ぶんじん自分史(メモ1)
*出典:「南の風」など、カッコ内に注記   *自分史メモ2(2016)→■








博多・山笠            (南の風第2692号:2011年7月16日)

 サッカーの女子W杯「なでしこ」の準決勝は7月14日の深夜番組、というより未明の放送。それに今日(15日)は午前5時(NHK BS)より、博多山笠の実況でした。太陽が照り始めてようやく床につきました。
 ぶんじんは、博多山笠「大黒流」に縁があり、山笠の法被・ハチマキ姿の満一歳の写真が残っています。祖父母は博多・川端通(いま町並みが姿を消した)で呉服商。初孫の出生を喜んで、山笠の装束で祝ったようです。赤松屋という屋号の呉服屋でした。1945年の博多大空襲で焼失しましたが、戦後は再建して下新川端通り(いまの博多座のところ)の中心で賑わっていました。ぶんじんは正月も盆も博多で過ごす年が多く、学生時代は呉服屋の手伝いをしていました。自ら系譜をたどれば、博多商人の血をひき、また筑後農民の末裔でもある、とひそかに自負してきました。というわけで、山笠の実況放送ともなれば、寝るわけにはいかないのです。…


百道海水浴場       (南の風第971号:2002年12月3日)

 …研究会々場の九州大学国際研究プラザは、私の少年時代の懐かしい道、百道(ももち)海水浴場へ行く途中、樋井川沿いであった。大通りのチンチン電車(地行西町)を降りて、この川沿いを少し歩けば、昔はかなり広大な松林があって、白い砂浜が続いていた。前に能古島、後に志賀島、遠くに玄界島もみえて、そのあたりからよく夕立雲が涌きあがっていた。
 二日がかりの長時間の研究会、その議論に疲れては、私は窓辺により、横の桶井川に汐が満ちてくる様子、川をのぼる「うねり」に昔を想っていた。
◇電車道駆けて下れば磯の香の 百道の浜の夏のざわめき
◇少年ら歓声あげて飛びこみし その海遠く弟も亡く
◇かき氷水飴西瓜卵焼き 祖母のつくりし鰊とおむすび
◇桶井川を汐満ちうねりのぼりゆく この川上に旧家はありき


旧・国民学校の同窓会、57年ぶりの再会  (南の風第770号:2001年11月12日)

 いま福岡です。11日は亡弟の納骨。無事に終わりました。
 その前日、たまたま1944年3月「国民学校」(現在、久留米市立荘島小学校)を卒業した旧友たちが「70歳記念」の同窓会を計画し、卒業して初めて、男女あわせて197名のうち53名の“級友”が集いました。
 私のクラスは男子52名。そのうち判明しただけでも17名がすでに死亡し、他に連絡がとれず消息のないもの11名、あらためて半世紀の歳月を実感させられました。同窓会のプログラムは「一同、黙祷!」から始まりました。
 久留米は1945年8月11日昼、米軍の大空襲を受け、市街地の大部分を失った悲劇の街。8・15のわずか4日前です。なかでも私たちの校区は被害がもっともひどかった一帯です。
 私の家はかろうじて焼け残った地域でしたが、その1年前の、軍需工場(BSなどゴム三社)周辺の疎開道路づくりのため、生家は軍隊によって引き倒され、周辺の懐かしい家並みは崩壊。それに加えての大空襲によって、旧友たちは文字通り四散してしまう、そんな地域史をもっているところです。
 戦後になると、ともに中学から高校に進んだ仲間もいますが、卒業以来はじめて顔を合わせる旧友も少なからず。胸の名札でお互いを確認しあいながら、手を握りあい、昔を語りあいました。
 クラスには一人の朝鮮人がいました。名簿に残っていません。どんな事情で、どんな経過で久留米に来たのだろう、いまはどこで、どうしているのだろうと気になってきました。聞いてみても誰も知りません。ひとつの現代史、その朝鮮の友人にとっては、かけがえのない「自分史」。
 カラオケの時間になって、ある友人が「サランヘ」を歌いました。私も口ずさみました。あれから、もう57年目だ、と思うと、つい胸にせまるものがありました。


幼な友・大鶴泰弘くんの思い出(大鶴春子さんへの書簡 1993)

 拝啓 この度、黒岩高明兄より『風と土といい汗と』(続・私の帰園田居)を送っていただきました。拝読し、あらためて大鶴泰弘くんの「房総生活十余年」の生きざまと思想を知りました。教えられるところあり、共感するところも少なからず、なによりも遠いところに離れてしまっていた「やっちゃん」が目の前に座っていて語りかけているような幻覚さえ感じました。思わず御礼の筆をとった次第です。有難うございました。
 私たちは小学校(久留米市莊島尋常小学校・当時)時代からの文字通りの幼な友だちです。同じクラスでした。家も近く、あの懐かしい白鳥神社ちかくの旧居によく遊びにいきましたし、彼も私の家に遊びに来てくれました。私たちはその当時親しみをこめて「やっちゃん」と呼び、大鶴くんは私を「ぶんちゃん」と呼んでくれました。早くに亡くなられた弟さんと私の弟がまた同級生だったこともあったのでしょう。「やっちゃん」はクラスのなかで抜きんでた秀才であり、また腕白のガキ大将でもありました。
 中学(旧制中学・明善校)にも一緒に進学しました。昭和19年の春です。『風と土といい汗と』のなかに登場する「一九会」の仲間との出会いです。明善に入ってからも私たちは一緒に戦後初期のバレ−部(排球部と称した)に参加しました。大鶴くんは九人制チ−ムの中衛センタ−、私は後衛でした。頼もしいチ−ムの要でした。当時はユニホ−ムも手づくり、ボ−ルも貴重品、そして食糧難、いつもお腹をすかしながらの練習でした。はじめての対外試合でもろくも負けたことをよく覚えています。
 しかし大鶴くんはしばらくしてバレ−部を離れました。明善校は、昭和22年に旧制中学から新制高校へ切り替わり、私は高校3年の最後の年(それも大学受験の3ヵ月前)までバレ−一筋でしたが、「やっちゃん」は私の前からふっと姿を消した感じでした。退部が何年のことだったのか、記憶が定かではありませんが、その頃から、大鶴くんは私の知らない世界に積極的に飛躍し始めたように思います。持ち前の活発かつ果敢な精神活動はバレ−だけでは飽き足らないものがあったのでしょう。さかんに本を読み、絵をかき、あるいは政治的な意識にしても当時の高校生とは思えぬ激しい一面があったように記憶しています。
 戦後の混乱期、まだ本がなかなか手に入らなかった頃、教師をしていた私の父の(わずかな)蔵書を彼はよく借りに来ました。「大鶴くんを見習え!」と亡くなった父は私に言ったものです。しかしその頃にはすでに、思想的に発達がおそい私などを置いてきぼりにして、大鶴くんは新しい世界へ飛び出して行ったのでしょう。
 その後、東京へ出た大鶴くんとはゆっくりと語りあったことはありません。振り返ってみると、小学校1年からの“出会い”の後、10年ほどの“竹馬の友”のつきあいを経て、いつの間にか別れてしまったようなものです。
 その後『私の帰園田居−ちょっと早めの後半人生出発記』(1984年)を送っていただきました。お礼の手紙を書きながら、その時も思ったことですが、そのうち、当時のこと、久留米のことなどをゆっくり語り合いたいものだ、きっとそのうちいい機会も出来るだろう、などとのんびり構えていました。そんな折り、治療に行った井上歯科医院で、突然の悲報を聞きました。もうお葬式も済んだ後のことでした。私は、大鶴くんが入院を重ねて闘病中ということも知りませんでした(こんどの『風と土といい汗と』のなかの名文「夫と共に過ごした房総生活十余年」を拝読して初めて詳細を知りました)。誠に申し訳ありません。そしてまた、私にとっても大事な幼な友だちを失ない、なんとも口惜しく、残念というほかありません。
 私は、大鶴くんが映画制作の第一線で活躍していたことを自慢にしてきました。おそらく最も華やかなりし頃(私自身は研究室でまったく貧乏だった頃)、一度、夜の新宿でご馳走になったことがあります。あらためて偉大な友をもったものだと驚嘆しながら、九州に帰ったことがあります。
 東京のいまの職場に出てきて(1967年)からは、しばらくは全く会う機会がありませんでした。そんなとき忘れもしません、早稲田通りのカレ−のお店でばったり会いました。私は、学会かなにかで、早稲田大学に急ぐ用があり、思わず飛び込んだ店が大鶴くんの店でした。この時はほんとに驚きました。髭をのばしていた顔はすぐには大鶴くんとは分からず、彼も中年の私をまじまじと見つめながら、確かめるように「おまえはもしか小林ではないか」と言ったように記憶しています。お互いの奇遇を喜びました。しかしこのときは時間がなく、挨拶だけで、ゆっくり話す余裕がなく、失礼してしまいました。その後、一度カレ−店を探し訪ねたのですが、もう分かりませんでした。
 その後、「一九会」で一度は会ったように思います。私はいつも不熱心な参加者で、何年前かにやっと出席したとき、久しぶりに再会しました。しかしこの時も、ゆっくりした話はできませんでした。
 今となっては、もう、再び、過ぎし若き日を語り合うことは、永久に出来なくなりました。
はるか50年前の友情に感謝したいのに、もう「やっちゃん」は、この世にいないのです。
 お詫びと御礼の一文のつもりが、思わずいろいろのことが想い出されて、長くなってしまいました。お許しください。
 ほんとは墓前に参上すべきところですが、雑事に追われて失礼いたします。同封のもの些少ですが、「やっちゃん」にお花などお供え頂ければ幸いです。
 遅ればせのお悔やみを申しあげ、奥様のこれからのご多幸を心からお祈りいたします。
                                  敬具   1993年5月5日 


