広州・内モンゴル・上海・留学生との出会い
   ・湘潭への旅・東アジア研究交流
      *小林文人


【目次】
1,広州・成人教育への旅−1992・11・20〜29−

  
   東京学芸大学社会教育研究室「中国・華南への旅」(1992年)
2,広州から内モンゴルへ−1997年夏・茘枝の籠をさげて
    TOAFAEC「東アジア社会教育研究」第2号(1997年)
3,上海・合作学院構想の経過、華東師範大学との交流(上海の風1〜8)
    小林「公民館の風」224〜232号、「南の風」846〜851号(2001〜2002年)
4,中国・社区教育の潮流(2002年)
    TOAFAEC『中国上海・無錫・蘇州「社区教育」調査報告書』(佐賀大学)      
5,留学生との出会いと交流−この20年、上海への道
     日中教育研究交流会議「研究年報」第14号(2004年)
  *東京学芸大学小林研究室・留学生特別ゼミ記録(1989〜1995)→■
     アジア・フオ−ラム
6,上海社区教育の研究ーこれまでの経過と調査視点
     TOAFAEC「東アジア社会教育研究」14号 (2009年)
7,湘潭・広州への旅−1999年 南の風209〜237号
      (回想・南の風3580〜3586号)

8,東アジアにおける社会教育・生涯学習研究交流の新しい地平・総論
  TOAFAECの活動を通して
 『東アジア社会教育研究』16号(2011)→■
9,






広州市・中山大学付属中学校訪問、右端・李偉成、前列中央より萩原・小林・内田(20010504)



 1,広州・成人教育への旅−1992・11・20〜29−
                                    
        東京学芸大学社会教育研究室「中国・華南への旅」1992


  華南・広州への関心
 たしかな研究関心というほどではないが、これまで私は中国のなかでもとくに南方の地域に強い興味を抱いてきた。ある種のあこがれにも似た感情さえ含んでいたとも言える。この度の広州訪問では改めてそれがまったくの見当違いではなかったことを実感した。
 これまで中国に行く機会は数回あったが、北京を中心に、西安・落陽、東北地区の瀋陽など、南はせいぜい南京・上海どまりであった。それだからかも知れないがなぜか南の風が気にかかる。もしかすると私の沖縄研究が少し影響しているのだろうか。沖縄との関係では福建省があり台湾がある。それを含めて、さらに南のいわゆる華南と呼ばれる地域は、広い中国のなかでも明らかに黄河や長江の流域とは異なる独自のなにかを持っている。それは何だろう。一度この目で確かめてみたい、そう思い始めてもう10年近くが経過した。
 ともすると北京を中心にして中国をみる一般的な見方は、修正する必要があるのかも知れない。それは東京を中心にして日本をみる見方と似ている。もっと複眼的な目をもって見ないと、全体を見ることにならない。このことを私たちは沖縄研究から学んできた。「華南」とは何だ。「広州」とはどんなところだ? そんな関心から、福建省だけでなく広東省出身の留学生に出会うと、いろいろ根掘り葉掘り質問して話し込んだりしてきた。
 私なりの関心(不充分な学習で恥ずかしいが)で言うと、「華南」というところは歴史的にみて、まず第一に東南アジア(その背後にあるヨ−ロッパ・アラブ)の経済圏・文化圏と早くから強い結びつきをもって発展してきた地域であった。唐宋時代から珠江には外国商船が雲集し、早い時期からイスラム教やキリスト教が伝えられたという。第二に、それだから一九世紀に入ると欧米列強の侵略を真っ先に経験した地域であった。1839年の林則除のアヘン焼き払い、それにつづくアヘン戦争、清朝・北京政権の妥協政策と対照的に、広州市郊外の農民たちの反英闘争はめざましいものがあった。第三には同じくこの頃、中国農民革命の先駆けとなった「太平天国」指導者・洪秀全は、広東・花県で初期の活動を開始している(1843年)。第四に1911年の辛亥革命は、広州市黄花崗の武装蜂起が発火点となった。そして孫中山は広東・中山市の出身であった。あと一つ、1927年の中国共産党指導による「広東コミュ−ン」(3日間の人民政権、5千人にのぼる犠牲者)の歴史も見逃せない。圧殺された烈士たちをまつる陵園は、いま広州市内最大の革命遺蹟となっている。
 このようみてくると華南・広州は、亜熱帯の暑さだけではなく、歴史的にも豊かでかつ熱く、外国列強や北の権力に抗して闘ってきたレジスタンスの伝統を脈々と受け継いできた地域と言うこともできよう。
 そして今日、華南・広州は、中国の改革・開放政策の拠点的なポジションとしていま激動と混乱の真っ只中にある。香港・深圸経済特区と連動して、珠江デルタ経済圏は広州を中心に「社会主義市場経済」の実験地域の様相を呈している。私たちは「盲流」の猛然たる流れの渦にまきこまれながら、その矛盾を垣間見た思いであった。
 そのような社会主義と資本主義が複雑に交錯しあっている状況のなかで、いったい教育は、とくに社会教育(成人教育)はどのような実態にあるのだろうか。また実際にいかなる役割を期待され、そしてまた現実にどのようにその課題に挑戦しているのだろうか。短い日程ではあるが、ある意味で現代世界のもっとも複雑といえ現場に足を踏み入れ、そこに体をひたしてみたいという思いであった。

 訪問にいたる経過
 ここ数年来、私たちの研究室は、中国の主要都市・成人教育関係者からいくつか招待・交流のお誘いを受けた。天安門事件のショックもあり(この年1989年4月から5月にかけて自治体労働組合訪中団として北京・西安に滞在していた)、なかなか決断できず、「そのうちに機会を得て−−」などという消極的な対応に終始した。しかし主要都市・成人教育関係者の姿勢のなかに、これまでにない「開放」政策の動きを感じとることができた。
 一つは天津市成人教育関係者からの招きであった。このお誘いは、中国と日本の社会教育・成人教育の比較研究をテ−マに、修士論文作成のため天津市をフイ−ルドとして調査活動に挑戦していた胡興智を通じてのものであった。上海市については、東京学芸大学研究生として1年間滞在した袁允偉(上海市閘北区業余大学副校長)を介して招待された。そしてあと一つは広州市からであった。
 天津市や上海市からの招きには腰が重かったのに、広州市についてはすぐに「一度みんなで行こう」ということになった。それは前述した中国「華南」へのかねてからのひそかな興味・関心が大きな動因となったことは疑いない。そして広州からの留学生・李偉成(広州市成人教育局研究員)の熱心な要請と準備によるところが大きかった。
 夏を過ぎて、秋から本格的な準備・打ち合せが始まり、広州市人民政府成人教育局長・周永均氏(同成人教育協会会長)から正式の「邀請書」がとどいたのは1992年10月26日の日付であった。この機会に、広州市成人教育局については勿論、同時にその準備と現地との交渉、また香港→深圸→広州→桂林に到るすべての手配と案内、そして通訳の労をとってくれた李偉成に改めて深く感謝したい。その準備・段取り(広州市は別として)は彼の家族−奥さんやその兄さんや弟さんなどの皆さん−あげての体制であったことを後で知った。有り難いことである。
 なお1993年度は袁允偉を介しての上海市成人教育局からの招聘に応えて、また新しい知見を得たいと思っている。すでに準備は始まっている。

 日本の社会教育と中国の成人教育
 
今回の広州訪問では、「日本の社会教育の現状と当面する課題」について話をするよう求められた。当方からは、いわゆる典型的な成人教育の活動・施設とともにそれだけではなく、文化站(ステ−ション)のような文化施設や、都市だけではなく農村の活動も、できれば識字(「掃盲」)教育の実態についても、見学の機会をつくっていただきたいとお願いした。
 日本と中国では、その社会体制が異なるのはもちろんであるが、社会教育と成人教育の体制もまた大きく違う。それは構造的な違いといってもよい。その行政やシステムの違いもさることながら、具体的な内容として最も大きな差異は、日本の社会教育が労働者教育・職業訓練をまったく含まないのに対して、中国の成人教育は職業「倍訓」・工人教育あるいは職工教育を基本としている点であろう。日本の公民館にあたる「文化館」や「文化站」、あるいは図書館や博物館などは、むしろ文化行政の系列に属していて、直接に成人教育の範疇には含まれていない。
 だから日本の「社会教育の現状と課題」を額面通りの枠組みで話せば、中国・広州の「成人教育」とすれ違うことは目に見えている。私もすこし勉強して、労働省系統の「職業能力開発・労働者教育」という一項目を用意して臨んだ。それと、今回は幸いなことに、かねがね研究室の中国語学習会のメンバ−として週一回のお付き合いがある東京都労働経済局職業能力開発部・鷲尾雅久氏が訪中団のメンバ−として積極的に係わっていただいたので助かった。広州訪問初日の成人教育局首脳部との会談の席でも、また三日目の私の講演の場でも、鷲尾雅久さんに話を補っていただいた。これは好評であった。これから、国際的な場面で「日本の社会教育」を取り上げる場合は、社会教育関係者だけでなく、労働行政の領域における「職業能力開発」の専門家に加わっていただく必要を改めて痛感した。
 広州の成人教育関係者にとって、日本の社会教育についての話は初めてのようであった。この機会に、日本の公民館のこと、社会教育法制(東アジアの動きを含めて)のこと、ユネスコ・学習権宣言のこと、日本社会教育実践における主体形成や住民参加のこと、それから日本の識字問題も、国際識字年を契機として「文盲」という言葉を使わないこと、などいろいろとお話した。中国の「掃除文盲」という用語がとても気になることも率直に触れた。(別掲「レジメ」参照のこと。なおこの講演記録は「広州成人教育」1993年版に収録されると聞いている。)

