★伊藤長和・烟台の風W(2012年9月〜) 付:私の闘病生活
  *中国・山東工商学院 外国語学部

*烟台の風V(2011年8月〜2012年7月)→■
*烟台の風U(2010年8月〜2011年7月)→■
*烟台の風T(2009年4月〜2010年7月)→■




■鎌倉の風(4)−祝賀名護市長選 (Mon, 20 Jan 2014 10:35)
             *南の風3235号(2014年1月21日)収録
 小林先生と共に、稲嶺進名護市長の再選を心からお喜び申しあげます。朝4時に、病室でPCを開き、朗報に接しました。
 今回の市長選挙が、権力に対抗する民衆という構図の選挙戦だっただけに、権力は選挙結果の民意を重く受け止めなければなりません。しかし早くも、それを無視する日本政府の閣僚の声も聞こえているだけに、これからが、日本の民主主義の成熟度を示す絶好の機会と言えましょう。
 国民あっての国家なのですが、最近、日本の政治家は右から左まで、「国益」という言葉を良く使います。彼らは「国家の利益」という意味でこの言葉を多発します。しかし、国家を構成する「国民の利益」という意味が根底にあることを忘れ去っているようです。先ず「地域主権」「地域住民の利益」が地域住民の総意に基づき最優先されるのが、民主主義の大前提なのです。
 「国益」「国家の名の暴力」を決して、許してはなりません。ところで、「南の風」(3235号)後記の欄を拝読し→■、小林先生の体調異変に驚いております。その後いかがですか。ご無理をなさらないで下さい。

■鎌倉の風(3)−2014・新年会へ 
(Wed, 8 Jan 2014 10:07)
 
<10歩歩んでは一休み!>
 例年のとおり、「小林文人・富美先生ご夫妻を囲む新春の集い」は、華やかに賑々しく行われました。今年は、松の内の開催(5日)といったこともあり、いつもより若い方が少なく、ご年配の皆さまが多かったようです。「七夕の会」は、若い世代で、「新春の集い」はご高齢の方々が目立つようですね。
 二度の胆石の手術をなさった、富美さまもお元気のご様子で私は安心しました。
 私は、文人先生のお弟子さん・教え子とのこんなにも長い触れ合いの機会が続いてきたことに、驚愕と、ご夫妻のお人柄・教え子への愛の眼差しを感じとり、真の教育者の姿を学ばせていただいたのです。
 ところで私ですが、もしかすると今回が最後の参加となり、皆さまとは、「今生の別れ」になるかもしれないので、医師、家族、友人が反対するのも聞かず、一人で杖を頼りに東京へと向かったのでした。日本の若者は未だ「いたわりの心」を失ってはいませんでした。正月休みの日曜日で混み合う電車にヨロヨロと乗り込む私の姿を見ると、皆席を譲ってくれたのです。冬はスキー、スケートで鍛え、夏は野球や水泳・登山で鍛えた私の足腰は無惨でした。見事自信は打ち砕かれたのです。
 <10歩歩んでは一休み、10歩歩んでは一休み>です。勿論、階段は手すりと杖にすがっての歩行です。朝11時15分に自宅を出、午後1時45分に会場到着。2時に開会し、2時半には、途中退席。自宅の玄関には5時にたどり着きました。一日中私を心配していた妻の安堵の顔が今でも眼に焼き付いています。ご夫妻や参加者の皆さまから、励ましと元気をいただいた私は、もう少し自身の内在的生命力を呼び覚まそうかと、今考えているところです。帰途の西永福駅まで、私を心配して、見送りにきていただいた、遠藤輝喜さんに感謝、そして参加者の皆さまに感謝。

<写真> 2014新年会ご挨拶 (東京杉並・西永福、20140105) *私たちへの最後のスピーチ

                        


■鎌倉の風(2)−TOAFAEC 定例研究会200回の開催を寿ぐA (Sun, 8 Dec 2013 20:10)
 一方中国は、「社会主義市場経済」がようやく軌道にのり、大都市や臨海部の経済発展は目を見張らせるものがありました。経済発展とともに、終身教育(生涯教育)も社会主義型の独自な、終身教育が展開されるようになったのです。同時に職域組織を基本とした「単位」から地域社会を基礎とした「社区」に住民組織が転換され、「社区大学」や「社区学校」が開催されるようになりました。現在問われているのは、地域指導者の「単位(職場)人間」から「社区(地域)人間」への切り替えで、それは終身教育に多くが期待を寄せられているのです。超高齢社会に突き進む中国の高齢者問題の解決には、「社区」にその役割が期待されているのです。
 今後、学習の自由、住民自治、グループ・サークルや小集団の組織化、などの課題にどこまで踏み込むことができるのか、注視していく必要があるでしょう。この18年間の韓国・中国の生涯教育は、国家戦略としての重要な柱でしたから、私たちは200回の定例研究会で蔭りのある日本の社会教育・生涯教育とは違う躍動的な韓国・中国の生涯教育の実際を学ばさせていただいてきたのです。この間、自国の最新動向を発表された留学生の皆さんの貢献も大きかったと私は感謝を申し上げます。
 小林文人先生は、「定例研究会は通過者の学習の場でもあった」と述懐なさっていらっしゃいました。その後、通過者は帰国し、TOAFAECでの貴重な経験を生かしているのでしょうね。
 最後に、TOAFAECに長らくお世話になってきた私から、一言申し上げさせていただきます。韓国をテーマにした時には、韓国人留学生は多数参加しますが、中国人留学生はごく少数です。この反対もまた同様です。私たちの研究会は「東アジア」なのです。自国だけでなく、教育の国際比較研究の視点が大切なのです。TOAFAECは「学びのグローバリゼーション」としての最新の研究と交流の場なのですから。

■鎌倉の風(1)−TOAFAEC
定例研究会200回の開催を寿ぐ@ (Sun, 8 Dec 2013 20:10)
 TOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)の定例研究会が200回目を迎え、去る11月29日に開催されましたが、このことは、既に「南の風」に報じられていますので、皆さんはご存知でしょう。私は、病床の中で200回のもつ重みを考え、「南の風」を受信されている仲間の皆さんから、多くの祝意のメールが発信されるのだろうと思い描いていました。
 事実、「南の風」3000号(2012.12.15)の時には、関心が大きく拡がり、小林文人先生への感謝の気持ちが引きも切らず溢れかえっていたからでした。定例研究会の開始は1995年6月で、「南の風」は、1998年2月6日ですが、現在では定例研究会と「南の風」は、表裏一体の関係にあるのですから、当然ですよね。毎月開催される定例研究会(8月は、全国集会、等で開催されず)ですが、一口に200回とは言っても、これまでに18年を数えたのです。人間に例えれば、祝福されて誕生した赤子が、立派な若者になる歳なのですから、驚異的な回数なのです。しかも毎年研究誌の年報『東アジア社会教育研究』も刊行されているのです。
 私は、この間の小林文人先生をはじめ、事務局でご活躍なさった関係者の皆さまに、敬意と感謝、そして「寿ぎ」のご挨拶をさせていただきたいと思います。今回は、祝賀というより古い大和言葉がふさわしいと思い「寿ぐ」と言わせていただきます。
 この18年間の東アジア、特に韓国と中国を概観すると、実に驚異的な変革を遂げています。韓国では、ソウルオリンピックの前年に民主化が始り、91年・95年と本格的な地方自治が復活しています。正にこの時期にTOAFAECの定例研究会が発足したのです。韓国政府は人づくり・国づくりを平生教育(生涯教育)に求めました。行政主導の平生教育政策・事業を住民主体のものに変える運動は、各自治体で活動するかっての民主化闘争の指導者たちでした。(次回に続く)

退院された伊藤長和さん(中央)を囲む、後列右から3人目にボヤンバートルさん(高井戸、20131129)






■烟台の風番外編K−私の闘病生活11 「昭和6年生まれに」
                 (Wed, 27 Nov 2013 22:07)*南の風3200号
 私の病室の隣りのベッドには、膝を患う82歳の久保さんが横たわっています。遠く徳島県から膝の治療の名医を訪ねあて、予約後8ヵ月間待って、湘南鎌倉総合病院に入院したそうです。彼は、名医の巽(たつみ)医師に再びゴルフができるように直して欲しいと懇願し続けています。
 そうそうゴルフと言えば、中国烟台日本人会顧問の岩切さんも久保さんと同じ年齢でしたが、膝が不自由で杖を突いて歩行されていらしゃいましたが、毎週末に奥さまとご一緒にゴルフをプレーされていました。岩切さんも四国の方でした。
 お二人とも1931年(昭和6年)生まれです。東アジアに関心の有る人なら、誰もが知っている「満州事変(柳条湖事件:九一八事変)」の勃発した年で、日本の本格的な中国侵略の始まりの年ですね。私が知る限り、この年生まれの人はお元気ですね。…TOAFAEC顧問でいらっしゃる小林文人先生、そして奥さまの富美さまも1931年生まれなのです。こんなことを、隣りのベッドの久保さんの大きな声を聞きながら考えていると、若い私はもっと頑張らなくてはという気持ちが自然と湧き上って来ました。
 昭和6年生まれに元気をいただいたのです。そうです、今日は、私が退院する日なのです。皆さまに大変ご心配をおかけしました私の再入院、当初1週間の予定が2週間にも及ぶ入院治療となりましたが、本日(27日)退院の運びとなりました。「胆管炎」の細菌も完全に消えたのです。あと2回の放射線治療を終えると、その後は月に1回外来で検査を受けます。
 この間、皆さまからは、激励、そして私の軽率な行動に対する注意やお叱りなどをたくさんいただきました。これからは、「油断大敵」をいましめにして、私はビールの解禁日まで静養してまいります。ありがとうございました。先ずはお礼とご報告まで。

■烟台の風番外編J−私の闘病生活10 「再入院しました」(Fri, 15 Nov 2013) *南の風3193号
 突然の悪寒に襲われ、全身の強い震えが続きました。体温は40度と高熱です。早速、電気毛布で体を覆い、解熱剤を飲んで2時間、なんとか落着きをとり戻しました。11月12日の午前11時のことです。翌13日の午前1時の深夜に再度、悪寒と全身の震えに襲われました。
 ところで、私はトイレで驚きました。紙パンツを穿いているのです。ここからは高熱のためか、全く私の記憶はないのです。私は小用のため床から起き上がろうとしていたとのこと。でも足腰に力が入らず床を転げ回っていたそうです。簡易便器は私が拒否したので、妻が火事場のクソ力を発揮して、トイレまで運び入れたそうです。それでも、少し粗相をしたため紙パンツを穿かされたのです。
 私の竹馬の友の大石勝昭さんから、決して人混みの中に出るな、感染症が危険だからと何度も忠告と助言をいただいていた私ですが、10日に友人の葬儀、そして11日に国際郵便を出しに閉局時間間近の郵便局に出かけたのです。葬儀には、忠告どおりマスクを付けて出ましたが、残念ながら時間に追われていた郵便局へは、マスクを忘れました。間もなく閉局ということで局内は混み合っていました。青島の中国海洋大学大学院の教え子の程英さんから頼まれた、「村上春樹」関係の研究評論書を5冊EMS便で送るため、郵便局までの道を走り、帰路には雨にも降られたのです。しまった、風邪をうつされたと直感しました。免疫力・体力の減退しているこの時期、風邪は肺炎を引き起こし、死に直結するそうです。
 そこで13日朝、放射線治療の後、内科医の検査を受けたのです。採尿、採血、レントゲン、CTスキャナー、点滴後の再採血と1日がかりの検査が続き、結局緊急入院となったのです。準備のための一時帰宅も許されません。症状は、手術で切除した肝臓周辺部の炎症だそうです。入院は1週間ほどで、その間放射線治療は中断です。今は、飲食は止められ、抗生剤点滴生活に逆戻りです。せっかく体力も戻り、徐々に研究会などに参加できるようになったのに、とても残念ですね。でも、感染症でなくてよかった。

■烟台の風番外編I−私の闘病生活9 「放射線治療とフジツボ」
                          (Tue, 29 Oct 2013 21:44)
 *南の風3186号
 皆さんは、フジツボをご存知ですね。いえいえ、『源氏物語』の桐壷帝の后の藤壷の宮ではありません。海岸の岩場に張り付く貝殻状の富士山型の生物です。このフジツボが美味なんだそうです。カニや海老、イカ、ウニなどのような味がするそうです。私は今まで、食べられることすらも知りませんでした。
 これは、現在放射線治療を行っている病院の看護師さんから聞いた話です。私はここ数日顔を見せなかった若い看護師さんに、どこか旅行にでも出かけたのか、と尋ねたのです。彼女は、青森で開かれた学会に行ってきた、と笑顔で答えました。青森なら、海の幸、山の幸の美味しい食べ物を沢山召し上がったでしょうね、と 私は続けたのです。すると彼女は「伊藤さんは、フジツボを食べたことが有りますか?」と私に聞きました。
 彼女は、「私も初めて食べたのですが、とても美味しかったですよ」と言いながら、タブレットを取り出し、自分で撮った映像を私に見せて、青森では昔から食べられていて、今では、数も少なくなり高級食材となっていると説明してくれたのでした。放射線治療の説明では、副作用や後遺症で食欲を無くしたり、臓器を損傷する人がいるとのことでしだが、幸いにして私はまだ食欲はあるのです。そこで私は、放射線治療を終えたら築地にでも出かけ、フジツボを食べてみよう、と決意したのです。                                    
 ここで、放射線治療に関する問いにお答えします。毎朝私は7時に放射線腫瘍科に到着。直ぐに更衣室で検査着に着替え、体温と血圧を測定しコップ一杯の水を飲み、治療室に入室します。初日に私の体型に合わせて型取りした樹脂がベッドに据えられています。私はその中に仰向けに寝ます。両手は頭の上に固定します。毎回、患部の位置のマーキングが消えないように上書きされてから、いよいよ治療開始です。
 体に覆われたビニールの空気が抜かれ、体中が圧迫され身動きができなくなります。大きな筒状の中にベッドがスライドしてCTスキャンが行われます。それから放射線照射です。照射は170秒と短時間です。
 さあ、一日も早く体調を戻し、フジツボに出会いたいものです。

■烟台の風番外編H−私の闘病生活8 「朗報2件」 
                          (Fri, 4 Oct 2013 20:05) *南の風3171号
 ガンの放射線治療が始ります。簡単に患部に照射するのかと思っておりましたが、その準備が大変です。正確に患部に放射線を当てるために、体は微動だにしてはなりません。そのため、全身の型どりが行われ、硬い樹脂のなかに足から頭までが押し込まれ、身動きができない状態に置かれるのです。
 照射時間は20分程度ですが、準備が大変なのです。この放射線治療は30日間ほど続けるのだそうです。後遺症の出る患者も多いのだと事前説明を受けました。
 こんな辛い闘病生活をおくる私に、2人の教え子の朗報が舞い込みました。1人は、この4月から首都大学東京の大学院をめざす研究生のロク秋月さんが、9月19日に行われた入試に合格した、という10月3日発表の連絡です。(ロクの漢字は、緑の糸偏をしんにゅうに換える)彼女は、4年間日本語を山東工商学院で学びましたが、教育学は4月になってから、日本で学び始めただけです。それだけに、私は来年の2月の試験をめざし、今回は試行だと助言してきたのですが、半年の彼女の頑張りが、今回見事に花を咲かせたのです。
 もう1人は、難関の西安外国語大学の大学院に昨年トップで合格した路喩喬さんからのメールです。彼女は昨年の9月に病気になり、1年間休学をしてしまったのです。その後は電話もメールも不通となり、連絡も皆無となって、私は心を痛めておりました。今年の6月に私は甘粛省の蘭州市まで出向き、彼女の消息をたずね、励ましてきたのですが、今回病気回復をして、復学したとの連絡を受けたのです。
 昨晩は、この2件の朗報に私は小躍りし、医師に禁じられているビールではなく、麦茶で一人乾杯をしたのです。自分の難病を忘れ、喜びのひと時を満喫したのです。教師冥利とはこのことでしょうか。私も病魔に打ち勝つぞ!

■烟台の風番外編G私の闘病生活7 「体力に自信が・」>
                            (Mon, 23 Sep 2013 21:43) *南の風3164号
 9月7日に退院してから、私は自宅で寝たり起きたりの生活をおくっています。退院その後の経過は順調でございます。時々自宅近くを散歩して、体力の低下を防ぐ努力をしています。70キロあった体重は現在50キロです。特におしりの肉がげっそりとそげてしまいました。
 19日の夜は、川崎地方自治研究センターの総会です。客員研究員の私は、当初病気を理由に欠席予定でしたが、12年間務められた理事長が退任なさるということから、お礼を述べるために出席をさせていただきました。
 混み合う電車に体力が耐えられるか心配でしたが、なんとか無事会場の市労連会館に到着したのです。理事長の森山定雄さんは、川崎市教職員組合の元委員長です。委員長時代には、私たち自治労川崎市職労の教育支部と川教組が協同・連携し「川崎市教育改革協議会」を組織して、毎月研究会を開催し、その成果をまとめ、教育政策を提言してきたのです。
 当時は、学校教育の教師と社会教育の社会教育専門職員が生涯教育の視点から同席して「地域からの教育改革」をめざし研究するという事は、きわめて稀有なことでしたから、大いに注目をあびたのでした。委員長退任後は、川崎市生涯学習事業団、川崎市市民局長、川崎地方自治研究センターで多くの先進的、人権感覚豊かな、市民本位の政策と事業を手掛けられたのです。
 私にとっては、現役時代から退職後の今日までの大恩人の一人なのです。そのために手術後の体力に不安を持ちながらも、一言お礼を言おうと、はせ参じた次第です。会議は6時半から8時まででしたが、案の定、私は講堂の折り畳み椅子に座り続けることは苦痛でした。なぜなら臀部の肉が落ちたため、直に座席に骨がぶつかるからなのです。
 19日の経験は私に自信を与えてくれました。21日・22日は、大学時代の「日本画研究会」の合宿先であった長野県戸隠を訪れました。OBとなって私は46年ぶりに訪れました。東京駅から貸切サロンバスに乗り、秋の高原に向かいました。参加者は68歳の私が最高年齢で、一番若い人は62歳です。久し振りに出会う顔も、出会った瞬間に学生時代に戻り40年の時間の隔たりを感じさせません。闘病中の私には皆気を使ってくれますが、私は彼らから生きる力をもらいました。そして私は、体力の回復に自信がもてたのです。次は27日にTOAFAECの定例研究会に出かけよう。

■号外−退院が決まりました (Thu, 5 Sep 2013 12:02)   *南の風3153号
 お見舞いして下さった皆様へ、ご心配いただいている皆様へ; 1ヶ月の入院予定が、1週間延びました。退院の日程は9月7日(土)の午後です。この間、多くの皆さまにご心配いただき、励ましやら、激励をいただき・・・お礼の言葉も有りせん。本当にありがとうございました。
 手術後の患部はまだ完治していませんが、これからは週2回の外来治療を受け、その後は、放射線治療となります。7月16日〜25日までの検査入院、7月31日〜9月7日までの手術入院と,長い間の闘病病院生活をおくってきましたが、今は、狭い我が家に帰ることができる喜びにひたっている私です。先ずは、ご心配いただいている皆さまにお礼の意をこめて、退院日程のお知らせまで。

■烟台の風番外編F−私の闘病生活6 「退院は何時なの」(Fri, 30 Aug 2013 08:08) *南の風3149号
 南の風の愛読者数人から、「最近、南の風に書き込みがないですね。見舞いに行きたいが、退院は何時か」との問い合わせをいただいております。
 大変失礼しました。PCに向かう気力はあっても、体力が続かないのです。当初私は、入院は約1ヶ月です、と医師から説明を受けましたが、明後日は 9月です。8月1日に手術を受けて、現在は腹部臓器の廃液が止まれば退院となります。その後は外来で放射線治療となりますが、まだ、廃液が出ているので退院は1週間程先になりそうです。
 先日19日、ご高齢の小林文人先生が、山口真理子さんと染谷美智子さんとご一緒に病院まで若輩の私をお見舞い下さいました。猛暑の中を遠方からお越し下さり恐縮のかぎりです。昨日(29日)は、川崎・富川美術交流会の矢追三恵さんと青柳尚子さんがお越し下さり、この夏に開催した富川市の子どもたちを招いての「子ども美術交流」のお話を聞かせて下さいました。
 矢追さんとの最初の出会いは、私が市長部局・国際室に出向して国際交流課長をしていた時です。まだ川崎市と富川市が友好都市を締結する前の頃です。彼女は、そのころプロの絵描きの仲間で日韓美術交流会を組織していたのです。川崎で美術展を開催するにあたって、行政の支援を求めて私に相談を持ちかけたのです。その時の私の印象を、後日彼女は私に言いました。「目つきの悪い強面の、見るからに取っ付きにくい役人だ。」とです。実は、妻にも同様の指摘を受けています。親戚の子どもが小さい頃、我が家に来ると「おじちゃん居る」と怖い顔の私を避けたものでした。矢追さんは、勇気を奮って私に相談をすると、一時間半も時間をとって私が彼女の依頼を聞いて、助言や支援の約束をしてくれたと、この日も語ってくれました。(そうさ、人間顔でなく、心だ!)
 そうは言っても、中国烟台に赴任することが決まった時は、この矢追さんの言葉を私は思い出し、自然の笑顔づくりに励んだのです。笑顔で若者の心に飛び込むために…。昨日で56人の方々が病室を訪れて下さいましたが、私は笑顔でお礼を申し上げることができたのでしょうか?

