南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
2050号【2008年6月23日】
●<あれから50号>
南の風・復刊(3月18日)から50号を出すことができました。この間90日あまりが経過、早いものです。自由気ままな不定期の配信とお断りしましたが、訪日団・歓迎や総会・研究会の案内、そして年報第13号編集関連の記事など、TOAFAEC
活動の広報機能?を担っている一面あり、そう気ままにもいきません。
数人の方から、定期(隔日)発行の努力をしないように、という労りの助言をいただきました。有り難く身にしみました。しかし「風」への新しい期待もあってか、むしろ毎日発行だけは避ける努力をしているというのが偽らざるところ。寄せられたメールを一部割愛しながら、掲載予定記事が多い場合、3日に2回というかたちで対処してきました。このリズムを、まずは週に2回程度の発行にしたいもの。
近い将来にTOAFAEC としての独自の広報機能、年報編集としての本来の連絡網等を整備していただくよう、この機会に、あらためてお願いしておきます。いつまでも「南の風」が吹き続けるわけではありませんし、ホームページも併用していただければ、大丈夫!と思います。
もちろん「風」として側面的に協力していくことは当然のこと。そのことを前提に、組織的な制約からはそろそろ自由な立場で、風の吹くまま、成り行き任せに飛んでいく・・・そんな気分を楽しむときを夢見ています。今年、6月総会の席で、いろいろ考えることがありました。
沖縄「慰霊の日」。いま古宇利島では、「南風、さやさやの夜、夏ですね。」とのこと。(ふいの島日記・小浜区長、6月21日)
2049号【2008年6月21日】
●<いかに違うか−韓国と日本>
風・前号に掲載したように、福岡から釜山への訪問スケジュールがほぼ決まって、本号には事前学習会のレポートが届きました。ちょうど1ヶ月後の日程、準備も本格的に始まって、楽しみですね。言い出しっぺとして、一時ちょっと心配しましたが、梁炳賛さん(公州大学校)のご尽力があり、ホッと一安心しています。ありがとうございました。
この15日、福岡で行われた釜山訪問の事前学習会については、なんと東北大学・石井山竜平さんからのレポート(上掲)、しかも講師は鹿児島大学・金子満さんとのこと。全国的な展開?の感あり。いま(川崎だけでなく)福岡でも、韓国「平生学習」研究が始まった印象。まことにご同慶の至りです。
石井山さんのレポートのなかで、韓国の平生教育について、その「システムはあまりにも日本と似ている」という一文がありました。日本と韓国、その異同をどうみるか。相互の理解にとって日韓比較は今後とも重要な課題となりましょう。
日本と韓国は、歴史的な経緯から言っても、類似性はある意味で当然のこと。たとえば旧(韓国)社会教育法(1982年)の構成は日本社会教育法とよく似ていました。しかし、10年ほど前から韓国「平生教育」は、旧来の「社会教育」から脱皮して、独自の地平を積極的に歩み始めたように思われます。法制も、「社会教育法」を棄てて「平生教育法」(1999年)へ全面改正。しかもさらに今回の新・平生教育法の成立(昨年11月可決、今年2月施行)、注目すべき躍動です。地方教育行政機構も日本と大きく異なりますし、むしろその「違い」に注目する視点がいま必要ではないかと思われます。
新「平生教育法」については、「注目点・10点」を「南の風」に連載しました(→■)。日本社会教育・生涯学習法制との異同も視野に入れたつもり。もちろん不充分なもの、皆さんにご批正頂ければ幸いです。
2048号【2008年6月19日】
●<杉並の地域史運動>
東京・杉並の公民館史、その創設期において、日本の平和運動の歴史に重要な1ページを残したことはご存知の通り。「南の風」でも、HP(→■)にも、これまで不充分ながら、いくつか取り上げてきました。
この5年、散逸し風化しがちな地域の社会教育・市民活動資料を記録する取り組みが重ねられてきました。その一つは、言うまでもなく、原水禁運動に関する安井家(故安井郁氏は杉並区立公民館の初代館長、日本原水協の初代理事長)資料研究会。ほぼ毎月1回の研究会、今月で第43回を数えます。
あと一つ、その母体として「杉並の市民活動と社会教育を記録する会」があります。杉並公民館が誕生して50年、2003年に記念連続講座や「社会教育博覧会」等が開催され、公民館の歴史を記録した「学びて生きる−杉並区立公民館50年史(資料編)」、講座記録「時代に学ぶ地域活動」(2003年)、「“とき”を紡ぎ明日を紡ぐ」(2004年)等が刊行されてきました。さらに、「杉並の市民活動と社会教育のあゆみ」第1号(2006年)、第2号(2007年)が世に出て、いま第3号(2008年)の最終編集がすすんでいます。市民による取り組み、行政当局からの援助・支援はほとんどなし。