 中国・成人教育(および文化施設)研究の課題
 
わずか10日足らずの日程で知り得ることには当然かぎりがあるが、これからの日本社会教育と中国成人教育の相互研究と交流のために、一つの覚え書きとして、広州成人教育への旅から得たもの、新しく発見したもの、私自身の今後の研究課題についていくつかのことを書き留めておきたい。
 (1)日本の社会教育が、今日とくに生涯学習時代の到来というなかで、地域の産業やそこで働く人々の職業・労働について、ますます無縁な領域(教養と文化、趣味とレク)に固定されつつある現状について、あらためて問題にしてみる必要を痛感した。生産と労働、職業と技術についての学習や訓練の公共的な仕組みや課題を、労働行政関係者・職業訓練専門家・さらには心ある企業内教育の関係者ともネットワ−クを組んで、研究・検討を深めていくべきときなのではないだろうか。
 (2)学校(大学をふくめて)と成人教育ないし社会教育の相互関連、学校制度のもつ地域開放・公開、成人の職業訓練の機能について、中国の学校のこれまでの歩みは多くの模索と多面的な仕組みを創りだしてきている。職工学校や業余大学などの制度は「相互の連携」というよりも、むしろ「成人の学校」としての一体的な結合の機能を生み出している。もちろんそこにはいろんな問題もあるだろう。しかし、学校制度が厳然と確立し、その機能の独立性が尊重されるべきだとする原則によって、かえって学校の機能が固定化し、排他的かつ特権的な状況になっている日本の現状をどのように克服していけばよいのだろうか。中国・成人教育における学校の役割とその比重から教えられるところが少なくない。
 (3)地域の学習・文化活動(日本の社会教育の領域)については、むしろ成人教育の制度とは切り離されたかたちで、文化宮、文化館、文化站(あるいは図書館、博物館)などの施設がある。私は1984年5月の訪中の際に、南京市の一つの区に設置されている文化館を訪問した際、その大衆性、人々が集まる熱気とその楽しさにしばし心を奪われた記憶がある。日本の公民館にない雰囲気であった。
 1989年5月には上海市のある文化館を訪問した。この時はある種の営利性、有料原則、受益者負担の動きをみて、少しがっかりした。社会主義下の文化行政に抱いていたはるかなロマンが、ガラガラと音をたてて壊れていった。幻想と現実のはざまにしばし当惑した。
 今回は広州市・珠江の南岸、南華西街の文化站を案内していただいた。清潔で緑豊かな街づくりの努力があり、「盲流」ひしめく広州のなかで素敵な町並みとなっていた。その街の中心に文化站があった。江沢民氏も訪れたことがある模範的な文化站のようであった。記録(そして宣伝の)ビデオを見せていただいたが、中国共産党の精神を鼓舞する内容になっていて、きわめて政治的、イデオロギ−的な性格が強いものであった。それは社会主義国の文化施設としては当たり前のことかも知れない。しかしビデオを見ながらある日のことを思い出していた。忘れもしない1989年(天安門事件の年)のあるゼミで、日本の公民館と中国の文化館の比較論をたたかわしたときに、ある中国留学生が「中国共産党の支配がなければ文化館はいい施設だ」と吐き捨てるように言ったことがある。この年、中国の若者たちは、政治体制と人間の精神の自由の問題について真剣に自問していたときだから、表現が鋭くとても印象的だった。
 中国の都市を旅して、文化施設はいろいろの形態があること、を改めて確かめることができたが、しかしそこに共通して、社会の体制とそこで暮らす人間の自由の問題、そして施設の活動の自由の問題があるように思われる。
 (4)非識字者(「文盲」)にたいする識字教育の実際については、今回も見学することが出来なかった。1989年瀋陽を訪問した際もそうであった。「都市ではすでに非識字者はいない」という回答であった。広州市でもほぼ同じ考え方のようである。しかし広州駅の広場にはあれだけの「盲流」があふれている。私は失礼を顧みず、あえて「日本にも非識字者はいる」ことを強調した。今後の課題である。
 (5)これまでの施設訪問では出会わなかった新しい発見がある。それは前述の南華西街・文化站の一室で、障害者の教室(集い)を見学できたことである。社会主義国の障害者問題(あるいはひろく「社会的弱者」)にたいする公的サ−ビスがどのような実態であるのか、いままでその現場を見たことはなかった。日本の公民館の障害者への取り組みを思い浮べながら、日中の共通の課題への挑戦を知った.障害者たちは私たちを迎えてくれたが、表情は心なしかなにか暗いものがあった。
 (6)農村部の成人教育の見学は、あらためて「郷鎮企業」の積極的育成政策と、それに結合した「成人教育」(技術者、労働者養成)の熱気を知る機会となった。今回の訪問では、その意味では農村の成人教育視察というよりも、きわめて都市的な新興工業地帯の成人教育の動向に触れたことになる。きわめて印象的な一日であった。
 (7)あと一つの驚きは、私立・民間立・コンピュ−タ−(ワ−プロ)学校の見学であった。区人民政府の副区長も私たちを迎え、歓迎の挨拶をいただいた。資本主義的な経営方式を意欲的に導入し、公的行政も土地を提供するなど、積極的な支援をおこなう姿勢であった。これらが今後どのような推移を見せることになるか、興味深いところである。





 2,広州から内モンゴルへ―1997年夏・茘枝の籠をさげて
     
TOAFAEC「東アジア社会教育研究」第2号(1997年)


 留学生との出会い―モンゴル訪問計画のいきさつ

 アジアの地図をひろげると、いろんな町(城市)が目にとびこんでくる。あわせてその町出身の留学生の顔がつぎつぎと浮かんでくる。たとえば華南の広州では李偉成(東京学芸大学大学院卒、広州市教育委員会勤務)、北の内モンゴル・フフホトはボヤンバートル(現・和光大学研究生)、北京は韓民(名古屋大学大学院卒、中国・国家教育委員会勤務)、などという具合だ。私たちは出会った留学生を通して、その都市の歴史を想い、その地域の文化に接してきた感がある。
 今回の内モンゴル訪問は、私たちの研究室にボヤンバートルが現れなければ実現しなかった。ボヤン(と私は呼んだ)は今年(1997年)の正月過ぎ、学部長(奥平康照教授)を介して会いにきた。現在、内蒙古教育学院の講師、日本の社会教育を研究したいという。彼をみて「ああ、これがモンゴル人だ」と思った。目ににじむ情理、精悍さ、馬で鍛えたらしい体、そして「欲望少なく生きている」(司馬遼太郎)侠気。すぐに分かったことだが、彼はもともと遊牧の民(いま中国政府は牧民の定住化政策をすすめている)の出であった。典型的なモンゴル族の男、漢族には複雑な思いをもっている。
 私と新しい留学生との付き合いは、手元に数冊の本を間において、まずともにお酒を飲むことから始まる。歓迎の意をこめて拙作の本を贈り、酒のたしなみを通して彼のライフスタイルに接し、またこちらの人となりをありのまま知ってもらうためだ。
 1月下旬のある日、研究室主催で卒業論文発表会が行われた。そのあと、カンボジア出身のセタリンさんの店(JR町田駅南口「アンコル・トム」、東京学芸大学大学院卒)に出かけて打ち上げの飲み会となった。そこにボヤンバートルも来た。「日本の学生と初めて酒を飲みました」とにっこり笑う。楽しそうにモンゴルの歌もうたった。この日、私は疾走するモンゴル文字「馬」の掛け軸を贈られた。みんなでこの馬に乾杯した。
 モンゴル旅行の話はこの飲み会から始まったと記憶している。和光のにぎやかな学生たちにお酒がはいると、どんな難問でもその場の勢いですぐに楽しい話に転化してしまう。まず5月の連休にモンゴル行きを計画してはどうか、という話しになった。ボヤンは、草原のゲル(包、パオ)を守る犬の話や羊の解体を見せたいとか、「もし皆さんが内モンゴルに来れば一族あげて歓迎する」などと酔って誘った。私は、ゲルに寝ると天窓から星がまばたく、という誰かの一文を想いおこして、心が傾いたのである。
 しかしいかに気が早いといっても5月に旅行が実現できるものではない。砂嵐も吹くという。7月のさやわかな夏にしてはどうか、しかも今年は「内蒙古自治区50周年」、その記念式典が7月に予定されているという。和光大学の前期試験が終了する16日の翌日、17日から1週間の日程で行こう、ということになった。
 その後の計画が順調にすすんだわけではない。肝心のボヤンのビザ・在留資格の切り替えが簡単ではなく(就学生から留学生へ、手続きが済まないと再入国できなくなる)、大手町の出入国管理・担当官のところへ「嘆願」に出かけたり、また格安航空券をさがしたり、いろいろあった。実際にボヤンが正式に同行できるという決定がでたのは、出発わずか二日前のことだ(そのとき私は日本を離れてもう広州にいた)。訪問団のメンバーはすぐに15名前後が集まったが、7月17日出発までの舞台裏としては決して順調ではなく話題の多い経過であった。これをあれこれ書くのは止める、紙数がもったいないから。

 広州からの誘い

 モンゴル訪問予定日の3週間ぐらい前に、南の広州から1通のFAXが飛び込んできた。7月9日から13日まで広州市教育委員会主催「中国中心都市教育協議会」が開かれるが、この会議に小林夫妻と「社全協」委員長夫妻を招待したいという。実は東京学芸大学時代、1992年秋に広州市から招かれて講演に行ったことがある。そのときの同行者は7名、私は当時、社会教育推進全国協議会(社全協)委員長であった。広州では「社全協」は案外と有名なのだ。早速に島田修一さん(社全協・現委員長)に連絡した。しかしあまり急なことで行けないという。私も少々迷った。しかし数日をはさんでモンゴル行き日程に連結できる。すこし無理をすれば可能だ。そして「この際なんとか行こう」と決断するに至ったのには、実は茘枝(れいし)にまつわる一つのエピソードがあった。
 FAXを送ってくれたのは、梁日新・広州市教育委員会副主任など成人教育担当の諸氏の意をうけた上記・李偉成である。李くんは忘れがたい広州出身の留学生、1995年3月に私が東京学芸大学を定年退官して去ったとき、彼も研究生活を終えて帰国した。日本を離れる数日前に送別の会を催した席で「私は先生の最後の門下生、いわゆる“閉門弟子”です」と言ったことがある。それは名誉なことなのだと。日本の職業能力開発(中国では成人教育)政策について骨太の修士論文を仕上げたが、広州では成人教育部門ではなく、いま学校教育(社会科教育など)の指導部門に配属されている。せっかくの頭脳が適所に置かれずちょっと残念であるが、その内に必ずや広州の成人教育や地域(社区)教育部門の指導者になるものと期待している。
 「李くんからのFAXだ、行かずばなるまい」と思った。しかも招待状のなかに「れいし祭りへの参加も予定されています」と記してある。妻もまた「先生ご夫妻の招待」という一文に喜んで「行きたい」という。
 私たちと広州の「老朋友」の間にかわされた茘枝をめぐる想い出とは次のようなことだ。話は4年前にさかのぼる。「私たち」というのは、1992年秋に広州を訪問したメンバー、進藤文夫(元国分寺市教育次長)、鷲尾雅久(東京都労働経済局)、板橋文夫(東邦大学講師)、山口源治郎(東京学芸大学)、内田純一(東京都立教育研究所)などの面々であるが、その翌93年秋には日本からの訪問にお返しするかたちで、広州市成人教育局6人が訪日することになった。そのときの訪問団長が成人教育副局長の梁日新氏であった。 広州からの一行はまず友好姉妹都市である福岡市に降り立った。福岡は奇しくも私の故郷、高校・大学の後輩である於保清登氏(福岡市教育委員会生涯学習部長、当時)に協力をもとめて、市教育委員会として二日間の歓迎体制を組んでもらった。訪日二日目の夕、福岡市は市内目抜きの中国料理「広州酒家」で歓迎の宴をはってくれた。東京からは案内役をかねて私と進藤文夫さんがかけつけて陪席した。
 「食在広州」(食は広州にあり)という。しかし福岡の広州料理はあまり自慢できるものではなかった。広州からの客人たちもそう思ったに違いない。大きな皿がかなり並んだ後、食後のデザートに茘枝の小皿が出た。日本人としては見慣れた色の茘枝。その時、副団長格の馬詠材氏(広州市成人教育副局長、当時)が、なにか叫ぶような口調で言った。
 「ほんものの茘枝はこんな焦げ茶色ではない。もっと紅いのです。」「甘く香る茘枝を樹から直接とって食べる美味しさはたとえようがない。」「亜熱帯の広州周辺では七月初旬が収穫時、一度ぜひこの季節に広州にお出でください。」
 この話は「私たち」広州訪問者だけでなく、その後の東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)の席上などで紹介された。一度みんなで七月初旬に広州に行こう、と話に花が咲いた。しかしそれから4年、楽しいことはなかなか実現しないものだ。食生活の水準が低い東京で、冷蔵の焦げ茶色の茘枝に出会うたびに「紅い茘枝を食べに行きたいなあ」と思いながら、歳月は経過してきたのである。
 思い立ったが吉日、善は急げ、楽しみを先に。モンゴル訪問の日程の前に急ぎ広州訪問のスケジュールを入れることにした。夏休み直前の教授会まではきちんと出席した上で、翌12日午前に香港へ飛び、広州に向かった。その日、久しぶりの広州、白雲空港には李偉成が迎えに来ていた。上記「中国中心都市教育協議会」は最終プログラムの段階となっていたが、多忙のなか広州の友人たちは大歓迎をしてくれた。
 ここでようやく念願が実現した。12日から16日まで広州に滞在し、17日夕刻に成田から来中するモンゴル訪問団一行と北京空港で合流するまで、紅く香る茘枝を毎日たらふく賞味したのである。広州市では、ホテルは文字通り賓客を泊める「広東迎賓館」(5年前泊まった「越秀賓館」は建て替え中)、魅力的な番禺市女性副市長などによる招待夕食会、ゆったりした五日間を楽しんだ。私たちだけで「老朋友」に歓迎され、おいしい果実と至福の交遊を独占してしまった罪を、進藤文夫さんをはじめとする広州訪問の仲間たちにお詫びしなければならない。

