じんぶんヒストリー・記録(2018年7月〜)     TOP


(2018年7月27日、高井戸)


(1)2018・
7月定例(第252回)研究会・記録
          *江頭晃子(Mon, 9 Jul 2018 21:19)
 <第252回(7月定例)研究会 じんぶんヒストリー(第1回)ご案内>
 昨年秋の急な入院、2回の大手術を経て、杖は持ちつつも訪沖されるまでお元気に復活された文人先生。これまで、先生の頭の中には、次から次へと、これからやるべきこと・作るべき本などが、頭の中にいっぱいのようです。しかし、ご自身のヒストリーを断片的に聞くことはあっても、まとめて伺う機会はありませんでした。
 「年寄りの自慢話になるのは嫌」と拒否する先生を何とか説き伏せ、TOAFAEC 定例会で年2回程度、「じんぶんヒストリー」を開催いたします。毎回テーマを設定し(例えば社会教育法制論、沖縄研究、東アジア研究、公民館をめぐる論議、社全協や月刊編集長・学会での経験、大学闘争、自治体研究などなど)、そのテーマについて聞きたい人をインタビュアーとして開催します。文人先生のライフヒストリーを通して、戦後日本の社会教育史を紐解いていきます。
 今回は記念すべき第1回目ということで、少年Bから現在に至るまでの、まさにライフヒストリーを話していただきます。
 また、この「じんぶんヒストリー」プロジェクトのメンバーを募集中。それぞれの聞きたいテーマのインタビュアー、テープおこし、プロジェクトへのアドバイスなど、多くの皆様の「じんぶん」を拝借させていただきながら、すすめていきたいと思いますので、ご協力・ご参加をお待ちしています! 文人先生を知らない人の参加も大歓迎です。
【参考】「じんぶん」とは、「うちなーぐち」(沖縄方言)で、知恵・才覚などの意。日常的によく使われます。語源は「人文」か(中村誠司さん説)。2002年の社会教育研究全国集会(第42回)名護集会の大会テーマは、「じんぶん寄せあって21世紀の自治・文化・地域社会を創ろう!」でした。
じんぶんヒストリー(第1回), TOAFAEC第252回(7月定例)研究会
・日時:7月27日(金)19:00〜20:50
・内容:「少年Bが米寿を迎えるまで 
・話し手:小林文人先生
・インタビュアー:江頭晃子(アンティ多摩)
・会場:杉並区高井戸地域区民センター第3集会室
     〒168−0072杉並区高井戸東3−7−5 TEL 03−3331−7841
     *京王井の頭線「高井戸」駅下車3分(環八を渡ってすぐ)
・終了後(21:00〜)懇親会 「イーストビレッジ」 03-5346-2077
・プロジェクト連絡先 ringox@nifty.com(えとう)
左・ぶんじん、右(司会)江頭晃子 (高井戸、20180727)


■報告
 栗山 究(Sun, 29 Jul 2018 11:15)
 <じんぶんヒストリー(1) TOAFAEC7月(第252回)定例会報告>
テーマ:少年Bが米寿を迎えるまで 〜個人的社会教育概史〜
参加者(敬称略):李正連、江頭晃子、呉世蓮、小田切督剛、金亨善、小宮(杉並区民)、栗山究、小林文人、・(セン)瞻、田邊伸子、持田(中村)津希子、山口真理子、山本秀樹、林忠賢
内容(報告者:小林文人先生):江頭さんの呼びかけから始まった「じんぶんヒストリー」プロジェクト。とても楽しみに参加させていただきました。第1回目は、「じんぶんねんぴょう」に即し「少年B」が現在に至るまでの大枠を、お話いただいた内容でした。
