竹富島への旅(2006〜2012〜)
−南の風・記事ほか−
関連サイト:竹富島憲章→■
対談・竹富島住民憲章と公民館→■
論文(小林)・竹富島の集落組織と字公民館→■
沖縄の集落・シマ→■
<目次>
1,2006年11月〜12月・竹富島(南の風・記事)
2,2007年1月・竹富島の新年(八重山毎日新聞1月4日記事)
3,竹富島・生活用具−国の登録有形民俗文化財へ(沖縄タイムス1月20日記事)
4,年々増える修学旅行−竹富島の試み、他(八重山毎日新聞、八重山日報記事)
5,2007年2月 竹富島調査(南の風・記事)
6,2007年4月 竹富島調査(同)
7,竹富島報告(TOAFAEC第128回研究会)−2007年4月27日・東京
8,2007年7月 竹富島訪問(南の風・記事)、東京竹富郷友会(8月19日、東京)
9.旧与那国家・重要文化財に指定、種子取祭はじまる(10月19日、南の風記事)
10.竹富島でリゾート開発計画 (八重山毎日新聞記事−2007年12月28日)
11.竹富に「赤瓦」リゾート 6月開業(沖縄タイムス 2012年1月20日、南の風2806号)
12.「星のや竹富島」が完成、6月から開業 八重山毎日新聞2012年4月12日
13.竹富島からの風 星野リゾートとの調印(上勢頭芳徳)(Mon, 16 Jul 2012) 南の風2919号
14.竹富島の自治と共同について (2013年4月23日 南の風3072号)
15.
▲水牛車の上から(20061121)
(1) 2006年11月〜12月・竹富島
★<八重山から山原へ>
【南の風】第1751号(2006年11月23日)
…(略)…
那覇に着いた夜(11月19日)は、沖縄県知事選挙・開票の真っ最中でした。出口調査で若干の優勢が伝えられていた糸数慶子候補、その勝利を期待していた支持者たちは、「仲井真当確」のテレビ報道に悲痛な思い。かっての国分寺市長選挙で、進藤文夫さんが(優勢、一部の新聞では「進藤当選」記事も)逆転で破れたあの夜、あの一瞬を思い起こしていました。
今回の沖縄県知事選では、自民・公明の陣営に対して、いわゆる野党連立が成り、本土各地ではなかなか実現できない「革新統一」候補を思わせる布陣でした。それだけ大きな期待が・・・。
しかし、野党連立は当然それなりの矛盾を内包。それぞれの党派の路線やしがらみあり。野党間の結束は充分でなかったのです。
翌日(20日)は石垣へ。闘病・リハビリ中の渡慶次賢康さんとお会いし一安心。平久保で久しぶりの歌碑と「浜遊」へ。夜は市中心部にもどって「島そば一番地」の新垣重雄さん(社会大衆党もと書記長)と再会。
21日に竹富島に渡り、上勢頭芳徳さん(喜宝院蒐集館)や前本多美子さん(学大小林ゼミ卒)と会いしました。短い時間でしたが、その後の竹富島の現況を垣間見たひととき。離島の「過疎」を乗り越え、大勢の観光客を迎えるようになり、「まちなみ保存運動」の成果は明らか。あらためて「竹富島憲章」への取り組みと「竹富公民館」の役割を思いました。
そして名護へ。…(略)…
▼竹富島・喜宝院蒐集館・上勢頭芳徳さん(20061121)
(2) 2007年1月・竹富島の新年(八重山毎日新聞1月4日記事)
★<竹富島、NHKの中継、新成人の門出も祝う>
*八重山毎日新聞 (2007-01-08 09:46)
【竹富】竹富島の新年は、元日午前零時過ぎのNHKの「ゆく年くる年」で始まった。昨年、生まれた吉澤信一さん・やよいさんの五女・優愛ちゃんの4世代家族が「鷲の鳥節」の合唱で新年を迎える場面から。
優愛ちゃんの曾祖父・野原行雄さんの誕生日が大みそか、祖父・島仲彌喜さんの誕生日が元日ということで、ゆく年くる年にぴったりの明るい話題として実現した。
NHK は3分の生中継のために中継車2台と40人のスタッフが4日間かけて、念入りに準備して全国に放送した。
多くの人が見てくれたようで、正月の朝、観光客からも「見ましたよ。感激でした。こんなことのためなら経費をかけても視聴者は納得します」という声が聞かれた。
大みそかの恒例として、西塘御嶽の隣の「平和の鐘」の鐘楼が老朽化のため、除夜の鐘がつけなくなっていたが、公民館の事業として改築し、4年ぶりに除夜の鐘が島内に響きわたった。
2日夜は、竹富まちなみ館で「ぶなる会・青年会」共催の新年会と成人祝いが合同で行われた。全員で西塘様に拝礼したあと、新盛桂子ぶなる会会長、島仲彌喜公民館長、大盛武町長(根原憲永課長代読)、高那利彦青年会長らが式辞や祝辞を述べた。
今年の新成人の中には、竹富中学校で留学という形で過ごした3人も帰省、7人全員が式に参加し、友情の深さをみせていた。
祝宴では、新田長男町議が「ことしの竹富島はNHK のゆく年くる年と八重山毎日新聞で紹介された5家族の明るい話題で始まった。注目されているので、目標に向かって突き進んでいこう」と新成人を激励、乾杯の音頭を取った。青年会による「太鼓ばやし」、ぶなる会長と青年会長の「鷲の鳥節」で幕開けした祝宴は、各集落からも多彩な余興があり、最後までにぎわった。(竹富通信員)
(3)小浜島・祭り芸能と竹富島の生活用具−国の文化財へ
*沖縄タイムス 2007年1月20日(土)
小浜島「盆・結願祭・種子取祭」/国の重要無形文化財に
国の文化審議会(阿刀田高会長)は十九日、竹富町小浜島の「盆(そーら)・結願祭(しちい)・種子取祭(たなんどぅる)の芸能」を、国の重要無形民俗文化財に指定するよう伊吹文明文科相に答申した。県内の指定は一九九八年の「伊江島の村踊」以来、九件目。同町の喜宝院蒐集館(上勢頭芳徳館長)にある「竹富島の生活用具(842点)」を国の登録有形民俗文化財に登録することも答申した。同登録は県内初。
「小浜島の盆・結願祭・種子取祭の芸能」は、沖縄本島の影響を受けながら独特の芸能文化として発展した。保護団体は小浜民俗芸能保存会。
…(中略)…
喜宝院の「竹富島の生活用具」は、島の日常生活で使用された衣食住や信仰、儀礼、芸能にかかわる用具類。人頭税時代の貢納関係の計量具藁算や芸能に使われたミルク面、アンガマ面などがある。
…(中略)…
県内で初めて国の登録有形民俗文化財に登録された「竹富島の生活用具」。喜宝院蒐集館が収集した衣食住の生活道具など八百四十二点。島に自生する植物の素材を巧みに利用したものや、亜熱帯の高温多湿の気候風土で暮らすための工夫が見られ、八重山地方の人々の暮らしぶりを如実に物語っている。
