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与那国研究 (小林)
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<目次>
1,与那国の歴史と社会教育 (1998年)
        ―研究覚書(1)―

2,与那国の集落組織と公民館制度の定着過程 (2002年)
            −研究覚書(2)−
   付−与那国・社会教育関係年表(1945〜2000)                      

3,






【東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)年報】
 『東アジア社会教育研究』第3号(1998年)所収

      与那国の歴史と社会教育
          ―研究覚書(その1)―

                                        小林 文人


 1、はじめに―与那国の独自の歴史
 
 与那国は日本最西端の島、周囲わずかに27.5q、面積28.9kuの小さな島である。1998年現在、人口はわずか1,800人前後、三つの集落(租納、比川、久部良)が存在するにすぎない。しかし戦後初期、町昇格の1947年当時は、人口12,000人余りを数えた(実質は2万5千から3万ともいわれた、後述)時期があり、その後は過疎化の傾向をたどってきたが、現在も一島一町の独立自治体である。
 ちなみに行政的には、寛永5(1628)年、八重山25ヶ村が大浜、石垣、宮良の三間切に区分された際、与那国は石垣間切に属するが、明治41(1908)年の沖縄特別市町村制施行にともなって、八重山村字与那国となっている。その後大正3(1914)年八重山村より与那国村として分村し、与那国村が誕生、役場事務も開始された。そして昭和22(1947)年の町制施行となるのである。
 与那国は南西諸島のなかでも、とりわけ独自の歴史をたどってきた。その創生の「島建て」の物語は、あたかも一つの「国」づくりのような趣がある。歴史的には「無主の島でありつづけていた」「他からの影響をほとんど受けることもなく、いわば地上の極楽のような社会だったかと思える」と司馬遼太郎は書いている(『沖縄・先島への旅』1975年)。しかしそれが他面「侵略者を迎える結果」(同)にもなったのであろう。
 地理的には台湾からわずか111q(沖縄本島からは509q、東京からは1,900q)という至近の距離にあり、それだけに歴史的に中国・台湾との国際的な関係を多様にもたされてきた。島の西崎からは好天に台湾の山並みが望見される。昔から与那国は「どうに」(土根、大海原の中にぽつんと盛り上がった意)「どぅなん」とも呼ばれてきた。南海のなかに隔絶した位置にあるため、その自然、言語、生活、文化など、きわめて濃縮した独自性を形づくってきた。
 与那国町勢要覧「よなぐに」(1997年、町制施行50年記念)は、自らの島を、誇らしく次のような表現で示している。たとえば「南から来た男」「島建てのドラマは“陽のあたる場所”からはじまった」「独自の自然が息づく壮大なドラマ」「交響する島宇宙」「ゆたかな悠久の一本島」など。固有の歴史と文化の象徴ともいうべき与那国独自の伝統的な祭事と芸能の厚みは、いまも年間日常の人びとの生活のなかにどっしりと根づいている。民俗芸能の見事さは、見るひと聞くひとを魅了してやまないものがあり、国の重要無形文化財に指定(1985年)されている。
 しかし同時に、地理的・歴史的に当然のことながら、孤立した離島が共通にもつ多くの困難があり、またとくに与那国の中山入貢、そして薩摩支配後にうけた過酷な政治的統制(たとえば「人頭税」制度にみられる)の痛手は想像を絶するものがあった。人頭税による搾取(税率81%と推計される)は寛永14(1637)年から明治36(1903)年まで、266年もの長きにわたって島を困窮の淵に沈めてきた。与那国の社会的文化的な独自の豊かさも、この政治的経済的な厳しさと貧しさの中から、それに耐え忍ぶ道程のなかで胚胎してきたものかも知れない。
 近世から近代への与那国の歴史は、日本近代の一つの断面であると同時に、他の地域や島々が経験したことのない与那国独自の歴史展開の側面をもっている。その過程で、学校教育とりわけ社会教育の歩みはどのようなものであったのだろう。
 とくに戦前から戦後における社会教育の地域史はどんな展開をたどったのであろうか。おそらく都市社会の複雑な構造と対比して、このような歴史展開をもつシマ社会の独自性、その社会構造のなかで社会教育はいかなるものであったのか、その役割とその比重は相対的に大きくかつ重いものがあったのではないか、実態はどうか。そんな問題意識をもって与那国研究の旅は始まったのである。
 以下、1998年7月下旬におこなった与那国社会教育の地域史研究・予備調査から、いくつかの知見と研究課題について、調査ノート風に記録・資料等を整理し、今後の研究課題を考えてみたい。


 2,朝鮮と台湾の関係

 与那国は文字通り日本の辺境である。国境の島である。辺境の島は、首都東京からはるか離れた僻遠の地であるが、島それ自体に視座を移してみると、むしろきわめて国際的な位置にあり、思いもかけない歴史展開をたどってきた事実に驚かされる。その地域史は、僻遠の単なる閉鎖的な歴史にとどまるのではない。広大な海上の道に開かれた島として、興味ふかい国際的な関係史との関連をもっている。辺境の歴史はきわめてインターナショナルなのだ。与那国の地域史もその視点から綴られる必要があろう。
 ちなみに最近でも1977年にはベトナム難民が数度にわたり漂着し(5月27人、9月86人など)、長期にわたり町民の手厚い保護をうけている。
 与那国の歴史資料は、朝鮮の漂流民との交流史から始まっている。記録によれば、済州島の船が嵐にあって遭難、乗組みの多数が溺死、ようやく3人の生存者が板にすがって流れているのを与那国の漁民に助けられた。1477年2月15日のことであった。その後、漂流民は与那国の人々の手厚い救護を受け、約半年をこの島で過ごした。さらに、西表、多良間、宮古などを経て那覇にいたり、薩州、博多を経由して1479年5月に故国朝鮮に帰っている。遭難から2年余りを経過していた。
 3人のこのときの見聞記は朝鮮李朝の公式記録(「成宗実録」105巻)に残されている。この中に、すでに水田稲作文化が定着していた当時の与那国の状況が興味深く記述されていた(沖縄県資料集成)。約500年前の与那国の政治、稲作、食生活、濁酒、住居、衣服、葬祭などのありさまが甦るようだ。
 上述した町勢要覧「よなぐに」(1997年)は「朝鮮漂流民の与那国見聞録」を全文意訳して収録している。たとえば次のようである。
 「酋長はいない」「稲の収穫前になると、人々はみな謹慎して大声を出さない」「もっぱら米飯を食べ、握って拳大の丸い形にする」「女性に噛ませて濁り酒をつくる」「部屋はぶっ通しで奥座敷や格子窓などがない」「麻や木綿がない。また蚕も養わない。ただ苧を織って布となすのみだ」「死人は棺に座置して崖の下などに葬る」「島民は文字を解しなかった」「われわれは故郷を思い出し、おいおい泣いた」など。

 さて、台湾との関係についてはどうか。古い記録としては中国『随書』の「東夷列伝」に記された「流求国」が想起される。ここに言う「流求国」は台湾か沖縄かについては多くの諸説あり、むしろ台湾説が主流のように思われるが、『与那国の歴史』(1997年、六版)を著した池間栄三(原典はその岳父・新里和盛の起稿による共著『与那国島誌』1957年)は、与那国に引きつけて、次のように言っている。
 「上代の南島人の風俗を物語る書に『琉求国伝』がある。…略… 本伝に記録されている風習の中に、琉球の南境に在る与那国の古来の風習にも似通うもののあることは、たとえ本伝の琉球が台湾を指すにせよ、琉球及び与那国の上代の風俗を連想するのに、最も適切な書であると思われる。」
 そして『琉求国伝』の原文を笹森儀助『南島探検』から転載し、与那国「上代の遺風」の項を記述していて興味深い。
 与那国と台湾とは文字通り一衣帯水の関係にある。黒潮が流れる海は、いわば両島の漁民たちの共同の海でもあったろう。彼らはは同じ海で、同じ魚を追い、おそらく国境などとは関係なく、古くから双方の出会いや交流があったのではないかと考えられる。
 明治28(1895)年の下関条約による日本の台湾領有は、海に走っていたその国境を解消した。それから昭和20(1945)年までの50年間、与那国と台湾とは、経済的に文化的に、つまり生活全般において、深い関連をもつこととなった。


 3、台湾経済圏としての与那国

 台湾統治下、戦前・戦中の50年間において、与那国が台湾と生活的に強い結びつきをもった実証は枚挙にいとまがない。台湾との関係を記した調査記録や、今次の我々の聞き取り活動のなかでも、多くのことを知ることができた。
 たとえば与那国町老人クラブ連合会「創立25周年記念誌」(1991年)を開いてみる。「座談会・与那国島の今昔」等では興味深い証言が続く。以下にいくつか引用してみよう(抄録、敬称略)。
 大仲重雄「台湾領有後は、多くの人が台湾に渡りました。」
 崎原フジ「女中奉公、産婆、看護婦や和洋裁など、小学校を卒業すると台湾熱に浮かされ、先輩や知人をたよって台湾に渡りました。女性は台湾に行くとべっぴんさんになり“台湾さがり“ともてはやされたものです。」
 大仲秀「男性の場合は、船乗りになる人がたくさん、てぃぐる船、突き船、トロール船、縄船、サンゴ船などあらゆる船にのっていたそうです。学校の先生の三〜四倍はかせいだそうです。」
 冨里康子「(台湾の)大きな商店には与那国出身の店員が大勢いました。店員をしながら各種の資格をとられました。医者の内田薫、池間栄三、東浜永治、崎浜永著さんなども、すべて働きながら台湾医専をでられました。総督府には…略…。」
 池間苗「何はともあれ、当時の与那国は、台湾に出稼ぎに行った人々の送金で潤っていました。与那国では、日本銀行券よりも、台湾銀行券のほうが力がありました。」
 慶田元長起「島では台湾との交易が普通で、石垣や那覇へ出る機会はほとんどありませんでした。島には焼き玉エンジンの船が二隻あって、台湾とは一週間に一航海の割で行き来していました。島からの産物は、カジキや雑魚に鰹節、農家は養豚が盛んで、豚を月三百頭平均は出し、帰りの船には日常雑貨や衣類を積んできました。砂糖は、内地まで送っていました。」
 また、池間苗は「与那国郵便局創立七十周年:与那国郵便局と父の生涯」(1996年)のなかで、次のように記している。
 「日本の植民地となった隣りの台湾は与那国島にとりましては出稼ぎの場であり、また、カジキ、マグロ、鰹節、それに主婦たち内職の養豚を受け入れてくれる大市場でもありました。昭和二年頃より漁音丸、帆安丸、金栄丸、日向丸など運搬船の就航があり、年間7回の大阪商船の湖南丸や湖北丸の沖停泊の寄港がありました。…略…
 当時本土よりの手紙は宛書きを台湾基隆(きーるん)郵便局経由与那国村と書きますと早く着きましたことは今もなつかしい思い出です。」
 
 与那国では日本銀行券に混じって台湾銀行券が流通し、役場への納税も台湾銀行券が可能であって、それは戦後沖縄の第二次通貨交換(1948年)により日本円がB円軍票に切り替えられた時までつづいた。(石原昌家『大密貿易の時代』1982年)
 明治29(1896)年、標準時変更によって西部標準時が設けられた際、1時間の時差をもって、与那国は台湾と同一時刻の標準時間帯となった。(ただし西部標準時の使用は昭和12(1937)年に廃止されている)。(宮城政二郎『与那国物語』1993年)
 与那国と台湾は、経済的かつ生活的に、強い結びつきをもって戦後を迎えるのである。


