★伊藤長和・烟台の風V(2011年8月〜 南の風・記事
  *中国・山東工商学院 外国語学部
 
烟台の風W252号(2012年9月)〜→■

 *烟台の風U(2010年8月〜2011年7月)→■
 
*烟台の風T(2009年4月〜2010年7月)→■


TOAFAEC-第175回研究会:伊藤長和さん(前列・左端)の一時帰国を祝って (高井戸、20110818) *カメラ・江頭晃子




■烟台の風252→■




■烟台の風251−長春市に見る満州国の史跡B (Sun, 22 Jul 2012 12:54)
 …(前回に続く)… 長春駅近くの長江路から下ること5分で、「満鉄図書館旧址」にぶつかります。1931年建設、1934年に拡張と解説されていました。さらに下ると、日本の城郭建築のような屋根の建物が現われます。ここは現在、「中国共産党吉林省委員会」が使用している「関東軍司令部」の建物です。長春で最大の史跡は、なんといっても、「偽満皇宮博物院」です。満州国皇帝の溥儀が暮らしていた施設と執務を執った施設が広大な敷地に建造されており、庭には馬術用の馬場もありました。皇宮に隣接して、博物館「東北淪陷史陳列館」が設置されていました。
 博物館の入り口には、江沢民の文字で「勿忘“九・一八”」と壁一面を飾る大レリーフと、抗日救国の歌「松花江上」の歌詞が展示され、「日本侵略中国東北史実展覧」と表示されていました。これまで私は中国各地で抗日戦争関連の博物館を訪れましたが、ここの贅を凝らした宮殿と対比させて、残酷で残忍な日本軍国主義の多くの展示物には圧倒されてしまったのです。観覧者の発する「リーベン(日本)」という言葉を聴くたびに、私は「グサッ」と胸を突かれる思いがしました。展示室の最後に書かれていた解説文「歴史的反思」を紹介します。
 「日本の敗戦後、一貫して広い心を持って善行をなしたことで知られる中国人民と中国政府は侵略戦争の傷を一日も早く癒すために、自ら一連の人道主義的な方法で日本の残留孤児も養い、日本人の戦犯を改造・釈放して、中華民族の心の広さをあらわした。しかし、今日の日本では、一部の人々が侵略の罪行を否定し、さらには、それを美化さえしている。これは中国、アジア、さらには世界の人民の憤慨の抗議を引き起こされずにはおかれない。歴史を鑑として、未来に向かう私たちは、日本及び全世界の平和を愛す人民と手を携えて、戦争に反対し、世界平和を守り、人類の発展を促進するために共に努力することを心から願います。」  *南の風2922号 (2012年7月23日)

■烟台の風250−大自然と侵略者の史跡A (Fri, 20 Jul 2012 13:39)
 …(前回に続く)… 雪岳山も金剛山も私は自分の足で登頂したのですが、なんと長白山は頂上付近まで、専用のミニバスで登るのです。登山口に観光バスが到着すると、自然環境保護のため、公園の専用バスに乗り換え、更に途中で山岳路用の専用ミニバスに乗り換えます。最終地点の駐車場から頂上までの僅か200mぐらいのガレ場を自分の足で登るのです。
 天池湖を眺める火口の縁は、観光客で大混雑です。遠く韓国から修学旅行でやって来た高校生の集団もいました。記念写真を撮っていると、たちまちガスが湧き上がり天池湖を隠します。私は急いで下山し、「長白山瀑布」を訪れました。70mの落差の滝は、連日の雨天で水量が増し、迫力満点でした。
 長白山は休火山です。川床のあちこちで温水が吹き出ています。温泉玉子を食べて、温泉に浸かって外に出ると、にわか雨に襲われました。観光バスは、松花村の朝鮮族の農家と鹿牧場を訪れ、延吉に向けて帰途についたのです。吉林省は人口の30%は朝鮮族だそうです。訪問した農家は半島から移り住み4代目だそうです。
 長春への復路も往路と同じ夜行寝台快速列車でした。今回の私の長白山への旅の目的の一つは、満州国時代の史跡に触れることでした。長春市は日本が侵略して建国した満州国の首都「新京」。長春の街を歩くと、現在でも使用されている旧満州国時代の政府機関の建物が点在しています。駅で市内地図を買い、私は一人で歩き回ったのです。
 長春駅前のホテル「迎賓楼」には、「大和旅館旧址」と文化財の掲示がありました。そこから駅前の幹線道路「人民大街」を下ると、繁華街の長江路に出ます。そこは、当時「新京市」最大の繁華街(銀座)の「吉野町」で、近くの黄河路は「三笠町」、珠江路は「祝町」、1908年に「日寇強迫苦工」と掲示板に書かれていました。私は、戦後生まれですが、こうした史跡に出会うと複雑な感情が湧き上がったのです。(次回に続く)
*南の風2921号 (2012年7月21日)


■烟台の風249−長白山の女神は我を見捨てず @ (Mon, 16 Jul 2012 18:37)
 本年夏の中国東北地方の天候は不順です。長白山初登頂の7月6日までの10日間ほとんど悪天候でした。私は心配のあまり烟台で週間天気予報を毎日確認していたのですが、登頂日の6日の予報も最悪でした。前日の5日、長春は夕方から雨天となりました。
 しかし長白山の女神は我を見捨てず、登頂日は快晴となったのです。長白山の女神が私に微笑んでくれました。長白山の山頂には有名なカルデラ湖の「天池」が美しく広がっていますが、気象条件でなかなか姿を現しません。しかし、私が火口の縁に辿り着くと、その全容を披露してくれました。コバルトブルーの湖面は、天池怪物が潜んでいるような神秘的な雰囲気を漂わせていました(天池怪物:ネス湖のネッシーの中国版コピー)。
 今回私は、夏休みの日本一時帰国を利用して、中国吉林省と北朝鮮の国境に跨る「長白山(チャンバイシャン):2744m」を訪れたのです。中国名の長白山は朝鮮名で、「白頭山(ペクトゥサン)」といい、満州族と朝鮮族の聖地・聖なる山です。朝鮮半島の三大名山の一つです。
 私は、これまで三大名山は韓国の雪岳山(ソラクサン:1708m)」と北朝鮮の「金剛山(クムガンサン:1638m)」に登頂しましたので、今回で三大名山・完全踏破となります。雪岳山に変えて「智異山(チリサン:1915m)」をあげる人もいますが、私は韓国全州市の友人と智異山にも登頂しており、完全踏破には違いないのです。あと残すのは、半島ではありませんが、韓国で最高峰の済州島の「漢拏山(ハルラサン:1950m)」が未登です。でも、私の年齢からみて、もう登山は無理でしょうか。
 今回長白山には、烟台空港から長春空港まで飛行機で飛び、長春空港から高速鉄道(新幹線)で長春駅に向かいました。この列車は吉林から長春までを結んでいる「和諧号」です。長春駅からは夜行寝台快速列車で8時間半かけて延吉駅に行き、さらに観光バスで4時間ばかり乗り長白山の登山口に到着したのです。(次回に続く) *南の風2920号 (2012年7月19日)

■烟台の風248捨てる神あれば拾う神あり (Sun, 1 Jul 2012 22:50)
 29日、卒業シーズンの週末とあって、「烟台駅」の乗車券売り場は超満員でした。私は、河南省の商丘市と甘粛省の白銀市の故郷に帰る女子学生の李雨萍さんと路喩喬さんを見送りに来たのです。
 二人は今年の9月からは南京大学と西安外国語大学の大学院生です。同じ列車に彼女たちは乗ります。列車は15時半に出発して、商丘駅には翌朝の6時14分に到着します。およそ14時間44分の長旅です。
 ここで、大学4年間の同級生であり、同じ寮の同室で暮らしたルームメイトの路喩喬さんとは李雨萍はお別れです。路喩喬さんは、なおもこの列車に乗り続け、終着駅の西安駅には13時35分に到着します。私はいまPCを打っていますが、こうした今も、彼女はまだ列車の中で揺られているのです。西安駅までは、ちょうど24時間5分かかります。彼女は西安で1泊して翌朝7時17分発の列車で蘭州駅に向かいます。列車は8時間53分かかり、ようやく16時10分に蘭州駅に到着です。そこからバスに乗り2時間かけて、故郷の白銀市に着く(3日目の1日、18時に無事到着の電話有り)のです。
 私は二人と改札口で別れてから、駅前で買い物をしていると、路喩喬さんからの電話です。「今列車に乗り込みました。先生お世話になりました。先生のお蔭で大学院にも行けます。本当にありがとうございました。先生も健康で長生きをして下さい。私の結婚式には是非来て下さい。それから先生はあまりお酒を飲まないように。」とでした。ポッカリあいた私の心の穴に熱いものが流れました。その前日の夜中には、黒竜江省の牡丹江市に帰る卒業生の別れの電話を、大連に渡る船から受けて、涙を流したばかりでした。
 その夜は、私の寂しさ、悲しさを、知ってか知らずか、私の友人の趙京雨さんからお誘いです。市内の高級四川料理店へです。あまり酒を飲むな、と言われても今夜は飲むぞ! すると宴席に「明日先生とお会いしたい」との電話です。昨年卒業して、現在日系企業で働いている碌秋月さんからでした。偶然とは言え、私を慰める二人の行為がとても嬉しくて、こんな状況では使わないのでしょうが、とっさに「捨てる神あれば拾う神あり」、という言葉が私の頭を過ったのです。
*南の風2912号 (2012年7月3日)

■烟台の風
247国際的研究交流の有り方は…A (Fri, 29 Jun 2012 13:40)
 …(前回に続く)…13本の研究発表を1日で行うのですから、かなりハードスケジュールですね。気になったのは、1970年代初頭から朴正熙大統領によって主導された韓国のセマウル運動を、いまだに高く評価をする研究者(韓国現代化研究所所長)がいることに、私は驚きを隠せませんでした。実は開発途上国では、農村部と都市部の生活水準の格差解消が愁眉の課題となっていて、韓国の軍事政権下で進められたセマウル(新農村)運動に注目する国は多いのだそうです。中国も臨海部の都市に比べ、内陸部の農村の生活水準は低く、これを解決する方策の一つとして、セマウル運動に注目しているのでしょう。
 しかし、農村の生活水準の向上に大きな役割を果たしたとは言え、1972年の維新体制の基盤を支えたセマウル運動を否定的に評価する韓国の研究者も少なからずいることを紹介すべきだったでしょう。それでないと、単なる報告会で学術会議ではありません。
 次に、学術交流、学術会議の意味を理解していない若い研究者がいたことも、今後の東アジア研究の在り方に大きな課題を提起したと私は考えています。それは、韓国と中国の黄海での漁場をめぐる紛争を取り上げたことです。研究発表と言うより、文革時代の紅衛兵の演説でした。政争の具を研究の場に持ち込むのは、ただ参加者の感情を損ない、友好を破壊する以外の何物でもないのです。勿論、歴史学会が歴史認識を論議することは当然ですが、社会学が領海問題を取り上げる意味が私には解らないのです。
 今後は、国の体制の違いを乗り越えて、東アジアの諸国が共通する研究課題と個別の独自課題を論議すべきではないでしょうか。共通課題は、少子高齢化社会、外国人労働者と多文化共生、医療と福祉と教育、環境問題、などがあげられ、日本の個別課題としては、原子力エネルギ―と持続可能な社会の創造、あるいは危機的状況における、自助と公助と共助、などがあげられるでしょう。
 面白かったのは、西原和久(日本社会学理論学会:成城大学)会長が東日本大地震で女川町・佐藤水産の佐藤専務が自ら犠牲となって中国人女性研修生を救った話を披露したことと、合わせて研究発表のまとめで、国際的支援活動の経験を踏まえて、「脱国家交流」として「国際交流から人際交流へ」、と問題提起をなさったことでした。これは市民社会の到達点として理解できますが、中国に市民社会が根付くには大変時間がかかるでしょうから、実に大胆な提起であったと私は思ったのです。*南の風2911号 (2012年7月1日)

■烟台の風246−東アジアは世界の発展に…@ (Tue, 26 Jun 2012 08:52)
 山東工商学院の「東亜社会発展研究院」と山東省の社会学会が共催する「第2回東アジア社会発展学術研討会」が6月16日(土)に、大学が経営する順泰ホテルの大ホールで開催されました。私は昨年に引き続き参加させていただきましたので、ご紹介いたします。
 この東亜社会発展研究院は、本大学に設置された23の科学研究院の一つで、中国で初めて設立されたものです。前日の中日韓、3国の社会学研究者への歓迎会は豪華盛大に行われました。当日は、朝8時半から開幕式が林明鮮(東亜社会発展研究院)院長のもとに始りました。魏金陵(大学党委)書記の歓迎の辞に続いて、日本側から矢澤修次郎(日本社会学会会長:成城大学)教授、韓国側から金益基(韓国東国大学)教授がご挨拶なさいました。印象的だったのは、矢澤教授が「2014年に横浜で世界社会学会を開催する」と述べられたことと、金益基教授が「20回以上、烟台を訪れている」と触れられたことです。
 続いて、李培林(中国社会科学院社会学研究所)所長、李善峰(山東社会科学院社会学研究所・山東社会学会会長)所長がご挨拶なさいました。李善峰先生は、「アジアと太平洋地域は世界の政治・経済・文化の中心となる日は遠くはない、中日韓の三国を中核とした東アジアは世界の発展に大きな影響を与えている。そのために、三国間において高いレベルの学術交流活動を行いたい。」、と国際研究交流の意義を語り、山東省の社会学会を代表してご挨拶されたのです。今回の研究発表は13本です。(敬称略)
 @矢澤修次郎「東アジア社会学比較史」、A李培林「中国の経験と新たな発展段階」、B張元浩「都市再生の新様式、ソウル市の街のダイナミックスな場景」、C 林聚任「村の合併と農村社区化発展研究」、D韓道鉉「セマウル運動の価値の循環と持続性(新しい地域運動)」、E劉永策「都市における在宅老人と養護施設老人の扶養満足度の比較分析」、F唐国建「資源再分配と海洋漁民の行為選択〜<中韓漁業協定>及び漁船と警備艇の衝突事件を例に〜」、G呂如敏「都市社区老人の社会的孤立と孤独感の対比研究」、H西原和久「東日本大地震における外国人居住者と国際支援の問題」、I崔風「“主動低保”*と都市住民の最低生活保障制度“身分化”」、J李相起「東北アジア発展と言論の役割」、K金益基「韓国の投資と中国山東沿海都市の発展」、L林明鮮「山東省の家族と結婚の満足度」、です。(次回に続く) *印・偽りの最低生活保障の申請。*南の風2909号 (2012年6月28日)

■烟台の風245−中国各地のチマキの味は・・・(Sun, 24 Jun 2012 20:07)
 6月23日は屈原に由来する「端午節」です。旧暦の5月5日で、中国の各地で龍舟「ドラゴンボート」のレースが行われました。中国中央電視台(CCTV)でも、朝からレースの実況中継をしておりました。筋骨隆々と上腕筋の盛り上がった男性のグループから女性のグループと別れて、2百メートルと5百メートルのレースが行われていました。勇壮なレースで龍舟には漕ぎ手が2列で20人と、舵取りと太鼓打ちと指揮官が乗っていて速さを競います。
 今年は土曜日と祝日が重なったため、前日(22日)の金曜日からの3連休となりました。端午節は粽子(Zong si:チマキ)を食べる日です。数日前から、いろいろな粽子が店先に並べられます。路上の俄か商人のおばさんも、手づくりの粽子を籠に入れて、行き交う通行人に声をからして呼び掛けています。
 21日の夕方には、一人暮らしの私を気遣い、西安の4種類の粽子を老朋の趙雨京さんが私の部屋まで届けてくれました。その夜と翌朝の私の食事は粽子を二つづつ食べたのでした。端午節当日の23日は、私の部屋で3人の4年生の女子学生と前日スーパーで買い求めた粽子で祝日を祝う昼食会を開きました。
 3人は28日に烟台を離れ、それぞれの出身地に帰ります。黒竜江省と河南省と甘粛省です。28日には卒業生は全員寮を退出しなければなりません。3人との談笑を終え、私は3人の「一生平安」を祈り玄関に送り出した後、ソファーで一休みしていると、今度は3年生の男子学生からの電話です。彼の恋人の故郷から粽子を送ってきたので、これから私の部屋を二人で訪れる、と言うのです。
 彼女の故郷は遠く福建省の厦門(アモイ)です。貴重な故郷の味を私におすそ分けとは、ありがたいですね。厦門の粽子は焼肉が包まれていました。微妙に各地の味は違います。という訳で、私の4日間は「紅棗粽、五谷粽、玉米板栗粽、紅豆沙粽、蛋黄蓮蓉粽、栗子鮮肉粽、焼肉粽、小米粽」、という各地の粽子が私の胃の腑を喜ばしたのです。「伊藤はどれが好き?」ですか。それは、内緒です!心のこもった味はまた格別ですから。
*南の風2907号 (2012年6月25日)

■烟台の風244−カラオケも方言で歌いますかA
(Wed, 20 Jun 2012 20:50)
 …(前回に続く)… 禁忌語で面白いのは、餃子の具が足りない時、「菜不*c(ツァイプゴゥ)」とは言わずに、皮が余るの「剰面了(ションミェンルォ)」と言うのだそうですが、その理由は、「菜」と財産の「財」の発音が同じ「cai」で、財産が無いという不吉な言葉になるからだそうです。同音異義語でも縁起を担ぐわけです。 *c〜句の右側に多。
 お年寄りが「亡くなる」は、「死了(シ ルォ)」と言わず、「老了(ラオルォ)」と言います。また、春節(正月)の時は、ロウソクを消すことを「吹死(チュイシー)と言わず、「止?*d(チィラ)」と言うのだとか。餃子を茹でている時、皮が破れると、「破了(ポルォ)」ではなく、「*e了(ジョンルォ)」と言い、「*e」は金を稼ぐという意味だからだそうです。 *d〜虫へんに昔。 *e〜手へんに争。
 中国には、有名な七大方言が有ります。1.北方方言(北京語など)、2.呉方言(上海語など)、3.*f(ビン)方言(アモイ語など)、4.粤(エツ)方言(広東語など)、5.客家(ハッカ)方言(客家語など)、6.湘方言(湖南語など)、7.*g(カン)方言(南昌語など)、です。北京の方言で有名なのは「儿」化と言い、語尾をアールと巻き舌にする特徴があります。  *f〜門がまえのなかに虫。*g〜へん(文字の左側)に章を書き、左側に冬かしらを書いて、下に貢を書く。
 学生寮のルームメートが地方の家族と電話で話す会話は、全く他の学生には分からないそうです。また先日、山東省済南市の出身の女性が湖南省の長沙で恋人の家族と暮らすことになったのですが、家族の会話が全く分からないと嘆いていました。先般、学生とタクシーに乗った時、なかなか車を出さず、運転手が学生と話していました。後で学生に聞くと運転手は標準語ではなく、きつい方言で話が通じなかったのだそうです。広大な中国の遠い地方ならともかく、北京(標準語)に近い、烟台でも方言が有るのですね。でも、若い人は知っているのかな?
 そうそう、思い出しました。先日4年生とのお別れ会でカラオケに行った時です。画面の歌詞が2段で青文字と赤文字が現れました。男女のデュエット曲かと、私は学生に尋ねると、なんと標準語と広東語の歌詞だと、教えられたのです。え〜え! *南の風2904号 (2012年6月21日)

■烟台の風243−烟台にも方言が有った@
(Sun, 17 Jun 2012 16:21)
 路上の古本屋で、『黄海明珠芝罘*a』(Huang Hai Ming Zhu ZHI FU)という本を私は見つけました。ヨレヨレのうす汚れた本でしたが、私にとっては掘り出し物です。3元で求めました。1987年に出版された、160頁の郷土資料です。芝罘(チーフ)とは、烟台市中心街の行政区の地名ですが、清国が鎖国を解いた時の最初の開港地の烟台は、当時海外からは芝罘と呼ばれていたのです。*a〜四の下に不。(a,b,c,d,は日本で使われない漢字)
 その語源は、今は陸続きとなっている「芝罘島」からきています。秦の始皇帝がここに3回巡幸していますが、4回目は、近くまでやって来ていたのですが、豪雨で訪れることができなかったことから、漢字の四と不を組み合わせ、4回は無いという文字を作った(地方漢字)のだそうです。この本に、「烟台の方言」が掲載されていましたので、ご紹介しましょう。
 「芝罘語は、北方語に属していて、発音は比較的簡単で、標準語に近く、分かり易くて綺麗な言語である。しかし、なかには地方色彩の濃厚な独特の用語法を持っている」と紹介して、生活用語、称呼語、禁忌語、の具体例を記述しています。「生活用語」で面白いのは、「お腹が空いた」は標準語では「餓了(ウォルォ)」ですが、方言では「飢困了(ジ クンルォ)」と言い、「ご飯を食べる」は、「吃飯(チーファン)」ですが、これを方言では「逮飯(ダイファン)」と言うのだそうです。
 「借金をする」という「負債(フ ザイ)」は方言で「拉飢荒(ラジフゥアン)」で、「ぼんやり・愚か」の「糊*b(フゥトゥ)」は「二二虎虎的(アルアル フフ ダ)」と言い、「たいへん」の「非常(フェイチャン)」、あるいは「很(ヘン)」は、「玄了(シュアンルォ)」と言うのだそうです。*b〜さんずいに余。(次回に続く) 
 *南の風2903号 (2012年6月20日)

