横山宏氏追悼のページ             



月刊社会教育・編集長交代の会(東京、19880528)
<遺影・A 1998年5月、北京にて) 下掲

◆横山宏氏の写真は本HPに多数収録している。→■(古いアルバム)
  →■(目次・追悼U(22))、→■(東京教育史(2−2斉藤峻氏と)など


【南の風】第766号(2001年11月5日)記事(小林)
◆<横山宏さん、急逝!>
 昨日夜、横山さんが亡くなられました。私は沖縄にいました。本づくりのことで、県教育センター長の高嶺朝勇氏を訪ねて、お願いの最中に内田くんからの電話で知りました。横に小林平造くんや近藤恵美子さん(中大・院)もいました。驚きました。10月に退院されて、病状も少し好転しているのではないかと推察していたのです。
 近藤さんに車を走らせてもらって、空港に駆けつけ、予定より早い便に間にあって、さきほど(5日20:00)帰りついたところ。メールやFAXがいろいろ届いていました。下記は上田幸夫さん(日本体育大学)からのもの。また長沢成次・月刊社会教育編集長からも知らせをいただきました。

◆<横山宏先生の訃報(上田幸夫)−Mon, 5 Nov 2001 06:33−>
 悲しいお知らせです。
横山宏先生は、11月4日午後10時18分、自宅にて息を引き取られました。
 退院されて後、書斎にベットを入れ、生活の場となっておられた姿は、少し本を持ち出すこともあり、また、訪ねて行くとシャープなコメントを語っておられましたので、少し安心していたのでした。
 しかし、じつに急速に病状は悪化して、2日前には意識が混濁するようになり、昨日、9時頃電話をいただいたときは、大変厳しい判断を言い渡されました。
 そして、それから1時間くらいで、お別れとなりました。葬儀の日程について、あわせて報告出来ればよいのですが、今のところ、本日これからあたるところです。予定としては、葬儀は明日とあさってに執り行うよう進めています。無宗教でということのようです。
 今年の正月から急遽、病気にとりつかれ、「まいった」を連発しておられました。無念であった様子がひしひしと伝わってくる感じでした。闘病生活の間は、社会的な場に出かけられたのは、わずかなことであった10ヶ月間でした。お悔やみ申し上げるほかありません。上田幸夫
◆その後のFAXによれば、告別式など次の通り。
 前夜祭 11月6日 午後5〜7時
 告別式 11月7日 午後1〜2時
 いずれもご自宅(東京都杉並区阿佐ヶ谷北5―35―8)にて。

【南の風】第767号(2001年11月7日)記事:
◆<故横山先生のこと(呉遵民)>
−Tue, 6 Nov 2001 00:31−
 横山先生ご急逝のことをお聞きまして、大変驚きました。今年4月、私が帰国する前に、手紙で横山先生にご報告しましたが、わずか半年の間で、こんなことになるとは、全く想像できなかったことです。日
本に留学の間、横山先生からいろいろと随分お世話になりましたが、このことは私にとって一生忘れられないことです。
 いま、日本に居ないため告別式に参上できませんが、何らかの形で横山先生のご遺像の前にご冥福をお祈りいただきたいですが、是非よろしくお願いいたします。(以下略)

◆<木枯らしのなか、通夜の列>
 6日夜、横山宏さんの前夜祭(通夜)には大勢の人が弔問にかけつけた。横山家では自宅をほとんど開放して応対された。書斎には棺のなかでご本人が静かに眠り、無宗教で一人ひとりが献花。隣りの部屋ではさまざまの写真が飾られ、寄せ書きのノートが用意されていた。心づくしの接待。隣接の小さな公園にもテーブルが並べられ、振る舞いのお酒。葬儀屋の影はなかった。
 悲しいひとときだが、久しぶりに会う旧知の顔。生前そうであったように、横山さんが再び出会いをつくってくれた感じだ。声がはずむひとときもあった。
 通夜の列が終わって、久しぶりに奥さんと話した。和光大学卒の娘さんからは、横山さんの闘病生活の、最後にちかい頃の様子を聞いた。人がどのように生き、そしてどのように最後を迎えるのか、教えられる話だった。寄せ書きの一頁に私は次のように書いた。
 「ひとすじに歩まれた道、その道を私もまた歩みたい。小林ぶんじん」




