南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
1950号【2007年11月29日】
★<あと50号>
この10年来、ほぼ隔日に発行してきた「南の風」が1950号を迎えました。想えば「南の風」1000号(2003年2月6日)到達の時「2000号をめざして頑張れ!」などと励まされ、それから5年近く。あと50号となりました。当時は「公民館の風」も発行していましたので、これを休刊(当時・395号)、「風」を「南」一つにしぼって吹いてきたのでした。
この間「風」の発行は、一日おきの仕事として定着。降っても晴れても、寒い夜も暑い日も、ほとんど休むことなく発行することが出来ました。もとより「風」へ寄稿・送信をいただいた方々あってのことですが、自分にとっては、なんといっても我が身が健康であった証拠。有り難いことだと思っています。
こんな風に書くと、「風」の終わりのご挨拶のようになってしまいますが、まだしばらく続きます。どのように終わるかは、研究会や年報発行など私たちの活動とも関連しますので、はれて2000号を迎えたときに考えることにいたします。100日先(来年3月中旬)のお楽しみ。
昨日(27日)、石垣の鷲尾雅久さんから送っていただいた、島の未来を考える島民会議・会報「島のみらい」(創刊号、風前号に既報)が届きました。ありがとうございました。新垣重雄さん(共同代表)のご挨拶もあり。明日の11月定例研究会で皆さんにお配りします。また同便で、名護から「山原島酒之会」会報(第31号)も着信。島袋正敏さん(会長)の文章が3点ほど。なかでも「ムイスー」(祝いを盛る意)と泡盛の話など、まったく知らない世界のことで興味深し。できればそのまま「風」に送って頂けませんか。皆さんに紹介したい。
1949号【2007年11月27日】
★<第13号編集会議の日程>
前号を受けて、内田純一さん(高知大学)から早速の返信がありました。ありがとうございました。
予定として、12月22日「故奥田泰弘さんを偲ぶ会」に上京(私信)とのこと、この日の夜にでも「東アジア社会教育研究」第13号編集事務局会議を開いては如何でしょう? 遠藤事務局長の都合がよければ(その前日ー12月21日ーのTOAFAEC
定例研究会と連日のスケジュール、やや苦しい? 諸般ご判断の上)「風」に案内を送って下さい。12月は,15日〜16日を含めて、他の土・日曜はすでに予定あり。もし22日が無理であれば、お互いにあまり頑張らないで、来年1月の楽しみに延ばすことに。会場「風の部屋」はつねに優先!いつでもOK(と思います)。
まず第一の課題は、前号の本欄にも書いたように、また内田メールにもあるように、第13号・特集テーマをどう設定するかということ。視野を広くして、次号もぜひ特集を組みたいもの。外を見る視点からの構想もありますが、日本の内なる課題から考える必要もありましょう。今の段階では、まずは皆さんの自由な提案をいろいろと寄せていただければ、そこからスタートできますね。
12月は、上旬に中国へ、また下旬に沖縄行きを予定しています。それぞれの課題をかかえての旅ですが、第13号に向けての取材旅行の思いもあり。旅はいつも新しい出会いと課題を与えてくれます。旅程のなかで小生なりの提案も試みたいと思っています。
1948号【2007年11月25日】
★<第13号への準備を>
11月も終わりが近づき、そろそろ師走の声も聞かれるようになりました。23日午後「韓国生涯学習研究フォーラム」(第7回)の席上でも、来年の「東アジア社会教育研究」第13号編集のことが話題となりました。
ご承知のように、今年の12号特集テーマは「韓国・平生学習の新しい動向」。創刊以来の念願の特集を組み、厚みのある内容となりました。それだけに来年の特集テーマがどうなるか、韓国関連の報告をどのように盛り込むことができるのか、気になるところだからです。
たとえば第12号には、浅野かおるさんの「韓国・生涯学習をめぐるこの1年の動き」が収録されています。この「1年の動き」テーマは当然来年も継承されてほしいもの。とくに韓国国会では論議を重ねて「韓国・平生教育法」改正が予定されています。社会教育法から平生教育法への全面改訂より早くも10年近く、韓国の生涯学習の歩みは今ひとつの跳躍期にあるように思われます。
同じことは、東アジア「この1年の動き」という共通の視点をもって、中国ではどうなのだろう・・、台湾では・・、そして日本はどうなんだ!という課題につながります。中国でも政府レベルで生涯学習への本格的な胎動が伝わってきています。
私たちの第13号も、来年に向けて、そろそろ準備の論議を始める時が来たようです。編集委員会としての“胎動”が待たれますし、また関心ある皆さんからのご意見もお寄せいただきたいもの。
▼研究会終了後、みぞのくちビアホールにて(20071123)
1947号【2007年11月23日】
★<訪中スケジュール、烟台は初雪>
前号の発行日がたまたま誕生日、話の流れで1行書いたばかりに、お祝いや励ましなど頂戴し、恐縮しています。代表?して国内・伊那谷と、海を越えて山東省からのメッセージをご紹介。皆さんに御礼申しあげます。ありがとうございました。
この間、呉遵民さんから上海のホテル(新苑賓館)が決まったことの連絡あり。何でも旧知の方の関係あり、ずいぶん安い値段にしていただいた模様です。また、張林新さんからは、北京−烟台−上海の飛行機が確定したとのメール。次のようです。
12月 7日 成田発MU8317(18:30〜)、北京着(21:20)
12月10日 烟台発(13:10〜)、上海虹橋着(14:50)
12月12日 上海虹橋発MU537(08:45〜)、羽田着(12:40)
最初の7日の北京到着が遅い便となりますので、韓民さんとの夕食会は無理となりました。翌日の昼お会いすることにしましょう。北京に着いたら電話します。昼だから飲めなくなりましたね。
10日の上海はちょうど1年ぶり。到着も出発も市内の「虹橋」空港(懐かしい!)となり、喜んでいます。呉さんが自分の車で迎えていただくそうです。12日の帰国も、成田でなく羽田着の便、上海がグーンと近くなった感じです。皆さんのご配慮に感謝!
伊波葉月さんからのメール(Sun, 18 Nov 2007 23:20)によれば、烟台は初雪だそうです。沖縄人としては、「…この寒さは体にこたえますが、雪を見ることができるというのは、いつになっても感動するものです」と。メールは私信扱いのコメントあり、ここで紹介できないのが残念。再会を楽しみにしています。お互い激励の乾杯をしましょう。
1946号【2007年11月21日】
★<新しき言葉を!>
前号に島崎藤村「回想」を書きましたので、ことのついでに、「藤村詩抄」(岩波文庫)も開いてみます。前世紀が始まろうとするとき(つまり百年余りも前に)、藤村は「若菜集」など4巻を世に出しましたが、それらを合本の詩集にまとめ(明治37年)、「自序」を記しています。
「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに…」と。戦後直後の高校教科書にも載って、いつまでも忘れられない一文。
南の風メンバーには、中国や韓国の皆さんもいて、やはり文語体は苦手な場合があるようです。かって拙劣なぶんじんの歌を風に載せていた頃、わずかの文語調にも違和感あり、「よく読みとれません」などの感想が寄せられました。最近の風にほとんど歌をご披露しないのは・・・と言い訳になってしまいますが、本号はしばしお許しを願って、藤村の思いあふれる文語文をすこし。「自序」の終わり近くの一節です。
「誰か旧き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじし新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生命なり。」
「若き人々」よ、新しい世界を開いていこう、という熱き呼びかけです。しかしいま、若い人々はあまり語らなくなりました。むしろ年寄りだけがしゃべり過ぎる悲しい場面少なからず。ぶんじんも顰蹙をかった苦い経験があります。それにしても、社会教育のこれからのために、あるいは公民館の未来のために、もっと「新しき言葉」をもって語りあう必要があるのではないでしょうか。若き藤村の「ギラリとしたまなざし」(加藤千代三)を想像しながら、そう思うのです。
本日は小生の誕生日。毎年こうして年をとりますが、「若き人々」の一人でありつづけたいと願っています。
1945号【2007年11月19日】
★<流離の人−回想の島崎藤村>
今年の後半、木曽路や妻籠・馬籠への関心から、島崎藤村についても読む機会がありました。藤村には、身内の「思い出」の記や、もちろん評論があります。いま木曽谷の公民館では、藤村にまつわるテーマを大事にして講座など組まれています。昨日も、木曽福島公民館から、墨書(木内行雄館長)を添えて「藤村を偲ぶ“高瀬藤村祭”」の資料を送っていただきました。
古本リストで探していたら、加藤千代三という人に『流離の人−回想の島崎藤村』(1978)や『駒子−時代が生んだ愛の物語』(1985)の作品があることを知りました。藤村の生涯は「旅に生き旅に死ぬ」ことを思いつづけたような“流離の人”であった(p216)というのです。あらためて、「椰子の実」♪…われもまた渚を枕 孤身の浮き寝の旅ぞ/実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂…♪(「落梅集」1900)の一節を口ずさみました。
加藤千代三は1909年の生まれ。藤村の推挽により、岩波書店や新潮社で文庫制作や編集に携わり、戦後は故郷の島根新聞社編集局長を務めた人。その後、新生活運動に参画、新生活事業センターを創設して「生活学校」の指導にあたりました。当時『生活の探求−現代社会と生活学校』(1965)等の著作があります。加藤によれば「わたしは、若いころ島崎藤村先生のひとかたならない恩寵をうけた」(『駒子』あとがき)と。同センターで仕事をしていた故田辺信一さんから何度か同氏の話を聞いたことがあります。
藤村に関する加藤千代三の2冊の本は、すでに70歳を過ぎての仕事。加藤は百歳近くを生き抜き、2001年に亡くなったようです。島崎藤村の「生活」観は、加藤を介して、戦後の社会教育につながる一面があったのかもしれない・・・と、その「歴史の機微」(風1942号・本欄)を思いました。
1944号【2007年11月17日】
★<中国への旅、お願いいろいろ>
12月上旬の中国行きについて、ヨーロッパ出張から帰った韓民くんよりメール来信。有り難うございました。前にも書いたように、今回は(もともと一緒に旅する予定だった)沖縄グループとのスケジュール調整がうまくいかず断念。小生と張林新との二人連れとなりました。北京では、できれば12月7日(金)の夜をご予定いただけませんか。8日には烟台へ移動しようと考えています。久しぶりの再会が楽しみ。積もる話もしたいし、すこし相談したいこともあります。
烟台(山東省)はもちろん「日本語学校」の訪問。新しく着任の日本人教師の方々にお会いします。もちろん学生たちにも。沖縄・ナゴンチュ(名護人)の伊波葉月さん(沖縄大学卒、この「風」を読んでいるかな?)は、本格的な中国語専門コースに入ったそうで、時間的に可能ならば、小生の通訳をお願いしたいもの。
二日間(8〜9日)の烟台滞在ののち、10日に上海へ飛びます。お願いしているフライトは、浦東空港ではなく、市内の虹橋空港に着く便をぜひよろしく。あわせて12日帰国の便は、いま話題の虹橋→羽田(成田でなく)線に乗ってみたい、うまくとれますか?