■烟台の風番外編E−私の闘病生活5 「高いハードル」(Thu, 15 Aug 2013 18:14) *南の風3141号
 全身が硬直化し、悪寒が走り、激しい震えが始まりました。声が出ません。上下の歯も噛み合わず、ガタガタ音をたて、全身が震えています。初めての経験です。もうこれでお別れかと思ったほどです。真夏なのに電気毛布で体を包み解熱剤で、何とか私は平常に戻りました。
 それは一昨日(13日)の午後3時でした。ちょうどその時、見舞客が来室して下さったのですが、昏倒悶絶・七転八倒している私の姿に驚愕して、退室なさいました。猛暑の中、遠方よりお越し頂いた皆様に異様な姿をお見せし、申し訳ございませんでした。どうやら、患部が炎症を起したようです。この震えは2回私を襲ったのです。
 8月1日の手術以降、今日まで順調に回復をしていますが、今まで3回のハードルが有りました。第一は、「水責め」です。激しい下痢です。2時間おきのトイレは、深夜の眠りを妨げます。第二は、「ガス責め」です。腹部でガスが乱舞しているのですが、体外に出ません。腹部の張りが異常です。辛いです。「歓喜する 出た出たおなら 我れ涙」、次は「出た出た月が」の童謡『月』の替え歌です。「出た出たおなら、小さく、静かな音立てて、元気を出せよと、飛び出した」。
 そして第三のハードルは、「激震攻め」の今回の出来事なのです。現在心配なのは。インシュリン製造工場の膵臓の一部を切除したため、血糖値が上がっていることです。酒は駄目、甘い物は駄目となると、私の生活は味気ないものになります。
 ところで、きょうは68度目の「敗戦記念日」です。南の風の少年Bの回想をいつも感動的に拝読している私です。それにしても「改憲論議」はどうなっているのでしょう。「集団的自衛権問題」の論議はどうなっているのでしょうか。中国では,安倍政権の右傾化は連日大きく報道されていましたが、帰国してみると、国内世論の盛り上がりはなく、私は信じられませんでした。現在、「九条の会」の活動はどうなっているのでしょうか。病床で痛みに耐えながら戦後生まれの私は考えているのです。

■烟台の風番外編D−私の闘病生活4 「三度目の幸運」(Fri, 9 Aug 2013 21:19)*南の風3137号
 胆管癌の手術は無事済みました。多くの皆さまにご心配をいただき厚くお礼申し上げます。現在は、傷口の痛みに耐えながら、歩行、呼吸訓練などを行っております。地獄の責め苦とは、このことです。中国各地の道教の寺院で見た地獄絵は残酷でしたが、痛みは感じられませんでした。しかし今、私は体感しているのです。
 1日の手術は、9時から17時におよぶ大手術でした。肝臓の3分の1を切除、胆嚢と胆管を全摘、膵臓の一部を切除と大がかりなものでした。肝臓からの出血多量で、一時は「心肺停止」状況になったそうですが、ベテラン医師の迅速かつ適切な処置により、私は一命を取り留めたのです。まさに九死に一生を得たのでした。医師はこの4月にガンセンターからヘッドハンティングされて赴任された名医です。私はこの医師に出会えたことを神に感謝しなければならないでしょう。
 九死に一生は、そんなに多く有るものではありませんが、私に関しては2回あります。前述させていただいたように(南の風3121号)、小林文人・富美ご夫妻を囲む「七夕の会」への出席に合わせ、7月7日に帰国していなければ、私は新疆ウィグルのウルムチあたりの砂漠で屍をさらしていたことでしょう。事実、私の体調急変は翌日の8日から始まったのですから。
 さて、日本には二度ある事は三度あるという諺があります。悪い事は続くという戒めの諺ですが、これを私は幸運の事例に転用して、九死に一生は、私は三度得ると考えたのです。
 私の三度目の幸運は、生存期間です。医師の告知では、3年で50%が再発するとか。私の三度目の幸運は、この50%に入らないことです。ただし、これからの3年をどう生き抜いたら良いのか、私にはまったく考えつかないのです。今までの私の人生は、多くの皆さまに支えられ、助けられ、励まされて、「生かしていただいた」のですが、これからは残された人生を、自ら主体的にどのように「生き抜いていく」のか、「命どぅ宝」を胸にしての大きな課題なのです。
 〜〜〜〜(追伸)〜〜〜〜
 お見舞いにご来院いただいた皆さまが、多数いらっしゃいます。猛暑で、遠い病院ですから、温かいお気持ちだけいただき、ご来院はお断り申し上げておるのですが、娘や妻にお問い合わ下さっている方もたくさんいらっしゃいます。そこで・・・・・。
(1)病院:「湘南鎌倉総合病院」
(2)交通:横須賀線、東海道線、湘南新宿ライン(池袋・新宿・渋谷は便利)にて、JR大船駅下車、南口。
(3)病院シャトルバス(無料):南口より鎌倉方面(西方)に歩くと、駅ビルとホテル「メッツ」の間にバスターミ
  ナルが有ります。一番奥の線路沿いに、小型バスが15分おきに来ます。
(4)面会受付:1階7番で土日13時から、平日15時からです。病室8階の823号室。

■烟台の風番外編C−私の闘病生活3     (Sun, 28 Jul 2013 15:53)  *南の風3130号
 「常若の思想」を学びました。今年は20年毎の伊勢神宮の式年遷宮の年だそうです。20年毎に建て替えることにより、創建当初のままの姿で建造物を受け継ぐことができ、その技術も伝承できるのだそうです。そしてその建材の木材も計画的に植林し、保護育成して命を受け継いでいくのですね。人間にとっての常若とは・・・、知恵、知識、思想、文化、文明。そして、私は・・・・?。
 死に向き合う心の準備や死生観については、高齢者教育の大切な学習課題の一つです。私も日本の高齢者教室や中国の講演会で、このことに触れてきました。しかし、私自身がこんなにも早く死に向き合うことになるとは、考えてもいませんでした。
 大昔に読んだ、有吉佐和子の小説に気丈な男が、癌の告知を受けた途端、狼狽し取り乱す、という作品が有りました。多分、私もそうなるだろうと想像していましたが、歳のせいか狼狽えることもなく、平常心を保っています。きっと、私の親族、友人、知人との多くの別れが「無常観」や「滅びの美学」を醸し出してきたからなのでしょう。
 私の両親は、共に75歳で旅立ちました。あと7年で私もその年齢に到達しますが、そこまで生きながらえるのでしょうか。日本の文部科学省は、昨年3月『長寿社会における生涯学習の在り方について〜人生100年いくつになっても学ぶ幸せ、「幸齢社会」〜』報告書を発表しています。日中韓、三国の平均寿命は、2011年の男女平均で、日本82.9歳、中国73.3歳、韓国80.8歳です。日本の男女別では、男性79.6歳で、女性86.4歳ですから、私は男性の平均寿命まで生きることは無理かもしれません。「超高齢社会」「長寿社会」とは無縁な私が、「高齢者の生きがい創出」「価値ある人生の総仕上げ」「自分らしく生きる」「健康の維持」「主観的幸福感」「自己実現とは」「高齢者の役割意識」「高齢者の社会参加」「会社人間から地域人間に」「高齢者の学び」「高齢者の地域活動」「好かれる高齢者と嫌われる高齢者」などについて今まで語ってきましたが、あまりにも滑稽な役回りを演じてきたとしか言いようが有りません。
 ただ言えることは、「自分らしく生きてきた」とは断言できます。我儘に自分勝手に生きてきた我が身を反省して、それを許して下さった皆様に感謝申し上げます。テダニ・カムサハムニダ! ヘイチャン・カンシェ!これからは、一日一日を大切に生きていくつもりです。今の私の心境は、「空」と「無」です。本当かな?

■烟台の風番外編B−私の闘病生活2      (Thu, 25 Jul 2013 20:14) *南の風3128号
 シャイで臆病で小心者の私が、「南の風」のお蔭で、性格がガラリと変わり、今では恥も外聞もなく丸裸同然の姿をさらけ出して、皆さまに通信をお届けさせていただいております。それ故「そんな私的な内容まで、公的な通信に掲載を依頼するとは、けしからん」とお思いの方も多分たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。初老の私ではございますが、年甲斐もなく小林文人先生に甘えさせていただいているのです。その甘えのついでにもう一件お許し下さい。
 昨日(23日)主治医に妻と長女が呼ばれ、病状と治療の説明を受けました。当初の診断通り病名は「胆管癌」で、癌細胞が採取されたそうです。11・12日の両日外来検診、16日から24日の今日まで検診入院でした。明日、手術に向けての循環器科で再度の心臓カテーテル検査を行うのだとか。私の血管は穴だらけです。点滴と毎日の採血で、良くも血管がもつものだと思われます。昨日は転移してないかと胃カメラを初めて飲みました。私の上半身の体内は、人格と同様の丸裸になったのです。
 2・3日の検査で帰宅できるのかと思いきや、なんとも長い入院生活に、もう私の気力も限界です。一昨日は土用でした。「うなぎの蒲焼」が食いてぇな〜あ。食欲はまだあるのが救いです。  
 主治医は、胆嚢と一部の膵臓と十二指腸を摘出する必要があると家族に告げました。6時間の大手術だそうですが、手術が成功しても、3年で再発や転移の恐れは、一般的には5割にのぼるのだとか。他の臓器の癌と違い、手術後の抗癌剤も良い薬は無く、現在開発実験中だそうです。
 7月31日に再入院して、8月1日に手術を行う予定です。入院期間はおよそ1ヶ月だとか。気力、体力、そして財力もつきそうです。今日は、鎌倉市の花火大会ですが、残念ながら私は海岸に出て見ることもできませんし、毎年友人たちを招いての七里ヶ浜の海水浴も諦めなくてはならないのです。14日の家族会議では、「遺言書」ならぬ「覚書」を二人の娘と妻に渡したので、もう私の心の準備は万全なのですが・・・・。静寂、静心、平常心、無常観、無心。

■烟台の風番外編A−私の闘病生活1     (Sun, 21 Jul 2013 10:31) *南の風3125号
 熟睡ができず、毎晩ウトウトしています。今朝(20日)は、珍しく夢を見ました。焼肉屋で盛り上がり楽しんでいる私です。でも周りの人たちの顔は見知らぬ人たちです。窓の外では、金髪の女性が焼き鳥を頬張っています。宴が終り皆退散してしまい、一人私は取り残されました。そこで私も立ち上がると、私の靴が無いのです。店の者を呼ぶと老女がやって来て、一緒に探してくれます。
 女優の菅井キンさんです。私は韓国語で彼女に抗議をしています。私の夢劇場の会話は中国語ではなく全て韓国語なのです。天の神様は、粋な計らいをしてくれました。毎晩続いた中国での送別会で会った可愛らしい女子学生たちとの再会を望んでいた私なのに、目の前に居るのは老女なのですから。どうやら私は天国ではなく、地獄に旅立つのでしょうか。(ま〜あ、良いか!)遠くで私を呼ぶ声がします。薄目を開けると、私の顔に被さるように笑顔の美人看護師さんが「採血しましょう」と一言。やっぱり現実の私には美女が特効薬なのです。
 ただ時間だけが無駄にゆっくりと流れています。まだ本格的な手術は始まっていません。19日に、十二指腸に胆汁を流す管を内視鏡で埋め込みました。それまで、鼻孔から肝臓までの細い管を内視鏡で入れて、点滴棒にぶら下げて3リットル半ばかり胆汁を抜き取りました。激しい「黄疸症状」が、ようやく和らぎました。16日に検査入院をしたのですが、検査がこんなにも長引くとは思いもよりませんでした。
 今まで、泌尿器科、総合内科、肝胆膵科とまわり、腹部エコー、心臓エコー、肺X線、腹部MR‐CT、尿検査、血液検査、と検査が続いています。毎朝眠りを起され、採血、検温、血圧の検査が行われます。点滴袋を二つ下げていた私は誰が見ても哀れな重病老人としか映らないのです。 
 とは言え、19日に胆汁袋が取れただけでも、良しとしましょう。今後は、心臓、肺の、MR‐CT検査を行う予定です。23日の火曜日には、妻と長女が担当医師に呼ばれました。ここで手術方法と日程が提案され同意を求められることになるのでしょう。

■烟台の風番外編@−七夕の会で延命  (Sun, 14 Jul 2013 12:29) *南の風3121号
 「七夕の会」出席のため、私は授業や期末試験を前倒しにして、帰国いたしましたが、もしも「七夕の会」が無かったら、と今思うと背筋が凍りつきます。久し振りに小林文人・富美先生ご夫妻にお目にかかり、懐かしい仲間の皆さまにもお会いできたのに、その後、私は体調がすぐれません。そこで私は、湘南鎌倉総合病院で、精密検査を2日間受けたのです。
 エコー検査やMRI−CTスキャナーの検査を終えて、担当医の所見を聞いていた私は、心静かに、穏やかな状態で聞き入っていました。動揺、うろたえ、驚愕、恐怖、で取り乱すはずの私が、別人のようです。医師は、「胆嚢の胆管にできた癌ですね。」と無表情にひとこと。「直ぐ入院の手続きをして下さい。」と続けます。私は「七夕の会」に出席できなかったら、今頃旅先の中国の大地で、昏倒していたかもしれません。感謝、「七夕の会」に感謝、文人先生に感謝です。
 直ぐ入院と言っても、11日は私の帰国歓迎会が予定されており、12日は、韓国富川市の図書館職員18名を迎え、川崎・富川の図書館交流シンポジウムが開催され、14日には、おやじの会「いたか」の30周年記念のつどいが開催されるのです。私は連休空けの16日に入院する手続きをとったのです。
 帰国後、たくさんの皆さまからメールをいただいておりますが、そんな訳でご返事を差し上げる時間も無く、大変失礼をいたしておりますことを、「南の風」をお借りしてお詫び申し上げます。
 高齢者の健康寿命と平均寿命には、約10年の開きがありますが、闘病生活をしながらのこれからの人生設計を、どのようにしたら良いのか、私には今全く考える余裕もないのです。
 日本は、2007年に超高齢社会に突入しており、鎌倉市は2011年現在、高齢化率27.3%ですが、私の暮らす七里ヶ浜は30.73%です。なかでも5丁目は40.56% と高く、私は、これから高齢者の主観的幸福感について、地域活動・学習活動の調査研究をしようと考えていた矢先のことだけに、これからの生き方について、自問自答と模索を病床で繰り返すことになりそうです。「烟台の風」の幕引き、もまだ手つかずだというのに…。





■烟台の風309号−“昴”の熱唱に故郷を想う (Fri, 28 Jun 2013 06): *南の風3111号
 今年も外国語学部主催の「烟台市第六届外文歌曲大賽」が開催されました。今回も私は審査員を依頼されました。超満員の大ホールには、私の教え子たちも大勢いて、私を見付けると、笑顔で駆け寄って来ます。
 参加大学は、魯東大学、烟台大学、濱州医学院、海軍航空工程学院と我が校の5大学です。各学校の予選を勝ち抜き、この決勝大会に臨んだのは11名でした。11曲のうち7曲が英語の歌です。激しいリズム、、そして激しいブレイクダンスは、まるでニューヨークの下町の小劇場にでもいるかのような錯覚を覚えます。舞台ではストロボライトの点滅やスモークマシーンの霧の吹き出し、そして悩ましく腰を振る女子学生のダンスをバックに、出演者がプロ顔負けの歌唱力を披露します。観客の学生たちは、それぞれ自校の学生に、声援をおくります。ひときわ目立つ白い軍服の一団も仲間の出演者には声を揃えて声援を飛ばします。
 英語曲の他は、イタリア語曲(烟大)、フランス語曲(魯大)、韓国語曲(山商)でした。今年は日本語の歌は無いのかと思っていると、なんと谷村新司の「昴」が登場したのです。白い軍服姿の学生の熱唱です。プログラムの曲目には、「星」と書かれていたので、私は日本の歌だとは分からなかったのです。激しいロックやラップ調の音楽に、私の耳が限界反応を示そうとしていた矢先ですから、その静かな調べは心地良い響きとなって、私に祖国への思いを引き寄せたのです。
 審査の集計時間にダンスが披露されました。「外国語学部芸術団」の女子学生10人のグループによるヒップホップダンスです。その中の一人は私の教え子でしたが、センターダンサーの女子学生は、新疆出身で目の大きなエキゾチックな顔立ちの美女です。授業では、笑顔で接してくれますが、日本語のレベルは向上してはいません。でも、今夜の彼女は別人です。
 こんな道を歩む生き方があっても良いだろうと私は納得したのです。私は、芸術ホールに来る前に、偶然にも彼女の期末試験の成績を採点していたのです。そう言えば、彼女の将来の夢は「ダンスの先生になって、ダンス教室を経営すること」、と作文に書いていたことを、私はその時思い出したのです。明日は、彼女の成績をもう一度見直すとするか。

■烟台の風308号−大切なコーヒーカップは宝物 (Tue, 25 Jun 2013 10:27) *南の風3109号
 煮ても焼いても食えないような、ふてくされた態度の一人の女子学生がいました。いつも不機嫌な顔で授業を受けていました。出席をとる時も、他の学生は元気に手をあげて「はい」と返事をしてくれたり、ニッコリ笑顔で立ち上がり、返事をしてくれたりしますが、彼女だけは、いつも下をうつむき、小さな声で「はい」と言います。
 私と目をあわせることは一度もありませんでした。教科書を読ませても、蚊の鳴くような声です。彼女は私を嫌っているようです。私もだんだん彼女が嫌いになりかけていたのです。
 ところが2年が過ぎ、3年生になってから、彼女に少し変化が出ました。声は相変わらず小さいのですが、表情に明るさと、返事をする時に笑顔がちょっぴり出るようになったのです。そして・・・・。
 昨日でした。期末試験が終わり、私は別れのあいさつをして、教室を立ち去ろうとした時でした。彼女が飛び出して来て「先生お話があります」。と、私を引きとめたのです。私は、また記念撮影の依頼かと思い足を止めました。すると彼女は、これから私の教師控室に行ってもよいか、と尋ねたのです。数分後、彼女は外国人教師の控室にやって来ました。
 「伊藤先生、3年間お世話になりました。私は日本語が下手なのに、先生はいつも気を使って下さり、私を励まし、一生懸命教えて下さいました。本当にありがとうございました。これは、先生がお好きなコーヒーを入れるコーヒーカップです。私の感謝の気持ちです。どうぞ、日本でお使い下さい。」と、はっきり、ゆっくり、大きな声で言ったのです。
 他の学生は、教室でクラスメートがいる中でも直接私に様々なお土産の品を手渡してくれますが、恥ずかしがり屋の彼女には、クラスメートの前ではお礼の言葉を言い出せなかったのでしょう。私は3年間彼女を誤解していました。教育者としては失格です。恥ずかしいことです。
 反省、反省、また反省ですが既に遅し、もうお別れの時なのです。箱の中の手紙には、「日本にいても、いつも私が伊藤先生の側にいると思って下さいね。」と添え書きされていました。

■烟台の風307号−抱きすくめられた私は…A>(Fri, 21 Jun 2013 14:16  *南の風3108号
 (前回に続く) 昨日も、学生と飲んでいる席に突然の電話です。なんと昨年の女子卒業生からです。北京の大学の大学院入試に2点差で涙をのみ、その後連絡がとれず、気にかかっていた学生です。
 現在、深セン(土偏に川)のアメリカの企業で働いている、という電話でした。遊びに来いとのお誘いです。遠いよ、と応えましたが、彼女の実家は黒竜江省牡丹江ですから、遠い南方に女性一人でよく移ったと私は感心しました。私が帰国を告げると電話口で嗚咽の音が聞こえたのです。
 最近の教室は、授業が終わると撮影会場に変わります。「先生、お世話になりました。写真を撮らして下さい。」と、私と一緒に記念撮影です。次から次へとモデルは変わりますが、私だけは変わらずに笑顔をつくって立ちつくしたままなのです。
 今日からは期末試験です。試験が終わるとまた撮影会です。私よりも背が高い髪の長い女子学生が撮影が終わるとハグを求め、両手を大きく開き私を抱きしめました。私は彼女の胸の中にいるのです。肩を抱き合うのではなく、抱きすくめられて、「伊藤先生お元気でね」と言われました。
 ハグは男子学生も女子学生も次から次とです。試験中に、隣席の数人が話をしています。カンニングかと近づいてみると、仲良し4人組の女子学生が私の送別食事会の相談をしているのです。答案を書き終えて相談中だったのです。そして、「先生、来週の空いてる日はいつですか?」、と尋ねてくれました。私は、「う〜ん、来週の夜は全部予定が入ってるよ。昼間の都合の合う時間に美味しいケーキとコーヒーにしようよ!」、とすまなそうに返事をしたのです。
 ところで、普段大人しい女子学生が、男子学生に勝るとも劣らず、中国式の乾杯をする姿を、皆さんは想像できますか? だから、私はケーキとコーヒーでと提案した自分を叱りつけたのです。次々に一気飲みをしたビールの空のグラスを見せ合う中国式乾杯は、こんな時にしか女性には機会がないのかもしれないと、私は気が付いたからなのです。何十回も繰り返した、「皆さんの幸せを祈って、乾杯!」は今日もまた・・・。

