南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
3150号【2013年9月2日】
■≪衰えの自覚≫
訂正とお詫び。前号・伊藤長和さん「闘病生活・6」の5行目、「明日は8月です」はもちろん「9月」の間違い。頂いたメールが1日滞留した関係で、「明後日」を「明日」と書き直した際に、何を勘違いしたのか手がすべってしまったようです。発行者ぶんじんのミス。お許しください。こんな間違い(最近は他にもいろいろ?)は、当方の老化というほかなく、そろそろ年貢の収めどきかと、諦めの心境です。
人生八十路を越えると、体のいろんな衰えを実感するものです。耳はまだ大丈夫、歯の故障は友人の歯科医がうまく補修してくれました。足腰もなんとかメインテナンスでき、頭の衰えは当然のこと、抵抗しないことが肝要、その意味で問題ありません。しかし視力が薄れてきたこと、皮肉なことに“目に見えて”進んできたような…。実際に不自由あり、直ちに諦めの境地になれず困惑しています。
なじみの(春の花粉症に目薬をもらいに行く)眼科医からは、そろそろ白内障・治療をとの助言。小心者には目の手術など、できればパスしたい気持あり。簡単に済むとのことですが、そのまま1年余が経過しています。加えて手指の操作がのろくなって、変換ミスなど生じ・・・、それを見逃す視力の衰えが重なるという次第。今後とも大目にみてやって下さい。以上、ぶんじんの言い訳でした。
9月は、東京社会教育史研究フォーラム事務局会議(4日)、韓国研究フォーラム(5日)と始まります。あれ!5日の韓国フォーラムからの案内はまだのような…。まさか中止ではないでしょうね。ご確認を。
3149号【2013年8月31日】
■≪多元的に考える視点≫
8月が終わります。今年も三分の二過ぎていきました。この8月は与那国や竹富など南の島にしきりと台風襲来、各地では豪雨の被害あり、しかも日本列島は炎暑の毎日。早く9月の涼しい風に吹かれたい、そんな思いの毎日でした。加えて伊藤長和さんの予想もしない大手術、それに引かれて?妻も入院騒ぎあり、特別の月となりました。1日も外泊することなく、暑い東京で毎日を過ごした1ヶ月。こんなこと初めて! 皆さまにはあらためて残暑のお見舞いを申し上げます。
数日前に手にした『月刊社会教育』(国土社)9月号が、「自治的コミュニティと公民館」のテーマで特集を組んでいます。上田幸夫さん(日本体育大学)が同テーマで執筆。小生の公民館研究について「小さな公民館の大きな役割」について取り上げて頂きました。「小林の強いメッセージ」への注目、恐縮しています。
あえて加えれば、とかく公的セクターの公民館についての一元的な研究になりがちな状況から、多元的に視野を拡げていく必要を提起しているつもり。公立公民館だけでなく、集落公民館(自治公民館、字公民館、町内公民館など)の可能性をとらえる複眼的な視点。さらに加えて、多様なコミュニティ施設や福祉施設等の諸機能、とくに“サードセクター”(第三セクターではない)としてのNPO.協同組合、社会的企業といった潮流のなかから、公民館との関連を多元的に構築していく課題を考えています。
その際のキーワードは、たとえば、交流、学習・教育、文化、協同、地域(マウル)づくりなど、その多様な動きを横に結び共有しながら…。
沖縄の「集落公民館」論については、起点となる大事な画(1974年)があります。9月刊行予定『東アジア社会教育研究』18号に収録する「やんばる対談」、中村誠司さんの証言から(校正しながら)“再発見”しました。本号も長くなりましたので、これはまた別の機会に。
3148号【2013年8月29日】
■≪高江の空は我等のものだ≫
最近の南の風は、余裕がない?のか、映画の記事が少なくなっていましたが、前号で夜間中学・関本保孝さんから、大きな衝撃を受けた、と映画「標的の村」紹介が寄せられました。有り難うございます。
やんばる・高江のヘリパッド阻止闘争、2007年からのドキュメントです。「観る者の心に、いつ、どんな風に炸裂するか分からない時限爆弾のような問いを、三上智恵監督は埋め込もうとしている…」(阿武野勝彦、映画パンフ)。ふつふつとたぎる心、表現できない怒り、子どもたちも巻き込む切迫感。久しぶりに興奮して観ました。もともと琉球朝日放送のローカル版を「全国の劇場に向けて」バージョンアップした意欲作。
高江は人口約150人(世帯数60戸?前後)の小さな集落です。米軍北部訓練場に隣接し、1957年からまわりでジャングル戦闘訓練(ベトナム戦争への対応)が始まったところ。その後、北部練習場には22ヶ所のヘリパッド(ヘリ離着陸点、直径75m
の円形)が造成され、さらに新しく高江集落をぐるりと取り囲むように6ヶ所の建設が計画されました。工事の強行に反対して住民の座り込み(2007年)。国が「通行妨害」として住民(7歳の少女を含む)を告訴、裁判が始まって5年。高江ヘリパッドは、普天間移設(負担軽減)と称する辺野古基地建設、それにオスプレイ配備と連動する新基地づくり作戦です。辺野古の次は高江、と言われています。
目取真俊さん(芥川賞作家)ブログ「海鳴りの島から」が、連日「高江の様子」をレポートしています。
→■http://blog.goo.ne.jp/awamori777
現地からは「やんばる東村高江の現状」
→■http://takae.ti-da.net/c89151.html
少し長くなりますが、安次嶺現達さん(高江・ヘリパッドいらない住民の会)の詩を掲載させて頂きます。映画「標的の村」パンフ裏表紙より。
■ 高江の空
この土地は我等のものだ/この空も我等のものだ
いつの頃からか/自分の土地に入れば/アメリカに罰せられ/次は日本国に罰せられるようになった
今度はオスプレイが来るという/毎日、我等の頭上を飛ぶという/嫌だと座り込んだら/国に訴えられた
この国の法律は/一体誰のためのものか/この国の司法は/一体何を裁くのか
それでもオスプレイが来るなら/取り返しに行こう/我等の土地を
雪崩を打って/普天間に入って行こう/ひるむことはない/我等の土地なのだ/胸を張って
/先祖の土地を/誇りを奪い返すのだ/我等の空を/戦闘機が飛ばない空を奪い返すのだ
罰も与えろ/裁判にもかけろ
高江の空は 我等のものだ/高江の空は 我等のものだ
3147号【2013年8月27日】
■≪エイサーの季節≫
前々号で「八重山・アンガマ」のことを書きましたが、沖縄の夏・お盆をいろどる行事はやはり「エイサー」でしょう。その主役は地域の若者たち、青年会のエネルギー。沖縄の青年団運動がいま活発に動いているのは、集落(シマ社会)の共同や伝統芸能を継承し地域行事として定着・発展してきた「エイサー」に負うところが大きい。かって復帰運動を闘った青年運動の先輩たちは、エイサーだけ踊って、政治的には無関心な青年たちを「エイサー青年団」と揶揄する場面もありましたが、エイサーがなければ青年団の躍動も再生してこなかったかも。
旧コザ市(現・沖縄市)の「全島エイサー大会」や沖縄県青年団協議会(沖青協)主催の「青年ふるさとエイサー祭り」(いずれも半世紀前後の歴史を重ねてきた)に先だって、うるま市(旧・具志川市など)エイサーまつりが開催されたそうです。「圧巻演舞、響く指笛」の記事(沖縄タイムス、上掲)。トリをつとめたのは、平敷屋(へしきや)エイサー、「素朴な中にも力強さを感じさせる圧巻のエイサーに、観客は指笛や拍手でこたえた」とのこと。
念仏踊りの伝統を色濃く継承してきた平敷屋エイサー。中心メンバーの東武さん(復帰直後の沖青協会長)との縁があり、本土公演の折、なんども応援に駆けつけたものです。平敷屋公民館HPのなかにエイサーのページがあって楽しくなります。
→■http://www.okinawajoho.net/heshikiya/
私たちのHPにも何ヶ所かにエイサーの写真があります。とくに2002年夏の名護全国集会(42回)、歓迎の名護エイサー大会、そして路地への道じゅね、思い出深い。あれからすでに11年が経ちました。風3147号・添付の写真は九州国立博物館(太宰府)に出演した平敷屋エイサー・東武さんの演舞(2011年11月)。
▼第42回社会教育研究全国集会(名護)歓迎の青年エイサー大会 (名護・21世紀の森、20020831)*左方は名護湾・東シナ海
3146号【2013年8月25日】
■≪松本の手づくりレシピ≫
七夕の会(風3117号)に信州銘酒を送っていただいた松本の村田正幸さんは、即席手づくり料理の達人です。和光大学時代のゼミ旅行で松本を訪問した一夜、大歓迎の席を忘れません。たしか1997年、本郷公民館の大広間。村田さん作成のレシピにそって、次々と手づくり料理が卓上に並びました。総勢30?名(松本側を含む)一同、鮮やかなお手並みに驚嘆・感激した思い出があります。そういえば、別の松本合宿では、中央公民館の料理サークル(村田さん主催)にゼミ学生が乱入、にぎり寿司をたらふくご馳走になったこともあり−。「目の前でにぎっていただくお寿司、わたしたちは幸せ、公民館大好き!」など学生の感想を憶えています。1998年か。
名古屋大学・松田武雄ゼミ?合宿で、村田さんの手づくり料理の企画が進行しているとのこと(8月26日夜)、かねてお誘いを受けていました。村田さんからの電話も。しかし残念ながら参加できそうにありません。さきほど松田さんに不参のお詫びメールを出しました。
風にも書きましたが、先月末の妻・富美の胆石発症、手術後の経過順調、幸い退院も早かったのですが「…かねて足腰を弱くしていましたので、その後は車椅子となりました。当方も出来るだけ外泊を控え、通院に小生の付き添いが必要になりました。…皆さんの楽しい集いが目に見えるようです。盛会を祈っています。松本の皆様にもよろしくお伝えください。」
先日の風に胡興智さん(日中学院)から短歌が寄せられました。中国人の歌づくりに拍手。触発されて、最近の拙歌いくつかご紹介します。
◇日韓の交流の歩み二十年 逝きし人あり歌を聞きたし(全国集会・8月3日、故黄宗建先生)
◇たらちねの母縫い給いし浴衣着て 八十路の坂に夏風涼し(7月29日、油山にて)
◇夏の陽の落ちし涼みに車椅子 押せば二人の心もまわる(8月15日、永福)
3145号【2013年8月24日】
■≪八重山「アンガマ」≫
旧盆が過ぎていきました。祖先の霊を迎え、親類も集い親しみ、そしてあの世へ祖霊・精霊をお送りする(沖縄では「ウークイ」)大事な行事。閻魔さまもお休み、正月と並ぶ楽しみと憩いの機会でもありました。いつしか故郷から遠く離れ、ご先祖さまとも会う機会がなくなり、申しわけない思いです。八重山「アンガマ」記事を読むと盆行事の豊かさが羨ましい。
たとえば石垣市の旧盆の風景、地域の青年会と芸能の出番、次の通り。「旧盆入りの19日、グソー(あの世)から来たとされるウシュマイ(翁)とンミー(媼)が大勢のファーマー(子や孫)を引き連れ、招かれた家々を回る伝統行事「アンガマ」が市内各地で始まった。アンガマは各地区の青年会が旧盆中に祖先を供養し、子孫繁栄を願う伝統行事。念仏踊りや裏声による珍問答を繰り広げる。…」
(八重山毎日新聞、2013年08月20日)
家族と親族の共同体を確かめあい、シマ・ムラの共同体とも重なりあい、地域の芸能・文化が息づく場になっているようです。その中心に青年とOBたちが躍動する様子も伝わってきます。地域を支える主役の風格。
同じ八重山毎日新聞のコラム「不連続線」はこんなことも書いています。「…
一般的に青年会の卒業年齢は40歳である。しかし50歳を超えてもウシュマイを演じた人を2人知っている。…この2人のオヤジが困る場面を見たことがなかった。問答で笑いを取るのではなく、観客を「ほぉ〜」と感心させていた。普段はおとなしく真面目な人。それが旧盆になると、スーパーマンのように変身する。観客の質問を軽くかわし、または抑え込む。…(中略)…
行事を守り続けているうちに必ずスーパーマンが復活する。頑張れ。(黒島安隆)」
3144号【2013年8月22日】
■≪ご参加の皆さんに感謝!≫
21日(年報編集会議・校正、TOAFAEC 総会)の長い1日。朝9時頃家を出て、皆さんと別れて帰宅したのが夜9時頃か。充実した1日でした。ご参加の皆さん、お疲れさま。留守中に伊藤長和さんから、先日の病院見舞のお礼メール拝受。かえって恐縮しました。
終日の作業のなかで、なんども伊藤さんの話が出ました。お元気であれば、ご一緒のはず。また総会では、副委員長として大きな声でご挨拶いただくのが通例。この4年(烟台滞在のため)ご不在だっただけに、私たちは日本での活動再開を楽しみにしていたのでした。メールによれば、順調に恢復のご様子、何よりです。「
… 私は、昨日から自転車のリハビリが始り、昨日10分、今朝20分の自転車をこぎました」と。この機会に、ゆっくりと静養なさって、全快・復帰の日を楽しみにしています。
この日は佐賀から上野景三さんが年報編集長としてはるばる上京、出席いただきました。黄丹青さんは久喜産のみずみずしい梨ご持参、斉藤真哉さんは休暇をとって、校正作業に加わり、常連の主要メンバー(写真・下掲)とともに頑張っていただきました。研究室に終日座りづめは久しぶりのこと。
既報のように延期していた今年度総会も、会計報告を中心に、ひとまず無事に終了しました。仕事で欠席の遠藤輝喜事務局長(上掲)ご安心下さい。いずれ山口真理子さんからご報告があることでしょう。
1990年代後半、年報創刊の頃、当時はまだ総会など組織的な集いはなく、編集・校正の作業も、内田純一さんと二人で、孤独に作業していたことを印象深く思い出していました。重ねてご参加の皆さんに感謝!
