南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
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・・・2008年3月10日・福岡・油山へ>
▲南風(はえ)終えて 東風(こち)の届けし 梅祭り−20050207・油山ー
2000号【2008年3月8日】
■<南の風2000号のご挨拶・・・小林ぶんじん>
この一文を書く日を夢見てきました。1998年2月に吹き始めた風、十年と一ヶ月で到達した2000号。いろんなことを思い出します。五年目の1000号のとき、あのころ併行して出していた「公民館の風」を休刊し、「南」だけにしぼって沖縄・東アジアの交流空間づくりの新たな一歩を踏み出すか、などと相談した夜。横にいた誰かが「2000号まで頑張れ!」と挑発したことを思い出しています。とてもそこまでは無理だ、というのが正直な気持ちでしたが、なんとか体も頭?も持ち堪えて、ここまで吹き続けることができました。
最初から参加していただいた方々は、なんと十年の、しかも1日おきのお付き合い。よくぞ辛抱してくださった。迷惑メールの氾濫が始まって以来、何度も「風」を止めようと思いました。しかし皆さんの期待と激励、いや寛容と忍耐、に助けられて今日を迎えました。これまでのご愛顧に心から感謝しています。有り難うございました。
これから「風」をどう吹くか。いまだに、考えが定まりませんが、まずは休刊にすることをお許し下さい。とくに、最近新しく参加された方々、この間「風」を継続するよう激励していただいた方々(そのたくさんのメールを「風」に載せる号数がなく、残念!)、皆様のご期待に直ちに応えることができず、申しわけありません。
しかし、1997号「これからの風をどうする?」にも書いたように、いくつも課題があることは確か。新しくやりたいこともないわけではない。ここで書くと、妙な決意表明みたいになってしまいますから、控えておきます。ちょっと立ちどまって、ひと休み。ゆっくりと次のステップを考えてみます。風として継続していくか、別のかたちか、1週間後か、半年後か、まだ分かりません。
好きな歌の一節、♪…結婚は白い雲、これから〜どんな空を飛んでいくのか、それは、成り行き風まかせ〜♪の気分。
継続して、多少なりとも期待していただける方は、その旨のメールをお寄せいただければ幸いです。ゆっくりと、新しい配信アドレス・リストをつくることにします。
いつもの調子、最後のご挨拶もまた長くなってしまいました。ここでお別れする皆様には、あらためて感謝申し上げ、ご健勝をお祈りします。
1999号【2008年3月5日】
■<社会教育法・改正案−閣議決定>
先週の金曜日、社会教育法(及び図書館法、博物館法)の改正案が閣議決定され、午後5時に公表されたそうです。知らせていただいた方の情報によると、「…社会教育法23条を含めて修正することも検討」されたとのこと。しかし「今回は改正点が少なかった、改正する理由が見当たらなかった…。図書館と博物館のように、法改正にあたっての専門の委員会をつくらなかったことも幸いした…」「この改正案は先に改正のあった教育基本法を受けてのものなので、限定的な改正になった…」「今後しばらく改正する機会はないのではないか」などのコメントが付されていました。改正案は、文部科学省や全公連等のホームページに掲載されると思われます。
それにしても、あっという間の閣議決定。改正箇所は想定されたものより小規模とはいうものの、学会関係者を含めて、専門的論議の場がほとんどないままに法改正が動いていくのは、なんとも、空しい思いです。まだよく見ていませんが、図書館法、博物館法についての改正案はどんな評価なのでしょうか、どなたかコメントしていただけると有り難い。
韓国では昨年暮れに「平生教育法」(旧社会教育法を1999年に全面改正したもの)が再び「全面改正」され、旧法から大きく脱皮した内容になりました。その過程では、学会関係者が改正論議に深く関わり、改正案が国会を通過したニュースに大きな拍手がおくられたことを印象深く思い出しました。戦後いち早く社会教育法を策定した日本は、公民館制度とともに、東アジア・レベルで注目を集めてきました。しかし「いま法制的には、日本はすっかり遅れてしまった…」と、情報を送っていただいた方にお礼メールを書いたところです。
あと1号で2000号!
1998号【2008年3月1日】
■<中国・韓国の友人たちと沖縄へ>
かねてより一つの夢がありました。社会教育・生涯学習に関わる東アジア国際研究フォーラムを沖縄で開けないか、いわばTOAFAEC
主催「東アジア・フォーラム in おきなわ」の構想です。上海やソウルの友人たちに積極的に提案した経過もあります。
いわゆる上海本「現代社区教育の展望」(2003)、そして「韓国の社会教育・生涯学習」(2006)等の出版も成り、お互いの研究交流も少し拡がり、その機運はしだいに熟する方向。しかし、いま一つの踏み出しができませんでした。TOAFAEC
の非力によるものです。私たちの東アジア研究に賛同されてきた黄宗建さんが亡くなられたこともあり、また、ASPBAEやEAFAE(笹川孝一論文、「東アジア社会教育研究」第11号、2006)の動きとも絡んで、いたずらな錯綜を招来するのではないかという遠慮もありました。
この3月下旬、上海・華東師範大学の一行が東京で開かれる教師教育国際シンポ出席のため来日されます。呉遵民さん(教授)から、帰路に「沖縄を訪問したい」との希望が寄せられたとき、この機会に「おきなわフォーラム」に展開できないものかと(ひそかに)思ったのでした。しかし訪沖予定8教授の専攻は(呉さんを除いて)社会教育・生涯教育分野ではない。やはり「沖縄フォーラム」構想は無理。今回は、楽しく沖縄に遊び、交流を深める旅の企画となりそうです。
誘っていた韓国の魯在化さんも都合をつけて沖縄行きに参加されることになり、そのつながりで旧友・金済泰さんも沖縄へ。TOAFAEC
からは伊藤長和(副代表)、内田純一(元事務局長)、黄丹青(常任委員)と小林文人(顧問)など同行。上海・韓国グループと合わせると、訪沖団は総勢16名となりました。海外からはみな初めての沖縄、新しい交流が楽しみ、別の新しい夢が実現することになりました。那覇・宜野湾・そして名護の皆さん、お世話になります。どうぞよろしくお願いします。日程・参加者の詳細→こちら
■
1997号【2008年2月28日】
■<竹富島・NPOたきどぅん>
竹富島の訪問(2月25〜27日)は、昨年の7月以来のこと。しかし、「東アジア社会教育研究」第12号収録の対談(上勢頭−小林)あり、また「東部宿泊施設計画」(いわゆるリゾート問題)をめぐる情報や新聞記事の紹介などを通して、「風」としてはあまりご無沙汰をした感じではありません。
着いた当日、竹富島「NPOたきどぅん」HPに収録されているように、水牛車観光施設移転反対!の決起集会が開かれていました。立て看板(写真)も出ていて、箱庭のように穏やかな竹富島では異例のこと。水牛車観光の一業者が計画している移転地は「…竹富小中学校と清明御嶽、南側には竹富島まちなみ館、東側には竹富保育所が接している。町立診療所にも近い。」(八重山毎日新聞記事) また近くには井戸もあるそうです。
騒然とした雰囲気のなかで、予定していた公民館関係資料の調査は出来ませんでしたが、これまで知らなかった島の一面と出会い、また旧知の方々とも再会できて、実り多い旅となりました。お世話になった皆様、ありがとうございました。
帰り際に寄った「ゆがふ館」で、NPOたきどぅん・専任職員募集の情報を聞きました(事務局長・阿佐伊孫良さんより)。男性、20〜35才、月6日の休日、宿舎あり、月収17万+超過勤務手当等、なによりも沖縄・竹富の大好きな人であってほしいと。詳しいことは竹富島「ゆがふ館」(рO980−85−2488)阿佐伊さんまでご連絡下さい。
石垣に戻って、いつものように市役所前「島そば一番地」へ。島そばが、格段に美味しくなっていました。さすが一番地!
▼竹富島の立て看「水牛施設移転反対!」(東集落・あいのた、080225)
1996号【2008年2月25日】
■<ホームページと南の風>
2月に入って、TOAFAEC・前々事務局長の内田純一さんより、私たちの研究会創設の呼びかけ文や、初期研究会の案内ハガキ、「東アジア社会教育研究」創刊号収録の原稿等のデータを送っていただきました。
1995年から1996年にかけての稀少資料。当時はワープロ・データでしたから、簡単にワードへコンバートできず、ホームページにも収録できないまま、それだけに心待ちしていました。多忙のなか、ありがとうございました。いま読み返して、当時のことがさまざま思い出されます。そのうち折をみて、年報第2号以降の原稿、それに「通信」主要記事も送っていただければ幸い。大事なものはHPにアップしていきたい思っています。
TOAFAEC ホームページは、いま来訪者が9万5千(回)に近づいています。ある日、突如として来訪者カウンターが急騰するときあり、びっくりさせられます。誰が開いているのだろう、と興味もあり。
南の風は10年の歳月ですが、ホームページは1年遅れてのスタート。両者は密接につながっています。南の風が吹かなければ、HPのデーターも蓄積されず、いわばフローとストックの関係です。最初のHP初版のデータをうっかり棄ててしまったのが惜しまれるところ。いま第3版。その後の約7年の記録が蓄積され、読み切れないほどの肥満ページとなり、すこしスリムにする作業をしようかと思っているほど。
風2000号を前にして、HPのことも考えています。新鮮な風が吹き込まなくなって、その後のホームページが澱むのではないかと。(那覇にて)
1995号【2008年2月23日】
■<第5回姉妹展ご案内>
本号は数えて1995。自分史ではこの年に東京学芸大学を辞め、和光大学へ移りました。いま当時を懐かしく振り返っています。あの頃はまだ若かった。
2000号も間近になりました。ちょっと趣をかえて、これまであまり触れたことがない“ぶんじん”個人情報?でも書きましょうか。
ぶんじんは6人兄弟(姉妹)の長男です。1931年を頭に、末っ子の妹が1943年生まれ。12年間に母は6人もの子を生み育てました。あの戦争のさなか、そして戦後の困窮と食糧難に耐えて、学校にも通わせてくれました。両親とも亡くなりましたが、今あらためて当時を想うと、たいへんな苦労だったのです。
6人のうち、2001年5月に弟をガンで失いました。ちょうど和光大学プロゼミの皆さんと松本(浅間温泉)合宿中、旅先に訃報が届いた夜を忘れません。挽歌の一つ、「深更のケイタイゆれて落日の知らせはひびく・・・」などを風「歌の工房」に載せたような?記憶があります。
残りの5人は幸いにいま元気です。長男は無芸ですが、4人の姉妹はささやかな手仕事を楽しみ、その作品を持ち寄り、名付けて「小林姉妹展」を銀座で開いてきました。今年で第5回。素人の小さなコーナーですが、おついでがあれば、のぞいてやってください。
○第5回小林姉妹展(刺し子、創作織、パッチワーク)日時:2008年2月26日(火)〜3月2日(日)11:00〜18:00。会場:ギャラリーエルビス・銀座教会堂1F(東京都中央区銀座4−2−1、03-3561-2910)
銀座教会は、JR有楽町の駅から銀座の方へ歩いてすぐのところ。ぶんじんの友人だと声をかけていただければ、お茶など差し上げるかと思います。当のぶんじんは、23日から沖縄・竹富に出かける予定。帰京してやっと最終日のみ間に合うようです。つきあいの悪い長男、4人姉妹には日頃からあまり評判がよくありません。
1994号【2008年2月21日】
■<千客万来>
