(1)東アジア・社会教育・生涯学習・研究    
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<本ページ・目次 (1)>
A,東アジア社会教育・生涯学習研究  
1,東アジアの社会教育・成人教育法制(東京学芸大学社会教育研究室 1993年)
  (1)まえがき
  (2)東アジアの社会教育・成人教育法制−総論的に
2,東アジアにおける社会教育の概念と法制
             (日本社会教育学会年報第40集 1996年)
3,東アジアにおける識字教育運動の研究・交流・協力
   (韓国文解教育協会講演、1999年)
       TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第4号、(1999年)
  *関連報告:韓国・文解(識字)教育運動が問いかけるもの」
   
韓国社会教育研究会『99韓国訪問報告書』(東京学芸大学、1999年)
4,
5,東アジアの社会教育・生涯学習−解題
        
(『社会教育・生涯学習ハンドブック』第8版、2011年)
,東アジアにおける社会教育・生涯学習研究交流の新しい地平・総論
   TOAFAECの活動を通して 『東アジア社会教育研究』第16号(2011) 所収
7,
東アジアにおける社会教育・生涯学習の最近動向から見えてくるもの
   −専門職制度と市民の関わりについて、いくつかの課題−
   TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第17号(2012) 所収
8,
東アジア・生涯学習における自治と共同(座談会)
  TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第18号(2013) 所収
9,東アジア・教育改革20年−1990年代からの躍動(総論)
  
TOAFAEC年報『東アジア社会教育研究』第22号(2017) 所収


*(2)東アジアフォ−ラム:2019年以降(10〜)→■

*13, 年報27号(2022)巻頭言:東アジアの社会教育・生涯学習50年→■



識字・夜間中学・文解教育研究
C, TOAFAEC『東アジア社会教育研究巻頭言
        
1(1995年)〜10 (2005年)号・巻頭言→ 別ページ →■
               
12号(2007年)編集後記
D,
留学生との出会いと交流−この20年、上海への道 →■
           日中教育研究交流会議「研究年報」第14号
E,東京学芸大学小林研究室・留学生特別ゼミ記録(1989〜1995)→■
                    
アジア・フオ−ラム
F,台湾の生涯学習・社区営造の動き(1998〜2007)→■


《降順》

A,東アジア社会教育・生涯学習研究  

1,『東アジアの社会教育・成人教育法制』
   
(発行・東京学芸大学社会教育研究室 1993年12月)

(1) まえがき
 本資料集は、中国・韓国・台湾を中心とする東アジアの社会教育・成人教育に関する法制を調査・資料収集し、その主要部分を日本語訳したものである。シンガポ−ル、タイ、そしてネパ−ルについても関連する法制・関連資料を収録した。あわせて紙数のゆるす範囲で簡潔に解説、年表等を加えた。
 私たちの社会教育研究室では、1980年代に入って東アジアからの留学生が少しづつ増えてきた。他講座の留学生たちもよく出入りするようになり、研究室はいつも賑やかであった。82年秋からは、研究室内で定例の中国語学習会(毎週火曜日夜)が始まり、また89年秋からは留学生特別ゼミ(愛称「アジア・フォ−ラム」、原則として火曜日午後)が自主的に開かれるようになった。92年にはこれにハングル学習会も加わり、まさにアジアの風がいつも吹いているような研究室に変わっていった。ある年はカイロ大学卒の留学生もいて、研究室の有志でエジプトを訪問したり、また中国はもちろん韓国にも台湾にも旅をしてきた。中国語学習会とアジア・フォ−ラムの二つの研究会は学外からの参加者も加わって、いまでも休むことなく続いている。
 私たちは、これら留学生を迎えて、多くのことを学んできた。それぞれの国の個別の事がらについてはもちろんであるが、総体的にいえば、社会教育における“アジアの発見”“アジアからの視点”といったものを学ぶことが出来たように思う。そしてあと一つは、国をこえて、院生・研究生の枠や講座の壁もこえて、ともに若き研究者として学習集団をつくり、議論し協同し、お互いの友情を育てあう姿勢を学ぶことができた。
 アジア・フォ−ラムでは、日本で刊行される(アジアについての)政治、教育、文化等の文献資料を読みあうことが中心課題であったが、留学生それぞれの国や郷土の社会教育・成人教育の状況を報告しあうことがあと一つの重要な内容となってきた。その過程で私たちは東アジアの社会教育・成人教育の法や制度を共通の研究課題とし、また研究資料として共有しあう必要を痛感してきた。日本人メンバ−としても、たとえばヨ−ロッパに関する知見と比べて、なんとアジアのことに無知であるかを反省させられることがしばしばであった。
 1993年度の大学院「社会教育施設研究」演習(小林ゼミ)は『公民館史資料集成』(エイデル研究所刊、1986年)がテキストであった。そして日本の公民館の歴史をたどりながら“アジアの視点”を加えつつ、社会教育施設論を深めようというテ−マに取り組むことになった。ゼミが進行していくうちに、思いきって「アジアの社会教育・成人教育法制」の資料集をつくろうではないか、ということになった。昨年度に研究室で取り組んだ「東京の識字実践」調査・刊行の経験がひそかな自信になっていたのかも知れない。本資料集はその意味では今年度ゼミの副産物−主産物というべきか−として作成されたことになる。 なかなか大変な作業であった。研究室に所属する留学生(院生・研究生)はそれぞれの出身ごとにグル−プをつくり、資料の日本語訳を担当した。日本人メンバ−もすべていずれかのグル−プに張りついて、相互協力の読み合せが進められた。「法制」研究についてはみな素人だ。手づくりの作業は遅々として進まない。「三人寄れば文殊の知恵」のたとえが唯一?の心の支え。学部所属の留学生1人、他講座の院生2人の協力もあり、また研究室出身の先輩諸氏の応援も求めた。(巻末・訳者協力者一覧・参照)  
 準備期間を経て、実際の作業は1993年8月から10月にかけて行なわれた。数少ない先行研究を参考にしつつ、紆余曲折の日本語への訳出にはゼミの総力をあげる形となった。しかし、国や制度が違うのだから当然のことではあるが、それぞれ固有の法制用語をどのような日本語に置き換えるか、難問の連続であった。一応の訳出は試みたが、多くの課題が残されている。
 まずはここに、私たちの挑戦の軌跡を記録として本資料集にまとめることとし、今後さらに専門研究者のご批正、ご教示をまって、さらに充実したものに仕上げていきたい。本資料集に収録できなかった国や資料もあり、できれば次年度に第2集(続編)の刊行を実現したいと考えている。
          東京学芸大学・社会教育研究室・小林ゼミ  1993年11月15日

〈凡例〉

1,本資料集は、1993年現在、それぞれの国・地域において、社会教育関係の実定法として 機能している法律・条例等を基本資料として収録した。一部に歴史資料(例えば韓国・社会教育法の改正経過)や、立法中の法案(台湾・成人教育法案)等も含んでいる。
2,図書館・博物館に関する法制(日本では社会教育法制)は今回は除外した。他方、文化 施設(例、中国の文化宮・文化館など、成人教育の系統に含まれず)も除外した。
3,中国の場合、「社会教育法」は存在しないが、関連して重要と考えられる規定・決定・意見等の成人教育法制を掲げた。また国家レベルだけでなく、主要都市の法制資料を収録したが、国レベルおよび都市間相互の重複をさけて、それぞれ代表的なものにしぼった。たとえば「職工教育条例」は、北京・天津・広州の各都市にも関連規定が設けられているが、もっとも早い上海市(1988年)の条例を掲げ、「社会力量弁学管理条例」については全国のモデル的位置にある広州市の場合を取り上げた、という如くである。
4,台湾については、解説等のなかで固有名詞として「中華民国」を使用しているところがある。また地方社会教育法制として「台湾省立社会教育館規程」を収録した。
5,韓国の場合、国家法制とともに地方法制として「慶尚南道社会教育協議会設置条例」を収録した。
6,ネパ−ル及びシンガポ−ルについては、「社会教育(成人教育)法」そのものは成立していないが、関連す法制・計画を収録した。タイについては、法制資料を収集するに至らなかったが、ノン・フォ−マル教育の展開に関するレポ−トを収録した。
7,とくにネパ−ルを「東アジア」に含めたのは、研究室の中にネパ−ルへの熱烈な研究関心を抱くメンバ−(吉田香代子)がいたことによる。
8,法制資料の各項目は、本文の前に「日付・公布機関・番号」を、本文の後に「訳者名」ならびに必要な場合に引用(参照)文献名を記した。
9,収録資料は、原文を尊重しつつ、すべて日本語に訳出したが、原文固有の用語が直ちに日本語訳になじまない場合、初出の箇所に[ ]により相当する日本語を訳者・注として付した。なお「文盲」は「非識字(者)」、「掃盲」は「識字(事業)」と訳した。また 「社会力量」は「民間活力」に近い概念であろうが、同「管理条例」(広州市)第2条の定義によることとし、とくに[ ]は付さなかった。「弁学」は「学校経営」と訳している。なお本文中の( )は訳者注ではなく、本文のままである。
10,それぞれの国・地域の面積、人口などの出典は、『国際連合世界人口年鑑・1990』vol42(1992 原書房)による(台湾のみ『時事年鑑1993』時事通信社)。


(2) 東アジアの社会教育・成人教育法制−総論的に
1 はじめに−四つの社会教育法
 それぞれの国は、どの時点で、またどのような経過で、近代的・公共的な教育制度を整備していくのだろうか。教育制度の骨格は、いうまでもなく学校教育制度であるが、それと複雑に関連しつつ、どのように社会教育あるいは成人教育の制度が形成されてくるのであろうか。それぞれの国に固有の歴史があり、独自の展開がみられるはずである。
 日本では1870年代に義務教育制度の設置が始まり、その整備過程において、学校制度にすこし遅れながら、社会教育(当初は通俗教育と呼ばれた)の制度が形づくられてきた。しかしそれは国家主導による権力的・教化的あるいは軍国主義的な性格のつよい戦前・日本型ともいうべき「社会教育」の歴史であった。制度の基礎となる法制にしても、第2次世界大戦の終結(1945年)までは、いわゆる勅令主義の形態であって、議会制民主主義による社会教育法制は成立しなかった。
 戦後の教育改革は、それまでの国家主義的な社会教育の反省にたち、少なくとも方向としては新しい(実態はさまざま古い部分を残しつつ)近代的な社会教育の体制を出発させた。それは、理念的には教育に関する権利の思想−当然に社会教育を含む−であり、制度的には法律主義に基づく社会教育の立法・行政の整備であった、と言えようう。日本国憲法・教育基本法制の成立により、教育基本法(1947年)のなかに社会教育(第7条)が明確に規定され、それに基づいて社会教育法(1949年)、図書館法(1950年)、さらに博物館法(1951年)などの一連の法制が整備された。
 それからすでに半世紀ちかくが経過したことになる。この間に法制は屈折を含みつつ地域に定着し、矛盾を内包しつつ自治体に展開し、いわば戦後・日本型の新しい地域社会教育の骨格・体質が形成されてきたのである。
 それと同時に戦後日本史のなかでは、アメリカ占領下の沖縄において、琉球政府・社会教育法(1953年)が運動的に立法され、約20年の命脈をたどった歴史を見逃すことはできない。日本はこの間に、少なくとも実定法としての社会教育法を二つもっていたことになる。
 私たちの研究室では、日本の社会教育法制・公民館制度研究から、南の沖縄・社会教育法制の研究へ関心をひろげ、調査そして資料集刊行の作業を開始してすでに15年余が経過している(研究経過については巻末別稿・上野論文を参照のこと)。そして教育基本法とともに「海を越えた」琉球・社会教育法のスト−リ−は、私たちの視座を大きくひろげ、研究関心はさらに“海を越えて”いつのまにかアジアの社会教育法制の問題に拡大していった。
 沖縄からさらに南へ、そして西へ、目をアジアに転じてみると、直ちに台湾の社会教育法(1953年)と出会うことができた。そして韓国については実際に朴政権後の社会教育法立法運動(1980〜2年)の経過にも直接ふれる機会があった。現時点において、東アジア には少なくとも三つの社会教育法が機能し、歴史的には琉球政府下の立法運動を含めて、四つの「社会教育法」が存在してきたことになる。
 これら「社会教育法」はどのような相互関連をもっているのであろうか。また社会教育法以外に、東アジアにはどのような成人教育やノンフォ−マル・エデュケイションの制度が動いているのであろうか。そのいわばアジア的な特徴といったものはいかなるものであろうか。これらの興味つきない研究課題に挑戦していくためにも、まず事実を知らなければならない。まず社会教育法を軸として、東アジアの成人教育やノンフォ−マル・エデュケイションの法制を含めて基礎的な資料集を作ろう、というのが本号編集の主要な動機であった。

2,社会教育におけるアジア・モデルの模索
 これまで私たちは、日本の「社会教育」研究にあたって、主として近代ヨ−ロッパの成人教育あるいは継続教育との比較において、その特質・体質を解析しようとする傾向があった。いわばヨ−ロッパ・モデルに対して日本・モデルの特性を明らかにしようとする発想である。この研究手法によって、例えば社会教育の官府的性格、団体主義、職業訓練・大学開放との遊離、農村的性格、などの日本的特質を知ることができた。「社会教育」という概念自体が、特殊日本的なもの、国際的にみても普遍的なものではない、と説明されてきた。それらはたしかに事実であろう。
 しかし他方において、日本の社会教育が、典型としてのヨ−ロッパ・モデルとは異質であることは当然としても、日本的な近代化過程のなかで日本独自の歴史内在的な展開をとげてきたこと、その固有の側面をもってきたことを見落としてはならないと思う。またこの日本型の社会教育は、国際的には特殊日本的なものとして、いわば閉鎖的な位置において捉えてきた傾向が強いが、しかし東アジアの国々に視野をひろげてみると、戦前の植民地支配における痛苦の歴史を含めて、複雑に錯綜した国際的な関係をもってきたことに気付かされる。その意味で、日本の社会教育についてのこれまでの類型的把握、通念的理解を一度検討し直し、とくにアジアの視点からその歴史と制度をとらえなおしてみる必要が痛感されるのである。
 ヨ−ロッパ・モデルに加えて、アジア・モデルという視点から、日本の社会教育をとらえ直してみると、何が見えてくるのだろう。日本の社会教育の特質もあと一つ違った側面をもって現われてくるのではないだろうか。もちろんアジア・モデルとは何かが問われなければならないが、少なくとも国際的な比較を多元化する視点をもつこと、ヨ−ロッパ・モデルとは異なるアジア的な何かを模索していく課題に挑戦してみること、は大事なことではないだろうかと考えてきた。
 日本の社会教育のヨ−ロッパ比較からすれば負の側面も、見方をかえてみれば、別の意味をもちはじめるのかもしれない。たとえば「官府的性格」といわれてきた体質は、戦後教育改革と社会教育法のもとで、その統制的側面を克服しつつ、自治体行政の積極的役割あるいは公共的条件整備の任務を一定程度実現してきた、その歴史要因ということはできないだろうか。あるいは日本社会教育の「団体主義」「農村的性格」については、たしかに都市労働運動との関連を歴史的に創出しえなかった背景なのだろろうが、他方では、そこに日本社会教育の特徴である地域レベルの社会教育活動、集落の住民自治活動、あるいは地域の文化・芸能との結びつきなど、を生み出した社会的要因とみることはできないだろうか。その中心施設として公民館の制度が定着してきた、とする見方も可能なのではないか。
 「社会教育」概念のもつ学校教育制度との分離(以外)性、職業技術教育との遊離性、そしてその“ごった煮”的あいまい性、などの問題点の指摘はたしかに正鵠を得ていると言えよう。しかし他面、その地域性(コミュニティ・エデュケイション、子どもの地域活動を含めて)、あいまい性の反面としての多面性(スポ−ツ・レクレ−ション活動をも含む)、文化的活動・施設(図書館、博物館等を含む)との関連性、などのもつある種の積極的な可能性の側面をみる視点もあり得よう。
 このような日本の社会教育の概念・領域・体質は、東アジアの社会教育とどのような関係にあるのか、とりわけ韓国および台湾の社会教育との関連をどのように見ることができるか、探求に値する興味深いテ−マであろう。もちろん日本の社会教育と韓国あるいは台湾の社会教育とは同一である筈はない。しかし法制的には「社会教育法」という用語を互いに共有していること、そこからくる相対的な近似性、制度的な類似性はやはり否定しがたい何かがある。三つの社会教育法が歴史的に登場してくる経過はどのようなものか、それぞれの固有の展開を明らかにしつつ、同時にそれらの相互関連をどのようにたどることができるか。戦前・日本の韓国および台湾への植民地支配の歴史もまたその背景として無関係ではないであろう。そのことを含めて、私たちは東アジアの「社会教育」の相互関連性、その歴史的な特質、あるいはアジア・モデル的な何か、を明らかにすべき地点に立たされているように思うのである。

3,「社会教育」概念と法制の形成史
 いま私たちは“海を越えて”事実を確かめあう必要がある。まず日本と韓国および中国ないし台湾について、当面いま分かる範囲で「社会教育」概念・制度の歩みを、研究覚え書き風に、いくつかのポイントについて簡潔に振り返っておくことにしよう。

1,公共的な制度概念として「社会教育」が登場するのは、辛亥革命をへて「中華民国」が成立しその「教育部官制」として「社会教育司」が設置される(1912年)のが最初であった。日本・文部省において通俗教育が「社会教育」と改称され(1921年)、さらに社会教育課が設置される(1924年)のは、その後10年余りを経過してからである。
 しかし日本においては山名次郎『社会教育論』(1890年)以降から明治末期にかけて、すでに学術文化面では「社会教育」概念が多用されていたと考えられる。清朝末期にあたるこの時期は、日中両国間において「年間1万人をこえる留学生が来日した」「600人をこ える日本人教習が中国に招かれて各地で教鞭をとった」と伝えられる「黄金の10年」(阿部洋『中国の近代教育と明治日本』1990)であって、このことは「社会教育」概念の日中相互交流にどのように関係しているのだろうか。

2,当時「中華民国」の成立以降、地方の社会教育行政組織が整備される一方で、「通俗教育」、さらに「平民教育」あるいは「民衆教育」の用語も並行して使われている。施設としては「通俗教育講演所」(1915年)や「民衆教育館」(1927年)の設立が始まり、「民衆教育館暫行規程」(1928年)も公布されている(横山宏「中国における社会教育施設」1965年)。1936年当時、民衆教育館は1612館、職員数7054人を数えた。さらにその後、日中戦争下においてすでに「社会教育法草案」(1942年)が作られたと伝えられる(葉淑幸「中華民国の社会教育法」1981年)。その後第二次世界大戦を経て「中華民国」は台湾に移動し(1949年)、1953年には「社会教育法」が制定されている。これと戦中「草案」との関係あるいは53年法の成立に至る立法過程についてこの間資料探索中であるが、詳細は未だ明らかではなく、課題として残されている。

3,韓国の社会教育法立法の動きは1950年代後半から始まり、1952年には最初の「法案」が作成されている。この法案は「当時制定されてまだ三年しか経っていない日本の社会教育法を参照して作成された」とされる(倉内史郎「韓国社会教育法の性格について」1988年)。それからほぼ30年を経過して、1982年にようやく社会教育法が成立・施行された。この間に「社会教育法(案)修正試案」の策定は15次を数えている。現行・社会教育法は、朴政権後一時期の民主化時代、1980年に積極的な立法研究がすすみ、第11次−15次案が策定されたが、成案についての関係当局の合意必ずしも成らず、曲折をへて翌1981年立法発議、さらにその翌年に国会を通過したものである。この過程で筆者は1980年2月、古都・扶余で開かれた韓国社会教育協会専門家会議に招聘を受けて参加し、日本・社会教育法についての講演と資料提供を行なった(小林「韓国・社会教育への旅−1982〜1992・社会教育法10年」1992年)。最初の試案から15次に至る30年間の修正そして曲折の道程をどうみることができるか、また法成立後10年の普及・定着過程はどのような展開をしめしているか、日本の社会教育法の経過との対比において興味深い問題である。

4,いうまでもなく日本の社会教育法の成立は1949年であり、それが奄美(奄美群島政府「社会教育条例」1951年)を経て、沖縄(琉球政府「社会教育法」1953年)へ伝わる。もちろん伝播の過程で、その内容・構成は変容していくが、その骨格は同一である。とくに琉球政府「社会教育法」においては、アメリカ占領下の民衆支配に抗しながら民族主義的な「教育四法民立法運動」のなかで制定された点が特徴的である(小林・平良編『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究』1988)。この点は、巻末・上野論文を参照のこと。

