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日本公民館学会主催:公民館60周年記念・講演と交流の集い
2006年7月1日、於:中央大学理工学部
小林 文人(日本公民館学会会長)
はじめに
小林でございます。会長としての挨拶だけで終わりたかったのですが、公民館60年ということで、私が学会メンバーの中では60年に近いということなのでしょうか、お話をさせていただくことになりました。学会の講演会なので、肩に力が入っていますし、また70分できちんと話をまとめることができるかどうか。しかし、せっかくの機会ですので、公民館60歳、いわば還暦を祝いながら、この60年をどうふりかえるか、現状をどうとらえるか、当面している厳しい局面を憂うるだけでなく、どれだけ未来を語ることができるか、といったことに挑戦してみたいと思います。お手もとにレジメを用意させていただきました。学会に初めての方もいらっしゃるようですから、少し解説的な話も交えながら、これからの課題・展望などについて、考えあうことができればと思います。私の総括がどれだけ的を得たものになっているかは、ご参加の皆さまに吟味していただき、不充分なところをさらに発展させていただければ幸いです。
1,公民館は新憲法とともに生まれた
今日の「つどい」資料に、年表が用意されています。公民館60歳の重要な出来事が簡潔に整理されています。まず1946年7月5日「公民館の設置運営について」の文部次官通牒、これによって公民館は制度的な出発をしました。その前に同年1月、寺中作雄は「公民教育の振興と公民館の構想」を発表しています。横山宏さんとの共編『公民館史資料集成』(エイデル研究所、1986年)編集の際に、忘れもしません、日比谷の都政会館資料室から書き写してきた論文です。
寺中にはいくつかの回想がありますが、文部省局議において、新しい社会教育は社会教育委員の委嘱とか団体振興など従来の発想では追いつかない、施設と事業と人の力とが一体となるような活動の拠点を創ろうと発言し、地域復興の中心施設としての公民館が構想されます。
戦後混乱期の当時の状況については、私にも少年の日の鮮烈な思い出がいろいろあります。みな貧しく、裸足で学校に通っていましたし、二部授業でした。みな飢えて食べるものもありませんでした。寺中『公民館の建設』(1946年)の胸をうつ冒頭の一文「何故公民館を作る必要があるか」は、一面の焦土の中、荒涼たる敗戦の山河を嘆き、索漠たる精神を憂い、「これでよいのであろうか」と問いかけ、地域・郷土をどう復興していくかという訴えから始まっています。そのような時代状況の中で、初期の公民館構想を理解しておく必要がある。
1946年は、戦後日本にとって画期的な年でした。なによりも新憲法が登場しました。公民館設置についての次官通牒は、この憲法普及運動に結びついて拡がっていきます。この年11月に憲法が公布され、翌1947年1月「新憲法公布記念公民館設置奨励について」の局長通達が出ますが、これが大きな意味をもちました。当時は、財政的にも見通しがなく公民館をどう全国に普及していくか、まったく手がかりがない。公民館の設置についての小さな「しおり」(次官通牒)は出したけれども、それをどう具体化していくか。寺中さんの話を記憶していますが、憲法をテーマにすれば公民館普及の経費がつくだろうと。全国すべての市町村もれなく、3日間にわたっての「新憲法精神普及教養講座」を開催する、あわせて新憲法公布記念の「公民館育成」事業をすすめる、公民館設置奨励「交付金」が予算化されました。この局長通達には「公民館の設置運営について」概要が付されています。この年の5月には憲法が施行される。公民館は新憲法とともに生まれた、といってもいいのではないかと思います。
寺中『公民館の建設』は、冒頭に文部大臣・田中耕太郎の序文がありますが、その次に寺中さんの自序があります。こんな書き出しです。「国民主権を宣言した新しい憲法が生まれようとしている。中央集権の弊が反省されて、地方分権の必要が力説されている。文化が生活に浸透し、教育が社会と連携し、政治が国民と直結し、産業が郷土に根をはるような生き生きとして美しい民主国家、平和国家が建設されることをただ一場の夢としないために、我々はこの際、本当に智恵を絞って再建を議さなければならない。それには、国会議事堂が東京に唯一つあるのみでは足りない。議事堂は、全国各町村に広く分散せられて然るべきだと思う」と。そのような発想のもとで全国に公民館を創ろうという呼びかけとなりました。この公民館のイメージは、小さく学習施設としてだけではなく、国民主権の理念を基礎に大きく社会を担う「公民」の館として打ち出され、民主主義や政治の問題、地域の産業を再生していく、その担い手を公民館を拠点に育てていこうという思いがありました。小さな施設論のようにみえて、実は大きな視野と拡がりをもって構想されたということができます。