本号記事はすべて沖縄にまつわる話。まさに「南の風」が吹いています。2月19日「風の部屋」は、南・竹富島から上勢頭芳徳さん(喜宝院蒐集館長)を迎えました。芳徳さんは初めての来室です。しかし当夜あいにくの先約(町田市公民館)あり。町田の公民館を早々に失礼して、やっと駅で落ち合ったときはすでに夜10時近くでした。積もる話、午前1時の針がまわってもまだビール片手に話が続きました。
芳徳さんから、まずは当日(19日)の八重山毎日新聞。そして、竹富島「東部宿泊計画」(いわゆるリゾート問題)についての新聞記事コピーをすべて頂きました。いつもは読んでいない「論壇」や「不連続線」(コラム)などあり、興味深し。
やはりポイントは、かっての本土資本による土地買い占め、それを買い戻すため借り入れた資金。それが債権(9億円?)となって投資ファンドに転売される(竹富の土地も誰に転売されるか分からない)流れをどう断ち切るかの問題。そこに「東部宿泊計画」も登場してくるかたちです。これをどう受けとめるか。竹富島の選択が問われることになりました。買い戻し資金・利子は、いわば「ノドにささったトゲ」(芳徳さん)のようなもの。今後、このトゲをどのように抜きとることができるかが求められるわけでしょう。
竹富では、この冬はお日さまが顔を出す日少なく、ぐづついた天気が続いたそうです。東京は晴天が多く、とくに今日(20日)は暖かい風が吹きました。春の萌しか。しかし、それは花粉の季節が始まった知らせでもあります。
▼話すのに夢中で当日の画像なし。4日後の竹富訪問の夜の画像−左より狩俣恵一(沖縄)、上勢頭芳徳、
小林、阿佐伊孫良、前本多美子、野原富子の皆さん(ヴィラたけとみ、20080225)
1993号【2008年2月19日】
■<松本“公民館という宝”>
前号に続く。松本市の公民館研究集会では、冒頭に手塚英男さんから「これからの松本に手渡す公民館という宝」と題する印象的な話題提供がありました。公民館の「これまで」と「いま」そして「これから」を総括し、課題を提起するお話。松本だけでなく日本の公民館60年の蓄積と可能性について、松本の地で、あらためて多くのことを考えることができた二日間。手塚さんのお話は、いま韓国へ向けて編集中の『日本の社会教育と生涯学習』収録予定原稿として、詳細なものが編集委員会に届いています。日本を代表する自治体の一つとして、韓国でどう読まれるか、楽しみです。
パネルディスカッション、ポスターセッションを含む「学びのデパート」の分科会、そして全体会や交流会も賑やか。市民からの発言をことさらに意味深く聞きました。松本(だけでなく各地の)の皆さんの懐しい顔ぶれ。松本大学の方々とも2005年・日本公民館学会以来の再会。会場として奮闘していただいた当時を思いおこし、あらためて御礼を申しあげておきました。ポスターセッションの企画も、あのときの学会プログラムがヒントになったようです。奈良市の稲富和美さんたちが松本まで出かけてきて「公民館解剖図」を出店していたのは驚き。
村田正幸さんはじめ、松本の皆さんにたいへんお世話になりました。島袋正敏さんもお疲れさま。この二日間、二人でビールとともに三度ほど馬刺を楽しみました。山羊や豚や猪を友とする「ヤンバル自由人」も馬は珍しいらしい。
▼第2日・つどい総括・島袋正敏氏(松本市中央公民館、080217)
1992号【2008年2月17日】
■<松本にて>
2月15日夜は東京に名護・島袋正敏さんを迎えて、TOAFAEC 2月定例研究会。泡盛の歴史と文化、山原の島酒運動、古酒づくりについてのお話、さらに会場を「風の部屋」に移し、仕次ぎの実際を楽しみながら、十数年もの古酒を少量みんなで味わいました。すでにトクタホさんと岩本陽児さんから当夜の報告が届いています。しかし、風前号(1991号)竹富島リゾート関連記事に対する竹富島から届いたメール、そして、韓国の生涯学習をめぐる最新ニュースを優先して、本号を編集しました。お二人ご了承ください。
ソウルの肥後さん、最新ニュース、有り難うございました。2月15日の平生教育(新)法の施行と平生教育振興院のオープン、溢れんばかりの多くの方々が参席されたとのこと。海を越えて、新しい出発をお祝いしたいと思います。金信一さんが教育人的資源部長官(大臣)を辞されたことも確認できました。肥後さんからの添付フアイルご希望の方があればご一報を。転送します。
16日朝、正敏さんと二人で、松本へ動きました。冷気のなかアルプスの山々が白く輝き、実に美しい。松本市の公民館創設60年を記念する公民館研究集会(第23回)は、「みんなで考えよう!誰もが住みよいまちづくり」をテーマに盛大に開かれています。松本・長野県内はもちろん、沖縄、貝塚、奈良、京都、福井、名古屋、岐阜、東京などからの参加あり、全国規模の公民館研究集会の様相です。初日の全体交流(懇親)会が終わり、さらに信濃の美酒が並び、したたかいに酔いました。
▼交流会・二次会あと(松本市中央公民館・Mウイング、080216)
1991号【2008年2月15日】
■<竹富島リゾート問題−法廷闘争の可能性>
沖縄の新聞はいま、10日夜に起きた米兵による少女暴行事件を詳報しています。本土の新聞との圧倒的な温度差。その中で八重山毎日新聞の「竹富島リゾート 法廷闘争に発展の可能性」というニュース(2月2日)を発見しました。これも刺激的な見出し。本号ではこの記事を掲載しようと用意したのですが、経過を知らないとやや分かりにくいところもあり、同じ八重山毎日新聞の竹富島リゾート問題に関する社説を紹介することに。もう半月前のものですが、「竹富島憲章」のことも含めて、問題の所在が分かりますので、ご一緒に考えていただければ幸い。
問題の「法廷闘争に発展の可能性」の記事も長文です。経過の概要。今回のリゾート計画地(約13ヘクタール)は、かっての本土資本からの買い戻しの際、國場組(沖縄県内大手建設業)の資金に頼ったこと。1990年代前半には実際に國場組と観光開発事業の計画があったが、バブル崩壊によってストップ。その後、国場組は土地の根抵当権を設定、債権は金融機関から本土投資ファンドに譲渡され、土地がどこに売られるか分からない状況となり、他の資本(軽井沢・星野氏)の援助を得て、「竹富土地保有機構」を設立し土地の所有権を移転。そして今回のリゾート開発計画へ、という経過です。記事は次のように書き出しています。
「竹富島で計画されているリゾートの計画地約13ヘクタールをめぐり、南西観光(上勢頭保代表取締役)が無断でこの土地の所有権を竹富土地保有機構(星野佳路代表取締役)に移転したとして、県内建設業最大手の國場組(本社那覇市)が同社の提訴を検討していることが分かった。上勢頭氏は「この土地の担保を國場組がファンド会社に譲渡したために竹富土地保有機構に所有権を移転しなければならなくなった。ちゃんと手続きを踏んでやってきた」と反論している。賛否をめぐって論議のある竹富リゾート計画は法廷闘争に発展する可能性が出てきた。…」
問題はさらに錯綜していくのか。2月19日(予定)の竹富島・上勢頭芳徳さんの“風の部屋”来訪の機会に、お話を伺いましょう。
1990号【2008年2月13日】
■<ソウル・南大門を悼む!>
2月10日夜から11日未明にかけて起きた衝撃的なニュース。一つは沖縄中部での(又しても!)米兵による少女暴行事件。逮捕された容疑者は暴行を否認しているようですが、旧コザの胡屋十字路から北谷町まで、夜の基地の街を車で連れ回し、少女はようやく逃げて保護されたとのこと。許せない! 1995年の金武町の事件をまざまざと思い出しました。当時まだ暑い日射しの9月、和光大学のプロゼミ学生を連れて沖縄を旅していました。
あと一つは、ソウル・南大門の焼失。あの印象的な大門が火に包まれ国宝が崩れ落ちる画面をテレビで見て、体が震える思いでした。11日には南大門を悼むいくつものメール来信。
「悲報!崇礼門(南大門)の火災。…韓国の国宝1号である崇礼門が放火により、全焼してしまう悲しい事件がありました。1398年に建てられて約
600年間、いろいろな災難の中でも健在だった崇礼門が、喜ばしいお正月の連休に崩れてしまうとは思いもしませんでした。無念の思いでいっぱいです。崇礼門の解放前の写真は、2006年に出版された『韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル研究所、296頁)
にも収録されています。」(李正連さん、Mon, 11 Feb 2008 03:52)ほか。
いわゆる日帝支配下にも、また朝鮮大動乱の戦火をくぐって、生き残ったきた大門。私たちのソウル訪問で最も思い出に残る風景。いつも大門を起点に歩き始めたような旅でした。かっての旧朝鮮総督府がまだ建っていたころ、景福宮から南大門にかけて故黄宗建先生の話を聞きながら散歩したこともありました。
追記:南の風1988号について。本文・号数に間違いはありませんが、メールSubject
に重複あり。「乾杯四つ」の1988号は1987号の間違いです。もはや末期症状!
1989号【2008年2月11日】
■<新しい本・論文>
2月9日の韓国生涯学習研究フォーラム(第9回)の当日は雪、名古屋や福島から参加の方もあり、新幹線等の乱れを心配しましたが、皆さん順調に帰着されたようです。夜の部(金侖貞さん、李正連さんのお祝いの会)では、久しぶりに美味しい紹興酒、楽しく酔いました。
当日の記録は、小田切督剛さん(川崎・高津市民館)からも送っていただきました。有り難うございました。出版のお祝い会席上、李正連さん新著『韓国社会教育の起源と展開』を読んでの小田切コメントがたいへん興味深く、とくに「風」に寄せていただくようお願いしました。次号に掲載予定です。(関連写真→
■)
回想風にいえば、かって新しい本や論文が出ると、学会等の研究会や雑誌編集の集いなどで、さかんに話題にしたものです。もちろん評価はいろいろ。ときにケンケンガクガク?の議論あり、色をなしてケンカ?気味の場面も懐かしく想い出されます。もちろん親しい仲ですから、お互いの信頼や友情はかえって深まることになりました。
最近は妙な「評価」がいろいろ横行しているせいか、仲間うちの親しい議論も面倒くさいことは避けがち。概してお互いに遠慮しあって、評価的なこと、とくに批判めいた言辞は慎む傾向になったようです。しかし大事なことを率直に言い合う関係、相互に批判できる仲間の信頼は広げていきたいもの。
9日の研究会では(李正連さんの本でも触れられていますが・・)韓国が「社会教育」から「平生教育」に移行したことと関連し、日本「社会教育」の意義を考える上で、九大・松田武雄さんの新しい論文(「社会教育におけるコミュニテイ的価値の再検討」−『教育学研究』最新号、2007年12月)が注目に値することを話題にしました。
1988号【2008年2月9日】
■<間違い−いろいろ>
本欄を訂正記事から始めなければならないのは残念ですが、風・前号目次に「第13号編集会議」とあるのは間違い。もともと編集会議ご案内記事を掲載予定でした。しかし2月9日の「韓国生涯学習研究フォーラム」案内が舞い込んで、日程上これを優先。ところが「目次」は、入れ替えを忘れて残ってしまったという経過です。申しわけありません。(HPは訂正済みです。) 本号にまず『東アジア社会教育研究』第13号「投稿呼びかけ」を、次号に「第13号編集会議」(3月9日夜)を載せる予定です。
さきほど(8日夜)、編集事務局のある人が“風の部屋”に現れました。3月9日の会議を1ヶ月間違えて、しかも9日を8日と思い込んでの来訪。二つの勘違い・・・しかし、その熱意に深く感謝して、二人で乾杯しました。東アジアはいま春節のお祝い、わざわざ新年のご挨拶に来て頂いたかたち。それにしても間違いいろいろ。この人はいったい誰でしょう?