5,日本・社会教育法制定当時はアメリカ占領下にあり、東西対立を背景とする国際的政治状況下、アメリカ占領政策(反共民主化路線)に拘束されるかたちで社会教育法は立法された。日本だけではない。第二次世界大戦終結後から1950年代は韓国もまた類似の−朝鮮戦争と南北分離などを考えればむしろより緊迫した−状況にあり、同じく台湾の場合もアメリカと密接な政治的同盟関係にあった。とすれば日・韓・台の三つの社会教育法の立法過程は、それぞれの状況の違いはあるにしても、ある程度共通して当時のアメリカ極東戦略とその文化政策・成人教育政策の枠組に強く規定されていた、という見方も可能かもしれない。アメリカ側政策と日・韓・台それぞれの社会教育立法はどのような相互規定・関連をもってきたのであろうか。
 戦後沖縄の社会教育研究で明らかなことであるが、当時のアメリカ極東戦略による文化政策ないし成人教育施策の展開は、占領統治機構を通してのいわば間接的なものと直接的なアメリカ文化政策の注入(例「琉米文化会館」)の二つの流れがあった(小林「戦後沖縄・アメリカ占領下の社会教育」1986年)。これらアメリカによる政策としての「成人教育」の枠組がそのまま三つの社会教育法制に具体化したわけではないことは結果的に明らかであるが、矛盾や抵抗の関係を含めて、それらの相互規定・関連の具体的な事実をさらに掘り起こす作業が残されている。

6,社会教育に関連する法制については、日・韓・台のいずれも図書館・博物館等の文化的諸施設を社会教育法制の中に含んでいる(これら法制の詳細は本資料集では省略)点において共通し、他方、職業訓練・技術教育の分野をほとんど含んでいない点において共通している。日本・社会教育法制では、教育基本法(第7条)社会教育法(第5条8号)においてわずかに「勤労の場所」「職業教育」についての規定があり、あるいは台湾・社会教育法では「技術訓練」(第2条9号)成人教育法案では「職業技能訓練」「知識提供」(第3条)など見受けられるが、その下位法はなく積極的な制度として内包されるに至らなかった。この点は、中華人民共和国の成人教育法制が、むしろ職業教育・訓練についての制度化を主要な内容としていることと対照的な差異を見せている。

7,同じく関連する法制として、韓国も台湾も大戦後の重要な課題として成人「非識字」克服のため基礎教育ないしは識字教育の制度を積極的に整備してきたことが注目される。韓国の場合、社会教育法に先立って、「初等教育を受けず学齢を超過した者または一般人に国民生活に必要な普通教育と公民的な社会教育・職業教育を実施する」ことを目的として「公民学校」「高等公民学校」が設置されてきた(教育法・第8節・1949年)。台湾の場合、同じく「失学民衆」「補習教育」にたいする取組みは、「補習学校法」(1944年)を経て、「補習教育法」(1976年)として具体化され、「凡て学齢を越え、未だに九ヵ年国民教育を受けていない国民には国民補習教育を与える」と規定している(同第3条)。また新しく構想されている「成人教育法案」でも、成人教育の範囲として「成人基本教育」を第一に掲げ(同第4条1号)、これをを強化する五ヵ年計画も実施されている。非識字民衆にたいする基礎教育については、同じく中華人民共和国においても、1949年建国以来の重要な課題となってきた。
 日本の学校教育・社会教育の法制には、これに類するものは見当らないが(いわゆる夜間中学も国家公認の制度ではない)、日本を含めて東アジアにおける失学・非識字民衆の存在は、戦前の植民地支配と日中戦争・太平洋戦争のもたらした惨禍の一つであり、単に他国の問題として済まされることではない。

8,1990年代に入って、日本・韓国・台湾のいずれも、それぞれの課題意識をもってこれまでの社会教育法制を再検討し、新しい法制への模索を行なっていると見ることができよう。日本では多くの問題をかかえて「生涯学習振興整備法」(1990年)が施行された。台湾では「成人教育法案」が成人教育発展五ヵ年計画とともに構想されている。また韓国でも現行・社会教育法の課題を明らかにしつつ、「平生(生涯)教育」(大韓民国憲法第31条)の振興を展望する新しい法制のあり方が論議されている(李宗満「韓国の平生教育関係法規体系」1992)。
 いずれも、それぞれの経済発展と労働力開発の課題、社会の成熟化・高齢化等の問題、国際的には生涯教育や識字教育の思想潮流、あるいは公共的な行政再編の要請など、諸要因の錯綜する状況のなかで模索が進められていると考えられる。21世紀に向けて、これら社会教育法制は共通して一つの大きな転換点にあることは確かなことでろう。

4 東アジアの社会教育・成人教育の系譜
 私たちは、いま仮設的に、東アジアの社会教育・成人教育とその法制に関して、4つの系譜に分けることが出来るのではないかと考えている。その視点にたって本資料集の編集も進められた。
 第1の系譜は、個別的には大きな差異を含みながらも、少なくとも制度的に「社会教育法」を共有し、相対的にではあるが類似の制度をそれぞれの歴史のなかで展開させてきた日本・韓国および台湾のグル−プである。その主要な特徴と相互関連については、前節で述べたきた通りである。
 第2は、中華人民共和国にみられる社会主義国の「成人教育」法制である。中国でも成人教育の概念と関連して「社会教育」の用語が使われている場合もあるが、それは第1グル−プの社会教育の概念と自ずから意味を異にする。中国・国家教育委員会「成人教育の改革と発展に関する決定」(1987年)によれば、「社会主義建設の新しい局面」においてとくに「多方面にわたる大量の人材」養成のため「成人教育」が重要であり、幹部教育・職工(労働者)教育・農民教育さらには識字教育等の改革・発展の課題が示さている。その「主要な任務」は、?在職者(労働者、農民、幹部、技術者など)への職業訓練、?初等・中等教育をうけていない者への基礎教育、?中等・高等教育レベルの知識・専門教育、?高等教育をうけた者への社会の急速な発展に対応する継続教育、5余暇・生活向上にかんする教育、とされている。
 「成人教育」の重点はなによりも「在職訓練」におかれている。その場合、成人教育は主要には学校的形態によって展開され、成人職工学校、農民文化技術学校、成人大学(幹部学院、職工大学、農民大学、業余大学など)あるいは放送・通信大学などが設置され、正規の学校教育体系(「学歴教育」)との有機的な連関も求められている。それに加えて最近の改革・開放政策のもと社会主義市場経済の導入にともなって、民間レベルの各種・専門学校経営(「社会力量弁学」)が積極的に唱道されている。 
 他方において、地域の学習・文化・スポ−ツ諸活動あるいは図書館・博物館ないしは文化館・文化站などの諸施設は「文化」行政の系列に属し、関連はもちつつも「成人教育」系統に位置ずけられているわけではない。
 第3は、近世・近代において欧米諸国による植民地支配の歴史を経緯した香港・シンガポ−ル・マカオなどの成人教育・職業訓練の系譜である。仮設としては、そこにはその地域本来の土着的な条件と、宗主国の政治支配のもとで導入されたヨ−ロッパ的(その意味での近代的)な教育制度ないし成人教育法制と、植民地支配から離脱した(離脱するであろう)後の独自な制度改革、という三つの要因が複雑に織りなされていると言えよう。
 たとえば本資料集に収録したシンガポ−ルの場合、1963年のイギリスからの独立以前から「成人教育局」が設置されていたが、独立後「工業訓練局」と合併された経過がある。現在シンガポ−ルには「成人教育」に関する独自の法制はないが、内容的にこれと関連するものに職業工業訓練局法(1979年)があり、同・第2条(定義)「継続教育」のなかに「成人教育」が含まれている。あと一つ関連する法制は人民協会法(1960年)であるが、そこでは人民協会(People's Association)の任務としてコミュニティ・エデュケイションやコミュニティ・センタ−のことが掲げられている。「成人教育」や「人民協会」の詳しい活動実態をさらに調査研究する必要があるが、全体的にみてこれらにはイギリス成人教育の影響と、多民族国家・シンガポ−ルとしての職業訓練やコミュニティ活動に関する法制の整備を見いだすことができるように思われる。
 第4は、近代学校教育(フォ−マル教育)制度の普及と対応しつつ、学校教育以外の形態によるノン・フォ−マル教育としての制度・活動の系譜である。本資料集ではネパ−ルとタイについての状況を収録した。
 タイの場合、歴史的には非識字者にたいする識字政策と、成人の職業・技能訓練が重要な課題として取り組まれ、成人教育の行政組織や成人訓練センタ−などの施設が設置されてきたが、とくに1975年以降には、これらは名称もノン・フォ−マル教育局、ノン・フォ−マル教育センタ−と改められ、積極的なプログロムを展開しつつあるという。その具体的な内容として、?機能的識字教育、?(学校教育の)補習教育、?成人職業技能訓練、?読書情報サ−ビス、の柱で推進されている。ノン・フォ−マル教育施設としては、成人学習センタ−、農村読書センタ−、公共図書館、教育博物館、水族館、植物園、科学技術センタ−などがあり、日本の「社会教育」の領域と共通するところがある。

 もちろん以上の整理はあくまで仮設的なものである。課題は多く残されている。第1の「社会教育」法制の相互関連についてはさらに問題を深める必要があり、第2の社会主義国の形態も国によって一様でないことは当然であり、また第3の植民地支配の歴史もさまざまであろうし、第4のノン・フォ−マル教育についても国によってまさに多様な展開を示している筈である。
 そのなかで日本の社会教育とその法制はどのような位置と特質をもっているのか、東アジアの視点から新たに多元的な比較論を考えてみる価値はあるように思われる。今後さらに継続して調査研究をすすめ課題を追求していきたい。




日本社会教育学会・年報第40集『現代社会教育の理念と法制』(1996年)
2,東アジアにおける社会教育の概念と法制
               ー三つの社会教育法を中心にー          
                       
 はじめにー東アジアからの視点
 最近、生涯学習の概念にかかわって、?ヨーロッパ・モデル(労働者の継続教育訓練が中心)、?途上国・モデル(基礎教育の普及と補完が中心)、そして?日本・モデル(生きがいや精神的な生活の向上が中心)の三類型が提起され、とくに日本・モデルとヨーロッパ・モデルの対比において、日本の生涯学習の独自性、先進性が指摘されている。たとえば、日本では学校教育とならんで社会教育の法制が整備され「世界に類を見ない」規模で公民館が全国に設置されてきたこと、あるいは日本の「心の豊かさや生きがいのための生涯学習」にたいする国際的関心が増大してきていること、などの説明が注目される(1)。なぜならこれまでのヨーロッパを羅針盤とする国際比較では、日本の生涯学習あるいは社会教育はむしろ後進的であり、特殊日本的なものとして消極的な評価が一般的だったからである。
 しかし果たして先進的という評価が一面的に可能かどうか。歴史的にみても多くの曲折や矛盾を含み、取り組むべき課題も少なくない。ただ今日にいたる経過にはまさに日本的に独自の展開があることは確かである。上記にかかわっては、次のようなことをあわせて考えておく必要があろう。
 一つには、この間の日本における生涯学習政策の導入過程では、ユネスコ「成人教育の発展に関する勧告」(一九七六年)や「学習権宣言」(一九八五年)等に示されるような権利の思想がきわめて希薄なのではないかという点、二つには、社会教育法や公民館制度の整備が注目されるという意味では、日本の生涯学習の実質的な基盤として戦後五〇年の歳月をへてきた「社会教育」の蓄積が重要であること(これまでは従来の社会教育制度を見直し、その転換として生涯学習体系への移行が強調されてきた)、三つには、その場合の日本「社会教育」は、東アジア諸国「社会教育」との複雑な相互関連(植民地支配や日中戦争等の苦渋にみちた歴史を含めて)があり、日本・モデルと同時にいわば社会教育における東アジア・モデルといったものを追求していく視点も必要なのではないか、などの諸点である。仮設的にでも東アジア・モデルを考えるというのは、国際的な比較を一面的な枠に閉じこめるのでなく、少なくとも東アジアの視点から多元化していくことでもあろう。この点についてはすでに指摘したことがある(2)

 1 社会教育の概念・法制の展開過程ー三つの社会教育法
 日本の社会教育の概念は、特殊日本的なものであり、明治の通俗教育期を継承して大正以降のいわゆる社会教育期に歴史的に形成され、戦前からさらに戦後教育改革期にわたって独自の領域・内容・特質を日本的に生みだしてきたものと理解されてきた。たしかに大筋ではそうであろう。しかし同時に、このような一般的理解をさらに細かく再吟味し、あるいは東アジアの視点から捉え直してみると何が新しく見えてくるか。私たちがこのような問題意識をもちはじめるのは、まずは戦後アメリカ占領下における沖縄の社会教育史研究からであり(3)、それを経由してとくに韓国や中国(台湾を含む)における東アジアの 「社会教育」法制の歴史に出会ってからである。日本の社会教育も、これら東アジア社会教育の歩みとある関連をもちながら、その歴史を刻んできた側面がある。
 沖縄社会教育の研究のなかでは、戦後日本の社会教育法や公民館制度が海を越えて波及した「奄美群島社会教育条例」(アメリカ占領下・奄美群島政府、一九五一年)や、さらに琉球政府下に胎動した教育四法民立法運動(一九五二年〜五八年)による琉球・社会教育法(一九五八年成立)との出会いが重要であった。この時点で筆者たちは、日本と琉球の「二つの社会教育法」の存在に言及し、それまでの不明を恥じつつ、両者の関連と異同を分析した経過がある(4)
 私たちの沖縄社会教育研究活動の初期は、韓国における社会教育法立法運動の最終段階と重なる。当時、日本・社会教育法についての研究資料を提供してほしいという韓国社会教育協会関係者(黄宗建氏等)からのアプローチもあって、韓国・社会教育法(一九八二年成立)の草案づくり研究作業に直接ふれる機会があった。そしてまたほぼ同じ時期に、視野を広げて台湾・社会教育法の成立(一九五三年)からその後の展開過程についての一応の知見を得ることもできたのである。したがって現時点では東アジアには少なくとも三つの社会教育法が現実に機能し、歴史的には琉球政府下の立法運動による琉球・社会教育法(一九七二年本土復帰により失効)をふくめると、世界に「四つの社会教育法」が実定法として存在してきたことになる。
 その後さらに関連法制・資料を収集し、研究室の留学生と日本人院生の協力によって、これら社会教育法制の主要な部分をすべて日本語に訳出し、『東アジアの社会教育・成人教育法制』を編集刊行した(5)。   
 三つの社会教育法は、その成立年度から言えば日本の社会教育法(一九四九年)がもっとも早い。そしてこの法は、海を越えて、琉球・社会教育法の原型となった。とすれば、日本・社会教育法から四年後に成立する台湾・社会教育法、あるいはまたこの時期に立法運動が始動していく韓国・社会教育法(一九五二年・社会教育法試案作成、実際の法成立は三〇年後)との関係はどうなのであろうか。
 しかし法制化の経過を問うまえに、「社会教育」概念そのものの登場について考えておく必要がある。東アジアにおいて公的な制度概念として「社会教育」がはじめて姿を現すのは、日本ではなく中国の方が早い。
 辛亥革命による中華民国において民国元年(一九一二年)「教育部官制」のなかに「社会教育司」が設けられた。社会教育司(局)の所掌事務は、一九一四年修正についてみると、通俗教育・講演会、感化事業、通俗礼儀、文芸・音楽・演劇、美術館・展覧会、動植物園・学術事業、博物館・図書館、公衆体育・遊戯等に関する事項が定められている(6)。一方日本においては、公的用語として「通俗教育」 から「社会教育」に改められのが大正十年(一九二一年)、文部省行政機構のなかに正式に「社会教育」課が設けられるのは一九二四年、中華民国の社会教育についての行政組織化から一〇年あまり後のことであった。当時の文部省・社会教育課の所掌事務は、図書館・博物館、青少年団体、成人教育、特殊教育、民衆娯楽改善、通俗図書認定等であって、上述の中華民国・社会教育司の規定と比べて、かなりの類似性がみられると言えよう。
 それでは中華民国の社会教育概念が、海を越えて、日本に導入されたのであろうか。その間の経過はいまの段階では確定できない。日本においても明治期より「社会教育」の用語はすでに登場し、山名次郎『社会教育論』(一八九〇年)以降しだいに一般化して、明治末期には通俗教育とほぼ平行してかなり多用されていたと考えられる(7)。しかも十九 世紀末から二〇世紀初頭にいたる清朝末期のこの時期は、中国より「年間一万人をこえる留学生が来日し、一方、六〇〇人をこえる日本人教習が中国に招かれて各地で教鞭をとった」と言われるように、日中両国間の教育文化交流がきわめて密接な「黄金の十年」であった(8)。資料的に実証するに至らないが、社会教育概念についてもこの間に両国間の相 互交流があり得たのではないか、という推察も可能かも知れない。
      
 2 社会教育法立法の政治・社会的背景
 言うまでもなく、三つの社会教育法の成立の経過はもちろん一様ではない。それぞれの相互関連についても未知の部分があり、また軽率な憶測も慎むべきであろう。しかしともに社会教育法という同一の法律名が共有されていることは事実であり、また次節に記すように、その構成、内容にも興味深い類似を見いだすことができる。それらが日本、韓国、そして台湾、という三者の組合せであることから考えると、戦前日本の植民地支配に共通の歴史的要因が働いているようにも思われる。しかし前節に述べたように公的な「社会教育」概念はむしろ日本に先立って中華民国創設時に登場したものであり、そして戦後の台湾における「社会教育法」は明らかにその系譜による実定法の成立と見るべきであろう。その意味で戦前日本の植民地支配に源流を求めるというより、むしろ東アジア的な「社会教育」概念と法制の成立、その戦後形成過程、として捉えることの方が適切であろう。
 一九四九年の日本、一九五三年の台湾、そしてこの時期から始まる韓国の社会教育法立法過程には、個別的な経過の違いは当然としても、そこに共通して次のような歴史的背景が存在していたと考えられる。
 (1)当時の東アジアは米ソ両国を軸とする東西二大勢力の「冷たい戦争」の谷間にあり、とくに中華人民共和国の建国(一九四九年)ならびに朝鮮戦争の勃発(一九五〇年)によって、アメリカの反共・防共の極東戦略が本格的な展開を示す時期にあたる。東アジアの社会教育は、アメリカの政治的な傘の下に“反共・民主化”路線の一環として戦略的に位置づけられてきた側面がある。一つの例をあげれば、日本にたいする第二次アメリカ教育使節団報告書では「極東における共産主義にたいする最大の武器の一つは、日本における啓蒙された選挙民である」(一九五〇年)という表現で社会教育の重要性が強調されたが、このような立場は単に日本だけでなく、大陸と対峙する台湾でも、北朝鮮と戦闘状態にあった韓国でも、またアメリカ占領下沖縄でも、多かれ少なかれ共通するところであった。当時の東アジアにおける戦後社会教育法制化の動きは、ある面でアメリカの世界戦略とも連動しつつ、多分に政治的な要請を背景としていた面が考えられる。
 (2)社会教育法立法という動きは、いわゆる命令主義から法律主義への改革であって、理念としては議会制民主主義を前提とする近代的な法制化と民主化への志向をもつている。しかし、それが実際に動いていく政治・社会の状況は、当時の東アジアでは、ある程度共通して強権的な政治支配、言論統制、行政主導、軍事優先の厳しい現実があった。
 たとえば台湾では国府当局による悲惨な二・二八弾圧(一九四七年)、その後の「赤狩り」と戒厳令施行(一九四九年、一九八七年解除まで四〇年近く継続され不名誉な世界記録といわれる)に象徴されるような統制的な社会実態におかれていた。日本の場合も間接的統治であるが、アメリカ占領支配下(沖縄は直接的な軍事占領下)にあり、韓国ではまさに朝鮮大動乱と南北の民族分断の悲劇の真っ只中におかれていた。韓国最初の社会教育法試案作成(一九五二年)は、南北彼我の戦闘が激烈をきわめ韓国臨時政府がソウルから釜山に移動した当時の緊迫した状況のなかであったという(9)。東アジアの社会教育法立 法作業はそのような統制的・軍事的な社会状況のなかで進行していたのであり、後にみる社会教育法の新しい理念もそのような現実との相克のなかにあった。
 (3)このように見てくると、東アジアの社会教育法立法には、むしろアメリカの極東戦略とその政策としての成人教育、いわばアメリカ・モデルとでもいうべきものが、一つの共通因子として作用してきたようにも考えられる。たしかに日本においてもそのような施策が動いたことは事実である。しかし実際の展開過程は単純ではなかった。
 用語についてみても第二次大戦後のアメリカ占領政策下では当初「成人教育」であり、「社会教育」ではなかった。戦後初期には日本でも「成人教育」が勧告され(たとえば第一次アメリカ教育使節団報告書、一九四六年)、韓国でも文教部内の部局は当初「成人教育」課であった。しかし結果的には占領政策としての「成人教育」、そのアメリカ・モデル(たとえばアメリカ化文化政策、反共産主義普及活動、成人学校など)は定着せず、東アジア・モデルとしての「社会教育」諸制度が立法化されていく経過となった。
 この点の解明については、アメリカの直接的軍事占領下におかれた沖縄の社会教育の歩みがきわめて示唆的である。沖縄では戦後初期アメリカ側の「成人学校」制度など、積極的な「成人教育」施策の導入がみられたが、結果的に沖縄の土壌には具体化をみせず、日本の公民館制度を典型とする「社会教育」制度がその後の歩みの主要な骨格となった。異文化の花は別の民族風土には単純には育たなかったのである。しかしアメリカ側は他方で一九五〇年頃より直轄の「琉米文化会館」など占領下宣撫工作的な成人教育施設を盛大に機能させる。その結果、沖縄では占領政策に直結するアメリカ型成人教育・文化政策の系統と、あと一つは沖縄型社会教育の系統の、二つの流れが二重構造をもって、一九七二年の本土復帰まで交錯していくことになる。
 韓国(あるいは台湾)では、第二次大戦後初期の段階において、沖縄にみられたようなアメリカ側文化政策としての成人教育の流れはどのような実態であったのだろうか。それと本来の社会教育の施策はどのように交錯したのであろうか。その後ほぼ半世紀を経過した今日、結果としてアメリカ・モデルではなく、それぞれの「社会教育」が制度的に定着してきたことになる。
 振り返ってみるとこのような社会教育法制化の歩みは、戦後東アジアにおける教育・文化史の興味深い断面であった。すなわち一方でそれぞれの民族的な法制の形式を生み出しながら、しかし他方では現実の統制的な政治状況や行政主導の社会体制のなかでの矛盾を含む展開であった。その法理念や原則は、それが実際に機能する社会の古くかつ厳しい体制とアメリカ極東戦略の政策動向によって、大きく規定されざるをえない状況があった。その理念と現実のずれ、近代と前近代の相克、さらにきわめて現代的な国際動向の枠組みのなかで、屈折を繰り返しながら「社会教育」の道程をあゆんできたのである。

