【最終講義(小林文人)】

目次 (1)東京学芸大学 (1995) 
     (2)和光大学(2002)


▼東京学芸大学・最終講義(1995年3月)




1,東京学芸大学最終講義 (1995年3月18日)
 社会教育への旅 〜学大から沖縄・東アジアへ〜

       (TOAFAEC 『東アジア社会教育研究』創刊号、1996年、所収)


はじめに
 最終講義というのは生まれて始めてでして(笑い)、とうとうこういう時期が来たのかという思いと、やっと最終講義ができるのかという喜びが交錯しております。学芸大学に来たときに旧校舎がおんぼろで、キャンパスに入ったとたんに、元気をなくした記憶がございます。その校舎が新しく改築され、少しは大学らしくなった講義室でこういう機会を与えていただき有難うございます。
 お手元に今日の話のレジュメ(添付資料)を用意しておきました。あらためて28年間この大学にお世話になって、この会場にお集まりの方々とご一緒にいろんな歴史を歩んできた、という実感があります。全国、とくに北海道から九州まで、年度末のお忙しい中お集まり下さいまして、非常に感謝しております。生涯教育講座の先生方、大学院生、学生の皆さん、色々用意して下さいましてありがとうございました。最初にお礼をいっておきませんといけませんので(笑い)。書道科専攻の中根さんがテーマの垂幕を書いてくださったそうですし、また私をエスコートする一条さんは足を骨折して療養中であり、こんなに迷惑をかけていいのかと思いながら、今ここに立っているわけでござます。
 長浜功さんからご紹介がありましたように、私が最初に東京学芸大学に来た時には、社会教育が中心の仕事ではありませんでした。学校教育の教員養成の中で、麻生誠さん(のち大坂大学教授)と私で教育社会学を担当しておりました。その中で少し社会教育を担当する、週一回わずか2単位です。主としては教育原理とか教育社会学の講義を担当してきたわけです。
 私、今日のために体調を整えてきたつもりですが、6〜7年前から花粉症になりました。花粉症というのは杉の花粉だけでなく、実は大気汚染との複合汚染でして、学芸大学の空気が悪いんだといいながら毎年三月を過ごしてまいりました。しかし今年ほど不愉快な、いやな季節はございませんで、喉も痛めております。お聞き苦しいかと思いますが、最後の機会ですので、この大学に赴任させて頂いて、教育社会学から社会教育への旅、「旅」という言葉をテーマとして、私なりの歩み、そして思いをお話ししたいと思います。

 私は九州の生まれです。1967年、東京のこの大学に来た時には数年で九州に帰ろうと思って、ちょっと出稼ぎに行こうという旅の気持ちでした。九州の大学では、私は農村社会学を自分の第一のテーマにしており、前任校の私立大学では社会学を担当していました。ですから、この大学に来て教育学教室に所属して、教育学を担当させられた時には、旅の中にさまよう異邦人みたいなところがありました。
いま高田馬場に移りましたが、当時大塚の茗荷谷の近くにありました教育書専門のヤマノヰという古本屋に飛んで行って、給料の一ヵ月分と安いボーナスをはたいて教育学辞典など教育の基本文献をたくさん買いました。それ程、社会学をやってきた者にとっては、教育学については文献資料ももたないし、思いもうすい。しかしもともと私は出身は教育学部です。九州大学ですが、教育学の学問的な研究にどうしてもなじめませんで、少し反発をして文学部の、喜多野清一という農村社会学の先生なんですけれども、その先生が大学院で教育社会学講座の教授を兼担されていて、それで、農村の調査などに連れて行って頂くようになりました。
社会学で一応やって行こうと思いながら、九州大学を出て、九州産業大学の教養部の社会学助教授であったわけです。しかし、教育学部出身ですから、村落社会研究会、日本社会学会と並んで日本教育社会学会には所属しておりましたけれども、この大学に来て、突然に社会学から離れてあるいはいつのまにか教育社会学からも離れて、社会教育という分野に旅に出たと、そういう思いが強くするわけです。

社会教育研究への道
 ご覧になりにくいかと思いますけれども、お手もとに私なりの自分史研究略年表(後掲)を作ってみました。一番左の列に大学、その次が社会教育、そして沖縄関連、それから後ほど少しお話し申し上げたい東アジアの列を用意してみました。東京学芸大学のところをご覧頂くとわかるように、大学院を1974年にはじめて担当いたします。もちろん修士課程の教育社会学、社会教育ではありません。社会教育の講義がこの大学で本格的にできるようになるのは、1979年にはじめて社会教育主事資格の単位を開講することができ、社会教育の講座を中心に担当するようになってからです。長浜さんが本学にいらっしゃったのが1974年と記憶しておりますが、その当時まだ社会教育の時間数はあまりなかったのです。
 何故この大学で社会教育のスタッフがが二人になったのかというのは、同和教育と部洛解放運動と関係があります。いろいろ被差別部落の問題の取り組みのなかから、大坂、関西地区で大学に同和教育の講座を置くべきだという運動が部落解放運動の側から提起された経過があります。その背景をもって、同和教育という講座名ではなくて社会教育の講座に一人増員しようということになったらしく、その妥協の産物が大阪大学の人間科学部の中に社会教育講座が開設され、あるいは大阪教育大学の社会教育の担当が二人になる。それに対応して東京学芸大学でも、同和教育を直ちに担当するわけではないけれど、大坂とのバランスで社会教育の担当が二人になったということらしい。二人体制の実現には、日本の同和教育に関する部落解放運動のそういう背景があるということを私はいつも忘れないようにしてきました。ようやく川村善二郎先生(歴史学者)を迎えてこの大学で"部落問題と社会教育"という講義を開くことができたのがつい5〜6年前のことです。 今日この会場には、かなり古い卒業生の皆さんも来て頂いており、社会教育などというものには、まったく触れていない時期の方々もいらっしゃるようです。たとえば、今日の記念の本(『地域と社会教育の創造』エイデル研究所発行)づくりの中心になって頂いた末本誠さん(神戸大学助教授)とは教育社会学の講義で出会ったのではないかと思います。ウオーナー(W.L.Warner)の『Who Shall be Educated ?(誰が教育を支配するか)』1944年、というアメリカの社会人類学の文献ですが、これを末本さんが借りにきたことを覚えています。まだ学生の時ですが、妙な関心を持っている人がいるものだなと思っていました。その後私は、1973年から『月刊社会教育』の編集長をいたしますが、末本さんは私の無給の助手で、原稿取りに走り回ってくれました。彼は幸いに4年で卒業しないで5年いましたので(笑い)、末本さんが社会教育研究に進むことになったことを考えても、いろんな仕事を学生にどんどん求めると、そこから道が開ける格好の事例ではなかったかと思うのです(笑い)。
 そういうことなどを思い返して見ますと、人生はやはり旅なんでありましょう。自分自身で一つのところに落ち着けないで、それから一つのところに反発をして、何か新しい所に行きたくなって、新しい道をさがす。そういうチャレンジをしていくものなのでしょう。私の場合は教育学から社会学、農村社会学へ、社会学から教育社会学へ、教育社会学から社会教育へと、
 そういう旅をしてきた思いがございます。レジュメの一番最後にも書かせて頂いておりますが、これからもまた新しい旅をしようと。学大の中での旅は終わったわけでありますが、皆さんにおめでとうと言って頂いて有り難いわけですけれども、もう少し新しい出合いを求めて"社会教育への旅"をまだしばし楽しんでみたいのです。
 私の講義はいつも前後、混乱する講義ですので適当にレジュメや年表を見ながら話しを聞いて頂きたいと思います。私にとっての1970年代、それは教育社会学から社会教育研究へはっきりとスタンスを移していく時期です。学会では当初は教育社会学会が主であったわけですけれども、社会教育学会を中心にやっていこう、それから社会教育のいろんな運動に参加していこう、『月刊社会教育』という雑誌の編集に参加していこう、と思い始めるのは、やはりこのころです。
 自分なりの歩調をどうとっていくか、細かなことは省略して一言だけ申しますと、当時こんなことを考えていました。社会学的な立場から社会的な事実を客観的に記述することを大事にしつつも、熱い血潮を循環させている人間として、言うべきことは発言していこう、そんな研究者の道を歩んでいきたい、ということです。つまり社会学的な手法をどう発展させるかということ。たとえば農村調査の場合、農村・農民の社会的事実をきちんと記述すべきだというトレイニングを受てきました。しかしその中にはいろいろな差別の問題や貧困の問題がある。あるいは青年運動の躍動があったり、あるいは年寄りの問題、当時から山村は高齢化社会なんですが、それからなによりも階層的には山村の山林地主とそれに隷属する山林労働者の問題があったりするわけです。そういう山の中での支配と被支配の構造などを客観的に記述することが大事であると同時に、もう少しその中に入って、貧困や差別の問題に人間として発言をしていきたいという思いがふつふつとわいてくる。それが社会学と教育学の違いなのかも知れません。農村社会学で地域の調査をしている間に今申しましたような山村改革の活動や農民運動に出会うわけでして、客観的、没価値的に事実を記載するだけではなく、政策論・運動論も提示していけるという学問の姿勢みたいなものも追求していきたいと思いはじめるわけです。いつのまにか農村社会学から教育社会学へ、そして社会教育学研究に自分の研究のウエイトを移していく、そういう経過がございます。

研究資料の掘り起こしと共有化
 社会教育の研究ではすぐにまた困ることがありました。当時この大学では極端な言い方をしますと、社会教育の本は数冊を数える程しか図書館にはありませんでした。教員養成大学の蔵書の貧しさ枠組みのせまさを実感しました。少し文献はありますけれども、だいたい一週間もすれば読み終わるような、たとえば宮原誠一氏とか平沢薫氏というような戦後の初期の社会教育研究者の本が数える位しかないわけです。
 しかしだんだん分かってきますが、戦後日本では教育改革期に社会教育の問題をめぐって文部省も関係団体もいろんな努力をしている、社会教育という法律ができる、図書館法も博物館法もできる、そして全国各地でいろんな社会教育の実践が始まっている。その間にはさまざまの文献・資料が編みだされてきている。しかし自分は大学の中で社会教育の研究を行なおうとしても、研究室にいるだけではほとんど何もできない位の資料的な空白にいることに気づくわけです。そんな問題意識から戦後社会教育の歴史を掘る作業をしよう、とにかく戦後の社会教育についての基礎的な資料を洗い出していこうと。歴史的資料を誰かがもっている、どこかに埋もれている、それにあと一度、日の光をあててみたい、そんな作業の必要性を痛感しました。学問の世界によくあることだと思いますが、もともとは社会的、公共的な資料が個人的、私的に占有されて、それをネタにして研究者として業績をつくっていく。その人が獲得した資料は他の人には見せない、言わば囲い込まれてしまうんですね、大事な資料が。そういう状況を克服する必要がある。
 ここで幸いだったのは、日本社会教育学会が開放的な雰囲気で議論しておりましたのと、当時国立教育研究所が『日本近代教育百年史』の編纂の事業を始めていたことでした。『日本近代教育百年史』の研究グループが故吉田昇氏(当時、お茶の水女子大学教授)、古木弘造氏(当時、名古屋大学教授)などを中心に出来まして、そして国研の中では横山宏さんが社会教育の部屋で仕事をしておられました。私は横山宏さんより10歳年下の後輩であります。それだけに、横山宏さんとご一緒に、とにかく戦後初期に社会教育に携わった方々が持っておられる資料を学会の研究活動の中で報告して頂きながら、それをパブリックなものに復刻していこうという作業に参加したわけです。それから当時、やはり国研で科研費もとれましたので各地を調査いたしましたが、その中で収集した資料も関係者だけのせまい範囲に止めないで、公のものに広げていこうというわけになった。それが、日本会教育学会・社会教育法制研究会の活動であり、その結実が『社会教育法制研究資料』全15集の刊行となりました。当時横山宏さんを中心に一冊ずづ手作りで世に送り出したという実感です。故岡本正平氏(戦後初期、社会教育連合会、のち東北福祉大学)が持っておられた資料を活字にしたり、想い出しますと、その頃ちょうど故伊藤寿朗さん(のち東京学芸大学助教授)が博物館の研究をやり始めた時で、博物館法についての資料を収集中、それを中心に博物館法関係の一冊も作りました。図書館法については裏田武夫氏(東京大学教授)と小川剛さん(お茶の水女子大学教授)の『成立資料』がありますが、博物館法成立草案は私たちは未見だったのです。
 社会教育法制研究資料を作成するにあたってはいろいろの諸君が手伝ってくれました。その中心に農中茂徳くん(福岡県公立学校教師)がおりまして、あの時は学芸大学に来るのではなくて、国立教育研究所の横山研究室に通ったことの方が多かったのではないかと思う程です。谷口八重子さん(町田市公立学校教師)などもずいぶん手伝ってくれたように思います。そして法制研究資料15集が、さらに凝縮されて横山宏編『社会教育法成立過程資料集成』の刊行となるわけです。これは日本教育学会機関誌『教育学研究』でもきちんと評価してくれました。つまり学会における研究のあり方として、とくに歴史資料あるいは地域資料の社会的な共有化について一つの問題提起をした、もちろん十分ではないけれども、そういう作業だったように思います。 私はその後、沖縄研究に出会って、そして今、東アジア研究などと言っておりますが、その中でいろんな資料や記録をつくる手法の原点は、私にとっては社会教育学会『社会教育法制研究資料』15集が出発点です。こういう文献・資料づくりがないと当時の私のような若い者は研究ができないのですね。ある大学のある研究室は少し資料を持っているけれども見せてくれない場合があった。そういう大学の閉鎖性みたいなものを何とか開いていくような、研究者としては非力ですけれども、そういう姿勢だけは大事にしていこうと思ってきたのです。
 それからもう一つ、私の研究手法の"初心"をあげれば、農村社会学の調査活動と事実から立論していく実証的精神とでもいえましょうか。忘れがたい先生は先ほど述べた農村社会学の喜多野清一先生(のち大坂大学、早稲田大学教授)であります。他の先生にもお世話になりましたが、何か作業をする時にはいつも喜多野先生のお顔を思い出します。喜多野先生は,「こつこつと地域を歩け」「本はたくさん書くな」と繰り返しおっしゃいました。「いい加減な論文を書いてはいけない年に一つだけしっかりしたものを書けば10年経てば10の仕事ができる」と。私は社会教育の分野に入るとあれこれ雑多に書かざるを得ない場面があるわけで、そういう場合にはいつも先生の顔がちらつくのです。
研究というものは研究室の中だけでやるものではない、地域の中でやるものだ、ということも教わりました。先生の後ろにくっついて地域を歩いていく。そして「小林君、ここは村の入り口だ、そして向こうに山があって、あの集落とこの川でつながって、相互に水利の共同の関係がある。集落のなかを進んでいくと、村の広場、そこに社(やしろ)がある」そんな調子で、一つ一つ教わりながら一日集落をまわって、その翌日にはまわりの集落をまわって、という具合に、一つの地域を「小さな宇宙」として全体的に描きこんでいく。もう一つは、古本屋をまわることも教わってきました。