上海の呉遵民さんへお願い。10日と11日の2泊、どこか適当な賓館を予約していただけませんか。上海へは一人で参ります。また羅李争と袁允偉(行健職業学院)のお二人にも、小生の上海スケジュールをお知らせ下さい。今回の上海行きは呉くんへの連絡だけ、二人の老朋友にはまったく知らせていません。いま反省中!とお伝えを。
ちょうど1年ぶりの中国、この欄をかりて、お願いいろいろ、申しわけありません。どうぞよろしくお願いします。
また竹峰誠一郎さんより、本日・11月17日の東京イベント(さらば戦争!映画祭「夕凪の街 桜の国」、「花の夢―ある中国残留婦人―」など)のご案内をいただきました。ちょうど風前号を出した直後のメール、なにしろ当日のこととなり、掲載をあきらめました。ご了承下さい。
1943号【2007年11月15日】
★<草原の王子さま>
既報(
HP→■)のモンゴル支援奨学会のこと、この間、皆様からの寄金をいただき、ありがとうございます。先方の状況を確かめつつ、2人の困窮学生に送金する運びとなりました。これまでの経過もあり、ぶんじんが当面の代表の役割を担い、山口真理子さんに会計をお願いしています。折りをみて、「風」に経過報告を掲載して参ります。トクタホさん、どうぞよろしく。友人がフフホトから帰ってきたら、可能な範囲での報告をお送り下さい。
折しも「モンゴル支援馬頭琴会」主催の「新春セーンジャー馬頭琴コンサート」案内が届きました。セーンジャー(賽音吉雅)は、内モンゴル・ホルチン草原の生まれ、トクタホの友人。来日(2000年)してすぐ私たちの新年会(西永福)に馬頭琴をもって現われました。昨年末の忘年会にも来てくれましたので、ご記憶の方もありましょう。
見るからに好青年、馬頭琴の腕もさえて、DVD「スーホーと白い馬」「星のささやき」(ニューアルバム)等を発表し、今や有名な演奏家となりました。その甘いマスクから“草原の王子様”と呼ばれ、「彼の奏でる音色は、とても懐かしい草原の風のような爽やかさ、広い大地のたくましさ、穏やかで優しい人柄が心にしみわたります」(案内ちらし)と評される程になりました。
新春コンサートは、2008年1月10日(木)、昼の部(2時)と夜の部(7時)、会場:すみだトリフォーニーホール、前売り3000円、支援の意味もあり、ぜひお出かけ下さい。ご一報あれば、チケットを用意します。お問い合わせ電話047−377−8188。
▼セーンジャーの馬頭琴 (2006年12月22日・忘年会、高井戸)
1942号【2007年11月13日】
★<紅葉の谷を下って・・・>
信州木曽谷の公民館大会へ出かけていました。真壁繁樹さん(立川市)がご一緒でした。さきほど帰ってきたところです。留守中にメールいろいろ拝受。上田の中村文昭さんから送っていただいた『塩尻時報とその時代』も届いていました。早速に有り難うござました。
あれほど緑だった山も谷も、いま晩秋を迎えて、紅(黄)葉の真っ盛りです。桜とはまた違った心の彩り。妻籠などの古い街道にはたくさんの人出でした。台湾語のグループも楽しそう。初日(11月11日)は木祖村、王滝村、福島町などの公民館関係の皆さん、そして今日は(8月に続いて)南木曾町の皆さんにたいへんお世話になりました。この場をかりて御礼申しあげます。
南木曾町博物館では再び遠山高志さん(教育長)のお話を伺い、妻籠宿・町並み保存に関する貴重資料等を頂きました。あらためて、「妻籠宿を守る住民憲章」(1971年)を入手。その要点の資料だけでしたから、暇をみてHPに全文を入力したいと思います。
帰路は塩尻で真壁さんと別れて、中央線の終点・新宿まで遠山さんから頂いた『島崎藤村研究』第33号(島崎藤村学会)に読みふけりました。「木曽南部における島崎氏の位置づけ」と題する遠山論文。妻籠の公民館の設立から町並み保存に至る経緯の中で「…すでに妻籠とは縁の切れていたはずの島崎氏が大きな役割を果たしていたことは、歴史の機微とはいえ驚かざるを得ない…」(遠山高志、p43)。「島崎氏」のなかにはもちろん「島崎藤村」あり。実に興味深いものでした。
▼「妻籠を愛する会」事務所、奥に「売らない、貸さない、こわさない」額、横に「御下賜金記念日」の碑
1941号【2007年11月10日】
★<逢わぬ夜のつらさ・・・>
沖縄の琉歌、有名な「伊野波節」は、想いあふれる恋をこう歌いあげます。「逢わぬ夜のつらさ 与所に思めなちやめ 恨めても忍ぶ 恋の習ひや」
(逢うことのできぬ夜のつらさ、あの人はよそに心をうつしたのでしょうか、恨めしく思いつつも、それでもその人のもとに忍んで行く恋するものの悲しさよ)。そしてまた「逢わぬいたづらに 戻る道すがら 恩納岳見れば 白雲のかかる 恋しさや・・・」(長恩納ふし)などと続きます。
「南の風」の皆様はたいへん多忙で、いまどき恋の話など聞く暇もない?でしょうが、それだけに、ときには「逢わぬ夜のつらさ…」の世界もお届けしたいと思った次第。琉舞「川田禮子の世界−舞い舞いて70」(11月6日、東京吉祥寺「前進座」劇場)の夜をご紹介します。
第一部は、代表的な舞踊プログラムでしたが、第二部は、伊野波節、恩納節など琉歌にのせて、知る人ぞ知る「恩納ナビ」(恩納の農婦と伝えられる歌人)をテーマにした舞踊劇。時を忘れて見入りました。作・演出は三隅治雄、舞踊は川田禮子、音楽・作曲は海勢頭豊、という異色の顔ぶれ。劇場入口で、久しぶりに海勢頭豊さんとも会いました。彼自らは歌いませんが、国王となっての台詞語りも秀逸。やはりいい声!
恩納ナビ(恩納のナベ)の代表作には「恩納岳あがた 里が生まり島 杜ん押し除きて くがたなさ」(恩納岳の向こうに想う方の生まれた村がある、山を押しのけて、その方をこちらへ引きよせたい)という壮大な恋の歌があり、その想いに圧倒されます。海勢頭豊さんは、「私もまた…沖縄の母なる恩納岳と恩納ナビーの姿を思い浮かべてきた。ナビーの影響を受けて“喜瀬武原”という反戦歌を作った。米軍の実弾演習に抗議して“母が泣いている”と歌う…」と書いています(「川田禮子の世界」パンフ、花かんざし32号)。
▼第二部 伊野波節の女−恩納ナビ 娘たちの舞い遊び
1940号【2007年11月8日】
★<中国と韓国と沖縄と・・・>
先日、岡山で開かれた国際会議によって「公民館・地域学習センター宣言」がまとめられ、佐賀の上野景三さんを通して送られてきましたので、掲載させていただきます。有り難うございました。
ところで、3号前の「風」に、来年3月に上海グループが訪日を計画し、あわせて沖縄訪問にも関心があること、をご紹介しました。しかし同じ時期にかねて福岡社会教育研究会の皆さんが釜山との交流を軸に韓国行きを企画されていて、二つの日程の重複をどう調整するか、来年3月に向けての宿題であることを書きました。
東アジアの海を越えて、こんな話が賑やかに飛び交うのは、新しい時代の動きの反映、嬉しいことです。福岡の横山孝雄さんからは昨夜、下掲のメールをいただきました。松田武雄さん(九州大学)もご一緒の会議だったようです。
「…南の風を読みながら、皆さんのエネルギッシュな活動に感心すると共に…(中略)…。昨夜(11月5日)松田先生を交え事務局会議を行ない、話し合いました。華東師範大学等の皆さんの計画はかねてからの懸案であったとのこと。事務局会議では、小林先生には華東師範大学等を優先していただこうという話しになりました。福岡・社教研の韓国訪問の仮の日程として、2008年10月11日(土)から14日(火)などの案が出ましたが、今後のご都合もあることです。…
福岡・社教研・横山 」(Tue, 6 Nov 2007 17:12)
こちらから、ご相談のメールを差し上げようと思っていたところでした。ご配慮まことに有り難く。実は福岡の皆さんの動きに関連して、川崎の小田切督剛さん(川崎・富川交流会)からも、釜山での交流プログラム(東義大学校平生教育研究所訪問とシンポジウムなど)や、慶州やソウルに北上する案もいただいていたところです。
12月上旬の上海訪問の際に、呉遵民さんにもお会いして、3月の訪日日程(そして沖縄訪問)案について相談してきます。帰ってまたご報告することにいたしましょう。
1939号【2007年11月6日】
★<中国・社区教育について−12月研究会予定>
11月の定例研究会は、ご案内の通り、東アジアの大都市の動向も視野に入れて、「市民大学」をテーマにとりあげることにしました。川崎を舞台にその動きを振り返り、課題や展望を考えようというプログラムです。いつも通り月末最後の金曜日(30日)夜の開催。
あわせて12月研究会(例年の通り忘年会をかねて、12月21日夜を予定)の持ち方も相談しました。今年は、韓国研究が活発で、例年になく、中国をテーマにした例会をもつことができませんでした。2月に上海からのお客さん(呉遵民さんなど)を囲む会を開いた程度。そこで、黄丹青さんにお願いして、「東アジア社会教育研究」第12号に収録されている上海・閘北区「社区教育」レポートを取り上げることにしました。下掲は、当方からのお願いにたいして、黄丹青さんから一昨日に届いたメールです(Sat,
3 Nov 2007 23:03)。
「…メールをいただき、大変恐縮しております。最近研究会にもなかなか出ることができず、申し訳ございません。報告の件ですが、現在の動向を追っていないので、大変心細いですけれども、12号の報告を材料に、今までの経緯も織り交ぜながら補足的な説明をするぐらいであれば、何とかできると思います。
今回の中国訪問には同行できず、とても残念です。閘北区にも訪問されますでしょうか。もし新しい資料が手に入れば、もう少し充実した報告になるかもしれません。できる範囲でいいですが、どうかよろしくお願い申し上げます。…」
ご返事有り難うございました。当日、黒竜江省(ハルピン市など)の「社区教育」について研究されている呉迪さん(筑波大学・院、第12号に論文掲載)もお出でいただけないでしょうか。筑波からだと、すこし遠いので申しわけないのですが、ご無理のない範囲で、ぜひご参加ください。
1938号【2007年11月3日】
★<秋の夜長に・・・>
11月の声を聞くと、東京も朝夕はかなり冷えてきました。まさに秋冷の候、いい季節です。しかし世の中は変な動き。突然の「大連立」騒ぎ、張り切っている政治家がいる一方で、私のまわりの皆さんはなんとなく元気なく(失礼!)、しかし妙に忙しそう。「風」編集の立場からそんな状況を感じています。
「風」は最近“読むだけ”の人が多く、双方向性のお約束も空文となってしまいました。もともとは50号おきのアドレス帳整理で“リードオンリー”の方々には、お引き取り願ったものです。この10年ちかくの歳月を振り返ると、「はずしたアドレス」一覧(ぶんじんフアイル)は死屍累々の感。申しわけありません。しかしいま「南の風」も終盤を迎えて、皆さん同様にあまり元気なく、百号おきの、ほんのわずかの新陳代謝を試みるのみ。さて・・・これからどうしたものだろう、などと秋の夜長に考えています。
日本公民館学会から、昨年末に逝去された故奥田泰弘氏(学会事務局長、中央大学)追悼文の急な執筆依頼がありました。なんと!締切りまでわずか3日。お互いに「誰かが依頼していたもの」と錯覚されていたようです。他の原稿もあり、困惑しましたが、学会創設にあたってともに苦労した間柄。先約の会合などをすっぽかして、大急ぎで書きました。奥田さんの「
… 70年余の生涯のうち、最後の5年は、日本公民館学会のために捧げられたと言っても過言ではなく、その献身に深く感謝…」している身としては、どうしても書きたかったからです。