 この5年の変貌ー珠江デルタ地区

 広州にはいろんな想い出がある。1992年11月、初めて広州に到着した夜の駅頭、そこに群れていた「盲流」の圧倒的な人いきれ、あの喧噪はいつまで経っても忘れないだろう。広州の都心部が常住人口80万とすれば、内陸からの外来流入人口は約100万という状況であった。当時「社会主義市場経済」の施策がすでに登場し、市内の一角で株式売買の証券会社が営業を始めていた。高架道路の工事がすすむその道ばたで、農村から出てきたばかりの若者が寝ていた。その昔「花城」とうたわれた珠江に面する美しい町並みの面影はほとんどなかった。
 それから5年、広州とその周辺(珠江デルタ地区)はいま激しい変化の真っ只中にある。たしかにこの間「盲流」の混雑は少なくなっている。広州駅頭も一見落ち着いてみえた。道路も見違えるように整備され、珠江デルタを渡る橋もふえた。しかし社会主義市場経済の波は、矛盾をはらみつつ、想像以上の勢いで、これまで世界が経験したことがない新しい経済・社会をつくりだしているように思われる。都市も農村(郷、鎮)も相貌を一変した。上海の浦東新区などとともに珠江デルタはいま世界のなかで最も激しく変化している地域ではないだろうか。
 社会主義的な政治体制を前提としながら、「市場」原理による資本主義的な経済活動の潮流が激しく音をたてて流れている。今年はとくに香港が返還され、「一国二制度」が唱導されるという刺激も加わった。
 政治と経済の矛盾、沿岸部と内陸部との格差、驚くべき貧富の差の拡大、そして情報化の拡大がもたらす亀裂、新しいライフスタイルと意識の乖離など、さまざまの矛盾が顕在化しつつある。これらの問題をどう克服していけるのか、これから一体どう動いていくのか。いま上海や華南の動きをみていると、単なる地域的な動きに止まらず、世界が注目する「社会主義市場経済」の実験に挑戦していることを実感する。しかしあまりにも急激な動きだ。その膨大なエネルギーには圧倒されるが、行先き不明の新型車が暴走気味に走り始めている感もぬぐえない。
 番禺市副市長の招待夕食会で、5年ぶりの印象を求められた。私はこう言った。「変わったもの五つ。道路と橋の建設、ビルの林立、車・オートバイの洪水、携帯電話の流行、カラオケ文化の氾濫(昼食時からカラオケする)」「変わらないもの一つ。それは女性副市長の若さと美貌です」と。われながら良くできたお世辞、座はどっと笑ってくれた。実はこれに加えて「あまりにも急激な変化は危ない。そこに内在する矛盾の激化を見つめる眼差しが必要なのではないか」と付言したのだが、副市長は「番禺市の歩みは着実です」とにこやかに微笑んだ。

 新しい人材市場の登場ー成人教育と「社会力量」

 経済・社会の発展期には、その変化を担う新しいタイプの人材養成が求められる。とくに成人教育・職業能力開発への期待が大きく、上海でも広州でも、この部門の専門家たちはいま意気さかん、張り切って仕事している。
 かって日本の1960年代経済高度成長期においても、状況はそれを求めていたのであろうが、理論として教育・訓練の社会・経済政策への安易な従属が警戒され、むしろ「成長」「発展」に直結しない教育の独自性が主張された。それは誤りではないにしても、クリティークに閉じこもる理論の狭さがあり、純粋ではあるが消極的であって、社会の要請に積極的にこたえる現実科学としての創造性を発揮するということにならなかった。従属的な教育・訓練を否定しつつ、時代の変化のなかで、いかなる人間能力の開花を実現していくか、その課題にどのように挑戦していくか、という創造的な理論提起の機会をがっちりとものにすべきではなかったか。広州を旅しながら、そんなことを考えていた。
 中国の改革・開放政策下における教育・訓練(成人教育)の課題としては、当面まずこれまでの国家一元的な教育システムを多元化・社会化していこうとする動きが注目される。いわゆる「社会力量弁学」への挑戦である。日本語では「民間活力による学校経営」ということになろうが、日本などの新自由主義による民間活力導入路線とは直ちに一致しないところがある。財政的観点からの「民営化」あるいは「公費削減」の側面はたしかに共通するところがある。しかし社会主義的な公共的体制とその指導を前提とする社会化、多元化の試みである点において一線を画しているように思う。
 ちなみに中国の「社会力量弁学」に関する法規をみると、それはあくまで国家による(公共的)学校経営の「補助」であり、「教育行政部門の指導と管理を受けなければならない」のであり、当然それは「非営利事業」とされている。(中国国家教育委員会公布「社会力量による弁学に関する若干の暫行規定」1987年、東京学芸大学社会教育研究室編『東アジア社会教育・成人教育法制』1993年、所収)
 広州市もまた「社会力量弁学に関する管理条例」(広州市第9回人民代表大会常務委員会公布第18号、1993年)を制定している。李偉成によれば「広州市の社会力量弁学は、多様化、活性化と実用化をはかることにより、全国のモデルの役割を果たしてきた」(同解説)と言う。その背景には、広州市が中国近代化、民族資本主義の発祥地であること、多様な人材が各界をリードしてきたこと(大学卒の比率もたかい)、近年の改革開放政策による社会・経済的発展、行政当局の改革努力の蓄積、などがあげられている。(前掲『東アジア社会教育・成人教育法制』P.34-35)
 そう言えば、今回開かれた上記の広州市教育委員会主催「中国中心都市教育協議会」の主テーマも「社会力量弁学」であった。全国の主要都市から関係者が集まってきた。
 会議が終了した後、私のために用意された成人教育施設の見学は次の三施設(成人教育学校)であった。5年前にも、当時始動を開始していた「社会力量弁学」施設(コンピューター学校など)を見学して、中国教育の現代化状況をまざまざと見た思いであったが、それに引き続く貴重な経験となった。 (1)番禺市中等農業専業技術学校(成人中等専業学校)―7月14日、(2)広州白雲職業培訓学院(社会力量弁学による職業訓練専門施設)―7月15日、(3)広州南洋英文中学(社会力量弁学による中学・高校経営)―7月16日。
 いづれも広州市成人教育関係者が新しい成人教育施設・学校経営の事例として力を入れて「指導」している施設であろう。若い世代の経営者(校長、学院長)、多様かつ活発な学校経営、施設・設備の充実、発展・躍進への取り組み、などこれまでにない新しい実験が始まっているように感じた。それぞれの事例はまことに興味深く、機会を用意してくれた広州の友人たちにあらためて感謝した。
 残念ながらここでは細かな内容を報告する紙数はない。いずれ別の機会をまちたい。今回は、現代中国の改革開放政策下の成人教育の新しい動向を実際にみることができたわけであるが、また同時に、貧富の差の拡大や地域的な格差等による教育機会均等にかかわる矛盾の問題をどう考えていくか、など今後の検討課題をつきつけられた数日でもあった。さらに継続的に「社会力量弁学」の動向と問題を注視していきたいと思う。

 広州から北京へ、そして呼和浩特(フフホト)へ

 ボヤンバートルのビザ切り替えは出発二日前まで確定しなかった。日本の入管当局の対応もかなり官僚的、これでは批判も出るだろう。「ボヤンの同行の見込立たず」という情報は内田純一くんから広州まで伝わってきた。一人旅であれば何とか出来るが、なにしろ15人の訪問団を連れての旅行だ、これは困った、と広東迎賓館の一室で思案した。
 まず北京の韓民に事情を伝えて、一行が北京入りする7月17日、とにかく北京空港まで来てもらうことにする。内モンゴルについては、東京のボヤンに電話して「万一、君が同行出来ない場合の内モンゴルの受け入れ体制をしっかり依頼してほしい」と激をとばす。二つの電話が通じたので、「あとはなるようになるさ」と心配しないことにした。結果的には直前にボヤンの出国許可が出た。日本の入管のお役所仕事、これだけ人をやきもきさせれば本望だろう。
 韓民への電話では、あわせて北京の“楊貴妃”のために「紅い茘枝を持っていく」と伝えた。私はこのとき日本人ではなく広州人(東アジア人?)にでもなったような錯覚をおぼえた。なにしろ北京人に広州の土産を持参しようとしているのだから。
 それから、東京からくる日本人とまだ見ぬ内モンゴルの人たちのために、あと一籠を運ぶことにした。二籠の手荷物が増えて持ちきれない。止むをえず一つは箱にしてトランクに入れることにする。見送りに来てくれた馬詠材さん(福岡で最初に“紅い茘枝”にこだわった人)が真剣な顔で、籠にして手に持てという。箱につめたのでは、せっかくの紅い実が黒ずんでくると。故郷の名品へのなんという愛着。助言を謝して、しかしどうにもならず、トランクのまま飛行機にあずけ、北京を経由してフフホトまで運んだのである。
 北京空港では、まず韓民に手持ちの一籠をわたした。ここで成田からの一行と再会した。その中にボヤンの顔もあり、またエジプトからの留学生(現・一橋大学助手)アーデルの賑やかな声も混じっている。ほっと一息ついた思いだ。
 その夜おそく、待望の内モンゴル・フフホトの空港に着いて、早速にトランクを開いてみる。茘枝はまだ紅く香っていた。一瞬、馬さんの顔が浮かんだ。李くんの心配そうな表情も脳裏をよぎった。広州の友人たち、茘枝はまだ紅いぞ、と叫んでいた。
 茘枝の中に一緒に「黄皮(フアンピ)」を数枝入れておいた。なんともみずみずしい香りの黄色の柑橘。ちょうど17才の美童(みやらび)のような可憐さ、すこしグミの味もする。これも好評、東京からやってきたやや年長の美童たちが声をあげて喜んでくれた。
 フフホト空港には深夜の到着にもかかわらず、ボヤンバートルの家族、親族の皆さんが大勢出迎えている。ボヤンにとっては1年あまりの帰郷、みな興奮気味だ。あわただしく記念の写真もとった。その盛大さに驚き、そうだ、故郷に帰るとはこういうことかと、愛娘を抱き上げて感激のボヤンの顔をみつめながら、一瞬胸がつまった。
 私は息をとめて、やっとたどりついた内モンゴルの空気を大きく吸ってみた。心なしか清く涼しい感触だ。たしかに広州の亜熱帯の感じではなく、また北京のやけに蒸し暑い(政治的な)空気ともちがう。私には、少年時代からはるかにロマンを感じていたモンゴルの地に初めて降り立った感傷のようなものがあった。
 このフフホトの町を出れば、すぐに草原が連なり、そのはるか先にはゴビの砂漠が横たわっているはずだ。ゴビの砂漠に虹が出る、というデカンショ節などを歌ったこともある世代としては、司馬遼太郎の「満腔の感情移入」の書『草原の記』(1992年)ほどではないにしても、いまの若い世代にはないある種の感慨が湧いてくる。
 とうとう来たぞ、という思いである。文化大革命の終息後、はじめて中国を訪問したときの感情に似たものがあった。しかしよく考えてみると、ここは中国領のモンゴルだ。フフホト(青い城)という町は、もともとは草原、そして明代末に漢民族支配の地になった。司馬遼太郎は書いている。「明のころ、(フフホトは)帰化城とよばれた。モンゴル族が“王化”に浴するという意味である。清代にはモンゴル族を綏撫(スイブ)する根拠地という意味をこめて、綏遠(スイエン)とよばれた。遠キヲ綏(ヤス)ンズル。遠キとは、草原のモンゴル人のことである。」(『草原の記』p201、括弧内は筆者補注)
 内モンゴルのなかで、フフホトは中国側がモンゴル人を治める拠点であり、その周辺をふくめて甚だしく漢化していて、ボヤンバートルにとっては心安らぐ故郷ではないのかもしれない。彼の心の故郷は、いまなお両親が暮らしているはるか離れた草原(フフホトから1昼夜汽車に乗り、半日バスに乗り、さらに半日歩く、と聞いた)なのだろう。
 内モンゴルは、どこまでも果てしなくつづく草原、はるかなるロマンの地、だけではない。過ぎし日の歴史の葛藤のなかで、民族と民族とが闘ってきた大地だ。フフホトもまた重い支配と服従(そして抵抗)の歴史が凝縮している町だ。牧民の子、その意味で典型的なモンゴルの民、ボヤンバートル。彼の漢民族への屈折した感情、秘めた抵抗のスピリッツ、がだんだん分かってくる。
 私の心には突然、草原をかけぬける馬のいななき、蹄の響きが聞こえてきた。