収録されているテーマは、女性活動、地域福祉、町会・福祉、社会教育(17項目)、PTA,消費者運動、環境アセスメント、情報公開、環境ネット、スポーツ、図書館・文庫活動(予定を含む)など。すべて市民活動の記録、そして市民有志による執筆と編集作業。5年の歳月を重ねてきたことになります。
安井研究会にはほぼ毎月出席、しかし「記録する会」には最近ご無沙汰が続き、数日前に“お叱り”のような、ラブコールのような電話を頂戴しました。18日午後のひととき、久しぶりに会場・杉並セシオンに出かけてきたところです。
今後この杉並の地域史記録を1冊にまとめることが「記録する会」の夢。思い深ければきっと夢はふくらみ、求めれば必ず扉は開かれる、そんな話になりました。ご声援ください。
2047号【2008年6月17日】
●<中国・韓国からの訪問団>
6月16日夜、上海・華東師範大学(教育学系・教育史専攻、呉遵民さんも)の皆さんが東京大学の招きで来日。到着その日にTOAFAEC
メンバーで歓迎夕食会(上野「今半」)を催しました。3月の同大学・8教授を迎えてほぼ3ヶ月、再び新しい友人との出会い、新進気鋭の溌剌とした皆さんたちでした。TOAFAEC
側は7名。ご参加の皆さま、ありがとうございました。
上海成人教育協会の葉忠海先生ご一行の訪日計画に話が及びました。日本の社会教育・公民館との研究交流の期待、これにどう応えるか。日本公民館学会(12月予定、広島)への参加希望が寄せられていますが(風2043号)、あと一度(念のため)夏の社会教育研究全国集会(第48回、札幌)の開催要綱−多彩なプログラム−をお渡しして、お誘いしておきました。上海に帰って、再度検討されるそうです。
全国集会に関しては、韓国から今年も20名前後の、これまでにないメンバーによる参加ニュースが伝わってきました。長澤成次さん(千葉大学、社全協委員長)からの「韓国代表団について」のメール。
「…実は、今日、韓国平生教育総連合会事務総長のヤンビョンチャン先生からメールがきまして、予定ですが、全国集会に20名ぐらいの参加と、平生教育振興院・パクインジュ院長、平生教育総連合会・チェウンシル会長が見えるということでした。パク先生がみえることになりますと、これまでは、総連合会の会長でしたが、今度は、韓国の国家レベルの平生教育振興の責任者ということになるかなと思います。… とりあえずご報告まで。」(Sun,
15 Jun 2008 21:25)とのこと。
全国集会を舞台とする日韓交流はすっかり定着した感じ、これが東アジアへ拡がっていけば、ますます面白くなりますね。
▼華東師範大学・歓迎夕食会(上野「今半」、080616)
2046号【2008年6月16日】
●<第83回東京竹富島郷友会総会>
岩手・宮城の大地震、激しい山崩れの映像が報じられる一方で、東京では南の竹富島郷友会の総会・懇親会が賑やかに開かれました(6月15日)。数えて第83回、つまり1925年から始まった歴史ある郷友会。
親島の戸数はわずか160戸あまり。その小さな島から、これだけの人たちが大都会で頑張って、世代を重ね、お互いの郷土意識(「うつぐみ」の精神)をバネに、みごとなシマ共同体を創り出してきたことに驚きます。繰りひろげられた懇親会の演し物も、「庭の芸能」「舞台の芸能」の組み立て、秋の種子取祭を目の前にみる思いでした。
そういえば、昨年の総会は8月。あれからほぼ1年です。私たちは昨年4人参加しましたので、今年も4人分の席が用意されていました。しかし当方の皆さんへの案内が不充分、結局は一人での参加、恐縮してしまいました。当日の「活動記録」「総会議案書」の冊子(「たけとみ」Vol.46)は色刷り30ページを超える力作。この1年の記録のなかには「多くの郷友が参加し熱気あふれる総会」として昨年の記事・写真(八重山毎日新聞)が掲げられ、私たちも写っています。山口真理子さんの笑顔が印象的。
冊子のなかには、上勢頭芳徳さん(喜宝院蒐集館長)「竹富島の指針−うつぐみの心・再考の時」や狩俣恵一さん(沖縄国際大学教授)「竹富島観光の行方−星野リゾートと向き合うことの重要性」などが収録され、また最新の「竹富島の概況−2008年4月春期清掃検査より」も紹介されていました。
竹富島から宇根勝末さん(新公民館長)もはるばる出席されていました。7月の竹富島・公民館史調査のことを直接にお願いできました。
▼「世曳き」竹富郷友会懇親会(東京・大井町キュリアン、080615)
2045号【2008年6月14日】
●<再び映画「ひめゆり」>