▼TOAFAEC(2013)総会・18号編集委員会(東大・李正連研究室 20130821) 撮影・金宝藍さん
3143号【2013年8月20日】
■≪懐かしい顔ぶれ≫
年報・18号の編集、最終の挌闘が続いています。ページ数が増えて写真を入れる余裕がないとのことでしたが、担当の江頭晃子さんから19日朝に届いたメール。「
… やんばる対談、2〜3枚、写真追加できそうです。関連写真(人ではなく…活動の)をお送りくださると助かります。」
早速、名護市史編さん室・比嘉ひとみさんへ電話。地域史・字誌づくりの写真を数枚お願いしました。ひとみさんから早速の「写真送ります」のご返事(Mon,
19 Aug 2013 16:39)。ありがとうございました。
「いつもお世話になっています。ご依頼のありました写真の件、4点送付いたします。ほか1点は、やんばる対談の時の中村氏と先生とのツーショットがありましたので、ついでと言ってはなんですが添付しました。恐縮ですが、…(中略)…でき上がりを楽しみにしています!」とのこと。
内モンゴル・赤峰のトクタホさんから、メールと写真が送られてきまました。中国教育部・韓民さんとの写真。思いがけない顔ぶれなので添付します(右・韓民、左・トクタホ)。韓民さんは「南の風」初期からのメンバーですが、この半年は(日中関係が複雑になって)毎号の送信が戻ってくるようになりました。事情はよく分かりませんが、そのままになっています。もし連絡がとれれば、この経過を話しておいて下さい。新しいメール・アドレスがあれば、教えてくださいと。
昨日(19日)闘病中の伊藤長和さんの病院へお見舞に行ってきました。お元気です。突然の発熱などあったそうですが、順調に回復の方向とお見受けしました。帰路は山口真理子さんと藤沢駅に出て「耕」へ。美味しいビールをのみました。
3142号【2013年8月19日】
■≪21日の編集会議・総会≫
八月旧盆を過ぎました。いつも8月下旬は社会教育研究全国集会で多忙なのですが、今年は初旬に集会が終わって、気楽な夏休みの終盤。…と思いきや、年報18号の編集会議、それに重ねたTOAFAEC
総会の開催。例年と同じく忙しい8月下旬(そしして9月上旬−上掲)となりました。
21日(水)は午前〜午後、まず編集会議(校正作業)、佐賀から上野編集長が上京予定(ご苦労さま)。終了後(午後4時あるいは5時〜)の総会開催。末本誠代表は別予定あり、また仕事の関係で遠藤輝喜事務局長も参加が無理となりました(上掲)。さて、さて・・どうしたものか、すでに6月「総会」日程を一度中止した経緯あり、この際、出席者だけで総会日程をこなす、ということになりましょうか、すでに明後日に迫っています。
幸いにTOAFAEC 運営・活動については、いまとくに大きな議題がありません。「…TOAFAEC
の活動は順調に展開し、とくに協議すべき大きな問題はなく、運営体制もこれまでの組織を維持し、引き続き活発に動いていける状況にあります。…」(南の風3094号「総会中止について」)
ただ会計上の報告・承認と協議いただく事項があります。会計・山口真理子さんより維持会員宛に詳細な報告と確認お願い(風・前号)が別送されていますので、当日はそれをめぐっての論議が中心となりましょう。
会計報告や予算案等の資料は、総会当日に用意されると思いますが、遠藤事務局長より、事業報告や活動案などの総会資料を予め送っていただければ、南の風にも掲載することにいたします。
19日、いまから鎌倉へ。療養中の伊藤長和さんのお見舞に出かけます。
3141号【2013年8月17日】
■≪TOAFAEC の歩みと活力≫
伊藤長和さんの“闘病”記録5を拝受(上掲)。これほどのベッド挌闘なのに、気力あふれる文章、敬服しました。術後で控えていましたが、伊藤さんに会いたくなり、8月19日(月)夕にお見舞に行くつもり。もし都合つく方があれば、ご一緒しましょう。ご連絡下さい。
さて南の風メンバーには海外の方もあり、TOAFAEC についてご存知ない新しい方もいますので、今年度「維持会員」確認のお願い(上掲)のついでに、簡単なTOAFAEC
の歩み・経過を書いておくことにします。
その前身は「沖縄社会教育研究会」(1976年創設)、1995年に東アジアの視点を加えて「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」が発足。その頭文字を並べて略称は
TOAFAEC。翌96年に年報「東アジア社会教育研究」創刊、今年度の年報で18号(9月刊行予定)となります。ちなみに「南の風」は1998年春のスタート、ぶんじんの個人通信ですが、TOAFAEC
の広報機能を担っているつもり。HP(風・標題にURL
→■)も同じ性格です。
この種の年報発行は、他に類誌なし?と自負しつつ、東アジアに拡がる編集体制をつくり、頑張ってきました。刊行経費については、当初は個人的寄金に頼ってきましたが、2003年に規約改正して、第8号より「維持会員」(会費2万円)制によって支えていこう、ということになりました。
最初は10人あまりの陣容、現在は25人と1団体(おきなわ社会教育研究会=那覇)に参加頂いています。維持会員には、毎年会費相当分の冊数をお渡しする仕組み。皆さんのご支援によって、年報発行は年々着実に継続され、号を重ね、活力が生み出されてきました。関係の皆様に心からの御礼を申しあげます。HPにお名前一覧を掲げています。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/toafaec.htm
新しいご参加、もちろん大歓迎!
3140号【2013年8月15日】
■≪地域に勇気を与える学問≫
考古学を分かりやすく、メッセージを発信しつつ、古代史との統合をめざした考古学者・森浩一さんが亡くなられたとのこと(8月6日、享年85歳)。各紙が報じました。宮内庁が天皇・皇族の陵墓と指定する古墳をその所在地名で呼ぶ提唱(仁徳天皇陵→大山古墳)、賞を受けない信条、しかし“地方の賞だから”と南方熊楠賞(2012年)を受賞したこと(朝日新聞8月10日)など、独自の哲学がありました。
とくに「考古学は地域に勇気を与える学問だ」「地域学のすすめ」に刺激を受けてきました。その頃、雲仙・全国集会を前にして「社会教育をめぐる全国的状況と九州」(小林、1993年)を書いたことがありますが、その一節を思い出し、要旨のみ再録します。森浩一さんへの追悼として。
… 熊本県免田町は「地域に勇気を与える」考古学の力を借りて「熊襲復権」の町おこしに乗り出している(毎日新聞「余録」、1993年5月3日)。「記紀」が画く熊襲の人々は、隼人などともに、概して粗野で野蛮で大酒飲み、文化的にはおくれたイメージ、大和朝廷に服従しない者ども。しかし視点をかえると、自らの地域に誇りをもつ勇猛なレジスタンスの人たち、未開の蛮族どころか、大和にも対抗できる地域の文化を高度にもっていた。
事実、免田町の遺跡からは金メッキの銅鏡、気品ある弥生の免田式土器など、高い技術の遺物が出土した。中国の影響が強いことから、中国と独自の交流をもち、むしろ高い文化をもつ豪族がいたのではないか。「地下からでてくるものはウソをいわない」との考古学の知見が力となって「熊襲復権」の町おこしのストーリーが始まったというわけだ。事実に立脚する学問が「地域に勇気を与える」(森浩一)。…
上野景三・主編『九州の社会教育実践』創刊号(1993年)の巻頭論文です。忘れていたもの、HPにもアップしました。
→■http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/kyusyu1993.htm
▼胡興智(日中学院)涼風(29139725)
3140号【2013年8月14日】
■≪少年Bの回想≫
毎年のことですが、8月15日に向けてのこの時期、普段とは違って昔のこといろいろ回想。1945年8月の体験が深く澱んで、思い出されるのです。歳月とともに消えていくはずなのに、むしろ近年、その影は濃さを増し…、心を重く覆うってくるのです。
最近は同年輩の訃報が相次ぎます。それだけに戦争体験・戦時経験をもつ80代の世代意識(最後の世代)。他方では、海をこえて日中間の思わぬ軋轢、内には時代のイヤな保守化、歴史無頓着の政治発言など、少々ウツな気分にもなってきます。
以前にも何度か、この時期「少年B」回想を風に書いたことがあります。1944年に旧制中学入学、当時13歳の少年Bは、国防色の学生服にゲートル(巻脚絆)姿で登下校していました。射撃部に入部、三八銃や村田銃を磨き装填を習い、誇りに思っていました。配属将校(各中学に1人、たしか陸軍中尉)の指導で「我国の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ…」に始まる「軍人勅諭」丸暗記。ところが8月20日の空襲警報下に思いもよらぬ大怪我(大腿骨骨折、長期入院)、夢にみた陸軍幼年学校受験はかなわず、軍国少年としては大きな挫折でした。しかし怪我の功名とはこのこと、かえって戦後に向けての煩悶は少なかったのです。
1945年に入ると陸軍需品廠への「勤労動員」。そして8月11日(終戦4日前)に、久留米は米空軍による大空襲、市街地の多くが焼け落ちました。東北大震災・津波による町並み流失の光景は、直ちに久留米大空襲後の惨状、何も残らなかった焼け跡を思い出したものです。
ぎりぎりのところで残った我が家は、焼け出された親戚など25人避難の大家族となりました。少年Bは自転車を駆って、農家を回り25人の食糧買い出しに奔走。9月に学校へ通う生活に戻りましたが、裸足で歩いていました。
→■ http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/jibunsi.htm
3138号【2013年8月12日】
■≪ボヤンバートルの便り≫
各地から「残暑お見舞い」、いろいろ頂戴しました。残暑と言えば暑さも峠を越えて、そろそろ涼しい風が吹いてくる、とのイメージ。しかし今年はそうではありません。日本列島は、体温より高い大気にあえぎ、しかも秋田・岩手など土砂降り被害もあり、たいへんです。東京でも今日(11日)午後、雷鳴轟き、落雷のため京王線が止まりました。
さて前号を受けて、那覇・鷲尾さんから「やんばる対談」写真を送っていただきました(上掲)。有り難うございました。その後、編集部から来たメール。「江頭晃子です。今回、ページ数が多いので、なるべく写真は少なくせざるを得ないかと思っています。とりあえず、いただいたものでレイアウトしてみます。」(10
Aug 2013)
ボヤンバートルさん(内蒙古師範大学)より、暑中お見舞いを頂きました。秋には日本(早稲田大学)に「招聘・訪問学者」として滞在予定(上掲)だそうです。これは朗報。ボヤンバートルは、今から15年ほど前、私たちの研究室(和光大学)に在籍した最初のモンゴル人です。彼の縁で、研究室にはモンゴルの若者たちが集まるようになりました。ご存知のトクタホさんも、ボヤンバートルの愛弟子の一人。TOAFAEC
の記録には、モンゴルの皆さんが群れている写真、馬頭琴演奏の楽しいひとときなど、忘れがたい歳月が残っています。
ボヤンバートルもトクタホもともに牧民の出身。今年の内モンゴル草原は雨量が多いそうですが、彼らの共通の悩み、遊牧民の歴史の流れが今後どのように推移するのか。この夏休みの調査では「信じ難いほど」悩みは深いようです。秋には直接いろんな話が聞けることでしょう。