■烟台の風242−海岸のバーベキューパーティー (Sun, 10 Jun 2012 08:36)
 昨日の朝は雷鳴を伴う激しい降雨でした。その夜は3年2組の学生たちが海岸で私たち2人の日本人教師のためにバーベキューパーティー開いてくれる予定でした。1限の授業でクラス委員長が、私の顔を見るなり、すまなそうに「先生、今日のバーベキューは中止にさせて下さい」と言いました。
 ところが、秋のイギリスの天気に勝るとも劣らない烟台名物のクレージーウェザーです。あんなにも激しかった雨が午後にはあがり、青空となったのです。私は、クラス委員長から予定通り実施する旨の電話を受けた後、私を迎えに来た趙卓君と一緒に海岸に向かいました。
 途中で私は、三輪リヤカーに「雪花」生ビールの大樽と焼き鳥屋が使うような鉄製の大きな炭火コンロと沢山の食材を積んで運ぶクラスメートに遭遇したのです。彼らの大がかりな準備に驚かされました。学生の街の烟台海岸は、卒業シーズンとあって、夕方の5時でも満員です。あちこちで炭火が炎を上げています。烟台大学の学生、山東工商学院の学生と、雨上がりの海岸は夏の江の島海岸のような賑わいです。
 早速私たちも炭火熾しを始めました。私と大沼正子先生が参加するとあって、男子学生4人、女子学生16人と総勢22人の賑やかな酒宴となりました。生イカ、サヨリの干し物、鶏、豚、牛、と様々な肉、青唐辛子、ニラ、茄子、をはじめいろいろな野菜を全て串刺しにして焼きます。素早く手返しをして味付けをします。山のように買い込んだ食材が次々に焼かれ、それぞれ参加者の口に運ばれます。生ビールが美味い。焼き鳥が美味〜い。
 砂浜で輪になってゲームが始まりました。なんと、ハンカチ落としです。嬌声をあげて笑いこげ、大声で応援をし、罰ゲームでは声を張り上げ、歌を歌う学生はまるで童心に返ったようです。私も罰ゲームで「大海」「朋友」を歌いました。ゲームが終了すると、また焼き鳥とビールで乾杯です。満腹、満腹です。教室では普段大人しい彼が、彼女が、率先して炭を熾したり、焼き物をしたりと、気ぜわしく、甲斐甲斐しく動き回る姿に、教師としての私の学生を見る目は反省させられたのです。*南の風2899号 (2012年6月13日)

■烟台の風241−中国映画の鑑賞は英語で (Sat, 9 Jun 2012 15:45)
 アメリカ人の青年教師のキャメロン(26歳)から映画鑑賞に誘われました。彼は、私と最初に会った時のあいさつで、黒沢明の映画ファンだと自己紹介をした物静かな青年です。私とアメリカ人教師6人が夜8時半から上映された中国映画の「僕は11歳」を鑑賞したのです。
 この映画は昨年の秋の東京映画祭で話題を呼んだ中国とフランスの合作の作品で、王小帥という新進気鋭の監督の作品です。映画の舞台は、貴州省の山深い田舎です。ストーリーは、文化大革命の末期に思春期を迎えた11歳の少年を取り巻く物語です。少年が密かに憧れていた少女が、党の幹部によって凌辱され、彼女の兄がその幹部を殺し、山に逃げ込みます。山狩りが始ります。少年は谷あいの川で友だちと遊んでいましたが、いさかいをして別れます。その時、山に隠れている少女の兄に遭遇するのです。少年は彼のことを秘密にします。
 少年の父親も少女の父親も文革で保守派として糾弾されている身の上です。物語は静かに進行します。子どもたちは無邪気に路地裏で遊んでいます。缶けり、鬼ごっこ、と私の子どもの時と同じ遊びです。そうです、路地裏に自動車が入り込んでこない時代の子どもの遊びです。日本も中国も子どもたちは同じ遊びをしたのですね。犯人はやがて捕えられて死刑が執行されます。この場面は映像ではなく、村の拡声器による音声だけです。
 この映画は、文化大革命を真正面から捉えて批評するのではなく、思春期の少年の目を通して、生活の延長線で描き出しており、爽やかさを感じさせています。少年は山中で雨に降られ、少女に着替えを手伝ってもらいます。やがて少女は、父親と上海に旅立ちます。別れのあいさつを少年はできません。
 映画は1975年1月8日に周恩来が、7月6日に朱徳が、9月9日に毛沢東が死去した、と最後に記載して終わりました。画面下には、中国語と英語が併記された字幕が書かれていましたが、残念ながら気が付くと、私の目は英文を追いかけていて、中国語能力の低さを嘆いての映画鑑賞でした。
 *南の風2898号 (2012年6月11日)


■烟台の風240−教師もつらいお別れ (Mon, 4 Jun 2012 08:21)
 外国人教師との飲み会が3日続けて開催されました。30日(水)は外国語学部主催の懇親会で、本場の「魯菜」です。魯は山東省の歴史上の国名でしたから、山東料理です。北京の宮廷料理人は山東省から派遣されていましたので、北京料理の原点ですね。老舗のレストラン「蓬莱春」は烟台市民の憩いの場所の「南山公園」の近くにありました。普段私が口にしている塩と油の多い中華料理とは違い、素材の味を生かした、あっさり味の美味しい料理でした。
 翌日の31日(木)は、アメリカ人教師のイザベルさんに誘われて、大学南門近くの清泉青空市場の広場でのビヤガーデンに行きました。ビーチパラソルの下で焼き鳥と生ビールで乾杯です。この日は夕方から濃い霧に包まれ冷え込みが厳しかったのですが、数10人のアメリカ人教師は元気一杯でした。
 そして、3日目の6月1日(金)は、大学の国際交流センター主催の懇親会です。アメリカ人教師の多くが今期で任期を終えて帰国するので、送別会の意味も込められていました。ここのレストランは「青島ビール」直営店で、ガラス製の巨大な生ビールタンクが売り物です。大型ビールジョッキーに何倍も注ぐことが出来る大きさです。黒ビールと普通のビールの巨大なタンクがテーブル据えられました。若きアメリカ人の女性教師は良く食べ。良く飲み干し、良く喋りまくります。
 卒業を迎える学生たちも、別れを悲しんでいますが、ドライなアメリカ人教師も、やっぱり別れはつらいのです。でも、私は3日間の英語の洪水に「ここは中国だ、少しは中国語で話せ!」と言いたい気分に襲われました。でも、アラバマ州出身のイザベルさんだけは別格です。日本の北海道大学で2年、北京大学で2年英語を教えていただけあって、日本語も、中国語も堪能で年配な親分肌のスーパーレディーです。
 もちろん、声も大きく、ビールは底抜けの強さです。若いアメリカ人教師たちは、英語教育というよりも、ワーキング・ホリデーのような感覚で、旅行を楽しむために中国に来て、1年で帰国してしまいます。あの美しい彼女も帰ってしまいます。再見! *南の風2895号 (2012年6月4日)

■烟台の風239−つかの間の再会、そしてお別れ (Sun, 27 May 2012 12:15)
 突然、携帯電話が鳴り響きます。4年生の范傅鵬君からでした。3時半に来てくれというお誘い。4年生とはあと数日でお別れですから、私は期末試験問題の作成を投げ出し、万難を排して出かけたのです。
 先ずカラオケです。私と男子学生5人と女子学生4人の10人です。彼ら4年生も皆、各地の就職先から久し振りに大学に戻り、卒業前の卒業論文審査のために登校したのです。男性も女性も声を張り上げての熱唱です。4年間の級友とのつかぬ間の再会の喜びと、別れの悲しみを、それぞれが思いっきり歌にぶつけているようです。私もリクエストに応え、「昴」を歌いました。
 実は、カラオケは前座で、本番はなんと范傅鵬君の誕生日のパーティーだったのです。6時半から、レストランへと会場を移しました。遅れて参加する7人が到着して乾杯です。全員で17名です。大きな円卓に16品の山東省料理が豪華に並びました。遅れて来た学生の中には、私を手こずらした王海龍君もいました。
 彼は背が高くてハンサムです。でも学業はからっきし駄目でした。よく卒業を迎えられたと驚きです。もっとも、中国では「学士」の学位と卒業とは別です。大学を卒業しても学位を取得できない学生も多いと聞きます。75点以上の成績を収めないと学位は授与されないのです。
 昨年の11月頃から就職活動に入り、就職先が決まると、その会社で実習と称して働いていたわけですから、彼らも私も久し振りの再開です。私たちは再開と誕生日の二重の喜びを味わったのです。范傅鵬君は立ち上がり、全員と次々にグラスのビールを飲み干す乾杯を繰り返します。円卓を何周にもわたって。
 ゲストの私も同様に16人と中国式一気飲みの乾杯です。前回の赤峰市の宴席は、38度の「白酒」での乾杯の連続でしたから、私はダメージが大きかったのですが、今回はビールですから大丈夫でした。笑顔の美しい梁娜さんは、故郷の西安の企業に就職しました。故郷で仕事を得ることができる学生は稀なので、私は「君は幸せだ、親孝行だ!」と祝福したのです。すると彼女は「Uターンできて嬉しい」と応えました。ビールクイーンの彼女も乾杯の連続でついに潰れました。*南の風2890号 (2012年5月28日)

■烟台の風238−吹き飛んだ講演会は大盛況A (Thu, 24 May 2012 09:31)
 …(前回の続き)… 副学長の司会のもと、2人の通訳が登壇しました。広島大学の大学院で博士の学位を得たアラタ女史と首都大学東京の大学院で博士の学位を得たトクタホさんです。事前に送った私のレジュメは、トクタホさんが中国語に翻訳し、参加者には日文と中文の2種類が配られました。私は、挨拶と自己紹介は中国語で話し、本論はもちろん日本語で展開しました。最初に「センベイノー(こんにちは)」とモンゴル語で挨拶すると、ドット声が湧き上がりました。
 万雷の拍手で迎えられた講演会の2時間はあっという間に終了し、再度、私は万雷の拍手で送り出されたのです。参加者は全学部の教師と学生でしたが、講演会終了後に突然、教育科学研究学部の教師たちと意見交換会を行いたいので、是非討論に参加して欲しいという依頼を私は受けたのです。大任を果たし、ホットしている間もなく、大勢の先生方の感想、質問、意見を受けて、一方的に終わるはずの講演会から学術交流会の一端に私は関わらさせていただいたのでした。
 質問は、「中国、日本、韓国の教育の共通点と相違点」「家庭教育と学校教育の連携のための高等教育の役割について」、といった難しい話題でした。それにしても連休明けの初日だというのに、皆さんは実に熱心ですね。私も貴重な経験をさせていただきました。非情に感謝!感謝!(ヘイチャン、カンシェー)。
 講演会当日の午前中は、西安の博物館をモデルに建てて、昨年新館として開館したばかりの赤峰市博物館を、赤峰学院教育科学研究学部長と館長(書記)さんの案内で見学しました。中国新石器時代の「紅山文化」からはじまり、契丹や蒙古の歴史が見事に展示されていて、とても圧巻でした。烟台市の博物館も昨年同様に新館が開館したのですが、資料の質量、展示の手法、解説と照明、など赤峰市の博物館の方がはるかに、勝っていました。両市の博物館の共通点は入館料が無料ということと、ミュージアムショップで図録が販売されていなかったことです。私は展示資料の図録が欲しい〜な!*南の風2888号 (2012年5月25日)

■烟台の風237−中止の講演会は大盛況@ (Sat, 19 May 2012 15:28)
 私の赤峰学院での講演会は砂嵐のために吹き飛んでしまいました。27日に到着して、その夜大学の歓迎会、翌28日の午前中が赤峰市博物館の見学、午後が講演会だったのです。その計画は水泡に帰しました。29日(日)から5月1日(火)は大学は連休になります。(砂嵐なのに水泡とは?)。
 赤峰市は内蒙古自治区の第三の大都市で、人口650万人、そのうちモンゴル人は90万人だとか。内蒙古全体の人口は2千4百万人で、モンゴル人は450万人だそうです。その赤峰市に設立れている「赤峰学院」から、私は講演を頼まれたのです。テーマは「日本の高等教育単位制と人材育成」。中国も大学間競争が激しく、教育改革と経営の独立採算性が叫ばれています。赤峰学院は、2003年に市内5大学・機関が統合されて開学した総合大学です。歴史が浅い大学だけに、教育科学研究学部を中心に全学部をあげて、学長を筆頭に大学改革に取り組んでいます。
 私個人のGWは、27(金)1限の授業(07:50〜09:30)を終えると、そこから5月2日(水)までです。そこで、27日出発で1日(火)帰宅、3日から授業再開の予定で、講演を引き受けたのですが、講演会は中止とはならず、2日の午後に延期となったのです。私の3日の授業は急遽クラス委員長の学生に連絡を取り「休講」としました。日本の学生なら「ヤッター」、でも中国では後日補講が義務付けです。(3日の航空券も予約)
 講演会は200人の階段式大講堂での開催でした。場内は満席です。舞台の上には、「熱烈歓迎日本国伊藤長和教授莅臨我校開展学術交流」と赤い文字の看板が掲げられていました。事前に私の経歴書が届けてあり、当日のレジュメにも記載されているのに“教授”になっているぞ。(ま〜あ、良いか!)と。
 (次回に続く) *南の風2886号 (2012年5月21日)

■烟台の風236−−内モンゴルへの一人旅・奮闘記 C (Wed, 16 May 2012 09:17)
 …(前回・風2881号の続き)…
 (8)満席の長距離バスは、定刻どおり発車しました。しばらく走り高速道路の手前で停車しました。なんと満席のバスに大勢の乗客が乗り込んできたのです。バスの乗務員は急いで折りたたみ椅子(床几)を寝台の下から引きり出し、彼らに渡します。中列寝台を挟んだ両側の通路に彼らは詰め込まれて、粗末な折りたたみ椅子に座らされたのです。
 私の横に座った気丈な若い女性は、前の男性に声をかけ、「いくら支払ったか」問いかけます。すると男性は230元だと答えます。女性は「私は260元だった」と甲高い声を発しました。後ろの高齢の男性は「俺は300元だ」と小声で意気消沈。昨日、交渉が妥結していれば、正規の料金181元の倍以上の金額(400〜500元)を私は支払った上に、横にもなれなかったのですね。彼らは“小鴨”でした。
 昨日の青年の熱心な姿の全容がようやく私には理解できました。そして昨日のバスは途中乗車の分を含めて満杯だったのです。途中で乗車した私の隣りの女性は、疲れ切っていて私にもたれかかってきます。鬱陶しいのですが、気の毒なので私は我慢です。日本男子は優しいのだ。赤峰市のバスセンターの手前で途中乗車の人たちは全員下され、そして乗務員は素早く私たちの寝台の下に折りたたみ椅子を仕舞い込みました。
 ここで後日談です。4日の朝TVのニュースを見ると、山東省の徳州市で違法長距離バスの取締が行われ、摘発した警察官がインタビューに応えて、「このバスは定員36名のところを違法にも52名も乗せていたので、運転手と乗務員を逮捕した」と発言していました。外に出された乗客はどうなったのでしょうか。西安から長距離バスで帰ったばかりの路喩喬さんも、内蒙古の呼和浩特市からバスで赤峰市にやってきたトクタホさんも同じような経験をしたそうですが、ごくたまに、見せしめのために当局は取り締まりを行うのですね。
 私のバスは、無事に何事もなかったかのごとく深夜29日の午前1時に10時間かけて赤峰市に到着しました。8時頃に頭上に輝いていた上弦の月は、1時には地平線近くに下がっています。バスの外では、トクタホさんと2人の先生が手を振り、笑顔で出迎えて下さいました。*南の風2883号 (2012年5月16日)

■烟台の風235−踏んだり蹴ったりのダブルショック
               ・・・内モンゴルへの一人旅・奮闘記 B
 (Wed, 9 May 2012 09:02)
 …(前回の続き)…
 (6)私を鴨料理できなかったお兄さんに携帯電話を借りて、私は再度赤峰学院のトクタホ先生に明日の講演会は無理だと連絡して、それから路喩喬さんに電話料金の立て替え払いを依頼したのです。大連では入金できないとテレホンショップに断られたからです。今度はホテル探しです。
 私が旅行鞄を下げて、駅前旅館を探していると、どこからともなく中年の女性が私にすり寄り、良いホテルが有ると言います。彼女が指さしたホテルは駅前の「東浩大酒店」でした。165元で三ツ星なら良いか、と私は彼女の後に続きます。後日、学生たちに話すと皆が口を揃えて「高い」と言いました。いつの間にか彼女の同僚も一緒に付いて来てホテルの部屋に私を案内します。そして明日の大連市内観光ツアーのいろいろなコースの説明をし出して執拗に私を勧誘します。大連には来たことがあると断ると、彼女たちはがっかりした様子を見せます。せっかく良い鴨がネギを背負って来たかと思ったら、ホテル斡旋料だけで、ツアー斡旋料は得られなかった、とでも愚痴っているようです。
 (7)翌朝は、駅前で世界一不味い店の東北牛肉ラーメンを食べた後、市内地図を買い求め、中山広場、大連賓館(旧満州時代の大和旅館)、天津街の古玩(骨董)芸術品広場、ロシア風情街、と歩き回り、星巴克(スターバックス)で休息した後、午後2時にバスセンターに戻ったのです。3時に出発する36人乗り寝台バスは2段ベットが3列に並んでいます。私の指定席には先客の女性が寝転んでいました。運転手は空いている所を使えと言います。結局私は右窓側の30番の下段を占拠したのです。1時間前でもこんな様子ですから、少し遅ければ中列上段の寝台席で悲惨な状況になっていたことでしょう。(次回に続く) 
 *南の風2881号 (2012年5月13日)


■烟台の風234−踏んだり蹴ったりのダブルショック
               ・・・内モンゴルへの一人旅・奮闘記A
(Sat, 5 May 2012 13:09)
 …(前回の続き)…
 (3)列に並びながら私は、赤峰学院のトクタホ先生に事情を説明するため携帯電話をかけたのです。するとどうでしょう、今度は預け入れた電話料金が不足していて電話が繋がらないのです。またしても私はトリプルショックに襲われました。
 私の前に並んでいる学生風の女性に事情を話し(勿論中国語ですぞ!)、電話を借りたのです。ようやく私の順番が巡ってきました。今日の切符はおろか、明日の切符も完売とのことでした。「長さん落ち着いて、落ち着いて」と天の声が響きます。
 (4)そうだ、駅前には旅行社が有るはずだ、と私は旅行社を探し出し、駆け込んだのです。すると、女子職員とカウンターを挟んで話している脇から2人の怪しげな青年がやって来て、午後3時の長途汽車(長距離バス)のチケットが有る、400元だ、と言います。「渡りに船」とはこの事です。勿論私はOKです。これで、明日の午後の私の「講演会」には間に合います。
 私は彼ら2人の後についてバスセンターに向かいました。2人の青年の物腰は一見親切そうですが、風采はヤクザ風の姿です。駐車場で赤峰行きのバスを見つけ、彼らは運転手と交渉を始めました。しかし、結局満席だと断られて交渉は決裂です。彼らにとっては、せっかく捕えた鴨の私を手放しはしません。今度はある女性が500元なら譲っても良いと言っている、と私に勧めます。
 「当然(トンラン)」と私は返します。私にとってはお金より時間なのですから。しかし結果は駄目でした。3時のバスは、非情にも私の目の前を走り去りました。混み合う駅前の雑踏をかき分けて。
 (5)私はバスセンターのチケット売り場に並びました。ここも長蛇の列です。明日28日の赤峰行き長距離バスの切符は買えました。なんと181元です。181元の切符が400〜500元なら、彼らにとっても運転手にとっても、差額のピンハネは良い現金収入となる訳ですね。注意して見ると、彼らのような強面のお兄さんはあちらこちらで、私のような大鴨を探しています。(次回に続く) *南の風2879号 (2012年5月7日)

■烟台の風233−踏んだり蹴ったりのダブルショック
              ・・・内モンゴルへの一人旅・奮闘記 @
(Sat, 5 May 2012 08:49)
 (1)4月27日(金)、「国際労働節」のGWが始ります。1限の授業を終えた私は、趙京雨さんの車で、見送りに同行してくれる路喩喬さんと一緒に烟台空港に直行です。内蒙古の赤峰市への旅立ちです。航空券は、赤峰市出身の3年生の男子学生がインターネットで予約してくれました。予約券もないまま、カウンターで旅券を提示すれば、航空券は貰えると説明を受け、入金も済ませてあります。
 チョッピリ不安な気持ちを抱きながら、女子係官に旅券を見せると「没有」と言われてしまいました。私の旅券の氏名はローマ字表記ですが、学生は漢字表記で予約したのです。英文と漢字の両面印刷の名刺を見せても予約した会社に連絡して、氏名変更をしろとの一点張りです。学生と連絡が取れ、ようやく予約名の変更が済み一件落着です。早めに空港に到着しておいて良かった。係官と交渉してくれた路喩喬さんが傍に居てくれて良かった。いよいよ一人旅が始まります。
 (2)烟台空港から赤峰空港までの直行便は有りません。北京、天津、瀋陽、大連、などで乗り換えます。今回は、乗り継ぎ時間の良い大連を利用します。大連に到着するやいなや、私は直ぐに赤峰便の航空券の予約名変更確認の電話を路喩喬さんに入れました。すると彼女は、「先生、大変なことが起きた」と電話口で言います。
 赤峰市は数十年ぶりの「砂嵐」に襲われ、今日の飛行機は飛ばないと告げるのです。私は、混乱、困惑、動転です。「踏んだり蹴ったり」とはこの事でダブルショックです。
 沈着冷静、平常心を取り戻した私は、直ちに大連駅にタクシーを飛ばします。駅構内の鉄道案内所で尋ねると、午後4時発の赤峰行き列車が有ると教えられ、連休で混み合うチケット売り場の列に並びました。長蛇の列が幾重にも重なり大混雑です。(次回に続く) *南の風2878号 (2012年5月6日)