 時代区分は、@少年Bが旧制中学に入るまでの戦前・戦中期。A戦後〜1950年代、20代の青年Bが、学生時代の葛藤と研究、紆余曲折を経る時代。九州農村の調査を数多く手がける。B1960年代大きく農村・地域が変わり、九州大学を離れ、育英会時代の麻生誠さん(昨年逝去)との出会い、九州産業大(社会学担当)での500人の大講義、東京学芸大学では教育社会学担当の教員となる時代。C70年代の自治体・公民館研究とくに三多摩をフィールドに社会教育研究に移行していく、学生運動から刺激を受ける時代。D1980年代(50代)、学生部長・図書館長(管理職)就任により、東京・三多摩の社会教育のつながりは薄れるが、「沖縄」研究が拡がり、研究室に東アジアの留学生が増えていく時代。E1995年以降、冷戦終結・グローバル化を背景に中国・韓国・台湾へ渡る機会が増えて、TOAFAEC が創設され、留学生をブリッジに東アジア研究が本格化する時代。学芸大学を退職し和光大学に移り自由に海外を動けるようになり、PC通信「南の風」発行が始まる。公民館学会創設に参加し、辞典編集や中国・韓国に関わる出版が実現する(70歳代)。Fそして2010年から現在…。
 それぞれの局面で、期待どおりの語りとともに、更なる発見も数々あり、温かな雰囲気のなか参加者一人ひとりが、一緒にわくわくどきどきしながら、「少年B」のお話しに耳を傾け、意見交換しあった2時間+懇親会でした。参加された皆さんからは、例えば、戦中・戦後期の「少年B」や福岡時代の公民館との出会いに関するお話をもっと掘りさげて聞きたかったという声、現在に至る留学生とのコミュニティが生み出されてくる経過、アメリカ都市社会学の定説や方法に対する批判的意識についてなど、今後も掘り下げてお聞きしていきたい内容をさまざま挙げていただき「また次回以降の機会に」ということになりました。
 特に30代・40代、研究者として社会で働かれ始めている皆さんにとっては、自らの年齢と重ね合わせて文人先生の歩まれてこられた道を確認していらしたことが共通していたことも、興味深い点でした。文人先生が「社会教育」へと本格的に向きあっていったのが40歳を前後とする年代であったことも意外でした。先生自身も自認されていましたが、現在の私たちが目にしている様々な成果、残されているお仕事の大半は60歳を超えた頃,むしろ定年後であったということも、勇気づけられながら受けとめられていたように思います。
 年表を作った江頭さんからは、学生部長期の困難な局面のなかでも図書館の新人事や博物館学を開設され、大学の中で社会教育を拡げられていったことの紹介もあり、若き先生と時代をご一緒された学芸大学の先輩の方の感想からもさまざまな視点を学ばせていただく機会となりました。ぜひまた参加していきたいと思います。
懇親会(イーストビレッジ、20180727)


≪じんぶんヒストリー(1)終わる  南の風3965号【 7月30日】
 沖縄・名護では「じんぶん」(人文)という言葉がよく使われるという話から、江頭晃子さんは「じんぶんヒストリー」を造語し、「ぶんじん」に「個人的社会教育概史」の話を求めてきました。忙しい中、詳細な年表も用意していただき、ご苦労さまでした。なにしろ「少年Bが米寿を迎えるまで」のタイトル。短い時間に86年をどう語るか、詳しい話はいずれ次の機会とし、大まかにこれまでを振り返って、特徴的なことを回想風に雑然と語ることになりました(7月27日、252定例研究会)。猛暑の夜、雑駁な話を聞いて下さった皆様、まことに有難うございました。
 栗山究さんからは早速に「参加記・感想」をお寄せいただき、感謝。江頭さんから転送されてきましたので有難く定例会の記録として掲載させていただきました。前半の時期区分のところ、誤解があってもいけませんので、少し補足、ご了承を。また韓国研究フォーラム・小田切督剛さんメールにも当夜の感想が記されていました。例によって本人の了承もなく(きっと許してくれるに違いないと)上掲させていただきました。他にも感想をいただきましたが、「私信」とありましたので、これは控えましたが。
