南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
1900号【2007年8月23日】
◆<DVD・うつぐみの島>
本号で1900号となりました。辛抱強くお付き合いいただく皆様にあらためて御礼申しあげます。そのうち風のおもむくまま、どこかで吹き止むはずですが、案外と続いていくものですね。これも皆様からのメールあってのこと。いましばらくの風、どうぞよろしくお願いします。
8月19日午後、東京大井町「きゅりあん」ホールで催された東京竹富郷友会の総会・祝賀会(既報−風1898号)について、南の八重山毎日新聞が写真入りで大きく報じています(8月21日)。約400人の盛況、当日の模様は石垣コミニュティーFM放送で実況されたそうです。この熱気の「原動力は女性パワーだ」と。私たち研究会のことにも触れ、賑やかな写真には、TOAFAEC
からの参加者4人、とくに山口真理子さんの笑顔が大写し。当方のHPにも写真を2枚アップしておきました。
あと一つ、竹富島の話題。環境省制作のDVD「うつぐみの島」(60分)は「石垣自然保護官事務所」から送付され、貝塚で開かれる社会教育研究全国集会(第19分科会)で上映できる運びとなりましたが、利用にあたって次のような条件が付されています。念のためにご紹介。
「貸し出し条件;
・映像資料の提供元を明示すること
・目的以外はもちろんのこと、申請書記載内容以外で利用しないこと
・第3者への提供は行わないこと
・複写は行わず、使用後は返却すること
・資料を使用した会議等の結果についてご報告いただくこと。」
当然のことではありましょうが、いい出来映えだけに、関心をもつ人たちにもっと自由に拡げられないものかと思いました。たとえば、ゼミ教材等には最適の映像。適当な価格で頒布などしてもらえると有り難いのですが・・・。
1899号【2007年8月21日】
◆<アドレス帳更新の効用>
ソウルの呉泰敏(オテミン、和光大学卒)くんについては、6月にニコラ村井光恵さん(ジュネーブ)から近況を知らせるメールが届き、昨晩は小田切督剛さんからも。「風」メンバーに入れるよう提案がありました。おお、オテミン! 懐かしい名前だ。視覚障害を乗り越えて、たくましく頑張っている様子、本号から風を送り始めてみます。
1900号を目前にして、恒例100号おきアドレス帳更新をお知らせしたところ、いつもの常連メンバーから「継続を」のご連絡がぞくぞく。着信したメールは、そのまま風・誌面に紹介する方針ですから、ここ数号はなが〜い「風」になりそう。一部の省略・割愛はお許し下さい。
ほんとは、いつも返信のない珍しい方(幽霊メンバー?)からの反応を期待しているのですが・・・、幽霊たちはおそらく「アドレス帳更新お知らせ」そのものに目を通していない? 目星をつけていちいち「風・継続しますか?」のメールを別送、返信がない人のアドレスを送信リストから削除、そんな作業を繰り返してきました。案外と面倒なのです。
しかし風にとっては新陳代謝のだいじな機会。この9年、新しいメンバーを迎えつつ、反応のない方を(それまでのお付き合いに感謝しつつ)はずして、「風」をなんとか100人前後の“語らいのコミュニティ”規模に維持してきました。無限定・不特定のメルマガ集団に転落しないよう心してきたつもり。毎回15〜20名(新旧合計30〜40名)前後の入れ替えとなります。
今回は、たまたま厳しい残暑の季節。「風・継続しますか?」などの手続きは省略したいところ。ときとど、“風なんて、よくやるよ、面倒くさいことは、もうヤメにしようじゃないか”と自虐的につぶやいています。
信州・妻籠公民館の続きを書く予定でしたが、折をみて載せることにしましょう。
1898号【2007年8月20日】
◆<東京竹富島郷友会の午後>
8月19日の東京竹富島郷友会の総会・懇親会は聞きしにまさる盛りあがりでした。私たちの4月定例会に竹富郷友会から有田静人さん、大浜勝子さんのお二人がお出で下さったのが縁となり、ご招待をいただいたのです。有り難うございました。
当日は、竹富公民館長の上間毅(先月の竹富島訪問の際にはお会いできなかった)、沖縄竹富島郷友会(在那覇)会長の新盛勇(元学校長)、前衆議院議員の白保台一(竹富島出身)等の各氏が上京されていて、ご挨拶することができました。私の隣の席は、東京八重山郷友連合会の宮平隆介会長(石垣市出身、元裁判官)。ビール・シマ酒で興味深いお話もお聞きしながら、郷友会の皆さんの芸能を楽しむ至福のひととき。
とくに印象的だったのは、座が始まる「世迎え歌」(とぅんちゃま)での迎えと、座がおわる「けーらし踊りおーら」の巻踊り。参加者全体が輪になって歌い楽しむ一幕は、まさにシマ共同体の結びつきを実感させるもの。私たち研究会からは4人の参加。岩本陽児さんから早速のレポートをいただきました。
当日の朝、久しぶりに楊碧雲さん(台北市政府教育局・社会教育専員)から電話あり。いまご夫君が東大に招かれている由、その関係で夏休み?に東京滞在中とのこと。台湾・社会教育関係者の日本研修候補地等についていくつかの情報提供。
また、環境省(那覇自然環境事務所)石垣自然保護官事務所より、依頼中のDVD「うつぐみの島・竹富島」「竹富島公民館活動」が届きました。貝塚で開かれる全国集会(「自治公民館」分科会)で上映できることになりました。
▼世迎え歌(とぅんちゃま)で
1897号【2007年8月19日】
◆<木曽・妻籠公民館の歩み(妻籠レポート2)>
…(承前・1896号)…
長野県南木曽町(旧吾妻村)妻籠の公民館については、いくつもの興味深い記録が残されています。戦後初の全国公民館表彰(1947年11月3日・新憲法公布記念日)を受けたこともあり、寺中作雄・鈴木健次郎共著「公民館はどうあるべきか」(社会教育連合会発行、1948年、公民館シリーズ6)の中にも登場。
しかし、妻籠の実録をたどれば、公民館設置についての文部次官通牒(1946年)の評価は大したものではなかったようです。初代の公民館主事そして館長をつとめた勝野時雄によれば、通牒は「…われわれの生活感情からすればほとんどの関心の対象にはならなかった」「…国から下りてきている公民館というのが、われわれがこれからやっていこうとする運動のカクレミノとして有効」といった程度のとらえ方。次官通牒によって公民館が創設されたというよりも、実質として住民の活動の胎動が先にあり、国の施策を利用して「公民館」の看板が掲げられたのでした。(勝野時雄「むらの改革にとりくむ公民館」、月刊社会教育1966年1月号。この論文は『戦後社会教育実践史』第1巻、1974年、民衆社、に再録されています。)
勝野時雄さん(故人)は1950年に館長を退任。その後、船橋市に住まわれていた(当時・淑徳大学助教授、ぶんじんも近くの団地に住んでいた)頃、親しくお付き合いした一時期がありました。上記の「われわれがこれからやっていこうとする運動」とは、米林富男・関口存男等の疎開文化人の影響をうけつつ、木曽谷の御料林解放運動、地域民主化運動そして地域演劇活動など。「むらの改革にとりくむ公民館」に記述された歴史は、初期公民館としては異色の歩み、興味深い内容となっています。
妻籠公民館の歩みについては、これに加えて、南木曾町教委・教育長の遠山高志氏による「わが国第1号の公民館とは」(月刊公民館2004年5月号)があります。創設期の詳細な資料が含まれ、その後の町並み保存運動への展開も示唆されていて貴重です。
*追記:あと3号で1900号となります。100号おき恒例のアドレス帳整理をいたします。
心あたりの方で「風・継続」ご希望の方はその旨のメールをお寄せ下さい。あわせて、そち
らからの風も吹いていただければ幸い。
1896号【2007年8月17日】
◆<八重山・竹富から木曽谷・妻籠へ(妻籠レポート1)>
…(承前・1894号)…
この1年、八重山・竹富島に何度も通いました。竹富島についてはいろんな研究分野(民俗学、建築学、文化財保存、祭祀芸能研究、社会学など)の調査や記録がありますが、社会教育の視点からキチンとした報告がまだありません。竹富の集落保存運動や住民自治活動の中核には公民館が大きな役割をはたしてきましたし、ここ数年は新しくNPO「たきどぅん」の興味深い展開もあります。社会教育研究の立場からみて注目すべき動きをもったシマです。
この4月、竹富島の喜宝院蒐集館(日本最南端の博物館)館長の上勢頭芳徳さんと小林が「竹富島憲章と公民館」をテーマに対談。前本多美子さん(東京学芸大学卒、竹富在住)がテープおこしの労をとってくれました。いい記録に仕上がって、いま編集中の「東アジア社会教育研究」第12号に収録予定です。お楽しみに。
対談のなかでいくつもの新しい発見がありました。その一つは、小さな竹富島が、現代史のなかで島を超えての政治・経済の大きな波をかぶってきたこと(たとえば日本復帰前後の本土リゾート資本による土地買い占め等)、それに抗するシマ共同体としての自治・自衛の果敢な取り組みがあり、呼応して島の切実な思いをうけて支援してきた本土側の民芸協会や町並み保存運動等との出会いがあったことなど。
竹富島の「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」憲章づくりの源流には、木曽の妻籠宿を守る住民憲章「売らない、貸さない、壊さない」の三原則がありました。全国的な町並み保存運動の支援とともに、直接に妻籠の人たちと竹富島との熱い交流も重ねられてきました。
ご承知のように、木曽谷・妻籠宿の戦後史のなかでも公民館がいち早く登場しています。「わが国第1号の公民館」とも言われ、戦後最初の公民館全国表彰(1947年)も。竹富島との関連で、いまあらためて妻籠公民館の歩みに強い関心をもっています。貝塚への全国集会の前日(24日)、妻籠に一泊して資料を調べ当時の話を聞き取りする計画をたてています。関心をおもちの方はご一緒いたしましょう。(つづく)
*16日午後から夜にかけて、「東アジア社会教育研究」第12号編集の最終(再校)作業はさきほど無事終了しました。ご参加の皆様、お疲れさまでした。残りの作業については、江頭晃子さん、どうぞよろしくお願いします。最後の頑張り!