上勢頭芳徳館長(62)は「先代が十二歳のころから集めた。手作り民具は先人の知恵が詰まっている点が魅力。保存だけでなく修理、復元する技術も伝承していきたい」と話した。
(4)年々増える修学旅行 官民一体で誘致−竹富島の試み
*八重山毎日新聞 (2007-01-03)
■竹富島の試み
竹富島はフェリーで10分の手軽さから、観光は石垣島を拠点とした2、3時間の周遊型が多く、島内での消費が少なかった。島では文化財や、町並み保存に住民が積極的で誇りを持っている。独自の文化を理解してもらうため、滞在型観光地への転換が望まれた。折しも1988年、全国町並み保存ゼミと、日本民芸会夏期学校が竹富島で開催され、宿泊はリゾートホテルがないところから、民宿への分宿が進められた。また、地元住民が一体となって来訪者をもてなし、大きな評価を得た。この経験を修学旅行客の獲得に生かそうと、島の民宿旅館が集まって民宿組合を結成し、分宿による修学旅行受け入れの形態を整えた。専門職を設けて受け入れ窓口を一本化し、それぞれが平等に対応するためのローテーションを組み、民宿間の格差がでないように、サービスや食事内容も話し合いで統一した。客をもてなすための企画も全体で話し合い、島民と生徒がふれあう場を作った。これらすべてのコーディネートを、受け入れ窓口が中心となって行う体制が整ったため、竹富島での就学旅行宿泊は飛躍的に伸びた。学生たちは直接地元住民や民宿のオジーオバーと密な交流を体験する機会ができ、民宿や関係機関には、生徒たちから人的交流の感動を綴った文集などが寄せられ、新たな喜びが生まれた。
企画から10年たち、大人になったかつての生徒たちがリピーターとして訪れるケースも増えているという。この竹富島の試みからは、今後の八重山独特の修学旅行の方向性がかいま見える。
竹富町観光協会では、竹富島の対応状況を手本に、他の離島への修学旅行誘致に動き出しているが、リゾートホテルのある島では、統一した受け入れ態勢を整える事は難しいなど課題が多い。
また、リピート客を獲得するための修学旅行誘致が、結果的に、旅程のかち合った常連客に対応できない状況を生む矛盾などの、課題も残している。
新空港着工が決まった2006年7月現在、就学旅行入域数は、すでに昨年を上回る128校、生徒数は1万7494人に上っている。
■<参考・2006年1月記事>観光客 過去最高の75万人台に
*八重山日報 2006年1月13日
八重山ビジターズビュロー(YVB、会長・大浜長照市長)と県八重山支庁は12日、2005年の八重山圏域入域観光客数が過去最高記録を更新する75万1182人(前年比104・9l増)に達したと発表した。推定観光消費額は524億円(同25億円増)で、地域に与える経済効果も大きいと見られている。YVBと八重山支庁は、主な増加要因として離島観光人気の継続や修学旅行の増加などを挙げた。2006年は「観光客77万人」を目標に掲げ、誘客宣伝活動を展開する。(以下略)
■竹富町・少子化に無縁?移住などで出生数アップ
*八重山日報 2007年1月19日
全国的に少子化傾向が続いているが、竹富町では無縁のようだ。好調な離島観光を背景に、リゾート開発などで人口が増えており、出生数も増加傾向にある。2005年度は平成入りして最多の63人が出生。06年度も前年並みのベビー誕生が見込まれている。住民からは「子どもが増えるのはうれしい」と歓迎する声が出ているが、島によっては、保育所が手狭になるなどの課題も抱えている。町住民課によると、竹富町の人口は04年度に4千人を突破し、06年12月末現在で4161人。リゾートホテルやゴルフ場建設が進んだ小浜島、西表島を中心に、関係企業従業員の移住や若者のUターンが目立つ。出生数は、90年代初めには30人台から多くて40人台だったが、若者の増加を受け、近年では03年度51人、04年度49人、05年度63人ーと高い水準を維持している。06年度は12月現在で47人。母子手帳の申請数などから推計すると、3月までには前年並みの出生数になりそうだという。
(5)2007年2月 竹富島調査に向けて(【南の風】記事)
★<八重山の新聞 > 第1774号(2007年1月10日)
はるか南(八重山)の島々は,3自治体(石垣市、竹富町、与那国町)合わせても、人口わずか5万弱。そこに二つの新聞(八重山毎日新聞、八重山日報)が発行されています。加えて沖縄本島中心の2誌(琉球新報、沖縄タイムス)も読まれている。本土誌はほとんど見かけない。
いま東京の自宅から、毎日いながらにして、これら新聞の主要記事を読むことができます。インターネットの効用!時間があれば南の新聞を開くことに。集落などの小さな記事が面白いのです。
ちなみに東京は、大新聞が跳梁?して地域や住民の小さな動きはほとんど報じられない。かって、三多摩(人口約400万)に1誌でいいから地域新聞(Local
paper)を発行できないものかと模索したことがありました。たとえば社会教育で活躍してきた人々が、そのネットワークを活かして、誌面をつくる発想。経営や発行の体制も整えて・・・などと議論しましたが、やはり簡単なことではない。それだけに小さな島々に地域新聞が活発に動いて、その紙面から、思いのこもった記事を発見したときは、感激ものです!
最近、八重山の新聞で目を引くのは、竹富島(3集落、人口361人、戸数165)についての記事。本号所収の八重山毎日新聞記事「竹富島の新年」がその良い例です。NHK「ゆく年くる年」も竹富から実況しました。離島なのに、この15年連続して人口は増えている、観光も伸び、修学旅行も入るようになりつつある。その背景には、竹富島の地域づくりの蓄積(「竹富島憲章」に象徴される)があり、竹富公民館(字公民館)の役割が大きい。昨年の最終号本欄でも書いた通りです。
TOAFAEC
ホームページに「竹富島憲章」をアップしました(お正月休みの作業)。本年最初の「1月スケジュール」サイトには、竹富島の赤瓦とシーサーの画像(昨年11月、水牛車から撮影)をかざってみました。2月あたりに数日(今までいつも日帰りの)竹富島に泊まりたいと画策
中。どなたか一緒に行きませんか?