◆ひとすじの道、その道を私も歩みたいー横山宏氏追悼
      *小林文人 「月刊社会教育」2002年2月号

 あれほど元気だった横山宏さん(いつものように、そう呼ばせていただく)が忽然と逝ってしまわれた。さまざまの想いが心をよぎる。わずかの紙数で何が書けるだろう。
 戦後日本の社会教育の研究と運動のなかで、横山さんは他の誰も及びつかない独自の世界を拓いてこられた。何よりも文部省・国立教育研究所から早稲田大学へ続くひとすじの道、日本各地にひろがる自治体関係者と市民とのつながり、創刊時からかかわった「月刊社会教育」へのなみなみならぬ熱情、そして中国(魯迅など)研究と日中友好の蓄積、それらを貫く激烈な正義感、など。
 横山さんを通して私たちは、戦争と戦後史を知り、幅広い多くの人と出会い、中国との友好を想い、人としての生き方を教えられてきた。ときに叱咤されまたときに激励された。 
 振り返ってみると、初めての出会いは第7回日本社会教育学会(1960年、九州大学)。横山さんは担当の学会理事、私は会場校の大学助手であった。私を社会教育の森に引き込んだ恩人?の一人だ。その後の横山さんとのお付き合いがなければ、私は別の道を歩んでいたことは間違いない。
 その後、東京に移って公私ともにお世話になった。とくに学会のなかに「社会教育法制研究会」が発足し(一九六九年)、国立教育研究所を拠点に資料収集・復刻・刊行の作業が始まり、東京学芸大学研究室も学生ともども全力をあげて参加した当時のことが忘れられない。同じ頃、研究所では「日本近代教育百年史」編纂事業が開始され、横山さんが陰陽に果たされた役割は大きいものがあった。私たちはそこから多くのことを学んだ。
 この数年の共同研究から生れた成果は、同『百年史』第八巻(社会教育ー戦後)、学会年報15集、法制研究資料1〜15集、そして横山編『社会教育法成立過程資料集成』、同『公民館史資料集成』刊行へとつながっていく。
 史実をしっかりと復刻すること、それを社会的に共有すること、その蓄積とそこからの理論構築、そんな研究手法をもって、私にとってはその後の沖縄研究、さらに東アジア研究が展開していくことになる。手づくりの資料集をまとめるたびに、そして中国など東アジアの人たちと出会うたびに、これからも横山宏さんの威容を想い起こすことだろう。(和光大学) 
      

貴重な足跡を偲ぶ
  *小林文人 「東アジア社会教育研究」第7号(2002)
 
 『東アジア社会教育研究』では、東アジアのそれぞれの国や地域で、社会教育・成人教育の創設と発展に努力された先達の証言を収録してきた(韓国・黄宗建氏「自分史を語る」、本誌第4・5号)。社会教育・成人教育の分野では、学校教育以上に、このような先達たちの先駆的な役割が大きな意味をもち、その貴重な足跡を記録していく必要があると考えるからである。
 韓国に続いて、中国ではどんな方に登場してもらうか。台湾ではどうか、上海や広州ではどうか、など検討してきた。あわせて日本の戦後社会教育史では、どなたに証言をお願いするか。東アジアの視点に立って考えた場合、まずこの方以外にはない、と予定していたのが横山宏氏であった。
 横山宏氏は、いつ会ってもお元気で、若い後輩たちをときに励ましときに叱咤し、身体的にも精神的にも頑健そのもの、まさかこのように“急逝”されるとは夢にも思わなかった。もちろん10ヶ月の闘病生活はあったのだが、当初は入院されたことを知る由もなく、お見舞いしたときにはすでに身体的に衰弱しておられて、目を疑うばかり。ただ、精神的にはいつものような活気があり、それが何よりもの救いだった。
 ご逝去を知ったのは、出張先の沖縄、まさに“急逝”の報せ、無念の思いで通夜の席にかけつけたことを思い出す。
 横山さん(と呼ばせていただく)との出会いは、1960年、第7回日本社会教育学会研究大会・九州大学においてであった。すでに40年を経過している。その後の横山さんとの想い出は語り尽くせないが、とくに1970年代の戦後社会教育法制研究と資料復刻の共同作業から得たものは大きく、その後の沖縄研究と東アジア研究への志向、そして『沖縄社会教育史料』(全7集)と『東アジア社会教育研究』(全7号)刊行への重要な契機となるものであった。ご恩の大きさをあらためて実感している。
 残念ながら、戦後日本の社会教育をひとすじに生きられた証言を直接にお聞きする機会は失われた。今にして思えば、もっと多くのことを聞いておくべきだった。しかし、多くの著作・論文が残されている。また文書的記録ではないが、社会教育研究と実践、行政と市民、さまざまな社会教育運動、そして中国と日本、との間に人間的な関係を多彩に紡がれてきた。そこには横山さんだけが果たし得た独自の世界があり、かけがえのない役割があった。
 本号の「この人−先達の自分史」は、横山さんを追悼し、次のお二人の“横山宏先生”追慕の文章から、間接的に横山さんの“証言”を聞きたいと思う。上田幸夫(日本体育大学)・新保敦子(早稲田大学)両氏から追悼文を寄せていただいた。また業績一覧と略年譜も付していただいた。
 なお、『月刊社会教育』(国土社)2002年2月号が、「追悼・横山宏さんを偲ぶ」(津高正文、碓井正久、小林文人、淡島富久、上田幸夫)を掲載している。