 モンゴルの識字問題など

 韓国の畏友・黄宗建さん(韓国平生教育研究所長、ASPBAE顧問)は、老骨(?)にむち打って、いまさかんに(外)モンゴルへ出かけている。テーマは識字問題。モンゴル族として固有語(文字)をもちながら、長いロシア(ソ連)との政治的な関係のなかで、公的にモンゴル文字は廃止され、若い世代はロシア語の教育をうけてきた。かなり難解なモンゴル文字より、ロシア文字の方が普及している。ソ連から離脱後、モンゴル族としての識字問題をどう考えていくか。黄宗建はゲル(包)にも入って、その状況を調べ、私たちの韓国訪問(1997年3月)の際に興味深い話をしてくれた。(この報告は、TOAFAEC編『東アジア社会教育研究』第2号、1997年10月刊行、に収録予定)
 黄さんは、話のなかで中国語の「蒙古」という表現を使うべきではないと指摘した。「蒙(クラ)く古い」という表現は漢族の立場からの甚だしい差別語だ。そして外モンゴルのロシア語普及と同じ問題が、内モンゴルでも、公用語としての中国語とモンゴル語の衰退の問題として深刻に存在している。
 フフホト滞在の最終日、ボヤンくんと内田くんと3人で、あるモンゴル族出身の知識人(教育出版編集者)を訪問した。中国語で遊んでいる子どもたちを見ながら、もうモンゴル語を話せなくなった、と彼がぽつりと語ったのが印象的であった。
 私たちの今回の内モンゴル訪問にはいくつかの目的があった。その一つは、識字教育(「掃盲教育」)の実態にふれてみたい、ということである。中国の識字教育の課題は、中国人自身の非識字問題と同時に、少数民族としての識字問題がある。内モンゴルではどんな状況なのだろう。しかしボヤンを通しての私たちの依頼はうまく実現しなかった。その経過についてあえて詳しく聞くことをしなかったが、初見の外国人にたして簡単に公開するほど、内モンゴルの識字問題が単純ではないことを間接的に知らされたように感じた。
 旅の企画は面白いが、難しい。普通の観光であれば悩まないが、研究的関心を多少でももって期待をかけると失望することが少なくない。私たちは成人教育の施設見学や関係者との交流を願った。関連の大学・研究者との出会いも期待した。間にたったボヤンも困ったに違いない。考えてみるとわずかの日程のなかに、草原とゲルのツアーも含めて、そうあれこれと出来るわけがない。
 とくに私自身は、今春以来貴重な出会いとなった一人のモンゴル人(ボヤンバートル)を通して、これまでの中国旅行と違う“何か”を期待した。それは、彼と一緒に(内)モンゴルへ旅するというだけでなく、中国における少数民族の問題とじかに出会うということだったような気がする。こんな私の関心を話して、あとの計画はすべてボヤンに任せた。公的な文書依頼などフォーマルな手続きは一切とらなかった。その結果、公的な会見や見学などは(識字教育を含めて)実現できなかった。ボヤンの配慮により、非公式に内蒙古自治区教育局長や三人の教育学院教授と会うことができた程度である。
 しかし滞在期間中に、毎日といってよいほど実にいろんなモンゴル人と会い、歓迎をうけ、歌と酒、家庭訪問、そして人びとの熱い友情、にふれることが出来た。私たちは短かな日数ではあったが、少数民族としてのモンゴル族の歴史や文化や、そこに生きる人びとの生きざま、そして矜持、にじかにふれたと思っている。
 あと一つ、今回は「内蒙古自治区50周年」記念の式典が重なった。むしろそれに合わせて日程を組んだようなものだ。私たちは当初は、このお祝いが民衆の祭りであり、あるいはモンゴル人にとっての祝典でもあるだろうという幻想を抱いていた。実際はまったく中国側の、いわば権力者の式典であることを思い知らされる。パトカー先導「お偉いさん」のお通り、激しい交通規制、予約航空便の無効(アーデル君はついにモンゴルへ行けなかった)、博物館・図書館等の閉館、などなど。あるモンゴル人は「記念式典とぶつかってご迷惑でしたね」とねぎらってくれた。
 その当日(7月20日)、夜の花火はあざやかに花を開いたが、心なしか私にはすこし色あせて見えた。この日の記録には「花火のみ美しく、あだ花というべきか」と書いている。

 草原に立っておもう

 今回わずか一日で、改革開放・経済発展政策が渦巻く広州から、草原の地・内モンゴルに北上するという経験をした。しかも茘枝の籠をさげて。あらためて中国の広さを実感し、のんきにこのような旅ができる果報を楽しんでいた。そして当初は、南は激変しているが、草原の大地は悠々として変わらず、という印象であった。
 しかしすぐに、そうではないことが分かってきた。華南の変貌がいちじるしいように、様相は異なるが、内モンゴルもまた大きく変化しているのだ。
 草原に出かけた日、かなり企業化したリゾート村(ゲルの村)が相撲や競馬の催しを見せてくれるが、あい間に車を走らせて、ある遊牧民を訪問することができた。草原のなかにただ一戸。偶然にも内蒙古教育学院ボヤンバートル講師の教え子の家という。
 たしかに草原は雄大、天に雲は流れ、風もまた爽々、小高い丘に昇ると、天地宇宙の中点に我立つ、という風景であった。モンゴル族は、昔からこのような大地に馬を走らせ、牛羊の遊牧にいそしんできたのだ。一行は立ち去りがたくこの丘にいつまでも佇んでいた。
 しかし象徴的だったことは、この家には昔からの牧民としてのゲル(いまは観光用か)があり、その傍らに定住農耕民と同じ堅固な家が建っていたことである。広い草原の真っ只中に遊牧民と農耕民の両者がともに住んでいるような感じの一戸、中国政府の遊牧民定住化政策がつくりだした光景だ。
 ちなみに内モンゴル自治区の人口は現在約2,400万人、その約1割がモンゴル人、そのうち遊牧民がしめる割合は四分の一にすぎないという。モンゴル人も、またその遊牧の伝統的文化も明らかに少数派となった。
 遊牧民はもともと草原の土を掘ることをしなかった。厳しい気象条件のなかで草をはぐくむ表土をだいじにし、下の土壌が風に吹き飛ばされることから守ってきた。農民はそこに鍬の一撃を入れて、ひたすらに掘りくりかえす。
 遊牧民は古来から物を貯えない。物をたくさんもてば移動ができなくなる。「日常かるがると移動することを愛してきた」「物惜しみや蓄財という陰鬱なものからおよそ遠かった」(司馬遼太郎)のである。生きていくためには緑の草があればよく、それを食む羊や牛がいればよかった。
 遊牧から定住へ、牧畜から農耕へ、自足から蓄財(豊かさ?)、広範な商業化と改革開放政策の進行、といった変化が伝統的な文化や価値意識をいま大きく変え始めている。
 いったい人間にとって豊かさとはなんだろう、茫々たる草原に立って、あらためて自らを問うてみた。

 <付記>
 今回の旅では、多くの方々にお世話になった。とくに印象的だったのは、モンゴルの人びとの実に豊かな歓迎の心である。見も知らぬ外来の異邦人を、ごく自然に、かつ心暖かくもてなしていただいた。
 たとえばフフホト到着の翌日(7月18日)、「自治区50周年記念式典」の会場まわりには、広い草原の各地から集まってきた急造のゲルの一大集落が出来上がっていた。あるゲルでは馬頭琴などで賑やかな演奏が始まっている。物珍しくのぞきこんだ私を、そのゲルの主は「どうぞ、どうぞ」と招き入れる。お互いに名前も知らない。遠慮していると、手を引っぱって正面に座らせられた。私だけでなく、あっという間に我ら一行どやどやと客人になってしまった。
 一人ひとりに礼を正して杯が献じられ、歌がうたわれた。強いモンゴルの白酒、しかし熱のこもった歌にひきこまれて、みんなで頂く。その昔、ある人からおそわったモンゴル酒の作法、天に捧げ、地に注ぎ、人に謝す、という感謝の心を薬指の白酒にこめた。初めての体験。このとき私はモンゴル人になった気分だ。祭典とはいえ、ゲルの集いの驚くべき開放性、なんという心あたたまるホスピタリティ!
 日本の礼儀としては、初めての訪問のときはお酒一本ぐらいはぶらさげていくものだ。突然のこと、手もとに何の用意もなく、精一杯のお礼の言葉だけで失礼してしまった。一日(草原行き)おいてあらためて訪問しようとしたが、「50周年記念式典」の交通規制で行けず、まことに残念。しかし大きな想い出をいただいた。

