◆TOAFAEC・記録・20年回想◆

  
<目次>
(1) TOAFAECニュース・記録 (1995年〜)
 創刊号「ひろば」・ 「東京・沖縄・東アジア・社会教育研究会」の提唱 
 黄宗建さんの沖縄訪問・語録−1995
 1998年頭・南の海を飛びながら−沖縄研究再開への思い
 
TOAFAECニュース NO.14〜bQ9

(2)TOAFAEC・20年回想T(1995〜2011年)
      *2015年「南の風」 3483号〜3494号収録

 私たちの思い(年報『東アジア社会教育研究』創刊の辞・1996年)
 
「南の風」創刊号、50号へ(1998年2月〜7月)
 留学生との出会い、“東アジアの発見”
    (日中教育研究交流会議「年報」14号、2004年)
 上海閘北区・業余大学との合作学院づくり、構想実らず
    
(南の風676号、2001年5月)
 「小林国際交流閲覧室」(中日文人図書室)
    
黄丹青「公民館の風」228号、2001年11月)
 東アジア社会教育・生涯学習の躍動−この10年

    (年報第10号・巻頭言、2005年)
  「南の風」2000号ご挨拶
(2008年3月8日)
 小さな集いの"大きな志"−東アジアに研究交流の新しい地平

    (年報16号、2011年)
 年報「東アジア社会教育研究」第20号(2015年)巻頭言

(3)TOAFAEC・20年回想U (2001〜20115年)<予定・メモ>
 1,ゆるやかな組織と規約  2,定例研究会の前史と展開、 
 3,「
年報」編集の挌闘、   4,東アジア(中国・韓国)出版構想、 
 5,関連研究会、       6,沖縄研究フォーラム、
 7,やんばる対談、      8,南の風の蓄積(〜3000号〜)    
 9,財政問題・維持会員制 10、交流・合作への努力 





(1) TOAFAEC・ニュース
編集・発行:内田純一(初代TOAFAEC事務局長、東京都立教育研究所・当時)

第1号(1995年6月2日、「社会教育のひろば」)
  小林文人 「東京・沖縄・アジア・社会教育研究会」の提唱 (下掲)
第2号(1995年6月17日発行 「TOAFAEC・ニュース」に改題)
  文孝淑(一橋大学・院博士課程)「韓国社会教育活性化のための社会教育法改正試案」
第3号(1995年7月26日発行)
  山口真理子(調布市立図書館) 第1回新生・沖縄社会教育研究会の報告 
第4号(1995年9月18日)
  内田純一(東京都立教育研究所) 東京における「識字実践」のひろがりとその可能性
第5号(1995年11月28日)
  海勢頭豊(音楽家)歴史踏みしめた実感−県民大会に参加して−
第6号(1996年2月26日)
  遠藤輝喜(渋谷区恵比寿社会教育館)
  上海・成人教育関係者との交流集会開催される−第2回日中大都市成人教育研究交流集会−
第7号(1996年5月30日)
  江頭晃子(市民活動サービスコーナー) 韓国を訪問して
第8号(1996年8月15日)
  大澤直子(和光大学3年)「静かだけども、激しい怒りと悲しみが伝わってきた」
                   −劇映画『沖縄−1坪たりともわたすまい−』
第9号(1996年10月23日)
  内田純一(都立教育研究所)大きな実験・新たな挑戦 −『東アジア社会教育研究』創刊−
第10号(1997年2月21日) 
  内田純一(都立教育研究所)「東アジアを歩く」1年に〜台湾訪問・充実した6日間〜
第11号(1997年3月26日)
  鳥山淳(一橋大学・院・修士課程)日本復帰運動と教職員会・婦人会
第12号(1997年6月23日) 
  鷲尾真由美「つゆ明け間近の八重山から」
第13号(1998年1月30日)
  小林文人 1998年頭・南の海を飛びながら−沖縄研究再開への思い−(下掲)
第14号 『東アジアの社会教育研究』第5号編集委員会の開催(2000年4月10日)(下掲)

第15号
  |
第27号



TOAFAECニュースbQ8(南の風623号 2001年2月1日) (下掲)
TOAFAECニュースbQ9(南の風629号 2001年2月10日) (下掲)


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(創刊号「ひろば」)
第1号(TOAFAEC 1995年6月2日発行 「社会教育のひろば」)
「東京・沖縄・東アジア・社会教育研究会」の提唱   
      
小林ぶんじん(和光大学・教授)

 1995年の春、28年の勤務を終えて、東京学芸大学を退職しました。さまざまの思い出が去来しますが、何よりもあの「社会教育研究室」とそこで開かれてきたいくつもの研究会のこと、「案内板ですよ」(10年ほど前に卒業した樋口<現・白井>知子さんの字がそのまま消えないで残っていた)という白いボ−ド、を忘れることができません。ともに語り、そして論じ、ときには歌い、あるいは飲みながら、大いにみんなで楽しんできた研究室でした。
 在学生の「入門ゼミ」「月刊社会教育読む会」があり、「中国語学習会」「ハングル学習会」なども胎動しましたが、この研究室は大きく三つの研究会の流れを生み出してきました。いずれも研究室メンバ−以外の、市民、職員、(学外の)研究者、そしてOB・OGなどに開かれた研究室でした。
 一つは言うまでもなく「沖縄社会教育研究会」です。1976年から19年間、通算128回の歴史。たくさんの人たちがこの研究会から育っていきました。二つには、留学生を中心に毎週火曜日午後に開いてきた「アジア・フォ−ラム」です。記録をみると1989年10月頃から定例化しています。孤独になりがちな留学生を励まし、彼らを横につなぎ、同時にまた、これに参加した日本人学生・院生にアジアへの視点を教えてくれました。
 あと一つ、研究室OB・OGによる「社会教育理論研究会」があります。その名称ほどに理論的な論議がかわされたわけではありませんが、また参加者はいつも少数でしたが、社会教育の実践と理論を結んで追求していこうという想いはいつも切なるものがありました。
 しかしこれらの研究会は、1994年末から95年のそれぞれの時点で、自然休会となりました。沖縄社会教育研究会も95年2月の定例会(128回)をもって一応の歴史を閉じるこ ととなりました。私も3月の最終講義をもって東京学芸大学での仕事を終わったという次第です。