 4、戦後「密貿易時代」と久部良「ヤミ市」

 さて、戦後の与那国の歩みはどうであったか。台湾が日本の植民地支配から解放され、したがって両者の間には再び国境線が引かれることになったが、それ故に、それを超えて、新しい密貿易時代(石原昌家)が到来することにもなったのである。「50年も続いた交流は“密貿易”という形をとって継続し、島につかの間の繁栄をもたらした」と町勢要覧「よなぐに」は記している。
 与那国民俗芸能伝承保存会の重鎮、老人クラブ連合会の長老、宮良保全は、上記の老人クラブ連合会「記念誌」のなかに、この時代のことを「久部良ヤミ市」として、次のように回想している(抄)。
 「…与那国でもぞくぞくと引き揚者で人口が急増して、在籍人口も五、六千人を数えた。
…(中略)… ところが、人口が増えるにつれて、食料の芋も底をつき、この時分から「ヤミ」が始まり、日を追って物価も上昇したのである。
 久部良に「ヤミ市」が誕生したのは、昭和22年から。そのころ「ヤミ」「ブローカー」「バータ」「バアー」等のことばが流行した。日本最西端という地理的条件もあって久部良に国際ヤミ市が出現したのである。」
 
 宮良保全の証言(聞き取りも含む)は、与那国とくに久部良を基地として、一方では沖縄駐屯のアメリカ軍物資の流れ、他方で台湾からの旧日本軍が残した諸物資あるいは一般生活必需品の流れ、その両者の流れの中継基地として一時期の繁栄があったことを示している。まさに戦後ドサクサの窮乏と混乱の時代における諸物資の交換・交易、実質的には「密貿易」がさかんに行われた。あと少し、宮良の証言を引用してみよう。
 「ヤミ市の内容は、主として米軍の衣服、毛布、布地類、軍の必需物資、なかには機銃類もあったことでしょう。この物資は沖縄駐屯軍から横ながしして、石垣のブローカーの手を経て、与那国のブローカーにわたり、一方台湾からの物資は、サッカリン、米、煙草、石鹸、その他生活必需品一切であった。台湾から二〇トン位の発動機船が久部良に入港して、物資を最寄りの家におろして、そこで双方のブローカーたちが、バーターするのである。バーターした台湾製品は、石垣に運んで米軍物資とバーターするというルートが繰り返されていた。一方、日本本土からの物資は、製材鋸、その他機械類で、見返り品はサッカリンなどの生活必需品でしたが、これは主に与那国の船で与那国人によって行われていた。これらは二〇トンほどの船でしたから航海の安全性はうすく、航海中に行方不明になった船もあった。」
 「一方、地元の久部良では物資の荷役作業に働く人の賃金は、米俵をかついでいくらとか、一日頑張れば十日位の賃金が稼げたので、若者は争って俵をかついだ。にわかに誕生したヤミ市は、農民、漁民その他全住民の所得を潤した。バアー(飲食店)の数は三十軒にもふえ、理髪店も七軒もあり、久部良橋から船着き場に通じる道は、人が通れないほど人口は万を越していた。」「数々の事件も勃発した。東京の某新聞は、与那国島海賊の返り討ち、と一面見出しで報道したこともあった。」
 与那国の当時の人口については、諸説あるが、在籍人口が5千あまり、実質人口は1万を超え(前掲・町勢要覧「よなぐに」は1万2千人余りとしている)、流動人口まで含めれば、推定2万5千から3万人、あたりの規模であったようだ。この時点で与那国が村から町へ昇格したことは前述の通りである。


 5、アメリカ占領と戦後日本教育資料の伝播

 以上のような密貿易時代の歴史は、国境の島・与那国独自の、まことに興味ある展開であった。密貿易それ自体としては、国境を超える脱法の利潤追求、物的交流、いわば経済的活動であるが、それにともなって空前のさまざまな人的な交流・往来があったことを見逃してはならない。宮良保全が指摘するところによれば、「押すな押すなの人山が毎日続き、台湾人、内地人、沖縄、宮古、石垣と各所の人」が集まっていたのである。当時の与那国は、その意味では、まさにインターナショナルな島であった。
 おそらく以上と関連して、与那国小学校に貴重な歴史が残されている。同校の記録では、昭和21(1946)年9月3日に、「由浅弘章氏日本本土に於ける国民学校用教科書並アメリカの教育状況、米国教育使節団報告書等の寄贈」があった(与那国小学校百周年記念誌編集委員会編『創ー与那国小学校創立100周年記念誌』1985年)。
 いうまでもなく、当時の沖縄はアメリカ占領軍の直接的な軍事支配下にあり、本土との関係はすべて遮断されていたため、戦後日本の教育改革関係の動向や資料は容易に接触できるものではなかった。宮古でも、八重山(石垣市)でも、各島の民政府が本土と沖縄を結ぶ当時唯一の回路でもあった気象測候所の補給船を通して、本土教育資料の入手に努める経過がみられた。それが、1948年以降の各民政府「教育基本法」制定に具体化されていく。また奄美では、アメリカ占領軍の強い政治的統制下、現職教員の「密航」によって本土資料がはるばると占領下の島にもたらされたというエピソードもあった(小林文人「海を越えた教育基本法」『季刊教育法』1984年春季号)。
 このような事例は、早くても 1947年、主には1948年以降のことであった。それだけに、与那国小学校の1946年9月という時点での、戦後日本教育資料「寄贈」は、おそらくこの種の記録としては、最も早いのではないだろうか。アメリカ教育使節団(第1次)報告書(1946年3年)からわずか5ヶ月後、まだ本土でも教育基本法の輪郭さえ明らかにされていない時期である。町勢要覧「よなぐに」は、「昭和21(1946)年5月:密貿易、本格化」と記しているが、当時の与那国のインターナショナルな状況がもたらした興味ある出来事といえる。
 
 ところで、与那国へのアメリカ軍占領はどのような経過で行われたのだろうか。最初のアメリカ軍上陸のことは、町勢要覧「よなぐに」年表はなにも記載していないが、上述した池間苗「与那国郵便局と父の生涯」が次のように伝えている。
 「昭和二十年十月、もの凄いエンジンの音に只事ではないと思い、急いで護岸に行きましたら、沖にリバティー(上陸用舟艇)停泊、そしてニュースで聞いていた水陸両用の戦車が二台、防波堤とウブハナリの間を鰹節工場下の砂浜に次々と上り、乗っていた米兵達はレインコートらしき物を脱ぎ捨て、ライフル銃を持ちナンタ浜に次々と飛び降りている、これは大変だ、女や子供は逃げろ、と逃げました。」
 このとき「島建て」以来はじめて島の道路を自動車(ジープ)が走った。上陸した米軍はきちんと隊伍を組んで行動し、むしろ友好的であり、「心配ないから皆家に帰りなさーい」という経過であった(池間苗、同上)。沖縄本島のように米軍占領による諸問題や基地問題が深刻であったわけでない。
 しかし戦後は、明らかに「アメリカ世」が始まり、学校教育にも新しい変化がみられるようになる。与那国小学校百周年「記念誌」記録から(9月3日記事以外に)目につくところをいくつか拾い出しておこう。

<1945年>
 9月 1日 戦争終結に関する証書の奉読式を挙行す。
 11月5日 本日より授業を開始す。午後三時より宮崎兵団長閣下の講演ありたり。
<1946年>
 1月10日 米軍政府の指令あるまで授業中止す。(17日指令により授業開始)
 7月 5日 与那国国民学校を与那国初等学校と改称す。
 11月27日 デモクラシィについて池間栄三氏講話(注、医師、池間苗氏の夫君)。
 12月18日 崎山教官を囲む座談会(民主主義と教育)。 
<1947年>
 7月 9日 五年以上の児童、波多(ナンタ)にて、マクラム軍政官を出迎え。
 12月17日 学校職員生活援護のため、児童甘藷供出開始。
<1948年>
 1月31日 学校自治会開催。
 5月19日 伊波南哲氏の童話会(イワンの馬鹿)。
 6月9日 マッカーサー司令部よりアンダーソン中佐一行来島。本校において町主催の歓迎会
  開催、本校児童の演芸会出演す。
<1949年>
 3月31日 午前十時より英語講習会を開催。
 4月 1日 学制改革により与那国初等学校を祖納小学校と改称。
 5月 9日 ヘイズ軍政官一行来校授業参観。
 5月24日 ドワイヤー軍政官、知事一行来島、本校で歓迎会あり、児童の出演あり、ブルトーザ
  ー当地着。―以下略―

 この年はヘイズ軍政官の援助により、ブルトーザーの機動力を駆使して、初めて島内各集落を縦貫する一周道路が完成した。現在でも「ヘイズ道路」と呼ぶ場合がある。自動車が通る道路の貫通は島の歴史はじまって以来のことであり、町史別巻1・記録写真集『与那国ー沈黙の怒濤、どぅなんの100年』(1998年)は、ヘイズ道路開通記念の写真を掲げ、「邑良出則路良通(よい道を通ればよい村に出る)」と大書した横断幕と、祖納ー久部良ー比川を循環するバスを紹介している。
 正確に記録された学校史はすぐれた地域史の側面をもっていることを教えられる。


 6,与那国・戦後社会教育のあゆみ

 本土の戦後教育改革(1947年・六三三制実施)におくれて、戦後沖縄では、1948年から1949年にかけ新しい学制の施行が行われた。宮古民政府では1948年、1年おくれて八重民政府は、八重山教育基本法・同学校教育基本法を制定した。前節の記録に明らかなように、1949年4月、与那国でも正式に六三三制が実施され、各小学校が再出発するとともに、「与那国島における唯一の最高学府」として与那国中学校が開校したのである(『戦後八重山教育の歩み』同編集委員会編、1982年)。  
 社会教育の戦後史はどのような展開であったのだろう。八重山地区の全般的な社会教育史については、すでに前記『戦後八重山教育の歩み』のなかで、通史としての解明が試みられているが、与那国について、今後さらに詳細な資料発掘と証言収集を深めれば、興味深い「最西端の島」社会教育史が復元されることになるだろう。
 われわれ沖縄社会教育研究グループも、『沖縄社会教育史料ー宮古・八重山の社会教育』第六集(戦後沖縄社会教育研究会編、東京学芸大学社会教育研究室、1986年)において、基本的な資料収集をおこなった。与那国の社会教育についても、青年団活動を中心にして、ある程度の戦後史資料を収録しているが、与那国に限定していえば、断片的な資料集成にとどまっていることは否めない。
 これまでの知見と今回の調査に基づき、戦後の主要な社会教育史の展開を項目的に(資料出典*を含めて)列記しておくことにする。そこから今後の調査課題も自ずから明らかになってくるだろう。