■烟台の風232−高額な研修派遣仲介料金は・・ (Mon, 23 Apr 2012 07:56)
 先日、2回にわたってお届けした「帰国研修生に満面の笑顔」の続報です(南の風2863/2865号)。皆さんは「(社)国際産業交流協会(IICI:International Industry & CollegeInterchange Association)」という組織をご存知ですか。実は、この組織が日本語を学ぶ中国の大学生を日本に短期間受け入れて、実務体験(インターンシップ)の職場に派遣をしている斡旋・仲介の組織母体なのです。
 本部が東京赤坂に設立されていて、支部が中国と韓国と台湾にあります。この組織が、今回大学の冬休みに日本国内各地の温泉旅館やスキー場に学生たちを派遣したのです。「職業体験をしながら語学レベルを向上させる」と事業案内には書てあります。
 さて、帰国研修生の後日談です。私の教え子の女子学生が山東省・曲阜(Qu Fu)の大学生と働いた温泉旅館の宿舎で同室になったそうです。曲阜は孔子の故郷で、私も訪れたことがあります。彼女が、曲阜の学生に尋ねると、今回業者に支払った仲介料は4千元だとか。彼女は驚愕しました。彼女が支払ったのは1万7千元なのです。研修生の月給は3食宿舎付きで4千元です。残業代は1時間、日本円で560円です。彼女たちは3ヶ月で約1万2千元ぐらい稼いだのですが、仲介料が同室の学生と比べて高額のため赤字ですね。彼女は帰国後、学校側に抗議しました。中国の女性は強いのだ!
 私の大学は、直ぐに曲阜の大学を調べました。すると曲阜の大学は、直接、国際産業交流協会の中国支部と契約を結んでいることが判明したのです。私の大学は、さらに間に北京の仲介企業が入っていました。つまり仲介の又仲介業者です。狭間企業です。ピンハネ企業です。
 これでは、申請料金(仲介料)が高くなるわけですね。そんな訳で、一人の勇気ある女子学生のお蔭で、今募集中の今年の夏休みのインターンシップ事業は、その仲介料は4千元となりました。皆さん、彼女に感謝しましょうね。*南の風2871号 (2012年4月24日)

■烟台の風231−内モンゴルを訪れます (Sat, 21 Apr 2012 08:39)
 一斉にポプラの芽吹きが始りました。名前のわからない桜に似た花やライラックも咲き出しました。これから新緑の季節を本格的に迎えます。山はまだ深い眠りから覚めていません。5月の連休を利用して、私は内モンゴルを訪れます。5月1日は「労働節」の祝日です。その前後を合わせゴールデンウィークとなります。
 高額でしたが、何とか飛行機のチケットが予約できました。内モンゴルには、呼和浩特(フフホト)と包頭(パオドォウ)に小林文人先生とご一緒にさせていただいたことがありますが、今回は、赤峰市(チーフォン・シ)です。赤峰市は内蒙古の第3の大都市ですから、大草原との出会いは望めません。その代り旧知の若き友人のトクタホさんとの再会が待っています。
 私は、日本での壮行会には出席できませんでしたし、学位取得のお祝いもできなかったので、来週の金曜日(27日)に会えるのを今から楽しみにしています。トクタホさんと巡った沢山の川崎市の小学校での「民族文化教育」の記憶が甦ります。「スーホーの白い馬」の授業で、馬頭琴演奏とお話しでした。
 赤峰市は中国文明発祥の「紅山文化」新石器遺跡や「遼朝」の城塞遺跡や、匈奴、契丹、鮮卑、蒙古族、満州族の文化が色濃く残る地域です。ところで、トクタホさんから突然の依頼を私は受けたのです。なんと、彼の大学で私に話をしてくれと言うのです。ギョ、ギョッ!
 赤峰学院は現在、大学発展計画を策定中とのこと。教員養成問題、少数民族教育問題、赤峰学院学分制改革和応用性人材培養(単位制と現代社会に応用できる人材育成)、などについての改革を企画中でだそうです。そこで、絶好の機会とばかりに、彼は私に「日本における高等教育単位制と人材育成」というテーマで話をするよう依頼してきたのです。
 私の関心は「生涯教育論」「多文化共生論」ですから、テーマの高等教育単位制は専門家を前にしては少し荷が重いのですが、行きがかり上、引き受けた次第です。(オイ!大丈夫かよ!:任せておけ、男は度胸だ!:そんな話じゃあ、ね〜だろうが)。*南の風2869号 (2012年4月22日)

■烟台の風230−4枚の写真は同一人物? (Tue, 17 Apr 2012 07:38)
 私の手元に4枚の写真が有ります。いずれも路喩喬さんの写真です。この4枚の写真の彼女の顔の表情が、どれも同じではないのです。恥ずかしげで、物静かな微笑をたたえた顔は、どれもが利発そうで、同じように美しいのですが。おちゃめで、いたずらっ子のようなあどけなさを持った可愛い妖精。上品で気品に満ちた優雅な淑女、キュートでプリティーな怪しい微笑を湛える小悪魔的な少女、聖女のような優しさと活き活きとした活力を秘めた青年女性、と多様なのです。これらの写真は撮影した場所と時間は違いますが、全てこの半年間以内に、4年生の彼女の友達と一緒に撮ったスナップ写真なのです。
 しかし、実際に彼女に会って、この4枚の写真の魅力的な顔の表情を探し求めても見出すことは不可能です。勿論写真は、瞬間的に時間が止まっていますが、本人との出会いの表情は時間の流れの中にあるので、その内面を写し撮った写真と同じ表情を見出すのは難しいのですね。
 私はかつて日本女子大学で女子学生を相手に教師をしていましたが、こんなに複雑な表情を持った学生に会ったことが無いのです。日本の学生は化粧をしますから、創り出された虚構の表情で、内面から湧き上がる表情ではなかったのかもしれませんね。
 この内面的美しさを秘めた路喩喬さんが西安外国語大学の大学院入試の2次試験に旅立ちました。西安駅までは、烟台駅15:30始発の直行急行列車で、ちょうど24時間かかります。翌日の15:35の到着です。私は1元の見送り用入場券を買い求め、旅の安全と入試の合格をお祈りして、励ましの言葉を彼女に投げかけました。列車に乗り込む時、彼女は一瞬あの写真に見せた顔の表情を浮かべたのです。そうです、優しい女神となって、「先生、ありがとうございます」と一言。*南の風2867号 (2012年4月19日)

■烟台の風229−帰国研修生に満面の笑顔A (Sat, 14 Apr 2012 10:34)
 (前回に続く)…中国の大学生の多くが、あまり化粧をせず、すっぴんでいますので、日本の女性の化粧には驚いていたようです。美味しい物は、「日本蕎麦(冷たい付けソバ)」「味噌汁」「かつ丼」「天ぷら」「味噌ラーメン」「揚げ餅」・・です。嫌いな物は、「刺身」「甘い味付けのもの」「納豆」・・。「味噌汁」が嫌いと言った学生もいました。以外にも日本蕎麦が好きと言う学生は、四川風の辛い食べ物が好きで、甘い味付けのおかずは苦手だったようです。
 しかし、困ったことは誰も無かったようです。全員が「楽しかった。また、日本に行きたい」と言っていました。そして、日本での送別会の席で、「新婚旅行にまた来ます」と約束した学生もいました。また、送別会で御餞別をいただいたと喜んで報告した学生もいました。
 今年の桜の開花の遅れが危ぶまれていましたが、何とか日本渡航の夢の一つに全員が掲げていた桜見物(花見)ができたようです。都心の地下鉄や山手線の乗り放題の一日乗車券を使って、渋谷、新宿、池袋、秋葉原、浅草、銀座、上野公園、を訪れた者や、ディズニーランドで遊んだ学生もいました。
 今回の研修で、嫌な思いや、挫折感、孤独、苛酷な仕事や生活習慣の違いなどから、日本嫌いにならなかった学生たちの率直な喜びに、私も一緒に喜んだのです。受け入れ側の人々も気を使って、休日にはいろいろ各地を案内してくれたようです。このインターンシップ事業が単純労働の低廉な労働力確保といった性格ではなく、真の意味での人間の心がつながる若者の国際交流の機会となることを私は願って、今回の民間国際交流事業の成果に乾杯します。「皆、日本語が上達したぞ、良かったな〜あ、乾杯!」
*南の風2865号 (2012年4月16日)


■烟台の風228−帰国研修生に満面の笑顔@ (Thu, 12 Apr 2012 09:51)
 本年1月8日から語学研修生として、日本の各地で仕事を体験した短期実習生が4月3日に帰国しました。日本の4月3日は、おりからの台風並みの強風が吹き荒れ、飛行便が軒並み欠航していましたので、私は心配しておりましたが、成田組も関空組も到着時間は大幅に遅れたものの、全員無事帰国しました。
 今回の研修は約3ヶ月ですが、かなりきつい仕事のようなので、日本語学科の恵まれた家庭(高額な斡旋料金支払)の子女である私の学生には、少し 無理なのではないかと、私は少し気になっていたので、一安心です。
 滋賀県大津市の琵琶湖バレーというスキー場で仕事をした男子学生3人は、スキー場の安全パトロールをしたそうです。それまでスキーをしたことがないのに、スキーを履いてゲレンデを巡回したのだそうです。スキーもスノーボードも上手になったと自慢顔です。私に濁り酒を土産に持って来てくれました。一人の学生は覚えたての関西弁を使い他の学生を笑わせています。他の2人の女子学生は、長野県白馬の佐野坂スキー場のリフト係をしたそうです。昼飯のお弁当が冷たくて閉口したそうですが、朝晩の食事は美味しかった、とのことです。
 白馬には、八方尾根をはじめ有名なスキー場が沢山ありますが、なんと佐野坂スキー場は私が18歳の時に初めてスキーを習った場所で、そんなには有名ではないスキー場なのに、偶然にも教師と教え子が初めて体験したスキー場が一致したのです。不思議な縁ですね。
 そしてあとの4人は、群馬県の万座温泉と、長野県千曲市の上山田温泉の温泉旅館に2人づつ派遣され仲居さんをしました。私は授業で早速、彼らを教壇に招き直撃インタビューを敢行しました。驚いたことは「町が綺麗で静か」「厳寒なのに短いスカートの女子高校生」「女子高校生の電車の中での化粧」・・・・などなど。(次回に続く)  *南の風2863号 (2012年4月13日)

■烟台の風227−踏青節に植物園で春を呼ぶ (Sun, 8 Apr 2012 09:09)
 烟台市の郊外、福山区には「農博園」という広大な植物園が有ります。清明節は、別名「踏青節」とも呼ばれますが、長い冬から待ちに待った春を迎え、野山に遊ぶ喜びの日でもあるのです。清明節の4月4日、私は趙京雨さんの愛車で踏青節に相応しい植物園を訪れました。入園料は30元ですが、老人は半額です。この植物園は山東省の農業科学研究院が運営していて、主に烟台市近郊の農業の蔬菜類の苗や、リンゴ、ナシばどの果樹の育成の技術開発と指導を行っています。
 今年の冬の寒さは厳しく、未だ春は遠く、野山は深い眠りについたまま茶色の景色です。それでも、園内の街路樹の柳の木は、薄い黄緑の芽吹きが始まったばかりでした。そう言えば、この日を「挿柳節」とも言い、古い中国では髪に柳の小枝を挿して春の喜びを表した風習があったのです。
 園内の白梅は5分咲きで、紅梅はもはや盛りを過ぎていましたが、ちょっぴり芳しい匂いを放っていました。立派な大木のメタセコイアの並木は、まだ芽吹きすら感じられませんが、1本の細いコブシが花を付けていました。大学のキャンパスのコブシは、まだ硬い蕾のままです。私は思わず感嘆の声を挙げ「コブシ咲く、あの丘北国の〜」と歌い出しました。日本の演歌の好きな趙さんも私につられて歌い出します。「北国の春」を辺りに憚ることなくの合唱です。野草を採集していた人たちが私たちを凝視します。中国人なら誰でも知っている歌ですが、これがコブシの花とは知らないでしょう。
 この植物園には熱帯植物や世界中の珍しい花や洋ランの温室も有り、水耕栽培の無農薬野菜の施設や棚からぶら下がる、西瓜やトマト、サツマイモ、といった藤棚式栽培法の施設や柱だての野菜栽培など変わった施設も有り、目を楽しませてくれます。
 ここで、園内で書かれていた中国10大名花を紹介しましょう。@牡丹花、A梅花、B菊花、C水仙花、D荷花、E桂花、F蘭花、G山茶花、H月季花、I杜鵑花、です。私たちは、熱帯植物園で採れたバナナを食べながら、花が咲く5月の再訪を約したのです。*南の風2861号 (2012年4月10日)

■烟台の風226−私も祈った清明節の焼紙で・・・ (Thu, 5 Apr 2012 08:51)
 4月4日は「清明節」です。中国では清明節の他に「掃墓節」「鞜青節」と呼ばれており、お墓を掃除し先祖をお祀りします。前夜は、友人の趙京雨さんの先祖を祀る「焼紙」の行事に参加させていただきました。お父様の趙振剛さんのお墓は出身地の河北省深澤県にあるそうです。軍人として中国各地を転戦したお父様の最後の戦いはチベット族の反乱鎮圧の出陣だったとか。無事退役され、83歳で旅立ったお父様の遺書には故郷の地に埋葬して欲しいと書き残されていたそうです。
 趙京雨さんは深澤県には2ヶ月しか滞在したことが無くて、烟台からは遠いので簡単に墓参りにはいけません。お父様は貧農の出身でしたが、軍人として栄達を極め、2人の息子と1人の娘を大学に通わせたそうです。妹さんは今、西安市で弁護士をしてお母様と暮らしていて、弟さんはロシアとの貿易会社の副社長だそうです。
 日本のお盆の「迎え火」のように先祖の供養を行う「焼紙」は、お墓で行いますが、都市部では自宅の近所の四つ角・辻で行います。趙さんは、山東工商学院の東キャンパスと西キャンパスを結ぶ道が四つ角で、お父様の霊が来易い良い場所だと言い、ここで「紙銭」を燃やし、お父様に捧げたのです。束ねられた黄色い紙を、一枚一枚燃やし、言葉を添えます。それと、関羽が印刷された1億元の偽札を燃やします。私も紙銭を燃やし手を合わせました。趙さんは中国語で霊に語ります。「お父様のお蔭でお母様は元気で西安で妹と暮らしていて、今年で81歳になります。」「弟は、55歳で、北京で暮らしています。」「私の息子も北京で妻と息子とで暮らしています。」「私の妻は今、妹を訪ねて日本にいます。」「趙家は皆元気ですので、ご安心下さい。」、そして彼は「今日は日本人の朋友の伊藤老師も御参りしてくれました。」、と中国語で呟いていました。
 炎は一層燃え盛り、お父様の霊が到着したようです。辻の歩道のあちこちで黄色い紙が焼かれて、各家のご先祖様との会話が交わされていました。*南の風2859号 (2012年4月7日)

■烟台の風225−演技は10分、練習は10年 (Mon, 2 Apr 2012 21:11)
 皆さんは「飛天の像」をご存じですか。シルクロードを経て、奈良の法隆寺などにも飛天が伝えられていますね。昨晩鑑賞した舞踊劇は、まさに飛天を彷彿させる見事な舞踏でした。しなやかな体の女優を、まるで天女が空中を舞うように、主演の男優が自分の頭上高くに持ち上げ、女性は空中で水平に開脚して上半身をのけ反り、回転します。そして足をクロスし天空を飛翔するのです。
 これは、劇中で男女の愛が成就した場面の歓喜の表現です。この演技は、昨年私が訪れた「敦煌莫高窟」の壁画に描かれた「飛天像」そのものでした。そうだ、彼女なら敦煌市のシンボル「反弾琵琶伎楽天」のように、琵琶を弾くことができるのかもしれない、と私は舞台を見て直観したのです。
 この壁画は、莫高窟112号窟に描かれていますが、敦煌市の象徴として町の中心部のロータリーに巨大な彫像となっています。一般的には、琵琶を背中に回して、手を後ろに演奏できるはずもなく、天界飛天なるが故の神秘的描写を表現した絵画なのですが、先年国立歌舞団の演奏者が見事、その姿勢で琵琶を弾いたとか。
 舞台の演技は、烟台文化センターで上演された「月上賀蘭」という舞踊劇での一場面です。賀蘭山(標高3556M)は、現在の中国寧夏回族自治区の銀川市の西北に実在する山です。近くを流れる黄河を渡ると、その昔は漢文明の地だった所で西域の入口です。多くの少数民族が暮らす地方です。舞台の筋書は1100年前のシルクロードです。ラクダに荷を積んで砂漠を越える隊商の一行の中にいる回族の若者と漢族の族長の娘との純愛物語で、回族と漢族が助け合って平和に暮らす話です。
 パンフレットには、中国で初めて創作された回族舞踊劇で、2008〜2009年度の中国の国家芸術十大作品であると書かれていました。そのとおり、総合芸術に相応しい、音楽、美術、舞踊の最高作品でした。砂漠の砂嵐や荒れ狂う黄河を渡るシーン、など圧倒的躍動感に満ち溢れた2時間の舞台でした。同行の路喩喬さんは「演技は10分、練習は10年」という中国の諺を紹介してくれました。そして彼女は小学生の時、父親と一緒に雨の中を賀蘭山に登ったことを追憶していました。でも、この夜は舞台背景の三日月と同じ月が、老人と若い娘の上に明るく輝いていました。*南の風2858号 (2012年4月5日)

■烟台の風224−−私は明洞アガシに」・・・ (Sun, 25 Mar 2012 21:36)
 訪れるたびに一段と賑わいを増す青空骨董市をあとにして、私は好天に誘われるがまま、「濱海広場」に足を延ばしました。ここは烟台では、最も早く近代化が進み、ヨーロッパ式の建造物が今でも文化財として保存されている「廣仁路」という地域です。周りは超高層のビル群ですが、ここだけは海を臨む落ち着いた雰囲気の家並みが残る別天地です。案内板には、「烟台濱海景区1861開埠商業街区」、つまり1861年に造られた商店街である、と記されていました。日本の明治維新より前に、烟台の港が鎖国から解き放されて開港し、この地が外国人に開放されたのです。
 公園の中には、3ヶ月前には無かった韓国レストラン「平壌館」が日本レストラン「清水」の近くに開店していました。玄関をのぞくと、ピンク色の本格的なチマチョゴリの若い女性2人が、ニッコリと笑います。私は、店の中に吸い込まれてしまいました。そこで、私は、韓国語で「ビビンネンミョン、イッソヨー」とその美しきマネキン嬢の一人に尋ねると、彼女は「ティンプトン」と中国語で応えます。
 「貴女は韓国人ですか」、と今度は中国語で再度尋ねると、店の者は全員中国人だというのです。そこで、「我想看菜単可以??」と言ってメニューを取り寄せたのです。有りました、有りました。「平壌冷麺」です。直ぐに温かいお茶と御通しが4品テーブルに並びました。御通しは「春雨とナムルの和え物」、「鶉の玉子と野菜の煮物」、「白菜キムチ」、そしてなんと「蚕のサナギの佃煮」です。(オイオイ、俺は虫は食わね〜ぞ!)
 冷麺は絶品でした。スープの甘酸っぱさが最高の味です。麺をすする私の目の前で、サナギが恨めしい顔で、一度だけでいいから私を貴男の口に入れてと囁きます。「サナギを頬張る明洞アガシじゃね〜ぞ」と言いつつ、私は2匹を口に。山盛りのサナギは王様の招きに漏れて、口を尖がらしていました。「ミアネヨー!」。ところで、チマチョゴリの女性は、何とチマの下は青いGパンでした。*南の風2853号 (2012年3月30日)

■烟台の風223−飲んで、飲んで、飲まれて飲んで (Sat, 24 Mar 2012 16:03)
 「今日もさけさけ、明日もさけ」(南の風2846号)とは、実に羨ましい生活ですね。春の酒の一文を拝読していると、なんと私の脳裏で歌が響きます。「飲め飲め飲め飲め、も〜っと飲め、私の寂しさ吹き飛ばせ!」とです。これは、矢代亜紀の「雨の慕情」の替え歌です。そういえば、私も3日連続の深酒でした。
 1日目は、保鈴大会の懇親会でビールとワインでした。2日目は、3年生の学生たちに誘われるままに、四川料理とKTV(カラオケ)でビールを。そして、3日目は、四川料理でビールとワインと白酒(バイジュウ)でした。ワイン、白酒はこの日の宴席を開いた趙京雨さんが故郷の西安から持ち帰った物です。白酒の「西鳳」は、アルコール度48度の強烈な酒です。出席者は、趙さんの奥さんの徐さんと、大学図書館の女性職員の戴さん、大学図書館の職員で博士の陳さん、それとコンピュータ部品製造会社の経営者の王さんと奥さんの遅さんです。遅さんもこの大学の経営学の教授です。女性3人、男性4人の全員で7名の宴席です。私は酉歳、趙さんと遅さんは辰歳、陳さんと王さんは卯歳、戴さんは寅歳で、部屋中に響きわたる大声の徐さんは未歳です。(エッ、ウソ〜オ、メリーさんはおとなしいのに!)
 10品の大皿の料理は、大食漢の、陳さんと王さんがコップになみなみと注いだ白酒を飲みながら食べまくります。二人とも大男で下腹が出ています。(そりゃ〜そうだ、これだけ食えば!宴会の趣旨は、奥さんの徐さんの壮行会です。日本の横浜で暮らす妹さんを訪ねてお母様を伴い、訪日するのです。「一路平安」と乾杯は次から次へ延々と続きました。帰路に私が、「飲んで、飲んで、飲まれて飲んで〜(河島英五:酒と泪と男と女)を口ずさんでいると、趙さんは、私に「戴さんは美人だ、伊藤先生もそう思うだろう」と同意を求めます。私は絶句して笑いをこらえます。美の基準は民族によってこんなにも差があるのかと。24日から趙さんはしばらく一人暮らしですから大目に見ましょうか。*南の風2852号 (2012年3月26日)