 3 中華人民共和国における「成人教育」概念
 ここでとくに中華人民共和国の動向について一瞥しておこう。
 前述したように中華民国では成立以来「社会教育」が重要な公的制度概念であったが、日中戦争をへて一九四九年建国の中華人民共和国ではこの用語はほとんど使われてこなかった。たとえば上海では次のような経過であったという。「建国直後、上海市教育局は社会教育処という機関を設け、社会教育の領域を管理していた。しかし五〇年代初期から社会教育処は工農教育処に変わり、その社会教育の機能も文化、体育、宣伝と教育などの部門に分離されていった。」(10) その後の社会主義体制下においては労農教育、職工教育、業余教育など多様な概念の展開があり、そして文化大革命期以降において「成人教育」が学校教育体系と並ぶ公的教育制度概念として確定してきた。現在、中央政府機構の国家教育委員会(かっての教育部)のなかに成人教育司(局)が設置されている。
 現段階において中国の成人教育は、国策につよく密着するかたちで「現代社会経済発展と科学技術の進歩の必要条件」として位置づけられている(国家教育委員会「成人教育の改革と発展に関する決定」一九八七年)。同「決定」によれば、成人教育の主な任務として、?在職者にたいする政治思想、職業道徳、適切な職業訓練の教育、?初等、中等教育を受けなかった在職者にたいする基礎教育、?職場で必要とされる中等、高等教育レベルに適切な知識教養と専門教育、?日進月歩の科学技術に対応するため高等教育を受けた人たちへの継続教育、?多種多様な余暇活動、生活向上の技能に関する教育、の五つが掲げられている。(11)
 いま改革開放政策そして社会主義市場経済を担う人材養成として、成人教育にたいする政策的な期待は大きい。その主要な内容は、学校教育機関とも連動しつつ、基本的には成人在職者にたいする職業技術教育であり、あるいはその専門教育、継続教育であり、そして成人基礎(識字)教育である。すなわち政治思想教育とともに、何よりも経済発展を担う各級人材の養成のための職業訓練が第一であり、同時に建国以来の大きな教育問題となってきた非識字者の一掃(「掃盲」教育)が重要な課題として取り組まれてきた。最近ようやく在職者だけでなく就職前、退職後とりわけ転職者の成人教育が志向されている。
 しかし職業技術教育が主要な内容であるという点では日本や韓国等の「社会教育」と大きく内容を異にする。またいわゆる「文化」に関する各種行政・施設等は、図書館や博物館や文化館などの施設を含めて、成人教育とは別の文化行政系統に属し、この点でも「社会教育」とは異なる。あえて対照的に言えば、中国の「成人教育」概念には「経済」「労働」に関する教育訓練が重要な内容となっているが、「地域」ないし「文化」の領域を基本的に含まず、他方「社会教育」概念は「地域」を基盤とし「文化」が含まれるが、「経済」「労働」にかかわる領域は欠落している、ということであろうか。
 中国「成人教育」の法制的基礎についてはどうか。現在、義務教育法がようやく一九八六年に制定されるという状況であり、それとならぶような成人教育の法制は整備されてこなかった。しかし国家中央機関による多様な法的規定、たとえば上記「決定」や「条例」(国務院令「識字教育条例」一九九三年など)、あるいは「暫行規定」(国家教育委員会「郷(鎮)農民文化技術学校暫行規定」一九八七年、同「成人大学設置暫行規定」一九八八年など)に基づいて多彩な活動が展開されてきた。そしてようやく「成人教育法」の検討もまた最終段階に入ったと伝えられる。

 4 社会教育法制にみる共通性と個別性
 以下では前述してきた三つの社会教育法について比較対照し、紙幅の許す範囲でその主要な構成と内容、その東アジア的な法制の特徴を次の五点にしぼって取りだしてみたい。条文等を細かく紹介する余裕はないが、詳細については前記『東アジアの社会教育・成人教育法制』を参照していただきたい(12)
 (1)まず社会教育法の上位法として憲法、並びに教育基本法(韓国の場合、教育法、一九九二年改正)、さらに社会教育法と関連する諸法(たとえば台湾の場合、補習教育法、一九八二年改正、など)がある。とくに憲法についてみてみると、日本国憲法はとくに社会教育までを特定した条文をもたないが、韓国では一九八〇年憲法改正により「国家は平生(生涯)教育を振興しなければならない」(第三一条五項)とうたい、台湾では「国家は各地区教育の均等発展を重視し、かつ社会教育を推進し、もって一般国民の文化水準を向上させなければならない」(第一六三条)、「教育、科学及び文化の経費は、中央では予算総額の一五%、省では予算総額の三五%より少なくすることはできない」(一六四条)等の規定が明文化されている。国家法制上に社会教育がしっかりと位置づけられている点が注目される。
 (2)社会教育法の構成は、もちろん三法それぞれに異なるが、前節でも述べたようにいずれも職業技術教育を基本的に含まず、地域を基盤とする活動とその拠点としての施設(日本「公民館」、韓国「社会教育施設」、台湾「社会教育館」)及び職員制度を骨格としている点で共通するものがある。文化施設としての図書館、博物館等の施設も社会教育施設として法制のなかに含まれている。ただ日本及び台湾と異なって、韓国・社会教育法(一九八二年成立)では「社会教育施設」の公共的設置に関する法制化を実現できず、後述するように今後の社会教育「活性化」法改正試案の重要課題として残されている(13)。また台湾の社会教育館制度についても成人教育センターへの転換が進められつつある。もちろん社会教育職員の専門職制についてもそれぞれ一様ではない。
 (3)社会教育の概念は、その創設時において「教化・感化・文化」(礼を教え、徳を感化し、文の恩恵を与える)(14)といった儒教主義の影響が色濃く見られ、また大戦後における三つの社会教育法の制定過程でも同様に儒教思想の系譜から無縁ではなかったと考えられる。たとえば典型的に台湾・社会教育法は「社会教育の主たる任務」として「民族精神及び国民道徳を発揚」「社会活動に協力し社会風習を改善」「通俗書物及び民衆娯楽を改良」など一五項目を掲げている(第二条)。日本・社会教育法についても、「社会教育関係団体」の条項自体が団体主義による教化思想の裏返しの規定といってよく、あるいは公民館の目的に関する「住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り」(第二〇条)などのくだりは、もちろん内容的に否定されるべきものではないが、戦後「公民」教育思想とも関連して儒教主義的な徳目を連想させるものがある。そして社会教育活動が展開していく地域と民衆の社会意識の基層には伝統的な儒教思想がひろく澱んでいた。
 (4)かし同時に、これと重なって社会教育法制化の過程には近代市民法的な社会教育の新しい理念、そして教育権の思想が登場してきた点が重要であろう。国民主体、機会均等、助成と援助、統制・干渉の禁止、学習の自由、政治的宗教的中立性、施設設置と条件整備、住民参加を含む委員会等の諸規定がそうである。これらの点は台湾・社会教育法よりも、日本及び韓国・社会教育法に相対的にあざやかに見てとれる。戦後アメリカ占領下教育政策がもたらした明暗のうち、ある意味で“光”にあたる部分と考えられよう。日本ではとくに憲法における教育権の思想に基づいて、社会教育にかかわる権利論がその後の実践・運動の展開のなかで次第に具体化されるようになる。また台湾の場合、基本理念としての三民主義に基づくかたちで「公民自治及び四権(立法、複権、選挙、罷免)の行使を訓練すること」(社会教育法第二条三項)の規定が用意されている。
 総括的に見て三つの社会教育法は、古い部分としては東アジアにおける儒教主義思想と、新しい部分には近代市民法的な権利あるいは民主主義的思想とを矛盾的に複合させながら、かつまた理念と現実の大きな落差に呻吟しながら、それぞれ固有の土壌のなかで展開をとげてきたと言えよう。 
 (5)韓国・教育法は「義務教育を受けることができず学齢を超過した者」(第一〇条)に対する「公民学校」(一三七条等)を用意し、また台湾・社会教育法では同じく「学齢を越えて初等教育を受けなかったすべての国民」は「補習教育を受けるものとする」(第二条)とし、社会教育の任務の一つに「非識字をなくすこと」(同第三条)を定めている。 前述したように台湾は「補習教育法」を制定し(一九七六年公布)、「失学民衆」のための教育機会を国家的に保障しようと努力してきた。社会教育法は当然それと関連すべきものであって、識字・補習教育は社会教育の主要任務の一つとされ、それをも含んで「終身教育」(生涯教育、社会教育法第一条)の実施が求められているのである。同じく韓国・教育法第一四〇条は「学齢超過者で国文を理解できぬ者は公民学校成人班の教育を受ける義務がある」とまで規定している。社会教育におけるいわば義務制の発想である。韓国では民間・研究・運動のレベルでも、リテラシーの概念について自己解放の意を重視して「文解」という訳語をあて、「平生(生涯)教育」(憲法第三一条、社会教育法第一条)の重要な内容に位置づけている。いわゆる「教育疎外集団」(黄宗建氏)解消に向けての積極的な挑戦である。同様に中華人民共和国においても、成人基礎教育(識字教育、「掃盲」教育)が政策的に重視されてきたことは先述した通りである。
 しかし日本・社会教育法制は、識字教育あるいは成人基礎教育について何らの規定をもたない。日本においても少数者であれ非識字者が存在すること(たとえば夜間中学や被差別部落の識字学級等の存在がその実証である)、最近の外国籍住民の増加とその学習権保障の課題、そして戦前日本の植民地支配ならびに一五年戦争の結果として東アジア諸国に多くの非識字者を生みだしたこと、その歴史的責任を考えるとき、日本に識字問題はない、という一般論は明らかに修正されなければならない。

 5 転換期の東アジア・社会教育法制
 すでに与えられた紙数はほとんどつきてしまった。本来はここ数年の東アジア社会教育の新しい改革動向についても述べる予定であったが、次の機会にゆずるほかはない。今後の課題としていくつかの注目すべき動きを記して、まとめにかえることにしよう。
 第一は「躍動する」地方自治の動きである。東アジア社会教育法制の重要な特徴は、欧米の成人教育とも異なって、相対的にその地域主義にあると言ってよいが、その基礎条件ともいうべき東アジア地方自治の実質はこれまでいわば閉ざされた状況にあった。しかし台湾では一九九四年の憲法「増修条文」通過、自治二法の成立にともなう同年一二月地方選挙実施により、また韓国では一九九五年六月に行なわれた三〇年ぶりの自治体首長及び議員選挙により、地方自治の新しい地平が開かれ始めたのである。また中華人民共和国では改革開放政策以降、大都市を中心に地方立法権の拡大が認められ、社会主義体制下におけるある種の地方分権化が進展していると見ることができる(15)。これらの自治・分権の新しい潮流が、東アジア社会教育にどのような具体的な展開をもたらすか、あるいは社会教育法制の地域定着に自治的な発展を創出することになるかどうか、今後注目に値いするところである。
 第二は、以上とも関連して、社会教育の公共的条件整備の方向が模索され、その具体的条件の一つとして地域社会教育施設が多様なかたちで胎動し始めていることであろう。たとえば韓国では一九八二年に社会教育法が成立し、地域社会教育の新たな飛躍が期待されたにもかかわらず、実態は「法の執行に必要な予算もふえず、国の行政機構も八二年以前の教育部・社会国際教育局社会教育振興課(職員5名)の存続に止まるなど、この法律は機能してこなかった」という(16)。それだけに社会教育「活性化」にむけての社会教育法改正試案(次項)が検討されているわけであろうが、その主要課題は地域公共施設としての「社会教育館」構想の実現があげられている(17)。それだけではなく「地域社会文化センター」としての学校の開放、地域福祉施設(社会福祉館)や集落(セマウル)施設との重層化などが期待されている。
 中国・上海市においては、最近、日本「社会教育」が志向する地域主義的な教育・文化活動に類似した「社区教育」(コミュニティ教育)が注目をあつめ、その中心施設として「コミュニティ・センター」の構想が動き始めている(18)。その場合「コミュニティ」はまさに「個人の発達にとっての重要な空間」であるという。現在、大規模な都市開発がすすんでいる同市浦東新区にはすでに「日本から導入した」地域施設として羅山市民会館などが具体的な姿を見せつつあるが、中国における「最初の公民館」と評する人もいる。
 最後に、社会教育「活性化」のための法改正(韓国)の動き、さらに新しく「成人教育法案」提案(台湾)など、教育改革の動向が具体的な日程にのぼってきていることである。韓国では金泳三政権によって設置された教育改革審議会の教育改革案の一つとして一九九八年七月までには新社会教育法が登場すると伝えられ、また台湾では新成人教育法案がすでに立法院に提出されているという。日本「生涯学習振興整備法」(一九九〇年)の登場を含めて考えると、いまや三つの「社会教育法」体制は明らかに転換期に入ったということであろう。その背景には、国際的な生涯教育・生涯学習の潮流、識字・成人基礎教育の課題、職業技術教育の拡充、放送大学、ニューメディアによる教育革新、などの要因が考えられる。また中国では、これまでの「小教育」にたいする「大教育」(生涯にわたる教育、社会全体にわたる教育)への改革が提言されているが(19)、共通して教育改革へ向けての新しい転換が模索されていると言えよう。これまで日本・社会教育法制は、東アジアのなかで相対的な先進性が評価されてきたが、しかし、これらの社会教育改革へ挑戦、その模索のエネルギー、から学ぶべき点は少なくないと思う。
 
(1)与謝野馨「生涯学習のジャパン・モデルの発信」、岡本薫「生涯学習振興の国際的特徴ー西欧モデルと日本モデルー」『社会教育』全日本社会教育連合会 一九九五年二月
(2)小林「東アジアの社会教育・成人教育法制ー総論的に」東京学芸大学社会教育研究室編『東アジアの社会教育・成人教育法制』一〜六頁 一九九三年
(3)沖縄社会教育にかんする共同研究のまとめとしては、小林・平良研一編『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』一九八八年 エイデル研究所、以下とくに特記しないかぎり沖縄関係資料はこの文献による
(4)東京学芸大学社会教育研究室編『沖縄社会教育史料』全七集のうちとくに同第二集(社会教育行政・財政編、一九七八年)、小林「戦後社会教育の地域的形成過程ーとくに沖縄社会教育史研究に関連して」 津高正文編『地方社会教育史の研究』(日本社会教育学会年報二五集)一九八一年 東洋館、ならびに横山宏・小林編『社会教育法成立過程資料集成』一九八一年 昭和出版など
(5)前掲・東京学芸大学社会教育研究室編『東アジアの社会教育・成人教育法制』一九九三年、なお以下とくに特記しないかぎり東アジア社会教育法制関係資料はこの文献による
(6)日本社会教育学会第四一回大会(弘前大学)宿題研究・小林発表資料 一九九四年九月
(7)たとえば一九一〇年前後の小松原文相の演説、談話、あるいは幸徳秋水らの大逆事件に関連して発した内訓等、国立教育研究所『日本近代教育百年史』第七巻 四八六頁 一九七四年など
(8)阿部洋『中国の近代教育と明治日本』まえがき 一九九〇年 福村出版 参照
(9)文孝淑「韓国の社会教育法」末本誠・小林平造・上野景三編『地域と社会教育の創造』二八七
 頁 一九九五年 エイデル研究所 
(10)項乗健「向国際化大城市邁進中的上海面臨的若干基本矛盾及其対成人教育的挑戦」呉遵民訳 『東アジア社会教育研究』創刊号 TOAFAEC発行 一九九六年(近刊)    *TOAFAECとは「東京・沖縄・東アジア社会教育フォーラム」の略称 一九九五年六月発足 和光大学社会教育研究室)
(11)前掲『東アジアの社会教育・成人教育法制』 一〇頁
(12)韓国・台湾の社会教育法については、『東アジアの社会教育・成人教育法制』に先立って、朴貞美、倉内史郎「韓国社会教育法(一九八二)の性格について」(東洋大学アジア・アフリカ文化研究所『研究年報』第二三号)一九八八年、葉淑華「中華民国の社会教育法」名古屋大学『社会教育研究年報』第三号 一九八一年 がある
(13)黄宗建氏らによる「社会教育の活性化方策」 文孝淑「韓国社会教育活性化のための社会教育法改正試案について」TOAFAECニュースbQ 一九九五年
(14)加地伸行『儒教とは何か』 一九九〇年 中央公論社 二三二頁など
(15)自治労・自治研中央推進委員会『月刊自治研』一九九五年二月号 特集「躍動する東アジアの自治」参照、また魯在化「韓国の地方自治制実施と社会教育政策」 前掲『東アジア社会教育研究』創刊号 TOAFAEC発行 一九九六年(近刊)所収
(16)黄宗建「韓国社会教育の誕生と足跡」『日本社会教育学会紀要』nO〇 1994年
(17)「社会教育館」については、前掲・黄宗建「社会教育の活性化方策ー関係法改正を中心に」、「社会福祉館」については、同「韓国社会教育の動向」佐賀大学『アジア生涯学習国際セミナー報告書』一九九五年 所収
(18)胡守均「社区・個人発展的重要空間」『新聞報』一九九五年一〇月一〇日、あるいは 『新民晩報』一九九五年九月二三日報道、なお中国「社区教育」については、中田スウラ「現代中国における地域教育活動の展開」日本社会教育学会紀要三二号、一九九六年
(19)前掲 項乗健「向国際化大城市邁進中的上海面臨的若干基本矛盾及其対成人教育的挑戦」『東アジア社会教育研究』創刊号 TOAFAEC発行 一九九六年(近刊)




■韓国文解教育協会・第10回年次大会(1999年4月、水原市)【招聘講演】 
 TOAFAEC研究年報「東アジア社会教育研究」第4号(1999年)所収

3,東アジア地域における識字教育運動の研究・交流・協力

   
*関連報告:韓国・文解(識字)教育運動が問いかけるもの」
   
韓国社会教育研究会『99韓国訪問報告書』(東京学芸大学、1999年)→

 皆さま、こんにちは。私は前から韓国文解教育協会の大会に一度参加してみたいと思っていました。今年は、第10回を迎えられたわけで、お祝いを申し上げますとともに、金済泰(キム・チェテ)先生はじめ皆さまのお招きにより、こうして参加することができて光栄です。(頭上に飛ぶ米軍基地ジェット機の爆音について)私は九州出身で、大学時代を思い出しています。1950年の朝鮮大動乱の時、大学のすぐ横の板付基地からジェット機が毎日出撃して行きました。飛行機の騒音には慣れていますし、むしろ懐かしい思いです。

