奥田泰弘氏追悼のページ
▲日本公民館学会(第3回 2004年11月21日)
早すぎる落日−奥田泰弘・事務局長を悼む
小林
文人(日本公民館学会・初代会長)
忘れもしない、日本公民館学会・第5回研究大会(2006年12月2日〜3日、川崎市)初日の朝、奥田泰弘事務局長の訃報が私たちを襲った。当日の午前は、会長(小林)・事務局長(奥田)交代を議し役員新体制を決める学会理事会が予定されていたが、その席上に悲報が伝わった。その衝撃は大きく、一同声もなく、凍り付いた一瞬を思い出す。あまりにも早すぎる落日。あんなに元気だった人が、驚くほどに弱られ急逝されるとは想像もできないことであった。
学会の理事会は奥田事務局長を中心に動いてきた。2006年度は、川崎大会準備はもちろん役員改選の年であり、奥田さん(いつも親しくこう呼ばせていただいた)は多忙な学会事務局の仕事に、いつも笑顔で、元気よく対処されてきた。しかし7月には体調必ずしも順調でなく、珍しく理事会を休まれた(と記憶している)。当初は腰痛と聞いていたので、まったく心配していなかった。しかし、8月を経て9月に入ったある日、入院中の病院から電話をいただき、肺ガンである由を告げられたときは正直ショックだった。病院にお見舞いに行ったが、病勢は月をおって厳しく、11月末に次期学会の役員体制についてご相談に伺ったときは、もはやお会いすることができなかった。それにしても事務局長現職のまま学会大会当日に逝去の報せに接するなど思いもよらぬことであった。
奥田さんのご遺志は学会大会の成功にあるに違いない、これに集中しようと考えて、予定通り二日間の学会日程を終えた後、大会準備・運営に奔走された川崎の皆さんにお礼も申しあげないまま、その足で福生の奥田家へ弔問にかけつけた。手打(新)事務局長と一緒であった。奥田さんは居間に普段のように寝ておられた。その枕頭に座って手を合わせたときの無念の気持はいつまでも忘れられない。
日本公民館学会の創設については、奥田さんの存在なしに語ることはできない。2001年10月頃から準備の話し合いが始まるが、「…事務的なことは全部私の方で受け持ちますので…」(奥田書簡)と呼びかけられた。公民館の専門学会づくりへの背景や気運があったにせよ、そこに具体的な契機をつくり、水路を開いたのは奥田さんであった。あの流麗な手紙と丹念なメール送信を軸にして、学会の歯車は回っていったのである。
奥田泰弘・公民館理論については、いずれ詳しく紹介される機会をまつとして、誰しも認めることは、その理論研究とともに公民館の実践と運動への激しい志向があったことであろう。それに関わる市民と職員のまなざしを大切にされた。自ら信ずる道については、つねに硬骨の人であり、柔和な人柄でありながら、その言動については厳しい一面をもっておられた。研究者としても、地域の諸運動においても“公民館”を生涯テーマとして高く掲げてこられた。日本公民館学会は、奥田さんの「公民館」にかける情熱とエネルギーに支えられて、その軌道を歩み始めたのである。
奥田さんの70年余の生涯のうち、最後の5年は、日本公民館学会のために捧げられたと言っても過言ではない。その献身に感謝し、これからの学会の歩みを遠くから、いつまでも、見守っていただきたい。(日本公民館学会・研究年報第4号、2007年12月)