3137号【2013年8月10日】
■≪酷暑のなかの18号作業≫
伊藤長和さん、病床からお元気なメールを寄せていただき(上掲
→■)驚きました。聞きしにまさる大手術、これも驚きました。開腹手術後の痛みは想像をこえます。小生のような(富美の胆管結石の取り出しも同じ)内視鏡の治療などは、手術という言葉は使えないと思いました。術後まだ10日も経っていないのに、さすがに気丈な伊藤さんメール、有り難うございました。まさに「闘病」、頑張って下さい。順調な恢復を祈っています。
今年の暑さは格別です。今日も病院通い。入院しているよりましだよと言い聞かせながら、夏の日射しを避けて、往復しました。抱えている仕事が進みません。今年は・・・無理せず、あまり努力しないことに…。
しかし、「東アジア社会教育研究」18号関連の作業だけは猶予できません。数日、「やんばる対談」最終稿づくりに集中していました。対談の主役・名護の中村誠司さんから折り返しの、打てば響く感じの最終チェック(上掲)手直し原稿を送っていただきました。有り難うございました。これで一段落です。誠司さんはじめ、真理子さん、対談関係の皆さま、ご苦労さまでした。「やんばる対談」ご参加の方へのお願い。当日(3月14日)の写真があれば、誠司さんの顔写真を含め、ぜひ送っていただけませんか。
対談はいい出来映えです。例によって、ぶんじんのしゃべり過ぎが難点。すこし削除しました。目が疲れたところで「対談だから、まぁいいか」とお許しいただいて、作業切り上げ。編集担当(江頭晃子さん)に最終稿をお送りしました。18号の出来上がりが楽しみです。
3136号【2013年8月9日】
■≪待望の出版≫
さきほど(8月8日午後)1冊の本が届きました。末本誠さんの沖縄研究の新著、『沖縄のシマ社会への社会教育的アプローチ』(福村出版、2013年8月10日刊)。大作です。島袋正敏さん提供の写真が表紙を飾っています。夏の盛りの熱気を鎮めつつ、活気を呼ぶ一陣の涼風の趣きもあり、何よりもまず、待望の出版おめでとう!
とお祝いを申しあげます。
末本さんは、ほとんど南の風に登場しませんので、学会関係以外の方は知らない人もいるかと思いますが、「南の風」では創刊(1998年)以来のメンバー。現在、神戸大学教授、日本社会教育学会々長、TOAFAEC
代表。
本を頂くと、なぜか「あとがき」から読み始めます。その書き出しは次の通り。「本書に収録された諸研究は40年近く前に筆者が事務局長として参加した、沖縄社会教育研究会(代表は小林文人、沖縄では「おきなわ社会教育研究会」、代表は平良研一)の活動を介して、沖縄の社会教育史および集落(シマ社会)と出会った経験から始まっている。当時大学院生であった筆者はこの研究会の活動を通じて、沖縄の社会教育と沖縄そのものの不思議に入り込んでいった。」
終わりの部分の一節。「…長い年月が過ぎる間に当初の沖縄社会教育研究のメンバーの中からも、玉城嗣久、比嘉洋子、新城捷也、石倉裕志などこの世を去る人が出てきた。自らも定年を迎える歳になり、…
… 研究仲間の多くが存命である内に、このような形で沖縄の社会教育とは何かを問い続けてきた成果を世に問うことができたことに、安堵の念を覚える。」
私たちの旧沖縄社会教育研究会が一つの水路を拓いてきたこと、40年近い歳月の歩みあれこれを、いましみじみと思いおこしています。
3135号【2013年8月8日】
■≪hotmail トラブル≫
皆さんへの風は、順調に届いているでしょうか。実は前号と前々号、再びサーバーhotmail
との闘いをしています。hotmail のうち15人ぐらい(全部ではない)、ブロックされて風が戻ってくるのです。再送を繰り返し、また当方を
hotmail アカウントに切り替えて、なんとかすべての方に届いている感触、ほっと一段落。しかし余計な手間と時間を使い、なにより南の風が「迷惑メール」扱いにされることへの不愉快。
もし貴方に風の欠号あれば、ご一報ください。またこの間、重複の配信があったかと思いますが、ご容赦ください。
hotmail 以外に、他の(職場などの)アドレスをお持ちの方は、差し支えなければ、そちらに送信先を変更していただければ幸いです。事情を知った李正連さん(東大)からのメール。「…南の風は昨日と今日届いています。でも、hotmailはトラブルが多いようですので、大学のメールアドレスに替えていただければと思います。…」(Tue,
6 Aug 2013)
ついでに岩本陽児さんの伊藤さん宛のメール(Wed, 7 Aug 2013 14:06)。「伊藤長和さま、みなさま。岩本です。一昨日の社会教育研究全国集会の終了後、学生と銚子に足を延ばし、私は一泊して昨晩戻ってきました。帰途、もと同僚の墓参も済ませて、願ほどきができました。さても。添付忘れだとは気づきませんで大変失礼をいたしました。今度は添付しましたのでご査収ください。9日金曜にお見舞いに参上できればと思っています。お元気で。」
全国集会・日韓セミナー(8月3日)の速記録−風3131号既報−のことです。あざやかなお手並み、有り難く拝見しました。ご希望の方があればご一報ください。
3134号【2013年8月6日】
■≪全国集会の写真≫
今年の社会教育研究全国集会は、三日目(5日)まとめの第2全体会は(前号に書いた事情のため)まったく参加できませんでした。午後の索引づくり(近刊・8月末予定『日本の社会教育・生涯学習』)作業にはなんとか出かけることができましたが…。どなたか全国集会総括の様子を(参加者数、来年の会場など含めて)「風」に寄せていただけませんか。風・送信を再開した上田幸夫さん(前委員長)にお願いできれれば幸い。
初日(3日)の「日韓交流20周年記念・日韓セミナー」については、韓国から参加のパクインジョンさん(平生教育振興院)が、たくさんの写真をFacebook
に載せていただきました。ぶんじんの顔も何枚か。この場を借りて御礼申しあげます。終わっての記念写真は、当方のカメラには勢揃い前の、ややタイミングがずれた画像が1枚。ピントも甘く、「20周年記念」横断幕の前に置き忘れた黒い荷物が気になります。ぶんじんのリュック。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/yotei1307.htm
HPに載せたあと一枚の写真(下掲)は、同じ初日・全体交流会の一コマです。別れぎわに、矢久保さんなど松本の衆と一緒に、記念の一枚を撮ろうとカメラを構えたところ、まわりにいた仙台、福井、群馬、福岡、東京、飯田、神奈川など「全国」の皆さんがわらわらと集まってくれたスナップ。中央に写っている年配の三人は、石川敏さん(旧笠懸村)、安立武晴さん(相模原)のお二人とぶんじん。全国集会を通しての、半世紀近い文字通りの“仲間”です。さすがに白いものが目立ちます。気のせいか、腰も曲がってきたような…。しかい、みんな元気!です。
▼全国集会・全体交流会(千葉大学生協、130803)
3133号【2013年8月5日】
■≪胆石動く≫
前号既報の通り8月の酷暑のなか、3日より第53回・社会教育研究全国集会が始まっています(千葉大学)。関連して、岩本陽児さん(和光大学)より2本のメールを頂きました(上掲)。初日・第5課題別部会「日韓交流20周年記念・日韓セミナー」の記録をつくっていただいた由。伊藤長和さんあての見舞いメール、記録は添付もれ?再送をお願いします。
伊藤さんのお誘いがあるはずないのに・・家人にも同じ胆管に異常あり、急な痛みで緊急入院しました(7月28日、29日手術)。かねて胆嚢に蓄えていた胆石が動き出し、胆管をふさいで、痛みに耐えきれず、救急車を呼ぶ羽目に。私が九州に発って数時間後のことらしい。孤独は胆石をも動かすのか、と驚きました。風3131号本欄「東京にトンボ返り」の理由です。
全国集会日程と重なり、病院と集会々場(千葉)を往復する毎日。点滴から解放されたので、本日(4日)退院・リハビリへ。経過がまずまず良好なのと、早くベッドから動かしたいからです。医師の許可を得てのこと。
この日、社全協50周年記念DVDの映像「歴代委員長語る」収録のため、わずか2分の談話のため千葉を往復しました。会場で、韓国の梁炳賛先生、金宝藍さん、郭珍栄さんと会って、駅前でビール。ようやく疲れ癒してー。
下に、集会前日(2日)の夜、新構想が動いている韓国本編集会議の様子を1枚掲げました。集会初日(3日)日韓セミナーと全体交流会の写真2枚は、8月スケジュール・ページ
→■に掲載しています。
▼左より金宝藍、鄭賢卿、小林文人、崔一先、呉世蓮、郭珍栄、李正連、梁炳賛、金侖貞の皆さん(品川、20130802)
3132号【2013年8月2日】
■≪3日から全国集会(千葉)≫
毎年8月下旬に開催されてきた社会教育研究全国集会(社全協主催)は、今年は上旬(3〜5日)に千葉大学を会場に開かれます。数えて第53回目の集会です。この半世紀余り、最初のころの数回と公務や在外研究で不参の年もありましたが、8月はすべて「全国集会」で過ごしてきたようなもの。
とくに沖縄から初参加の17回・福岡(1977年)や、委員長として責任をもたされた31回・松本〜34回・雲仙、あるいは初めて沖縄で開催した42回・名護など、諸集会の想い出が痛切に残っています。毎年それぞれの出会いがありました。
45回・福岡集会(2005年)では、2日目「この指とまれ」二次会が油山に流れて、全国各地から「ぶんじんの家がほんとにあるのか」と約30人の皆さんが集まってきました。夜を徹して語りあい、飲みあって、沖縄からの客人5〜6人を含め、せまい家に10人ほど雑魚寝をした思い出も。
「この指とまれ」(2日目夜)は、TOAFAEC として「沖縄を囲む」「沖縄を語る」を永年主催してきました。名護から豚の片足が運ばれてきたり、年によっては泡盛クースーが用意されました。この夜を楽しみに全国集会に参加する人もいたほど。
ところが同じ時間帯で「韓国を囲む」集いと重なるようになりました。2009年(信州・阿智村集会)では、ぶんじんが韓国の集いで日韓交流の回想を語る企画があって、それ以降は、沖縄の集いは韓国に合流する経過となりました。TOAFAEC
として、いささか残念なことです。
今年は韓国社会教育協会(当時)金信一さんたちが初めて全国集会に参加(木更津、1993年)されて20年。記念の課題部会「日韓セミナー」が開かれます。韓国側から金南宣氏、日本側から小林の二人が報告する予定。
上記2005年福岡集会の夜、油山・ぶんじん宅での交流会・記念の一枚を下に掲げます。各地からの思いがけない顔ぶれあり、ぶんじんにとっては大事な写真です。
▼第45回全国集会(福岡)2日目夜「この指とまれ−沖縄を囲む」ー2次会・油山交流(20050827)
3131号【2013年7月31日】
■≪筑紫次郎のほとりで≫
九州・筑後平野を流れ下る筑紫次郎(筑後川)、この大河に抱かれる久留米はぶんじんの生まれ故郷です。大学前半(教養部)まで生家から通いましたので、この城下町に20歳まで暮らしたことになります。それから60年余が経過し、町は大きく変貌しましたが、沖縄風に言えば、やはり「我が生まり島」。若い頃いくつかの反発を内に秘めながらも、つねに言い知れぬ郷愁をもち続けてきました。その後、10数年を暮らした博多とともに、私のかけがえのない“ふるさと”。