1,戦後初期・与那国の教育のあゆみ、青年会・壮年会等の活動
              *『戦後八重山教育の歩み』同編集委員会編)前掲 
2,与那国「四つ波塾」1947 *『沖縄社会教育史料ー宮古・八重山の社会教育』第六集
                戦後沖縄社会教育研究会編(1986)  
3,与那国実業高等学校の設立(1947〜49)
               *町勢要覧「よなぐに」前掲、宮城政八郎「与那国物語」(1993)
4,青年の民主化運動、台湾帰属論、民主青年クラブ、与那国青年会・機関誌「ながれ」
   (1949)、「与那国新聞」の発行(1950)など
           *八重山毎日新聞「どぅなんの人たち」1997年6月〜11月、連載44回
5,字公民館の発足(久部良、比川)、館長は学校長、成人学級強化(1953)、
                                *町勢要覧「よなぐに」50年のあゆみ
6,琉米文化会館与那国分館落成、池間栄三(医師)分館長事務取扱として業務開始(1954
  年11年19日)、小学校児童の演技参加、「米琉親善」活動(毎年5月26日) 
       *町勢要覧「よなぐに」、「与那国小学校百周年記念誌」、久部良中学校40 周年
        「記念誌」1997、比川小学校創立90周年記念誌「ひがわ」(1992)
7,与那国青年連合会を同青年団連絡協議会に組織替え、会歌「南の島に我らあり」(1962)、
  祖納青年会の再建(1977)など
                 *町勢要覧「よなぐに」、宮良保全「どぅなん島に生きて」(1990)
8,高等弁務官資金の援助(1960年代) *『沖縄社会教育史料ー占領下沖縄の社会教育・
  文化政策』第五集、戦後沖縄社会教育研究会編(1985)
9,祖国復帰運動と青年運動・住民運動(1960年代)
                 *町勢要覧「よなぐに」1965・4・28、祖国復帰デーに参加
10,老人クラブ・連合会の結成(1966)
                 *与那国老人クラブ連合会編「創立25周年記念誌」(1991)
11,民俗芸能保存運動、同伝承保存会結成(1954)、本土公演、国重要無形文化財(1984)
                 *伝承保存会結成「30周年記念誌」(1986)
12,地場産業の振興、,工芸館設立(1979)、与那国織物展(1978)、織り子養成事業(1985)
     与那国花織・国の伝統的工芸品指定(1987)*「よなぐに」
13,中国・台湾との国際交流、花蓮市と姉妹都市締結(1982)、廈門市友好訪問団(1989)、
     姉妹都市15周年事業(1997)、中国語教室の開設など、
                 *町勢要覧「よなぐに」など
14,与那国民俗資料館(1971)、私設博物館、館主・池間苗(「与那国ことば辞典」著者)
                 *与那国民俗資料館パンフ(1998)
15,与那国町社会教育行政の展開、社会教育主事等の職員配置、公的社会教育施設(無)、
   字公民館の状況、社会教育委員の組織等
                          *沖縄県教育庁生涯学習振興課「要覧」(1997)


 7,与那国町社会教育の地域的特性

 与那国の社会教育にかんする地域史研究は、いま始まったばかりである。上記15ポイントについての資料調査、証言収集を今後深めていきたいと考えているが、興味ふかい記念誌、記録類が(むしろ有志的、個人的努力により)作成されている反面、行政内部の公的な資料・記録の整備保存状況は必ずしも良好ではないようである。町史編纂事業も開始され、「記録写真集」が公刊(1997年)されたが、通史編はいまから作業が進行するとのこと、今後が期待される。
 与那国の社会教育の歴史は、どのような地域的特性をもっているのであろうか。最西端の孤島、国境の島、インターナショナルな交流、戦後の密貿易、アメリカ占領下の政策、学校の社会教育センターとしての役割、本土復帰後の社会教育と生涯学習行政の展開、などのキーワードを研究視点として、与那国独自の社会教育の展開をどう描くことができるか、興味ある作業である。
 ここでとくに次の3点について、今後とりわけ注目していくべき気になる課題を付記しておく。
(1)与那国の三つの集落の自治組織と戦後の字公民館組織の展開について。
 周知のように、与那国は「歌と踊りの島」といわれれる伝統的な民俗芸能の広がりがあり、各字公民館(東、西、島仲、比川)は、棒座、踊座、組踊座、狂言座等の固有の芸能組織をもち、その保存伝承の役割を担ってきた。同時にまた、これらの芸能伝承の組織は当然に集落独特の祭事・年中行事とも関連している。集落の伝統的な「つかさ」「総代」の組織と、いわば近代的な性格を期待される自治的な字公民館の活動とは、どのように調和・結合してきているのであろうか。この間には、当然に相互の矛盾もあり、ある種の集落組織の改革問題(前町長・後真地秀雄の証言)も生起してきた。伝統と近代の相克をめぐる地域自治組織ないし字公民館の問題について興味深い経過と展開があったようで、今後さらに調査活動を深めていきたい。
(2)集落を超える青年運動、あるいは住民の自主的な文化・学習運動について。
 与那国の社会教育史をひもとく一つのかぎは、おそらく青年運動の盛衰であろう。この点については今後の大きな研究課題である。なかでも前節のポイント4に示した戦後初期の青年層による地域民主化運動、新聞・雑誌の発行、学習会の開催などの歴史は注目すべきものがある。沖縄本島では厳しい占領政策の統制のもとで集会・結社の自由が大きく制限されていたが、与那国では、おそらく他の地域では見られなかった知的な青年運動、台湾帰属論にみられる政治的な主張もあったようである。この状況は、むしろ戦後奄美の青年運動との類似性を思わせる。参考までに、この時期の胎動する青年たちの動きを報じた八重山毎日新聞の関連記事を末尾に添付しておく。
(3)自治体としての与那国の公的な社会教育行政の制度整備の過程と問題について。
 同時にまた自治体の各機構がはたす産業振興、文化芸能、地域づくり等の行政の社会教育的な意義と関連性について、与那国町はある典型的な挑戦を試みてきたのではないか、と思われる。そのなかで社会教育行政はどんな役割をはたしてきたか。職員体制と公的施設の整備は必ずしも充全の水準に到達していないと思われるが、自治体計画の展望をふくめて、これからの行政課題をどう考えるか、分析と考究を深めていきたい。(未完)

<与那国関係収集文献・資料一覧>(1998年7月28〜30日調査)

与那国町:町勢要覧「よなぐに」(町政50周年記念)1997年12月
与那国町:町史別巻1『記録写真集 与那国』1997年
池間栄三・新里和盛『与那国島誌』1957年 *1939年・新里起稿本
池間栄三『与那国の歴史』(1959年初版)1997年六版 *1971年没
池間苗『与那国ことば辞典』1998年(自家発行)*故池間栄三氏夫人
池間苗「与那国郵便局と父の生涯」(与那国郵便局七十周年)1996年
与那国民俗資料館(パンフ)*館主・池間苗
与那国小学校創立100周年記念誌『創』1985年
比川小学校創立90周年記念誌「ひがわ」1991年
久部良中学校独立40周年「記念誌」1997年
「学校要覧」(与那国小、久部良小、久部良中)1998年
八重山毎日新聞・日曜特集「戦後50年」(与那国)1995年8月
八重山毎日新聞「どぅなんの人たち」連載44回、1997年6月〜11月
八重山毎日新聞「100キロの隣人ー与那国町・花連市」1997年10月
       (姉妹都市15周年訪問団同行記)*担当・松田記者
与那国青年会「与那国新聞」9〜66号、1949年10月〜1951年6月
与那国青年会「ながれ」1,2号、1949年、1950年(復刻版)
与那国町老人クラブ連合会創立25周年『記念誌』1991年
宮良保全を祝う会「どぅなん島に生きてー宮良保全・半生記」1990年
与那国民俗芸能伝承保存会「結成30周年記念誌」1986年
福良・宮良・冨里共著「与那国民謡工工四全巻」(改訂版)1982年
冨里康子「与那国民俗舞踊手引」(与那国民俗芸能伝承保存会)1992年
司馬遼太郎『沖縄・先島への道ー街道をゆく6』朝日新聞社、1975年
石原昌家『大密貿易の時代』晩声社、1982年
宮城政八郎『与那国物語』ニライ社、1993年
木村政昭『太平洋に沈んだ大陸ー海底遺跡の謎』第三文明社、1997年



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【東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)年報】
 『東アジア社会教育研究』第7号(20002年)所収

      与那国の集落組織と公民館制度の定着過程
                        −与那国調査覚書(その2)−

                                      小 林 文 人


1,与那国への研究関心

 与那国の歴史と集落、そこにおける社会教育と公民館活動の歩みに関心をもち始めてすでに3年近くが経過した。日本最西端の島はやはり遠い。しんしんたる興味をかき立てられながら、日常的に島に通うというわけにはいかない。フィールドはつねに遙か南の海の彼方に横たわっていた。
 与那国への研究関心は主要には次の三点であった。第一は、中国とくに台湾と一衣帯水の位置にある国境の島としての“国際的”な特性と社会教育の関係、第二に、黒潮の源流域に浮かぶ離島のもつ地理的隔絶性と社会的文化的独自性、それとの関係における社会教育の歴史的形成過程、第三に、公民館制度の導入と与那国の集落社会組織・住民自治組織との関係、とくに公民館の地域的な定着の実相はどのようなものであったのか、を明らかにすることである。いずれも日本の他の地域に見られない独自の展開をもっているのではないか、その意味で興味深い研究フィールドであろうと考えてきた。
 与那国の特異な近現代史を背景としまたその一部をなす社会教育の歩みは、実に多様な未知の事実を含んでいる。与那国社会教育史についての研究課題の拡がりは、第一次報告に一覧にして提示しているが、(1) しかし本研究では今なおその全貌に迫るところまで進展していない。
 2年前の与那国調査報告(研究覚書1)の末尾に「今後とりわけ注目していくべき課題」として「集落の自治組織と公民館活動の展開」を掲げている。上記三点の研究関心から言えば三つ目の課題にあたる。今回は、この与那国・集落組織と公民館の問題について、収集し得た資料もなお不充分であるが、研究覚書(2)として、可能な範囲での報告を試みることにする。問題を整理しさらに次への一歩をすすめるための作業である。
 

 2,沖縄・与那国への公民館制度の導入過程

 いまでこそ公民館制度は沖縄各地において、沖縄型ともいうべき固有の展開を示しているが、もちろん歴史的にみれば決して沖縄の固有種ではない。公民館は戦後日本の教育改革期に登場し、広く日本各地に普及していくなかで、複雑なプロセスをたどりながら当時アメリカ占領下にあった奄美及び沖縄に導入されていったものである。その間の経過はすでに触れた(2)ことがあるので、ここでは詳述しない。以下の与那国の公民館史に関連する主要な事項のみを記しておくことにする。
 (1) 戦後日本における初期公民館設置の呼びかけ(次官通牒、1946年)は、ただちには沖縄に伝播されず、ようやく「公民館設置奨励について」(琉球政府・中央教育委員会決議、1953年)のかたちで導入され、これを端緒として同文教局社会教育行政によって全琉規模に奨励されていく。
 (2) 公民館制度に法的基礎を用意した社会教育法(日本、1949年)が琉球政府・立法院によって成立するのは本土法から遅れること9年、1958年のことであった(教育四法民立法運動による(3)、以下、琉球社会教育法という)。琉球社会教育法第24条は、本土法第21条「公民館は市町村が設置する」と同趣旨の規定であったが、実際に公立公民館 (「教育区」設置)が実質的に誕生するのは沖縄が日本復帰する直前、1970年の読谷村中央公民館設立まで待たなければならなかった。
 (3) 琉球政府時代における公民館の普及は、したがって集落立の「部落公民館」「字公民館」等(あるいは「類似公民館」「自治公民館」ともいう)が中心であった。ちなみに1971年(日本復帰直前)統計において、全琉の公民館総数645、うち「部落公民館」638(部落総数819)、市町村立公民館7(うち基準に達したもの1)という状況であった。(4) それだけに施設的条件は貧弱であったが、しかし他方において集落の住民自治組織とふかく結合・重複していた。公民館の活動もせまく社会教育機関というよりも、地域振興・地域づくり型の総合的機能的な性格のものであった。
 (4) 1972年までのアメリカ占領下においては、地域の教育・文化施設として、アメリカ民政府(USCAR)直営による琉米文化会館、同分館、あるいは同ライブラリー分館等が機能していた。与那国の場合、石垣市におかれた八重山琉米文化会館の管轄下にあって、1954年に与那国分館(分館長・池間栄三氏)が設置された経過がある。