東京学芸大学・最終講義(19950318)

 それから数か月が経過しました。この間に、これまでの研究会を惜しむ人たちから「研究会を再開できないか」「新しい構想を考えてはどうか」などの声が寄せられました。また事実として、かってアジア・フォ−ラムに集った留学生からの消息が少なくなり、お互い淋しい思いがつのる状況もでてきました。私の新しい職場(和光大学)の諸条件もある程度はっきりした段階で、これまでの研究会活動の歴史にかかわってきた遠藤輝喜(社会教育理論研究会)や内田純一(沖縄研究会、アジア・フォ−ラム)などと何度か意見を交換しつつ、新しい構想を積極的に模索してみよう、ということになりました。それは、次のようなことです。
(1)これまでの主として三つの研究会の蓄積を発展させる方向で、その流れを合流して一つの研究会を発足させる。
(2)毎月1回程度の研究活動の定例化をめざす。
(3)名称は「東京・沖縄・アジア・社会教育フォ−ラム」(TOAFAEC,Tokyo-Okinawa-Asia-Forum on Adult Education and Cultures、仮称)としてはどうか。
(4)全体の研究会(フォ−ラム)の内部に、これまでの経過から三つの研究会(東京・理論、沖縄、東アジア)を始動させ、それぞれを担当する幹事(遠藤、内田、山口真理子、ほか)をお願いする。
(5)東アジア研究会のなかに、例えば「韓国社会教育研究会」(朴三植、山添路子など)や、東京・理論研究会のなかに、例えば「識字マップ調査研究会」(江頭晃子)などの研究グル−プを柔軟に組織していく。(この二つの研究グル−プは現在すでに活動中)
(6)「TOAFAEC・ニュ−ス」を定期に発行して、相互の研究情報・交流をはかる。沖縄をふくめて海外の関係者・友人たち(ソウル、釜山、台北、北京、上海、広州、チェンマイ、など)にも送付する。(担当・内田純一)
(7)通信・連絡費の実費程度を会費としてお願いする。
(8)東京学芸大学関係者を中心とするのでなく、和光大学関係者も含めて、研究関心を共有する人であれば幅広く参加できる、ゆるやかに開かれたフォ−ラム=ひろば、とする。
(9)会場は、公民館などの社会教育施設ならびに東京学芸大学(社会教育研究室)や和光大学(小林研究室−ただし小田急・鶴川から徒歩20分、やや遠い)を適宜交渉する。楽しい研究・交流活動を大事にし、沖縄訪問、海外訪問の旅も企画する。

 まずは第1回研究会(1995年6月2日)を実質的に開始し、動きはじめながら、具体的にTOAFAECとしての個性的でゆったりした運営や実務の体制をみんで決めていくようにしてはどうでしょうか。皆さんの積極的な提案、ご意見をお願いします。


東京学芸大学・小林研究室OBG・懇親会(19950318)

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TOAFAECニュース第1号
「東京・沖縄・東アジア・社会教育のひろば」(1995年6月2日)
黄宗建さんの沖縄訪問・語録−1995/2/25〜28−  
 
小林ぶんじん →■

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TOAFAEC・ニュース第13号(1998年1月30日)
1998年頭・南の海を飛びながら−沖縄研究再開への思い−
 小林文人(和光大学)

 昨年の正月は、はじめて台湾師範大学・台北市教育局の招聘をうけ台湾に出かけたが、今年1998年は、久しぶりに沖縄へ。いつものように年頭にあたって沖縄の友人たちと交流をふかめる喜び。しかしこんどの旅には、それに止まらずいくつかの目的があった。
 一つは私たちの『東アジア社会教育研究』第2号の沖縄への披露、二つには同第3号(今年秋の発行予定)編集会議、三つには八重山・宮良に新居を完成させた鷲尾さんのお祝い。だから限られた数日の間に、私たち一行6人(小林、山口真理子、内田純一、石川敏、稲葉泰子、小林平造ーただし沖縄本島のみ)は那覇から名護へ、さらに南の石垣へ、と飛んだのである(別稿)。
そしてあと一つ、私にはこの1年来ひそかに温めてきた課題があった。それは沖縄研究をどう再開させるかということだ。

 私たちの沖縄研究グループが発足したのは1976年の秋。それからすでに20年余が経過している。1996年秋には、喜納勝代さんの「久茂地文庫」20年といっしょに、研究会発足20年の祝いの会を開いていただいた。忘れもしない台風のなか、会場は那覇の沖縄県青年会館、末本誠など神戸グループもこれに参加した。
 しかし20年といっても、この間に沖縄社会教育研究が持続的に蓄積されてきた、というわけではない。『沖縄社会教育史料』全7集(1977〜87年)が刊行され、小林・平良編『民衆と社会教育』(エイデル研究所、1988年)の上梓が実現した頃をピークとして、その後の研究活動はむしろ停滞してきた。
 20年来の歩みのうち、後半の10年は研究はあまり進んでいないのである。世上これだけ沖縄への関心がたかまり、私たちも沖縄研究ネットワークをかなりひろげることができ、また手元に研究資料も一定集積され(20年前のゼロ状態と比較せよ)、問題関心も新たな視野(たとえば東アジアからの研究視点)を獲得してきた、というのにだ!
 いま私たちは、かなり重要な研究課題と対峙し、案外と面白い研究ポジションに立っている。「やまと」の単純な地域研究だけでは見えてこない、独自の課題と方法を沖縄研究のなかで発見してきた、とも言える。
 南の海を飛びながら、いまあらためて沖縄研究の第2サイクルを創り出したい想い、切なるものがあった。それだけに今回の旅で、久しぶりに小林平造がこれまでの奄美研究と連動させて「やんばる」集落調査を報告したことが嬉しかった。平良研一、島袋正敏、中村誠司などの皆さんがこれに温かくコメントした。第3号編集会議に先だってひらかれた小さな研究会、1998年頭の名護のひととき。私にとっても、さわやかな刺激となった。