■烟台の風306号−笑い酒・涙酒の日々が…@ 
  (Wed, 19 Jun 2013 08:41)*南の風3107号
 いよいよ大好きな中国と別れる日が近づいてきたようです。先日は、街道のお年寄りの集まりで講演をしてきましたが、今回は烟台の共産党の老幹部の集まりでの講演でした。60歳代から80歳代のお年寄りが集まっていて、今回の最高齢者は89歳でした。戦前戦後の中国激動の歴史を生き抜いてこられた方々です。
 最初に私は、「現在皆さんは幸せですか?」と質問してみました。全員が大きく元気な声で「幸せ」だと答えてくれました。そうですね、この人たちは社区活動や学習活動を行い、生きがいのある生活をなさっているのですから。まさに、「主観的幸福感」の学説どおりなのです。
 こうして地域の市民と触れ合い、学生と触れ合う生活に私は十分に満足していますが、諸般の事情で今学期をもって烟台を去る決意をいたしました。帰国を公表したとたん、6月1日の卒論発表会前後から、各学年毎、クラス毎、ルームメイト毎、と私の送別の宴が続いています。14日の夜には「桜花日本語協会」という学生の自主サークルが私の最終講演会を企画してくれました。
 教学棟の1階ロビーには、「沙揚娜拉」と大書きされた講演会お知らせの立て看が掲示されていました。表題の漢字は、“さようなら”の当て字です。私の主題は「さよならは言わない・・・再会を信じて〜真の国際人になって欲しい〜」です。250人の大教室は満席となりました。明日は全国英語検定試験があるので、多くても30人くらいだろう、と思っていたので私は嬉しい悲鳴をあげました。4年生のほとんどは就職先や故郷に帰ってしまいましたが、まだ学校に残っていた学生は1・2年、3年生と一緒に参加をしてくれたのです。
 19日は、期末試験で忙しいのに日本語学科の先生方が私の送別会を開いて下さるそうです。21日は魯東大学、烟台大学、山東工商学院の3大学日本人教師の会で送別会を開いていただきます。その間には、まだまだ学生の少グループ毎のお誘いを私は受けているのです。
 もうそろそろ、体力の限界です。小林文人・富美ご夫妻の「七夕の会」まで体力が持つのでしょうか。(次回に続く)

■烟台の風305号−東アジア国際学術研討会A 社区は市民公共生活空間>
  (Mon, 17 Jun 2013 13:39)  *南の風3106号
 私は時間の関係で、どのように高齢者に地域活動や学習の場に参加してもらうのかという、「動機づけ、働きかけ」が高齢者教育にとって最も重要なテーマなのだ、という指摘を割愛してしまいました。これは、主観的幸福感の調査で明らかなように、地域活動や学習活動をしている高齢者の幸福感が高いという実証が有るからなのですが、残念ながら、そこまで私は言及できなかったのです。
 直接に高齢者問題ではありませんが、H山村地区の村落の未来(山崎仁朗・岐阜大学)が過疎化した集落に都会に出た子どもを呼び戻すには、福祉施設を設置して雇用を生む必要がある、と強調されていたことが刺激的でした。高齢者問題の他に中国の発表は、I山東省の夫婦の伝統的思考と現代的思考(林明鮮・山商)、と日本の豊田市の事例を研究したJ新公共性の創造と地域社会(鄭南・吉林大学)、の2本でした。
 そして韓国からの3本は「韓流」ブームに関するものです。K中国、日本と台湾の韓国テレビドラマ視聴者の比較研究(梁種会・成均館大学)、L儒教文化と韓流(李東仁・忠南大学)、M東アジア社会“韓流消費”状況研究(金益基・東国大学)でした。
 ところで、韓国は高齢者の自殺率が高い国なのに、どうして高齢者問題の研究発表をなさらなかったのでしょうか。韓国の「マウル共同体」での実践事例などの報告が聞きたかったのですが。歴史に流される大衆文化の実態把握によって、何を真理追及しようとするのでしょうか、分析のための分析なのでしょうか。何を研究者として提案したいのでしょうか。
 「東アジアで韓流ブームが起きた理由は何なのか」という質問にも十分な回答がなされなかったのも、残念でした。私の考えでは、現代人の「人間疎外社会」が伝統的な人間関係に共感したからなので、人間疎外の克服方法は「地域」にあると思うのです。今回のシンポジウムのキーワードは、地域(社区、マウル)だと私は思うのです。
 その意味では、北京大学の劉継同先生の発表で、「政治単位」としての「社区」から「市民公共生活空間」としての「社区」に転換する必要があり、人々も単位(職場)人間から社区(community)人間になる必要がある、と指摘され、「社区型福祉制度」の枠組みを提言なさったことが、印象的でした。日本の高齢者教育の最も重要な課題が、まさに、「職場人間・会社人間から地域人間へ」という共通のテーマだからです。重厚な研究発表が続いただけに、14本の研究を一日だけで発表・討議をするのは勿体ないですね。

■烟台の風304号−東アジア国際学術研討会@ (Sun, 16 Jun 2013 20:49) *南の風3105号
 今年も、日中韓三国の社会学の学術研討会(シンポジウム)が開催されました。山東工商学院東アジア社会発展研究院と山東省社会学会の主催で、今年で第3回目を迎える研討会には、私は全回参加です。会場は大学が直営しているホテル(順泰大酒店)の会議室です。今年も主催者あいさつは、学長ではなく大学の党の書記が行いました。
 日中や日韓など二国間の研究交流は、各学会レベルでも盛んに行われているようですが、東アジア三国の研究交流はどの学会でも最近始まったばかりでしょう。ましてや中国の大学が単独でこうした三国の国際学術交流を行う例は、重点大学でも少ないのではないでしょうか。実際、前夜の歓迎会の席上「私の大学でも、こうした学術交流を行いたい」と、青島大学、山東大学、蘭州大学の先生たちが発言して、山東工商学院の取組みを称賛していました。
 今年は、私も発表させていただきました。研究論文は14本が発表されましたが、そのうち高齢者(福祉)問題の研究が8本と多かったのが今回の特色です。@高齢者介護の変化と社会保障(奥山正司・東京経済大学)、A中国の特色ある社区(地域)福祉制度の創設(劉継同・北京大学)、B東アジアの福祉類型の思考(中国社会科学院)、C中国高齢化人口の趨勢及び養老社会保障の挑戦(宋全成・山東大学)、D高齢者における精神需要と精神扶養の社会支援研究(劉同昌・青島市社会科学院)、E日本における高齢者教育の現状(伊藤長和・山商)、F高齢者の社会孤立と孤独感研究(呂如敏・山商)、G中国都市高齢者の収入と消費の分析(楊暁龍・山商)、の8本でした。
 私の発表は、急速に超高齢社会をむかえた日本の高齢者教育についてです。高齢者教育で私が主張した大切な必要課題は、社会と高齢者自身が持つ「高齢者観」の転換と、地域人間になるための準備(高齢準備期)、そして生きがいと健康の創造と自立生活などでした。ところで後日談ですが、95歳のご母堂が健在の魏金陵書記は、私の論文に強い関心を示して下さったとのことです。(次回に続く)

■烟台の風303号−国家重点大学は今!A (Sat, 8 Jun 2013 12:44) *南の風3101号
 (前回に続く) 山東工商学院の学生は、中国全土から集まっています。そのほとんどが、各地の重点大学の第1志望校受験に失敗した学生です。それ故、多くの学生が朝早くから夜遅くまで勉強しています。少しでも良い成績をとり、有名企業、公務員、大学院をめざしています。学生の間で交わされている面白い話があります。「北京出身者の多い大学のレベルは低い」、という揶揄です。これは、北京の大学は北京出身者と他の地方出身者の合格ラインの点数に格差をつけているからです。
 例えば、350点で北京出身の学生は合格できたとしても、他の地方出身の学生は400点以上が必要、というようにです。だから北京では、地方出身者の優秀な学生の多い大学はレベルが高いと、真しやかに語られているのです。なぜ、こんな不公平なことをするのでしょうか。人口の都市集中を押さえるためなのでしょうか。農村戸籍と都市戸籍の戸籍制度を守るためなのでしょうか。私には理解できません。でも北京だけでなく、他の大都市の大学でも地元優先入試は同様に行われているのです。
 ここで、国家重点大学についてご紹介しましょう。国家の指導者を育成するため1954年、最初に6校が選定され、その後100校前後が選定されました。1995年に21世紀に向けた大学強化のために、「211工程重点大学」と改められ、100校が選定されました。
 さらに、その中から1998年5月に教育部は「21世紀教育振興行動計画」に基づき「985工程大学」を選出し、財政の優先投資を行ってきています。2011年現在、大学は1112校で、短大は1246校です。その内211工程重点大学は124校で、985工程大学は45校です。これらの施策が、他の大学学部出身者への差別を生む「学閥主義」の温床になっているのでしょうか。
 今年も、昨年にひき続いてこの「211工程重点大学」と「985工程大学」の大学院に何人かの教え子が入学しましたが、その後の彼女たちの人生が山東工商学院外国語学院出身者という理由だけで差別されることがないように願いたいものです。

■烟台の風302号−どこの大学の何学部出身なの@
   (Wed, 5 Jun 2013 14:29)*南の風3099号
 卒業生が学び舎を去りました。彼らの人生が幸多からんことを祈る私の気持ちは、この国の学閥主義を憂いているからです。
 山東工商学院は、1985年創立の歴史の浅い若い大学です。当初は、「中国煤炭経済学院」として中央政府の煤炭(石炭)工業部が設置した国立大学でした。その後、総合大学となり、1998年の行政改革により、国家教育委員会が教育部に改編された際に、各省庁が設置した大学が各省庁の所管を離れ、教育部が所轄となり、多くの国立大学が各省に移管されました。山東工商学院も同様に教育部に移管され、教育部と山東省との共建(共同経営)となり、2003年に現在の校名に改称されたのです。
 学院の名称を大学に変えるには中央政府の教育部の認可が必要です。一定の条件を備えていれば認可されるのですが、なぜか未だに我が校は「学院」のままです。その重い腰は、中央政府ではなく山東省政府であると私は聞いています。毎年発表される、学術論文の数も認可条件の一つだそうです。もちろん数だけでなく、論文が国際的な学問レベルにあることは当然論をまたないのですが、我が校の論文発表も実績を誇っているのです。
 ところで、中国の大学は「学部」ごとに大学のランキングが発表されています。従って卒業後の進路は、どこの大学の何学部の出身かが、問われるのだそうです。有名大学(国家重点大学)の大学院を優秀な成績で卒業した山東工商学院出身の学生が、その有名大学なり、他の有名大学の教官となるのはほとんど不可能に近いのだそうです。
 それは、大学院での教育歴・研究歴よりも先に、出身大学とその学部を優先して審査されるからなのです。生涯学習の理念からみると、この法規に基づかない慣習制度は非生涯学習的と言わざるを得ません。つまり個人の努力により、自己実現を図っても、それを正当に評価しないばかりか、無視してしまう制度が現実なのです。一度の受験失敗で、「やり直し」が認められない社会が中国の教育なのです。当然「リカレント教育」の実現は困難でしょうね。(次回に続く)

■烟台の風301号−卒業論文発表審査会 (Sun, 2 Jun 2013 09:59) *南の風3097号
 今日6月1日は、中国の国際児童節です。各地で子どもの日の行事が展開されています。大学では、日本語学科4年生の卒業論文の発表会が開催されました。1週間ほど前から、4年生は内定就職先の実習から今日の日に備え、大学に戻り担当教師の卒論指導を仰いでいました。11人の中国人教師が担当していて、4人の日本人教師は全く関係がありません。しかし、指導教師への論文提出を前に、私のところにも何人かの学生が、教えを乞いに参ります。ふとどき者は、事前の打診も無く、いきなりメールの添付ファイルで、論文の添削を依頼してくる学生もいるのです。
 「中日家庭教育比較」を書いた女子学生の論文は、問題意識がしっかり書かれた良い文章ですが、明らかに3つの著作物をつなぎ合わせたものだと、一目で分かります。私は、文体表現の統一と自分の考えを述べるよう助言して、誤字と文法の手直しをしたのです。
 「日本人に愛される豊臣秀吉」を書いた女子学生は、いきなりメールで、「築阿弥」の読み方を教えて欲しいと言うのです。私は、<「筑阿弥」の間違えでは有りませんか。「竹阿弥」とも言います。築”ではありません。「ちくあみ」と読みます。豊臣秀吉の義父です。秀吉の生母(なか)の後夫です。でも、実父の弥右衛門と同一人物という説もあります。>、と返信したのです。
 さて今朝は、全卒業生が8時から3教室に別れ、5人の学生が入室し、1人ずつ登壇して、発表3分質疑5分で論文を発表しす。5人が終わると次の5人が入室します。今年も日本人教師は私だけが観察者で、時々審査の先生から私にふられ意見を求められます。私の教室では、3人の中国人教師が発表者に鋭い質問を繰り返していました。
 学生たちは皆緊張していて、普段の姿とは全く違う人物です。私は彼らに誘いを受けて、昨日、一昨日と再会を喜び合い、卒業を祝い、そして別れを悲しむ連夜のパーティーと早朝からの卒業記念写真の撮影にお付き合いしたので、彼らの豹変した様変わり姿を面白く思ったのです。自分が書いた文章なのに、審査の先生の質問に答えに窮する学生もいます。
 「あなたの論文の12ページに書いてありますよ。これは自分で書いたのでしょ?」と突っ込まれ、冷や汗をかいていた学生も、いったん退室すると元の快活な学生に戻ります。明日から全国に散らばってしまう彼ら皆が、卒業後の幸せな人生を歩むことを祈るのみの私なのです。

■烟台の風300号−生涯学習で長生きをA (Sat, 25 May 2013 08:47) *南の風3082号
 (前回に続く)  100名程のホールにはテレビ局のカメラも来ていました。事前の説明では、お年寄り向けの講演会ということでしたが、参加者のほとんどがお年寄りのサービスをしている中年女性で、高齢者は数人だったのです。
 自己紹介の後、「80歳代の方、手をあげて下さい」「はい、ありがとうございました。現在皆さんは幸せですか?」と、私は本題に入る前に、世代別の質問を用意していたのですが、軌道修正です。実は、高齢者の「主観的幸福感」は、「生涯学習」や「地域活動」をしている人は、幸福感の数値が高いという調査結果があるからです。今、生涯教育の課題は、高齢準備期に、こうした活動に向けて、どのように動機づけを図るかが問われているのです。
 そこで私は、中国語の生涯教育の「終身教育」、韓国語の「平生教育」を説明して、参加者に「終身教育」という言葉を聞いたことが有るか尋ねたのです。なんと手を挙げた人は数人でした。続けて私は、中国には古くから「活到老、学到老」ということわざがあります。これを日本語に訳せば、「生きている限り学ぶ」ですが、このことわざが正に「生涯教育」なのです、と話を進めたのです。続けて、孔子の『論語』の教えの「学而時習之、不亦説嗚乎」に触れて、高齢者が生きがいを持って、長生きするためには、生涯学習が大切だという話をしたのです。
 聴衆が飽きてきたころを見計らい、私は「高齢社会」に話題を転じました。皆の目つきが変わりました。そうです、中国では、2050年には65歳以上の人口の割合は、25.6%に突入し「超高齢社会」となると話したからです。今、23歳の若者が60歳となった時は、周りは4人に1人が老人です、とです。さらに続けて、日本は2007年超高齢社会に到達していて、2010年には高齢化率は23.1%となり、既に5人に1人が老人なのです、と話しました。
 大受けだったのは、日本のお年寄りの地域デビューについて紹介した時でした。地域に受け入れられるお年寄りと、受け入れられないお年寄りについてです。これは昔、私が日本の高齢者教室で話したことです。「嫌われる高齢者は、@汚い、Aくどい・しつこい・同じ話を何度もする、B昔のことばかり話す、C自慢話をする、D威張る(自己中心は世代を超えて嫌われるタイプですと解説)、などで、 好かれる高齢者は、@上品である、A自分に合ったオシャレをする、B秘められた教養がある、C仲間を大切にする、D謙虚である」、と紹介したのです。参加者たちは大きく首を振って同感のうなずきをしてくれたのです。申順芬先生お疲れ様でした。

■烟台の風299号−街道事務所は公民館のようです@
   (Thu, 23 May 2013 22:22) *南の風3081号
 烟台市の「老年学学会」から、私は「老年教育知識講座」の講演依頼を受けました。学会と東山街道の共催事業です。街道は自治体行政の末端機関です。開催は5月22日(水)の午後3時からで、会場は、以前私が暮らしていた福来里に近い東山街道の事務所です。私を学会に推薦して下さったのは、山東工商学院東アジア社会発展研究院院長の李明鮮教授です。
 依頼の打診の段階で受けた説明ですと、聴衆は高齢者で、演題は「東アジアの生涯教育」とのことでした。お年寄りに東アジアの生涯教育とは?と私は疑問を持ちましたが、行政関係者もいるので、そちら向けに話して欲しいということでした。そして「難しい話でなく簡単な話を」という注文まで付け加えていただいたのです。だいたい、生涯教育の話なんて堅苦しくて面白くないのに、とは思いながらも、好奇心が先に立つ私は、通訳向けの「読み原」をつくって、当日を迎えたのです。通訳は李明鮮先生の奥さまの申順芬先生です。
 迎えの車で到着したのは、「東山街道事務所」の建物です。敷地の掲示板には、ここで活動するグループの紹介がなされていました。「東山社区合唱団」「東山社区民楽団」「東山社区呂劇団」「東山社区京劇団」「東山社区清風詩社」」「東山社区舞踊中心」です。
 会場舞台の横断幕の文字が違うということから、作り直しのため開始時間が少し伸びました。その間を利用して私たちは施設の案内をしていただきました。建物の入口の看板には「芝罘区党員活動服務中心東山分室」と掲げられいましたが、なんとここは「公民館」でした。
 古い施設でしたが2千uだそうで「書画創作室」「図書室・電子閲覧室」「麻雀・将棋・カードなどのゲーム室」「卓球室」などがあります。私たち2人が訪れた時には、京劇の練習をしているグループが伝統楽器に合わせて声を張り上げていました。学校放課後の留守家庭児もここを利用しているそうです。卓球をしていたお年寄りは、皆プロ並みの腕前で私は驚きました。
 面白いのは「愛心超市」という名の部屋です。貧困家庭に毛布などを配る施設だそうです。もちろん、「老幹部親情服務室」もあります。施設使用料は無料で、施設の経営は全額街道予算だそうです。どこの街にもこうした施設が有り、5千uもある大きな施設をもつ街道もあるそうです。ここの施設では、「青少年教育中心」や「市民学校」も行われています。(次回に続く)

■烟台の風298号−中国の姓あれこれA (Fri, 17 May 2013 07:22)  *南の風3088号
  (前回に続く) G職業の名〜〔 屠 tu、陶 tao、甄 zhen、卜 bu、巫wu 〕など。H危険を避けて改姓〜「酒池肉林」で有名な殷の第30代紂王の殺害を逃れ、理 li から李 li にした例が有名です。老子の先祖は「大理」という検査官であったので、理の姓を名乗っていましたが、子孫の理徴は、紂王の怒りをかい殺されてしまいます。その息子の理利真は殺害を避けるために山に逃げのびて、李(スモモ)の果実を食べたことから、理から李に改姓したのだそうです。老子は理利真の第11世の孫です。
 I論功により皇帝から姓を賜る〜〔徐xuから李li、李から趙 zhao、鄭 zheng から朱 zhu 〕など。J皇帝の名前の文字と発音が同じ姓は、畏れ多いので改姓〜〔姫(基)から周 zhou、淳于(純)から于 yu 〕など。
 K少数民族の当て字〜隋・唐の時は西域小国の姓をその国の名に改姓させています。〔 康 kang、曹 zhong、石 shi、何 he、史 shi、 安 an 〕などにです。安と史は、唐の玄宗皇帝の時代に、「安史の乱」で有名な安禄山とその盟友の史思明が代表的です。安禄山はソグド人の父と突厥の母の間で生まれ、史思明は突厥人だと言われています。参考までに、隋王朝を建てた楊氏(元の姓は普六茹)も、唐王朝を建てた李氏(元の姓は大野)も、北方遊牧民の「柔然族」だったそうです。
 清の愛新覚羅は、中華民国時代には、元の姓、金に戻しています。漢民族だけでなく少数民族の姓としても、〔 張 zhang、王 wang、李 li、趙 zhao、劉 liu、曹 cao、呉 wu、羅 luo、包 bao、何 he、慕 mu、金 jin、関 guan、康 kang 〕、などがあげられます。
 例示では、現在日本で使われない漢字の姓は省きました。例えば、秦の始皇帝の姓です。始皇帝の名は「政」ですが、姓は「えい」です。その漢字は、亡をかんむりに、その下に口を書きます。亡と口は横に薄く。そしてその下に3文字横に並べます。月と女と凡です。やはり古い姓ですから、文字に女がありますね。很難!中国の現在の普通語は、北京と北方の言葉が混在してできた言葉だそうです。余談ですが、明王朝を開いた朱元璋は、皇帝の宮廷服を漢朝からのの黄色から姓に合わせて朱色に変えたそうです。始皇帝は、それまで周が赤であったのを五行説により、黒を用いたそうです。紫ではないのですね。

