの社会運動は青年団運動が出発だったこと。1960年「復帰協」結成後、並み居る政党や労働運動の複雑な対立・葛藤を調整しつつ名事務局長として復帰運動をリードしてきたこと。復帰(1972年)後も事務局長として運動の収束にあたり、膨大な『復帰闘争史』(資料編)をまとめる仕事も担われたことなど。
2005〜06年にかけて数回お会いし、貴重な証言をお聞きしました。「沖縄祖国復帰闘争と青年団運動−戦後沖縄青年運動史の証言」として、年報『東アジア社会教育研究』第12号(2007年)に収録しています。この記録はご本人の私家版として再版されました。2012年、復帰40年記念の座談会(年報17号収録)でお会いしたのが最後となりました。合掌!
▼左・仲宗根悟さん(元復帰協事務局長)、右・小林(沖縄市、20060319) *撮影・石倉裕志
3528号【2015年7月26日】
■≪風の部屋の賑わい≫
また南から台風12号、沖縄本島北部をまきこみ奄美へ、いま九州西方を北上中。台風襲来はいま日常的となりました。台風がいないときの方が珍しいほど。今回は福岡・油山もかなり吹くのかな。最近留守ばかりで心配しています。そして、東京は異常な暑さ、地表を覆う熱気に蝉も鳴く力を失い、風の部屋の通路にアブラゼミが熱中症で?落ちていました。
25日午後の炎天下、もっとも暑い時間帯に韓国研究フォーラムの皆さんが集まってきました。上掲・小山田報告のように、せまい風の部屋に9人(写真)も座ると、古い冷房機では効きが悪く、部屋の中も熱気。それをものともせず、難しい本づくりの議論をしようというのですから、大したものです。2006年に出版の韓国本から10年、その続編『躍動する韓国の社会教育・生涯学習』を新しく編もうという企画(エイデル研究所・予定)が順調に進行してきました。
久しぶりにカン・ネヨンさんもやってきました。この人が来ると、なぜか話題が彼に集まります。エイデル研究所(編集)山添路子さんも加わり、作業は一歩前進のステップを刻んだ感じ。なにしろこの本の原稿は、大部分がハングル版で届き、その翻訳作業が大仕事。編集委員会には、金宝藍さん、呉世蓮さん、郭珍榮さん、松尾有美さんなど若いスタッフが揃い、高いレベルでの日本語訳がほぼ出来上がりました。10年前の初版本『韓国の社会教育・生涯学習』の時代から比べると、夢のような編集・翻訳体制の充実。
作業が一段落したあと、カンネヨンさんを囲み、この日の「風の部屋」も賑やかでした。暑い日はビール!というのが定番ですが、冷やした白ワインもなかなか乙なもの。
▼