日本の公民館は、寺中の個人的な功績としてみるのではなく、その時代的な状況が生みだしたもの、戦後復興と民主主義への人々の思いが寺中の言葉として、また文部省の通牒として表出されたもの、と考えるべきでしょう。寺中はこのことを「何とかせねばならぬとして起ち上がろうとする人々の胸の中に期せずして湧き上る鬱勃たる建設の意欲」と表現し、文部省の構想は人々の欲求に応える「一つのイメージ」と言っています。それを受けとめた人々が、地域を復興していこう、新しい時代を創っていこう、民主主義や平和を根付かせていこう、と各地で取り組んでいく歳月がありました。寺中の役割を過大評価することなく、歴史における個人の役割としてみていく必要があります。
そして同時に後で申し上げますが、それらの理念は、国民主権や平和の呼びかけも、また公民館の構想も、いわば上から与えられ、中央から地方への流れで受けとめられるという日本的な特徴も有していました。当時はまたアメリカ占領の拘束下にあり、草の根から支える市民の社会的成熟もまだみえていない頃です。
それから60年が経過しました。この間の時代的状況の推移をどうみるか、市民社会の成熟をどうとらえるか、それとの関わりで公民館の蓄積なり、課題なり展望をどのように画くことができるか、が問われることになります。その点では、日本公民館学会が刊行した『公民館・コミュニテイ施設ハンドブック』(エイデル研究所、2006年)が一つの重要な証言となるのではないでしょうか。この本は私たちの今年最大の収穫であります。あらためて熟読してみると、公民館60年の歴史を実像としてとらえることができますし、さまざまの蓄積が盛り込まれている。そこから課題を読みとる必要がありますし、また現代的状況をふまえての展望や可能性を引き出すことができるのではないか。そういう作業のステップになる本だと思います。以下の話もこの『ハンドブック』を素材にしながら進めていきたいと思います。
2,60年の歩みをどうみるか
公民館60年の歳月。まず第一は、“起点”としての寺中構想という点です。寺中構想の面白いところは、枠組みが固定しているように見えて、地域で取り組もう、みんなで創ろうという呼びかけが鮮明です。その舞台としての地域はそれぞれ違うわけですから、当然に地域史的な展開がある。公民館の“原点”というより、むしろ一つの起点として文部省構想があったということです。
二つには法制化の意義とその後の定着過程についてです。年表で概略をおさえておきますと、1947年3月に教育基本法が成立し、その第7条に図書館、博物館と並んで公民館が位置づけられます。法制化にかかわるその後の論議はおもしろいのですが、いまは詳しくふれる時間がありません。1949年6月に社会教育法が成立します。法律的根拠として、これが大きな画期となり、その後の広汎な定着過程を呼び起こしていきます。たとえば韓国では、1982年に社会教育法がつくられ、日本の公民館にあたる社会教育施設の条項はあったのですが、地域への定着は実現しませんでした。今、1999年以降の平生教育法が躍動的に動いていますし、生涯学習館などの規定がありますが、独自の公民館的な施設の展開は見られない。それに対して、日本の公民館は1949年の法的根拠をもとに、その後の普及定着の全国的な拡がりがありました。
もう一つ例をあげますと、ベトナムではドイモイ(改革開放)政策の後、地域復興、地域開発のために日本の公民館にあたる「地域学習センター」が作られていきます。実際に“KOUMINKAN”という言葉も使われている。その基礎になるベトナム教育法が昨年改正されて、地域学習センターが法律に盛り込まれますが、わずかに一行です。実際にはいろんな動きがあるけれども、法律的規定はきわめて弱い。そういう比較から考えますと、日本の公民館が、公的セクターの施設としての根拠をもち、全国的な普及を実現していった点は注目しておく必要があります。その過程には、もちろん寺中さんですとか、鈴木健次郎さんや岡本正平さん、そしてそれぞれの地域で公民館運動を担い支えた人たちがいた。いわば公民館の“群像”ですね。公民館を担ってきた人たちの取り組みがあり、同時にその根拠として公民館の法制化があったたわけです。
法制化に関連して、1952年末の市町村教育委員会の全国一斉設置が大きな意味をもちました。ここで公民館は制度的に市町村教育委員会の所管として、公的な社会教育施設・社会教育機関としての位置づけをもつことになります。その数は、1953〜55年には3万5千前後の公民館が文部省統計に示されています。当時は昭和の町村合併が進行して、町村の数が三分の一に減っていく中で、公民館の数も1万3千に急落するわけです。