少年Bの12月8日・1941年  (南の風2782号 2011年12月8日)

 70年目の12月8日がめぐってきました。1941年のこの日、早朝からラジオ放送の異様な雰囲気、「臨時ニュースを申しあげます!」で始まった太平洋(大東亜)戦争開始の日、少年Bは10歳でした。
 興奮の1日という印象が残っています。この日から学校が戦時下の体制に大きく変わりました。校庭・奉安殿の前に整列、皇居遙拝、訓辞を聞いたあと、隊伍を組んで近くの氏神様へ戦勝祈願、8日(「大詔奉戴日」と言ったような)にはそんな行事が毎月行われました。恭しく“奉読”される開戦の詔勅を今でも少し憶えています。「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ、昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス。… 億兆一心国家ノ総力ヲ挙ゲテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ」など。
 学芸会では、真珠湾攻撃が演じられました。また12月10日のマレー沖作戦で、シンガポールに到着したばかりの英戦艦が撃沈された“大戦果”を称える劇も。少年Bは「プリンス・オブ・ウェールズ撃沈」「レパルス撃沈!」と叫ぶ役を割り当てられて、二つの戦艦名を懐かしく思い出します。
 1年ほど過ぎると、状況がだんだんと厳しくなっていきました。物資難、食糧難、配給切符、金物供出、学童疎開、灯火管制、防空訓練、出生兵士を送り遺骨を迎える動員などなど、楽しい回想はまったくありません。そして生家が軍需工場周辺の強制疎開で引き倒され、1945年になると勤労動員(旧制中学校生徒)、米機空襲による被災へと続くのです。


75年目の12月8日   (南の風3766号 2016年12月9日)

 1941年の12月8日、太平洋戦争が始まった日。それまでは満州事変(1931年〜)、支那事変(1937年〜)と呼んでいた日中戦争が、この日の真珠湾攻撃から「大東亜戦争」(対米英蘭中・戦争)と称することになって、遠くにあった戦争は一気に毎日の暮らしに入り込んできた感じでした。
 あのとき、少年Bは小学校4年生でした。生まれた年(1931年)から「十五戦争」のなかで育ってきた世代なのに、「事変」は戦争ではないような錯覚を憶えています。しかし、12月8日からは、すべてが戦争に支配されていったのです。敗戦まで4年間、8月15日への記憶は深刻に残っています。
 九州の子どもたちには「学童疎開」はありませんでしたが、軍需産業のまわりの家々は「強制疎開」で引き倒されました。その日のことは生涯わすれません。生家はなくなりレンガの蔵だけ残って・・・あとは道路。少年たちは陸軍(需品廠)の労働力に動員され、そして無差別の大空襲に見舞われ、やっとの思いで、8月15日にたどりついたのでした。
 沖縄の少年・少女たちが地上戦で斃れていったことを思えば、生きて戦後を迎えることができただけでも幸せというべきでしょうが、戦争とは無残なもの。沖縄戦下「ひめゆり教師」として生きた仲宗根政善先生の歌を一つ添えます。
◇二十人にただ四人生く、百九十四人の教え子帰らず(『蚊帳のホタル』1988)


空襲警報と怪我の功名ー1944年8月の思い出
                    明善一九会五十周年記念誌「青春の饗宴」(2000年)

 戦時下の久留米空襲といえば、1945年8月のことですが、その前年、つまり僕らが中学明善校に入学した1944(昭和19)年に、空襲の犠牲者がいたことを知っていますか。1944年8月20日と記憶していますが、私にとっては忘れることができない少年時代の忌まわしき体験となりました。
 その数日前から、私たち兄弟は、父に連れられて、博多・川端の親戚に遊びに行っていました。その日「警戒警報」(こんな言葉を知っている世代も少なくなった)が出て、まちは騒然、あわてて西鉄電車に乗って、久留米へ帰りました。その途中で「空襲警報」に変わったかと思います。  
 当時すでに、サイパンの日本軍守備隊全滅、東条内閣総辞職(7月)という時期です。しかし博多のまちも、久留米も、あの懐かしい家並みがそのまま残り(しかし翌年6月、8月に焼失した)、市民生活もまだゆとりをもっていた頃です。そこに慌ただしい空襲警報です。中国(重慶)からのB29・北九州爆撃の日ではないか、と思います。
 ようやく家にたどりつき、空襲警報にせかれ急いで(表からではなく)裏の蔵の門から入ろうとしました。あいにく門が閉まっていて、古い煉瓦塀をよじ登り、降りようとした途端、古いレンガの塀もろともに崩れ落ちました。頭部から大出血、大腿骨の骨折、大怪我でした。
 ただちに旧旭屋デパート裏の整形外科に担ぎこまれました。リヤカーに乗せられ、それを引く顔面蒼白の父が思い出されます。それから約2ヶ月の入院生活となりました。8月20日の「空襲警報」米機来襲(久留米には焼夷弾の1発も落ちなかった)によるただ一人の犠牲者と言われました。(その後、旧宅は工場「日華ゴム」周辺「疎開」のため日本陸軍の手で引き倒され、道路となり果て、道の横にいま古い煉瓦の蔵だけが残っています。)