地域研究の視点−九州から三多摩へ−
 今からふりかえると、かけがえのないト
レ−ニングをしていただいた、だから地域実証主義ということだけは少し丹念にやっていこうとこれまで歩いて来ました。その始めが九州でした。それから三多摩でした。学芸大学は三多摩に位置していますし、私も当時国立に住んでおりました。お手元の自分史メモの社会教育の項の冒頭にあえて国立公民館運営審議会と書かせて頂いのは、国立でたいへん勉強したんだということをちょっと記録にしておきたかったからです。
 それから誰が推薦したのか知りませんが、私が多少しゃべり過ぎるところを買っていただいたのでしょうか、東京都の社会教育委員になりました。1972年のことです。都の社会教育委員としては、三多摩の社会教育の中心に公民館があり、公民館運営審議会が重要な役割を果たしている、そういうことをとにかく発言していこうと心に決めました。東京都の社会教育政策は公民館を忘れてきたんですね。図書館については政策的に大事にしてきたんですけれども、公民館と博物館は忘れてきた。そういう意味で三多摩の公民館が果たしてきた役割については声高に強調してきました。私は1980年まで、東京都社会教育委員をつとめましたが、この年に本学の学生部長に選ばれまして、すべての委員を辞めなければならなくなりました。その間には79年からだと思いますけれでも、昨年亡くなられました寺中作雄さん(もと文部省社会教育局長)と一年間社会教育委員としてご一緒させて頂き、忘れがたい想い出となりました。
 当時あと一つエネルギ−を傾注したものに東京の公民館像を創り出す仕事がありました。この会場に進藤文夫さん(元国分寺市教育次長)がいらっしゃいますが、徳永功さん(元国立市教育長)ともご一緒に「新しい公民館像をめざして」を、つまり三多摩テ−ゼと愛称されるものを作りました。このあたりのことを振りかえると地域の中からそこで実際に動いている活動、あるいは住民の運動のなかから、非力ではありますけれども、社会教育の理論の形成に挑戦していこうということが社会教育研究の私の一つのスタンスだったように思います。
 ご承知のように社会教育推進全国協議会という団体があります。私が常任委員として参加した1968年当時は吉田昇さんが委員長をしておられました。私はこの運動体で一すじに研究調査・資料刊行の仕事にたずさわってきたつもりです。大学の紀要にあまり書きませんで、毎年一冊づつの思いで社会教育推進全国協議会の調査研究部報告(自分史メモ参照)を作ってまいりました。大事な資料を地域的にばらばらにしないで、それから個人的な所有にまかせないで、社会的に横につないでいこうという資料運動でした。それが集積され凝縮されて社全協編『社会教育ハンドブック』刊行にもなる。『社会教育ハンドブック』については、古い卒業生の皆さんはご存じありませんが、初版を1979年に出すわけで、その後5年毎に改訂をして今日に至りました。初版以降の『ハンドブック』を私はずっとテキストのしてきました。私も少し自分の本を作りましたけれども、自分の本を作ることよりも社会的協同的な、資料集成的な本をむしろ作りたい、たとえば『社会教育ハンドブック』を作る。一緒に編者の仕事をしたのは島田修一さん(中央大学教授)と奥田泰弘さん(同)です。当時の版元である総合労働研究所は3人の名前を編者として発行しようとしたんですが、社会的な広がりにしていくためには、個人的な出版ではなく、社会教育における民主主義を実現しようと目ざしている運動体の社全協編として産ぶ声をあげさせようということになりました。各地のさまざまな実践資料を結集して、この一冊を持っていれば、社会教育の法律もわかる、自治体の動きもわかる、少し国際的な動向もわかれば、統計も年表もみんな載っている、そんなハンドブックを作ろうと。これが1979年にできた時には、本当に嬉ばしく皆で乾杯をしたわけです。そういう協同の作業が、私にとっては大事でした。
 大学の研究業績というのは、大学の研究紀要に書く論文や学会発表することと、実際に実践・運動のなかでの発表や報告を区別をいたします。実践や運動の仕事は大学の研究業績にはカウントされにくいのですね。質が悪くても大学の紀要に書いていれば業績になるんですね。質が悪いというのは私のことを言っているんですけれども。力をこめて運動体の資料に書いても、それは業績にならないわけ。なんだかおかしなことだと思いながら、しかし自分の歩いている道は自分なりに自信をもって行こうと、一人で作るよりも運動的にみんなで本を作る大事さというものを自らで実践して行こうというのが、社全協の調査研究資料の刊行運動になったということでしょう。
 だんだん時間のことが気になってまいりましたが、レジュメを見ますとまだ入口に入ったばかりです。少し省略させて頂きますが、この間『月刊社会教育』の編集の仕事もしてまいりましたし、そこから社会教育に関わるいろんな人との出会いがございました。大学の中にももちろん知識人がいますけれども、地域で格闘しているすばらしい正義感溢れる知識人がいるんですね。そして名誉、栄達とは縁がなく途中で挫折し、あるいは病気で倒れる人もいる。こういう人たちが脳裡をかすめます。しかし、こうして最終講義などをするために過去を振り返ってみますと、私はやはり社会教育の実践の中で出会った方々とのかけがえのない出会が忘れられない。研究室にとっても、私の個人的な生き方にとってもすばらしい宝物を頂いたと思って、一つひとつお名前をあげる余裕はありませんが、その方々との友情を想い起こしてみてはいい分野を専攻したものだと感謝しています。

沖縄研究への道
 さて、沖縄の問題について少しお話しを聞いて頂きいと思います。自分史メモに沖縄の欄を作っておりますが、そのきっかけは、先ほど申し上げた1973年の『日本近代教育百年史』の執筆・刊行からです。これは国立教育研究所の教育百年史記念事業であります。もちろん今読み直してみますと不備な所もございますが、一応、近代日本社会教育史の定本的な評価を得てきたといっていいと思います。たとえば、歴史の卒論などを取り上げる学生などには『百年史』をまず読んで欲しいと言います。私は1945年から65年まで、つまり戦後の社会教育行政、施設の章を担当いたしました。それを少し修正して後に出版した『公民館史資料集成』などにも結びつくわけですけれども。この原稿を出したのは1972年でした。自分史メモの年表を横に目を移していただきますと、この年は沖縄本土復帰となっております。原稿を書いていた時は沖縄はまだ本土に返還されておらず、アメリカ統治下にありました。執筆時点では一応沖縄の問題は取り上げないという申しあわせがありましたので、私は弁解できますけれども、しかし本が出たのは1973年。沖縄は日本に返還されていました。
 私の原稿はかなり厳密にチェックされました。国立教育研究所の平塚益徳所長は私の九州大学当時の先生なんですね。私の書いた所を平塚先生は丹念に読まれたようですね。よく書いたとおっしゃったそうですが、チェックはいろいいろあって、平塚先生も亡くなりましたけれども、そういう経過が一年近くもございまして、本ができた時には沖縄は本土に復帰していたわけです。結果的には、私は『日本近代教育百年史』の1945年から65年までの執筆分担の中に一行も沖縄のことを書いていないのです。完成された本を見たら、青年教育の章を担当された国学院大学の堀恒一郎さんが少し沖縄のことにふれておられる。敬服すべきことだと思いました。
 『百年史』の中でたとえば、部落問題、同和教育問題がほとんど書かれていないのに等しいという点ですとか、あるいは沖縄の問題がまったく欠落しているとか、いろいろな課題を残して本は出て、しかも一応通史として定着している。それに携わった者として責任を痛感するわけです。
その後何とかして沖縄の問題について取り組みが必要であると考えるようになりました。つまり戦後日本社会教育法制史だけではなくて戦後沖縄社会教育史研究に取りかかる必要がある、沖縄研究を開始しなければならぬ、という切迫つまった思いでした。数年たって、忘れもしませんが、1976年の5月、もう長浜さんは忘れたかも知れませんが、教授会の時に長浜さんと隣合せに座って「沖縄研究をやろう」と話した時、長浜さんは賛成してくれました。当時、末本君が東大の院生だったと思いますが、末本君にも相談いたしました。末本君も賛成してくれました。そうしますと少なくとも3人はいますから、それで出発していけば何か仕事はできるだろうと思いました。
 社全協が毎年主催する全国集会が、1976年9月に上野の東京文化会館で盛大に開催されました。その時に沖縄からぶらぶらと一人で迷い込んだ人がいたんです、上原文一(当時、沖縄県具志頭村社会教育主事)という人なんですけれども。今お手元にある『地域と社会教育の創造』の中に上原文一さんが私のことをおおげさに書いております。自分の肩書きの所に「沖縄に初めて小林文人をつれてきた男」と書いているんです。彼は、文部省の経費で、上野にある国立社会教育研修所に来たんですね。駅を降りたら目の前に社全協主催全国集会「地域からの社会教育を発展させよう」などと垂れ幕がでて、そこに飛び込むわけです。こういう団体があるのか、こういう集会があるのか、と思うわけでしょう。その時は一千名程集っていたわけですから、熱気あふれる集会でした。その翌年が九州大会ですけれども、彼は国立社会教育研修所に行く前に、これはあまり言わない方がいいのかも知れませんが、民間の団体である社全協の全国集会の最終日に壇上にあがりまして、九州の人たちと一緒に「来年は九州集会で頑張りましょう」とか言ってるわけです(笑)。それが写真に残っています。
 その後上原文一くんは上野の社会教育研修所に2ヵ月程通いましたので、その間に学芸大学に来てもらって、彼をゲストに沖縄社会教育研究の第1回研究会を開催したわけです。お手元の自分史メモの年表の方を見て頂くとわかりますが、「沖縄社会教育研究会」発足が1976年、それから1995年2月20日の名護市教育委員会の照屋秀裕さん(社会教育主事)が来た時までに19年、128回、 よくぞやったと思います。まあ、長くやればいいというものではありませんけれども、この間沖縄訪問・調査53回、『戦後沖縄社会教育史料』全7冊刊行、平良研一さん(沖縄大学教授)と編んだ『民衆と社会教育』の出版、論文・学会発表多数。そして今後の展望は「模索中」とでもしておきましょう。
 いま一応ピリオドをうち封印をしたわけですが、この研究会は私たちにとっては、研究の流れをつくる上で実に大事なものでした。初代の事務局長が当時、東大の院生あるいは助手だったでしょうか、まだ貧しい末本誠さんでした。歴代事務局長は次に園田教子さん(鶴ケ島市役所職員)、野村千寿子さん(東京都太田区社会教育主事)などに伝わり、その後は、渡部幹雄(長崎県森山町教育委員会)内田純一(東京都立教育研究所)、吉田香代子さん(中学校講師)など院生が分担して、最後が佐藤賢也君(川崎市役所職員)で終りました。
 沖縄研究というものは非常に難しい問題がございまして、沖縄の問題に立ち入って研究する私たち大和んちゅの姿勢が問われるのです。いつも厳しく問われました。入り込めば入り込むほど問われました。「うちなんちゅ」たちはだいたい泡盛を飲んで問いつめますね。そして議論が難しくなると向こうは沖縄弁(うちなぐち)でしゃべり始めます。こちらはわからない。私たちは「どうして沖縄の問題を沖縄の人しかやれないのか」「一緒にやるんだ」と。沖縄の問題に共通して関心を持つものは共にやろうということですね。そういう反論、対応をして参りました。東京の「戦後沖縄社会教育研究会」に続いて、その翌年に那覇で研究会がつくられます。レジュメにひらがで"おきなわ"と書いている研究会です。漢字の東京の研究会と相呼応して、連動させながら沖縄の研究会が歩みはじめていくわけです。二つは姉妹研究会、活発に動いてきました。

足で歩き記録にのこす −沖縄資料の共有化−
 いろんな思い出がございまして、とりわけ『沖縄社会教育史料』7冊というのは忘れがたい。10年の歳月をかけて、刊行に力を入れました。まだ研究室に残部がありますが、沖縄で得た資料を個人の所有物にしないで、また研究室だけのものにしないで、『資料』として記録化して、必ず沖縄にかえす。沖縄人の証言をとると、そのテープをおこして必ず記録に復元する、戦後沖縄の厳しいアメリカ占領下で生みだされてきた事実を、社会的に共有化するという作業を、これは可能の範囲でしっかりできたと思います。あらためて喜納勝代さん(糸満市中央公民館長、久茂地文庫)や名城(旧姓当間)ふじ子さん(那覇市役所職員)などの努力に感謝したいと思います。この作業は、かつての学会『法制研究資料』全15集の作業を沖縄で継承したものといえましょう。
 この間にたくさんの資料が研究室に収集されてきました。本土では沖縄関係文献資料がなかなか手に入らない。ご承知のように故中野好夫資料をもとに、法政大学に沖縄文化研究所ができました。これを除けばあんまりないんですね。もちろん琉球大学やそれから沖縄県立図書館などに行けばあるんです。しかし東京にはない。ですから足もとの自分の大学の研究室、そして図書館に沖縄の文献をしっかり入れようと思うんですね。しかし私たちのテ−マから言って教育文化に関わって、そして政治や社会の沖縄文献についても必要なものをとにかく集めていこうと、ここ20年近くやってきました。文部省科研費がきた時にはかなりのお金が使えましたし、最近は毎年の大学の研究費の中から20万前後を沖縄文献に入れて、ほぼ20年で合計400 万ぐらいかけて、それに科研費を加え入れればかなりの沖縄コレクションとなるわけです。高円寺の駅前の「琉陽書房」のオヤジさん(西平守良氏)がずい分と力になってくれました。
 とくに沖縄は、地域誌(史)、市町村誌(史)がたくさん出ており、それを出来るだけ足で歩き追っかけながら新しいものを入手してまいりました。これがいま教育学教室の図書室の一角を占領しておりまして、私がここを辞めますと、原則的には図書館に返すことになる。そうしますと歴史の本は歴史、法律の本は法律、民俗は民俗、教育は教育のそれぞれのジャンルにバラバラの棚に分散してしまうわけです。これを何とかまとめて一つのコレクションとして、今のようにどこかに置いて欲しいというのが私の「最後のお願い」のようなものです。
 それから沖縄研究にかかわってあと一つの悩みがあります。沖縄の収集文献資料のなかには大学の公費で買えるものと買えないものがある。たとえば、小さな集落の字誌(地域史)刊行は一般図書の流通ル−トにのりません。結局その集落に行って足でかせいで手に入れるわけです。なかにはいただいたものもありますが、個人でお金を出して買う。私費で買うと大学の所蔵になりにくいのですね。大学のものはきちんとした本屋さんが取り扱う文献ですね。私どもが私費で買ったり個人的に集めた文献・資料(地域誌・パンフなど)が実は私の研究室にたくさんございます。小林平造さん(鹿児島大学助教授)とか、上野景三さん(佐賀大学助教授)とかにいろいろ関わって頂きました。奄美の資料はとくに上野景三さんがずいぶん集めてくれたもので、テープを含めてたくさんあります。
 さてこれをどうするか、現研究室に置いては後の方に迷惑です。今のところ置場がありません。私の狭いマンションはすでに資料があふれている。私は4月から和光大学に行くんですが、聞きましたら和光大学は学生が大勢出入りする研究室、教官だけの研究室ではないイメージで「あんまり本は置けませんよ」と和光の先生が言うんですね。倉庫などもあたってみましたが、とても高い。持って行き場がありません。仕方がありませんので、あさって九州の私の家にとにかく運ぼうと。そうしますと沖縄文献のコレクションは分散するんですね。残念で仕方がない。私は、沖縄研究を続けていきたいと思っておりますので、どなたか一部屋貸してやろう、あるいはどなたか書庫を造ってやろうとか、日本の文教政策の貧困を補ってやろうというボランティアの方がいらっしゃれば、お願いをしたい。そんな悩みを持っているのです(笑い)。
 沖縄の社会教育は私たちにいろいろなことを問いかけてきたように思います。戦後沖縄社会教育史研究と調査のなかからは、今あらためて思いますのに、やはり地域にはその地域の歴史があるという実感ですね。つまり国家の歴史あるいは大きな社会の歴史と共に、小さな島の、小さな集落がひとつひとつの歴史を持っていて、そこに人々のくらしがあって、くらしの中に文字どおりその喜びや悲しみもあって、そういうものと連動して社会教育の歴史が動いてきた。この事実を沖縄から学びました。ですから本土で社会教育の状況を考えると、公的な社会教育がだいたい地域と人々の小さなくらしのこまごまとした問題から遮断されて、系統的に講座をするとか、最近の生涯学習の動きで言えば、くらしや地域のことなどから遊離してカルチャーで楽しみましょうというような、そういう市場政策が動いていますね。本来カルチャーとは何だ、あるいは教育や学習をどう考えるかという基本を問う場合、沖縄の視点に立てば考えさせられる所が多いのです。そこに小さな集落の自治と共同、それから祭りと芸能といった地域の文化、それらに公的社会教育はどう関わるのか、本来公的な社会教育というのはどこに原点を持つのかという、そういう基本のあり方について沖縄の社会教育は我々に多くのことを問いかけているように思います。沖縄の現代の生涯学習政策が最近は地域性を失い、なんとも非沖縄型であり、沖縄型の公民館を視野に入れず非個性的であるということを残念に思います。戦後沖縄の社会教育の歩みが苦難のなかで創りあげてきた集落公民館のエネルギー、住民の自治と協同を発展させていこうという生涯学習の進め方を沖縄社会教育史は教えている。その重要な歴史的視点を忘れるべきではないのではないでしょうか。
 さて、沖縄にはアメリカ占領下において、日本の法律を実現しようとする運動が展開されました。教育基本法、学校教育法、教育委員会法、社会教育法の四法の民立法運動です。
 あと一つの配布資料「東アジアの社会教育法制」をご覧下さい。1952年から5年にわたる注目すべき立法運動で、この運動が1958年琉球社会教育法を結実させるのです。屋良朝苗代表の沖縄教職員組合やそして青年運動もPTAも皆でスクラムを組んで本土の法律を沖縄に実現しようという運動でした。この教育四法立法運動に対して、アメリカ側は拒否するんです。たとえば「われわれはさきに日本国憲法を確定し」という教育基本法前文の文言を当然認めない。沖縄人は日本国民ではないというわけです。その言葉を一部修正しながら再度琉球立法院に上程・可決し、これをアメリカ占領軍当局へおくり、アメリカ側はそれを再度拒否する。しかし最後は認めざるを得ない、そういう沖縄の立法運動があるんですね。1956年から58年のことでした。私たちは、沖縄に日本の社会教育法とほぼ同文の琉球社会教育法があること、それが下からの立法運動によりはじめて実現したことを始めて知って実に感動的でした。