★<2月の沖縄調査計画 > 1787号【2007年2月5日】
風1776号(1月14日号)に書いた通り、2月8日から14日まで沖縄調査を計画しています。日程が近づいて、この数日は訪問先の竹富島関連の文献を調べたり、最近入手した写真集(「うつぐみの心・竹富島」大塚勝久)や
DVD(「沖縄・竹富島の豊年祭と御嶽」益田兼房)などを楽しんだりしています。
風1769号(2006年12月30日、昨年の最終号)「風の積み残し」で、新年早々にも・・と予告した「竹富島憲章」等のご紹介は、1月の「風」記事が案外と忙しく、まだ掲載できていません。「竹富島憲章」そのものは、すでに全文をHPにアップしておきました。「憲章」への関心は、昨年11月の千葉県公民館研究大会の際に出されたもの。あらためて、沖縄公民館研究として、少し詳細な記録を調べておきたいと思ったのです。このことはいずれ書くことにいたします。予告ばかり?と言われそうですが、お許し下さい。
沖縄行きのあと一つの目的は、一昨年から山城千秋さんなどと動いている「沖縄青年運動史研究」としての証言聞き書き活動です。中頭を中心に、復帰運動等に関わった当時の活動家層に会ってきました。すでに年齢的には長老なのに、皆さん忙しく、当方の訪問日程となかなか合致しません。さきほど山城さんからメール来信(有り難う!)、平田嗣功さん(沖縄県青年館理事長)が会ってくださるとのこと、どうぞよろしくお願いして下さい。2月12日(月)ご指定の時間(午後2時あたり)に参上しますと。当日は休日ですが、会館は大丈夫でしょうか。念のため、平田嗣功さんのケイタイを教えておいて下さい。
なお、13日(火)は夕刻から夜にかけて、山内徳信さん(元読谷村長、県収入役)にお会いできそうです。
★<那覇の港にザトウクジラ>1789号【2007年2月9日】
…(略)…
今日(8日)那覇に着きました。琉球新報 の記事(2007 2/7 16:00)に驚きました。「ザトウクジラ 那覇港沖でのんびり!」と。
「6日午後、那覇港沖に親子とみられるザトウクジラ2頭が現れ、交互にジャンプする仲むつまじい様子が目撃された。同港沖防波堤近くまで接近し、しぶきを上げる姿が同市天久の琉球新報社からも確認された。漁師の赤嶺政広さん(46)は、これほど近づくのはまれ。自分は初めて見た、と話した。ザトウクジラは5日も同港沖で、4日は空港沖でも目撃された。(後略)」
以前からこの時期に那覇沖で目にし「3月いっぱいは姿が見られるだろう」とのこと。天気もよいし、港の高台に行ってみようかと誘惑にかられましたが、辛抱して、沖縄県立図書書館へ。竹富島の文献探索に。明日(9日)、竹富島に渡ります。
★<竹富島へ> 1790号【2007年2月12日】
今回の竹富島訪問には、パソコンを持参せず、那覇のホテルに置いてきました。宿泊予定の民宿(泉屋、民宿第1号とか)でインターネットにつなげるかどうか、分からなかったからです。おかげさまで、パソコンから解放され、毎夜遅くまでゆっくり飲むことができました。前本多美子さんはもちろん、上勢頭芳徳さんはじめ竹富の皆さま、歓迎していただき、有り難うございました。印象深い三日間となりました。
二日目(2月10日)の午前、竹富公民館の現館長・島仲弥喜さんのお宅で聞き取りをしている最中に、八重山「ネットワークサービス」の人がやってきて、ブロードバンドへの切り替え作業。館長さんのパソコンがインターネットに通じた一瞬。テストにぶんじん(TOAFAEC)のホームページを開いてもらいました。見事成功!
ご承知のように、ぶんじんHP2月の表紙写真は「竹富島まちなみ館(竹富公民館)」。島仲館長の驚きの表情が笑顔に変わって、目出度し!メデタシ!のひととき。
今回の調査活動で竹富島の主立った方々のお話を聞くことができました。かって数年通った与那国調査を思い出し、竹富にもまた数年お邪魔をすることになりそうな予感。もちろん体力・気力があれば・・・の話ですが。9月刊行予定『東アジア社会教育研究』第12号に「竹富島憲章と公民館」(仮題)を収録する案を上勢頭芳徳さんに相談してきましたが(昨年11月訪問時)、どう具体化するか。上勢頭−小林の対談形式を考えようかという話になりました。締切り日程の関係では、3月か4月にまた島へ渡る必要もありそう。
那覇への帰路、石垣で新垣重雄さんの店(「島そば一番地」−市役所前)に寄って、ビールで歓談。今回は、渡慶次賢康さんにも平久保の皆さんにもお会いする余裕がありませんでした。11日夜、那覇へ帰着。12日からは沖縄青年運動史をになった群像たちの聞き取りです。
この間(9日)、鷲尾真由美さんは風・前号(ぶ)欄を見て、沖縄県立図書館へ行かれたとのこと、しかし1日違い。また電話をいただいて(このときJTA機中)、たいへん恐縮しています。
▼竹富島の水牛車観光(泉屋コテージの路地)
★<竹富島の音の世界> 1792号【2007年2月17日】
沖縄から帰って数日経つというのに、まだ竹富に泊まった余韻がただよっています。風のそよぎ、降る雨の暖かさ、路地を散策する観光客のささやき、時折におう水牛の落としものなど。
竹富島では、NPO「たきどぅん」が活発に動いています。たきどぅんとは竹富のこと。同ホームページ(http://www.takidhun.org)の冒頭には「今あなたの目の前に広がる美しい集落風景と赤瓦の民家、手にするミンサーの織物、聞こえてくる民謡や芸能の音
…
」と。港の傍の「ゆがふ館」は「たきどぅん」が運営している立派な施設ですが、そこで、CD「竹富の風」を入手。(これはお薦め!毎夜聴いています。)
収録されているのは竹富の民謡・わらべ歌・祭り(種子取祭など)の歌など。その最後は「夏の夕暮れ、集落のはずれにて」。竹富の静かな夏の宵−虫やヤモリ、コノハズクの声に混じって、どこからともなく三線と歌が聞こえてくる。「月ぬ美しや」で始まって「夏の夕暮れ」で終わるCD。
そうだ、竹富には、自然や集落の風景もさることながら、暮らしのなかで紡ぎだされる独自の音の世界があるのだと気づきました。私たちが失ってしまっている音の世界。それが余韻(余音と言うべきか)となって体に残っているようです。
たとえば、民宿「泉屋」の離れに寝ていると、朝、スリスリ・・・と足音が聞こえてくる。珊瑚礁の白い砂をしきつめた路地から。そしてサヤサヤ・・・と箒で落ち葉を掃く音がつづく。眼が醒めてみると宿の若者(長男?)でした。心洗われる思いで、1日が始まるのでした。
▼竹富島・真知御嶽(マーチオン)→写真移動・HP第3版へ
1801号【2007年3月5日】
★<東京・竹富郷友会> *南の風1801号(20070305)
先日の竹富島訪問の折、阿佐伊孫良さん(もと竹富公民館長)より紹介していただき、東京・竹富郷友会の3月例会に参加しました(3日)。
20人近くの賑やかな集い。この日はたまたま会長さんなど欠席、いつもはもっと賑やかだそうです。「親島」は小さな集落(150戸余り)なのに、その出身者で毎月例会を開き、八重山連合会「八重山まつり」への芸能出演など協議、さまざまの情報を交流し心を通わせあう独自のネットワーク。皆さんの島への思いに心うたれるものがありました。