 ところで、与那国島はどの時点で「公民館」と出会うのであろうか。またどのような経過をたどるのであろうか。詳細な記録・資料は不備な部分を残しているが、いま明らかにされた範囲では次のような経過であった。(カッコ内は出典等)
 (1) 1953年5月、久部良、比川両部落に公民館発足、成人学級を強化、館長に学校長・前竹万之助氏(町制要覧「よなぐに」町政50周年記念)。
 (2) 1954年度研究指定公民館(琉球政府文教局)として比川公民館、研究テーマ「公民館運営について」(『戦後八重山教育の歩み』後掲・注4、P776、参照)。
 (3) 1962年、久部良、比川、祖納(東・西)、島仲の各部落に公民館設置(『戦後八重山教育の歩み』後掲・同、P773、参照)。
 (4) 1964年、比川部落「総代」を「公民館長」へ。第1回与那国町公民館大会。(比川公民館保存資料より)。
 (5) 1969年、中央公民館着工(高等弁務官資金からの援助)、第2回社会教育振興大会。
 (6) 1970年、中央公民館完成。(与那国町教育委員会編「のびゆく与那国町」4年副読本教材)。
 (7) 1972年5月15日、本土復帰にともない社会教育法に基ずく「与那国公民館の設置及び運営に関する条例」制定。   

 これを見るかぎり、与那国の公民館設立の歩みは他町村と比較してきわめて早く、集落(部落)立公民館から自治体立(中央)公民館の設置へ順調に推移していったように思われる。久部良・比川の両集落の自治公民館の発足は1953年5月、上述の琉球政府「公民館設置奨励について」(同年11月)より6ヶ月早い。また与那国町立中央公民館の設置年度は1969年、上記の読谷村中央公民館より1年早い。現在、沖縄県教育委員会が公式に発行している資料等に記載されている「公民館設置状況(市町村内訳)」をみると、与那国町中央公民館「昭和44年」が県下でもっとも早い設置年度である。ただし与那国町『どぅなん−光と波と風−』(町制施行四十周年)では、与那国町中央公民館は「開所年月日・昭和45年2月13日」(P95)となっている。現在、沖縄県教育庁(生涯学習振興課)「要覧」等には、与那国町の公民館は、条例設置による中央公民館1館、自治公民館5館(久部良、比川、東、西、島仲)という体制で記載されている。(5)
 しかし、その実相はどうであろうか。沖縄県下の公立中央公民館第1号は記録上は与那国町であるが、実質的には読谷村中央公民館が注目されてきたのは何故であろうか。与那国町の公民館設立経過やその後の歩み、そして現状の実態等について、さらに詳しく調査を深めるてみる必要がある。


 3,与那国の集落・部落の形成と社会組織

 はじめに与那国の集落・部落について概略を記しておこう。公民館はまずこれらの集落・部落を基盤に発足したのである。
 2000年度の時点で与那国には、祖納、久部良、比川の3集落が存在する。集落別の人口・世帯数の最近の推移は次表の通りである。

 【第1表】与那国町(集落別)人口・世帯数の推移(6)
  ───┬──────┬──────┬──────┬──────── 
  集落名 │ 祖納地区A │ 久部良地区 │ 比川地区   │ 与那国町・計
  ───┼──────┼──────┼──────┼──────── 
  年度@   人口 世帯    人口 世帯    人口 世帯     人口  世帯
  1985    1,321  457   534  180    144   50    1,999  687
  1990    1,230  453   526  200    134   42    1,890  695
  1995    1,185  457    485  200    127   46    1,797  703
  2000    1,138  481   569  240    124   49    1,831  770
   ───┴──────┴──────┴──────┴──────── 

 <備考@>明治以降・与那国村(町)人口推移
   1880(1,736人)、1890(1,985人)、1900(2,415人)、1910(3,014人)、
  1920(3,802人)、1930(4,361人)、1940(4,573人)、1950(6,158人)
  1960(4,701人)、1970(3,086人)、1980(2,101人)

 <備考A> 2000年・祖納地区は3部落に分かれる。部落別内訳:
  東部落 (481人、197世帯)、西部落 (501人、220世帯)、島仲部落(156人、64世帯)
 
 {付図}【与那国島図】(「町勢要覧」昭和52年度,より)…略…

 与那国の世帯・人口数は、明治以降において着実に増加を続けるが、戦後直後のいわゆる密貿易時代(7) を経過して、その後は減少している。推移をみると、1950年あたりをピークとして、1960年代から1980年代にかけて半減した。1990年代に入ると、人口1,800あまり、世帯数700前後を維持しつつ、集落によって事情は異なるが、多くの離島集落がそうであるように、共通して過疎化にあえぐ状況にある。
 ちなみに、産業別就業者数(15歳以上、総数916人)は、第1次産業155(17%)、第2次産業249(27%)、第3次産業512(56%)という構成である(1995年統計)。業種別比率は、水産・農業22%、建設業21%、サービス業19%、卸小売業13%、公務11%(1985年統計)という順になっている。
 与那国は「宇良部麓の水田の稲は 島の娘の情けに伸びて 年にお米が二度とれる サノサッサ 与那国よい島米の島 サノサッサー」(与那国小唄)とうたわれているように、自給自足の時代から米作の比重がたかい島である。1996年統計でも、与那国町の農業生産額のなかで米はさとうきび(33%)より多く、耕種(畜産をのぞく)では全体の54%を占める。(8) 沖縄では珍しく水田耕作地帯であり、このことは集落の共同体的構造にも大きく関係していると考えられる。
 久部良集落を中心とする国際的な密貿易時代に人口が6千名を超えた(実態は1万2千名以上か)(7)時点で、与那国は町政をしく(1947年)。その前の与那国「村」時代においては五つの集落であった。「祖納を筆頭に、久部良、比川、島仲及び桃原の五部落からなっている」(9)と記述されている。それぞれの集落史をここで詳述する余力はないが、概略のみたどれば、祖納は古来より中心的な集落であり東部落と西部落より成る歴史をもっている。比川もまた古い集落であってもともと現在の久部良地区に発祥したが、海賊等の襲来を受け移転を重ね、現在の地に定着するようになった。島仲はさらにまた伝承を含む古い歴史をもつが、大正期以降に条件のよい居住地を求め数回の移転を重ねた後に大部分が祖納地区に移住した。桃原は昭和(戦後)期に次第に世帯数を減らし現在は廃村となっている。これら祖納、比川、島仲の各集落が近世以降の古い歴史を重ねてきたのに対し、久部良はほぼ大正期(1920年代以降とみられる)に糸満系漁民の移住によって集落(10)が形成されてきた。久部良集落が成立するまでは与那国は4集落(祖納の東・西両部落を入れれば5部落)であり、その後の島仲の祖納への移住と桃原の廃村後は、久部良を含めて現在の3集落(祖納の東・西両部落、及び島仲を入れれば5部落)となるのである。久部良・比川はそれぞれの集落と部落組織が整合しているが、祖納集落は東と西、さらに移住してきた島仲の3部落から構成されている。
 明治以降から現在まで、与那国の各集落は近代化過程のなかで大きく変貌しながらも、それぞれ固有の歴史と文化を継承しつつ、濃密な地域共同体的な関係を形成してきた。それはとりわけ集落の主産業が米作に比重をおく農業(ただし久部良は漁業)であったことと関係しているところが大きいと考えられる。すなわち、水稲栽培にともなう生産・労働の相扶組織、水利共同の関係、農耕歴をいろどるさまざまの年中行事(虫追い、雨乞い等)、繁栄・豊穣・安全を祈る伝統的な祭祀など、いずれも集落を基盤として、共同的な人間関係と連帯意識、そして独特の文化・芸能が歴史的に蓄積されてきた。これに加えて、もちろん牧畜・家畜繁殖にかかわる行事や祭りも行われてきた。また糸満系漁民の移住により集落を形成してきた久部良もまた独自の集落組織と漁民(海人、ウミンチュ)としての行事を行ってきた。
 これらの集落、そして部落では、久部良を含めて、生産と労働の、生活相扶の、祭祀と芸能の、そして自治と連帯の、共同的な組織と意識が重層的に蓄積されてきたと言えよう。もちろん歴史的な変容は大きいものがあるが、五つの部落はそれぞれの個性的なムラ的共同の社会組織としていまなお機能している。一面では自治体行政との縦の関係を複雑にもたせられながら、一面ではそこに生きる人たちを横につなぐ社会共同の機能を保持している。与那国の人たちはこの地域社会組織を「部落」と呼び、その連合体として「部落連合会」(後述)をつくった経過がある。そして、1950年代の琉球政府「公民館」奨励の施策は、与那国ではこれら「部落」を基盤として定着を見せていくのである。いわゆる字(あざ)公民館であるが、歴史的にむしろ「部落」が多用されてきているので、部落ないし部落公民館と呼ぶことにする。
 ところで、与那国の方言はまことに独特である。八重山方言の一つであるが、特立させてもよいほどの特徴をもっているといわれる。池間苗『与那国ことば辞典』の出版は、沖縄タイムス出版文化賞等をいくつも受賞し注目を集めたが、池間の「与那国語」普通語訳が興味深い。与那国語で部落の長をドゥムティ(世持ち)と言うが、池間はこれを「公民館長」と訳している。(11) 部落はドゥムティのもとにダグサと呼ばれる役員(副館長、事務局長、会計、書記等、部落によって異なる)を配置しているが、さらに祭祀の組織として司(カ、尊称としてのカァブ、神女、女性祭祀者)、芸能の組織としての棒座、舞踊座、組踊座、狂言座、三線座、太鼓座あるいは旗頭座(部落によって多少異なる)等の組織をもち、それぞれに師匠(チス)を置いている。次に述べる公民館の構成組織図には、これらの祭祀・芸能の組織が、館長、副館長、役員の組織と並んで位置づいている。
  

 4,部落の祭事・行事と公民館の関わり

 ここで、祖納の西公民館長・田島正雄氏のホームページから、「公民館組織図」「祭事・行事」「館長・役員の役割」「マチリ」の主要な内容を紹介しておこう(資料1)。与那国の部落行事と公民館の関わりが具体的に示されている。なお上記・池間『辞典』を参考にしながら、必要に応じて「与那国語」の普通語訳を<  >内に注記してみた。適切でない部分は修正していきたい。