沖縄から韓国への旅−社会教育立法をめぐって−
 沖縄研究のちょうど真っ最中に私は韓国に招かれたことがございます。私にとって生涯忘れない光栄なことでした。当時九州大学の諸岡和房さんが、韓国の社会教育界の長老でもある黄宗建さん(当時、啓明大学校教授、現平成研究所長)を連れて東京にきました。二人は英国マンチェスター大学留学時代の親しい友人。話しの経過は次のようなことです。 朴大統領が暗殺されて全斗煥政権に移る間に「ソウルの春」と呼ばれるわずか数か月の民主化時代がありました。1980年の春です。その時に韓国では積年の懸案である社会教育法をつくろうという学会関係者や社会教育関連NGOの方々の努力がありまして、欧米の成人教育法などを集めて議論をはじめておられる。それから、アジアからは日本の社会教育法をこまかく分析したいと。ついては日本の社会教育法について洗いざらい資料を提供して欲しいという依頼です。当時私は横山宏さんとご一緒につくりました『社会教育法制研究資料』、のちの『社会教育法成立過程資料集成』に結実する一連の文献を渡したのですが、韓国社会教育協会の専門家会議で直接くわしく報告してほしいということになりました。結果的に私は行くわけです。1980年2月、会場は白済の旧都である扶余でした。遠慮しないで話せとおっしゃいますから遠慮しないで日本の社会教育法の話をいたしました。その後ですね、事態は転回して、光州事件などが起こりまして、全斗換のいわゆる軍事政権として韓国の政治は動いていくわけです。
 その後に、韓国社会教育法が出来上がるのは、1982年12月のことです。当初、私はそれを知りませんでした。黄宗建さんもカナダに行っておられ、直接の連絡はありませんでしたが、結果的には日本の社会教育法とほぼ同じ構成で、もちろん条文の内容は異なりますが、韓国社会教育法が成立したのです。法案の段階から正式の法の成立までには曲折をたどったようです。後でお話を聞きますと、たとえば日本に公民館の制度がある、その公民館の制度を韓国の方々は社会教育館という名称で公的な社会教育施設として法案の段階ではこれをきちんと盛り込むわけです。台湾(中華民国)社会教育法でも社会教育館という施設が公的制度として法制化されている。ところが韓国では、最終的に法案が動いていく過程において単に「許可する」かたちとなり、公的施設の法制は実現しないのです。ですから法案はできたけれども実質は実らない形で、韓国・社会教育法は成立・公布されました。 私たちは内田純一君とか台湾からの留学生許銘欽さん(台北市公立小学校長)などと一緒に1992年に韓国を訪問しました。韓国社会教育法の10年の定着過程をみてみよう、久しぶりに黄宗建さんともお会いしようという旅でした。しかし10年たっても法制の実質は、地域レベルではあまり見えてこない、というのが率直な印象でした。それとの対比で言えば、日本の社会教育法がどういう蓄積を地域につくりだしてきたか、公民館という施設、制度にしましても、また社会教育主事という制度をとりましても、日本の社会教育法というのは、やはり地域定着という非常に重要な歴史をきざんできているということがよく見えてくるわけです。しかし課題を抱えながらも、韓国社会教育法の立法過程に多少でも関わりをもったことは私にとってきわめて光栄なことでした。川崎の伊藤長和さん(川崎市役所国際室)もご一緒でしたが、第三回の日韓社会教育セミナーが大邱で開かれた時、韓国の、日本でいう文部省の社会教育課長さんが来ておられて、パーティの席上、韓国の社会教育法の成立に小林がある役割を果たしたということをおっしゃって、乾杯をされました。有難いことでした。しかし大事な所は死文化していると黄宗建さんはおっしゃっております。どのようにこれを活性化していくかが韓国社会教育関係者の課題となってきているのです。これとの関わりで台湾を調べてみますといわゆる「中華民国」ですけれども、社会教育法は1953年に成立をしているのです。

留学生との出合い−『東アジアの社会教育・成人教育法制』の刊行−
 お手元に配布したレジュメの3枚目に東アジアの社会教育・成人教育法制の略年表があります。2年前に研究室で作ったものです。これを見ると固有名詞としての社会教育法が世界に四つ存在している。歴史的に申しますと、日本の1949年、台湾は1953年。しかし私はまだこれを見てはいないのですけれども、中華民国としては1942年の日中戦争の真っ只中に社会教育法草案を作ったという記録もあります。それから琉球社会教育法の1958年、韓国社会教育法が1982年であります。私たちは、これらの歴史背景と相互関連、そしてまたそれぞれの独自性を追求していく必要があります。
 思い起こしてみると、1980年代初頭あたりから私たちの研究室には、中国の改革開放政策の影響もあってアジアからの留学生とくに中国人が次々と顔を見せるようになりました。私にとっては『地域と社会教育の創造』の中にも書いている韓民(北京)が最初の留学生です。彼は、実は私どもの教室ではなくて、技術教育の講座なんですが、半分私の研究室に来ていました。それから上海から羅李争という人が来て、講座は教育哲学ですけれども、
 やはり私の研究室によく出入りしていました。夜の中国語学習会もこの二人を講師に始まりました。私の中国語がまずいのはこの二人の責任です(笑い)。
 その後さらに留学生との出会いが多くなります。すぐに朴英淑さん(ソウル)、金慶淑さん(釜山)という韓国からの留学生がきて、朴さんが1982年の韓国社会教育法を持ってきてくれたんです。また羅君と同じ教育哲学講座の魯存化くん(ソウル)が韓国社会教育法の日本語訳をつくってくれたのも印象的でした。そして台湾からは陳東園くん(台北)という人がくる。今までの学芸大学の歴史のなかでは想像もできなかったアジアとの新しい出合いが始まったという実感でした。
 幸い私たちの研究室も1980年に九階建ての研究棟ができ、社会教育研究室の新しい空間ができました。それまでは小さな部屋に松島鈞先生、その後川瀬先生と同室相部屋。そこをだいたい私の研究室にきた人たちが占領して、川瀬さんは大迷惑で、その中にいた人たちは反省すべきでありますが、それだけに新九階建の研究棟はルネッサンスのようなものでした。社会教育研究室、実験室と称して部屋を一ついただいて、そこが研究のたまり場「ねじろ」になり、アジアの海を渡って学びにきた人たちと一緒に、社会教育のゼミをすることができるようになりました。しかし他方で、私自身は残念ながら1980年代は学生部長など大学の仕事に囚われてしまって、簡単に外国にいけない状況が続くわけです。
 自分史メモ・年表の「アジア」のところでおわかりのように80年代の後半、ようやく学生部長が終わり、図書館長になったあたりからかなり動きができるようになりました。アジアの問題を日本の社会教育の問題にどういうふうに重ねてみるか、アジアの視点から日本の社会教育をどうみるか、その拠点といいますか連結点になったのが沖縄という島なんです。私たちは沖縄に出会うことによってアジアの視点を持つことができ始めるわけです。その流れで1993年私たちは、『東アジアの社会教育・成人教育法制』を研究室で作りました。韓国の留学生は韓国社会教育法を訳す、中国の留学生は中国の教育に関する決定や方針を訳す、あるいは教育条令を訳す、それから台湾の留学生もまた台湾の社会教育法を訳し、その歴史を紹介する、ネパールをテ−マにしている吉田香代子さんはネパールを、シンガポールを卒論にした江頭晃子さん(東京都多摩社会教育会館)は自分の卒論を発展させる形でがシンガポールを書く、そして別の講座のタイの留学生も書く。いわば総力をあげる形で一冊『東アジアの社会教育・成人教育法制』が出来あがりました。あまり自慢してはいけないことですけれども、わが国はじめての東アジア社会教育に関する比較研究の資料集成といってもいいでしょう。これを本にして欲しいという声もあるんですけれども、こういう地道なものを本にしてくれる出版社はないのだろうと思っています。
 この中の総論で私は次のようなことを書かせてもらいました。これまで日本の社会教育研究はいつもヨーロッパを座標軸にしてきた。私たちの先輩もみんなそうでした。そして日本の社会教育の特質をヨ−ロッパとの比較のみで描きだそうとしてきた。たとえば、ヨーロッパでは社会教育という言葉さえも使わない、ヨーロッパの成人教育と比べて日本は、歴史的に国家主義的体質が強い、それから団体主義や農村的性格、あるいは学校教育の代位的性格など指摘されてきた。そういう見方をもって日本の社会教育の閉鎖制とか特殊性が取り上げられてきた。大学でも講義をする。確かにそういう事実は歴史的に否定できません。しかし調べていくと日本には当然独自の社会教育の歴史があり、それはむしろ東アジアの諸国との関連をより強くもっている。戦前史から含めると重く厳しい歴史があって、たしかにやりきれない暗い社会教育の歴史がある。しかしそれをなんとか脱皮していこうという戦後の改革もあります。その中で公民館制度に見られるような日本にのみ固有の社会教育の制度形成の歩みがあった。そういう日本的な形態というものが少なくとも戦後50年近く形づくられてきた歴史・その制度形成の事実をどう評価するか。ヨ−ロッパ羅針盤という見方だけでは、一面的な比較論になりすぎているのではないか。あと少し日本の社会教育の歴史形成過程の独自性と東アジア的形態との関連について、いわば多元的視点をもってみる必要があるのではないか、ということです。

東アジア社会教育の歴史的特質
 レジュメに書いておりますけれども、社会教育における東アジア的形態といいましても、まだ充分に説明的な概念に整理できていません。共通して儒教文化の傘の下にあり、また同じ漢字圏でございますが、しかし中国は社会主義圏であり政治体制も経済構造も大変違います。韓国もまた独自の政治状況のなかにあり、それから中国のなかではありますが、台湾政府がまた新しい動きを示している。それらの違いを前提として把握しながら、沖縄の問題を間に入れながら、日本の社会教育制度と実態をそれに重ねてみますと、今まで分からなかったことがいろいろ見えてくるところがある。たとえば戦前日本の植民地支配というものが、どういう歴史的な影を、とりかえしのつかない傷みを、アジアの社会教育のなかに落してきたのか。たとえば識字の問題、日本は非常に高度の教育水準であっていわゆる識字問題はないというふうに一般的には言われている。しかしとなりの韓国では、戦前の日帝支配下の強権的な皇民化政策によってハングルを禁止し創氏改名を強制して日本語教育を押しつけたことによって、1945年解放直後の韓国の非識字率は80%に達する。韓国の教育者たちは、あるいは知識人、学生たちは、戦後直後から民族主義的教育運動ともいうべきハングル識字運動を始めるわけです。1949年にはそれが40%まで回復する。これは私たちが敬愛する黄宗建さんの論文のなかのデ−タ−です。韓国の場合、社会教育の歴史は、そして現代の生涯教育(平生教育)の課題の一つは、まず識字の問題と言ってもよい。それから台湾については、『地域と社会教育の創造』のなかに陳東園くんが書いていますが、とくに「失学民衆」に対する補習教育を制度化し、1982年に補習教育法を新しく修正している。義務教育を身につけることができなかった者、あるいは基礎的なことばの読み書きができない人たちに対して法律でもって補習学校を用意しているわけです。そして最近の成人教育の新しい改革の動きを見ますと、台湾の場合にはいわゆるBasic Adult Educa-tion 成人基礎教育を大事に計画の中に入れています。こういう問題は、実は、日本の戦前の植民地支配と、それから戦後の激動する政治状況と深く関連している。韓国のハングル識字運動も台湾の補習教育、そして中国の「掃盲」(識字)教育も、日本の植民地と皇民化政策に深く関わっているという認識を持つ必要がある。
 戦後この東アジアの諸国はなんらかの形で共通してアメリカのアジア戦略のなかにあり、きわめて政治的な側面をもって共産主義に対する反共・民主化路線のなかに位置づけられてきました。私たちはアメリカ極東戦略と社会教育の問題について日本と沖縄である程度明らかにすることはできましたけれども、韓国もまた非常に深く関係しているんですね。韓国の戦後のアメリカ占領下の教育改革は、アメリカの直接的な軍事支配下にあった沖縄の政策ときわめて類似していることろがあった。沖縄ではアメリカ側が「成人学校」の施策をずっと上から降ろしてくる。韓国でも戦後初期は、社会教育という言葉を使わないんですけれども、アメリカ型の成人教育の施策が占領政策的に上から導入された面がある。大韓民国は1948年に成立しますが、その後すぐに朝鮮戦争になって大激動ですから、もちろん単純に比較はできませんけれども、しかし共通してアメリカ極東戦略のなかに深くまきこまれてきたことはたしかです。そして軍事的支配ないし民族的な分断やのなかで、共通して政治的緊張と社会的な混乱のなかで社会教育法がつくられてきたのです。たとえば、台湾では将介石政権が大陸から移ってきて戒厳令体制を布いて、その政治状況の下で社会教育法ができる。沖縄の場合は、アメリカの側の民政府(USCAR−United StatesCivil Administration of The Ryukyu Islands)といいますけれども、実質的には軍事支配下のなかで琉球社会教育法が成立する。韓国ではそういうなかで逆に実現しないわけですけれども、さまざまの草案ができる。いずれにしてもアメリカの世界戦略、極東の政治状況に大きく規定されて戦後東アジアの社会教育法制がつくられてきた点は共通しているのです。
 レジュメに書いた項目について詳しいことを申しあげる時間がもうなくなりましたけれども、アジア的な社会教育の法律や形態に共通するそういう問題について探求を深めていく必要があると思います。それを日本の問題として引き寄せて見るとき、ヨーロッパ近代の比較では見えないものが見えてくる、そういうアジアの問題に挑戦していきたい。しかしアジアといいましても東アジアだけではないわけですから、課題は実に大きく、挑戦してもなかなかできそうもありませんけれども。