 後半の八重山の4日間は、これも懐かしい人たちとの再会の毎日であった。ふりかえると6年ぶりだ。渡慶次賢康(名蔵小中学校長)、崎山信之(石垣市社会教育課長)、東田正祥(竹富町社会教育課長)など、八重山の社会教育を担ってきた人たち、かっての若者(中堅?)は今や長老。竹富島では上瀬頭芳徳や前本多美子と会い、その夜は新城知子・音絵のアトリエ「遊」で思いがけず流麗な踊りをみた。平久保の浜では米盛三千弘一家が迎えてくれた。その帰り、白保の浜には十三夜とおぼしき月が輝いていた。
 みなさん、元気だ。なかでも小浜島の平田大一(和光大学卒、南島詩人)のエネルギーが私たちを勇気づける。アジアのテンプス(へそ)と称する地域主義の発想に立って、地域おこしを提唱している。「なにもない」小浜の集落をまわりながら、自分の生まれ島を誇りと愛惜をこめて案内していた。たまたま「キビ刈り援農塾」開始の前日、全国から1000人をこえる参加申込みがあるという。彼は「一石三鳥」の企画だと笑って言った。成功を願わずにはいられない。
 平田大一は、実は私たちが研究会発足20年を祝った1996年9月末、結婚式をあげた。案内をうけた私は、その日、那覇空港まで駆けつけた。しかし台風襲来のため、石垣に、だから小浜に、渡れなかった。「せっかくここまで来たのにー」という思いが忘れられず、今度の小浜島行きはこの無念をはらす旅でもあった。
 小浜島めぐりの道すがら、そのときの新妻は、彼と私たちに手をふってくれた。横に幼な子もいて微笑んでいる。この日、八重山の海はもう初夏を思わせるような輝きをみせていた。


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【TOAFAECニュース NO.14】
 『東アジアの社会教育研究』第5号編集委員会の開催
 前略 第5号の編集委員会を下記の通り行います。原稿依頼の最終調整会議となりますので、編集委員及び事務局で、参加可能な方々は、出来るだけお集まりください。もちろん関心がお有りな方でしたら、どなたが参加されても構いません。会場が不明な方は、19:00以降、井の頭線西永福駅からお店に電話いただければ迎に行きます。
にちじ:2000年4月10日(月)19:00〜
ばしょ:西永福グランメール 03−3323−6336
なかみ:第5号編集会議 原稿依頼分担など。
<連絡先>〒185 国分寺市高木町2-10-1,2-101 内田純一
 /fax 0425-71-0477 宅, 03-5434-1963 職


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TOAFAECニュースbQ8(南の風623号 2001年2月1日)
 *内田純一(Wed, 31 Jan 2001 01:35)
 <沖縄社会教育研究会21 in 名護 その1>
 1月28日(日)午後2時30分〜6時30分 、名護市立中央図書館AVホールにおいて「沖縄社会教育研究会21 in 名護」が開かれました。この研究会は、これまでの沖縄研究の蓄積をふまえ、次世代研究として、1998年より「戦後沖縄社会教育における地域史研究」(文部科学省科学研究費補助3年間)としてはじまったもので、今回は、昨年の研究成果(中間まとめ:『東アジア社会教育研究』第5号に掲載)をもとに、今後の課題や展望を論議する話題が報告されました。TOAFAECとしても新世紀第1回、1月の定例研究会(通算第59回)と位置づけました。参加者は総勢20名を数えました。プログラムは以下のとおりです。
報告T 挨拶:沖縄研究のこれまでとこれから(小林文人)
報告U 中間まとめの紹介と補足(小林平造)(上野景三)(松田武雄)
報告V 中間まとめを読んで(平良研一)(島袋正敏)
報告W 沖縄社会教育の特殊と普遍(末本誠)
報告X 字誌づくりの現在と可能性(中村誠司)
報告Y 「与論島美術展2001」実施計画について(赤崎隆三郎)
 報告Tでは、これまでの沖縄社会教育研究の視点と方法、そのあゆみを踏まえ、1998年からの今研究が「第三期」に位置づけられること、沖縄から日本の、アジアの、そして世界の今後のありようを自己発見し、内発的に考え直していくうえで、あらためて集落の自治とその可能性を探求していくことの意義などが語られました。また、USCAR資料をはじめ今後続々と公開されてくる文書への期待も寄せられました。
 報告Uでは、まず小林平造氏(氏は二本の論文を掲載している)より、名護市屋部集落を事例に、祭りや芸能といった活動とそれを基盤とする人々の関係性のなかに沖縄集落(「シマ社会」)における教育的機能を具体的(例えば、伝承・熟達の発達的構造として)に見いだすことができること、それが各年代を超え多様な相互交流として展開してきていることが報告されました。さらに、字誌(特に『辺野古誌』)を手掛かりに「ムラヤー」の位置づけと変遷を紐解くとき、そこには民衆統制的機能を民主化、民衆化していく過程、集落公民館の自治と運営についての発展史を読みとることができるという報告がなされました。
 次に上野景三氏からは、まず産業構造や生活構造が大きく変化してきている現代社会においても厳然と「シマ社会」が人々の心の拠り所となり、その機能が自ら積極的に継続発展してきている、その力はいったいどこにあるのかという氏の問題意識が話されました。その上で、南風原町喜屋武集落における綱引き行事に着目して、それが子どもや青年が地域社会との関係を創造するものであること、相互の関係可視化させていく機能を持つものであることなどが報告され、また、集落公民館のもつ固有の役割に注目して、基本的問題である地域のありようまでたちもどって、地域社会と社会教育との関連が問い直されるべきこと、アイデンティティの確立の場としての集落公民館の位置づけ、地域再組織化の機能を可能にする要因と分析の課題などが示されました。
 松田武雄氏からは、昨年度の報告(那覇市石嶺公民館の事例)並びに今年度執筆予定の金武町並里公民館の事例を中心に報告がありました。両者に共通する問題意識は、沖縄の共同性と近代化・現代化についてであり、共同体機能を活かしながら近代化すること、その過程を通して社会教育の可能性を見いだそうというものです。石嶺では、自治会組織が弱体してきている都市部にあって、言わば「思い出としての集落意識や共同体意識」を基盤に旗頭を誕生させる地域ぐるみの運動を展開させ、それを通して、中学校区以上の範域で組織された新しい地域組織(ボランティア団体)が、公民館を拠点に地域活動を行っている。並里では、集落公民館の活動を中心にシマ社会の自治的組織から独立した社会教育機能が確立していたり、一方で公民館からシマ社会の再創造に向けた積極的な働きかけなどもある。また並里地区は、軍用地収入の割合が比較的高いが、軍用地の返還にともなう収入の変化が今後どのような影響をもたらすか心配であるといった報告でした。(つづく)