ただ学会としては、この統計を吟味しておく必要があるように思っています。公民館数の飛躍的増加、その大幅な減少という捉え方を単純にすべきではないのではないか。この数字の背景や根拠を精査すると、社会教育法制定時の公民館には、多くの類似施設が含まれていて、集落立の公民館も「分館」として条例化されている場合が少なくなかった。町村合併で大きく減少するのは、多くこれら分館であって、本館は7000〜8000館という具合にむしろ上昇していきます。分館の方は2万館余りが減少します。ここには公立公民館の基準を限定し指定統計上の数値も整序されていく流れがあり、いわば公民館の近代化過程における数値の変動という側面がありました。もちろん町村合併の影響があったことは否定できませんが、3万5千が1万3千に大幅減少という単純な評価はあたらないと思われます。
3,公民館の地域史的な展開
三つには公民館が地域的に多様な歩みをとげてきたこと、別の視点に立てば、公民館それぞれの地域構想、地域自治的な展開の可能性をもっていることです。公民館の歴史をみていきますと、日本全体の概括史ではくくりきれない多様な地域史が実に興味深い。同じ法制に基づく施設なのに、これほどの違いがあるのかと驚かされます。
ここ数年の新しい研究から拾ってみますと、大阪『豊中市史』第11巻「社会教育」編に詳述されている公民館の記録は、まさしく豊中独自の公民館史です。科学者・市議会議長・北大教授であった西村真琴館長や大阪学芸大学助教授から転身する松末三男主事等の独自な役割があり、関西の都市教養的な殿堂としての公民館づくりが目指されたと言えます。農民啓蒙的な側面をもつ寺中・公民館構想とはかなり違っています。
東京の杉並公民館の場合。初代館長の安井郁氏は、戦前の東京帝国大学教授、戦後は法政大学教授。当時の杉並区長から慫慂されて、図書館長となり公民館長を併任しました。1954年の第五福竜丸ビキニ被爆を契機に日本の原水爆禁止署名運動が動いていきますが、杉並公民館を拠点に安井郁は母親たちの学習会をつくり、連続100回の画期的な「公民教養講座」を開設し、地域からの平和・反核運動を拡げていくのです。杉並から東京へ、そして全国へ拡がっていく原水禁運動の初期事務局は杉並公民館におかれていました。安井郁は日本原水協の初代理事長、その後の政党間の路線対立の中で理事長を辞任します。
安井という人物はどういう公民館をめざしたのか。言うまでもなく寺中構想とは違いますし、豊中の公民館とも違います。「公民教養講座」をはじめとして国際的な視野をもった市民大学を創ろうとしたと思います。「歴史の大河は流れ続ける」(1980〜84年)にまとめられていますが、地域からの平和運動の拠点として杉並公民館は動いていったと言えましょう。グローバルな視点をもち平和の問題を位置づけながら、運動的な結びつきをもった公民館の活動、それは杉並独自の安井構想といっていいと思います。このようにみてくると、いままで考えてきた公民館を担う“群像”は、ひとまわり拡がりをもってきます。
戦後公民館の地域史として、特異な歴史をもったのは沖縄です。27年間のアメリカ占領下をくぐるわけですから、同じはずがない。アメリカ側は宣撫工作的な「琉米文化会館」を設置する。大型の都市型文化センターです。沖縄側は公立公民館をつくる力がなくて、集落ごとの小さな字公民館を奨励して「村興し」をやってきたわけです。むしろここには、戦後初期の寺中構想的な公民館が、占領下の沖縄に色濃く展開し、現代の沖縄にさらに発展してきていると言えるのではないでしょうか。
川崎市の場合は、1970年代にそれまでの公民館を政令指定都市の「市民館」として自治体計画の中に位置づけ、各区に整備していく一方で、在日コリアン問題に取り組み、在日の多住地域に「ふれあい館」をつくってきました。児童館機能も併設し多文化共生をめざす異色の公民館です。この独自の形態は、川崎構想とも呼ぶべきものでしょう。
地域史的展開の事例は、もちろん、これだけにとどまらない。全国各地の自治体において、それぞれの状況のなかで、地域的な公民館の歩みがあり、そこにはその地域の構想が動いてきたと言えましょう。それは地域の自治的な取り組みの可能性を意味していますし、その集積として日本の公民館の多面的な歴史がある、そのような実像を描きだしていく必要があるだろうと思います。
4,公民館の“発達論”
せっかくお手元に年表がありますから、その後の公民館史の主な動きを簡単にふれておきます。1958年から5年間ほど、当時の全国公民館連絡協議会(のちの連合会、全公連)が「公民館単行法」運動に取り組みます。しかし、これは実りません。公民館関係者の悲願であった公民館職員の専門職化、身分保障、そして公民館設置義務化、国庫補助といった単行法は実現しない。その運動を吸収する形で、1959年に社会教育法「改正」が行われ、第27条に「主事をおくことができる」と加えたり、公民館設置「基準」を設けるという形で収束するわけです。近畿公民館主事会は「われわれは、パンを求めて石を与えられた」「われわれが望んでいたものとは遠く離れていることを悲しむ」と。公民館の制度的確立と、職員の専門性・身分保障を求めてきたのに、返ってきたものは石だという趣旨の痛烈な批判を残しています。この経過には行政セクターとしての公民館の制度拡充が強く求められてきたことに特徴があります。