 李正連さんや呉世蓮さんから写真をたくさん送っていただき、ありがとうございました。久しぶりに「ぶんじん」(左)が神妙にお話しさせてもらっている場面(司会・江頭さん)をまず1枚を本欄ホームページにアップしました(下掲)。懇親会の集合写真はいずれそのうちに。当日のテーマにいちばん近いHP「研究史ノート」ページには「ぶんじん」一人だけの写真。(多分、李正連さん撮影) →■http://www.bunjin-k.net/kenkyusi2012.htm 
 少々入院疲れの長髪の横顔。いまこの長髪を以前のように短くするか、この機会に長髪姿に変貌していくか、と思案中の1枚でもあります。率直な感想・助言をお願いします。
 




(2)2019・1月定例(第258回)研究会ご案内
      (江頭晃子、Thu, 10 Jan 2019 23:51)
 <第258回(1月定例)研究会 
じんぶんヒストリー(第2回)ご案内>
 昨年7月に開催した「じんぶんヒストリー」第1回では、少年Bが現在に至るまでの時代を大きく7つに分けて、駆け足で全体を話していただきました。参加者からの次回のリクエストは、やはり若き日の少年Bの話をまずは聞きたいとのことで、第2回目の今回は、@少年Bが旧制中学に入るまでの戦前・戦中期。A戦後〜1950年代、20代の青年Bが、学生時代の葛藤と研究、紆余曲折を経る時代を中心に話していただこうと思います。
 遡ること88年、満州事変の直後に生を受け、15年戦争中に育った少年Bは当時のエリートコースであった熊本の「陸軍幼年学校」への入学を夢見る軍国少年でした、…が、しかし…。戦中から戦後へ。九州大学にすすんだ青年Bは九州各地の農漁村に入り込み、多くの調査を手がけていきます。そう、誰もが、文人先生の地域へのこだわりや視点は、その時代にあるのでは!と思う部分です。
 時代や人、地域、さまざまな出会いが、どのように少年から青年Bをつくっていったのか、参加者皆様からの疑問・質問を交えながら、ご一緒にひも解いていきたいと思います。今年初めての定例会、初めての方もどうぞお気軽にご参加ください。
じんぶんヒストリー(第2回), TOAFAEC第258回(1月定例)研究会
・日時:2019年1月25日(金)19:00〜20:50(開場18:50)
・テーマ:少年Bから青年Bへ:時代の転換点に考えたこと 
・話し手:小林文人先生
・インタビュアー:江頭晃子(アンティ多摩)
・会場:杉並区高井戸地域区民センター第5集会室
     〒168−0072杉並区高井戸東3−7−5 TEL 03−3331−7841
     *京王井の頭線「高井戸」駅下車3分(環八を渡ってすぐ)
・定例会参加:無料
・終了後(21:00〜)懇親会(自由参加・飲食代実費)会場「イーストビレッジ」
・じんぶんHプロジェクト:ringox@nifty.com(えとう)

2019年1月定例研究会、ぶんじん報告(高井戸、20190125、堀尾先生提供)


報告 (小田切督剛、Sun, 27 Jan 2019 11:43)
参加者:上田孝典、江頭晃子、遠藤輝喜(2次会)、小田切督剛、小林文人、武田拡明、堀尾正靱、
      持田(中村)津希子、( )、山口真理子−敬称略
内容:
 江頭さんの呼びかけから始まった「じんぶんヒストリー」。2018年7月に続く2回目です。文人先生のレジメや江頭さんの資料も、1回目を踏まえ入念に準備されたものでした。 
 1931年の出生から、地域調査・農村社会学を経て、研究者としての姿勢を固めた1960年前後までの約30年をお話しいただきました。この30年における「2つの大きな転換点」として、1945年の「戦争から戦後へ」の転換と、1950〜60年代の全国での「地域の地滑り的変動」「地域共同体の崩壊」を挙げられました。