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TOAFAECニュースbQ9(南の風629号 2001年2月10日)
                  (内田純一、2月9日 23時25分)

 <沖縄社会教育研究会21 in 名護 (「南の風623号のつづき」)>
 次に平良研一(沖縄大学)、島袋正敏(名護市中央図書館)両氏より、中間まとめ(『東アジア社会教育研究』第5号に掲載)に関わってコメントが寄せられました。
 平良氏からは、ご自身が幼い頃から慣れ親しんだ「部落公民館」での実体験と重ねながら各論文への意見が寄せられました。総じて、沖縄の歴史と文化を基盤とする「シマ社会」が持つ内発的な力への着目とその教育的意義の捉え直しという今研究の視点と方法に対する好評価がなされました。
 島袋氏からは、「崩壊の中の創造」の存在という中間まとめのキータームに関連し、ご自身がかかわってこられた「イノシシサミット」「アユを戻す取り組み」「シマ酒の会」「アーグの保存」などの具体的活動の現代的意義を伝統的部落社会の変遷に添いながら報告されました。伝統行事が息づいてきた1960年代半ばまで。復帰を相前後とする見せる伝統行事への変化と衰退。そして 1970年代後半以降のその問題性への気づきと「自分たちの地域を自分たちでどうするか」という地域創造的な活動が字公民館運動の派生として部落単位で主体的に興ってきている。上記の活動はそうした流れに位置づけられ、それは学術的重要性としての自然保護ではなく共生としての自然保護をめざした取り組みであったり、懐古主義ではなく次世代・未来のための取り組みであったり、複合的社会の創造をめざした取り組みなどとして広がっているという内容でした。
 以上の報告を受け、末本誠氏(神戸大学)と中村誠司(名桜大学)からは、今後の研究の視点と関わらせた提起がありました。末本氏からは、フランス在外研究 (4月〜12月)での成果と合わせ「沖縄の集落実践と字誌研究に関する研究の視点−フランス共同的生活史研究から見た字誌研究の課題−」と題する報告がありました。そこでは、生活史の理論的な骨格に即して考えた場合に沖縄の「自分」およびその「共同化」はどのような意味を持つかという問題意識から、例えば、シマの住民をいたずらに特殊化せず、人間としての普遍性から出発すること、シマ社会の特徴は、個人のアイデンティティの形成が字という集団としてのアイデンティティと密接不可分に結びついていること、字というとまりは、集団化が形式化され制度化された一つの到達点であり、これに至る集団化の過程が存在する、シマ社会の存在理由を問うことは、集落実践の社会教育的意義の究明に不可欠な方途であるなど、字誌研究に関わる基本的な視点が13項目にわたって示され、同時に字誌づくり過程に即して課題が整理されました。また加えて渡仏中に南仏で体験されたシャンブル・ドート(フランス版民宿)というグリーン・ツーリズムの写真と紹介もありました。
 続いて中村氏からは、「字誌づくりの現在と可能性」として、地域史研究の新しい状況も踏まえ、今後の課題が示されました。そこでは、地域社会(シマ社会)の有り様 (個性と多様性)そのものが字誌づくりであること、字誌づくりが人々を結びつけ、住民による地域の再発見と評価をもたらすものであることなど、字誌づくり研究を本格的にテーマとする時代が来ているという報告がありました。
 最後に与論高美術部顧問の赤崎隆三郎氏より「与論島美術展2001」実施計画についての報告がありました。与論高校美術部では、昨年6月に「全国高校生美術展」(31都道府県59校280点)を成功させ、現在、「すべての人の心に花を」といったテーマで沖縄北部地区「高校生我がまちを描く」作品展(3/21-25)、世界21カ国の高校生による「世界高校生美術展」の開催(6月〜7月)を計画しているということで
した。
 今回の研究会は、のべ9名の報告者が約4時間にわたりそれぞれに内容の濃い報告行いました。それだけに聞いている方からは「嬉しい悲鳴」が聞こえてきそうな、充実した、しかし過酷?な会でもありました。(了)