しかし1960年代から70年代は、公民館にとっては大きな躍動の時代となりました。理論研究の先頭には小川利夫さんの姿がありました。徳永功さんたちと「三階建論」を打ち出したり、1965年の日本社会教育学会年報『現代公民館論』を編集したり。この研究年報には島田修一さん等による飯田・下伊那主事会の「公民館主事の性格と役割」いわゆる下伊那テーゼが提起されています。
1970年に入ると、東京の「新しい公民館像をめざして」がまとめられます。広く三多摩テーゼと呼ばれるようになりますが、出たのは1973年、増補版が1974年です。この間には西宮や国立・国分寺など自治体の活発な動きがあり、「テーゼ」による理論提起の相互刺激もあって、この時期の公民館は躍動的に動いていく状況がみられました。大都市近郊部では住民による公民館づくりの市民運動が拡がりをみせた時代でもありました。
そして1980年代を迎えます。生涯教育の時代の登場とも言えますが、他方では、自治体経営論による「行政改革」、新自由主義路線の立場に立つ公的セクターの見直しと民営化論が蠢動してきます。補助金カット、経費縮小、職員の削減や嘱託化、受益者負担、民間委託などが公民館を直撃しはじめます。生涯学習体系への移行をテーマとした臨時教育審議会の最終答申が1987年に出されます。生涯学習への移行という時期に、日本の公民館は政策的には陽があたらくなってしまう。臨時教育審議会の委員の中には「公民館の歴史的役割は終わった」と公言する人もあり、また「社会教育の終焉」という人も現れる。生涯学習の時代なのに公民館はむしろ政策的に後退するような皮肉な状況がありました。
それからすでに20年が経っています。「失われた10年」どころではなく、日本の公民館の「失われた20年」といっていもいいような厳しい逆風の時代。公民館にとっては政策的後退が続き、条件整備の水準は低下し、とくに職員体制の劣化がすすむ。公民館の施設数は横ばいですが、職員体制は劣化していく統計からは、むしろ厳しい20年といえましょう。
しかし注目しておきたいのは、公民館をめぐる厳しい政策動向のなかで、自治体によっては、それぞれの地域的条件を活かしながら、活発な展開がみられる。私たちの『ハンドブック』では「公民館の現代的挑戦」として、たとえば岡山市、松本市、貝塚市、その他の自治体の最近の動きを取りあげています。公民館をめぐる危機意識と新しい展望をさぐる課題意識をもって、2003年に日本公民館学会も設立されます。こういう自治体の新しい動きに励まされながら、これからの公民館の時代をどう拓くことができるか、公民館の可能性をどう描いていくか、みんなで力をあわせていこう、そんな思いをもって私たちは学会に結集したつもりです。
このように公民館の歴史を振り返っていくと、人間の自己発達史にも似て、公民館の“発達論”とでも言うべきものが見えてくるように思います。誕生から成長へ、青春の躍動もあれば、模索、停滞、挫折を含む曲折の歩み、さらに自らの再発見、再創造の努力もあったでしょう。公民館の歴史の時期区分とも関わって、今日にいたる公民館“世代論”を考えてみるとどうなるか。『月刊社会教育』が「公民館50年」特集を組んだ号(1996年12月号)に、問題提起として公民館「第五世代論」を書かせていただきました。
第一世代は寺中構想と初期公民館の時代、第二世代は法制化に基づく近代化過程、第三世代は学習権論と住民参加型公民館、第四世代は生涯学習・行政改革下の公民館、そして1990年代から2000年にかけて、期待をこめて地域創造型公民館への胎動を第五世代論として考えてみました。ここで再論する余裕はありませんが、申し上げたいことは、公民館は歴史的に“発達”してきたということ。寺中構想が原点となって今までずっと維持されてきたのではなく、地域史的な展開とともに、時代とともに発達してきた。さらにこれからの内面的発達可能性をどうみるか。そしてさらに第六世代論としての公民館の方向をどう考えることができるか、その課題や方向を語りあっていきたいということです。
5,公民館の公的制度化がもたらしたもの
残された時間はあと25分。要点だけを申しあげることでお許しいただきます。