 第一の転換点である「戦争から戦後へ」については、主に3つのエピソード。
1 学校(旧制中学)での軍事教練、評価が悪いと「成績すべてに響く」と言われる中で、軍人勅諭や、銃の訓練・組立なども覚え、エリート養成・出世コースだった陸軍幼年学校への進学に憧れたこと。「戦時中の神がかり的な教育の重みは、忘れることはできない。圧倒的な国家統制の教育の実態は、到底言葉で言い尽くせない」。
2 陸軍需品廠に勤労動員された時に、少し上の青年世代の朝鮮人労働者たちが、せまい「飯場」に押し込められ、ともに激しい軍労働に従事させられたこと。アリランを教わったりトラジを聴いたりとわずかながら交流もあり、少年なりに植民地支配の実態が少しわかる感じがある。
3 軍需工場を守るための強制疎開として、自分たちの家が軍隊により引き倒され、美しい庭も滅茶苦茶にされ、祖父が落胆して亡くなっていったこと。赤いレンガ蔵だけが残った。少年Bには「軍国少年」であり、また「戦争や軍隊への憤り」という両面があった。
 陸軍幼年学校に進学した同級生たちは、終戦後に帰郷してくるが、戦後適応できずに虚脱感などから自殺に追い込まれた方もあったそうです。しかし少年Bにとって戦後はむしろ「教科書もなく、非常に混乱していたが面白い時代」だったとのこと。「男女共学も始まり、旧制・中学明善(めいぜん)が久留米高女と同じ新制高校となり、すごく感激した」や、「『文ちゃん、大学行ったのかァ?!』と旧友に驚かれるほど、本を読まず受験勉強もしない子だった」との話に何度も爆笑しました。
 質疑応答では、堀尾さんと武田さんから戦時中の国家統制について、持田さんと森田さんから朝鮮人労働者について質問が相次ぎました。「徴用工問題も、その歴史体験から見る。韓国の人たちにとっては『植民地支配の歴史そして日本人をどう見るのか』という問題なのだろう」と。
 第二の転換点である高度経済成長、「地域共同体の崩壊」については、主に3つのエピソード。
 1 かつてはどの地域にも青年団や娘組など年序の組織があり、地域の祭があった。柳田国男が『こども風土記』(1941年)で紹介しているように、地域の子どもには子どもの自治が認められ、役割があった。6年生がカシラになって仕切り、徹夜して遊ぶ「観音さんのよど」などを自分も経験してきた(「よど」は、筑前中・南部、筑後にかけて夏に行われる神仏の宵祭り)。「子どもたちは(家庭・学校だけでなく)地域で生まれ、地域で育つ」という重層的な構造があった。
 2 しかし1950年代後半より、巨大な高度成長政策に流されて農村が大きく変貌した。地域の共同生活の自治や、地域の祭、昔語りやわらべ歌まで全国で壊れていく。この時期、九州各地の農漁村に入り、変貌する地域の状況を調査した。1人ではなく研究室メンバー4〜5人で調査するため、他に場所がなくお寺の本堂に寝泊りした(佐賀県名尾)。一番面白かったのは漁村調査(熊本県天草)だった。調査のためにお酒やタバコも覚えた(笑)。
 3 地域の共同体組織や価値が解体していく過程で、九州農漁村のインテンシブな実態調査にたずさわったことになる。その後、1970年代後半から中心テーマとした沖縄調査では集落の自治・共同を再生しながら米軍基地問題に対峙した沖縄の地域共同体(字、しま)に魅かれることになる。あれほどの戦争を経験しながら、なぜ字共同体が村おこし拠点として生きてきたのか。地域共同体の現代的な機能・意義を沖縄に発見することになる。本土では戦時中の地域統制的組織とされた「隣組」が、沖縄(とくに中部)では子どもをまもる共同体「教育隣組」として展開を見せることになる。