 【資料1】西公民館・祭事行事等
「西公民館組織図 1,2,(略)
3,公民館祭事・行事及び館長・役員の役割
(1)館長
 館長は主に推薦に因って任務に就き、任期は基本的に2年を単位としている。その就任に際しては、イクミ<部落のまとめ>と呼ばれる、引継式と披露宴が催される。館長はダグサ<役員>を召集して、司主体の行事(アラガトタカビ<作付け祈願、琉球王国からの司の墓参拝>、イスカバイ<衣替え>、ムヌン<物忌み、虫送り>、ウガンフトゥティ<豊年祭>等)、公民館主体の年中行事(ウチニガイ<牛願い、家畜祈願>、タナドリ<種取祭>、シティ<節祭>、ハーリ<競漕>等)の準備を行い、執行する。
 又、毎月旧の一日、十五日はトヤマウガン<十山御嶽、島内の十の御嶽の総本山>でカァブ<司>のお供をし、島民の健康願い及び航海安全の祈願をするのも重要な任務の一つである。
(2)役員
 任期は館長と同じである。昔からの慣例として、青年男性は一生に一度はダグサをやり、「むらぐとぅ(ムラの仕事、公民館行事)」に当たらねばならないという決まりがある。役員を経験して副館長になり、又、館長へと上がって行くのが古来からの図式である。
(3)各座師匠
 与那国の伝統芸能保持者であり、高度の技能を有して次世代への継承活動をも行っている、民俗文化の担い手である。各公民館には、舞踊、棒踊り、組踊り、狂言、獅子舞があり、与那国島の芸能団と言った趣がある。公民館の果たす役割に十分留意しなければならない。
(4)教育・行政への補助活動
 昨今は公民館の関係者が大変忙しい毎日を送っているように思える。行政からのイベント参加依頼、教育機関からの青少年学習活動協力依頼、さらには各種スポーツ大会への取り組み等々かなり盛況である。館長のなり手が無い中で、公民館の存立根拠と役割を考えざるを得ない。
(5)司(カァブ)と祭祀
 昔は13名おられたといわれるカァブが、現在はただ一人存在するだけで、しかも、後継者のめども立たない状況にある。高齢者でもあられるので、緊急に取り組むべき課題かとも思う。カァブは自分に与えられたウガン<祈願、御嶽>があり、その人が亡くなると祭祀自体が行われなくなったり、他のカァブへ統合されたりして、数が減ってくるということである。古来より連綿と続けられてきた与那国島の祭祀がカァブと共に案じられる。
4、与那国島のマチリ
 与那国島のマチリ<村祭、玉祭>は始祖の招来を仰ぎ、シマ人の平穏無事を願うものであるということが考えられる。
 マチリは旧十月以後の庚申(かのえさる)の日から二十五日間に、与那国島全集落の始祖の居所を黄色のタナチ<神衣>に草冠を着装したカァブたちが巡行して行う。 カァブは八月から獣肉を食さず、祭祀に参列する者もそれを禁じられる。この期間中は四つ足の屠殺は禁じられ、祭祀期間中をカンヌシティ<神の節>、カンブナガ<神の刻>といって人々は鎮まっている。
(1)クブラ<久部良>マチリ
 祭祀・マチリは久部良集落から始まる。旧十月以後、最初の庚申(カノエサル)の日である。このマチリは昔、外敵(異国人、海賊)の侵入を、大草履を海に流し、巨人国であることをアピールし、その威嚇で防いだという故事に倣って行われている。また、漂流物寄せの願いでもあるといわれている。
(2)ウラ<浦>マチリ
 クブラマチリの翌日(辛酉・カノトトリ)早朝から行われる。東公民館が供え物の準備をする。牛馬繁盛の祈願祭であるといわれている。早朝、司たちがティダンドグゥル<拝所、初めて太陽の光がさしたところ>で南に向かって合掌拝礼したあと、マイヌトゥニ(前のトゥニ、香炉がおかれた拝所)及びツイヌトゥニ<後ろのトゥニ>で祭祀が行われる。(途中、ソナ<祖納>家・クブラ家・ウマタ<大俣>家に礼拝する。)
(3)ンディ<比川>マチリ
 比川集落のマチリで、ウラマチリの三日後、甲子(キノエネ)の日が祭日である。ムグスイ<婿取り>、ドゥミスイ<嫁取り>の願いといわれている。早朝、司たちはウインディタバル<上の比川の田原>トゥニに行き定座に座し、ビディリ<神の霊石>に向かい合掌祈願が行われる。その後クチマ<後間>家、竹本家のビディリを経てトゥマヤー<泊>家で酒食の接待が行われる。 
(4)ンマナガ<島仲>マチリ
 ンディマチリから18日後の、壬午(みずのえうま)の日に行われる。このマチリは五穀豊穣が願われる。祭場は島中村遺跡で周辺は平坦な農地が広がっており、農耕が盛んであったと推察される。ここはかのサンアイイソバ<怪力無双の女傑>が統治した村である。
 巡行は次のとおりに行われる。アラガ<新川>ウガン→ヌック<野底原>ウガン→ツイヌトニ→マイヌトニ(祝賀会が行われる。)
(5)ンダン<帆安>マチリ
 癸未(みずのとひつじ)の日、ンマナガマチリの翌日から始まる。昔、近くに港があったことで海上安全のマチリといわれている。農耕集落跡があり、同所にはンダン遺跡、与那原遺跡、ナガト遺跡、ヤマトバカ遺跡が隣接している。宇良部岳のふもとのハイナグで公民館長と役員達が司を迎え、ンバ<蟹草>の草冠を手渡す。その後ンダントゥニで礼拝しミドゥヤマへ向かう。祈願後次へ移動するときに同所に自生しているイトゥ<植物>のタマ(草冠)を司へ手渡す。
 ンダントゥニに到着するとカンヌイユ<神の魚>を受け取り草冠を脱ぐ。祈願の儀式を一通り行ったあと、ウブダラ・ナガダラ<神酒を差し上げる大きな腕>の儀式が行われる。ここでは一泊するが、ドナンバラ<与那原>家でも一族が参列し独自の儀式を行う。
 翌朝ハイナグへ立ち寄ってカンバカリ<神との別れ>の祈願をする。さらに祖納集落の東側のチンタラクンダでヌチバカリ<最後の別れ>を行い、終わると太鼓を鳴らしながらムラに入る。
 この司一行の太鼓の音を聞いて、今まで禁じられていた豚の屠殺が開始される。二十五日にわたるカンブナガは終わりを告げる。」(12)  

 以上、やや長い引用となったが、部落の伝統的な祭事(とくにマチリ)に公民館(ドゥムティとしての公民館長)が深く関わっていることを示す資料として興味深いものがある。与那国のマチリについては、これまでいくつもの民俗学的な調査報告や写真集が公刊されている。(13) 多彩に行われる豊年祭(ウガンフトゥティ)や節祭(シティ)など年中行事のなかでも、マチリは与那国の集落の生成・移動についての伝承にも深く関わる最も重要かつ厳粛な祭事である。25日間にわたる「神の節」には、「一番尊いと考えられている始源の祖の招来を仰ぎ」「シマ人の平穏無事を願う」祈願が捧げられ、人々は古来よりこの期間は「厳粛に鎮まっている」のである。(14)
 五つのマチリには、五人の公民館長が早朝よりすべて参列し、司の巡行と祈願に同行する。各部落の祈願後の祝宴には、町長や町会議長を含めて主要な役職者等が出席し祝辞を述べるが、その司会進行は教育委員会・社会教育主事が担当していた(2000年1月調査)。つまり伝統的なマチリ祝宴に、与那国町のいわば近代的な行政機関や農協その他の諸団体の主要人物が参加して、その運営・実施には当該の公民館と公民館連絡協議会(後述)があたる。参考までにマチリ祝宴の案内状を掲げておこう(資料2)。筆者も参列した東公民館によるウラマチリ(2000年度)の場合である。

 【資料2】 ウラマチリ祝賀会への案内
 「大寒の節、貴殿におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。平素は、当公民館の祭事等について深いご理解とご協力を賜り衷心より深く感謝申し上げます。
 さて、今年度もムラマチリの一祭事(ウラマチリ)をかのととり日に家畜繁盛の祈願をすべく平成12月1月4日(火曜日)午前8時から執行し、午後2時から祝賀会を開催したく存じますので、時節ご多忙中のところ恐縮ですが、ご来席下さいますようご案内申す上げます。     
        記
 日時:平成12年1月4日(火曜日)午後2時
 場所:ウラマチリトゥニ(下図参照)   *地図略
            平成12年1月吉日
                          祖納自治公民館連絡協議会長 (氏名略)
                           主管:東自治公民館長  (氏名略)
                   *(補注) 自治公民館及び同連絡協議会(1998年結成)については後述する。

 このように見てくると、与那国の伝統的な祭事・行事は、司(かって12人、現在1人)と祭祀集団によって直接的には担われてきたわけであるが、実質的にはそれを一体的に包み込む部落の公民館の制度と組織があり、それによって支えられ実行されてきていることが分かる。


 5,公民館の定着過程といくつかの特徴ー第1期

 しかし古いマチリの祭事に関わって、このように公民館制度が登場してくるのは、言うまでもなくむしろ新しい形態である。ここで与那国への公民館制度の定着の歩みについて、歴史的に振り返ってみよう。
 前に述べるように、琉球政府(文教局)の唱導により与那国にいち早く「久部良、比川両部落に公民館」(1953年)が発足し、相次いで祖納集落(東、西、島仲の3部落)にも「公民館」制度が導入されるわけであるが、それはどのような経過であったのだろうか。またそれによっていかなる変化がもたらされたのであろうか。公民館の定着過程についてあえて時期区分を試みれば、次の三段階に分けることが出来るように思われる。
 第一は、各部落において新しく「公民館」が「発足」し、徐々にそれが部落の運営や活動のなかに浸透し定着をはじめる初期の段階である。しかしこの時期にはまだ中央公民館は存在しない。中央公民館と対概念をなす自治公民館の名称も正式にはまだ使われていない。1953年の発足から、1970年の中央公民館の設置までがこの時期にあたる。
 次の第2表は、比川及び東(祖納)の両部落保存資料より、部落役職名を「歴代役職員名簿」等より拾い出し、一覧にしたものである。上述した部落の長としての「ドゥムティ」の名称の推移を追ってみた。充分な資料が残されているわけではないが、一応の傾向は明らかにすることができる。初期の段階では、部落・役職名として「公民館長」の名称が直ちに使用されているわけではない。しかし徐々に「公民館」「公民館長」が定着していく経過を読みとることができる。両部落では年度により必ずしも一様ではないが、公民館制度が部落役職のなかに定着していく方向は共通している。

 【第2表】 部落役職名の推移(15)
         *備考@AB・・・(丸数字)は役職内訳等を備考として注記
────┬─────────────┬──────────── 
   年度 │年  比(髭)川部落・役職   │年 (祖納)東部落・役職
────┼─────────────┼──────────── 
  1941      部落会長 @             (記録不詳)
    43     部落会長 A              (記録不詳)
  1945      部落会長                (記録不詳)
    46     総代 B               46 総代
  1950      区長 C                 区長 
    52     総代                 54 総代
  1955      総代 D                 総代 E
          総代                   総代
  1960      総代 F                  総代
    64     公民館長 H            63  総代 G
  1965      公民館長 I               総代
    69     公民館長 J               総代 K
  1970      公民館長                 総代
           公民館長              71  公民館長 L
  1975      公民館長 M               公民館長
           公民館長                公民館長
  1980      公民館長                 公民館長
────┴─────────────┴──────────── 

<備考@>1941(髭川)部落長、第1〜10組長、書記
<備考A>1942 部落長、副部落長、各組長(各組長が総務・文化・産業・婦人・青年・ 
            警防・祭祀各部長を担当)
<備考B>1946(比川)総代、(年度により副総代)、 組長、世話係、山林保護係
<備考C>1951 区長、書記、組長
<備考D>1953 総代、副総代、書記、組長、世話係、山林保護係(一部に兼任)
<備考E>1955(東)総代、副総代、組長、世話係、山林係、賦役係、秘書係
<備考F>1959 総代、副総代、書記、組長、世話係(一部に兼任)
<備考G>1963(東)「総代制より公民館制度と改まる、声あり準備に取りかかる」記録
<備考H>1964 公民館長、副館長、世話係、審議員(9)
<備考I>1965 公民館長、副館長、世話係、公民館主任、審議員
<備考J>1969 公民館長、副館長、世話係
<備考K>1969(東)役職名に並んで棒踊、狂言、組踊、舞踊、三味線の座の記載
<備考L>1971(東)公民館長、副館長、書記に並んで青年組長、婦人会長、各座の記録
<備考M>1976 公民館長、副館長兼書記、班長
<備考M>1980年代以降は、5部落ともに「公民館長」制度である。