日本の公民館の歴史的特徴は、公的セクターの施設として公的に制度化されてきたこと。国際的比較からみても、この点がまさに日本的特質でありましょう。義務教育機関に匹敵する規模で成人教育・生涯学習の機関が地域的に配置され、総数が1万8千に達するという制度化は、世界に類をみないものです。昨年の韓国光明市で開かれた(第4回)平生学習フェスティバル・国際シンポで、韓国の研究者が、世界の成人教育の国際的ブランドとして、スウェーデンのスタディサークル、デンマークやドイツのフォルクスホッホシューレ、そして日本の公民館、をあげました。私も招かれて日本の公民館について話をいたしました。積極的評価のなかに複雑な消極論も含まれていたのではないか。法制的基礎をもち、自治体の公的施策に位置づき、全国的規模での公的制度化を達成した公民館への国際的な評価、しかし必ずしも一面的評価ではない。私たちは地域への制度定着と60年の実態的蓄積を確かめ、そのことを前提とした上で、しかし今後への課題を考えるために、あえてそこに内包する負の側面について考えてみたいと思います。
第一は、全国的規模での普及と、実態としての驚くべき地域格差です。東京23区には、公民館は1館しかない。横浜には1館もない。大都市部には概して公民館の風景は見えてこない。一般論としては公民館の自治体設置率は全国92%、わずか8%が公民館を設置していないだけ、ほとんどの自治体が公民館をもっていると言われてきました。しかし人口比率で計算をしてみるとどうなるか。全人口の30%、もしかすると40%近くが公民館との関係では白地図なのではないか。市民の活動としてはいろいろあるでしょうが、制度的に公民館が欠落している地域の問題、その現実を細かくみる目をもつべきでしょう。もちろん公民館にかわる地域施設もありますが、しかし大都市が公的制度として社会教育・生涯学習の社会システムや都市装置を整備しているかと問えば、そうとは言えない。例えば東京都立大学や横浜市立大学等が市民に対してどれだけ開かれているか、労働や福祉の都市施設が公民館にかわる機能を果たしているかどうか。公民館の制度だけが問題ではなく、都市としていろいろな施設・機関のネットワークや機能を問い直すとともに、公的制度化の反面としての大きな地域格差と、その負の側面がこの間に定着してきた事実をおさえておく必要がありましょう。
第二は、公的教育機関としての公民館が志向する制度理念と、現実の整備の実態、地域の実像との矛盾の問題があると思います。教育機関とは何か。地方教育行政法が求めている物的、人的、継続する事業の三つの要素、公民館におけるその具体的な条件整備の課題について、社会教育研究としてもさかんに議論されてきましたし、理論構成も試みられてきました。しかし公民館の理念・理論と現実・実像との間には抜きがたい矛盾が介在してきたし、克服できない多くの課題がある。その問題の60年の蓄積がある。さまざまの努力があり、また自治体によって一様ではないにしても、この間の歩みにどういう評価を与えることができるか。
とくに職員の問題とくに専門職制度については、公民館の60年の歩みにおいて制度的蓄積を評価できるかどうか。とくに最近の状況はむしろ後退している? 公民館主事の専門職的制度化という点では、日本は失敗したといわざるを得ないのではないでしょうか。もちろん自治体として努力がある。しかし全般的には、積極的な評価に耐える実像はなかなか見えてこない。社会教育主事については、東京都が日本のなかで施設配置の専門職集団を形成してきた歩みをもっていますが、この五年間でこの専門職集団はほぼ完全に解体してしまったと言っていいでしょう。法律的根拠に基づく社会教育主事制度がそういう実態にあるなか、公民館主事の専門職集団化の課題については、制度批判に終始するのでなく、現実の実態をふまえながら克服していく道を考えていかなければならないでしょう。 『公民館ハンドブック』では公民館職員について、第5章に取りあげ、そして第4章7「スタッフ」論等が提起されています。今後にむけての公民館を支える職員・スタッフの体制をどう構築していくか、基本的な課題だと思います。
6,行政主導の体質と政策動向
第三には、公的セクターに位置づいてきた公民館の行政主導の体質について。上から「施し設ける」施設、行政が提供する施設を、どうやって市民的公共空間に変えていくことができるか、どういう風に市民の参加論を取りいれていくかという挑戦が様々行われてきました。私は1973年の東京「新しい公民館像をめざして」にかかわり、いわゆる三多摩テーゼの中で「参加」という言葉を積極的に使いました。大事な問題提起となったことを自負していますが、しかし参加論については、市民の立場からは批判があったことも知っています。この場合の「参加」論は、所詮、行政主導の公民館にどう住民を参加させるか、つまり客体としての住民の位置づけは基本的に変わらないではないか、という批判です。そういう行政と住民の間にみられる体質的な従属的関係をどれだけ払拭できているのか、別の言葉で言うと真の住民主導論、市民自治論がない、という批判です。