 私は明善校に入学して1学期を終わったばかりで、長期入院・療養の身となったわけです。今でも当時の無念の毎日を思い出します。いっぱしの軍国少年だった小林は、入学するとすぐに射撃部に入部し、村田銃や三八式銃などの装填を習い、空砲を打たせてもらって感激し(実弾射撃の体験はない)、軍人勅諭も丸暗記して、来るべき陸軍幼年学校の受験に備えていたのでした。そんなことが全部出来なくなったのです。特に熊本・幼年学校受験の機会を逸したことは、自分の将来はもうない、と思いつめるほどの失意を招きました。誰か見舞いに来てくれて、「来年(中学2年)もあるから頑張れ」と言ってくれたことなどを妙に記憶していますが、「骨折した方の足が数センチ短くなっているからもう駄目だ」などと自虐気味でした。足の長さはその後に回復したようです。
 2ヶ月あまりの苦しいベッド生活、退院後もすぐに学校には行けず、しばらく父(柔道教師)からリハビリを受けたあと、松葉杖での登校でした。もう11月になっていたのではないかと思います。ですから、東京一九会会報「旧友通信」が特集していた12月「宮地嶽海洋訓練」にも参加できませんでした。いや、これには参加しなくてよかったようなものですが、当時は自分だけが遅れをとっているという意識から、この期間中はまことに無念の毎日だったのです。
 そして1945年に入ると、戦局は最終段階に向かい、本土決戦が叫ばれ、われわれ「銃後の青少年」も足にゲートルを巻き、勤労動員(善導寺・陸軍需品廠)にかり出され、そして8月11日の久留米空襲、15日「敗戦」を迎えるというわけです。

 明善入学早々の半年ちかくの空白、その影響はかなり大きいものがありました。学力などは、当時みな勉強することができなかった時代ですから、大したことはなかったのですが、何より体力・運動能力の遅れが打撃でした。走ることができるようになるまで、かなりの時日を要しました。
 それからすでに50年余り。振り返ってみて、この大怪我と入院によって、私は明善時代の苦しい出発を強いられたのですが、しかしよく考えてみると、これがいろんな意味で貴重な体験と大きな転機を与えてくれたことに気づきます。
 まず入院の体験で、すこし少年から青年に脱皮したように思います。なんとか頑張ろうという意識を持たせられました。それから、ベッドの2ヶ月、父はあれこれと本を運んで来てくれたのですが、はじめて自覚的に本を読むようになりました。といっても、父の本棚をほとんど読み尽くした故大鶴泰弘(私たちは小学校時代からの幼なじみ、バレー部初期の仲間)には及びもつきませんが…。
 何よりも、陸軍幼年学校を受験できなくなったことが、当時は大きなショックでしたが、時間が経ってくると、結果的にはまさに逆転して「よかった」のではないかと思っています。当時ある先生は「君はきっと入学できるだろう」と激励してくれ、私自身は幼年学校や士官学校の制服にあこがれ、なんの疑問もなく軍人の道を志していたのです。私のように多少(悪い意味で)生一本な性格の人間は、当時の強烈な軍国主義による少年教育を受けた場合、おそらく戦後的適応は大変だったのではないか、と恐ろしくさえなります。 
 そしてあと一つ、大怪我をしたことから、なんとか体をつくろう、半年の遅れを取り戻して皆に追いつこう、とひたすら努力したことです。なにか運動をしようと考えました。あるきっかけがあって、かなり早い時期にバレー部に入部しました。明善の戦後バレー部創設にはじめから参加するかたちになりました。旧制中学の終わりの頃から新制高校の卒業まで約4年間の私の青春は、すべてバレー部活動にあったといっても過言ではありません。だから学習面では、あまり真面目ではありませんでした。3年まで対外試合にも出て、受験勉強はせいぜい3ヶ月ぐらい集中した程度です。それでも、すんなり大学へ進めたのは「進学適性検査」のおかげだと思っています。
 私の小学校(荘島)時代の恩師・故伊東国守先生は、旧福岡師範からのバレーの名選手でした。その影響が多分にあったのでしょう。バレーを通して、いろんな人にも出会い、社会的な経験や訓練も受けました。とくにチーム・プレーの経験は、その後の私に、集団のなかでの個の役割とか、仲間とともに活動する思想や方法とか、友情と連帯などを知らず知らずの間に鍛えてくれたようです。バレーというスポーツとチーム・プレーが、私の人間形成に与えた影響ははかりしれないものがあると自覚しています。とてもここでは書ききれません。そして体を鍛えることができたのです。
 明善の想い出は、大怪我からはじまり、怪我の功名で、元気と活力を逆に獲得できた歳月。その後まったく入院など病床に臥すこともなく、今日まで健康に過ごすことが出来ました。明善への感謝は、私の場合、友人・仲間との出会い、バレーとの出会いです。


6月の戦時体験・1945年   (南の風3513号 2015年6月20日)

 70年前の6月。沖縄戦は末期を迎えていました。同じ頃、少年Bは九州の筑後川沿い耳納山中で、日本陸軍の勤労動員学徒として働いていました。家では毎夜の灯火管制・空襲警報・庭に掘った防空壕の生活が多くなり、連夜の真っ暗な生活。昼は米軍艦載機の来襲に逃げまどう日々。配給制度の破綻により毎日の食べ物に困窮していた時期でした。
 それでも家族揃って(父は教師、軍隊への召集を免れていた)防空壕に退避した夜、蝋燭の灯に肩を寄せあった雰囲気は、つらいながらも懐かしい思い出につながるところがあります。どちらかと言えば幸せな部類の戦時体験だったかも知れません。でも、7月を経て8月、広島・長崎の原爆ニュースが伝わり、久留米大空襲(8月11日)の時点になると、忘れることができなない、悲しい戦時体験となりました。
 沖縄の1945年6月の戦争記録に接すると、九州・少年Bのつらい体験など吹っ飛んでしまう厳しさ。沖縄各地で家族バラバラとなり、文字通り戦火に巻きこまれていった現実。「沖縄タイムス」が社説として掲載している「地に刻む沖縄戦」記録(6月15日「ガマ 住民が見たものは…」上掲)を読むと、家族揃って6月を過ごした例などほとんど皆無に近いと思われます。「糸数アブチラガマ」では、「…奇跡的に生き延びた住民と負傷兵がガマから出たのは、沖縄での組織的戦闘が終わり、日本が降伏した後の8月22日のこと」「悪臭漂う暗闇に5カ月もの間、隠れ続けていた」と記されています。
 少年Bと同じ世代の沖縄「青少年」は、「鉄血勤皇隊」「ひめゆり隊」等の学徒隊だけでなく、旧青年学校生徒などは防衛召集されて、陸軍中野学校出身の将校を隊長とするゲリラ部隊「護郷隊」に編成された歴史があいます。苛烈な戦闘体験を聞いた衝撃的な夜の記憶など忘れることができません。


少年Bの8月11日・1945年  (南の風921号 2002年8月15日)
           