これまで沖縄関係の県人会(川崎、鶴見など)には出席したことがありますが、集落レベルの「郷友会」は初めて。この日、同郷友会の創立60周年記念誌、80周年記念誌「たけとみ」(1925〜2005)の2冊を頂戴しました。いずれも立派な内容。高い水準の論稿もあり、詳細な年表が竹富−東京をつなぐ見事な地域史となっています。
終わって駅前(JR大崎)の飲み屋で二次会(画像一枚アップ)。テードゥンムニ(竹富方言)は分かりませんが、竹富にまつわる話がいろいろ面白く、楽しいひとときでした。座が終わる間際に、はじめての参加を歓迎しての歌一つ。短い一節ながら胸にじんときました。
♪あがとから 来る船や ばがいぬ とぅんちゃーま♪(世迎いゆんた)。「あんな遠くから来る船は、我が上の神船…」(上勢頭亨『竹富島誌』歌謡・芸能編、p88)。宝船を迎える歌なのです。もっと聞きたい思い。この夜、東京の空にも、月はさやけく輝いていました。
▼二次会(大崎駅前、3月3日夜)
★<歴史的な風土100選に竹富島> 沖縄タイムス2007年3月8日
【竹富】古都保存法施行四十周年記念事業「美しい日本の歴史的風土100選」(主催・古都保存財団など)にこのほど、竹富町の竹富島が選ばれた。古都保存法は1966年に制定。京都市などに限定し、歴史的建造物を守るため、土地利用などを制限している。
記念事業には全国から公募で698件の歴史的風土が残る地域が推薦された。うち竹富島を含む101地域が百選に選出。続く準百選として、本部町備瀬のフクギ屋敷林や渡名喜島を含む116地域が選出された。琉球王国のグスクおよび関連遺産群などの世界遺産地域を含む47地域が特別枠に指定された。
大盛武竹富町長は「島の町並みが日本の歴史的風土と認められてうれしい。町が現在目指す各島々の世界遺産登録の弾みとなれば」と喜んだ。
(6)2007年4月 竹富島調査に向けて(【南の風】記事)
★<竹富の写真集> *南の風1822号(20070414)
沖縄に関心をもち始めて既に30年余。仕事に疲れると、よく沖縄の歌を聞き、写真集を見ます。私たちが沖縄研究を始めた頃、ちょうど小橋川共男さんの写真集『沖縄・御万人の心』(1979年)が世に出て、その画像に心打たれるものがありました。ようやくまとめた『民衆と社会教育』(エイデル研究所、1988年)の口絵写真には、小橋川さんにお願いして「エイサー」や「ムラの公民館」などの画像を掲載。小難しい本は、エイサーを躍る「みやらび」の笑顔で救われたというのが大方の評。
いま竹富島に行く用意をしながら、大塚勝久写真集『うつぐみの竹富島(たきどぅん)』(琉球新報、2005年)を開いています。心が浮遊して、活字の論文など読む気にならない。夕陽のなか「わらべ歌あそび」(おそらく「ふーゆべまー」の歌か)の写真など、しばし見とれて仕事が手につきません。大塚勝久さんには、1992年にもほぼ同じタイトルの写真集(『うつぐみの心・竹富島』葦書房)があり、“竹富の心”に魅せられてきた歳月がよく分かります。
“うつぐみ”とは「協同」「互助」の意。竹富の古謡「しきた盆」の最後の1節に「かいしくさ 打組(うつぐみ)どぅ まさりょうる」とあり、「賢いことよ 仲間ごころが すぐれている」と解説が付されています(上勢頭亨著『竹富島誌』法制大学出版会、1979年)。竹富のいわばキーワード“うつぐみ”。お互いに協同し、心を組みあう意味です。竹富島出身の狩俣恵一氏(沖縄国際大学、民俗学)によれば、“うつぐみ”は島びとが独自に創り出した言葉、「学校にも郵便局にも、子どもたちやお年寄りたちをはじめ、竹富島のありとあらゆるものには、それぞれの“うつぐみ”の心が宿っている」(大塚勝久写真集)と。
竹富島に通うようになって、写真集の中にも、少しずつ見知った顔が増えてきました。
★<鳥囀り花咲き蝶も舞う−竹富島 > *南の風1824号(20070420)
隔日に発行してきている「風」も、今回は4日ぶり。16日から19日まで那覇−竹富と移動していました。パソコンは那覇に残して、竹富島には持参せず。おかげさまで時間はゆっくりと過ぎていきました。旅の疲れどころか、むしろ元気を回復。いま那覇のホテルに戻ってこの日誌を書いています。
もう若夏かと思っていたのに、むしろ寒いような竹富島でした。18日未明には烈風・強雨あり、縁先に脱いでいた靴はびしょ濡れ。サンダル履きで島を歩きまわる始末。同夜は喜宝院蒐集館々長・上勢頭芳徳さんのご自宅で「竹富島憲章と竹富公民館」についてお話をお聞きしました。熱のこもった3時間。こんな機会を数日重ねて、詳しい記録を作りたいところですが、日程的にそうもいかず。憲章づくりや町並み保存運動(その基盤に竹富公民館が機能してきた)からすでに20年。芳徳さんにぜひ「20年史」を書いていただきたいとお願いもしてきました。 当夜の記録は、同席の前本多美子さん(東京学芸大学卒、竹富島在住)にテープ起こしをお願いして、『東アジア社会教育研究』第12号に掲載する予定です。お楽しみに。
19日は一転して見事な晴天となりました。旧暦3月3日の「浜下り」当日。ぜいたくに竹富の浜を堪能。まず、西桟橋へ。そしてコンドイ浜→カイジ浜・いわゆる星砂の浜→(南下は断念して再び北上)ニーラン石→安里屋クマヤ墓→(北端の)美崎御嶽へ。潮の香を楽しみながらの砂浜、野道に入ると、鳥囀り花咲き蝶も舞うなかの一人歩き。よく歩いたものです。万歩計の数字は新記録。
ようやく集落に戻って、「うたりや」(一度入ってみたかった食事処)の木漏れ日の下で生ビール。うまい!しばし至福の一人時間を楽しんで(うたた寝も)、帰りの舟に飛び乗ったという次第です。幸せな1日となりました。今回もまた竹富の皆様にお世話になり、有り難うございました。書きたいこと、いろいろ。
▼ミーナライ(見い習い)シキナライ(聞き習い)の会−4月17日夜、旧与那国家−
*
掛け軸:上勢頭亨書「かいしくさ うつぐみどぅ まさりょうる」(しきた盆あゆー)
(7) 竹富島憲章と竹富公民館(TOAFAEC第128回・研究会報告)
「南の風」第1829号(遠藤輝喜、Sun, 29 Apr 2007 18:58)
<第128 回(4月)定例研究会−竹富島憲章と竹富公民館>
日時:2007年4月27日(金)18:30 〜20:30
テーマ:竹富島憲章と竹富公民館
報告:小林文人
ゲスト:東京竹富郷友会
会場:杉並区永福地域区民センター第3集会室
参加者:有田静人(東京竹富郷友会・顧問)、大浜勝子(同副会長)、安井節子、
丸浜江里子、伊藤長和、伊東秀明、金侖貞、黄丹青、岩本陽児、武田拡明、江頭晃子、
小林文人、遠藤輝喜、交流会のみ参加:山口真理子、張林張(順不同、敬称略)
竹富島は、八重山群島に位置し、島は周囲 9.2km、世帯数 165戸、人口361