研究室「アジアフォ−ラム」−アジアの海を泳ぎたい−
 ある年はイスラムの文化で育ったアーデル君(現在、一橋大学院生)という人がエジプト・カイロ大学から研究室に来ました。研究室に集う留学生といっしょにアジアフォ−ラムという自主ゼミを始めた年ですから、1989年のことだったと記憶しています。彼はかなり日本語がうまく、中国から来た留学生に逆に日本語を教えたりしました。彼とのつきあいの中で我々はイスラム文化圏での成人教育、社会教育のことについてまったく知見を持たないことがわかるのです。国際的視野という場合にヨーッパ近代だけでなくて、少し多元的に少なくともアジアという、私たちが属する世界の視点をもって考えていく、そういうことをこの間実感してきました。そのことを私は、学びに来た留学生から逆に学んできました。この機会に改めて留学生の皆さんにお礼を申しあげたいと思っております。留学生にもいろんな留学生がいました。私たちのアジアフォーラムは毎週火曜日にずっと開いてまいりましたが、私の退職を前にして自然休会になりました。それは少し残念なことです。はるばる海をこえてやって来た留学生をもっと大事にする必要がある。お互いに励ましあい、相互に学びあう関係をネットワ−クとしてつないでいく必要がある。彼らはひたすら求めているものがあって、教師が一人ちょっと声をかけただけでフォーラムは動いてきたわけです。
 韓国を旅行された方や、東南アジアを旅行しても、共通におわかりかと思いますが、日本は国際的に多くの失敗を重ねてきました。日本の我々の先人たちが犯した罪をなんらか の形で償うことができるとすれば、それは教師としては、こういうことができるというようなことを、口はばったく言うわけではありませんけれども、何かそういう思いを持って留学生と共に学ぶ、そういうことを多少してきたつもりであります。
 しかしアジア研究というのは、私としてはもう遅いという実感もございます。一つはことばの問題でして、ハングルを多少やったり、中国語の学習会を研究室でやったりしてきましたけれども、上達いたしません(笑い)。私の先生は留学生たちですから「老師」としての私を厳しくしからないんですね。全然上達しないんです。ですからことばの問題にしても、もう遅いと思っています。それは私の次の方が、きちんとことばのトレ−ニングを重ねて本格的にやってほしい。中国に行っておられる方もいるし、韓国に関心を持っておられる方もいるあるいはシンガポールに関心を持っている人もいるし、南の広州や台湾や北のモンゴルからきている留学生もいるわけですから、そういう方々の共同の仕事だと思います。それに伍して私も、多少できるだけのことをやってみるか、これからも皆さんと一緒にやってみようかと思っています。
 これまでもこの会場にいる皆さん方から多くの刺激をうけて来ました。たとえば佐賀大学の上野景三くんという人がいまして、鹿児島で日本社会教育学会が開かれた時の帰りに私は福岡に家がありまして、1992年秋、鹿児島から福岡まで一緒に帰ってきたんですけれど、列車の中で上野景三君がこう言ったんですね。私は年賀状にこうありたいと思うことを一言書くくせがあるんですが、学生部長の時にはまったく動きがとれなくて、その年に「アジアの海を泳ぎたい」と書いたんです。それを覚えているんですね、大事なことはあまり覚えていないんですけどね。小さなことを覚えているんですね(笑い)。「先生、その後どうなっていますか」というわけです。「アジアの海を泳いでいるのか」と。私は「まったく泳いでいない」と。しかし考えてみますと、この会話が刺激となって『東アジアの社会教育・成人教育法制』は生まれたといってもよいのです。この資料集はドクタ−コ−スを持たない修士コースだけの小さな研究室が作ったものとしては、絶品だと自負しています。自分で言うから間違いないわけですけれど、このきっかけは上野景三君のその言葉でございました。丁度その頃、川崎の方々が韓国の研究をしておられまして、日韓社会教育合同セミナーが開かれるという刺激もございました。広州の成人教育関係者との交流もこの時期広がりました。「アジアの海を泳ぐ」ような気持ちでこれらの活動に参加してきました。

いま考えていること−四つの課題−
 もう予定の時間がきました。用意したレジュメのうち半分ぐらいしかお話しできませんでした。申しわけありません。とくに最後のところの「いくつかの課題」、今後の課題についてはまったく触れることなく与えられた時間は終わってしまいました。ただ一言だけ申しあげますと、4つの中の2つ目に「自治体と地域計画の可能性−大都市研究の東アジアへの発展−」を掲げておきました。実は今年6月はご承知のように韓国で文民政権になって初めての自治体選挙が行なわれるわけです。それから台湾では、憲法を改正して自治体の選挙を昨年12月に行なって、活発な地方選挙で注目された。台北の市長は国民党ではなくて野党の民進党がとったんですね。中国では社会主義で民主集中制でありますから、非常に集中度が高くて、地方自治はなかなか見えてこない。どこに行っても同じようなことが行なわれているように見えるんですけどね。しかし昨年上海と広州に行きますと、二つの都市は違うんですね。調べてみますと、改革解放政策の中で、直轄市や大都市にはそれなりの立法権を中国政府は認めているわけです。さまざまの自治体計画が動き始めているのですね。まさに「躍動する東アジアの地方自治」なんですね。そうしますとアジアの海のまわりの大都市では社会教育・成人教育の自治的ないろんなチャレンジもまた、動き始める年なのですね。今年はね。
 ところで、国内で私たちは研究者と自治体とくに自治体労働者と協同で「政令指定都市・大都市社会教育の研究と交流の集い」を毎年開いてきました。1978年からですからそろそろ20年近くになります。一言で言えば、この集いは日本の典型的な大自治体の社会教育の可能性を凝視してきた集いでした。しかし本日は大都市社会教育研究会の内容についてお話しする余裕がございませんでした。とくに私にとっては、川崎の北条秀衛(当時、川崎市教育支部長)さん、伊藤長和さんたちの川崎市職員労働組合と、私たちの研究室のメンバ−(たとえば小林平造くんや遠藤輝喜くん)との協同作業が印象的です。これを小川利夫さんは日本のWEAと称して、その独自な役割を評価されました。大都市研究、つまり大都市という自治体が社会教育においてどれだけの自治性と計画性をもちうるか、そして国際的なキーワードでいいますと、市民の学習権保障をどう実現できるのか、そういう課題は単に日本の政令指定都市だけの問題ではなく、台湾の問題でもあるし、上海の問題でもある。あるいは韓国の問題でもあります。こうした共通した自治体の動きがありながら、しかしなんとお互いに共通のことばを持たないのか。社会教育・成人教育にたずさわりながら、お互いになかなか対話ができてこなかったのです。 同じ社会教育ということばを使っても、たとえば上海でいう社会教育と、日本でいう社会教育とはかなり意味が違うのです。中国で社会という場合には、国家がやらない社会、日本でいう民間活力的な
 「社会力量」の意味が強い。同じ生涯教育だって韓国では平生教育といって、中心になっている人たちは文化・教育というより「文解」つまり識字教育をやっている人たちが少なくない。そういう事実を出しあいながら、どういう風にお互いに共通の課題意識を交流し、対話を深めていくとができるか、そのようなことを今後の課題として考えていきたいと思っているわけです。そのきっかけをつくり、一つのことばで「東アジア」研究に年長者を動かした若い研究者は、体を丈夫にしてがんばってやって欲しいと思います。

おわりに−旅はまた始まる−
 もう終わらなくてはなりません。私は最近つらいことがございます。一つは花粉症であります。1988年頃から発症し、それから早春は楽しくありません。もう一つは昨年の12月に韓国に行った最後の日にギクッと腰を痛めてギックリ腰になりました。一ヵ月実に苦しい時を過ごしました。九州の家で今年お正月の会をした時に、若い人の前では平然としておりましたが、冷気にうたれてその夜は眠れませんでした。その後の沖縄の一週間は苦しい旅でした。「頂門の一針」といいますか「年寄の冷や水」というか、つまり私はもう若くはないことを自覚しました。だから一人でがさがさ歩くのはやめて(笑い)、誰かが歩く後を一緒に歩こうと。ギックリ腰が私の研究スタイルを戒めたように思います。ただ私は幸せなことに、自分のテーマを失わないでこの大学を辞めることができる、テーマを持ちながら次の大学に行くことができる、このことは嬉ことです。
 東京学芸大学での一つの旅は終わりました。けれども、また新しい旅を皆さん方の後について、ギックリ腰にならないように、一緒に歩いていきたいと思います。年をとってくると花粉症は治るという定説は間違いでして、直りません。のどまで痛めて声ががらがらでお聞きづらいところがあったかと思います。最終講義としてはたいへんお粗末で、時間に追われて大事なことろがかなりかけ足の話になってしまいましたけれども、ここで終わらせて頂きたいと思います。本当にこういう機会をご用意して下さいまして、そしておおぜいの方々に聞いて頂きまして、たいへん幸せでございます。どうもありがとうございました。皆さんのこれからのご活躍を祈ります。

<テ−プおこし 遠藤 輝喜> ・当日の講義をできるかぎり忠実に再現するように努めた。
・文中に登場した氏名について、できる範囲で当時または現在の肩書、所属等を ( )で付記することにした。

▼小林ゼミとOBG・二次会(19950318)












【最終講義(小林文人)】
 (2) 和光大学 (2002) 

和光大学・最終講義(2002年1月26日)




2,和光大学・最終講義 (2002年1月26日)ほか
 地域・社会教育・沖縄・東アジア 〜研究自分史の試み〜

        (TOAFAEC 『東アジア社会教育研究』第7号、2002年、所収)




はじめに−2002年春

 和光大学を退職する2002年春、1月から3月にかけて“最終講義”のかたちで話をさせていただく機会が三回も与えられました。有り難いことです。講義というものはあまり好きではありません。よくぞ40年あまりそんな苦行に耐えてきたものだと思います。まして最終講義となると、一般の学生以外の方も見えますので、その直前まで心に重くのしかかって苦痛なのです。しかし、終わってこうして振り返ってみると、いい機会に恵まれた、いま正直そう思っています。
 一つは、言うまでもなく和光大学の定年退職にあたって、同大学・人間関係学部(人間発達学科)が企画していただいた最終講義(1月26日)、二つは、九州大学大学院人間環境学コロキュームに招聘されて話した研究自分史(1月23日)です。
 あと一つは、3月末にゼミの学生と一緒に上海を訪問した際の一夜、華東師範大学に招かれ教育系大学院生に向けて開かれた講演会(3月26日)です。あと数日で3月が終わろうとする文字通りの最終講義。旧知の王建盤学長に招じ入れられた学長室で「私は今年で70歳、和光大学を定年退職し、上海を訪問して文字通りの最終講義です」と話すと、同席の杜成憲教授(教育学系主任=教育学部長、羅李争の友人)が「いや、新しい始まりです、再度また次の講演をお願いしましょう」と応じてくれる嬉しい一幕もありました。挨拶とは言え、なんとも幸せなひとときでした。
 テーマは、それぞれ「社会教育への旅−沖縄から東アジアへ」<和光大学>、「教育における“豊かさ”とは何か」<九州大学>、「上下五〇年、日本教育改革与展望(日本教育改革五〇年の歩みと展望)」<華東師範大学>、というものでした。
 思い起こせば、1995年3月にも“最終講義”をさせていただきました。28年間勤めた東京学芸大学退職のときです。それから和光大学では7年間の勤務でした。最終というのは、字義通りに解すれば1回しかないわけですが、思いもかけず2度の“最終”講義の場をいただき、2度目は3回も機会が与えられたわけで、幸せな巡り合わせと言うべきでしょう。
 7年前の最終講義テーマは「社会教育の旅−学大から沖縄へ」というものでした。その記録は『東アジア社会教育研究』創刊号(1996年)に収録されています。読み返してみると不充分な内容で恥ずかしいのですが、今回また厚かましくも、その続編のつもりで三つの最終講義を合体したかたちの記録を作成することにいたしました。できるだけ重複をさけて、ひとつの話の流れに再構成したいと考えていますが、うまくいくかどうか。ただ華東師範大学の講義はテープが残されていません。記録としては、和光大学と九州大学の二つの講義に比重がかかってしまうことをご了承下さい。また、話の正確さを補うために文献名や年月日など、多少の追記・補筆をした箇所があります。
 このようなまとめの作業を始めてみて、自分自身の歩みがなんと右往左往してきたことか。和光大学にお世話になってからの7年の歩みも、年甲斐もなく落ち着きのないことをあらためて実感しています。“ひとすじの道”を歩みたいと念じながら、今にいたるまで模索と曲折の道のり、まことに遅々たる歩み、わが身の無力さがよく分かって、自分ながらうんざりしています。ただ、それなりに元気に“旅”をしてきた、自分なりに歩み続けてきた、ことは確かなようです。これからの新しい旅のためにも、こうして記録にしておくことをお許しいただきたいと思います。



地域と教育の社会学 − 研究へのパトス・1950年代
 私が九州大学に入学したのは1950年です。学生の皆さんはもちろんまだ生まれていない。この年は朝鮮戦争が始まった年、当時、板付基地からは毎日ジェット機が朝鮮半島に出撃していく、そんな時代です。ちょうど箱崎の九大キャンパスの真上を飛んでいく、その爆音下で私たちの学生生活は始まりました。ジェット機で授業はすべて寸断されました。学生の一番割りのいいバイトは、朝鮮半島から運ばれてくるアメリカ兵の遺体を洗う仕事、私はそれにはつきませんでしたけど、ある友人はそれで稼ぎながら、デモをしていた。みんな貧しくてね、そして、中には売血をしながら生活を送っていたようなこともあって、いろんな想い出がさまざま心によぎります。大学は極東情勢の緊張の真っただ中にあり、学生は戦後日本の混迷と貧困の渦中で生きてきた、そういう中の学生ですから、政治的にもきわめて過敏でもあったのです。
 青春特有のいくつもの曲折がありますが、学部生から大学院へ、そして1958年に九州大学教育学部の助手になりました。すぐにお気づきのように、1960年「日米安保」の年を迎えます。若い研究者としての出発の時期もやはり政治の問題に明け暮れた思い出があります。日米や東西の問題、それに筑豊や三井三池等の問題、そういう状況のなかで大学や研究者はどうあるべきか、などと盛んに議論をしてきました。議論をし過ぎた嫌いもあります。それで疲れて、大学院を去った人もいますし、運動のなかで逮捕された人もいます。私は逮捕されるほど勇敢ではありませんでしたが、いつまでも思い出に残る"わが青春"の屈折の時代です。1961年に助手の任期がきて、やむなく九州大学の生活が終わるわけですが、1950年から1960年代の10年あまり、その後のいろんな局面で、心のキーステーションとでもいいましょうか、何かあるとちょっとそこに立ち戻って考えてみたくなる、そういう10年でありました。
 いろんな先生方との出会いが忘れられません。もう亡くなられた方が多く、お顔が浮かんできますが、ときには反発もしました。志をたてて教育学を専攻したのですが、教育学研究の伝統的な雰囲気にどうもなじめない。1950年代はアメリカ教育の影響が非常に強い時代ですが、古い教育学からアメリカ新教育の流行へ衣を替えるだけの姿勢への反発。もちろんたくさんのことを教えてくださったんですけど、研究へのあこがれもあればそれへの反発もあって、教育学の専攻をしたのは失敗だったんじゃないかなどと真剣に考えた一時期がありました。学部からすぐに大学院に進学せず、1年おくれの大学院では、伝統的教育学からもっとも遠い教育社会学を専攻しました。
 当時、文学部の社会学教授に喜多野清一という先生がいらっしゃいました。知る人ぞ知る農村社会学の泰斗のお一人でした。幸せなことに、創設当初の教育学部大学院・教育社会学講座は教授が欠員で、社会学の喜多野先生が兼担されていました。私は教育社会学を選んだことによって、喜多野先生や文学部社会学研究室メンバーと出会うことが出来ました。農村社会学への出会いということだけではなく、地域実証主義的な研究方法と地域から教育をみる視点、とりわけフィールドワークの面白さを知りました。今ふりかえってみて、喜多野先生との出会いはかけがえのない出発点となりました。
 地域を歩く意味、事実をしっかり記録すること、それを丹念に積み重ねていく、そこから何を発見していくか、その理論的仮設から次の研究課題を設定していく、そんな研究姿勢を実際のフィールドワークによって体を通して教えてもらったように思のです。

 私の修士論文は、故郷の久留米で貧困住宅地のフィールドワークをもとに「都市社会における人間形成−近隣集団を中心として」というタイトルで書きました(1957年)。私なりの参加的なアクションリサーチです。このテーマで初めて学会発表(九州教育学会、1957年)に挑戦し、それを基に九州大学教育学部紀要(「都市近隣集団の教育的機能」第6集、1959年)に執筆することが出来ました。私の初陣、研究論文の第1作です。
 その後、文学部社会学研究室や教育社会学研究室のメンバーで、九州各地をずいぶん調査して歩きました。思い出すままに地名を上げてみますと、天草の横浦、佐賀の松梅、筑後の浮羽、朝倉の三輪、大分の上津江、その下流の大山、豊肥線沿いの犬飼、鹿児島の甑島、そして八幡市、福岡市、筑豊・旧産炭地の穂波などです。それぞれの調査テーマは違いますし、ペーパーになったものもあれば、まとめが出来なかったものもあります。自分の研究業績にならなくても、先輩諸氏にくっついてフィールドを歩き、ともに合宿し議論し、酒をのみ歌をうたい、そんな調査活動から多くのことを学びました。とくに社会学の先輩諸氏との付き合いから得たものは忘れることが出来ません。当時の熊本大学の中村正夫、九州大学の執行嵐、福岡大学の余宮道徳、山口大学の山本陽三、などの方々にお世話になりました。皆さん喜多野門下、私もその一人、とひそかに考えています。
 社会学研究室の農村調査に参加して、そのなかで鍛えられるという体験のなかでは、文字通り手をとり足をとって教えてもらった、訓練をうけた、という実感が残っています。まず地域を歩くこと、村の入口、猿田彦の石塔、小さな祠や神社、集落の広場、ムラの公民館などを頭にたたきこむ。そしてインフォーマントとの出会い、ラポールをどうつくるか、インターヴユーの技法、資料の収集、記録をどうつくるか、などなど。体にしみるようなトレーニングを受けた、そんな数年だったのです。たいへん幸せだったと思います。
 私の研究生活にとっての原体験、スタートラインの風景です。その過程で、いま振り返ってみると、研究というものは一人で出来るものではないこと、教えられ鍛えられる、協同することの大事さ、研究ネットワークの意味、そして"略奪"的な調査であってはならないこと、継続的かつ蓄積的なフィールド・サーベイの大事さを考えさせられてきました。