いつぞや本欄に書いたことがありますが、町並み変貌に抗して、少年時代の思い出が残っている赤いレンガ倉を壊さないで、ひとつ残しています。新幹線・久留米の駅を(熊本方面に)出てすぐ、左側の車窓から一瞬見える風景。昔の少年Bには大きなイメージも、今は小さな建造物。
蒸し暑い猛暑の1日(7月29日)、久しぶりに久留米で過ごしました。夕刻から筑後川に面した水天宮すぐ隣の店(「護市」)で季節料理を楽しみながらの集い。大学や社会教育関連の旧知の人たちが集まって、回想・議論・追憶・自治体論などなど。懐かしい顔ぶれ。臼杵市長・中野五郎、長崎・猪山勝利、京都・国生寿、田川・森山沾一、佐賀・上野景三ほかの面々。久留米の古賀皓生・農中茂徳のお二人が幹事役。10人余りの珍しいメンバーでした。
年配者が多い割には、案外と書生っぽいやりとりが面白い。当時の若く青い日が想い出されたのでしょう。時の過ぎるのを忘れて、写真を撮り忘れました。(突発的なことが入り、30日、あわてて東京にトンボ返りしました。スケジュール通りにならない、暑い夏です。)
3130号【2013年7月29日】
■≪福岡・油山にて≫
この1週間(19〜26日)の間に、3っの研究会(東京社会教育史、韓国フォーラム、定例会・東アジア交流委員会)と公民館学会10周年の集いが重なりました。その直前案内や報告・感想などが相次ぎ、それに伊藤長和さんの風(闘病生活)も元気に吹いてきて、当方は8日間に6本の風を送信。皆さん、お疲れさまです。研究会関連を優先し、結果的に「沖縄・参議院選挙結果について」は4日遅れで、ようやく本号に収録。本来は速報的な記事なのに・・・、鷲尾真由美さんに失礼しました。
伊藤長和さん「闘病生活」の元気さは何よりのこと。本日(28日)届いた便りの添え書きは次の通りです。
「TOAFAEC の7月26日研究会に参加させていただき、ありがとうございました。皆さまから、お見舞いや励ましの言葉をいただき、お蔭様で元気をいただきました。帰宅に際しては、3人の皆さまが駅の改札までお見送りいただき、熱いものがこみ上げてきました。…」(Sun,
28 Jul 2013 15:53)
本号には【TOAFAEC 事務局コーナー(104) 】も用意していました。上掲記事に押し出されましたので、本欄に紹介することにします。「…年報・締切日が過ぎました。…TOAFAEC
18号ご執筆・編集等へのご尽力、ありがとうございます。最終原稿締切日が過ぎましたが、数本届いていない原稿があります。進捗状況と入稿予定日をお知らせ下さい。」(編集・江頭晃子)
松田弥花さんから「公民館学会10周年集いに参加して」を頂いていますが、次号へ。弥花さんは風に参加して丁度1年、さて、このニューフエィス(すでに自己紹介すみ)、誰だかご記憶ですか? 次号お楽しみに。
3129号【2013年7月27日】
■≪夏の夜の研究会≫
7月26日(金)夜の定例研究会、東アジア交流委員会と合同の開催とあって、夏の夜の夢にみた賑わいとなりました。何よりも病院より一時帰宅中の伊藤長和さんがお元気に登場されたこと。心配していた私たちへの何よりのプレゼント。加えて台北市政府教育局の楊碧雲さん(TOAFAEC
年報編集委員)、台湾留学予定の山口香苗さん(東大・院)の道案内で参加されました。珍客とはまさにこのこと。いま注目の「台北市学習型城市」づくりの立役者です。また、予告(風3126号)通りに、日中学院の胡興智さんも来てくれました。
この夜の参加者のルーツをたどれば、天津、清州、光州、釜山? そして台北。日本側は少数派。それでも東京周辺だけでなく、仙台から石井山竜平さん(東アジア交流委員会代表)が見えました。報告者・上田孝典さん(筑波大学)は、これまでの中国研究史と、現代中国の生涯学習・社区教育政策の新しい動向について興味深い話、充実した研究会となりました。そのあとの上田さんお祝いの会は、思わぬ東アジア交流の宴となり、時を忘れて、帰途はほとんど最終電車か。ご参加の皆さん、遅くまでお疲れさまでした。いずれ「風」に研究会報告が寄せられることでしょう。
下に当夜の写真1枚を掲げました。伊藤さんなど前の方はフラッシュが当たりすぎ、後方は暗い画像となって、申しわけありません。ここに写ってない人もいるような。
8月研究会は年報校正作業や総会予定のためお休み。9月研究会は日本社会教育学会の初日と(幸い!)重なり、学会国際シンポに来日予定のゲストを、こちらにも迎える計画が進んでいます。
▼8月定例(197回)研究会・上田孝典さんお祝い会(高井戸、20130726)
3128号【2013年7月26日】
■≪韓国研究フォーラム(第43回)など≫
中国から帰国後、入院された伊藤長和さんより「闘病生活2」を頂きました(上掲)。「今日(25日)の午後、一時帰宅をしました。31日に再入院して、翌日8月1日に手術となりました」とのこと。岩本陽児さんのお見舞い報告も拝受。気丈な伊藤さん、ここ一番の頑張り!を祈っています。
先日(19日)の東京社会教育史研究フォーラム記録を的野信一さん(板橋区社会教育主事)が書いて頂きました。あわせて「南の風」ネットに参加希望(上掲)。「店仕舞い」をめざしてアドレス帳整理(風3118号)を始めている風への参加。しかも送られてきた研究会記録は超長文、風に載せきれません。板橋の皆さんは長く書く習性か。まずはHPに入れて、その冒頭だけを次号に紹介することにします。的野さん、ご苦労さまでした。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/tokyoforumu2012.htm
昨日(24日)は韓国研究フォーラムでした。今年度・年報18号に掲載予定の「韓国・平生学習、この1年の動き」素稿が紹介されました。興味深し。とくに朴槿惠(パク・クンヘ)政府が「平生学習」に関して、どんな政策を打ち出そうとしているのか、新しい躍動は日本社会教育(公民館)の退潮と対照的な動き。これからも折にふれて「新しい動向」紹介をお願いします。金宝藍、呉世蓮、郭珍栄のトリオへの期待大!です。
8月初め「全国集会」に来日の梁炳賛(ヤン・ビョンチャン)先生=2日の編集会議、9月・社会教育学会招聘の李揆仙(イ・ギュウソン)さん=9月TOAFAEC
定例研究会へ迎える案、などの連絡が飛び交いました。今日26日の8月定例研究会にご報告します。
3127号【2013年7月24日】
■≪東アジア交流委員会の再生≫
東京はこの数日、梅雨が逆戻りしたような雨天・曇天・蒸し暑い毎日です。加えて昨日はゲリラ豪雨・雷ゴコゴロ。むかし雷が鳴れば梅雨が明ける、とも言いましたが、雷とともに梅雨が再来した感じ。今日も雨模様。
本号には、久しぶり「東アジア交流委員会」ご案内(東北大学・石井山竜平さん)を掲載できました。ご記憶かと思いますが、日中韓・三国フォーラムが上海で盛大に開かれ(2100秋)、昨年は韓国でその第2回が開催される予定でした。実際にその準備も韓国で進められていましたが、東アジアの波高く、中国が参加を見合わせるという事態になり、日韓だけの開催はもともとの趣旨ではなく、結局、三国国際フォーラム(第2回)は中止(延期?)という結末になりました。
この間、私たちの東アジア交流委員会も開店休業の状態に。そのかわり昨年は予定日程で(思いがけず)東アジア交流委員会有志により済州島に遊びに出かけたという副産物。南の風でも一部ご報告した通りです。ホームページは(三国国際学術フォーラム記録を含め)従来のまま生きています。
→■http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/higasiasia0905.htm
7月26日(金)夜の研究会は、東アジア交流委員会・事務局長でもある筑波大学・上田孝典さんから、中国の動きやこれからの東アジア交流についてお話を伺う予定。そのあとの懇親会は、上田さん昇進お祝い会となります。皆さま(新しい方も歓迎!)お出かけください。
夏の案内がいろいろ舞い込みます。今年も忙しい夏になりそう。暑さに負けず…と思う一方、無理はせずに、という天の声も聞こえてきます。
3126号【2013年7月23日】
■≪“おやすみ”≫
日中学院(東京・後楽園)の胡興智さんに、TOAFAEC(197回)定例研究会(7月26日)のお誘いメールを出しました。久ぶりに顔も見たいし-。胡さんは六・四(天安門)事件のころ、東京学芸大学の院生でした。天津出身の留学生。当夜は月に一度の『紅楼夢』の授業とのこと。羨ましい。遅れて上田孝典さんの「お祝い」会に来てくれるそうです(上掲)。添付の[おやすみ」がいい文章。本欄は胡さんのページとします。
「母は横浜育ちの華僑、父は高校と大学という青春時代を日本で過ごした留学生だったので、父母が日本語で“おやすみ”と挨拶するのを子供の頃から聞いて育った。暖かく夢の世界に誘ってくれるおまじないだと思っていた言葉は今にも父母の温もりが感じられる。
その音の響きが心地よく感じられたためなのか、労わり合う父母の姿が強く印象に残ったためなのか、この言葉には癒しや励ましを与えてくれる不思議な力が潜んでいるような気がしたものだ。
よく日本語を学ぼうと思ったのはなぜか聞かれるが、うまく答えられない。もしかしたら、その理由の一つにこの父母の温もりが感じられ、心地よい響きを持つ“おやすみ”に出会える縁があったからだと言えるかもしれない。
天津の町の片隅で“おやすみ”と挨拶をしあう中国人の一家がいたことを知るのは今では僕だけとなったが、その父母の温もりが感じられる“おやすみ”は、相変わらず私を夢の世界に誘ってくれて、また、次の日の朝日を元気いっぱい迎えられる力を与えてくれる。
◇「おやすみ」は「晩安」よりも暖かし父母のそば今日も「おやすみ」
◇「お休み」で労り合ひて文革の嵐の中で青き夢見る (後略)」
3125号【2013年7月21日】
■≪日本公民館学会10周年記念の集い≫
風3121号「烟台の風(番外編@」、伊藤長和さんの便り・入院ニュースに驚きましたが、今日21日は、特別外出で帰宅とのこと。さきほど電話で直接お話し出来ました。元気なお声で安心しました。「烟台の風(番外編A)私の闘病生活」(上掲)を拝受。その添え文は次の通りです。
「皆さま 参議院選挙の投票ということで、特別外出許可をいただいて、帰宅しました。この間、皆さまにはご心配をおかけし、心温まるお見舞いのメールをいただき、感謝申し上げます。簡単な検査かと思いきや、どうも長引いております。…」(Sun,
21 Jul 2013 10:31)
この2日、集いが重なりました。19日は東京社会教育史研究フオーラム(第8回)。終わったあとの“暑気払い”は、翌日朝からの“記念講演”のことが頭をよぎり、乾杯だけにしよう、30分で帰ろうと(殊勝にも)思ったのですが、結局は最後まで残って、この日ですでに疲れました。
20日は日本公民館学会10周年記念の集い(学会七月集会)、珍しく早起き、やや緊張して会場(法政大学)へ。久しぶりの1時間半の講演でした。午後の記念シンポと夜の祝宴。それから飯田橋駅近くで二次会。連日スケジュールに、さすがに疲れはて、ぐったりして帰宅となりました。
学会創設・・・あれから10年。短いような長いような…。北海道から南は九州まで。岡山、和歌山、飯田、松本、仙台などなど、「南の風」メンバーもたくさん。日本社会教育学会々長・末本誠さんやACCU(ユネスコ・アジア文化センター)柴尾智子さんなどからの祝辞。学会創設当時からのメンバー・伊藤長和さんの顔が見えず、残念でした。