人(2006年10月18日現在)の小さな島(3集落)であるが、その集落景観や町並み保存運動の経過は多くの注目を集めてきた(民芸運動、文化財・祭祀芸能研究、民俗学、社会学、建築学など)。しかし社会教育研究としてはこれまできちんとした報告がない。竹富島は全体が国立公園、種子取祭は重要無形民俗文化財、集落は重要伝統的建造物群保存地区の選定をうけ、織物(ミンサー織など)は伝統的産業品、などいくつもの国の指定を受けている。上勢頭亨氏(故人)が設立した蒐集館(民俗資料館)は島の稀少資料4,000点を収集展示。
1990年前後まで人口減少(250 名程)と高齢化が進行してきたが、ここ15年は人口が連続増加中。その背景には竹富島憲章づくり、町並み保存運動に取り組んできた住民自治組織・竹富島公民館の役割が大きい。
公民館は館長、主事(3集落)、幹事等の運営体制と、「公民館議会」や集落景観保存調整委員会等の組織が活発に機能している。「うつぐみ」(協同と互助)の心による強い結びつきをもって、種子取祭、豊年祭など祭祀を中心にした公民館行事が特徴的。東京・沖縄・石垣等の「郷友会」もまたこれに積極的に協力してきた。
竹富島の大きな転機は、復帰(1972年)前後の本土リゾート資本の土地買い占めとそれに対する「竹富島を生かす会」等による抵抗であった。1980年代に入ると、東京・郷友会も本土資本の参入から島を守ることを公民館長に提言(1982年)、本土の住民運動(妻籠)や町並み保存運動
との出会いもあり、竹富島憲章が策定(1986年)された。
「〜われわれは今後とも竹富島の文化と自然を守り、住民のために生かすべく、ここに竹富島住民の総意に基づき〜」(前文)制定された憲章。一、保全優先の基本理念、ニ、美しい島を守る、三、秩序ある島を守る、四、観光関連業者の心得、五、島を生かすために、六、外部資本から守るために、という注目すべき構成となっている。それから20年が経過し、いまなお光彩を放っている。
竹富公民館は、島の伝統的な祭祀・芸能を維持しつつ、集落づくりの自治組織として、集落景観保存、観光への取り組み、NPO活動の展開など、現代的課題に挑戦してきている。
*DVD「竹富島の豊年祭と御獄」(益田兼房氏)を鑑賞。
*8月19日、東京竹富郷友会総会(大井町キュリアン)の予定。
▼DVD「竹富島の豊年祭と御獄」をみる
◆<竹富島報告:二度目の128回研究会>
*「南の風」第1828号(小林文人)
昨日(4月27日)夜の定例研究会は数えて128回。最近は「聞き手」や「進行」役に控えてきましたが、この回、ぶんじんは自ら買って出て久しぶりの「報告」者、テーマ「竹富島憲章と公民館」。まだ勉強不足ながら、介添え役のように東京竹富郷友会のお二人(有田静人・顧問、大浜勝子・副会長、HPに写真)が出席して下さいました。他に、新しい方のご参加もあり、皆さん、有り難うございました。
実は私たちの研究会の前身、東京学芸大学を拠点に活動してきた「沖縄社会教育研究会」は、1995年2月に128回をもって閉会しました。当日の記録をみると「2月20日−128回研究会 照屋秀裕(名護市社会教育主事)ヤンバルの社会教育をかたる、仲宗根政善先生を偲ぶ(小林文人)、東京学芸大学社会教育研究室における沖縄社会教育研究会の閉会宣言!」となっています。
128回を迎えるまで19年が経過していました。この間に定例研究会だけでなく「沖縄訪問・調査53回、学会発表12回、戦後沖縄社会教育史料刊行7冊、『民衆と社会教育』出版、論文発表多数」の記録も。
その後、東アジアの視点を加えたTOAFAEC (東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)が発足して12年。二度目の128回研究会となったわけです。竹富の報告をしながら、あらためてこの30年余り、研究会を足場に元気に動いてきた幸せをかみしめていました。(以下、略)
【TOAFAEC第128回定例研究会】レジメ
竹富島憲章と竹富公民館
東京学芸大学名誉教授 小林
文人(TOAFAEC)
1,はじめに−東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(1995年〜現在)、沖縄研1976年
−竹富島との出会い(1991年11月・種子取祭〜、2006年11月〜)
2,竹富島の概要−位置(地図)、世帯・人口、島の特徴
*竹富島喜宝院蒐集館・上勢頭芳徳氏資料(別紙)
1900年 1945 1960 1970 1991 1992 2000 2002 2003 2005 2006
人口 1080人 2168 843 373 254 255 279 300 303 350 361
3,集落組織−仲筋(ナージ)、玻座間(東・アイノタ、西・インノタ)−3集落(支会)
竹富島民自治組織として同志会(1917)→部落会(1940)→公民館(1963)
公民館(館長、主事(各支会より)、幹事、顧問、衛生部、塵埃処理、等)
−公民館総会、議会(各支会3,老人会、婦人会、青年会)、各種諮問委員会
−公民館運営検討委員会、集落景観保存(町並調整)委員会、財産管理委員会、等
財政(平成16年度)収入3,357,988円(内・公民館協力費1,161,000円)
支出2,902,338円(内・役員報酬1,611,000円)
*他に「祭事」(766,343円)−結願祭、敬老会、種子取祭の会計は別
「塵埃処理」(2,580,866円)、「祭壇基金」、公民館資産管理
*竹富公民館・祭事・行事(別表)
4,町並み保存運動と竹富島憲章(1986年)、重要伝統的建造物保存地区(1987年)
・復帰前後−本土リゾート資本の土地買い占め、買い戻し
・「妻籠宿を守る住民憲章」(1971)、「竹富島を生かす憲章案」(1972)
・町並み保存運動との出会い、重要伝統的建造物保存地区(重伝建)選定(1987)
・公民館の機能−集落景観保存調整委員会
郷友会(東京・石垣・沖縄・高知)の役割
5,「竹富島の豊年祭と御嶽」(益田兼房−文化財保存学)
6,竹富島の現在
・祭祀と芸能、集落景観(町並み)、伝統工芸(ミンサー、上布)
・産業として観光−動向と課題
・竹富島遺産管理型NPO法人「たきどぅん」(2002年)
−「ゆがふ館」「かりゆし館」の受託など →http://www.takidhun.org/
・「うつぐみ」の思想−協同と自治の取り組み
・内と外(町・県・国、学会、出版、マスコミなど)
(8)<2007年7月・竹富島訪問−パソコンもって>→関連・沖縄訪問記事■
南の風1867号(2007年7月3日)
2日午後、竹富島に到着。はじめてパソコンを持参しました。これまではメール送受信の見通しがなく、またせっかくの島フィールド・サーベイにパソコンを扱う時間などもったいない!と思って、那覇のホテルに残してきたものです。
しかし今回日程は、ちょうど編集中の「東アジア社会教育研究」12号・原稿締め切り期限と重なっています。前本多美子さん(竹富島)からの連絡(パソコンは「…民宿では無理かもしれません、いらしてから考えましょう、何とかなると思います」)に力を得て、海を渡ってきました。