 8月15日が来ると、あの年の真っ白の5日間を思い出す。自失の毎日、細かな記憶は空白、だが、歳月が経過しても忘れられぬ強烈な体験、奇妙な自分史の一コマ。いつぞや南の風にも書いたように、1945年8月11日は故郷・久留米の大空襲。生涯もっとも悲惨な1日。米軍の艦載機が群れ飛んで、ほぼ1時間前後で我が町は紅蓮の炎に包まれ焼け落ちた。天皇の終戦放送のわずか4日前だ。
 少年B(当時・旧制中学2年、13才)は、その日も学徒動員で陸軍需品廠の労役に従事していた。4月からは学校に通った記憶はない。毎日、足にゲートルを巻いて、久留米から東へ約10キロの善導寺へ狩り出されていた。久大線の駅から山中へ軍の需品(日常用品、「突撃イチバン」など)を運ぶ労働が主で、朝鮮半島からの(強制連行とおぼしき)青年たちと一緒に荷物を担いだ。彼らと少年たちとの間には妙な交流があり、アリランやトラジの歌をそのとき覚えた。6月になると(恐らく沖縄が落ちたからだろう)連日のグラマンなど艦載機の襲来があり、機銃掃射を受けて目の前で監督の江上(と記憶している)伍長が戦死した。実弾が“プス、プス”と土にささるあの音が耳にこびりついている。級友も二人、被弾して大怪我をした。少年Bの“戦場”体験だ。
 話をもとに戻そう。ほとんど毎日のように発令されていた空襲警報、この日も労役中襲われ爆音に怯えて穴に身を隠していたところ、誰かが「久留米が燃えている!」と叫んだ。小高い丘から見ると、はるか西方は見たこともない黒煙の太い柱が天まで立ちのぼっていた。晴れた日だったが、太陽も消滅し真っ黒の地獄の空。あの光景は生涯忘れないだろう。
 そこから少年たちは、山を駆け下り、黒煙の真下で燃えているであろう我が家を目指して、駆けに駆けた。遠い道のりを休まず駆けた。そして異様な臭いの焼け跡にたどり着いたのである。
 少年Bの生家は、その前年、軍需工場(当時・日華ゴム、いま月星ゴム)周辺の「疎開」作業で、久留米師団の兵隊たちの手で引き倒された。いまは道路になっている。その裏の小さな借家に引っ越していたが、辛うじて焼け残っていた。しかし、焼け出されたすぐそばの分家や近くの親戚などが転がりこんで、一夜にして20人前後の大世帯となった。
 みな着の身着のまま、はく靴もなく、食べるものもない。狭い家にどう寝たか、どう食べたか、記憶はまったく喪失している。すでに配給の機能は解体し、八女の農家の知り合いに食料の調達(買い出し)に行ったことだけ覚えている。
 その4日後、15日の正午にラジオから天皇の声が聞こえてきた。よく聞き取れなかったが、戦争が終わったらしいことは分かった。呆然自失とはあのときのことをいうのだろう。


少年B回想・8月のウツ  (南の風3139号 2013年8月14日)

 最近は同年輩の訃報が相次ぎます。それだけに戦争体験・戦時経験をもつ80代の世代意識(最後の世代)。他方では、海をこえて日中間の思わぬ軋轢、内には時代のイヤな保守化、歴史無頓着の政治発言など、少々ウツな気分にもなってきます。
 以前にも何度か、この時期「少年B」回想を風に書いたことがあります。1944年に旧制中学入学、当時13歳の少年Bは、国防色の学生服にゲートル(巻脚絆)姿で登下校していました。射撃部に入部、三八銃や村田銃を磨き装填を習い、誇りに思っていました。配属将校(各中学に1人、たしか陸軍中尉)の指導で「我国の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ…」に始まる「軍人勅諭」丸暗記。ところが8月20日の空襲警報下に思いもよらぬ大怪我(大腿骨骨折、長期入院)、夢にみた陸軍幼年学校受験はかなわず、軍国少年としては大きな挫折でした。しかし怪我の功名とはこのこと、かえって戦後に向けての煩悶は少なかったのです。
 1945年に入ると陸軍需品廠への「勤労動員」。そして8月11日(終戦4日前)に、久留米は米空軍による大空襲、市街地の多くが焼け落ちました。東北大震災・津波による町並み流失の光景は、直ちに久留米大空襲後の惨状、何も残らなかった焼け跡を思い出したものです。
 ぎりぎりのところで残った我が家は、焼け出された親戚など20人前後が避難する大家族となりました。少年Bは自転車を駆って、農家を回り25人の食糧買い出しに奔走。9月に学校へ通う生活に戻りましたが、裸足で歩いていました。


■≪70年前の8・15−あの青い空≫  南の風3538号【2015年8月15日】

 今年も8月15日がめぐってきました。あれから70年も経ったのか、というのが正直な驚き。少年Bは当時13才(数え年で15才)、旧制中学2年でした。前号の上平泰博メール「少年護郷隊」に関連して言えば、「…14歳から組織される国民青少年義勇隊が全国で組織化」された場合、戦役に動員されたかも知れない最年少の世代、危ないところでした。沖縄の「少年護郷隊」はまさに少年義勇隊の「先兵的、実験的なとりくみであった」(上平)。「国民義勇兵役法」公布は沖縄戦が終わる6月23日でした。
 1945年の学徒「勤労動員」中の少年Bは、間違いなく愛国・軍国少年。教育勅語だけではなく「軍人勅諭」さえも暗記し始めていました。「陸軍幼年学校」を受験したいと思っていたところに、1944年8月・空襲警報下の怪我(大腿骨々折)により入院加療を強いられ、志望挫折したのが“怪我の功名”。このことは自分史風に書いたことがあります。
 70年前の今日「8月15日」は、高い青空でした。虚脱感・敗北感とともに、言いしれぬ解放感がありました。食糧に餓え、物資窮乏にあえぎ、一時期は裸足(はだし)で外出していたことも。しかし日常化していた「空襲警報」発令はなくなり、「灯火管制」で真っ暗だった夜が、あの日から明るく輝いて、その煌めきと高揚感はいつまでも忘れません。高い青空と煌めく夜は少年Bのひとつの出発点となりました。
 翌1946年の混乱期を経て、47年には六三三制が発足。旧制中学から新制高校への切り替え。少年Bはバレー部(九人制)創設に関わり、あまり勉強などせず、体育館の片隅でタバコに手を出し、授業には出ず映画館に通うグループ。九人制バレーのレギュラーは、大学2年まで続けました。


少年Bの8月15日−69年目の回想  (南の風3354号2014年8月17日)

 南の風921号(2002年8月15日)に「8月11日・回想」を書いています。8月11日・久留米大空襲の悲惨な想い出、この11日から15日まで“真っ白”の5日間。そして末尾に「…その4日後、15日の正午にラジオから天皇の声が聞こえてきた。よく聞き取れなかったが、戦争が終わったらしいことは分かった。呆然自失とはあのときのことをいうのだろう。」と結んでいます。
 あの日の真っ青な夏空、妙に記憶に残っている油蝉の大合唱、正午の「玉音放送」を聞いた大人たちの涙、ありありと思い出します。戦争に敗れた悔しさ悲しさも伝わってきて、少年Bも忘れがたい日となりましたが、日常化していた米艦載機の機銃掃射や、防空壕生活、夜の灯火管制などからの解放感があり、当夜の電灯の光は生涯忘れない輝きと言えるものでした。
 そして8月後半、空襲で焼け出された親戚含めて計25人の食糧調達、数里離れた農家へのヨロヨロの自転車通い、荷台が重くなるだけ嬉しい汗だくの毎日となりました。同居の年寄りが少年にかける期待、長男としてのある種の責任感から、少年から青年へ離陸するような実感を覚えました。14歳の夏でした。
 69年目の回想として書き加えておきたいこと。8月14日夜TBS系列のNEWS23特集「人間ではないことをした94歳・元日本兵の戦場」証言、加害兵士として悲痛きわまりない告白でした。中日戦争・山西省へ派遣された軍隊が何をしたか、ここではとても書けない虐殺・性犯罪の内容。軍隊という組織がもっている非人間性、狂気そのものの命令への服従・・・。軍事訓練を受けた最後の?世代・少年Bは、あの時代と状況を人ごとでなく思い出して、しばし暗然と夜を過ごしました。


赤いレンガの蔵     (南の風1514号 2005年8月15日)