1895号【2007年8月15日】
◆<暑中の資料ご恵送御礼>
木曽谷・妻籠宿の町並み保存運動とその歴史背景に脈動してきた妻籠公民館の歩みを載せるつもりでしたが、その前に、暑中に頂いている貴重な報告・資料等の御礼を(遅ればせながら)書くことにします。ほんらいは一つひとつ礼状を書くべきところ。しかし猛暑のなか筆をとる気力を失い・・・、本欄にまとめてご紹介申しあげることで御礼とします。
一つは、千葉県立布佐高等学校で教鞭をとっておられる鳥塚義和さんから恵送いただいた「糸をつむぎ布を織る」(社会科授業づくり研究、2007年7月発行)。ご承知のように「授業が楽しくなる歌と演説」「十五年戦争・教材発掘あれこれ」(いずれも日本書籍刊)など、歴史を彩る歌の世界の教材化のお仕事が中心かと思っていたのですが、「この間、私が一貫して教材開発で力を入れてきたのが、糸を紡ぎ、布を織ることを生徒に体験させる“ものづくり”の授業である」(はじめに)と。限定百部の私家版、カラー写真もふんだんに挿入された力作!。
山口県宇部市からは「ボランティア・カレッジ(セミナー)30周年記念誌」(2007年4月)。ちょうど沖縄研究を始めた頃(30年前)から山口県社会教育研究会にも毎年出かけてきました。その流れで宇部市のボランティア連続講座が発足。大橋謙策さん(日本社会事業大学長)とコンビで通った自治体です。30年の記録をみると、やはり継続し蓄積することの価値を実感させられます。
星山幸男さん(東北福祉大学)からはイギリス在外研究のレポート、小林繁さん(明治大学)の障害者・学習権保障についての報告書、石原照盛さんから邑楽町の集団訴訟(建築ジャーナル6月号)、茅ヶ崎の西山正子さんは「息吹き」284号など、有り難うございました。西山さんの添え書きに、8月下旬・貝塚「全国集会にはいらっしゃらないのでしょう?」とありましたが、もちろん出かけますし、竹富島公民館についての特別報告もいたします。環境省制作(特別提供)竹富島DVDも上映が確定しました。
なお風1883号(7月26日)本欄にご紹介した「同時代人との出会い」のご本人、鈴木茂夫さん(立川市)にも本号より送信することになりました。そのうち立川からの風が吹いてくることでしょう。
1894号【2007年8月13日】
◆<することの山ほどあれど・・・>
暑い日が続いています。皆さま、この夏お元気にお過ごしでしょうか。北海道からの涼しいお見舞いの風、有り難うございました。南の沖縄本島では、気圧の谷に積乱雲が発達し、強風とはげしい雷鳴、この数日は記録的な豪雨となったそうです。
東京は梅雨明けが遅れ、その後は連日の猛暑。蒸し暑く夕立の気配もなく、涼風などどこかに消えてしまった。「夕涼み」の言葉も最近は死語になったみたい。その昔、誰かの「することの山ほどあれど夕涼み」の句を想い出すのみ。
そんな夕べ、月刊社会教育9月号を開いたところ、久しぶりに徳永功さんの一文。「小川利夫先生を偲んで」の追悼文でした。小川さんとの出会いとなった「三多摩社会教育懇話会」についての興味深い証言。徳永さんは、「三多摩社懇」のなかで小川先生が「…次第に社会教育をライフワークにしようという考えを固めていったのだ、と小生は推測している」と。このくだりなどを印象深く読みました。
今年の夏は、福岡・油山にこもって、書庫の整理に精出すつもりでした。農中至くんに「手伝ってほしい」と頼んだ経過もあります。しかし、ことはすべて思う通りに進まないのです。思わぬことが重なって、久留米に出かけても、油山の寓居には1泊したのみ。蝉しぐれの庭に、打ち水でもして、ひとり冷えたビールの栓を抜きながら、夕涼みしたい思いでしたが、来年の楽しみにとっておくことにしましょう。
昨年より八重山・竹富島について少し調べる機会がありました。関連して、この8月は木曽谷・妻籠(公民館)への関心を深めています。このことを本欄に書くつもりでしたが、ついこの駄文(暑中お見舞い)が長くなり、次号以降に載せることにします。
1893号【2007年8月11日】
◆<南の島へ、夜の散歩>
夜のしじま、自由なひととき、酔っているときもありますが、南の島々へ散歩に出かけます。小さなシマ・集落が、それぞれに個性的なホームページを創り出す時代となりました。自治体が行政として開設しているサイトよりも、シマ共同体の、思いのこもった手づくりページの方が断然面白い。まず、南の新聞の見出しにしばし遊んで、次に南のシマジマのサイトを訪問する習わし。1日の終わりの日課となりました。
「お気に入り」に入れているサイト、たとえば、まずは古宇利島、平敷屋(公民館)、久高島、そして竹富島(NPOたきどぅん)など。毎日のブログ更新は、なんといっても古宇利島「ふいの島日記」(小浜美千子さん・前区長)。風「ぶんじん日誌」もこの日記に触発されるところがありました。この一ヶ月、前にも増して活発な書き込みが続いているのが竹富島「たきどぅん」「ゆがふ館」サイト。はるか南の島のページに、8月4日(東京で行われた)法政大学沖縄文化研究所連続講座を「受講しました」という記事が、間髪を入れず掲載されたのには驚き!
4月の定例研究会にお出でいただいた有田静人さん(東京竹富郷友会)が八重山毎日新聞(2007.8.6)に書かれた記事も、NPOたきどぅんの「只今活動中!」に紹介されています。8月19日開催の第82回東京竹富郷友会総会・懇親会の案内(会場・品川きゅりあん)。当日の予想出席者数は約400人と。「…旗頭入場や来賓、会員を世迎え唄(とぅんちゃー)で迎える。“旗頭ぬ願いぬ儀”で座を清め、庭の芸能、舞台の芸能、けーらし踊りおーら(皆で踊り楽しもう)と続く4部構成」とのこと。賑やかな1日となりそうです。
風1883号に既報の通り、私たち研究会にもご招待を頂きました。さきほど有田静人さんに電話。ぶんじんの他に数人出席したい旨、お願いしておきました。席を用意していただくとのことです。
1892号【2007年8月9日】
◆<南の島の新聞>
沖縄の新聞(琉球新報、沖縄タイムス、八重山毎日新聞など)を読んでいくと、友人知人の名前がいろいろと出てきます。それだけに読んでいて面白い。東京の名だたる大新聞は、毎日40ページ前後も配達するのに、知っている人の名はほとんど見かけない。もちろん全国紙と地方紙の違いにもよりますが、誌面のつくり方の姿勢も関係しているように思われます。地域や暮らし、集いや活動など、人々の生の動きを記事にする視点、いわば小さな虫の目をもって新聞をつくる意欲が弱いのではないかと。
山口真理子さん(調布市図書館司書)は、研究会など会うたびに琉球新報の切り抜きを持ってきていただきます。ぶんじんは沖縄タイムスを読み、真理子さんは新報を購読、分担して沖縄の動きをキャッチしようと努めた一時期がありました。その後、主要な記事は各新聞HPで読めるようになって、その中から「風」に折々の【おきなわ短信】(もうすぐ400号)を連載しているのはご承知の通り。真理子さんは辛抱強く購読を続けて、今なお小さな地域記事の収集が続いているのです。
6日の第12号校正作業の日に持参された新報切り抜きは、「風」に載せたものもありましたが、それ以外に面白い(新聞社HPに載らない)記事がたくさん。たとえば平田大一(和光大学卒)「舞台で子に光を」(肝高ホールで講演)、島袋正敏「名護にギャラリー」(みんたまあ=目玉)、赤崎隆三郎「晴読雨読」(奄美の島々の楽しみ方・書評)など。他に、憲法九条の碑づくり(宮古島市の公園、南風原町中央公民館)、字公民館をめぐる動き、戦争体験記や字誌等の出版情報、書評など。いずれも7月から8月初頭にかけての切り抜きでした。
そういえば、山城千秋さん新刊『沖縄のシマ社会と青年会活動』(エイデル研究所)も中村誠司さんがどの誌かに書評されたそうですが、ぜひ「風」に紹介したいもの。送っていただきませんか?
1891号【2007年8月7日】
◆<久留米へ>
久留米は(沖縄風に言えば)我が生まり島。福岡に帰った折り、時に久留米の実家に寄ったり、盆などにはお寺の墓に参ったりしてきました。ところがこの間、妻の入院騒ぎがあって、この夏はまだ一度も九州入りしていませんでした。
いい話が重なるのは嬉しいことですが、悪い出来事も重なるもの。実家を守ってきた妹が突然に入院したのです。妻に遅れること1週間ぐらいの日程、ほぼ同じ日数(1ヶ月半あまり)の病院暮らし。そして6日めでたく退院しました。この間、東京を離れることができず、一度も見舞いに行けず、下の妹たちに任せたまま。今日、やっと退院祝いにかけつけたという経過です。やれやれ・・・の思い。
東京では6日の午後から夜にかけて、「東アジア」研究年報第12号のゲラ読み合わせ、集中的な校正作業を行いました。暑い夏の日、「風の部屋」に集いしもの6名。それぞれの仕事があるのに・・・声をかけあい思いをよせあって・・・まことにご苦労様でした。
この作業が終わったら、東京も一段落、いざ久留米へ・・・と思っていたところに、無事退院!の朗報が届いたという次第。いい話も重なるものです。ご一統様には、いろいろご心配をおかけしました、これですべて一件落着、皆さまお手を拝借、いよ〜!えいやえい〜!という気分。
といっても、第12号の校正作業がすべて終わったわけではありません。次のゲラ再校、日程は旧盆明けの8月16日(木)午後〜夜、となりました。編集事務局の皆さんだけでなく、ご都合のつく方があればご協力のほど、どうぞよろしくお願いします。
1890号【2007年8月6日】
◆<公民館による住民憲章づくり>
風・前号に引き続き、八重山「白保ゆらてぃく憲章」の続きを掲載する予定でしたが、私たちの第131回研究会や「茅ヶ崎市公民館の指定管理者制度をめぐる」集いなどの記録が寄せられましので、速報的にこれらを先に載せることにしました。ご了承ください。
「白保ゆらてぃく憲章」については、すでに風1798号(本年2月28日、八重山毎日新聞記事)、1799号(同
3月 2日、新垣重雄氏解説)で取りあげています。ご記憶の方もあろうかと思います。八重山・石垣市白保(新空港問題で揺れてきた集落)の自治公民館によって作成された住民憲章です。先月の竹富島訪問の帰途、石垣市役所前「しまそば一番地」(新垣重雄さんの店)で、白保出身の宮良操さん(同市議会議員)から、実際の取り組みの話を聞き、経過資料・本文を頂いてきたものです。
いまとくに八重山の集落が当面している“地域課題”に対応して、住民自治的なエネルギーによって作成される住民憲章の動き。なかにはムラの「憲法」と称している例もあります(宮古・来間島)。その基盤にあるのは集落公民館の活力です。今年4月には「鳩間島憲章」も報じられました(風1824号に既報)。先輩格の事例はもちろん「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」の保全優先の基本理念を打ち出した竹富島憲章(1986年)。HPにアップしている竹富島憲章のサイトに、あらためて上記各集落の住民憲章の動きを資料的に並べておきました。ご覧下さい。関連して、有名な久高島の土地総有制に関わる「土地憲章」(1988年)もありますが、また別の機会に。
1889号【2007年8月4日】
◆<12号奮闘中!>
TOAFAEC 「東アジア社会教育研究」第12号の編集実務を担当している江頭晃子さん(アンティ多摩)、いま奮闘中。暑い毎日、ご苦労さまです。この「風」には載せていませんが、編集メールのやりとりが続いています。予想した以上に順調な進行、期待した原稿がすべて集まって、それだけに嬉しい悲鳴! この間の江頭さんからのメールを一つ(Wed,
01 Aug 2007 09:57)ご紹介しておきます。
「…(略)…今号はかなりのページ数で、しかも図表が多く、編集作業は苦戦しております。南の風一覧など一部が未入稿の状態で既に250ページです。最終的には280ページぐらいにはなるかと思います。石油高の影響で紙代も値上がりしており、印刷費も昨年増しになりそうなので、山口真理子さん(会計)を含めて検討が必要かと思います。…
」
これまでの年報の中で、もっとも厚い仕上がりになる気配。経費的にどう対処していくか。財政的な条件をもたないTOAFAEC
としては一番の泣き所。事務局だけでなく、役員諸氏としても智恵をしぼっていただきたいところです。
今晩(3日)、先ほどまで第131回定例研究会そして暑気払い。みんなの検討課題として話題にしようとも思っていましたが、酔うほどに忘れて・・・帰宅して思い出し、本欄にしたためた次第。いずれページ数が確定し概算が出た段階で皆さんにご相談いたします。
1888号【2007年8月3日】
◆<上海との電話>
8月1日深夜、久しぶりに上海の呉遵民さん(華東師範大学)と電話で話しました。私たちの「新上海本」(『現代生涯学習論―学習社会構築への架橋』、呉・末本・小林共編、上海教育出版社)最終点検の作業中とのこと、裏表紙に掲げる編者の簡単な紹介文についての問い合わせでした。
ご承知のように、私たちは2003年秋に上海で『現代社区教育の展望』(編者・出版社は同じ)を出版いたしました。自治体の典型的な事例(川崎、松本、大阪、三多摩、那覇)を含め、日本の地域社会教育を本格的に取りあげた最初の中国書。その評価があったからでしょう、姉妹本として「新上海本」が企画されたのです。日本側の執筆がおくれて呉さんはじめ出版社に迷惑をかけましたが、いよいよ刊行間近かとなったようです。今回の「新上海本」に登場する日本の地域事例は、名護(集落)、愛知川(図書館)、師勝町(回想法)、鶴ヶ島(自治体計画)、多摩(NPO)。加えて、韓国「平生学習」の躍動も収録される予定。
呉さんとの電話では、短い時間でしたが、いま川崎を会場に「韓国生涯学習研究フォーラム」が活発に動いていること、この研究会を舞台に新しい本づくりが構想されていること、そのうち中国向けの出版についてもお智恵を拝借したい、などと話しておきました。
上海でもその後「成人教育」「社区教育」関連の研究活動が活発なようです。久しぶりに葉忠海さん(上海成人教育協会、元華東師範大学)のお名前も出ました。上海はたいへんな猛暑!39度とか。すこし涼しくなって(10月頃か)中国訪問・研究交流の旅を企画したいもの。
▼左・呉遵民さんと(上海・西郊賓館にて、20051023)
1887号【2007年8月1日】
◆<8月3日・第131回定例研究会>
8月となりました。東京はまだ梅雨明け宣言なく変則的な気候ですが、ここ一両日は雷鳴とどろき、明らかに夏の風。あらためて暑中お見舞い申しあげます。天変地異、政治激動、人心は躍動? ビールはうまい!