新春の朗報。李正連さん(名古屋大学)が『韓国社会教育の起源と展開』(大学教育出版社)を出版されました。力作!おめでとうございます。その李さんからは1月早々、韓国(新)平生教育法の日本語訳を送っていただきました。年末年始の翻訳作業。早速ホームページにも収録(風1970号に既報)。せっかくの難作業を少しでも活かしたい…という思いで、「南の風」はこの1ヶ月ほど「新・平生教育法の注目点」を連載してきました。
法律はそのままでは読みにくいもの。日本の社会教育・生涯学習の視点から、注目したい項目を10点ほど取り出すだけの単純な作業です。本号で8回目。もちろん不充分、きちんとしたコンメンタールではありません。間違った理解もあると思われます。そのうち韓国生涯学習研究フオーラムの皆さんからご批正(修正・追加)いただきたいと期待しています。
1987号【2008年2月7日】
■<乾杯四つ>
本日は旧暦のお正月。昨日(6日)は「南の風」10才の誕生日でした。今年の暦は、春節とそれに南の風の祝いとを重ねてくれて、なにやら嬉しい気分です。これで乾杯二つ。
加えて9日に川崎で開かれる韓国生涯学習研究フォーラムでは、金侖貞さんの就職と李正連さんの出版の二つの祝いが重なります。合わせて四つの乾杯!
誠におめでたい2月となりました。
1月の新年会でも、いくつものお祝いの乾杯をしました。はれて結婚する人、その上の世代では赤ん坊の誕生、また新しく就職する人があれば、長老の世代では定年退職の祝いあり、おめでたい一日でした。
これからの日程では、風でご案内したように、2月15日の研究会で「古酒づくり・仕次ぎ」(ゲスト・島袋正敏さん)の乾杯あり。また風の部屋としては初めての客、竹富島・上勢頭芳徳さん(風1983号)とも杯を交わしてつもる話となりましょう。そして3月は、上海・華東師範大学を迎えての歓迎会。こう書いただけで・・・酔ってきました。皆さま、お手柔らかに。ゆっくりと参りましょう。
本号収録の多田豊さんにも乾杯。急ぐ記事を優先して、掲載が遅くなりました。オープンプランの公民館についての興味深い調査報告、ありがとう! 建築工学・施設空間論の立場からの風はとりわけ新鮮。実はこのレポートの前に、詳細な画像や図面を付したPDFフアイルが届いたのですが、「風」向けに文章で再送いただいたのです。画像等を含めての詳しい報告ご希望であれば一報下さい。転送いたします。多田さんへの直接のアクセスは→
c64830@cit.nihon-u.ac.jp、です。
1986号【2008年2月5日】
■<1号に思いをこめて−自分史の格闘>
2000号を前にして、回想風の記事が多くなったことは先号に書いた通り。実は1950号からの「風」最終ラウンドを送信するたびに、各号の号数が、自分が生きてきた年代と重なり、ささやかながら格闘してきた自分史がよみがえってくるのです。
1950年はちょうど大学へ入った年でした。1960年当時は大学助手、安保闘争もあって重苦しく大学の古い体制と闘った思い出。屈折を経て東京へ移ってからの模索の10年。教育社会学から離れて社会教育研究に自らの道を見定めたのが1970年でした。
しかし1980年には、大学の管理職に選出され(選挙の暴力!)激職の毎日。そのころ軌道にのっていた沖縄などフィールドへの自由な旅を制限され、東京都の委員をはじめ社会教育関係の講師・委員すべてを辞し、研究的かつ精神的に閉ざされた10年でした。社会教育研究から離れて、むしろ教員養成研究等の分野に歩を移そうかと思ったり。
本号の1986という年は、在外研究の機会も与えられ、ほっと希望の丘が見えて、社会教育の地域調査を再開できた年でした。しかし翌年には再び選出されて大学の管理職部屋へ逆戻り。また4年の閉塞した歳月が続きます。いま沖縄・東アジアの旅にこだわるのは、この10年間の反動があるのかも知れません。
文字を学ぶ識字実践の記録に「1字1字に思いをこめて・・・」という表現がありましたが、いま「風」の各号に、生きてきたその1年の自分史に思いを馳せて、つい回想・懐旧が多くなってしまうのです。
1985号【2008年2月4日】
■<十日町の雪祭り>
3日の東京は朝から雪。夜に(数日前にも寄った)渋谷ロゴスキーでの会食あり。交通機関の乱れも報じられて、中止しようかと思うほどでした。幸いに夕暮れになって雪はたいしたことなく、“春節”を前に中国の話もはずんで、楽しい夜となりました。
しかし今年の冬は、温暖化といいながら、かなり寒い毎日。この酷寒に沖縄から上京される島袋正敏さん(2月15日〜)、ご苦労さまです。厳しい寒さはきっと苦手に違いない。まして招聘されている松本は、東京よりもっと冷える毎日。大丈夫かな?と心配しています。
沖縄の本土復帰前後、派遣されて沖縄の教師たちが日本(東京学芸大学)の長期研修にやってきた数年がありました。講義の途中、窓の外に雪がちらつくのを見て、「雪だ!」と叫んで外に飛び出る姿がありました。初めての雪、感動的な一瞬だったのです。
思いついて『豪雪と過疎と』を読んでもらい、十日町「雪祭り」に誘いました。その頃、故横山宏さんとご一緒に毎年のように十日町雪祭りに行く習わし。ところが沖縄の教師お二人は、雪国を旅する用意がない。大急ぎでスキー部の学生たちの協力を求め、手袋から帽子、ウインドウ・ヤッケから靴まで借り出して、異様な出立ちとなり、雪の祭りと温泉を楽しんだのでした。たしか徳永功さんや進藤文夫さんも一緒だったような記憶。
思い出いろいろ。沖縄でたまに会えばすぐに十日町の懐旧談になります。白酒に酔って雪のなかに倒れ込み、立ち上がれない。心配してのぞきこむと、雪まみれの至福の顔。いつまでも雪に埋もれていたい、立ち上がりたくない思いだった、そんな話が続きます。
2000号を前にして、つい回想が多くなり、申しわけありません。
1984号【2008年2月2日】
■<初めてのメール>
「南の風」の10年。最初のころはアドレスをもっている人が少なく、探して・・・誘って・・・「風」を送信し、ネットを拡げる努力をした時期がありました。いまは多くの人がアドレスをもつ時代に。そして、思わぬ人からのメールをいただくようにもなりました。
ご存知の見城慶和さん(夜間中学)は達筆の人、いつも流麗な文字に惚れ惚れしたものです。そんな方から初めてのメール。驚きました。世田谷・三宿中学校夜間学級の関本保孝さんを介しての一文。
「寒い日がつづきますが、先生にはお変わりありませんか。関本さんから先生のアドレスを教えてもらい、初めてのメールを送らせて頂きます。『社会教育・生涯教育辞典』の「夜間中学校」の原稿を読ませて頂きました。関本さんと電話でやりとりしたときに、全国各地での運動のところに東京の江東区を加えていただこうと話しあいましたが、うっかりして千葉県の松戸市も抜けていたことを見落としていました。もし間に合うようでしたら、ぜひ千葉県も書き入れてくださいますようお願い致します。…」(Fri,
1 Feb 2008 14:47)
『辞典』とは、「風」でも何度か紹介したことがある朝倉書店から出版予定の5年越しの取り組み。いま最終段階を迎えています。先日、久しぶりに関本さんとお話する機会があり、ふっと思い出して、以前に書き終えて送稿済みの「夜間中学」原稿、パソコンから探し出して、念のため目を通してもらったのです。見城先生にも読んでいただいたらしく、細部にわたるチェック。有り難うございました。校正に間に合います。『社会教育・生涯教育辞典』は執筆者310人、約1500
項目の作業。今年中にはきっと刊行できる!予定です。
▼右・見城慶和さん(小林チヒロ写真展−銀座ギャラリーにて、20030501)
1983号【2008年1月31日】
■<風の部屋>
かって1970年代、国立に住んでいた頃、本の置き場に困って、近くのマンションを購入、書斎として使っていました。誰でも(特に沖縄から)いつ来ても泊まれる部屋とし、那覇・喜納勝代さんと相談して「久茂地文庫分室」という小さな看板を掲げていたときもあります。
1980年に今の永福に引っ越し。しかし狭い空間、はみだしの本・資料は福岡・油山の書庫に投げ込むようになりましたが、それでも近所のアパートの一室を借りてやりくり。1995年に東京学芸大学を定年退職、研究室の所蔵資料はそっくりトラックで福岡に運びました。あの時、農中一家や岡幸江さん、石井山竜平さんなどの九大研究室メンバーに手伝ってもらったのでした。2002年の和光大学退職時、研究室の本・資料は(福岡でなく)手元に置いておきたく、現マンション(住居は5階)の3階を用意してそのまま移動。人呼んで“風の部屋”となりました。「南の風」とも関連し、いつも風が吹き通るような部屋への期待。
ときにゼミをしたり、編集会議をしたり、飲み場となったり、なによりも誰でもいつでも自由に泊まれるベッドを用意しようと。世界の酒ビンいろいろ、しかし食事などおもてなしは一切なし。まわりの壁は雑然とした本棚など。いつもゆらゆら揺れています。地震のときは必死で逃げる必要がある物騒な空間です。
これまでエジプトや中国などから賓客の宿泊あり。かっての研究室メンバーは概して(敬遠して)あまり泊まらない。おそらく眠れない予感があるからでしょう。この2月には沖縄・名護の島袋正敏さん(15日)、相次いで竹富島から上勢頭芳徳さん(19日)が来泊の予定。風の部屋としては豪華な月です。両日ともきっとおそくまで飲んでいること疑いなし。お気軽にお出かけください。
田中伸一さん(奈良)から長文のメールあり。次号に載せます。
1982号【2008年1月30日】
■<台湾からの便り>
「南」の風の由来は沖縄。沖縄研究の継続・再開を呼びかけるメールから始まりました(1998年、今年で10年)。さらにその南は台湾。ここからの「風」はなかなか吹いてこない。と思っていたところに、台北の許銘欽さんから新春ご挨拶メールを頂きました。お正月にヨーロッパへの教育視察を楽しんでこられたようです。
忘れもしない1989年3月(20年前)、はじめて台湾の社会教育調査へ。さらにその翌年8月の台湾訪問の折、台北の一夜、縁があって許さんに会ったのでした。まだ40才になっていないのに当時すでに小学校の校長。日本留学の強い希望があり、東京学芸大学・院へ。専攻は学校経営ながら私たちの社会教育研究室の常連メンバーとなり、福岡・油山をはじめ沖縄や韓国等への旅に参加してきた人です。
その後1996年、学大・小林ゼミ生だった楊恵芳さんの結婚式に招かれて、台北に出かけました。ぶんじんの祝辞は、許校長の通訳により、たいへん好評。請われて“ふるさときゃらばん”の「ザ結婚」を歌ったことも思い出。ところがその後、楊恵芳さんとの連絡がとれなくなって、台湾に行くたびにさびしい思いをしてきました。許校長も探してくれましたが、音沙汰なし。
前置きが長くなりました。許さんの新春メールの添え書きに次の一文あり。
「…驚きましたが、昨日、友人の結婚式にて10余年ぶりの楊恵芳さんにめぐり合いました。夫婦とも順調にとても発展しているそうです。はやく小林先生に連絡してくださいといいましたが、3月に日本に行く予定があるそうです。その時に小林先生に会いにいくでしょう。」
小林ゼミの共同労作『東アジアの社会教育・成人教育法制』(1993年)の台湾を担当したのが楊恵芳さん。春の楽しみがまた一つふえました。
1981号【2008年1月28日】
■<竹富の公民館>
前号に取り上げたように、竹富島リゾート開発問題が論議され始めて、あらためて『東アジア社会教育研究』第12号の「竹富島憲章と竹富公民館」(上勢頭芳徳さん・小林文人の対談)を読み直してみました。芳徳さんが自由闊達に語っていて、面白い記録、この種のテーマにしてはいい読み物になっていると思います。