 8月11日(久留米大空襲)、そして15日がめぐってくると、毎年、何もしたくない。60年前のことが重苦しく、のしかかってくるのです。もちろん原爆被災とは比較になりませんが。歳月の経過とともに、忘却のかなたに記憶はうすれていく・・・・のではない。とくにここ数年、逆にあの夏の日がなまなましく甦ってくる。祖父母も、父も母も、またすぐ下の弟も亡くなって・・・、当時の少年Bは、いま家族・親戚で最年長となり、60年前のつらい時代を知る数少ない証人の域に入ってしまったからでしょうか。
 あの年の8月のこと、故郷・久留米のことなど、この時期の「風」になんどか書いたことがあります(第921号:2002 年8月15日、ほか)。
 最近の出来事を一つ。私の生まれた家は、60年前の非道な「疎開」で軍隊によって引き倒され、いま道路になっています。ただ一つ、赤い煉瓦の蔵だけが道路横にポツンと残っていますが、私たち家族にとっては戦時体制によって家を奪われた怨念の象徴みたいなもの。正確ではありませんが、おそらく19世紀末(少なくとも明治30年以前)の古いレンガ造り、少年の心の中に深く焼き付いてきたものです。
 そこに新しく道路拡張の線引きがあり、この赤煉瓦の蔵が壊されかねない運命に。道路計画は、九州新幹線にともなう取り付け道路との関連。福岡県と久留米市土地開発公社からの急な交渉。困りました。
 10日ほど前に、県と市から我が家(久留米市)にやってきた関係職員5人と向き合って、かっての少年Bは、60年前の疎開や赤煉瓦蔵にまつわる話をしました。若い皆さんは当時のことなど知る由もなく、まったく当惑の極み。この人たちにもちろん責任はないのですから。
 線引きのわずかの修正でレンガ蔵はなんとか救われそうですが、当方も疲れ果てて、あらためて60年前を思い出す8月となったのです。


福岡・油山の隠れ家    (南の風606号 2001年12月31日)

 年の暮れだから、何となく心あらたまるところあり、昔ばなしを一つ。私には、福岡・油山に小さな隠れ家がある。別荘という人もいるが、そうではない。なぜ隠れ家なのか。
 油山とは、博多の町からはどこからも見える、福岡市民にとってはなじみふかい山(約670m)。かってのピクニックや遠足などで子どもたちも遊びに出かけた懐かしの山(いま市民の森)。その周辺が宅地開発され、いま高級いや中級?程度の住宅地になっている。
 東京学芸大学に勤めていた頃、30年近く前になろうか、もう時効だろうから(仲間うちに)有り体に言えば、九州大学に移らないかと誘いがあった。とくに学芸大学を離れる理由などない、しかし九州はわが故郷、九大はわが母校。というわけで、麻生誠さん(現・放送大学副学長)など、学芸大学時代の同僚にも相談して、「参りましょう」という内諾の返事をした。しかし、当時の九州大学教育学部は、学内紛争の真っ最中(学生側の闘士は今をときめくM氏)、学部長からは「ここでご苦労を強いることになっては申しわけない、1年待ってもらいたい」という申し出。実のところ、こちら側としては大喜びして(半分は行きたくなかった)、1年延期を有り難くお受けした。
 しかし準備はしなければ、というわけで、その年、日本住宅公団が持ち家政策として開発していた油山の麓周辺の宅地分譲に申しこみ、運よく当選。かなりのローン(その頃、金利は高い!)を組んで、ささやかながら1戸建て自宅を完成させた。竣工の祝いの日には夏の激しい夕立があり、前途多難を予感させた。このとき、東大・院生だった末本誠がなぜか来てくれたことを思い出す。 
 住むべき家は出来上がったが、九州大学へ移る話は、いくつかの経緯あり(これはまだ時効ではない?ので詳細は省略)白紙に返った。そのまま東京の生活が今日まで継続することになって、かえって幸運?(たとえば「月刊社会教育」編集長の仕事も出来たではないかなど、小川利夫説)だったのかも知れないが、しかし、油山の家は無人のまま残ってしまった。
 持ち家政策の条件では、一定の年数が経たなければ売れない。数年は、盆や正月に(久留米の旧宅よりも油山の新宅へ)帰って新しい畳を楽しんでいるうちに愛着もわき、人には貸したくない。蔵書や家具類も次第に整えた。この家を建てたことは、とくに九州大学の関係者には内緒のこと(九大関係者を困らせたくなかった)、当初はごく親しい人だけ知っている、まさに「隠れ家」の存在だった。そして、早くも30年近くの歳月が経ってしまったというわけ。
 この家はいつも無人である。ときどき、西の方の、たとえば宇部市など講演の帰途や、沖縄の行き帰りなどに、家の管理、庭の草取りに寄った。ぼやきながら掃除をしたり・・。
 家としては、定着して住む者が誰もいないわけだから、残念だろうと思う。深夜一人でワインなど呑んで、いい気分になっていると、天井のどこからか、家の悲しそうな声、「どうして住まないの?」という恨み節が聞こえてくる、そんな錯覚がある。申し訳ないので、いろんな人に来てもらって、にぎやかに騒ぎたて、歌などうたって、せめての罪滅ぼしをしているつもりだ。
 この30年の間には、実にたくさんの来客が見えた。横山宏・小川利夫・徳永功氏などの長老格から若い学生のゼミ合宿的な利用もあれば、一時的な仮住まいのイギリス人夫妻(半年ちかく滞在して家は荒れたが、粗末な自転車を修理し安い洗濯機を残していってくれた)もいた。深夜来訪の宿泊者もあれば、毎年の盆・正月の恒例飲み会への参加者も少なからず、思わぬ出会いもあり、またいろんな国からの留学生も来訪してくれた。韓民も羅李争もアーデルも。この家に泊まれば将来は出世する?などと冗談を言う人もいたが、もちろんこれはウソだ。実証的なデーターあり、泊まった人で誰ひとり偉くなったものは(まだ)いない。
 沖縄の喜納勝代さんや安里英子さんたちが訪れたし、「ふるさときゃらばん」の女優さんたちも来てくれて、大都市研の川崎メンバーと「ザ結婚」などの歌をうたった思い出も懐かしい。ああ、そういえば八朔友二も泊まった。
 いろんな出来事があった。ビールの密造、大分のカボスや信州の白樺の植樹、泥棒侵入(まったく何も盗むものがない!)、熊ん蜂の大きな巣、寺中作雄さんの油絵など、書いておきたいエピソードがたくさんあるが、いまは余白がない。阪神大震災の1995年は、私の東京学芸大学退官の年。退職金を投入して、地震に強い書庫を増築した。居間の増築と合算して1千万円程かかった。学芸大学研究室の個人蔵書や雑誌バックナンバーの大部分を運び込んで、もう6年になる。この図書・雑誌・資料の公開と利用について、九州大学・研究室メンバーと協議を始めた経過があるが、資料整理など当方の準備が整わず、いま中断している。
 そしてまた、この家で正月を迎える。一つ、年を送り、新しい年を迎える。いや、この正月は新しい世紀の始まりだ。さて、これからまた、どんな歴史を重ねることになるのか。 だがこの隠れ家、その主と同じように、少しいま老朽化してきた。
◇去年(こぞ)今年一すじの道歩きたく −高浜虚子に触発されて−


隠れ家の庭        (南の風3087号 2013年5月16日)