2,TOAFAEC・20年回想 
 
(2015年、「南の風」 3483号〜3494号・収録)
    
目次
1、私たちの思い(年報『東アジア社会教育研究』創刊の辞・1996年)
2、「東京・沖縄・東アジア・社会教育研究会」提唱(TOAFAEC通信1「ひろば」1995年)
上掲
3、1998年頭・南の海を飛びながら−沖縄研究再開の思い(TOAFAECニュース13号)
上掲
4、「南の風」創刊号、50号へ(1998年2月〜7月)
5、留学生との出会い、“東アジアの発見”(日中教育研究交流会議「年報」14号、2004年)
6、上海閘北区・業余大学との合作学院づくり、構想実らず(南の風676号、2001年5月)
7、「小林国際交流閲覧室」(中日文人図書室)黄丹青「公民館の風」228号、2001年11月)
8、東アジア社会教育・生涯学習の躍動−この10年(年報第10号・巻頭言、2005年)
9、「南の風」2000号のご挨拶(2008年3月8日)
10,、小さな集いの"大きな志"−東アジアに研究交流の新しい地平(年報16号、2011年)


■1,私たちの思い(年報『東アジア社会教育研究』創刊の辞・1996年)
     その1 (南の風3483号)
 … 私たちの研究活動も、今日までその歴史を探求しつつ、さらにまた、新しい発展の歩みにともに参加していこうと考えてきた。
 これに加えて最近、國や国籍を越えて社会教育のあり方を考える必要が痛感される。また国際比較という場合も、欧米を中心とするのでなく、もっと視点を多元化していく必要があるのではないか。たとえば日本が属する東アジアの視点から考えると何が見えてくるのか。このような問題意識から私たちはこの数年、海を越えて、東アジアの社会教育についても視野を拡げ、探求を深めていく課題を話しあってきた。
 振りかえると1976年に「沖縄社会教育研究会」を始動させて、すでに20年が経過している(研究会開催・通算128回)。→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/1976toafaeczennsi.htm
 その後1989年からは、東アジアの留学生たちと社会教育に関する「アジア・フォ−ラム」を間断なく開いてきた。またこれと平行して、研究室から巣立った有志と「東京・社会教育理論研究会」も続けてきた。
 →■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/1989asiaforum.htm
 そして1995年の転機に、これらを合流して新しく「東京・沖縄・東アジア・社会教育フォ−ラム」(TOAFAEC)を発足させることになったのである。それから早いものでもう1年が経過した。(創刊号・後記「活動日誌」参照)
 幸いにここ10年、私たちのまわりには社会教育に研究関心をいだく東アジアからの留学生が増えている。また東アジア各地には私たちの友人がひろがった。TOAFAEC 研究会を重ねていくと、海を越えて、いろんな社会教育・成人教育の新しい情報がとどけられるようになった。そしてとくに昨年は沖縄からの熱き叫びも聞こえてきた。
 これらを横につなぎ、大事な事実を記録化していくため、研究と交流の「ひろば」として、ここに本研究誌を発刊することとなった。とくに規約など用意していないが、編集方針としては次のようなことを考えている。
1,東アジア(沖縄、東京等を含む)社会教育・成人教育の動向分析、情報交流
2,東アジアからの留学生、若い研究者の研究発表(ただし一定の研究水準堅持)
3,TOAFAEC 研究会の活動記録
4,民間非営利、不偏不党、自由闊達、の編集 (以下、略)

■2,「東京・沖縄・東アジア・社会教育研究会」の提唱  上掲
     (TOAFAEC 通信・創刊「ひろば」1995年6月2日発行 第1号)

■3,1998年頭・南の海を飛びながら−沖縄研究再開の思い  上掲
     (TOAFAECニュース13号)     *南の風3486号

■4、「南の風」創刊号、そして50号へ(1998年2月〜7月) 
○第1号【1998年2月 6日】沖縄研究再開について、台湾訪問
 みなさまへ。ここ1両日、相次いで神戸と佐賀からメールがとどきました。いずれも沖縄研究あるいは東アジア研究に関連するところあり、実験的にパソコン通信として配信してみたくなりました。小生は、とりあえず「南の風」通信と名のることにします。これはその記念すべき第1号です。
 ただし情報過多になるのはよくないので(小生の旧友のパソコン通信ネットは、1日に2〜3通来ますので、その弊害あり。読むのにたいへん!)、意見ください。迷惑であれば、ただちにネット配信は停止しますので。まず若干の小生のメールを記します。
1,神戸へのご返事。TOAFAEC 通信13の小生の拙文に早速反応していただいて有り難うございます。研究会は、「再開」なのではなく、実は東京では、この20年余り営々として「継続」してきました。(略)
2,関連して、鹿児島では韓国・黄宗建さんを5月に招く計画をもって…これに合わせて「沖縄研究」合宿を計画するのも一案か。(略)
3、佐賀へのご返事。台湾への旅、ぜひ動いてください。台中には、TOAFAEC 編集委員の陳東園がいますので、連絡してぜひ。(略)
4,国分寺へ。2月20日、島袋正敏、中村誠司両氏の歓迎会の会場は決定しましたか。折り返しご連絡乞う。(以下、略) *bP〜50 主要目次→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/kazeitiran2.htm