 以下にとくにお世話になった方々(敬称略、順不同)を記しておく。感謝の念をこめて。
 <フフホト>
ボヤンバートル一家、義姉さん一家、その友人の俳優・歌手の方々、
マンサン教授ほか内蒙古教育学院の皆さん、内蒙古自治区教育局長
マイリーサ(一橋大学院生)一家、フフバートル(和光大学講師)のお姉さん 
 <北京>
韓民(中国・国家教育委員会教育発展研究センター研究室副主任)一家
梁威(北京教育科学研究院・基礎教育研究所副所長)一家
司蔭貞(北京師範大学外国教育研究所)
張俊楼(張林新のお父さん)一家
 <広州>
李偉成(広州市教育委員会副研究員)一家
梁日新(広州市教育委員会副主任)ほか広州市成人教育関係者
番禺市、同成人教育関係者、広州白雲職業培訓学院、広州南洋英文中学 ほか

*なお北京では、留学中の大塚由美子(和光大学4年生)、たまたま旅行中の葭田朱美
 (同 3年生)、曽根香織(同3年生)の皆さんと会うことができた。面白い再会であった。





 3,上海・合作学院構想の経過、華東師範大学との交流(上海の風1〜8)

       *小林 「公民館の風」224〜232号→■(2001年)
       同 「南の風」846〜851号→■(2002年)






 4,中国・社区教育の潮流(2001年)

     TOAFAEC『中国上海・無錫・蘇州「社区教育」調査報告書』→■
     (2002,佐賀大学)      






 5,留学生との出会いと交流−この20年、とくに上海への道−

     *日中教育研究交流会議「研究年報」第14号(2004年)


 はじめに

 これまでの研究生活をふりかえってみて、留学生との出会いは大きな意味をもつものであった。留学生を教授・指導する立場ではあるが、逆に彼らから刺激を受け、教えられるところが少なくなかった。ゼミや研究室の活動も、留学生の参加によって、それまでにない新しい展開がはじまったと思う。
 私たちの研究室(東京学芸大学・社会教育研究室)に留学生が登場するのは1980年代初頭である。文化大革命終結後の施策の中で派遣された中国からの(国費)留学生、相前後して韓国・台湾からの留学生がやってきた。次第にその数が増え、1990年前後には、研究室の構成は日本人院生・研究生よりも留学生の比重が多くなる年度もあった。他専攻の受講が可能な大学院「社会教育特講」の講義には全学の留学生の半数近くが集まるという年もあった。1995年春に和光大学へ移り、さらに新しい留学生と出会うことが出来た。多くは中国をはじめとする東アジアからの留学生であり、この約20年にわたる彼らとの交流の歳月はかけがえのないものであったことを実感している。
 
1,交流空間としての研究室

 とかく大学の研究室は閉鎖的な体質をもっている。研究する者にとって、ある程度は私的個別な研究空間は必要であろうが、研究活動それ自体が社会的共同性をもつ以上、常に研究室の閉鎖性を脱皮し、外に向けて開く視点を忘れてはならないと自戒してきた。まして私たちの研究室は社会教育研究室である。まず(1)学生・院生にどう開くか、さらに(2)地域にどう開くか、そして(3)留学生にとっても共同の研究室としてどのように開放性をもちうるか、この三つのベクトルで“研究室を開く”課題に挑戦してきた歳月でもあった。(小林文人「社会教育研究室外史」、東京学芸大学教育学科『教育学研究年報』第15号、1996年、所収→■
 社会教育の実践技法として提起されてきた“たまり場”あるいは“多目的空間”論を、大学の研究室に適用してみようという試みでもあった。つまり研究室は、もちろん研究・教育の切磋拓磨の場であると同時に、ともに学びあうもの同志の“なかま”“交流”“連帯”の場でもありたい。“なかま”的な結びつきが、相互に助け合い励ましあい、厳しい研究生活をのりこえて、みるべき研究成果を生むことにもつながるだろう、そういう交流空間の創造を夢見てきたのである。
 研究室の鍵を、留学生を含めて関係者で共有し、自由な研究会活動を奨励してきた。入口の横のボードには研究会や各種集会の案内がいつもぎっしりと書き込まれていた。ゼミなど研究・学習活動だけでなく、囲む会、歓送会、春節の餃子会、花見、七夕の会、観月会、忘年会等の行事が開かれた。定例の研究会としては、毎週の中国語学習会、留学生特別ゼミ(アジア・フォーラム)、毎月の「月刊社会教育を読む会」、社会教育自主ゼミ、沖縄社会教育研究会、あるいは夜間中学研究会、P.フレィレ読書会など多彩なひろがりであった。これらの活動の中に留学生が位置づいてきたのである。中国語学習会は、中国からの留学生を講師とし、物価高にあえぐ生活を若干でも支援するための薄謝が用意され、10年余り継続されてきた。

2,東アジア研究の視点と研究活動、研究誌の刊行

 留学生との交流の中で痛切に反省させられたことは、一衣帯水の東アジア諸国の社会教育・成人教育に関して、私たちがほとんど確たる知見をもっていないこと、また対話していく言葉・知識が不十分であることであった。彼らと出会って、私たちは歴史的・文化的に深い関係をもつ“東アジア”についての研究視点をもつ必要を自覚させられたといえる。
 1993年・小林ゼミ(東京学芸大学大学院「社会教育施設研究」)では、公民館研究から法制研究へと関心が拡がり、研究室共同の取り組みとして『東アジアの社会教育・成人教育法制』に関する報告(B5版、138頁)をまとめた。その「まえがき」には、「ヨーロッパに関する知見に比べて、なんとアジアのことに無知であるかを反省させられた」こと、「社会教育における“東アジアの発見”」について記されている。この報告書は、わが国最初の東アジア諸国の社会教育・成人教育法制に関する体系的な報告ではないかと自負している。留学生と日本人院生・研究生が協同して取り組んだ作業であった。
 研究室で開いてきた上述「アジア・フォーラム」(1989年〜1995年)→■と、「沖縄社会教育研究会」(1976年〜1995年)→■、「社会教育理論研究会」(1986年〜1995年)の3研究会が合体するかたちで、1995年6月、「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(略称:TOAFAEC、Tokyo-Okinawa-East Asia Forum on Adult Education and Culture、通称:東亜社会教育研究会)→■が発足した。事務局は和光大学社会教育研究室。発足以来、TOAFAECは毎月の定例研究会を開き、1996年に研究年報『東アジア社会教育研究』を創刊した。
 同誌・編集方針として掲げたのは、次のようなことであった。(1)東アジア(沖縄・東京等を含む)の社会教育・成人教育・生涯学習に関する研究、調査、情報交流の「ひろば」を創る、(2)実証的精神・手法を重視し、新しい政策・研究動向を積極的に収録する、(3)一定の研究水準を堅持しつつ、東アジアからの留学生、若い研究者に研究発表の場を提供する、(4)TOAFAEC研究会の活動記録、(5)民間非営利、不偏不党、自由闊達の編集、の5点である。発行日は、満州事変−15年戦争が始まった柳条湖事件の日を忘れないために毎年9月18日、2003年秋までに第8号を数えている。本誌の執筆者は「東アジアからの留学生、若い研究者」一般に広く開かれたものであるが、その大半は私たちの社会教育研究室から育った人たちである。
 定例研究会は2003年12月で第93回(毎年平均11回開催)を迎えた。その記録は、沖縄・東アジア各地への訪問・調査活動の動きを含めて、毎年の『東アジア社会教育研究』日誌「この1年」欄及びTOAFAECホームページ(→http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/)に記載されている。
  
3,社会教育・学校づくりへの模索

 歳月の経過とともに研究室を巣立った留学生の輪が東アジア各地に拡がっている。20年の歳月は、社会教育・成人教育を共通のテーマとして、海を越えた交流を蓄積してくれた。もちろん音信不通もあり、そのまま在日している人たちもいるが、大半は東アジアの故郷・各都市に帰っていった。北京、上海、広州、あるいはソウル、釜山、台北などにおいて、それぞれの立場で活躍している人が少なくない。この拡がりを「桃杏四海」と形容する人もある。嬉しいことである。もちろん在学中の出会いが主な契機となるが、むしろその後の研究室との付き合いが大きな意味をもっている。この間に研究室出身以外の人々との新しい出会いもあり、研究室は歳月を重ねての交流・結節の継続的拠点となってきた。
 私たちのささやかなネットワークから、いろんな企画や挑戦の試みが生まれ、波紋を広げてきた。研究交流、国際シンポジウム、講演会、出版物企画、学校づくり、文庫構想などなど。企画倒れもあるが、いくつか結実したものもある。
 とくにこの10年来、激動渦巻く現代都市・上海市の成人教育関係者や華東師範大学との研究交流が一つの潮流となってきた。なかでも上海市閘北区「業余大学」の合作による中日学院づくりへの挑戦は興味深い展開であった。いつまでも忘れないだろう。両者をつなぐ媒介役を担ったのは、かっての東京学芸大学留学生の二人(羅李争と袁允偉)である。紙数の関係でそのドラマを詳述できないのが残念だ。 
 私たちは中国・文化大革命後の主要都市に設置された公立「業余大学」に強い関心を抱いてきた。日本にみられない、多様な職業訓練を主要な柱とする夜間「社会教育大学」(短期大学)とでもいうことができようか。上海市におけるその典型的な一つ、閘北区業余大学と私たちの東亜社会教育研究会(TOAFAEC)との間で「中日合作学院」構想がもちあがったのは1994年のことであった。当方から学院づくり構想を提起し、閘北区業余大学側との協議を経て、1997年に双方合意の「合作弁学意向書」が作成され調印された。たとえば「学院の性格と主旨」の項には次のように記されている。→■
 「(1)学院は上海市閘北区業余大学の付属学院とする。(2)学院は成人教育、地域教育、職業教育など非学歴教育を行う。(3)学院は学問研究と学習の自由を尊重し、教育における革新を唱導し、国民学習権の保障、学習機会の均等と教育の大衆化、社会化を推進し、できる限り地域の住民に開放する。学院は双方の社会教育と成人教育における研究交流を積極的に拡大し、中日双方の合作、共同研究、交流促進の一つの場となる。学院は営利を目的とせず、設立者双方に利益を配分しない。学院は実験学校の性質を有し、新しい教育理念と教育方法、地域と住民に奉仕する教育のあり方について実験を行なう。(以下略)」
 その後、契約書や定款が作成され、2000年に最終文書となり、決定をまつばかりとなった段階において、結果的に学院構想は当局によって認められなかった。(作成された文書は、記録として上記・TOAFAECホームページに掲載している。)→■
 なぜ実現しなかったか、その理由をここで明らかにすることは出来ないが、社会教育・成人教育の学院づくりにかけた「日中合作」の夢は今なお鮮明である。閘北区業余大学は2001年に新「社区大学」(上海行健職業学院)へと脱皮し、日中合作の思いは同大学・図書館内「小林国際交流閲覧室」設置(2002年)となって引き継がれている。→■