 延ばしていた九州行き。14日から福岡・油山の隠れ家に泊まっています。
 風薫る五月。山に通じる道を歩いていくと、花の香が少しずつ移ろいながら、風に乗ってきます。いまとくに(九州では)楠の萌える若葉が美しく、そこからは何か活気が薫ってくるような…。いい季節になりました。
 久しぶりの油山の庭。エビネ蘭(HP表紙)はやっと最後の花が残っていました。触れなば落ちんの風情。梅の実もふくらんでいます。しかし、いつぞやの風に書いたように、永年育ててきた白樺は、今年はまったく芽吹きませんでした。残っていた2本、どちらも白い幹のみ。枯れ木は庭の賑わいにもならず、残念至極。この白い枝で記念の何かを残せないものか、との思いはあっても、造形の才覚も技術もなく、どのように別れようかと思案しています。いま、庭の焚き火も出来なくなりました。
 1970年代の庭、最初は芝にしていました。しかし主のいない家では、数年で雑草に覆われました。そのうち篠竹が次第に根を拡げて、お隣の境は竹藪に。80年代になると(鳥が運んだ種子から)実生の木あれこれ。頂いた桜桃、農中君が植えてくれた柿や豊後人のカボスなど(みな実をつけない)、狭いながらも小さな自然林のたたずまい。その中に信州から東京経由の白樺の苗木、徳島大学・集中講義の帰路によった金比羅さんの松の幼木などが育ってきたのです。まわりの垣根には金木犀。隅っこにバラ数輪、ムクゲ数株、エビネなど季節それぞれの花々。30年余の庭の自分史です。
 ときどき来ては篠竹を切り払い、不作法な枝を落して、落葉も集め、焚き火をするのが楽しみでした。竹がポンポンはぜ、パチパチと燃える火をみつめながら呑むビールも格別。しかし煙も相当なもの。そして数年前に近くのドナタさんから厳しく叱られたのでした。この一件以来、隠れ家に遊ぶ回数はめっきりと減り、落ち葉は行き場をなくし、白樺ともついに別れる年を迎えたという次第です。


九・一八に向けて       (南の風第918号:2002年8月9日)

 南の風918号。大連から帰ったばかりの萩原さんに九・一八(1931年9月18日、満州事変が始まった日)に関連して、旧満州を旅した記録を寄せていただきました。
 私たちの研究会では、毎年、9月18日前後に研究会例会をもち「松花江上」を歌ってきました。この歌で想い出す方々、お一人は、昨年亡くなられた故横山宏氏、あとお一人は、先日訃報(風906号、徳永メール)が届いた故山辺賢蔵氏。山辺さんは、ある年の九・一八に「松花江上」歌詞を、ポスターの裏紙に大書し研究会に持参されました。発音のピン音付の中国語で。それを皆で読みながら「我が家は東北、松花江のほとり」と歌ったものです。
 山辺さん直筆の「松花江上」歌詞は、その後も東京学芸大学・研究室に保存され、毎年9月になると、くるくる巻いた紙を広げて、歌い継いできました。和光大学・研究室時代にはもう歌わなくなりましたが、いま“風の部屋”で出番を待っています。
 9月20日の定例会では、あらためてこの歌詞と対面し、山辺さんを偲ぶ会にしたいと考えています。


■旧ハルピン高等女学校のチブス事件  (南の風第3563号:2015年10月6日)

 記憶を少したどって、相沢要・よし夫妻のことを書いおくことにします。できれば資料を調べて・・と思っていたのですが、その余裕もなさそうですから。
 叔父・相沢要は東京外語・ロシヤ語の専攻。旧「満州日報」記者となり(関東軍と折り合いがよくなく)終戦時には東京支社(通信部長)へ。戦後は京王線・烏山に古本屋を開業しました。社会主義文献も置いて「赤い本屋」と言われ、やがて新本も扱う書店「京王書房」へ。ぶんじんは学生時代(1952年春休み)に九州から遊びに来て、本の運びや店のペンキ塗りを手伝ったことがあります。1ヶ月の滞在、大きな刺激でした。
 この本屋は、色川大吉「ある昭和史(自分史)」にも登場します。なにかの集いのあと京王書房のせまい食堂で、色川さんとスキヤキを食った想い出。叔父はジャーナリストとしての意欲から「烏山新聞」「世田谷新聞」を出していましたが、市民派から推され世田谷区議会議員(1967年〜、のち副議長)へ。
 話を戦前に戻します。旧満州ハルピン。叔母・よし(父の妹、旧姓・梶栗)は旧奈良女高師を出ましたが、国内に就職がなく、旧ハルピン富士高等女学校の国語教師として赴任。そこで満州日報記者をしていた叔父と出会い、物語が始まります。叔母が私たちのTOAFAEC 研究会に出席したのは、第20回(1997年9月)山辺悠喜子さん「七三一部隊・毒ガス兵器について」。ハルピン高等女学校に起きた「チブス騒動(1940年)を知ってもらいたい」と(写真→■)。教師・舎監として忘れがたい衝撃的な事件だったのです。七三一部隊が撒いたとみられるチブス菌で寄宿舎の生徒・教師が多数罹病し、教師を含め22名もの犠牲者がでて合同慰霊祭へ。証言として『すずらん』ハルピン富士高等女学校創立五十周年記念誌(1984年)「チブス事件の頃」(相沢よし)があります。
 叔母には悲愴な体験としか言いようがない数ヶ月。ただ当人にチブスが発症しなかったのは、「事件の夜、たまたま叔父さんがデイトに誘ってくれて、寮の食事をとらなかったの。命の恩人よ。」と打ち明けたことがありました。







親指の痛み         (南の風3061号 2013年4月5日)

 アメリカ占領下の沖縄、基地問題等の痛苦について日本本土にとって「小指の痛み」と表現されることがありました。私はこの4ヶ月あまり「親指の痛み」を味わってきました。場ふさぎに書いておくことにします。
 昨年11月に韓国・済州島へ旅したときのこと。島の南岸に(沖縄の基地増強とつながって)強権的に大規模な海軍基地が建設されていること、本欄に「江汀(カンジョン)村の悲しみ」として書いたことがあります。風2989号(11月21日)、この日は誕生日でした。
 その現場を見に行った際、海辺の岩礁で何度も転びました。足腰が弱くなっているのに、気ばかり先に動いて、ゴツゴツの岩場に足をとられ無残な転倒、その際に親指の生爪を剥がしたのです。旅の同室・伊藤長和さんから頂いた膏薬を気休めに貼ったり、翌日の山歩きをパスしたり、なんとか旅をやりすごして・・・。その後、爪の裏側の内出血でドス黒く変色した親指をかかえてきました。本人は、沖縄の痛みと江汀の悲しみを共有しているような、妙な気持ちで、この4ヶ月を過ごしてきたのでした。
 そして数日前、その黒い爪がポロリとはずれました。下に小さな爪が初々しく顔をのぞかせいます。やっと「親指の痛み」から解放されました。









国立・久茂地文庫・分室  (南の風3569号 2015年10月20日)

 国立に住んだのは、1967年から1980年の13年間。ちょうど美濃部・革新都政の時代です。社会教育・公民館にとっては、国立も三多摩も躍動の時期にあたります。面白いことがいろいろ走馬燈のように浮かんできました。
 1970年代、躍動期の国立公民館と関わり、また勤めた大学が小金井ということもあって、三多摩各地の公民館、それを担う(当時の若き)群像と多彩に出会うことができ、振り返って、充実した歳月となりました。
 しかし「公民館」を国立を通して、あるいは「三多摩テーゼ」イメージでとらえる偏りもあったように思います。1976年秋から冬にかけて沖縄研究への道に入り、東京を離れて研究フィールドは南へ。その道すがら沖縄各地の集落・字(アザ)公民館との新しい出会いは、まさに鮮烈なものがありました。公民館研究の視野の拡がりを実感。沖縄を通して国立・三多摩の公民館をとらえかえす中で、いろんな課題が見えてくる、そんな“発見”を重ねてきました。
 当時、沖縄行きの経費がたいへん。逆に沖縄からヤマトゥへの旅も負担が大きい。国立に設けていたセカンドハウスに、沖縄からの来訪者を歓迎し、いつでも泊まれるようにしようと・・・名付けて「久茂地文庫・分室」。マンションの一室に小さな看板を掲げて門戸を南に開いたつもり(1977〜1980年)。
 久茂地(くもじ)とは那覇中心の町の名。歌人・喜納勝代さんの私設「久茂地文庫」は、私たちの沖縄フィールドワーク初期の拠点でした。「別室」はそのお返しの思い。と言っても沖縄からの客人(東武さんほか)はそう多くなく、福岡ときには名古屋からの泊まり客など。普段は学生・市民(ぶんじんは当時PTA会長)のたまり場でした。この流れが今「風の部屋」へとつながります。