三多摩テーゼは30数年前のものですから、当時としては公民館体制が貧困な三多摩の公民館の状況を改善していくために、公的条件整備をどのように一歩前進させるのか、という観点で書かれているところがあります。その課題をふまえつつ、市民がどうやって市民的公共性を拡大させていくかという志向性はやはり弱かったと言わざるを得ません。これは三多摩だけに限らない。行政主導の公民館体質と、利用者としての市民の参加という関係がやはり固定化してきた歴史がある。行政主導で参加論をふりまく、参加論の裏側に内在する従属論、といった側面があるのではないか。個別の努力が様々あることは承知していますが、この60年の間に、そういった体質を大きくは脱皮できないでいるのではないでしょうか。
かたちの参加ではなく、実質的な市民主導による施設に向けてどんな変化が求められるのか、そこにおける行政や専門職員のかかわり方はどう発展していくのか。その実像を私たちはまだ画ききれていないように思います。しかし、私のせまい知見だけでも、ドイツの社会文化センターにおける市民主導の活動や専門職員・スタッフの役割は実に興味深いものがありますし、最近の韓国の市民運動の中で取り組まれている施設づくりたとえば小さな図書館づくりや、台湾の「社区総体営造」とよばれる地域づくり運動や社区大学の取り組みなどには、刺激されるところが少なくありません。そういう外の事例をみながら、日本の公民館の行政主導の体質を脱皮していく方向を模索していきたい。この60年の節目にあたって、あらためて考えてみるべき課題だと思います。
あと一つ、第四の問題として、公的セクターの政策動向の問題があります。行政セクターによって設置されている公民館ですから、当然のことながら、公権力の政策の在り様によって、公民館は運命を左右されるようなところがあります。市民の学習や文化活動のエネルギーが活発であっても、公民館にかかわる政策に逆風が吹けば、冬の時代に入ってしまう。最近の新自由主義路線による規制緩和や民営化の政策がいい例です。具体的な展開として指定管理者制度の導入があれば、展開如何によっては、公民館の命運を大きく決定するような事態になってしまう。あるいは教育委員会制度の見直し問題、自治体の行政改革、市町村合併問題など、行政が変転すれば、その時点で公民館も運命の分かれ道に直面させられる。公的制度化のもとに歩んできた日本の公民館の宿命的な問題でしょう。それにしても、政策動向の及ぼす比重がなんと大きいことか。公民館の行政が衰えると、公民館は亡ぶ、という図式です。
しかし公民館の命運を左右するものとして、見失ってならないのは、公民館にかかわる市民セクターの要因があるはずです。むしろ基本的には公民館を支え担う市民の活力があれば公民館は実質的に躍動していく。市民栄えれば公民館栄える、そんな関係構図を創り出していきたい。そこから逆に政策と行政のあり方を問いかけていく。その意味でも、あえて市民主導の公民館へ、市民の視点に立って公民館を再創造しよう、脱皮させていこう、その方向を真正面から考えていきたいと思います。
指定管理者の問題は今年の九月に決着がつくようですが、実は問題はこの時点から始まるわけです。命運にかかわる問題について、公民館の当事者そして主体としての市民が直接に関与できない仕組みになっている。指定管理者制度が導入された場合、委託や管理、運営や事業のあり方について何を求めていくか、公民館としての基本を継承させ、これまでの蓄積を発展させる、これからの可能性を拓いていく努力が必要です。政策・行政のあり方を厳しく問いながら、具体的な諸課題についての取り組みが急がれなければなりません。これまで行政的に整備されてきた施設・設備や職員体制の問題と並んで、公民館が蓄積してきたものは何かと問えば、公民館にかかわる市民の学習と活動のエルルギー、そのネットワークです。それがもう一つの軸となる。この視点をもたないと、公民館の展望はみえてこないのではないでしょうか。これからの歩みの展望と見取り図をつくっていくことができるかどうか。
7,公民館の蓄積はなにか−市民の視点から考える
ほぼ予定の時間になってしまいました。レジメの項目にしたがって、これからの課題や視点について簡潔に申しあげます。いま述べたように、公民館60年の蓄積を、公的制度化や条件整備の水準だけでとらえない。視点を大きく転換して、市民・住民の視点をもって、地域の公民館の蓄積を考えていこう、という提案です。公民館に市民がどのようにかかわっているか、公民館を担う主体としての市民の力量、市民とその集団のネットワーク、いわば公民館の市民セクターの蓄積を考えてみる。私たちの『公民館ハンドブック』をそういう視点をもって読み直してみると、秘められた宝を発見できるように思いました。これまで公民館の事業あるいは職員の専門的力量ととらえていた実践は、実はそのまま市民の活動であり、そのネットワークそのものであるということ、分かりきったことを再発見しました。公民館の施設・設備や職員体制はそれらの大事な条件です。