ホームページの隅っこに、「ぶんじんアーカイブス」→「追悼のページ」をつくっています(作成中)。横山宏、黄宗建、小川利夫など各位の追悼ページに並べて、昨日書いた追悼文と「南の風」記事等を合わせて「故奥田泰弘氏追悼」サイトをアップしました。写真もさがして4〜5枚。いい画像ではなく、やや残念ですが、「偲ぶ」気持をこめて。
→■
1937号【2007年11月1日】
★<中国行きスケジュール>
…前号の続き… 今秋の中国行き計画は(風1930号等に書いたように)迷走続き。沖
縄(那覇)グループと合流の旅はついに実現せず。ぶんじんの一人旅(もちろん同行歓迎!)として日程を決めることにしました。12月7日から約1週間のスケジュール。
北京(韓民さん)と上海(呉遵民さん、羅李争さんとはまだ・・・)に電話しました。韓民さんは折悪しくヨーロッパ出張に出かけたばかり、帰国は月半ばになるそうです。久しぶりに高峡さんと話しました。夫妻ともに多忙な毎日のようです。かっての日本留学中の思い出話も。お嬢さん(幼い頃、一緒に長城に遊び、夕立に降られたことがある)は、今年でもう高校3年生。びっくりしました。
高峡さんの話では、おそらく12月7〜8日は「韓民は北京にいるでしょう」と。彼自身のメッセージ「…是非ご連絡ください。お会いしたいです」(風1934号)もあり、まず北京に泊まることにします。
上海への電話、呉遵民さんは在宅、直接に相談できました。1年ぶりの上海訪問歓迎、沖縄グループと一緒でないのは残念、葉忠海さんなど古い友人にも話して待っています、とのことでした。
というわけで、12月7日に北京(1泊)、8日夕刻の便で烟台(2泊)へ。12月10日〜11日は上海(2泊)、12日に帰国、というスケジュールで動くことにします。張林新さん、打ち合わせ通り、フライト・ホテルの手配をどうぞよろしく。もし同行者がある場合は直ちに連絡します。
呉遵守さんとの電話では、来年3月に上海(華東師範大学等)グループが訪日の予定だそうです。日程は3月21日より東京滞在、数日後に、かねてからの懸案の(ぶんじんが誘っていた)沖縄行きをぜひ実現したいと。ところが、当方では福岡・社会教育研究会の皆さんと韓国(釜山など)訪問の計画あり、その予定と完全に重なってしまうことになります。はたして調整が可能か?来年のことながら、大きな宿題です。
1936号【2007年10月29日】
★<小川利夫先生を偲ぶ会>
10月28日は東京・新霞ヶ関ビル(灘尾ホール)で「小川利夫先生を偲ぶ会」が開かれました。「強靱な理論と大らかな人柄に思いを馳せて」多数の集まりとなりました。全国から寄せられたメッセージ記録とともに、「偲ぶ会」として編集された重い冊子(226頁)。
表紙を開くと、在りし日の写真。流麗な直筆「人の幸せ それは 人と人とのふれあいの 豊かさと深さにある」(1993年)、「福祉は教育の母体であり 教育は福祉の結晶である 社会教育は教育と福祉 福祉と教育を結ぶものである」(同)、それと並んで画家・寺中作雄が画く「小川さん」の似顔絵が秀逸な出来映え。続いて、「小川利夫教授最終講義」(名古屋大学、1990年)、「九十九里浜でむかえた8・15」(1995年)等が収録されていて、貴重な1冊となっています。
第一部・式典、第二部・懇親会では参会者に発言の機会が与えられました。小川先生との初めての出会いは1960年ですから、はや半世紀近く。学会や社全協や「月刊」編集などでのさまざまのお付き合いがありましたが、ぶんじんはとくに労働組合(日教組、自治労)との関わりについて短かく話をさせていただきました。自治体労働運動(ともに全国自治研助言者)と出会うなかで、「大都市の社会教育・研究と交流の集い」が誕生し、今年で第30回を迎えたことも。
しめやかな「偲ぶ会」は、お酒の好きな小川さんを思い出して、一同だんだん愉快に。徳永功さん(国立市)や進藤文夫さん(国分寺市)は、三多摩で一緒にうたった歌を披露。帰りには式場に飾られたお花をすこし頂いて、いま机上に飾り、小川さんを偲びつつ、本欄を書いています。
夕食は、来日中の烟台(山東省)張林新さんと。懸案の訪中日程を打ち合わせ。12月7日〜11日の日程、北京→烟台→上海のコース案を話し合い、韓民さん(北京)や呉遵民さん(上海)のご都合も聞いて、数日中に最終確定することになりました。もし同行希望の方があれば、ぜひご一緒しましょう。ぶんじん宛ご連絡下さい。北京・烟台は寒い季節に入りますが、楽しい気楽な旅となることは請け合い。
1935号【2007年10月27日】
★<133研究会−満月の夜は雨>
昨(10月26日)夜の133回研究会は満月だ、と楽しみにしていましたが、あいにくの雨模様。ゲストの鈴木茂夫さんなど立川から3人の方は、足もとの悪いなかのご参加、まことに有り難うございました。
ご参加の皆様、大半は初めての顔ぶれでした。めったにないことです。新しい出会い、楽しいひととき。研究会ならではの醍醐味。ご報告は次号あたりに届くと思います。どうぞよろしくお願いします。
本欄は「風」にいただいた関連メールを二つご紹介。一つは昨日午後、丸浜江里子さんからいただいていたご連絡。(Thu,
25 Oct 2007 14:53)
「…略… 案内をMLに流しましたら、先ほど、第5福竜丸展示館の事務局長の安田和也さんから電話をいただき、お見えになるということです。その折、文化放送で久保山愛吉さんのを録音したものが展示館にあるので、そのCDを持ってきてくださるということです。10分くらいだそうですが、…」
安田さんは展示館の学芸員でもあり、安井家所蔵の原水禁資料にも関心をおもちのようです。交流会で聞いた話、なんと那覇生まれとのこと。
ゲストの鈴木茂夫さん。いつぞや本欄でご紹介したように、ぶんじんと同じ1931年生れ(風1883号「同時代人との出会い」)。会が終わって、ともに愉快に飲んで別れて、自宅で一息ついていたところ、もう下記のメールが着信していました。お元気な方です。
「…楽しい集いにお招きいただきありがとうございました。さまざまな問題に取り組んでいる方たちの集い。真剣な眼差しが印象的でした。私が体験した青春の日々が、今や歴史年表の中にあるのかと、年月の流れを感じました。
みなさまのおかげで、放送人として働き始めた昭和29年が、鮮烈によみがえりました。どれほどのことをお伝えできたのか、自信はありませんが、(久保山愛吉さんが入院していた)「東一」病院の病室・廊下・階段・玄関など…… 忘れられない映像が次々に現れてきました。どうか、よしなにと皆さまにお伝え下さい。」
いいお話でした。
1934号【2007年10月25日】
★<韓国へ向けての出版構想>
昨年の夏、『韓国の社会教育・生涯学習ー市民社会の創造に向けて』(エイデル研究所)が刊行されたことはご承知の通り。このテーマでは日本ではじめて。さらにこれをステップに、今年度のTOAFAEC
研究年報「東アジア社会教育研究」第12号で画期的な韓国「平生学習」特集を組むことができました。そして、この二つの作業を足場に、毎月1回の「韓国生涯学習研究フォーラム」が川崎を会場に発足。名古屋や福島から参加の常連メンバーを加えて、にぎやかな研究活動が定例的に継続されるようになりました。回を重ねて、先日(20日)の研究会で第6回。(風本号・伊藤レポート)。
日韓の社会教育・生涯学習の研究交流にとって、この1年の歩みは、とくに若い世代のエネルギーが燃えて、大きく跳躍した年と言えるのではないでしょうか。
このような展開は「風」で紹介してきましたが、いま新しく韓国へ向けての出版構想が具体化しています。日韓双方の努力を重ね合って「日本の社会教育・生涯学習」(ハングル版)を刊行しようという試みです。ソウルでの出版社も決まり、この半年、本の構成や執筆・翻訳体制を含めて、準備を重ねてきました。毎月の定例研究会はいま編集会議として動いています。
日本の社会教育・生涯学習の動きが、韓国にきちんと紹介されていないという問題意識からの構想づくり。来年夏の完成をめざして執筆依頼が始まりました。「南の風」としても、その快挙を報じるまでは頑張りたいもの。皆さんのご声援をお願いします。
明日(26日)はTOAFAEC 第133回定例研究会です。会場はいつもの杉並・高井戸区民センター、お出でをお待ちしています。
1933号【2007年10月23日】
★<公民館の本三つ>
最近の私の本棚に届いた本のなかから、公民館に関連する文献を3冊ほどご紹介。実は直接に差し上げるべき御礼が遅くなり(いつもながら申しわけない)、そのお詫びの気持ちを含めての一文。お許し下さい。
一つは、益川浩一さん(岐阜大学)編著『人びとの学びと人間的・地域的紐帯のの構築ー地域・まちづくりと生涯学習・社会教育』(大学教育出版、10月刊)。長野県での35年にわたる実践(水谷正さん)や名古屋・社会教育センター(いま生涯学習センター)での20年の取り組み(加藤良治さん)の記録のあと、岐阜県・愛知県・三重県からの報告が22本も並んでいて、重量感のある記録集となっています。日頃あまり東海地方を歩いていないだけに、それぞれから新鮮な風が吹いてきました。東アジア関連では、岐阜県の「日韓生涯学習交流の経緯と今後の発展」(内田晴代さん)が収録され、2005年の光明市「平生学習フェスティバル」訪問の記述も。あのとき同じところに居合わせたのです。
二つめは、お願いして送っていただいた『木曽福島公民館・六十年の歩み』(同公民館発行、昨年3月刊)。1945年から2005年までのまさに60年の歴史、日誌風に記録された公民館史です。公民館関係資料だけではなく、「…町村報・学校日誌・記念誌・議会記録・写真など可能な限り集めてみました」とあり、十年がかりの作業であったとのこと(あとがき、編著者・井口利夫公民館長)。公民館とその歩みへの深い愛着が伝わってきました。
あと一つは、先日の「風」1929号で、飯田の木下巨一さんが紹介された苅部直氏(東京大学)著『移りゆく教養』(NTT
出版、10月刊)。「社会の伝統と政治的教養」の一つの地域事例として飯田市公民館の歩みが取り上げられています。この本のことを知りませんでした。早速取り寄せ。人と人が地域のなかでともに生き、お互いに関わりながら活動を営んでいくなかに、伝統や教養や文化や政治の生きた展開があること、その過程に、公民館が大きく存在してきたことが印象的に書かれています。日本政治思想史の立場からの公民館論として興味深く読みました。
1932号【2007年10月21日】
★<竹富島の種子取祭(タナドゥイ)>
10月19日に届いたニュース。早稲田の大隈講堂などと並んで、竹富島の旧与那国家が国の重要文化財へ指定されることになりました。今年たまたま竹富島滞在中に2回ほど与那国家で開かれた集まりに参加したことがあります。一つは4月17日「ミーナライ・シキナライ(見い習い・聞き習い)の会」、あと一つは7月2日「島だて学校」。古い旧宅は見事に修復されて、実際に島の暮らしのなかに生きていることを実感しました。それぞれの写真はTOAFAEC・HP「2007年・竹富島への旅」→■に掲載しています。
ところでいま竹富島では、種子取祭(タナドゥイ)が始まっています。この祭りも、復帰後いち早く国の重要無形民俗文化財の指定を受けたもの(1977年)。島をあげての祭事、豊穣祈願と多彩な芸能の結びつきが注目されてきました。祭祀の期間はなんと10日間(10月17日が初日、トゥルッキ)、7日目と8日目の奉納芸能が圧巻、2日間で70あまりの芸能が奉納されます。
私たちの研究会では、この間に何度も竹富島を取り上げ、東京郷友会の総会にも招待された経過があって、「タナドゥイに行こう!」の声もあったのですが、日程的に実現しませんでした。来年は有志でぜひ!