風の部屋−春の夜の酒    (南の風3065号 2013年4月13日)

 12日深更、しばしの酔いにうとうとして・・・いま12時の針がまわったところです。この夜“風の部屋”では、東京都社会教育史研究フォーラム事務局の皆さんが4人、ゲストの打越雅祥さん(和光大学・同窓会会長)を含めて、「東京の社会教育の歩み」についていくつかの回想・議論。ひとときの心地よい興奮もあり、賑やかに夜が更けていきました。
 風の部屋の集いは、やはり飲みながら話が始まります。まだ円高のときに仕入れた安いワイン。買い置きの缶ビール。誰かが持参した軽食もあり、卓上は雑然としていますが・・・ゲストの話はなかなかのもの。1970年代の美濃部都政からすでに40年、この歳月に生きた人々にに思いを馳せながら、静かに酔いが深まっていく、なんともぜいたくなひととき。
 ゲストの酒への好みを見計らいながら、好きそうな人だと(確認して)やんばる古酒(クースー)をカメから汲むことにしています。山原島酒之会の教えにしたがって、別に必ず小さな瓶(大国林道)を用意し、それに汲み出してカメの蓋を閉じる、これで安心して、古酒を口に含むのです。
 酒の味が分かる人は20年秘蔵の古酒に楽しく酔ってくれます。その間に、カメを愛おしく揺する慣わしや、仕次ぎの技法、島酒之会の友人たちのことなど、いろいろと話ははずんで・・・本題にもどすのがひと苦労。 
 春の夜、お出でくださった皆さん、ご苦労さまでした。こんな宵をときどきもちながら、お互いに元気を共有したいもの。上掲のTOAFAEC 事務局記事によれば、次回は総会に向けての事務局会議でしょうか。


天安門事件から24年        (南の風3099号 2013年6月6日)

 1989年6月4日の天安門事件。あの年5月から6月にかけて、私たちの研究室(東京学芸大学)も緊張した1ヶ月でした。中国からの留学生たち、80年代初頭の国費留学生、85年以降に私費の留学生が来るようになり、89年当時は十数名(研究生を含む)が在籍していました。天安門広場の状況は彼らの独自ルートで私にも詳細に伝わってきました。
 この年の記録メモでは、5月20〜21日に恒例の研究室合宿(4月新入生の歓迎)、私たちは山梨・勝沼ワインの里に泊まっていました。20名前後の旅。星降る岡の宿、はるかに走る中央線列車の遠い響きを思い出します。中国留学生は刻々と入る天安門ニュースに釘付け。台湾や韓国からの留学生も一緒で、日本人院生がむしろ少数派でした。
 昨日(6日5日)の朝日新聞が「小さな天安門、今も」と題して、当時の中国総書記・趙紫陽(天安門事件で失脚)の政治秘書だった鮑氏の証言を載せています。緊迫感のある記事。学生たちの民主化要求に対し、穏当な立場の趙総書記と強行派の李鵬(首相・当時)等の首脳たちが最高実力者・ケ小平の自宅で事態を協議(5月17日)。帰ってきた趙紫陽氏は「私は負けた」と語ったそうです。趙氏は2日後に天安門広場でハンスト中の学生を見舞い、「ここに来るのが遅すぎた」と。その後、公の場から姿を消し、総書記を解任され、自宅で軟禁状態のまま1995年に死去。政治秘書・鮑氏も趙総書記失脚後に逮捕され、懲役7年の実刑に服したそうです。
 私たちの合宿の夜は、趙氏の天安門広場「来るのが遅すぎた」交流の翌日ということになります。趙氏によって状況は好転するという見方は甘く、事態はむしろ逆だったのです。事件から24年。いまをどう見るか。鮑氏の証言が興味深い。いま中国で「…至るところで小さな天安門が起こり続けているんだ。」と語気を強めたそうです。


■訃報・安藤延男さん   (南の風3390号 2014年10月23日)

 なぜか最近、ぶんじんとの関わりで訃報が続きます。南の風メンバーではありませんが、安藤延男さん(九州大学名誉教授、元福岡県立大学長、85才)が亡くなられました。10月20日未明とのこと。森山沾一さんからの報せ。西日本新聞(23日)記事では「老衰のため」とあり、あれほど闊達に活躍してきた人が「まさか?」と目を疑いました。追悼の思いをこめて、いくつか「二人史」を書くことにします。
 大学では1年上の先輩、心理学専攻。当方とは研究室が違いましたが、お互いに気の合うところがありました。「第九」の感動を語る目の輝きを印象的に憶えています。大学卒業後、安藤さんの新婚ホームは、久留米の自宅からすぐ近く、よく遊びに行ったものです。豚肉のカレーライスがお得意の家庭料理でした。ぶんじんが久留米市教育研究所に勤務した時期(1954年、1年後に大学院に戻った)、ほとんど二人の発意で、「教育科学研究会」(本屋の2階『教育』を読む会)をスタートさせた思い出。安藤さんはとくに「日本作文の会」「生活綴方運動」に熱心だった一時期もありました。この頃の熱気を伝える資料を探し出し、二人で当時を語り合う機会を楽しみにしていたところでした。
 福岡女学院の教師生活が案外とながく、安藤さんが大学院に戻る経過いろいろ。その後は九大に職を得て「教育と医学の会」編集にも。1960年代の同誌に5〜6本のぶんじん論文が載っているのは、ずべて安藤さんの配慮によるもの。
 話は一気に1990年代へ。安藤さんは九大教授を経て「福岡県社会保育短期大学」学長へ。ある日、短大から「四年制大学」へ移行させる「準備委員会」への参加要請。当時の福岡県知事・奥田八二さん(革新系知事、元九大教授)の辞令が出て、ぶんじんは新しい県立大学づくりに加わりました。東京学芸大学退職後は、油山に住んで、安藤さんと一緒に仕事をする予定でしたが・・。


三国連太郎さん逝く (南の風3068号2013年4月17日)

 東京・西永福の駅近くに「浜寿司」という小さな店がありました。職人気質のオヤジさんが威勢よく握ってくれた寿司屋、わが家にお客があると、よくご案内した馴染みの店です。旧ゼミの皆さんの中には記憶に残っている人もありましょう。(10年程前に息子の世代になって引っ越しました。)
 この店で三国連太郎さんと一緒になったことが何度かあります。ご本人の色紙が壁に1枚飾られていました。「夢」の字、たおやかな、相貌に似合わずむしろ女性的な美しい書体でした。
 三国さんが出演した映画はたくさん観てきました。急逝(14日午前、急性呼吸不全、享年90歳)された今、その印象的な場面を想い出し、また伝えられる回想から役づくりの凄さをあらためて知りました。
 山田洋次監督の談話。「ワンカット出演するだけで、その作品全体がぐっと安定する。重い重い錨(いかり)のような俳優でした。魅力的なバリトンの声が再び聞けないことを、心から淋しく、かなしく思います。」
 三国蓮太郎さんは、被差別部落出身であることを自ら明らかにし、差別問題にも取り組んできた人です。多分、1992年のこと。水平社宣言70年記念のNHK(教育TV?)番組で、その「宣言」全文を朗読する場面がありました。地域の暮らしの状況や、水平社運動史料などを間にはさみながら、繰り返し3回の朗読。あのバリトンの響きで「宣言」の最後の一節、「水平社は、かくして生れた。人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」に深い思いがこめられ、胸にジ〜ンときたことがあります。いつまでも忘れられません。この番組はテープにとり何度も社会教育ゼミで紹介したものでした。
 こんど浜寿司で会ったら、この感想とお礼を直接言おう、と思っていたのですが、その後はお会いする機会はありませんでした。