月刊社会教育2011 【社会教育フロンティアC
 横山宏(1921〜2001)−戦後社会教育に独自の水路を拓く
                    *小林文人 「月刊社会教育」2011年7月号


1998年5月、北京にって(遺族提供)

 <プロフイール>
 1921年中国遼寧省生まれ。北京大学農学院卒。1947年文部省社会教育局に入省、1958年より国立教育研究所に勤務。1985年定年退職後、早稲田大学客員教授となり1991年に退任。この間、日本社会教育学会の創設、「月刊社会教育」編集、社会教育推進全国協議会の結成に参加し、社会教育ひとすじの道を歩む。公民館史研究会や日中教育研究交流会議の代表としても活躍した。2001年東京の自宅で永眠、享年80歳。
 

 戦後社会教育の創設を担ったパイオニアの中で、横山宏ほど独自の経歴と個性的な生涯を歩いた人はいない。中国に生まれ、日中戦争に従軍した。戦後の教育改革期より国家機関(文部省等)で社会教育行政・研究調査に携わり、早稲田大学・東京大学はじめ幾つかの大学で社会教育の講義を担当した。日本社会教育学会の中心メンバー、民主的な社会教育実践運動にも積極的にかかわった。行政官の経歴をもちながら、研究者、実践的運動家でもあった。社会教育との挌闘は半世紀に及ぶ。横山宏の個性によって独自に紡がれてきた細い糸、拓かれてきた小さな水路は、人と人との結びつきによって次第に糸の束となり、水路は次の水路を導いて、その流れはいま確かな拡がりをみせている。

 生涯を貫く三本柱
 横山の主著の一つ『社会教育雑記』(同時代社、一九八六年、以下『雑記』)が面白い。その「はじめに」次のような一文がある。「こうして、社会教育、中国、そして戦争の三つは、私の今日までをささえてきた三本柱のようなものであって、なにごとによらずこの三つにこだわってきた。このつっぱりがなかったら、今日の自分はなかったかも知れない」と述懐している。横山の社会教育への道は、その意味で、中国と戦争の問題と深く結びついていた。
 横山は自らの戦争・従軍体験について多くを書いていないが、問わず語りの回想はよく聞いたことがある。洛陽を旅したとき竜門石窟の前の河岸で「この辺りで敗戦を迎えた」という話は衝撃的であった。次の世代がまったく知らない痛烈な戦争経験をもち、中国への深い思いがあった。日中戦争への従軍は、自ら生まれた中国の地で戦うこと、同じ学窓に学んだ友人を敵とすることであった。敗戦の翌年に上海より日本へ復員。船が大陸を離れるとき、帰国への単なる欣びとはちがった「いつの日にか再び帰らん」の気持をもって中国大陸を凝視しつづけたという。
 社会教育との出会いは、文部省から始まる。小和田武紀(元北京大学教授、当時・社会教育局視学官)を訪ねたのが機縁となり、社会教育局に配属された。戦後新しく発足した社会教育局は、当時「異色の才が蝟集しており、社会教育創設の意気に燃え、活気に充ち満ちた"民主的"な雰囲気が溢れていた」(『雑記』)。寺中作雄、二宮徳馬、鈴木健次郎、井内慶次郎など、社会教育法の立法や公民館の構想普及に携わった人々との豊かな出会いがあった。文部事務官として担当した指導者養成事業(IFEL等)や一九五一年からの社会教育主事講習への関わりが大きな意味をもつ。都道府県の社会教育リーダー、研究者、意気盛んな社会教育実践家たちとの新しい出会いがあった。その後の国立教育研究所の調査研究活動も加わって、全国的な拡がりで幅広い人脈が蓄積されることになった。