東京・東中野(JR)駅北口の映画館「ポレポレ東中野」は、この2週間ほど「小沢昭一が自ら選んだ−僕の映画史」16本を一挙上映していました。小沢昭一という俳優はいつも気になる存在。同じ世代というだけでなく、その昔、ある人が「・・・小沢昭一に似てるよ」と評したことがあったからです。どこが似ているのだろう? 当の自分は、似ているとはあまり思っていないのですが。
主役というより、いつも脇役。演技が個性的、ときどきピカリと光る。16本のなかに観ていないものもありましたが、なぜか観たことがある「新・日本の放浪芸」に出かけてきました。前半と後半に分けて全4時間。疲れましたが、あらためての充足感。貴重な記録です。「日本の」となっていますが、突然にインドの大道芸や、韓国の「ナムサダン(男寺党)」が登場したり。小沢は、ここでは演技者というより、フィールドワーカーです。この点は似ているかも。
ポレポレ東中野は、小沢の映画史に続いて、再び「ひめゆり」を上映するとのこと。柴田昌平監督「ひめゆり」については、ちょうど1年前の今頃、本欄でも紹介。ホームページ「南の風」目次を検索で調べてみたら、主な記事だけでも5回ほど。観たよ、と寄稿もいただいています。
この1年、「ひめゆり」は全国各地で上映され、キネマ旬報・文化映画部門ではベスト・テン第1位に輝いています。今年の沖縄慰霊の日に次のゲストを招いて特別イベントが行われるそうです。与那覇百子(元ひめゆり学徒生存者)、寿[kotobuki]、伊藤剛(ジェネレーションタイムズ編集長)、柴田昌平監督、宮沢かなえ(絵かき)。ポレポレ座(ポレポレ1F)、6月23日18時半開場 19時スタート(〜21時)。
鷲尾真由美さんから「沖縄大学に学んで」を頂いています。お久しぶり、興味深く拝見しました。長文なので、次号に掲載します。
2044号【2008年6月13日】
●<沖縄大学50年>
新しい大学宣言「地域共創・未来共創の大学へ」(
→■)。沖縄の“地域と共に生きる”大学の挑戦。じっくりと読みました。
はじめて沖縄大学を訪問したのは、1976年12月。この日のことは忘れません。あの頃は沖縄にほとんど知己はなく、「月刊社会教育」や日本社会教育学会のことを知っている人もあまりいない。道なき荒野?に分け入る思いで、やっと平良研一さん(当時、沖縄大学・学生部長)の名を探し出し、訪ねて行ったのです。案内役は上原文一さん(具志頭村社会教育主事、当時)でした。これに故玉城嗣久さん(琉球大学)や喜納勝代さん(歌人)、さらに新城捷也さん(県教育庁)、当間(名城)ふじ子さん(那覇市)、玉那覇正幸さん(宜野湾市)ほかの皆さんとの輪が拡がって、那覇「おきなわ社会教育研究会」が出発する(1977年9月〜)という経過でした。そのスタートは沖縄大学訪問の日とも言えるのです。
東京の「戦後沖縄社会教育研究会」(1976年9月〜)と連絡をとりあって、お互いの共同研究をまとめた本『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究』(1988年)を上梓、平良さんと小林が共同編集責任者となりました。沖縄の社会教育、とくに戦後史に焦点をあてた初めての出版。
沖縄大学は、1972年の本土復帰前後、その存続をかけて「私大統合」を闘った「沖大存続闘争」の歴史をもっています。たしか文部省前での座り込みも。その国策への抵抗の闘いは、現在の沖縄問題にも通底するところがあると言われます。「沖大の闘いは、沖縄の闘いでもあったのだ」と。それだけに「地域に根ざし、地域に学び、地域と共に生きる、開かれた大学」の理念が深く心に響いてきます。「学の独立」をうたった初期の早稲田の歴史、いま法人化のなかで疲弊しつつある旧国立大学の動向などなど、関連して深く考えさせられるところがあります。
私が勤務した和光大学は沖縄大学と長い付き合いがありました。理念を共有するところがあり、学生間の交流も活発。講義に招かれたり、和光の移動大学を沖大で開催したり、平田大一(和光大学出身)を小浜島から招いて、ともに歌ったことなど懐かしい想い出。
2043号【2008年6月11日】
●<華東師範大学の皆さん、再び東京へ>
華東師範大学・教育学系から、3月の来日・沖縄訪問(
→■)に続いて、5人の学者が6月16日より1週間あまり日本に滞在されます。また同じ上海から日本の社会教育関連集会・学会への参加希望(本号掲載)が寄せられました。近年の中国の経済発展・財政好況を反映して、ここ数年、潮の流れのような訪日の動き。これにどう対応していくか。韓国との研究交流を含めて、日本の学会や団体の力量が問われるところです。
私たちのTOAFAEC は小さな研究サークルに過ぎません。しかし東アジア相互の研究交流について、社会教育の領域では、ある先駆的な役割を担ってきたように思われます。もちろん、まったくの微力!