 質疑応答では、上田さんから1957年の修士論文「都市における近隣集団の教育的機能−久留米市暁住宅調査」について質問、さすが研究者です。「暁住宅は旧兵舎に引揚者や戦災者向けの住宅を作ったもので、生活保護や母子家庭も多かった。地域の有志が子ども会活動を始めたが、青年Bの父がその地域の校長だった関係もあり、九州大学から2〜3人入り、2年ほど勉強会などをした。近隣集団(ネイバーフッド)は都市で壊れていくという定説があるが、都市でもいくつかの条件があれば独特に教育的機能が形成されていくのではないか、と課題提起。地域の教育的機能については、佐賀農村の「年令階梯組織とその教育的機能」(1963年)をまとめているが、その過程で青年団や婦人会、そして地域の公民館と出会った」とのこと。
 「論文は客観的に書かねばならない。社会学的な社会構造分析だけでは、人間的な形成の過程や主体としての営みが背景に退く傾向があり、『もう少し人間への着目を』という思いが、1960年代以降の社会教育研究の道に進ませることになるとのことで、3回目からの「じんぶんヒストリー」が、今から楽しみです。
 終了後は、「イーストビレッジ」へ。文人先生「店の前の歩道が広くなりましたね」と声をかけると、マスター夫妻も「これまでは、階段で落ちる人もけっこういたからね〜」と笑顔。激務を終えた遠藤輝喜さんも駆けつけ、みんなで「イーストビレッジ」に乾杯しました。お話にあった強制疎開や道路拡張工事から守った、久留米・実家の赤いレンガ蔵が最近ついに壊されたとのことで、文人先生は「ひと段落したという思い」とビールを何度もお代わり。私たち研究会の2019年の活躍を期して、お開きとなりました。
■激動の青春(南の風4021号・1月31日、ぶ)

 あらためて御礼、先日(25日夜)1月定例研究会、寒い夜、ご参加の皆さま、ご苦労さまでした。当夜は、今年最初の研究会、思いももかけぬ人が参加してびっくり。早速に小田切督剛さんより詳細・長文の報告を送っていただきました(27日・昼、上掲)。有難うございました。別にどなたからか感想など来るかもしれないとお待ちしたのが本号配信が少し遅くなった理由です。空いているスペースには、当日配布した「ぶんじんレジメ」を転載することにしました。ご覧ください。
 当日のテーマは「少年Bから青年Bへ」、約30年余りの歳月、(60年前を)想い出しながら、激動(戦争と戦後、1960年代高度経済成長と地域「地すべり」的変貌)の歩みを少しお話しました。もともと研究者の道を志したのではなく、しかし成り行きのなかで、いつの間にか大学院へ戻り、社会学の世界で村落調査に従事するうちに大学に籍をおくようになりました。今回は、社会教育研究の世界に入るまでの歩みをお話しする結果に。学生運動などにはほとんど触れることなく反省も残っています。いずれ次の機会に。






(3)2019・7月定例(第264回)研究会
ご案内  江頭晃子(Sun, 07 Jul 2019 06:09)
 <7月定例(第264回)研究会 じんぶんヒストリー(第3回) ご案内>
 半年に一回、開催している「じんぶんヒストリー」。今回(V)はいよいよ青年Bが学生時代の挫折と葛藤、一時は研究から離れるものの大学院に戻り、そして大学助手へ。社会学・教育社会学から社会教育研究へ出会うまでのお話を伺います。
 時代は、戦後の混乱から朝鮮戦争、その特需により地方産業も活気が戻る時代。しかし経済高度成長から農村変貌への激動へ。戦後の日本国憲法下で新たな教育制度が定着・変容するなかで、民主的な社会教育への道に希望をみた研究者たちが動きだす時代でもありました。青年Bは、どういう研究室・フィールドワークに出会いつつ、自らの研究者生活をスタートさせていったのでしょうか。
 インタビュアーには社会教育の専門家である上野さんにお願いしました。青年Bを通して、戦後1950年代から60年代への激動期、社会教育研究の草創期の熱を体感してください。