『公民館ハンドブック』の第6章「利用者・住民」、第7章「事業・編成」、第8章「方法・技術」はとくにこの本の目玉といってよい。つまり公民館を担う主体論、実践論、方法論です。これだけのことを公民館はやってきた。それらを担っている主体は市民・住民。詳しく事例を取りあげる時間がありませんが、たとえば信州・松川町「健康を考える集会」は、公民館が企画し経費を用意し、職員や関係機関の努力によって成功してきたと考えられますが、観点を変えてみれば、松下拡さんが書いているように、それはまったく「住民主体」の活動なのですね。住民の取り組みを後ろから、横から、支え繋ぎながら、保健師さんや栄養士さんや病院の方がいて、そして松下拡さんという社会教育主事がいるのです。
この本に紹介・収録されている実践事例をそういう観点から捉えなおしてみると、私たちはたくさんの蓄積をもっていることに気づきます。もう一つの例、大阪・貝塚市の報告、村田和子さんが書いておられますが、『公民館ハンドブック』246〜47頁の「貝塚市ネットワーク構造図」は実に興味深い。貝塚は人口10万たらず。最初は公民館は一つしかなかったのですが、その後に二つ三つと公民館を増やしていきます。そこに職員を採用して、専門職配置の体制もつくるのですね。これはいうまでもなく自治体としての蓄積です。その公民館で、子どもの発達支援、子どもにかかわる文化、女性の学びと生き方、高齢化社会にむけて、といった学びの事業が重ねられていく。そこからいろんな市民グループが生まれていく。さらに学習グループの連絡会や新しいネットワークに発展していく。たとえば「子育てネットワークの会」「豊かな老後をめざす会」さらに「安心して老いる連絡会」など、さらにNPOとしての活動も始まっていく。1990年代から2000年代へかけての市民活動の躍動がみられます。公民館の事業や職員の役割はもちろん重要なのですが、それが市民の学びを拡げ、その集団化とネットワーク化の拡がりに発展していく。そこに貝塚の公民館活動の独自の蓄積をみることができます。
このような視点で、他の自治体の場合でも、公民館と市民の活動の見取り図あるいは展開図、貝塚の表現で言えば「ネットワーク構造図」を画くことができるのではないでしょうか。もちろん個別の違いはあるでしょう。しかし、さまざまの拡がりや蓄積を発見することになるだろう。挫折や停滞を含めて、それを克服していく課題や展望を考えることにもなるだろう。秘められた宝はおそらく足元にあるのではないか。市民にとっての公民館史をさぐりながら、これからの可能性を画きだしていきたいと思います。
私たちはいま視点の転換を求められているのではないか。着目を変えるところから新しい発見が生まれ、それは次なる創造へと結びつく。研究もまた視点を変えることによって再発見があり次のステップに発展していくものでしょう。私は“再発見”という言葉が好きで、編集した本の書名にもしましたが、あらためて公民館の再生と可能性を再発見する視点を大事にしていきたいのです。
8,NPO、集落公民館、コミュニテイ施設の研究
あとはレジメの項目を読むだけにいたします。市民・住民の視点から公民館の蓄積と発展を考えようとする場合、公民館にとって重要な研究課題がいくつか浮かびあがってきます。『ハンドブック』にも詳しく指摘されていますが、とくに4点ほど取りあげておきました。
一つは、公民館にとってのNPOの研究です。NPOがこれからどんなに展開をとげていくか、公民館との関連で重要な研究課題とすべきでしょう。いまNPOは、とくに行政のパートナーシップや協同やコラボレーションなどと言う場合、胡散臭いところがあり、行政の合理化や下請け団体に堕している現状もあります。しかし大きな視野から考えると、公民館が機能していく地域の未来や、全体としての市民社会の成熟とかかわって、NPOの可能性を追求していく必要がある。NPOとしての市民的ネットワークの拡がり、そのミッションへの取り組み、市民的公共空間創造の努力など、市民の視点から公民館を考える立場からすれば、課題を共通にするところがありましょう。
二つには、集落公民館あるいは自治公民館についての検討です。小さな地域の自治、そこでの住民の学びと地域づくりというテーマは、ここ数年取り組んできましたが、実は公民館にとっての大きなテーマです。学会の理論研究のなかでは、これまで不当に軽視されてきた経過があります。集落は、すでに解体していく流れにあり、住民自治組織は空洞化し、古い組織として残存して行政下請け化しているという固定的な捉え方がある。自治公民館は古いものだという近代主義的な決めつけです。集落は同時に住民連帯的な自治の可能性も内包している。自治公民館はその両面をもっているわけで、一面的な評価はではその実像がみえてきません。事実として、全公連調査によれば全国に7万7千という集落公民館が存在し、また沖縄の字公民館にみられるような活発な展開があり、松本でも「町内公民館」の実績が注目され、大きなレポート集もつくられています。