■烟台の風222−自然も学生も私に喜びを (Tue, 20 Mar 2012 17:50)
 今朝は、久し振りの恵みの雨です。しっとりとした空気がとても心地よいのです。教室に向かう私に「伊藤先生、お早うございます。」と後ろから声をかけられました。中国人女性の日本語教師の孫巧慧先生でした。
 「今日は雨降りですが、とても気分の良い天気ですね」と私は中国語で応えると、傘の下の彼女の顔が怪訝な顔を見せました。そこで私は、日本人は湿潤な空気の中で生活しているので、中国の乾いた空気には慣れていない事を説明し、人間にとっても、植物にとっても、今日のような雨を日本語では「恵みの雨」と表現するのだと、お話したのです。悪天候の自然現象を喜んでいるのは私だけでしょうか。
 一昨日は、嬉しいことがありました。第1次の大学院試験に合格した4年生の女子学生が3人、私の部屋を訪れてくれました。南京大学を目指す李雨萍さん、吉林大学を目指す曲黙怡さん、そして西安外国語大学を目指す路兪喬さんの3人です。李雨萍さんは河南省、曲黙怡さんは黒竜江省で路兪喬さんは甘粛省の出身です。李さんと曲さんはご両親が教師です。路さんのお父さまは会社経営者です。
 500点満点の統一試験の南京大学と吉林大学の合格点は350点ですが、李雨萍さんは33点上回る383点、曲黙怡さんは1点上回る351点でした。西安外国語大学も350点ですが、路兪喬さんは49点上回る399点でした。いずれの大学も日本語学科は国家重点大学や難易度の高い大学です。私は心の底から喜びの声を挙げたのです。2次試験を頑張るように激励して、私の手作りのすき焼きを振舞い、乾杯をしたのです。
 春の訪れの近づきと共に、自然も学生も私に喜びを運んでくれます。春告げ鳥の鵲(カササギ)も喜びの声を上げています。*南の風2849号 (2012年3月23日)

■烟台の風221−私はまだ若いのだ (Sun, 18 Mar 2012 15:37)
 昨晩(17日)、烟台日本人会のボーリング同好会主催の大会が開催されました。私は同好会員ではありませんが、副会長の烟台大学の青木麗樹先生のお誘いで、卒業生の緑秋月さんと一緒に参加しました。会場の保鈴場(ボーリング場)には、バスを乗り換えて行かねばなりません。会場に到着すると、魯東大学の吉成直樹先生と新人で烟台大学の野口研先生もいらっしゃり、日本人教師は全部で4人でした。7レーンは全て同好会の貸切で総勢27名の参加でした。
 高齢者は4人ぐらいで、ほとんどは青年の企業戦士です。若者は早くから到着していて、練習に汗を流していたようです。試合開始の直前に会場に着いた私たちは、ウォーミングアップ無しで、いきなりの試合開始となりました。私はなんと35年ぶりのボーリングです。同行の緑秋月さんは、生まれて初めての経験だとか。
 中国に暮らして3年ですが、私は中国の保鈴場に初めて入りました。得点表示もコンピュータによる電子映像の最新式設備でした。4人一組で試合は始まりました。今年古希の吉成先生は、若い頃は、マイボール、マイシューズで鳴らしたそうで綺麗なフォームでフックボールを投げます。それに比べ、曲がったことの大っ嫌いな私は、直情的な性格を象徴するストレートボールだけです。私の得点は、1ゲーム目は110点で、2ゲーム目は144点でした。27名中、ハンデ無しで8位の成績でした。歳はとってもまだ若者には負けないのだ。
 表彰式と懇親会で、企業人たちは、ここでお決まりの名刺交換です。彼らはこうしてボーリングやゴルフなどを様々な情報交換の機会に使い、加えて日常的なストレスや孤独感を解消しているのですね。日本人教師は日系企業へ自分の教え子の就職を依頼する機会にも活用しているのです。教壇で立ち詰めの私は、足には自信が有るのですが、普段使わない太ももの筋肉が今痛んでいます。次の大会にはどの女性を誘おうかな。*南の風2847号 (2012年3月19日)

■烟台の風220−何か用か、ここのか、とうか (Tue, 13 Mar 2012 07:20)
 中国では3月5日は「雷鋒の日」です。3月8日は「婦女節」です。1年生の授業で、「今日は何月何日ですか?」と私は一人の学生を指名して、質問します。「えーっと、3月ごにちです」と学生が答えると、すかさず私は「不好!(プーハオ)」と応じます。すると他の学生が一斉に「いつか」と助け舟です。「では、今日は何の日ですか?」と私は再質問です。
 全員が静かになります。少しして、後ろの席の学生が小さな声で「レイフォンの日」と自信なさそうに声を出します。そこで私は、突然大声を出し、右手を高く上げ「ピンポーン」と教壇の上で思いっきり飛び跳ねます。そして「好!好!」と言います。「そうですね、今日は雷鋒の日です」続けて、「では、この日は何故雷鋒の日ですか?」と更に突っ込みます。「雷鋒の誕生日ですか、それとも他界した日ですか?」と。すると、学生たちは「死んだ日です」と声を揃えます。
 私は「不好」と言い、「向雷鋒同志学習」と毛沢東主席の言葉を黒板に書き、「毛主席が国民に雷鋒に学べと指示した日が1963年3月5日なのです」と説明するのです。それから、私は最初に中国を訪れた時に、「雷鋒に学べ」が国民運動として全国展開されていたことを語り、1962年に弱冠22歳で不慮の事故死を遂げた青年軍人の雷鋒が、50年経った今でも、人民に奉仕する国民道徳運動を通じて、中国の人々の心の中に雷鋒精神として生き続けていることの偉大さを伝えます。「さあ、それでは教科書を開いて!」と1時間半の授業がこうして始まるのです。
 そして、3月8日も同様に会話を進めます。「はちにちではありません、ようかですよ。」「何か用か、ここのか、とうか、と覚えましょう」とです。それからアメリカで始まった婦人参政権運動が出発点となって「国際婦人労働者デー」が制定され、1975年の国際婦人年に国連で「国際女性デ―」となったことを伝えます。そして日中の女性の社会的地位の違いについて話し合いをするのです。
 これじゃ、教科書はなかなか進まないわけだ。ま〜あ、いいか。    *南の風2844号 (2012年3月15日)

■烟台の風219−二段階選抜の大学院入試 (Fri, 9 Mar 2012 15:30)
 中国の大学院の一般的な入試は二段階選抜で実施されます。1次試験は全国統一試験で、「全国碩士研究生招生考試」と言い、今年は1月7〜9日に全国各地で実施されたました。今年は過去最高の156万6千人が受験したそうです。募集定員は140万人だとか。
 試験問題は共通試験問題の「政治倫理」「英語」を除いて、各大学が独自に試験問題を作成するそうですが、外国語専攻の場合は「英語」も大学ごとの独自問題だそうです。日本語専攻研究学科について見てみましょう。総合点は500点満点です。その内訳は「基礎日本語」が150点「専門日本語(文学、言語、社会文化:各50点)」が150点「英語」が100点「政治倫理」が100点です。大学によって、合格最低ラインが違うのです。総合点と科目ごとの合格ラインは中央政府の教育部が決定します。
 総合点が良くても1科目でも科目ごとのラインを下まわれば不合格です。合否は受験番号の暗証番号によりインターネットで本人が閲覧することができるのです。ここ烟台では、ある公立中学校を受験会場にして、出願した大学ごとに集められて受験したそうです。全国統一試験とは言え、試験期日と「政治倫理」の共通試験問題だけが統一ということなのです。
 さて、統一試験の合格者は、志望校に出向き2次試験を受けます。試験は、専門科目の筆記試験、面接試験(日本語のヒヤリングを含む)の他に、人間性や思想政治的態度なども重視されます。1次試験の発表は3月上旬で復試(2次試験)は4月、合格発表は5月です。この間大学の卒論(学士論文)も提出しなければなりません。念願の入学は9月です。毎日早朝から夜遅くまで、図書館や自習室で勉強した成果がここでめでたく花開くのです。
 参考までに、2006年現在中国の学位授与機関は、碩士(修士)が大学461、研究機関316で、博士が大学238、研究機関が105だそうです。大学院は卒業しても、次は就職難が行く手にはだかるのです。  
 *南の風2842号 (2012年3月12日)


■烟台の風218−狂喜乱舞の私です(Mon, 5 Mar 2012 17:09)
 通りすがりの人がすれ違いざまに振り返り私を見つめ直します。なぜなら、私は笑いながら歩いているからです。気の狂った変な年寄とでも思っているのでしょう。
 今日1限の授業を終えると好天に誘われて、私は約2ヶ月ぶりに、以前暮らしていた福来里の青空市場を訪ねました。中国経済の躍動感を象徴するかのように、商店街の店の多くが以前と変わっていました。いつも使っていた薬屋が海産物屋になっていたりとか、レストランの経営者が変わり、屋号が変わってしまったとか、僅か2ヶ月で激しい変化なのです。以前夏休み後に訪れた時も同様でした。
 しかし、路上商いの人々の顔ぶれは、幸いにして変わっていませんでした。顔見知りに会釈をして通り過ぎようとすると、パン屋の小母さんが飛び出してきて、「いつ戻ったのか?」と聞きます。そして、「福」という文字が透写された赤い林檎を私にくれたのです。思わず私は礼を述べてその場を立ち去りました。そして麻雀やトランプに興じている人たちを観察した後、イスラム教徒のレストランに向かったのです。
 ここも良く利用した店ですが、お店の造りも名前もそのままでしたが、経営者が変わっていて、白いイスラム帽をかぶったバイク好きの気の良いお兄さんはいませんでした。玉子チャーハンを注文して何気なく窓の外をボンヤリ眺めていると、けたたましく私の携帯電話が店中に鳴り響いたのです。
 「先生、私大学院に合格しました!」と歓喜の声です。甘粛省の自宅に戻っていた路兪喬さんからでした。思わず私は店の外に出て、お祝いを述べたのです、彼女も大学院入試に自信が持てず、就職活動のため郷里に帰っていたのです。「おめでとう、私は君の合格を最初から信じていたよ」と私は付け加えて再会を約束したのです。
 店を出た私は、この電話で、ここ1週間の疲れが一気に吹き飛び、笑いをこらえることもできず、一人笑いながら混み合う道を歩いていたのです。福の林檎は福を呼んだのです。今日はワインで祝杯だ。
 *南の風2838号 (2012年3月7日)


■烟台の風217−悲しい置手紙に (Fri, 2 Mar 2012 14:47)
 覚えていますか。大学院入試に失敗した王さん(南の風212号・213号)のことを。
 25日の夜、飛行機の遅れで大学の自室に遅く到着した私は、書斎の机の上に一枚の便箋を見つけたのです。突然の帰郷をお許しくださいと書かれていました。なんとそれは、王さんからの手紙でした。
 「・・・本当に申し訳ありません。今までありがとうございました。伊藤先生に出会えて、私にとっては本当に神様の恵みでした。私は、一生先生のことを忘れません。・・・結局、私は弱い人間です。自分の人生を握ることが出来ないのです。かえって、周りの人に迷惑をいっぱいかけました。故郷へ帰って、先ず自分の健康を治します。もともと烟台に伊藤先生が戻った後、もう一度先生にお会いしてから故郷に帰るつもりでした。しかし私の両親が私の健康を心配しているので、切符を受けとりました。とても残念です。早く自分の健康を取り戻したいです。また、先生とご一緒に話したいです。また、先生とご一緒に食事をしたいです。伊藤先生、お元気でいて下さい。また、先生にお会い出来る日がくることを期待しています。王秀明より。」と、書かれていました。
 私は25日に戻りましたが、彼女はその前日の24日の列車で旅立ったのです。私は直ぐに彼女に電話をしましたが、つながりませんでした。日本から持ってきた彼女への手土産は、リビングのソファーに投げ出されたままで今日も横たわっています。
 李冬梅さんは湖南省に、王秀明さんは四川省に、私の心には大きな穴があいたままなのです。
 「元気を出せよ伊藤!人生に別れと出会いはつきものだ」、とお前さんは何時も言っているだろうが。そうですね、カラ元気をね。*南の風2837号 (2012年3月5日)

■烟台の風216−さようなら、お幸せに (Thu, 1 Mar 2012 09:07)
 「今度も中国の若い方々と面白い分かち合いができるといいですね。」は川崎市の中原図書館長の寺内藤雄さんからいただいたメールの一節です。
 そこで、帰任早々の体験談をご紹介いたします。李冬梅さんは若き日本語の教師です。色白で丸顔の小柄でチャーミングな女性です。山東省の済南出身。彼女が恋に落ちました。私の部屋に彼を伴い紹介してくれました。彼はコンピュタ工場で働いているそうです。激しい気性の彼女に比べ、おとなしい性格のようでした。彼女は彼が席を立った時、私に悩みを打ち明けました。彼は高卒で、身長も彼女より低く、それに遠く湖南省の出身の長男で、いずれは故郷に帰るのです。「私はどうしたら良いの?」と小声で私に訴えます。
 それから間もなく二人は同棲を始めました。数ヶ月後の事です。電話口で泣きじゃくる彼女。国慶節の連休を利用して、二人は彼女のご両親をたずねて済南を訪れたそうです。ご両親は彼を前にして、「大学院卒の娘には不釣り合いだ、結婚はさせられない。」と烈火のごとく怒ったのだとか。そこで思い余って私に涙の電話だったのです。
 私は、「ご両親は貴女の幸せを願っての反対なのだ。貴女の彼への愛が本物なのか、どうかが重要なのだ。」としか言えませんでした。「本物の愛なら、どんな苦労も乗り越えて、二人は幸せになれる。あなたが幸せなら、やがてご両親も許してくれるでしょう。」と付け加えたのです。
 それから約5ヶ月、2学期の最初の授業を終えて部屋のPCを開くと、李冬梅さんからのメールが届いていました。「今、湖南省の彼の家で暮らしています。伊藤先生にご挨拶もせずに、お別れしたことをお詫びします。彼の両親は優しく服や靴を買ってくれました。今、仕事を探しています。」とです。その夜遅く彼女から直接電話をいただいたのです。湖南省方言の家族の会話は全く通じないとのこと。笑っていました。おめでとう。好!でも寂しいな。*南の風2836号 (2012年3月3日)

■烟台の風215−外気は冷たく心は温かい (Mon, 27 Feb 2012 23:20)
 今夜は、三日月に木星が寄り添い、その近くで金星が焼きもちをやいていて、美しい輝きを放っています。今日27日から山東工商学院の2学期の授業が始まりました。
 私は一昨日、烟台市に戻りました。私の寒假(hanjia:冬休み)の2ヶ月は、アッと言う間に過ぎ去りました。烟台の街の小父さんや小母さん、久し振りに再会した学生たちは皆とても温かいのですが、外気は寒く、冷たい風が肌を突き刺します。気温は零下4度ですが、体感的にはもっと低い感じがします。出国前に私は、新潟県魚沼市の3.5メートルの積雪の中で暮らす友人を訪ねたのですが、魚沼よりも、残雪は完全に消えた烟台の方が寒さが厳しいのです。まだまだ、春は遠いようです。
 しかし、今朝出会った学生たちの笑顔の挨拶は、そんな寒さを吹き飛ばしてくれました。最初の授業は、2年生の「私の春節と冬休み」と題したショートスピーチです。一人づつ教壇に立って、全員が発表したのですが、わずか1年半の学習でとても立派に自己表現ができるのですから、その語学力に私は舌を巻きました。
 夜は、三日月を眺めながら行きつけの「米綫mixian」という米粉のうどん屋に出かけました。この店の夫婦は実に親切な人たちで、時々田舎から送られてきた蕨やゼンマイ、キノコやキクラゲなどを私に土産にくれるのです。そんな訳で、今夜は日本からの手土産を持参すると、二人は大喜びで感謝の言葉を連発します。帰り際に食事代を私が払おうとすると、どうしても受け取らないので、やむなく私はテーブルにお札を置いて、追いかけてくる奥さんを振り切ったのです。再見!と。心の温かいご夫婦のお蔭で、私は身も心も芯から温まり、見上げた三日月をめぐる木星と金星も仲直りをしたかのように私には見えたのです。
 *南の風2833号 (2012年2月29日)


■烟台の風番外編鎌倉の市民運動 (Wed, 25 Jan 2012 22:23)
 突然私はメールで鎌倉市民から話を頼まれました。川崎の市民館職員から私を紹介されたそうです。「鎌倉市の社会教育」について私の意見を聞きたいというのです。
 1月24日の午後、指定されたNPOセンターの会議室には、鎌倉で市民運動を展開している女性たちが、私を迎えてくれました。リーダーの一人が、川崎市の中原市民館(公民館)の講座に受講した時に、鎌倉市の社会教育行政が川崎市と比べ、あまりにも違いがあると感じて、市民館の職員に相談したところ、鎌倉市在住の私を紹介されたのだそうです。
 鎌倉では、かつて図書館を市長部局に移管する市長の提案を市民運動が撤回させた経験があります。学習会には、平和運動、原発反対運動、図書館運動、緑化自然保護運動、文化運動、など多彩な活動を展開している女性たちでした。
 現在、鎌倉市の5ヶ所の公民館は「生涯学習センター」、と名称を変え、学習事業も市民で組織する「生涯学習推進委員会」に委ねられていて、市の職員に相談しても何も知らず頼りにもならないそうです。川崎市のような専門職が欲しい、憲法学習や原発問題の学習講座を開設したいと、参加者は声をあげていました。
 私は、1月14日の朝日新聞「誰のための教育委員会か」という元出雲市長のインタビュー記事と、1月24日の「教育委員会直接統治は生き過ぎだ」という「記者有論」を持参して、現在進行している社会教育行政の弱体化・解体化現象の背景を説明したのでした。
 参加者のなかには、教育基本法改正反対運動や歴史教科書問題の運動に取り組んできた人や、東日本大震災の被災地のボランティア活動をしている人もいて、熱い論議が交わされたのです。優れた市民運動は優れた学習実践から生まれるのだという私の持論を再確認した一日でした。*南の風2809号 (2012年1月26日)

■烟台の風214研修という名の単純労働に (Fri, 20 Jan 2012 22:32)
 冬休みを利用して日本語学科の学生が11名、日本各地で日本語研修を兼ねた3ヶ月間のアルバイトをしています。3年生の男性は滋賀県の「琵琶湖バレー」スキー場で、女性は長野県の戸倉上山田温泉や群馬県の万座亭温泉ホテルなどです。給与は月額4千元ですが、業者に支払う渡航費・仲介料は1万7千元です。大卒の初任給が1千元から1千2百元ですので実は巨額な支出なのです。その女子学生からのメールを紹介させていただきます。
 〜〜〜〜(前略)〜〜 伊藤先生、お久しぶりです。お元気ですか。私たちは今、日本で研修しています。1月8日の12時ごろ、成田空港に到着しました。その日は天気が暖かかったです。初めての日本なので、出入国管理課で検査を受け、私だけは1時間も質問されました。幸い通訳がいたので大丈夫でした。そこで5時間もずっと待たされましたが、その後無事に日本に入国でき、直ぐ仕事場所に行きました。着いたのは、10時ぐらいでした。
 そこは長野県千曲市の温泉ホテル「まるさん荘」です。最初の夜、ホテルの居酒屋でラーメンを食べました。本当に美味しかったです。色と味、全部美味しかったです。これは日本での初めて食事です。次に私たちは温泉に入り、旅の疲れを取りました。
 このホテルには二人の中国人の先輩がいたので、そんなに心配することもなく大変助かりました。今、一週間が過ぎ、ちょっと日本の生活にも慣れました。毎日の食事は種類が違って、美味しいです。豚かつとか天麩羅とか茶碗蒸しとか全部食べて見ました。そして、夜寝る前に温泉に入ります。いい生活ですね。
 ここの社員も当地の住民も私達に親切です。中国で想像したものとは全然違います。日本に来て本当によかったです。仕事は疲れますが、先輩からいろいろ教えてもらい勉強になります。毎日、日本人の社員と話しますが、でも分からない言葉が沢山あります。3ヶ月の後、私の日本語が高められるかなと大変心配です。せっかく日本に来たのですから、いろいろなことを試みたいです。先生、チャンスがあれば、ぜひ私達の仕事場所に来てください。*南の風2806号 (2012年1月21日)

■烟台の風213−大学院入試の学生とのメール (Mon, 16 Jan 2012 20:32)
○私の返信メール(承前・烟台の風212号)
 王さんメールありがとうございました。でも、王さんだけでなく、多くの学生が今のあなたと同じ心境になっているでしょう。王さん、少しゆっくり休んで下さい。たった1回の試験で夢を捨てないで下さい。人間には良い時、悪い時が繰り返します。悪い時にくじけると、次に来る良い時は来ません。今回のショックをバネにして、明日を信じて頑張って下さい。日本には「禍福あざなえる縄の如し」という諺があります。99%の失敗でも、1%の可能性を信じて前に進みましょう。〜(省略)〜
○学生からのメール:
 メールありがとうございました!一番つらい時に伊藤先生からのメールを読んで、少し勇気が出ました。先生に対しての感謝の気持ちは言葉では表せません。ただ一言、「ありがとうございます」と言いたいです。
 私が一番辛い時、困難な時、先生は私を助けてくれて、いつも私のことを大切にしてくれました。これは一生忘れられません。先生は私にとって両親以外では一番大切な人です。先生の教育についての熱心さ、学生に対しての親切さ、本当に心から敬服しています。いつか自分も先生のような人になり、教育についての仕事をしたいのです。中日のかけ橋になり、日本人に対する皆の誤解を消したいのです。
 でも、両親のこと、先生のことを思い出すと、最近ちょっと神経衰弱で、夜も眠れなくなります。先生、いつもご迷惑をかけてすみません。でも今の私にとって、先生は本当に精神の支えです。私のわがままな話を聞いて、心配なさらないで下さい。ただ誰かに自分の気持ちを言いたいのです。*南の風2804号 (2012年1月18日)