○第50号【1998年7月 3日】第50号記念、勝手に風は吹く
 [南の風]が50回となりました。吹きはじめが2月6日、それからちょうど五ヶ月、一月平均10回です。少し役にたったところもある?しかし他面まさに情報押売りの実態もあり、なかには辟易、顰蹙、困惑など感じられた向きも少なからず、この機会にお詫びしておきます。
 しかし、発行元としてはこの五ヶ月、かなり楽しんだことも事実。パーソナルに勝手に吹きたいという心情、だから、[南の風]同人のネットが多少拡がるにつれて、後半はかなり冷静?になって、逆にあまり面白くない? ときにふざけて、あけすけに心も開いてやっていきたい、など思って、あろうことか、拙劣きわまる戯れ歌などご披露する始末、正直なところ、誰か「恥ずかしいからやめろ」と言ってくれるのを待つ心境。はい。(以下・略)

■5 留学生との出会い、“東アジアの発見”
    *日中教育研究交流会議「研究年報」第14号(2004年)
 … 留学生との交流の中で痛切に反省させられたことは、一衣帯水の東アジア諸国の社会教育・成人教育に関して、私たちがほとんど確たる知見をもっていないこと、また対話していく言葉・知識が不十分であることであった。彼らと出会って、私たちは歴史的・文化的に深い関係をもつ“東アジア”についての研究視点をもつ必要を自覚させられたといえる。
 1993年・小林ゼミ(東京学芸大学大学院「社会教育施設研究」)では、公民館研究から法制研究へと関心が拡がり、研究室共同の取り組みとして『東アジアの社会教育・成人教育法制』に関する報告(B5版、138頁)をまとめた。その「まえがき」には、「ヨーロッパに関する知見に比べて、なんとアジアのことに無知であるかを反省させられた」こと、「社会教育における“東アジアの発見”」について記している。この報告書は、わが国最初の東アジア諸国の社会教育・成人教育法制に関する体系的な報告ではないかと自負している。留学生と日本人院生・研究生が協同して取り組んだ作業であった。(中略)
 歳月の経過とともに研究室を巣立った留学生の輪が東アジア各地に拡がっている。20年の歳月は、社会教育・成人教育を共通のテーマとして、海を越える交流を蓄積してくれた。もちろん音信不通もあり、そのまま在日している人たちもいるが、大半は東アジアの故郷・各都市に帰っていった。北京、上海、広州、あるいはソウル、釜山、台北などにおいて、それぞれの立場で活躍している人が少なくない。この拡がりを「桃杏四海」と形容する人もある。嬉しいことである。もちろん在学中の出会いが主な契機となるが、むしろその後の研究室との付き合いが大きな意味をもっている。この間に研究室出身以外の人々との新しい出会いもあり、研究室は歳月を重ねての交流・結節の継続的拠点となってきた。
 私たちのささやかなネットワークから、いろんな企画や挑戦の試みが生まれ波紋を広げてきた。研究交流、国際シンポジウム、講演会、出版物企画、学校づくり、文庫構想などなど。企画倒れもあるが、いくつか結実したものもある。
 とくにこの10年来、激動渦巻く現代都市・上海市の成人教育関係者や華東師範大学との研究交流が一つの潮流となってきた。なかでも上海市閘北区「業余大学」の合作による中日学院づくりへの挑戦は興味深い展開であった。いつまでも忘れないだろう。両者をつなぐ媒介役を担ったのは、かっての東京学芸大学留学生の二人(羅李争と袁允偉)であった。…以下、略…

■6 上海・閘北区業余大学との合作学院づくり、構想実らず
    *南の風676号(2001年5月10日)
 … ながく教育の仕事にたずさわってきたものとして、いい学校を創りたいという思いは誰しも一度はもつものだろう。しかし日本では(土地問題もあって個人では)とうてい実現の見込みはない。ところが中国では、改革開放政策の進展があり、また1990年代「社会力量弁学」の動きもあって、可能性があるのではないかというのが、この間の「合作学院づくり」の夢を抱く背景であった。事実、広州市の関係者と学校づくりについて具体的な協議をしたこともあった。1993年から94年にかけてのことである。
 1994年11月、上海第二教育学院(当時)で「日中大都市社会教育研究集会」が開かれ、招聘されて上海に渡り、その夜の語らいの席で羅李争(東京学芸大学大学院卒)や上海市閘北区「業余大学」関係者との間で合作学院づくりの話が始まった。小林は東京学芸大学の退職金を一部拠出する、日本・中国の社会教育関係者相互の自由な研究交流の場をつくる、TOAFAEC 活動のネットワーク拠点とする、そんな夢がその後にも次第に膨らんでいった。1995年12月27日、合作学院の構想として、上海に次の構想を書き送った記録が残っている。
1,活発な精神と、学習・研究の自由を尊重する。(自由の精神)
2,社会的不利益者を含めすべての民衆に開かれた学校。(万人の学習権保障)
3,緑あふれ、花咲きほこる美しい学校。(恵まれた環境)
4,利潤を求めず、しかし経営的に持続する。(非営利の経営)
5,社会教育・成人教育に関して中国と日本の研究交流と親善に寄与する。
   (日中友好、東アジア社会教育研究ネットワークの形成)
 初期の学院名称案は「上海市中日文人学院」。その後、紆余曲折を経て、意向書、契約書、定款案などが作成され、その都度の調印も行われてきた経過は、「南の風」で折りにふれて報告し、またTOAFAEC ホームページに収録している通り。合作学院の名称は個人的ニュアンスを脱する方向で、「宏文」学院と修正された。→■http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/gassaku1997.htm
 この6年間の経過をここに詳述する必要もないだろう。最終的に「すべて問題はない」として、正式文書の調印と交換(2000年11月)が行われたことも「南の風」で報告してきた(第579・580号)。
 「やれやれ、やっとこれで一段落か、といった感じです。中国とのお付き合いは少々時間がかかりますね。」(同・579号)と書いたことも想い出される。
 しかし今回五月の上海訪問のなかで、この合作学院の構想は、今後進展が見込めないことが分かった。上海市閘北区業余大学関係者による私たちの歓迎会の席で、王鴻業学長より「まことに申しわけない、合作学院の成立は見送らざるを得ない」という判断が報告された。
 これまで学院づくりにかけてきた双方のエネルギー、とくにその間にあって連絡・調整・翻訳などの労をとってきた羅李争や袁允偉のことを考えても、まことに残念至極!(以下、略)