竹富島「ゆがふ館」(ビジターセンター)ホームページは、祭りの華やいだ動きを伝えています。たとえば一昨日(10月19日)の記事。
○祭事教室「種子取祭を学ぼう!」(October 19, 2007)
「…トゥルッキ(祭りの初日)も過ぎ、島内では「タナドゥイ」が始まっています!たいへん慌ただしいなかですが、昨晩、竹富島ビジターセンター運営協議会主催の祭事教室「種子取祭を学ぼう!」を「ゆがふ館」にて開催いたしました。
まずは記録映像「種子取祭」(約60分)を上映後、アイジシン姿で登場した上勢頭芳徳・喜宝院蒐集館長(NPOたきどぅん理事)による「種子取祭を見学する上でのマナー」等の説明が行われました。
最後には阿佐伊孫良NPO たきどぅん事務局長と上勢頭芳徳さんのドラと太鼓を音頭に、参加者全員で世乞いの「道唄」「巻唄」「いぬがだにアヨー、ユンタ」などを謡いガーリの練習を行いました。…略…」(TA)
▼竹富島・与那国家の前で・・・(20070418)
1931号【2007年10月18日】
★<「ビラーディ、ビラーディ」>
あの頃、私たちの研究室(東京学芸大学社会教育研究室)には、毎年のゼミ主題歌のようなものがありました。中国の歌(「大海」等)や沖縄のフォークソング(たとえば「喜瀬武原」)など。研究室「歌集」がつくられれ、いつ頃か(知る人ぞ知る)“歌姫”も誕生しました。
留学生たちは、最初は戸惑いがありましたが、テレビが流す歌謡曲とは違った日本の歌文化に出会う機会になったと思います。私たちも彼らから、大事な歌をいくつか教わりました。中国の「松花江上」、韓国の「鳳仙花」など。お返しに沖縄の「てぃんさぐぬ花」を歌った想い出が懐かしい。最近のTOAFAEC
研究会では、モンゴル留学生以外の歌は、ほとんど出なくなりましたね。
こんなことを書きだしたのは、エジプトのアーデル君(現カイロ大学)がよく歌った「ビラーディ、ビラーディ」(わが祖国)を思い出したからです。そう上手ではないけれど、所望すると彼はいつも元気に歌ってくれたものです。いつの間にか始めの部分を耳で憶えて口ずさんだり。ある年、カイロ市内のタクシーに乗ったとき(たしか伊藤長和さんが一緒?)、何かの調子に「ビラーディ、ビラーディ」と歌ったところ、運転手がにっこり。
エジプトでは多くの人が愛唱する国民歌謡。サッカーの応援などでは、みんなで“ビラーディ!ビラーディ!”を絶叫すると聞いたことがあります。さきほどまで(17日夜)、テレビが日本−エジプトのサッカー戦を実況していました。思わず身をのりだして、どこからか“ビラーディ”が聞こえてこないかと目をこらし耳を傾けた40分。しかし(前半は見逃しましたが)期待はずれ。開会式では歌われなかったたのかしら?
10月とか聞いていたアーデルご家族の来日、無事に到着されましたか。久しぶりに会って“ビラーディ!ビラーディ!”を聞きたいもの。
1930号【2007年10月16日】
★<気持ちゆらゆらー中国行き計画>
昨日の「風」に応えて、打てば響くように上海・呉遵民さんからメールが届きました。私たちの秋の訪中計画について、皆さんで関心をもっていただいた由。有り難うございます。早速に那覇へ伝えたところ(電話)、行けるもの(3〜4人)だけでも行きましょうか、などという話が急に浮上しています。人の心はなんと揺れ動くくものか、数日検討してみようということに。どうなることか、分かりませんが・・・。
烟台訪問についても、きっと張林新さんは歓迎してくれるでしょう。計画を再生させるとすれば、訪問先のご都合も考えてスケジュールを組む必要がありますね。また那覇の友人たちだけでなく、ほかにも中国に遊ぶ計画に関心をもつ方があるかもしれない。数日後にまた、再検討の結果を本欄に書くことにしましょう。
まだ「風」にきちんと紹介していませんが、昨年の秋に出版した『韓国の社会教育・生涯学習』編集メンバーの中から、韓国に向けて『日本の社会教育・生涯学習』(ハングル版」)を本格的に刊行しようという企画が進んでいます。同じ発想で、中国に向けて同書の中国語版を出版できないか。上海(あるいは北京)にそんな構想を引き受けてくれる出版社はないものか、親しい人たちに相談してみよう、そんな思いもあって、この秋の中国行き計画を温めてきた経過もありました。
もちろんあと一つ。来年の『東アジア社会教育研究』(第13号)に向けての取材旅行の必要もあります。関心をもつ同行希望の方もあるだろうと思いながら、当方の気持がゆらゆらして、呼びかけの機会を逸したまま、秋は深まっていくのです。
1929号【2007年10月15日】
★<中国の友人たちへ>
今年の秋は中国への旅を実現しましょうね、という話がかねがね那覇の友人たち(おきなわ社会教育研究会の皆さん)から出されていました。沖縄側は那覇から上海への直行便で、ぶんじんは成田から。上海で落ち合って、烟台の日本語学校を訪問し、はじめて訪中する人のために万里の長城にも行きたい、という楽しい企画。「ほんとに日本語学校が動いているのですか?この目で確かめましょう!」という人も。烟台の張林新さん(校長)には「その時はよろしく」と予告もしてあったのです。
しかし、結果的に(今年は)断念することになりました。企画の中心の方の体調問題等も生じ、ぶんじんは家人の大怪我があって、この夏できるだけ旅行を見合わるという事情も重なり計画が遅くなりました。秋といっても11月になると、烟台はもう寒い季節。亜熱帯に暮らしている皆さんには厳しい旅となるおそれもあり。この旅企画は来年の楽しみにとっておきましょう。
中国の友人たちへの「東アジア社会教育研究」12号の献本・送本作業は(少し遅れましたが)張林新さんから国内便で各地(北京、広州、上海など)へ送っていただくことになりました。編集委員と執筆者、それと関係出版社など。とくに上海の呉遵民さん(華東師範大学)には5冊ほどまとめてお送りします。原稿を寄せて頂いた上海市閘北区のお二人(王鋼、江蕾)と上海教育出版社の袁正守編集長と若い袁さんなどに呉さんから届けていただけませんか。冊数が足りなければ、追送しますのでご一報ください。上海行健職業学院(社区大学)の袁允偉副校長と羅李争さんには別送する手筈になっています。
今年は韓国行きの余裕もなく、中国行きを断念し、思いもかけず旅を控えた1年となりそうです。
1928号【2007年10月12日】
★<風は吹き、陽はまた昇る>
前号発行より珍しく3日の間隔。パソコンのご機嫌がよくありません。なだめながら動いてもらっていますが、そろそろ交代したいとのサインか。データを外のハードディスクに移す作業を開始したところ。
この間の「南の風」では、モンゴルの子どもたちの教育(進学)支援に向けて「奨学会」基金の呼びかけ(風1923号、1924号)、あるいは杉並の市民活動・社会教育「あゆみ」記録誌の頒布ご案内(風1927号)などを載せました。早速にご芳志をお寄せいただいた方あり、また折り返しの記録誌ご希望も来信。「風」も読まれている実感あり、有り難うございます。ときに読まれずに捨てられれていく運命の「風」妄想もないではなく、早速のレスポンスにはまことに励まされる思い。
これらの寄金メール、一つひとつお名前を掲げませんが、ご了承下さい。「奨学会」(仮称)は、その後すでに8口(1口5000円)のご送金があり、嬉しくなりました。あらためて御礼申しあげます。
ときには「風には載せないように・・・」という私信扱いのメールも届きます。こんな文面は(かえって本音が出て)なかなか面白い。たとえばその一つ。氏名不詳メールとして一部を紹介しますと・・・
「…今は、ただひたすら耐えています。きっとそのうちいいことがあるだろうと・・・。本日も○○団体と△△問題についての議論。相手の理屈の方が上を行ってるって感じです。…(略)…
そのうち南の風にのっけられるようなメール送ります。これでも、こつこつとやっていることもありますので・・・」と。
皆さんそれぞれのご奮闘を祈るや切!です。お互いゆっくりと参りましょう。毎日、イリ(西)に陽は沈みますが、アガリ(東)に秋の月が浮かぶ夜あり、朝になると再び陽が昇ってきます。風はそよそよ。
1927号【2007年10月9日】
★<杉並の記録づくり>
1ヶ月ほど前、「杉並の市民活動と社会教育のあゆみ」第2号が発刊されました。市民の手になる「同・記録する会」の刊行物。発行は教育委員会(社会教育センター)となっていますが、編集はまったくの市民パワーによるもの。拍手!
杉並では、かっての「公民館を存続させる」市民運動の取り組みのなかから、「歴史の大河は流れ続ける」全4冊(1980〜1984)の記録がつくられました。しかし現物は、今ほとんど見ることが出来ません。多分1999年だったと思いますが、杉並区社会教育委員の会議(議長・ぶんじん)が、原水爆反対署名運動や公民館の活動など他に例をみない歩みを含めて、社会教育の歴史を綴る必要を公式に提言しています。それに応える当局の動きが見られないまま、市民有志により、地域の社会教育・市民活動を記録する活動が胎動してきたという流れです。
杉並区立公民館が開館(1953年、その後1989年に社会教育センターへ発展的に移行)して50年記念の年(2003年)に、連続講座が企画され、「社会教育博覧会」という名の展示会や、「学びて生きる−杉並区立公民館50年」(資料編)が刊行されました。これをステップにに杉並「記録する会」は、開設した講座の記録化に重ねて、「杉並の市民活動と社会教育のあゆみ」第1号(2006年)、同別冊「原水禁運動(安井家)資料研究会報告書(2005〜2006)」、そして労作・第2号刊行へと歩みを続けてきたわけです。
第1号は、女性の社会活動、市民が先駆けてきた福祉、自治会等の地域活動がテーマ(全34項目)、新刊の第2号は、社会教育とPTAをテーマ(全25項目)に編集されています。これらはすべて市民たち当事者による企画・執筆・編集です。再び拍手を!