韓国・文解教育運動との出会い
 1980年に黄宗建(ファン・ジョンゴン)先生に出会い、それからもう20年になります。その後たびたび韓国を訪問して、社会教育や文解教育運動の方々と出会い、その度に感銘を受けてきました。韓国と日本は、近くて遠いと言われますが、韓国の皆さまとの交流・友情の「近い」関係をつくっていただいて、とてもうれしく思います。
 特にここ5年、学生と一緒に毎年韓国を訪れています。韓国の先生方も日本の社会教育研究全国集会にお出で頂きましたが、私たちも、サミル節(独立運動記念日、3月1日)を日程に入れた計画をたて、黄宗建先生、金済泰先生にお願いして、必ず韓国の文解教室の現場を訪れてきました。これまで、ソウルの高麗学院、大邱の福明平生教育センター、光州の希望学校、釜山の叡智院、同じく釜山の広場図書院、今年は東大邱の信岩平生教育院を訪れることが出来ました。その時お世話になった方々がここにもいらっしゃるかと思いますが、改めてお礼を申し上げます。
 訪問する中で、忘れることが出来ないことが何度もありました。「韓国でなぜこうして文解教室をやっているか、日本の方には理解できますか?」と聞かれたことがありました。私の世代は韓国との関係をかなり知っていますが、若い学生の中には最初は3月1日のことを知らない人もいます。ですから、韓国の文解教育の歴史が日本の植民地統治と深い関係があること、日本と韓国の歴史的な関係の中で非識字の問題を認識する必要があること、を初めて知ることになります。「私は日本は憎いと思っている。しかし、皆さんがこうして訪れてくれることは歓迎します。」と広場図書院のイ・ウィジックさんがおっしゃったことなど、忘れることができません。
 私は文解教室の方々に出会って、文解は単に字を教えることではなく、歴史を知ることであり、人間らしく生きていくための実践であることを知りました。Literacyを日本でも中国でも「識字」と訳します。しかし、韓国では「文解(ムネ)」と訳されています。なぜ韓国では識字と訳さず「文解」と訳すのか、黄宗建先生から伺ったことを私は学生にも話します。識字教育運動の協会を10年前に創設され、平生教育(生涯教育)と結びつけて多彩な活動をされていること、その歩みと努力に学ぶことがたくさんあります。刺激をうけ教えられることの大きい毎年の韓国訪問でした。

日本の識字実践
 少し日本のことをお話しいたします。
 日本は、学校教育がかなり普及していて、統計上では小学校就学率が99.9%です。ですから、文部省の公式見解は「基礎教育は行きわたっている、非識字者はいない、すでに解決した問題」としています。しかし私たち識字問題に関心をもつ研究者・実践家は、日本の中にも“内なる非識字問題”が存在することを主張してきました。
 1990年の国際識字年の際、民間的な識字運動の胎動は別にして、公的には主に東南アジア諸国などの識字教育支援の動きはありましたが、日本の内側の識字問題にはほとんど取り組むことがありませんでした。しかし研究や運動レベルでは、国際識字年は日本にとって大変大きな刺激になったことは事実で、日本社会教育学会でも識字問題を特集する研究年報を出したりし、また私の研究室(東京学芸大学)では東京で初めての識字実践についての調査をしました。
 しかし日本の文部省が「識字問題は存在しない、解決済み」とするのと同じように、研究者間でも識字についての認識は希薄で、研究は大きく立ち遅れていると言っていいと思います。ユネスコなどの国際的動向をみても、世界のどの国でも識字問題の研究や実践が、成人教育・生涯教育のなかで重要な課題になっていることに気づきます。それは、第三世界・発展途上国の問題だけでなく、欧米諸国をはじめとする先進国の共通の問題でもあるわけです。それなのに、なぜ日本では識字問題がないという公式見解なのか、研究調査の遅れをどう克服していくか、そういう状況について、関心もつ研究者の一人として残念に思っているわけです。
 そういう状況の中でも、これまで日本では草の根からの識字実践の取り組みがある、それは大きく三つぐらいの系譜があると思います。一つは、学校の教師たちによる義務教育を受けることが出来なかった人たちへの夜間中学の実践です。たとえば戦争や貧困で学校へ行けなかった人たち、在日韓国・朝鮮の人たち、最近では中国帰国者や正規学校からの脱落者などに「学校」を保障しようとして、全国で34の夜間中学がある。また自主的な夜間中学の運動があります。例えば、東京には8つの夜間中学があります。文部省は正式に認定していない、しかし東京都が運営上の経費を出して実践が続けられてきました。5年ぐらい前に山田洋次という監督が夜間中学をテーマにした「学校」という映画をつくり、大きな話題を呼びました。
 二つ目は、日本特有の問題ですが、歴史的に差別されてきた部落の解放運動のなかで、「文字を奪いかえす」という識字運動があり、特に西日本地域では積極的に識字学級が開設されてきました。韓国の白丁(ペクチョン)の問題と少し似ているところがあるかもしれませんが、階層社会の一番下の階層ヘの差別が、近代・現代においても残っていること、その被差別部落のなかでの、読み書きが出来ない人たちへの識字実践が取り組まれてきました。三つめは、地域のなかの、自治体レベルの社会教育・市民活動の中で行われている識字実践の動きです。主として1980年代後半から増加する外国からの流入労働者やその家族(ニューカマー)、いわゆる外国籍市民のための識字実践が、東京や川崎など首都圏でかなり拡がってきています。今日、私と一緒にきた江頭晃子さんも東京でその実践をしていますが、若い世代として是非この機会に交流が出来るといいと思います。
 さらに私が申し上げたいのは、この三つの系譜が草の根からの実践を進めてきているのに、運動的には相互にあまり出会うことがない、実践的な交流や共有が少ないということです。たとえば夜間中学の先生たちが、戦後50年の実践のなかで、内容的にも水準のたかい教科書を作ってきていますが、それが地域・自治体の識字実践にはあまり知られていない。被差別部落の識字学級で書かれた心打たれる教材があるのですが、それは被差別部落以外の人たちにはにあまり広がっていかない。研究的な蓄積の弱さとともに実践・運動の交流が少ないのです。
 そういう意味で韓国では、たとえば教会や叡智院や、学校や社会福祉館などいろんな系譜の実践が横に結び、このようにともに「文解」教育協会をつくり、先生方の実践が一堂に会して大会が開かれている、大変学ぶところがあります。
 私は日本のことを考えると、3つの弱さがあると思います。一つは日本の内なる識字問題についての社会的な認識が弱いこと、二つめは研究的な蓄積が弱いこと、そして三つに、実践や運動における相互の交流や連携が弱いことです。韓国の文解教育協会の歩みから学んで、日本でもこのような横につなぐ識字運動のネットワークのようなものが出来ないものかと強く思うようになりました。日本の友人にも折りにふれて話し始めたところですが、やはりそう簡単ではない。韓国のこのような場で公言するような段階ではありませんが、これからの課題だと考えているところです。

東アジアの視点から
 また同時に、同じ漢字圏の国々相互の、横の連携や交流もそんなに多くありません。国際的な成人教育協議会のアジア組織であるASPBAEという成人教育機構が、主として研究者レベルによる国を超えての交流がありますが、草の根の実践・運動の面ではあまりありません。ヨーロッパの国々のことを考えますと、それぞれの国の違いながら、さまざま交流がありましょう。しかし東アジアでは、漢字圏としての共通性や儒教など文化的に共有するところがありながら、同時に厳しい政治的な対立の関係もあり、なかなか国を超えての交流が進んでいるとは思えません。日本の私の回りの研究者たちも、海外比較研究といえば、まずはヨ−ロッパやアメリカの研究が中心で、アジアの研究はきわめて少ない。私を含めてそうですが、隣の国の言葉、たとえばハングルをきちんと話せません。いま中
国語を少し勉強していますが、なかなか上達しません。同じ東アジアの中で、言葉の壁を超えながら、研究的なネットワーク、そして人間的な交流を作っていきたい、という思いがあります。
 私自身は沖縄研究を長くやってきました。沖縄研究をすすめていきますと、どうしても隣の台湾や中国との関係を学ばざるをえません。沖縄の中で台湾にもっとも近い島、小さな島ですが、与那国の歴史を調べてみますと、済州島の魚民たちの漂流した記録からこの島の歴史が綴られている。つまり私たちは、東アジアの同じ海に包まれて生きてきた、そして社会的・文化的にもともに共有する大きな歴史潮流のなかで歩んできた。しかし、日本の戦前の植民地支配の罪もありますし、また現実に戦後のそれぞれの国の超えがたい政治的な対立も残されています。
 同じ民族の間の分断の亀裂もあります。いまなお上海から台北に飛行機は飛びません。ソウルからピョンヤンへの道は通じていません。しかし歴史は動いていることも事実でしょう。かつて中韓国交回復以前には、韓国から中国に飛行機は飛びませんでした。しかし私は、明日、ソウルから上海に直行便で飛ぶことができます。歴史の流れは少しずつ、共有の海をはさんで、東アジアの国々の横のつながりが開かれていることも確かなことでしょう。閉ざすのではなく、開く方向で、私たちは政治のあり方を求めなければならないし、また教育や文化の新しい動きを創り出していく必要がありましょう。
 私は台湾にときどき参ります。先ほど例に出した与那国島からは、晴れた日には台湾の山並みが大きく見えるような距離なのでです。台北に着きますと、友人たちは私の希望を聞いて、その夜から識字学校に連れていってくれます。台湾は中国政府との関係では「一つの中国」論の難しい問題がありますが、台湾政府としての法律を持つている。いわゆる当時の「中華民国」時代から補修教育法あるいは補修学校規則が作られてきました。私は充分にその法制史を確認していませんが、史料によれば1944年の日中戦争の間に補修教育法の原型は出来ているようです。そして、この中華民国が台湾に移った後も、補修教育のためのいろんな学校の規定が修正されてきた経過がありますが、韓国で社会教育法が制定された同じ1982年に、台湾では補修教育法が再び修正公布されています。
 このような法制的な背景があって、台湾では、台北の中心にある主要な小学校で、夜になると補修学級が開かれています。ある補習学校を訪問して、実際に補修学級の教師たち(小学校教師と兼任)と交流し、教育を受けられなかった人々のために夜も働いている先生方に感謝の気持ちを話しましたら、こういう言葉が帰ってきました。「学校と教師だけにこういうことを押しつけている。もっと社会全体で市民の活動として行われるべきではないか」と。その時に私は、韓国の文解教室の皆さんの、公的ではなく市民的、社会的、ボランタリーな活動を思い起しました。
 それぞれの国がそれぞれの歴史と特徴をもっていると思います。例えば韓国の法律では、教育法制のなかに「公民学校」などの規定があるわけですが、韓国の文解教育は実際には公的な機関で行われるというよりは、宗教団体や市民団体、先生方の自発的な活動として取り組まれてきたいう特徴があると思います。
 私は中華人民共和国を訪れる時も、繰り返し識字教育の現場を訪問したいというお願いをしてきました。しかし今まで、かなり中国に行きましたが、一度もその機会が実現しません。訪問先が主として都市部であるということにも関連するのでしょうが、たとえば上海では「その問題は解消した」と責任者が言います。それは農村の問題であり、農民の問題であり、内陸の問題であると。南の広州でも、北京でも同じような回答しかかえってきませんでした。どうも中国は模範的な実践だけは外国人に見せるけど、そうでないものは、なかなか見せてくれない、という印象です。
 しかし上海で広州でも、今は比較的に落ち着いてきましたが、一時は大勢の内陸からの農民たちが仕事を求めて、この改革開放都市に蝟集していました。いわゆる「盲流」です。広州駅頭の圧倒的な人の群れのなかにいて、大都市部だからこそ取り組むべき教育問題、そして識字教育(「掃盲」)の課題をしばし考えさせられたことがあります。
 私は明日から1週間ほど中国をまわります。今度初めて湖南省・湘潭という、毛沢東が生まれた村の近くの大学に招かれていくのですが、できれば農村部の「掃盲」教育に出会いたいと思っています。識字実践の実際に触れたいという同じようなお願いの手紙を出してあります。実現するかどうか。中国はもともと人口が多いのですが、ユネスコ統計では世界でインドに次いで非識字者が多い国です。中国成人教育の中心的な内容としては、改革・開放政策によって、たしかに高度の職業技術教育が求められていますが、同時に成人基礎(識字)教育も決して小さな課題ではないはずです。
 それぞれの地域で、識字実践という共通の課題を担って、さまざまな苦労をしている方々と、歴史と文化は違うけど、もっと海を超えて交流したい、お互いの理論と方法を共有することが出来ないか、その夢と情熱を語りあいたい、と考えています。

三つの課題と日本識字教育協会構想への夢
 そろそろ時間が迫ってきましたので、まとめに入りたいと思います。三つのことを申しあげます。
 一つは、今までの話からあらためて言うまでもないことですが、識字教育についての研究と実践の相互交流を、東アジアのなかで深めていくことが出来ないか、ということです。今すでに研究者レベルでは日韓相互の間でも交流が始まっているし、日本の研究者は韓国の識字研究・調査から大きな刺激を受けてきた、ということはあるのですが、草の根の実践的な交流というのは、今から始まっていくのでしょう。
 二つには、民間的な活動と公的な行政の責任という問題をどう考えていくか、ということです。1997年7月、ハンブルグでユネスコ第5回世界成人教育会議が開かれて、まとめとしていわゆる「ハンブルグ宣言」が出されました。その中でも識字は基本的人権であること、「すべての人々に対して学習機会を提供」する公的な責任がうたわれています。しかし、同時にハンブルグ宣言は行動的な市民とその参加の重要性についても強調しています。ハンブルグ宣言を読んで気づくのは、学ぶ人たち自身が、自分たちの権利を単に字を知るだけの権利ではなくて、自分たちの基本的な権利として主張できるようにする、権利主体としてエンパワメント(力づける)していくことの重要性が指摘されています。公的な行政の責任と市民的な活動のエネルギーというのが、どういうふうに両者それぞれの力を発揮していくか、ということが問われていると思います。
 三つには、先程も申し上げたことですが、私たちの文化交流・実践共有のために東アジアの国家的な政治的枠組みをどう超えることができるか、という問題です。かつて東ヨーロッパがそうであったように、国家と政治の厳しい拘束というものが、教育や文化や運動の自由な交流と発展を阻害してきた歴史があります。国と国との代表ということになりますと、どうしても国家と政治の問題が出てきますが、市民相互の、専門家相互の、人間的な交流・友情を基軸にして国際的な関係が動いていくような構図を考えることが出来ないか。私たちはいま日本で「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC)という小さな団体を組織し、年報「東アジア社会教育研究」(第4号)などを刊行してきましたが、そのなかで多少努力してきましたのは、団体、大学、そして都市と都市、のようなレベルでの草の根の研究・交流をどう拡げていくか、ということです。近年、たとえば上海と大阪、広州と福岡、富川(プチョン)と川崎などの都市間交流が活溌に動いている、都市と都市の自治体職員や市民活動の関係者が相互の研究と交流を深めていく、識字問題もそのなかにしっかりと位置づけていく、そのような面白い可能性が具体的に見え始めているのではないかと思っています。

 時間がきてしまいました。大変不十分な話を聞いていただいてありがとうございました。最後に私が遠慮しながら申し上げたいのは、韓国の文解教育協会のような活動が日本でも始められないか、という私自身の課題意識についてです。まだ何も構想が定まっているわけではなく、まったく夢の段階でしかない、こういう公式の場で申しあげるべきでないことを承知の上で、私なりの思いとして付け加えておきたいのです。もちろん課題はそう簡単なことではない。日本の識字運動も、夜間中学と被差別部落解放運動と自治体社会教育活動と、仮にその三つの系譜を考えても、それぞれの歴史をもってこれまで動いてきたわけで、そのことを大事にしながら、どこで相互の出会い果たすことができるか、をみんなで考えていく必要がありましょう。
 当然、そこに運動的な路線の違いや理論の対立もあり得るわけです。しかしそれを超えて、お互い共通の課題に取り組み、心を同じくするもの同志が、共通の横のネットワークを作っていくことの大切さについては、同意する人が必ずやいるはずだという確信をもっています。私たちも日本の社会教育運動や学会などで、そういうことを話す場がありますし、2000年を前にして、あらためて識字問題についてNation-Wide な議論と運動の取り組みを模索してみたい、と思っています。
 先程、金先生の話の中で、パウロ・フレィレのことが触れられました。ハンブルグ会議のなかで訃報が伝えらたそうですが、「宣言」でもパウロ・フレィレを悼みつつ、1998年から10年間を新しい「識字の10年」にしようという呼びかけをしています。そういう国際的な潮流も視野に入れながら、日本でも小さな努力をしたい、ということを結びとして申しあげて、終わりにしたいと思います。カムサハムニダ!   (記録・文責  江頭晃子)

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<添付資料・講演レジメ(配布・小林-1999-4-29-)>
東アジアにおける識字教育運動の研究・交流・協力
1,はじめに(経過と謝辞)
 韓国社会教育研究者との出会い(1980年・扶余)
 1994年以降、韓国文解教育実践を訪ねて:
   1994年12月(ソウル)高麗学院、(大邱)福南平生教育センター、
   1996年3月(光州)希望学校、(釜山)円仏教叡智院、
   1997年3月(釜山)広場図書院
   1999年3月(大邱)新岩教会・平生教育院
2,日本の識字教育運動:三つの歴史的系譜
・夜間中学の実践
・部落解放運動における識字実践
・自治体の社会教育実践
                三つの弱さ
                  内なる識字問題の認識が弱い
                  研究的蓄積が弱い
                  研究・運動の交流と共有が弱い
3,中国・台湾での経験
  台湾「補習教育法」(1944、1982修正公布)、「失学民衆」補習教育
          *台北市・補習学校(小学校、教師) 
  中国(掃盲教育)
4,研究・交流の課題
  (1)・研究者相互の交流
     ・実践と研究の協同ネットワーク
     ・実践と実践の研究・交流・協同
  (2)・民間非営利・ボランティア運動と
     ・自治体・学校等による公的保障との関係
  (3)・国家の政治的な枠組みを越えて
     ・大都市間の社会教育実践の交流 
      (広州と福岡、上海と大阪、冨川と川崎など)
  (4)・日本識字教育協会(仮称)の構想
     *TOAFAEC編『東アジア社会教育研究』
     (1996、1997、1998)現在、第4号編集中




4,
   





5,アジアの社会教育・生涯学習−解題
 (『社会教育・生涯学習ハンドブック』第8版、エイデル研究所 2011年)
                
【目次】

1,生涯教育(学習)法制の動き
(1)平生教育法(韓国) 
(2) 終身学習法(台湾)    
(3) 福建省終身教育促進条例(中国)
(4)東アジア社会教育・生涯学習関連法制(法律・施策)略年表
 解題
2,社区大学、地域学習施設、CLC
(1)台湾の社区大学
(2) 中国上海における社区教育・社区学校・文化活動センター
 @ 中国における社区教育の展開  
 A 上海市閘北区彭浦新村街道・社区学校・文化活動センター
(3)アジアのCLC(地域学習センター)
(4)ベトナムの地域共同学習センター
 解題
3,生涯学習に関わる実践・運動
(1) 韓国の文解(識字)教育
 @ 韓国文解教育運動の成果
 A 蔚山広域市中区成人文解教育支援に関する条例
(2) 世界寺子屋運動
 A 世界寺子屋運動の活動
 A 世界寺子屋運動とCLC
(3)台湾の社区総体営造計画・運動
 解題

【解説】    

 アジアは広大である。多様な言語・宗教・文化をもち、さまざまの政治・社会諸問題を内包しつつ激動している。その歴史と時代を背景として、社会教育・生涯学習に関わる動きも多様に展開してきた。これまで未発であった公共的な体制(法制、施設、事業等)も、成人教育・生涯教育をめぐる国際的な潮流の影響をうけつつ、とくに最近10年、新しい躍動をみせている。それぞれの国・地域の差異や格差があることは当然であり、また欧米的な水準と対比すれば、相当の遅れがあることも否定できないが、歴史的にみて今世紀に入って大きな跳躍の10年を迎えていると見ることができる。この間の日本社会教育の停滞の10年とは対照的な動き、その特徴に注目していきたい。
 まず第一に、日本が含まれる東アジアにおいて、生涯教育・学習に関する国家法制と、それにともなう地方法制が具体化されてきた10年であった。中国では改革開放政策のもと、一連の教育法制(1990年代−職業教育法、高等教育法等)が整備されてきたが、成人教育・生涯(終身)教育に関する法はまだ登場していない。しかし国レベルでも省の条例についても立法論議が活発に進展している。省レベルの一事例として本章では福建省終身教育促進条例(2005年)を収録した。もっとも典型的な動きは韓国である。旧社会教育法を全面的に改めて「平生教育法」(平生は生涯の意)を誕生させ(1999年)、10年を経ずして新・平生教育法に改正した(2007年)。学会関係者による専門的論議が進み、次なる課題に迫る法改正への歩みも始まっていると聞く。また台湾政府は従来の社会教育法と併行して「終身学習法」を制定した(2002年)。ベトナムでは教育法が2005年に改正され、はじめて地域学習センターの規定が設けられた。これら一連の動きは、日本の生涯学習関係法・空文化の状態とはまったく異なる展開である。
 第二に、アジア各地に新しい地域学習施設が登場してきたことである。「万人のための教育」(EFA)や「国連識字の十年」(UNLD)の運動のなかで、今世紀に入ってコミュニティ学習センター(CLC)の具体的な進展がみられた。日本ユネスコ協会連盟による世界寺子屋運動はこの10年、CLCという活動拠点をもって推進されてきている。各国の事情は異なるが、たとえば本章に収録したダオー女史によるベトナム報告をみると、1998年にはじまった地域共同学習センターの設置は2000年以降急速に普及し、いまや全国的規模の拡大をみせている。ベトナムでは戦後日本の公民館構想が制度モデルとして注目されてきた。
 農村部だけでなく都市部においても、本格的な学習文化施設の整備が進められている。韓国では法的基礎を得て、平生教育センター・地域平生学習館等が各都市に設置されつつある。上海市では全市の街道(行政単位)に「文化活動センター」「社区学校」が設置されつつある。台北市を中心とする台湾の社区大学の躍進もまた注目に価いする。
 第三に、さまざまな地域的な学習活動、文化運動、「持続可能な開発のための教育」(ESD)教育など多様な実践・運動の展開がみられるようになったことである。アジア諸国は、それぞれの経過のなかで植民地支配を受けてきた歴史があり、戦争による破壊や政治的圧政・統制の苦しい時代をくぐってきた地域が少なくない。それらを克服して自らの自治や文化を再生し、復興と開発を求めようとする民衆意識が、地下水脈のように流れていると見ることができる。
 時代とともに実践・運動は新しく展開していく。ここでは学習の基礎としての識字実践について韓国の文解教育運動と日本ユネスコ協会連盟が唱導してきた世界寺子屋運動、民衆の参加による自立的な地域づくり運動例として台湾の「社区総体営造計画」の動きを取りあげる。そこに生涯教育・学習の源流があり、また発展・創造のエネルギーを見ることができる。
 日本の社会教育・生涯教育の脱皮の方向も、アジア各地の実践の取り組み、とくに基礎教育としての識字実践や住民参加による地域づくりの活力から学ぶところが少なくない。