 研究室では当時、アメリカ社会人類学のモノグラフをよく読んでいました。たとえば、R.レッドフイールドのユカタン半島の調査報告など印象的に憶えています。地域や文化を変容の視点をもって捉えていく、部族・農村・都市の変化の流れを見ていく。あるいは一つのコミュニティー・サーベイを10年間ぐらいの時系列で追っていく。同じことは、地域と教育の問題についても言えるのではないか。変化・変容の視を点もってみる、時間を追ってフォローサーベイしていく。同じコミュニテイを定点観測みたいにずっと追っかけていく、そうするとどういう変化が見えてくるか。そのためにある時点でのモノグラフを基点としてしっかりまとめておく必要がある。
 一つの地域を継続的に調査していくというのはそう簡単ではありません。佐賀県松梅村(いま大和町)の調査は、経費的にもメンバーとしても3年間ぐらいの調査が継続出来た事例ですが、ここでは三集落・各戸の基礎調査票をすべて記録として残しました。大分県の上津江調査でも、今にして思えば、かなり貴重な調査データを保存してきました。そして調査地点ごとに一つのボックスをつくって、研究室に保存しておいた記憶があります。たとえば10年後の、あるいは30年後の調査のための時系列的な比較の基点資料として役に立てたいと考えたからです。しかし、その後の研究室引っ越しなどがあったからでしょうか、それから20年ほど経過して九大の集中講義の機会に少し探していただいたのですが、もうありませんでした。そういう古い調査資料というのはあまり価値がないと判断されたのでしょうね。松梅の調査は、私の分担テーマは集落構造と年序組織に関してでしたが、その後に教育学部比較教育文化研究施設紀要(第11号、1963年)にまとめられています。調査時点は1960年直前です。ちょうど経済高度成長による農村変貌が始まる時期、その後の急激な村落解体を実証する上での基点的な資料としての意味をもっていたのです。
 それからの10年は、日本の地域がもっとも変わっていった時代ですね。さらにいま40年ぐらいが経過して、九州の農村にどのような変化が襲ったのか。当時の地域の、フィールドサーベイの細かな個別調査票・データがあれば、なかなか面白い時系列の研究が可能になったのでしょうが、大学研究室というのはこの10年から20年というわずかの期間の調査資料も保存することが出来なかったことになります。同じ人が同じ研究室に何十年もいるわけではありませんし、人がかわりますと、当然テーマも研究手法も変わっていきますからね。しかし、そういう事情を超えて、専門的な研究機関としての大学が、継続性をもちながら地域とかかわって、長いスパンで独自の調査機能を果していく、収集した資料をきちんと保存しておく、そういう課題を追求していく必要があるのではないでしょうか。

 地域からの社会教育研究 −1960年代
 あらためて略歴を簡単に申しあげておきます。九州大学の助手は1961年に辞めさせられて、その後は東京へ移動し、日本育英会に勤めました。専門職の立場ではありましたが、お役所みたいなところでしたから、嫌になって、再び福岡に帰り、創設されたばかりの九州産業大学に1964年から勤めました。初めて助教授になりました。教養部所属、主たる講義は一般教養の社会学、ほかに教職課程を受講する学生に教育社会学などの講義をもちました。その後、いくつかのいきさつがあって、1967年に東京学芸大学の助教授に転じ、麻生誠さんと一緒に教育社会学を担当しました。ここではじめて選択科目としての社会教育の講義わずか2単位をもつことになりました。私の前任者は、名古屋大学へ転出された潮木守一さん、潮木さんは教育社会学が中心で、少し社会教育の講義ができる人にということで、私が選ばれたという経過だったようです。
 旧帝大系の教育学部は別にして、日本の教員養成学部ではまだ社会教育関係の講義はほとんど始まっていない時期でした。数名の方々、たとえば大阪学芸大学(当時)の宇佐川満さんや千葉大学の福尾武彦さんなどが社会教育に関心をもたれ、講義を開設されていたぐらいだと思います。こういう方々に伍して、私も正式に社会教育の講義ができるというわけで、ちょっと意気込んで準備を始めた記憶があります。それから1995年まで28年間の長きにわたって東京学芸大学で仕事をしたことになります。ここで定年になって和光大学に移り、2002年春、和光大学も今年でめでたく卒業というわけです。

 私の社会教育研究への関心は、やはり九州の農村調査の中から芽生えたようです。どの地域を歩いても、当時は青年団が元気でしたし、婦人会が活発でした。集落組織が自治的に機能し、「部落」公民館がそれぞれに展開をみせている。歴史を調べていくと、地域にいろんな社会教育活動の歩みがあり、また地域によっては新しいグループや運動の取り組みがみられました。古老の話から歴史を学び、若い世代から現代の動きを教えられる、研究室の文献研究から得られない面白さがありました。
 そして地域の中で人々がさまざま生きていること、そういう現実の暮らしに関わって社会教育という分野があるんだということを知り始めました。学校における教育をどう考えるかとか、家庭の教育機能とかだけでなく、文字通り「社会における教育」あるいは「社会の人間形成」をどう考えるか。そういう分野に出会って、あぁ、これは面白いなと、こういう分野で少し自分のテーマを立ててみたいなと思うようになりました。
 振り返ってみますと、私は教育学者の一人として、「地域」に出会い、「地域」の視点から自らの研究生活をつくってきたと言えます。地域というのは、実はあいまいな概念でもあって、小さな集落もあれば、大都市もあり、広域のリージョンでもある。その多層の拡がりのなかで人々が暮らしている地縁的な基盤がある。子供たちはそこで生まれ、そこで育ち、家族をつくり、労働の場をもち、老後を迎える、いわば小さな宇宙、それがつねに変貌している。そういう地域がどういう人間形成の場となっているか、あるいは、どういう教育的な機能を営んでいるか、私にとっては大きなテーマとなってきました。
 その地域が私たちのライフヒストリーと重なって、歴史的な激動をたどってきました。1950年代から60年代を経過しての大きな変貌過程、いま2000年代に入ったわけですが、この問、地域というものが本来もっている自治とか共同とか文化が大きく変わってきた、あるいは壊れてきたとも言えるでしょう。同時にそこに内包されている社会的な人間形成のありようも激変し解体してきた側面もあるわけです。家庭のもつ教育機能もまた力を失ってきている。他方で、地域を離れたところで、フォーマルな学校教育の機能が肥大化し過密になり、いわゆる受験戦争が激化し、さまざまの問題が噴出してきていますね。しかし学校だって、家庭だって、地域の海に浮かんでいるようなものでしょう。
 かつて「コミュニティ・スクール」を構想したE.G.オルセンは、コミュニティーという海に学校という島が浮かんでいる、その島に橋をかけよう、学校と地域を結ぼうと提起しました。地域という海が荒れれば、そこに浮かんでいる学校も荒れるし、そこで生活している家庭も孤立化していく。海なる地域を豊かにしていくことが、学校を豊かにし家庭を充実していくことにつながる、そういう地域の果たしてきた役割にしっかり目を注いで、それがもつ人間形成の力、教育的な機能を再発見していく。歴史の激動の中でこそ地域の可能性に着目していく課題があるのではないか。そして地域の再生と発展にかかわって社会教育の独自の役割があるのではないか。そんなことを考えてきたのです。

 話が前後しますが、社会教育研究の道を志す直接のきっかけとなったのは、1960年、九州大学で開かれた第7回日本社会教育学会です。この年には二つの学会が九大で開催されました。たしか10月に日本教育社会学会の大会、11月に日本社会教育学会の大会、私は助手でしたから、両方の研究大会の事務局を担当したのです。当時は随分疲れた思いでしたけれど、今にして振り返ると、大変いい機会に恵まれたことになります。専攻上は教育社会学ですから、社会教育学会の仕事はいわばお手伝い、しかし他に誰もいないわけですから、社会教育学会の大会を引き受けてこられた駒田錦一教授に「小林君、頼むよ」と強く要請されて、この学会の準備にもあたったわけです。そのときに初めて出会った社会教育学会の方々が実に魅力的でした。事務局長が東大の碓井雅久さん、担当理事が国立教育研究所の横山宏さん、当時の日本社会事業大学の小川利夫さんが最年少の理事、小川さんは確かまだ三〇歳台の前半だったと記憶しています。この方々はみな私より年長の方なのに「先生」ではなく「さん」づけでお呼びするような雰囲気がありました。教育社会学会の長老格の先生方とは典型的に違う若さというか、活気というか、何かそういう学問の若々しい雰囲気と自由闊達の論議に心うたれるものがありました。この60年は安保の年、皆さんデモに繰り出し日米安保を論じるような雰囲気で、学会シンポでも議論している空気があって、たいへん刺激的でした。社会教育学会は当時、若い学会だったのですね、いまはそうでもありませんが。
 教育社会学も同じく戦後の若い学問なのですが、社会学の伝統的な理論や枠組みに基礎をおいているところがある、学会の雰囲気もなにか伝統的なもの、同時に客観性や冷静さのようなものを感じましたね。なにしろ1ヶ月違いで二つの学会開催に関わったわけですから、体感的に比較して分かるところがある・・・。社会教育学会はそれと対照的な違いをもっていて、躍動的ななにかが伝わってきたのです。これがその後の10年、教育社会学と社会教育研究の間をさまよい、結局は教育社会学会から社会教育学会へスタンスを移していく重要な契機となりました。
 九大で開かれた第7回社会教育学会については、いろんなエピソードが残されていますが、いまそれをご紹介する余裕はありません。学会の歩みのなかでも話題の多い大会であったことは確かです。私にとってはこの大会の記録を『月刊社会教育』(1961年1月号)に書いたことも思い出の一つ。学部紀要や九州教育学会の発表要旨集に書いたことはありましたが、短い文章ながら全国雑誌に初めて執筆し、活字になったときはひどく感激したものです。今のパソコン時代ではそんなことはないでしょうが、自分の名前が活字で誌面に載るということは、なにか世に出たような幻覚を覚えたのですね。

戦後社会教育史と法制研究 −1970年代
 1967年から二度目の東京の生活が始まります。その当初は、教育社会学関係と社会教育関係の二つの道が並行していました。この年に教育社会学関係では、学芸大学の同僚だった麻生誠さんが学会事務局長に就任した関係で、私も事務局の研究部長として協力しました。たしか天野郁夫さんが副部長だったと思います。
 社会教育関係では、同じ年に学会の幹事になり、すぐに「月刊社会教育」編集委員や社会教育推進全国協議会(社全協)の運営委員となりました。この頃、大学紛争が拡がって大学関係者はみな忙しく、社全協の事務局は、亡くなられた野呂隆さんがほとんど一人で担っているような状況で、それを見かねて運営委員に立候補するような経過でした。1968年のことです。この年は一つの転機、学会関係の仕事も論文などの執筆も、かなり社会教育へと傾斜していきました。
 実は教育社会学会には郷土の先輩の清水義弘先生(東京大学)が長老格でいらっしゃって、後輩に声をかけていただきましたし、また、この時期の社会教育学会は会長が吉田昇先生(お茶の水女子大学)、また社全協の委員長も吉田先生でしたが、いろいろと励ましを頂きました。二つの学会の間にはさまれて悩みもありましたが、1970年までには明確に社会教育研究を仕事の中心とする方向が定まったと思います。東京学芸大学での講義やゼミ指導も、最初は教育社会学関係が多かったのですが、この時期に社会教育の担当として専念できるようになりました。

 当然のことですが、九州から東京へ出ることによって、私の研究フィールド、「地域」は大きく変わり、各地に拡がりました。中心のフイールドは東京三多摩です。ひとつの集約として、国立の徳永功さんや国分寺の進藤文夫さんなどと一緒に策定した東京の「新しい公民館像をめざして」(1973〜74年、いわゆる「三多摩テーゼ」)の作業があげられます。さらに川崎や相模原などの首都圏、あるいは茨城の鹿島、信州の松本、山口の長門や宇部その他、これに尽きるわけではありませんが、全国各地に出かけるようになり、1976年になりますと、あとでお話しようと思っている沖縄が主要な調査フィールドになっていきます。
 「月刊社会教育」編集の仕事では、1973年6月号から2年あまり編集長をつとめました。当時は編集長がほとんど一人で雑誌をつくっていたようなものですから、苦しい思い出が少なくありません。ある月の特集原稿が集まらない悪い夢をみて飛び起きたり、同和問題の編集で批判をうけたり、いろいろありましたが、雑誌とは面白いもの、つねに新しい刺激的な出会いがあり、教育ジャーナリズムの一角で貴重な経験をさせてもらったと思っています。
 社会教育推進全国協議会の運動では、主として調査研究部(当時)を担当しました。少し意地になって毎年の調査報告の刊行に努力し、その発展として社全協編『社会教育ハンドブック』(当時の総合労働研究所、第1版は1979年)の出版に結びつくことになりました。また川崎の伊藤長和さんなどに協力いただいて「大都市社会教育研究と交流の集い」への取り組み(第1回、1978年)も生まれました。まだ小さな規模に過ぎなかった時代の社全協運動の歩みは、初代事務局長の野呂隆さん(東京都文京区)が苦労して編集した「社会教育推進全国協議会十五年の歩み」(『権利としての社会教育をめざして』ドメス出版、1978年)に詳しく、ときどき懐かしく記録を読み返します。
 ところで、私のその後の社会教育研究の道は、もちろん社会教育学会の研究活動に参加することによって拓かれてきました。いまは姿をかえましたが、毎年の六月集会の原歴部会、秋の大会の宿題研究、それに向けて企画されてきた定例的な研究会など、学会の研究活動によって育てられたと感謝しています。
 忘れがたいのは、「都市化と社会教育」(学会年報13集,1969年)、それに続く「社会教育法の成立と展開」(同15集、1971年)、そして「社会教育職員研究」(同18集、1974年)についての宿題研究です。よく議論もしましたし、勢いもあったのではないでしょうか。年次によってメンバーの違いはありますが、吉田昇、福尾武彦、横山宏、小川利夫、藤岡貞彦などの方々との共同研究が思い出に残っています。
 なかでも私にとって、その後の研究の視点や方法を組み立てていく上で出発点となった作業は、戦後社会教育史と社会教育法制についての調査活動、そして資料刊行です。この時期の宿題研究への参加によって、社会教育研究の諸分野のなかでも、法制や行政あるいは施設(公民館)の問題が私の主な研究領域になってきたように思います。