お金はありませんが、草の根の国際交流がどんなに大事か、ともに友情を深めていこうという思い、その心こそが何より求められていると考えてきました。とくに上海は、呉遵民さんが架け橋となって、幾重もの交流の輪が拡がってきた歳月。また別に(閘北区では)袁允偉・羅李争お二人の努力があって“ぶんじん”と合作学院づくりが胎動した一時期もあったほど。残念ながら実現に至りませんでしたが・・・。
今回の華東師範大学ご一行は、呉さんを通して「…もしご都合がよければ、16日の夜に先生のお宅までお邪魔することはできませんか?」とのこと。“風の部屋”に関心がおありのようでした。しかし賓客を迎えるにはあまりにもせまい空間。平にご容赦を願って、滞在のホテルに近い上野あたりに席をつくり、歓迎の夕食会を催すこととしました。急なことで、広く呼びかける機を逸しましたが、もし参加ご希望の方があれば、ご一報下さい。呉さんからは「…新しい友人をご紹介いたしたいです」とのメール。
社会教育研究全国集会(8月、札幌)や日本公民館学会(12月、広島)等のことは、その席であらためてご紹介することにいたしましょう。
2042号【2008年6月9日】
●<学会二日目・午後のレストラン>
TOAFAEC 総会(6月7日)は、予想通り?の少ない出席でした。例年にならって六月集会に合わせての開催でしたが、かってのように学会理事会から駆けつけるというかたちにならず(会場も離れていた)。別の日程の方がかえっていいのでは・・・と思ったり。皆さん、忙しくなりました。
総会の議論のなかでは、会の活動・情報の共有化をどう図るかの課題が記録されています。
→■ しかし、ほぼ隔日のリズムで発行してきた「風」の立場から言えば、これほどの密度と速報性をもって通信が出ている会もそうあるものではない、とひそかに思っています。
学会六月集会の二日間(会場・日本社会事業大学)は、不規則な参加ながら、久しぶり大橋謙策さん(学長)に会ったり、韓国向け出版『日本の社会教育・生涯学習』原稿・リライトに協力していただいた人たちにお礼を言ったり。なかに厚かましくも3度目のリライトをお願いした方もあり、快く話を聞いていただいたことに感謝しています。
学会プログラムが終わった8日午後は、上野景三さん(佐賀大学)を囲んで、いい時間をもつことができました。清瀬駅前のレストラン、ビールを片手に、「地域づくりと社会教育」の現段階をどうとらえるかの論議。李正連さん(名古屋大学)、浅野かおるさん(福島大学)も一緒に、思わぬミニ編集会議となりました。気持ちよく酔いながら、こんな議論を重ねていけば、いい本づくりに結実すること疑いなしと。
急なお願いでしたが、旅先の姜乃栄さん(日本希望製作所)から日本の「まちづくり」動向に関する興味深いファイルを拝受。当日、上野さんにもお渡しできました。どうも有り難う!
2041号【2008年6月8日】
●<メールいろい>
「南の風」にはとくに紹介していませんが、昔の留学生や旧知の人からメールが舞い込むと嬉しくなります。15年ぶりか、懐かしい限り。お一人は金慶淑さん(東京学芸大学・院修了)、いま別府大学教授。新しく刊行された「日本人のためのハングル」教科書2冊も送っていただきました。「南斗図書」刊。序言には、「どの職業の方でも、入門者から高級者に至るまで、韓国語を体系的に身につけられるように」編集されたとのこと。有り難く拝受。しかし、いま語学習得の余力なく、宝の持ちぐされ。
次のお一人は、20年程前の社会教育研究全国集会・福山集会の現地実行委員会の中心だった池田敏彦さん(当時、福山市職労)。すでに退職されていました。先日、沖縄に行ったそうで、そこで「ぶんじん」を突然思い出したそうです。当時、「読谷村が面白い!」とさかんに言っていたけれど、「なぜ読谷村なのか?」との質問。沖縄では、わざわざ読谷村まで足をのばしたそうです。「南の風」前号を送り、7月上旬の名護への旅を誘っておきました。また「なぜ名護なのか?」と聞いてくるんじゃないか、と楽しみにしています。
ご存知・上海の呉遵民さんからもメール。風・前号に載せた記事への返信。一行は華東師範大学5名。6月16日に東京大学の招きで来日し、東京でのスケジュールのあと、九州をまわって帰国するそうです。一夜、食事をすることにしました。
昨日7日は日本社会教育学会六月集会。そして夜はTOAFAEC 総会。さきほど酔って帰ってきたところです。総会では、かなりの激論?もあり。親しい仲だから言い合えることもあるけれど、やはりイヤなひとときです。後味もよくない。楽しそうに飲んだふり、しかし心からの酔いには至らず。こういうとき、やる気は萎えて、「風」も止めたくなります。誰か当夜の記録は書いてくれるのかしら? 本号では、総会の直前、あわただしく決めた「2008・七夕の会」ご案内!