4,その後の展開とこれから

 上海市閘北区・社区大学「上海行健職業学院」に開設された「小林国際交流閲覧室」が今後どのような役割を果たすことになるか、これからの課題である。方向として、日本社会教育に関する文献・資料の収集だけでなく、(1)とくに日本大都市社会教育の自治体最新資料の展示、(2)インターネットによる日中交流の場づくり、(3)継続的・常設的な研究交流の拠点、などを目ざしている。すでに努力は始まっているが、今後どのように具体化できるか。社会教育・社区教育を共通の関心として、日中双方の関係者が日常的に出会う“たまり場”的な空間イメージと、大学側の“図書館”像とは必ずしも一致しないところがあり、今後、関係者が語り合いつつ、息ながく努力を傾注していく必要があるだろう。
 上海での取り組みは、もちろんこれに止まらない。華東師範大学・成人教育関係研究者との間には「社区教育」共同研究の歩みがある。1994年頃より協議が行われたが、この間の日中双方をつなぐ役割を果たしたのは、留学生・呉遵民(神戸大学大学院卒、現在・華東師範大学助教授)であった。1998年には両者の研究交流に関する協議書が作成され、TOAFAEC側が訪中し、1999年には私たちの招聘に応えて華東師範大学側から学長等が来日された。2002年には上海市「社区教育」関係者による訪日団を迎えている→■。2001年の日本側「社区教育」調査団の活動については報告書がまとめられた。(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会『中国上海・無錫・蘇州「社区教育」調査報告書』2002年)→■
 この過程で日中合作による「社区教育」研究についての出版構想が具体化した。2003年11月、上海において、小林文人・末本誠・呉遵民共著『当代社区教育新視野−社区教育理論与実践的国際比較』(上海教育出版社)が上梓されている→■
 同じく2003年9月には、山東省烟台市において「烟台日本語学校」が開校した。校長(兼理事長)は張林新、和光大学に学んだ留学生である。名誉校長は小林文人。教育の場において真の日中友好を実現していくために“いい学校をつくろう”という夢を追いかけている。
 すでに与えられた紙数が尽きた。あらためてこの20年にわたる留学生との出会い、そして、その後も続いてきたお互いの友情と信頼、人間的な交流に感謝したい。





 6,上海社区教育の研究ーこれまでの経過と調査視点

    *TOAFAEC「東アジア社会教育研究」bP4、2009年
 

 上海における「社区」概念の登場

 中国の成人教育・生涯学習の展開のなかで「社区」(地域・コミュニティ)概念が登場するのはそう古いことではない。日本や韓国の社会教育・生涯学習の歴史では「地域」がつねに重要なテーマとなってきたのと対照的である。たとえば20年余り前の重要文書、中国・国家教育委員会「成人教育の改革と発展に関する決定」(1987年6月23日)では、成人教育の主要な柱として、成人の職業教育、基礎(識字)教育、一般知識・専門教育、継続教育、文化余暇教育、の5領域があげられているが、この段階では「社区」の視点はまだ登場していない。
 1980年代の改革開放政策の進展を背景に、1990年代前半より主として都市部において「社区教育」の構想が動き始める。その典型的な動向は上海に見ることができた。この20年余の大都市・上海の変動はおそらく世界史的なものといえようが、その激動のなかで社区教育の施策が胎動してくるのである。先駆的な取り組みを進めてきた閘北区についてみれば、郭天成・周金彩編『社区教育探索』(天津教育出版社)が刊行されたのが1994年、その序文には「街道」社区教育委員会の成立を目印に考えて、すでに1988年3月に社区教育は誕生したと記されている。すなわち「…閘北区彭浦新村街道と新彊街道に国内初めての社区教育委員会が成立」し、さらに「1年後には閘北区としての社区教育委員会も生まれ、また15街道に社区教育委員会が成立」したとされる(袁允偉「生涯教育の思想と社区教育、街道教育委員会−上海市の動向を中心に」(『東アジア社会教育研究』2,1997、39頁)。閘北区においては、前記「成人教育の改革と発展に関する決定」の翌年にはすでに「社区」施策が姿を現していた。
 それからちょうど20年が経過したことになる。この節目の年に、私たちの新しい社区教育調査活動は、先進的な閘北区を主要フィールドとして始まることになった。

 二つの水路による研究交流の歩み

 筆者・小林が(観光旅行は別にして)研究関心をもって上海を訪問したのは1989年5月のことであった。閘北区業余大学(当時)で学ぶ成人労働者の姿は今でも脳裏に鮮やかである。訪問の契機をつくり架け橋となったのは、二人の東京学芸大学・留学生(袁允偉=閘北区業余大学副校長、羅李争)であった。その後、閘北区業余大学と小林を代表とする東亜社会教育研究会(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会、略称TOAFAEC)との間に、中日合作学院設立の協議があり、結局は実現しなかったが、その過程で閘北区関係者との出会いが拡がり、相互の信頼と友情が重ねられてきた→■。二十一世紀へ移行する前後に、業余大学は社区学院となり、現在の行健職業学院へと発展していく。2001年10月、新学院の図書館に「小林国際交流閲覧室」が開設されたのは、ここにいたる日中関係者双方の研究交流の蓄積、その一つの結実と言えるだろう。
 あと一つの流れは、1990年代後半から始まる華東師範大学ならびに上海市成人教育協会を通じての研究交流であった。架け橋として、呉遵民(神戸大学大学院留学生・当時)の役割が大きく、またとくに葉忠海(華東師範大学教授)を代表とする上海市成人教育協会関係者との交流が重ねられてきた。1998年〜2002年にかけて、華東師範大学とTOAFAECとの間に研究交流協定の協議書、合意書も交わされ、日本と上海それぞれの相互訪問も行われた。これらの詳細については、TOAFAECホームページ→■に記録されている。
 また2001年11月の上海社区教育調査活動については報告書がまとめられている(『中国上海・無錫・蘇州「社区教育」調査報告書』2002年、佐賀大学)。加えて、日中の共同研究メンバーによる社区教育、生涯学習に関する2冊の研究書(『現代社区教育の展望』2003年→■、『現代生涯学習論』2008年、いずれも呉遵民、末本誠、小林文人共編、上海教育出版社)も刊行されてきた。
 この20年の経過のなかで、私たちと上海との研究交流の二つの水路は、さらに次なる流れをつくり、海をこえて一筋の潮流となってきた。その契機はいずれも日本への留学生から始まっている。この機会にあらためて関係留学生に深く感謝したい。当時の水路を拓いた世代の努力は、さらに次の世代に連なり、今回2009年の上海社区教育調査活動へと発展することになった。

 社区教育の地域実像を

 大都市・上海の変貌は目をみはるものがあるが、とくにこの20年来の激動は改革開放政策下の中国現代史を象徴する側面をもっている。大都市としての地域・コミュニテイは流動・解体・再生・創造のたえざる変転過程にあるが、その動因として政策主導による積極的な「社区」施策の動向が注目される。その展開はきわめて興味ある研究課題であるが、実像を把握する作業は容易なことではない。
 この20年にわたる上海との研究交流は、他に類をみない大都市変貌の様相に接する機会であり、都市改造、教育計画、地域福祉あるいは住民活動等を考える貴重な契機となってきた。しかし実際のこれまでの調査活動は、行政施策の側から見学し資料収集を依頼することが主となり、地域の実態について細部に迫る余裕がなく、ときとして表層的な調査にとどまる場合が少なくなかった。上海という重要な研究フィールドにおいて、とくに「社区教育」に関する実証的かつインテンシィブな社会調査(social survey)をどのように進めていくかが課題となってきた。
 今回の上海・社区教育調査を企画するにあたって、これまで収集し得た資料等をふまえながら、上海の受け入れ側の事情も勘案しつつ、同時にこれまでの反省にもたって、次のような姿勢で調査計画を考えていくこととした。
1, 社区教育について先進的な取り組みをしてきた閘北区(とくに行健職業学院)の協力をお願いし、主として「街道」等についてのインテンシィブな地域実態調査を試みる。
2, 行政施策、施設活動、社区活動等のいわば上からの流れだけでなく、それが実際に機能していく地域側の対応、住民の意識、できるかぎり下からの草の根の実像を明らかにしていく。
3, 理念や計画の側面だけでなく、社区教育に関わる事実・現実がどのように推移し展開しているか、その実像を地域実証主義の視点から調査を試み、事実に即して課題・展望をえがきだすようにつとめる。

 社区教育の拠点施設・地域文化センターの展開

 上海における社区教育の展開過程をふりかえると、とくに最近数年の躍動として、上海市内230街道すべてに、社区教育活動の拠点施設・地域文化センターが設置されてきたことが注目される。日本との対比でいえば、都市型の大型公民館が全市にわたって整備されたことになる。地域文化センターには多く社区学校が配置され、上海の社区教育はいま固有の施設をもち、独自の展開を見せ始めたということができる。
 これまでの社区教育の発展段階は、第1期(学校支援のための地域教育資源ネットワーク)、第2期(地域社会教育の教育事業体)、第3期(行政的に再編された社会的セーフティネット)として説明されてきた(たとえば牧野篤「中国」、日本公民館学会編『公民館・コミュニテイ施設ハンドブック』2006年、395頁)。いま地域文化センターという施設を活動拠点として、第4期、施設型の社区教育活動の段階へと新しい歩みをみせ始めているということができよう。
 地域文化センターについての実態や課題を明らかにすることは本調査の一つの目的であるが、仮説的にいくつかの特徴をあげれば、次の諸点を指摘することができよう。
1, 文化館・文化ホールなど従来の文化行政系列の施設機能を合わせもっている、
2, 図書館・博物館的な施設機能とともに、体育・スポーツ、福祉・保健、障害者支援、
情報ネット空間などの多様な施設機能を複合し、そのような総合的施設のなかに社区活動・社区学校が位置している、
3, 社区教育の初期形態としての学校支援の機能や、従来の成人教育として展開されてきた職業訓練の機能は相対的に後退している、
4, 施設を運営し事業を実施していく職員体制やその専門職的整備のあり方が新しく問われている、
 行政的な施策として急速に施設整備が進められてきた経過があり、その意味である種の画一性もみられるが、同時に各区・街道の歴史的地域的な独自性があり、大都市・上海の枢要な都市施設として、また社区教育の新しい拠点施設としての展望を明らかにしていくことが今回の調査活動の一つの課題となってくる。

 社区をになう主体としての住民

 現代都市社会を構成するのは、ほんらい「社区」=地域・コミュニティを担う主体としての市民・住民であろう。その自発的自治的な活動と市民の主体形成こそが「社区教育」のテーマとなってくる。他方で行政施策として「社区」事業が下ろされてくる場合、それが積極的意欲的であるほど、受ける側の市民・住民は、「社区」の主体というより、むしろ行政の対象、施策サービスの客体として位置づけられる状況も生まれてくる。行政組織としての「社区」、あるいは官許の「社区」活動の側面に対して、市民社会としての本来のコミュニティ活動やボランティアの自治組織をどう形成していくか、その視点から逆に行政施策のあり方を問うことも必要であろう。社区教育・社区活動の今後の方向を考えるにあたって、このような市民・住民の主体性と自発性、その自治と参加の取り組みが課題となってくる。
 この点に関連して、韓民(中国教育部)は、中国「生涯学習社会」に向けて「コミュニテイ・エデュケイションの進展」を最も注目すべき方向としてとらえ、その特徴を次のように示したことがある。
「…中国の伝統的成人教育と比べて、次の特徴をもつ。@参加者における開放性、A学習内容の多様性、B時間と空間上の柔軟性、C地域教育資源の総合的利用、D市民の主体的参加と自己組織、自己教育。…」(『東アジア社会教育研究』8,2003年、2頁)
 きわめて興味ある指摘である。ここには、中国の伝統的成人教育の体質にかかわって、いくつかの問題点が提起されている。すなわち、ある種の閉鎖性、あるいは画一性、硬直性、単一性、または行政主導性など。そして、新しい「コミュニテイ・エデュケイション」つまり「社区教育」による脱皮・再生・改革の方向を期待し、その可能性が語られていると読みとれよう。
 20年前に胎動した社区教育の歩みは、いま上海全域で新たな進展をみせ始めている。現段階において、その実相はどのようなものか。上述の開放・多様・柔軟・総合・参加・自己教育といった改革方向がどのように具体化されているのか、これからの歩みが注目されるところである。同時にまた、日本の社会教育や公民館活動がこれまで創出してきた理論、たとえば住民主体・共同学習・施設運営参加・地域課題学習・地域づくり運動などの実践とどう対話させていくか、また、日本側が上海・社区教育の躍動に何を学ぶか、これからの研究交流が楽しみでもある。