 社会教育激流のなか信念をまげず
 戦後社会教育の研究・実践運動史を振り返ると、一九五三年(日本社会教育学会準備期、学会設立総会は翌五四年)から一九六三年(社会教育推進全国協議会結成)までの一〇年は大きな胎動・躍動の時期にあたる。横山はこの画期的な一〇年に積極的に、しかし複雑に関わった。一九五三年「日本社会教育学会設立の呼びかけ」の発起人(二六名)には名を連ねていないが、趣意書の文案づくりにあたっている(『雑記』)。『月刊社会教育』については、その前身ともいうべき社会教育連合会『社会教育』時代から「陰に陽にかかわって」きた。『月刊社会教育』編集には終生情熱を注いできた。社会教育推進全国協議会にも準備段階から参加、毎年の全国集会の常連として有名であったが、常任委員会メンバーではなかった。
 その背景には、一九五二年講和条約締結・日米安保体制前後からの、戦後教育改革への反動、「逆コース」といわれる文教政策転換の動きがあった。「虎ノ門界隈の雲行きが怪しくなってきて、文部省への出入口も身分証明書の提示が求められるという始末で職場も仕事もなんとなく重苦しいものとなってきた」(『雑記』)。国の社会教育施策の転換は、とくに一九五九年「社会教育法大改正」問題をめぐって国論を二分するかたちとなり、法改正に反対する学会と文部省との間に大きな亀裂を生じる結果となる。文部省関係の学会会員は全員脱会、二宮徳馬と横山の二人のみが学会に留まるという事態であった。その渦中、横山は自ら願って国立教育研究所に移るが、恐らく苦悩もあったであろう。しかし、大きな対立構図の中で、節を曲げず、社会教育の民主的な研究や運動を大事にしてきた姿が目に浮かぶようである。
 あの頃、横山の年賀状には毎年「日中友好」や魯迅の言葉が躍っていたことを想い出す。国交が正常化される以前において、中国は敵対視される状況が多く、「日中友好」はむしろ革新側のスローガンであった。横山の中国への深い思い、自己主張の勇気、秘めたる抵抗の精神、年賀状のわずか一行から、大きなメッセージを受け取った人は少なくない。