→■
2040号【2008年6月6日】
●<名護・竹富への旅計画>
3月に中国(上海)の皆さんを沖縄に案内してすでに3ヶ月。話題の多
い1週間でしたが、その際に出た4つの企画を「酒の座の戯れでなく」
として、風2010号(20080407)に書いたことがあります。その3番目に
掲げた7月の沖縄訪問案。
7月初旬の「サガリバナ」(澤藤、夜に香り高く咲く、名護市の花−下掲・写真)季節に、島袋正敏さんの庭で、花を愛でつつ、これからを語る会をしようという企画。7月6日(日)の日程となりました。これまで頑張ってきた名護市教育長・稲嶺進さん(あの日・博物館中庭で上海歓迎のカチャーシー・絶妙!)が退任されることになり、進さんの労をねぎらう会にもなりましょう。
3月は中国客人の案内役として、気遣いを要する旅でしたが、今回は花を愛で酒に酔う夜が楽しみ。都合がつく方はご一緒いたしましょう。
その数日後は、八重山・竹富島へ。阿佐伊拓さん(NPOたきどぅん)からお誘いいただきました(風2037号)。7月11日〜12日、竹富「西塘大祭(西塘ばんはじり)」、夜ごもりが行われるそうです。「…竹富公民館の神事に対する動き、神司の儀式に対する姿勢などがご覧いただける」(阿佐伊)とのこと。あわせて「公民館議会」の歴史について関係者とお会いし、資料などを拝見しようという計画。上勢頭芳徳さんにご相談させてください。
名護と竹富のスケジュールの間に、もし段取りができれば、戦後沖縄青年団運動について証言を伺う機会をもちたい、といろいろ欲張って考えています。7月12日(あるいは13日昼)には帰京のつもりです。
明日7日(19:00〜)はTOAFAEC 総会(高井戸)、皆様のご出席を!
2039号【2008年6月4日】
●<故郷を離れて58年>
私たちの研究会で、上原信夫翁(84)をお招きしたのは、2004年11月の第102 回研究会。それから5回にわたって、激動の東アジア(中国)を駆け抜けた稀有の戦後史証言をお聞きしてきました。毎回の記録は不充分ながらホームページに残されています。→
■
国頭・奥集落のご出身(1924年生れ)。旧満州→関東軍・宮古島で終戦→戦後山原で青年団運動→沖縄最初の政党「沖縄民主同盟」創設に参加・青年部長→中国へ密航(1950年)→日中国交回復後ようやく帰国(1974年)→その後は財団法人・中国研究所事務局長、日中留学生援護協会理事長など。その人生はまさに波乱万丈、証言をお聞きするたびに圧倒されてきたものです。
故郷を離れて58年目、この5月31日にご家族で奥区に帰られ、「区民をあげての盛大な歓迎会」となったそうです(沖縄タイムス記事・6月1日)。その情景が目に浮かぶようです。
中村誠司さん(名桜大学)からもメール(私信)あり、学生合宿で奥に行ったその日が歓迎会当日、「夕方、旧共同店前でばったり出会いました。すこぶるお元気なご様子でした」と。
私たちの研究会でのお話はいつも熱が入り、なかなか前に進まず。5回目の記録では「今回のお話で一区切りの予定でしたが、1950〜51年密航の回想で時間切れとなりました。できればさらに次の機会をお願いすることになりました。」(第124
回研究会、2006年12月22日)
詳細な『上原信夫オーラルヒストリー』(2005、政策研究大学院大学・COEオーラル政策研究プロジュエクト、A4版273頁)を頂いたこともあり、そのままになっています。また上原信夫翁にお会いしたくなりました。
▼上原信夫氏(第124回定例研究会、高井戸、20061222)
写真移動
【参考】
<第118回TOAFAEC定例研究会(2006年5月26日)案内>より抜粋
にちじ:2006年5月26日(金)18:30〜20:30
ばしょ:(杉並)高井戸地域区民センター第5集会室
なかみ:アジアを駆けぬけた私の戦後史(その4)
おはなし:上原信夫氏 聞き手:小林文人氏
*終了後:
交流会「イーストビレッジ」(03-5346-2077)高井戸駅近く
今回は上原信夫氏のお話の4回目です。前回は1947年の沖縄民主同盟結成と琉球共和国樹立への思いを語られたところで時間となりました。81歳になられる上原信夫さんは、常に被抑圧者の連帯の視点から力強くお話を展開され元気付けられます。これまでの3回分のお話のまとめを小見出しだけ記せば、以下のとおりです。
○第102回研究会2004年11月26日(その1) 各研究会記録→■
・明治政府へのレジスタンスだった祖父と祖父を受け入れた奥
・ブラジル移民かなわず満蒙開拓青少年義勇軍へ
・反満抗日、被抑圧者の連帯を知り医者を志す
・関東軍に入隊し南下して宮古に上陸
・「やんばる班長」九死に一生を得る