■烟台の風212残酷な現実に涙 (Tue, 10 Jan 2012 20:04)
 大学院の試験が、1月7日・8日に開催されました。今回受験した学生からのメールを紹介させていただきます。
 《 伊藤先生、昨日大学院の試験が終わりました。私は今ほっとしていると同時に、これからの人生を心配しています。実は試験の前日、ホテルの外の車が多くてうるさく、私は一晩中ずっと眠れなかったのです。試験当日は頭が痛くて、緊張して試験はめちゃくちゃになってしまいました。
 〜(中略)〜私は絶望のあまり自分を疑いました。やっぱり私は弱い人間ですね!いくら努力しても成功できないのですから。今私は、道に迷って自分が分らなくなりました。今まで私はずっと先生になりたかったのです。何故なら、私の故郷は東部より発展が遅く、多くの子供が教育を受ける機会さえ無いのです。私はそんな実際を見て、いつも自分の心がとても痛みました。小学校の先生でもいい、中学校の先生でもいい、ただ自分の力で故郷の子供たちに何かできることをしたいと思っていました。
 過ぎ去った一年間を顧みると、一番感謝すべき人は伊藤先生です。私の生活と心を支えて下さり本当にありがとうございました。昨日は絶望の限りでした。これからの私の人生はいったいどう過ごしたら良いのか。もう家族に負担をかけたくないので、早く仕事を探さねばなりません。でもこな自分にどんな仕事ができるのか。すみません、いつもわがままで伊藤先生にご迷惑をかけて、自分は本当に情けない人間ですね!先生からの恩情に私は何をしてお返しができるのかなあ。皆からの期待に背いて、自分の人生の生きがいは、いったいどこにあるのかなあ。これからちゃんと考えます。》  ・・・・皆さんなら、どんな言葉で返信しますか?  
*南の風2802号 (2012年1月14日)


■烟台の風211美女の涙は真珠の涙 (Sun, 25 Dec 2011 22:19)
 私の冬休みの一時帰国を知り、4年生の路喩喬さんがお別れの挨拶にみえました。コーヒーとプリンで歓談した後、私は特製のチャーハンを作って彼女をもてなしました。実は22日の帰国を前に冷蔵庫にある残り物を処分し空にする必要があったのです。玉子、ハム、キャベツ、鮭のフレークをケチャップで味付けです。
 スープはカレーの下ごしらえで冷凍しておいた、ジャガイモと人参、玉ねぎの特製スープです。いつも小食な彼女は、「美味しい」と頑張って頬張ります。毎晩自習室で10時半まで大学院入試のために勉強している彼女の夕食は、睡魔に襲われないよう気遣い小食なのです。でも今夜ばかりは残さず平らげてくれました。大学院入試や、今取り組んでいる「思想政治理論」の話題が済んで、いよいよお別れです。
 「夢に向かって、頑張って下さい」、と私が言うと、彼女は「先生に出会わなかったら私は・・・・」、と思わず絶句、言葉になりません。見るみるうちに嗚咽です。知性的な美しい顔がグシャグシャです。私は笑いながらタオルを出して、「美人が台無しだ」と応えたのです。勿論私だって、顔で笑って心で泣いていたのです。美人の涙は真珠の涙でした。
 路喩喬さんが言わんとしたことは、彼女の生活支援を私がしたことへのお礼の言葉だったのです。今年の夏でした。大学院進学をあきらめるという彼女からのメールでした。父親の経営する会社の業績が上手くいかないという理由です。私は「一度だけの自分の人生だ、自分の人生は自分のものだ。だから後悔しないよう、じっくり考えなさい。」と返信したのです。
 それから私は、彼女を毎週1回私の中国語の教師として招き、僅かな謝礼を差し上げ、ほんのささやかな支援をしてきたのです。路喩喬さん頑張れ!  *南の風2792号 (2011年12月26日)

■烟台の風210母親教育と中華母親節A (前回に続く) (Tue, 20 Dec 2011 03:44)
 皆様は、「孟母三遷」「孟母断機」という故事をご存知ですね。前号で、ご紹介した「母親講座」の立看の記事です。「母親講座」=母親教育と中華母親節=
  母親教育:堅持“公益、自願、無償”的性質、遵循“正義、道徳、良心”的理念、秉承“伝承中華文化、弘揚母儀之徳、普及母教理念、喚醒母親意識、造就賢母品質、培養優秀后代”的宗旨、提高母親育人能力、培養称職母親、努力推進母親教育国策的実現。
  中華母親節:以孟母為形象代表、以孟子生日、即机(木偏を人偏にする:zhang)氏成為孟母之日〜農暦四月初二為中華母親節、2007年2月4日烟台母親教育中心主任徐耀国、在烟台晨報上発表了≪中国応該有自己的母親節≫一文、提出了中国母親節応以記念孟母為内容的建議。  〔以下訳文〕
 母親教育:「公益、自願、無償」の性質を堅持し、「正義、道徳、良心」の理念に従い、「中国文化を伝承して、母親の美徳を発揚し、母親教育の理念を普及し、母親意識を呼び覚まし、賢母資質を創り上げ、優秀な後世代を養成する」という主旨を伝承して、母親の子育て能力を高め、母親らしさを育てる、母親教育の国策の実現に努力し、推進します。
 中華母親節(中国母の日):孟母を賢母の美徳の代表として、 孟子の誕生日、すなわち孟子の母のzhang氏が母親になった日〜旧暦四月二日を中国母の日と定めます。2007年2月4日烟台母親教育センターの主任徐耀国は、「烟台晨報」新聞で「中国は自分の母の日を持つべき」という文章を発表して、中国母の日は孟母を記念する内容にすべきだ、と提案しました。〔中加学院・青協宣〕(宣伝板)より転写。
 中国では、「中国母の日促進会」の李漢秋会長が、2004年同様に賢母の代表とされる孟子の母が孟子を産んだ旧暦四月二日を中国の母の日と定めるように提唱して、運動を展開しています。
 *南の風2791号 (2011年12月24日)


■烟台の風209−母親教育と中華母親節@ (Mon, 19 Dec 2011 21:48)
 私は、中国の家庭教育の現状を憂いている者の一人です。1人っ子政策と、両親の共働きのため祖父母による子育て、そして過剰なまでの受験競争による教育熱などにより、子どもたちの成長発達に応じた適切な躾けがなされない事への不安なのです。事実、中国では「小皇帝」と呼ばれる、我儘に育てられた子どもたちの出現が社会問題化しています。
 さて、山東工商学院の中にカナダとの経済学を中心とした学術交流を行う「中加学院」と名付けられた学部が有ります。先日、その前を通ると立て看板に私の目が釘付けになりました。「母親講座〜母親教育と中華母親節〜」と大書きにされた看板です。
 「おや「母親学級があるぞ!」とばかり開催日を見ると、もう過ぎ去ったあとでした。残念、参加したかったな〜あ。私は若いころ「両親学習」という家庭教育の学習参考書を川崎市教育委員会で5冊作成したことがあり、家庭教育には、関心が今でもあるのです。看板を読むと、いまだに良妻賢母の孟母の話のようですし、子どもの教育は母親にという、昔の伝統的な教育観のようなものも感じとられます。私が敢えて両親学習と名付けたのは、家庭教育は母親だけのものではなく、父親も行わなけれならない、ということを主張したかったからです。子育ての伝統的な間違った考え方を否定したかったからです。
 立看の文章を転写しましたので次号で紹介させていただきます。学生の書いた文章です。母親講座が社会教育施設ではなく、大学で行われるところに、女子学生が圧倒的に多い本学の特徴が表れていますね。この講座の講師が所属する「烟台母親教育センター」とは、どんな組織なのか調べたいですね。中国では、他の大学でもこうした講座が行われているのでしょうか。李斗石先生、教えて下さい。(次回に続く)
 *南の風2790号 (2011年12月22日)


■烟台の風208−1学期が終わりました (Thu, 15 Dec 2011 22:32)
 万歳!期末試験が今日(15日)で終了しました。午前中の2年生と午後の1年生の試験で、3年生から1年生まで全てを終えました。
 今朝は、今年3度目の降雪です。正しくは5日目の雪空です。昨晩は冷え込みが厳しいので、日本企業に就職した、昨年の女子卒業生が上品なマフラーをプレゼントしてくれました。「これは、私が自分で稼いだ給料で買いました。」と言って、1時間半以上もかけて仕事を終えてから駆けつけてくれたのです。「先生のお蔭で今が有ります。先生、来年もこの学校で教えてくれますか?」、との問いです。
 3・11の大震災で、私は普通の生活の大切さを教えられ、日本に戻る決意をしたばかりなのに、彼女のこの言葉に決心が揺らぐのでした。
 最後の1年生の試験が終わり、「楽しい新年を迎えて下さい」と私が挨拶をすると、「伊藤先生、記念写真を撮らして下さい」との申し出を受けました。勿論と返事をすると、なんと試験を終えた学生は全員帰らず、廊下で待機しており、さらに今日試験の無い他のメンバーもやって来てくれ、フルメンバーでの記念撮影となったのです。
 今日は零下4度から0度で、廊下での待機は、さぞかし寒かっただろうと、私の胸には熱いものがこみ上げてきたのです。いつも授業では斜にかまえ、ニヒルな薄ら笑顔を浮かべた髭面の歳食った男子学生が、撮影が終わると、私に握手を求め、突然ハギングをしてきました。背の高い胸板の分厚い彼の胸に私の顔はうずまってしまったのです。
 「先生、また3月には戻ってきて私たちを教えて下さい。」と言います。私は彼が私を嫌っているとばかり誤解していましたが、単なるシャイな性格の心優しい青年だったのです。
 今日で1学期のスケジュールは終りました。後は採点だけです。というわけで、牡蠣と白菜を買い込み、牡蠣鍋を作り、青島ビールで一人寂しく乾杯です。「1学期お疲れさまでした」、と自身に。
 *南の風2787号 (2011年12月17日)


■烟台の風207−中国人の日本語作文コンクール (Mon, 12 Dec 2011 20:56)
 7つの子どもの作文(風・前号)は、とても感動的に読ませていただきました。私は3年生の作文指導も担当しています。私の学生は20〜21歳です。日本語を学ぶ中国人の学生の日本語作文コンクールが毎年東京で行われています。主催者は、日本僑報社(池袋)の日中交流研究所です。協力・後援団体は、在中国日本国大使館、朝日新聞社、人民日報社人民網、日中友好協会、安田奨学財団など数十団体が名を連ねています。
 コンクールは今年で7回目で、先日、12月9日に北京の在中国日本国大使館広報文化センターで、作家で審査員の石川好氏を招いて表彰式が行われました。私の学校からも、2・3年生合わせて20人近くが応募をしていいます。私は、このコンクールの存在を知らなかったのですが、応募者の学生の内、8人が直接に作文指導をお願いしますと、原稿提出前に私に相談にやってきました。その中の一人、李玉栄さんが全国で第3位に選ばれたのです。
 今回7回目の作文のテーマは、「日本企業に伝えたい中国人消費者の本音〜中国で成功するために日本企業に必要なこと」でしたが、3月の東日本大震災をうけ、急きょテーマが追加されました。それは、「頑張れ日本!〜千年不遇の大地震と戦った日本の皆様へ」でした。来年のテーマはもう発表されています。「日中国交回復40周年を思う」です。
 今回の応募者数は、3,127名(171校)です。中国全国が対象ですから、まだ参加者(校)は少ないですね。08年のデータをインターネットで見ると、日本語学習者は300校、4万人を超えているそうですし、烟台市内だけでも、大学3、専門学校は13校もあります。賞品は、@最優秀・日本大使賞〜賞状と日本に一週間招待、A一等賞〜賞状と5万円相当の商品、B二等賞〜賞状と3万円相当の商品、C三等賞〜賞状と1万円相当の商品、D佳作賞〜賞状と2千円相当の商品。三等賞以上の作品は本として出版されるのだそうです。李玉栄さんおめでとう。教師冥利とはこの事です。*南の風2785号 (2011年12月14日)

■烟台の風206−南山大仏に平和の祈り  (Sat, 10 Dec 2011 11:14)
 10月最後の日曜日、私は烟台市の郊外の龍口市にある南山旅遊景区(観光地区)にバス旅行に出かけました(龍口市の紹介は「南の風」1122号・2003年8月31日、に詳報)。龍口市は烟台市の中にある自治体です。市(地級)の中に市(県級)があるのです。烟台市街地から120キロ制限の高速道路を疾走して、約1時間半で龍口市に到着します。徐福伝説や八仙人の渡海伝説で名高い蓬莱市の隣りです。実際、徐福は龍口市の出身で、龍口市徐福鎮には現在徐公祠が祀られています。
 19人乗りのマイクロバスには、ロシア人教師の家族が5人とロシア人留学生が4人、アメリカ人教師が2人、そして日本人の私が1人です。加えて学校の国際交流学院の女子職員1人と旅行社のガイド2人と運転手で、総勢16名のツァーでした。ガイドの中国語以外は全てロシア語と英語だけが飛び交っていました。
 車窓から眺める両側の景色は、最初から最後まで延々と続く果樹園です。野菜畑や麦畑は皆無です。飽食の時代は現金収入の高い作物に転作されてしまうのですね。大躍進時代には飢餓で3千万の餓死者が出たのが、嘘のようですね。
 烟台市の中心地にも南山公園がありますが、龍口市にある南山旅遊景区は、その何十倍の広大な敷地の中に中国各時代の文化財が点在しており、史跡から史跡までは園内の専用マイクロバスで山越え、谷越えで移動します。健脚の私は1人山中を歩きとうしたのでした。真っ赤な蔦と黄色い野菊が仏の聖地を清めていました。
 「求道の 仏の道に咲く花の 我を迎えて 今盛りなり」 有名なのは、南山禅寺と大仏です。大仏は錫と銅で鋳造された高さ38.66米、重さ380トンの仏像ですが、高い山の頂上に鎮座しており、そこまでは急な階段を登らなくてはなりません。どのようにして山の上にお運びしたのでしょうか。しばし私は山頂で額づき平和の祈りをしたのです。2000年鋳造で、2004年の開眼です。
 さて、翌日は旧ケルト人の宗教行事のハロウィンでした。もともとは先祖の霊を祀る日でしたから、南山で私は先祖の霊に今後の身の処し方を相談したのです。結論は、早く帰れ!でした。
 *南の風2784号 (2011年12月12日)


■烟台の風20581歳はおしゃれです (Sun, 4 Dec 2011 14:35)
 皆様に、烟台日本人会の顧問をご紹介しましょう。岩切宏次さんは1930年生まれで今年81歳です。烟台に暮らして16年になる長老です。日本企業の相談役として、烟台では一目置かれている存在です。
 彼は、現在でもある日本企業の役員として活躍なさっていますが、他の日系企業の面倒もみている親分肌の好々爺です。そして、とてもおしゃれです。(好かれるお年寄りの共通点は皆おしゃれですね。)
 私は自分史の聞き取りのために、彼のマンションを訪ねたのです。岩切さんは、バスの停留所まで、杖を突き、足を引きずりながら私を出迎えて下さいました。ご自宅では、烟台で結婚された27歳下の気立ての良い中国人の奥さんに大歓迎を受け、手作りの家庭料理をご馳走になりました。
 岩切さんは2003年に開校した「烟台本洲日本学校」の初代日本語教師も勤められたこともあり、現在でも、山東工商学院の日本語授業にボランティアとして時々講義をお願いしています。彼は九州宮崎県の出身で、医師のお父さまの関係で旧満州で育ちました。遼寧省の鞍山中学校で学び、同窓生には元日銀総裁の三重野康さんがいるそうです。現地で終戦を迎え、苦労して日本に引き上げたのだとか。満州でアイススケートをなさっていたので、同志社大学ではアイスホッケー部に誘われ、日本の学生選手権で全国制覇をし、カナダの大学との交流試合にも出場されたそうです。
 現在、右膝の関節を痛めたため、手術をして人工関節を入れているのだそうですが、今でも必ず毎週末には、働き盛りの4,50代の企業戦士たちとゴルフを行っています。人工関節で、足を引きずりながらもグリーンに立ち、時々、中国人の奥さまもご一緒にゴルフをなさるのだそうです。羨ましいですね。 
 *南の風2780号 (2011年12月5日)


■烟台の風204−大脳は不思議ですね (Thu, 1 Dec 2011 20:00)
 今朝も烟台の空はつき抜けるような、澄み切った青空でした。私の部屋のサンルーム(洗濯物干場)は、20度を超えていました。しかし屋外は0度から4度と一日中気温は上がらず、シベリア気団の強い季節風が吹き付け肌を突き刺します。数日前から私は、防寒服のフードをすっぽり頭にかぶり、登下校をしています。今朝は初氷がはりました。
 学生たちも、期末試験をまじかにしながら、風邪で休む者が増えてきています。私の登下校は、この寒さを吹き飛ばすかのように、知らず知らずの内に速足になっています。その時です。私の唇には無意識の内に、足の速度に合わせて、歌を歌っています。
 「北風吹きぬく〜寒い〜朝も〜」とリズムを刻むのです。この歌は吉永小百合の「寒い朝」ですが、私の大脳が寒さに負けるなとばかり、私に命じているのです。ところが、今朝は「一人酒場で〜飲む酒〜は」と鼻歌です。そして「遠き別れに、耐えかねて、この高殿に登るかな」と、島崎藤村の「惜別の歌」が口から飛び出しました。美空ひばりの「悲しい酒」も「惜別の歌」も、私の持ち歌でもなければ、愛唱歌でもありません。ただ、無意識に大脳の命令が私の足の速度に、リズムを与えているのです。勿論、カラオケでも歌ったことのない歌なのですが、不思議ですね。しかも「別れの曲」です。
 変な髭おやじが、何かぶつぶつ言っているぞ、とばかり行き交う学生が振り返ります。その時です、もうすぐ帰国する韓国留学生がすれ違い、挨拶をしてくれました。すると、私は普段使ったこともない韓国語が突然飛び出したのです。「アンニョン・ハセヨ」、「チュオ・チュッケッタ!」、とです。「寒くて死にそうだ」、です。すると、彼女は今まで見せたことのないような笑顔を私に向けたのです。
 人間の大脳は不思議ですね。深層心理に「別れ」がインプットされているのでしょうか。と言うわけで、明日の私の唇にはどんな曲が飛び出すのか、「真白き富士のね〜緑の江の島!」をリクエストしてみても、私の大脳は気儘で、身勝手で、気紛れなんですから。  *南の風2779号 (2011年12月3日)

■烟台の風203−原宿より浅草が好き (Fri, 25 Nov 2011 16:42)
 メガネの修理に私は繁華街に出ました。文化センターの隣りの大きなメガネ屋さんです。この文化センターの裏手には、伝統的中国家屋が密集する住居地で、道路に面したところには、書画骨董を商う小さな店が軒を連ねていました。しかし、今は取り壊しが始まり、瓦礫の山でした。外観を保存し、内装を近代化するなどの伝統的建築文化財の保護が出来ないのでしょうか。
 メガネの修理を終えて、私は烟台港近くの書画骨董を扱う北馬路「大廟文化市場」という路地裏の商店街に回ってみました。ここは、私のお気に入りの街の一つで、金魚や鯉、亀から爬虫類、犬、猫、ウサギ、小鳥類、など何でも売っているペットショップが軒を並べ、花木の鉢物屋、盆栽屋、種屋、サボテン・蘭の専門店、雑貨屋、パイプ屋、各種の刻みタバコの葉を商うタバコ屋、などの小さな店がひしめく、実に興味の尽きない路地裏商店街でした。
 路地には自動車は入れません。2メートルぐらいの道幅で、客と客の肩が触れ合う狭さです。昔の上野のアメヤ横丁です。いつも季節の花の香りで満ちあふれていました。
 しかし、今日行ってみると、ここも取り壊しが始まっていました。100軒以上もの商人はどこへ散ったのでしょうか。廃墟に取り残された10軒ばかりが、まだ商いをしていました。ある雑貨屋の前で、お年寄りが植木ばさみをいじくり回し、値段を聞いています。「シーカイ・ウー」、15元と店の主人はめんどくさそうに答えます。「それはいくらだ」、と他を指さすお年寄り。「イーバイ・アルシー」120元、と店主。どうしてそんなに高いのだ、との老人の問いに、店主は「日本製だ」と答えていました。また一つ路地裏文化が消えます。みんなニューヨークの摩天楼になってしまうのか、と心を痛める私。俺ァ〜、六本木・原宿より上野・浅草が好きなのだ!
 *南の風2777号 (2011年11月29日)