◆じんぶんヒストリー(第3回), TOAFAEC 7月定例(第264回)研究会
・日時:2019年7月26日(金)19:00〜20:50(開場18:50)
・テーマ:研究者を目ざす青年B・その源にあったもの 
・話し手:小林文人先生
・インタビュアー:上野景三さん(佐賀大学・日本公民館学会)
・会場:杉並区高井戸地域区民センター第3集会室 (〒168−0072杉並区高井戸東3−7−5
      TEL 03−3331−7841) *京王井の頭線「高井戸」駅下車3分(環八を渡ってすぐ)
・定例会参加:無料
〇終了後(21:00〜)懇親会:イーストビレッジ 03-5346-2077
*京王井の頭線 高井戸駅下車。すぐ陸橋(環八・歩道橋)を渡り、左にガードをくぐり、神田川を
 渡る。大きな茶色のマンションの裏1F。駅より徒歩2分。
*当日の連絡先:山口真理子さん(TOAFAEC 事務局長) 042-482-9143
・じんぶんHプロジェクト:ringox@nifty.com(えとう)

じんぶんヒストリーV  左・ぶんじん、右・上野景三さん (高井戸・20190726)


報告
 山口真理子(Mon, 12 Aug 2019 11:55)
<じんぶんヒストリー(第3回)記録…7月定例(第264回)研究会ご報告>
・参加者:(敬称略) 江頭晃子,遠藤輝喜,小田切督剛,ハスゲレル,持田津希子、( )、山口真理子
・内容:今回ははるばる佐賀から上京の上野さんがインタビュアーとなっての「じんぶんヒストリーV」。上野さんは、前回の話を報告で読み、どうしても伺いたいことがあった由。一つは、そもそもどうして九州大学に入られたのか。もう一つは一旦就職しながらなぜ大学院に進まれたのか、社会教育に"道を踏み外した"のはなぜか、というようなこと。文人先生は、この日は1960年代から話されるつもりで、資料もその用意だったので、1950年代に戻ることで、ちょっと混乱する、とおっしゃりながらも質問へのお答え、話を始められました。
 九大に進まれたのは、経済的な事情からの条件があったそうです。その当時、戦争直後の大学進学をめぐる社会的状況を話されました。「進学適性検査」(いわゆる「進適」、受験「学力」をテストするのではない)なるものがあって、それは軍隊から帰ってきた人たちはもとより、演劇やスポーツに夢中だった人たちの救いになったこと。先生も高校時代は9人制―6人制とは違う!と強調・・・が生活の中心で、受験勉強はやっと2ヶ月だけだったらしい。そのためか、学友は復員兵,新聞記者経験者,他大学卒業生など、人生経験豊富な人も多く、バラエティに富んでいたそうです。
 教養部(文科)から教育学部を選んだのは、消去法的な理由もありますが、無着成恭の「やまびこ学校」の話(講演会が久留米であった)を聞いたのが大きかったそうです。
 ここで教育学についてのお話になります。戦前の教育学は「哲学・倫理学」と並ぶもの、国家主義的・師範教育的な流れも過去にあり、それから脱皮し「教育科学」へ、新しい教育を創ろう、「新教育への道」という雰囲気も当時満ちていたそうです。
 卒業論文は『アメリカにおける社会科教育の発展』をテーマに。この論文は評価も悪くなかったそうですが、既成の教育学への反発もあり、「やまびこ学校」など生活綴方・民間教育研究運動に魅かれていたこともあり、既成の教育学ベースの学問研究から離れようと大学を去ることに。就職した久留米市立教育研究所は設立後1年で専任が置けなくなる事情があり、また所員時代にはいろいろな先生に出会えたという刺激もあって、大学院に戻ることになったとのこと。