○第104回研究会2005年1月28日(その2)
・宮古島での戦闘と負傷〜古年兵、朝鮮人軍夫、野戦病院など
・天皇への「忠誠心」について
・上官から突然の死刑宣告−逃亡、潜伏、英軍の進駐
・密航、収容所を経て故郷の奥へ
・青年文庫の開始と在来豚の飼育
○第113回研究会2005年12月9日(その3)上掲写真
・青年を中心とする農民自給運動
・南部彷徨をへてMPに逮捕される〜山城善光と出会うまで
・山城善光、桑江朝幸、仲宗根源和らと沖縄民主同盟結成
・沖縄民主同盟への思い〜琉球共和国樹立
○第118回研究会 2006年5月26日(その4) →こちら■
○第124回研究会 2006年12月22日(その5)
2038号【2008年6月2日】
●<追悼集「清水義弘、その仕事」>
近年は、できるだけ本屋に寄らないようにしています。寄っても買わない必死の努力。しかし、なかなか思う通りにいきません。重い袋をさげて帰る羽目に…。昨日(5月30日)は雨も降っていて、本を濡らさないよう、いつまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ、と自嘲しつつ、疲れてしまいました。
昨年、清水義弘先生(教育社会学、東京大学名誉教授)が亡くなられました。その追悼集が標記の1冊(東信堂)、昨年暮れの刊行。思わず手にとって、読みふけりました。60人の寄稿者には永年の知友もあり、その大半はよく知っているお名前。実は、社会教育研究の道を志す前は、教育社会学を専攻、学会の仕事もしていた関係からです。大学で最初に担当した講義は(社会教育ではなく)社会学と教育社会学でした。
それだけではありません。清水義弘先生とは同郷、旧制中学の先輩であり、教育社会学を専攻している後輩として、いろいろとお世話になった一時期があったのです。大田区のお宅に何度かお邪魔したこともあります。「怖い先生」という一面があったようですが、後輩にはやさしい方でした。別の大学への進路について声をかけていただいたことも思い出されます。結局は動きませんでしたが・・・。
ページをめくっていくと、突然に小林の名前を出している一文もあり、また旧制中学の応援歌「白旆(はくはい)の歌」を先生とともに歌ったことを回想している人(後輩にあたる)もいました。
教育社会学会はいち早く「教育社会学辞典」(1967年、東洋館)を世に出しましたが、先生はその編集代表。私たちもいま「社会教育・生涯学習辞典」を編んでいて、その道を追っかけているようです。
2037号【2008年5月31日】
●<福岡グループの釜山訪問計画>
7月の韓国訪問をめぐって、いま準備・調整のメールが日韓を飛び交っています。さすが〜!という感じ。韓国側では、公州大学校・梁炳賛(ヤン・ビョンチャン)先生が丁寧に対応していただき、頭が下がります。有り難うございます。
福岡グループの釜山訪問(7月19〜21日)に関して、ヤン先生からいくつかお尋ねがありました。橋渡しの李正連さん(名古屋大学)を通して、次のような趣旨の返事を書きました。本欄にご紹介しておきます。
…福岡の横山孝雄さん(福岡市社会教育研究会)にお尋ねの梁メールを転送しようかと思いましたが、とりあえず分かる範囲でのお答えです。
福岡から釜山に行く人たちは、有志サークル「福岡市社会教育研究会」のメンバー。自費による訪問です。釜山との今後の交流のきっかけをつくりたいという思いからです。参加者は公務員(公民館等)とそのOB、これに大学関係者(九州大学院生を含む)が加わって12名前後。
福岡からの社会教育・生涯学習をテーマとする韓国訪問はもちろん初めて。福岡と釜山は姉妹友好都市ですが、とくにこの領域での交流はこれまでありませんでした。
これからどのようなかたちでの相互交流・協力が可能か。公的な機関や団体の取り組みに展開できるか、今後の大きなテーマ。十年後は、いまの川崎と富川のような、密接な都市間の、市民相互に拡がる交流・友好を実現するのが夢です。
公的・行政的な関係者の交流だけでなく、地域民間(NPO的)活動の交流も広く考えていきたいのですが、今回はむしろ前者の出会いがはじまれば、一つの収穫です。7月19日午後から20日(日曜)をはさんで21日午前まで(午後の船で帰る予定)の短いスケジュール、無理のない範囲での訪問・交流(のきっかけ)ができればと願っています。
2036号【2008年5月30日】
●<ふたたび花は開く>
昨年12月に、板橋文夫さん夫妻が来訪されたこと、父子共同による労作の出版(『勤労青少年教育の終焉−学校教育と社会教育の狭間で』、
随想舎)のニュースをご記憶でしょうか。(風1952号、12月5日)。