 戦後社会教育資料、共有の思想

 戦後社会教育の改革は、戦前との対比において画期的な意味をもち、今日までの日本社会教育の骨格となってきた。しかしその事実は歳月とともに風化し、資料も散逸・埋没しがちで、ときに好事家や一部研究者によって私蔵される場合もあった。貴重資料を保存・復刻し、ほんらい公的な社会教育資料を(私蔵させることなく)公的に復権し社会的に共有しようとする研究運動が、横山によって推進され、筆者も参加してきた。
 その出発は、日本社会教育学会におかれた「社会教育法制研究会」(宿題研究グループ、一九六九年発足)の活動である。定例研究会、資料収集、宮城から宮崎にわたる一〇県の地方調査等を重ね、収集・分析された資料は『社会教育法制研究資料』全一五集として公刊された(一九六九〜七三年)。その成果は学会年報『社会教育法制の成立と展開』(一九七一年)や国立教育研究所『日本近代教育百年史』(第八巻、一九七四年)に反映された。のちに主要部分が『社会教育法成立過程資料集成』(昭和出版、一九八一年)として出版されることとなる。その基礎となる学会法制研究会『資料』(全一五集)はそれ自体が稀少本となり、残念ながら古本市場にも姿を現してくれない。
 戦後社会教育史研究、資料共有化の運動は、その後に大きな展開をみせる。上掲『資料集成』の姉妹編として『公民館史資料集成』(エイデル研究所、一九八六年)が公刊され、『寺中作雄・社会教育法解説・公民館の建設』(国土社、一九九五年)が横山の手によって復刻された。一九八四年には「公民館史研究会」が発足し、横山はその代表であった。研究会は中断を経て、一九九〇年に再開され、意欲的な会報等が発行された。同研究会による『公民館史研究』創刊号(一九九二年)に、横山は「刊行のことば」を次のように書き出している。
 「船出に当たっては妄想は勿論、大言壮語も虚言も、ともに必要とはしない。ひたすらに社会教育の実践と理論の構築と展開とを志し、謙虚に公民館の歩みに学び、多くの先輩・先達の偉業を偲び、初心に返って、廃墟のなかに国民が願い、憲法が約束した平和と文化の砦としての公民館の創造を期して行きたいと考える。」
 その末尾に、共同研究の必要と研究方法論の確立を説き、「…その延長線上に公民館学会創設」を遠望している。日本公民館学会はその一〇年後に胎動し翌二〇〇三年に正式に発会した。
 これらの系譜と並んで、さらに別の発展も見えてくる。社会教育法制研究から胚胎して一九七六年「沖縄社会教育研究会」(東京学芸大学)が誕生し、約二〇年の活動を続けた。横山は初期の会員であった。研究会は七冊の『沖縄社会教育史料』(一九七七年〜八七年)を公刊し、沖縄史料の共有化を主張し実践してきた。一九九五年には東アジアに視野を拡げて「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC)へと発展、ほぼ毎月の定例会を継続し、沖縄だけでなく中国・韓国・台湾への調査活動を重ね、年報『東アジア社会教育研究』一五冊を刊行、研究通信「南の風」は二六五〇号を数えている。

 中国・魯迅研究と自分史の視座
 横山は日中国交回復(一九七二年)後、文部省派遣として初めて中国への在外研究が実現する。喜びにあふれる記録「下馬看花−中国六〇日の旅」(『雑記』所収)が興味深い。そのなかで北京師範大学・顧明遠(中国教育学会長)との出会いがあり、同著『魯迅・その教育思想と実践』(同時代社、一九八三年)が横山によって翻訳された。牧野篤・新保敦子等の協力を得て『対訳・魯迅画文選集』(同時代社、一九八八年)全五巻も刊行されている。横山主宰の「魯迅を読む会」は一九七〇年代から開かれ、少なからぬ社会教育関係者が"魯迅"を学んだ。一九八三年から九六年にかけて一二次わたって実施された「文化交流・社会教育訪中団」は、横山を介して多くの人が"中国"を知ることとなった。筆者もその一人である。横山が代表をつとめた日中教育研究交流会議は、横山没後、「横山宏記念学術奨励賞」を設けている。
 日本と中国の接点となった横山の果たした役割は大きい。それは、学会等の単なる知的交流にとどまらず、世界とくに東アジアの拡がりのなかで、日本の社会教育が"歴史"と向き合うことの大切さを求めてきた点にあったと思われる。自ら(冒頭に述べた)戦争体験を告発し、生活記録づくりや自分史の運動に関わってきたのも、歴史と出会うことと関係していた。中国の生活記録、日本の生活綴方運動への関心、旧「婦人学級」学習や新潟県十日町周辺の生活記録づくり(『豪雪と過疎と』未来社、一九七六年)、そして『成人の学習としての自分史』(国土社、一九八七年)編集等の仕事はそれを物語っている。晩年まで横山は首都圏各地の自分史づくり実践に深く関わってきた。
 横山を通して、多くの人と人が出会い、中国、戦争、そして歴史と出会ってきた。横山によって戦後社会教育の歩みのなかに、ひとすじの水路が拓かれてきた。その水脈がさらに豊かさを増し、若い世代によって継承・発展されることを期待しているに違いない。
 横山については、その没後、前記『東アジア社会教育研究』第七号(二〇〇二年)が追悼特集を組み、上田幸夫、新保敦子等による「抵抗と危機意識・横山宏先生が遺したもの」他(年譜・主要著作一覧を含む)が収録されている。




左より韓民(中国政府教育部)、新保敦子(早稲田大学)、横山宏氏、小林 (学会懇親会、19901013)



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