▼日本公民館学会10周年記念の集い−祝宴・終了後(法政大学、20120720)
3124号【2013年7月19日】
■≪親父の会“いたか”≫
30年前に川崎市高津市民館・菅生こども文化センターが共同で企画した父親学級、そこから「いたかの会」が生まれました。その後、各地への拡がり、川崎ネットワーク、横浜にも「親父の会」。14日に30周年の集いが開かれたそうです。当時、市民館で事業を担当した武田拡明さんから報告をいただきました(上掲)。有り難うございました。
なぜ親父の会は「いたか」なのか。世話人として活躍されてきた大下勝巳さん(「七夕の会」に参加、元高津区長)によれば、次の通りです。
「ある会員のしみじみとした述懐から生まれた。…親父の存在というのは、母親と違って、頼りないもんだね。…ふだん仕事が忙しく、子どもとの接触が少ないこともあって、たまに顔を合わせると、おッ!親父いたか、ですからね。この発言に一同爆笑。よし、これに決まりと、即座にみんなが賛成し、“親父の会・いたか”が誕生した。」(小林編『公民館の再発見』国土社、1988年、154頁)
『公民館の再発見』は、他に平林正夫さん「コーヒーハウス」(国立市公民館)や、鈴木敏治さん「よみ・かきの広場」(茅ヶ崎市小和田公民館)などの実践報告を収めて、よく読まれました。大下さん「親父の会・いたか」報告も評判になったものです。あれから30周年。いま英字新聞にも紹介されたとか(添付)。活動が継続し30年、おめでとうございます。
19日夜は、東京社会教育史研究フォーラム(第8回)です。皆さんお出かけください。終わったら“暑気払い”といたしましょう。
3123号【2013年7月17日】
■≪韓国との研究交流記録≫
3号前の本欄「暑い夏です」のタイトルで、「日韓社会教育交流20年」のことを書きました。社会教育研究全国集会としては「20年」、しかし個人的には、最初の韓国訪問は1980年でした。すでに30年を越えたことになります。
その頃のノートを探し出して、あらためてページをめくっています。やはり記録はとっておくもの、とつくづく思いました。幸いに1998年以降は「南の風」をたどっていけば、ほぼ全部の歩みが復元できますが、それ以前はノートが唯一の手がかり。汚い字でもノートに感謝しつつ、しかし当の本人の記憶がいかに喪失しているかを確認する機会にもなりました。若いときの自分のフットワーク?に驚き、そして自らの恐ろしいほどの劣化にも驚き、みな寝静まった一夜、ひとり寝酒に酔い、その驚きにまた眼が冴えて・・・、そんな妙な夜が更けていきます。
1980年の(はじめての)韓国訪問を書いた記録があります。「韓国社会教育への旅−韓国・社会教育法10年(1980〜1992)」、当時の研究室フィールドワーク記録(1992)の中に思い出して書いています。HPにも収録。
→■ http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/korea1992.htm
1990年代は、日韓文化交流基金の援助があって、研究室メンバーで毎年のように訪韓(4回)できました。細かな月日までノートが教えてくれます。そして1999年〜2000年には、黄宗建先生「自分史」の聞き取り作業、2回にわたってお話を聞きました。「東アジア社会教育研究」4号・5号に掲載し、HPには、先生の追悼記事の中に二つを並べて収録しています。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/koreahwang.htm
3122号【2013年7月15日】
■≪公民館学会初期のホームページ≫
本号には、久しぶりに近藤恵美子さんからのメール(上掲)。これこそ風アドレス帳更新の効用というものか。近藤さんは日本公民館学会の発足当初の事務局メンバー(中央大学<院>奥田研究室)。学会発足の頃はまだ学会公式ホームページがなく、近藤さん立ち上げの私的「応援サイト」が、異彩を放っていました。
故奥田泰弘事務局長に聞くかたちで、理事会の様子を紹介したり、大会準備の様子などを上手に公けにされてきました。当時の学会応援サイトのデーター・原稿は、残っていないでしょうか。あれば、ぜひ記録に見せていただきたいもの。
TOAFAEC の初期ホーメページも、近藤さんにお世話になりました。多分1998年ごろから、ちょうど南の風を創刊する頃(和光大学時代)、まったくの手慰みで、たどたどしく手作りしていたHP(ぶんじんスケジュールのみ載せていた)を見かねて、当時の中央大学ゼミでIBMホームページ・ビルダーを贈っていただきました(中大<院>講師をやめたとき)。今でもそのソフトを使っています。当時を思いだして、あらためて感謝!
私信のようですから、本号に載せていませんが、先日のTOAFAEC 編集会議に姿が見えなかった包聯群さんからメールあり。「…連日の猛暑日が続いており、暑さにぜひお気をつけください。包です。七夕会に用事で行けませんでしたが、ハスさんから盛大な会だったことを伺っております。ところで前回の風で・(以下省略)・」(Mon,
15 Jul 2013 12:26)、とつづく伊藤長和さんへのお見舞メッセージ(伊藤さんへ転送しました)。
包さんもお元気で、猛暑を乗り切ってください。
▼10年前(公民館学会創設直前)写真:TOAFAC(第86回定例)研究会「モンゴルの子どもたちをめぐる支援運動」
中央・トクタホ、右・ダフラ、左・近藤恵美子、その左・白メイ、左端に故石倉裕志、ほかの皆さん (高井戸、20030425)
3121号【2013年7月14日】
■≪烟台・張裕葡萄酒≫
本号には、山本健慈学長(和歌山大学)より「南の風」へ激励のメール(上掲)を頂戴しました。学長再選の由、おめでとうございます、というか、ご苦労さまです。国の審議会の様子を寄せていただき、有り難うございました。中央教育審議会は「…ワーキングを含め、すべての会議は公開されており、実際多くの方が傍聴されています。資料も傍聴者に頒布されています。」とのこと、知りませんでした。
ところで7日・七夕の会から1週間が経ちました。この日には、信州からのお酒だけでなく、お花やお菓子、お手製のパンなど頂きました。皆さんにお礼をゆっくり申しあげないまま…。加えて中国・烟台から帰国の伊藤長和さんからは、烟台の高級・張裕ワインをお土産に頂戴したのでした。近くどこかで、お会いする機会に、あらためてお礼を、と思っていた矢先、さきほど「烟台の風・番外編」着信(上掲)。体調不良とのこと、思いがけないニュースで心配しています。無理されないよう、体を休めて下さい。
中国大陸で山東省烟台は葡萄の産地、ワイン醸造で有名です。烟台から帰国するたびに伊藤さんからは張裕葡萄酒を頂戴してきました。同じ伊藤さんからの便り。「…先日、偽物天国の中国の実際を告発するCCTV番組で「茅台酒」「五糧酒」と並んで、「張裕葡萄酒」の偽物製造現場が摘発捜査されている報道が行われていました。犯人は「高級酒を飲む中国人は、酒の味は分からず、虚栄心と面子で買うのだ」と言っていました」などのコメントも添えられていました。あらためて御礼申しあげます。
飯田市の木下巨一さんから長文のフィリピン・レポートが届いていますが、次号以降に載せることにします。ご了承を。
3120号【2013年7月13日】
■≪暑い夏です≫
猛暑の毎日、皆さん、如何お過ごしですか。八重山は今晩(12日)強い台風(第7号)襲来とのこと、遠くから心配しています。本土を覆う大きな高気圧が台風をブロックして、台湾方面へ向かわせているらしい。こちらの猛暑と先島の台風は連動しているのですね。石垣・竹富の皆さま、被害のないことを祈っています。
東京は酷い暑さ。あまり無理をしないで・・・と考えても、実際にはなかなかうまく運びません。今年は妙な当たり年、いつもにない仕事がいくつか降りかかってきました。
一つは、7月20日「日本公民館学会10周年記念」の集い
(学会七月集会・案内→■)。2003年(風1050号前後)に学会が誕生しました。今年で10年。初代会長をつとめた因果で、「10年を振り返り、公民館の課題と可能性」について話をするよう求められています。光栄でもあり、しかし気が重い。
また別の仕事も。8月3〜5日に千葉大学で開かれる社会教育研究全国集会(第53回)の初日、日韓交流20周年記念の部会があり「日韓社会教育交流20年」について報告しなければなりません。20年前の全国集会(木更津集会)に初めて韓国からの参加(金信一氏など・写真
→■16)、当時は社全協委員長でした。この20年、社会教育の日韓交流は大きな流れとなりました。
当日の配布資料としてレジメ・原稿を書いています。TOAFAEC 年報関連の作業もあり、楽しい夏ではありません。
3119号【2013年7月11日】
■≪沖縄をみつめる「時の眼」≫
今年6・23(沖縄慰霊の日)の日付で刊行された『時の眼ー沖縄・批評誌N27』創刊号、が送られてきました。同編集委員会編、発行人は比嘉豊光さん(写真家)。有り難うございました。沖縄戦後史の写真がいろいろ、それに小橋川共男さん・泡瀬干潟の新しい写真も。新川明×新崎盛暉両氏の対談「脱『復帰』元年」を第1特集に、川満信一氏など約30人が登場しています。
N27, という標題がよく分かりませんでした。昨年の「復帰」40年の軌跡を問う活動が起点となっているようです。扉の言葉に・・・N27−Nは抵抗のNOか? 日本と沖縄の間に引き直された分断の線の記号か?などの問いかけ。沖縄をみつめる「時の眼」、沖縄が沖縄で有り続けるために・・・など。なにしろ創刊号、これからどんな「時の眼」が冴えていくのか、期待しながらページをめくりました。
佐喜間美術館の館長・道夫さんも書いています(「魯迅とケーテ・コルヴッツと沖縄」)。村山友江さん「島クトゥバと戦世の記憶と記録」、島袋正敏さんは「やんばるから思う、問う」など。親しい人たちの文章に何か強い調子が流れている。昨日(10日)は、読んでいるうちに、早稲田の集まりに出かける時間を忘れかけて、大幅に遅刻したほど。
正敏さんは40年前の名護市総合計画基本構想のキィワード“逆格差論”を引いて、「いま、その逆格差を咀嚼し、実践を積み上げる時」だと言っています。「自然と生産と自治の道を探り、歩く」実践。それが「今日の行き場のない政治に対する最大の抵抗とそして変革につながる」確信からだと。
3118号【2013年7月10日】
■≪アドレス帳更新へ、御礼≫
3000号から丁度半年経って3100号へ。予告通り、恒例のアドレス帳整理をさせていただきます。6月初旬予定のところ、今回は1ヶ月ほど余裕をもって、皆さんから「継続」意向をお寄せ頂きました。折良く七夕も済み梅雨明けの季節、猛暑の風に吹かれて、新アドレス帳更新の作業をいたしました。ご協力、有り難うございました。
数号前・本欄で書いた通り「南の風」はもはや“店仕舞い”の気分です。アドレス帳更新など必要ないとも思いましたが、これまでの慣わし、100
号おきのリズムでの新陳代謝(新参加を歓迎し、風・迷惑の方と交代していただく)の工夫が、案外と15年余−3000号の変わらぬ持続エネルギーとなってきたように考えています。新アドレスを加えるだけでは、お互い顔の見えないネットがふくらむだけ、早々に破綻していたことでしょう。