第2号をご希望の方は、ぶんじん宛ご一報を。今だとまだ入手できそうです。(送料など要実費)
1926号【2007年10月6日】
★<やんばるの島酒運動>
今年の日本社会教育学会(第54回、東京)では、山城千秋さん(熊本大学)の「ブラジルにおける沖縄移民社会の形成と文化伝承の構図」発表が注目されました。大会二日目夜の懇親会、ビールの席(酒のつまみ?)で話題となり、乾杯しようと会場で本人をさがしましたが、惜しくも不在。本号にはサンパウロの現地から「ブラジル移民青年隊50周年」に参加した山城さんからのメール。遠いブラジルからの風、有り難う! そのうちまた話を聞かせて下さい。沖縄青年運動証言調査の相談もしましょう。
相次いで、久しぶりに名護から「島酒通信」21号が届きました。島袋正敏さんたちが「山原(やんばる)島酒之会」を始めたのは、多分1998年か。「山原のすべての家庭の床の間に古酒(甕)を!」のメッセージが秀逸でした。単なる飲ん兵衛の会と思いきや、むしろ子孫に古酒を残していこうとする地域文化運動の取り組み。ぶんじんも(住所不定の故をもって)特別に会員の末席に名をつらねる光栄に。風の部屋に古酒のカメを三つを備えて、「仕次ぎ」(新しい島酒を古いカメに仕込む)の妙味もおぼえました。こんど正敏さんなど「山原島酒之会」の誰かが上京する折りに、風の部屋で「仕次ぎ」をしようと待ち構えています。
「南の風」発行が千号の大台にのったとき(2003年2月)、お祝いのようなかたちで、「島酒通信」を送っていただくようになりました。当時の正敏さんは、名護市図書館長から市教委・教育次長に移られた頃か。想い出せば、2002年には名護・全国集会が開催され、私たちの輝く名著(自画自賛!)「おきなわの社会教育」(小林・島袋共編、エイデル研究所)が出版されたのでした。もう5年が経過したことになります。久しぶりの「島酒通信」、またこれからが楽しみ。ときに島酒文化の香りを送って下さい。
南の風には最近ご参加の新しいメンバーもあり、回想を含めてご紹介に及びました。
▼島袋正敏さん・「仕次ぎ」(風の部屋、20040713)
1925号【2007年10月5日】
★<南木曾町博物館−妻籠レポート9>
妻籠のムラの中心にある南木曾町博物館、その発行になる「南木曾の歴史−歴史資料館展示図録」(1996)は静かな記述の中に、一筋の熱い思いが貫いている名作。たとえば、「…その木曽の地で、様々な封建的な制約を受けながら、人々は精一杯生きたのです」(p51)の表現などに打たれるものあり。木曽の歴史とそこに暮らしてきた人々への深い愛着を感じます。一気に読み通して、博物館を一巡しただけでは分からなかった多くのことを教えられました。
原始・古代・中世から始まって、戦後にまでたどりつくと、「公民館運動の高まり」「町並み保存への昇華」「保存事業の推進」「全国の町並み保存」等のページ。公民館運動のページには、関口存男の演劇台本と舞台写真(博物館の展示)も並んでいます。
木曽は山深く、人々は山に生きてきましたが、同時に山とのたたかいでもあったようです。木一本は首一つ。尾張藩の厳しい規制下にあった山々は、明治になっても、「官民有区分」によって、入会の山まで囲いこまれ「江戸時代以上に苦しむことになりました。木曽はまさに『夜明け前』へ逆戻りしてしまったのです。」(p62)
戦後初期の公民館運動も、御料林解放運動との関わりをもって開始されました。南木曽の林野面積の約7割は国有林。「終戦後の御料林から国有林への切替え時にも運動は成功せず、ついに山は戻ってきませんでした」と。(p64)
明治期の「官民有区分」(御料林)問題とたたかって奔走したのは島崎広助(島崎藤村の次兄)。馬籠から妻籠本陣(母の実家)に養子に来た人。「島崎家系図」によれば(p.63)、広助の次女は「こま子」。藤村「新生」に登場する節子のモデルであることは周知のことでしょう。
旅を控えた今年の夏、私の読書棚には島崎藤村がとつぜん現れて、いま暇があれば、大作「夜明け前」を読んでいます。
追伸;昨深更、サンパウロから山城千秋さん(熊本大学)メールが届きました。ブラジル移民青年隊50周年祭に参加とのこと。本号もながくなりますので、次号にまわします。
1924号【2007年10月3日】
★<カボスの季節>
最近の「風」には、琵琶湖周辺からあまり吹いてこないな、と思っていたところに、沖縄の教科書検定問題に関連して、愛知川図書館・渡部幹雄メールが着信。お兄さん(清水書院・渡部哲治編集部長)の朝日新聞へのコメントは「(沖縄の)11万人の声を重く受け止めている、真摯に対応したい」との談話。関係する教科書会社は5社、それぞれに訂正に前向きだそうで、頑張っていただきたいところです。
同時に問題は「集団自決」記述だけにとどまらず、「新しい歴史教科書をつくる会」等の動きに示される政治的な構図。9月(参院選挙の前)に開かれた同会「定期総会」では、参加者全員で「反転攻勢」を誓いあったと伝えられます。
ところで、豊後の渡部家から送られてきたカボスの話。今年はおかげさまでカボスを(お裾分けを含めて)大いに楽しんでいます。ご母堂にお礼の電話をしたところ「皆さんに宣伝してください」と。お言葉に甘えています。下記は、先日とどいた伊藤長和さん(鎌倉)からのお礼メール(Thu,
27 Sep 2007 19:07)。
「…大好きなカボスです。早速、秋刀魚の塩焼きに搾り、焼酎に搾り、美味しくいただきました。ありがとうございました。徳島“酢橘”、日向の“米平兵衛酢”、大分の“カボス”は、同類なのでしょうか。三種類ともに食したことがありますが、違いがわかりません。…」
この機会に伊藤さんの質問にも応えていただくと有り難い。当方はこれらをまとめて「日本のタチバナ」などと勝手に思っています。
1923号【2007年10月1日】
★<「フフ・モンゴル・オドム」活動>
トクタホさんより、難関の大学に合格しながら経済的に進学が厳しくなっている内モンゴルの子どもたちへの支援要請がきています。これまでも「フフ・モンゴル・オドム」の活動については、南の風の皆さんが、馬頭琴コンサートの開催(川崎)や地域交流つどい(板橋)あるいはカンパ活動など、いろいろとご協力いただいてきました。この機会に、山口真理子さん(TOAFAEC
会計)とも相談し、まず小林と二人の個人的出資で10万円を用意することにしました。緊急にいつでも活用できるように銀行口座(山口さん名義)も開きました。
急ぎ話し合ったこと。このわずかな資金を取り崩すのでなく、今後の基金としてある程度の継続性と循環性に努めていきたい。会の名称やルールなどはそのうちに相談することにして、とりあえずは小林の責任で心ある方々に、1口5000円の出資を呼びかけていく。断続的に活動してきた「フフ・モンゴル・オドム」と連動し、その新たな活性化に役立ちたい。お互いに助け合いの思想をもって、とくに若い世代の育英奨学・進学問題に取り組んできた沖縄の「模合」(モエー)「集落奨学会」の仲間入りをしよう、などなど。
山口さんに開いていただいた銀行口座を「風」にお知らせ下さい。またトクタホさんは山口さんと連絡をとりあって、10万以内での資金活用を開始して下さって結構です。
ちなみに「フフ・モンゴル・オドム」とは、モンゴルで尊い色とされている青色(フフ)と、子ども・子孫(オドム)への思いから、「尊いモンゴルの子どもたちの未来のために」というメッセージを込め、在日モンゴル人留学生によって2002年に創設されました。教育支援−とくに経済的理由で教育を受けられない子どもたちの支援−や文化交流を目的とした活動です。小林ぶんじんは顧問役、これまで川崎の伊藤長和さんはじめTOAFAEC
有志が活動を支援してきました。
▼バヤンモト小学校の子どもたち−日本からの訪問団を迎えて歓迎の歌(20020909) 写真移動→■
1922号【2007年9月30日】
★<怒ったら負けだ−妻籠レポート8>
前々号(1920号)の続き。関口存男の「公民館のための芝居−争え!但し怒るべからず」台本は次のような書き出しです。
「舞台は校庭でも街頭でも、その他どこでもよい。装置は一切不要。開幕前、女生徒は7名とも舞台の左側前端の一ヵ所にかたまっている…いっせいにガヤガヤとどなりはじめる…。」 登場人物は、女生徒たちと中村先生(男)、柴田先生(女)と父兄一人(男)。
女生徒のガヤガヤ。「…ずいぶんだこと!」「ひどいわ!」「まあ…あなたは失礼な方ね!」と言いあうところに柴田先生の登場。
「みなさん、つまらないことで喧嘩をしてはいけません。…文化国の市民は喧嘩なんぞすべきものではないでしょう?」と。
そこに舞台うらから、大きな声で中村先生が(時代物がかったこわいろでどなる)「意義あーり! …僕は市民たる者は大いに喧嘩をしなければだめだと思います。…」「…喧嘩というのは、ぶったり叩いたりすることではありません。怒ることではありません。争うことです! 理をもって争うことです。」
柴田先生「でも、子どもにそんなことができるでしょうか?」
中村先生「できますとも!(生徒一同に向かって)諸君、大いに喧嘩したまえ。喧嘩するやつは正直だ。喧嘩をしないやつは不正直だ。ただし決して怒るべからず。怒ったら負けだ。怒るのは負けた証拠だ。負けるとくやしいから怒る。勝てば人間は怒るものではない。だから喧嘩というやつは、その場ではどちらの勝ちだか分からないこともあるが、その後を見ているとよくわかる。腹を立てたり、怨んだり、蔭でブツブツいったり、ふてたり、むくれたり、仕返ししたりするやつがいたら、それが即ち負けた方だ。…諸君、大いに喧嘩したまえ! …(略)…」
柴田先生「でも…女はそれではいけないでしょう? …」
中村先生「(強く反論・略)…柴田さんどうです? 怒ったんですか?」
柴田先生「怒ると負けでしょう?…」などと。
1921号【2007年9月28日】
★<川崎のなかの沖縄>
この場を借りて、いくつか御礼とご報告。最近の「風」への最多登場は和光大学・岩本陽児さんですが(数ヶ月前は渡部幹雄さん?)、本号には川崎沖縄県人会(芸能研究会)「第70回芸能大会」のことをお知らせいただきました。有り難うございました。
そういえば、和光大学としては丁度10年前、川崎沖縄県人会のご協力を得て(共催で)「移動大学」を開催した経過があります。テーマは「川崎のなかの沖縄」。当日(1997年11月29日)の会場も教育文化会館、折悪しく雨となりましたが、大学から学長をはじめ多数参加し、その第U部は賑やかな芸能プログラムで盛り上がりました。歌・サンシン・舞踊すべて好評。いつもながら伊藤長和さんや上原幸雄さん等のご助力をいただき、忘れがたい想い出の1日となりました。
当時のことを案外詳しく記録した一文あり。「沖縄との出会い、そして移動大学」と題する拙文(和光大学「エスキス」97・所収)。さきほど古いパソコンから探し出し、HP「沖縄」ページにアップしておきましたので、ご覧いただければ幸い。とくに岩本さん、ぜひ!。
→■
この場をかりていくつか御礼を。佐藤進さんからの日本公民館学会前史資料を拝受。石川敬史さんより大学図書館および叶沢清介に関する論文も落掌。ありがとうございました。そういえば、大分からカボスをたくさん(何度も)送っていただきました。滋賀の渡部幹雄さんのご母堂から。安井研究会などで皆さんにお裾分け。どうぞよろしく御礼をお伝え下さい。
1920号【2007年9月26日】
★<「争え!但し怒るべからず」−妻籠レポート7>
戦後初期の妻籠公民館活動を指導した疎開文化人のうち、とくに社会学者・米林富男と並んで偉大なドイツ語学者・関口存男(つぎお)の役割が注目されます。妻籠で関口は、これからの時代は若者が担うのだ!とさかんにアジりながら、いくつもの演劇台本を創作しました。公民館の演劇活動によって「…若い衆たちを否応なく舞台の上につきあげて踊らせることになった」と勝野時雄は回想しています。(前出「むらの改革にとりくむ公民館」月刊社会教育1966年1月)。
その台本原本はいま南木曾町博物館(妻籠)に大切に展示されています。たとえば「王様と予言者」「乞食の歌」「巣立ち」など。その一つに「争え!但し怒るべからず」(1947年7月)があります。
先日、必要があって(いま最終段階をむかえた朝倉書店『辞典』原稿の校訂のため)、戦後いちはやく発刊された社会教育専門月刊誌『教育と社会』(社会教育連合会、『社会教育』の前身)を調べていたら「公民館のための芝居」として関口存男作「争え!但し怒るべからず」が掲載されていました(1948年9月号)。ことの偶然に驚きました。
その末尾には「…この脚本は妻籠公民館において数回上演したもの」とあり、長野、新潟、静岡、山梨等の公民館関係者にも送付したことが記されています。宮原誠一「教育本質論」等を最初に掲載したような理論的な専門誌が、公民館草創期の演劇脚本を大事に紹介しているところが興味深く、またその芝居そのものがなかなか面白いのです。
昨今はむしろ“癒し”が大事にされ、スポーツは別として、“争え”などとはあまり口にしないもの。ところが当時の公民館では、若者たちが“争え”と演じたのです。しかし“怒るべからず”と。
1919号【2007年9月24日】
★<秋彼岸>
23日の秋分の日、東京は涼しい秋の風が吹きました。ほっと一息の1日。それほど今年の夏は酷暑が続き、9月に入っても暑気去らぬ毎日でした。秋彼岸のこの日は久保山愛吉忌。安井資料研究会の丸浜江里子さんからさきほど届いたメール(Sun,
23 Sep 2007 22:36)。
○9月の安井研究会ご案内;
「…今日はお彼岸の中日、久保山愛吉忌。…ですのに、おはぎも作らず、福竜丸記念館にも伺わず、閉じこもりの一日でした。皆様はどうお過ごしでしょうか。…(中略)… 9月の研究会、明日になりましたので、再送させていただきます。