6月30日締め切りまでに原稿を送っていただいた鷲尾真由美さんや山城千秋さん、中村誠司さん(定広由起さん原稿)、またこの間に連絡いただいた呉迪さん、黄丹青さん(呉遵民氏関連)、内田純一さん、そして“韓国小特集”を担当していただいている小田切督剛さん、ご協力とご配慮、有り難うございます。年報編集局は、いま海を渡って、竹富島の一角で機能中。こちらに来たのも「竹富島憲章と公民館」対談記録を最終調整するため。眼前の八重山の海を見ながら、はるか遠く東アジアの動きに思いをはせつつ、「研究」誌を編集できる時代の面白さを実感しています。
と言っても、この「風」を今から発信し、いただいているメール・原稿を受信しなければなりません。うまくいくかどうか。まずは港の横のNPO法人「たきどぅん」に駆け込んで、協力をお願いするつもりです。この風がお手元にとどいたら、ひそかに南の潮の香りを味わってやって下さい。
▼2日夜に開かれた、竹富(NPOたきどぅん主催)「島だて学校」(20070703)
講師・村田信夫氏(建築家)右端、旧与那国家「畳の下は簀子の床」
◆<うつぐみの島・竹富島> 南の風1872号【2007年7月11日】
最近の本欄でお気づきの通り、南の竹富島の動きに強く惹かれています。八重山の海に浮かぶ“お盆”のような島。今年の社会教育研究全国集会(第47回、貝塚市、8月25〜27日)では、あえて若いふりをして、竹富島の報告をすることにしました。題して「竹富島・住民憲章と公民館」(第19分科会「自治と連帯をきずく小地域での活動」)。若いメンバーが多い全国集会のなかでは、おそらく最年長グループの報告者。
ちょうど1週間前、竹富島訪問の最後の日、港のそばの「ゆがふ館」(NPOたきどぅん)で観た「うつぐみの島・竹富島」(いい出来!)のことは、すでに本欄(風1868号)で書きました。島の自治と協同の軸には竹富公民館があり、新しく「NPOたきどぅん」も躍動中。この島の美しい自然と集落、そこに暮らす子どもたち、種子取祭も記録したDVD。環境省・企画制作ですが、販売用はないそうです。展示用だけ。そこで今日、担当の方に電話し「私たちの全国集会でぜひ観たい、貸し出していただけないか」というFAXを「環境省石垣自然保護官事務所」へ送りました。うまくいくかどうか?
DVDは60分。他の報告がいくつもある分科会より、夜の「この指とまれ−沖縄を囲む」で観てはどうか、とも考えています。もちろん環境省(石垣事務所)が貸し出しを許可してくれたらのこと。分科会世話人・伊東秀明さんのご意見など伺いたいもの。
ちなみに“うつぐみ”とは、強いて漢字で書けば“打つ組み”か。お互いの心を通わせ、手をつなぎ肩を組み、ともに協同しあうこと。竹富島の古謡にも“うつぐみ”が歌われ、いまも竹富公民館のキイワード。
▼石垣島から“うつぐみの島”竹富島を望む(20070704)
◆<東京竹富島郷友会の午後>
*
南の風1898号【2007年8月20日】
8月19日の東京竹富島郷友会の総会・懇親会は聞きしにまさる盛りあがりでした。私たちの4月定例会に竹富郷友会から有田静人さん、大浜勝子さんのお二人がお出で下さったのが縁となり、ご招待をいただいたのです。有り難うございました。
当日は、竹富公民館長の上間毅(先月の竹富島訪問の際にはお会いできなかった)、沖縄竹富島郷友会(在那覇)会長の新盛勇(元学校長)、前衆議院議員の白保台一(竹富島出身)等の各氏が上京されていて、ご挨拶することができました。私の隣の席は、東京八重山郷友連合会の宮平隆介会長(石垣市出身、元裁判官)。ビール・シマ酒で興味深いお話もお聞きしながら、郷友会の皆さんの芸能を楽しむ至福のひととき。
とくに印象的だったのは、座が始まる「世迎え歌」(とぅんちゃま)での迎えと、座がおわる「けーらし踊りおーら」の巻踊り。参加者全体が輪になって歌い楽しむ一幕は、まさにシマ共同体の結びつきを実感させるもの。私たち研究会からは4人の参加。岩本陽児さんから早速のレポートをいただきました。(ぶ)
◆≪岩本陽児、Sun, 19 Aug 2007 20:50≫ *和光大学
<第82回東京竹富島郷友会総会−懇親会の報告>
岩本です。出会いに感謝しています。トアフェックのご縁で、標記集会に小林先生、山口真理子さん、横浜の伊東秀明さんと私、岩本がご招待をうけ、本日19日午後、素敵な時を過ごしてきました。
1時前に私たちが品川区大井町「きゅりあん」についた時はまだ、総会議事の最中でしたが<コトバが分からない!! 現地語のスピーチは、まるで韓国語を聞くようでした>、やがて私たちは招待席へと案内され、会議は第二部の懇親会・余興へと移行。予想外のことでしたが、手作りの「宴会」のようなもの。
私にとって感動的だったことをいくつか。
ひとつに、「郷友会」なる、ふるさとを大切に思う人々の集まりの存在をこの年(頃)になってはじめて知ったこと。同窓会と似ているところもあると思いましたが、もちろん老若男女の集まりです。
それから、竹富の芸能の豊かさ。プログラムに印刷されていた13の出し物だけでは足りず、飛び入り参加がいくつもありました。厳粛なものも、お笑いも。
第三が、子どもから成人まで、世代に応じた演目(出番)があること。西洋のバレーや、近年日本でも流行している「ラジカセ踊り(フットサル?)」のようにパフォーマーが若くシニアの出番がないのとは大違い。
最後が、締めくくりに名残を惜しんで会場全体で踊られる数曲の「総踊り」。かつて2002年に私は「国連・環境サミット」のオプショナルツアーで訪問した南アフリカの教会の皆さんから日本の歌を所望されたのに、私たちの誰もがその期待に応えられなかった都会人(?)の無念さを『月刊社会教育』に書いたことがありました。話は飛びますが、落語「錦の袈裟」などを聞くと、かつて下町の職人衆はこうした文化を共有していたのではないかと思うのです。
うれしきにつけ悲しきにつけ、歌う歌を持ち、体で表現するすべをコミュニティメンバーが共有していることは、豊かさや貧しさ以前の問題として、人間らしい生活の原点だったのではないか。いつの日か竹富島に行って、しまの時間の流れのなかに身を置きたいと思ったことでした。御好意により、ビデオを撮らせていただきました。ご覧になりたい方、お知らせください。
→iwamoto@wako.ac.jp (以下、略)
(9)旧与那国家・重要文化財に指定、種子取祭はじまる(10月21日、南の風1932号)
◆<竹富島の旧与那国家住宅、国の重要文化財に>【おきなわ短信】(396)
*八重山毎日新聞 (2007-10-20 09:55)
【竹富】国の文化財審議会(石沢良昭会長)が19日に開かれ、竹富島の旧与那国家住宅を国の重要文化財(重文)として指定するよう文科相に答申した。竹富島の近代の住居形態と生活様式を理解するうえで高い価値があると評価された。建造物が国の重文に指定されるのは竹富町では初めてのケースで、郡内では旧宮良殿内など石垣市内の3件に続いて4件目、県内では20件目。町教委は本年度内に「旧与那国家」の保存計画を策定し、保存や活用を図っていく考え。