参議院選挙日程変更の余波で、私たちの定例研究会は7月開催ができませんでした。数えて第131回研究会、8月3日(明後日)に移動しての開催です。恒例の交流会では暑気払いも予定、ふるっての来会をお待ちしています。どなたも歓迎!(とくに最近「風」に新しく参加された方々、もしご都合がつけば、ぜひお出かけ下さい。)
会場は、杉並(いつもの高井戸区民センターでなく)永福です。ご注意下さい。HPに地図を掲げています。
8月は夏休みの季節。しかしTOAFAEC 事務局にとっては、毎年「研究年報」編集のため、忙しい毎日となります。8月6日が編集事務局会議(西永福・風の部屋)。今年は加えて「韓国生涯学習研究フォーラム」が新しい企画を始動中。8月4日に第4回研究会が開かれます(川崎市高津市民館)。
このような研究会活動が、できるだけ(閉鎖的でなく)開かれたものになるよう、「南の風」にもご案内し、関心ある方々の幅広い参加を歓迎してきました。また研究・学習だけでなく、お互いの交流・懇親にも大きな努力?を傾注してきました。参加者のなかには交流会だけ参加の方もあります。楽しみにお出かけください。
そして8月下旬は社会教育研究全国集会の季節。稲富和美さんメールのように、今年は第47回・関西(阪奈和)集会、メイン会場は貝塚。お互い元気に夏を過ごし、貝塚でお会いしましょう。
1886号【2007年7月31日】
◆<師弟関係の共闘>
沖縄の山内徳信さんが見事当選されました。上地武昭さんからもメール来信。眠れなかった一夜だったそうです。比例区の票数が判明し当選が確定したのは30日未明。その瞬間、支持者の歓喜が爆発し、山内さんも、これ以上ない喜びだと感動の一幕だったそうです。しかも沖縄選挙区で当選した糸数慶子さんは、読谷高校教諭時代の教え子、当選後初めて顔を合わせた二人は「良かったねえ」と手を取り合い、「互いに相乗効果が出る。一人欠けてもいけない」と、師弟関係の共闘を誓ったとのこと。(沖縄タイムス
7月30日夕刊記事)
山内徳信さんへの思い出は少なくありません。私たちの初期沖縄調査(1977年〜)の当時、徳信さんはすでに読谷村長でした。あの懐かしい古い役場の村長室で、基地問題や地域づくりの話を聞きました。ある日、旧日本軍飛行場跡のキビ畑の上に米軍落下傘の降下訓練、その現場に駆けつけ、村長自ら抗議する激しい姿が脳裏に焼き付いています。
ご出身は読谷村の残座です。思いのこもった字誌『残波の里』(1974年)編集では、実質的に中心的役割を担われました。字誌運動の中では早い時期の名作というべきもの。私たちの『民衆と社会教育』(1988年)序文の冒頭に引用させていただきました。
今度の選挙への出馬に向けて「山内徳信さんを励ます中頭OBの集い」が開かれた当日(2月13日)、同じ会場で時間をつくっていただいて地域青年団運動の証言を聞きました。短い時間でしたから、一段落されたら再度お話しくださるよう、お願いしています。
▼山内徳信さん(右)、地域青年団運動の回想 −沖縄市かりゆし園、20070213−
1885号(2007年7月30日)
◆<7月29日の日誌>
いま参議院選挙の投票速報真っ最中。与党惨敗、驚くべき大差となりそう。沖縄では、知事選で苦杯をなめた糸数慶子さんが雪辱、比例区で出馬の山内徳信さんの結果がまだ聞こえてきません。また、東京(5人区)がどうなるか。今晩はなかなか眠れそうにない。まずは本号を送信することにいたします。
本日(29日)の日誌。第35回目の原水禁運動(安井家)資料研究会、前回は欠席しましたので、安井家は久しぶりでした。故安井郁氏の愛弟子だった甲山員司さんがお見えになり、今後の安井資料データベース化へのご協力について相談できました。また杉並の女性史研究グループから石崎昇子さん(専修大学)など3人の方が来会され、賑やかな1日となりました。石崎さんたちのグループは、先月「女性と地域の活動−杉並母親運動の史料から」(戦後女性史研究・和の会編、A4版、155頁)を公刊されています。私たちの安井資料研究が今後どのような成果をまとめていくことができるか、これからの課題です。
帰宅してみると、風へのメールがいくつか着信。有り難うございました。次号に掲載させていただきます。一つだけご紹介。「東アジア社会教育研究」第12号(韓国特集)予定の原稿、半ば諦めていた梁炳賛氏(韓国・公州大学)「平生学習・専門職員(平生教育士)をめぐる動き」論文が届いたそうです。朗報です。残された時間は少なく、第12号に向けて大至急の翻訳をお願いします。金侖貞さん、ご苦労さま。暑い毎日ですが、どうぞよろしく。
▼左より4人目(前列)甲山員司氏、5人目(後列)石崎昇子氏(安井家、20070729)
1884号【2007年7月28日】
◆<日中戦争70年>
7月27日夜、渋谷で久しぶり来日の葉淑華さん(台湾・高雄)歓迎会、妻・富美も出席しましたので、合わせて退院祝いのような会になりました。珍しくカメラを持たず記念の写真なし。葉さんのデジカメから帰国後に送信していただくことになりました。
ところで、当方のメール・ボックスに滞留している幾つかのフアイルのかたまり。「風」誌面に余裕があるときに載せようと思いながら、突然の訃報ショックもあり、なかなか紹介することができません。この際、お詫びして、新しいものだけ項目のみ。
東京世田谷・三宿中夜間学級の関本保孝さんから(Fri, 27 Jul 2007 22:30)。「映画“蟻の兵隊”の池谷薫監督からのお知らせです。昨年は(そして現在も)日本の侵略戦争を告発するこの映画が大きな反響を呼びましたが、今度はそれが本になったとのことです。」
タイトル:『蟻の兵隊−日本兵2600人山西省残留の真相』(新潮社)
今年は日中戦争(1937年7月7日−廬溝橋事件に端を発する)から70年です。上海から南京を攻めた日本軍による「南京大虐殺」は70年前の12月でした。
中国週報288号(7月27日)収録ニュース。
南京や上海では、米国AOLが制作した南京大虐殺のドキュメンタリー映画「南京」が大入りを続け、これからさらに中国各都市での上映が予定され、上映期間は年末にまで及ぶだろうとのこと。(北京7月25日
新華社発)
関連して今朝(28日)の朝日・文化欄の記事。日中戦争に駆り出された予備役部隊指揮官の記録が出版された。『第百一師団長日誌』(中央公論新社)。ほとんど訓練もないままの「老兵」部隊、行軍も難しく規律の乱れ等の既述が目立つ。南京事件など異常な事態を招く背景をうかがわせると。
1883号【2007年7月26日】
◆<同時代人との出会い>
私は同窓会への出席があまりよくありません。まして「名教会」(名誉教授の会)などには出ないようにしています。それより、溌剌とした若い世代(女性とは限らない)との出会いを優先してきました。ところがこの1ヶ月、同世代とのいい出会いあり。いまなお若く、こんな刺激的な人がいるのかと、つくづく感嘆させられました。
鈴木茂夫さんという方が6月に『早稲田細胞・一九五二年』(同時代社)を出版されました。送っていただいた本の奥付をみると、『台湾処分・一九四五年』『アメリカとの出会い−ボクの戦後日記』等の自分史的な著作(いずれも同時代社刊)もある人。同時代社は、故横山宏さん『社会教育雑記』(1985年)を世に出した出版社。なにより鈴木さんは1931年の生まれで、激動渦巻く同じ時代にともに学生、ぶんじんとは比較にならない稀有の学生運動(早稲田細胞)を体験された方です。
早稲田(第一文学部ロシヤ文学科)を出て、TBSに入社、テレビニュース、チーフディレクターとしての道を歩んでこられました。立川市在住、現在は「たちかわ市民交流大学市民推進委員会」会長。いくつか話しているうちに、私たちが原水禁運動・安井郁資料の研究をしていることに話が及びました。鈴木さんから、1954年の第五福竜丸の被爆、杉並荻窪の原水爆反対署名運動、広島の原水禁世界大会などを取材したことがある、安井郁の肉声をデンスケ(録音機)に記録し、久保山愛吉の苦しい呼吸を聞いたこともある、などなどの証言。いちど私たちの会にお出でいただけないか、当時の録音記録を聞かせていただけないか、とお願いしておきました。
『早稲田細胞・一九五二年』の送り状に、「…ご一覧のうえ“よし”とお思いの際は、ぜひとも周囲の方々に本書の宣伝・普及の労をおとりいただければ望外の喜び…」とありましたので、本の推薦を含めて、同時代人として、思わずこの一文を書いた次第。
▼右端・鈴木茂夫さん(「武蔵野文庫」前、070616)
1882号【2007年7月24日】
◆<小川先生告別式、台湾・葉さん歓迎会>
7月24日の小川先生告別式(東京・稲城・醫王寺)当日は、お通夜から一転して、さわやかな晴天。元気なころの小川さんを思わせる晴朗な風、日ざしも強い1日となりました。この日、朝日新聞の朝刊は簡単な訃報を載せ、「後日、しのぶ会を開く予定」とあったせいか、心なしか参列者は少ない感じ。しかし全国から主だった顔ぶれの焼香が続きました。棺に花を捧げてお見送りしたあと、北田耕也、徳永功ほかの皆さんと、駅近くのソバ屋でしばし昔ばなし。
話に出てくる小川さんは、いつもお酒を飲んでいて賑やか。すこし我が儘ながら少年の稚気あり。まことに情あつく、まわりに元気を振りまいてきた人でした。享年81才。しかし、晩年の
10年ほどは(5度の大手術を含む)病床にあり。あと少しお元気でいてほしかったというのが、多くの知己後輩共通の願いだったのです。
南の風は、小川さん逝去の衝撃から、連日の慌ただしい送信となりました。いくつかご案内も滞っています。台湾・高雄の葉淑華さん(陳東園さんのつれあい、高雄第一科技大學教授)がいま東京(杏林大学)に滞在中。2005年5月の訪台の折りには、「歓迎!東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」の赤い横断幕を掲げて歓待していただいた方。ちなみに陳東園さんは東京学芸大学・小林研究室(当時)最初の台湾留学生。現在は台湾「国立空中大学」(空中=放送)の有力メンバー、TOAFAEC
研究年報・編集委員です。葉淑華さんを囲む歓迎会を次のように企画しました。参加ご希望の方はぶんじん宛ご一報を(要会費)。
日時:2007年7月27日(金)午後6時〜
場所:京風料理「いらか」(渋谷・東京プラザ9階) 03-3463-3643
▼小川利夫先生ご葬儀
1881号【2007年7月23日】
◆<『心のリハビリ通信』>
小川利夫先生の訃報が伝わって、「南の風」の皆さんにもご縁があった方が多く、この一両日、各地から追悼の思いが寄せられています。太田政男さん(大東文化大学)も、風・前号を受けて「…小川先生のことはほんとうに残念でした。…ぼくもブログに書かせてもらいました」と「巨星墜つ」の一文を送っていただきました。はじめてブログ「酒中日記」拝見、当方の素人じみたものでなく、洒落たページ制作に感じ入った次第。いただいた文章の前半を紹介させていただきました。