9月24日13:30〜、安井家にて。今回の作業:応接室にある資料の確認分類、打ち込み作業、整理済み資料の収納など。
安井家では秋の花が咲いていることでしょう。お会いできることを楽しみに。…」
有り難うございました。南の風メンバーのなかには、私たちの原水禁運動(安井家)資料研究会の取り組みに関心をおもちの方あり。どうぞお出かけ下さい!・・・と言っても、日付はすでに24日。当日になってのご案内ではご無理も当然。申しわけありません。
毎月1回のペースで研究会は開いています。新しい方も歓迎。HPにご案内を出していますので、いちどお気軽にどうぞ。
いつも作業は安井家の居間で、四方山話をしながら、のんびりと。8月29日の研究会では、私の指定席になっている椅子の背が、うしろの書棚に当たって、ガラスがパチンと割れてしまいました。安井ご夫妻愛用の家具を壊してしまった!と気になったまま、1ヶ月が過ぎました。
1918号【2007年9月22日】
★<飯田市公民館「主事会報」>
信州・飯田市の公民館主事会では、公民館で働く主事さんたちの会報が3ヶ月おき(かっては隔月刊)に発行されてきました。すでに30年あまりの歩みか。住民に向けての公民館報とは違って、仲間同士の気のおけない通信、ときには家庭の内輪話も載っているような編集ですが、地域の公民館活動史としても貴重な断面を記録するユニークな内容となっています。
今回、木下巨一さんから送られてきた第158号は、郵送ではなく初めてPDF版による配信。内容は、毎年8月初旬に開かれている「いいだ人形劇フェスタ」特集号、ことさらに誌面が躍っている感じです。今年は約200の劇団による300を超える多彩な公演が「市内いたるところで上演された」、これまでの成果や課題をふまえて「地区公演の充実がフェスタを盛り上げ!」などの記事。各地区の公民館もきっと大活躍されたのでしょう。
その昔はあの懐かしい手書きのガリ版刷りでした。毎号送っていただいたはずなのに、私のファイル・ボックスの保存は断続的(申し訳ない)。それでも自治体の公民館体制(約20公立施設の地域配置)を支える主事集団のつながりとエネルギーが伝わってきます。手書きからワープロ編集となり、最近は写真も飾られ、だんだん読みやすく、さらに今回からPDF版による新しい展開へ。期待しています。
あらためて発行順に整理していたところ、故伊藤安正さん(飯田市公民館元副館長)の急逝を悼む特集号(2002年11月号)が出てきました。想い出のひととき。伊藤さんが企画の中心となった最後の仕事(2001年、「生涯学習を考える講座」、竜岡公民館)のことなど。打ち合わせの静かな印象が残っています。多くの方々の追悼の辞を読んでいくと、あらためて公民館を担ってきた個性的な“群像”を再発見したのでした。
*TOAFAEC9月定例(第132回)研究会からいま帰ってきたところです。皆さんお疲れさ
ま。どなたか今晩の研究会記録を「風」に送ってください。
▼第132回研究会後の交流会
1917号【2007年9月20日】
★<中国への12号>
数日前、山東省烟台の張林新さん(日本語学校々長)が訪ねてきました。阿佐ヶ谷で夕食をしながら四方山話のひととき。日本の政局の混乱についてよく分析していて面白い。かって小泉内閣時代の反日世論に日本語学校は大きな影響をうけた経過などあり、たいへん敏感なのです。
「東アジア社会教育研究」12号の中国関係者への送本について、小生の訪中時に持参するつもりでしたが、まだ日程も決まらず(おあそく11月か)。張くんが中国に帰国して、国内便で送ってもらうようお願いしました。幸便に託すとはこのこと。食事後、風の部屋に寄って10冊を包みに。かなり重く、申しわけない。
編集委員の韓民(北京)、呉遵民(上海)、袁允偉(同)、李偉成(広州)の皆さん、執筆者として王鋼、江蕾(上海閘北区)のお二人、新書紹介の関連で上海教育出版社の袁正守さん、それに羅李争(上海)と張林新(烟台)の各氏へ。呉さんあて5冊ほど送りますので、閘北区と教育出版社にお届けくだされば有りがたい。袁正守編集長(もう退任されたのかな?)には新書の完成も待ちかねているとお伝え下さい。
第12号は韓国特集でしたので、相対的に中国からの寄稿が少ない号となりました。来年度以降の特集テーマはまだ決まっていませんが、そのうちぜひ中国の成人教育、終身教育あるいは社区教育についての特集号を組みたいもの。皆さんに期待しています。
台湾関係者への送付については、内田純一さんの方で手配いただけると幸いです。たとえば、鄭任智さん(早大・院)に帰国の予定はないでしょうか。その機会に国内郵送してもらえれば助かります。なんとかして国際便の送料負担から逃れようとするTOAFAEC
の苦肉の策です。
*本号送信の直前、李正連さんから
韓国・平生教育法が国会審議を通過(9月19日)したとの速報(
→■)を頂きました。審議は厳しい状況だと聞いていましたので(風1915号)、朗報が届き、驚きました。法制的には、韓国はいまや東アジア生涯教育の先頭を切るかたち。法の全面改正が確定した段階で、TOAFAEC
ホームページに掲載している「平生教育法」の日本語訳も新しいものにしなければなりません。そのうちぜひ! よろしくお願いします。
1916号【2007年9月18日】
★<HPづくりも難航?>
前号のつづき…。風雲急をつげる韓国・平生教育法改正問題について、TOAFAEC
ホームページでは、2005年秋の「韓国平生教育法の改正論議」について李正連さんの論文(訳・解説)を掲載していました。それからすでに2年が経過。
その後、昨年から今年にかけての学会等の専門的立法論あり、それを受けて政党間の法案提起、そして国会・教育委員会(法案審査小委員会)による修正案のまとめがあり。これらの動きについての李さんの新しい論文「韓国における平生教育法の改正論議と課題」(「東アジア社会教育研究」第12号所収)を、本人のご了解を得て、先ほどホームページにアップしました。→
http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/2005korealaw.htm
ところが、各政党案・国会委員会の修正案の比較一覧表(李正連さん作成)を含みますので、かなり重い容量。当方の小さなパソコンではなかなか開かない。新しいパソコンはなんとか大丈夫ですが、古いXPでは重くて?すぐフリーズしてしまいます。やや難航しながらのHP更新作業。
2005年「改正論議」と今回2007年「改正案の比較」まで(欲張って)1本にまとめて載せたかったのですが、これまでの2005論文はHP第1版に任せることにして、2007論文のみとしました。ご覧下さい。もし開かない状況があれば、ご一報下さい。拙いページづくり、お知恵も拝借したし。
取りあげる内容が重ければ、ファイルそのものも重くなってしまうのかしら?などと考えこみながら、本号を送信することにします。
1915号【2007年9月16日】
★<韓国「平生教育法」改正案審議をめぐる動き>
韓国では社会教育法(1982年〜)を全面的に改訂して、平生教育法が成立(1999年〜)。さらに法を充実したものにしようとする改正論議が、学会関係者によって活発に取り組まれてきました。2005年9月に光明市を会場に開かれた韓国第4回「平生学習フェスティバル」で訪韓した折り、その論議の熱い雰囲気に接して、羨ましくなったものです。日本では、教育法改正論議に学会はまったく蚊帳の外だからです。
韓国のこの間の法改正論議については、李正連さん(名古屋大学)から詳しい経過が報告されています。最新の動きは「東アジア社会教育研究」第12号(9月18日発刊)の巻頭論文。ダイナミックな報告です。
→こちら■
開かれたウリ党やハンナラ党の議員数氏によって提案されてきた法改正案が、韓国国会・教育委員会(法案審査小委員会)において修正案にまとめられ、いま審議中。ところが、この14日、一部議員の政治的な駆け引きにより、平生教育法に対する正常な審議が行われなくなり、法改正に結実するかどうか、厳しい状況に立ち至ったとのこと。韓国平生教育学会として事態を憂えるメールが相次ぎ、平生教育法改正案の審議を決裂させた議員へ「強い抗議メッセージを送ってください!」などの緊急の動きのようです。
昨15日夜、私たちの韓国生涯学習研究フォーラム(第5回、@川崎)が終わって、帰宅した李正連さんに届いていたメールを回していただきました。
「…今回も通過されないという痛嘆の状況が感じられます。我々に残されている最後のチャンスは、9月19日に開かれる教育小委員会での審議です。… 私たちの考えと知恵を集めて国会教育小委員会所属の国会議員に伝えましょう!!!韓国平生教育学会役員団」(9月14日)。9月19日の韓国国会教育小委員会の様子をまた教えてください。
▼第5回生涯学習研究フオーラム(川崎)、新刊を祝って乾杯!(右から2人目・李正連さん)
1914号【2007年9月13日】
★<妻籠宿保存の取り組み−妻籠レポート6>
…(承前・1911号本欄)…
木曽谷・妻籠の地域史。初期公民館活動に出会って、とくに演劇活動を担った若者たちが、1960年代には小学校PTAとなり、地域民俗資料保存運動へ。この活動は公民館へ移管され、その後、宿場資料保存会が組織されます。さらに「妻籠を愛する会」(全戸加入、1968年)の取り組みによって、「妻籠宿を守る住民憲章」宣言(1971年)さらに重要伝統的建造物群保存地区(重伝建、1976年選定)へといたる町並み保存運動の展開があります。地域の歩みの蓄積。
この間の経過については、遠山高志氏(南木曾町・現教育長)「コミュニテイづくりと町並保存」に余すところなく書かれています。大槻宏樹編『コミュニテイづくりと社会教育』(1986年、全日本社会教育連合会)に収録された記録です。当時の遠山さんは、同町産業観光課観光係長の肩書き。実に興味深い報告です。この論文からすでに20年が経過していることになります。こんどお会いするとき(11月中旬予定)は、その後のお話を伺いたいと思っています。
8月下旬に参上した折には、「もう残部がありませんが・・・」と言って、南木曾町『木曽妻籠宿保存計画の再構築のために−妻籠宿見直し調査報告書』(1989年3月、A4版251頁)を頂きました。報告書の全体の取りまとめは同調査委員会委員長の太田博太郎氏。妻籠宿保存の「物的環境について」東京芸術大学グループ、観光妻籠の「課題と将来への提言」は(財)環境文化研究所、そして「妻籠住民意識の生成と課題」について早稲田大学グループ(大槻宏樹氏など10名余)、の三部構成となっています。
先日の日本社会教育学会(東京農工大学)で久しぶりに大槻宏樹さんにお会いしましたので、当時の話しをちらりと聞きました。(つづく)
1913号【2007年9月12日】
★<大都市社会教育研究の30年>
私たちが沖縄研究を開始して南へ通い始めた頃、大都市(政令指定都市)社会教育「研究と交流のつどい」もスタートしました。1978年秋のこと。今年は数えてちょうど第30回。よく続いてきたものです。毎年いつも日本社会教育学会研究大会が終わったあと、近くに会場を設定し1泊2日の日程。学会に引き続くスケジュールですから、ぐったりと疲れます。疲れるほどに、夜はよく飲み、論じあい、終れば毎年なんともいえぬ充実感。
今年は全国から十都市が集まり、学会関係者は10名近く。社会教育に関わる大都市労働組合と、関心をもつ研究者がともに相集うユニークな「研究と交流のつどい」です。
各都市からの報告とともに、今年はとくに上野景三さん(佐賀大学)が「大都市社会教育研究の30年−展望を探る」と題する総括的な課題提起。力のこもった報告でした。触発されて議論いろいろ。大都市の厳しい状況認識をする一方で、大都市ならではの社会教育、その可能性や展望を考えるひとときとなりました。読みあった上野論文は「東アジア社会教育研究」第12号に収録されています。
三十にして立つ!「つどい」はひとくぎりを迎え、さらに来年以降も継続されることになります。どんな歳月を歩んでいくのか。それぞれの立場や路線を越え、お互いの課題を共有しつつ、遠慮のない議論をしあう仲間の輪、これからさらに拡がってほしいもの。海を越えて、東アジア大都市間の新たな交流が始まる予感もしています。
ご参加の皆さん、お疲れさまでした。内田純一さんが持参した第12号、どうにか完売したようです。
▼大都市「つどい」懇親会(第1日夜、川崎グランドホテル、20070910)
1912号【2007年9月10日】
★<社会教育学会の夜>
日本社会教育学会(第54回)研究大会は、9月8日〜10日、東京農工大学を会場に開かれました。厳しい残暑、蝉しぐれのなか、全国からの参加は400名近く。
金侖貞さんの新著『多文化共生教育とアイデンティティ』(明石書店)とTOAFAEC
『東アジア社会教育研究』第12号がお目見え。初日のプログラムが終わっての帰路、府中駅前で、二つの新著を前に置いてお祝いの乾杯(第1回)。苦労した本が出来たあとの最初のビールは、ことさら美味しいものです。この夜、一同かなり飲みました。
二日目夜の懇親会は大学構内での屋外パーティ。懐かしい顔あり、初めて会う若者もあり。長くイギリスに暮らしていた岩本陽児さん(和光大学)の場合、「社会教育学会はどうやら1990年の日本福祉大学以来の参加。世代のうつりかわりを感じましたた」とのこと。
会場では、ビールを手にもちながら、最終段階に入った『社会教育・生涯学習辞典』(朝倉書店)についての最終お願い。五人ほど。それとTOAFAEC
維持会員への参加要請。お二人ほどお誘いしました。成功!