竹富島については、これまで歴史・民俗、芸能・文化、言語学、社会学など、いろんな分野からの研究・記録が出ています。また写真集やエッセイ等もあり、全国竹富島文化協会(会員は約千人)の活動も独自なもの。しかし社会教育・公民館の立場からは、まとまったものがありません。上記の対談は研究論文ではありませんが、信州・妻籠の町並み保存運動等との関わりも含めて、歴史的かつ全国的視野をもって語っていただいた貴重な証言。ぜひ社会教育関係者に読んでいただきたいもの。
竹富公民館はいわゆる集落(自治)公民館です。三つの集落(支会)をまとめるかたちで、公民館が住民自治組織として機能してきました。各集落の話しあい(村ムーヤイ)、そこから代表が出て「公民館議会」、最終の意志決定の場は「総会」。必要に応じて公民館運営検討委員会や集落景観保存調整委員会等の委員会が機能していくという典型的な集落自治・住民自治の取り組み。この公民館が、今回のリゾート開発問題にどのように対応していくか、難しい課題も含みつつ、その真価が問われることになりましょう。
2月下旬に竹富島に出かけることにしました。久しぶりに皆さんとお会いして、その後の話を聞くのを楽しみに。
1980号【2008年1月26日】
■<竹富島の選択は・・・>
前号・本欄で、昨年末に報じられた竹富島の大規模開発問題のことが気になり、「住民説明会などこれからだそうだ」「さっぱり様子が分かりません」などと書きました。実は、「竹富島東部宿泊施設住民説明会」は1月21日に開かれていたのでした。虫がしらせたとでもいうのでしょうか。
八重山毎日新聞は、大きな記事(1月23日)を掲載。迂闊にもこれを見落としていました。追いかけて琉球新報も報道(24日)、これで知りました。相次いで、風・前号を読んで、「住民説明会は開かれましたよ」と鷲尾雅久さん(石垣「島の未来を考える島民会議」)のメール。また「竹富島ゆがふ館」(NPO・たきどぅん)阿佐伊拓さんからも来信。有り難うございました。ゆがふ館ホームページにも、同説明会のことが掲載されています。当方のパソコンは、一夜にして竹富島の動きがあふれることに。
昨年から動きはあったものの、いま、熱い論議が始まり、これから竹富島としてどのような選択をするか、問われることになるわけです。さすが竹富島だ、という感想が一つ。賛否両論の議論、自分たちの島の未来をどう決めていくか、島人の住民自治の構えが伝わってきます。自治組織としての「公民館」の合意をどうつくっていくかの課題。あと一つは、かって本土資本から土地を買い戻した資金(6億円)のこと。その後13億円を越える?債権、土地に設定された根抵当権が「都内の投資ファンドの手」に移り、これを解消する努力など、億単位の金が動いてきた詳しい経緯を知りませんでした。島はいま、土地をめぐる投資ファンド(外資系?)と闘っている側面もあるように思われました。
いずれにしても正念場。竹富・住民憲章をつくり、町並み保存運動に取り組んできた“うつぐみ”のエネルギーを活かして、新しい問題に取り組んでいただきたいもの。
なおTOAFAEC 「東アジア社会教育研究」第12号(2007年)に「竹富島憲章と竹富公民館」と題する上勢頭芳徳・小林文人の対談が収録されています。この機会にお求めの上、お読みいただければ幸い。HPに定価・送料など掲げています。次号にも、竹富島の動きを掲載予定。
▼第12号
1979号【2008年1月25日】
■<沖縄のリゾート問題>
東京はここ数日、雪も降り、寒風強く、冬真っ盛りというところ。各地の皆さま、お元気でお過ごしでしょうか。ぶんじんは元気です。
まずお詫び。本号所収の【韓国・新「平生教育法」の注目点(5)】は前号に掲載する予定でしたが、急ぎの案内が来信し、記事差し替え。しかし表題・目次のみ「平生教育法」(5)
が前号に残り、羊頭狗肉の結果となりました。気づいてHP「風一覧」目次は修正しましたが、吹いた風は戻らず・・・、たいへん失礼しました。
この機会に言い訳を。風に書いた記事は、1回は読み直して発信する習わし。それでもときに間違いや脱字・重複字等あり。お許し下さい。
最近、気になる沖縄のリゾート関連の動き。「風」としても昨年12月に古宇利島ホテル建設「反対!」(1959号)と、竹富島に降ってわいたような大規模開発問題(1966号)のニュースを載せました。古宇利島の動き、1月23日夜の「ふいの島日誌」(小浜美千子さん)より。
「…昨日は結論を出したはずの“ホテル建設”関係から使いの者がきました。一人で聞いていては後々問題になりそうなので、キビ畑の書記を呼んで立ちあってもらいました。大きな仕事だから、あきらめがつかないのだそうですが、こちらも総会が出した答えなので歩み寄れる話ではないのです<m(__)m>。」
竹富島については、風・新年号(1967号)に現地NPOから早速のメールをいただきました。住民説明会などこれからだそうで、さっぱり様子が分かりません。年賀状にはいくつか竹富島の動きにふれたものあり。たとえば「…町並み保存に合った赤瓦屋根の1戸建てが約50戸、周りは石垣積みで一つの集落を形成する模様」とのこと。あるいは「…何でもセレブ向けの大型リゾートのようです。キツネにつままれた気分…」など。その後はどんな状況なのでしょうか。竹富島の皆さんに会ってみたくなりました。
1978号【2008年1月23日】
■<“これからの夢”をかたる>
1月25日に神奈川県公民館大会(第49回)が開催されるとのご案内をいただきました。本号は、明日(24日)発行の予定でしたが、それではあまりに直前すぎる・・・、というわけで、連日の風になりますが、急ぎ誌面を整えて配信。せっかくのご案内、ぜひ早めにお送りいただきたいもの。
25日は、TOAFAEC の今年最初(第136回)の研究会当日でもあります。このご案内も、お屠蘇気分のため、いつもより遅くなっての風・掲載(第1974号、1月17日)。「今年度の活動、“これからの夢”をかたる」をテーマに掲げ、(1)
モンゴル支援奨学会のこれから、(2) 韓国生涯学習研究フォーラム:韓国へ向けての出版構想など、(3)
中国との研究交流:第13号編集に向けて、華東師範大学グループ沖縄訪問の受け入れなど。話題提供は、トクタホ、金侖貞、小林文人の3名。皆さま、お誘いあわせの上、お出かけ下さい。
ことのついでに、2月定例(第137回)研究会の予告。沖縄・名護から島袋正敏さんをお招きして「やんばるの島酒運動−古酒づくり、仕次ぎについて」を語っていただきます。ご承知の通り、正敏さんは名護市博物館、同図書館の元館長、第42回社会教育研究全国集会(名護)の立役者。いま「山原島酒之会」会長、人呼んで「やんばる自由人」。
松本市の公民館研究集会(公民館創設60年記念、2月16日〜17日、風1950号に既報)に招聘されて本土入りされます。その前日に東京に来て頂くよう、とくにお願いしました。2月定例研究会は、松本日程に合わせ、2月15日(金)夜の開催となります。終了後は“風の部屋”を交流会場とし、三つのカメを並べて、実際に「仕次ぎ」をお願いする予定。お楽しみに。
1977号【2008年1月22日】
■<3月の沖縄訪問案>
上海・華東師範大学から3月下旬の訪日団メンバー・リストが送られてきました。早速、8名の方の東京→那覇フライトを予約しました。呉さん、ご安心下さい。3月26日・JAL
911便(東京10:25→那覇13:15着)、今だと先得割引(37,500円→20,400円)で入手できます。
あわせて那覇のホテル(2泊)も予約しました。高級ではありませんが、格安(1泊
5,000円)で便利、ぶんじんの定宿です。名護のホテル(2泊)は島袋正敏さんにお願いしました。飛行機と宿が決まりましたので、あとはゆっくり楽しみながらスケジュールを確定していくことになります。心づもりとして、次のような案を考えています。
3月26日:午後・那覇到着。南部をまわる時間はなさそう。首里城あたりを案内(モノレール)。この
夜、おきなわ社会教育研究会主催による歓迎会予定(玉那覇正幸さんメール)。那覇泊まり。
3月27日:那覇から北上、宜野湾(佐喜真美術館)、読谷(残波岬、座喜味城)、万座毛などを経由
して名護へ。この夜、名護の皆さんによる歓迎夕食会か。この日のマイクロバスの手配を上地武
昭さんなどにお願いしたい。名護泊まり。
3月28日:名護・やんばるを歩く。上海グループの希望も聞き、正敏さんと相談しながらコースを考
える。集落の公民館、美ら海水族館、辺野古、東海岸でバベキュー、などか。車は名護市で手配
して頂ければと期待しています。名護泊まり。
3月29日:名護から那覇へ移動。午後・南部戦跡をまわる。那覇泊り。
3月30日:午前・自由時間。午後(15:35発)上海へ帰国。
もし同行希望の方があれば、ご連絡下さい。3月26日午後に那覇で落ち合うことができるよう、またお帰りの、飛行機を各自でご予約下さい。ホテルはご希望があれば、当方で予約します。さきほど伊藤長和さんからのメールを拝受。上海グループと一緒のホテルを予約しました。スケジュールの変更を含め詳細は、TOAFAEC・HP(→
■)に掲載していきます。
1976号【2008年1月20日】
■<若い世代への期待>
「月刊社会教育」創刊50周年記念の集い、皆さま、お疲れさまでした。帰路、一人ですこし歩きたくなって、会場(春日)から水道橋を通り神保町へ。そうだ!と思いついて、小川町のときどき行く店まで足をのばし、いい散歩になりました。
いろんなことを考えながら歩きました。今日(19日)の月刊社会教育50年記念シンポのこと、「辞典」のこと、韓国向け「日本の社会教育・生涯学習」出版のこと、などいろいろ。寒風ながら、酔いの体には心地よく、頭もあれこれ思いめぐるものです。
帰ってみたら、伊藤長和さんから、月刊社会教育50年シンポについてのやや辛口メールが着信。率直な感想・意見が飛び交うのは最近少なくなっただけに、さすが伊藤さん。そう言えば、記念シンポのなかでも誰か「月刊にもっと論争を・・・」の意見がありました。
この日たまたま大学入試センター試験の当日。大学関係者は終日拘束された人が多いのでは・・・と気になっていました。最近は私立大学でもセンター試験会場になっている。その割には案外と大学関係の見知った顔があり、むしろ意外な感じでした。
今回の50年シンポ企画は、若い世代が担当したとの話を聞いたので、正直、もっと違った発想のプログラムが展開するのかという期待がありました。シンポ登壇者は別にして、会場からの発言者はどちらかといえば年長者が多く、とくに回想的な話が出はじめたときは、「これからの社会教育を拓く」テーマからみて妙な違和感を覚えました。
終盤には「歴代編集長の話を・・・」などの雰囲気、それはやめた方がいい、もっと若い世代で、溌剌とした議論にしてほしい、せっかくの「50年シンポ」が後ろ向きになってしまう、と思いました。懇親会に移って、幸いこの話が消えてよかった。伊藤さんに触発されて別の感想です。
当日の写真2葉を別掲→
■
1975号【2008年1月19日】
■<上海から沖縄への訪問スケジュール>
3月下旬、呉遵民さんなど華東師範大学・教授グループが日本を訪問されます。東京日程(第1回東アジア教師教育研究国際シンポジウムへの参加等)を終えたあと、沖縄訪問の計画あり。「南の風」で何度か報じてきました。期待に応えて、いい沖縄の旅となるよう、那覇・名護の皆さんにもお知らせし(年末)、その受け入れについてご協力をお願いしてきたところです。上地武昭さん(沖縄大学)からは、年頭に早速のメールを頂き、有り難うございました。
一行は、同大学(教育学系)学部長をはじめとする主要教授8人の皆さん。いずれ呉教授から、スケジュールやメンバー等の詳細が送られてくると思われますが、現在まで分かっている範囲の情報は次の通りです。
○上海訪日団のスケジュール(予定):
3月20日〜23日午前・第1回東アジア教師教育研究研究国際シンポジウム
(会場・法政大学、事務局・東京学芸大学)
23日午後 東京観光(案内役、数人の方にお願いしたい) 夜は歓迎・交流の会を予定
24日〜25日 東京周辺エクスカーション(1泊2日)
26日、沖縄へ(3泊4日予定)