■烟台の風297号−中国の姓あれこれ@ (Mon, 13 May 2013 07:06) *南の風3086号
 中国の姓は、どのくらいあるのでしょうか。日本は291,129件で、韓国は250件、中国は23,813件だと言われています。中国5千年を通じて、絶えず周辺異民族、少数民族との抗争にあけくれた中国の歴史書を紐解くと、実に興味が湧く史実に出会います。
 まず、北魏の孝文帝(467-499)の時代を紹介します。鮮卑人である彼の姓名は「拓跋宏」ですが、「元宏」に改姓し、皇族にも元 yuan と名乗らせます。そして、鮮卑人に漢民族の姓への改姓を命じます。その他の拓跋の貴族には、陸 lu、賀 he、劉 liu、楼 lou、于 yu、尉 wei 、などの姓を与えています。これは、少数異民族の姓の発音を漢字に当て字にしたとも言われています。
 中国では、歴代王朝の多くが異民族により打ち立てられていますが、いずれも少数異民族が自ら進んで漢風文化を受け入れる漢化政策(同化)を採っていますので、純粋の異民族王朝は、元朝と清朝だけでしょうか。その清朝も順治帝は漢文化に傾倒し、その後の4代康熙帝、5代雍正帝、6代乾隆帝は、中国文化の最盛期を築いていますので漢化したのでしょうね。
 ここで、中国の姓について触れている本『中国文化要略』から得た豆知識をご披露しましょう。
 @中国で一番古い姓〜「女偏」などの文字の姓で、古代の母系制社会の影響だそうです。〔 姫 ji、姜 jiang、姚 yao 〕など。Aその国の名前〜〔 呂 lu、魯 lu、宋 song、陳 chen 、斉 qi 〕など。B官職の名前〜〔 司馬 sima、司空 sikong、帥 shuai 〕、などです。歴史家で有名な司馬遷は先祖が軍事の官職についていたのでしょうか、帥は将軍です。司空は監察官です。
 C祖父や父の名前や字名〜〔 公孫 gongsun、晁 chao、廖 liao 〕。高名な、阿倍仲麻呂の中国名は晁衡 です。D兄弟の順番〜〔 孟 meng、仲 zhong、叔 shu、季 ji 〕などで、長男は孟です。以下順です。E爵位や諡(おくり名)〜〔 王 meng、武 wu、穆 mu 〕など。F居住地〜〔 柳 liu、西門 ximen、東郭 dongguo、南宮 nangong、東方 dongfang 〕など。(次回に続く)

■烟台の風296号−素晴らしい小諸の民際外交 (Thu, 9 May 2013 16:45) *南の風3084号
 嬉しい便りです。南京大学と長野県小諸市の日中友好協会が主催する、「中国藤村文化賞」の翻訳部門に李雨萍(南京大学大学院生)さんが優秀賞に選ばれ、7月に小諸市での授賞式に日本に招かれるそうです。李雨萍さんには労働節の連休で私が南京を訪れた際に、5日間にわたって私を案内してくれた女子学生です。(烟台の風293〜295号)
 このビッグニュースは、私の南京滞在中に受けたのではなく、一昨日5月5日の夜でした。南京滞在中のニュースならば、晩餐会も祝賀会に変わり、さらに旨酒がすすんだろうと私は思いながら、私の書斎で一人祝い酒を飲んだのです。教師冥利につきるとは、こんなことを言うのでしょうか。
 彼女の訪日は初めてなので、授業が無ければ一緒に私も授賞式に出席したい気分です。ご両親は、さぞお喜びでしょう。お二人とも河南省商丘の高校の教師だそうで、お母様は物理の先生でお父様は国語の先生だとか。お二人とも商丘の師範大学の卒業生だそうですが、実は私の国学院大学時代の教え子が、現在その大学で日本語教師をしているのです。広大な中国なのに不思議な縁ですね。
 さて、「中国藤村文化賞」ですが、島崎藤村研究の南京大学の教授の働きかけにより、小諸市の日中友好協会と共催で3年に1度開催されています。この文学賞は、翻訳賞と愛読賞があります。当初は南京大学で、授賞式が行われていましたが、第5回(2007年)は初めて小諸市で開催され、以降交互に開催され、第6回(2010年)は南京大学、第7回の今年は小諸市で開催されるのです。小諸市の日中友好協会は、1992年(平成元年)の創立と歴史が浅いのですが、その活動の素晴らしさは、3年に1度の表彰が無い年には、協会と小諸市で南京大学の日本語学科の学生を小諸市に招待していることです。
 私も現役時代に、国際交流課長の職に就いたことが有りますが、多くの自治体の姉妹・友好都市の交流は名ばかりで、首長のパーティー外交が主流です。しかし、小諸市の民際外交は、実質的で、文化的で長期的で見事だと私は思うのです。不毛な政治状況だからこそ、民間交流が大切なのですね。

■烟台の風295号−南京での話題を紹介B (Sun, 5 May 2013 19:48) *南の風3081号
(前回に続く) 「古鶏鳴寺」は、大勢の老若男女の参拝客で賑わっていました。若者の多くが三跪九拝している姿が、社会主義のこの国の政治体制と絡めて、実に興味深く私は観察したのです。共産党員の曲黙怡さんも、仏像の前では、親友の李雨萍さんにバックを預け、熱心に拝礼を繰り返していました。
 「南京市博物館」の参観を終えて広場に出た時です、大勢のお年寄りが集まって黒山の人だかりです。将棋、麻雀、トランプに興じているのかと、私はのぞき込みました。ゲームではなく議論をしていたのです。李雨萍さんの通訳では、「もうこの国の共産党は終りだ」、と言っているお年寄りがいたのです。
 夜の食事の時に私は、翻訳者をめざす李雨萍さんの大学院の授業について聞きました。NHK番組「クローズアップ現代」の映像をみながら、同時通訳をする授業や、日本の新聞の社説を中国語訳したり、中国のネットの話題を日本語に翻訳する授業があるそうです。大変ですね。
 中国の博物館の入館料や名所旧跡の入園料は、かなり高額です。「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」だけは無料でしたが。しかし70歳以上は無料で60歳以上と学生は証明書を提示すると半額となります。私の場合はパスポートの提示です。たくさんの施設をめぐると馬鹿にはできませんよ。
 ところで、北京名物に「北京ダック」がありますが、南京の名物は「塩水鴨」です。どちらも鴨で北と南の京が競いあっているのです。最終日の5日目は、中国最大の城壁の「中華門」を訪れました。城壁では、お年寄りたちがそれぞれ創作した凧を揚げて興じていたのが、私には愉快でした。凧揚げが子どもの遊びではなく、お年寄りの遊びだったからです。連凧を揚げていた方が私を日本人だと知ると、糸巻を私に持たしてくれたのです。
 城門の中庭では、王朝の時代衣装を着た男女が舞踊ショーを行い、多くの観光客の目を楽しませてくれたのです。ここで、私と別れるはずの彼女たち二人は空港まで私を見送ると言い張ります。高速バスで南京禄口国際空港に行き、食事をしている時、二人から心のこもった絵葉書の土産を私は受け取ったのです。そして、空港の搭乗検査口でたたずみ、いつまでも手を振る二人に私は別れ、機上の人となったのです。

■烟台の風294号−南京の歴史に触れるA (Fri, 3 May 2013 20:53) *南の風3079号
 (前号に続く) 南京市は、古くは「三国志」で有名な呉の孫権が都を築いた古都です。南京市博物館には、蜀の諸葛孔明と孫権が同盟を結んで語らう立像が展示されていました。その後多くの王朝がこの地を王都に定めていますが、何と言っても有名なのは、明王朝を建国した朱元璋が都を築きます。近世には「太平天国の乱」の洪秀全、「中華民国」の孫文が首都に定め活躍しています。
 長江の流れに沿って築城された美しい都市、「江南の佳麗地」と称されている南京市の私の旅は4泊5日で、宿舎は南京大学の「南苑賓館(ゲストハウス)」を利用しました。初日は、「太平天国歴史博物館」と洪秀全が住んでいた「瞻園」という名園を見学し、その後「夫子廟」を訪れ、明清時代の町並みを復元した繁華街を散策したのです。孔子を祀る「夫子廟」では、中国古代の青銅製の吊鐘による「編鐘」の演奏を聞くことができました。
 翌日2日目は、広大な「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」を訪れました。日本軍の残虐な行為のたくさんの写真やさまざまな証拠品の数々、そして万人抗の人骨が見学者の心を乱します。先日私の大学に短期留学をなさった門永三枝子先生が携わっておられる「神戸・南京を結ぶ会」の訪問団の展示写真を私は発見し、民間平和交流の大切さを改めて学んだのです。その後、有名なレストラン「南京大牌?」で伝統料理を味わい、孫文が眠る「中山陵」と朱元璋の眠る「明孝陵」を訪れました。どこに行っても美しい声を響かせる小鳥の歌声に心が洗われ、旅の疲れが吹き飛んだ私でした。
 3日目は、「総督府」とその庭園の「煦園」を見学した後、昨年9月より増改築中で閉鎖されている、「南京博物院」に変え、朝天宮にある「南京市博物館」を見学しました。ここは良かったですね。静かで観光客も少なく、展示物も充実しており、近代的な映像も圧巻でした。
 4日目は、天気予報では降雨でしたが、雨も降らず「古鶏鳴寺」と「玄武湖の城壁」をめぐり、その後玄武湖でボート遊びをして、癒しのひと時を過ごしたのです。その夜は最後の晩餐となるため、高級料理店の「世紀縁大酒店」で伝統料理で乾杯です。近い将来の再会を誓い合い、学業の成果を祈って。(続く)

■烟台の風293号−緑の大地の南京市@ (Wed, 1 May 2013 20:26) *南の風3078号
 上空から見た南京は緑の大地でしたが、わずか1時間後の上空から見た烟台は黄色い大地でした。それでも地上に降り立つと烟台は街全体が花園でした。遅い春を待ちかねて、あらゆる花木が競って花を咲かせています。
 労働節の連休を利用して私は4月26日(金)に南京に向けて出発したのですが、その時の山東工商学院のキャンパスのポプラもプラタナスも枯れ枝で、芽吹きはまだでしたが、30日(火)に大学に戻ると、新芽が吹き出しているのです。たった5日の変化です。
 ところで、南京では花の季節は3月中旬だったそうで、今は街中が瑞々しい緑に包まれています。中国の四大古都(洛陽、西安、北京、南京)ですから、町の街路樹の樟、欅、プラタナスも大木で、私が両手を広げても抱えきれない太さを誇り、見事な緑陰のトンネルを作っています。もちろん今回訪問した南京大学のキャンパスの街路樹も巨大です。多分私の年齢よりも古い歴史を生き続けて、南京大虐殺(1937年)などの生き証人なのでしょう。
 私は南京旅行は初めてです。南京大学の大学院生李雨萍さんから誘いを受けて、吉林大学の大学院生曲黙怡さんと南京を訪れたのです。二人とも昨年の6月に卒業した私のクラスの女子学生でした。約10ヶ月振りの再会です。私は烟台から飛行機で1時間、曲黙怡さんは長春から列車で26時間かけてやって来ました。南京の第一印象は「暑い」でした。真夏の南京は武漢、重慶とともに中国三大火炉(ストーブ)と呼ばれるほど気温が高いので有名なのですが、この時期にこんなにも暑いとは。
 烟台を出る時は、長袖の下着と厚手のカラーシャツにセーターと春物のジャンバーでしたが、南京では半袖の下着に半袖のシャツでも汗をかきます。どこに行くにも便利な地下鉄が2路線走っていますが、なんと車内は冷房がきいていました。李雨萍さんの話だと、南京は春と秋は無く、長い冬があけるといきなり夏になるのだそうです。市内の若い女性はタンクトップにショートパンツと肌を露わにしていて、厚着の烟台からやって来た私には目のやり場に困るほどです。(次回に続く)

■烟台の風292号−果樹園の花とバスの中の花 (Thu, 25 Apr 2013 22:05) *南の風3074号
 大学キャンパスのライラックが花をつけました。路傍の草むらにタチツボスミレが紫の花をつけて群生しています。4月20日(土)には、遅い春の雪が積もったのに、それから数日しかたたないのに、キャンパスは花園です。桃、杏、梅、海棠、レンギョ、小桜、八重桜、ハナズオウ、木蓮、などが咲き誇っています。
 20日に郊外に出た時は、リンゴ園の樹木に積もった綿帽子が美しい絵画となって私の目を楽しませてくれましたが、4日後の昨日は、そのリンゴの枯れ枝に、若葉が芽生えていました。リンゴの樹は、葉の後に花が咲くのでしょうか。でも、果樹園によっては、満開の花を付けている樹もあります。梨でしょうか、それともリンゴでも葉より先に花を付ける種類があるのでしょうか。
 ここ烟台のリンゴは、「烟台ピンゴウ」と言われる中国でも名高い「富士」です。この日は、花を愛で温泉に浸かるため、郊外に出かけたのです。いつもは友人の車で案内されるのですが、今回は初めてバスを乗り継ぎ烟台の郊外をバスハイクしたのです。市街地のバスは全てワンマンバスで全行程1元です。郊外までのバスは距離によって料金が違い、車掌さんもいます。莱山区の大学から終点の牟平区のバスセンターまでは1.5元です。
 乗車すると、無愛想な車掌さんが切符を売りにきます。およそ40分の行程でした。終点から私は小型のバスに乗り換えました。農村の各集落を巡るバスです。満員のバスは、岩山の裾に開かれた狭い農道を走ります。バス停があるのか、ないのか、集落を通過するたびに合図をしているかのように、バスは警笛を鳴らしていました。
 このミニバスの車掌さんは、実に愛想がよく、乗客たちと世間話をしたり、子どもをあやしたり、乗り降りのお年寄りの手を支えたり、荷物を通路や座席の下に置いてあげたり、と甲斐甲斐しく笑顔で働いています。外の世界の花園にも負けない花がバスの中にも咲いていました。農村集落を回る生活バスですから皆顔見知りのようです。車掌さんもこの地域の共同体の一員なのでしょう。都会人には無い自然の笑顔がその証拠です。このバスは温泉まで、40分の乗車で7元でした。

■烟台の風291号−恒例の三大学スピーチコンテスト
   
(Mon, 22 Apr 2013 21:56) *南の風3073号
 恒例の三大学(烟台大学、魯東大学、山東工商学院)のスピーチコンテストが、今年は魯東大学を会場に開催されました。各校2年生で組織する「桜日本語協会」という学生の自主組織が主催者です。三大学の会長が話し合ってスピーチのテーマを決めます。今年のテーマは「前向きに生きるために」と「私のエコ生活」でした。教師は、学生から依頼されて審査員を引き受け、各校2名で6人が指名されました。
 10人の出場者は各自5分間課題テーマについて話します。全員スピーチが終えた後、得点の中間発表が行われ、その後、即席テーマが発表され、各自3分間そのテーマに沿った話をするのです。今回は、「大気汚染」が直前に発表されました。
 実に興味深かったのは、課題テーマで流暢なスピーチをしていた学生の多くが、即席テーマでは、しどろもどろだったことです。課題テーマでは、自分で原稿を執筆し、教師にアドバイスを求め、それぞれが1週間以上練習をして大会に臨むわけですから、この国の暗記学習の延長線にあるわけです。ところが、突然与えられたテーマでスピーチをするとなると、これは日頃からの社会的関心や問題意識を持っていないと、とても自己表現は出来ないのですね。
 印象的だったのは、課題スピーチは圧倒的に女子学生の評価が高く、即席スピーチは、男子学生の評価が高かったことです。面白いのは、昨年赴任した烟台大学の若い日本人の男性教師が、自校の学生を優勝させるために、学内予選後1週間個別特訓を行い大会に臨んだそうです。こんな若い先生でも、競争の原理、勝利至上主義、付け焼き刃教育、を持ち込むのか、と私は愕然としたのです。
 そして何よりも大切なのが、このコンテストが大学側の主催事業ではなく、学生会主催の自主事業だということです。学生たちの自主性を育てるべき教師がその自主性・主体性を奪い取っていけませんね。もしも、学校間競争だったら、各校の優等生を特訓して望めばいいのですが、このコンテストは自ら出場希望をした学生によって競われるのです。それ故、評価もマイナス思考ではなく、プラス思考で、学生たちの良い芽を引き出し評価をし、励ます態度が私たち教師には求められるのです。

■烟台の風290号−日・中・韓の史跡と張保皐B  (Fri, 19 Apr 2013 13:16) *南の風3071号
 (前回に続く) 円仁は沢山の経典や仏具などを日本に持ち帰りましたが、この帰国を支援したのは、海上王と称される新羅人の張保皐(790年頃〜846年?、日本側記録は張宝高)でした。円仁は最後の遣唐使船で入唐しましたが、その後、唐王朝の衰退とともに遣唐使船の派遣は中止され、国家による大陸の文化の摂取は途絶えました。がしかし、それにも増して大陸や朝鮮半島からの進んだ文化が平安朝に紹介されたのは、新羅人による民間三国間交易によってでした。
 沢山の文物や知識が民間人の手によりもたらされたのです。国際交流は民間交流が大切ですね。そこで、当時の東アジアの海上交易の海路を開拓した、張保皐をご紹介しましょう。
 張保皐は、現在の韓国の全羅南道莞島郡の出身で、若くして唐に渡り、軍人として出世し、新羅に帰国すると青海鎮大使を命じられ、海賊の掃蕩を行い名を馳せます。その間、唐と新羅と日本を結んで盛んに交易を行いました。日本の窓口は、筑紫の鴻臚館だったそうです。昔の平和台球場が、その場所で現在資料館が設置されています。張保皐も何度か鴻臚館に滞在したそうです。現在、威海には沢山の韓国人が暮らしていますが、当時も新羅人の町があり、邵山村、乳山浦、赤山村が新羅人の居住地だったそうです。円仁は、こうした新羅人ネットワークに助けられて偉業を達成したのですね。
 彼は帰国すると、延暦寺に文殊楼を建立(信長の叡山焼き討ちで焼失、その後再建)し、そこに五台山から持ち帰った香木で文殊菩薩を彫り、祀ったそうです。現在その文殊楼に、円仁誕生1200年記念「青海鎮大使張保皐碑」が設置(2001年)されています。
 最後に、民俗資料館の「栄成民族館」の前で見付けた石柱について触れます。それは、「泰山石敢當」と彫られた石柱です。泰山は登攀困難な山塊で、魔除けの象徴です。石敢當も魔除けの意味ですね。福建省で信じられていた民間信仰が琉球に伝わり、今でも沖縄のT字路には、多くの石敢當が置かれています。川崎駅前にも、宮古島から贈られた石敢當が有ります。私は、鄙びた石島赤山で、東アジアの悠久の歴史に触れることが出来、何よりの喜びを得たのです。

■烟台の風289号−円仁と日・中・韓の史跡A (Wed, 17 Apr 2013 08:00) *南の風3069号
 (前回に続く)  円仁の求法巡礼を支援したのは、当時、山東半島や長安に居を構えていた、新羅人社会だと言われています。彼らは通行手形などの便宜を図ったそうです。その代表的人物が張保皐なのです。赤山法華院も彼の寄進により建立されたのです。残念ながら、「赤山法華院」は修復工事中で今回は拝観が叶いませんでした。
 巨大な張保皐像が立つ「伝記館」に続いて、「円仁入唐求法館」、「栄成民族館」、「世廉雅石館」、そして音楽と噴水と光で回る観音像の極楽菩薩界ショーを見学しました。今回は、「円仁入唐求法館」の展示をもとに、彼の求法巡礼をご紹介しましょう。
 円仁は、45歳で入唐しましたが、当時の年齢としては高齢の留学僧ですね。平安貴族の当時の平均寿命が40歳前後で、40歳を過ぎると、「四十賀」というお祝いをしたのだそうですから。高齢の円仁が9年半唐に滞在し、54歳で帰国(847年)するまでに歩いた中国の大地は、現在の地名で表すと、江蘇、山東、河北、山西、陝西、河南、安徽、の7省にまたがります。総距離は1万qだそうです。円仁は47歳(840年)の時には五台山(山西省の中国三大霊山)の最高峰、北台の「葉頭峰」(3,058m)にも登頂しています。 
 山東省の中程に「青州」という都市があります。1996年、南北朝時代(439年〜589年)の仏像が400体、竜興寺址の地下から発見されました。円仁は、仏法を学ぶため、赤山法華院を出立して登州(現在の烟台の蓬莱市)を経て、五台山に向かう途中で、この青州の竜興寺に立ち寄っています。円仁もこの仏像に接したことでしょう。
 しかし、滞在した9年の間に唐の皇帝も変わり、道教に傾斜した武宋によって仏教弾圧(会昌の廃仏)が行われる世となり、彼はそれを目の当たりにして帰国しています。私は考えたのです。青州の大量の仏像は、破壊されないように土中に隠されていたのだと。けれど、埋蔵時期は円仁の時期とは違い、北宋の12世紀初頭だそうです。なぜ大量の仏像が埋蔵されたのかについては、廃仏毀釈説、北方民族の攻撃から守るための守護説、あるいは、仏像の破片を集め埋蔵する功徳説、と諸説が語られています。(続く)