22日は終日、『心のリハビリ通信集成』(小川利夫著、創刊号〜第50号、私家版、2003年2月刊)を開いていました。「唄ごよみ−老いの日々」のなかの1首「いたずらに 駄文をのこす こともなし されどヨミ、カキ 生き甲斐なのさ」(2000年9月24日)とあるように、病床にあってなお衰えぬ「読み書き」の意欲と記録化への執念、心打たれるものがあります。
「創刊の辞」(1996年9月1日)の冒頭には「昨年の五月初旬に大病にかかって…」の書き出し。「あとがき」2003年1月15日の日付。「大病」から今年まで、12年間余を頑張ってこられたことになります。
この「集成」の終わりちかく、私たちが名護・全国集会(2002年9月1日)の会場から送った寄せ書きが掲載されています(第44号、332p)。「集会成功!ぶじ終わりました、いい集会でした」とぶんじん。平良研一、新城捷也、喜納勝代、名城ふじ子、中村誠司などの沖縄側と、社全協常任委員会メンバーの皆さん、合わせて30名ちかくが書いています。あのとき沖縄では、みんなで小川先生の笑顔を待ち望んだのでした。
1880号【2007年7月22日】
◆<日本公民館学会七月集会に届いた訃報>
悲報はいつも突然に私たちを襲います。7月21日、日本公民館学会−今年度の七月集会(「公民館の今日的課題と可能性−赤平市の公民館の事例をめぐって」法政大学)のプログラムが終了し、懇親会に移って、楽しい歓談の最中のこと。小川利夫先生が亡くなられたと。巨星墜つ!とはまさにこのことです。
戦後日本の社会教育研究のなかで大きな山脈を築き、新しい水脈を拓いてこられました。名古屋大学教授、そして社会教育推進全国協議会委員長、日本社会教育学会会長等を歴任され、多くの後進を育ててこられました。
大作『小川利夫社会教育論集』(亜紀書房、全8巻、1992〜2002年)各巻に付された「月報」4(1997年1月)に、ぶんじんは次のように書いたことがあります。
“社会教育の深い森のなかへ”
「…ふりかえると私の人生の重大な岐路に、小川さん(こう呼ばせていただく)は、少なくとも二度登場された。一度は、私を社会教育研究に誘惑し、その得体のしれない深い“森”に連れこんだ人として。あと一度は、索漠たる東京からようやく念願の九州の大学に帰郷しようとしたとき、それを断念させてしまった人として。…」
大恩人です。1960年の出会い(第7回社会教育学会、於九州大学)から40年あまり親しくさせて頂きました。たくさんの想い出があります。ときに叱られ、いつも励まされ、よく語り飲み歌い、また若輩の身ながら激論も許して頂きました。はるかかなたの、あの笑顔に、心からの御礼を申しあげます。
1879号【2007年7月21日】
◆<退院ご報告>
私事ながらご報告。妻・富美は怪我も癒えて、20日午後、無事退院いたしました。ちょうどTOAFAEC
総会(6月3日)夜の事故、皆様お騒がせしました。あれから50日近くの病院ぐらし。杖でなんとか歩ける状態となり、いま階段の昇降を1段づつ訓練しているところです。それにしても、一応順調に経過して助かりました。これからはゆっくりとリハビリを楽しむことになります。
この間の皆様からのお励ましとお見舞いの言葉、まことに有り難うございました。本人になりかわり、この場をかりて御礼申しあげます。
ついでに私的な電話をいくつか。中国・広州の李偉成さん(広州市教育局研究所)から、20日朝、突然の電話で「先生、東京にいます!」と。驚きました。福岡に入国し各地をまわって、東京はわずか半日の滞在、20日午後2時に成田から帰国だそうです。広州の高校生たち
80人余りを引率しての旅。疲れたことでしょう。「皆さまによろしく」とのことでした。慌ただしい電話で、12号・原稿の件(応答なし)については聞く余裕がありませんでした。
12号原稿のうち、「沖縄祖国復帰運動と青年団」証言・登場人物の肩書き確認のため、那覇の東武さん(もと沖縄県青年団連絡協議会々長)に電話をしました。「いま東京です!」とのこと。これにも驚きました。職場の労働組合関連の用事とか。沖縄から日帰りの出張だそうです。それぞれ皆さん活発に動いていて何よりです。
明日(21日)は午後1時より日本公民館学会「七月集会」(会場:法政大学市ヶ谷キャンパス・58年館878A教室)。詳細は学会HPを。南の風第1865号にもご案内を載せています。
1878号【2007年7月20日】
◆<プライドのある自立を目指す>
奈良の田中伸一くんから久しぶりのメール。ぶんじんゼミ卒業生のなかでも気になる存在です。いつもは音沙汰なく、便りが来れば長文。別に頂いているメールは次号にまわして、そのまま全文を掲載しました。「生きてます」とのことで安心しました。
彼のことは、今年4月、阪奈和集会・プレ集会の際、奈良で会って本欄(1823号、4月16日)に書きましたので、ご記憶の方もあろうかと思います。公民館(奈良市生涯学習財団)職員でしたが、このほど大きくジャンプして、NPO(地域活動支援センター)「ぷろぼの」へ。
「ぷろぼの」(Probono)とは、ラテン語で “公共”“公益”“よき社会”などの意味だそうです(HPより)。「中途障がい・難病はじめ全ての障がいをお持ちの方に、奈良県ではじめて本格的なIT習得ができることを目指しています。障がいをお持ちの方が尊厳や生きがいを持って生活するために、地域社会への参加や就労ができるようにお手伝い」していくとのこと。目標(理念)としては「プライドのある自立を目指して」、福祉のこころを大切にし“目指せIT職人、月収10万円”を求めていると。新しい道への挑戦、期待しています。
同じ奈良で仕事をしている稲富和美さん(同財団・生涯学習センター)、長文でなくて結構ですから、阪奈和集会の準備を含めて、近況を風に寄せてほしいな。集会・第2日夜「この指とまれ」のなかで、久しぶりにみんなで顔をあわせる呼びかけをしてはどうでしょうか。
1877号【2007年7月18日】
◆<第12号・新しいステップ>
TOAFAEC (東京・東アジア・沖縄・社会教育研究会)−最近「風」には新しい方の参加もありますから、久しぶりに正式名称を−の研究年報は1996年に創刊。財政的な条件も拠るべき研究組織も(たとえば研究財団や大学・学会等)まったくない、ただ東アジア・沖縄研究への思いと心意気だけで、スタートしました。毎年9月18日(15年戦争・満州事変が勃発した日を忘れない!)を発行日に定めて、その前後に開かれる日本社会教育学会の大会当日にお披露目。今年で第12号を迎えます。海を越えて毎号20〜30人の執筆者・翻訳者、200〜250頁、よく続いてきたものです。
本年度第12号の編集作業では、画期的なことがありました。原稿締切(デッドライン)が7月15日、その2日後の17日には予定された原稿がほぼすべて集まりました。個人的にも社会教育関連の出版や雑誌発行に30年余り関わってきましたが、まさに初めてのこと。編集実務担当の江頭晃子さんから原稿集約の報告を受けて、しばし目を閉じ、過ぎ来し方を想起しつつ、感激ひとしおのひとときでした。
原稿締切り日は、例年より1ヶ月近く早く設定したのです。「それは無理だろう・・・」と事務局会議で言ったのを憶えています。これまでの慣行では、原稿締切は守るためにあるのでなく、遅れる目安にあるようなパターンが常習化してきました。そのため初期から編集実務を担当してきた内田純一(高知大学、初代事務局長)、石倉祐志(前事務局長)お二人等の個人的な奮闘と犠牲によって、なんとか9/18刊行を実現してきた歴史でした。
原稿執筆への御礼とともに、TOAFAEC として新しいステップを刻むことが出来たことに深く感謝! この事実をみんなで記憶して、これからの歩みに活かしていきたいものです。
1876号【2007年7月17日】
◆<古酒カメを開くときめき>
劇団「ふるさと・きゃらばん」の石塚克彦・作詞、寺本建雄・作曲による「結婚は白い花」は「ミュージカル・ザ結婚」の主題歌。小峯さんがメールに書いてきた歌詞には、すこし小峯みずき作詩の部分がありますが、そのままにしておきました。
ぶんじんの歌は、いつも歌い出しが調子はずれ。それでも若い人の結婚お祝いの会に招かれると、下手でも臆すことなく、思いを込めて、歌うことにしています。いつの間にか、ゼミ卒業生などの会では定番の歌となりました。14日七夕の会では、ふるきゃら・八朔友二のギター伴奏でしたから、これは間違いなくほんもの。
とくに二番目の歌詞「〜どんな空を 飛んで行くのか それは成り行き風まかせ」の楽天的なところが面白い(と思っている)。ところが十年ほど前、台湾からの留学生・楊恵芳さんの結婚披露宴(台北)で歌ったところ、この部分は新婦には不評でした。風まかせ、ではなく、もっと主体的に飛びたい、という気持ちだったのでしょう。そんなことを想い出しながら、久しぶりの「ザ結婚」を歌いました。そういえば、今年は新しいご参加の方もあり、案外と未婚の人が多かったような。
二次会のメイン・プログラムは古酒カメを開いたこと。新しいカメから古酒を汲みました。きわめて好評! 風の部屋には、やんばるから届いている三つのカメがありますが、それとは別に、数年前ある人が突然送ってくれた5升カメ(瑞穂、43度)が未開封のまま温存してあったのです。初めてカメの蓋を開けるとき、そのときめき。カメから汲んで口に含むとき、どんな“新しい古酒”なのか、ドキドキ。新しい恋人に会うような思いです。
台風4号に続いて、16日午前に新潟・長野で大地震あり。日本列島はいま天変地異の様相。皆様のまわりに被害のないことを祈っています。
▼古酒カメを囲んで(風の部屋 070714tanabata5)
1875号【2007年7月16日】
◆<2007・七夕の会>
沖縄・九州を経て、大型の台風4号が東上する中、14日の七夕の会には各地から、いろんな方にお出でいただき、まことに有り難うございました。久しぶりに会えるのではないかと期待されていたアーデル氏は、発熱のため不参。そう言えば、雨の季節になると体調はあまり良くないとの話を前に聞いたことがあります。1年に1回ぐらいしか雨が降らないエジプト生まれには、日本の強雨は「怖い!」とか。電話の声は、かすれていました。「皆さんによろしく。来年の新年会には(秋に来日予定の家族と一緒に)上京します」とのこと。
喝采を受けたのは、沖縄(伊江村)から参加の赤崎隆三郎さん、滋賀・愛知川の渡部幹雄さん、来日中の山東省烟台の張林新さんなど。この日は中国、韓国、モンゴル、そして(店の)ネパール、もちろん日本を含めての多民族の集い。世代的には10代から70代まで。入院中の小林富美も病院から抜け出し、短時間ながら、参加することができました。
“風の部屋”の二次会には、どこ(福井?)からか駆けつけた八朔友二さん(ふるさときゃらばん)など。久しぶりにギターを弾き初恋の歌。「ザ結婚」やモンゴルの歌も出て、午後8時過ぎに賑やかに終了。前後ほぼ9時間に及ぶ酒の座、幹事の皆さま、終日お疲れさまでした。HPに写真を4枚ほど。この日、新潟から届いた大輪の百合があでやかに香っていました。この場を借りて御礼申し上げます。有り難う!