29日あるいは30日 上海へ帰国 (以上、南の風1963号に既報)
一行は、上海→東京→那覇→上海のルート。帰路の沖縄(那覇)→上海(浦東)便は、木曜・日曜の週2回フライト(MU東方航空)なので、おそらく2月30日(日の離沖・帰国になると思われます。
調べてみたところ、この時期は春休み期間中。東京→那覇の飛行機予約は急ぐ必要があります。国際線(上海→東京、那覇→上海)は上海で予約、東京→那覇の国内便はこちら(小林)で予約しましょう。今だと安いチケットが入手できそう。同行希望の方があれば、ご一報下さい。
呉遵民さんへ。以上の日程・人数で間違いありませんか? 沖縄への飛行機及び沖縄滞在のホテル予約をこの線で進めるとすれば、ご一行の氏名一覧(ローマ字綴り)をお知らせ下さい。
呉迪さんの「東京案内」のご協力メール、有り難うございます。23日を予定(昼・夜)ください。ぜひ!よろしくお願いします。
1974号【2008年1月17日】
■<歌ごころ萎えて>
今日(1月16日)は久しぶりに朝倉書店へ。この数年取り組んできた『社会教育・生涯学習辞典』の最終取りまとめ作業、今後の段取りなど相談しました。そう疲れる論議はしていないのに、なぜか疲労感あり。あるところまで来た達成感、しかしその一方で、未だ道遠しの過程でもあって、妙に冴えない夜です。
歌詠みであれば、こんな夜、きっとなにか言葉が出るのでしょうが、最近は歌ごころのかけらもありません。その昔、恥を忍んで「風」に歌を載せていたときがありました。その拙さに驚いて、風を読んでくれる人もいるだろうと。なにかの屈折があって、風に載せる勇気も失せてしまった今、いつのまにか歌の心も萎えてしまったのです。
新年会に残ったワインの瓶を前に、なんとなく開いた歌の本から冬や雪などの歌をいくつか。
◇冬の欅 勝利のごとく立ちていん 酔いて歌いてわが去りしのち (寺山修二)
◇子を負ひて 雪の吹きい入る停車場に われ見送りし妻の眉かな (石川啄木)
◇しんしんと雪ふるなかにたたずめる 馬の眼(まなこ)はまたたきにけり (斉藤茂吉)
◇あらはなる うなじに流れ雪ふれば ささやき告ぐる妹の如しと (近藤芳美)
◇今だれしも俯くひとりひとりなれ われらがわれに変わりゆく秋 (道浦母都子)
*『岩波現代短歌辞典』(1999)など
1973号【2008年1月15日】
■<新年会の自分史>
12日の新年会レポート、事務局(江頭晃子さん)から送信いただきました。加えて、例年になく欠席者のメッセージも入力されてきましたので、これも掲載。一部に「南の風」メンバーでない人もいますが、皆さんお互いに親しい仲(学芸大学出身者が多い)なので、お許しいただけるでしょう。本号は新年会の特集号となりました。連載を始めていた「韓国・新平生教育法の注目点」も休載。
新年会は何年に始まったのか。古い手帳で調べてみました。福岡・油山の新年会は、1973年頃から、1月2日に開いてきましたが、東京はいつも正月不在でしたから、開かれず。1980年に国立から永福に引っ越し。しかし当時、不運にも大学の激職(学生部長)に選出され、苦しい生活が4年も続き・・・。それから解放された翌年(1984年)の1月から永福の新年会が始まったのでした。
その当時、開催日は1月15日。しかし、大学は共通一次試験と重なり、社会教育の現場は成人式とダブって、次第にその前後の適当な日を選んで開催することに。当初の会場は自宅マンション、深夜まで修羅場のような1日。それが限度にきて、1995年頃から、近所のレストランを貸し切って開くかたちとなりました。
ところが、一次会だけでは別れ難い呑兵衛たち、小林宅へ流れて夜の部?が定着しました。いまの「風の部屋」となったのは、多分2003年か。この数年、ようやく若者のエネルギーも落ち着いてきて、適当な時間にお開きするようになった、という経過です。やれやれ。
というわけで、新年会は今年で24回を数えました。ちなみに七夕の会は、1985年7月からの歴史、今年で23回となります。
1972号【2008年1月14日】
■<“目と脳と手”をもつ地域づくり>
1月12日の新年会は賑やかに終わりました。冷たい雨も降っていたのに、たくさんの方にお出でいただき、有り難うございました。大阪から参加のアーデルさんはじめ、久しぶりの顔あり、また初めての方との新しい出会いもあり。セーンジャーさんの馬頭琴の調べに誘われ(二次会・風の部屋まで含めると)、歌もたくさん唄いました。元気を出して、新しい年を歩み始めようという気分になりました。当日の報告は、次号あたりに誰かが送ってくれると思います。
風1970号に「現代文明への内発的見直しの渦を…」を寄せていただいた東京農工大学・堀尾正靭(まさゆき)先生も新しくご参加のお一人。化学工学、新エネルギー、「生存科学」など最先端の分野で活躍されている方ですが、二次会の最後まで残って、帰る間際に静かに「鷲の鳥節」(バスィヌトゥルぶし、八重山古謡)を唄われました。これには驚き!
この夜、昨年3月に刊行された『環境−設計の思想』(共著、東信社)をいただきました。「脱温暖化と脱近代化−まちやむらのこころと技術をつくり直す」と題する長文の終章。私たちの地域づくり論、主体形成論と深く結ぶ視点に出会って、再び驚きました。
たとえば、「ひとびとが技術の主人公になるためのしくみづくり」の5項目(驚きと喜びを伴うしくみづくり、<目と脳と手>を持つ地域づくり、専門家への期待、<地域の手>のためのしくみづくり、地元学的な手法の導入)。これまでときに触れてきた「地域の眼」だけでなく、「地域の脳」「地域の手」の再構築(地域ガバナンスの再構築)の視点など、興味深い提起が躍っています。
酔いがさめ、座り直して、読んでいます。
▼二次会(風の部屋)、、中段・右から2人目(笑顔)が堀尾先生(080112)
1971号【2008年1月11日】
■<新年会の馬頭琴>
1月10日夜、セーンジャーの馬頭琴コンサート(錦糸町・すみだトリフォニーホール)を楽しみました。多数のファン(おもに女性)が集まって、熱気あふれる演奏。“草原の王子さま”の馬頭琴は聴くたびに円熟し、いまや人気のアーティスト。コンサート・パンフの裏表紙には「主催/協力」団体として、「TOAFAECモンゴル支援奨学会」の名も並んでいました。
私たちの新年会にセーンジャーがやってきて演奏してくれたのは、たしか2001年1月と記憶しています。あの日、初めて目の前で馬頭琴を聴いて、会場のせまいレストランは感動の渦となりました。彼は、当時まだ日本語もたどたどしく、もちろんプロの演奏家ではありませんでしたが、聴くものの体に沁みいるような音色、彼の感性と人柄を通しての馬頭琴との出会いは格別でした。
それからは、トクタホたちモンゴル留学生は、何か特別の会があれば馬頭琴を用意してくれたのです。ぶんじんの最終講義(和光大学)パーティでも、新年会・七夕の会や、アーデルの結婚お祝いの会にも。
馬頭琴の響きが伝わったのか、さきほど久しぶりにDr.アーデル(カイロ大学、大阪大学客員教授)より電話がありました。カイロから大阪に帰ってきたばかりのようでした。
「先生、元気?」「うん、元気だよ」「いつまでも元気なんですね!」などと遠慮のない会話。新宿・中村屋で結婚を祝ったあと、彼と顔をあわせる機会なく、「みんな、君のことを忘れてしまったよ!」と言っておきました。12日の新年会には、「必ず、行きます!」とのこと。
セーンジャーも馬頭琴を持参して来てくれるそうで、賑やかな新年会になりそうです。馬頭琴の演奏を聴くためには、早めの時間帯がおすすめ。ご案内(地図)はこちら
→■
▼ セーンジャーの「スーホーの白い馬」 (20080110)
1970号【2008年1月9日】
■<韓国「平生教育法」の登場>
昨年12月に成立した韓国の新「平生教育法」(南の風第1950号等に既報)、その日本語訳が李正連さんから送られてきました。すばらしい訳です。年末年始の休みに作業されたとのこと。李さん、有り難う!
早速、TOAFAEC ホームページに掲載させていただきました。
→■ 旧平生教育法とは格段の違い。聞きしにまさる画期的な全面改正です。比較の意味で旧法(鹿児島大学グループ訳)も、資料として、HPにそのまま残しておきました。
韓国「平生」は「生涯」の意。生涯教育の法制としては、日本はもちろん、各国の関連法制をしのぐ水準、一つの到達点を思わせる。韓国国会の審議状況では一時その成立が危ぶまれ、一転して委員会を通過した時、「朗報!」と報じられた意味がよく分かりました。
何よりも、最近の日本の政治主義的な教育法<改悪>と違って、専門学会や平生学習関係者による下からの論議の積み重ねがあり、理論的基礎もふまえた立法論に立脚しているところがポイント。羨ましい展開です。たとえば、「平生教育」についての積極的な定義、国や地方の行政責務、専門職「平生教育士」制度充実、多彩な「平生教育機関」、あらためて文解(識字)教育の規定が盛りこまれたこと、など学ぶべき点が少なくありません。
もちろん課題もありましょう。日本の公民館制度にあたる「平生学習館」条項については物足りないところも。そして、この法の諸理念が今後どのように具体化されていくかが大きな課題でしょう。期待しつつ見守りましょう。
東アジアにおいて、かって日本は、1950年段階に社会教育“日本モデル”を打ち出して、各国関係者に注目されてきた経過があります。しかしその後、生涯学習法制化(1990年)では全く失敗したと言わざるを得ません。いま21世紀を歩み始めて、韓国は独自の“平生教育モデル”を登場させたのです。
1969号【2008年1月7日】
■<旅の始まり−妻籠へ>
5日から6日にかけて、信州・妻籠へ行ってきました。短い日程ですが、今年の旅の始まり。先日降った雪が白く残る木曽路に往事を偲んで、心あらたなものがありました。同行の皆さんにはお疲れさま、お世話になりました。
妻籠に行けば、いつもの通り、宿場の中心(旧脇本陣)に位置している南木曾町博物館で、遠山高志さん(教育長)から「日本最初の公民館の歩みと町並み保存運動」について話を聞きました。島崎氏ともかかわりのある戦前史、戦後初期の疎開文化人と若者たちの演劇活動、そこから胚胎する地域資料保存、そして妻籠住民憲章、町並みづくり住民運動への証言は、まことに興味深い内容。新しい証言も加わって、今年の聞き初め。伊那谷の米山義盛さんも駆けつけて頂きました。
あと一つの目的は、社会教育研究全国集会「小地域・自治公民館」分科会の世話人会議。これまでの経過を整理しつつ、これからのまとめをどう作っていくか。伊東秀明さん(横浜)や美若忠生さん(岡山)そして新しく参加された築山崇さん(京都府立大学)、2002年の名護集会から動いてきた分科会の貴重な報告や論議を記録として残していきたい、一つのステップから次のジャンプを試みることができないかの話し合い。今年の夏の北海道集会に向けての相談もしました。
帰路は美若さんの車で馬籠宿に寄り、島崎藤村生家すぐ横の林檎畑からつくった手作りジャムを土産に。「まだあげそめし前髪の 林檎の下に見えしとき、前にさしたる花櫛に 花ある君と思いけり…」の詩が詠まれた時代の息吹きを想いながら。
▼馬籠宿・右は高札場(20080106)
1968号【2008年1月4日】
■<年賀状に偲ぶ>
年賀状の季節は、1年のなかでも貴重なひととき。頂いた賀状を読みながら、過ぎし記憶や思いの蘇りがあり、ハッとさせられるひとこともあり。年賀状は、その意匠や字体を含めて、書き手それぞれのメッセージ、それが束となって届けられる感じです。
正月元旦、旧12月25日に亡くなられた井内慶次郎氏(元文部次官−風1964号に既報)の賀状を手にしたときは粛然としました。墨痕あざやかに「頌春」とあり、ご自身の手で当方の宛名も書いて頂いていました。年賀状では生きておられる。記念の賀状、押し戴いて、あらためてご冥福をお祈りした次第です。
前にハガキなども頂戴したことを思い出し、探し始めたところ、「風」記録は有り難きかな!