■7 「小林国際交流閲覧室」(通称・中日文人図書室)開幕−黄丹青
    *小林「公民館の風」228号(2001年11月8日)
 … 上海閘北区の新社区大学・行健職業学院に実現した「小林国際交流閲覧室」のいきさつを簡単に紹介しましょう。
 ご存知のように、小林先生と閘北区業余大学(9月から上海行健職業学院に変身)との5年越しの合作学院の話が流れてしまい(南の風 第676号「合作学院の構想実らず」参照)、その後、9月には中国側から図書室をつくりましょうといった内容のメールが送られてきた(南の風 750号)のはご承知のことと思います。
 これについても話し合おうというつもりで今回訪中した小林先生ですが、到着した10月9日夜の歓迎会で、翌日に図書室の除幕式があると聞かされ、さすがに驚いた様子(「もう何が起こっても驚かない」と言っていましたが…)。
 どうも学院側は、小林先生の好意がなかなか実らないことに心を痛めて今回の訪中で長年の懸案を解決しようと前の晩に急遽決めたとのこと。前日9日に看板を注文、それをかけ、図書室・室内を整え、大忙しの一日だったようです。
 10月10日に閘北区教育局の「社区教育」報告を聞いた後、院長や党書記、関係者の立会いのもと、会議室で「小林国際交流閲覧室」除幕式が行われました。また小林先生が新社区大学・行健職業学院客員教授と図書館名誉館長として迎えられ、その招聘状の授与式も同時にありました。
 同行の先生方から「よかった、よかった」と言われながらも、あまりにも急なことで、小林先生はまだ少し腑に落ちない様子。…「生米作成熟飯」(生米のままご飯になってしまった)。話は徐々にどのような閲覧室にするかへ移り、先生からは、社会教育、法制関連の本を送るとか、羅さんからはノートパソコンを購入し、そこで学生が世界とくに日本の最新情報を手に入れられるようにするとか、さまざまな案が面白く出されました。その中で、日本の音楽をバックに、川崎や東京・大阪、沖縄など自治体の社会教育関連の資料を置いてはどうか、という話も出ました。
 蘇州から上海へ帰る途中、行健学院は社区の学校として会議室や図書館を地域に開放するのだから、この「国際交流閲覧室」も地域社会に開放し、そこへいけば日本の地域・社会教育情報が閲覧し交流できるようなところにしようと、構想はさらにふくらんでいきました。…
 さらに、図書館長から来年はぜひ社区教育祭りの一環として、図書館で講演をしてほしいと言われました。どうも10日の先生の学生たちへのスピーチが大変好評で、学生記者による報道により教師たちからも「知っていれば聴きに行きたかった」と言われたそうです。(以下、略)


■8 東アジア社会教育・生涯学習の躍動−この10年
   *『東アジア社会教育研究』第10号巻頭言(2005年)
 … 毎年、九一八の日を期して発行が重ねられ、いまここに待望の第10号を完成させることができた。
 沖縄社会教育研究から30年、東アジア社会教育研究から10年。これまでの歩みを振り返り、ようやくここまでたどりつくことができたか、という感慨ひとしおである。この間ご支援をいただき、ご協力をたまわった皆様に、まずは心からの御礼を申しあげたい。この場をかりて、苦労をともにしてきた研究会同人、とりわけ本年報編集委員会、同事務局の皆さんに深く感謝したい。
 本『研究』創刊当初は、何号まで継続できるか、まったく自信がなく、「いわゆる3号雑誌におわらないように」などと話しあった経過もある(第3号・巻頭言)。10号までの刊行を持続できたことの背景には、“東アジア”という新しい舞台と、そこにおける社会教育・成人教育・生涯教育の現代的な潮流、その新しい展開があったからである。私たちのこの10年は、おそらく後々までも記憶されるであろう“東アジア”社会教育の“激動の10年”と重なっている。 …(中略)…
 さて、本号は10号記念号として、やや長めの <巻頭言>となることをお許しいただきたい。東アジア・社会教育における“10年の激動”とはどういうことであろうか。10号の歩みを総括的に振り返りながら、いくつか歴史的な特徴を取りあげておこう。
 第一は、言うまでもなく旧来の社会教育の流れに加えて、新しく生涯教育(生涯学習)に関わる具体的な施策が胎動し始めたことであろう。…(略)
 第二は、この10年は、生涯教育・学習についての積極的な法制化への挑戦がみられた。…(略)
 第三は、1990年代の、とくにその後半における東アジア各国・地域における地方自治・分権の新しい躍動がみられた。…(略)
 第四は、自治・分権の潮流とも関連して、「社区」(コミュニティ)の視点にたった活動・学習が展開されてきたことである。いわば地域主義的な社会教育・生涯学習の実践は、これまでにない住民活動、市民運動、地域づくり、ボランテイア活動、NPO運動等と連動する側面をもたらしている。…(略)
 私たちの研究会活動と年報刊行は、このような東アジア社会教育・生涯学習をめぐる“10年の激動”を背景とし、その動向を追いかけ、歴史的な意義を確かめる作業をしてきた思いでる。重要な研究テーマと出会うことが出来、私たちのこの10年は、たいへん幸せであった。
 この間には、関連して『おきなわの社会教育−自治・文化・地域おこし』(小林・島袋正敏編、エイデル研究所、2002年)、『現代社区教育の展望』(小林・末本誠・呉遵民編、中国語版、上海教育出版社、2003年)を上梓する機会に恵まれ、いままた『韓国の社会教育・生涯学習』(黄宗建・小林・伊藤長和編、近刊予定)の企画が進行中である。これらも10号にいたる編集・刊行とそこで育くまれてきた研究ネットワーク(定例研究会110 回を含む)に支えられてきたところが大であった。いまだ充分な結実には至らないが、幾つかの成果を生み出してきたと考えている。…(以下、略)…