といっても無音の(この半年、読むだけの)方からすべて返事が頂けたわけではありません。風はもともと海外の留学生や実践家など、研究情報が少ない人たち、いわば研究マイノリィティのネット(それに南・沖縄からの風)として機能してきました。その経過から、海外と留学生は原則としてそのままリストに残し、日本側は、おそらく?情報過多に悩んでいる教授クラスで返事のない方々にご遠慮いただくこととしました。
本号まで現アドレス帳での配信、次号からは新アドレス帳です。もしご希望があれば、いつでも送信を再開しますので、ご一報ください。本号でお別れの方、煩わしい風にお付きあい下さって有り難うございました。心からの御礼を申しあげます。
3117号【2013年7月8日】
■≪土砂降りの二次会≫
7日「七夕の会」は例年にもまして賑やかでした。たしか2011年までは馬頭琴(センジャーさん)の音色が冴えましたが、今年は思いがけなくギター(白井健二さん)の登場、みんなで大合唱となりました。♪友よ♪など。もともと留学生の激励会として定着(1980年代)してきた「七夕の会」、留学生の数こそ少なくなりましたが、それでも四民族(中、韓、モンゴルと日本)が揃いました。就学前の子どもたちから80代の全世代が一堂に会する喜び(写真)。ご参会の皆様、猛暑の中、有り難うございました。
この日のために、松本・村田正幸さんより信州の地酒・銘酒2本が届きました。これにワイン4本を添えて、会場に持ち込み。高級ワインでないけれどオーストラリヤ産のまずまずのレベル。しかし比べてみて、信州の地酒のしっかりした味を賞味、その出来映えを実感しました。風の部屋の古酒カメから、クースーを汲んでいく慣わしは今年は省略(村田さんの地酒あり)。日本のお酒の実力を知った七夕でもありました。会場の座り順でお酒がまわらなかった方々に申しわけなし。
二次会への移動、折悪しく雷鳴轟き、あっという間に瀧のような雨となりました。井の頭線も止まって2駅を雨の中に歩いた皆さん、ずっぽり濡れて大変でした。当方は(車椅子あり)なんとかタクシーで助かりました。
予告通り、中国・烟台からに前夜(深夜)帰国の伊藤長和さん、元気な顔を見せていただきました。時間的にほとんど寝ていない?ご苦労さまでした。桑原重美さんから「仲宗根政善−浄魂を抱いた生涯」(ひめゆり平和祈念資料館企画展、2001年)を3コピー(CD)頂きました。次回研究会で希望の方にお頒けできます。有り難うございました。
▼たなばたさま、ささの葉はないけれど・・・(明大前、20130707)
3116号【2013年7月5日】
■≪立法運動の刺激≫
前号の全国夜間中学校研究会(関本保孝メール)「義務教育議員立法シンポジウムご案内」(8月6日)のちらし添付を忘れていました。本号所収の横浜市夜間中学充実運動(澤井留里メール)要望書の添付に関連して、思い出しました。二つを一緒に本号に添付いたします。
夜間中学の先生方の積極的な取り組みには、いつも打たれるものがあります。昨年もお誘いを頂きましたが、8月初めに国会内で開かれる超党派議員による義務教育充実の立法運動、今年は横浜市の夜間中学改善を求めての「神奈川・横浜の夜間中学を考える会」の活動もあり、皆さん、ご苦労さまです。当方があまりお役にたたず申しわけないのですが、ご案内等をいただくたびに、大きな刺激を受けています。
たとえば、ほとんど死文化している「生涯学習振興整備法」(1990)を、抜本的な視点から見直して、国際的な評価にも耐える生涯学習法制へ、充実に向けての立法運動に取り組めないものか、など考えさせられています。
明日は恒例「七夕の会」。この日に間に合うように中国・烟台から(4年余の仕事を見事終えて)伊藤長和さんが帰国されます。6日早朝、烟台最終日のメール(上掲)が届きました。ご無事でのお帰りを祈っています。明日お会いできるのが楽しみ。
また昨夜はその伊藤さんを訪ねて、韓国・公州の瀬川理恵さんが烟台に行ってきた便りも。二泊三日の旅、5日夕方に帰ってこられて、早速の速報メール(これも上掲)。有り難うございました。お二人ともお疲れがないように祈っています。梅雨空をつきぬけるお二人の嬉しい便りでした。
3115号【2013年7月4日】
■≪古い記憶−1995夏・ドイツ≫
以前から「店仕舞い」という言葉に惹かれてきました。「風」3000号のときも店仕舞いの意識がありました。「仕舞い」は終わりにするという意味。しかし、お能では「仕舞」は演舞の意がありますし、あるいは商家では1年の締めくくり勘定と迎春用意、などの使い方もある。店は終って次の自由なステージへの喜び、そんな「店仕舞い」を夢見ています。
そのための作業をぼちぼち始めながら、まだ何ひとつ進んでいいない感じ。古い記録や資料が雑然とし、これらをどう始末していくか。古いものが出てくると妙に若い日の血が騒いで、昔に立ち戻ってしまいます。
数日前、埃にまみれて、1995年夏のドイツ旅行(約1ヶ月)ノートが出て来ました。最後はポーランドに入って、ワルシャワ・クラコフからアウシュビッツにたどり着いた冒険?の一人旅。ちょうど東京学芸大学「店仕舞い」そして和光大学に移った年のこと。国立大学での公務員拘束は気ままに海外へ旅することを許さず、その反動で、幸い退職金が出たこともあり乗り放題のユーロパスを手に、ドイツとその周辺を歩きまわりました。
2000年〜ドイツなどへの旅は「南の風」に連載、HPに収録しています。
→■
しかし1995年はこれまで無記録。ノートを読んで思い出したことがたくさん。当時のドイツはベルリンの壁崩壊から5年目、東西分裂の傷痕がいたいたしく残っていました。壁が建っていたポツダム広場などはまったくの原っぱ。毎日(でもないが)メモ代わりに詠んでいた拙い歌。お見せできる代物ではありませんが、ことのついでに座興として、幾つかを。
◇マルクスの生家にたたずみ咽かわく 1.2マルクの水買いにけり (トリヤー、1995年7月30日)
◇いつまでも沈まぬ夕陽に照らされて 旅は再びエルベを渡る (ドレスデン、〃年8月3日)
◇ガス室へ渡る通路に緑あり ホロコースト知る清流もあり (ダッハウ強制収容所跡、年8月15日)
◇シャツを替え襟を正してオシフィエンチム わが鎮魂の旅の終わりに (アウシュビッツ、年8月20日)
3114号【2013年7月3日】
■≪与那国島の動き≫
日本(南西諸島)最西端、台湾にもっとも近い国境の島・与那国島。いま自衛隊配備の問題をめぐって大きく揺れています。6月27日、与那国町長は、町有地を「バナナのたたき売りのような交渉」(沖縄タイムス・社説、6月29日)で沖縄防衛局と仮契約しました。防衛省によると、2015年度までに艦船の動きを監視するレーダーを設置し、陸上自衛隊沿岸監視部隊約100人を配備する方向だそうです。
与那国島には、いまの尖閣列島問題で日中双方の緊張が厳しくなる以前から、自衛隊の配備をめぐる動きがありました。「…島の活性化策や将来像をめぐって、自衛隊誘致による地域経済への波及効果を期待する人々と、国境の島として周辺国・地域との平和的交流などで島の発展を模索する人々の間」(琉球新報・社説、6月30日)の論議・軋轢もあり。今回の町有地仮契約で、事態は一歩動き始めたようです。8月には町長選の予定。
「こうした前のめりの作業が町政の判断を縛り、与那国島の民主主義や自治権をゆがめないか危惧する。8月に実施される町長選で再び陸自配備が重要な争点となろう。国は選挙が終わるまで行動を自制すべき」(同・社説)。
与那国は戦前そして戦後「密貿易の島」以降、中国大陸とくに台湾との 関係において注目されてきた島です。島の各集落には、いくつかの屈折を経て、与那国独自の公民館が動いてきました。集落の古層に伝統的な祭祀と結びついた公民館の組織。1998年から4年ほど与那国に渡りフイールドワーク、2本の報告(TOAFAEC年報)をまとめてきた経過があります。いま公民館では、島の将来をめぐって、どんな論議がかわされているのだろう、久しぶりに訪ねてみたい思い。しかし東京から1900q(台湾からはわずか110q)離れた海のかなた。簡単に足を向ける余裕もありません。
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/yonaguni1.htm
3113号【2013年7月2日】
■≪中村文子さんを悼む≫
風・前号に載せた中村文子さん(沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会・元事務局長)の訃報、各新聞が大きく報じています。6月29日の告別式では、ご本人が好きだった海勢頭豊「月桃」の曲が会場に流れていたそうです。沖縄タイムスは社説(6月28日)で追悼記事。「
…自らを軍国教師と呼び、その贖罪から戦場へ送った教え子を思い続け、平和運動に身をささげた半生だった。…」
中村さんが自著に残した短歌も一首。
◇語り継ぎ語り継ぐべしあの悲惨 知らざる子らにまたその子らに。
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-06-28_51020
私との思い出は、いつもあのやさしい笑顔。会うときにはゼミの学生と一緒のことが多く、「毎年、若い人たちを沖縄に連れてきて頂き、ご苦労さま。有り難うございます。」という趣旨の感謝と激励の言葉が忘れられません。あわせて仲宗根政善先生や外間政彰さんなど、1フィート運動の胎動にかかわった方々の風貌も思い起こされます。中村文子さんは享年99歳。心からご冥福をお祈りいたします。
昨日は6月最後日、年報18号編集会議(第4回)でした。佐賀から上野景三さん(編集長)、はるばるとお疲れさま。会議は多岐にわたりましたが、例年よりスイスイと運んだような印象。もちろん原稿が集まるまで、これからが正念場ですが、きっと今年も充実した1冊となるに違いありません。私の担当「やんばる対談」をはじめ、関係の皆さんの頑張りを期待しています。会議を終わってのビール歓談もまた楽しく…。(写真)
7月〜8月の日程、とくに次回編集会議(8月21日)と連動して、懸案のTOAFAEC
総会を開いてはどうか、という話になりました。関係各位にご相談・ご案内がいくと思います。
▼年報18号(第4回)編集会議終了−上野編集長退出後 (東京本郷、20130630)
3112号【2013年6月30日】
■≪夏も近づく≫
前号本欄の「ホームページ・この間の来訪者カウントが20万人に…」は、正しくは「20万回」と書くべきでした。同じ人がHP表紙(index)を通過するたびにカウントは動きます。発行人がデータ確認やHP更新の際にもカウントが作動しますので、実際の訪問者数はかなり少なくなります。最近は1日およそ50カウント前後で動いてきました。誰かが見てくれている、そのことがHP作業に大きな励ましとなってきました。
ところで、今日6月30日は、TOAFAEC 年報(第18号)編集会議です。
→■
編集委員会では別にMLが動いていますので、最近は「風」にあまり編集関連の動きが伝わってきませんが、昔この時期は編集記事が連なっていたものです。今日たまたまML以外で2通のメール(高知・内田さん、上海・呉さん)が届きましたので、上掲しました。皆さんご苦労さま。追っかけてMLで、黄丹青さん(目白大学)から。「…ご連絡をありがとうございます。30日(編集会議)は失礼しますが、日訳する中文がありましたら、お知らせいただけば、訳しておきます。黄丹青」(29 Jun 2013)
上掲・呉遵民さんの依頼は「国立開放大学でのスピーチ」(黄さん訳)に関するものです。中国語原文を求めていますが、当方のパソコンに見当たらず、恐縮ですが、黄さんから呉さんに送っていただけませんか。