沖縄をフイールドにすると、公民館研究は公立公民館よりもまず字公民館への着目から始まります。公立公民館がなし得ないような可能性を字公民館はもっている。祭り、鮎を川に呼び戻す運動、環境問題への取り組み、子育てやお年寄りを支えるユイマールなど、まさに住民主体の活動です。そこに光をあててみると、古いどころではない、きわめて現代的な課題に挑戦している実践と活力を発見します。公立公民館の制度化のもつ負の側面を逆照射するような住民の生き生きとした活動が見えてくる。地域福祉の問題とも関連して、公民館研究として重要な研究課題です。
三つには、法人公民館の問題。『ハンドブック』では益川浩一、水谷正のお二人が興味深い報告をされています。事例は少ないけれど、法人公民館の実態と可能性についてもっと注目すべきだということを教えられました。
四つには、とくに大都市部の関連するコミュニテイ施設、あるいは公民館をもたない地域の諸施設、そこでの多様な市民活動について注目していきたい。公民館研究の蓄積をもちつつ、視野を拡げてコミュニテイ活動、近隣自治、地域ガバナンスなど新しい視点から
考える必要もありましょう。都市の小さな地域の学びとコミュニテイづくりについては横浜・磯子区の伊東秀明さんがここ数年挑戦されています。そのような視野の拡がりをもって、あらためて公立公民館の可能性をとらえなおしていく、また地域のなかの学校の役割や福祉施設等との関連など、複眼的に検討を深めていきたいと思います。
9,第六世代の公民館論へ向けて−これからの課題
公民館の発達論や第五世代論を提起したものとして、第六世代としての公民館論を論じてみたい、その視点や課題を出し合ってみたい、と考えていますが、いまその余力はありません。今後の検討のためのポイントとして、以下、5点ほど項目的に申しあげて、まとめにかえることにいたします。これまでの蓄積を活かしながら、市民主導型ともいうべき公民館へのイメージ、そのキーワードとも言えましょう。
@公民館運営・事業論における市民主導への脱皮。
A市民の主体形成に基づく市民のグループとネットワークづくり。
B新しく問われる行政のあり方としての支援。
社会教育行政だけでなく、生活全体にかかわる市民の要求や課題に対応して、福祉、環境、保健、産業といった関連行政による支援ネットワークとそのなかでの公民館の位置づくをどう考えていくか。
C職員の在り方の転換。「伴奏者」としての職員。
「伴奏者」は、フランス研究をやっている末本誠さんがしきりに言っておられることですが、「伴走者」とも表現していいように思います。市民活動に随伴しながら、あるいはその伴奏者として、職員の固有のあり方を追求していく必要がある。その役割論あるいは専門性論をどう組みたてていくかが課題になりましょう。
関連して『ハンドブック』のなかでは佐藤進さんが「スタッフ集団論」を提起しています。また専門職員の、あるいは専門家の専門性に対して、NPO関係者は「市民的専門性」を指摘しています。これまで行政的、制度的専門性が大きな課題となってきましたが、市民的な立場からの独自な専門性、いわば「実践知」あるいは「生活知」「地域知」としての専門性とも言うことができましょうか。単なる教養知をこえて、実践的な提言や、市民的な精神や共生、連帯の思想を含む視点がNPO関係者の中から提起されていることに注目したい。市民主導型の公民館における職員の役割は、この市民的専門性とどのように関わってくるのか、その関連性を考えていく必要がありましょう。
D地域の再生と社会的マイノリティへの取り組み。
時間もオーバーしてしまいました。以上、終わりの部分は大急ぎの話になりましたが、『公民館・コミュニテイ施設ハンドブック』を理論化のためのデータブックにして、さらにこれからの課題を深めていきたいと思っています。
あらためて本日の集いにご参加いただいたことにお礼を申しあげます。どうもありがとうございました。
追記・謝辞:
公民館60年の歴史をふりかえり、いま当面する現状を分析しつつ、これからの展望をさぐるという課題について、与えられた時間では充分に追求することができませんでした。とくに終わりの部分は、時間超過のため、まさに脱兎の有様、申しわけありません。
不充分な表現について補筆・微調整の作業をいたしました。その際、あわせて終わりの「これからの課題」について加筆することも考えてみましたが、講演記録に即して論議をいただく企画でもあり、あえて不充分のまま、掲載させていただくことにいたします。ご了承下さい。多くの方々からご批判、ご教示をいただき、さらに「公民館の未来」について検討を深めていくことができれば幸いです。
最後になりましたが、テープ起こしの労をとっていただいた上野景三氏(佐賀大学)に感謝します。(小林)
▲公民館60周年のつどい(終了後)懇親会 (20060701、於:中央大学理工学部)
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