酔いながら戯れに詠んだ句三つ。
◇海越えて来る人もあり七夕に
◇古酒カメを開くときめき恋に似て
◇花の香に包まれて酔う風の部屋
▼風の部屋−最後まで残った人たち(撮影・遠藤輝喜) 写真移動
1874号【2007年7月14日】
◆<社会教育法等の改正論議>
本来この(ぶ)欄は、難しいことは別にして、思うままに書きたいことを好きなように書く、どちらかと言えば楽しいことをさがして書く趣旨。法制論などはあまりなじまないテーマです。しかし、気になりますので、書き始めました。
現政権によって(多くの教育学者の反対にもかかわらず)教育基本法が「改正」されましたが、いよいよ社会教育関係法制についての改訂論議が具体化してきているようです。
「大都市の社会教育の研究と交流のつどい」(今年は第30回)の事務局的な役割を担っている仙台市の今川義博さん(青葉区中央市民センタ−)から、昨日(7月12日)送っていただいたメール。
「日々お仕事ご苦労様です。…(略)… 今日付け「官庁速報」を見ておりましたら,以下の記事がありましたので,お知らせです。…
◎生涯学習振興法などの論点整理へ=社会教育法、図書館法も検討−
生涯学習や社会教育の在り方を見直している中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の生涯学習分科会制度問題小委員会は、有識者を会合に招いてヒアリングを実施し、委員の意見も踏まえた上で、生涯学習振興法などに関し7月中に論点整理を行うことを決めた。今後、週1回のペースで小委を開き、生涯学習振興法のほかに、社会教育法、図書館法、博物館法について検討する。…略…
」(2007年7月12日/官庁速報)
現在の「生涯学習振興整備法」(1990年制定)は、まことに不充分な内容、実質的にも空文化していることは紛れもない事実です。こんな法律が実定法として存在していることさえも知らない生涯学習行政の関係者もいるほど。それだけに、国際的視野をもち、専門的な研究も尊重して、本格的な生涯学習・社会教育の法論議が期待されるところ。しかし、いまの日本の政策動向から見て、逆に問題の多い方向への、性急な法改正の動きが危惧されるのです。
1873号【2007年7月12日】
◆<いま118の風>
南の島・竹富からのご参加、また本号には沖縄北部やんばる伊江島からの来信、ありがとうございます。「南の風」は、こうして南の島々からの「風」をいただいて、いま、ほんものになっていく感じです。
この1週間余り、第12号への送稿メールが相次ぎ、嬉しい毎日を迎えています。韓国の魯在化さんはニューヨークから、ご苦労さま。それへの江頭晃子さんの返信も掲載させていただきました。
原稿に関連して「私信」も頂きます。いつも「私信」の方が面白い(ここに紹介できないのが残念!)。最近は、「南の風」初期メンバーからは(数人の方をのぞいて)ほとんど投稿がなくなりました。各号にあふれるメールは、ほとんど「風」の歳月からいえば後期に参加の皆さん。当然「風」の誌面も性格も大きく変わりました。寂しくもあり、嬉しくもあり・・・、こもごも。
かって50号おき、いま100号おきに「風」のアドレス帳更新をしてきました。送信した「風」が迷惑メールになってしまうことをおそれてのこと。また、せっかくの「風」がそのまま死んでしまうのが残念だから。かってはかなり厳格に“更新”したものです。送信リストに新しい参加者を加えるのは簡単、しかし“死に体”アドレスを探して出して削除するのは大変な作業です。結果的には、この更新作業が今日までの「風」の新陳代謝を助けてきました。マンネリはもちろん避けがたいところ。だけど、ほぼ10年の歳月を通して、どうにか新しい風を出し続けてこれたのは、恐れずに新陳代謝の作業を重ねてきたからでしょうか。
もうすぐ1900号。この峠を越えて、その後の「風」をどう吹いていくか。夜のしじま、独り身の自由、ワインを傾けながら、どうしようかと楽しんでいます。
1872号【2007年7月11日】
◆<うつぐみの島・竹富島>
最近の本欄でお気づきの通り、南の竹富島の動きに強く惹かれています。八重山の海に浮かぶ“お盆”のような島。今年の社会教育研究全国集会(第47回、貝塚市、8月25〜27日)では、あえて若いふりをして、竹富島の報告をすることにしました。題して「竹富島・住民憲章と公民館」(第19分科会「自治と連帯をきずく小地域での活動」)。若いメンバーが多い全国集会のなかでは、おそらく最年長グループの報告者。
ちょうど1週間前、竹富島訪問の最後の日、港のそばの「ゆがふ館」(NPOたきどぅん)で観た「うつぐみの島・竹富島」(いい出来!)のことは、すでに本欄(風1869号など)で書きました。島の自治と協同の軸には竹富公民館、新しく「NPOたきどぅん」も躍動中。DVDはこの島の美しい自然と集落、そこに育つ子どもたち、種子取祭なども記録しています。環境省が企画制作し販売用はなく展示用だけ。そこで(阿佐伊拓さんの知恵もかりて)担当の方に電話し「私たちの全国集会でぜひ観たい、貸し出していただけないか」というFAXを環境省石垣自然保護官事務所へ送りました。うまくいくかどうか?
DVDは60分。他の報告がいくつもある分科会より、夜の「この指とまれ−沖縄を囲む」で観てはどうか、とも考えています。もちろん環境省・石垣事務所が貸し出しを許可してくれたらのこと。分科会世話人・伊東秀明さん(横浜市)のご意見など伺いたいもの。
ちなみに“うつぐみ”とは、漢字で書けば“打つ組み”。お互いの心を通わせ、手をつなぎ肩を組み、ともに協同しあうこと。竹富島の古謡にも“うつぐみ”が歌われ、いま、竹富公民館活動のキイワード。
▼石垣島より“お盆”のような竹富島を望む(20070704)
1871号【2007年7月9日】
◆<名護・シーサーの群像>
南の風は毎号、送信する前に誤字・脱字がないか、一通りの読み直しをしているつもり。しかし、それでもミスが残り、申しわけありません。前号では丸浜江里子さんの<日本のバーネット判決をとろう>の次の行、「…(承前・1870号)…」は「1864号」の間違いでした。ぶ欄の中でも一つ脱字あり、イヤになってしまいます。お許しください。
本号は、7日夜・第12号編集事務局会議のなかで出た話から、最終段階のお願い!です。関係の皆さまのご理解、ご協力をどうぞよろしく。東アジアに視野をひろげた社会教育の研究交流誌は(国内だけでなく東アジアのなかでも)本誌のみ。いささかの自負とおたがいの心意気をもって、ようやく原稿集約までたどりつきました。ご執筆の各位に御礼を申しあげ、引き続きのご声援をお願いします。
さきほど、ホームページ表紙写真の差し替えをしました。今回の沖縄訪問の中で撮った画像の一つ。名護博物館の暗がりに並んでいたシーサー(獅子)群像です。「ものづくり塾」(塾長・島袋正敏)の皆さんが制作中のもの。ニコッと笑っている表情も混ざっていて面白い。シーサー諸君の肖像権も気になりながら、きっとお許しいただけるだろう・・・とアップしました。そのうち「シーサーづくり講座」(作ったシーサーを本土に抱いて帰る)を企画してはどうか、という話も出ています。酒の座の戯れの会話でしたが、案外と興味をもつ物好きがいるかもしれませんね。
▼シーサー群像、名護「ものづくり塾」で制作中 (名護博物館、20070701)
1870号【2007年7月8日】
◆<七夕の夜に>
先月末(6月29日)南の風第1864号に、丸浜江里子さんが「君が代・解雇裁判判決集会参加記」を寄稿されました。その中にバーネット判決のことが記され、あいついで<日本のバーネット判決をとろう>の一文も頂いていました。やや長文でもあり、「沖縄・東アジア」に直接に関わる記事を優先して、掲載しないまま(失礼!)10日が経過。そこに岩本陽児さんから大学図書館で調べたデータが寄せられ、一緒に本号に並べることができました。いつもの倍の長さ、量の多い「風」には、うんざりする方もあろうかと控える習性。恐る恐る?の送信ですが、ご了承下さい。
昨夜(7日)七夕の夜、涼しい風が吹いてきました。私たちの「東アジア社会教育研究」第
12号の編集事務局会議(風の部屋、6人参加)。原稿は順調に集まっている・・・のですが、公式締切が過ぎたのに未着の方もあり、1日も早い送稿をお待ちしています、どうぞよろしく。
いくつかのお願いが、「風」次号に、また個別にいくと思いますので、ご協力のほど、重ねてよろしくお願いします。
風の部屋には、やんばる古酒のカメ(3個)をはじめ、世界の酒がいろいろ隠されているのですが、この夜はオーストラリヤとニュージランドのワイン、元気よく飲んで、4本のビンが転がっていました。
終わって、来週14日「七夕の会」の予行練習。会場のアジアンダイニングバー「サガルマータ」へ(風の部屋からすぐ)。ここでは、ネパールのビールを楽しみました。いい店です。皆さん、14日午後(案内はホームページ)お誘いあわせの上、お出かけ下さい。
1869号【2007年7月6日】
◆<沖縄から帰って>
昨夕(5日)、沖縄から帰りました。入れ違いに桑原重美さんからのメール・那覇市歴史博物館企画展のお知らせを頂きました。このような催しをまったく知らず残念。今は安い航空券で動いていますから、便の乗り換えもかなりの負担あり、予定通り帰京した次第です。
この間、名護や竹富のお世話になった皆さんから、いくつものメール来信。有り難うございました。皆さんのおかげで、今回も充実した旅となりました。この欄で二つほどご紹介します。
名護博物館長・島福善弘さんからの写真送付(Mon, 2 Jul 2007 14:29)。
「夏、真っ盛りの名護へおいでいただきありがとうございました。写真をお送りしておきます。“カジマヤー”に向けて体力と気力を養っておきましょう。…」
いま当方のカメラに入っている画像を4枚ほどホームページに。とくに名護博物館の中庭、月が輝く下での私たち群像の写真。みんないい顔をしているよ。“カジマヤー”まで頑張りましょう。頂いた写真から1枚を下に掲げました。
竹富島・NPO 法人「たきどぅん」阿佐伊拓さんからのメール(Thu, 5 Jul 2007
10:28)。
「この度はNPOたきどぅん正会員ご入会いただき、誠に有難うございます。私たちも先生の旺盛な行動力に負けぬよう頑張ってまいります。よろしくご指導ご鞭撻のほど、お願い申し上げます。昨日お話のありました『うつぐみの島・竹富島』(60分ver.)の貸し出しについて、環境省石垣自然保護官事務所の久保井さんに問い合わせたところ、特に問題ないようです。但し、書類を提出しなければならないとのことですので、直接お問い合わせされたほうがよろしいかと思います。…(略)…」
ご連絡、有り難うございます。もしDVDの貸し出しが可能であれば、8月の社会教育研究全国集会・第19分科会での報告「竹富島憲章と公民館」(小林)に関連して、みんなで鑑賞できるようにしたいもの。
▼岸本力・結婚披露宴にて小林、後ろは山城秀夫さん
(20070630、撮影・島福善弘)
1868号【2007年7月5日】
◆<石垣から那覇へ>
2日間の竹富島日程を終え、石垣を経て那覇に無事たどり着きました。晴天の暑い毎日、しかし島にはいつも風があり、とくに陽が落ちれば涼しく、体もなれて、そう苦にはならず。上勢頭芳徳さん(蒐集館長)や前本多美子さん、それに阿佐伊孫良さんはじめNPOの皆さんにたいへんお世話になりました。感謝!