酔うほどに、これから想定される社会教育法改正問題についても少し論議。法をどう守るかという防衛論だけでなく、学会の場では、積極的な立法論を提起していく姿勢も必要ではないか、などなど。この欄としてはやや重すぎるテーマなので、そのうち書くことにします。
まわりを見渡すと、どうやら最年長か。と気づいたところで疲れを感じて、二次会をさけ早々に引き上げた次第。
1911号【2007年9月8日】
★<初期公民館活動から町並み保存運動へ−妻籠レポート5>
戦後日本の復興期、いち早く産声をあげた初期公民館の多くは、その後の町村合併の渦にも呑み込まれて、ほとんどその名は消えてしまいます。そのなかで信州木曽谷・妻籠の公民館は、初期胎動のエネルギーが地域激動の歴史のなかで持続され、町並み保存というテーマを獲得して、今なお活発に息づいている貴重な地域事例というべきです。
いくつか他の公民館史にみられない興味深い特徴があるようです。まず、木曽谷の御料林解放運動を一つの背景にもって(勝野時雄論文・前出)公民館が誕生したこと。「木曽路はすべて山の中」(島崎藤村「夜明け前」)、しかし、その山から住民は締め出され、皇室御料林から戦後の国有林への切り替えにあたっての解放運動も成功せず、ついに山は住民の手にもどってきませんでしたが。
二つには、いわゆる疎開文化人の役割です。戦争末期、なぜ妻籠に多くの文化人が疎開してきたのか。米林富男(社会学者)、関口存男(ドイツ語学者)、桜井庄太郎(社会教育学者)など13家族90人であったとか。その経緯については、遠山高志・教育長の興味深い証言(「わが国第1号の公民館とは」前出)があります。ここに紹介したいところですが、先を急いで・・・。
三つには、妻籠公民館では米林の指導による社会調査と、関口の演出による青年演劇活動が二つの柱であったとされます。とくに演劇活動のなかで青年たちは自己主張や社会的表現の方法を学び、各地への公演も続けられ、1950年代の後半まで活動は持続しました。
そして四つには、その当時の公民館活動を担った青年たちが、1960年代には妻籠小学校のPTAメンバーとなり、地域民俗資料の収集・保存運動等を通して、全国最初の町並み保存運動に展開していくという流れだったようです。このあたりの詳しい話を、遠山高志さんにじっくりとお聞きする機会を・・・と願っています。日本公民館史にとって貴重な証言となるはずです。(つづく)
1910号【2007年9月6日】
★<朗報あいつぐ!>
私たちの研究年報・第12号刊行と合わせて、金侖貞さんの新著『多文化共生教育とアイデンティティ』(明石書店)が出版されたとのこと。侖貞さん、おめでとうございます。お祝いの会をぜひ開きましょう。まずは、川崎の伊藤長和さんや小田切督剛さんあたりから、具体的な提案をお願いできませんか。
第12号については、9月定例研究会(第132 回、9月21日、風1907号でご案内)に合評会(あわせて乾杯も)を予定しています。この夜は、金侖貞さんの予定は如何でしょう? 出席であれば、まず第1回?の祝杯をあげることにいたしましょう。
TOAFAEC ・維持会員あてに発送された第12号がそれぞれお手元に届き始めたようで、「いい出来!」の感想が寄せられています。発送の江頭晃子さん、ご苦労さま!
いま毎日、時間があれば、第12号のページをめくっています。体裁だけでなく、構成もまさに東アジア、内容的にも思いのほか充実した年報になったようです。まさに手ボメとはこのこと、お許し下さい。
とくに大きなミスはなし。しいてあげれば、呉遵民さん『現代中国の生涯教育』(これも明石書店刊)についての新保敦子さん(早稲田大学)書評の出典(「月刊社会教育」国土社、2007年6月号)を明記できなかったこと。この点は、日本社会教育学会の会場で上田幸夫「月刊」編集長に深くお詫びしなければなりません。事前のご了解は得ているのですが・・・。
*「妻籠レポート」(5)は次号にまわします。
1909号【2007年9月5日】
★<桐箱に収められた公民館史料−妻籠レポート4>
ときに「風」が激しすぎると、顰蹙をかい、緩やかすぎると手応えがない。しかし、いつも誰かが読んでくれている、この一点だけに妙な確信をもって、10年ちかく風を吹いてきました。どこかで、誰かが、読んでいる・・・、有り難いことです!
妻籠の公民館と町並み保存の歩みに関わって、建築学者の浅野平八さん(日本大学)より刺激的なメールを頂きました。「…なにやらじっとしておれない」など、冥利につきます。こちらこそ、いくつもの示唆をいただいて、じっとしておれず、また妻籠について書き始めました。風1897号「妻籠公民館の歩み」の続き、いくつか資料紹介的なことを。
8月24日、わずか1泊だけの妻籠訪問でしたが、木曽谷と妻籠の公民館関係者との出会いがあり、資料についてもたくさんの収穫がありました。なによりもまずは南木曽(なぎそ)町博物館(1995年開館)の収蔵資料。戦後については「公民館運動の高まり」「町並み保存への昇華」「保存事業の推進」「全国町並み保存」等の諸テーマによる独自の展示。地下収蔵庫が圧巻! 学芸員・博物館長でもある遠山高志・教育長の並々ならぬ執念を感じました。
戦後この地に疎開してきた故米林富男氏(東洋大学、社会学)の息子さん時雄氏からの寄贈資料(36点)が桐箱に収められています。一枚ずつ見せていただきました。そのなかには、歴史的な「妻籠公民館々則」(1946年9月8日)も。初代公民館主事だった勝野時雄氏(風1897号に既報)から米林先生に渡されたもののようです。米林資料については遠山教育長の論文(「わが国第1号の公民館とは」月刊公民館、2004年4月号)があり、また初期公民館活動から町並み保存運動への展開についても貴重な労作がまとめられています。あわせて早稲田大学・大槻宏樹グループによる妻籠調査報告も再発見しました。
▼南木曾町博物館・歴史資料館(妻籠、20070824)
1908号【2007年9月3日】
★<風・普段のリズムで>
九月となりました。今年も三分の二が過ぎたことになります。早いものです。ここ数日、ようやく暑気も遠のいて、東京は過ごしやすい毎日。夏の諸行事が終わって、皆さんも一段落つかれているのではないしょうか。それとも九月学期や学会シーズンとなって、やはり忙しい毎日?
この10日間ほど、「風」は実に慌ただしい日程でした。1900号を迎えてのアドレス帳更新と、全国集会(第47回、貝塚市)関連の通信が重なったためです。頂いたメールは、事務的なものや私的なお便りを除いて、ほぼすべてを掲載する方針ですから、連日の、そして長文の「風」となってしまう経過でした。お許しください。
「風」は長すぎる、吹きすぎる、読むのにたいへん、などのご批判を重々承知していますので、恐る恐るの毎日です。しかし、頂いたメールが滞留し始めると、実はたいへんなのです。風・編集作業にとって、溜まったメールはちょうど血栓のように回路に詰まって、編集デスクは直ちに混乱・不調に。風を出すのがイヤになってしまうのです。次号用の原稿が溜まってきたら、臆せず・・・連日でも長文でも送信することに。おかげさまで、本号よりようやく普段のリズム(隔日発行)にもどった感じです。
各号とも100行前後で、この(ぶ)欄も20行以内で・・・と思いながら、なかなか収まりません。本号も120行を超えてしまいました。
1907号【2007年9月1日】
★<第12号完成!>
TOAFAEC は11年前に年報「東アジア社会教育研究」を創刊しました。はじめての挑戦、大きな冒険。いろいろの経過があって、今年は第12号を迎えました。そして8月の最終日に見事完成!
編集実務作業を担った江頭晃子さん(NPOアンティ多摩)が“風の部屋”に昨日運びこんでくれました。ご足労かけました。有り難う!
年報・奥付の公式の発行日は9月18日です。いわゆる九一八、満州事変(15年戦争)勃発の日。戦前日本が東アジアに関わってきた歴史を忘れないため、毎年この日付で発行してきました。実際には日本社会教育学会(今年は9月8日〜、会場・東京農工大学)に間に合わせる必要があり、毎年その当日に会場に担ぎこむような慌ただしさ。ところが今年、1週間前に余裕をもっての刊行です。こんなこと初めて。原稿締切を厳守いただいた執筆者・翻訳者(約30名)の皆さんのおかげです。
第12号(280 ページ)の収穫は、なんといっても、TOAFAEC として初めて特集「韓国・平生学習(生涯学習)の新しい動き」を組むことができたこと。昨年秋に出版した韓国本を土台に、躍動めざましい韓国について(この1年の動きの)8論文を収録しています。他に、中国(台湾を含む)・ベトナム・沖縄、そして日本大都市研究などの論稿・報告あるいはエッセイ等が14本。目次は風1897号に既報、またホームページにも掲げています。学会々場で販売の予定。お楽しみに。「風」に注文いただいても可。頒価は1700円前後となる見込み。
いま刷り上がったばかりの第12号を手にとると、ずしりとした重量感、そして言いようのない充実感。この夏は暑かったけれど、思い出に残るいい夏となりました。
▼第12号の誕生!