東アジア社会教育・生涯学習・関連法制(法律・施策等)略年表
    <中国>   <韓国>     <台湾>      
1953                        (9月)社会教育法
1975                       (10月)台湾省立社会教育館組織規定
  76                       (7月)補習教育法
1980        (10月)憲法「平生教育」条項  (10月)社会教育法改正
  82       (12月)社会教育法
  85 (5月)教育体制改革に関する決定
  86 (4月)義務教育法           (6月)空中大学設置条例
  87 (6月)成人教育の改革と発展に関する決定
  88 (2月)非識字一掃活動条例
    (3月)高等教育独学試験暫行条例
1991                      (12月)成人教育法案
  93 (2月)中国教育改革と発展綱要
    (10月)教師法
  94                      (10月)行政院文化建設委員会
  95 (3月)教育法    (5月)教育改革方案
  96 (5月)職業教育法
  97           (12月)教育基本法、初・中等教育法、高等教育法
  98 (8月)高等教育法           (3月)「邁向学習社会」白書
    (12月)21世紀に向けた教育振興行動計画 (9月)台北市文山社区大学設立
  99 (6月)教育改革の深化と素質教育に関する決定  (6月)教育基本法、補習及び進修教育法
             (8月)平生教育法 
2000 (10月)国家通用語言文字法
  02 (6月)全国教育事業第十次五か年計画    (6月)終身学習法
             (8月)人的資源開発基本法
    (12月)民弁教育促進法
  03 (3月)中外合弁学校経営条例         (10月)開放大学法案
  04 (2月)2003-2007年教育振興行動計画
  05 (9月)福建省生涯教育促進条例
             (9月)第3次生涯学習フォーラム(平生教育法・改善法案)
  06 (6月)(改正)義務教育法  (2月)国会に「平生教育法」全面改正案上程
  07           (2月)「平生学習法」提案   (8月)台北市社区大学設置及び
             (12月)平生教育法(全面改正)国会通過       管理法公布
  08 上海市条例策定の動き (2月) 平生教育法(全面改正)施行

【解題】(1,生涯教育・生涯学習法制の動き)
 東アジアの生涯教育関連法制の動きのなかで、いま韓国「平生教育法」が先頭を切って走っていると思われる。韓国はまず社会教育法を成立させたが(1982年)、統制的な軍事政権下において、ほとんど機能しなかった。その後の民主化抗争、1990年代の地方自治回復過程、教育改革方案(1995年)等を経て、社会教育法は平生教育法に全面改正された(1999年)。さらに学会等の専門的論議も加わり、現行(新)平生教育法が登場した(2007年)。画期的な動きといえよう。
大きな改正点は、定義(2条)の積極的な内容、平生教育振興計画(9条)、平生教育振興院(19条)、専門職−平生教育士の配置等(26条)、平生教育「機関」(第5章)、文解(文字解読)教育(39条)等が注目される。本法に基づき地方自治体による平生教育振興条例や平生学習館条例等が策定されつつあり、「平生学習都市」奨励策ともあいまって、韓国の地域生涯学習は(もちろん課題を含みながら)いま躍動期にあると言えよう。
 ほんらいの文解(識字)教育が「文字解読教育」(39条)と矮小化されたことは、文解教育運動関係者(後掲・萬稀氏論文)によって批判をあびており、さらなる改正運動や「文解基礎教育法」制定運動が提起されている。専門学会・研究者による法論議が、今後どのように展開していくか注目される。
 台湾「終身教育法」の成立(2002年)もまた、立法過程において専門学会に委託して制定された。これらの動向は、日本の教育法制の立法・改正過程とは大きく異なる。。
 中国の生涯教育法制の制定は、国家法としてはまだ姿を現していない。1997年頃に成人教育法草案が作成された経過はあるが、実定法とはならなかった。上海市において生涯教育条例案の論議が進められているが、現段階では成案に至らず、ここでは福建省生涯教育促進条例(2005年)を収録した。
 東アジアにおける関係法制の比較検討については、日・中・韓の専門研究者による座談会記録「東アジアの社会教育・生涯学習法制を考える−日本社会教育法60年の歳月をふまえて」(TOAFAEC「東アジア社会教育研究」第14号、2009年)が参考になろう。
【解題】(2,社区大学、社区学校、CLC)
 台湾では「学習社会に向けて」(白書、1998年)が重要な契機となり、「終身学習法」(2002年)の成立を経て、地域生涯学習の活発な展開が始まった。その具体的な方向として地域生涯学習センターの設置、社区大学(コミュニテイ・カレッジ)の展開等が重視されている。収録した楊碧雲報告では、ゼロから出発した社区大学はこの10年間に78校を数え、その後さらに増加している。後掲「社区総体営造」運動とも連動して興味深い。
 次に掲げた上海の報告では、この10年の間に、各区の社区学院、各区それぞれの街道(下部行政機関)の文化活動センター・社区学校、さらに社区分校、末端の住民組織(居民委員会)の教学点、という地域生涯学習の体制がほぼ整備されてきたことが示されている。街道(人口5万〜10万程度)規模に設置されている文化活動センターは、いわば日本の都市型大型公民館とみることができる。
 アジア各地のノンフォーマル教育に新しい状況を生みだしている地域学習センター(CLC)もまた、この10年来の注目すべき動向である。その推進には日本政府援助、日本ユネスコ協会連盟による推進の役割が大きく、現在までにアジア・太平洋地域23ヵ国、中東8ヵ国に関わってきている。CLCの普及経過の概略について、手打明敏論文の一部を抜粋して掲載した。あわせてベトナムの地域共同学習センター(チュンタム・ホックタップ・コムドン)10年の歳月について、全国的な普及運動の中心となったダオー女史の報告を収録した。ダオー女史は「地域共同学習センターの生みの親」「ベトナム公民館の母」と呼ばれる人である。「寺子屋」「公民館」という日本語は、ベトナムの全国的な推進団体「学習振興会」関係者の間では広く知られているという。
【解題】(3,生涯学習に関わる実践・運動)
 日本の生涯学習には、基礎教育・識字教育の視点がほとんど欠落している。その意味で、韓国における文解教育の実践と運動に学ぶ必要があり、また日本ユネスコ協会連盟が唱道してきたアジア「世界寺子屋運動」の動きから触発されるところが少なくない。紙幅の関係で充分の資料を紹介できないが、識字実践は生涯学習の基点(人間的生存権、学習権)であることを教えてくれる。
 韓国の識字教育は制度的というより運動的に前進してきたこと(萬稀論文)、その蓄積のもと自治体行政が果たすべき具体的な役割が明文化(「蔚山広域市中区成人文解教育支援に関する条例」等)されている。このような条例は日本のどの自治体もまだもっていない。
 世界寺子屋運動については、日本ユネスコ協会連盟ホームページから一部を抜粋して概略を紹介した。またとくにCLCとの関連について、日本公民館学会(第8回大会)に報告された関口広隆氏の発表要旨を収録した。
 最後に、台湾「社区総体営造計画」について取り上げている。台湾の生涯学習や社区大学の流れを理解する上で注目すべき独自の地域づくり、行政側の施策と住民側の運動の連携の事例である。前掲の社区大学の事業もまた「社区総体営造計画」と大きな関わりをもってきた。
 これらの歴史的背景には、ながく続いた台湾・国民党一党独裁があり、それに対する民主化運動、社区(地域)問題に取り組む住民運動、台湾の主体性回復の文化運動等があった。1990年から胎動する台湾の「学習社会」創建や「終身学習」への志向は、この歴史潮流の中に位置づけて理解しておく必要がある。日本の「上からの」の生涯学習の流れとは異なる展開であるところが興味深い。




6,東アジアにおける社会教育・生涯学習研究交流の新しい地平・総論
                 −TOAFAECの活動を通して

      
         TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第16号(2011)所収
       
               
(1) 1990年代への歩み、TOAFAEC の発足

 これまでの中国研究の歩み、そして韓国研究の歩みを振り返ってみると、先人たちの先駆的な努力があり、また個別の研究を通して、相互交流の水路がいくつも拓かれてきた。しかし社会教育の領域にしぼってみると、その水路は細く、水脈も豊かに流れてきたとは言い難い。また、日本と中国(台湾を含む)、あるいは日本と韓国についての二国間の研究交流は意図されてきたとしても、「東アジア」の視点をもって、二国間の関係を超える相互関連を力動的に把握しようとする意識や取り組みは稀薄であったと言わざるをえない。
 中国も韓国も、第二次世界大戦後の歴史的政治的な展開は、激動的であると同時に、文化大革命(中国)や軍事政権(韓国)等による閉鎖的な状況があり、平坦な研究交流の地平がのどかに開かれているという流れではなかった。それでも1970年代後半から1980年代に入ると、先駆的研究や海を越える留学生が現れるようになる。ICAEやASPBEの国際会議の出会いを契機として、1988年の日本社会教育学会・第35回研究大会において初めて「アジアの成人教育を考える」シンポジウムが開かれ、中国や東南アジアからの参加者が一堂に並んだ。日本と韓国の研究交流では、とくに1991年から1993年にかけて四次にわたって継続された「日韓社会教育セミナー」が多くの人間的な出会いをつくり(本誌第11号・笹川孝一「試行錯誤で拓いた日韓教育交流の一ページ」、2006年)、これを源流として、その後のEAFAEへの活動が展開していくことになる。
 東アジアに国際的な関係・交流が本格的に動き出すのは1990年代以降(冷戦後)である。社会教育・生涯学習の領域においてもそうであった。中国の改革開放と現代化政策、韓国の文民政権誕生と民主化運動、台湾の一党独裁体制終焉と市民運動の胎動などの政治状況を背景に、専門学会や研究者の相互交流が次第に活発になっていく。
 日本社会教育において東アジア研究をテーマに「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(Tokyo-Okinawa-East・Asia Forum on Adult Education and Cultures)が発足したのは1995年のことであった。東アジアへの関心は、その前身「沖縄社会教育研究会」(1976年創設、東京学芸大学社会教育研究室)に胚胎する。アメリカ占領下・沖縄社会教育史の研究を通して、アメリカ極東戦略に対する分析が不可避であった。それは台湾を含む「東アジア」へ問題関心を拡げることになり、中国及び韓国の関連動向を把握していく必要と、その意味での国際的な視点をもって沖縄及び日本の社会教育の特質や展開を考える課題意識を生み出すこととなった。沖縄社会教育研究から「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(略称:東亜社会教育研究会、TOAFAEC)へと脱皮・発展して、次のステージへの新たな歩みを始めたのである。本節ではまずTOAFAECの展開を中心に、「東アジア」研究・交流の胎動の歩みをたどることにする。
                     
(2) 法制研究と東アジア・モデルの模索
 TOAFAECとしての活動が開始される具体的な背景には、東アジアからの留学生が果たした役割が大きい。1980年代に入って、東京学芸大学社会教育研究室は、中国・韓国・台湾等からの留学生が次第に増加するようになった。1990年当時のことを想起すると、10〜15名前後の社会教育ゼミ(大学院・修士課程)の大半は留学生であった。自主ゼミとして毎週一回の留学生特別ゼミ(「アジア・フォーラム」)が開かれ、中国語学習会が常設され、韓国訪問のスケジュールが決まると研究室内で「ハングル講座」が企画された。
 留学生たちの研究テーマは必ずしも社会教育・生涯学習に限定されるものではなかったが、アジア各地からの留学生の存在によって、社会教育ゼミは"アジアの発見"をしてきたということができる。欧米の成人教育についてはある程度の知見をもっているのに、隣国の東アジアの社会教育について、ほとんど無知に近いこと、その点での留学生たちと研究的な"対話"ができていないことを反省させられた。まず最初に取り組んだ共同テーマは「東アジアの社会教育・成人教育法制」についての資料収集と比較研究であった。日本「社会教育法」(1949年)、琉球政府「社会教育法」(1958年)に加えて、台湾政府「社会教育法」(1953年)、20年余の立法運動の歴史をもつ韓国「社会教育法」(1982年)を軸として、条例、規則・規約、政府「決定」「計画」等を含めた法制資料が集められ、解説と年表を付した報告書がまとめられた。参加した院生及び資料提供等の協力者は23名(うち日本人7名)であった。(東京学芸大学社会教育研究室(小林ゼミ)発行『東アジアの社会教育・成人教育法制』1993年)
 このなかで小林は、日本の社会教育を近代ヨーロッパ・モデルとの対比において類型的に理解する手法から脱し、いわばアジア・モデルとの関係のなかで複眼的に把握する必要を指摘している。とくに同じ名称の「社会教育法」が日本・台湾・韓国において機能している事実をふまえ、戦前日本の台湾・朝鮮に対する植民地支配の痛苦の歴史を忘れることなく、同時に「私たちは東アジアの社会教育の相互関連性、その歴史的な特質、あるいはアジア・モデル的な何か、を明らかにすべき地点に立たされている」ことを指摘している(同報告「総論的に」p3)。関連して小林「東アジアにおける社会教育の概念と法制−三つの社会教育法を中心に」(日本社会教育学会年報40『現代社会教育と法制』所収、1996年)においても、「東アジア・モデル」について言及している。それから15年余が経過した今日、日本では生涯学習振興整備法(1990年)、韓国では「平生教育法」(1999年)、台湾では「終身学習法」(2002年)等の一連の生涯教育法制が整備されるに至っている。いまこれら法制の東アジア的特質を比較・分析することも必要であろう。

(3) 『東アジア社会教育研究』刊行と通信「南の風」
 TOAFAECは1996年、「東アジアの社会教育・成人教育・生涯学習に関する研究、調査、情報交流の"ひろば"を創る」ことを編集方針の第一に掲げて、年報『東アジア社会教育研究』を創刊した。日本・沖縄と東アジアを串刺しにするような思いであった。毎号ともに中国・韓国・台湾そして沖縄についての論稿・報告・資料を掲載してきた。すでに15年余が経過し、年報も16号(本号)を重ねることになった。その編集体制や内容一覧については、TOAFAEC ホームページに収録している。
 http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/1-10kenkyu.htm
 その1年半後にTOAFAEC活動に関連して、研究通信「南の風」が発行された(1998年2月8日・創刊)。もともとは小林の沖縄(南)研究の活性化を呼びかけた個人的なメイル通信から始まったものであるが、創刊時からTOAFAECの広報機能を積極的に担ってきた。毎年平均200号を配信、この13年余の歳月に2700号を数えている。当初は沖縄研究の同人誌的な通信に止まっていたが、数年の間に留学生を窓口に次第に東アジアへネットを拡げ、台湾、上海、北京、広州、烟台など、さらに韓国、最近は福建省へも拡がっている。日中韓・三国フォーラム(2010年11月、後述)や東日本大震災(2011年3月・別稿)など関連情報が集中するときは、ほとんど連日の「風」が(日本国内だけでなく)東アジア各地に配信されることになる。ただし日本語版のみ、いまだ東アジア各都市の"点"を結ぶ段階であって線や面の拡がりにはなっていない。国境を越えて社会教育・生涯学習の関連情報を共有していく速報的な役割は果たしているといえよう。発行リストは目次一覧のかたちで「東アジア社会教育研究」第3号(1998年)以降の各号末尾に記載されている。

 あらためてTOAFAECとしての東アジア・研究交流活動を振り返ってみると、次の五つの柱をあげることができる。この五つは特に規約や綱領の類に明記されたものではなく、15年余の実際の活動軌跡、その曲折の歩みを整理したものである。あえて実現に至らなかった学校経営への挑戦も含めている。小さな団体の"大きな志"、ささやかな取り組みと歳月による思わぬ蓄積と言えようか。詳細資料は、すべてTOAFAEC ホームページに掲載している。http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/toafaec.htm
(1) 日常活動としての定例研究会(原則として毎月開催−2011年8月まで175回を数える)、
 各種の集い(沖縄を語る会、対談・シンポジウム、歓迎・送別会など)
(2) フィールド調査(韓国、上海、沖縄など)、訪問活動、訪日団受け入れ等の親善活動
(3) 研究通信「南の風」発行(上記) *小林・個人通信の側面を併せもっている
(4) 出版活動−A,年報「東アジア社会教育研究」(上記)、B,書籍出版(後述)
(5) 学校経営の模索(上海・閘北区<旧>業余大学との合作学院の構想) *注1・2
  http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/gassaku1997.htm

 [注1] 社会教育の機能を多元的にもつ、社会に開かれた学校の創設は大きな夢であった。中国において文化大革命後に大都市部に設置された「業余大学」は、社会人・職業人が学ぶ社会教育・夜間(短期)大学として機能してきた。その一つ、上海・閘北区業余大学(公立)とTOAFAECとの間で、「合作」学院づくりの協議が進められた経緯がある(1997年〜2000年)。上海駅に近い庶民の路地に閘北区業余大学は位置し、夜間に殿堂のように輝く「大学」へ、仕事を終えた人々が通ってくる情景はまさに社会教育的「学校」の姿であった。学院合作についての相互の協議は数年に及び、学校名・定款・理事構成・校舎・スタッフ(候補)もほぼ確定した段階において、最終的に上海市当局の認可がおりず、合作構想は実現にいたらなかった。閘北区(旧)業余大学は、現在「閘北区・行健職業学院」として発展しているが、同図書館1階に開設されている「小林国際交流閲覧室」は合作学院構想の名残りを留めている。
 [注2] 合作学院構想の意見交換は1995年12月から始まっていた。学校づくりの基本理念として次の五項目が提示され、この理念が合作双方の意向書・協議書の文言に反映されていた。記録として再録しておく。
1,活発な精神と、学習・研究の自由を尊重する(自由の精神)。2,社会的不利益者を含め、すべての民衆に開かれた学校(万人の学習権保障)。3,緑あふれ、花咲きほこる美しい学校(恵まれた環境)。4,利潤を求めず、しかし経営的に持続する(非営利の経営)。5,社会教育・成人教育に関して中国と日本の研究交流と親善に寄与する(日中友好、東アジア社会教育研究ネットワークの形成)。
*一連の経過資料は前記ホームページに収録している。

(4)出版活動−上海・東京・ソウル
 同じように実現しなかった構想として、小さな出版社をつくろうという企画が温められたことがある(2000年〜2002年)。資金調達はもちろん課題であったが、むしろスタッフの体制と、何よりも勇気・決断が不足し、具体化できなかった。上記年報「東アジア社会教育研究」は(さしたる勇気を必要としない)自費出版のかたちで発行されてきた。経費は、初期(1号〜7号)は個人の寄金により、2003年(8号)以降からは有志「維持会員」(TOAFAEC規約第8条)によって支えられてきた。
TOAFAECを母体とする「東アジア」研究に関する出版活動としては、この間に次の4冊が世に出た。上海・東京・ソウルそれぞれの出版社による刊行である。
(1) 小林文人・末本誠・呉遵民共編著『当代社区教育新視野−社区教育理論与実践的国際比較』
 (2003年、上海教育出版社)中国語版。編者以外に中国人10名、日本人10名執筆。
(2) 呉遵民・末本誠・小林文人共編著『現代終身学習論−通向「学習社会」的橋梁与基礎』
 (2008年、上海教育出版社)中国語版。編者以外に中国人4名、日本人8名、韓国人1名執筆。
(3) 黄宗建・小林文人・伊藤長和共編著『韓国の社会教育・生涯学習−市民社会の創造に向けて』
 (2006年、エイデル研究所)日本語版。編者以外に韓国人16名、日本人9名執筆。
(4) 小林文人・伊藤長和・梁炳賛共編著『日本の社会教育・生涯学習−草の根の住民自治と文化
 創造に向けて』
 (2006年、エイデル研究所)ハングル版。編者以外に日本人22名、韓国人9名(コラム等)執筆。
 これらの出版はいずれもTOAFAEC活動の中から企画が生まれた。編集・執筆あるいは批評・評価の過程から新しい研究ネットが形成され、それが次の出版を準備するという循環が生まれている。たとえば、(3) 『韓国の社会教育・生涯学習』の出版は「韓国生涯学習研究フォーラム」の誕生に結びついた(2007年2月)。これに刺激されて「中国生涯学習研究フォーラム」が発足し(2008年12月)、さらに両研究活動を横につなぐかたちで「東アジア社会教育研究交流委員会」が活動を開始した(2009年6月)。また研究フォーラムの相互協力により、上記(4)『日本の社会教育・生涯学習』の日本語版(日本国内出版)の企画が進行中(2012年出版予定)であり、さらに中国語版の出版が模索されている。