 1953年5月「久部良、比川両部落に公民館発足」(町制要覧『よなぐに』町制50周年記念)の記載は、実はその10年前の町制40周年要覧『どぅなん』(注6)の記事を受けついでいる。しかしその基になる原資料は不詳である。いったい何ももって「発足」としたのか。第2表にみる集落の役職構成の上では、この時点ではまったく「公民館」発足の実体はない。記録にある当時の「館長」は上述したように学校長(前竹万之助氏)であって、集落関係者ではない。そして比川部落に「公民館長」が登場するのは、それから10年後のこと、東部落ではその後さらに7年を経過してからであった。
 関係者の証言によれば町制40周年要覧『どぅなん』の記事は、「八重山毎日」等の新聞調査によるのではないかという。事業としては「成人学級」開設が記載されているが、おそらくこれらも部落活動の基層に浸透するのではなく、その表層を流れた事業であったと推測される。
 行政側の体制についてはどのような経過であったのだろう。教育委員会制度は1952年の琉球政府の創立時に「与那国区」教育委員会が発足している。1953年当時、公教育として社会教育行政や公民館事業を担当した職員が配置されたかどうかは定かでない。社会教育に専門的に携わる職員が置かれるようになるのは、琉球社会教育法(1958年成立)が各「教育区」に「社会教育主事」(同主事補)を「置くことができる」旨を規定(同法第11条)してからのことである。与那国区において初めて社会教育主事が採用・発令されたのは1960年6月のことであった(久部良昭光氏、学校教員からの派遣人事)。(16)
 教育委員会に社会教育主事が配置される1960年代以降になると、たしかに各種の学級や事業開設などいわゆる公的社会教育が記録に残されている。たとえば婦人学級(1963年)(17)、社会学級(18)、家庭教育学級、高齢者学級、各種研修会、与那国町社会教育振興大会等(19)などである。この時期に公民館活動および館長制度等の定着が次第にすすんでいくのも、こうした公的社会教育行政からの指導や普及によるものと考えられる。
 しかし公民館制度そのものは、単なる事業に止まらず、物的な施設体でありまた制度的な組織体である。その地域への定着という場合、集落・部落の伝統的な共同体的地域組織に必然的に関連してくる。行政の側から下ろされてきた制度は、既存の地域住民組織にそう簡単には受容されない。外から来た制度と、それを受ける地域の組織や活動との間には、相互に複雑な競合や調整、摩擦や屈折等の関係が重ねられてきたと思われる。


 6,同志会、振興会、部落連合会の歩みと公民館制度

 公民館の定着過程の第2期に入る前に、あと少し第1期以前の歴史について触れておく必要がある。
 与那国では人頭税時代から「ムティニン」(一人前の男子の意、歴史的には15才から50才までの呼称)と呼ばれる制度があり、主要には協同労働・賦役の担い手をさしていた。明治期末にムティニン制を基礎に新しく「同志会」(20)が組織され、集落・部落だけではなく、それを超えて与那国のシマ社会の共同事業、協同労働に奉仕的に取り組んできた歴史があった。同志会は、たとえば島内の道路改修、校舎の移転、運動場整備、松林の植林等、総じてムティニン制を基礎にウヤダイ(奉仕作業)を担当する協同労働組織であったと言える。新村政二によれば、1937年に同志会は区長制に改編されたが、1939年にはまた同志会に戻り、更に戦後1949年に区長制に改められ、しかし部落の祭事や行事がうまく運ばず、1952年には再び同志会に戻ったという。上記・第2表のこの時期の総代から区長への変更はこのことを背景にしていると考えられる。
 さらに次のような記述が注目される。「ところが、社会教育法による社会教育の団体の必要性が指導され、大論議の末、昭和32年4月に公民館ができ、同志会は36年に解散となりました。」(21)
 この「大論議」がどのような内容か、1957年に「公民館ができ」というのは何を意味するか、それが上記・第2表の「公民館長」とどのように具体的に結びつくのか、残念ながら詳細は明らかでない。ちなみに琉球社会教育法の成立は1958年のことであった。
 同志会の歩みと関連して、次の二つの組織に注目しておく必要がある。いずれも比川部落保存資料(22)に綴じられていたものである。主要な箇所を紹介しておくことにする。
 一つは「振興会」についてである。同会則によれば、「第2条 本会ハ本村旧来ノ良風美俗ヲ助長シ協同ノ精神ニ則リ従前総代制度ニ依リテ行ワレタルト同様ノ例ニ倣イ諸種ノ社会的公共事業ヲ為シ村ノ振興ト村民ノ福利増進ヲ図ルヲ以テ目的トス」「第3条 本会ハ村内ニ居住スル満14才以上ノ男女ヲ以テ之ヲ組織ス」とある。第4条では「共同労役」は51才以上の男女(並びに官公吏)は免除するとある。そして振興会の事業は次のような事項であった。「第9条 本会ハ其ノ目的ヲ達スル為左ノ事業ヲ行ウ 一村祭事 二村諸行事 三道路橋梁ノ修理架設及ビ河川ノ浚渫 四山林ノ保護取締及ビ造植林 五農作物海産物ノ保護奨励及ビ原山勝負 六納税奨励 七学事奨励 八学校教職員ノ待遇斡旋 九清掃ノ強化 十家畜家禽牛馬増殖並ビニ之ガ取締 十一其ノ他社会的公共事業 前項ニ掲ゲタルモノノ外各字ノ旗頭健全娯楽ノ復興」…
 その他の細かな条項は省略するが、明らかに明治以降の同志会と同じ系譜に連なるシマ社会の協同労働組織(ただし男子のみでなく女子を含む)である。附則には「本会則ハ昭二十一年四月一日ニ遡リテ之ヲ実施ス」とある。上記・戦後初期の総代制から区長制への交代と関連していることは明らかであろう。ただし上記第2表との時期的な整合性についてはさらに精査が必要である。
 あと一つは「部落連合会」についてである。関連していくつか関係条文を引用しておこう。「第2条 本会は本町旧来の陋習を打破し良風俗はこれを助長し協同の精神に則って従前の総代制度に依りて行われたと同様の例に倣い諸種の社会的公共事業を為し町の発展と町民の福利増進を図るを目的とする」「第3条 本会は本町内に居住する住民を以てこれを組織する」「第十条 本会はその目的を達する為左の事業を行う 一慣例による諸行事 二道路橋梁補修及河川の浚渫 三山林の保護取締及造林 四農作物海産物の保護奨励及原山勝負納税奨励 五衛生面の強化 六家畜の増産奨励並に之が取締 七その他社会的公共事業」。
 この会が「共同労役」にあたる組織(満16才以上の男女、51才以上は免除、ただし「青年会員は青年会長指揮のもとに従事」第十一条)であることは同様であるが、前記「振興会」会則にない条項として、「第5条 連合会長は現職にある町長、副会長は現職にある助役が之を兼任し」「第6条 部落会長及部落役員は各部落に於いて部落民中よりこれを推薦する、部落会長これに所属する役員にはすべて辞令を交付する」「第7条 連合会長、副会長の任期は町長、助役の現職期間とし」等があり、むしろ官製的な性格が表面に出ているように思われる。
 部落連合会は「附則 本会則は1952年4月5日よりこれを施行する」とあり、第2表にみる区長制から総代制に再び移行した年と符号する。そして同じく1963年、第2表備考G「総代制より公民館制度と改まる、声あり準備に取りかかる」(東公民館保存記録)とあるように、この時期に公民館制度への移行が実質的に始まったとみることができよう。役職名「公民館長」の誕生も1964年のことであった(比川部落)。
 このようにみてくると与那国への公民館制度の定着過程は、ムティニン制度→同志会→振興会→部落連合会という、シマ社会の伝統的な協同労働組織と慣行を継承しつつ、祭祀行事と深く結びついた部落組織を基盤として、進行していったと考えることができる。もちろんこの間には、協同労働のあり方も祭祀行事にしても大きな変容を余儀なくされてきたことは言うまでもないが、公民館制度の導入もまた変容過程そのものであったと言えるだろう。同時に公民館本来の構想もまた、これら与那国の地域と歴史の厚みのなかで地域的に深く規定され変質せざるを得なかったと考えられる。


 7,中央公民館の設置と集落の公民館ー第2期

 公民館の地域定着の第2期は、1969年から70年にかけての中央公民館の設置から、それと分離するかたちでの自治公民館制度及び同連絡協議会が成立する1998年までと考えることが出来よう。この間には、部落の公民館と条例設置による公立中央公民館の関係が複雑に錯綜してきた。制度的には両者は併存状況ながら、実態は相互に未分化な状況が続き、概念的な混同もあり、また論争や混乱も見られた苦渋の時期と言えるかも知れない。
 与那国町中央公民館の建設は、本土復帰へのスケジュールが具体化し始めた頃の1969年に着工し、1970年2月に完成している。当時のアメリカ高等弁務官資金(23)の援助を得て実現した。アメリカ占領下、高等弁務官資金としても末期の援助である。建設費の内訳は、高等弁務官資金$7,800、与那国町負担(町・教委)$8,000、寄付金$5,317、合計$21,117、延面積303u(24)、現在から見れば小ホールだけのむしろ狭小施設である。
 中央公民館は建設後2年にして本土復帰を迎え、はれて日本・社会教育法に基礎を置いて「与那国町公民館の設置及び運営等に関する条例」(1972年5月15日)が制定され、あわせて「中央公民館運営審議会設置条例」(同)も設けられた。与那国町が自治体として設置する公立公民館が出現したわけである。従来までの各部落に導入された五つの公民館とは制度的に性格を異にする社会教育機関であり、しかも狭小ながらほぼ文部省設置基準にちかい床面積をもった施設条件を具備していたのである。
 しかし実態はどのように推移したのであろうか。実に複雑な展開をたどってきたのである。施設はたしかに完成したけれども、公的社会教育機関としての独自の事業体系やそれを運営していく職員体制等は整備されず、中央公民館としての(従来までの部落公民館とは異なる)新しいイメージを明確に打ち出すには至らなかった。そのような行政的な努力が不充分なまま、実態としては施設が位置する祖納集落の集会施設として、あるいは祖納3部落の従来型の公民館として(形式としては中央公民館が)機能していくかたちが定着していったと考えられる。条例によって定められた公民館運営審議会委員についても、社会教育委員と兼ねて委嘱されたが、実質的には新しい中央公民館のあり方を明確にする方向には貢献できなかったようである。
 あるいは、公立公民館そのものに対する理解が弱く、従来までの集落密着型の公民館を基本とする認識に終始した傾向が関係者のなかにあったようにも思われる。
 また次のような具体的な事情も背景にあった。他の二つの集落をみれば、久部良部落には集落内に独自の公民館的施設(多目的施設)があり、また比川にも同じく施設的条件(多目的施設、離島振興センター)が整備されてきた。その一方で、中心の祖納集落にはそのような公民館的な施設がなかったのである。したがって中央公民館は祖納の人々にとってのいわば格好の集会施設であり、祖納集落の公民館であるというイメージが形成されていったとしても不思議ではない。その結果として前述したように、公立中央公民館と従来の部落(祖納集落)公民館との制度的かつ概念的な違いが認識されず、両者の未分化な状況が持続し一般化してきた経過がみられたようである。
 いま手元に「与那国町中央公民館・平成9年度定期総会」資料(パンフ)がある。構成は、総会次第、議長団選出、来賓挨拶に続いて、平成8年度事業実績報告、決算承認、監査報告、平成9年度祭事計画、平成9年度予算、歳入歳出予算書、平成9年度役員選出、等の項目(詳細は紙数の関係で省略)がならんでいる。内容的には明らかに集落組織・行事としての公民館「総会」となっている。末尾の社会教育団体名簿には祖納集落「中央公民館」とそれを構成する「東」「西」「島仲」の3部落公民館及び役員名が一覧に示されている。しかし久部良と比川の両公民館は含まれていない。
 次ページの第3表は、同中央公民館(平成9年度)定期総会資料に収録された「平成8年度・公民館行事実績」である。一般の中央公民館事業実績報告との違いに驚かされる。学級・講座や文化祭・研修会・振興大会等のいわゆる社会教育関係事業の記載はまったくなく、旧暦(太陰歴)と干支に基づく祭事が「公民館行事」として一覧になっている。まさに集落の祭事・行事実績である。祭事の具体的な内容を説明する余裕はないが、上述した西公民館「祭事・行事」「マチリ」の項の説明(普通語訳)によりある程度理解していただくほかない。とくに旧歴毎月1日・15日の「十山御嶽(トゥヤマウガン)の願い」は、司(カァブ)に館長(ドゥムティ)が同行して、島民の健康・航海安全の祈願をする重要な任務とされてきた。このことは前に見た通りである。なお備考欄の「館・役」は館長のみでなく役員(ダグサ)も参列する意である。
 この時期の中央公民館は、したがって、集落の公民館と癒着し未分化な状況にあるというだけでなく、祖納集落(3部落)の伝統的な社会組織と祭事行事のなかに併呑され埋没しているといった方が適切かもしれない。その意味で実態は公立公民館ではなく、むしろ祖納集落の公民館であった。
 この間には行政(教育委員会)側では、中央公民館としての形式を保持する努力があり、それがまたいくつもの矛盾や疑問を生み、ときには激しい論争も繰り広げられたようである。中央公民館と集落・部落の公民館との間に全般的に混濁した状況がみられたのである。
 一つは、制度上の公立社会教育機関としての中央公民館が、祭事行事を中心の活動とすることへの疑問である。二つには、総会資料に明らかなように、中央公民館が久部良と比川の両部落を含まない(むしろ排除している)ことの矛盾である。三つには、中央公民館に対する「分館」としての部落公民館の位置づけに対する批判である(1973年前後)。中央公民館設立当初において各公民館を分館とする構想が提起されたことがあり、比川、久部良の両部落から激しい反発があって、それぞれ部落の公民館を分館としてでなく独立した公民館として位置づけることが確認された経過があった。そのことがかえって祖納集落3部落による中央公民館という認識を固定する結果ともなったのであろう。
 【第3表】与那国町中央公民館・平成9年度定期総会資料−略