■烟台の風288号−日・中・韓、東アジアの史跡 @
   
(Mon, 15 Apr 2013 08:03) *南の風3067号
 清明節の休日を利用して私は烟台からバスで2時間ぐらいの隣り町、威海(ウェイハイ)の石島赤山に日帰り旅行をしてきました。ここは、日・中・韓の三国にとって重要な史跡があります。
 それは、平安時代に密教を学ぶために遣唐使船で入唐(838年)した、最澄の愛弟子で比叡山天台僧の「円仁」(794〜 864年)」ゆかりの寺院「赤山法華院」です。円仁は9年半にも及ぶ求法の唐滞在を苦労の末終えて帰国すると、第3代天台座主となり、死後に慈覚大師の諡号が与えらました。彼は、空海や最澄と並び「入唐八家」と称される一人で、天台宗の基礎をつくった高僧なのです。
 もちろん、「赤山法華院」は近年の再建で、往時のものではありません。予約した16人乗りの観光マイクロバスは満席でした。ほとんどが若いカップルです。円仁が徒歩で赤山から烟台(登州)に来た逆方向に向かってバスは疾走します。車窓からは延々とリンゴ畑が続きます。石島湾のコバルトブルーの海面の背後に赤山がそびえ立っていました。
 10時きっかりに赤山に到着したのです。寺域は広大で、見学には遊覧カートで周遊します。山道をのぼり、最初に海岸を見下ろす峰に鎮座する大仏像に到着しました。それは大仏ではなく「赤山大明神」という巨大なブロンズ像でした。赤山大明神は泰山府君ともいいますが、円仁が海上で遭難しかかった時、赤山大明神への祈りが通じて、嵐がおさまったことから、円仁の遺言により、彼の弟子安慧が京都に勧請して、「赤山禅院」を建立したのです。千日回峰で有名な寺院ですね。
 このブロンズ像は、2005年に造られたものです。唐時代、このあたりは新羅人の居住地で、赤山大明神は新羅人が信仰していたのだそうです。次に拝観したのは、「張保皐(張宝高)伝記館」でした。新羅人の張保皐は、円仁の唐滞在と日本帰国を支援した人物です。円仁の滞在資格は短期だったため求法による長期滞在は皇帝から許可されず、彼は帰国船を脱出して、不法滞在を決行したのです。
(次回に続く)

■烟台の風287号−私の学生は今!C>(Mon, 8 Apr 2013 22:04) *南の風3066号
 (前回に続く) … 今年、青島海洋大学の大学院を目指す程英さんも、私の部屋に押しかけて勉強した一人でした。彼女は毎回作文をメールで私に送信、私が添削して返信するという方法で学習を繰り返したのです。そのかいあってか、入試は411点の最高点だったのです。第2次試験が終わったらお祝いの宴を開きます。
 さて、前号で紹介したロクさんですが彼女は今朝、済南を立ち烟台に戻りました。実家を出る時、母親と彼女は抱きあって泣いたそうです。父親は心配するなと言って奥さんを慰めていたそうです。女の子の父親は、泣きたくても泣けないものなのですよ、と私はロクさんに言いました。ロクさんとは最後の夜になる昨晩、挨拶に私の部屋を訪れてくれた時の話です。
 その晩、お別れ会・壮途の宴を四川料理店で行いました。明日28日は最後の荷物の整理をして、29日に青島から成田に向かうのだそうです。留学生活でのストレス解消法を私は彼女に伝え、大学院の学業の成果を期待してお別れしたのです。バス停で一路平安を祈りつつロクさんを見送った後、ロク秋月さんの名前のように、美しく輝く大きな満月の空を見上げながら、私はロクさんのお父さんのような気持ちになり、足どりも重く一人寂しく寮に戻ったのでした。
 でも、大学の授業が4週目に入った今、日本にインターンシップで出かけていた大勢の学生がたちが帰国して、学校に戻り授業に復帰しています。別れる学生あれば、再会する学生がいるのです。今回、彼らが訪れたのは、箱根湯本、小涌谷、長野県白馬、八方尾根、安曇野、新潟県湯沢、静岡県清水のホテルでした。3年生総勢14人です。学生たちの全てが、日本での体験や印象を悪く言う者が誰一人いなかったので、私はほっと胸を撫で下ろしているのです。
 何故なら、尖閣諸島問題の後ですから。今年の5月のゴールデンウィーク(労働節)は、昨年、南京大学の大学院に入学した李雨萍さんのお誘いを受け、私は南京市を訪れます。仲良しのルームメートだった吉林大学大学院の曲黙怡さんも一緒です。外国人教師の私を卒業後も気にかけてくれる中国の学生に感謝です。

■烟台の風286号−私の学生は今!B> (Sun, 7 Apr 2013 17:53) *南の風3063号
 (前回に続く) … 3人の祝宴が続きます。すると他のクラスメートのことに話題が発展します。そこで私は、内蒙古の赤峰市に帰郷した代吉達君に宴席から電話を入れたのです。彼は一度決まった就職先を断ってしまったので、私は気になっていたからです。すると、なんと彼の祖父の葬儀の最中ではありませんか。思わず私はお詫びと、弔意を表したのでした。
 そして、さらに気になっている学生の消息を劉通君と王清涛君に尋ねました。それは寮の私の部屋を訪れて、最初に料理を作ってくれた仲良し四人組の女子学生のことです。でも二人とも知りませんでした。韓娜(甘粛省嘉峪関市)さん、金春姫(吉林省吉林市)さん、曹文娟(安徽省宣城市)さん、徐亭亭(黒龍江省密山市)さんは、それぞれ就職先は決まったのでしょうか。4年生はほとんどが、学校には残っていないので情報が少なく私は心配なのです。
 翌日、そんな昨夜の会話を私はぼんやりと思い浮かべて、授業を終えて構内を歩いていると、何と神様がいました。向こうから笑顔で近づいてくる小柄な女性がいます。金春姫さんでした。あどけなさの残る子供っぽかった彼女は、魅力的な大人の女性になっていました。
 「曹さんは上海、徐さんは天津、韓さんは青島、私は烟台の開発区で働いています。」と私に消息を教えてくれたのです。それぞれ、皆ちりじりになって生活しているのです。女性は頑張っていますね。今夜は、明後日大学院に留学するため日本に旅立つ、ロク秋月さんが最後のご挨拶に来室します。さて、何を御馳走したらよいものか?と考えていると、2年生の男子学生が訪ねてきました。毎年恒例の烟台三大学(魯東大学、烟台大学、山東工商学院)スピーチコンテスト(弁論大会)に出場するので、原稿を見て欲しいと言うのです。
 こうした積極性と好奇心とチャレンジ精神のある学生の外国語のレベルは格段の進歩をします。そうそう、金春姫は2年前の優勝者でした。(続く)

■烟台の風285号−私の学生は今!A(Thu, 4 Apr 2013 15:56) *南の風3061号
 (前回に続く) … 劉通君と王清涛君は、2人ともまだ就職が決まっていません。劉通君は、3ヵ月間インターンシップで新潟県の湯沢スキー場の温泉ホテルで働いてきたそうです。支配人に誘われてカラオケに行った時、私に授業で教わった「北国の春」を唄って拍手喝采を受けたそうです。伊藤先生ありがとう、と感謝の言葉が彼の口から発せられたのです。彼は日本から帰ると、郷里の両親の命令によりお見合いをしたとか。
 王清涛君は、今朝就職試験の面接に行って来たのだとか。現在自動車免許の教習所に通っているそうです。この二人と私は、昆*山(*山冠の下に兪)と鳳凰山に一緒に登った登山仲間です。
 さて、先日私は何気なく、大学の掲示板に眼をやると、そこに写真付きの掲示物が貼り出されているのです。なんと、この王清涛君がいるではありませんか。表題には、「2012年三好学生標兵」と書かれていました。日本語学科では彼一人だけが大学から表彰されたのです。
 とこで三好とは何でしょうか。「成績、品徳、健康」、だそうです。さて、掲示されていた彼の記事を写し取りましたので紹介しましょう。
 <王清涛、男、中共党員、外国語学院日語専業、2009級1班(4年1組)、三好学生、先進個人、優秀団幹部、任学院団総支弁公室助理、党員服務中心副主席>。なるほど、彼は将来の幹部候補生なのですね。でも公務員試験は残念な結果だったとか。捲土重来の言葉を添えて、三好表彰のお祝いの乾杯をしたのでした。
 参考までに各院(以下、学部に統一表記)の表彰者を注視してみました。
〇公共管理学部1名、計算機学部3名、政法学部2名、統計学部1名、数学学部1名、中加学部(中国カナダ学部)2名、経済学部6名、外国語学部3名、工程学部4名、信電学部4名、工商管理学部4名、国際商学部4名、会計学部6名、で合計41名です。
 学生数2万人の中の41名です。この内、王清涛君のように中国共産党員は、15人でした。エリート階層ですね。ところで男女別は女性31名で男性はわずか10名でした。(続く)

■烟台の風284号−私の学生は今! @ (Mon, 1 Apr 2013 22:24) *南の風3060号
 「伊藤先生、こんにちは!私を覚えていますか?」。昼食後の路上でした。4年生の彼女は昨年9月以来、就職先の天津の会社で本年6月の卒業まで、実習をしているのです。「もちろん覚えていますよ、久し振りだね。」と私は応えたものの、実は顔は覚えていても、名前が浮かんでこないのです。
 上品な顔立ちで笑顔を絶やさない物静かな彼女は、授業ではそんなに目立つ存在ではありませんでしたが、どことなく心に残る、忘れがたい存在でした。それなのに、私は彼女の名前が思い出せないのです。教師失格、引退の潮時か。
 4月19日の卒論提出日に彼女が登校した折に、食事でもしましょうと約束して別れたのです。6月1日が卒論発表会で、その後晴れて卒業となり、お別れです。彼女のあの笑顔は、幸せを運ぶ笑顔ですね。お幸せに。
 この日の午後、私は2年生の作文の時間でした。突然携帯電話が鳴りました。授業中ですから、普段は電源を切っているのですが、疲労のためか切り忘れていたのです。学生は作文を書いている最中ですから問題はないので、小声で応対すると、「先生、夕食を一緒にしませんか」との4年生の男子学生、劉通君からです。私は一も二も無く快諾です。彼は同級生の王清涛君と一緒に5時に私の部屋を訪れる、と言うのです。私は小躍りして快諾、そして授業を続けたのです。
 実は火曜日の私は3コースを担当していてスケジュールがきつく、夕食を作る気にはなれなかったからなのです。3コース目の作文の授業は、4時から5時40分です。作文指導をしながら私は突然気が付いたのです。5時の待ち合わせでは駄目じゃないかと。やれやれ俺も焼きが回ったか、ボケてきたか。幸いにして、6時から3人で韓国レストランに行き、再会を祝うことができました。(次回に続く)

■烟台の風283号−言葉遊びと「三種全会」 (Fri, 29 Mar 2013 08:54)  *南の風3058号
 烟台の風281号(南の風3054)の文章、「三種全会」についてのご質問をいただきました。長い文書になるのを避けるために、言葉足らずで、説明不足だったことをお詫び申し上げます。
 「三種全会」は、「三*1全会」(*1は中の下に皿)とも言われています。意味は杯です。「種」も「*1」もzhongと発音し、どちらも三種類の酒を酌み交わすという意味です。この四字熟語の語源は、「三中全会」からきているのだそうです。
 「中」の漢字も上記の2文字と同様にzhongと発音します。中国の改革開放政策を推進して、社会主義市場経済を導入、そして現在のような経済大国を創り上げた、その生みの親である、トウ(登におおざと偏)小平が、1977年に権力の座に復活しました。そして翌年1978年12月に開催された、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(三中全会)で、文革の否定と華国鋒の失権、改革開放の推進を決定し、ケ小平の権力掌握が確定したことから、「三中全会」の祝賀の意味も込めて、祝い酒の席で唱和されるのだそうです。
 語呂合わせの妙技ですね。いわゆる、中国語の遊び心の言語遊戯(言葉遊び)です。一種の「歇後語(しゃれ言葉)」です。中国語には、統口令(早口言葉)、回文(前から読んでも、後から読んでも同じ文)、迷語(なぞなぞ)、などの言葉遊びが数多くあります。
 恋人に99本のバラの花を贈るのは、「9」と「久」の発音がjiuと同じで、「永久にあなたを愛する」という意味です。春節に門扉に「福」という文字を逆さに倒して貼るのは、「倒」と「到」の発音がdaoと同じことから、「福が来る」、と縁起を担いだものです。
 また、時計を贈るという意味の「送鐘」は、死に目に会うという「送終」の「鐘」と「終」の発音が、zhongと同じことから、忌み嫌われ、時計をプレゼンとするのはタブーとされているそうです。上記の「種、*1、中、」も同じようにzhongと発音しますが、ピンインは同じでも、四声は違うのです。言葉遊びとは言え、中国語は奥の深い言語文化ですね。

■烟台の風282号−朋友の電話で考えたのです (Sun, 24 Mar 2013 22:52) *南の風3055号
 首都大学東京で博士の学位を取得した、内蒙古の赤峰学院のトクタホ(套図格)先生から電話を受けました。これから授業が始まるという慌ただしい早朝の時間でした。PCがうまくつながらないことから、私に電話をしてくれたのです。
 トクタホさんが引っ越しをしたので、お世話になった日本の皆さまにご連絡しようとPCを開いたけれども、日本人にはつながらなかったそうです。伊藤から皆さまにお伝えして欲しいとのごあいさつでした。東京では、桜が満開(「〜神田川の桜はほぼ満開。今年の桜は早めにやってきて〜」南の風3053号)だというのに、20日の赤峰市は大雪で、数日前の降雪と合わせると50センチの積雪だそうです。郊外に住居を移転したため、お子さんの通学の送迎が大変だそうです。ご家族は皆お元気でお暮しだとか。
 それにしても、相変わらずトクタホさんは早口ですね。早口と言えば、先日私の友人夫妻が、かけ流しの天然温泉に連れて行ってくれました。二組のご夫婦に私が誘われたのです。車中の会話の早口には私は真っ青です。往復2時間の間、速射砲のようにしゃべまくるご夫婦は疲れを知りません。中国語の会話は熱がこもると、激しく高い声が発せられます。喧嘩が始ったかのようです。でも顔つきは笑顔で、時々手で話していました。
 広大な原野を生き延びてきた民の末裔である彼らは、演説の民、自己主張の民なのですね。そう言えば、20日の講演会で講師に質問をした学生の多くが、長広舌をふるっていたため、まとめるように講師から注意を受けていましたっけ。
 PCの不具合・不機嫌は、トクタホさんの周辺、私の周辺の日本人も同様です。今モスクワを訪れている習近平総書記と李克強首相の新体制発足を気遣っているからなのでしょうか。私たちは、毎年1年間の外国人就業滞在ビザが発行されてきましたが、今年から3ヶ月に短縮(2012年6月国務院決定:釣魚島問題ではない)されました。国際化と同時に、外国人対策もおおわらわなのでしょうか。

■烟台の風281号−「三種全会」の賑やかな宴 (Fri, 22 Mar 2013 22:27) *南の風3054号
 春分の3月20日は、前日までの憂鬱な曇天と変わり、久し振りの快晴でした。窓辺のカーテンを引くと驚きです。なんと雪が積もっていたのです。テレビをつけると、北京でも積雪だったとか。天気予報では、烟台のこの日の気温は、マイナス3度から2度で、翌日の気温は1度〜17度で、翌々日は逆戻りの、マイナス1度〜5度でした。こんなに温度差の変化が厳しいと、私のような老人には体調の管理が大変ですね。
 ちなみに20日の気温。トクタホさんが暮らす内蒙古の赤峰市は、マイナス10度〜0度、黒龍江省の哈爾濱市は、マイナス15度〜マイナス7度ですから、烟台市はまだましな方かもしれませんね。でも、海南省の海口市の気温は22度〜32度なので、日本の26倍の広大な中国の国土を思い知らされるのです。
 この日の夜は、日本からお招きした倉本一宏(国際日本文化研究センター・総合研究大学院大学)教授の「古代日中関係論(円仁『入唐求法巡礼行記』を中心として)」、と題した講演会が開催されました。主催は、大学の東アジア社会発展研究院(李明鮮院長)です。政法学院模擬法廷教室の300人の会場は熱心な学生で満席で、私の学生も20人ぐらい参加していましたが、しかし絶好の学習機会なのに、日本語学科の中国人教師・日本人教師は、私を除いては誰も参加していないのです。実に、もったいない。
 7時半から2時間の講演会通訳は、朝鮮族中国人で、京都の国際日本文化研究センター研究員の金哲会先生でしたが、見事な通訳ぶりに全員が驚嘆の声をあげていたのです。講演会終了後、市内中心部の中国料理店で講師への感謝の宴が開かれ、私も招待されました。そこには、李明鮮先生と金哲会先生が吉林省延辺大学で日本語を学んだ時の同級生3人が同席され、総勢8人でワイン、ビール、53度の白酒による文字通りの「三種(*)全会」の賑やかな宴となりました。倉本先生以外は、全員朝鮮語での会話となり、時々日本語が混じる中国語のない宴席が翌日の2時まで続いたのです。早朝7時50分からの私の授業は、乾杯の連続による二日酔いと寝不足で足腰がふらついていたのです。*は中のしたが皿の文字

■烟台の風280号−外気は寒く、心は温かい私です (Mon, 11 Mar 2013 22:10) *南の風3049号
 昨日の暴風は、春一番などと言うようなものではありません。私は野菜の買い物に外に出ましたが、真っ直ぐ歩くことが困難なほどの強風でした。あたりは砂嵐で黄色い世界です。黄砂により、キャンパスの裏山は霞んでいました。
 一転して、今朝10日(日)は澄み切った青空です。昨日の嵐が嘘のような快晴です。ところが昨日までの5度〜15度の暖かい気温は風と共に去り、マイナス2度〜5度とまた冬に逆戻りです。
 日曜日の今日は、寒い中を二人の学生が私の部屋を訪れました。一人は4年生の男性で日本企業の「電装」で実習をしている、李振華君です。彼は、私の中国語の先生であり、バトミントンの好敵手で飲み仲間です。成績が良く、印象が穏やかで上品な雰囲気を感じをさせるため日系企業の数社に合格しています。
 12月に日本企業の「アツギ」に就職先を決めて、実習をしていたので、私は日本人会のボーリング大会に彼を誘い、アツギの幹部社員に彼のことをお願いしてきたのです。彼には、1年生から交際している恋人がいます。彼女は既に「電装」に就職が決まっていました。今回冬休みを終えて、私は烟台に戻ると、なんと彼は彼女を追い「アツギ」を断り、彼女の実習先の「電装」に就職先を変えていたのです。
 7月の卒業と同時に正式社員となります。女性の力は強いですね。もう一人の訪問者は4月に東京の大学院に留学する緑秋月(緑の糸偏はシンニュウ)さんです。彼女は、前述の「アツギ」で通訳・翻訳の仕事をしていましたが、大学の教師になる夢が捨てられず、会社を退職して、日本留学を決意したのです。昨年11月に受験し、12月の合格発表を待って、会社に退職を申し出たそうです。会社の幹部職員は途中退職にも関わらず、彼女を祝福してくれたとか。3月15日に退職する彼女のために送別会を8日に開いてくれたそうです。それも総経理(社長)も出席して。その時の心温まる話題です。
 「日本の大学院を卒業したら、ロクさん、いつでもアツギに帰ってらっしゃい」。そして、「日本でアルバイトをするなら、アツギの本社でしなさい。連絡しておくから…」と総経理はおっしゃったそうです。3月16日(土)は日本人会のボーリング大会で、私は「アツギ」の社員に会うのですが、李君は失礼しました。ロクさんは、お世話になりました、とでも挨拶するのかしら。外気は寒くても心は温かい私です。

■烟台の風279号−−神のみぞ知る出来事 (Sat, 9 Mar 2013 12:21) *南の風3048号
 コンピュータの不調には泣かされてきましたが、昨日6日はプリンターが故障し、長時間かけて何とか自分で直すことができました。新学期が始まったばかりで、印刷物が多いときだけに必死に私は取り組んだのです。
 ところがどうでしょう。昨年9月の尖閣諸島(釣魚島)領有権問題の時に、私のPCのアウトルックが使用不可能となってしまったのですが、今朝偶然にも回復したのです。メールの受信は出来ても、送信が出来なくなり、大学のコンピュータ学科の教師に修理を依頼したのですが埒があかず、それ以来、私は数度の手間をかけて、違う回路によるメールの送信をしてきたのです。
 ところが、時間が経ったからなのでしょうか、あるいは私の思想と行動が全く当局に対しては問題ないと判断されたのでしょうか、元の機能に回復したのです。どうして破壊され、どうして修復したのか、神のみぞ知る出来事なのです。マ〜良いか!
 さて4日の月曜日は、外国人教師の昼食会です。「渤海漁村」というレストランに21人が集結しました。そのうち昨年度から就任している教師は僅かです。今回も全員が西洋人で東洋人の出席者は私一人なのです。ロシア人2人、カナダ人1人、あとは全員アメリカ人でした。全て英語による会話だからなのか、あるいは東洋人はおとなしくて、シャイなのか分かりませんが、日本人も韓国人も出席しないのです。欠席の理由は、神のみぞ知るです。
 毎月第1月曜の昼食会に、3年間で全回出席は私だけです。実は、これには隠された理由があります。その1.会話が楽しい。2.安い料金で沢山の種類の美味しい中国料理が食べられる。3.毎回知らないレストランの発見。4.昼からビールが飲める。中国料理の基本は宴会料理です。大勢で卓を囲んで、何種類もの料理をつつきあうのです。日本のような小皿料理はなく、みな大皿料理ですから、一人でレストランに行くと、1品でも食べきれないのです。それも高額です。でも。大勢なら割り勘で沢山の種類の料理が安価で食べられるのです。誰です、グルメの私に食い意地が張ってるとは!