■烟台の風202漢字の外国語表記B (Wed, 23 Nov 2011 21:04) (前回に続く)
 次は、アジア大会参加の45カ国・地域の漢字表記です。さあ、読んでみて下さい。*印は日本の漢字にないかも知れません。
 1.阿富汗、2.阿連酋、3.阿曼、4.巴基斯坦 、5.巴勒斯坦、6.巴林国、7.不丹 、8.朝鮮、9.東帝*、10.菲律賓、11.柬埔寨 、12.*塔尓 、13.科威特 、14.老*、15.黎巴嫩、16.馬尓代夫 、17.馬来西亜 、18.蒙古 、19.孟加拉国、20.緬甸、21.尼泊尓 、22.日本、23.沙特阿拉伯、24.斯里蘭*、25.泰国 、26.文莱 、27.新加坡、28.叙利亜、29.也門 、30.伊拉克 、31.伊朗、32.印度、33.印度尼亜、34.約旦、35.越南、36.中国、37.澳門、38.香港 、39.台湾、40.韓国 、41.鳥茲別克斯坦、42.哈薩克斯坦 、43.吉尓吉斯斯坦 、44.塔吉克斯坦 、45.土庫曼。
    *9.〜(さんずいに文)、12.〜(上と下の合字)、14.〜(手編に過)、 24.〜(上と下の合字)。
 次は、クイズの回答です。 どれだけあなたは読めましたか。あなたは中国語の地理学博士ですぞ。お疲れさまでした。
 1.アフガニスタン、2.アラブ首長国連邦、3.オマーン、4.パキスタン 、5.パレスチナ、6.バーレーン、7.ブータン、8.朝鮮、9.東ティモール、10.フィリピン 、11.カンボジア、12.カタール、13.クウェート、14.ラオス、15.レバノン、16.モルディヴ、17.マレーシア、18.モンゴル、19.バングラデシュ、20.ミャンマー、21.ネパール、22.日本、23.サウジアラビア、24.スリランカ、25.タイ、26.ブルネイ、27.シンガポール、28.シリア、29.イエメン、30.イラク、31.イラン、32.インド、33.インドネシア、34.ヨルダン、35.ヴェトナム、36.中国、37.マカオ、38.香港、39.台湾、40.韓国、41.ウズベキスタン、42.カザフスタン、43.キルギスタン、44.タジキスタン、45.トルクメニスタン。*南の風2774号 (2011年11月25日)

■烟台の風201漢字の外国語表記A (Sat, 19 Nov 2011 18:18) (前回に続く)
 昨年のちょうど今ごろ、11月12日に「第16回アジア大会」が45カ国・地域の参加のもとに中国の広州市で開催されました。音響と光と花火の演出による盛大な開会式を私はテレビで見ました。選手入場の際に、選手団の先頭に立って行進するプラカードに掲げられた国名を私は注視して首をかしげて、クイズ番組さながらに楽しんだのです。
 それにしても、アジアは広いですね。アジア大会を主催する「アジアオリンピック評議会」は、アジアを5つのブロックに分けています。東アジア7カ国・地域、西アジア13カ国・地域、東南アジア11カ国、南アジア8カ国、中央アジア6カ国、です。日本が所属する「東アジア」は、中国、韓国、朝鮮、日本の4カ国と、台湾、香港、澳門の3地域です。この内ソ連崩壊時に独立した中央アジアの国々の漢字表記は、判断するのに苦労します。例えば、ウズベキスタン(鳥茲別克)、カザフスタン(哈薩克)、キルギスタン(吉尓吉斯)タジキスタン(塔吉克)、トルクメニスタン(土庫曼)、などですね。
 ところが、中国語の発音は違いますが、長年漢字表記を見慣れている国々も沢山あります。それは当然、泰国、印度、印度尼亜、越南、蒙古、韓国、朝鮮、台湾、香港、澳門と日本ですね。推理の容易な国名と難しい国名があります。簡単なのはアフガニスタン(阿富汗)、ブータン(不丹)、パキスタン(巴基斯坦)などです。反対にオマーン(阿曼)、レバノン(黎巴嫩)、カンボジア(柬埔塞)などが難しい表記の代表でしょう。それでは、ここで皆さまにクイズを差し上げます。あなたは何カ国読めますか。(次回に続く)
*南の風2771号 (2011年11月20日)


■烟台の風200漢字の外国語表記@ (Mon, 14 Nov 2011 22:07)
 烟台の風は、小林文人先生をはじめとする皆さまのお蔭で第200号を迎えることができました。記念すべき慶祝200号にふさわしい話題をと考えましたが、気温が寒くてアイデアが浮かびません。11月15日から暖房が入る予定です。
 そこで、遊び心を発揮して中国語(漢字)の外国語表記についてご紹介させていただきます。オバマ米国大統領は「奥巴馬」と書きます。アメリカは「美国」です.。それでは、皆さんは、中国語の「牛仔□(衣編に庫)」と、「約旦」がどんな言葉の意味なのかお分かりですか。牛仔□(niu zai ku)はジーンズ・パンツ(ジーパン)のことで、約旦(yuedan)は、ヨルダンという国名です。
 先日、教科書に「Gパンをはいた先生」という文章が出てきましたが、学生たちは誰もGパンを知らないのです。そこで私がはいていた薄汚れたGパンを指差し「これがジーンズ・パンツだ」と教えたのです。すると学生は「なんだ牛仔□のことか」と、全員大笑いです。何人かの学生もはいていました。労働着のGパンを中国では、牛飼いのズボン、すなわち、カーボーイの仕事着と名付けたのですね。ところで、なぜジーンズ(Jeans)なのに、JパンではなくGパンなのでしょうか。
 たぶん米軍兵士の俗称GI(Govemmennt Issue)からきているのでしょう。GIがはいているズボンということです。ジーンズの語源は、Gパンの生地はフランス製のデニムをイタリアのジェノバ(jean)から運んだことから名付けられたことがわかりました。
 日本では、外来語はそのままカタカナで表記できますが、中国語で外来語を表記するには、発音の良く似た漢字を当てる場合と、漢字の意味を当てる場合があって、なかなか苦労しているようですね。表意文字で代表的な例は「アイスランド(氷島:ビンダオ)」ですが、「ニュージーランド(新西蘭:シンシーラン)」は、表意文字“新”とオランダのジーランド州が語源のジーランドを当て字の“西蘭”を用いてミックスして使用しています。(次回に続く) *南の風2770号 (2011年11月18日)

■烟台の風199−嬉しいことが重なった週末B (Sun, 13 Nov 2011 22:07)
 …(前回に続く)… 明日は、趙雨京さんと温泉に行くと約束をしていると、そこへ、今度は「今夜の食事を一緒にしましょう」、とのお誘いの電話です。3年生の?正茂君からでした。本場四川料理を女子学生3人、男子学生4人で囲むというのです。嬉しいことが続きますね。皆の幸せ、健康、夢のためにとその夜は中国式の乾杯の連続でした。辛い四川料理はビールが進みます。
 翌日は日曜日です。趙雨京さんの愛車には、奥さまが同乗していました。奥さまは満州族の方でとても快活な人です。往きも帰りも終始機関銃のごとく大きな声で話しっぱなしでした。
 龍泉温泉の駐車場は、休日とあって満車でした。男性用の湯船は3つありますが、外気が寒いせいか高温用の浴槽は、足を入れようにも入れられません。昨晩3年生の学生たちと飲んだ烟台ビールは汗となって全部噴出してしまいました。
 しばらすると、観光バスに乗ったお年寄りの集団がどっと入室してきました。みんな顔が真っ黒です。どうやら近郊のリンゴ農家が収穫を終えての農閑期慰安の温泉旅行なのでしょう。ところが20数人のおじさんたちは誰一人として体を洗わず、湯船に直行して、全員が湯船の中で談笑しながら体を洗い出したのです。さすがに「石鹸持ち込み禁止」の文字のお蔭で、タオルだけで丁寧にゴシゴシと洗っているのです。いくら、かけ流しの湯とはいえ勘弁してよ、と眉をひそめる私。
 そのうち、大柄な筋肉質の男性5人が入ってきました。なんと3人の背中には見事な刺青が彫られていました。「倶利迦羅紋紋」です。ウアー、ウアー、社会主義と刺青。この週末は私にとっては実に充実した三日間だったのです。*南の風2768号 (2011年11月14日)

■烟台の風198−嬉しいことが重なった週末A (Wed, 9 Nov 2011 07:31)
 …(前回に続く)… 韓国料理の店を出ると、私たち二人は林先生の部屋に招かれ、奥さまの申先生がコーヒー豆を挽いた本格的なコーヒーをご馳走になりました。申先生は日本語の先生をなさっていますが、名古屋大学の大学院で取得した学位は行政法の法学博士です。
 さて、翌朝の土曜日です。大学院入試を前にした路喩喬さんが、発疹性の風邪に倒れ、私はとても心配しておりましたが、今朝元気になって、私の部屋を訪ねてくれました。私の好きな栗饅頭と麻花というお菓子を携えて明るい笑顔で現れました。先週、4年生は学期末の試験でしたから、試験終了の安堵感で、たまっていた疲労が噴き出たのでしょう。大学院の入試は1月7・8日ですから、受験生は毎日朝6時に起きて、夜10時半の消灯まで勉強をしています。路喩喬さんは、充電式の電気スタンドで部屋の、電源を切断された消灯後も勉強していたのだと言います。今が彼女にとって非常に大切な時期なので、私は大変気になっていましたが、3日間床に伏しただけで回復したそうで、私はホット胸を撫で下ろしたのです。
 そして、彼女の回復を喜び合ってお茶を飲んでいるところへ、趙雨京さんが実家の西安へ80歳になるお母様をおくって行き、昨晩戻ったと、手土産を持参して私の部屋にやって来ました。手土産は少数民族特産の柿餅と熟柿でした。果物の柿を小麦粉で焼いた餅で、中の餡にはナッツ類が入っている甘いお菓子で温めて食べたのです。それから、私はいただいた小ぶりで真っ赤なトマトにかぶりつくと、それはトマトではなく熟した柿の実でした。甘い!美味い!(次回に続く) *南の風2766号 (2011年11月10日)

■烟台の風197−嬉しいことが重なった週末@ (Tue, 8 Nov 2011 13:05)
 金曜日の夜です。山東工商学院の「東アジア社会発展研究学院」院長の林明鮮先生と日本語学科の申順芬先生のご夫妻に招かれて、私は本格的な刺身をご馳走になりました。
 タクシーで乗り付けたのは学校近くの奥まった路地裏の韓国料理店でした。魚は養殖ものは使わず、全部店のご主人がその日に海で釣って来るのだとか。その日も釣り上げたばかりの大型の生きた真鯛を自慢げに私たちに披露してくれました。本場のマッコリと刺身で幸福感に浸った私です。過去何度か私は烟台の日本料理店で刺身を食べましたが、冷凍物でシャビシャビの味の無い物ばかりでしたので、本物の刺身に私は舌鼓を打ったのです。
 私と同席したのは、林明鮮先生の同僚で社会学者の柳中杰教授です。49歳の彼は、現在私の生徒で毎回授業を若い学生たちと一緒に受講しています。哈爾濱大学でコンピュータを学び、北京大学の大学院で社会学を学んだ異色の教師です。彼は、先頃日本留学を山東省の教育委員会に申請をしたところ認可を受けたので、来年7月に日本語能力試験を受け、その結果によって正式な許可が出たら日本に留学するのだそうです。大学のサバティカルではなく、山東省政府の派遣です。「日本語は独学で自己流だが、話すことと読むことはできても、聴力が困難だ」と言っています。
 彼は、私と何度か酒を酌み交わした私の飲み仲間の一人です。中秋節の時には、立派な化粧箱に入った月餅をたくさん私にくれたのです。奥さんが、高校の化学の先生で遠距離通勤のため、中学生の一人娘の朝食、夕食は彼が担当しているのだそうです。凄いな〜あ。(次回に続く) *南の風2765号 (2011年11月8日)

■烟台の風196コカコーラで夢の味 (Wed, 2 Nov 2011 19:31)
 日本人教師が、突然帰国することになりました。最近体調不良を訴え、病院で精密検査をしたところ、腸にポリーブが見つかったそうです。急遽、故郷の青森に帰って手術をするのだそうです。
 そこで、先日は日本人教師が3人集まり、私たちの受け入れ先の国際交流学院(センター)の魏平老師を招き、ささやかな送別の宴を出発直前の彼女の部屋で開催したのです。彼女は私たちを迎えるために、出発準備で忙しいにも関わらず、五目御飯を炊いて私たちをもてなしてくれました。
 私は、近くの肉屋で鶏の手羽先を大量に買い込み、油とコカコーラで煮込んだおつまみと、マヨ味噌の胡瓜を携えて、彼女の部屋に向かいました。この手羽先の料理は、先日私の部屋を訪れ、料理を作ってくれた3年生の女子学生に教えて貰ったものです。
 酉年生まれの私は、あえて好んで鶏肉を食べることはしませんが、学生の作った手羽先料理は絶品だったので、それを思い出し、当日午後からゆっくり時間をかけてコカコーラで煮込み、持参したわけです。
 私の学生時代は、ベトナム反戦と沖縄本土復帰の運動に参加していたため、若気のいたりで、コカコーラをアメリカ独占資本の世界戦略の象徴とみて、コーラは好きになれませんでした。でも復帰運動で訪れた沖縄の不味い泡盛(当時は米で醸造していないので)は、コカコーラで割って飲まざるを得ませんでしたが、私は自ら求めることはありませんでした。話題がそれますが。こちら中国の若者はコーラが大好きなのです。
 ところがですよ、私が好まない鶏の手羽先とコカコーラがミスマッチどころか、素晴らしい天国の味を作り出すのです。皆は喜んで食べてくれました。このレシピは女子学生が文字ではなく絵に描いて私に教えてくれたのです。新しい中国料理です。資本主義と社会主義の合作料理の味です。*風2763号 (2011年11月4日)

■烟台の風195−無花果ワインの味は (Thu, 27 Oct 2011 21:58)
 皆さんは、無花果(イチジク)のワインを飲んだことがありますか。なかなかいけますよ。
 先日、私は学生に誘われ烟台市国際博覧中心で開催されている三つの博覧会に出かけました。「国際ワインフェスティバル」「国際果蔬・食品博覧会」「山東半島藍色経済区海洋食品博覧会」です。藍色経済区の藍色という表現は、緑色とともに良い意味をあらわす象徴的な色彩表現で、よく中国では使用されています。例えば「緑色生活」のようにです。緑は萌える、藍は生命力ですね。参考まで、日本の桃色(ピンク)文化は中国では、黄色文化です。
 巨大な博覧センターは、山東工商学院からバスで10分ぐらいの場所にあります。私の大学に隣接する烟台大学の裏手に運動公園があります。広大な公園に陸上競技場や体育館が点在していますが、その一角に博覧センターが造られています。会場は館外、館内ともに人でいっぱいでした。入館には、飛行場の手荷物検査と同じように、レントゲン検査がありました。
 この会場には、私の教え子たちの何人かがボランティアとして働いています。「彼女たちに会えると嬉しいな」と私は誘ってくれた女子学生に言いましたが、こんな混雑ではとても無理だと私は最初からあきらめていました。ワインの会場は試飲ができるので、どこのブースも大賑わいでした。私を案内する王瑞さんと李玉栄さんの顔見知りの学生が各ブースで働いています。彼女たち2人はその学生に私を紹介すると、混み合う来客にもかかわらず、私を優先してグラスに試飲のワインをなみなみと注いでくれるのです。フランス、オ−ストラリア、南アフリカ、韓国、ニュージランド、もちろん中国と飲み回ったのです。
 でも私は、見てはならないものを見てしまいました。多くの試飲客が飲み干したワイングラスは、ブースの奥のポリバケツの中に入れ、シャブシャブと回して、洗うだけだったのです。ギャフン!
 果物の会場で私のクラスの学生3人に偶然会うことが出来ました。彼女たちはブースの担当ではなく、本部事務室の担当だそうですから、たまたま会場を散策中に私を見つけ、笑顔で声をかけてくれたのです。王鴿さん、王磊と李玉歓さんです。神様の引き合わせですね。
 嬉しい出会いでした。イチジクのワインは彼女たちが案内してくれた威海(ウェハイ)のブースで試飲したものです。このワインフェスティバルには海外各国、台湾を含む中国全土から出店がありますが、なかでも烟台市はワインの町だけに、国内で最も有名な「張裕ワイン」を筆頭にワインの企業は30社以上が出店していました。4階の果物の会場で泰国(タイ)のコーナーにさしかかると、見知らぬ女性がモンキーバナナと生の龍眼(ロンユエン)を私たち3人にたくさんくれました。彼女は英文科の学生で、王瑞さんと李玉栄さんの顔見知りだったのです。
 会場の片隅には、自然木の巨大な根を用いた工芸彫刻の常設展示場が設けられています。見事な美術品にため息がでますが、価格札を見て更にビックリです。何百万元もするのです。こんな巨大で高価な彫刻を誰が購入し、どこに飾るのでしょうか。
 後日、李玉歓さんはワインを1本プレゼントしてくれました。*南の風2759号 (2011年10月29日)

■烟台の風194研究年報と平和の使者の鳩 (Tue, 25 Oct 2011 13:49)
 平和の使者鳩に抱かれて、首を長くして待ちに待った『東アジア社会教育研究』16が国際航空便で送られてきました。鎌倉の銘菓「鳩サブレ」とともに、東アジアの永遠の平和を祈りつつ、遠く海を渡って烟台まで飛来してきたのです。
 南の風を拝見してTOAFAEC 研究年報16号の重厚な出来栄えを私は承知はしていましたが、実際にこうして手にすると、わずか短時間でこれだけ充実した年報を編集された皆様に心の底から“ねぎらいと、賛辞と敬意”の言葉を贈らさせていただきます。
 実は数日前に、当校の「東アジア社会発展研究院」の林明鮮・院長に14・15号を差し上げたばかりでした。とても喜んでいただいたので、16号も近いうちにお届けしますと約束した、その翌日に配達されてきたのです。
 今、私はとっておきの日本から持参した緑茶を入れて、鳩サブレにかぶりつき、16号を読み出したところです。古都鎌倉には土産物に相応しい名物が有りません。唯一豊島屋の鳩サブレは、海外の友人に差し上げると、評判の良いお菓子なのです。香ばしくて、歯ごたえのある、さっぱり味は、洋菓子とはいえ、しっかり日本の味になっています。
 日本の味を噛みしめ、東アジアを読む、贅沢な時間を過ごしています。私の名前は長和です。長い平和という意味ですから、鳩サブレは、私のシンボル的なお菓子ですね。韓国のある家庭では、お子さんが私を鳩サブレのおじさんと幼児の頃呼んでいたとか。その子も昨年結婚されたそうです。鳩サブレのパワーで平和な家庭が築けますように。
 もう一度、編集員会の皆さまに感謝を申し上げます。ありがとうございました。*風2758号 (2011年10月28日)

■烟台の風193−日中韓三カ国の達人B (Fri, 21 Oct 2011 21:02) (前回の続き)
 学術会議は、日中韓語が飛び交いとても私は疲れました。久し振りに神経を集中させて発表・討論に聞き入ったからです。林明鮮院長は日中韓の三カ国語(英語は当然全員可能)を話されますが、なんと韓国の金益基(東国大学)教授も三か国語を話します。林明鮮先生は名古屋大学に留学された朝鮮民族の中国人ですから、当然かもしれませんが、金益基教授はアメリカ留学組です。日本には1年間上智大学でサバティカル(有給休暇研究)をして、中国には2年間人民大学でサバティカルをしたそうです。日本語は独学だとのこと。
 パワーポイントを使い、三カ国で発表し、中国語の質問にも流暢に中国語で答える姿に、私は驚嘆したのでした。日本側の発表に対しては日本語で質問をなさっていました。昨年上海で開催された日中韓の社会教育・生涯学習の国際フォーラムでは、福建師範大学の李斗石先生も三か国語を流暢に話されていましたが、彼も朝鮮民族の中国人です。
 そこで、今回日本側発表者の通訳を務めた大連海事大学の李珊先生が、美しい三か国語を話されていたので、晩餐会の時に私は彼女に質問をしてみました。「朝鮮民族のご出身ですか」、とです。彼女は純粋の漢族で、大学は都立大学に留学したそうです。韓国語はやはり独学だそうです。天晴れ!見事!驚嘆!尊敬、脱帽です。
 実は、私の日本語クラスの4年生と3年生に一人ずつ朝鮮族の女学生がいますが、2人とも成績はトップクラスで、3カ国語を話します。他の私の学生には、「君たちは素晴らしい。英語と日本語ができるのだから!」と言ったあと、将来必ず必要になるから、韓国語も学習して下さい。」といつも言っているのです。例えどんなに嫌ったとしても、国土を移すわけにいかない隣国なのですから、東アジアの三国の連帯と協働は必ず求められる。その時多言語能力が生かされるのだとですね。
 ところで世間は狭いですね。まさにグロバリゼーションの実証です。私の20年来の韓国の友人の李時載(カトリック大学教授)先生は、金益基先生のソウル大学時代からの友人で、今年サバティカルで人民大学に滞在している李時載先生を北京に訪ねたそうです。私も4月に李時載先生を訪れ北京に遊んだのです。
*南の風2755号 (2011年10月23日)