 私はもともと法律とか行政とか、そういう分野はあまり好きじゃありません。教養部から学部へ進学するときも法学部だけはやめようと思っていたのに、社会教育学会の中では、いつの問にか法律とか行政とかをテーマにするようになってきました。直接的には社会教育法への関心からです。当時、社会教育法が成立(1949年)してほぼ20年、しかし社会教育法の成立過程についての資料、というより戦後社会教育史に関する研究そのものがあまりないんですね。社会教育はやはり新しい分野ですから、研究者も少ないし、研究資料がまったく整理・蓄積されていない。社会教育法については六法を見ればわかるんですけれども、これがどのような背景で、どんな経過で草案になり法制定に至るのか、その後の歩みがどうなのか、というようなことが当時は基礎資料もなければ依るべき先行研究もない。全然ないわけじゃありませんが、文部省解説書やごく断片的な資料にとどまるのです。
 しかし、調べていきますと、当時の関係者がまだお元気で、第一次資料を保存され貴重な証言をもっておられることが分かってくる。公民館構想や社会教育法制定に関わって重要な役割を果たされた寺中作雄さんからは生の証言をお聞きする機会がありましたが、しかし資料はほとんど持っておられませんでした。同じく戦後初期から社会教育連合会で仕事をされた岡本正平さんは、学会の初代事務局長ですが、重要なフアイルを保存されていました。学会の研究会でお話を伺い、所蔵資料を提供いただいて、それを学会として復刻し刊行していく、そういう作業が始まりました。これは実に興味深い調査活動でした。未知なるものへの探求、埋もれた事実の復元、私的な資料の社会的共有化、そういう意味をもっていました。これについては1995年の最終講義の際にふれたことがあり(「社会教育への旅」東アジア社会教育研究・創刊号)、重複をさけて簡単にしたいと思います。
 当時、国立教育研究所に横山宏さんがいらっしゃいました。戦後初期から文部省で仕事をされ、寺中さんや岡本さんなど私たちにとっては、“歴史上の人物”とも呼ぶべき方々をよくご存知でしたし、いわば戦後社会教育史の生き証人。幸いなことにこの時期に国立教育研究所は「日本近代教育百年史」の大編纂事業に取りかかっていました。研究所長は九大教授だった平塚益徳先生、社会教育グループは吉田昇・古木弘造などの先生方を中心に資料収集と執筆活動が始まりました。私もその一員に加えていただいて、この調査活動と学会の宿題研究が重なり、また文部省科学研究費の助成も得て、戦後社会教育史・社会教育法制に関する研究調査がたいへん活発に展開されたのです。ご存知の通り「百年史」の社会教育編は、第7巻と第8巻として結実し、画期的な社会教育通史となりました。記録をみますと「百年史」の社会教育編集委員会は1967年に動き始め、20名ちかい体制で1971年から72年に執筆が進められ、本の完成を見たのが1974年春。学会の社会教育法制研究活動と連動して、忘れることが出来ない充実した数年間でした。
 その頃まだ目黒・上大崎にあった国立教育研究所の横山さんの研究室によく通いました。資料のコピーや整理には東京学芸大学の学生の皆さんが手伝ってくれました。この時期、横山さんとは百年史関係や科研費の経費を活用して全国的な調査旅行もずいぶんとご一緒しました。宮城、石川、福井、富山、島根、鳥取、愛媛、宮崎など各地にわたり、戦後初期の地域資料、公民館関係の資料、社会教育法の定着過程の資料収集が主たるテーマでした。東京都の藤田博、宮城の朱膳寺春三、福岡の古賀皓生などの皆さんが同行されたこともありました。
 横山さんを中心にして収集活動をしてきた社会教育法制に関する諸史料と地域資料を基礎に、学会「社会教育法制研究会」編による「社会教育法制研究資料」(第1〜15集、1969年〜73年)が逐次刊行されました。その立法過程、制定事情、改正動向、定着普及、その変容に関わる諸資料の復刻・編集です。社会教育法の全貌をたどり、また公民館関係の初期資料を含み、同時に青年学級振興法や、伊藤寿郎さんの協力を得て博物館法等の関連資料を含む画期的な作業と言えるのではないでしょうか。ちょうど5年間の歩みでした。この「法制研究資料」がなければ、その後の私の沖縄研究も東アジア研究もなかったと思います。「法制研究資料」の現物はもう入手できなくなりましたが、その圧縮版が後に横山・小林編『社会教育法成立過程資料集成』(昭和出版、1981年)として出版され、またその続編ともいうべき『公民館史資料集成』(同編、エイデル研究所、1988年)を世に出すことが出来ました。いずれも800頁近い大作、多くの方に活用されてきたと思います。エイデルの当時の編集者、入沢充さんが出来たばかりの『公民館史資料集成』を手にかざして持ってきてくれたとき、“わが恋ここに実れり”などと言って、祝杯をあげたものです。ただ、これらの本は今いずれも絶版になってしまったのが残念至極。

沖縄研究への道 − 1980年代
 横山宏さんとの思い出は尽きません。私より10歳も年上の方、ご恩もあり、文字通りの「先生」なのですが、親しくしていただいて、いつも「横山さん」と呼ばせていただきました。若々しくお元気だったのですが、昨年、秋の深まりとともに急逝されました。享年80歳。最後にお会いしたときも体力が弱ったことについて無念の思いを口にされました。こういうことであれば、戦後日本の社会教育の歩みやその裏面史などもっとお聞きしておくべきことがあった。いつでも聞けると思っていたのが不覚でした。
 横山さんと御一緒した仕事は、もちろん二人だけのものではありません。学会の法制研究会や公民館の研究グループ等との共同の作業です。それぞれの本に参加メンバーの記載があり、ここでいちいちお名前を出すことはいたしませんが、心よせあう研究仲間の共同のエネルギーに支えられてきたのです。
 資料復刻と刊行の作業では、資料の価値、その検証、それが資料として残された背景、とくにその社会的かつ公共的な意味、などを考えさせられてきました。個人的に所蔵されている場合でも、社会教育資料は必然的に社会的な性格をもっているんですね。なかにはその価値をひとり占めして門外に出さない方もないわけではない。学会などの研究組織で資料を掘り起こし、その価値に光をあてる、資料を私的に埋没させないで、あと一度の社会的復権を試み、その価値を公共的に共有していく、そういうひたすらな思いでした。そのためにはやはり調査研究活動が社会的な拡がりをもち、共同研究の体制をもつことが望ましいのですね。資料調査や研究は研究者個人の業績づくりのためではなく、本来的に社会的公共的な役割を担っているのだと思います。
 
 さて、私たちが戦後日本の社会教育史や社会教育法制の研究から、その継続・発展として、沖縄研究を志したのは1976年のことでした。東京学芸大学の社会教育研究室を拠点に「戦後沖縄社会教育研究会」を立ちあげました。直接の契機は『日本近代教育百年史』のなかで沖縄がまったく取りあげられていないことへの反省、あるいは自己批判から始まりました。『百年史』刊行から2年あまり後のこと。この間の経過も前の最終講義で触れたことがありますので、簡単にいたします。
 私なりに『日本近代教育百年史』では少なくともいくつかの大きな空白があると考えています。一つは、戦前の台湾や朝鮮等にたいする植民地支配の教育、二つは軍事教育や軍隊組織の教育機能、三つは被差別部落の教育問題、そして四つには戦後のアメリカ支配下の沖縄について、ほとんど書かれていないのです。たとえば私は『百年史』執筆において、戦後日本の1945年から60年までの社会教育行政・施設の項を担当しました。しかし、結果的に沖縄についてまったく書いていない。編集・執筆方針などから弁解はできるのですが、基本的には研究的に蓄積がなく、その視点や力量をもたず、批判されなければならないのは当然なのです。
 沖縄はご承知のように1945年の太平洋戦争末期に日本で唯一の地上戦が闘われ、大勢の方々が犠牲になりました。その後、日本から政治的に分離されて、アメリカの直接的な軍事支配下に入ります。それから1972年復帰まで27年間にわたって、異民族による植民地支配下の教育体制におかれた。そこでどんな教育が行われてきたか、アメリカ側からどのような社会教育・文化政策が与えられてきたのか、またそれに対する沖縄側の民衆運動、抵抗の歴史がいかなる展開を見せてきたのか、いわば血汐と涙の戦争体験と戦後史の歩みがあり、そのなかで沖縄独自の社会教育史があるのに、全く何も書いていないということです。原稿執筆時は、沖縄はまだ日本の統治下にありませんでしたが、『百年史』の本が出来上がる時点では、沖縄は「本土復帰」していました。何の弁解もできません。

 沖縄社会教育研究会は発足以来ほぼ毎月の研究会を開いてきました。初期の主要メンバーは、小林文人(東京学芸大学)、長浜功(同)、比嘉祐典(東洋大学)、末本誠(東京大学・院)、小林平造(東京都立大学・院)ほかの皆さん、最初の頃は横山宏さんもご参加だったと思います。その後、研究室の院生・留学生が研究会の有力メンバーとして参加するようになりました。翌1977年には、東京に呼応して那覇でも「おきなわ社会教育研究会」が産声をあげました。玉城嗣久(琉球大学)、平良研一(沖縄大学)、上原文一(具志頭村役場)、喜納勝代(久茂地文庫)、当間ふじ子(那覇市)、玉那覇正幸(宜野湾市)ほかの皆さんです。
 その後、幸いに二度ほど文部省科学研究費の助成も得て、沖縄研究は継続されてきました。一つの区切りであった1995年に振りかえってみたのですが、メンバーによる沖縄調査・訪問は53回を数えています。何よりも力をこめて取り組んだのは、「沖縄社会教育史料」全7集(1977年〜1987年、東京学芸大学社会教育研究室)の編集と刊行です。沖縄の現地調査で得た資料や証言等を復刻・刊行する作業、つまりかっての学会「社会教育法制研究資料」と同じ発想で、戦後沖縄の稀少な社会教資料の復元と共有化に挑戦してきました。ご参考までに、いまは懐かしい「史料」7冊の特集テーマをご紹介しますと、次の通りです。
 第1集・社会教育法制、2集・社会教育行政・財政、3集・証言集、4集・戦後奄美の社会教育、5集・アメリカ占領下の社会教育と文化政策、6集・宮古と八重山の社会教育、7集・戦争と社会教育、です。その後の歳月の経過とともに貴重な資料集となりました。第3集で証言を寄せて下さった仲宗根政善(琉球大学名誉教授)、安里源秀(沖縄民政府・成人教育課長、沖縄国際大学々長)、金城英浩(琉球政府・初代社会教育課長)等の先生方も亡くなられました。かけがえのない証言が残されたことになります。
 沖縄研究から10年あまり、1988年には平良研一さんとの共編で『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究』(エイデル研究所)をまとめることが出来ました。「沖縄社会教育史料」を基礎に沖縄社会教育研究グループの総力をあげて分担執筆したものです。しかし、この本も残念ながらもう絶版です。新しく沖縄に関心をもちはじめた若い人たちから、よく問い合わせがあります。版元に再版をお願いしているのですが、実現にいたりません。
 この本の序章で私は次のようなことを書いています。戦争やアメリカ占領がもたらした沖縄の厳しい現実、たとえば戦争被害、戦後の基地問題、社会教育でいえば著しい条件整備の遅れ、本土との格差など、いわば“影”の部分に目を奪われてきた。しかし、その現実と格闘しつつ、生活を防衛し、自立と自治をめざして、何と多くの民衆のエネルギーが燃えさかってきたことか、その実践と運動の“光”の部分に注目すると、沖縄のあと一つの姿が見えてくると。沖縄の社会教育もそういう歴史のなかで独自の歩みをたどってきたのです。集落の自治や公民館活動などに典型的にみられる沖縄型の社会教育、そこから発せられる静かなメッセージ、日本の社会教育・生涯学習のこれからを考える上で、沖縄は多くのことを教えてくれるように思います。

地域の豊かさとは何か
 沖縄研究を通して、私たちはあらためて“地域を発見”しているように思っています。東京にも福岡にも、地域はどこにでもあるといってよい、しかし地域がよく見えるというわけではない、むしろ、なにも見えてこない状況がありますね。いったい地域とは何か、社会教育・生涯学習にとって地域をどう見るか。
 沖縄の集落を歩いていると、その地域がよく見えてくるのです。ヤンバルの過疎のムラでは地域が見える、しかし東京の過密の町には地域が見えないという実感です。地域とはそこに住みともに暮らす人たちの関係性のあり方なんでしょうね。戦後の厳しい歩みのなかで沖縄の人たちは、お互いにバラバラではやっていけない、ユイマールで相互に助け合い、暮らしを防衛し、ときに抵抗し、あるいは祭りを盛り上げ、笛・サンシンを楽しみあう、若者たちはエイサーを踊る、そういう関係性を大事にしてきたのでしょうね。懐古的に古い行事を維持していく、保守的な営みのようにも見えます。しかし本質的にそうではないと思います。
 沖縄の地域について、その前近代性や旧ムラ秩序の残存を指摘する人たちがいます。いわば地域・集落の共同は古い形態であって、近代化プロセスのなかで歴史的に衰退していくという近代主義的な形式論です。集落の共同は果たしてすべて解体していくのでしょうか。たしかに集落の自治や共同の変容や形骸化があり、場合によっては姿を消していくという現実も否定できないでしょう。しかし、他方で新しく集落自治をつくりだし、字(あざ)公民館を設立している事例もあります。たとえば読谷村の大添区公民館などその典型的な事例ですね。沖縄独自の集落公民館は、減少しているのではなく、アメリカ占領下から本土復帰以降、明らかにその数を増やしています。歴史的に集落は解体するという類型論では、そういう事実を捉えきれない。ときに古い組織や伝統を媒介としつつ、むしろ新しく地域の協同や文化を再生していこうとする動きがあるのです。そういう人々の関係性を創りだそうとする努力や運動は、実はきわめて現代的なのではないでしょうか。決して古いものの残存ではない。集落の自治や公民館活動は、古い側面をもつ場合もあるが、そういう意味では、むしろ現代への挑戦という新しい側面をもっていることに目を注いでおく必要があると思うのです。
 沖縄独自の集落(字)公民館は、このような集落の共同と自治の歩みを基盤として機能してきたのでしょう。同時にその過程で、集落の自治と共同のあり方に大きく関わってきたのです。子どもが遊び、若者が集まり、大人たちが寄り合いをし、祭りの準備をする、オジイもオバアもいる、そんな風景のなかで、人びとの関係性がつくられていく過程そのものが公民館活動でありました。本土型の公立公民館にはみられない状況ですね。そこに
集落における形成・教育の機能が、インフォーマルに、あるいはノンフォーマルに、営まれてきている。学校の教育ではない、地域における“教育の豊かさ”ということができましょう。地域のあり方はこの教育の豊かさに大きく関わっているのです。

 これまで数えきれないほど沖縄の旅をしましたが、とくにヤンバルのムラをたくさん歩きました。初めて沖縄を訪問する学生のゼミ旅行でも、南部戦跡だけではなく、必ずヤンバルのムラ歩きをプログラムに入れました。どの集落にも、かつて日本各地の集落もそうだったのでしょう、鎮守の社にあたるウタキ(御嶽)があり、クサテ(腰当)の森がある、ムラの中心にはみんなが集う広場があり、昔のムラヤ、いまの公民舘があって、ときには共同売店がある。そして、いろんな年中行事が織りなされ、祭りの季節になると祭事が執り行われる、ムラの芸能が賑やかに披露され、子どもたちも跳びまわる、そんな風景が目に浮かんできますね。ときには圧倒されるような活力に出会うことがあります。
 昨年は、和光大学のゼミ学生を連れて、ヤンバルではありませんが、南部・糸満の真栄里という集落に1日中いました。旧盆の行事で大きな綱引き行事があるんです。五穀豊穣と村の繁栄を祈って祭事がおこなわれ、東と西に分かれて繰り出し、大綱引きを競い合い吉兆を占う。夜は満月、お月さまがゆらゆらと上がる中でみんなで芸能を楽しんでいる。隣のおじいさんがサンシン弾いて、その向こうのオバアが踊りをしている、ニセー(若者)たちのエイサー、そういう1日の活気に驚かされました。その中心に真栄里の公民館が位置しているのですね。
 東京の学生たちが「先生、どうして沖縄にはこういうものが残っているんだろう?」と言う。よそ者ながら祭りに参加してたいへん興奮した、地域の古い祭りと思っていたのが、決して古くはない、「残っている」という表現では正しくないのではないか、古いまま残っているのではなく、現代に新しく再生され創造されている側面があるんじゃないか、そんな議論をかわしました。
 しかし楽しい行事だけではありません。沖縄の戦後史では、とくに基地周辺のムラでは、いつ何が起こるかわからないという厳しい状況がありました。最近でも1995年に、米兵による少女暴行事件が起こりました。キャンプ・ハンセンのゲート近く、まったく集落の真ん中で事件は起こりました。ムラの皆さんはどう対応したのだろう?と思いました。すぐ近くの集落では、軍用地になっているムラの水源地が米軍の実弾射撃訓練で山火事になったことがある、子どもの遊び場のすぐ近くに流れ弾が飛んできた、そういうさまざまの危機的な場面にたいして地域はどう対応するか。警察に通報し行政に依頼するだけではすまされない、自分たちで自らを防衛し、状況に応じて抵抗するという歴史を沖縄のシマ(ムラ)は経験してきたように思います。事例は少なくないと思いますが、個別にお話しする余裕がありません。
 申しあげたいことは、ムラが自分たちの共同の組織として、自治や祭祀の機能だけでなく、生活防衛やときにはレジスタンスの機能をもってきた、そういう事実です。古いものの残存なのではなく、歴史のなかで現代に向かってムラの機能をつねに再生し再創造してきた側面があったのではないか、ということです。