昨日(4日)の日誌。石垣への船に乗る前に「ゆがふ館」に寄り、前夜の「島だて学校」(終了後のビールの)席上、皆さんから強く勧められたNPO“たきどぅん”への入会手続き。「ゆがふ館」はいい施設です。環境庁制作のDVDが10本近くあり、なかなかの出来映え。とくに「うつぐみの島」(約1時間)は秀作、「竹富公民館活動」は約10分の短編。思わず見入って、船に乗るのが予定より1時間近く遅れてしまいました。
石垣では渡慶次賢康さんから連絡していただいた大浜中学校へ。宮良純一郎校長と5年ぶり?の再会でした。お父上の宮良保全翁「遺稿集−与那国島の民謡とくらし」(今年1月刊)を頂きました。この本が八重山毎日新聞社説に取り上げられたことは「風」1854号(6月13日)本欄でご紹介した通り。
そのあとは、石垣市役所前の「島そば一番地」へ。新垣重雄さんの店。そばの味が一段と美味しい。いま石垣島をめぐる乱開発の動き、「緊急、島の未来シンポジウム」(6月24日)等の話を聞きました。盛大な会だったようです。当日パンフには本格的な「基調報告」「宣言」なども。石垣市「憲法九条の碑」「マラリヤ受難碑」等を案内して頂きました。
同じそば屋2階に宮良操さん(石垣市議)も来てくれました。白保の「ゆらてぃく憲章」(4月)づくりの詳しい資料を持参いただき、「白保村づくり七箇条」を初めて読みました。興味深い。これらの石垣の動き、「緊急、島の未来シンポ」や「ゆらてぃく憲章」など、できれば風に紹介させてほしいとお願いしてきました。
5日ぶりの那覇の夜。街にたちこめる昼間の熱気、夜になってもあまり風がない。竹富島で風に吹かれて飲んだビール(芳徳さんにご馳走になった)を想いおこしています。
▼石垣市「九条の碑」ー平和の鳩(前)を憲法九条の碑(後ろ)が支えている。
石は9トン。背景の赤瓦は石垣市立図書館(石垣市新栄公園、20070703)
1867号【2007年7月3日】
◆<島にパソコン>
2日午後、竹富島に到着。はじめてパソコンを持参しました。これまではメール送受信の見通しがなく、またせっかくの島フィールド・サーベイにパソコンを扱う時間などもったいない!と思って、那覇のホテルに残してきたものです。
しかし今回日程は、ちょうど編集中の「東アジア社会教育研究」12号・原稿締め切り期限と重なっています。前本多美子さん(竹富島)からの連絡(パソコンは「…民宿では無理かもしれません、いらしてから考えましょう、何とかなると思います」)に力を得て、海を渡ってきたのです。
6月30日締め切りまでに原稿を送っていただいた鷲尾真由美さんや山城千秋さん、中村誠司さん(定広由起さん原稿)、鄭任智さん、またこの間に連絡いただいた呉迪さん、黄丹青さん(呉遵民氏関連)、呉遵民さんご本人、内田純一さん、上野景三さん、そして“韓国小特集”を担当していただいている小田切督剛さん、ご協力とご配慮、皆さん有り難うございます。
年報編集局は、いま海を渡って、竹富島の一角で機能中。こちらに来たのも「竹富島憲章と公民館」対談記録を最終調整するため。眼前の八重山の海を見ながら、はるか遠く東アジアの動きに思いをはせつつ、「研究」誌を編集できる時代の面白さを実感しています。
と言っても、この「風」を今から発信し、いただいているメール・原稿を受信しなければなりません。うまくいくかどうか。まずは港の横のNPO法人「たきどぅん」に駆け込んで、協力をお願いするつもりです。この風がお手元にとどいたら、ひそかに南の潮の香りを味わってやって下さい。
▼竹富(NPOたきどぅん主催)「島だて学校」(20070703)
講師・村田信夫氏(建築家)右端、旧与那国家「畳の下は簀子の床」
1866号【2007年7月2日】
◆<名護との出会い>
梅雨の東京から、2時間飛んだだけで天地は一転、いま沖縄は紺碧の空、湧きのぼる白雲。もちろん暑い暑い夏の日射しですが、風吹き通る木陰の涼しさはまた格別、よみがえる思いです。
2002年に開かれた名護・社会教育研究全国集会で事務局として頑張った岸本力くん、6月30日にめでたく結婚披露宴。盛大で楽しいひとときでした。交流を重ねてきた(ほぼ四半世紀余りの)名護の友人の皆さんがみんな集まったような大ホールの賑わい。あらためて名護との出会いをしみじみと想いおこしています。
7月1日は島袋正敏さん(名護“ものづくり塾”塾長、TOAFAEC 副代表)の車で、やんばるを駆けめぐり。夜は博物館の中庭で、稲嶺進さん(教育長)はじめ、社会教育・文化財そして博物館担当の諸氏に囲まれての歓迎会。宴も終わりの頃には待ちかねた月も昇って、さやかに輝きわたりました。久しぶりの宮城満さん(もと社会教育課、市立図書館)、そしてもちろん中村誠司さん(名桜大学)も。
この夜、社会教育研究全国集会の話題がいくつも出ました。ぶんじんと稲嶺進さんとの出会いは、埼玉県富士見市で開催された第22回集会(1982年)だったこと。いま名護市教育委員会(文化財担当)で働いている岸本卓巳くんは、名護・全国集会に参加した福島大学々生(旧姓・鈴木久美子さん)と紆余曲折を経て結ばれたこと。その経過は満座の喝采をあびました。終了間際に久美子さん本人も登場。聞けば浅野かおる先生の学生だったそうです。
ぶんじんのカジマヤ(風車、97才の祝い)を名護でやろう、という途方もない話が酒の座のつまみに出ました。あと20数年先のこと。話だけで酔いがまわりましたが、「毎年、予行練習の宴をしよう!」と応じておきました。
いま2日朝、これから竹富島へ。名護の皆様、お世話になりました。有り難うございました。
▼月ものぼる、名護博物館・中庭にて(20070701)
1865号【2007年6月30日】
◆<那覇にて>
2ヶ月ぶりの那覇。今回は、那覇→名護→竹富のゴールデンコースです。妻の怪我がなければ、“二人づれ”のはずでしたが、残念ながら1席をキャンセルし、結果としては自由気ままな一人旅。名護あたりで誰かと合流することになるのかも?
まだ詳細分からず。
最近いつも那覇は素通りの感じでしたが、今晩(29日夜)はかっての「おきなわ社会教育研究会」メンバーとゆっくり語りあいました。皆さんが東京の病室にこもごもお見舞いの電話をしていただきました。有り難うございました。上原美智子さんからパッション・フルーツを拝受。
指を折って数えると、今年は那覇の研究会発足からちょうど30年の年。懐かしの「久茂地文庫」誕生から31年目(東京の研究会と同じ)。昔みんな若かった(あたり前!)、東京−那覇と協力しあって『沖縄社会教育史料』(全7冊)をよく刊行したものだ、今年なにか記念の企画をしてはどうか、などなど。
いくつもの新しいニュースがありました。当時の「沖縄調査」現地事務局長格だった名城(旧姓・当間)ふじ子さんがこの3月で那覇市役所を退職。玉那覇正幸さん(宜野湾市立図書館長)は別にして、あの頃の主要メンバーはすべて現職を退いたことになります。平良研一さん(沖縄大学)も今や名誉教授、しかしまだ週2回ほど講義をもっているそうです。それぞれに皆さんお元気。今年の秋にでも、上海と烟台日本語学校を訪ねる「中国の旅」構想も。新城捷也さん(もと沖縄県教委・社会教育主事)や佐久本全さん(もと那覇市中央図書館長)も乗り気です。
喜納勝代さん(歌人、久茂地文庫主宰)たちが編集された話題の「子どもにおくる本ー沖縄は戦場だった」(らくだ社、今年5月出版)をいただきました。執筆者は約180人。新城捷也さんは首里の自宅から米軍の不発弾が出てきたこと、喜納勝代さんは「闇夜を歩く」などを書いておられます。喜納さんの“いのち”と題する歌一首。
◇道端に死体が並ぶ沖縄戦 いのちは軽し降る雨よりも
▼左より喜納勝代、佐久本全、小林文人、玉那覇正幸(後列)、平良研一、新城捷也、
名城ふじ子、上原美智子の皆さん(那覇市久米にて、20070629)
1864号【2007年6月29日】
◆<琉球の平和の心>
メールでの来信は(私信は別にして)できるだけ「風」にご紹介していますが、書簡・ハガキはついつい失礼してしまいます。今日(28日)届いた沖縄関連の数通。一つは、海勢頭豊さんからのコンサートのご案内。7月8日(日)午後5時開演(7時終演)、西国分寺駅南口・いずみホール。「清ら海、清ら山コンサート(第5回)−多摩に輝け平和の心、海勢頭豊とともに」(同実行委員会主催)。前売券(大人・2000円)は“風の部屋”にもあります。
同封された書状の一節。「…そんな中で、日本の政治や社会制度が崩壊しだして、大変な世の中になってしまいました。…私はこのような時代だからこそ役立てるべきとの考えで、琉球の平和の心とは何か、琉球とヤマトの歴史的真実とは何か?を訴えて“世直しコンサート”を続けて参りました。
… しかし、なかなか沖縄の基地問題は一向に解決されず、悩むばかりですが、それでも希望を失ったわけではありません。」
海勢頭豊・製作「MABUI」(まぶい、魂)のビデオ版を発売している「マブイ・シネコープ」の木村修さんから。「…かねてご要望のありました“バークレー・市民がつくる町”をDVD
化いたしました。どうかこの機会にご活用下さい」と。
桑原重美さん(カメラマン)のハガキ。「…先日、南の風を読んだおかげで急ぎ映画“ひめゆり”を観てまいりました。もう20年前になりますが、当時のひめゆり同窓会の会長さんなどのご案内で、糸数やアブチラガマを回ったのを今も鮮明に記憶しています。…」
1863号【2007年6月28日】
◆<海を越えて−第12号の鼓動>
上海教育出版社より『現代社区教育の展望』(小林、末本、呉共編)を世に出したのが2003年秋。その後、姉妹編の編集が進み、同じ出版社より、間もなく同編者による『現代生涯学習論―学習社会構築への架橋』が刊行される見込みです。日本側の執筆が遅れて、当方からいま催促する立場にありませんでしたが、「東アジア社会教育研究」第12号にこの本(「前書き」や「目次」等)を予告・紹介するために、華東師範大学・呉遵民さんに急ぎデータを送ってほしいとお願をしていました。呉遵民さんからの返事(Tue,
26 Jun 2007 13:24);
「ご無沙汰しております。メール頂き、事情よく分かりました。私の場合は、いまちょうどう学期末、各雑事あり多忙を極めています。
従って、明石書店の本(『現代中国の生涯教育』)の序章などは…(略)…別に送りますが、『現代生涯学習論』については翻訳するのは無理のようです。お許しください。念のため『現代生涯学習論』の全文をお送りしますので、ご参考になれば幸いです。本当に申し訳ございません…」とのこと。
前書きや目次を含めて、新上海本の中国語版・全文が届きました。有り難うございました。早速に黄丹青さんに「目次」の日本語訳を依頼したところです。この本に執筆された皆さん(李正連さん「韓国の生涯教育の展開と方向」を含めて)の力作が並んでいます。正式の刊行はいつごろになるのでしょうか。ずいぶん日数が経過しているだけに、心配でもあり、また楽しみですね。
昨晩は、韓国の魯在化さんから、第12号への執筆について鋭意努力中との電話あり。大学の上海旅行も断念して奮闘中らしい。皆さんの海を越えてのご協力に感謝します。
1862号【2007年6月26日】
◆<7月研究会日程、12号原稿締切り>