(5)相互交流と三国間・上海フォーラム(2010年)への道
 東アジアにおける相互交流・訪問がある程度自由に開かれるのは、ようやく1980年代、それも後半以降のことである。各国・地域の政治的緊張関係がさらに緩和し、海を越える友好親善の活動は1990年代に入って次第に活発化しくる。TOAFAEC としては、とくに北京、上海(華東師範大学、成人教育協会、閘北区等)、広州(広州市教育局)、台北市等の各都市や、韓国社会教育協会(とくに黄宗建氏)との相互交流が断続的に拡がっていった。その媒介役となったのは留学生たちである。またTOAFAEC定例研究会(東京)も留学生に支えられてきた一面がある。個々の氏名をあげる紙幅はないが、この場を借りて深く感謝したい。中国留学生との関係については、「留学生との出会いと交流−この20年」(日中教育研究交流会議『研究年報』第14号、2004年)に詳述している。
 TOAFAEC はとくに華東師範大学(継続教育学院、上海)との間に研究提携について意向書(1998年)、同協議書(2000年)を交わしている。必ずしも順調に推移したわけではないが、上海成人教育協会を含めて、上海との間には相互に活発な往来があった。2001年11月は、TOAFAEC「社区教育」調査団が上海・蘇州等を訪問調査し、報告書(『中国上海・無錫・蘇州「社区教育」調査報告書』2002年、佐賀大学)がまとめられた。2002年 7月には、上海成人教育協会から社会教育調査団が来日し、葉忠海団長より「東アジア国際フォーラム」開催の提案が行われ、2004年11月、上海において「学習型社会創建国際シンポジウム」が開催されている。この経過は、TOAFAECホームページに記録している。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/tyuugokuhyousi.htm
 TOAFAEC としても、沖縄研究の蓄積があり、たとえば沖縄・名護の地で、中国、韓国そして台湾の友人たちに呼びかけ、「東アジア」社会教育・生涯学習に関する国際的な集いを開催できないかと検討した経過がある。韓国の黄宗建氏などと「ぜひ!実現しよう」と盛り上がったこともあった。1日を学び、1日を遊び、1日を地域と交流して、お互いの友情を深め研究交流を重ねていこう、などと楽しいプログラムが構想された懐かしい想い出がある。2008年3月に華東師範大学の訪日団は東京滞在のあと初めて沖縄の地に足をのばし、この旅には金済泰、魯在化など3氏が韓国から参加した。2009年12月の上海成人教育協会訪日団は日本スケジュールを終えたあと、初めて韓国訪問の日程を組んだ。こうして日中韓の三国間交流の気運は次第に熟していったのである。
 2010年11月26〜28日の日程で、日中韓生涯教育フォーラム(上海フォーラム)が上海外国語大学を会場に盛大に開催された。東アジア社会教育・生涯学習の交流史において、二国間から三国間交流への本格的な国際フォーラムの時代が幕を開けたことになる。その準備過程は充全な実務交流とはならず、前途を危ぶむ声もあった。また中国側(中国成人教育協会)と韓国側(韓国平生教育総連合会)の主催団体に比して、日本側(東アジア社会教育研究交流委員会)の体制は非力であり、戸惑いもあり課題を残すこととなった。しかし、中国・上海側の積極的な歓迎のもと、三国がともに協力しあって新しい交流の時代を開いたことは確かであろう。上海フォーラム開催にあたり、中心的役割を担われた葉忠海(上海成人教育協会)、羅杏煥(上海市外国語大学継続教育学院)の両氏はじめ関係各位に深甚の謝意を表したい。
 上海フォーラムの開催状況、その成果や課題については後述される。ここでは全般的な総括として、集会最終日に小林がおこなった閉幕挨拶の記録を再録しておくこととする。
(1) 交流は儀式行事だけでなく、研究と議論が行われる本格的な交流となった。歴史的な一歩といえるだろう。(2) この10年の社会教育・生涯教育は、韓国の躍動、中国の発展、そして日本の混迷、脱皮への模索、であったことがわかってきた。(3) お互いの違いを知ることができたが、同時に相互共通の課題も見えてきたのではないか。(4) 学習型社会の創造は、国家の役割が問われるが、大学や自治体の役割が大切であり、とくに「地域」のキーワードが出てきた。(5)学習とは何か、を考える印象的な機会となった。学習は一人一人のためにあると同時に、その連帯と共同、「共同学習」「学びあいの共同体」の方向が提起された。(6) 学習型社会の創造に向けた立法論の動きがある。この間の韓国の平生教育法の取り組み、中国・福建省の生涯教育促進条例の事例を通してその方向を知ることができた。(7) とくに日本側が提起したコーディネーターとしての社会教育主事、また韓国の平生教育士にみられる専門職制度を今後どのように前進させていくか課題であろう。大きな国の中国でこれからどんな展開が始まるか興味深い。…(伊藤長和「上海フォーラム報告」南の風2544号、2010年11月30日)

(6)新しい地平−いくつかの理論的課題
 東アジアの社会教育・生涯学習における「新しい地平」(本稿のテーマ)をどう捉えるか。その把握にとっての理論的な課題は何か。われわれは、その実践的な成果を発見し共有し始めているだろうか。
新しい地平という場合、何をもって"新しい"とするか、その歴史的な視点が問われ、同時にどのような"地平"を共有できるかという点では、いわば比較的な視角をもって追求する必要があろう。東アジアはまさに激動の歴史であり、そこで展開されてきた社会教育・生涯学習の動きもまた国・地域によって個別に異なり、複雑かつ多様な拡がりをもつ。歴史的かつ比較的に深めれば深めるほど、それぞれの個別的な違いと多様な展開は、はっきりと際立ってくる。
 しかしこれまで研究交流を重ねてきて、とくにこの数年、われわれは東アジアについて「いかに違うか」を明確にすると同時に、そのことを通して、相互にある程度共通する特徴や課題をいくつか発見してきたように思われる。とりわけ今回の2010「上海フオーラム」の論議のなかで、ともに検討するに価する「新しい地平」のようなもの、ともに追求すべき課題や方向を認識し始めたのではないかと思われる。相互の"異同"を問いつつ、共通する課題をともに追求していく起点に立っているのではないだろうか。
 あえていくつかの理論的課題を提起してみよう。第一は、社会教育、成人教育、「終身教育」「平生教育」「社区教育」など、東アジアの各国・地域の歴史的展開のなかで登場してきた諸概念の検討である。それぞれの概念が歴史性をもち、それぞれに固有の制度や実践が構築されてきた。一方で労働や職業に関わる教育・訓練とも交錯し、他方で文化や福祉の領域とも深い関連をもっている。その外延的な違いはいろいろあるだろうが、歴史的な蓄積のなかで、中核に「社会(市民)」「生涯」「地域」の三つのキーワードが共通に内在化してきていると見ることもできる。このような概念的な論議を深めていく課題があろう。
 第二に、東アジアに特有な社会教育・生涯学習「法制」の展開に注目する必要がある。周知のように「社会教育法」は、日本(1949年)や台湾(1953年)ではすでに60年前後の歴史をもち、韓国では30年の立法過程のもと成立した「社会教育法」(1982年)の歴史があり、その後これを全面改正して「平生教育法」(1999年)が公布され現在にいたっている。他方で台湾政府は社会教育法を残しつつ、平行して「終身学習法」(2002年)を成立させた。生涯学習関連「法制」についても、日本では同「振興整備法」(1990年)がすでに20年を経過し、中国では今世紀に入って地方条例のかたちで「生涯教育促進条例」(福建省2005年、上海市2011年)が新しく登場した。国家レベルの生涯教育法制化の動きも伝えられている。
 それぞれの歴史的展開の、その内容や定着状況は当然異なるが、いわゆる立法・行政における法律主義を志向している点において東アジアには共通する潮流がみられる。歳月のなかで蓄積されてきた法制論・改正論議には共通する論点・課題が含まれていよう。とくに近年の韓国・平生教育法をめぐる活発な論議と、自治体レベルの関連「条例」策定の動向には学ぶ点が多いと思われる。
 第三に、東アジアには社会教育・生涯学習に固有な地域「施設」の歴史的な登場がみられる。単なる理念にとどまらず、住民の活動拠点としての実像が機能し始めている。たとえば今世紀に入って上海市では全230街道(行政単位)に文化活動センター等の拠点施設が設置され、社区教育施設(社区学校、教学点など)のネットワークが整備されてきた(本誌第第14号「上海市閘北区調査報告」2009年)。韓国では平生教育法改正(2007年)によって、国及び道・広域市の平生教育振興院(同法第19〜20条)だけでなく、市・郡・区における「平生学習館」設置の法規定(同21条)が用意され、地域生涯学習施設としての新しい歴史が始まっている。
 周知のように日本では、社会教育専門施設として「公民館」60年の歳月がある。これまでその構想・施設空間・事業実践等について多くの蓄積を重ねてきたが、1990年代以降の新自由主義政策によって大きな停滞を強いられてきた。台北市を中心とする社区大学の拡大にも注目すべき動きがあり、これらを含めて東アジアの地域施設躍動の流れに位置づけ、公民館施設の固有の理論と可能性をさらに発展させていく必要があろう。
 第四は、住民の社会教育・生涯学習活動を支援する「専門職員」制度、その集団的形成の課題に注目したい。日本の社会教育専門職制度は、社会教育主事法制化の歴史をたどれば60年の歳月を重ねてきた。しかし(公民館主事を含めて)法規定において不備であり、自治体レベルの位置づけや個々の実践的力量によって多くの格差を含んできた。これと並んで、韓国では平生教育法により平生教育士の専門職制度が発足し、法規定では日本より水準が高いが、実際の人事任用や専門職務の内容について、さらに充実していく課題があり、専門職制度形成への水路が豊かに拓かれることが期待される。
 専門職制度の法的規定が未発の中国においても、前述の文化・教育施設の増加により、この分野の専門的職務に従事する職員(多く学校教師の派遣による)は画期的に増大した。いま東アジアとくに大都市部において、社会教育・生涯学習領域に従事する職員集団は大きく拡大し、その専門的力量がひろく要請される段階を迎えた。この量的拡大とともに質的な専門職化と集団化への道が共通の課題となってきている。
 第五に、社会教育・生涯学習の振興において、国家の役割が大きいことは言うまでもないが、同時に地方の各級「自治体」と「住民自治」組織の重要性が明確になってきたことが重要であろう。それぞれの国・地域において(状況は異なるが)自治体の計画・行政・運営の具体的な展開が実質的な意味をもち、対応して住民の参加・自治・運動の取り組みが深い関連をもつことが明らかになってきた。
 住民の学習や活動は基本的に地域的に実践される。日常の生活に密着することが求められ、生活の場としての地域を再生し発展させていくことが期待される。その意味で「地域づくり」や集落「共同体」に結びつく社会教育・生涯学習の実践が問われることになる。
 
 東アジアにおける「新たな地平」を発見し共有していく視点として仮説的に、概念、法制、施設、専門職、自治体と住民自治、の5課題あげてみたが、もちろん以上に限定されるものではない。さらに個別的な実践課題としては、それぞれの国・地域の制約のなかでも、興味深い動きが始まっている。たとえば2010「上海フオーラム」における金南宣(韓国・大邱大学)報告のテーマをあげれば、生涯学習中心大学、生涯学習口座制、成人識字教育、障害者等マイノリテイのための生涯教育、生涯学習都市事業、単位銀行制が「韓国の主要政策6点」として報告された。このテーマに対応する日本社会教育の主要政策はどのような構図になるのか、論議を深めていきたいところである。
 あと一つ、以上の理論的実践的な諸課題については、関連してさらに具体的な構想や条例・実践プログラム・施設・職員論等が生み出されてきている。思いつくままに例示すれば、上海市生涯教育促進条例(中国)、安養市成人識字教育支援条例(韓国)、「学びあうコミュニティ」構想(日本)、台北市社区大学(台湾)、公民館デザイン(日本)、平生教育実践協議会(韓国)、夜間中学校教科書(日本)、ソウル市冠岳区生涯学習ネットワーク(韓国)、竹富島公民館憲章(日本)などなど、あげればきりがない。
 これらの具体的な実践的成果を横に並べて、その特徴、価値、課題等を相互に研究交流しながら、お互いにとっての「新しい地平」をさらに前進させていきたいものである。        (小林 文人)




7,東アジアにおける社会教育・生涯学習の最近動向から見えてくるもの
  −専門職制度と市民の関わりについて、いくつかの課題−

   TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第17号(2012)所収


(1) 1990年代以降の潮流
 
東アジアにおいて、社会教育・生涯学習(あるいは成人教育・継続教育・社区教育等を含む、以下同じ)の諸領域は、ほぼ1990年代以降、歴史的な新しい段階を迎えたと言えよう。国際的な「生涯教育」「学習社会」の動きに刺激されつつ、中国ではこの時期の改革開放・現代化政策、韓国では文民政権の誕生と地方自治・市民運動、台湾では戒厳令体制の終焉と民主化・文化諸運動など、それぞれの国・地域の政治的、経済的、社会的な新しい状況を背景としての展開であった。社会教育・生涯学習における画期的な躍動の時代の到来を思わせるものがある。
 とくに今世紀に入って、この10年余りの間に、この潮流はさらに勢いを増している。法制的な動きをみれば、韓国「平生教育法」(1999年)成立とその全面改正(2007年)があり、台湾では旧来の社会教育法と併行して「終身学習法」(2002年)が施行されている。中国は国家実定法としては未整備であるが、福建省(2005年)、上海市(2011年)にみられるように地方法制として「終身教育促進条例」が制定され、さらに雲南省等において後続の地方条例化の動きが伝えられている(本年報別稿「中国の生涯学習・この1年」参照)。これらは、単なる法の理念や形式レベルにとどまらず、いま具体的な行政施策や財政的条件を伴って、地方的に「社会教育・生涯学習」の実像が現実に姿を現してきていることに注目しておきたい。
 もちろんそれぞれの国家体制の違いがあり、また地域的な格差は少なくないが、1990年代以降のこの躍動は、東アジアにある程度共通する流れとなってきている。主要都市を中心に、それまでに見られない社会教育・生涯学習に関する行政施策や諸事業、諸施設の設置、それらに携わる職員集団の胎動、関連団体の活発化、そして何より諸活動への市民・住民の積極的な参加、が拡大してきている。これらの動向には、(各国・地域それぞれの状況のなかで)民主主義、地方自治、市民意識、文化的アイデンティティ、などの新しい取り組みが底流に動いていることも確かなことであろう。

(2) 専門職制度化への道程
 社会教育・生涯学習を担う専門職制度化への動きは、東アジアのこのような潮流を背景としている。今世紀に入って各国・地域で取り組まれてきた専門職員に関わる動きを、その法制化の動きとも関連させて概括的にみておこう。
 まず台湾では、旧来の社会教育法(1953年成立、1980年改正)では特段の専門職規定は用意されていなかった。1990年代の「成人教育法(草案)」(1991年、「成人教育専門職員」関連条項を含む)を経て、2002年に成立する「終身学習法」において「専門職員の採用」「在職研修」規定が設けられている(同法第14条)。しかしその資格要件、職務内容、養成・研修体系等の細目は定かではない。実際の展開では次のような課題が多く指摘されている。たとえば地域「終身学習センター」設置・運営にあたって専門的「企画・相談」「指導機能」が不備であり、「成人教育の専門体制」「専門化に関する法規条例」整備が必要であること(本年報第14号、張苑珍論文、2009)。他方で、台北市を中心に1999年以降に飛躍的に発展している「社区大学」(2008年:78大学、学生累計46万5千人)では、どのような専門的体制が機能しているのか。おそらくカリキュラム編成や学校運営、単位・学位認定問題、専門ボランティア育成等にあたって、相当の専門的スタッフ集団が形成されつつあると思われる(本年報第13号・第15号、楊碧雲論文、2008〜2010)
 中華人民共和国では(上述したように)生涯教育に関しての国家実定法はまだ用意されていないが、草案レベルの中国「成人教育法案」では、「成人教育従事者」について1章(34〜39条)が設けられていた(本年報第2号所収「中華人民共和国成人教育法(草案)への動き」、1997)。この段階での成人教育(職業訓練、継続教育、識字教育、専門教育、自学試験等)にあたる専門職は「成人教育の教師」として教師資格が前提とされ、その資格基準や職務評価の審査機関等とともに、「国は…成人教育従事者の社会的地位の向上」を図る(同草案第35条)ことが求められていた。
 今世紀に入って、中国では初めて福建省「終身学習促進条例」(2005年)が登場し、また2011年には上海市「終身学習促進条例」が制定されたことは上述した。両条例はいずれも「…専門家、学者その他の専門知識と特殊技能をつものが自ら生涯教育へ奉仕することを奨励する」(福建・条例第9条)こと、また「生涯教育活動に従事する専任教師は相当の教員資格を取得しなければならない」(上海・条例第20条)ことが規定されている。しかし(前提としての教師資格以外には)特段の専門職制度は定められていない。成人教育・生涯教育の固有の専門職制度化の方向が意識されながら、現実施策としての専門職制度は未発の状況である。
 この点について、日本及び韓国の動きを視察した福建省レポートでは、専門職制度化の必要について次のように指摘している。「…生涯教育に関する管理集団と専門職員制度の建設を強化すべきである。福建省条例には生涯教育に従事する管理集団と専門職員の設置に触れていない。その後、福建省全民終身教育促進会は…生涯教育の業務のために、専門外の兼業職員の働きを活かし、ボランティア職員チームを組織するべきだとした。生涯教育の壮大な目標を達成させるためには少数の専門職員及びボランティアだけでは足りておらず、専門的素養を備えた職員と管理集団が必要である。韓国が施行した平生教育士制度、日本の社会教育主事制度は参考にする価値がある」(本年報別稿、李闘石「日本・韓国の生涯教育視察」、2011)。この報告では、専門職制度の創設は地方(省)ではなく、国家としての積極的な施策化の努力が求められている。
 今世紀初頭より中国各都市で活発な展開をみせている「社区教育」について、法制化レベルではないが、地域実践を事例として「社区教育工作者」の状況が報告された(本年報別項、王国輝・大連市事例)。学校教師の専門性を活用しつつ、「社区教育」の専門職集団形成への道程をしめす取り組みとして注目される。