 社区教育と職業教育・訓練のこれから

 上海・社区教育調査に取り組むにあたって、あと一つ、忘れてはならない課題を書き加えておきたい。社区教育(community education)の新しい展開のなかでの職業教育(vocational education)の問題である。20年前、筆者たちが初めて上海を訪問した当時の「成人教育」は、産業・企業体と一体となっての職業教育が主要な柱であった。現在の社区学院は、当時は多く職業教育・訓練を中心のカリキュラムにもつ「業余大学」であった。教養・文化や地域に関わる成人教育の視点は微弱であったが、労働・技術・資格等についての多様な教育・訓練の公的体制が活発に展開していたと言える。労働と学習(働きながら学ぶ)、実務・技術の訓練、職場と結びついた成人教育など、日本の社会教育にはまったく欠落している風景とエネルギーを実感したものであった。
 しかし1990年代の改革開放政策・市場経済化の進展とともに、労働力の流動化、自由労働市場の形成が進み、職業教育は在職訓練から就労前教育へと重点が移り、成人教育からは分離される方向となった。社区教育は、このような経済、市場、労働の大激動に対応するかたちで登場してきたのであった。
 これから、社区教育が前景にひろがるにつれて、職業教育は後景に退いていくのであろうか。若者の就労前の職業教育が中心となり、在職成人にとっての公的な職業訓練システムは衰微していくのであろうか。そうではなく、これまでの蓄積を活かしつつ新たな発展を確かなものとしていく姿勢、つまり社区教育と職業教育の(分離の方向でなく)調和のとれた結合の視点、全人的な人間形成・人材育成の可能性を追求する方向、が模索される必要があるのではないだろうか。この仮説をもって、社区教育の具体的な展開をみつめていきたい。
 閘北区において、前世紀末まで「業余大学」と呼ばれてきた社区学院は、いま壮大なキャンパスを擁する「行建職業学院」へと発展してきた。若い18才人口を主とする学歴教育としての職業教育が注目を集めている。若い世代が学びあう社区大学(community   college)のキャンパスが、同時に成人の職業教育・訓練にかかわる大学(adult college)
でもあり、加えて閘北区の社区教育・社区活動の拠点として、多くの市民が集う生涯学習"ひろば"(lifelong learning center)の役割をあわせもつような可能性を期待したいのである。

 謝辞
 私たちの上海・社区教育調査活動は、いまようやく始まったばかりである。短期の調査企画として終わるのではなく、可能な範囲において継続的な研究活動を持続できればと考えている。それだけ大都市・上海の激動は刺激的であり、その社区教育の展開は躍動的だからである。ここに至る上海市とくに閘北区や華東師範大学の関係各位との友情と信頼にまず深く感謝し、お互いの友誼・友好の関係を大事にして、今後の研究活動をさらに持続し充実させていきたいと考えている。その成果がどれほどのものになるか、高言できるものではないが、上海・社区教育のこれからの発展に何らかの寄与ができれば幸いである。
今回の私たちの調査にあたっては、上述の葉忠海・呉遵民・袁允偉・羅李争の各位はいうまでもなく、とくに閘北区・行建職業学院、上海市遠程教育集団の関係各位、さらに閘北区をはじめとする普陀区、浦東新区、徐匯区の関係街道の皆様に積極的なご協力をいただいた。私たちの調査活動にご理解を賜り、不躾な訪問にもかかわらず、快く歓迎して下さった多くの方々に、冒頭に心からの感謝の意を表したい。




7,湘潭・広州への旅−1999年 南の風209〜237
      (回想・南の風3580〜3586号)


■1、≪小林文人(和光大学・当時)1999年4月〜5月≫
  *次回(TOAFAEC)定例研究会(11月27日)の黄丹青さん報告
   に登場する(であろう)上海教育科学研究・副院長・張ジュィ
   氏に関連して、「南の風」1999年の古い記録をご紹介することに
   しました。「湘潭への旅」、6回になる予定です。(ぶ)
【回想記録】<湘潭・広州への旅−1999年4月〜5月(その1)>
                 *風3580号(2015年11月13日)
【南の風】第207号(1999年3月20日):歳月の重なれば良きこともあり−
 …(韓国文解教育協会(金済泰会長)年次大会への招聘講演・4月29日)略
 あと一つ、中国・湖南省の長沙に近く、湘潭市の大学から招聘があります。
学大の留学生だった朱榴芳さんが日本語教師となり、「一度来てほしい」という
熱烈な手紙が舞いこみました。市内の三つの大学(師範大学など)が連合して、
初めて日本の学者の話を聞こうという計画のようです。
 韓国訪問の後、どうせ連休だからその足で行くか、などと迷っています。例の
上海の合作学院の件もあり、あと一つ、湘潭まで足を延ばすかと…。
◇留学生・朱榴芳さんからの電話−
 ・夫婦して留学の労苦あまたあり いま報われしか声の明るき
 ・「私を憶えていますか」「憶えているとも」と叫び合いたり
【南の風】第210号(1999年3月30日)
 …4月末から5月にかけて、韓国と中国への訪問・三つの話が動いています
が、与那国より帰京してみたら、これに広州・李偉成の電話があと一つ加わっ
て、かなり錯綜気味。新しく加わった話というのは、広州・成人教育と広州電
視大学からの学院づくりについての相談。都合がつけばぜひ来てほしいとのこ
と。湖南省の計画を言ったら、ぜひ足を延ばして、ということに。…(略)…
【南の風】第212号(1999年4月1日)
 …「アジアの海を泳ぎたい」と10年ほど前の年賀状・挨拶に書いたことがあ
ります。数年たって、佐賀の上野景三さんは、これを妙に憶えていて「その後
どうなっていますか」などと話題に(催促?)しました。当時、小生「……」
ただ黙すのみ。(「東アジア社会教育研究」創刊号、小林「旅」ご参照を。)
 最近の4年ちかくのTOAFAEC の活動は、歳月が経過すれば蓄積もできて、そ
のうちきっと大きな意味をもってくる?とひそかに期すものがあります。今回
の旅もその一つのプロセスなのかも知れない。思いもかけず、国を越え、都市
から都市へ、なにかヨーロッパを旅するような気分で旅程が出来ていきました。
アジアを「泳ぐ」ような実感が少しあります。黙すのみでなく、少し泳ぎ始め
たぞ、と上野君へ一つの返事になるのかも。…(略)…

2、■≪【回想記録・2】 1999年4月〜5月≫
 <湘潭・広州への旅−1999年(その2)>
3582号(2015年11月18日)
【南の風】第219号(1999年4月8日)
 1999年連休の韓国・中国訪問のスケジュール、次のように確定。皆さんが心
配するように、かなりのハードな日程ですが、心は「アジアの海」をちょっと
泳いでこよう、という気楽な気持ち。もう、溺れている?
4月28日(水)成田ーソウル
29日(木)韓国文解教育協会第10回年次大会に参加  *江頭晃子さんも
   ・講演「東アジアにおける識字教育運動の研究・交流・協力」:水原市
30日(金)ソウルー上海 協議「合作学院」文書確定 *袁允偉、羅李争
5月1日(土)上海ー長沙(午後)→湘潭へ     *張 王玉・朱榴芳夫妻
2〜5日 湘潭市・3大学で講演(テーマ)
  ・湘潭大学外国語学院「日本生涯教育の展開について」(3日午後)
  ・湘潭工学院「日本教育改革の動向と生涯教育の課題と展望」(4日午後)
  ・湘潭師範大学「現代教育の課題と教師像」(5日午後)
6日(木)長沙ー広州へ   *李偉成
  7日(金)広州電視大学との協議(学院創設の可能性について)
・広州市教育委員会招聘・/講演「生涯教育の国際的展開と日本の動向」
8日(土)広州ー香港ー成田(帰国)−スケジュール確定−
【南の風】第228号(1999年4月19日)広州訪問について
 −広州・李偉成より(3月31日18:47)−
 ご訪問スケジュールがすべて決まりました。広州は三日間の滞在ですが、快
適、充実、そして安全な旅となるよう、次のように考えております。
1、今回の広州のご訪問は広州市教育委員会の招待となっております。広州で
の費用は広州側が負担いたします。先生の希望ではありませんが、こちらの皆
さんにぜひそうしてくださいと頼まれて、…(略)…勝手に受け入れました。
2、湘潭の朱榴芳さんと連絡とりました。長沙から広州までの航空便は午前8
時か(早い?湘潭から長沙まで約1時間)、午後2時か(遅い?)ご指示を。
3、先生から「生涯教育の国際動向と日本の実践」についてご講演下さいます
よう広州市成人教育協会からの申し出がありました。7日午前、参加者は広州
市成人教育関係者約200人だそうです。これも私の方で、一応受け入れてお
ります。折角のご旅行なのにご苦労をお願いしますが、大目に見てください。
 今のところ、広州市の成人教育はいろんな困難に直面しており、成人教育の
関係者は他の国がどういうふうにやっているか、市場経済のもとで、成人教育
(社会教育・社区教育)のあり方がどういうふうに見られているか、山積みの
問題が出てきました。広州市当局では先生の今度の来訪を大好機と見ています。
 参加者へのレジュメ、早めにいただきたい。講演は約3時間(通訳も入れて)。
4、広州で見学の用意(7日午後)も考えています。先生のご希望を。
…(略)…
■≪あの日の「盲流」(ぶ)≫ 同3582号(2015年11月18日)
 岩本陽児さん(和光大学)の母堂ご逝去のこと(上掲)、知りませんでした。
ひとり息子はいつも親元を離れて(我が家もそう)、お寂しかったのではない
かと案じるときも。葬儀・納骨つつがなく終えられたそうですが、たいへんだ
ったことでしょう。謹んでお悔やみ申し上げます。
 ところで、前々号から載せ始めた【回想記録2】について。次の研究会(11
月27日)へ向けて、南の風の初期記録(1999年)「湘潭への旅」を再録してい
ますが、広州への旅がからんでいました。この際一緒に回想記録に入れておく
ことに(上掲)。振り返ると、中国との付き合いは、華南・広州行きが案外と早
かったのです。「南の風」がまだ出ていない1992年からのこと。何度も広州へ、
そして広州からの訪問団(TOAFAEC が招聘状を出してビザ取得)を何組も受け
入れてきました。すべて留学生(当時)李偉成さんが“架け橋”の役割を果た
してきました。この記事、いま李偉成さんは読んでいるかしら。
 旅に出ると当時は日記がわりに拙い歌をノートする慣わし。上掲・南の風に
は1994年広州訪問の古い歌を付していました。ついでに本欄に写しておきます。
◇二度目の広州訪問、広州駅にて−1994年11月(歌ノート)−
・駅前に群れし「盲流」臭気満つ なかに書を読む若者ありき
 *盲流は内陸から沿岸大都市へ流れてきた膨大な農民工の流れ
広州駅周辺には当時100万近くの盲流が蝟集していた
・人民の手あかまみれし二角幣 「来々々」と叫ぶ女にくれし
◇広州を流れる珠江ほとり−1994年11月−
・珠江の電彩まぶしき飯店の 美食を前に盲流を想う
・広場への放水激し農民を 蹴散らす都市の権力かなし