3号前の「南の風」(1859号)で第130回研究会の当日お誘いを書いた折、7月定例研究会についても、7月27日(金)夜と予告いたしました。ところがご承知の通り、参議院議員選挙の投票日が7月29日に繰り延べとなる状況、期日前投票の関係もあり、いつも利用している会場(杉並区高井戸区民センター)が使えなくなる公算が大となりました。研究会日程の変更を強いられることに。
私たちの研究会は毎月月末の金曜日を定例会としてきましたので、1週間前の金曜日・7月20日とするか、あるいは次の8月第一週・8月3日とするか。あらためて会場を再設定して、日程等をご案内することにいたします。ご了承下さい。選挙日程も、思わぬところで影響があるものです。
ところで、いよいよ6月末が近ずきました。「東アジア社会教育研究」第12号の原稿締切りです。関係の方々のご執筆、進捗状況はいかがでしょうか。本来は個別にお願い状を差し上げるべきところですが、本欄を活用して、ご協力のほど、どうぞよろしくお願いいたします。原稿の送付先はぶんじん宛。→bunjin-k@js4.so-net.ne.jp
「研究」編集委員会事務局では、7月に入ったところで、作業が始まります。みな多忙な毎日ですが、声をかけあって、今年もひと頑張りしましょう。事務局会議は7月7日(土)夜の予定(“風の部屋”)。たまたまこの日は七夕。私たちの“七夕の会”は、風1854号でご案内したように、7月14日(土)午後、を予定しています。
1861号【2007年6月25日】
◆<23日〜24日>
6月23日は沖縄「慰霊の日」、川崎では「韓国生涯学習研究フォーラム」(第3回)が開かれました。当日は名古屋、福島からの参加だけでなく、訪日中の韓国・冨川からのゲスト(冨川地域小さな図書館協議会)も来会され、賑やかでした。「日本の社会教育・生涯学習」を韓国に紹介しようとする出版構想が論議され、これからの展開が楽しみ。日本と韓国に橋をかける作業に、東アジアの視点から中国のどなたかに加わってほしいという期待もありましたが、これは時間が合わず、次回へ期待をつなぐことに。
当日、東アジア社会教育研究・第12号の特集「韓国“平生学習”の新しい動向」原稿も集まり始めました。海を越えて韓国研究の特集を実現しようとする初めての試み。若い世代のエネルギーに支えられ、きっとうまくいく!という確信をもつことができた1日でした。関係の皆さま、どうぞよろしくお願いします。
本日(24日)は、NPO「アンティ多摩」5周年の集い。立川「市民活動サービスコーナー」創設当時から頑張ってこられた山家利子さんと小林文人の対談(テーマ「三多摩の社会教育と市民活動のかかわりーこれまでに学び、これからにつなぐ」)。この日の会場で、20数年ぶりにお会いする方も何人かあり、あらためて三多摩の社会教育の歩みと「市民活動」の歳月を実感したひとときとなりました。あまり打ち合わせもしないで進行した対談でしたが、山家さんの経験豊かなお話に助けられて、なんとか成功?したような感じ。会場にいらっしゃった方から感想など寄せて頂ければ幸いです。
▼撮影・江頭晃子
1860号【2007年6月23日】
◆<ひめゆりの教師たち>
前号「ひめゆり」記事を読んで、胡興智さんから短歌と写真を送って頂きました。有り難う! 写真はHP「ぶんじん日誌」に拝受しました。
6月23日は沖縄「慰霊の日」。胡さんにも触発されて、さらに前号の続きを書くことにします。過酷な戦場に動員された女学生、それを守るべき立場にあった引率教師たちのことです。どんなにつらい毎日であったことか!と映画「ひめゆり」の証言を聞きながら、あらためて思いました。私も教師の一人。戦争という極限状態のなかで、教師は人間としての生き方が問われることになるのだと知りました。
映画の証言のなかには、生徒たちの「先生」が、幾場面も登場します。前号に続く与那覇百子さんの回想。「…6月18日、解散命令が出される数時間前、約3ヶ月ぶりに会った東原平先生は憔悴し、死期せまる表情だった。百子が“私はこれで最後だと思う”と言うと、先生は“生きるんだよ、生きるんだよ”と何度も念を押された。…(中略)…その後、先生は第3外科壕を襲った米軍の爆弾投下で亡くなった。」
もちろん仲宗根政善先生のこと。上原当美子さんの証言。解散命令が出て次々に壕から出されたとき、嫌がる生徒たちを外に出しながら「…仲宗根先生が“早まったことだけはするんじゃないぞ”。あのひと言だけは耳に残っています。」
同じく大見祥子さんの証言。いよいよ最後、荒崎海岸で米軍が銃をつきつけて「出てこい、出てこい」という。「…私は岩にこう手榴弾をもって座ったんです。福地さんが手榴弾の栓を抜こうとしたんですね。そのとき運天さんが“お母さんに会ってから死にたい〜”って。これを見て、仲宗根先生が“芯を抜くんじゃないぞ”“出ていきなさい”って。私も名前を呼ばれて出てきたわけです」と。(いずれも敬称略)
ご承知のように、仲宗根先生は九死に一生を得て、戦後「沖縄の悲劇−姫百合の塔をめぐる人々の手記」を出版されます。これが「ひめゆりの搭」などの映画に。その後、琉球大学教授、同副学長、「沖縄今帰仁方言辞典」により日本学士院賞、ひめゆり平和祈念資料館長、1フイート運動代表など、象徴的な存在として役割を果たされ、1995年ご永眠。
私たちの研究会と仲宗根先生との関わりについては、「南の風」177号(1999年2月7日)に書いたことがあります。「仲宗根先生を偲ぶ」一文、この機会にHP「ぶんじんアーカイブス」にアップしておきました。
歌人・仲宗根先生には、手書きの歌集『蚊帳のホタル』(1988)があります。追悼の思いをこめて、数首を掲げさせていただきます。
◇二十人にただ四人生く、百九十四人の教え子帰らず
◇教え子を壕に残して出づる夜の闇をつんざき砲声うなる
◇いやはての巌に追われて粥炊きて我に与えし教え子のあり
◇いたづける我をかばいし教え子とふけゆく夜の蛙を聞けり
―加えて、ひめゆりの塔のうた(原歌はひらがな)―
◇岩枕硬くもあらん安らかに眠れとぞ祈る学びの友は
▼ひめゆりの搭(旧第三外科壕)−20041225、撮影・胡興智−
1859号【2007年6月22日】
◆<「別れの曲」>
前号の続き・・・。沖縄南部戦跡の「ひめゆり平和祈念資料館」にいつも静かに流れている「別れの曲」。映画「ひめゆり」では最後のエンディングに印象的に歌われます。作詞は大田博(郡山出身、日本陸軍将校)、作曲は東風平恵位(宮古島出身、沖縄師範学校女子部教師)。お二人とも沖縄戦の末期に命を落しました。
一、日に親し 相思樹並木、往きかえり 去りがたけれど、夢のごととき年月の、
行きにけん 後ぞくやしき。
二、学舎(まなびや)の 赤きいらかの、別れなば なつかしからん、吾が寮に
睦みし友よ、忘るるな 離り住むとも。(以下、略)
生徒たちは、1945年3月25日の卒業式で歌うためにこの曲を練習していました。米軍上陸の直前です。しかし同23日に学徒動員されたため、29日夜、南風原陸軍病院の三角兵舎でローソクを灯しながらの卒業式。歌われたのは軍歌「海ゆかば」だったそうです。
それだけに「別れの曲」は、戦後「ひめゆり同窓会」によって、戦争に倒れた人々への鎮魂歌として、大事に歌い継がれてきたのでしょう。
東風平(こちんだ)恵位は、東京音楽学校の出身。引率教師として第3外科壕(現在の「ひめゆりの搭」)で亡くなったのは23歳の若さ。
生徒の与那覇百子の回想。「…学校に1台しかないピアノを弾くため、朝まだ薄暗いうちに家を出る日々だった。2年のとき音楽教師の東風平先生が設立したブラスバンド部に入部。…学徒動員の前日(22日)、ひとり学校でピアノを弾いていると、東風平先生がぶらりと入ってきた。“先生、弾いて下さい”と請うと、先生はベートーベンの月光ソナタを弾き始めた。演奏は次第に重厚さを増し、百子は感動し天上に昇る思いだったという。…(中略)…
百子は70歳をすぎて、戦争で中断したピアノを再び習いはじめた。」(「ひめゆり」パンフ、敬称略)
▼ひめゆり平和祈念資料館内−20041225、撮影・胡興智−
1858号【2007年6月20日】
◆<映画「ひめゆり」>
6月23日(沖縄・慰霊の日)が近づいてきました。この間、病院通いなどで時間がとれず、いま「ポレポレ東中野」で上映されている「ひめゆり」(風1843号に紹介)のことが気になっていましたが、昨日(18日)ようやく観ることが出来ました。
沖縄戦に看護要員として動員された女学生「ひめゆり学徒」(沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校)の多くは戦場で命を落しましたが、かろうじて生きのびた方々22名の貴重な証言。沖縄タイムス等がその公開を大きく報じた南風原(はえばる)陸軍病院壕をはじめとして、凄惨な戦争体験が綴られた長編ドキュメンタリー映画です。ときに胸せまり、熱いものがこみあげてくる2時間半でした。私たちの旧沖縄社会教育研究会にお出で下さった与那覇百子さん(第115回研究会−1992年6月23日、於東京学芸大学)も登場されます。
当時は15才〜19才の生徒たち。わずかな生存者もいまや80歳を越える歳月が経過しました。生存者による証言は「ひめゆり平和祈念資料館」語り部として聞く人の心に深く残っていますが、「しかし…いずれ出来なくなる時がきます」(生存者・木村つる)と。悲痛な戦争体験を映像記録として残すことが企画されたのは同資料館の開館5年目(1994年)だったそうです。これまでのドラマ仕立ての「ひめゆり」映画とは違う、貴重な「証言の集大成」。13年の歳月をかけ記録された証言は100時間以上とのこと。
監督・柴田昌平(「1フイート映像でつづるドキュメント沖縄戦」等)のひとこと。「…沖縄の親戚の家に泊まりこんで、彼女たちの証言にじっくりと耳をかたむける日々が始まりました。私はひたすら受容体になりきろう、皆さんが話したいことを話し終えるまではじっと耳を澄まそうと思いました。映画が完成した今も、撮影を続けています。続編(戦前編、戦後編)もいつかまとめたいと思っています。」(パンフレット)
▼南風原陸軍病院壕・証言を聞く(南風原文化センター、和光大学旧プロゼミ、20011001)写真移動
1857号【2007年6月18日】
◆<立川市・地域学習館?>
東京三多摩の中心都市・立川市には公民館が六つ。しかし数年前から生涯学習推進計画(第3次?)の動きがあり、「市民交流大学」構想が始動するなか、現公民館は「地域学習館」という名称のもとに「発展的に転用」するとのこと。それも社会教育法の適用外におくことが市広報誌「みんなで創ろう市民交流大学構想」のなかに明記されています。議会もこの構想を了承、立川市として公民館を廃止する方向が確定しているかたち。まことに残念というほかありません。
公民館運営審議会の多くの方はこの方向に反対、市民交流大学についても、社会教育法のもとで進められないかと模索が続けられているようです。16日夜、事態を憂慮される数名の方々と会う機会がありました。自治体の社会教育・公民館のあり方を考える真摯なまなざしに心打たれるものがありました。
2006年7月「市民交流大学構想の具体化に向けた基本的な考え方について」(立川市教育部生涯学習課)の「当面の想定事業スケジュール」によれば、今年5〜7月「市民交流大学プレ講座事業」、7月には「講座の申し込み開始」、10月「市民交流大学開講、公民館を地域学習館に転用」という流れ。