■9 南の風2000号のご挨拶(2008年3月8日)
 この一文を書く日を夢見てきました。1998年2月に吹き始めた風、十年と一ヶ月で到達した2000号。いろんなことを思い出します。
 五年目の1000号のとき、あのころ併行して出していた「公民館の風」を休刊し、「南」だけにしぼって沖縄・東アジアの交流空間づくりの新たな一歩を踏み出すか、などと相談した夜。横にいた誰かが「2000号まで頑張れ!」と挑発したことを思い出しています。とてもそこまでは無理だ、というのが正直な気持ちでしたが、なんとか体も頭?も持ち堪えて、ここまで吹き続けることができました。
 最初から参加していただいた方々は、なんと十年の、しかも1日おきのお付き合い。よくぞ辛抱してくださった。迷惑メールの氾濫が始まって以来、何度も「風」を止めようと思いました。しかし皆さんの期待と激励、いや寛容と忍耐、に助けられて今日を迎えました。これまでのご愛顧に心から感謝しています。有り難うございました。
 これから「風」をどう吹くか。いまだに、考えが定まりませんが、まずは休刊にすることをお許し下さい。とくに、最近新しく参加された方々、この間、「風」を継続するよう激励していただいた方々(そのたくさんのメールを「風」に載せる号数がなく、残念!)、皆様のご期待に直ちに応えることができず、申しわけありません。
 しかし、1997号「これからの風をどうする?」にも書いたように、いくつも課題があることは確か。新しくやりたいこともないわけではない。ここで書くと、妙な決意表明みたいになってしまいますから、控えておきます。ちょっと立ちどまって、ひと休み。ゆっくりと次のステップを考えてみます。風として継続していくか、別のかたちか、1週間後か半年後か、まだ分かりません。
 好きな歌の一節、♪… 結婚は白い雲、これから〜どんな空を飛んでいくのか、それは成り行き風まかせ〜♪の気分。
 継続して、多少なりとも期待していただける方は、その旨のメールをお寄せいただければ幸いです。ゆっくりと、新しい配信アドレス・リストをつくることにします。
 いつもの調子、最後のご挨拶もまた長くなってしまいました。ここでお別れする皆様には、あらためて感謝申し上げ、ご健勝をお祈りします。


■10 小さな研究活動の"大きな志"
  *「東アジアにおける社会教育・生涯学習研究交流の新しい地平」
                    −TOAFAECの活動を通して−(抄) 
                    『東アジア社会教育研究』第16号(2011)所収
 … 研究通信「南の風」は、…もともとは小林の沖縄(南)研究の活性化を呼びかけたメイル通信から始まったものであるが、創刊時からTOAFAECの広報機能を積極的に担ってきた。毎年平均200号を配信、この13年余の歳月に2700号を数えている。当初は沖縄研究の同人誌的な通信に止まっていたが、数年の間に留学生を窓口に次第に東アジアへネットを拡げ、台湾、上海、北京、広州、烟台など、さらに韓国、最近は福建省へも拡がっていった。日中韓・三国フォーラム(2010年11月)や東日本大震災(2011年3月・別稿)など関連情報が集中するときは、ほとんど連日の「風」が(日本国内だけでなく)東アジア各地に配信された。ただし日本語版のみ、いまだ東アジア各都市の"点"を結ぶ段階であって、線や面の拡がりにはなっていない。国境を越えて社会教育・生涯学習の関連情報を共有していく速報的な役割は果たしているといえようか。
 発行リストは目次一覧のかたちで「東アジア社会教育研究」第3号(1998年)
以降の各号末尾に記載されている。
 あらためてTOAFAECとしての東アジア・研究交流活動を振り返ってみると、次の五つの柱をあげることができる。この五つは特に規約や綱領の類に明記されたものではなく、15年余の実際の活動軌跡、その曲折の歩み・実録を整理したものである。あえて実現に至らなかった学校経営への挑戦も含めている。小さな団体の"大きな志"、ささやかな取り組みと歳月による思わぬ蓄積と言えようか。詳細資料は、すべてTOAFAEC ホームページに掲載している。→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/toafaec.htm
(1) 日常活動としての定例研究会(原則として毎月開催−2011年8月まで175回を数える)、各種の集い(沖縄を語る会、対談・シンポジウム、歓迎・送別会など)
(2) フィールド調査(韓国、上海、沖縄など)、訪問活動、訪日団受け入れ等の親善活動
(3) 研究通信「南の風」発行 *ただし小林・個人通信の側面を併せもつ。
(4) 出版活動−A,年報「東アジア社会教育研究」、B,書籍出版(略)
(5) 学校経営の模索(上海・閘北区<旧>業余大学との合作学院の構想)顛末 
  →■http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/gassaku1997.htm
*注(略)


年報「東アジア社会教育研究」第20号(2015年):
 巻頭言:TOAFAEC 20年の歳月−いくつかの回想 →■




3、TOAFAEC・20年回想U (2001〜20115年)