3、■【回想記録】(1999年4月〜5月)
 <湘潭・広州への旅−1999年(その3)>
−3583号(2015年11月21日)
【南の風】第237号(1999年5月9日)老朋友と新朋友
 5月8日の深夜、予定通りの便で、帰国・帰宅いたしました。留守中いろい
ろと電話でお願いしたり、ご迷惑をかけて失礼しました。
 こんどの旅は、かなり無理なスケジュールでしたが、しかし結果的には、や
はり決行してよかったと思っています。旧知の人(老朋友)たちとの再会を楽
しみ、また新しい人(新朋友)との出会いもたくさんありました。もちろん疲
れましたが、収穫の多い10日間でした。…(中略)…
 今年は少し遅れている『東アジア社会教育研究』第4号の、実質的な(個別)
編集会議の毎日でもありました。北京(韓民と電話で)、上海、湘潭、広州か
ら各1本は少なくとも収録できる見通しとなりました。もちろん韓国からも何
本か入り、これに沖縄が加われば、案外とどっしりした第4号になりそう。
 詳しいことは別にして、取り急ぎ、新しいホットなニュースなどいくつか。
4月29日:韓国文解教育協会への参加(下記・江頭報告−略)。
  30日:黄宗建さんと朝食、新居へ引っ越したと。この日、黄海を飛ぶ。
5月1日:上海「合作」学院の文書ほぼ確定(ホームページへ)。湘潭へ
  2日:湘潭郊外、毛沢東旧居と劉少奇(文革で死去)旧居へ。涙!
  3日:張王玉・朱榴芳さん、元気。『第4号』に「成人教育学院」執筆意欲。
   〜5日:小林・3大学で講演、石原慎太郎と逆のことを言って拍手あり。
  6日:広州へ、1992年以来の老朋友に迎えられる。かっての成人教育幹部
     諸氏も定年退職、みな元気で新しい仕事をしている。李偉成くんの
     愛車はフランス外車。広州市議員(政治協議会委員)に選ばれた。
5月7日:広州電視(放送)大学より「学院づくり」の熱いメッセージ。
同大学でTOAFAECホームページ(緑色・表紙)へアクセス、感激!
5月8日:皆さんと広州式の別れの朝食会。これから毎年、花粉症の季節は
広州への移住をすすめられる。広州は“花の都”だ。
◇【歌ノート】4月30日、ソウル大学宿舎、黄宗建さんと朝食−
・出会いの日ソウルの春より二十年 重ねし友情いまなお熱く
・その縁(えにし)あればこそいま壇上に 立ち日韓の識字を論ず
・小鳥鳴き新芽萌えいでつつじ咲く 朝鮮やかな希望の四月
◇【歌ノート】5月8日、香港(新)空港にて−
・広州の早生ライチと潮州の 魚丸湯・エビに名残りを惜しむ
・雨にかすむ香港の海よ島影よ 旅のおわりの孤独たのしむ

4、■【回想記録】(1999年4月〜5月)
 <湘潭・広州への旅−1999年(その4)>
【南の風】第240号( 1999年5月13日)
 湘潭の張ジェイ・朱榴芳夫妻は元気だ。とくに張ジェイ(zhang jue)氏は、
来日当初(1994?年)は、日本語がまだ不充分ということもあり、また専攻の鉱
山(石炭)学の展望が持てないなど、悩み深い時期もあって、寡黙で、緊張した
表情の印象が残っている。しかし、いまは溌剌、むしろよく語り、まわりの評
価たかく、要職をこなしている(大学・教務部副部長、副教授)。湘潭3大学
での小生の講演はすべて張王玉氏が通訳を担当した。名通訳であった。
 日本ではその後、すっかり専攻を変えて、東京学芸大学・院の教育経営論講
座に入学し、昨年春に論文を提出したことなど全く知らなかった。学大も遠く
なったものだ。その後、朱榴芳さんと二人して元気に旧勤務校の湘潭工学院に
復帰した。かなり気になり心配していた留学生だけに安心した。こんどの旅の
収穫の一つだ。
 夫妻の自慢は、二人の息子。一人っ子政策の中国で、兄と弟がいるのは珍し
い。お兄さん(小6)は祖父母に預けていたので日本の生活経験はないが、弟
(3才)は日本生まれ、可愛いい盛りだ。まわりから「お前は日本人か」とか
らかわれるそうだ。愛称は「小叶々」、兄は冬に生まれたので「小冬々」。
 小金井での想い出話は尽きず、江頭晃子さん(論文のときにお世話になった
とか)はじめ、皆さんに「ぜひ湘潭に遊びに来て!」と伝えてほしいとのこと。
◇【歌ノート】湘潭・5月2日、 −小叶々(3才)と遊ぶ−
・「我是日本人、君は?」問えば小児 眉をあげ「我、中国人!」と言えり
◇湘潭・5月2日、劉少奇記念館にて、小叶々−
・涙してしばしたたずみ外に出れば 待ちし童(こ)「爺々(いえいえ)」と駆け寄りくれし

5、■【回想記録】(1999年4月〜5月)
 <湘潭・広州への旅−1999年(その5)>
【南の風】第238号(1999年5月10日)湘潭・劉少奇記念館にて
 かって中国・中央電視台作品で「河殤」が話題になったことがある。その台
本は日本語訳されて本になっている。東京学芸大学社会教育研究室時代に、胡
興智が紹介してくれたことがきっかけになり、当時の「アジア・フォーラム」
(留学生特別ゼミ)でも取り上げた(1992年9月)。教官有志による中国研究会
でビデオを見る会もした。中国では、現在もこの作品は上映禁止であり、その
故か、ひそかにビデオ版(香港?)が作られ、出回っていたのを入手したのだ。
この保存版、ある人に貸したまま返ってこない。
 「河殤」のなかでとくに印象的な場面は、中国主席・劉少奇が文化大革命で
追われ、その妻・王光美とともに糾弾にさらされ、ついに河南省開封で幽閉の
まま死去したこと。その遺骨が妻・娘たちに抱かれ、涙とともに青い海に葬ら
れる場面、であった。海への散骨は、劉本人の生前の遺言によるという。
 劉少奇は、毛死後・4人組逮捕後に名誉回復され、1980年北京で追悼大会が
開かれた。同じく奇跡の復権をとげたケ小平が代表して悼詞を述べた。1998年
には生誕100年記念大会が盛大に開かれている。
 1988年には、その故郷・花明楼の生家の近くに「劉少奇同志記念館」がつく
られた。毛沢東旧居とあわせて、今回の湘潭訪問では、劉少奇旧居に行くのが
一つの期待であった。しかし毛記念館の人出や「偉大」な銅像などと比べ、ひ
っそりしていて、逆に静かに「時代」を考えることができた。
 劉少奇も毛沢東と同じく、湘潭市外の農村の出身だったのだ。劉は毛と同郷、
しかも遠い親戚とも聞いた。しかし毛は劉を見捨て(私を案内した人は「毛が
劉を殺した」と言った)、その妻・王光美の聡明さを江青はねたみ、夫ととも
に「走資派」として弾劾を受けた。劉少奇同志記念館に展示されている写真に
は、夫に寄り添う王光美がたくさんあり、涙をさそう。
◇【歌ノート】湘潭・5月2日、−劉少奇同志記念館にて−
・劉少奇旧居を辞して帰る道 なぜにかくにもでこぼこ道か
  −劉少奇と王光美は30歳の差、7人目の妻とも聞いた−
・ふるさとの夫に寄り添う普段着の 新妻のひとみ聡明にひかる
・大海に撒かれる夫の骨壺に 頬すりよせる女(ひと)の悲しみ
−江沢民主席は王光美に近づき敬意をこめて握手(写真)−
・復権の夫の生誕百年に 坐す妻老いて白髪の多き
【南の風】第259号(1999年6月11日):湘潭からの便り
◆≪湘潭市、張 jue・朱榴芳、6月9日着・書簡≫
 拝啓 このたび先生には遠路はるばる、こんなへんぴな湘潭へ講演にお見え
になられて、とても光栄に思います。
 先生からのメールは、はっきり読みとれます。非常に嬉しいです。また先生
は無事に帰国されたことを知り、ほっとしました。先生へのメールは全部日本
語なので、N J Starというソフトを使えば簡単に読めるでしょう。どうぞぜひ
お試しください。 …中略…
 先生、今度また機会があれば、ぜひ奥さんをはじめ研究室の皆さんを連れて、
講演抜きで遊びにきてて下さい。くれぐれもよろしくお伝えください。敬具

6、■【回想記録】(1999年4月〜5月) <湘潭・広州への旅−1999年(その6)>
【南の風】第239号(1999年5月11日)蛇・蛙・スッポン
 「食は広州にあり」という。広州では「空飛ぶ飛行機と土の上の椅子」以外
は何でも食べる、ともいうが、ほんとにそうだ。ゴキブリに似た水に住むゲン
ゴロウのような昆虫もたべる。もちろん蛇も。こんどもよく食った。1992年の
初めての広州訪問当時は、まだ蛇は駄目だったが、今はスープはもちろん、唐
揚げ風の肉もおいしく食べるようになった。しかし、蛇の皮の料理(野菜との
炒めもの)はさすがに箸はのびなかった。青蛙(ちんわ)は実においしい。そ
れでも皮がくっついていると、どうも食べきれないけれど…。
 湘潭では、正式の宴会はまずスッポンのスープから始まる。これを胃袋に入
れて、それからかなり強い酒を飲み始める。乾杯の応酬で熱烈歓迎の気持ちを
あらわそうというのだから、こちらもかなり心を決めて、飲みはじめる。これ
が毎日続き、疲れるのは、やはり当然。
◇【歌ノート】湘潭・5月2日、湖南省・田舎の食堂で−
・スッポンと蛙と蛇とを食すれば 思想も論理もすべて消え失す
・青蛙のたおやかな股いとうまし 細き骨までしゃぶりつくせり
・厠には水を浴びたる青蛙の ゲロゲロ鳴きて出番待ちいる
◆【南の風】第278号(1999年7月5日)湘潭−張・朱夫妻−からのメール
<武漢へ>
 御無沙汰しております。お元気ですか。いくつものメール(南の風)有難う
ございました。先生たちの研究活動がよく分かり、本当に嬉しいです。こちら
から送ったメールがお読みになれるようになったとのこと、これからの連絡は
一層便利になるでしょう。
 おかげさまで来期から武漢の華中理工大学・高等教育研究所で三年間(博士
課程)の新しい生活がスタート致します。指導教授は朱九思・文輔相両先生で
す。湘潭市から近いですから、こちら(湘潭工学院)の仕事もすこし兼ねてほ
しいと院長先生が言われましたが、私はまだ勉強したくて、仕事のことあまり
考えていません。取り敢えずご挨拶申し上げます。敬具

張・朱夫妻(上海、20031124)




8,東アジアにおける社会教育・生涯学習研究交流の新しい地平・総論
     TOAFAECの活動を通して
  『東アジア社会教育研究』16号(2011)所収→■



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