その一部を本欄に書き写していたのでした。第1748号(2006年11月15日)に<鈴木文庫のこと>と題する日誌。その部分を再掲させていただきます。
「…11月10日の鈴木健次郎生誕100年記念座談会でご一緒した文部省長老の井内慶次郎さんからは、『昨日は失礼しました。鈴木さんのことを久しぶりにお偲びすることができました。勝手なことを申しまして失礼しました。…略… いろいろ難しいことの多い昨今、どうぞよろしくお願いします』とハガキをいただき、恐縮してしまいました。…」
当日の記録はすでに公刊されています(「あきた青年広論」2007第92号)。座談会が終って雑談のひととき。話の流れで、なにかを吐き捨てるような口調となられ、最近の行政能力は“劣化”している!と言われた一瞬が脳裏に強く残っています。明日から信州・妻籠です。
▼前列中央・井内慶次郎氏(日本青年館にて、20061110)
2008年
1967号【2008年1月2日】
■<新年のご挨拶!>
皆さま、よいお正月をお迎えのことと存じます。今年もどうぞよろしくお願いします。
「風」発信者の冥加というべきか、年末そして年始のご挨拶をいただき、有り難うございます。新春最初の本号には、いま取り組んでいる韓国への出版企画(李正連さん)、また旧年最終号に報じた竹富島リゾート開発問題についてのメール(阿佐伊拓さん)を収録。各地からは、3月来日予定の上海(呉遵民さん)のご挨拶。「風」としては新しい年のいいスタートを切ることができました。元旦にはまた、たくさんの年賀状を頂戴し、あらためての御礼を申しあげます。
かく申すぶんじんは、年末に沖縄に出かけ、帰京して別の誘いにのったりして、ほとんど年賀状を書くことができないまま、年を越しました。賀状は用意しているのですが、大晦日を前にしても余裕なく、ついに苦しい作業は潔く?諦めることに。正月休みに、とどいた賀状とゆっくり“対話”しながら書くことにしました。「風」の皆さまには本欄をもってご挨拶をと。正月早々の言い訳です、お許し下さい。
幸いに体調も肝臓データ(境界線?)も大きな問題はなく、孫たちも来て、正月を楽しんでいます。昔は普段によく着たキモノ、最近はあまり機会なく、せめて正月には・・・と箪笥から引き出し、装いも新たにして遊んでいます。幼い孫に囲碁を教えようと碁盤も持ち出しましたが、「五目ならべ」がやっと。というわけで、年賀状書きは、なかなか捗りません。
▼永福のお正月 −NとB (080101) 祖父に抱かれて 写真移動→■
1966号【2007年12月31日】
■<よいお年を!>
日本最南端の「八重山毎日新聞」は、12月28日記事で「竹富島でリゾート開発計画」を報じています。かって本土資本のリゾート化の跳梁に抗して「売らない、汚さない、乱さない・・・」などの住民憲章をつくった竹富島。今回の開発計画はどんな経過なのか。町並み保存運動の歴史があり、また竹富町の歴史的景観形成地区保存条例もあって、建造物は原則として赤瓦屋根の平屋建てにする必要がある。計画では40〜50戸の建設、近く住民説明会が開かれるそうです。どなたかこれからの動きについて、情報などお寄せいただけないでしょうか。
ところで、今年の風・最終便は大晦日の配信となりました。とくに建築工学の立場から公民館研究を重ねてこられた浅野平八さん(日本大学)から興味深い一文が着信。原文はもっと長いのですが、後半部分のみご紹介させていただきました。
昨年「風」の最終便(12月30日)が第1769号でしたから、この1年にほぼ200号を出したことになります。残すところあと34号で目標の2000号を迎えます。おそらく3月中旬か。なによりも10年の歳月、風を元気に吹き続けることが出来たこと、そしてそれを快く受け止めて頂いた皆さまへの感謝!
そのあとどうするか。いま考えて(悩んで?)います。「風」を吹き出すエネルギー、その土台となっているTOAFAEC
の活動はまだ続いている。研究会も「東アジア」年報編集も、あるいは韓国・中国や沖縄との研究交流もなお(むしろ前にもまして)活発に動いている、そんな中での「南の風」の役割をどうみるか。あと2ヶ月あまりの、楽しい宿題、いや難題!です。
皆さま、良いお年をお迎えください。
1965号【2007年12月29日】
■<「ギャラリーみんたまあ」−新しいカレンダー>
名護博物館(もと市役所)の真向かいに「ギャラリーみんたまあ」が活動を始めています。“みんたまあ”は沖縄方言で「目玉」のこと。やんばるの文化創造の拠点をつくろうと島袋正敏さん(もと博物館長)たちが始めた新しい仲間(もと高校教師、写真家、グラフイックデザイナー、鍛金作家など)による民間の文化公共空間。那覇へ帰る道、わずかの時間ながら寄ってみたところ、すでに本格的なギャラリーの風格でした。ギャラリー・オープンの洒落たちらし。その“みんたまあ宣言”が、当方の「めんたま」(九州方言)に飛び込んできました。
「四季に彩られるヤンバルの時の流れは、
多くの個性的な生き物たちを育み、
さまざまなドラマを生んできました。
その中で豊かな文化を育み、
残してきたヤンバルの先人たち。
しかし、現在。
利便性が強調された都市化への流れは、
このヤンバルを無機質なものにしようとしています。
『ギャラリーみんたまあ』は、
母なるヤンバルの地から生み出される
人・モノ・文化を掘り起こし、
活動を展開、発信し続けていく場所です。
“みんたまあ”を大きく据え、
新たな可能性を求めて、今、歩み始めます。」
正敏さんは不在でした。前田勇憲さん(グラフイックデザイナー)がいて、彼のデザインになる小橋川共男・写真2008カレンダー「ニライカナイの海」を入手できました。1部2000円。いい出来映え。帰って早速、書斎のヤンバル地図の横に、このカレンダーを飾りました。新しい年を迎えるために。
1964号【2007年12月27日】
■<25日〜26日の記録−沖縄の怒り>
12月25日の記録。内田純一さん運転のレンタカーに久しぶりに乗せてもらって、小林夫妻は名護へ北上しました。その途中に何カ所かの懐かしの場所へ。かって小林ゼミの沖縄フィールドワークではよく訪れたところです。
まず宜野湾の佐喜真美術館へ。あいにくの休館日。館主に会えないまま、勝手に屋上にのぼって、普天間基地と遠く東シナ海を望んだひととき。車は読谷村へ。残波岬から波平を通って「象のオリ」跡地。驚くほどの空き地になっていました。「…跡地茫漠なよなよと稚なきサトウキビ…」と詠まれた情景(12/24、朝日歌壇)。そして大添(字)公民館へ。快活な館長さんが「久しぶり・・・ブンゾウ先生!」と迎えてくれました。「文人」と小林「平造」がごっちゃになっていて、複雑な思い。
夜の名護は「大国林道」での歓迎会。卓上に並んでいたのは「クリスマスケーキ」ならぬ採れたての島タコ。司会は久しぶり宮城満さんの独壇場。3月下旬・訪沖予定の華東師範大学(上海)教授グループの受け入れのお願い(小林)、内田さん教授昇進の乾杯、来年夏にシーカヤックで再び海に出る計画、正敏さん旧宅跡での沢藤まつり案、名護から足摺岬への船旅計画などなど。酔いがさめてみると、かなり混乱気味の話が並びますが、念のため記録しておくことにします。
26日(朝早く名護を発った内田さんと別れて)、ゆっくり那覇へ。驚いたことに那覇の街頭では、沖縄タイムス・琉球新報の両新聞「号外」が舞っていました。高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決」の記述問題で、「検定意見の撤回」決議(沖縄県民大会、9月29日)が実現せず。「軍が強制」記述は認められない、検定意見「今後も有効」との記事。本土側報道との落差は大きく、沖縄ジャーナリズムの怒りを実感しました。
▼島袋正敏さん(左)と山城秀夫さん(大国林道)071225
1963号【2007年12月25日】
■<おきなわ社会教育研究会>
東京(学芸大学)で「沖縄社会教育研究会」を立ち上げたのは1976年でした。もちろん戦後初めてのこと。“南方作戦”(小川利夫さん)などと命名?されて、注目していただいた向きも。研究会の名称には、当初「戦後・・・」がくっついていたのが、そのうちにとれてしまいました。研究会発行『沖縄社会教育史料』全7巻の図書館受け入れやデータベース作成等の際、二つの名前が混同して迷惑をかけています。申し訳ない。
さて本題。東京に伍して、翌1977年に那覇で「おきなわ社会教育研究会」が誕生。ひらがなの「おきなわ・・・研究会」というところがミソ。東京の研究会とは違うぞ、というメッセージです。今年でちょうど30年が経過したことになります。「おきなわ社会教育研究会」に集う面々は、当時はもちろん若者。その後それぞれに年輪を重ねて、ある人は図書館長に、あるいは大学教員、また社会教育から離れて福祉など他部局へ。いまも変わらず女流歌人もあり。そして多くは定年退職を迎える時代となりました。病に倒れた方もありますが、恢復されてきわめて元気。24日夜、那覇の沖縄県青年会館に集まって一同会食し、そこから流れて、二次会で皆さんと賑やかに飲みました。高知の内田純一さんも一緒でした。
別れぎわ、やや酔って「おきなわ社会教育研究会は、いま生きているのですか?」と失礼な質問をぶっつけてみました。「風」では「旧」研究会と書いたこともあるからです。その答えは「もちろん!生きているさ!」とのこと。ただし「休」研究会かも、という笑い話に。
3月に上海・華東師範大学・教授グループ(8人)による沖縄訪問の動きもあり、「おきなわ社会教育研究会」再生に向けての話も出て、嬉しい一夜となりました。
▼おきなわ社会教育研究会(071224、沖縄県青年会館)
1962号【2007年12月23日】
■<新編集体制の発足>
12月21日夜に今年最後の定例研究会(第135 回、上記)。翌22日は、故奥田泰弘さんのお墓参り(午前)と偲ぶ会(午後)、福生市公民館で三多摩各地から旧知の方々が集まり、奥田さんを悼むリレートークのひととき(社全協三多摩支部主催)となりました。遠くからは、信州飯田の米山義盛さんや高知の内田純一さんなど参加。
その夜は、内田さんの上京に合わせて、TOAFAEC 研究年報「東アジア社会教育研究」第13号編集会議がスタートしました(第1回、会場:風の部屋)。出席は遠藤輝喜、山口真理子、江頭晃子、トクタホ、それに内田、小林の6名。
ここで、昨年までの編集体制の衣替え。代表(編集長)が小林ぶんじんより内田純一へバトンタッチ。もともと第11号(2005年)の時点で若い世代へ移行する方向が決まっていましたので、想定内のこと。ぶんじんは、はれて「編集顧問」に就任?となり、さきほどホームページにも書き入れました。皆さん、ご確認ください。内田くん、ご苦労さまです。お互いに頑張りましょう。
今年の第12号は「韓国」特集でした。きわめて好評。それを受けて来年の第13号は特集をどう組むか。韓国からの発展として「中国」特集が組めるかどうか、大きな懸案事項でしたが、先日の北京・上海の訪中協議によって、いい特集に結実する可能性大!と報告し、「中国の社区教育・生涯学習」をテーマに、今後の日中協議による特集準備を進めていくことが確認されました。いずれ「風」誌上に正式の報告が載ることになると思います。年内に新しい編集体制がスタートできてよかった!