(3) 韓国「平生教育士」制度の胎動
 韓国の専門職制度化への歩みはどのような展開であったのか。旧「社会教育法」制定(1982年)当時は軍事政権下であったが、この段階ですでに社会教育「専門要員」の名称による専門職制度が明文化されている(同法第17〜20条、同施行令9条〜12条)。立法運動にあたった関係者の先駆的な努力によって、日本・社会教育主事に相当する職員制度が盛り込まれた。教育専門職への志向をもった職務内容、資格要件、さらに配置基準などの規定は、むしろ日本より水準の高い内容となっている(東京学芸大学社会教育研究室「東アジアの社会教育・成人教育法制」1993、大韓民国の項)。しかし当時の国家体制や地方自治未発の状況下では、その実際的な定着は容易ではなかった。「…社会教育科や社会教育専門大学院を設置する大学もあったが、養成された人材が適切に現場に配置される与件」はほとんど用意されていなかったのである(本年報第12号、梁炳賛論文、2007)。
 その後、大統領諮問教育改革委員会「教育改革方案」(1995年)を経て、社会教育法にかわる「平生教育法」が制定され(1999年)、新しく「平生教育士」制度が登場することになる。その後に全面改正された現行「平生教育法」(2007)により、さらに充実した内容となった。
 法では、平生教育士の専門職としての資格・職務, 養成・研修、配置・採用、経費援助(第24〜26条、同施行令第15〜22条)が定められている(本年報第13号、李正連論文、添付資料・法新旧対照表、2008)。東アジアにおける生涯教育を担う専門職制度の注目すべき到達点が示されているということができよう。
 平生教育法は「平生教育機関には…平生教育士を設置しなければならない」とし、平生教育振興院(広域市・道)や平生学習館(市・郡・区)には平生教育士の設置が義務づけられている。また幼・小・中・高の諸学校も「…平生教育士を採用することができる」(第26条)とされた。その後、全国の自治体・教育庁に平生教育行政組織が整備される過程において、急速に平生教育士の配置が進行していく。また日本と違って、民間企業付設の文化センターや知識・人材開発関連施設等においても、平生教育施設としての登録要件となる平生教育士の配置が始まっていく。梁炳賛によれば、2008年から2010年にかけて、平生学習館はじめ大学付設、通信教育、民間企業付設、人材開発等の平生教育施設に配置された平生教育士は、1,356人から2,496人へと増加し、ほぼ倍増に近い勢いである(本年報第16号、梁炳賛論文、2011)。法の全面改正(2007年)からわずか5年の歳月、その間に平生教育士の養成と現場への普及・定着が着実に進展し始めているとみることができよう。
 しかしその雇用形態は必ずしも安定的ではない。平生教育法の全面改正後に専任「平生教育公務員」としての採用が一定の拡がりをみせているものの、多くの場合、専門職としての位置づけをもちながら任期制「契約職」が多く、「雇用が不安定であるため…、ひとつの職場に1名程度の配置のため…、専門性を発揮するには限界がある」という実態が少なくない。その改善のために、公務員人事体系のなかに「平生教育公務員」を「職列化」することが課題とされている。安定的な専門職としての採用・配置を求めて、韓国あげて平生教育関連諸団体(平生教育総連合会、平生教育士協会、平生教育学会、女性平生教育会、平生教育実践協議会など)による「職列化」要請運動が取り組まれている。「…さまざまな団体が共に連帯しながら持続的な努力をしなければならない。今まさに一歩を踏み出したと言えよう。…平生教育職員の専門性と公共性を発揮する活動が、現場でさらに活発に進められなければならい」と思いが語られている。(同上、梁炳賛論文、2011)
 平生教育を専門的に担う「平生教育士」制度は、このようにして職業的地位を改善しつつ、専門的能力を自己形成していく歩みを積み重ねていくのであろう。いままさに胎動し躍動を始めている。

(4) 日本の社会教育「指導系職員」の動向
 社会教育・生涯学習に関わる専門職制度は、それぞれの国・地域において、その歴史と時代の必要の中から取り組みが始まり、歴史的な積み重ねの中で制度的実質が形成され蓄積されていくものであろう。近代ヨーロッパにおける類似の専門職(仏:アニマトゥール、独:ゾッィアール・ペダゴーゲ(社会教育士)、英:チューター、ユースワーカーなど)の制度形成史を瞥見してみると、もちろん一様でないが、1世紀以上の、あるいは半世紀を超える蓄積の歴史があった。それぞれの積み重ねのなかで、ドイツ「社会教育士」は現在25万人余りが登録し「…小学校教諭並みに社会教育士が存在」していること、フランス「アニマトゥール」は12万人以上がこれに携わり、加えて「ボランティア・アニマトゥール」は約500万人とも伝えられている。(日本社会教育学会編『学びあうコミュニティを培う』東洋館出版社、2009、所収の岩橋恵子、矢口悦子等の論文、生田周二他著『青少年育成・援助と教育−ドイツ社会教育史の歴史、活動、専門性に学ぶ』有信堂、2011、等を参照)
 韓国の場合、平生教育士制度の歩みは、平生教育法の全面改正(2007年)から数えて、ようやく5年を経過したばかりである。ヨーロッパの専門職制度史と比較すると、まさに端緒についたばかり、いまその歴史的な道程が活発に始まっていることになる。これからの歩みが期待される。
 さて日本の社会教育専門職の歴史はどうであろうか。社会教育主事制度は、その戦前史(官吏としての社会教育主事)を除いて、戦後改革期に専門職として法制化(社会教育法の一部改正、1951年)されてからすでに60年余が経過している。制度形成・定着の歳月としては充分すぎる歳月が経過していると言えよう。
 半世紀を超えるこの過程は、教育委員会制度の発足と社会教育行政・施設整備のなかで配置されてきた社会教育職員総体の歴史と重なっている。ここでは、そのなかの「指導系職員」に注目してみる。文部科学省(指定統計)社会教育調査は、社会教育主事、図書館司書・博物館学芸員など一定の法的基礎をもつ専門職だけでなく、「当該施設が行う事業の指導にあたる者」を「指導系職員」として作表している。ここには60年余の歳月のなかで形成されてきた"専門的な社会教育職員"集団の状況が示されているといえよう。

 文部科学省(指定統計)平成20年度・社会教育調査報告(p15)
 表6「指導系職員の状況」()
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa02/shakai/kekka/k_detail/__icsFiles/afieldfile/2010/04/01/1268528_2_1.pdf
 
 この表からは、いくつか興味深い特徴が読みとれる。(1) 60余年の歳月を経て、約11万5千人、体育系職員をのぞけば約4万8千人の指導系職員が配置されている、(2) 社会教育職員総数に占める指導系職員の割合は21.5%、(3) そのうち専任職員は43.8%、兼任・非常勤職員の割合が半数を超える、(4) 女性比率は49.4%、(5) 年次推移をみると指導系職員全体としては増加している。しかし社会教育主事、公民館主事は10年来の減少傾向にある、などである。公民館主事の中には社会教育主事有資格者が少なくないと見られるが、残念ながら本表ではその比率は明らかではない。

(5)専門職制度と市民の関わりについて、いくつかの課題
    −東アジアの社会教育・生涯学習の動向から見えてくるもの
 上述してきた東アジア各国・地域の専門職員の動き、とくに韓国の躍動は、日本の社会教育主事・公民館主事あるいは「指導系職員」をめぐる専門職化論議にかかわって、いくつか重要なことを問いかけているように思われる。以下、日本の問題として検討すべき視点・課題を4点ほど提起して、まとめにかえる。
 1, 専門職員をめぐる法制論の再構築 専門職法制論は社会教育主事制度に限定されるものではない。実際の事業・実践が行われる機関・施設に携わる職員の専門職化、その資格基準や配置基準を含めて論議を拡げていく必要がある。この点では韓国の平生教育士に関する法制が多くのことを示唆してくれる。
 前掲「指導系職員」表は、とくに施設職員の存在とその専門職化問題を考える上で重要である。この問題は当初から公民館主事の専門職化論として積年の課題となってきた。かっての公民館単行法運動(1955〜1958年)に始まり、「公民館のあるべき姿と今日的指標」「第2次専門委員会報告」(全国公民館連合会、1967〜70年)や「新しい公民館像をめざして」(東京都教育庁・資料作成委員会、1974年)など一連の公民館主事専門職化論の流れがあり、見るべき蓄積をもっている。また自治体条例・規則によって公民館主事の専門職化を実現している事例(国立市、松本市、貝塚市、鶴ヶ島市等等)も重要である。この点は、東アジアにおいて地方から生涯教育関連条例を独自に成立させている中国の動き、あるいは国家法制を発展させる方向で活発な自治体条例の策定が始まっている韓国の事例から刺激されるところも大きい。
 2, 専門職としての力量形成と専門職化運動 社会的に期待される専門職制度は、一朝にして成るのではなく、歴史的かつ運動的に形成されてきた。専門的力量を自己開発しつつ、職業的地位や社会的支持を確立していくプロセスは相当の歳月を必要とする。その意味で専門職制度化への道は、歴史的に追求され運動的に達成されていく創造の歩みであるといえよう。韓国において、2002年に設立された「韓国平生教育士協会」、それと帯同しながら自己開発プログラムを組織し運動に取り組んできた「平生教育実践協議会」(2004年〜)は、その典型的な事例として注目される(本年報第15号、李揆仙「共に生きる共同体を夢見る人々」2010)
 日本では、社会教育主事制度が法制化された時期に、斉藤峻らによる「全国社会教育主事協会」設立の動き(1951年)があったが、職能団体的な組織化は実現しなかった。一時期、「東京都社会教育主事協会」が動いた記録が残されている程度である(東京都立多摩社会教育会館「戦後三多摩における社会教育の歩み」X、1992)。各地の公民館連合組織や公民館主事会、あるいは民間運動としての社会教育推進全国協議会などの活動は、ある意味で社会教育主事や公民館主事の専門職化運動の側面(と可能性)を内包しているとも考えられよう。
 3, 市民・住民と専門職員との多元的・重層的な関係 東アジアにおける最近の生涯教育や中国・社区教育への展開は、新しい市民・住民の参加と多様な専門職集団のネットワークを生みだしつつある。中国・大連の事例では、専門「社区教育工作者」として行政管理者、専任教員、地域の専門講師、そしてボランティアをあげている(本年報別稿、王国輝論文)。韓国・平生教育士のまわりには、日本・社会教育主事・公民館主事の場合がそうであるように、たとえば関連行政の専門職員、地域の医療・福祉の専門職、文化・芸術の専門家、環境問題等にかかわる運動家や研究者など多彩な専門職集団の拡がりがあるに違いない。一つには、市民・住民の側にボランティア、活動家、専門的市民などを含む新しい参加があり、他方では専門職員の側に専門職ネットワークの展開がある。従来までの市民・住民と専門職員の二元的な構図は、いま多元的かつ重層的な関係として把握していく段階にきたのではないか。専門職的力量の内実も、このような拡がりの視点をもって新しく組み立てていく必要があるだろう。
 4, 教育専門職論と地域コーディネーター論の総合 社会教育・生涯教育を担う専門職の職務・力量の系譜をたどれば、いうまでもなく「教育専門職」としての役割が重要となってくる。生涯教育は教育体系のなかに位置づき、学校教育(とくに高等教育)とフォーマルな関係をもって、単位互換や学歴認定の制度などが機能していく側面をもっている(韓国・平生教育法第23条「学習口座」、第41条「学点、学歴等の認定」等の条項)。韓国の場合はとくに平生教育士の職務として「平生教育の企画・振興・分析・評価及び教授業務を遂行する」(同法第24条A)ことが規定され、基本的に教育専門職としての職務が法定されているのは周知のことであろう。この点は中国における開放大学(放送大学)や台湾「社区大学」の動向と、それらの高等教育との単位互換や学歴認定、それに携わる専門職の役割とも関連してくる。
 他方で地域レベルの「平生学習館」(韓国)や「社区教育」(中国)の実践では、それらを担う専門職員は「地域コーディネーター」としての職務・力量が期待されることになる。また日本社会教育学会では、社会教育の新しい専門職像として「学びあうコミュニテイのコーディネーター」を提起した(日本社会教育学会編「学びあうコミュニテイを培う」東洋館、2009)。教育専門職と地域コーディネーターとしての専門職論をどのように結合し総合していくか。いずれかに傾斜する方向で深化させていくか、あるいは両者を統一する視点をもって、いわば総合的な専門職論を展開させていくか。これからの時代的な要請に応えつつ、おそらく後者の方向で積極的な努力が重要になってくるのではないだろうか。
 日本のノンフォーマルな社会教育のなかの、フォーマルな部分(学級・講座、その構造化や大学との連携など)を再発見することにもつながっていくだろう。 (小林 文人)




8,東アジアにおける「自治と共同」(座談会)
   TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第18号(2013)所収

<発題>
 1990年代からの躍動

 いま、東アジアの社会教育・生涯学習の動向を大づかみにどうとらえることができるか。1990年前後の冷戦終結が大きな転機となったことは疑いありません。1990年代からこの20年に新しい激動の展開がありました。東アジアの激動といえば、歴史的にはたとえば朝鮮動乱、あるいは中国の両岸問題や文化大革命、台湾の戒厳令など、戦争と混乱、あるいは政治的統制の厳しい時代を思い浮かべますが、1990年代以降では、東アジアの海を越える国際交流、改革・発展、民主化や市民運動の胎動など、これまでにない新しい時代の20年、ということができましょう。この時代を背景として社会教育・生涯学習がこれまでにない歴史的な展開をみせていると思います。私たちのTOAFAECの活動も、1996年以降、海をこえて[「東アジア」研究誌を編集発刊する時代となりました。    
 メモに「冷戦後、改革開放期、政治体制の民主化、市民運動の胎動、海を越える研究交流」と書いているのは、「東アジア」におけるこの画期的な時代の潮流を強調したかったからです。詳細に説明する余裕はありませんが、韓国では何よりも1987年の民主化宣言が大きな画期となるのでしょうが、軍事政権が終結し,1990年代に民政に移行する。そこでは地方自治が再生し、ナショナルなレベルでの市民運動が草の根の市民運動へと拡がりをみせ、その流れのなかで新しい平生教育への制度改革が胎動していくのですね。
 台湾でも、同じ1987年に戒厳令が終結します。蒋介石の国民党による一党支配が続いてきましたが、それが解体し、中華民国・国民党政権下で呻吟してきた台湾のアイデンティティを問う文化運動や、国民党政治の統制的な支配から民進党への政権交代が1990年代に動いてきました。また周知のように中国では、ケ小平の改革開放政策が1980年代からの流れとなりましたが、天安門事件をへて、1990年代にそれまでの社会主義経済から「社会主義市場経済」へと大転換し、「単位」社会から脱皮し、新しく「社区」(地域)基層構造の改造が目指されてきました、その後は政治・経済の大きな転換が進行してきています。そのなかで、生涯教育やいわゆる「社区教育」の新しい動がいま注目されているのです。
 このような東アジアをめぐる状況の中で、国・地域それぞれの経過や事情は異なりますが、共通して社会教育・生涯学習は新しい段階を迎えていると言えましょう。私たちの海をこえる研究交流もひとつの拡がりをもってきました。1980年代にも、何度か中国や韓国を訪れましたが(韓国を含めて)地域調査などなかなかできない、制限された旅でした。しかし1990年代に入ると、本格的な社会教育・生涯学習について調査し論議し研究的に語りあうことができるようになったと思います。

生涯学習に関する法制化と地域(社区)
 1990年代の各国・地域の市民運動の拡がり、政治体制の民主化運動、あるいは文化運動やそれと連動する地域づくり運動(台湾「社区総体営造」運動)は、地方自治制度の改革・再生の動きと連動していました。また、自治体レベルの社会教育・生涯学習の新しい構築に結ぶところがありました。具体的には、国の法制化があり、自治体の条例制定、施設設置、職員配置、住民参加による事業や実践など、これまでにない動きに繋がっています。
 まず韓国について。1982年・社会教育法が成立していますが、その後の軍事政権下では社会教育法の実質的な展開はなかったと言ってもいいと思います。1995年に金宗西先生を委員長とする大統領諮問委員会による1995年「教育改革方案」があり、それが平生教育法の制定(1999年)、そして改正(2007年)へと展開していくことになります。旧社会教育法の全面改正です。そのなかで基礎自治体の役割がくっきりと見えてきています。
 今世紀に入ってからの韓国「平生教育」の動きは、おそらく歴史に残る躍動だと思います。日本の戦後社会教育改革期と比べうるかどうか、いま大躍進を遂げつつあるといって過言ではありません。法制度をつくり、新しい施策を出し、日本の経験にも学びながら生涯学習都市を奨励し、各都市は条例や施設をつくり、そこに平生学習士を配置し、新しい平生学習施策が韓国全土に広がりつつあります。
 台湾では、旧来の社会教育法(1958年成立)と並んで、2002年「終身学習法」の制定があります。同じく台湾教育史にみられない新しい躍動期と言えましょう。2000年前後から台北市「社区大学」(コミュニテイ・カレッジ)の注目すべき拡がりがありますが、そこには台北市の自治的な独自の取り組みと、意欲的なボランティアや市民の積極的な参加が注目されます。
 中国については、国家法制としての生涯教育法は制定されていませんが、関連教育法(職業教育法・1996年、高等教育法・1998年等)が整備され、また今世紀に入って、福建省(2005年)や上海市(2011年)等の地方レベルの「生涯教育促進条例」制定が新しい動きです。あわせて、とくに大都市において「社区教育」の積極的な構築が進められてきました。私たちの『東アジア社会教育研究』でも中国の「社区教育」の動きを紹介してきました。
 「社区」はコミュニティの中国語訳とされています。しかしコミュニティの実態は国・地域によって一様ではなく、とくに社会主義国家である中国において市民社会的なコミュニティがどのように実態で形成されてきているのか、興味深い問題です。中国特有の地域政策「社区」建設は、多くが上からの展開という流れで具体化されてきました。
 前世紀から今世紀にかけて、中国では(前述したように)「単位」社会から「社区」社会への大きな転換が求められています。全国に向けての「社区建設」通達(2000年、中国国務院)はその中心的な施策を示しています。その「社区建設」に対応して、上海等に典型的に見られるように、「社区教育」の施策・事業(各区に社区学院、街道に社区学校・文化センター、居民委員会レベルに教学点など)が具体化されてきています。

とくに中国−社区建設と社区教育
 私は1990年代後半から、上海市閘北区の社区学院(当初は業余大学)と合作学院づくりの企画が組まれて、よく上海に通いました。当時、1990年代末頃まで「単位」社会から「社区」社会へという政策的な動きがよく分かりませんでした。しかし今になって振り返ると、中国の「単位」社会の実像、その「解体」の具体的な過程をこの目で見てきたように思います。中国の社会構造の基本にあった国営企業等の「単位」社会、経済はもちろん生活全般が「単位」で動いていた構造が、2000年代に入ると、驚くほどの規模で壊れていく。国有企業が後退し、労働「分配」制度がなくなり、逆にレイオフが拡大し、みんなが「市場」に放り出されるような実態。生産・労働だけでなく、生活基盤それ自体が大変貌をとげていった時代です。市場で経営する企業が拡大し、社会の基層構造は「単位」社会から「社区」建設へ、それぞれに大きな課題を背負うことになりました。国家課題としての社区建設と結びついて「社区」教育が新しい政策として登場してくるのです。
 前述した2000年「全国的な社区建設推進」通達(いわゆる「二三号文件」)については、北京オリンピックを前にして出版された倉沢進著『北京』(中公新書、2007年)が分かり易く書いています。従来の「単位」人であった人たちは「社区」人、つまり「市民」として脱皮を迫られることになる。地域組織も「社区」人の組織として居民委員会なども転換を求められることになります。組織の「単位」人は、社会の基層において「社区」(地域)の市民としてどう生きていくかが問われることになりました。
 私たちと上海閘北区との中日合作学院づくりは、今にして思えば稀有の試みでした。当時「業余大学」から「社区大学」への転換プロセス、大きく見れば「単位」社会から「社区」建設の時期に、新しい日中合作学院の構想を協議してきたのです。上海の都市改造期に遭遇し、それと連動して合作学校を具体化しようという意味を含んでいたことになります。上海閘北区当局との協議はあと一歩のところで実現しませんでしたが、あらためて上海の「社区建設」と社区大学、そして社区教育と学院合作の大実験の意味を復習しているところです。
*https://secure02.red.shared-server.net/www.bunjin-k.net/shanhai2001.htm →■