■烟台の風278号−中国でも毎日飲んでいます
  (Thu, 7 Mar 2013 14:18) *南の風3045号
 *私のPCのご機嫌が斜めで出国のご挨拶も出来ず、大変失礼をいたしました。日本でお会いした皆さまの中で、毎回のことながら小林先生にお目にかかった回数がトップでした。ありがとうございました。久し振りの「烟台の風」をお願い申しあげます。

 <烟台の風・第278号−中国でも毎日飲んでいます>
 日本では出国直前まで、毎日出かけていて、毎晩痛飲していたため、3月1日ようやく荷造りと土産物の買い出しをして、なんとか1日の夜行特急バスで、関西空港に辿り着きました。2日の朝の関空では、シャワーを浴び、有料休憩室で日本社会教育学会の論文査読を行い、空港郵便局で投函するような、慌ただしい時間を過ごしたのです。
 幸いにして、烟台は積雪もなく無事教員寮に戻ることが出来ました。こちらの気温は、このところ5度〜15度で穏やかな天候です。3日の日曜日は、新学期に使用する教科書を受け取りに事務所に出かけると、2年生の男子学生から昼食の招待を受けて、ビールで再会を祝し乾杯です。
 午後は、お世話になっている社会学の教授宅を訪ねご挨拶、そして3時には、今年4月から日本の大学院に入学する教え子が私の部屋を訪れてくれました。その日の夜は古くからの友人が歓迎会の宴を四川料理店で開いてくれました。4人で10品の料理と53度の白酒です。ギブアップ!
 4日から授業が始まりました。3年生の「商務日語写作」という新しい科目を担当する私は、教案づくりに追われています。4日の1年生の聴力の授業は、初めて出会う顔で皆緊張して自己紹介をしていました。実に可愛らしいですね。夜は1年間日本に留学して帰国した4年生の男子学生と夕食です。
 5日の火曜日は、3コースの授業が組まれており大変ハードですが、夜は女性の日本人留学生が到着することから、私は烟台空港に国際交流センターの車に同乗して出迎えに行き、留学生会館まで案内したのです。山東工商学院は歴史が浅いので、韓国、ロシアの留学生は大量にいても日本人留学生がいないのです。
 彼女は、神戸で小学校の教師を退職してから、中国語を学び始めた方で、現役時代から18年間、「南京事件を考える会」の活動をしている活動家です。私の友人の依頼で、留学のお世話を私が引き受けたのでした。その夜は遅く、彼女の世話を担当する私の3年生の女子学生と3人で夕食会となりました。久し振りに訪れた「米銭(金へんを糸へんに)」では、彼女はこれを「初めて食べる」と言い「美味しい、美味しい」との連発でした。
 6日は、彼女を大学の広大なキャンパスに案内し、夜は3人の日本人教師と共に歓迎の宴をはったのでした。ここでも、彼女は料理の味を褒めちぎってくれました。初日の中国語の授業も楽しかったそうです。さて、この週末はどこにご案内しましょうか。親切の押し付けはいけませんね。

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■烟台の風277−生きることの努力の必要性 (Fri, 18 Jan 2013 08:22) *南の風3021号
 新年を迎え、沢山のおめでたいご挨拶が今年も交わされましたが、拝受した年賀状には、高齢につき今後年賀のご挨拶を欠礼させていただきます、というような文面の賀状を数枚毎年目にします。お世話になった方々が加齢とともに、これまで交流した人々との縁を絶つことに至った思いを考えるにつけ、私の心は痛みます。
 ある著名な研究者(87歳)から今年いただいた賀状です。「・・神経麻痺で文字が書けなくなり、また声帯麻痺のせいで声も出しづらくなり・・(中略)・・車いすを使う、半ば寝たきりの介護老人の生活で、ただ生きることがこんなにも努力を必要とするものかを実感しています。・・」。
 あんなにも元気な笑い声、あんなにもダンディーなお姿と私は賀状を手に、過ぎ去りし日を思い浮かべ、声を失い、目頭が熱くなりました。そうです、これは明日は我が身なのです。そのためにも残された人生を「自分らしく、有意義に生き抜かねば」と決意を新たにした今年の私の正月です。
 毎年参加させていただいている「小林文人先生・富美さんを囲む新年を祝う会」で、今年の私のご挨拶は、「小林先生ご夫妻と参加者の皆様から一年の元気をいただいている」、と申し上げたのは、前述のような背景からくる老生の実感なのです。
 今日1月17日は何の日ですか。はい、阪神淡路大震災(1995年)を記念する「防災とボランティアの日」です。それと熱海のお宮の松で有名な尾崎紅葉の『金色夜叉』で、「宮さん、今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月を曇らせてみせるから」という貫一の台詞の日ですね。でも、この日は私の結婚記念日(1971年)なのです。18年前の大震災以降、それまで続けてきた、ささやかな我家の祝宴は封印したのですが、今日は復活させましょうか。なぜなら、二人とも高齢者となり、生かされている喜びを皆様に感謝するためにです。
 昨年、急逝された京利幸・神奈川県公連会長を偲ぶ会の発起人、今年67歳の同級生のうち、既に5人が早世している小学校のクラス会の幹事を無事務めて、私を待つ烟台の若人の元に戻るとしましょうか。

■烟台の風276−今年の年賀状から  (Fri, 4 Jan 2013 10:10)  *南の風3013号
: 老生の私は、ここ数年ワインを片手に初春の年賀状を読みながら、一人ひとりの姿を思い浮かべ、追憶の喜びを味わい、同時に鬼籍になられた人を偲ぶのが、正月三が日の過ごし方です。
 今年の年賀状から特筆すべき事をご紹介いたしましょう。やはり、「南の風」3千号の発信を祝い、その後の継続を喜ぶ人たちからの便りでした。なかでも、この人たちの何人かは、「南の風」受信メーバーではないのです。インターネット社会の面白さであり、恐ろしさでもありますね。私は「南の風」を紹介したことも無い人に、「南の風であなたの文章を読んでいる」、と言われたことが何度かあります。私は「え〜っ」、と複雑な気持ちになります。
 今年も、新潟県に暮らす女性から、そんな年賀状をいただきました。昨年のことです。烟台三大学(魯東大、烟台大、山東工商)の日本人教師の会で、魯東大学の真室先生から、「烟台の風を執筆している伊藤先生ですか?」、とご挨拶を受けたのです。故郷の山形県で「南の風」をお読みいただいていたのだそうです。インターネット社会は情報会員(仲間)社会ではなく情報共有(公開)社会なのですね。
 もう一件ご紹介します。昨年、「南の風」2911号(2012.7.1)でご紹介した、日中韓三国の社会学研究国際フォーラムの報告を日本でお読みになった日本人研究者の感想を私は烟台で聞いたのです。もちろん、その先生も、「南の風」受信メーバーではないのです。「南の風」は、メンバー以外の多くの人たちにも読まれているのですね。
 さて、私がいただいた今年の年賀状の話題のベスト4です。先ず第1位は、中国と日本の尖閣諸島(釣魚島)の領有権紛争をめぐって、私の中国暮らしの安全を心配する多くの皆さまからのお便りでした。そして、第2位は前述の「南の風」を通じて、私の随筆「烟台の風」を読んでいる、と書いて下さった人たちのお便りです。第3位は、日本に一時帰国したら連絡が欲しい、再会して一杯飲もう、という嬉しいお誘いのお便りです。第4位は、そろそろ中国から日本に戻るようにと帰国を促すお便りでした。皆さまありがとうございました。

■烟台の風275−子どもの人生を変えた教師
   (Mon, 24 Dec 2012 16:34)  *南の風3006号
 若干43歳でノーベル文学賞を受賞し46歳で不慮の事故死を遂げた『異邦人』の作家アルベール・カミュの遺稿『最初の人間』が彼の死後51年の2011年に映画化されました。映画は、カミュの自伝的小説を映画化したもので、カミュの出身地アルジェリアを舞台に描かれています。
 カミュ自身とみられる主人公の「ジャック・コルムリ」は、フランスの有名な作家ですが、子ども時代はアルジェリアの極貧の家庭で育てられました。父親はコルムリが生まれた直後に戦死していて、母親と厳格な祖母と叔父の三人暮らしです。三人とも読み書きができません。中学進学を諦め工場で働いていると、小学校の「ベルナール先生」が彼の家を訪れ、コルムリの祖母を説得してくれて、彼は奨学金を受けて進学することができたのでした。
 映画はコルムリの年老いた母親が一人暮らしをする、祖国アルジェリアの大学に招かれて、彼が講演をするところから始まりますが、独立運動派とフランス植民地派の学生の対立から、講演会場は騒然となり、混乱します。その後、母親を訪ねると、字の読めない彼女の手には息子の講演会が大混乱だったことを報じる新聞が握られています。映画のラストシーンでも、母親が新聞の見出しを手本に自分の息子の名前を書く練習するシーンを映し出し、母親の愛情と識字教育の重要性を訴えています。
 一人の教師との出会いが、一人の子どもの人生を変えました。実際、カミュはノーベル賞を受賞した記念講演の出版に、彼の恩師で、映画ではベルナール先生のモデルとなった「ルイ・ジェルマン先生」に献辞を添えたのだそうです。映画の中でも、コルムリが年老いたベルナール先生を訪ねるシーンが出てきます。教師という仕事の尊さが、私自身の生活とも重なり心に響きます。
 アルジェリアの独立は1962年で、カミュの死後2年後です。その独立戦争の映画「アルジェの戦い」は、1966年に制作されています。独立後50年、先日12月20日にはフランスのオランド大統領がアルジェリア議会で「植民地支配の不当性を認める演説したのです。
 (映画「最初の人間」は2月15日まで神保町「岩波ホール」で上映中。原作:アルベール・カミュ「最初の人間」新潮文庫)

■烟台の風274−満身創痍の私です (Wed, 19 Dec 2012 15:31) (南の風3004号)
 「新雪に 足跡残す 心地よさ」,「新雪に 足をとられて 歳を知り」,「白銀に 我を笑うか 雀たち」
 18日の午前中、烟台は雪が降ったり止んだりの気まぐれな天気でした。中国人の友人が、私の帰国の近いことを知り、天然温泉に連れて行ってくれました。久し振りのかけ流し湯に私は身も心も温まり大満足です。
 午後は、横殴りの吹雪となりました。帰宅後、学校に成績表を提出しなければならず、3時に部屋を出た私は、教員宿舎前の坂道で、横転です。しこたま右足付け根の臀部を痛打してしまいました。担当教授に、成績表、出席簿、試験問題などの書類を説明して提出した後の帰路では、横殴りの雪など気にもならず、新雪に私だけの足跡を残し、踏みしめる音の心地よさを楽しみ、足早に歩いていた時です。今度はドスンとの大音響とともに、仰向けにひっくりかえったのです。白銀の世界は一変し、暗闇。そうです、脳震盪気味で、私はしばらくは雪の上に転がっていたのです。先ほどと同様に、起き上がる前に私は周囲を見渡しました。誰かに見られていないかとです。幸いにして、誰もいませんでした。小太りの雀が数羽草陰から私を嘲笑しているだけでした。
 「南の風」2997号に書かせていただいたように、スキー、スケートで鍛えた私は雪道には強いと過信していたのですが、15日の烟台日本人会のボーリング大会で、我が歳も考えず、ボーリングは初めてという学生を特訓し、練習3ゲーム、競技2ゲームも行ったために、右手右足の筋肉が強烈な痛みに襲われ、足が自由に動かなかったのが原因です。
 気が若くても、体がいうこと聞いてくれませんでした。「伊藤先生はお若いですね」というおだてにのって、豚が木に登ってしまい、見事落下とあいなったのです。お恥かしいかぎりです。
 今度は、手足の痛みに加え、臀部の痛みと背中と首筋の強打で、現在は満身創痍。体中にサロンパスの匂いが漂い、「お前は老人クラブ入会有資格者だということを忘れるな」、と雪の女神様から、ご宣託を受けたのです。私の体力と健康のライバルの小林文人先生には、大きく水を空けられていることを肉体的痛みで私は悟ったのです。

■烟台の風273−遊び心の試験問題はA (Wed, 12 Dec 2012 09:01)(南の風3002号)
 教師たる者、知らないでは済まされませんね。直ぐに調べて学生に知らせる必要があるのです。今日の質問は、「日本の昔の人の名前の読み方で、姓と名前の間に「の」を入れる人と入れない人の違いを教えて下さい。」でした。例えば、「藤原鎌足」「源頼朝」は「の」を入れて読みますが、「織田信長」は「の」を入れませんね。それは、どうしてですか。皆さんは答えられますか。
 これは天皇から賜った姓を「氏」と言い「氏」の場合だけには「の」を入れて読み、普通の「姓」には「の」を付けないのです。こんな問題は、中国の学生はおろか、日本の学生だって答えられないでしょう。漢字謎遊びが有ります。大学院入試問題として実際に出た質問です。どうしても解らないので、と一人の女子学生が私に聞きにきました。皆さんはできますか。「ドスンと音がしました。私はどこにいるでしょう。漢字1字で答えなさい」です。頭の筋肉を柔らかくしないとだめですよ。答えは簡単です。
 私は、即座に答えました。正解は「寺」です。寺の文字は土(ド)と寸(スン)を組み合わせた文字です、と解説しました。彼女は眼を丸くして驚いています。「どうして解ったのですか」と。そこで私は、「これは昔からある、“文字謎”という漢字遊びですよ」、「難しい問題が続いたので出題者が息抜きをさせてくれたのですよ」、と笑ったのです。そして、このくらいの余裕がないと研究者にはなれませんよ、と付け加えました。
 次の問題はいかがですか。「麿」という漢字は、@重字、A合字のどれにあたりますか。日本人なら簡単な問題ですが、中国の学生にとってはどうでしょうか。こんな問題が日本語能力の測定に相応しいのでしょうか。重字(じゅうじ)は重ね字で、日本語の繰り返し符号ですね。例えば、人々の「々」などです。合字(ごうじ)は、複数の文字を結合した文字です。「麿」は「麻」と「呂」が結合した文字ですから、正解は合字です。

■烟台の風272−質問攻めに走る私の師走 @  (Sat, 8 Dec 2012 11:45) (南の風2998号)
 早めに到着した、「日本の歴史」の教室に、見知らぬ女子学生が座っていました。私がドアーを開けると、立ち上がり笑顔で挨拶をしてくれました。彼女は、日本語で「おはようございます」、と言った後は、中国語で話し出しました。隣りの学生が通訳をします。中国語教師養成の学部に席を置く学生ですが、今日から伊藤先生の歴史の授業を聴講したい、と許可を求めてきたのでした。もちろん私はOKです。
 さて、10分の休憩時間です。彼女に何故日本史に興味があるのか、私は質問しました。今度は筆談です。すると彼女は平安時代の「陰陽師(おんみょうじ)」に関心が有り、特に「安倍清明」について知りたいと言うではありませんか。私は恥ずかしながら、陰陽師については知ってはいても、安倍清明については名前だけで、全く知らないと言ってもいいのです。
 今、この時期は日本語能力試験や大学院入試を直前に控え、受験生たちはストレスがたまり、パニックに陥っています。過去の問題集を抱え、解らないことを私に尋ねて来ます。先日も、「先生、日本の関西ではお客さんにお茶漬けを勧めると、早く帰れと言う意味だと聞きましたが、どうしてですか?」と私は問われたのです。私は関東の人間なんだぞ!と心の中で叫びながらも、私は関東の人間だからよく分からないけれど、儒教精神では自分が食べられなくても客を接待する「もてなしの文化」があるので、粗末なお茶漬を来客に出すのは非礼だから、それが転化して、「そろそろお引取り下さい」となったのだろう、と説明し、直ぐ調べて明日返事をします、と教室を去ったのです。
 調べた結果は、関西地方と言うよりも、京都特有の表現で「ぶぶ漬」でもいかがですか」、と言って帰宅を促す思いやりの婉曲的な表現だということが判明したのです。それは、お茶は「あがり」と言って、「最後」という意味なので、それが転じて、そろそろ終わりですからお帰り下さい、になったのだそうです。(次回に続く)

■烟台の風271−「しょうゆ顔」も根は一つ?A (Mon, 3 Dec 2012 11:08) (南の風2996号)
 (前回に続く) その後、中国大陸や朝鮮半島から、稲作や青銅器の知識技術を持った人々が大量に渡ってきます。これが「弥生文化」を生み出した弥生人なのです。それまで平和に暮らしていた縄文人は、多くは混血同化したのでしょうが、一部は奥地・辺境の地に追いやられて蝦夷(アイヌ)などと呼ばれるようになりました。大和政権天皇族の東進や797年に征夷大将軍となった坂上田村麻呂の蝦夷征伐は有名です。日本の各地には、アイヌ語の地名が多く残っています。「しょうゆ顔」が「ソース顔」を征服したのです。
 その後も、朝鮮半島の政変の度に渡来人が続々とやってきています。埼玉県の高麗郡や神奈川県大磯の高麗寺・高来神社などはその足跡です。
 しかし、朝鮮民族にしても、高句麗系と百済系では、顔つき、体型は全く違いますね。金田正一型と金大中型の違いです。「しょうゆ顔」のルーツも北方系と南方系では、全く違うのです。随分昔に読んだ『日本人の起源を探る』という本には、アイヌの人たちと、沖縄糸満の人たちのDNAはほとんど同じで、しかも南米インカの先住民のDNAとも同じだと書かれていました。太古にベーリング海峡を渡って南下して移住したのでしょうか。猿人が誕生した400〜500万年前のアフリカから、猿人、原人、旧人、新人と進化を繰り返えしながら、私たちの想像の世界を遥かに超える悠久の時を経て、この小さな島国に人間の生命の灯がともったのですね。
 4年前の中国考古学会が興味ある発表をしていました。「血液検査の結果、純粋の漢民族はいない」、とでした。当り前だ、と私は持論を確信したのです。中国5千年の歴史をみても、その歴史のほとんどは異民族との抗争にあけくれていたのですから。元、清国は異民族征服王朝ですし、始皇帝の秦や北魏なども鮮卑族の国でしたね。古代の五胡十六国は異民族国家でした。歴史で習う、「匈奴」「契丹」「女真族」などは、漢化して霧散消滅してしまったのでしょうか。
 現在でも56民族が暮らす中国は多民族国家で漢族は混血民族なのです。先日、北京で開催された中国共産党第18回全国代表者大会の代表者の様々な「しょうゆ顔」がこれを証明していました。