その折「まず先触れで花の鉢が到来…」。本の出版を祝って「むしろこちらから花束を用意すべきだったのに・・・」と書いたことがあります。それからすでに半年が過ぎました。
花の鉢は、みごとな胡蝶蘭でした。雑然たる書斎に真っ白の華麗な空間、しばらく優雅な姿を楽しみました。あたかも魑魅魍魎(ちみもうりょう)の下界に降り立った鶴のような趣き。
花が終わったところで、昔ある人から教わったことを思い出し、花茎の上の方から切って、次の花を待ちました。置場所や室温、水やりも慎重にして冬を越し、1ヶ月前あたりから二度目の蕾が姿を見せてくれたのです。そして1週間前に待望の一輪が咲き始め、いま5つ目の蕾が開こうとしています。
新しい花茎は、太陽がまわる窓へ向かって伸びていきました。着実に蕾の数を増やし、花の命とそのひたむきな花の心をまざまざと教えてくれました。花は夜開く、という言葉も実感しました。花茎は全部で4本、それぞれに7つの蕾。その横に故黄宗建先生の写真(ともに「花」を合唱している)を飾って…、ぜいたくなひととき。これから花に励まされて、仕事が進めばいいのですが、そうもいかない。夜のワインは、花の心と重なって、酔いもまた静かに深まるのです。
明日(5月30日)は、旧小林ゼミ(和光大学)卒業生の結婚式、思わず花の話となりました。
▼花は夜ひらく(永福、080530)
2035号【2008年5月28日】
●<7月韓国訪問スケジュール>
まず前号本欄に、6月のTOAFAEC 総会日程を4日と誤記したことのお詫び。正しくはもちろん7日(土)です。本ページ(下記)は修正。このような不注意な間違いが、だんだんと多くなる予感あり。あらかじめご容赦を願っておきます。
この数日で、7月後半の韓国訪問スケジュールがほぼ確定しました。関係の皆さまのご努力によるものです。今回の韓国訪問計画についてはすでに「風」でも何度か書いてきました。これまでにない期待あり。
今のところ、釜山を訪問してこれからの社会教育・平生学習の相互交流をめざす福岡グループは12名の参加。また後半は、準備中の韓国向け出版の編集委員会メンバーが川崎ほか6〜7名の皆さん、思わぬ大所帯となりました。どこかで日韓の国際シンポでも開きたいような顔ぶれ。
前にも触れましたが、今回の旅は2006年に亡くなられた故黄宗建先生のご命日(7月20日)に合わせてのスケジュールです。忠清北道の先生が眠る墳墓の地は、親友の金済泰さん(牧師)から見せていただいた写真では、いつも松風がさやかに吹き渡っているようなところ。そこに私たちの共編著『韓国の社会教育・生涯学習』とともに、日本の銘酒一献を捧げたいと思っています。先生の酒の座はいつも楽しく、歌声と想い出がいっぱい残っています。
ぶんじんのスケジュールは、7月18日にまず博多へ移動。19日に福岡グループと一緒に博多港から釜山港へ。釜山に2泊して、21日夜は忠清北道(清州)で編集委員会グループと合流。翌22日午前に黄宗建先生の追悼、この日は公州泊。23日にソウル、24日は「学志社」へご挨拶、この間に現地編集会議等、という予定。新しい出会いがまた楽しみです。*訪韓予定表→■
肥後耕生さん(韓国・中央大学校・院)には釜山より同行いただくことになり、ご苦労さまです。また公州やソウルでは、公州大学校・梁炳賛(やん・びょんちゃん)先生にお世話になると思います。どうぞよろしくお願いします。
2034号【2008年5月26日】
●<年報・第13号編集会議>
5月24日は「東アジア社会教育研究」第13号の編集会議(風の部屋)、ご出席の皆様、ご苦労さまでした。風邪のための欠席など人数(出席者6人)は4月会議より少なかったものの、内容的には東アジアへ拡がる広い視野をもって豊かな議論となりました。
とくに北京から韓民さんの執筆構想(5本、風・前号)が届いて、上海の呉さんの提案とも重なり、本格的な中国・特集への期待がふくらみます。韓国についての執筆も、それに並ぶ第2特集(7本、風2027号)の構成。いま「東アジア社会教育研究」編集は新たなステップに到達した感があります。加えて沖縄(3本+α)、台湾、モンゴル、そして特論・交流エッセイと並ぶ予定。
いずれ編集長から記録が寄せられると思います。また6月7日予定のTOAFAEC
総会でも報告されるはず。ただ課題は一つ。執筆が順調にすすみ、締切りに間に合って原稿が揃うかどうか。それぞれの翻訳作業もありますし、執筆者各位のご協力、どうぞよろしくお願いします。
編集会議の残りの時間で、総会に向けての準備も。会計は思いのほか良好であること、これは珍しい。あわせて、常任委員や編集委員の体制についても忌憚のない意見が出ました。