前号で名護からの中村誠司さんメールは「暑中お見舞い申し上げます」。今年初めての暑中見舞い、有り難く拝受。ぐっと夏が近づいた感じです。
3111号【2013年6月29日】
■≪ホームページ、もうすぐ20万人に≫
ぶんじんホームページ、ご覧になった方も多いと思います。毎号の風メール・標題の3行目をクリックすると顔を出します。TOAFAEC
の公式ページを兼ねています(その逆ではない)。研究会として別にHPを作成してほしいのですが未発、たどたどしい手づくりページのままです。
当方、HP技術はまったくの素人、気恥ずかしいのですが、それでも生来の好奇心・ものずき根性が災いして、1997年に最初のページをアップしました。個人的なお師匠さん(山口晃弘氏、人形劇サークル出身)に指南を受けて、行方不明になりがちな「ぶんじん」スケジュールや、諸行事・つどい(TOAFAEC
)の日程・案内などアップしてきました。
2000年に入って、風の(ぶ)日誌を収録するようになりました。そのうち他の資料もだんだん増えて、かなりの肥満体、雑然とした森?のような感じ、つぎはぎのリンクを重ねて、作成者自身もときに森の道に迷うときがあります。この間の来訪者カウントが20万人に近づきました。
いま3代目の表紙。中央に目印の写真を飾って、その右側がスケジュール、研究会・集いなどの“動き”のサイト。左側には東京・沖縄、韓国・中国等の研究・交流資料の収蔵庫。上の数行はTOAFAEC
関係ですが、その下は、ぶんじん研究室の秘蔵品?を玉石とりまぜて収納しています。
写真の右下隅に“ NEW・記録復元”ページ。ここはもっとも力を入れているところです。いつも5点ほど並べています。次の復元資料の用意ができれれば、順次、左側の関連サイとに格納していく仕組み。
いま掲げているのは、@1995年〜初期研究会記録
→■、A1997年〜初期HP記録
→■、B韓国講演(2005〜)
→■、C学会前史・辞典編集回想(2002年〜)
→■、D韓国社会教育法10年(1982年〜1992年) 調査記録
→■など。のぞいてみて下さい。
3110号【2013年6月27日】
■≪風に乗せる恋心≫
こちらから吹く風が、いったいどのように読まれているのか、捨てられているのか、いつも気になりながら、この15年余りを過ごしてきました。まったく音沙汰のない方もあり、他方で(返信はないけれど…)よく読まれている様子が、間接的に伝わってくることがあり、安心もするのです。
読むだけの方でも受け取ってもらえれば有り難いこと。しかし風を双方向に吹き合いたい初心あり、当方は、案外と切なるラブレターのつもりでもあり、逆に、この恋心を早く棄ててしまいたい思いもあり…。そんな経過で、まったく反応のない方、“読むだけ”の方には、100号おき「アドレス帳」更新で、お引き取り願ってきました。ぜいたくな、わがままな発行人です(ご容赦を!)。この15年の配信中止の記録をたどると、死屍累累の感があります。
3000号(昨年12月)で「風」はめでたくゴールへ。風メンバーに晴れて別れを申し上げ、こもごもの思いを宙に放り投げて、風から解放される予定でした。しかし前後の事情で継続となったことは皆様ご承知の通り。
20日ほど前、「風」継続希望の方々へ、次の一文を載せました(3100号、6月8日)。再録いたします。すでにご連絡いただいた方、行き違いの方には申しわけありません。配信無用の方は、ぜひご一報を願います。→【3100号】ぶ欄・末尾へ
→■。
3109号【2013年6月25日】
■≪嬉しい悲鳴!≫
6月21日(金)夜の研究会について、佐治真由子さん(川崎市役所)から丁寧な報告が寄せられました。有り難うございました。実は「南の風」配信用の記録(上掲)と並んで、あと一つ、おまけのレポートが添えられていました。当夜の荒井隆さん報告、その後の質疑応答の詳細に加え「さいごに〜NPOや青少年健全育成地区委員会などの社会教育団体と社会教育職員との関係づくりについて〜私が思うこと。」
板橋の動きを背景に書かれた興味ある一文。しかし長文なので次号にまわすことにします。ご了承を。
伊藤長和さん「烟台の風」は、帰国を前にして、嬉しい悲鳴!のようです。このところ毎号連載のかたち。今日の308号(上掲)の前文は次の通り。「…学生との別れの宴は、あいかわらず連日続いています。学生たちが、小物の記念品を贈ってくれます。ありがたいのですが、持ち帰るにはかさばり、量も多く、捨てるわけにもいかず、悩みの種です。今は飲み会の間に成績表の作成をしていて、荷物の整理は手つかずです。」
さきほど久留米の古賀皓生さんから、鹿児島で開かれた九州・六月集会に参加できた喜びの電話が来ました。彼に「南の風」は届いていませんが、目が不自由なので、九州に帰ったときは、できるだけ機会をつくって、彼の手をとって飲むようにしています(風3088号ぶ欄など)。彼たちの企画で、7月末に集まる提案あり、8月初めの社会教育研究全国集会(千葉)や韓国グループの来日など、この時期は三つの体があっても対応できないほどの日程重複になりそう…。嬉しい悲鳴!
3108号【2013年6月23日】
■≪夜の賑わい・南の便り≫
21日夜の研究会(第196回)、すこし遅れて始まりました。「… 17:50頃、芦花公園・人身事故のため、京王線上下線運転見合わせ。運転再開は19時頃の予定、調布駅は大混雑。バスで吉祥寺に出て、井の頭線に乗るつもりです」(山口真理子さん)。それでも常連はほぼ集まって12名の参加。報告の荒井隆さん(元大田区社会教育主事)とは5年ぶり?か。終わってイーストビレッジへ。4月に刊行された荒井さんの新著『社会教育主事がみた社会教育・生涯学習』(エイデル研究所)のお祝い乾杯をしました。山添路子さんの顔も見えて、賑やかな夜となりました(HPに写真)。
→■
22日昼、那覇・壺屋の鷲尾真由美さんからバナナが届きました。添えられたお手紙。「…台風4号の只中、石垣に帰ってまいりました。中庭のバナナが肥って垂れ下がっていました。太陽と水の恵み、いつも感謝しながら収穫いたします。先生と富美さんにお分けしたくてお送りします。7月7日・七夕の集まりに今回初参加させていただきます。…(略)…」
包みに同封された「おきなわ環境ネット通信」56(6月15日)に鷲尾さんの寄稿文、またJTA
機内誌「コーラルウエイ」(5/6月号)には平久保「サガリバナ」記事、米盛三千弘さん(サガリバナ保存会長)の写真もあり、興味深く拝見しました。ちなみにサガリバナ(風3100号既報)の花言葉は“幸福が訪れる”、「米盛さん夫婦は幸福を育てる人たち」の一文も。
有り難うございました。ひととき楽しみました。みずみずしい青いバナナは、ベランダのゴムの木につるして、こちらの太陽の恵みを加えて頂くことにします。
▼右から3人目・荒井隆さんの出版を祝う−研究会終了後の懇親会 (イーストビレッジ、20130621)
3107号【2013年6月21日】
■≪年報創刊のころ・回想≫
前号既報の通り、高知から東アジア社会教育研究」創刊号の全編集データが送られ、いま絶版となっている同号(第3号も)を複刻・再版する話が始まっています。この機会にTOAFAEC
年報が世に出た経過などの回想いくつか。刊行は1996年のこと、まったく無からの出発でした。
日韓社会教育セミナーの胎動(1991〜1993)を背景に、金信一氏など韓国社会教育協会から初めて社会教育推進全国協議会・全国集会(1993、木更津)への参加がありました。翌1994年、その答礼に社全協からの韓国・協会年次大会(第19回、利川)へ出席しました。当時ぶんじんは社全協委員長、たしか文孝淑さんも一緒の旅。同年次大会の写真1枚、HPに掲げます。
→■http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/albumhoridasi.htm
黄宗建、金宗西ほか韓国社会教育界の長老の方々と夜の夕食会。ちょうどその日に北から金日成主席・死去のニュースが伝わったことや、この席で♪アチミスル♪を歌ったことなどを憶えています。韓国の文解(識字)教育研究の話題あり、後日に金宗西先生(ソウル大学名誉教授、大統領諮問教育改革委員会・会長)から「韓国の文解教育問題の考察」(ハングル版)を送っていただいたのでした。
当時、担当していた中央大学大学院(修士過程)社会教育ゼミで金宗西先生「文解教育研究」を取り上げ、方玉順さん(韓国留学生)が同論文を日本語訳、これを巻頭論文に据える構想で創刊号の編集が始まったのです。執筆者は東京学芸大学(院)小林ゼミと中大ゼミ。加えて、上海の呉遵民、台湾・楊碧雲、沖縄・島袋正敏、佐賀・上野景三などの皆さんに寄稿をお願いしました。
→■ (創刊号・各号「目次一覧」など)
創刊号の編集スタッフは小林・内田の二人だけ。組織なく資金なく、見通しもない、あるのはただ心意気だけ。そして、9月18日付で見事!発行できたのでした。前年の小林・最終講義(東京学芸大学)記録も収録されました。記録に少し手を加え、写真も添えて、HPに再録しています。
→■ http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/saisyukougi.htm
3106号【2013年6月19日】
■≪烟台との別れ≫
前号に書いた伊藤長和さん「烟台の風」のこと、いよいよ終盤を迎えて烟台に別れるご挨拶が来ました。本文は次号に載せますが、さきほど届いたその前文、一足先に本欄にご紹介します。
「本来は、小林先生に真っ先にご報告申し上げ、この間のお礼を申し上げるべきでしたが、私は今学期をもって烟台の山東工商学院の職を辞することに決めました。家族の意向もあり、学生たちとの触れ合いもあり、心は揺れましたが、5月末日に学校にその旨を伝え了解を受けました。中国への赴任に際して、小林先生にご相談申しあげながら、今回は事前のご相談も差し上げず、大変失礼をいたしました。烟台の今日の最高気温は28度ですが、重慶はなんと39度です。…」(Wed, 19 Jun 2013 08:41:33)
前号にも載せたように、7月7日予定の私たちの「七夕の会」に間に合うよう日程調整され、フライトもその前夜便を確保されたとのこと。さぞかし慌ただしい毎日のことでしょう。2009年4月に赴任され、4ヶ年余の中国滞在、お疲れさまでした。そのうち帰国談・後日談をゆっくりお伺いできる日が楽しみです。一路平安!のご帰国をお待ちしています。
話題かわって、風3103号に載せた内田純一さんから、TOAFAEC 年報・創刊号の全原稿データが送られてきました(上掲)。いま欠号になっている創刊号・第3号の再版が課題となっているのです。経費等の関係でうまく運ぶかどうか。添付の創刊号を小生パソコンに格納したところ、2008年にもデータを送っていただいた経過があることを再発見。小生には再送のかたち、有り難うございました。
3105号【2013年6月18日】
■≪夏至ちかし≫
東京はこの1週間ほど梅雨の空、夜を見上げても月が見えませんが、おそらく今日あたり上弦の月がふくらんで、21日の研究会(第196回、案内上掲)は十三夜か。そしてこの日は夏至。昼がもっとも長い日が来ると今年も半分終わった実感がひしひし。夏至を詠って、「地軸の軋む音すこし」(和田悟朗)という句が思い出されます。7月に入ると、すぐに七夕、そして間もなく夏休みです。皆さん、頑張りましょう!