明日から今年最後の旅・沖縄の皆さんに会いに行きます。来る3月に来日予定の上海・華東師範大学(教授グループ8人)沖縄訪問の受け入れについても相談してきます。
1961号【2007年12月21日】
■<神保町の午後−「サラエボの花」>
観に行く暇がなかった「サラエボの花」。昨日午後、神保町の岩波ホールに出かけました。衝動的に動くのはやはりよくありません。午後の部はとっくに始まっていて、夜の部まで約2時間余り。しかし思わぬ自由時間ができたと思うことにして・・・。
書店には寄らない主義、本も買わない主義、なのに、時間つぶしの間に4冊も。思わず手が出てしまう悪い癖です。決心?して本屋を飛び出し、いそいそと放心亭(三省堂地下)へ。ドイツ(ヴァイチェン)ビヤを一気に飲みほす。これはいい気分でした。冬だけ限定のビールが入荷していました。「お久しぶりですね・・・」と店長。そう言えば、公民館学会理事会の夜は必ずここに寄って、ビールを楽しみ、わいわいと議論の続きをしたものでした。ぶんじんはいつもしゃべり過ぎ。帰り道は反省しきり。約四年間はほぼ毎月通ったことになります。
すこし赤い顔をして岩波ホールへ。入り口にサッカー日本代表オシム(前)監督の「こんな悲しい歴史が二度とあってはならない」趣旨のメッセージが掲げられていました。「サラエボの花」の原題は「グルバヴィッツァ」地区、オシム監督が育った町だったのです。彼が倒れる直前に寄せた一文のようです。
旧ユーゴスラヴィアが解体していく過程で勃発したボスニヤ内戦、そのなかで生きた一人の女性と生まれた娘。戦闘も暴力も何一つ画面には出てこない映画なのに、戦争・性暴力(民族浄化)そのうしろにある宗教と民族の問題を深く重く語りかけます。平和を取り戻そうとする人たちの表情、この映画は「愛をこめて作られた、愛についての映画です」との言葉(ジュバニッチ監督)が心に残りました。
ベルリン国際映画祭・金熊賞(2006年)ほかたくさんの受賞作。
1960号【2007年12月19日】
■<「月刊社会教育」50年>
いま「南の風」は2000号に向かって進んでいますが、1957号に「月刊・50年」の記事を書きたかったのです。しかし中国訪問レポートを優先して、本号(1960号)にずれこんでしまいました。「月刊社会教育」(国土社)は、1957年の創刊、今日までちょうど半世紀の歳月を重ねてきました。数日前に出たばかりの「月刊」新年1月号が50年特集号、数えて通巻627号。いつもより少し増ページ、上田幸夫さん(編集長)の頑張りがあって、読み応えある内容です。ぶんじんも巻頭“かがり火”を書かせて頂きました。
ぶんじんが編集長をしていた当時、月刊200号の記念特集(1974年7月号)を組んだことがあります。あわせて盛大なパーティを催して、文部省を含め社会教育に関わる多彩な群像が集まりました。あの日の興奮を忘れません。どこかに当日のアルバムが残っていたはず・・・、しかし大半の方はすでに物故されてしまった。歳月の経過はいろんな意味で実に重いものがあります。
ひとつ気づいたこと。50年特集号の執筆者(20数名)のうち、ほぼ半数は「南の風」メンバー。最近は「風」も多方面からの参加が多くなった感じでしたが、やはり「月刊」「社会教育」に関わる人たちが大半なのですね。皆さん、それぞれに思いのこもった報告。
たとえば美若忠生さん(岡山県鏡見町羽出公民館)の「都市公民館」への痛撃。小さな地域に生きる人々の支えあう暮らしに寄り添い、自治と文化を創り出す視点。もっと聞きたい。森田はるみさん(北海道置戸町立図書館)の社会教育への歩みは悩み多く、文中に「恩師」と出てぎくりとしましたが、図書館づくりが新しい天地となったようで、少し安心?していいのかな。続編を「風」に送って下さい。
1959号【2007年12月17日】
■<12月16日・ふいの島日誌>
中国から帰って、連日のスケジュールびっしり。12月15日の第8回韓国研究会、夜の年末恒例ぶんじん招待夕食会、したたか飲んで、昨12月16日は午前から第45回東京都公民館研究大会で久しぶりの講演など。少々疲れて、さきほどまで終日ゴロゴロしていました。3日目の風です。
本(ぶ)日誌欄のライバルに沖縄(今帰仁村)古宇利島(ふいの島)の「区長日誌」があります。小浜美千子さんが古宇利島区長として連日の書き込み。自由闊達でいつも元気をもらいます・・・と中村誠司さん(名桜大学)に紹介され愛読してきました。当方は毎日とはいきません、せめて隔日の「ぶんじん日誌」送信で、これに“対抗”してきたつもり。
古宇利島は今帰仁村の沖にぽっかり浮かぶ円い美しい島です。島の人は「人類発祥の地、神の島」と称えるほど。人口わずか350人。そこに大きな橋がかかって、にわかにリゾート化の波が押し寄せました。小さな平らな島に約6万坪・500室の高層ホテル建設計画が持ち込まれたのです。
小浜さんの日誌は、ここ数日、緊迫していました。14日(金)の日誌「…今日、ホテル側は賃借料の坪単価@を倍にあげて提示してきた。‥本当はそういうことではない、と思うんだよね。自分が戸主の時に、島を売るような恥ずかしさを子や孫に示したくない、そんな気持ちの人が大半なのではないか、と私は思っている。」「総会で、開けてびっくり、ホテル賛成!だったら、私はハンコは押したくないから、即、区長は辞任したいよ(^。^)。札束で人のホッペタをたたく、それは人として恥ずかしいことだと思うのだが、それにあやかる行政にとっても、人にとってもお金の力はとてつもなく大きいようだ^_^;。」。
そして昨日16日の区総会で、「
ホテル建設計画は全会一致で建設反対、区有地は貸さないことに決まりました」と。17日「琉球新報」朝刊の通り。この夜の小浜さんの日誌書き込みを読んで、胸にジンとくるものがありました。さすが「神の島」の皆さん、人の世の賢さも教えてくれた!
昨夜の書き込み、すこし最後の部分を引用させていただきます。ちなみに小浜美千子さんは佐渡のご出身、つまりヤマトンチュなのです。
「…“あの大きなホテルはネ、ヤマトウの区長の時にOKしたんだよ”なーんてサ、後々まで言われたら、息子たちに対して自分がいかにも恥ずかしいじゃあないの。私は総会で賛成と出ても、区長印を押す気はなかった。貧しても、ドンしたら、いけない。お金で寝返ってはいけない。何らかのトップにある人は、ことにそうだよ。自分に恥ずかしいことをしてはいけない。
区総会が終わり,…どこかで海人たちは万歳三唱\(^o^)/だったようだ。私は今からの村の締め付けが無ければいいなぁ、と先が恐ろしい気分なのにネ。アハハ(-_-;)。…
ご心配いただいた古宇利島ファンのみなさまへ、
総会は“現時点で”賢明な選択をしてくれたこと、ご報告まで。先のことは、子や孫に託す、という島人の総意です。」(16日・ふいの島日誌)
▼古宇利島、右側に架橋中の大橋(20040128)
1958号【2007年12月14日】
■<上海との交流史>
私たちの中国との研究交流では、いろんな都市の中でも、上海とのお付き合いがもっとも長い。そのなかでも閘北区が一つの拠点となってきました。はじめて閘北区(業余大学・当時)に行ったのは、忘れもしない1989年5月(天安門事件の1ヶ月前)、若き上野景三さんが一緒だった記憶があります。東京学芸大学の研究室に羅李争さんや友人の袁允偉さん(業余大学・副学長)が留学していたご縁からでした。TOAFAEC との間で「合作学院」づくりの協議が重ねられた経過もあります。結果的には実現しませんでしたが・・・。(資料をHPに掲載→
■)
その過程で、たしか1998年2月、滞在中の閘北区業余大学前のホテル「北国飯店」に葉忠海(当時、華東師範大学成人教育学院教授)と呉遵民(当時まだ神戸大学・院)のお二人がお出でになって、上海成人教育とTOAFAEC「東亜社会教育研究会」との間の相互交流について相談したことがあります。その後は、こちらから上海に出かけたり、上海から訪問団が来日したり・・・。
今回の旅でも上海滞在の最後の夜、ぶんじん滞在のホテルで、葉さんから今後の研究交流についてさらに積極的な意欲が吐露されました(呉さんが通訳)。約10年前、同じ3人の顔ぶれで話し合った日のことが想い出されたのでした。上海の皆さんは、いま日本の公民館に大きな関心があり、また日本訪問の資力もないわけではなく、今後は(両当事者間だけでなく)社全協の全国集会や日本公民館学会等にもご案内を出すようにしてはどうかと思いました。
まず当面は、来年3月(下旬)に華東師範大学教育学系の主要メンバー8人の教授たちが「第1回・東アジア教師教育研究国際シンポジウム」(3月20日〜23日、法政大学)に来日予定。もちろん呉遵民さんが引率役。その後の日程(25日〜28日)で沖縄訪問を実現することとなりました。沖縄行きはかねがねお誘いしていたプラン。その準備のため年末に訪沖し、受け入れについて沖縄の皆さん方と相談したいと思っています。
1957号【2007年12月13日】
■<上海の公民館>
短かい日程ですが、中国を旅して、いろいろと新しい発見があります。中国は広大な大地、巨象のような存在、その一部に触れても全体はなかなか見えてこない、ギシギシと音をたてて動いていく変化の激しさ。それだけ逆に、いつも新しい発見があるわけでしょうか。
今回とくに実感したのは、(格差をはらみながら)豊かな人たちが増えていること、行政とくに地方政府(区、街道を含めて)にもお金がまわっているらしい、特に教育施設が拡充中、料理店も客でいっぱい、ビールは格段に質があがった、明らかに車社会に突入した、などなど。
上海の二つの区(閔行<みんはん>区、閘北<ざーぺい>区)で依頼されたスピーチ・講演では、いずれも謝金(中国元)を頂きました。今までにはなかったこと。有り難く頂戴して、帰路に記念の土産を買いました。いつも土産を持って帰らない主義なのに・・・。
閔行区(人口210万)は、新しく開設された同区「社区学院」オープンの式典。閘北区(人口90万)では「社区教育」についての研修会。いずれも日本の公民館について話を聞きたいとの期待があり、張り切って話に熱が入り、呉遵民さんの通訳もまた高揚し、好評だったようです。
閘北区の会場は、数年前に設立された臨汾路街道(人口7万)「社区文化活動中心(センター)」でした。文化館(コーラス、越劇、二胡、英語教室、体育・娯楽施設、図書室など多彩)の様相もあって、「上海の公民館」と言う人もあり。面積約4千uの大型施設。
同会場に集まった上海の社区教育関係者。講演の後に「中華人民共和国国家標準」としての「社区服務指南 第3部分:文化、教育、体育服務」(2007年6月1日実施)について研修が行われていました、講師は葉忠海氏。こんなかたちで国家「基準」が出されていることも新しい発見。現物を入手してきましので、次回研究会(12月21日)で、黄丹青さんから紹介していただきましょう。
▼閘北区・臨汾路街道・社区文化活動センター(20071211) 写真移動
1956号【2007年12月11日】
■<1年ぶりの上海>
12月10日の昼、烟台を発って、上海に来ています。両飛行場ともに初冬の雨が降っていました。烟台のことは、また別に書くことにして、まずはお世話になった張林新さんにお礼を申しあげます。短い時間でしたが、日本語学校にも訪問できて、新しく感じるところ少なからず。
上海は(烟台も)ちょうど1年ぶり。虹橋空港には呉遵民さん(華東師範大学)と羅李争さんが出迎え。なんと!豪勢な高級車(運転手つき)が待っていました。呉さんの車です。20年近くの上海訪問で、もちろん初めてのこと。時代は激しく変わっていることを改めて実感!