 沖縄の地域について考える場合、建築家集団「象グループ」の“逆格差論”にふれておきたくなりました。沖縄は本土と比べて大きな格差がある、こういう経済や所得の格差論と格差是正の発想にたいして、生活的あるいは環境的な立場から逆格差論を大竹康市さんなど象グループが提起しています。かっての名護市の自治体計画のなかでも取りあげられました。豊かさをどう見るか、所得の貧しさと格差の尺度だけだと、それを是正するために経済主義的な開発が求められることになります。沖縄は本土の水準から比べますと、たしかに大きな格差がある。1人当たり県民所得は全国最低、沖縄の産業構造も社会資本も遅れている、いかに本土並に格差を是正していくか、そのための沖縄振興計画が必要だ、という主張になってくる。
 しかし発想を新たにし、価値尺度を逆転してみると何が見えてくるか。所得だけが果たして暮らしやすさの基準なのか、所得の大小でなくその使用価値の質、あるいは暮らしのシステム、環境のあり方が問われなければならないのではないか、と問いかけたのです。
 大竹さんはヤンバルのムラをよく歩いた建築家です。残念ながら若くして亡くなられましたが、生前は私の研究室によくいらっしゃいました。逆格差論にたてば、ヤンバルという地域の自然や環境、暮らしや文化、それを支える人々の関係性は、実はきわめて豊かなのだと力説されていました。地域のエコロジィと人間的な社会のあり方から考えていこうというわけですね。沖縄は本来、環境的にたいへん豊かで、地域の文化・芸能も分厚いものがあり、そういう中で、人々の暮らしはお金の面では貧しいところがあっても、生活的あるいは人間的には豊かなものをつくってきた、その質を再発見しよう、本土との格差を追うのではなく、むしろ格差を超える発想から、地域づくりや自治体計画をたてていくべきだという考え方、大いに教えられるところがありました。
 何をもって豊かさと言うのか、発想の転換ですね。地域だけでなく、同じことは教育についてもあてはまる、地域の豊かさと関わって社会教育・生涯学習のあり方をどう考えるか、ぴしっと一つ、頬ッペを張られたような感じがいまでも残っています。沖縄で多くの人に出会いましたけど、沖縄の地域を歩くことによって大竹さんの逆格差論に出会い、少なからず示唆を受けたのです。

 その後も沖縄研究の旅は間断なく続いています。1998年より、また新しい沖縄研究のサイクルが始まりました。科学研究費による「沖縄社会教育の地域史研究」についての報告(2001年、和光大学)をまとめ、名護の島袋正敏さんや中村誠司さんなどと共同の『おきなわの社会教育ー自治・文化・地域おこし』の企画が始まっています。いい本が出来そうです。楽しみに待っていて下さい。

東アジア社会教育への関心 − 1990年代
 私の研究室に東アジアからの留学生が来るようになったのは1980年代の初頭です。それまでは日本人の学生・院生だけでした。はじめての留学生は、中国の文化大革命の混乱が終息し、国費留学生として東京学芸大学にやってきた北京の韓民と上海の羅李争の二人。そういえば同じ頃、韓国の朴英淑もいましたね。たしか1982年でした。そのすぐ後には台湾の陳東園がやってきました。当時、私は学生部長、大学主催の歓迎会で緊張関係にある両岸の留学生がともに歌をうたいあったことを記憶しています。80年代後半になると、留学生がだんだん増え、1990年代になると、一時期の大学院・小林ゼミは日本人より東アジアからの留学生の方が多かったこともあります。
 留学生との付き合いは新しい知見と視点を与えてくれました。最初の頃は、中国の成人教育について、あるいは韓国や台湾の社会教育について、私たちはほとんど知るところがありませんでした。それぞれの社会教育を語り合う対話の言葉をまったく持っていなかったのです。欧米の成人教育や大学拡張等については少し勉強もしているのに、一衣帯水の隣の国のことについて全く無知であることを思い知らされ、ショックでした。
 実は、東アジアの社会教育に出会う機会は、すでに1980年にありました。韓国です。1980年「ソウルの春」といわれた一時期、韓国の学者たちによる社会教育法の草案づくりの会議に招かれ、日本の社会教育法について講演を求められました。しかしそのときは日本のことだけ話して、韓国の社会教育については全く調べる余裕がなく、黄宗建(啓明大学校教授、当時)氏の好意で観光的な旅を楽しんで帰国しました。このご縁で、黄さんとの永い交遊が始まります。当時の経過は、前回の最終講義(『東アジア社会教育研究』創刊号)で触れています。
 東アジア社会教育への関心は、このように海を越えてやってきた留学生との関係が大きなきっかけでした。さらにその背景には、戦前・旧植民地支配下の社会教育についての私たちの研究が弱いこと、きちんとした認識に欠けているのではないかという屈折した負い目、忸怩たる思いがあります。それをどこかで吹っ切って新たな研究と交流の契機をもちたい、そういう意味では黄宗建さんとの友情に救われるものがありました。
 東アジアへの関心のあと一つは、沖縄研究を通して芽生えてきたものです。沖縄の歩みを調べていきますと、さらに視野を広げて、台湾そして韓国、もちろん中国との関係を意識することが少なくありませんでした。東京だけの視座からは、そのような問題意識をもつまでに至らなかったのですが・・・。
 たとえば、日本最西端に与那国という、日本で最後に夕陽が沈む島があります。ここに渡って、その西の端の岬に立つと、その夕陽は台湾の山なみに没します。季節によっては晴れた日に台湾がドカンと大きく見えるそうです。私はまだその機会を得ていませんが、こんどの与那国調査はそんな時期を選んで行こうと楽しみにしています。与那国は1945年までは完全に台湾の経済圏、交易圏にありました。そして敗戦直後、台湾との一大密貿易の基地でした。与那国だけではありません。歴史的に沖縄は台湾との関係を複雑にもっているのです。
 韓国との関係についてはどうか。太平洋戦争の末期、日本の敗戦8月15日に先だって、沖縄はアメリカの直接的な軍事占領下に入りますが、その後、アメリカ軍政のもとで反共的かつ宣撫工作的な「成人教育」が組織された経過があります。沖縄民政府時代です。韓国でも日本からの解放後、1948年の大韓民国成立までは、同じアメリカ軍政下におかれ、似たよう状況があったようです。韓国でも「社会教育」ではなく「成人教育」という名称で呼ばれていた一時期があり、この間の韓国と沖縄の直接的なアメリカ軍政下の類似性について、よく調べていませんが、たいへん興味あるところです。戦後日本の間接的なアメリカ占領よりも、沖縄は韓国とむしろ近い事情にあったように思われます。その後の中華人民共和国の成立や朝鮮戦争以降は、激しい東西対立を背景として、韓国も台湾もそして日本も、東アジアはアメリカ極東戦略の大きな傘のなかにおかれ、沖縄はその軍事的な拠点として、たとえば嘉手納基地といった極東最大の基地が建設されていくのです。

 ところで、私たちは沖縄研究を進めていく過程で、教育四法民立法運動としての琉球・社会教育法の存在を知りました。民衆運動を背景として、アメリカ琉球民政府(USCAR)の「教育法」体制に対抗し日本の社会教育法を沖縄に実現しようとする立法運動でした。教育四法というのは、教育基本法・学校教育法・教育委員会法そして社会教育法、その感動的な成立は1958年。ご承知のように、日本では1949年に社会教育法が成立していますから、9年おくれの法制化ですね。東アジアでは同じ名称の「社会教育法」が、台湾で1953年に、韓国ではその頃から立法努力が始まり、約30年の歳月を重ねて1982年に成立しています。もちろん内容・構成は一様ではありませんが、三つの社会教育法、琉球社会教育法まで含めると四つの社会教育法が、同じ名称で東アジアに登場してきたことになります。興味深いことです。それらの相互の歴史的な関係、そこに通じる共通の特徴、またそれぞれの異同など、欧米の成人教育制度との対比も視野にいれて、検討していく必要がありましょう。充分ではありませんが、詳しくは日本社会教育学会年報第40集所収の小林「東アジアにおける社会教育の概念と法制」(1996年)をご覧いただければ幸いです。
 沖縄を見ることから、少し関心を広げていけば、東アジアを見わたすことになる。その視野をもって、各国の社会教育の歴史と展開をとらえていく必要があります。しかし東アジア社会教育研究はまださほどの蓄積をもっていません。言葉の問題もありますね。中国の専門的な研究と韓国研究とが相互に交流して、東アジアをトータルに理解するという課題意識をもつ必要がありましょう。
 私たちの東アジア社会教育研究について、ちょっと自慢したい仕事は、東京学芸大学社会教育研究室小林ゼミが総力をあげて取り組んだ『東アジアの社会教育・成人教育法制』(1993年)の刊行です。このタイトルに「成人教育」を含めているのは、言うまでもなく中華人民共和国「成人教育」の展開があるからです。それぞれの国・地域から来ている留学生が中心になり、それに日本人院生が協力して、各国の社会教育・成人教育関連法規を訳出し、日本語的に表現を直し、推敲を重ねて、ようやく出来上がった文字通りの労作です。東京学芸大学の大学院は博士課程をもちません。修士レベルの院生と研究生でよく出来たと思います。このあたりのことについても1995年の最終講義で触れましたので、省略させていただきます。
 その後、1996年に和光大学社会教育研究室を拠点に「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」を発足させました。それまでの三つの研究会を合体させたものです。一つは1976年から動いてきた沖縄社会教育研究会、二つは留学生特別ゼミとして出発していた1989年からの東アジア社会教育フォーラム、三つ目に研究室OB・OGによる1986年から断続的に開かれてきた社会教育理論研究会。沖縄も東アジアもというわけで、ちょっと欲張りの研究会。略称は「TOAFAEC」、東京のT、沖縄のO,そして東アジアEast AsiaについてのForum on Adult Education and Cultureです。当時の和光大学G棟3階の、今は懐かしい素朴な研究室を事務局にして始まりました。そして同じ1996年の9月18日付で『東アジア社会教育研究』を創刊しました。
 9月18日をご存知でしょうか。1931年「満州事変」勃発の日、東アジアにおける15年戦争の火ぶたがきられた日です。8・15だけでなく9・18を忘れないために、自ら戒めて毎年この日を期して発行しようという試み。9・18については日本の青年たちはほとんど知らない。しかし中国では9・18を歌った有名な「松花江上」もあり、東アジアの現代史として知らぬものはないといってよいでしょう。
 昨年2001年の9月18日で『東アジア社会教育研究』は第6号を刊行しました。
 
社会教育における東アジア・モデルの模索
 『東アジア社会教育研究』刊行はまったく手弁当で、わずかのカンパは頂きましたが、TOAFAECとしてNPO的に頑張ってきました。行政補助があるわけではなく、もちろん大学の研究紀要ではなく、学会の年報でもなく、まして営利的な出版物でもない、小さな研究フオーラムとしては大きすぎる仕事です。内田純一さんはじめTOAFAEC・事務局の献身的な努力で支えられてきました。和光大学時代に力を入れた社会教育研究の仕事、その主要なものを一つ言え、と問われれば、迷うことなく『東アジア社会教育研究』をあげることになります。はじめは恐らく3号で終わりだろうと自嘲しながら、もう第6号まで続き、この勢いだとあと少しは続くのでしょうか。国内ではほとんど無名、しかし他に類書はなく、内容的にもそのうちにきっと評価がでてくるだろうと楽しみにしています。編集委員と事務局は、北京、上海、広州、台北など、そして沖縄、東京などから総計20余名の体制、事務局は和光の研究室です。いま、和光大学と協力していただいた皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。
 TOAFAECの研究活動やこの『東アジア社会教育研究』編集に携わりながら、ひたすら考えてきたことがあります。それは、社会教育ないし成人教育における“東アジア・モデル”についてです。日本の社会教育研究は、欧米の成人教育の歴史に学びながら、それとの比較で日本的な特殊性や後進性を考えてきた傾向があります。いわばヨーロッパ・モデルとの対比です。そして、ヨーロッパ近代の市民社会のなかで成熟してきた成人教育や継続教育のモデルにどう追いつくか、そういう発想になるわけです。一つの課題の軸としてそういう迫り方はあっていいし、それはそれで大事な作業でしょうが、しかしそういう見方だけでいいのか。東アジアからの比較研究の視点をもてば別の景色も見えてくるのではないか、すぐ近くの視点から比較論を多元化してみる必要もあるんじゃないか、などと考えてきました。
 東アジアでは、同じ儒教文化圏に属し、近現代史において侵略と植民地支配そして厳しい戦争の歴史をもち、その痛苦の過程で「社会教育」という名称を共有してきたというのに、それだけに逆に相互の研究交流は少なく、東アジア・レベルでのきちんとした比較研究はまことに微弱なのです。大いに気になることでした。このあたりのことは、先ほど述べた『東アジアの社会教育・成人教育法制』の冒頭に「総論」として書いています。

 東アジアからの研究視点が弱いことと同時に、ヨーロッパ・モデルとの対比における日本社会教育の一面的な捉え方、いわゆる特殊性・後進性あるいは前近代性といった類型的な評価の仕方についても再検討してみる必要があるように思います。よく引用される碓井雅久氏による指摘、日本社会教育の官府的民衆教化性、非施設団体中心性、農村地域性、青年中心性という歴史的特質にしても、別の見方をすれば、違った側面が見えてくるのかも知れない。いわゆる“負”の側面の洗い出しだけでなく、いわば東アジア的な社会教育の特長や可能性のようなものをトータルに捉えていく作業もあっていいのではないかと。
 たとえば、官府的という問題の指摘があるが、同じ「官府」でも、近年の自治体行政の分権や参加の実践には注目すべきものがありますし、施設と団体の点で言えば、施設の管理性と硬直性の一方で団体の自主性と伸びやかな展開がみられる事例がある、あるいは都市労働運動が停滞し他方で農村の地域づくりへの挑戦が躍動的である、いまむしろ若者の居場所づくりや社会参加こそが期待されているなど、多角的な見方をしていくと面白い側面が見えてくると思うのです。
 別の言い方をすれば、東アジアの社会教育は、ヨーロッパの成人教育と比較して、明らかに地域(コミュニテイ、社区)教育としての特質をもっていると言えるでしょう。また労働者教育や職業訓練の領域を分離している反面、図書館・博物館等を含む文化的領域との近接性をもっている。教育機関・教育組織としての性格が曖昧でごった煮的であるとしても、体育・レクリエション活動や地域福祉活動との関連性や多面性をもっている。そういう意味でも、国際的な比較を多元化し複眼的な視点をもって、東アジアの社会教育・成人教育の特長なり課題を新しく発見していく必要があるのではないか、そういう問いかけをしてきました。
 いまはまだ一つの問題意識というか、その仮設的な提示にとどまるだけですが、検討を進めていく基礎作業として、東アジア各国・地域の社会教育・成人教育そして最近の生涯学習についての、現実の展開を知る、実際の動きを確かめる、そして認識を深めていこう、相互の研究交流の機会をつくっていこう、というのが私たちのTOAFAEC活動と『東アジア社会教育研究』発行のひそかな挑戦でした。