今回珍しく1週間あまり間隔があいた伊藤長和さん「烟台の風」。体調不良か、あるいは再び中国のメール環境が厳しいのか、など気になっていたところ、2本続けて風が吹いてきました。昨夜の304号(上掲)では、連日の酒の座の楽しみとのこと。「烟台の風」に添えられた前文、次の通り。
「…7月7日の“七夕の会”に間に合わせるため、期末試験を早め、いろいろ工夫をしております。学生たちとは、11日間連続の飲み会で、いよいよ体力も限界です。…」
今日届いた風(次号掲載)の前文。「…今朝17日は、登校直前に豪雨です。天も別れの涙を流しているのです。チケットが買えません。結局、最悪の時間で羽田到着23時が予約できました。鎌倉に翌日7日午前の帰宅か。七夕の会には間に合いそうです。」
久しぶりに文孝淑さんから「私的な便り」を頂きました。私信なので風に載せられず残念ですが、お元気の様子、その冒頭部分だけご紹介します。「…先ほど南の風3104号を拝見し、今年の公民館学会の「学会創立10周年を記念する集い」が7月20日(土)にあることを知りました。参加したいと思います。…」
お待ちします。この機に学会にお入りください。
「辞典紹介」(3102号)を読んで朝倉書店・野島薫さんから来た礼状、抄録・上掲させていただきました。
3104号【2013年6月16日】
■≪七月集会≫
日本社会教育学会は毎年「六月集会」(中間集会)を開いてきましたが、それを追っかけて、日本公民館学会(2003年創立)は「七月集会」を企画。記録をたどると、2006年7月に開かれた公民館創設「60周年」記念の集いが最初か。それから毎年の公民館学会「七月集会」が定着してきたのです。
2006「公民館60周年の集い」では、光栄にも「公民館60年の歩みが問いかけるもの」のテーマて記念講演をする機会をいただきました。上野景三さん(佐賀大学)がテープ起こし、「小林報告を受けた課題提起」(5氏)とともに、同年の民館学会紀要(第3号)に収録されています。小林講演については、TOAFAEC ホームページにも掲載。7年前の写真が懐かしい。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/kominkan60nen.htm
今年の「七月集会」プログラムが届きました。7月20日(土)、会場は法制大学市ヶ谷キャンパス。「学会創立10周年を記念する集い」です。午前は記念講演、午後に記念シンポジウムと祝賀パーティ。学会創設に関わったものとして「公民館学会の10年を振り返って」話をするようにとの依頼をいただき、少し長めの回想ぐらいを・・と思っていたところ、「公民館の課題と可能性」という本格的なテーマ、嬉しいような、苦しいような複雑な思いです。
→■http://www1a.biglobe.ne.jp/kominkan/julyf2011.html
先月に公刊された文科省(指定統計)「社会教育調査報告書・平成23年度」の公民館に関する数字は、予想通り?厳しいもの。この状況のなかでどのような“可能性”を語ることができるか・・・大きな課題です。
3103号【2013年6月14日】
■≪懐かしの胃カメラ≫
昨日(13日)の東京は終日の雨でした。湿気ひどく梅雨本番、今日も降り出しそうです。西日本では真夏の暑さが報じられ、何か気候不順を思わせる昨今、皆さん、お変わりありませんか。
先週の六月集会に引き続き、高知の内田純一さんが大学の仕事で上京し、久しぶりに渋谷ロゴスキーで食事、四方山話となりました。山口真理子さんも一緒。当方は昨年の入院騒ぎからちょうど一年が過ぎ、術後1年の内視鏡検査の日でした。軽い麻酔の影響が残り、懐かしのカメラも胃は不機嫌、せっかくのビールも美味しくない夜でした。
風3099号本欄「天安門事件から24年」を読んで、胡興智さん(日中学院)からメール来信(上掲)。上達著しい歌二つ、書と花の作品(添付)、今や“文人”の境地。「河觴」上映会の想い出、そのうち書きましょう。そう言えば胡さんと内田さんは同級生、加えて(最近は便りがない)渡部幹雄さん(和歌山大学)も同時期の研究室メンバー。1989・天安門事件の前後には、個性的な中国留学生がやってきて、多士済々の時代でしたね。
前号「辞典紹介」に関連して本号には呉世蓮さん(早稲田大学)が「私のような留学生には・・・非常に勉強になりました」の感想。また飯沢美樹さん(江東区文化コミュニティ財団)からは、個人での購入希望が寄せられました。ご注文ありがとう!
朝倉書店に繋ぎます(著者引き)。
福岡・社会教育研究会の横山孝雄さんメール(12 Jun 2013 13:06)。次のご相談。「…韓国・肥後耕生さんが出された本を読みたいのですが、どのようにすれば手に入るでしょうか。教えてくださいませんか。…」 日本では入手できない?ので、肥後さんに直接連絡するのが一番か。ただし本はハングル版です。日本語版の出版構想もあるのかしら。
▼胡興智(雅号・古月清舟)作品− いまや“文人”の境地 (20130610)
3102号【2013年6月12日】
■≪学会紀要に「辞典」紹介≫
…前号に続く。たぶん3月初め、『社会教育・生涯学習辞典』について日本社会教育学会・紀要編集委員会より、こんな依頼を頂きました。
「 … 辞典を図書紹介コーナーで取り上げさせていただきたいと、編集委員会で意見が一致致しました。通常ですと、執筆者以外による紹介がなされるのですが、本辞典に関しましては、たくさんの会員が執筆者として関わっているということや、初めての辞典の出版という意義に鑑み、是非、小林先生に紹介の労をとっていただけませんか。…」
多くの方に「辞典」刊行を知ってもらいたい、しかし当事者として“手褒め”になってはならず、やや複雑な思いで、「…せっかくのご指名、承知しました」と返事し、一文を草したのでした。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/kenkyusi2012.htm
与えられた字数は、わずか1700字。内容的な吟味はとうてい無理という判断で、やや情緒的な書き方となりました。10年もかかった(辞典編集の)非力、執筆からかなりの日数が経過し掲載データは一部古くなったものもあり、またその間に亡くなられた執筆者もあったことなど。
初校ゲラを編集幹事のお一人に見て頂きました。もっと大事なことがあるとのご指摘。上記の記述を差し替えて、次のようなコメントでまとめました(紀要
49-2辞典「紹介」末尾の部分−72頁、右列の下10行)。
「辞典編纂の過程では可能なかぎりの努力を傾注したつもりである。この辞典にはすべての項目に英語表記を付している。中には英語にすることが難しい日本独特の用語もあるが、国際化の中、今後、英語で論文を書く機会が増えることを考え一つの試みとして示してある。もちろん課題も多い。用語選択の領域を拡張しようと試みたものの、正直なところ、社会教育的な説明としては不十分さが残る項目もある。これは改訂版で簡単に修正できるという類の課題ではなく、研究全体の底上げが必要であろう。…」
少し長くなりましたが、辞典紹介の経過として書き留めておきます。
3101号【2013年6月10日】
■≪六月集会の夜≫
8〜9日に筑波大学で開かれた六月集会(日本社会教育学会)、皆さん、お疲れさまでした。出かける直前(8日午前)、風・前号の慌ただしい配信作業・・・ミスがありました。本欄のタイトルが(一部の方に)脱落していたようです。前号は
≪花の便り−サガリバナ咲く≫ について書きました。
学会六月集会には、1965年頃からほとんど毎年参加してきましたが、理事の皆さん(理事会出席−ご苦労さま!)は別にして、理事以外の一般会員は夜をもてあまします。東京が会場だと、帰ればいい。しかし筑波に泊まっていると、せっかくの学会なのに・・・夜が寂しいのです。
つくばの駅近く、ビルの6階にドイツビヤの店があります。2010年の日本公民館学会の夜に韓国出版のお祝い会を開いたことがありました。そのことを想い出して、ある人と待ち合わせ。ところが土曜日夜とあって、若い人で満席でした。やむなく同じ階の(やや高い?)寿司屋へ。せっかくの六月集会の夜でしたが、あまり楽しまず、なんだか孤独な年寄りの気分になって別れました。
とは言っても、日頃ご無沙汰の顔いろいろ再会。とりとめのない立ち話でも学会ならではのこと。先日の本欄に書いた久留米・花畑会談(3088号)のことも岡幸江さん(九州大学)に伝えることができました。山本健慈さん(和歌山大学)や秋の大会開催校・東京学芸大学の皆さんとも立ち話。
今年度から、学会紀要が年2回の発行となりました。六月集会に刊行された二冊目(
49-2)「図書紹介」欄に『社会教育・生涯学習辞典』(朝倉書店)について書きました。本来は著者・編者以外の人が「紹介」する慣わしなのですが・・・、このいきさつなど(本欄の字数すでになく)次号にまわします。
*南の風・後記・3051〜3100号 →■
TOP