 大学院では、伝統的な教育学からいちばん離れた分野へ。それが教育社会学。農村社会学ご専門の喜多野清一教授(文学部)に教えを受けられます。非常に影響が大きく、多くのことを教わった、と先生はおっしゃいます。喜多野教授の下で、農村調査・フイールドワークの機会をたくさん持つことができ、体で教えてもらった、そんな訓練を受けた思い出。その後の先生の進路を決定づけたとも言える修士論文は、『都市における近隣集団の教育的機能―久留米市暁住宅調査』のフィールドワーク。その経過や修論後の研究についても述べられましたが、第2回とダブルところもありますので省きます。 
 喜多野先生の社会学ゼミ。@最初に古本屋に連れていってもらったこと。A調査地へ、その周りを回って調査村落をを選ぶ、B泊めてもらえる所(お寺など)を決める、C壬申戸籍(明治初期)を全部写して、村落の家族構成や移動、同族組織を頭に入れてインタビューへ。―エッ!壬申戸籍って閲覧できるの?−。
 とくに農村社会学的な調査、インタビューの方法を教わったそうです。face to face、ラポール、「社会調査は一人ではできない」という教えは、先生が常々おっしゃる「学問は協同・共有するものだ」に通じることでしょうか。
 上野さんからは研究者による方法論の違いなどの質問も出ましたが、当然、研究者の問題意識やテーマにもよるだろうと。デュルケームの「社会的事実」、マックス・ウエーバーの「理念型」概念、日本農村社会学の有賀喜左衛門、福武直,そして鈴木栄太郎などの古い名前が飛び出し、その学説なども説明されたり、先生の記憶は相変わらず健在でした。
 1967年以降、社会教育研究への道へ。社会教育法の法社会学的研究として「法の地域定着」研究がいわばスタートと。今回はここから話を始めたかった、とは最後の言葉。以下は「じんぶんヒストリーW」のお楽しみ。
◆「楽天の人生」 ぶんじん(南の風4069号、Mon, 29 Jul 2019 09:21) 
 26日・7月定例会(じんぶんヒストリーV)、ご出席の皆様、ご苦労さまでした。とくに遠路の上野景三さん(佐賀大学)、お疲れさまでした。話し手としては「社会教育研究への道」について、ほぼ1960年代以降の歩み(先回で1950年代「青年B」の話は済んだ・)と考えて、メモも用意していきました。ところがご質問は、むしろ大学時代にもどって、さらに大学院・「助手」時代の、屈折を含む当時の話題となりました。つまり1950年代後半に逆戻り、「じんぶんヒストリー」はほとんど前に進みませんでしたね。しかし「本当におもしろかった」(上掲・小田切メール)の感想も寄せられ、話し手も充実感あり。
 人生には、誰しも模索や反発の時代がある、挫折・混迷のつらい思い出がある、そんないきさつを少しお話しした結果になったようです。上に苦しく語る写真一枚をアップ(江頭晃子さん撮影)
 私の旧制中学(久留米・明善)の校訓に「楽天」という言葉がありました。いま企業やプロ球団の名称となってしまって、あまり口にしなくなりましたが、私なりに(友人たちも)大事にし自慢もしてきた言葉です。ただし「克己」「尽力」と並んで「楽天」。当時の“尽忠報国”などが叫ばれていた軍国主義時代に、「楽天」には独自の響きがありました。「お國のために」という流れの中に、個人の生きる思想、といったニュアンスが含まれているようです。自分なりに力を尽くせば楽天の境地が拓ける、頑張れば必ずや何かが待っている、そして天命を楽しむ、と励ましの響きもあったような。当夜のぶんじんの話には、この「楽天」について触れるべきでしたが、余裕がありませんでした。若いときだけでなく、いま年を重ねて、ときどき思い出す大事な言葉です。





















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