旧与那国家は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている竹富島のなかで核となる物件と位置付けられており、2003年11月に町指定の有形文化財となり、同年度から3年間、総額
6100万円で保存修理事業が行われていた。本年度から一般公開され、地元の学習会などにも使われている。1913(大正2)年の建築。「フーヤ」と呼ばれる主屋と、台所仕事を行うための別棟「トーラ」からなる「分棟型」の住宅。今回の答申では周囲の石垣(グック)、ヒンプン(マイヤシ)、屋敷の守り神である「ジージョン」、畜舎も含めて指定された。
主屋は木造平屋建てで、屋根は寄せ棟造りの瓦ぶき。一番座、二番座、三番座、一番裏座、二番裏座のほかに、子どもたちの寝床の「ルククィン」や娘たちの寄り合い所とされる「サンジャコー」などもある。
茶を沸かして飲むために三番座の北側にある「カマーノハタ」にはかまどがある。そのさらに北側にはびんなどを保管するための「クール」もある。
旧与那国家は、元の所有者の与那国暹(のぼる)氏が2002年1月に竹富公民館に譲渡し、03年9月に同公民館から町に再譲渡された。
与那国氏は、今回の指定に向けた申請時に町教委にコメントし「こんなにうれしいことはない」と述べていた。
◆<竹富島の種子取祭(タナドゥイ)はじまる(ぶ)>
10月19日に届いたニュース。早稲田の大隈講堂などと並んで、竹富島の旧与那国家が国の重要文化財へ指定されることになりました。今年たまたま竹富島滞在中に2回ほど与那国家で開かれた集まりに参加したことがあります。一つは4月17日「ミーナライ・シキナライ(見い習い・聞き習い)の会」、あと一つは7月2日「島だて学校」。古い旧宅は見事に修復されて、実際に島の暮しのなかに生きていることを実感しました。
いま竹富島では、種子取祭(タナドゥイ)が始まっています。この祭りも、復帰後いち早く国の重要無形民俗文化財の指定を受けたもの(1977年)。島をあげての祭事、豊穣祈願と多彩な芸能の結びつきが注目されてきました。祭祀の期間はなんと10日間(10月17日が初日、トゥルッキ)、7日目と8日目の奉納芸能が圧巻、2日間で70あまりの芸能が奉納されます。
私たちの研究会では、この間に何度も竹富島を取り上げ、東京郷友会の総会にも招待された経過があって、「タナドゥイに行こう!」の声もあったのですが、日程的に実現しませんでした。来年は有志でぜひ!
竹富島「ゆがふ館」(ビジターセンター)ホームページは、祭りの華やいだ動きを伝えています。たとえば一昨日(10月19日)の記事。
○祭事教室「種子取祭を学ぼう!」(October 19, 2007)
「…トゥルッキ(祭りの初日)も過ぎ、島内では「タナドゥイ」が始まっています!たいへん慌ただしいなかですが、昨晩、竹富島ビジターセンター運営協議会主催の祭事教室「種子取祭を学ぼう!」を「ゆがふ館」にて開催いたしました。
まずは記録映像「種子取祭」(約60分)を上映後、アイジシン姿で登場した上勢頭芳徳・喜宝院蒐集館長(NPOたきどぅん理事)による「種子取祭を見学する上でのマナー」等の説明が行われました。
最後には阿佐伊孫良NPO たきどぅん事務局長と上勢頭芳徳さんのドラと太鼓を音頭に、参加者全員で世乞いの「道唄」「巻唄」「いぬがだにアヨー、ユンタ」などを謡いガーリの練習を行いました。…略…」(TA)
(10) 竹富島でリゾート開発計画
南の風1966号
12月31日 【おきなわ短信】(408)
*八重山毎日新聞 (2007-12-28 14:28)
<竹富島でリゾート開発計画 2010年の開業目指す>
−保有機構が土地貸し付け、歴史的景観保存地区に平屋建て50戸計画
竹富島で、13ヘクタール規模のリゾート開発が進められており、2010年の早い時期の開業を目指していることが分かった。計画地は株式会社竹富土地保有機構(本社竹富町竹富)の所有で、同社は、長野県軽井沢町でリゾート会社を経営する星野佳路氏が代表取締役、町商工会長の上勢頭保氏が取締役を務めている。同社は、両氏が代表取締役を務める別会社の南星観光(同)に土地を貸し付け、南星観光が施設整備とリゾート運営を行うという。
上勢頭氏は「開発許可申請の事前協議を行うために必要な書類づくりなどで、町や県と調整している段階。住民説明会を早めにやりたい」と述べ、来月にも計画の内容を地元に説明する考えを示した。竹富土地保有機構は同島南東側に約60ヘクタールの土地を所有し、リゾート開発を計画しているのはその一部。
町は町歴史的景観形成地区保存条例によって、竹富島の集落部分を伝統的建造物群保存地区、その周辺の陸上部と海岸線からリーフまでの海域を歴史的景観保存地区としている。竹富島は全域が両地区のいずれかに含まれており、建造物は原則として赤瓦屋根の平屋建てにすることになっている。今回の計画地は歴史的景観保存地区に位置する。
このため、リゾート計画では、平屋建ての施設を40―50戸建設する。すでに測量調査などを実施。設計では、環境への配慮や既存の下水施設への接続などを勘案していく。
同島では80年代後半から90年代前半にかけて、國場組(本社那覇市)と南西観光がリゾート開発を目指し、91年には運営会社として株式会社うつぐみ(本社竹富町竹富)を設立したが、バブル崩壊によって計画はストップ。國場組によると、同社は現在、同島内で実施する具体的なリゾート計画は持っていない。
町によると、同島を訪れる観光客は90年ごろから急増し、去年は町内の島々で最多の42万人余りが訪れた。
(11) 竹富に「赤瓦」リゾート 6月開業
*沖縄タイムス 2012年1月20日
リゾート施設運営の星野リゾート(長野県、星野佳路社長)が竹富島東部で計画している高級リゾート「星のや竹富島」が6月1日開業する。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている同島の風景に配慮した設計で、約8ヘクタールの敷地に赤瓦屋根の木造家屋50棟やプールなどを建設。島内での文化体験や近隣離島訪問を含めた多様なメニューで高付加価値の滞在を提案する。
開発をめぐっては住民訴訟もあったが、協議を重ね多数の住民の理解を得た。同社は今後、竹富公民館と連携し、敷地周辺の活用法などを検討。従業員数は60〜75人の予定で、半数を地元から雇用する。19日、東京都内で会見した星野社長は「観光産業が離島や地域に貢献できることを示したい。沖縄観光の中でも難しい(立地の)八重山で、いかに離島観光を盛り上げるかが使命だ」と話した。…(中略)…
会見には、竹富公民館長の上勢頭芳徳氏も同席。過去40年間で島の土地が本土企業や外資系ファンドなどに転売された歴史を振り返り、約2年にわたる住民説明会や、反対運動の経緯を説明。星野リゾートの受け入れは「島の土地をもう一度取り戻すための手段だった」として、共存共栄の発展に期待した。