これまでの経過を含む関係資料は、立川市HPに詳しく出ています。
→ http://www.city.tachikawa.tokyo.jp/jp/municipality/plan/index.html
比較的近いところに住んでいながら、立川市の公民館制度がこのように壊れていく動きを(風のたよりは別として)きちんと知らなかったウカツさ、正直のところ、自ら呆れはてています。
1856号【2007年6月16日】
◆<竹富島で雷さん大暴れ>
6月29日(金)から沖縄への旅です。このスケジュール(詳細はホームページ)が先に決まって、TOAFAEC
6月定例研究会は、1週間繰り上げて22日へ予定変更、ご了承ください。
山原から八重山へ飛ぶ楽しみ。那覇1泊、名護2泊、竹富2泊、そして那覇へ、の予定です。この計画を聞いて、名護の酒場「大国林道」の雰囲気をいたくお気に入りだった富美より、「行きたい!」との強い希望。あわてて飛行機・宿の追加予約が終わったところで大怪我!でした。もちろん彼女は断念のやむなきに・・・。
昨年の6月末、手打明敏さんと一緒にシーカヤックで屋我地島一周の壮挙?を成し遂げたことを思い出し、やんわりと誘ったところ、この4月より筑波大学「教育学系長」の要職にあり、無理らしい。小林平造さんが名護で合流する・・・との意向を聞いていますが、さて、うまく実現するかどうか。
竹富島訪問の予定をお知らせし、宿の確保をお願いしていた多美ちゃんから、昨晩届いたメール。“やっとつながりました”と。
「…なんと6月初めに雷が竹富で大暴れしまして、我が家の前の電柱のトランスに落ちました。それ以来パソコンが駄目になり、やっと今日直りました。先生のメールも奥様の事故も全て今日わかりびっくりです。
7月2日、3日の2泊ですね。宿は明日さっそく当たってみます。
上勢頭−小林対談のテープおこしは、あと誤字脱字をチェックする仕事が残っています。
17日にバレーボールの試合があり、23日にコーラスの発表があり、毎晩家におりません。今日はあふれるメールにおぼれそうです。奥様の具合はいかがでしょうか。順調な回復を祈っています。…
前本多美子」とのこと。雷さんのこと、こちらも驚きました。
1855号【2007年6月15日】
◆
<六月集会と七月集会>
日本社会教育学会は、毎年、中間集会として「六月集会」を開催してきました。いまは東京だけでなく、関西ほか地区ブロックの六月集会も企画されるようになりましたが、初期の頃は、東京に集まって、テーマをしぼっての集中した論議がかわされたものです。秋の研究大会よりも緊張し興奮した1両日を過ごした記憶が残っています。あのころの若い論客たちも、いまや老大家、最近は学会で顔も見かけぬようになりました。かく言うぶんじんも、今年の六月集会は(会場が東京でなかったこ
ともあり)出席しませんでしたが・・・。過ぎし青春の想い出。
新しく日本公民館学会は、同じく中間集会として「七月集会」を催すことになったようです。昨年7月に開催された「公民館60年」記念集会を引継ぐもの。今年は「公民館の今日的課題と可能性」をテーマに北海道・赤平市の事例(自治体が手放した公民館を市民グループが建物も調達して運営を始める動き)を取り上げ、集中的な論議が企画されている様子。時は7月21日午後、会場は法政大学市ヶ谷キャンパス。どなたか詳しい案内を「風」に寄せていただけないでしょうか。
ところで、13日から福井県小浜に出かけていました。家人の術後の経過もよく(一時は断念すべきかと心配した)、約束のスケジュールを終えることができ、ほっとしています。14日夜から15日にかけては記念すべき「第1回・ふくいの社会教育を考える会」(於福井市)に参加してきました。福井の女性たちは(もちろん男性も)皆さん、元気!
福井のどなたか、この集いの模様をレポートして頂けませんか。
▼ふくいの社会教育を考える会(第1回)-070615-
1854号【2007年6月13日】
◆<与那国の地域誌ふたつ>
南の島・八重山の新聞は、地域の小さな記事を満載していて興味深いものがあります。小さな島々の公民館や祭りの催しも多く、ドラや太鼓の響きも聞こえてくるような誌面づくり。八重山毎日新聞が報じる石垣島・真栄里公民館についての記事(6月12日)では、さらに意欲的に、方言を継承しようという講座や、6月23日の慰霊の日に向けて「平和を考える」行事が企画されているとのこと。字公民館としてシマの伝統的な活動をこなしながら、時代の動きにも取り組もうとする公民館関係者の顔の輝きを想像させてくれます。
同じ八重山毎日新聞の社説は、先日「地域誌の掘りおこし」を書いていました(2007-05-19)。与那国の二つの地域誌を紹介しながら、それが地域と文化を豊かなものにしていく意味を指摘しています。一つは、宮良保全遺稿集「与那国島の民謡とくらし」、そして浦崎信子さんの子どもたちによる「浦崎信子をめぐる人たち」。
とくに宮良保全翁については、私たちの与那国調査(1998年〜2001年)でたいへんお世話になった方です。1999年11月
に文部大臣の表彰(地域文化功労賞?)を受けて上京された折、私たちの研究会で歓迎の席を設けたことがあります。(南の風第369号等)
保全翁は昨年2月に88歳で逝去されました。遺稿集はおそらくご子息の宮良純一郎さんの編集になるもの。生前の与那国民謡との深い関わり、そしてシマの暮らしの記録。当時、与那国・租内のご自宅で、手書き原稿の推敲を求められたこともありました。
八重山毎日新聞・社説は、保全翁について「民謡にとどまらず与那国の歴史、文化に心血を注ぎ気高い生涯を貫いた人」と称え、「ゆるぎない骨格を持ち微にいり細に及んだ記録集。座右に置いて折りあるごとにひもときたい内容の濃い書」と評しています。
1853号【2007年6月12日】
◆<「独り者の料理」>
私の保存フアィルのなかに、標記の1冊あり。わずか40頁たらずの小冊子ながら、珠玉の名作。筆者は関口隆克(たかかつ)氏。いま“独り者”状態になって、この本を想い出し、久しぶりに開いているところ。
たとえば「 … 味つけ料の太宗は梅干しである。酸味と塩味とを渾然統一し、味の世界の大地にあたる。これに対するは天空にあたる酒である。この天地の間に、万象の調味料が抱かれている。森羅の材料が擁されている。…」など。
関口隆克先生は、牧野巽(東大・教育社会学)、駒田錦一(九大・社会教育)等の大先達と親しい友人。文部省(調査普及局長)から、私がお会いしたころは、国立教育研究所(当時)所長でした。
忘れもしない、九大を追われて浪々の身になろうとするとき、日本育英会のポストを用意していただいた恩人です。その後、開成中・高校の名校長。1970年代、数期にわたり東京都社会教育委員の会議々長として采配をふるわれ、委員(ぶんじんなど)の自由闊達な議論を許していただきました。座談の名手。晩年は永福の駅近くに住まわれ、横山宏さんと何度かお宅にお邪魔したこともあります。旧宅の跡がいま懐かしい。
「独り者の料理」は日本育英会『育英』にエッセイとして連載されたもの。関口先生は「必要を感じず」50歳まで独身。温容つきるところなく、客を手料理でもてなす腕は並のものではなく、それが十講にわたる天衣無縫の料理考を生みだしたのです。その昔、高井戸で下宿されていたころ、無名の放浪詩人・中原中也が転がりこみ、十ヶ月をともに暮らして「…中也が食べたいというので、ミツバを買ってオヒタシを作ってやった」等は有名な話。中也の詩集にも登場されます。
「…独り者料理者は、まず第一に、携帯用容器を用意し、常時それに各種の調味料を格納して置く心得がたいせつである…」と読み始めると、当方は気力も失せて、近所のネパール・カレー屋へ出かけることに。
1852号【2007年6月10日】
◆<初物の西瓜割り>
前号に書いた事情あり、特段のことがなければ、いま夜は一人、自由の身です。夜が更けると、前々号に紹介した「アジアン・ダイニング・バー」へ。息抜きに出かけます。昨夜は九州からの到来物、大きな西瓜をぶらさげて訪問。客が帰って一息ついたマスター(オーナー)とコック2人、初物の西瓜割りをしました。よく熟していて、ネパール人たちも「うまい、うまい!」と感激の面持ち。
この店は、アジアのビールを揃えています。やはりネパール・ビール「エベレスト」が彼らのお勧め。4年ほど前から市場に出た新しいビールだそうですが、まろやかな味わいがあって、悪くありません。インドの「マハラジャ」よりいい出来映え。残念ながら小瓶でも600円あまり、ちとお高いのが難点。
彼らは国に妻子を残し、近くの部屋で合宿して頑張っている様子です。開店以来すでに2ヶ月ちかく、まだ1日の休みもなし。そのうち休日がとれたら(何曜日にするか思案中らしい)、“風の部屋”の沖縄島酒・古酒で歓迎の乾杯をしようと約束しました。
すでに富美さんとは仲良し、「母さんのよう」と言います。7月14日「七夕の会」にはぜひ元気に恢復して来て欲しいと。予定の会場は2階ですが、階段をさけて、むしろ1階をメインの会場とし、普通の客を2階に上げましょう、などと西瓜を食べながら、相談しました。
ところで風・前号は1800代後半の最初の号。ぶ欄も思いがけない「怪我」の記事から始まりました。いろいろとお見舞いメールをいただき、恐縮していいます。一つひとつご紹介いたしませんが、何よりの励まし、富美にも伝えました。有り難うございました。
前号はやや混乱の中で送信しましたので、うっかりタイトル書きを失念。「アジサイの花」と追記させて頂きます。
1851号【2007年6月8日】
◆<不測の怪我>
井の頭線の窓外は、いまいっせいにアジサイの花が咲き始めています。今朝は一番電車に乗って朝帰り、ことさら目に鮮やかでした。一眠りして、この日誌を書いています。
家人のことなので「南の風」には控えていたのですが、怪我当日、病院までついてきていただいた江頭晃子さんに、御礼のメールを書き添え、総会記録(修正)を返信したところ[toafaec−freeml](知らなかった!)とかで、皆さんに一斉に配信された様子。呉遵民さんはじめ、問い合わせの電話やメールをいただき、恐縮しています。この際まとめてご報告させていただきます。
3日TOAFAEC 総会・懇親会の宴たけなわの席上、妻から「いま救急車!」との電話。ある店の自動ドアに不具合あり、はさまれて転倒。思いのほか重傷(大腿骨頸部骨折、要手術)でした。かつぎこまれた病院で苦しい二日が過ぎましたが、手術の日程など見通しを出してくれず、院長の了解も得て、三日目(5日)かかりつけの病院に民間救急車で搬送。幸い直ちに対応していただき、昨日午後に手術(約4時間)。ドクターから術後の説明を受け驚嘆しました。腰部と大腿骨を結合するチタン?人工骨のレントゲン写真を見せられ、手術医の各位に深く感謝した次第です。
昨日一夜を病室に付添いました。妻が麻酔から醒め、ほぼ一段落したことを見届け、遅い夕食に外出。手術の成功もひそかに祝いたく、こっそりと缶ビールを仕入れて(付添人は外で飲むわけにはいかず)病室でひとり乾杯。いいビールでした。そして早朝の朝帰りという経過です。
毎度お騒がわせして申しわけありません。3年前には、ぶんじん下肢断裂(肉離れ)の騒動あり、この夫婦はどうも足腰が弱いようです。
ぶんじん日誌1801号〜1850号→■
*1901号〜1950号■次ページ