 8,自治公民館構想と同連絡協議会の結成ー第3期

 1990年代後半あたりから、以上のような混迷した状況を脱却していく努力が、教育委員会側からも各部落の公民館側からも取り組まれてきた。とくに1997年から98年にかけての論議のなかから次のような改革の取り組みが具体化してきている。一つは、各部落公民館は「自治公民館」として中央公民館との異同を明確にする、二つに、自治公民館相互に「与那国町自治公民館連絡協議会」(与公連)を結成する、三つには、同じく祖納集落3部落の公民館は「祖納自治公民館連絡協議会」(祖公連)を結成する、という動きである。このことは当然に「中央公民館」の独自な役割を追求するという課題をも自覚することになるだろう。このような改革の動きから、与那国における公民館の地域定着の第3期がいま胎動していると考えることができよう。
 1998年7月から10月にかけて、「祖公連」設立総会が開かれ、ついで祖公連3部落も参加する「与公連」設立総会が開かれている。そこで承認された与公連・協議会規約の主要部分を次に掲げておこう。
  
 【資料3】与那国町自治公民館連絡協議会規約(抄)
第1条(目的)この会は、自治公民館の連携と振興発展を図り地域文化の継承発展に寄与する
  ことを目的とする。  
第2条(名称)略
第3条(事務局)連絡協議会の事務局は、与那国町教育委員会教育課に置く。
第4条(組織)連絡協議会は次に掲げる自治公民館(以下「関係自治公民館」という。) をもって
  組織する。
 (1)東自治公民館
 (2)西自治公民館
 (3)島仲自治公民館
 (4)久部良自治公民館
 (5)比川自治公民館
第5条(事務及び事業)連絡協議会は、次に掲げる事務及び事業を管理し執行する。
 (1)自治公民館の情報交換
 (2)各種研修会の開催
 (3)各種の祭事
 (4)その他、前条の目的を達成するために必要な事務及び事業
第5条(役員)〜第14条(委任)略
 附則 この規約は、平成10年11月4日から施行する。
(与公連・協議会組織図、館長役員一覧など省略)
 
 前項で示した第3表・中央公民館祭事行事実績の一覧表は、1999年以降は「東、西、島仲自治公民館」の祭事計画ないし行事実績の一覧表として、あるいは本来の各自治公民館の事業計画等として、公示されるようになった。比川公民館の祭事・行事等は祖納3部落公民館と共通するところが多いが、久部良の場合は集落の形成過程が違うため、そのような祭事行事の比重が少なく、独自に「海神祭」「親睦大運動会」等の行事(詳細・略)が実施されてきていて興味深いものがある。久部良について、ここで新しく成文化された自治公民館規約を紹介してみる。ちなみに、久部良公民館は文字通り日本最西端の自治公民館である。

 【資料4】久部良自治公民館規約
第1条(名称)本公民館の名称は、久部良自治公民館と称し、事務所を会長宅に置く。
第2条(目的)本公民館は、会員相互の親睦と福祉増進を図り、社会的、文化的生活向上に
  努め、住み良い明るい町づくりを目的とする。
第3条(事業)本公民館は前条の目的を達成するために次の事業を行う。
 (1)館民の親睦、福祉増進、社会的、文化的生活向上の改善に努める。
 (2)快適な生活環境の整備と花と緑化による道路等の清掃美化運動への促進。
 (3)青少年の健全育成。
 (4)災害防止への努力及び防火、交通、保健、衛生、体育等の向上への推進。
 (5)その他、前条の目的を達成するために必要な事項。
第4条(館民の資格)本公民館の館民は、久部良に居住している者と定める。
第5条(組の構成)久部良を2組に分け、前条の各館民を主体に組織する。区分けは別図に
  より定める。
第6条(組)組の組織活動は、次の通りとする。
(1)組は本公民館の単位組織であり、組長は役員の構成員として、本規約の範囲内で自治
  活動ができる。
(2)組の運営上、必要とされる事項は細則で定める。
第7条(班の構成)久部良地区を5班に分け、第4条の各館民を主体に組織する。区分けは、
  北組は1班、2班とし、南組は3班、4班、5班とする。
第8条(班)〜第28条(帳簿)略
 附則 この規約は、平成11年5月22日通常総会の承認後、施行する。

 本格的な自治公民館規約というべきであろう。とくに与那国特有の祭事・行事中心の活動に止まらず、自治公民館として、福祉増進、社会的文化的生活向上、環境整備、青少年健全育成、さらには災害防止、交通、保健、衛生、体育等向上推進等、久部良の地域的生活的諸課題に取り組むことを掲げた第3条は注目に値する。これまでの伝統的な慣行と祭事行事型の公民館から脱皮していく方向が掲げられていると見ることも出来よう。これらが具体的にどのように実践的に取り組まれていくか、注目されるところである。
 与那国の公民館の歩みの第3期は、改革の志向性をもって、いま新しくその扉が開かれようとしている。


 9,いくつかの課題ーまとめとして

 与那国における公民館制度の地域定着過程について大まかな素描を試みてきた。はじめにお断りしたように、調査は未だ充分でなく、思いのほか文書的資料が少なく、以上の記述にも今後さらに修正すべき箇所が少なくないはずである。関係の方々にこれからも教示をいただいて、もっと正鵠を得た報告に仕上げていきたい。
 今後の作業のため、以下に三点ほどの課題を記しておく。第一は、与那国の公民館定着過程を総体としてどう評価するかという問題である。これまでも各地での公民館研究において多様な事実にふれることが出来たが、与那国ほどの面白い、独特の、衝撃的な事実に触れることもそうないように思う。たとえば前掲の第3表・中央公民館「公民館行事実績」表だ。初めは正直なところ眼を疑った。これほどの祭事行事の厚みと、それが(形式的であれ)公立中央公民館の「実績」として記録されている事実に驚いた。これをどう理解し分析していけばいいか。
 公民館定着の類型論としていえば、与那国の場合は、「非定着の定着」(25)の対極にある形態、つまり地域への埋没的定着あるいは併呑型の定着とでも表現したらいいだろうか。集落の伝統的な祭事行事の文化のなかにどっぷりと呑み込まれるかたちでの公民館の展開過程である。おそらく社会・経済の近代化のなかで地域自体も大きく変貌をとげてきているなかで、このことは、なおかつ集落の伝統的な祭事とそれを支える社会組織、規律、連帯感が生き続けていることの証左でもあろう。国家実定法に基づく公的社会教育機関としての公民館の制度はいわば換骨奪胎されつつ、しかし地域の古層のひだのなかで深く息づいているのである。地域との関係をもたず、あるいは大きく遊離して機能している公民館よりも、はるかに生活的に、しかも古層の文化のなかに受容されて定着しているという事実はやはり注視しておく必要がある。このような与那国の、いわば古層型の公民館をどのように評価していけばよいのか。
 しかしあえて付言すれば、そこには古層の祭祀文化と集落の伝統的な社会組織が機能しているのであって、もはや本来の公民館は(集落に併呑されて)存在しないという批判もあり得る。近代教育法制のなかに位置をもつ公民館制度が本来担うべき公共的な社会教育機能、学習文化活動の拠点としての役割との関係をどのように考えるか。この問題は、地域や集落がもはや崩壊し、孤独なる群衆を相手に自由気ままに機能し得る都市型公民館と対比して、地域の固有の文化と人々の連帯の意識が強く(ときに拘束的に)生きている与那国のような集落構造において、それと対峙している古層型の公民館にとくに問われる難しい問題なのであろう。事実を確かめながら、この矛盾的な課題を考えていく必要がある。
 第二は、集落社会のもつ固有の人間形成的機能をどう把握するかという課題である。与那国の祭事・行事の流れと文化・芸能の厚みのなかで人々は、また若い世代は、どのように育ち、暮らし、楽しみ、学んでいるのか。たとえば(久部良を除いて)各集落内に受け継がれてきた棒、舞踊、組踊、狂言、三線等の「座」の機能、各座の「師匠」の役割はどのようなものか。「ンヌン(太鼓)の響きを聞くと心臓の鼓動が早くなる、どこにいてもンヌンが聞こえてくると、音のする方へ引き寄せられていく」(与那覇仁一、元社会教育主事)等という証言からは、まさにアニマシオン(心の躍動)の概念を想起させられる。私たちはこれまで、集落と文化あるいは祭事や芸能のなかで人間の発達や学習の問題を考える視点において、充分な探求をしてこなかったのではないかと反省させられる。
 この課題はとくに与那国などの場合、いわゆる古層の文化、あるいは「神と村」(仲松弥秀)についての認識、に深く関わってくるだろう。シマの「聖域」や「琉球弧の精神世界」(安里英子)についても、古く消え去るもの、という一面的な理解ではなく、現代の状況のなかであらためてその意味を“再発見”する作業が必要なのではないだろうか。
 第三は、与那国の社会教育・公民館、そしてひろく生涯学習についてどのような実践的提言を試みるかという課題である。小自治体として行政的な条件整備には、大きな制約があるだろうが、むしろ小さな自治体であるが故に、また地域の集落の古い文化と厚い芸能を財産としてもっているだけに、与那国独自の公民館活動や生涯学習の計画が創造される可能性は大きいと考えられる。
 最後にあえて具体的な課題について、次の5点を提起しておくことにしよう。
(1)公共的な社会教育機関としての中央公民館の復権。少なくとも職員配置を含めて最少限の職員配置は必要であろうし、運営審議会の活性化、体系的な(祭事行事以外の)事業編成、各種サークルやNPO的な住民活動の援助など、大きな可能性を残している。
(2)自治公民館活動の活性化と集落独自の取り組みの拡大。前述したように久部良公民館の規約にうたわれている諸課題は他の公民館にとっても刺激になるだろう。
(3)とくに学校・教師集団との連携と協力。
(4)民間私設博物館(池間「民俗資料館」)や同じく図書館的活動(「おはなし館」文庫)等の援助奨励。
(5)自治体としての生涯学習計画の策定。とくに住民参画の取組みが期待される。