■烟台の風192−日中韓三国の社会学研究 A(Wed, 19 Oct 2011 22:12)(前回の続き)
 以下は15本の研究テーマと発表者です。
 【日本側】@「大都市における孤立化及び孤独化する高齢者と家族生活」:奥山正司(東京経済大学教授)、A「都市再生と創造都市〜横浜市における「創造界隈」の形成」:松本康(立教大学教授)
 【韓国側】B「東アジア共同体と東アジア主義」:金成国(釜山大学教授)、C「東アジア文化の文脈における韓国の上昇と下落の波」:金益基(東国大学教授)
 【中国側】D「人口高齢化における老齢産業発展の研究」:劉同昌(青島社会科学院研究員)、E「我が国の転居老人の居住意識についての研究」:李珊(大連海事大学社会学博士)、F「幸福社会〜生活の質の全面的向上の追求〜」:呂占軍(山東大学教授)、G「戦後日本の社会保障制度の発展と改革」:王偉(中国社会科学院日本研究所文化研究室主任)、H「農村流動人口家庭の老人と子女世代間の経済流動の分析」:呂如敏(山東工商学院、中国人民大学在読博士)、I「都市独居老人の生活満足度の研究」:劉永策(山東工商学院政法学院副教授)、J「山東半島の近現代歴史文化の観光資源開発」:禹英蘭(烟台大学外国語学院教授)、K「政府指導型海洋漁業管理の類型の初の試み」:唐国建(山東工商学院、河海大学在読博士)、L「基礎的道徳における荀子礼法の統一思想の論考」:呉樹勤(山東工商学院公共管理学院副教授、博士)、M「中国農民の自殺」:李善峰(山東省社会科学院社会学研究所所長、山東省社会学会副会長)N「山東省の安定した婚姻と婚姻満足度の研究」:林明鮮(前掲、政法学院教授)。以上です。
 昨年、日中韓の社会教育・生涯学習をめぐる国際シンポジューム「学習型社会建設国際検討会」が上海外国語大学で開催されましたが、同様に社会学の分野でも日中韓の研究交流が行われているのです。参考までの、日本社会学会の研究大会プログラムを見ると、私たちが日頃関心を抱いている課題が山積しています。多文化共生、在日韓国・朝鮮人問題、高齢者問題、女性問題、外国人労働者問題、沖縄問題、など広範にわたって研究が行われ、国際比較研究も日中韓の研究交流が進んでいて、盛んのようです。(次回に続く)*南の風2754号 (2011年10月21日)

■烟台の風191−日中韓三国の社会学研究 @ (Mon, 17 Oct 2011 21:24)
 「中日韓三国社会発展学術研討会」が我が山東工商学院で開催されました。主催は、山東工商学院の「東アジア社会発展研究院」と「政法学院重点扶持学科社会学団体」です。私は、主催者代表の林明鮮教授にお招きをいただき参加させていただきましたので、ご紹介させていただきます。
 山東工商学院の「東アジア社会発展研究院」院長の林明鮮教授は、名古屋大学で博士の学位をとられ、10数年東海地方の各大学で社会学等を教えていらっしゃいました。最近は、立教大学のグローバル都市研究所の訪問研究員、名古屋大学の客員研究員をされて、日本社会学会大会でも研究発表をなさっていらっしゃいます。
 研究のテーマは、「延辺朝鮮族の離婚と国際結婚」「日中韓における家族の変容と社会的ネットワークの研究」「都市高齢者の居住形態とその規定要因」「中韓両国の都市における高齢者の居住選択の特徴とその規定要因」「都市高齢者の孤独問題と人間関係〜三鷹市井の頭の男性高齢者の事例を中心に〜」と、高齢化社会の研究を中心に精力的な研究に取り組んでいらっしゃいます。
 10月15日(土)に研究会は開会いたしました。林明鮮教授の司会進行のもと、山東工商学院の共産党委員会郭金創副書記の歓迎の挨拶、そして、日本側からは前日本都市社会学会会長の松本康教授(立教大学)と韓国側からは前韓国社会学会会長、東アジア社会学会会長の金成国教授(釜山大学)が、それぞれ開会のご挨拶をなさり、プログラムは始まりました。15本の研究テーマと発表者を次に掲げさせていただきます。(次回に続く) *南の風2753号 (2011年10月19日)

■烟台の風190−中国の大学の運営組織 Thu, 13 Oct 2011 07:55)
 山東工商学院の外国語学院(学部)の4年生を担当する「補導員」と会食をしました。補導員は地元山東省出身で、大学院卒の29歳の男性職員です。しかし、教師ではありません。大学の「共産党委員会」の委員で、学内の「学生党支部」の管理人、すなわち指導者というわけです。
 彼は「中国共産主義青年団(共青団)」の出身です。この共青団の団員は、14歳から28歳までで、14歳以下は「中国少年先鋒隊」が党の下部組織となっています。社会教育施設の「少年宮」などの運営にもこうした組織が深く関わっているのです。
 この2つの組織出身者は共産党の党員の中でもエリート階層で、中国の中央、地方の要職を占めています。中国の大学の運営は、学長を頂点とする学内組織と学内の共産党委員会の二重構造となっているのです。共産党委員会は学長を指導監督します。勿論当然ながら学生会も学生党支部が中心になっています。学長の下には、「学術委員会」「公務委員会」「教職員代表大会」が組織されていますが、決定権は共産党委員会が握っています。
 補導員の具体的な仕事は、政治思想が基本で学生の生活指導・道徳指導を行っているのだそうです。大学院の入試には政治思想もありますよ。
 中国の大学は、中央政府の教育部所管の大学と中央省庁が設置した大学がありますが、1998年の高等教育機関の改革により、多くの国立大学が地方政府(省)と共同管理をしたり、地方政府に移管したりしています。また民営大学(私立大学)なども登場してきています。経営体制が変わっても、党組織が、中央から地方の末端にまで貫徹していますから、問題はないのですね。*南の風2750号 (2011年10月15日)

■烟台の風189−「中国甲午戦争博物館」にてA (Fri, 7 Oct 2011 21:21:03)
 (前回に続く) 船が着岸すると、観光客は一斉に「中国甲午戦争博物館」に足を運びます。中国語で「日清戦争」を中日甲午戦争(1894〜95年)と呼びます。巨大な近代的博物館の入口には「喚起吾国千年之大夢」「実自甲午一役始也」と大書きされた額が掲げられていました。
 「中国が千年の夢から起こされたのは、実にこの甲午戦争に始まる」とでも訳すのでしょうか。館内は、海中から引き揚げられた戦艦の大砲や錨などの戦争遺物や写真などが展示されていました。ゆっくり観覧したいのですが、人の波に押し出されてしまいます。
 多くの日本と清国の軍人の顔写真と一緒に「福沢諭吉」の写真が展示されていましたので、解説文を読みました。「近代日本脱亜入欧論的鼻祖鼓舞侵略拡張論」と書かれていました。そう言えば確か、福沢諭吉は「文明と野蛮との戦い」とこの戦争を称していますね。 *鼻祖:創始者
 博物館の近くに司令部が置かれた中国の伝統的な広大な建築があります。正面の石造りの門にも「中国甲午戦争博物館」と彫られていました。日本海軍に大敗北をきし、降伏を通告した前日(2月11日)に服毒自殺をした丁汝昌提督の部屋もそのまま保存されています。敗戦の責任を負って59歳で命を閉じた提督の玄孫の丁小龍氏が、民族英雄丁汝昌后現場署名留年と書かれた看板を背に大勢の観光客に『甲午戦争』という本にサインをしていたのがとても印象的でした。
 ところで、戦後処理は1895年4月17日に下関で「日清講和条約(下関条約)」を調印して終結しますが、その条約の批准書は、同年5月8日に芝罘(烟台市の旧称チーフ:現在は芝罘区)でとり交わされたことはあまり知られていない史実なのです。
 帰途のバスは大学正門近くで私たち2人を下してくれました。私は「大家非常感謝!一路平安」と挨拶して別れたのです。お年寄りのご夫婦に元気をいただいた今回の旅でした。*南の風2747号 (2011年10月10日)

■烟台の風188「中国甲午戦争博物館」にて@、(Thu, 6 Oct 2011 09:33)
 私の国慶節の連休は、威海(ウエィハイ)へのバス旅行がハイライトでした。威海は山東半島の先端に位置する海洋都市で、韓国の仁川港とは定期航路があります。その昔、清朝末期には李鴻章のもと、丁汝昌提督の率いる北洋艦隊の海軍基地「威海衛」が置かれていたところ。烟台市街地から観光バスで高速道路を走り1時間半ぐらいで到着します。
 今回は旅行社の中国人向けツアーに申し込みをしましたので、4年生の路兪喬さんに同行をしてもらいました。私たちの隣の席の老夫婦は上海からの旅だそうです。威海の後は大連に行くのだとか。上品なご主人は81歳で、奥さまは78歳です。お二人はご苦労をなさった世代ですが、お元気で車中は常に何かを召し上がっていました。
 26人の座席は満席で中国南部地方の方言が飛び交っていました。とは言え、私には方言の聞き分けできませんので、これは路さんの弁です。威海市内に到着すると、さすがに黄金週間で、海岸通りは大渋滞でした。いよいよ目指す「劉公島」へ向かう観光船への乗船手続きです。こんな大混雑の中で、もしかして筆談をせねばならない「一人旅」ではなくって良かった、と私は路さんに感謝をしたのです。
 劉公島は洋上20分で上陸ですが、船上から見る威海市街の町並みは、まるでイタリア地中海の海岸を思わせる、白い壁に黄赤色の屋根、そしてその背景に緑の山が青い海に浮かぶ絵葉書きのような景色です。ひっきりなしに行き交う観光船はどれも観光客で溢れていました。この美しい海にも、天然の良港がゆえに熾烈な海戦が行われた歴史が眠っているのです。その戦争は李氏朝鮮の覇権をめぐる宗主国中国清朝と日本との戦いですが、日本の軍国主義の幕開けと言っても良いでしょう。
 さあ、「中国甲午戦争博物館」に到着です。(次回に続く) *南の風2745号 (2011年10月7日)

■烟台の風187好きな人、嫌いな人日中比較A (Tue, 4 Oct 2011 06:58)
 (前回から続く) 日本人の若者の調査は、yahoo知恵袋によります。中国の学生は、現実主義で日本の若者は理想主義だと、いろんなところで指摘されていますが、好き嫌いでは中国の学生は、外見的な点を評価して、日本の若者は内面的な点を評価基準にしているようです。
 好き(65)、嫌い(56)をそれぞれ、身体的な理由、性格・人格と能力・態度、に分類すると、さらにそれは明らかになりました。日中で注目されるのが、「親孝行な人」の中国と「家族思いな人」の日本の回答です。現在家族制度が変化してきているとは言え、精神構造を規定する両国の儒教文化が若者の心には底流しているのですね。
 その他、日中の代表的な共通項目「好き」は、・笑顔が素敵な人・清潔感のある人・さわやかな人・歌がうまい人・一生懸命なにかを頑張っている人・思いやりのある人・さりげなく優しくしてくれる人、などです。「嫌い」は、・不潔な人・自信過剰な人・自己中な人、です。
 日本独特な回答で「好き」は、・気配り上手な人・聞き上手な人、・最低限のマナーを守っている人、などです。「ギャップのある人」は、中国人の学生から、どんな意味なのか質問がでました。皆さんはお分かりですか。
 「嫌い」は、・ロリコン・すぐに人を見下す人・知ったかぶりをする人・集団でしか行動できない人・仕事とプライベートの区別が付けられない人・ナルシスト・極度のマザコン、でした。イケメン系の韓流スターの追っかけを生き甲斐とする、日本の中年女性からは予想できない日本の若者の考え方ですね。ちょっぴり安心しました。でも、それだけマザコンの男性が多いということは、やっぱり深刻なんですね。
 それでは、中国独特な回答で「好き」は、・高収入な人・高学歴な人・料理が上手な人(中国の多くの家庭では男性が料理を作ります)・向上心のある人、です。「嫌い」は、・乱暴な人・他人を支配する人・意見を言わない人・ルーズな人、が代表的ですが、嫌いの1位(12票)の「ケチな人」は、日本の回答には無い項目です。
 「高収入な人」「高学歴な人」と合わせて、中国人女性の現実的な生活力を見事に象徴していますね。中国の男性は大変ですよ、マンションと車を所有してから、貯金通帳を見せて結婚申し込みをしなければならないのですから。房奴(ファンヌー:住宅ローンに縛られる若者)という新語も生まれているくらいですから。*南の風2744号 (2011年10月5日)

■烟台の風186−私の好きな人、嫌いな人@ (Thu, 29 Sep 2011 10:05)
 3年生は作文指導です。教科書を読み合い解説をしたり、毎回テーマを与えて作文を書かせ、個別添削指導をしています。今回は学生が少々疲れているようなので、グループ分けをして、話し合いと板書付きで発表をしてもらいました。テーマは「私の好きな人、嫌いな人」です。先ほどまでくたびれきっていた顔が輝きを増し、活き活きと話し合う日本語は大声です。でも、私が注意をしないと熱が帯びるとともに直ぐ中国語に戻ります。
 3クラス、15グループ、90人が対象です。統計を出してみました。ベスト10位を紹介します。日本の学生と比べていかがでしょうか。好きな人の1位は11票ですが、15グループで11グループが指摘したということです。ほとんどが女子学生ですから、男女別、同性、異性を対象に問を区別していません。
 【好きベスト10 】<回答全65項目>1位: 優しい人 11 票、2位: 格好いい人 8 票、3位: 背が高い人、7 票、4位〜5位: 性格が明るい人 6 票・ユーモアの有る人6票、6位〜8位:親切な人 4 票・正直な人 4 票・可愛い人 4 票、9位〜10位: 楽観的な人 3 票・ 頭が良い人 3 票・ 爽やかな人3 票・ 向上心の有る人 3票・ 目が大きい人 3 票です。
 【嫌いベスト10 】<回答全56項目>1位: ケチな人 12 票、2位: よく嘘をつく人 8 票、3位: うるさい人6票、4位:汚い人(不潔) 5票、5位:厳しい人 4票、6位〜8位:ずるい人 3票・悪口を言う人 3票・おっちょこちょいな人 3票、9位〜10位: 文句を言う人 2票・女々しい人 2票・傲慢な人 2票・消極的な人 2票・ほらを吹く人 2票・自慢をする人 2票です。(次回に続く) *南の風2742号 (2011年10月1日)

■烟台の風185カロリー制限で長生きを (Mon, 26 Sep 2011 13:24)
 日本語学科の学生が私の部屋を訪れると、私はNHK・WORLDを見せます。皆さんは寿命を延ばす遺伝子をご存じですか。私は、TVでNHK国際放送を学生と見て知りました。この遺伝子は、最近2000年にアメリカで発見された「サーチュイン遺伝子(SirtuinEnzymes)」です。この遺伝子は20億年前に飢餓から生き延びるために作り出されたそうで、誰もが有しているのだそうです。この遺伝子はミトコンドリアを増幅させ、活性化酸素を抑え、免疫細胞の老化を抑えて、血管を広げ脳梗塞を防ぎ、認知症や糖尿病などの成人病を予防するそうです。
 しかし、通常はサーチュイン遺伝子は休眠しているそうです。この遺伝子を働かせるには、私たちが摂取するカロリー制限をしなければならないそうです。金沢医科大学での実験では、4人が7週間毎日1日のカロり−を25%制限したところ、サーチュイン遺伝子が働きだし、確実に全員ミトコンドリアが増えたそうです。
 飢餓対策の遺伝子が目覚めたのですね。でも、カロリー制限は栄養バランスや運動量などとの関係、それから継続性で問題も有りますね。
 カロリー制限をしないで、この遺伝子を働かせる研究も進んでいて、「レスベラトール(Resveratrol)」という赤ワインや赤ブドウの皮に含まれるポリフェノールを取り込んだサプリメントを飲み続けると、血管を広げ、記憶力が上がり、寿命が延びるとの報告もなされていました。この番組は、日本ではNHKスペッシャル「寿命は延ばせる!」で放映されたそうですよ。烟台の「張裕赤ワイン」は国際コンクールで金賞に輝いた有名なワインです。これから私は愛飲する烟台ビールをやめて赤ワインに切り替えます。
 日本のことわざには、「腹八分に医者要らず」、という教訓がありますが、こちら中国にも「飯吃七分飽、長寿永不老」(fan chi qifenbao ,chang shou yang bu lao)ということわざがあります。七分と八分の違いだけで、日中同じ意味のいましめとして、民間伝承してきたのですね。皆様も飽食の時代に生きる私たちへの警鐘と信じ、カロリー制限を実施してみてはいかがですか。
*南の風2740号 (2011年9月27日)

■烟台の風
184−日本語検定1級試験に合格 (Fri, 23 Sep 2011 18:04)
 先日は2人の女子学生と烟台ビールで祝杯をあげました。難関の日本語検定1級試験に合格した、牛帥さんと唐娜さんのお祝いでした。
 唐娜さんは大学の国際交流センターに委嘱され、私たち日本人教師の連絡係をしてくれる4年生です。この夏休みは故郷の曲阜に帰らず実習(アルバイト)を2カ月したのだそうです。曲阜は孔子の故郷です。彼女は日本企業の工場で日本人技術者の言葉を中国人従業員に通訳する仕事をしたのです。日本人社員に可愛がられ、とても楽しく仕事ができたとか。でも同僚の中国人女性の従業員にいびられ、辛い経験もしたそうです。いよいよ今年の12月からは本格的な就活を行うそうです。
 牛帥さんは夏休みも休むことなく大学院入試のために図書館で勉強したそうです。でも祝杯の席で彼女は「先生、私は大学院を諦めました。」と私に告げたのです。理由を質すと、彼女の妹も他の大学の英文科の学生で、学費が非常に高いので、家計を助けるために就職をして、両親にこれまでの恩返しをするのだそうです。これを聞いた私は言葉を失いました。
 ところで彼女は不思議な体験をしました。7月10日に財布をスリに盗られたそうです。8月10日にはハンドバックをひったくりに盗られたそうです。学生証、銀行カード、食堂利用カード、携帯電話、などが入っていたとか。そして、祝杯の翌日の9月10日は教師節ですが、彼女にとっては魔の10日なのです。中国には「二度あれば三度目は無い」という格言があるそうですが、日本では、「二度ある事は三度ある」と言われているので、気を付けましょうと励ましたのです。
 祝いの席を立ち、彼女はトイレに行きました。すると彼女はそこでスッテンコロリ、とこけたのです。三度目は少々早めでしたが起きたのです。唐娜さんは早く結婚したいと言います。牛帥さんは一生結婚しないと宣言します。私はニコニコと聞き役でしたが、牛帥さんが最近恋人と別れたことを私は密かに知っているのです。二人は今、日本企業の幹部職員にそれぞれ中国語の個人レッスンをしています。二人の人生が前途洋々と大海原のように広がることを祈りたいと思います。 *南の風2738号 (2011年9月25日)

■烟台の風183−戦後生まれの私にはA (Mon, 19 Sep 2011 09:22)
 (前回に続く) 昨日は日曜日なので、私は女子学生と一緒に繁華街へ買い物に出ました。5階建ての新華書店は小さな子供連れの家族で賑わっていました。烟台大学、山東工商学院と魯東大学をを結ぶ52号路線のバスはいつも混んでいますが、昨日は日曜日でしたから、特別混んでいました。でも若い女性が私に席を譲ってくれました。
 混み合っているバスの中で、私は学生に9・18の話をして、日本語では大きな声で話さないようにと注意をしました。すると、学生は「大丈夫ですよ、」と笑って答えた後、大学の事務当局から学生代表が数日前に呼び出され、「来る9・18には軽々しい行動を起こさないように」、との通告を受けた、と私に語りました。彼女は4年生の班長(クラス代表)さんなのです。
 バスを降りると再び彼女は言いました。「先生の前に座っていたお年寄りの二人のご婦人は、強い烟台方言で伊藤先生の顔を見ながら、9・18の話をしていた」と。
 私は自室に戻ると、中国の教科書『日本歴史』を開いてみました。そこには世界恐慌が引き起こした不況を打開するため、日本の帝国主義が起こした中国侵略戦争と記述され、翌年3月1日には日本の関東軍占領地の東北に満州国がつくられたと説明されていました。
 戦争を知らない世代の圧倒的多数の国民、1人っ子政策にによる我儘な小皇帝の出現、豊かな物資と飽食生活、そして内政への不満と国民意識統一、の矛盾は毎日放映される「抗日戦争ドラマ」で、つい80年前の貧しい、困難に満ちた国民生活を教えているのでしょうね。「歴史を忘れるな!国辱をわすれるな!」と。戦後生まれの私ですが、昨日は複雑な気持ちで一日を過ごしたのです。
 *南の風2737号 (2011年9月23日)


■烟台の風182−戦後生まれの私には@ (Sun, 18 Sep 2011 21:59)
 今日9月18日は日中15年戦争が始まった日です。中国では「勿忘国恥9・18」と言われていて、朝からTVニュースでも報道され、旧日本軍の関係者が友好交流団を組んで、吉林省の省都・長春市「偽満皇宮博物院」を訪れてインタビューを受けている映像が流されていました。
 長春市は、かつての満州国(中国では偽満州国という)の首都「新京」です。九・一八事変は、1931年9月18日に遼寧省の瀋陽(当時は「奉天」)郊外の柳条湖で日本軍が起こしたいわゆる満州事変の発端となった柳条湖事変のことです。今年は80年の節目の年なのです。
 夜のニュースでは全国各地で開催された記念式典の模様が紹介されていました。抗日戦争の犠牲者を祀る「抗日烈士記念碑」の前で花輪が捧げられる様子や、鎮魂の鐘を突く映像、そして各地の博物館に展示されている日本軍の遺物なども、それを見学している子供たちの横顔と同時に大写しに放映されていました。同じCCTV(中国中央電視台)のニュースでは、今日、『新編・抗日戦争史』が出版された、と出版物としては異例の扱いで報道がなされていました。
 ニュース解説「焦点訪談」では、黒竜江省の戦争遺跡にまだ当時の日本軍の遺物が残されている洞窟の映像や日本兵が持参していた写真アルバムが紹介され、殺害された中国人の写真がアップで映し出されていました。瀋陽では、東北3省(遼寧、吉林、黒竜江)が今年初めて共同で記念式典を瀋陽の「九・一八歴史博物館」で開催したことも紹介されていました。(次回に続く) *南の風2735号 (2011年9月20日)