1906号【2007年8月31日】
★<名護・やんばる島酒之会>
この間、信州妻籠訪問や全国集会への参加など、真面目?な生活が続いていましたが、名護から届いた「山原島酒之会」会報30号(8月24日発行)を開くと、むらむらと「やんばる」「シマザケ」への思いが胸をゆすって困っています。
山原島酒之会の会長は島袋正敏さん。私たち「風」あての「島酒通信」はいま中断中。しかし会報を見ると、活動は盛んに拡がっている様子です。先日の日本経済新聞にも「世代組曲−古酒が醸す家族愛」のタイトルで正敏家の古酒蔵(居間)の写真(8月16日夕刊)。古酒瓶を背にカメに手をおいて、悦にいった表情が羨ましい。
8月1日には、名護博物館の前、目抜きの場所に正敏さんたちの文化ギャラリー「みんたまあ(目玉)」がオープンしたとのこと。そのメッセージが会報冒頭に載っています。
「…なにっ、ミンタマー? なんだ、それっ。目が大きい人のことを言うのだがサー。つまり、大きいから遠くも近くも隅々まで見えるということよ。ミーグアーもミンタマアも世の中のさまざまな問題、課題を見据えて、今それにどう立ち向かうか、立ち止まって行動しよう、ということ。…」
この10月(18〜26日)には、酒文化交流としてスペインへの旅が企画され、スケジュールも具体化。毎日飲み、フラメンコを楽しみ、地元シェリー酒の製造元等を訪問・交流する日程。旅費は40万円以内だと。
「島酒之会」は、「山原」人でないと参加できないのに、ぶんじんは“住所不定”だから、特別に参加を認められています。東京“風の部屋”には古酒カメ三つを所蔵する身分。最近はシマザケから離れた生活が続いて、「仕次ぎ」の機会なく、カメも静かに眠っているのがちと残念。
1905号【2007年8月30日】
★<木曽の檜笠(妻籠レポート3)>
風はいま1900の大台で吹き始めています。先号より新アドレス帳で配信開始。今回のアドレス帳更新は(風も最終段階なので)ゆるやかにしました。留学生・海外受信者をほとんど残すかたち。一部の無反応の方を削除した程度の修正。むしろ最近、新しい参加があり、123人のアドレス帳にふくらんで送信中です。100人前後の線が、「顔の見えるネット」として頃合いなのですが、やや肥満体でのスタート。
風としては、初期からの古いメンバーの反応が最近あまりなく、といってこれら長老格?の諸氏をアドレス帳から削除するわけにもいかず…。
閑話休題。話は全国集会の前日、24日にさかのぼります。信州妻籠宿を訪問しました。戦後日本で最初に設立された南木曽町(なぎそ、当時は吾妻村)妻籠公民館についてお話をうかがうためです。駅頭に、南木曾町公民館長や教育委員会の皆さん、それに木曽郡公民館関係の各位も出迎えていただき、恐縮してしまいました。
妻籠公民館の初期の活動、町並み保存運動への展開、南木曾町博物館の史料収蔵(見事!)については、いずれ書くことにして、「木曽檜笠」のエピソードを一つ。檜(ひのき)笠はもちろん手作り、暑い陽射し除けだけでなく、雨が降れば檜の目がつまって絶好の傘になる名品。妻籠宿の土産物屋にも並んでいますが、公民館長(清水醇さん)が被っていてお似合い、町並みの風景にもなじんで見えました。
与那国で手に入れたクバ笠との類似もあり、興味を示したところ、別れ際に「この笠を記念にどうぞ!」とおっしゃる。辞退しましたが、とうとう頂く羽目になりました。翌日の貝塚・全国集会々場まで頭に被せて移動したという次第です。
集会の二日目。こんどの韓国向け出版(新企画)にともに編者として仕事をする梁炳贊(ヤンビョンチャン、公州大学校、韓国平生教育総連合会事務総長)さんに記念に差し上げることにしました。日本最初の妻籠公民館の「木曽檜笠」という説明つき。韓国への帰路、飛行機ではさぞかしお荷物になったことでしょう。
妻籠の皆様、お世話になりました。遠山高志・教育長のお話、清水醇・館長の檜笠、垂水吉孝さんとくに宮川護さん(いずれも教育委員会)のご配意、有り難うございました。泊まった「こおしんづか」主人の木曽節も絶品でした。李正連さん(名古屋大学)へお願い。本欄記事を梁炳贊さんに送っていただけませんか。
▼妻籠から贈られた「木曽檜笠」、韓国・梁炳贊さんへ(右、20070826)
1904号【2007年8月29日】
★<なが〜い風>
まずお詫び。お気づきと思いますが、前号本欄の韓国からの訪問団・朴仁周(パク・インジュ)団長のお名前「朴」の字が間違っていました。変換ミス、たいへん失礼いたしました。
本号は、長文しかも連日の発行となります。前号を出したあと(深更)、荒井容子さん(法政大学)から、急ぎの訴えメールが届きました。予定の記事を差し替えて本号を配信することに。内容は2005年4月10日から数号かけて(1450〜1455号)「風」に掲載された「教員の解雇処分問題」のその後のこと。「分限免職処分取り消し」を求める訴え。二つに分けて掲載?とも考えましたが、緊急の呼びかけを含みますから、なが〜い「風」となりました。「風」にはいま未掲載のメールが幾つかあり、普通だと頂いた順に掲載していくのですが、差し替えた分は次号まわし。ご了承下さい。
ついでに、前号本欄の続きとして、沖縄のエイサーの夜を報じた昨日(27日)の琉球新報記事もご紹介しておきます。「風」としても本号は最長文の記録となったようです。
○おきなわ短信(384)<盆の夜、熱くスリサーサー きょうウークイ>(略)
琉球新報(2007年8月27日9:35)
1903号【2007年8月28日】
★<全国集会第2日−枯れ木も山の賑わい>
…(承前号)… 第2日(26日)は終日の分科会討議。毎年いつも疲れ果てる1日です。自治公民館など「自治と連帯をきずく小地域の活動」(第19)分科会には、朴仁周団長をはじめ韓国訪問団の中心メンバーが参加されて、思いもかけず国際的な討議となりました。ぶんじんは「竹富島住民憲章と公民館」をテーマに特別報告。おそらく最年長の報告者か。まさに“枯れ木も山の賑わい”です。既報の環境省・石垣自然保護官事務所から特別貸与を受けたDVD「うつぐみの島・竹富島」を上映。たいへん好評でした。
終わって、夕食時を利用して日韓の新しい本づくりに向けての編集会議。海を越えてのしばしの論議、数年前の故黄宗建先生が来日された韓国本・編集会議のことを思いおこしていました。
夜は「この指とまれ−沖縄を囲む」、結局のところ囲むべき“ウチナンチュ”一人もなく、残念な年となりました。丁度この日沖縄は旧盆エイサーの夜。その直前まで集会に参加していた山城千秋さん(分科会世話人)も、「エイサーの太鼓が響いてきます」とか言って、夜の飛行機に飛び乗って、沖縄に帰ってしまった。
それでも毎年のメンバーが集まってきて、終了時には15人ほどに。小林平造さんは美味しい寿司を持参。これからの定番となることでしょう。ご馳走さまでした。同じ会場では「韓国の平生学習」のつどい。終了後には、沖縄と韓国のつどい関係者が合流するかたちでの盛大な懇親会となりました(写真)。昨年もそんな感じで、車座の飲み合いでしたが、忘れがたいひととき。これも定番としていきたいものです。
さて、1900号を期してのアドレス帳更新。次号から新アドレス帳で配信します。継続希望の方は一両日中にご返報下さい。
1902号【2007年8月26日】
★<貝塚にて−第47回社会教育研究全国集会>
いま全国集会(全体交流会)会場からホテルに帰ったところです。この間、風1900号を迎えてのメッセージ、またアドレス帳更新に伴って皆様から頂いたたくさんの(なかに長文の)メール、有り難うございます。嬉しい悲鳴、風に収録しきれません。これ以上になると、読むのに疲れますので、次号(以降)まわしに。とくに長文を送って下さった各位、掲載が遅れますが、ご了承下さい。
岩本陽児さんからは旅先より連日の送信。きっと楽しい旅なのでしょう。「…それでは貝塚で会いましょう」とのことですが、実は先ほどの交流会で一緒でした。お疲れさま。
第47回社会教育研究全国集会は大入り満員の感じ。最終的にはきっと千名をこえることでしょう。手弁当の負担で、これだけの人が全国から集まって来るのですから、たいへんなことです。やはり社会教育・生涯学習をめぐる状況への危機意識、どう取り組んでいくかの模索と探求、そして大きな期待!のあらわれでしょう。案外と若い世代の参加が多く嬉しくなります。いい議論をして、お互いの自信と活力を取り戻したいものです。
韓国からの訪問団は25名余り。団長の「韓国平生教育総聯合会」会長・牧仁周さんと1年ぶりに固い握手。美味しいワインを持参されていました。韓国の皆さんも若い顔ぶれ。東アジアの社会教育・「平生学習」の新しい交流の時代を予感させる夜でした。全体交流会の壇上で、ともに並んで「アリラン」を歌いました。(HP表紙の写真)
▼第1日・全体交流会終わる
1901号【2007年8月24日】
★<出来上がるのを楽しみに>
さきほど、「東アジア社会教育研究」第12号の編集実務を担ったアンティ多摩・江頭晃子さんのメール(Thu,
23 Aug 2007 14:03)が届きました。最終作業が終わって、印刷屋に入稿できたとのことです。
奮闘まさに数旬、ご苦労さまでした。編集部内への連絡メールですが、この機会に皆さんへ経過の一端をご紹介することにいたしましょう。
「…8/20 に原稿をPDF化にし、印刷屋に持ち込んだのですが、写真の印刷具合が悪いこと、…カットの影の出が悪いこと、地図の線がガタガタ、などということがあり、写真については全て調整をしなおし。
カットは何度かスキャンし、印刷屋へ行き来して、“海”の線が出るまで調整しました。地図の線は調整してもダメで、せっかく作っていただいたのに、申し訳ないのですが、こちらでダウンロードし、作りなおしました。…
」
ぶんじんが、カットや地図など、いろいろ注文を出したので、皆さんを苦しめたようです。申しわけない。さて、問題は経費!印刷費・諸経費高騰の折り、どんな額が出るのか。
「…今回はページも1割以上多いため、かなり値がはりました。全体を会員割引(小林先生、内田さん、真理子さん)にして、さらにアンティ多摩が担っている編集費の部分を50%引きにしましたが、下記値段がアンティ多摩として出せる最低金額です。TOAFAEC
事務局の立場から見ると高額ですが、人件費の低いアンティ多摩にとっても、ギリギリのラインです…」とのこと。詳細・内訳は省略。会計の山口真理子さんを中心に智恵を出し合いましょう。江頭メールの結び。
「…皆様、お疲れ様でした。会計の件など、頭の痛い問題は残りますが、とりあえず、出来上がるのを楽しみにしていてください」と。
*南の風1851〜1900号■