 日本最西端の島、与那国の公民館・生涯学習計画への期待は大きいのである。
なお末尾に、与那国へのフィールドワークの過程で、調査ノートのなかにメモとして作成してきた「社会教育関係年表」を参考まで添付しておく。もちろん不充分な部分を残し、今後さらに追加・修正していく必要があることを断っておきたい。(文末に掲載)


<注>
 (1)拙稿『戦後沖縄社会教育における地域史研究』第1集(1999年3月)所収、「与那国の歴史と社会教育−研究覚書(その1)−」p67
 (2)拙稿「戦後社会教育の地域的形成過程−とくに沖縄社会教育史研究に関連して」津高正文編『地方社会教育史の研究』(日本社会教育学会年報25)東洋館、1981年、ほか
 (3)拙稿「教育基本法と沖縄−社会教育との関連をふくめて」日本教育学会『教育学研究』第65巻4号、1998年、ほか
 (4)『戦後八重山教育の歩み』(同編集委員会編)1982年、社会教育施設(公民館)P773
 (5)沖縄県教育庁生涯学習振興課「平成9年度・要覧」、同「公民館関係職員研修資料」1997年等
 (6)現住民人口及世帯数調表(役場資料)、与那国町『どぅなん−光と波と風−』(町制施行四十周年)、吉川博也『与那国−島の人類生態学』三省堂、1984年、所収の資料、人口動態の年次推移表等より作表
 (7)石原昌家『空白の沖縄社会史ー戦果と密貿易の時代』晩声社、2000年、P36、など
 (8)与那国町『よなぐに』(町制施行50周年記念・町勢要覧)1997年、資料編・統計ほか
 (9)池間栄三『与那国の歴史』(1959年初版)1997年六版、P4
 (10)佐藤康行「沖縄・与那国島の村落構造に関する一考察」『村落社会研究』(農山漁村文化協会)10、1999年
 (11)池間苗『与那国ことば辞典』自家版、1998年、与那国語の普通語訳は本書による
 (12)田島正雄URL http://www.cosmos.ne.jp/~m-tajima/ なおこの記録は、与那国町第1回「生涯学習フエステイバル」(2000年10月28日)で田島・西公民館長によって発表され、そのままホームページに収録されたもの
 (13)たとえば『まつり』37号「特集・与那国」1981年4月、所収の各論文
 (14)比嘉康雄『神々の古層12ー巡行する神司(カーブ)たち・マチリ(与那国島)』(写真集)1992年、ニライ社、P94
 (15)比川及び祖納・東両部落「歴代役職員名簿」資料より作表(比川は1941年は髭川)
 (16)与那国区の社会教育主事の発令は、久部良昭光氏以降、山田悟(1966年4月発令)、新崎長明(1969年5月)、波平真充(1972年11月)、与那覇仁一(1979年4月)の各 氏へと続く。(教育委員会資料)
 (17)与那国町婦人連合会『創立四十五周年・記念誌』1999年、婦人学級は1963年以降の開設
 (18)与那国区教育員会「与那国町公民館大会(第2回)」1965年、比川公民館実績報告書
 (19)与那国町教育委員会「与那国町の社会教育」(附第10回与那国町社会教育振興大会要項)1977年、など
 (20)新村政二『与那国島・人とくらし』自家版、1994年、また前掲(10)佐藤康行論文などを参照。ムティニンに対して50才以上の男子はドゥリと呼ばれ、人頭税時代では義務 を免除され、同志会では「退会者」を意味することになる。また「ムティニンの頃は各部落のリーダーはドゥムテイと呼ばれましたが、同志会となると総代と呼ばれました。」 (P60)とある
 (21)前掲・新村政二『与那国島・人とくらし』P60
 (22)比川部落保存資料綴より「振興会々則」(1946年4月1日)、同「1962年度部落連合会々則綴」
 (23)アメリカ高等弁務官資金については、小林文人・小林平造「琉球文化会館の展開過程 ー付論・高等弁務官資金について」小林・平良編『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』エイデル研究所、1988年、及び、戦後沖縄社会教育研究会編『沖縄社会教育資料』第5集、東京学芸大学社会教育研究室、1985年、に詳しい
 (24)与那国町教育委員会編「のびゆく与那国」4年、副読本、P72、高等弁務官資金など中央公民館設立経過の原資料を閲覧する機会を得て更に詳細にしたい
 (25)拙稿「社会教育法の地域定着」吉田昇編『社会教育法の成立と展開』東洋館、1971年








【与那国・社会教育関係年表(1945〜2000)】
               -2000/Feb/小林・メモ-

年度 月/日  社会教育(出典ナンバー) ☆与那国・社会教育主事    国など関連の動き
===============================================================================
1945 11/ 与那国青年団の再生(波平真吉)A、「四つ波塾」BG   8/15敗戦
  46  4/5 与那国村振興会E                       密貿易本格化、人口1万余
  47  1/10小学校で町民大会@
    11/ 与那国実業高等学校創立AQ                  12/1与那国町へ昇格
  48
  49 3/31与那国実業高等学校廃校D、                4/1六三制実施 与那国中開校
    12/5 与那国新聞(9号)FG                       6/10日本・社会教育法
1950 3/20与那国青年会「ながれ」創刊 6/10第二号FG       11/7八重山群島政府
                                            12/5 USCAR発足
  51 6/4与那国新聞(66号)F  4/1琉球臨時中央政府
  52 4/5部落連合会E、5/10教育委員(与那国教育区)選挙CH   4/1琉球政府発足
     4/ 成人学校(講座)於小学校B、8/ 区長制から同志会へN   4/28対日平和条約発効
  53 5/ 久部良・比川両公民館発足、成人学級H、町営親子ラジオH 8/14青年学級振興法
  54 8/ 琉米文化会館与那国分館(分館長・池間栄三)H       6/29社会教育主事の職務・
     9/ 与那国図書館落成@、比川公民館研究指定A             免許に関する規則
    12/4民俗芸能伝承保存会結成J
1955 4/ 祖納婦人会(300名)久部良同(184名)B              与那国人口5397@
  56                                         1/30立法院・教育四法案
  57 4/ 同志会から公民館への動きN                  6/5 USCAR高等弁務官制度
  58                                        1/10琉球社会教育法
  59                                        1/ 与那国バス運行開始
1960                                     7/ 簡易水道竣工(祖納)
  61   同志会解散                              2/16キャラウエイ弁務官
  62 3/ 与那国青年連合会を青年団連絡協議会へH          教育区社教主事設置進む
                           6/1久部良昭光F
  63 東・総代制から公民館制度へ移行準備(21)
  64 7/ 与那国・竹富親善交歓大会、比川公民館長制度へ
1965  第2回与那国町公民館大会                      1/14佐藤ニクソン共同声明
  66 6/ 与那国町老人クラブ連合会結成M  4/1山田悟F
  67                                         2/14教公二法問題
  68 第1回社会教育振興大会
  69                         5/1新崎長明F    11/11主席公選(屋良当選)
1970 高等弁務官資金・中央公民館完工K、与那国民謡工工四全巻発行J
     7/1与那国町婦人連合会
  71 11/12自衛隊配備要請(町議会)、婦人会・青年会等反対決議  5/ USCAR(米民政府)解散
  72 5/15社会教育委員条例、5/15教育委員会規則           5/15沖縄本土復帰
     5/15中央公民館運営審議会設置条例、5/15青年学級規則F
                               11/1波平真充F
  73 中央公民館ー分館問題                          1/2ベトナム和平会議
  74                                          4/ 派遣社教主事予算化
1975                                          7/ 沖縄国際海洋博
  76 4/1婦人学級運営規程、家庭教育学級運営規程F
  77 7/ 祖納青年会再建I                           5/ ベトナム難民漂着
  78 3/26第10回社会教育振興大会E
  79 6/ 伝統工芸館完成I             4/3与那覇仁一F
1980 6/ 「与那国の唄と踊り」東京公演P
  81                                         6/11中教審「生涯教育」
  82 4/ 国立劇場「与那国民俗芸能」公演P                10/8花蓮市と姉妹都市
  83 11/26祖納・東公民館建設N                      4/1放送大学開学
  84 3/ 与那国町農村高齢者生活誌「どなん島のくらし」発刊O
1985 1/12与那国の祭事の芸能・重要無形文化財指定L        1/22自治省地方行革大綱
  86 9/ 祖納青年会「なんた浜の碑」建立I
  87 10/ 海邦国体「太陽の火」採火H                   8/7臨時教育審議会答申
  88 11/ 第一回与那国島祭り(町制40周年記念)P
  89                                         1/7昭和から「平成」へ
1990                                      6/26生涯学習振興整備法
  91                                        8/29生涯学習審議会発足  
  92                          ☆松田晃源    7/29学校週五日制スタート
  93
  94 7/ 比川地区離島センター落成H                   12/9文部省いじめ対策
1995 2/ 町史編纂委員会設置P 仲高寛一?東濱安伸    9/4米軍沖少女暴行事件
  96                                        4/24生涯学習審議会答申
  97 3/24交流センター設置条例、中央公民館定期総会F      7/14ハンブルク宣言
  98 11/1与那国町自治公民館連絡協議会、祖納自治公民館連協F  3/19NPO法成立
  99 文庫「おはなし館」発足(祖納)              7/ 地方分権一括法/社会教育法改正
2000 10/28第1回生涯学習フェスティバル   崎元智代  

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<年表関連・出典ナンバー>
@沖縄市町村長会編『地方自治七周年記念誌』1955
A(八重山郡1市2町)同編集員会『戦後八重山教育の歩み』1982
B東京学芸大学社会教育研究室編『沖縄社会教育史料』第6集(宮古・八重山編)1986
C沖縄県教育委員会『沖縄の戦後教育史』1977、同『資料編』1978
D琉球政府文教局『琉球史料』第3集、1958
E与那国町比川公民館関係文書綴(1941〜1979)
F与那国町教育委員会文書・所蔵資料
G八重山毎日新聞記事(「どぅなんの人たち」1997年8月)
H与那国町政要覧『よなぐに』(町政施行50周年記念)1997
I与那国町役場『どぅなんー光と波と風』(町制施行四十周年)1988
J与那国民俗芸能伝承保存会『結成30周年記念誌』1986
K小学校4年副読本「のびゆく与那国町」198
L与那国町教育委員会「与那国の祭事の芸能」1988
M与那国町老人クラブ連合会『創立25周年記念誌』1991
N新村政二『与那国島・人とくらし』1994
O八重山農業改良普及所「どなん島のくらし」(与那国町農村高齢者生活誌)1984
P町史別巻1(記録写真集)『与那国ー沈黙の怒濤・どぅなんの100年』1997
Q宮城政八郎『与那国物語』1993
R社会教育推進全国協議会編『新版社会教育・生涯学習ハンドブック』1995
S照屋栄一『沖縄行政機構の変遷』(資料編)1979
21東公民館関係保存文書綴





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