TOAFAEC年報創刊のころ  (南の風3107号 2013年6月21日)

 年報「東アジア社会教育研究」が世に出た経過などの回想いくつか。刊行は1996年のこと、まったく無からの出発でした。
 日韓社会教育セミナーの胎動(1991〜1993)を背景に、金信一氏など韓国社会教育協会から初めて社会教育推進全国協議会・全国集会(1993、木更津)への参加がありました。翌1994年、その答礼に社全協からの韓国・協会年次大会(第19回、利川)へ出席しました。当時ぶんじんは社全協委員長、たしか文孝淑さんも一緒の旅。同年次大会の写真1枚、HPに掲げます。→■
 黄宗建、金宗西ほか韓国社会教育界の長老の方々と夜の夕食会。ちょうどその日に北から金日成主席・死去のニュースが伝わったことや、この席で♪アチミスル♪を歌ったことなどを憶えています。韓国の文解(識字)教育研究の話題あり、後日に金宗西先生(ソウル大学名誉教授、大統領諮問教育改革委員長・会長)から「韓国の文解教育問題の考察」(ハングル版)を送っていただいたのでした。
 当時、担当していた中央大学大学院(修士過程)社会教育ゼミで金宗西先生「文解教育研究」を取り上げ、方玉順さん(韓国留学生)が同論文を日本語訳、これを巻頭論文に据える構想で創刊号の編集が始まったのです。執筆者は東京学芸大学(院)小林ゼミと中大ゼミ。加えて、上海の呉遵民、台湾・楊碧雲、沖縄・島袋正敏、佐賀・上野景三などの皆さんに寄稿をお願いしました。
 創刊号の編集スタッフは小林・内田の二人だけ。組織なく資金なく、見通しもない、あるのはただ心意気だけ。そして、9月18日付で見事!発行できたのでした。前年の小林・最終講義(東京学芸大学)記録も収録されました。記録に少し手を加え、写真も添えて、HPに再録しています。→■







筑紫次郎のほとりで   (南の風3131号 2013年7月31日)

 九州・筑後平野を流れ下る筑紫次郎(筑後川)、この大河に抱かれる久留米はぶんじんの生まれ故郷です。大学前半(教養部)まで生家から通いましたので、この城下町に20歳まで暮らしたことになります。それから60年余が経過し、町は大きく変貌しましたが、沖縄風に言えば、やはり「我が生まり島」。若い頃いくつかの反発を内に秘めながらも、つねに言い知れぬ郷愁をもち続けてきました。その後、10数年を暮らした博多とともに、私のかけがえのない“ふるさと”。
 いつぞや本欄に書いたことがありますが、町並み変貌に抗して、少年時代の思い出が残っている赤いレンガ倉を壊さないで、ひとつ残しています。新幹線・久留米の駅を(熊本方面に)出てすぐ、左側の車窓から一瞬見える風景。昔の少年Bには大きなイメージも、今は小さな建造物。
 蒸し暑い猛暑の1日(7月29日)、久しぶりに久留米で過ごしました。夕刻から筑後川に面した水天宮すぐ隣の店(「護市」)で季節料理を楽しみながらの集い。大学や社会教育関連の旧知の人たちが集まって、回想・議論・追憶・自治体論などなど。懐かしい顔ぶれ。臼杵市長・中野五郎、長崎・猪山勝利、京都・国生寿、田川・森山沾一、佐賀・上野景三ほかの面々。久留米の古賀皓生・農中茂徳のお二人が幹事役。10人余りの珍しいメンバーでした。
 年配者が多い割には、案外と書生っぽいやりとりが面白い。当時の若く青い日が想い出されたのでしょう。時の過ぎるのを忘れて、写真も撮り忘れました。


銀座の姉妹展              (南の風3405号 2014年11月21日)

 この数日、東京銀座「ギャラリーエルビス」(東京福音センター・銀座教会、中央区銀座4-2-1)で「小林姉妹展」が開かれています。私の妹たち(4人)が、刺し子、パッチワーク、人形、スウェーデン織など、手づくり作品を並べてささやかな展示会。2年おきに開いてきて、今年で第8回となります。地下鉄「銀座」駅からすぐ、23日(日)まで。わざわざお運ぶいただくほどのものではありませんが、ついででもあれば、のぞいてやって下さい。
 4人とも70代、年令合計は300歳をこえる世代。まずまず元気に、素人ながら銀座で1週間の“姉妹展”とは大胆不敵!と、長兄としては脱帽しているところです。ちなみに私を含めて姉妹みな15年戦争下で生まれ、すぐ下の次兄が13年前に病没したほかは息災に過ごしてきました。手仕事・針仕事が好きなのは、きっと亡母の影響だろうと思われます。たまたま21日は長兄の誕生日。というわけで、今晩は揃ってお祝いの会をしてくれるそうです。


■小林文人85歳トウシビー祝い・名護 (南の風3521号 2015年7月13日)

 ≪沖縄・やんばるの友人たちに囲まれて≫
 7月11日午後、那覇空港より名護へ向かう車中に、南の竹富島・上勢頭芳徳さんより電話あり、「台風9号の影響、波高く船が出ず、参加できません」との一報。残念です。沖縄本島もまだ風雨が残っていましたが、鷲尾真由美さんのご配慮で、ほぼ定刻に「85歳トゥシビー祝い」会場に到着できました。
 昨12日、名護にわずか1泊のみで東京へ。1泊トンボ返りは、沖縄研究交流40年を振り返って初めてのこと。この間「南の風」送信も台風9号にかきまわされて5日ぶりの発行。これも初めてのことか。
 85歳の年寄り、この旅は山口真理子さんに付き添っていただくかたち。会場では、ぶんじんの“保護者”として真理子さんは紹介されていました。数え年「85歳」のよぼよぼ。「風」発行も5日おきぐらいが丁度いいリズム!かと妙に納得して本欄を書いています。
 島袋正敏さんはじめ実行委員会の皆様のご配慮により、ぶんじん沖縄研究交流40年の、初期からお世話になった人たちの顔が並びました。今帰仁村の玉城勝男、宜野座村の城間盛春、沖縄県青年団協議会(復帰当時の会長)田場盛順、もちろん沖縄大学・平良研一、宜野湾市の玉那覇正幸、名護では稲嶺進市長は言うまでもなく、また社会教育研究全国集会(第42回名護集会、2002年)当時の面々(上地圭子課長、岸本力ほか)、そして中村誠司−いずれも敬称略ーなどの皆さん。末本誠さんのご息女も。ほか多数の方々・・書き切れません。
 沖縄の祝いの席は、琉球の芸能・舞曲に彩られます。最初に演奏される祝宴座開きの舞踊「かぎやで風」では、稲嶺進・名護市長(写真中央)や比嘉久さん(博物館長、その左)が金の扇をかざしながら演舞され、ジンとくるものがありました。目を奪う達筆は書家・島袋正敏さんの揮毫。(名護市城公民館、20150711)













*自分史メモ2(2016)→■



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