地域の自治と共同−いくつかの論点
 以上のような東アジアの動きは、日本に多くのことを問いかけているように思います。中国の社区づくりと社区教育、韓国の平生教育の躍動と地域・マウルづくりなどの動き、また台湾の社区大学の取り組みや社区総体営造運動など、私たちはいろんな刺激を受けてきました。
 この間、日本は"失われた20年"と言われるような沈滞した時代、元気を失い、いろんなデータをみても、躍動からほど遠い。とくに社会教育・公民館など施設数も職員体制も減退しています。しかし他方で元気な公民館もあれば、NPOは動き始めている側面もあります。東アジアの動きとは対照的な日本の10〜20年をどう見るか、問題を考える5つの視点を提示してみます。その全体的な動向を注視しながら、地域づくりや住民の自治と共同について考えていく、さらに社会教育の課題を追求していきたいと思いますので。
 まず第1は、地域とコミュニティ、あるいは「共同体」の概念の問題です。共同体について、韓国では、たとえば「ソンミサン・マウル」報告(日本希望製作所「まちの企業がどんどん生まれるコミュニティ」2011年)などの「マウル」という言葉が魅力的です。もともとは「ムラ」を意味する言葉が、人々の「自治」「共同」への思いを含意して使われている。若い共稼ぎ夫婦25世帯の共同育児施設から始まったマウルづくりの運動、山を壊そうとする開発計画に抵抗する歴史をもち、生協をはじめ約80の「マウル企業」が展開している大きな地域づくりです。大都市ソウルのなかで自分たちの地域・共同体を創っていこうとする15年余の取り組み。
 韓国では生活協同体・教育共同体づくりといった「共同体」概念が積極的に使われている。日本では共同体概念を慎重に、むしろあまり使いませんね。歴史概念として古い共同体を意味する場合があり、新しい市民社会の形成にとって否定すべき意味合いがある一方で、政策的に上からおろされてくる共同体・コミュニティの概念の歴史、草の根支配のツールにもなってきた経過があります。単純ではありませんが、私たちは「地域」づくりに"自治""共同"の思いをこめて、創造的な「共同体」概念をもっと積極的に考えてはどうか。「共同体」という言葉を創造的に使っていってはどうかと、韓国「マウル」運動に出会いながら思うわけです。「地域づくり」という言葉だけでいいのかどうか、というようなことを考えています。
 2番目には、集落の「自治と共同」の問題です。例として、ソンミサン・マウル運動は、集落としての「マウル」運動ではないようですね。地域を基盤とする自治・共同の可能性をどう考えていくか。中国の居民委員会は、まさに地縁に基づく住民組織ですね。例えば600戸という居民委員会をつくって、社区建設の足場にしていこうと提起されています。ヨーロッパとくにドイツの社会文化運動をみてきた経験からすれば、集落というのは、やはり東アジア的形態ということになりましょうか。ヨーロッパでいえば、教会組織であったり、政党組織であったり、同じ志をもった人たちの、いわば機能的な市民運動、社会文化運動が典型になるのでしょうか。その点で、たとえば日本の自治公民館の可能性や、あとで述べる沖縄・竹富島の自治・共同の集落組織などについては、有志の共同体運動とは異なる、集落の共同体運動として積極的な側面に注目していきたいと考えています。
 第3には、公権力・行政との関わりの問題です。住民の自治と共同の運動は、自らの地域づくりだけではなく、現代社会において、つねに行政との関係が問われることになりましょう。中国の居民委員会は、国家が強く関わり、行政が地域の基層に浸透するような統制組織になりかねない。台湾の社区総体営造運動も政策的に裏打ちされて展開してきた側面をもっている。しかし住民運動の展開も見られるようです。日本の自治公民館は、行政に指導され、その内部に位置しているように見えて、案外と行政から自立している側面も最近ははっきりと見えてきます。
 第4には、行政との関わりにも関連して、言うまでなく、生涯学習や社会教育との関係を問う必要がありましょう。その公的な制度形成と「自治と共同」との歴史的な関係、制度自体に内在的な「自治と共同」の組織や仕組みなど、どんな状況なのか。たとえば具体的に言えば、ソウルのソンミサン・マウル運動と「平生教育」はどのような関わりであったのか、あるいは中国各地の居民委員会の活動と「社区教育」との関係、台湾の「社区総体営造」運動と「社区大学」の相互関連、など興味深いところです。
 あと一つの論点は、地域の自治と共同を担う世代論、あるいは生涯学習・社会教育に参加する世代論についてです。韓国の「自治・共同」に関する諸運動については、いわゆる386世代(90年代に30代、80年代に学生運動に参加、60年代生まれの世代)の役割がよく話題になってきました。ソンミサン・マウル運動についても指摘されています。この世代論には、かっての学生運動や民主化抗争と地域に関わる市民運動や労働運動との連動性や、世代間の継承と歴史発展についての課題提起が含まれているようです。
 韓国のマウル運動は、80年代の学生運動のエネルギーが90年代の地域運動に連動しているのではないか。ドイツやフランスでも、70年代の学生運動がその後の市民運動の担い手になっている。日本ではどうか。地域青年運動や学生運動の衰退、市民運動の高齢化、社会教育における世代別の活動実態、などの現象は世代論と関わってきます。地域を担う人々の世代から世代への継承と発展の課題を、東アジアのレベルから考えてみたいと思っています。




9,東アジア・教育改革20年−1990年代からの躍動(総論)
   *TOAFAEC 年報『東アジア社会教育研究』第22号(2017年)所収
                                 小林 文人

1,時代が求める教育改革         
 日本の教育・社会教育をめぐる改革は、第2次世界大戦後に大きな展開を見せた。公民館制度が創設され、教育基本法制のもと社会教育法(1949年)、ついで図書館法・博物館法などの主要法制が整備された。その内容や水準については、もちろん課題を残すところがあったが、戦前の国家主義的な教育体制を否定し、戦後の国民主権・平和主義・地方自治等を重視する民主主義的な新しい社会へ向けての教育法制が始動した。戦後日本教育改革(教育基本法1947年成立)から70年が経過したことになる。
 東アジアの中国・韓国・台湾等においては、どんな展開であったか。日本のように世界大戦後のいわゆる解放期に新しい教育改革が一様に進行したわけではない。内戦・葛藤・動乱等を含む政治激動を背景としながら、それぞれに曲折を含む複雑な展開であった。法制的な動きについてみれば、台湾政府(中華民国)において社会教育法が成立するのは1953年、韓国の社会教育法成立は1982年、それぞれの政治的背景をもって登場している。社会主義国・中国においては教育基本法の性格をもつ「教育法」が1995年に成立しているが、成人教育・生涯教育の国家法制は現在においても登場していない。
 しかしその後、大戦終結から半世紀をへた1990年代において、中国・韓国・台湾それぞれの経過をたどりつつ、公教育制度の創設・改革、教育法制の整備、そして生涯教育関連法制の制定が行われてきた。1990年代は東アジアにおける画期的な教育改革の時代というにふさわしい。ただしこの過程で「生涯教育」(終身教育、平生教育)制度が躍動し、「社会教育」概念は後退していく。
 1990年代は、どんな時代であったのか。この時期、東アジア教育史において教育改革はどのように展開したのか。変転・激動の時代が新しい教育改革を求めたのだ。それから20年が経過している。

2.1980年代・東アジアとの交流
 私たちの東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)の創立は1995年6月である。創立にいたる歴史を含めて、若干の個人的な回想をお許しいただきたい。研究会の前身は戦後沖縄社会教育研究会(1976年創立、東京学芸大学社会教育研究室)であったが、その当時、社会教育・成人教育に関わる海外への関心は主としてアメリカ・ヨーロッパに向けられ、東アジアへの関心はほとんど皆無であった。海で接する隣国・地域の事情についてはほとんど無知であった。1970年代、中国は文化大革命下にあり、韓国は軍事独裁政権の統制下、台湾は国民党独裁による戒厳令下にあって、東アジアの海を渡る機会は、今と違って極めて限られていた。東アジアについての自由な研究関心や交流は細々とした流れであった。
 研究室への東アジアからの留学生もほとんどいなかった。中国の文化大革命が終息し、1980年代に入って、初めて中国(北京・上海)からの国費留学生が登場した。数年経たずして韓国と台湾からも各1名の留学生がやってきた。そこで初めて東アジアの社会教育関係動向に当方がまったく無知であることを自覚させられる。その後、中国からの私費留学生を中心に留学生の数は増大し、1990年代に入ると研究室にあふれ、大学院(修士課程)ゼミは、日本人院生の方がマイノリティとなるほどであった。
 1980年代にいくつか中国・韓国・台湾を親善訪問(観光)する機会があったが、その後、留学生をブリッジとして研究交流の旅が実現する。台湾(1989年)、韓国(1992年)、広州(同)、上海(1994年)等に渡ることが出来た。それぞれ1週間前後の日程を確保し、「東アジア」社会教育(成人教育、平生教育等)について初めてフィールド・リサーチらしき活動を企画できた。その地の研究者・関係者との研究交流が始まったことを印象深く憶えている。1990年代に入って私たちは留学生を介して研究的に“東アジア”を発見した思いであった。

3、1990年代・韓国の激動
 1990年代とはどういう時代であったのか。国際的には何よりもベルリンの壁崩壊(1989年)、ドイツ再統一(1990年)に象徴される東西冷戦構造が終結し、ポスト冷戦の時代がスタートする。東アジアの国際的緊張関係(台湾海峡、朝鮮半島軍事境界線など)にとくに大きな変化があったわけではないが、国際的なグローバリゼーションの流れと全般的な緊張緩和の動きは、東アジアの海を渡る旅の雰囲気を一変させる感があった。旅費の問題さえ工面すれば、私たちは観光旅行を企画するような気分で、東アジア各地への研究旅行をテーマ性をもって自由に計画できる、そんな可能性を実感し始めていた。
 この時代に、私たちは中国とともに、韓国への旅を重ねることができた。とくに1994年~1996年は財団法人日韓文化交流基金の助成を得て、社会教育研究ゼミ(東京学芸大学・和光大学合同メンバー)を中心とする訪問団を組織して研究交流の旅が続いた(各15人前後、約1週間の日程)。一連のフイールドワーク記録は、「韓国社会教育への旅−韓国社会教育法10年(1980〜1992年)」、東京学芸大学社会教育研究室『韓国の社会教育をたずねて(1992年)』報告を含め、TOAFAECホームページに記載している。[ 東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)ホームぺ―ジ
https://secure02.red.shared-server.net/www.bunjin-k.net/korea1992.htm]
 韓国の1980〜1990年代は、日本現代史が経験したことがない激動の時代であった。朴正煕・全斗煥政権と続く軍事独裁体制は、激しい抵抗運動・民主化抗争によって終焉し、「民主化宣言」(1987年)が登場する。1990年代に入ると、政治的な民主化運動は、経済的な公正を求める市民運動(経済正義実践市民連合=経実連、成立は1989年)、さらに環境問題・女性・人権など各種の市民運動、新たな「参与連帯」(19994年)等の市民運動へと展開してきた。韓国にとって1990年代は市民運動が新しく登場した時代であった。

4、教育改革・市民運動・立法運動
 1987年「民主化宣言」8項目のなかには、大統領直接選挙制や金大中を等の民主化運動政治犯の赦免・復権などと並んで、「言論の自由を保障」「地方自治の実現と教育の自由化実現」が盛り込まれている。そして、1990年代の市民運動では「市民性学習」が本格的に進展していくことになった。金民浩は次のように記している。「経済正義実践市民運動は都市改革センターによる都市大学や、参与連帯の参与社会アカデミーによる人権講座・社会分析講座・市民運動講座など」が多彩に取り組まれた。「そして経済正義実践市民運動や参与連帯など11団体は、1994年に韓国民主市民教育市民フオーラムを設立し、民主的市民教育支援法の制定を働きかけ、国会で議員発議が続いている。」[ 金明浩「地域運動と市民性学習」、梁炳贊・李正連・小田切督剛、金侖貞共編『躍動する韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル研究所、2017年)所収、p20]
 このような状況を背景として、韓国では「開かれた教育社会・平生学習社会」をめざして大統領諮問教育改革委員会が設置され(1994年、委員長・金宗西)、画期的な「教育改革方案」(1995年5月31日)がまとめられた。同教育改革委員会の積極的な教育改革案は4次にわたるが、韓国独自の今世紀「平生学習社会」構築へ向けての重要な「方案」となった(後掲・小田切論文に詳しい)。
 再びTOAFAECの回想を許していただければ、私たちの前述・韓国訪問団は金宗西委員長(ソウル大学教授)から直接、壮大な教育改革構想の真髄にせまる証言をお聞きしたことがある(1997年3月2日、ソウル・黄宗建研究所)。また周知のように『東アジア社会教育研究』創刊号(1996年)は巻頭論文として、金宗西「韓国の文解(識字)教育問題の考察」を掲げている。懐かしい思い出である。
韓国では1997年、教育基本法や初・中等教育法、高等教育法等が制定され、さらに旧来の社会教育法を全面改正するかたちで1999年「平生教育法」が成立・施行されることになった。

5、台湾の教育改革の動き
 将介石政権・国民党独裁支配がながく続いた台湾(中華民国)社会教育法の歩みは苦悩にみちていた。現実には国家集権的な管理体制、「大陸反攻」「反共復国」等の政治的利用、そして戒厳令下の重圧に呻吟してきた歴史であった。奇しくも韓国「民主化宣言」と同じ1987年、戒厳令が解除され、政治的な民主化運動や多様な市民運動、そして教育改革への運動が1990年代を彩ることとなる。  
 とくに台湾の場合、国民党支配下において台湾のアイデンティティを問う文化運動、郷土文学運動、言語問題や教育問題への取り組みが1960年代より胎動してきた。戒厳令解除以降とくに独自の地域づくり(1990年代「社区総体営造」)や市民運動の展開となり、また行政側の地域政策・文化行政(行政院「文化建設委員会」)も積極的にこれに対応する独自の動きが見られた。[ 洪徳仁(鄭任智訳)「台湾の社区総体営造 2001〜2005年」TOAFAEC年報「東アジア社会教育研究」第10号(2005年)所収]
 台湾では「1994年は教育改革元年」とされる(下掲・山口香苗論文)。「1994年4月10日、教育改革を目指す多くの市民団体と大学教員、民衆らが台北市内で、後に四一〇教育改革運動と呼ばれる、大規模なデモを繰り広げ、これまでの国民党独裁の戒厳令下において構築された管理主義的な教育体制の改革」を求めた。政府側も「これに対応して教育改革審議委員会を設置」し、「終身学習を教育政策の中核に据え、新たな教育体制を構築」する大規模な教育改革が動いていくことになる(同山口論文・参照)。台湾・1990年代の教育改革もまた、文化運動・市民団体の積極的な躍動の歴史があったことに注目したい。
 生涯学習への法制化・施策化の流れとしては、1998年「邁向学習社会」白書が出され、同じ年には教育基本法や補習及び進修教育法、2002年に終身学習法(生涯学習法)が成立している。この段階では社会教育法も併行していたが、その後、2014年に終身学習法の改正と合わせて、社会教育法は廃止されている。

6、中国1990年代の展開
 中華人民共和国の教育史は、教育秩序が無法状態となり混乱と破壊が続いた「文化大革命」の不幸な10;年の歴史を経験した。1976年「文化大革命」が終息し、教育制度の再生・復興の努力が、国家政策としての改革開放政策のなかで取り組まれた。「文革」による教育の無政府状態と教育制度破壊への教訓から、「教育法制の重要性への社会認識が深められた」という。[韓民「中国における教育法制の進展−成人教育法制を中心に」TOAFAEC年報「東アジア社会教育研究」第2号(1997年)所収] 
 1980年代末から1990年代に制定された教育法制の歩みをたどると、まさに改革開放政策下の教育改革の動きを知ることになる。まず中華人民共和国「義務教育法」(1986年)、「教師法」(1993年)、教育基本法の性格をもつ「教育法」(1995年)、「職業教育法」(1996年)、「高等教育法」(1998年)などの経過であった。またこの間には、関連して国務院や国家教育委員会による行政法令が発布されてきた。「識字教育工作条例」(1988年)、「高等教育独学試験暫行条例」(1988年)、「教師資格条例」(1995年)等がそうである。
 成人教育・継続教育の展開のなかで、生涯教育の施策が登場する契機しては、1993年「国家教育改革発展要綱」の公布がある。ここに初めて生涯教育政策の概念が打ち出されている。その具体的な展開は、成人非学歴教育や開放教育、そして「社区」教育への取り組みであった(本誌後掲・韓民論文参照)。
 継続教育・生涯教育に関する国家実定法はまだ実現していない。国家レベルの生涯教育関連の立法は今後の大きな課題とされていいる。他方、省・市レベルの生涯教育立法はこの間拡がりを見せた。2005年福建、2011年上海、2012年太原、2014年河北や寧波等では「生涯教育促進条例」が公布されている。

7、「単位」社会から「社区」社会へ、「社区」教育への期待
 中国の成人教・継続教育は、「文革」後はかっての労農教育の流れもうけ、「単位」社会を基盤にした組織・企業の職業訓練・技術教育が主流であった。1990年代に入って社会主義市場経済への導入路線を背景として、新しい「社区」社会の建設と「市民」形成をめざす「社区」教育が積極的に唱導されることになった。「社区」は地域、コミュニティーを意味する。この時代、中国の生涯教育施策は「地域」「市民」の視点を発見した。2000年以降は生涯教育施策の中心的キーワードは「社区教育」の展開であった。
 TOAFAEC 年報に収録してきた報告をたどってみると、生涯教育・学習化社会・社区教育の新しい施策に先駆的に取り組んだのは、上海市閘北区教育委員会である。1988〜89年にかけて、区内の14「街道」に社区教育委員会を設置し、新しい社区教育の活動が開始されている。[袁允偉(訳:羅 李争)「生涯教育の思想と社区教育、街道教育委員会−上海市閘北区の動向を中心に−」TOAFAEC年報「東アジア社会教育研究」第2号(1997年)所収]
 1990年代に入ると、上海だけでなく北京など主として都市部において社区教育・社区活動が大きな潮流となる。社会主義市場経済移行にともなう国有企業等「単位」社会から「社区」社会への転換(2000年「社区建設通達」いわゆる「二三号文件」)[倉沢進・李国慶『北京―皇都の歴史と空間』(中公新書)2007年、ほか]は、基層からの社会構造の大転換であり、「社区教育」の展開が重要な意味を担うこととなった。
 社会主義体制下の中国では、韓国・台湾あるいは日本に見られる「市民運動」の自由な展開は見られない。「社区」活動は、いわば官許の市民運動の性格をもっている側面もあろう。上から政策に強く拘束された社区教育、一定の枠内での活発な社区活動が、21世紀の中国生涯教育の具体的な地域展開を支えていくことになる。

8、「失われた10年」の日本、東アジア教育改革20年の課題
 さて1990年代の日本はどのような状況であったのか。1980年代後半からのバブル経済は1990年に崩壊し、日本経済の1990年代は「失われた10年」と呼ばれてきた。経済成長・景気の失調だけでなく、日本の社会教育・生涯教育もまた「失われた10年」あるいは「失われた20年」の停滞に陥ってきたのではないか。東アジアにみられる(上述の)躍動や改革の動きとは異次元の状況が息苦しく続いてきている。
 臨時教育審議会・最終答申(1987年)は「生涯学習体系への移行」を唱え、社会教育法に基づく社会教育の条件整備施策は後退を強いられてきた。生涯学習の基盤整備(中央教育審議会、1991年答申)が求められた一方で、現実の自治体行政は「新自由主義」路線のもと財政削減、職員縮少、民間委託等の「合理化」施策が進行し、自治体社会教育の公的条件整備水準は大きく後退した。新しく充実されるべき生涯学習・基盤整備も多くは失速状態にあるというのが現実であろう。たとえば東京都の場合、戦後教育改革以降に蓄積してきた社会教育は、1990年代の社会教育「見直し」路線により解体し、生涯学習推進施策も後退してしまった。[小林文人編『大都市・東京の社会教育−歴史と現在』(エイデル研究所、2016年)通史U、梶野光信「東京都の社会教育行政史」pp66〜105 ] 社会教育・生涯学習の推進主体が公的セクター主導の一元的体制にあり、多元的セクターの拡がりを創出してこなかった東京そして日本社会教育の現実がここにみられる。
 
 1990年代・東アジア教育改革の歩みは、国・地域によって一様ではない。それぞれの歴史的展開のなかで、多くの矛盾や屈折を多様に含んでいるに違いないし、これからの歩みもまた山や谷があるだろう。その多様性や個別性を前提としつつ、あえてこの時代の教育改革の躍動が歴史的に創出したものに注目してみる。東アジア固有の、すべてに適合するわけではないが、ある程度の共通性を含む動向・特徴をあげてみると、次の5点を指摘できるのではないか。
 (1)東アジア的な「生涯教育」(終身教育・平生教育)政策の歴史的な登場。単なる理念・思想にとどまらず、具体的な施策・計画・事業としての展開。(2)生涯教育に関わる法制・条例の成立。政治的な運動にとどまらず研究者・実践者・市民が積極的に参加した立法運動。(3)教育改革を具体的に推進し現実化する地方自治体の役割。自治体行財政力の拡大と住民自治力量の拡がり。(4)生涯教育に関わる市民運動の取り組み。市民の学習運動と地域づくり運動。市民運動と性格は異なるが中国の「社区」教育の活動。(5)(本論ではふれることができなかった)東アジア的な平生教育士(韓国)、社会教育主事(日本)、終身学習専門職員(台湾「終身学習法」15条)など専門職制度の登場。専門職化運動と職能団体活動。
 教育改革・生涯教育に関わるこれら政策、法制、自治体、市民運動、専門職集団の諸課題がこれから東アジアにおいてどのように進展していくか。1990年教育改革から20年、その後の具体的な展開と実像を確かめあいたい。


1, 東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)ホームぺ―ジ
https://secure02.red.shared-server.net/www.bunjin-k.net/korea1992.htm
2, 金明浩「地域運動と市民性学習」、梁炳贊・李正連・小田切督剛、金侖貞共編『躍動する韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル研究所、2017年)所収、p20
3, 洪徳仁(鄭任智訳)「台湾の社区総体営造 2001〜2005年」TOAFAEC年報「東アジア社会教育研究」第10号(2005年)所収
4, 韓民「中国における教育法制の進展−成人教育法制を中心に」TOAFAEC年報「東アジア社会教育研究」第2号(1997年)所収
5, 袁允偉(訳:羅 李争)「生涯教育の思想と社区教育、街道教育委員会−上海市閘北区の動向を中心に−」TOAFAEC年報「東アジア社会教育研究」第2号(1997年)所収
6, 倉沢進・李国慶『北京―皇都の歴史と空間』(中公新書)2007年、ほか
7, 小林文人編『大都市・東京の社会教育−歴史と現在』(エイデル研究所、2016年)通史U、梶野光信「東京都の社会教育行政史」pp66〜105





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