■烟台の風270−「しょうゆ顔」も多彩です@ (Thu, 29 Nov 2012 17:21)
 「南の風」2986号と2987号で、「しょうゆ顔」「ソース顔」の文章を拝読して、改めて私は中国人の顔つきの多様さに驚嘆の眼を見開いています。学生たちはいつも「北方の人は脚が長く背が高い、南方の人は背が低い」、と言います。なるほど、面長な顔で背が高い人は遊牧民を、丸顔で背が低い人は農耕民をルーツに持っているのでしょうか。
 2年生の女子学生の菫玲さんは、四川省の出身です。丸顔で小柄な彼女は、普段は目立たない存在です。でも笑顔は最高です。名前を呼ぶと、素晴らしい笑顔で返事をします。愛くるしく可愛いらしい笑顔です。同じクラスの孫倩倩さんは吉林省の出身で、面長で背が高く八頭身美人です。笑うと、楊貴妃も真っ青ですが、普段は冷たい感じがします。ダンスの上手な新疆出身の楊雨薇さんは、吸い込まれそうな大きな眼を持っています。色白の崔英さんは、黒竜江省出身の朝鮮族です。私の学生は中国全土からやって来ているので、「しょうゆ顔」も多彩なのです。
 私は日本史の中間試験に、こんな問題を出しました。「日本列島が、現在のような姿になったのはいつ頃ですか」。解答は「約1万年前」が正解ですね。氷河期が終わり海水面が百メートルも高くなり、大陸とくっついていた陸地が大陸と切り離されました。それまでは、大陸の北から、南からマンモスや大角鹿を追って日本にやって来た人々は、原日本人として旧石器時代を生き抜きます。
 そこで私は、「50万年前の北京原人の子孫も、大型動物を追って日本に住み着いたかも知れない」と解説し「君たちの遠い先祖と私たちの遠い先祖は、つながりがあるかも知れないね」、と付け加えます。もちろん、現代人と原人は直接のつながりが無い事は承知の上で、ロマンを語るのです。そして、地球の温暖化とともに、狩猟生活から、漁労・採集生活に変わった原日本人は「縄文文化」を生み出します。これは新石器時代とも重なりますね。(次回に続く)  (南の風2994号)

■烟台の風269−悲劇の済州・光州、悲劇のカラス B (Wed, 21 Nov 2012 20:09)
 (前回に続く) …座り込んだ海軍基地建設反対運動の女性の叫び声が私の耳にまだ残っています。そして、彼女たちを数人がかりでゴボウ抜きにしている機動隊員の映像が脳裏をかすめます。90%を超える地元住民の反対を無視した暴挙は、4・3の悲劇の焼き直しで、現代版国家権力の住民に対する犯罪行為なのでしょうか。
 これは、沖縄の辺野古米軍基地問題と同様に、アメリカの極東軍事戦略とその同盟国の国家権力と地域主権・国民主権、そして国民生活の安定と国家の平和・国際の平和、さらに自然保護問題とが複雑に絡み合っている現代的課題なのです。
 ところで、私の中には自己矛盾もあります。なぜなら、4・3の悲劇の島、済州島の訪問を拒んできたのに、光州事件「5・18記念公園」「望月洞墓地(旧5・18記念墓地)」には自らの意志で訪れたことがあるからです。ここも当然「国家の犯罪」を立証する記念施設なのです。しかし、民主化を求める活動家やそれを支持する学生と市民に対する弾圧と虐殺の光州事件(1980年5月)比べて、済州島4・3事件は、子供から老人までの名も無き一般住民への無差別大量虐殺ですから、とても同じ国家の暴力でも質が違うのです。光州事件では韓国軍に殺害された人は2000人だと言われていますが、済州島では僅か20万人口の9分の1の住民が虐殺されたのです。
 もちろん、昔訪れた忠清南道天安市の「独立記念館」とは、平和を考える意味では同じであっても、異民族支配の実証と、国家の国民に対する暴力を明らかにする、4・3平和公園と5・18公園とは、全く異質なものなのです。
 話題が硬くなりました。話を変えましょう。世界自然遺産の「コムンオルム」に向かう時でした。車窓から高い木にカラスの群れを私は見つけました。すると、梁炳賛先生(公州大学教授)がとても興味のある話をご披露して下さいました。「韓国の本土にはカラスはほとんどいない、カラスは神経痛の妙薬という民間療法の伝説によって、捕獲され食べ尽くされてしまった。」のだとか。なるほど納得。中国本土でもカラスをほとんど見かけないのは、中国は漢方の本家ですから。  (南の風2990号)

■烟台の風268−美しい楽園の島「済州島」では A (Tue, 20 Nov 2012 20:54)
 (前回に続く)韓国のハワイと呼ばれる済州島は、リゾート開発が進み、観光施設が整備されています。外国人の土地購入の促進に向け、購入者には永住権が保証されるため、多くの中国人と日本人がリゾート地を買い占めているのだそうです。
 初日の「4・3平和公園」の重い課題から解放された翌日(17日)は、思う存分に海洋と火山の自然に触れて、旅心を満喫できるのかと、少々ウキウキした私の気分は一変しました。それは、韓国海軍基地が建設されている「江汀(Kang jong)」を訪れたからです。私たちの乗った車が工事現場のゲートに近づくと、大勢の警察官が集まっており、騒然とした雰囲気を漂わせていました。一日に何度か入ってくる工事用トラックをゲートで阻止するために、座り込みをしている基地建設反対運動の人たちを多くの機動隊員が排除をする現場に出会ったのです。
 この運動に加わっている大阪出身の日本人女性が現れ、工事が進められている現場に私たちを案内し、説明をしてくれました。高いフェンスに囲まれた基地建設を海辺に出て観察したのです。そこは、貴重な動植物の生息地で基地建設による自然破壊で絶滅の危機にあるとのことでした。
 海岸に出るには、漢拏山の爆発による溶岩流の玄武岩でできた潮溜りの岩塊を幾つも越えなければなりません。それは自然の彫刻ですが、これも近い将来には爆破されてしまうのでしょうか。岩場では、気持ちの若い小林文人先生は、高揚した気持ちに足が追い付かず5度も転ばれ足の指を怪我なさいました。
 美しい海面はオイルフェンスが張られていて、しゅんせつ船が海底の泥を掻き出していました。大阪の女性は、私たちの運動で一日でも工事を遅らせて、世論に訴えたい。そして12月の大統領選挙に期待する、と私たちに熱っぽく語ったのでした。
 海岸からゲートに戻ると、2回目のコンクリートミキサー車が現場に到着し、ゲート前に座り込む人たちの排除がまた機動隊によって始められました。座り込んでいた女性の天をも切り裂くような絶叫と悲鳴が響きわたり、先ほどの修羅場が再現されたのでした。(次回に続く)  (南の風2989号)

■烟台の風267−悲劇の島「済州島」は韓国のハワイ@ (Tue, 20 Nov 2012 09:16)
  「伊藤さん」、遠くの方から小さな声がしています。夢心地のまま私は薄目を開けました。なんと私の目の前に、山東工商学院の東アジア社会発展研究所所長の李明鮮教授が立っているではありませんか。充実した旅を回想しながら寝てしまった韓国仁川空港のロビーでの出来事でした。李先生は、立教大学での2週間の短期集中講義を終えられて帰国なさる時だったのです。
 異国での不思議な出会いと旅の喜びに私は感動したのです、今回の私の旅は、東アジア生涯学習研究交流委員会の皆さんと韓国の平生教育の皆さんとの研究交流を目的とした、済州島への3泊4日(11月16〜19日)の旅でした。済州島は、15世紀初頭までは「耽羅国」という独立国でしたが、朝鮮王朝によって全羅道に組み込まれ、琉球王国の沖縄と同じ歴史を歩んでいます。元の蒙古軍が日本征服を目指して、軍馬を放牧したところでもあり、また、725年に田道間守が日本にミカンを伝えたのも済州島だと言われています。
 実際に島の中央にそびえる韓国で最高峰の漢拏山(1950m)から南側では、たわわにミカンが実っていました。私は、韓国には数えきれない程訪れていますが、頑なに訪問を拒否してきた土地があります。それは、「板門店」と「済州島」です。双方とも愚かな人間の行為の悲劇の象徴だからです。米ソの代理戦争の朝鮮戦争(1950〜1953年)によって南北に引き裂かれた朝鮮半島の境界(休戦ライン)の板門店と、米軍と李承晩政権により、「赤狩り」と称して、一般住民の虐殺が行われた悲劇の島済州島です。
 済州島の悲劇は、長らく国民には隠された史実でしたが、金大中政権で、事実の究明が行われ、盧武鉉大統領が正式に国民に史実を明らかにして、「国家の犯罪」として謝罪しましたので、私の小さな抵抗の根は取り除かれ、今回、済州島を訪れることが出来たのです。
 初日は、歴史の教訓として国家の犯罪を暴き、後世に伝え、犠牲者の鎮魂を祈り追悼するために、最近(2008年)建てられた博物館「済州4・3平和公園」を訪れました。古代や中世ならいざ知らず、現代の歴史に刻まれた、同族相食む殺戮の事実に私は衝撃を受けたのです。国民を守るべき、警察や軍隊が住民に銃口を向け、2〜3万人の住民を殺害したのは、1948年4月3日でした。(続く) (南の風2988号)

■烟台の風266−過熱は冷めることな (Tue, 13 Nov 2012 10:01)
 中国のテレビでは、今でも尖閣諸島(釣魚島)のニュースが放映されていますが、日本ではいかがですか。のどもと過ぎればの国民性から思うに、もう話題にはのぼらないのでしょうね。
 先日、政府の高級官僚が使う高級レストランに行きました。入口には大きな文字で、「釣魚島は中国固有の領土だ」と書かれた掲示物が貼られていましたが、入口の出迎え係員は、私を日本人と知りつつ、にこやかに歓迎光臨と室内に迎え入れたのです。烟台文化センターに出かけた時です、大劇場の対面の道路に巨大な看板が作られていました。これも釣魚島を守れ、との檄文が大文字で書いてありました。設置は、中国の有名な「天福茗茶」という中国茶のチェーン店でした。張裕葡萄酒博物館の前の高層ビルにマンション族を相手とした家具屋の宣伝の大看板がありますが、そこにも大きな文字で、日本人には売らないと書かれていました。
 長島に行った時です。私たちの前を旅行社の小さなグループが海岸の細い岩盤をガイドに率いられて歩いていました。旅行社のガイドと一緒に現地の観光協会の中年の男性が小型マイクで説明をしていました。人混みでのマイクは不快でしたが、彼が突然大声をあげたのです。彼は、グループの若い男性客がキャノン製カメラを持っているのを咎めたのです。愛国心が有るなら、日本製品を買うな、と説教を始めたのです。ここは観光地です。私は、記念写真を撮りまくる観光客のカメラを注視しました。なんと、ほとんどがニコン、キャノン、ソニーなどの日本製品ではありませんか。
 極め付きは、烟台市内で一番大きなデパート「世茂百貨店」に立ち寄った時でした。2階に、「東京クレープ」という甘味屋さんがあります。その隣は中国式ファーストフードの店です。その店には、大きな看板が掲げられていて「日本製品不買運動を展開しよう」と書かれていたのです。思わず私は苦笑いをして、東京クレープ加油と声援したのです。今でも、中国では釣魚島問題は過熱したままです。(南の風2987号)

■烟台の風265−民族のリズムが語る (Wed, 7 Nov 2012 22:35)
 10日以上も患っている風邪なのに、私は女子学生3人を誘い、繁華街の烟台文化センターに出かけました。ウクライナ民族音楽舞踊団の舞踊鑑賞にです。ウクライナと言っても、名前は知っていても、地理がお分かりにならない人には、有名なコサック・ダンスの国だと言えばお分かりでしょうか。
 ウクライナは東ヨーロッパに位置し、その国土の南は黒海に面し、北はロシア、ポーランド、ベラルーシ、などと国境を接しています。1991年にソ連崩壊に伴い独立しましたが、その歴史は平坦な道ではありませんでした。いつも隣国の大国に蹂躙され、服従してきたのです。首都はキエフです。13世紀まで、キエフ大公国が栄ましたが、モンゴル帝国に滅ぼされて以降、大国の版図に組み込まれてきたのです。
 ウクライナ軍人のコサック兵団は、勇猛果敢な兵士として名をはせており、日露戦争の時の二〇三高地の争奪戦で、日本軍を悩ませたロシア軍は、コサック兵団だと言われています。コサック・ダンスは、激しいリズムに合わせて腰を落とし、左右の足を交互に前につき出し、踊り続けるのが特徴ですが、肩を組んだり、手をつないだりして、輪になったり、幾重もの直線を描いたりして、激しいリズムで踊るところに群舞の神髄を見ることが出来ます。
 美しい民族衣装に包まれた男女のダンスの美しさに、同伴の女子学生はうっとりと目を奪われていました。宙を舞う姿に、床体操の演技のようにくるくると前転後転で回転する姿に、また人間独楽のようにまわり続ける熱演に、普段静かな女子学生が思わず歓声と拍手の嵐を湧き起したのでした。
 辛い歴史に翻弄された民族のリズムは、激しいですね。民衆の日頃の苦しみや、悲しみ、そして一時の喜びを激しいリズムにぶつけ、救世の祈りと豊穣の祭に刹那的快楽を求めたのでしょうか。これは沖縄のエイサーなどにも共通して言えることです。感動の2時間は、国境を越え、民族を越えた人類愛芸術のひと時でした。 (南の風2984号)

■烟台の風264−喜怒哀楽の日々が続く (Sat, 3 Nov 2012 21:59)
 悲しい出来事が私を襲い、嬉しい出来事が私を包みます。先ず悲しい出来事です。昨年度の卒業生で、難関の大学院に入学した、三人娘の一人との連絡が途絶えました。
 せっかく有名大学の大学院に合格したのに、どうしたのかと私は心配しておりましたが、ようやく状況が判明したのです。彼女は、病気にかかり1年間休学届けを申請したことが分かりました。でも、病状などの詳しい情報は分かりません。あんなにも頑張った彼女の身に、何があったのでしょうか。
 朝6時に起き、食事を済ますと、直ぐに自習室に行き、授業の教室と自習室を往来しながら勉強して、夜の10時半の消灯後は、ベッドの中に電気スタンドを持ち込んで勉強した彼女は、2年生で日本語能力試験の1級、3年生で大学英語試験6級を取得した秀才でした。日本語1級は4年生でも過半数は取得できないのです。健康にも注意し、縄跳びやバドミントンで体を鍛えていたのです。私が風邪気味だと、風邪薬を持ってきてくれたり、中国語を私に教えてくれた、気立ての優しい女性でした。
 今は正午です。私は黒砂糖の棗入りスポンジパンを食べながら、彼女のキュートな笑顔を思い浮かべて、病状を心配しています。この甘いパンは、一度彼女が手土産に持参した時に、褒めたら、それからというもの、毎回持ってきてくれたパンなのです。甘いパンが苦いのは悲しみのせいでしょうか。人生80年代、1年の休学なんか問題ではないのだ!
 嬉しい出来事は、日系企業で1年間通訳と、翻訳の仕事をしていた卒業生が、突然私を訪ねてきたのです。彼女は社会人として働いてきたが、一度は諦めた大学の教師になる夢を、やっぱり追い求めたいと私に訴えるのです。そのため日本の大学院に進学したいと私に相談を持ちかけてくれたのです。「1年の回り道は、決して無駄では無い。むしろ貴重な経験だ」、と私は彼女を励まし、信頼する日本の大学の先生を紹介したのです。2年前、彼女は烟台の冬は寒いからと、私に素敵なマフラーを贈ってくれました。人生80年代、1年の回り道なんか問題ではないのだ! (南の風2982号)

■烟台の風263号−目を見張る躍動の陰には (Sat, 27 Oct 2012 08:22)
 夏休み明けに、私は以前住んでいた街に、果物屋の小父さん、小母さんを訪ねました。朝早くから、夜遅くまで働いていて、笑顔を絶やさず、大きな声で話しかけてくれた小母さんには日本のお菓子、顔が日焼けか酒焼けなのか浅黒く、映画スターにでもしたいような端整な顔立ちの小父さんには、マイルドセブンを手土産に持って私は出かけたのです。
 ところが、駐車場の角にあった、粗末な店は跡形もなく無くなってるではありませんか。誰に聞いても移転先は分かりません。私の好きな中国人家族が、またもや私の前から消え去ったのです。喧噪な青空市場を立ち去る私の足どりは重く、虚空を仰ぐ私の脳裏に突然リズムが奏でられたのです。それはアニメ「ゲゲの鬼太郎」のテーマソングの一節です。「楽しいな、楽しいな、」が「悲しいな、悲しいな」と替え歌となって、私は唄い続けたのです。ほろ酔い機嫌で柿を買い求めた私に「酒を飲んで柿を食べると体に悪い」と注意してくれた心の優しい小母さんは今何処に、いつもおまけのひと品を袋に入れてくれた小母さんは、今何処に。
 その後しばらく経ち、大学の南門近くの私の行きつけの「米銭(mixhen)」の店に出かけた時です。〔*銭の金偏は糸編で右の三本の横線は二本〕。
 ここの夫婦も実に人の好い人たちです。小母さんは、遼寧省出身で田舎から送ってきたと、木耳(きくらげ)などの特産物を時々私にくれるのです。中秋節には、化粧箱に入った月餅を贈られました。でも、この日の小母さんは、いつもの笑顔がありません。手書きのメモを私に差し出したのです。「家賃が値上がりをして、引っ越します。伊藤先生の電話は知っています。落ち着いたら連絡します」と書かれていました。
 何が「躍動」だ、何が「文明創造」だ。虚構の豊かさは高層ビルを生み、胡同は消えていく。人間性を置き忘れた金持ちだけが生き残る、強い者だけの街。優しい心の人々の声が聞こえる。「貧しくてもいいから細やかな幸せが欲しい、心と心が響きあう人間の街を返せ」、とです。私の前から消えた去った、弱い立場の人々の叫びです。(南の風2979号)

■烟台の風262号−高貴な趣味の王世鐘先生 (Tue, 23 Oct 2012 20:48)
 先日、私の大学を訪れて下さった王世鐘先生のご自宅に私はお招きをいただきました。マンションの5階の先生の部屋は広々としていて、実に綺麗です。内装は全て購入した後、ご自分で別の業者に発注したそうで、室内は先生のお人柄を反映して、趣味の良い色調に統一されていました。玄関から一歩部屋に入った瞬間です、すがすがしい香りが私を迎えてくれました。とても落ち着いた上品な香りが部屋いっぱいに漂っていました。
 お香の香りです。ダイニングルームには香炉が置かれていました。私がお香の香りを称賛すると、王先生は買い集められた沢山のお香を取り出して、私に説明して下さったのです。「これはインド産です」、というふうに。皆さんは「香道」をご存知ですか。お香は香りを嗅ぐと言わず、香りを聞く、「聞香(もんこう)」と言います。王先生のお話では、日本ではお香は高価ですが、中国では比較的安価で手に入るのだそうです。CDプレーヤーで好きな音楽を聞きながら、お香の香りを愛で、読書をするのが、至福の時だそうです。羨ましい高貴な趣味ですね。
 王先生は、かつて神戸の山東省出身華僑団体の記念誌掲載のために、一世の聞き取り調査をなさったそうです。その時の話です。ある高齢のご婦人は、子どもの頃は家が貧しくて、大連の日本人の家に「子守り奉公」に出され、その後日本の神戸に渡り、渡日中国人向けの宿を経営したりして、今では大きな中華料理店を経営しているそうです。その昔は、山東省はとても貧しく、多くの住民が夜逃げ同然に東北地方に移住したと聞きます。それを「闖関東」と言います(烟台の風30号でCCTVドラマ「闖関東」を紹介)。しかし最近では改革開放経済による臨海部の発展により、東北三省から逆に山東省に移住してくる人が多くなっているのだそうです。王先生も、そうした山東省華僑の子孫のお一人ですが、お香を楽しむお姿は気品に満ち溢れていらっしゃり、平安貴族を彷彿させるのです。
 私も、残り少ない人生をお香でも炊きながら、湘南の海を眺め、優雅な時間を過ごしたいものだ、と私はその時思ったのです。(南の風2978号)

■烟台の風261号−不思議なご縁です (Sun, 21 Oct 2012 15:59) 
 先日の日曜日に烟台の郊外から1時間かけて、中国の友人が私を訪ねてくれました。彼は山東工商学院は初めてだというので、西校区から始まり、東校区まで大学キャンパスを私は案内したのです。彼は、王世鐘というお名前で、富士日本語学校の日本語教師をなさっています。
 昨年12月の末の、冬休み一時帰国の時でした。烟台空港の搭乗口ロビーで大阪関空行き直行便を私は待っていた時に、明らかに日本に研修生として働きに行くであろう、若い青年男女のグループを見つけ、私は彼らに話しかけたのです。
 すると、近くにいた初老の人品卑しからぬ男性が、しきりにこちらに視線を投げかけています。好奇心溢れる中国人の強い視線には、私は慣れているので、気にも留めず、機上の人となったのです。混み合う関空で預け入れた手荷物を受け取り、神戸三宮行のリムジンバスを待っていると、なんと先ほどの上品な男性がいるではありませんか。どちらからともなく会釈をし、挨拶を交わしたのです。「烟台空港でお会いしましたね」、とです。
 彼は、大阪生まれの神戸育ちの中国人2世で、神戸大学で生物学を学び、実家は明石で中華料理店を営んでいて、ご自分は中国各地の大学や、日本語学校で日本語を教えてきたのだそうです。若い頃は、横浜の中華学校でも教鞭を執ったそうです。私より3歳若い64歳だとか。烟台での再会を約して私たちは三宮で別れたのでした。
 その後、年賀や暑中見舞いのメールをいただいたのですが、なかなか烟台でお会いすることが出来ず、今回ようやく約束が果たせたのでした。私の行きつけの小さな日本食レストランで、本場の味の「鯖の味噌煮」定食をご馳走したら、中国で鯖の味噌煮が食べられるとは、と大喜びしてくれました。
 それから王さんは、帰宅をした直後に、遠い道のりを再び車を走らせて私の大学に戻って来て、私を驚かせたのです。食事中に私が「胆石」の話をしたことを、気にかけてくださり、薬を持参してくれたのです。私は言葉に詰まるほど感激したのです。(南の風2976号