■烟台の風181−極端に難しい大学院の入試B (Thu, 15 Sep 2011 18:46)
 (前回に続く) 新たに女子学生が私を訪問してくれました。南京大学と吉林大学の大学院を目指す二人の学生が、過去の両大学院の入試で出された試験問題の問題集を携帯して現れたのです。
 「先生、問題がわかりません、教えて下さい。」と、差し出された問題集を見ると、「55年体制について述べよ」「鳩山由紀夫政権の重点政策について述べよ」、といった日本語を学ぶ中国人学生には困難とも思われる設問が有りました。外来語であるカタカナ語を中国語で表す設問も有り、全体に難しい問題が詰まっていました。たぶん日本の学生でも簡単には回答できないような問題が多かったのですね。
 また、日本語文法では「主語」の〈は〉と〈が〉の使用法の違いについての質問を私は彼女たちから受けました。さらに別の日には、一人の女子学生から、日本語の「慣用句」について教えて欲しい、との依頼を私は受けたのです。そして大学院の入試に出る翻訳問題について、「私は、日本語の文章を中国語に翻訳するのは得意だが、中国語を日本語に翻訳するのは自信が無いので、翻訳した文章を添削して欲しい」との申し出です。
 「いやあ!、私は日本語の専門家ではないぞ。私は日中の文化の橋渡しに来たのだぞ!」と自分自身を呪ったのでした。とは言え、可愛い学生の懇願を打ち消すわけにはいきません。毎日私は授業の無い自由時間は180人の作文添削と資料作成に追われています。その合間に浅学菲才な私は日本語文法の参考書を紐解いている昨今なのです。
 私は時間外手当が欲しい!勿論これはジョークです。少しでも学生の役に立つために、私は自分を褒め、自身を鼓舞しているのです。「皆が、目指す大学院に合格して、将来は日本語教師として、日中の文化の理解者を一人でも多く育てて欲しい」、と願いつつ。*南の風2734号 (2011年9月18日)

■烟台の風180−不公平な大学入試制度にA (Tue, 13 Sep 2011 07:53)
 …(前回に続く)… 張一恒君は大学入試の統一試験に失敗したそうです。750点満点で600点しかとれなかったからです。北京の有名大学に進学する夢は破れ、山東工商学院にやって来たのです。彼は中国の大学入試制度は不公平だと怒りを露わにして不満を私にぶちまけます。
 私が知らなかったことを彼は熱っぽく語りました。中国では毎年6月の初めに実施される「全国高等院校招生統一考試」(統一試験)の成績によって志望校を決めるのです。試験は、国語、数学、英語が各150点満点で、総合科目が300点満点、合計750点です。彼は語気を強めて続けます。「北京大学は、北京在住の学生は550点で入学できます。でも山東省の私たちは650点が必要なのです」と彼は言います。
 これは「地方保護」という地元優遇措置だそうです。西蔵(チベット)自治区や新彊ウィグル自治区と東北3省(遼寧、黒竜江省、吉林省)の受験生も優遇され、550点で入学資格が得られるのだとか。少数民族対策なのでしょうか。山東省、江蘇省、河南省、広東省の受験生は100点のハンデが有り、650点が必要だそうです。この制度は上海や重慶といった大都市でも同様だとか。さらに統一試験問題も大都市と一部の省では独自に作成できるそうです。
 私は考えました。省外の優秀な学生を拒む理由はなぜか。それは、大都市への人口流入抑制対策の一環なのかと。どうりで私は理解できました。私の大学に中国全土から学生が集まっているわけが。でも大丈夫ですよ。生涯学習社会は、誰にでも「やり直し」の機会が保障されているのですから。ところで1999年に中国では大幅に大学生枠を増やしましたが、逆に就業市場が追い付かず、卒業生の就職難が続き高学歴者の貧困層が生まれて、「蟻族」という新語が作られ、社会問題になっているのです。学生諸君、加油(頑張れ)!加油!。(続く) *南の風2732号 (2011年9月15日)

■烟台の風179−張君の苦手は日本史です@ (Fri, 9 Sep 2011 16:32)
 北京の大学の大学院に進学したいけれど、日本史が苦手です。是非教えて下さい、と言って手土産に「清明上河図」と描かれた大きな扇子を携えて私を尋ねて来たのは3年の男子学生です。彼は縄文時代から平成に至る日本の歴史区分を完璧に筆記できましたが、日本語で読むことはできませでした。
 ところが「先生、明治政府の政策の一番重要なものは何でしたか。それによってどのような影響がありましたか?」と、たどたどしい日本語で私に質問を浴びせかけます。続けて、「西南戦争はなぜ起きたのですか?」と質問攻めです。これが日本史の苦手な張一恒君の質問です。日本の学生諸君はこの質問に答えられますか。歴史の大好きな私は、待ってましたとばかりに笑顔で答えたのです。
 ところで、なぜ彼は明治維新に関心があるのでしょうか。中国の改革開放経済体制に重ね合わせて、日本の経済発展の原点でも探っているのでしょうか。張一恒君は、私のクラスでは成績は下の方です。でもこんな難しい質問ができるのですね。しかも彼は司馬遼太郎が好きで「坂の上の雲」を読んだそうです。
 そして「先生、日本の青年と韓国の青年と中国の青年では、現在、どの国の青年が一番活力が有りますか?」、とまた畳み掛けるように質問を発するのです。彼の質問の趣旨は、日本や韓国の若者の将来・未来に向けた希望と生き甲斐を尋ねているのです。
 難しい質問ですね。諸行無常、来世御利益、現世御利益の人生観、一神教と多神教、一元主義文化と多元主義文化の違いなど、また、成熟国家と成長(発達)国家でも違いますね。お互いにこの違いを理解し、認め合わないと、簡単に答えは出せませんね。中国の若者の多くは悩みを抱え、考えているのです。(次回に続く)  *南の風2730号 (2011年9月13日)

■烟台の風178家庭教師をした学生は (Wed, 7 Sep 2011 17:34)
 学生に暑假(夏休み)の過ごし方を聞いてみました。3年生は作文で、2年生は一人ずつ発表してもらいました。多くの学生は、7月はアルバイトで稼ぎ、8月は郷里に帰省しているようです。ほんの少数でしたが、アルバイトもせずに友人と一緒に中国各地の有名な観光地を旅行したり、家族旅行をした例も紹介されました。経済的に恵まれた家庭の学生ですね。
 アルバイト先は、製造業の企業、飲食店、ホテル、スーパーマーケットやデパートの従業員です。驚いたのは、塾の教師や家庭教師の体験者が多かったことです。中国の過熱する進学熱を実証するかのように、夏休みに小中学生に数学や英語を教えるのです。私の子どものころは、夏休みといえば山や川で遊んだものですが。
 塾の教師や家庭教師をした学生たちは一様に良い経験をしたと書いたり、話したりしてくれました。彼らの将来の夢は教師になることですから、貴重な体験でしたね。事実、英語に関心のない学生が騒いでいて、どうしたらよいか悩んだと書いている学生もいたのです。
 日系企業でアルバイトをした学生は、日本人教師の斡旋によるものでした。彼らは「仕事は楽でしたが、単調でつまらなかった。でも日本人従業員が何時も日本語で話しかけてくれたお蔭で、日本語能力が向上した」、と述べる学生もいました。
 さて給料の使途ですが、帰省の際に両親や家族に土産を買うが多く、次いで郷里に帰って友達と旅行をする、が多かったです。泣かせるのは、学資に充てる、電子辞書を買う、友人の結婚祝いのプレゼントを買う、などでした。最近の日本の学生は夏休みをどのように過ごしていますか。
 *南の風2728号 (2011年9月9日)


■烟台の風177学生のボイコット運動 (Mon, 5 Sep 2011 07:52)
 学生のボイコット運動が起こりました。前号(176号)で、日本食レストランの従業員のストライキのお話をご紹介しましたが、今回は大学構内の学生食堂のボイコット運動紹介のです。先週の水木金の3日間、西校舎キャンパスの学生食堂の利用を学生たちが計って、拒絶したのです。 
 ことの発端は、夏休み期間中閉鎖されていた学生食堂が、夏休みあけとともに再開されましたが、食事の料金が値上がりし、さらに味も少し落ちたそうです。そこで学生有志が立ち上がり、ボイコットを呼び掛けるチラシを作成し、寮や食堂の入口に貼ったそうです。
 チラシは直ぐに学校当局の手で剥されたそうです。あるベテラン教師は、「中国の民主化は進んだ。以前はチラシなんか作れなかったのに」とのこと。それは、4年前にも同じような事が起きたそうです。しかしその時のボイコット運動は口コミで行われたそうです。その結果は料金値上げが抑えられたそうです。
 さて、今回はどのような結末になるのでしょうか。確かに西校舎の学生食堂は3日間閑散としていたようです。学生たちは少々不便でも、東校舎キャンパスの学生食堂を利用したのでしょうね。大学の構内は東校区と西校区に別れており、東校区3つ、西校区に1つの2層の巨大な学生食堂があります。全寮制の学生2万人が利用するのです。夏休み期間中は、学校に残り夏季講習を受けたり、企業実習を受ける学生を除いては、全員が郷里に帰省します。そのため学生食堂は東校区の1か所を除いて閉鎖になります。
 私はこの事を通して2つのことを考えました。1つは、共産党の学内学生組織と関係のない学生の行動についてです。2つは、学校長期休暇中(学生食堂休業中)の食堂経営者と従業員の生活についてです。休業補償でもあるのでしょうか。*南の風2726号 (2011年9月6日)

■烟台の風176−従業員のストライキ (Sat, 3 Sep 2011 05:33)
 新学期の授業開始(8月29日)以来、1週間が過ぎました。毎日自炊をしてきましたが、今朝は(9月2日)久し振りに学生食堂に出かけました。豆漿、油条とクレープを買い、野菜炒めを買おうと並んでいると、割り込んだ女子学生います。女子店員も注文を受けようとしましたので、普段おとなしい私も、やや声を荒らげて「私が先だ、順番を守りなさい」と怒鳴りつけたのです。でもそのあとニッコリ笑い「マナーは大切ですよ」と小声で笑顔で話したのです。彼女もすまなそうに会釈をしました。
 前学期も私が学内のパン屋で購入するパンを持ってレジで並んでいると、背の高い男子学生が私の頭越しにパンを差出、レジでお金を払おうと横入りをしかかりました。その時も私は大きな声を上げて彼を叱り付けたのです。こうした光景はバス乗り場では日常茶飯事ですが、社会のリーダーを目指す大学生が基本的なマナーを身に着けられないようでは教育の現場では有りませんね。
 今日、金曜日は事前に学校側と交渉した結果、私の授業は有りません。そこで携帯電話の料金の払い込みに出た足で、海岸まで散歩をして、行きつけのレストランに立ち寄りました。このお店は、私が散歩中に偶然立ち寄ったのが縁で、何回か利用しているのですが、今回約2か月ぶりで訪れたのです。「米蘭」と名づけられた日本食の小さなお店です。
 米蘭は日本企業の現地駐在職員として長らく中国に滞在されていた水野さんという日本人夫婦が退職後に経営されたお店です。水野さんは烟台市内2か所で小さな日本食のレストランを経営されているのです。
 水野さんは、滋賀県出身で川崎市多摩区在住の、なかなかの男前の好男子です。私は「6月に友人を伴って米蘭に来たら休みだった」と言うと、なんと従業員のストライキが行われ、その結果皆やめてしまっため、休業していたそうです。昨年ホンダ自動車の中国工場で大規模な従業員のストライキが起こり、大幅な給与の値上げが行われて、多くの日系企業に影響を与えましたが、まさかこんな小さな店にまで影響が及んでいるとは、経営者も大変なんですね。*南の風2725号 (2011年9月4日)

■烟台の風175−中国人の私の友達は演歌好きB (Thu, 1 Sep 2011 16:42)
 …(前回の続き)… 5時きっかり、待ち合わせ場所の南門に趙京雨さんは、愛車のトヨタで現れました。私と教え子の4年生の路喩喬さんを乗せて出発です。電話でのお誘いは、彼の自宅で食事をご馳走になるのだと思っておりましたら、市内の山東省料理のレストランに行くとのことです。路喩喬さんは西安外国語大学の大学院を目指している女子学生で、日頃から私を敬愛し、頼ってくる愛弟子です。彼女を趙京雨さんに紹介したのは私でした。それは彼が西安出身だったからです。
 車中には、夏休みを利用して西安から烟台に滞在している、趙さんのお母様と趙さんの奥様、それと北京で生活している彼の息子さんの子どもが既に乗っていて、笑顔で私たちを迎え入れてくれたのです。今日の食事会の趣旨が車中の説明でようやく理解できました。それは、この日が趙さんのお母様の80歳の誕生日だったのです。
 彼女は現役時代は軍人だったそうです。今朝のTVでは、相変わらず「抗日戦争」のドラマ「中国地」を放映していて、日本兵が恋人の前で女性を凌辱する場面が映し出され、直視し難い映像でしたが、お母様の穏やかな笑顔からは、軍人をうかがわせるような表情を見ることはできませんでした。
 趙さんの息子さんは大学で気象学を学んだ専門家で、北京に暮らす軍人だそうです。息子さんの子どもは2歳にになる男の子ですが、趙さんのお孫さんで、お母様の曾孫になります。西安に住むお母様は今回曾孫に初めて烟台で会ったのだそうです。
 円卓の中央にはバースデーケーキと沢山の料理が並び、それはそれは華やかなパーティーとなったのです。ご家族のお祝いに外国人の私を招待していただき感謝感激です。運転手の趙さんは気の毒にも好きなビールが飲めず、私と奥様だけが「烟台碑酒」(日本の朝日麦酒と合弁)を飲み干したのです。奥様も時々ちょっぴり日本語を話します。奥様のお父様は西安の大学の日本語の先生だったとか。妹さんが現在横浜に暮らしているそうです。
 帰宅の車中では、趙さんは水森かおるのCDを取り除き、奥さん好みの中国の歌のCDを流しました。すると奥さんは美声を張り上げたのです。まさに似たもの夫婦ですね。夫婦演歌です。*南の風2724号9月3日)

■烟台の風174−中国人の私の友達は演歌好きA (Mon, 29 Aug 2011 22:01)
 …(前回の続き)… ポプラ並木の農道を抜けると、目指す温泉に到着です。そこは「龍泉(ロンチェン)」という名の鄙びた温泉で、大学から車で1時間くらいの距離に湧いている天然のかけ流し温泉です。水着で入浴する他の温泉と違い、男女に別れた浴室で3つの浴槽も大きく快適です。趙さんの話だと、車が無いと交通が不便なため、烟台でもその存在を知らない人が多いそうです。
 毎日宿舎のシャワー生活の私には、湯船に心ゆくまで浸かる望みが叶った至福のひと時でした。
 この時から、彼は時々私を龍泉温泉に誘ってくれます。彼の演歌は毎回、石原裕次郎です。ある時彼は「伊藤先生、水森かおりという演歌歌手を知っているか」、と車中で私に尋ねました。勿論私は知りません。
 今回、夏休みの一時帰国を終えると、私は直ぐに趙京雨さんと会食し、手土産の「水森かおり」のCDを差し上げたのです。彼は文章では書き表せないような喜びようを私に示してくれました。
 そして数日後(8月25日)、趙さんは2か月ぶりの温泉に私を案内してくれました。春の新緑と果樹園の花の桃源郷は、今は実りの季節となり、赤いリンゴがたわわに熟しておりました。烟台はフルーツ王国ですが、なかでもリンゴは有名なのです。
 彼は車中では、水森かおりのCDを流しぱなしで、時々「先生この歌を知っているか」と私に尋ねます。私が知らないと答えると「実にいい歌だ」と言って口ずさむのです。演歌の好きな中国人は私の朋友なのです。今夜(27日)は彼の招待を受け、奥さんの家庭料理をご馳走になります。(次回に続く)
*南の風2722号(2011年8月31日)


■烟台の風173中国人の私の友達は演歌好き@ (Sun, 28 Aug 2011 12:46)
 「日本人ですか」、と突然私は校門で声をかけられました。構内を学生と歩いていて、別れた瞬間でした。「そうですが、どうしてわかりましたか」と尋ねると、日本語の会話が聞こえたので、という流暢な日本語で答えてくれたのは、野球帽にジャンバー姿の初老の男性でした。名前は趙京雨さんという退職者です。
 大概、私は「韓国人(ハンゴレン)」、と問われます。でも、先日文化センター前の食堂でワンタンを食べていると、「日本の方ですか」と話しかけられました。彼は日系企業に勤めていて、時々大阪の本社に出張する中国人だと自己紹介を綺麗な日本語で話しました。
 それ以来、私を日本人だと理解したのは趙京雨さんが二人目だったのです。私が「日本語がお上手ですね」と褒めると、昔日本に行ったことがあると人懐こい笑顔で話します。眼を見ると善良そうな顔つきなので「私の部屋で珈琲でもいかがですか」と私はお誘いしたのです。
 彼は、現在59歳で、日本語は西安大学で学び、トヨタ関連企業で車を販売していたそうです。なぜ大学の教員宿舎に住んでいるのかわからないのですが、数年前この大学で出産休暇教師の代理講師として日本語を教えたことがあるそうです。彼は大阪、名古屋、豊田、横浜、市川に行ったことがあると言ってから、私のことをいろいろ尋ねます。久し振りに日本語が使える喜びに浸っていました。
 彼は今知り合ったばかりだというのに、来週彼の愛車で私を温泉に連れて行ってくれると言います。翌週の朝、彼のトヨタで出発です。美しい海岸通りを疾走し、「養馬島」を見物し、車は西に折れ山岳地帯に入ります。車窓の左右はどこまでも続く果樹園です。山は赤茶けた巨岩が幾重にも重なる岩の塊で、所々に緑の樹木が生えてるだけの禿山です。
 趙さんは、「日本の演歌が好きだ、特に石原裕次郎が好きだ」と言い、車の中でCDに合わせ最初から最後まで歌い続けていたのです。ハンドルを叩いて、拍子をとりながらの運転です。(次回に続く)
 *南の風2721号(2011年8月30日)


■烟台の風172ーパソコン・PCのありがたさ (Wed, 24 Aug 2011 11:54)
 この2か月余りほど、私はPCのありがたさを痛感した時はありませんでした。
 6月下旬でした。学生からのメールを大学の教員宿舎で開いていた時です。突然PCがダウンです。階下に住む情報学のPC専門家の許豊富老師に修理を依頼しましたが、専門家の彼が4時間奮闘したにもかかわらず、故障は不明のままで、「このPCは古すぎますね。買い換えた方がいいですよ」でした。
 日本から持参したこのPCには、南の風に未掲載の「烟台の風」原稿がぎっしり詰まっており、今かいまかと出番を待っていたのですが、バックアップをとっていなかったため、残念ながら全てオシャカとなってしまいました。勿論日本へのメールもできません。原稿は書き直せば済むのですが、それまでの学生たちと交わしたメールはすべて水泡に帰し、無念、悔しい、惜しい、不便だ、の言葉では言い表せないほどのパニックでした。
 さて、夏休みを利用しての日本への一時帰国の際です。おりしも50年ぶりの小学校のクラス会の幹事として自宅のPCでメールを作成していた時です。突然PCの画面が消えてしまいました。製造元に相談して回復を試みましたが、結果的には修理に出したのです。修理費は新型PC購入費よりも高額でした。仕方がない、データーの保護のためなのです。この2か月のPCをめぐる体験は、こまめにデーターのバックアップをしなかった私に天が下した罰なのです。皆様も気を付けて下さい。
 現在中国には新しいPCを持参し、烟台の風を再び吹き続けられるようになりました。22日の私の66回目の誕生日には、学生たちからPCで美しいバースデーカードが送信されてきました。PCはありがたいですね。*南の風2717号(2011年8月24日)

■烟台の風番外編−人情は変わらず (Mon, 22 Aug 2011 12:23)
 8月20日、成田よりソウル乗継便で烟台に戻りました。2か月ぶりの大学周辺は、様変わりしておりました。私が買い物や食事をするために使用している南門の道路が美しく舗装されていたのです。
 土埃の舞い上がる悪路、水浸しになる悪路を私は毎日呪い続けていたのでした。しかし、悪路の傍らで商いをしていた果物屋さん、クレープ屋さん、大衆食堂、そして青空マーケット(自由市場)、が立ち退かされていました。2軒の屋台の果物屋さんはともに気のいい親父さん、小母さんで、私を見ると何時も声をかけてくれたのに、今はどこで暮らしをたてているのでしょうか。
 囲われていた工事用のフェンスには「共建文明城市」「建全国文明城市」、と大書きしてありました。中国では「文明」という言葉をよく使います。「文化」と言わず「文明」と言います。「文明人を創ろう」「文明人になろう」、とキャンペーンに掲げられるのです。跡地は高層ビルにでも建て替えられるのでしょうか。この辺だけに古い家並みが残されていたのに。
 親しい人に尋ねると、自由市場の安くて新鮮な野菜を買うことができなくなり、遠くの八百屋で高い野菜を買わなくてはならず、とても不便になったと嘆いていました。
 20日に戻った日の夕食に「米銭(ミーシェン:米の粉のうどん:銭は糸編)」を食べに出た時にこの変化を知ったのです。幸いにして東北出身の夫婦が商う米銭のお店は、この道の向かい側であったため営業をしていて、私を喜んで迎い入れてくれました。簡単な手土産を持参すると、大喜びで、野菜も肉も特盛でした。さらに帰り際には田舎で採ってきた干したゼンマイを沢山私にくれたのです。6月の日本帰国に際しては。キクラゲをお土産にいただき、町の環境は変わっても中国人の人情は変わらないのです。
 *南の風2716号(2011年8月22日)




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