外資系ファンドが保有していた開発用地約80ヘクタールを、同社と地元事業者でつくる「竹富土地保有機構」が2007年に約13億円で買い戻した。同時に、両者でホテル運営子会社の南星観光を設立。運営収益から同機構に借地料を支払い、同機構が金融債務を返済していく仕組みを「竹富島方式」として採用した。…(後略)…
詳しく読む
→■ http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-01-20_28718/
■<竹富島と公民館(小林)> 南の風2806号(2012/1/21)
昨日(20日)の沖縄タイムス「竹富に“赤瓦”リゾート・6月開業」記事(上掲)を印象深く読みました。竹富島は八重山・石垣島の前に浮かぶ美しい島。典型的な集落のたたずまい、サンゴをしきつめた白い道、代々受け継いできた伝統的な祭祀文化、すべてそこに住む人たちが日常的な暮らしを維持するなかで守ってきたものです。国の重要伝統的建造物群保存地区の指定も受けて、守るだけでなく、現代的な状況のなかで新しく発展させてきた取り組み。その中心に集落の公民館がありました。シマの共同体としての組織・連帯の核となって公民館が奮闘してきたのです。
沖縄復帰前後、本土資本による島の土地買い占めが横行しました。これに抵抗し島の土地を守る闘争があり、妻籠宿を守る住民憲章(1971年)に学びながら、「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」の竹富島憲章(1986年)が定められます。住民の総意に基づき、公民館としての意思決定でした。この経過等については、現公民館長・上勢頭芳徳さんと小林との対談(2007年)に語られています。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/taketomitaidan07.htm
土地の買い戻しは積年の課題。本土企業や外資系ファンドによる土地転売の歴史もあり、「島の土地をもう一度取り戻す」悲願をもって、星野リゾートとの提携による「竹富土地保有機構」の設立。「星のや竹富島」収益から債務を返済していく「竹富島方式」(上掲記事)の起動。その営業がこの6月からいよいよスタートするという報道です。竹富島の新しい道、その順調な展開を願わずにはいられません。
(12) 「星のや竹富島」が完成、6月から開業 八重山毎日新聞2012年4月14日
集落内の雰囲気を再現
【竹富】星野リゾート(星野佳路社長、長野県)と南星観光(上勢頭保・星野佳路代表)の大型リゾート施設「星のや竹富島」の竣工(しゅんこう)式が13日、同建設地で行われた。式には星野リゾート関係者や公民館役員、工事関係者が出席し、施設の完成を祝った。総事業費は約40億円で従業員数約60人のうち、15人の地元雇用を図り、6月から開業する。
同施設は約6.7ヘクタールの敷地に赤瓦屋根の宿泊用コテージ48棟、レストラン、ラウンジ棟や付帯施設などを含めて62棟を建設した。敷地内の歩道を白砂で敷き詰め、宿泊棟は石垣で囲みむなど集落内の雰囲気を再現。ラウンジ棟では毎夕、三線の演奏が行われるほか、プールや展望台などの施設も整備されている。
関係者を招いた竣工式では神事のあと、川満栄長竹富町長が「島の観光振興にも大きなインパクトをもたらしてくれると思う。島と共存共栄を図り、繁栄することを願っている」と祝辞を述べた。前公民館長の上勢頭芳徳さんは「島の経済発展だけでなく、従業員の人々が住民として地域行事に参加していただき、地域が発展することを祈念している」と述べて、乾杯の音頭を取り、公民館役員らが竹富島で新しい家屋の完成を祝う「家ヌカザイ」「アーパーレユンタ」を歌った。
星野社長は「島の人の思いでもある竹富島の土地問題解決に挑戦する機会を与えてもらった。長いスパンをかけて地道に積み上げていく事業であり、施設の完成からスタートなので、事業をしっかりと進めるべく努力していきたい」と関係者に礼を述べた。
(13) 竹富島からの風 星野リゾートとの調印
竹富島・上勢頭芳徳(Mon, 16 Jul 2012 20:43) 南の風2919号
… 飯田は第7回全国町並みゼミ大会が開催された所。今年35回目を迎える同ゼミに25回参加している私が初めて参加して”町並み”の洗礼を受けた思い出深い町です。「風」にもよく登場する公民館活動の活発な所と聞いています。飯田に負けないくらい「風」に取り上げられている竹富島から一向に風が吹かないのを、特にこの3年間は星野リゾートのことがあるのに、不思議がっておられた方もいらっしゃると思います。…
これまで竹富島憲章を高く評価され、星野リゾートとも憲章を楯にして渡り合ってきました。この3年間は人口350人の小さな島があの星野から 15年後には80ヘクタールの土地を住民が関わって管理運営するという協定も勝ち取りました。空証文にならないよう公民館長として決意の程を示すために正装をして調印式に臨み、血判を押しました。
「星野」(竹富島)は5年の歳月をかけてこの6月1日に開業しました。これまで外部企業を拒否してきた竹富島が、あの星野をどうして受け容れたのかと、今年は沖縄復帰(といっていいものかどうか)40年ということもあって、マスコミの取材が殺到しています。「風」のみなさまへもきちんと説明する責任があります。
本日は八重山毎日新聞にありましたように、豊年祭の道をレクチュアーしながら歩いてきた所です。明日はその星野がらみの観光客30人に竹富島についての講話をすることになっています。初めて「風」を送りましたが、これから時々仲間に入れてください。
(14) 竹富島の自治と共同について (2013年4月23日 南の風3072号)
年報「東アジア社会教育研究」第18号・第3回編集委員会(2013年4月21日) その日の午後は公開座談会でした。特集テーマ「東アジア生涯学習における自治と共同」に関わる総括的な論議。沖縄についても(短く)発言の機会あり、竹富島の事例を取り上げました。竹富島についてはHPにも諸記録を集録しています。→■
当日の諸報告のなかでも注目を集めたのは、韓国の(ソンミサン・マウルなど)市民運動・共同体づくり運動でした。竹富島については、あえてそれと対照的な違いや特徴を取り上げました。歴史も地域条件も当然違いがあり、それらの多様な展開のなかから“自治と共同”の共通の歩みと課題を考えてみたかったからです。
まず第一に、集落を基盤とし伝統的な住民組織の挌闘のなかから自治と共同(公民館)の営みが重ねられてきたこと(マウル運動は新しい組織づくりの場合が多い)。第二に(離島だからと言って)現代の動きに離れているわけではなない。島内から外への熱い視線があり、外から内への支援の輪も大きい。第三に島独自のコミュニティビジネスが形成されてきたこと。第四に古い祭祀や行事のなかで伝承されてきた文化(祭り・芸能など)と共同の精神(うつぐみ)が現代に生きていること、などなど。
(15)