 東アジア・モデルを捉えていく視点として、これまで五つぐらいのポイントを考えてきました。『東アジア社会教育研究』編集にあたっても、この5項目を重視して毎号の構成を考えてきたように思います。
 一つは、社会教育における法制志向という特質、そういう潮流が指摘できるのではないか。前に述べた東アジア戦後史のなかでの三つあるいは四つの社会教育法の展開がそうですし、最近では韓国の平生教育法(1999年)や台湾の終身教育法づくり、中国でも新しく成人教育法制定の動きが伝えられています。総じて生涯教育の理念に基づく新しい法制化への動きがはっきりしてきている。学校教育とくに高等教育とも連動して大きく教育改革への流れとも言えましょう。これらが今後どのような方向をたどるか、日本の空文化した生涯学習振興整備法(1990年)の停滞状況と比べて、これまでにない躍動を感じますし、東アジア社会教育の現代的な特長と言えるのではないでしょうか。
 第二は、行政主導という体質です。東アジアでは、歴史的に日本の国家主義的な行政とか、韓国の最近までの軍事的統制的な政治、また40年近く継続された戒厳令の不名誉な世界記録をもつ台湾、あるいは中国の社会主義体制による政治統制など、ある程度共通して強力な政治支配、行政主導の体質を背景として、社会教育が組織されてきた歴史がありました。しかし行政が公共的な制度や条件を先進的に整備していくという可能性をもっていることも確かですし、同時に最近の自治、分権、参加の動きや市民運動の胎動、民主主義的な動きとの関連で、行政の役割があらためて注目されることにもなるわけです。
 第三は、地域・コミュニテイを基盤とする社会教育、あるいは集落の形成・教育の機能を含む、いわば地域主義的な特質です。日本の公民館に象徴されるような地域の社会教育施設が拠点的役割を果たしながら社会教育や生涯学習が展開されていく。あるいは韓国の小さな村に行きますと、沖縄の山原(やんばる)の字(あざ)ととてもよく似ているんですね。小さな集落の中心に広場があって、地域の共同の機能がそのまわりに集まっていて、そこに公民舘的な施設がある・・・そんな風景がある。そのような地域を基盤とする社会教育の展開について、ヨーロッパ的形態とは違う特長や課題を追求していく必要があるのでないかと考えてきました。
 第四は、地域主義の体質と対応する問題ですが、労働・職業・技術等にかかわる領域から分離された非職業教育の性格です。社会教育の歴史も現在も、いわばノン・ボケィショナルな機能として取り組まれてきて、ヨーロッパ成人教育との大きな違いがみられます。この点では社会主義体制下の中国の成人教育がむしろボケィショナルな性格をもっていて、共通するところがありますが、最近の上海などでは逆に“社区”(地域)教育へ傾斜していく取り組みの動きがあって、興味深いものがあります。ノン・ボケィショナルな社会教育の限界や課題はもちろん考えていかなければなりませんが、他面、文化や福祉あるいはスポーツなどと結合していく側面もあり得るわけで、それらと連動して地域づくり論への展開がみられることにもなりましょう。
 あと一つ、第五に東アジア社会教育における識字教育の問題です。リテラシーについては、とくに高度識字社会と言われる日本とは無縁の問題と考えられがちですね。しかし日本に識字間題はないという言い方には、幾つかの点で間違いがある。一つは、日本にも少数だけれども、読み書きができない人がいること。また最近は外国籍住民の識字問題もあります。同時にあと一つ、かって植民地支配をうけ、侵略・戦争の被害をうけた国・地方における非識字者の存在は、日本に大きな歴史的責任があることは明らかです。韓国でも台湾でも、戦後の社会教育の重要な課題は成人の識字教育の取り組みでした。中国ではまた少数民族の識字問題を含めて、いまなお多くの非識字者をかかえているわけで、ヨーロッパともアフリカ等とも異なる東アジア特有の識字教育の状況について、認識を深めていく必要があると思うのです。

東アジア各地との研究交流 −2000年代の課題
 1990年代から、私たちの研究室とTOAFAEC活動では、東アジアの各地に数多くの旅をしてきました。ほとんど毎年の韓国訪問、また上海や広州、そして台北、あるいはモンゴルなど。大学院ゼミで出かけたこともあれば、学部学生中心の企画もありました。もちろんTOAFAECとして動いたこともあります。内田純一事務局長等と取材・編集の旅行もありました。“桃李四海”という言葉がありますが、研究室から育った“桃李”が海外各地に、各都市に散らばって活躍し始めていることとも関係しています。海を越える旅は、新しい出会いをつくり、行ってみてはじめて分かる知識、知見は少なくありませんでした。

 いろんな想い出が心をよぎります。韓国への旅は日韓文化交流基金の援助をうけて回を重ねました。ここ2年ぐらいは途絶えていますが、毎年、3月1日をはさんでスケジュールを組んできました。1919年の独立運動、いわゆる3・1運動を記念する特別の日ですから、その前後になりますと、韓国ではテレビも特集番組を組みますし、3・1記念の大きな集会も催されます。この時期に韓国にいるというのは日本人として非常に緊張するんですね。ソウルの真ん中、3・1独立運動の中心となったタブコル公園に行きますと、日本人を見かけると議論をふっかけてくる老人もいて、日本の学生たちは立ち往生してしまう。釜山の識字学級を訪問したときの経験も厳しいものでした。「いま何故こうしてハングルを学ぶお年寄りがいるのか、日本の学生たちは分かりますか?」「日本人にこうして韓国の識字学級を見せるのは複雑だ」「しかし日本の皆さんたちがせっかく来たのだから、率直にお話しします」という険しい表情など忘れることができません。
 東アジアを歩くこと、相互の研究交流を深めること、それはそれで大事なことですが、実は若い世代にとっても、ある意味では大変つらい歴史を負っていることを忘れてはならない、そう痛感することが少なくありません。戦争の被害や悲劇が語られ、歴史認識や戦争責任が問われる場面が出てくる。私自身も1931年の生まれ、十五年戦争がちょうど少年時代にあたるわけですが、幼かったのです、と言って歴史認識から逃げることはできない。そういう意味で、東アジアとの研究交流、新しい友人たちとの出会い、友好と親善、といった活動も、つねに民族と民族の問題と無関係でなく、厳しい歴史の背景のなかに位置づけながら進めていく努力が求められると思うのです。
 これまで何度も中国の大学で講演をさせられたことがあります。日本の学生たちよりはるかに熱心に聞いてくれますし、研究上のことだけでなく政治的な関心も旺盛なのが印象的です。真面目すぎる真剣な質問にたじろぐこともありました。そのようなとき、取り繕うことなく率直に自分の思いを語ることにしています。日本と中国の戦争のことにも臆せず触れることにしています。上海閘北区の社区大学では、思わず「松花江上」を歌ったこともありました。歌を人の前では歌わないでほしいというのが私の妻の願いで、そんなにうまくないのです。しかし上海の若い学生たちは、下手でも思いをこめて歌うというこちらの心を感じ取ってくれたように思いました。

 海を越えての記念すべき集会参加や、公式にきちんと記録しておかなければならない研究提携等の経過がいくつかあります。しかし、もう詳しくお話しする余裕がなくなってしまいました。ここでは主な項目だけにとどめて、また別の機会にゆずり、これから後の展開を含めて、あらためてご報告することでお許しいただきます。
 韓国との研究交流については、1990年代初頭に数年続いた日韓社会教育研究合同セミナー(大阪、大邱、川崎等)がありました。その開催には笹川孝一さん(法政大学)などが努力されました。また日本の社会教育推進全国協議会と韓国の社会教育協会との相互交流が行われた一時期があり、金信一さん(ソウル大学)たちが全国集会・木更津集会(1993年)に参加され、翌年には私が社全協委員長として韓国を訪問し、社会教育協会年次大会で講演した経過があります。黄宗建さんや金済泰さんが立ち上げられた韓国文解教育協会の第10回記念大会(1999年)への招聘では、「東アジア地域における識字教育の研究と交流」について講演し、この記録は『東アジア社会教育研究』第4号に収録されています。
 台湾との関係では、1997年に台北市政府教育局と台湾師範大学社会教育学系の共催で「中日終身教育学術研討会」が開催され、日本側から私と末本誠(神戸大学)、上野景三(佐賀大学)、内田純一(東京都)ならびに阿部龍蔵(放送大学副学長)各氏が参加し、活発な論議が交わされました。このシンポジウムの台湾側の基調報告者・楊国賜(台湾師範大学教授、教育部次長)氏の「台湾の生涯教育法制とその実施展望について」は日本語訳が『東アジア社会教育研究』第2号に掲載されています。台湾ではその後「教育基本法」制定(1999年)から「終身学習法」づくりへと活発な動きがあります。
 中華人民共和国については、広州や北京などとの交流ももちろんありますが、主として上海との関係がいくつも重ねられてきました。一つは1995年前後からの旧上海第二教育学院とその後の華東師範大学(成人教育学院、現在は継続教育学院)との研究交流の流れです。当時の神戸大学大学院の呉遵民(現在、華東師範大学助教授)さんが貴重な架け橋の役割。華東師範大学とTOAFAECは、1998年に研究交流・提携の意向書を、その後に正式の協議書を交換し、上海市成人教育協会とくに葉忠海(華東師範大学教授、同協会副会長)氏の協力も得て、相互訪問と共同研究が続いています。
 あと一つの流れは、上海市閘北区の業余大学(現在、社区学院)との合作学校づくりの試みです。先方はれっきとした公立大学、当方は小さな研究フォーラム、まことに不釣り合いな組み合わせながら、私の研究室への留学経験がある副学長・袁允偉とその親友・羅李争お二人の誠意あふれる努力の積み重ねがあって、対等の立場での協議が続きました。1995年頃から計画は始まって、断続的に学校づくり計画は進展し、通称「中日文人学院」についての定款・契約の書類づくりが完成したのは2000年のこと。しかし、あとは認可をまつだけという最終段階で、残念ながら、なぜか、この計画は実りませんでした。
 その後、この学校づくりの構想を受け継ぐかたちで、閘北区が新しく新営した新社区大学(上海行健職業学院、2001年)の図書館1階に「小林国際交流閲覧室」が開設されて、いま日本の社会教育と中国の社区教育を結ぶ空間としての新しい展示が始まろうとしています。

 羅李争と袁允偉二人の留学生との出会いから始まった閘北区・業余大学との付き合いはすでに10年を超えました。業余大学というのは日本では聞きなれない名称ですが、中国独自の短大クラスの公立成人高等教育機関、閘北区の場合が1978年の創立です。文化大革命10年の教育荒廃を克服し、教育復興をめざして、改革開放政策に向けての人材養成と「業余」の労働者再教育の場として多様な役割を果たしてきました。いわば社会教育夜間大学みたいなところ、もちろん夜間だけではありませんが・・・。それが新しい社区大学として脱皮し、つまりコミュニテイ・スクールとしての役割も加えて、業余大学時代とは比べものにならないほどの広い新キャンパスをもち、新装開店したのです。
 昨年の秋、上海を訪問した「社区教育」調査団一行8名のスケジュールの合間をぬって、この新社区大学「小林国際交流閲覧室」オープンの行事が催されました。除幕式があり、私に図書館名誉館長の称号を用意し、正直いって涙が出そうな瞬間でした。今後、この空間をどのように充実していくか。日本の、とくに大都市の社会教育関連の資料や映像を常備し、実は中古なのですが、日本から運んだパソコンを通してインターネットで結び、これまでにない日中双方の研究交流の場として定着させていきたい、というのが私に夢です。果たしてうまく進展するかどうか。今後の大きな課題となりました。合作学校づくりの顛末から国際交流閲覧室への経過は、私たちのTOAFAECホームページ上に「上海の風」として載せていますので、ご覧いただければ幸いです。
 一つだけ戦争の歴史について付け加えさせていだだきます。この閘北区というのは、上海駅を含む旧都心、上海の中心部なのです。日本との関係では、魯迅とも親交があった内山完造旧宅もある地区ですが、同時に、日中戦争のなかで大きな被害を受けたところでもあります。1932年の第一次上海事変では、日本の陸戦隊が激しく攻め、空爆もあり、廃墟になった話を聞きました。つらい一ときでした。
 閘北区だけではありません。同じ上海市の近郊、杭州湾沿いに金山区があります。ここは中国で初めて「社区学院」の名称で正式に認可された“コミュニテイ・カレッジ”が登場したところ。同じ昨秋の調査団、最終日に残ったメンバーで車を走らせて金山区社区学院を訪問しました。その帰途、運転手は杭州湾沿いに私たちを連れていきました。1937年の第二次上海事変、いわゆる杭州湾上陸作戦の地点でした。
 1937年は、7月の廬溝橋事件で日中戦争が本格化した年、日本軍は再び上海を攻める、閘北区など市中心部では頑強に抵抗して上海は落ちない。そこで日本軍は海軍を動かして杭州湾から上陸し、つまり郊外の西側から攻めて上海を落とし、内陸に侵略して、その1ヵ月後の12月、南京大虐殺事件に至るわけです。杭州湾上陸地点には、「民族の恥辱永遠に忘れず」という手づくりの碑が建っていました。立派なものではなく、手打ちのコンクリートに竹のヘラで削ったような文字が激しく刻まれていました。
 中国を歩けば、このように戦争の歴史に出会う。私たちの現在は、つねに歴史の中にあるんですね。そういう地域と歴史を背負っての研究交流でもあるわけです。それも中国だけではない、東アジアの各地に共通することでありましょう。しかし、だからこそ、真の友好につながる新たな研究交流の努力が求められているのだと思います。

和光大学、“わが青春”
 はじめに、三橋修・和光大学長がご挨拶でおっしゃいましたように、私は学生の皆さんとの付き合いはかなり濃密に、楽しんでやってまいりました。ゼミで沖縄に毎年出かけましたし、韓国にも中国にもモンゴルにも、さかんに旅をしました。しかしそれにかまけて、大学の教授会など校務に関することでは、私は怠慢な方で、いま申しわけない思いでいっぱいです。よく会議を抜け出して別のフィールドワークに出かけたり、調査旅行の出張を遠慮しないで組んで、本当に自由にさせていただきました。管理職で苦労した前の大学のことなどを思い出しながら、その反動があったのかもしれません。休講は避けようという努力をしたことがせめてもの言い訳です。
 会議でもあまり発言しない、本当に勝手気ままにさせていただいき、それを寛大に許していただいた教授会の皆様に深く感謝いたします。最後の和光大学・人間関係学部紀要5号に、去りゆくものとして一文を書くように言われ、この7年をふりかえり、自由気ままに過ごさせていただいたことを実感して、思わず“和光!わが青春”というタイトルになってしまいました。あらためて御礼を申しあげます。
 和光大学の7年間、短い歳月でしたが、充実感をもって終わることができます。町田、川崎、相模原など大学周辺のフィールドワークとともに、研修センターがある松本や飯田によく出かけました。和光ではゼミ合宿を楽しんでくれる学生が多く、嬉しいことでした。何よりもこの間に沖縄研究を継続できたこと、そして東アジア研究への道すじを模索し、TOAFAECと称する研究会と『東アジア社会教育研究』を軌道にのせることが出来ました。 あわせて、大学開放「ぱいでいあ」の世話人に加えていただき、移動大学を担当したこと、和光・松本塾の開催に寄与できたこと、また学部・学科主催の「大学と地域を結ぶ」公開シンポジウムを企画できたことなど、考えてみれば、大学のなかに閉じこもるのでなく、外に向かって広く開いていく仕事に関わることができたことは幸せでした。

 和光大学では、教職員の皆さんや組合の活動にずいぶんとお世話になりましたが、とくに個性的な学生さんとの出会いがかけがえないものとなりました。和光大学の学生について、最初に教員として誘われたときに当時の学科長だった奥平康照先生から聞いたことですが、鶴見川の橋の向こうから先生を見かけると、学生が呼びかけると。いま多くの大学ではそんなことはめったにない、むしろ目をそらしたりする。ほんとにそうかな、と思っていたのですが、ほんとでした。「ぶんじん先生!」と遠くから呼んでくれました。和光大学では、教職員の皆さんも多彩ですが、学生が決して一様ではない、多様多彩、遠慮しない、礼儀正しい人もそうでない人もいる、率直、あまり本を読んでいないが自分の考えはもっている、そんなところが大変おもしろくて、そんな皆さんとの出会いに心から感謝しています。
 ただ一つ残念なことは、私の在任中は、まったくの就職難。せっかくの社会教育主事資格をとっても、それを活かして、社会教育や図書館の分野に専門的に関わる機会があまりない。厳しい現実ですね。和光大学の先輩をみても、社会教育の仕事にぴったりの人が少なくないのです。しかし私が和光大学に来た頃から、まったく就職が狭くなった。きっといい仕事をするに違いないという人が多いのに、残念です。
 しかし私たちが大学を出た時期も、実はそうでした。大変な就職難でして、仕方なく大学院に行ったんです。しかしそれから半世紀経って振り返ってみると、私の友人たちも結局どこかでいい仕事をしています。皆さん、きっと道は拓かれると思います。確信をもって頑張ってほしい。これからの歩みに期待しています。
 本日は多くの方々にお集まりいただき、ご静聴くださって、有り難うございました。

 付記
1,本稿を作成するにあたって、九州大学コロキュウム講演記録のテープおこしの労をとっていた
 だいた金子満(九州大学大学院)、同じく和光大学最終講義の記録をつくっていただいた遠藤
 輝喜(渋谷区教育委員会)のお二人に深く感謝します。有り難うございました。 
2,末尾に、和光大学在職中(1995年〜2002年)に刊行・編集・執筆した成果の主要なものを一覧
 にして掲げておきます。(略)     *メモ(詳細はこちら→■


和光大学・最終講義を終わって(20020126)


和光大学・最終講義・夜のパーティー“風の集い”




和光大學を去る夜(2002年1月)





                         
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