夕食まで、しばしの時間あり。北京の韓民さんと話したこと(風・前号)の報告をかねて、呉さんに「東アジア社会教育研究」第13号特集テーマ(中国特集が組めるかどうか)のことと、韓国向け出版企画の動きについて、大急ぎの話をしておきました。これが済まないと、せっかくの上海料理と美酒をゆっくり楽しめないからです。中国滞在4日目で胃袋はすでに満杯、かなり疲れているというのに、困ったものです。
旧知の華東師範大学の杜・周・呉の先生方、上海教育出版社の(2月に東京で歓迎会をした)前編集長・袁さんと若い編集者・袁さん、それに羅さんに囲まれて久しぶりの上海の夜。私たちの近刊本(呉・末本・小林共編)は、春節あたりには刊行の見込みとのこと。あらためて日本側の原稿の遅れをお詫びしておきました。会食が終わった頃に雨も止んで、さすがに(華北と比べて)上海の夜気は暖かい。
明日(11日)は、葉忠海さん(上海市成人教育協会)もお出でいただいて、閘北区など社区活動の現場をいくつか訪問し、どこかで(詳細は聞き漏らした)社区教育関係者の集いに参加する予定。突然に講演をするよう依頼され、陶然たる酔いもさめてしまった。ままょ、きっと通訳の呉さんが熱演してくれるだろう…と楽観して、寝ることにします。(12月10日夜)
▼上海の夜、“老朋友”の皆さんと(20071210)
1955号【2007年12月9日】
■<北京から烟台へ>
フフホトのボヤンバートルさんはじめ、皆さんからのメール、有り難うございます。広州の李偉成さんからは(出迎え役の)張林新さん宛に「よろしく伝えてほしい」と電話が入ったそうです。恐縮!
ボヤンバートル宅にこちらから電話したいと思って、手もとの手帳等を探したけれど番号が出てこない。北京の韓民さんとは別れて、すでに8日夜の飛行機で烟台へ移動しました。いまホテルに着いて、パソコンにつないだとところです。10日午前までは烟台・張林新さんと一緒のときが多く、彼の携帯(1339182−9220)できっとつながると思います。電話いただければ幸い。
やはり広大な中国、南の広州や北のフフホトまで足をのばすことができません。北京もわずか24時間の滞在でした。でも濃縮した1日。昼は韓民さんと、夜は張さんのご両親と、食事を楽しみました。北京の白酒(ぱいちゅ−56度)をちびりちびちとやりながら、だんだん料理が美味しくすすむ酒の効用。
韓民さん(中国教育部・教育発展研究中心・副主任)と話すのは2年ぶりか。すっかり要人の風格を漂わせて?
国の課題(調和社会の建設)と結んで新しく生涯教育・学習の施策化が必要となる状況を聞きました。
当方から、韓国向け『日本の社会教育・生涯学習』出版の取り組みのこと→関連して中国向け本づくりの可能性はないか。あと一つは研究年報「東アジア社会教育研究」第13号の特集テーマに(昨年12号の韓国特集を念頭において)、「中国・特集」を組む構想について、話しました。第12号の韓国特集はよく目を通しているらしい。
二つの課題ともに積極的な姿勢で対応していただくことになりました。こんご具体的に協議していく必要がありますが、「1年ぐらいかかる話が1時間で済みましたね…」とは同席した張林新の感想。第13号特集については、上海の呉遵民さんにも協力をお願いしたいところ。いずれ上海でお会いした折の楽しみに。
北京のこと(そして上海のこと)、年末12月22日夜予定の第13号編集会議で報告いたします。特集テーマ案に「中国の生涯学習」(特集担当の編集長は韓民氏・予定)が加わる可能性が出てきて、賑やかな会議となりそうです。
1954号【2007年12月8日】
■<北京よりソウルの動きを>
7日夜、北京空港には張林新さん(烟台日本語学校理事長)が迎えてくれました。ご苦労さま。気温は零下2度、さすがにシンシンと冷えます。高いビルの「京広新世界飯店」に投宿。昨年の今頃、和光大学・伊藤武彦さんと一緒に泊まった現代的?なホテル。インターネットが自由に使えますが、1日の使用料80元とのこと。
ソウル留学中の肥後耕生さん(鹿児島大学卒、韓国・中央大学校・院)より、韓国「第2次平生学習振興5ヶ年計画」が送られてきました。有り難う!興味深し。金信一さん(教育人的資源部長官、文科省大臣にあたる)の張り切った表情が目に浮かびます。肥後さんの添付ファイルは、よく読めましたが、こちらのホームページに載せようとしたら図表が壊れてしまった。当方もとより素人の技術、残念です!
添付ファイル(5ヶ年計画)は、ご希望の方に別途(そのまま添付で)お送りすることにします。関心ある方はご一報ください。韓国生涯学習研究フオーラムの皆さんには一括してお送りするよう、事務局の金侖貞さんにお願いしました。どうぞよろしく。肥後さんにあらためて感謝! 韓国のその後の動きがあれば、また送信して下さい。
風・連日の配信になりますが、ソウルのニュースを北京から日本に送るのも一興かと。たまたまパソコンに滞留中の信州「妻籠宿を守る住民憲章」(ホームページ用に入力したもの)資料あり、合わせて1本として「風」配信します。今から韓民さん(中国教育部)と会う予定。
そして今日、12月8日は太平洋戦争勃発(真珠湾攻撃、1941年)の日。軍国日本が破滅の道に突入していった忘れがたい日です。あのとき、国民学校(小学校)4年生でした。
1953号【2007年12月7日】
■<掲示板・伝言板、そして中国へ>
ホームページ「掲示版」がまったく機能しなくなりました。出会い系サイトの迷惑情報が、ときに目を覆うばかりの裸像を連れて、飛びこんでくるのです。止むを得ず掲示版を別のページに退避させたり。折りをみて表紙に復帰させると、狙ったように再来襲。出れば削除また削除、もぐら打の闘いを繰り返すうち、皆さんからの書き込みも途絶えてしまったようです。
数日前に「6ヶ月以上記事投稿がない掲示板には広告が付くようになりました」との連絡が来て、ベタベタの広告版に。すべて撤去するのも一案ですが、これまでの記録も棄てがたく、呼びかけ「第13号の編集を開始します・・・」文を抄録して、「投稿」のかたちにしました。ようやくもとの掲示板に。内田さんご了承ください。
今(7日)から中国へ出かけます。いくつか用事はありますが、何よりも懐かしの友人(老朋友)たちと会うのが第一の目的。留守がちで連絡がつかなかった上海の羅李争さんとも、ようやく電話が通じて、上海訪問の日程を話すことができました。袁允偉さんへの伝言も。元気そうで何より。25年ほど前、留学生として来日。「中山服」を着て研究室にやってきた当時のことが一瞬にして蘇りました。
ホームページ表紙「伝言板」にも書いたことですが、今回パソコンを持参いたします。しかし、華北から江南への移動、慌ただしくホテルも変わりますので、うまく「南の風」など発信できるかどうか。せっかくの自由の旅、無理をしないつもりです。無音の場合はお許し下さい。
北京の韓民、烟台の張林新、上海の呉遵民、羅李争などの皆さん(いずれも「風」メンバー)、お世話になると思います。どうぞよろしく。再会を楽しみに。
1952号【2007年12月5日】
■<父子共同の本づくり>
「南の風」初期メンバーの皆さんは、よくご存知の板橋文夫さん。先月末に夫妻で久しぶりに来宅されました。本欄の別の記事が多く、ご紹介が遅くなりましたが、まず先触れで花の鉢が到来、当日ご本人は出来たての自著を持参しての登場。むしろこちらで花束を用意すべきだったのに・・・、本の出版を知りませんでした。
板橋さんは栃木県生まれ、東京学芸大学卒、早稲田大学・院(社会教育専攻)へ。その後は自ら塾を経営し、たくさんの子どもたちを育てて、すでに30年余り。むしろ在野の研究者というべき人。田中正造研究会の事務局長、東邦大学講師など。
書名は『勤労青少年教育の終焉−学校教育と社会教育の狭間で』、A5版、上製、311頁(定価2600円)大作です。版元は宇都宮の「随想舎」。足尾や日光あるいは田中正造関連など多数の本を手がけてきた地方出版社(電話
028ー633ー0489)。著者は板橋文夫・板橋孝幸のお二人。孝幸さんは福島大学准教授(日本教育史)、文夫さんの息子さん。同じテーマで親子の本づくりが実現したのです。驚きました。これこそ稀にみる快事!慶事!
念のため共著の構成を紹介しておきますと、お父さんが、実業補修学校の地方定着(1章)、青年学校の成立と義務化(2章)、戦後の定時制・通信制高校の成立と変容等(5章〜7章、埼玉県下の地域研究を含む)。かって『日本社会教育学会紀要』に掲載された論文も含まれています。息子さんの担当は、戦前農村の勤労青少年教育・郷土教育(3章)、全村学校と農村地域教育体制の展開(4章)等。そして、序章・終章・年表(約30頁にわたる労作)は両者の執筆。なんとも羨ましい親子の共同制作、見事な出来映えです。
世の息子は父親に反発しながら別の道を歩む場合が多いのに・・・お二人の苦労話も聞いてみたいもの。来年1月の新年会で、まずは出版祝賀の乾杯をいたしましょう。
▼板橋夫妻(左・中)とぶんじん
1951号【2007年12月3日】
■<第6回日本公民館学会−浦安の焼き蛤>
11月30日のTOAFAEC 定例研究会、そのあとは恒例の交流会。翌日から第6回日本公民館学会(会場・浦安市)。久しぶりの顔ぶれにまた飲んで帰宅。「風」発行は4日ぶりとなりました。ご了承ください。
思えば、昨年の学会(川崎市)から丁度1年が経ったのです。あの日、学会々長から解放された夜、急逝された故奥田泰弘さんのお宅に弔問に駆けつけました。今回発行された学会年報第4号に追悼文。「…この夜のことはいつまでも忘れられない…」と書いたのでした。
学会での収穫はいろいろ。あらためて千葉県下の公民館の蓄積を知りました。とくに浦安市公民館の(図書館の高い水準だけでなく)6館体制の充実を再発見。学会懇親会で、同市教育長(女性)だけでなく、6館の(専任)館長が勢揃いされて挨拶された場面がとくに印象的でした。
浦安市では、公民館の「在り方」について、ここ数年、迫力ある検討が重ねられているようです。「これからの浦安市の公民館の在り方について」(2003年11月)、「浦安市公民館在り方検討会最終報告」(2004年10月)がまとめられ、大会2日目のポスターセッションでは、中央公民館長・酒井哲男さんによる「将来の公民館の在り方について」が報告されたのです。すこし内容を紹介したいところですが、長くなりますので・・・断念。
帰り際に、ある方から「浦安名物・焼き蛤」を頂きました。あとで知ったことですが、「越後屋」本店は学会会場・中央公民館からすぐそば。帰って早速開いて、軽くあぶって、これをサカナに一杯。実にうまい!家人と杯がすすんで困りました。というわけで連夜の酔い、「風」配信も遅れることになった言い訳です。
▼第6回日本公民館学会・懇親会(浦安市文化会館)
*南の風1901〜1950号■