■烟台の風260号−慶祝、歓喜、感謝の烟台の風 (Tue, 16 Oct 2012 20:31)  
 「烟台の風」が260号を迎えました。よく書き続けたものだ、と自分に呆れ、自分を褒めているところです。これも、毎回煩わしい思いをして「南の風」にご掲載下さった小林先生のお蔭です。私の駄文は、時には中国漢字が日本に無かったり、転換ミスで誤字があったりしましたが、その都度先生に訂正していただいたのです。先生には多大なご迷惑をおかけしてきました。本当にありがとうございました。
 「南の風」は、皆さんの交流の広場でもあり、情報発信基地でもありますので、他の皆さまの掲載スペースを奪うことのないように、私なりに気遣ってまいりました。それに読者から見れば、長文は不興を買うのは明らかですね。それなのに、私は書き出すと毎回長文になってしまいます。
 本文は、30字、30行以内に収めるように努力しています。最初は、28字、28行を制限に書き始めますが、どうしてもまとまりません。そこで、私の持論「他人の眼」作戦を実行します。書き上げた文章は、お腹を痛めて産んだ我が子のように愛しいものです。ですから、文章の文法の間違い、主語のあいまい表現、くどい言い回し、などは「自分の眼」では、達成感と安堵感が重なり、なかなか直せないものです。
 でも書き上げてから2日も経つと書き手の眼は「他人の眼」になります。第三者の眼で推敲が可能となるのです。これは、日本の大学の試験で小論文を提出してもらう時に、私が学生に言い続けたことです。今、私はこちらの大学でも、同じことを言っています。でも、「言うは易く行うは難し」ですね。私は長文を短縮するのに、いつも四苦八苦しているのです。
 260号は、何を一番伝えたいのか、と自問自答を繰り返し、脂身を削いで、しかも無味乾燥にならないよう、小林文人流和歌の心を参考にしながら、悪戦苦闘した結果の成果なのです。皆さまありがとうございました。時々読後感想を送信して下さった方々にもこの場をお借りして、お礼を述べさせていただきます。(南の風2974号)

■烟台の風259号−異国の地で国会議事録に触れる (Sat, 13 Oct 2012 12:44)
 社会教育法改正を審議する「第169国会、文部科学委員会(平成20年5月23日)」で参考人意見を述べられた、田中雅文・日本女子大学教授と当時の社会教育推進全国協議会委員長の長澤成次・千葉大学教授のお2人のお名前を私はPCで偶然目にしました。
 4年前の古い記録ですが、たまたま違う参考資料を探していたら、私はこのサイトに行きついたのです。社会教育の現場を離れてから長い年月、海外生活4年目の私は、恥ずかしながら、この社会教育法改正の動向を知りませんでした。読み始めると面白いではありませんか。9時開会で11時42分に散会した長時間の委員会議事録です。委員会は渡海文科大臣出席のもと、3人の参考人と政府参考人の生涯学習政策局長が発言していました。参考人の1人、糸賀雅児・慶応大学教授は図書館について意見を述べ、G7諸国に比べ日本の図書館の貧しい状況を説明していました。「南の風2970号」で、山口真理子さんや、森田はるみさんが図書館を紹介した文章を感動的に読んだばかりの私は、愕然としたのです。
 参考人3者の共通意見は「専門職」の重要性でした。田中先生は、社会教育の今日的意義を述べられ、現代における公共の創造、ソーシャルキャピタルの蓄積、次世代育成と地域教育、の重要性を指摘されていました。長澤先生は、「住民の学習の権利と保障」のために、社会教育の自由、社会教育の民主的な発展の必要性を強調されていて、興味深く読ませていただきました。後半の文科委員(国会議員)との質疑も、委員の知識水準、日本の国民の社会教育に関する理解度、を知る上で参考になりました。川崎市選出の委員が「おやじの会」に触れていましたが、「地域教育会議」に言及されなかったのは、残念ですね。
 私が社会教育・生涯学習の講座担当なら、この議事録を、学生に読ませ、小論文を書かせるのに! 私が現役なら、職員研修や各種審議会、NPO、などにこれを配布し、社会教育計画の参考資料として活用するのに、と私は興奮したまま、深夜に床についたのです。(南の風2973号)

■烟台の風258号−海の旅の次は山登り(前回の続き−B) (Thu, 11 Oct 2012 13:42)
 私の学生は「魯東大学には海が無い、烟台大学には山が無い、でも山東工商学院には海も山も有る」と自慢します。事実、大学の東キャンパスは海岸に接し、西キャンパスの裏側には、小高い山がそびえています。北海道利尻岳から九州屋久島の宮之浦岳までを登頂した山好きの私は、かねてからこの裏山に登りたいと願っていましたが、チャンスに恵まれませんでした。広大なキャンパスの舞台背景となっている「鳳凰山(フェンファン・シャン)」と言う名のこの裏山は199.3mの美しい小山です。ちょっとしたハイキングコースですが、けっこう登りは厳しく登山道は未整備だと聞いていました。
 私は、長島旅行から帰ると、別の男子学生2人から誘いの電話を受けました。なんと6日(土)に、「鳳凰山」に登るというのです。一も二も無く私は快諾したのです。秋の晴天の裏山は、私の期待を裏切らないばかりか、十二分に私を満足させてくれました。秋を彩る野の花が色とりどりの花を咲かせ、私たちを歓迎してくれたのです。
 頂上から眺める雄大なパノラマの美しさ、烟台海岸の美しさに感動する喜びは、汗をかいた者にしか与えられない特権ですね。学生は、私を気遣いナップザックを背負ってくれたり、道なき道の岩坂で、手を差し伸べてくれたりしました。小休止の木陰で一人の学生がこの山にかかわる興味深い伝話を話してくれました。たどたどしく、ゆっくりとです。
 『昔、むかし、大昔、まだ人間がこの世に生まれる前のことです。森林にいろいろな鳥が沢山住んでいました。鳥のなかの鳥である王様が、ある日病気になりました。鳥たちは、心配して皆でいろいろ手を尽くしましたが、王様は良くなりません。鳥たちは知恵を出し合いましたが、良い考えが浮かびません。その時、賢い梟(フクロウ)が天の神様に相談したらどうか、と提案しました。相談を受けた神様は、王様を慕い、敬う鳥たちに感動し、「明日、太陽にぶつかる鳥がいれば、王様は回復する」と鳥たちに教えたのです。でも、どの鳥も皆怖がりました。その時、一羽の雀が勇気を出して太陽にぶつかりました。神様は感動しました。そして、太陽と雀のぶつかったところに山を創りました。それが鳳凰山です』。下山は「山には・・、海には・・」と、『あざみの歌』を唄ったのです。(南の風2971号)

■烟台の風257号−第2の「釣魚島」と海の幸(続き−A) (Sun, 7 Oct 2012 20:16)
 渡航船はおよそ40分で着岸しました。長島の付近には大小の島々が連なりますが、長島と小黒山島の間に、領有権でもめている「釣魚島」と同名の島が望めます。私は少し複雑な気持ちでしたが、予約してくれた学生によると、日本人教師と同行しても良いかと尋ねると、民宿では「大歓迎だ」と話したそうです。
 民宿の老板(主人)は、港で私たちを出迎え、満面の笑顔で島内観光地を彼の車で案内してくれたのです。この島には軍の基地が有るため、昨年まで外国人は入島できなかったそうです。1億年前のヒマラヤ造山運動で生まれた長島は地質の野外博物館です。「九丈崖」という名所は、石英岩と玄武岩が重なり合う断崖絶壁で、長年の波風に削られた、洞窟や階段状の岩の塊が、水平にまた縦に天高くそびえ立っています。大自然は偉大な彫刻家ですね。海の無い吉林省長春市と内蒙古赤峰市出身の2人の学生は興奮していました。島内は、どこも押し寄せる人の波が途絶えることはありませでした。「月牙湾」では、美しい石英の玉石を多くの観光客が競い合って採取していましたが、海岸入口には、「国家の貴重な宝の玉石を採取しないように」、と書いた掲示板が立っていたのです。
 海鮮料理をご紹介しましょう。3日の夕食です。アサリ、ムール貝、緋扇貝、海老、蟹を蒸した料理。中国特有の調味料を使わず、素材の味を引き出した塩茹でに近い味で絶品でした。そして、土豆(ジャガイモ)の千切り炒め、昆布の千切り炒め、魚の煮付、飯蛸の煮物にお粥と万頭2種類です。万頭に蟹味噌の塩辛をつけると食が進みます。老板は機嫌がよく再度追加料理をサービスしてくれました。
 翌朝は簡単で粥のスープ、5種類の漬物と万頭でしたが、昼食は豪華でした。鮑とホタテ貝の焼き物、ウニの鬼がら焼き、飯蛸の煮物、キューリの炒め物、クラゲの和え物、魚のスープ、ニラ入り万頭(包子)です。普段は少食の私ですが、この日ばかりは若者に負けない程大食いをして、舌鼓を打ったのです。 満足、満足!天国、天国!4日は午前中に「望夫礁」と「長島地質博物館」を見学して、本業が鮑とナマコの養殖の親切な民宿の老板に別れを告げて、私たちは帰途についたのです。二人の4年生に感謝、感謝。ー次回に続く− (南の風2969号)

■烟台の風256号−大渋滞・大混雑にキレた婦人の正論@ (Sat, 6 Oct 2012 20:19)
 私の中秋節、国慶節の10日間の連休は、当初計画していた旅行を領土問題の影響で中止をして、キャンパスに閉じこもっていました。すると、そんな私を気遣い4年生の男子学生2人が近くの島への1泊旅行に誘ってくれました。烟台市最大の観光地「蓬莱」の沖合に横たわる「長島」にです。宿泊は漁師が経営する民宿で、売りは「海鮮料理」です。
 3日の朝6時45分に大学を出発し、高速バスで9時半に蓬莱に到着しました。蓬莱市内は連休とあって、中国全国各地のナンバープレートの車の大洪水です。港までタクシーに乗ると、渋滞で身動きできません。すると、運転手はやおら車を歩道に乗り上げ、混雑する歩行者に警笛を鳴らし続け、走り出したではありませんか。交通整理の沢山の警察官も黙認です。
 勿論、蓬莱港も大混雑です。乗船券売り場は、ざわめきと怒号の修羅場です。いつ買えるとも知れない大行列に私たちは10時から並び始め、ようやく11時半に乗船券を手にしたのです。疲れを知らない私はこの有様を観察して一人楽しみました。
 その一つです。長時間並び、ようやカウンター近くまで辿り着いたご婦人が、若い武装警察官に怖い形相で噛付きました。それは厳しく列を整理している、沢山の警察官の一人が、赤い身分証明書と現金を列に並ばない人から受け取って、チケットを買おうとしたからです。彼女は、不正は許されない。ちゃんと並んで買え、と大声で怒鳴ります。若い警察官は、これは国を守る軍人だから優先するんだ、と言っています。
 私がこれを目撃したのは4人目です。この若い軍人は私服で恋人を伴っていました。公務での渡航ではありません。他の3人も私服の若き男性でした。実はその前に、ヨボヨボのお年寄りが身分証明書を提示して、その警察官に懇願していましたが、けんもほろろに断られ、列に並べと大声で指図を受けていた直後の4人目だっただけに、私は割り切れない気持ちになったのです。−次回に続く−  (南の風2968号)

■烟台の風255号−今年の「教師節」は胆石で幕開け(Tue, 11 Sep 2012 21:58)
 9月10日は、「教師節」です。国民が教師に感謝する日です。学内の掲示板にも大きな赤い文字で「教師節快楽」という掲示物が貼り出されています。大学の学部長からは贈り物をいただきました。中国・中央電視台(CCTV)では、9日・10日と二晩続けて特集番組を組み、全国各地の優秀な教師を映像で紹介していました。その教師と生徒たちが招かれた北京の祝賀会場からは、舞台で演じられている豪華な歌や舞踊を実況中継していました。紹介と表彰を受けた教師の多くが地方の貧しい山間僻地の少数民族の子どもたちが通う学校の教師でした。驚いたのは、両手の無い教師が腕に挟んだ白墨で文字や図形や絵画を書いて、子どもたちを教えていた映像像でした。
 優秀な教師の紹介は、義務教育だけでなく、気象学で学問的業績をあげた80歳代の元大学教師なども舞台に立ち紹介されていました。
 さて、私は前日9日の8時に楽しみにしていたTVドラマ「長白山下我的家」が教師節特番により、中止になったためなのか、深夜2時半に「胆石」が怒りの声をあげたのです。鋭い痛みで寝ることも横にもなれず起き上がり本を読み始めたのです。東京大学の姜尚中教授の自分史『在日』(講談社、2004)です。
 この本は私が昔読んで感動した本で、この夏休みに帰国した際に、私の朝鮮族中国人の優秀な女子学生にプレゼントをしようと持参したものです。拡大鏡片手に読み出すと止まらず、いつしか拡大鏡が曇り出しました。レンズを吹いても曇ったままです。なんと私は再読なのに、初めて読むかのように涙を瞼に溢れさせていたのです。もちろん胆石の痛みではなく、文章への共鳴・共感と感動・感激の涙です。ついに、10日は朝まで眠ることなく、読みとおし教師節を迎えたのでした。
 教師節は学生からの心のこもったプレゼントと、そして多くの学生からの祝賀と感謝の電話やメールを受け、私は全く眠気を感じる間も無い一日を過ごしたのです。いま贈り物を携えて私の部屋にやって来た学生が帰ったところです。再見、快楽!快楽。 (南の風2953号

■烟台の風254号−高価なドイツの漢方薬 (Sun, 9 Sep 2012 19:48)
 大変失礼しました。日本のPCの漢字表記に存在していると思って記述した「烟台の風」252号に文字化けを起してしまいました。皆さまお許し下さい。
 黒レン、白レンの「レン」は、魚篇に「連」です。コクレン・ハクレンというレンギョの別名「〇魚」は、魚篇に「庸」です。チョウザメの「〇鰉魚」は、魚篇に「尋」です。また「江〇魚」は、魚篇に「即」です。寿司屋の湯のみに書かれた魚篇の文字しか知らない私は、PCのIMEパッドの部首の魚篇の漢字の多さに驚嘆しました。でも、文字の意味が日本の魚と違う例が多いのですよ。
 さて、私は8日の土曜日に秋晴れの晴天に誘われるがまま、烟台市の繁華街の中心に有る「北京同仁堂」に足を運びました。用意した手書きのメモとたどたどしい中国語で、「胆石」の漢方薬を買いに訪れたのです。白衣の薬剤師は、早速大きな文字で「結石溶片丸」と書かれた薬の小箱を私に取り出しました。説明書きは、小さな文字で私には見えませんでした。
 大学の宿舎に戻り、私は拡大鏡で箱書きの説明を読むと、なんと「尿道結石」の薬です。大きく書いたメモを提示して、確認したのに胆石の薬と間違えた薬剤師を私は呪ったのです。すぐに私はバスで30分の道のりを拡大鏡を持参して、踵を返したのです。私の語気にも臆することなく女性薬剤師は「愛活胆通」という胆石の薬を取り出し取り替えてくれました。勿論、お詫びの言葉なぞは一言も無く。私は、箱書きを見てまたビックリ。製造はドイツの漢方薬です。
 高価な漢方薬より、TVドラマの「長白山下我的家」の方が私の健康には効能があるかもしれないな、と今夜の第13話・14話を楽しみにして、今薬を飲んだところです。 (南の風2952号)

■烟台の風253−朝鮮民族のドラマに我を忘れて Sat, 8 Sep 2012 11:05)
 中国の濃い油料理が続いていたのが原因なのでしょうか。私の下腹部(みぞおち)が深夜に痛み出しました。胆石です。胆石の痛みの特徴は、右下腹部の痛みが、背中にまで広がり鈍痛が走ります。勿論睡眠はままなりません。私の場合は、連日起きるのではなく、週に1〜2度突然襲われます。手術をする時間が無いので、漢方薬で散らそうかと考えています。どなたかご存知ですか。烟台にも「北京同仁堂」という有名な漢方薬店が有りますが、まだ時間が取れず訪れていません。
 さて9月3日でした。私は朝のTVニュースを付けたまま、講義の準備をしていた時です。長白山というアナウンスに私は気付き、直ぐ画面を見ました。なぜなら、私は7月の帰国時に「長白山(白頭山)」に登ったからでした。TVは今夜8時から始る新しいドラマ「長白山下我的家」の予告でした。朝鮮族の貧しい農民の娘がけなげにも家族を手助けしながら、苦労して朝鮮の民族舞踊を身に付け、やがて長白山芸術学校に合格し、本格的な舞踏家になる物語です。1日2話で2時間のドラマです。時代劇、抗日戦争、国共戦争のドラマが多い中国では、朝鮮族を主題とした異色のドラマです。
 ドラマは、せつなくも美しいメロディーと現代的リズムの歌詞に編曲した「阿里郎(アリラン)」で始まりました。冬の雪景色、早春のレンゲつつじの丘、杏子の花の小道、早苗の田園と筆舌に尽くせない美しい自然を舞台背景に織りなす三家族の家族愛、学校での厳しい指導教師との師弟愛、級友との友情と嫉妬、そして幼友達との透明な愛、と人間愛が全篇に繰り広がるドラマです。日常生活のチマチョゴリも素敵です。農村の人民公社で始められた識字学級などは、漢字とハングルが教えられていて、私の職業意識を呼び覚まします。
 見事な演技の子役から美しい青年女性への成長をとおして共通するのは、しなやかな体の動きと長鼓を奏でながら踊る見事な舞踊です。肩で踊り、手で踊り、バチを高く頭上に掲げて舞う姿に、私は胆石の痛みに襲われる悪夢を暫し忘れるのです。 (南の風2951号

■烟台の風252号−別れの川魚調理は (Thu, 6 Sep 2012 15:32) 
 中国の大学の新年度は9月に始まります。新入生は9月3日(月)からですが、実際には、在学生の授業は8月27日(月)から始りました。そのため、私は8月25日に大阪関空からの直行便で烟台に戻りました。烟台の気温は東京の酷暑と違いそんなに暑くはありません。ここ数日は15号台風の影響で悪天候が続きました。
 到着翌日の26日の夜は、私の再来を歓迎して、友人の趙京雨さんご夫妻が四川料理店で祝宴を催してくれました。そして翌朝は、天然温泉のかけ流しの湯「龍泉温泉」に連れて行ってくれたのです。
 ところが、26日に再会を果たしたばかりなのに趙京雨は、なんと29日には河北省の石家庄に出かけ、半年は戻れないというのです。彼の実母の故郷でお母様の介護をするのだそうです。
 またもや、私の好きな人との別れです。そんな訳で、27日の夜は急遽、趙さんの友人も招いて送別の宴を私は開いたのです。宴席は、私が魚料理が好きだというので、趙さんの友人の王さんが「三江魚村」というレストランを予約してくれました。三江というのは、黒竜江(アムール川)、松花江、鳥蘇里江(ウスリー川)、というロシア国境近くに流れる大河をいい、この地方を三江平原と呼びます。この黒竜江省の大河で採れた大魚を食べさせる店を訪れたのです。中国の北部では、海水魚より淡水魚を食べます。魚は、私が今まで見たことのない大きな魚をブツ切りにして野菜と一緒に大鍋で煮るのです。
 皆さんは、次の魚の名前が分りますか。「馬哈魚」「◇(魚篇に尋)鰉魚」「青根魚」「江鯉魚」「懐頭魚」「胖頭魚」「江◇(魚篇に即)魚」「嗄牙魚」です。?鰉魚は、チョーザメです。三大珍味のキャビアを産む魚です。馬哈魚は鮭科の魚です。青根魚は青魚ともいい中国四大家魚だそうです。四大家魚とは、「青魚」「草魚」と「黒?(コクレン)別名(?魚)」そして「白?(レン魚)」。
 この日は、珍しくて美味しい魚料理と、53度の白酒「分酒」と、朋友の笑顔に包まれながらも、どこか寂しい別れの宴となったのです。 (南の風2950号)


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■烟台の風U(2010〜)  94号〜171号→■
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【急告・訃報】
 伊藤長和さんは、2013年7月、中国烟台での4年間の任期を終え帰国されました。しかしその直後より胆管ガンのため入院加療、一時快方に向かわれましたが、その後病状必ずしも好転せず、2014年2月16日12時46分、惜しまれながら永眠されました。ここに生前のご活躍を称え、謹んでご冥福をお祈りいたします。
(TOAFAEC 小林文人)
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2012七夕の会 (20120715)