とくにTOAFAEC の常任委員会の体制が重要、また年報編集委員会が実質的組織として活発に機能していく必要、新しい世代による取り組みが待たれることも自明、今後の歩みに向けての期待大!です。
2033号【2008年5月24日】
●<「光州5・18」>
ある大学の要職?をつとめる人から「…お元気そうで何よりです。私はここ3週間、風邪のため、研究ほとんど放棄、読書・映画三昧の毎日」とのメール。なになに・・・研究放棄!読書・映画三昧!なんと羨まし! そうだ!とばかり、風邪でもないのに追われていた仕事を直ちに放棄、まだ観ていなかった話題の韓国映画「光州5・18」に出かけてきました。
「風」でも話題に(2028号〜29号)。新聞でも大きく取り上げられ、韓国では観客動員数740万人にのぼる大ヒットとか。これまで詳細が見えなかった光州事件(1980年5月18日〜27日)の全貌がはじめて映画化されたのです。ドラマ仕立てながら、映画の冒頭で「この物語は実話」に基づいていることが大写しに。
市民や学生の運動が、火焔瓶や投石で抵抗する状況はこの目でも見てもきましたが、市民軍が銃をもって本格的に蜂起する都市の姿は(わずか10日間とはいえ)アジアでは初めての歴史だったのではないか、と思いました。
私たちが初めて光州に行ったのは、たしか1996年3月。文解(識字)実践の「希望学校」を訪問した後、事件の犠牲者を祀る市民墓地に詣でました。島袋正敏さんや末本誠さん、それに和光大学と東京学芸大学の学生有志による旅。ソウルから合流された黄宗建・金済泰の両先生も一緒に、夜はみんなで沖縄の歌「花」を合唱したことを思い出します。そうそう、比嘉久さんもいた。「花」は愛と平和の歌、その後の黄先生の愛唱歌となったのでした。
付記:別の機会に黄先生と二人で「花」を歌っている写真(ソウル、1999年3月1日)あり、HP「追悼のページ」→■にアップしています。同じ写真を書斎にも飾っています。
▼左・黄宗建先生、「自分史を語る」収録後、ともに「花」をうたった。(ソウル、990301)
2032号【2008年5月22日】
●<教育長のバッジ>
5月5日創刊の新版「公民館の風」(内田純一・編集発行)は順調に軌道にのった感じ。昨日の第4号(5月20日発行)には「岡山市公民館の近況」等が収録され、内容的にも読み応えある構成、これからの歩みが楽しみです。
昨夜(5月20日)の第140回定例研究会(永福町)では、このたび滋賀県愛荘町・教育長に就任された渡部幹雄さんを招いて、図書館と教育行政に関するお話、続いてお祝いの乾杯の夜でした。社会教育畑からの教育長の誕生、ユニークな仕事振りに共感、期待大!です。横浜等から新しいメンバーも見えて、140回を記念するにふさわしい会でした。中天には満月。人数がやや少なくて残念。
そういえば、内田純一さんと渡部幹雄さんは同じ研究室の同期の仲間。20年ほど前のこと、いろんなエピソードが残っています。それ以前に、渡部さんとは(青年団活動の時代から数えると)もう30年ものお付き合い。ダジャレ好きの昔を知るものには、教育長などという、教育行政を束ねる要職につく人とは夢にも思いませんでした。人生にはいろんな道が待っているもの、それも突然に・・・。持ち味の豊かな感性を大事にして、個性的な教育長として歩んでいってほしいと願いつつ、紹興酒の杯を重ねました。
隣に座っていた渡部さんから、キラキラ輝く「教育長バッジ」を見せてもらいました。小さな桐箱入り。政治家の議員バッジと似ているようで似ていない、金ではなく銀色の静かな輝きでした。
▼渡部幹雄さん(永福区民センター、080520)
2031号【2008年5月20日】
●伊藤長和(Sun, 18 May 2008 21:57) *川崎市教育委員会
<モンゴル料理「泉」の開店>
5月18日(日)、モンゴルの青年チャガン・ボルグ(白 泉)さんが経営するモンゴル家庭料理店が開店しました。池袋駅西口の便利な場所です。開店祝いは、套図格(トク・タホ)さんの司会で,
馬頭琴演奏者、モンゴルの歌姫も出演されて、賑やかな祝宴となりました。
TOAFAECからは、石倉、岩本、伊藤が出席しました。すてきなお店です。是非皆様もお出かけ下さい。お店の名は「ボルグ(泉)」です。丸井の先10メートル先の梅本ビルの2階です。電話03−3590−7556
●<祝開店! 白き泉よ、水を涸らすな!> (ぶ)
チャガンボルグは、小林研究室にとって、たしか3人目の内モンゴルからの留学生でした。「南の風」では早い時期からの常連メンバー。しかし、この1両年は(アドレス帳更新により)姿が消えていました。
南の風(目次)を検索で調べてみると、第679号(2001年5月16日)にこんな記事を載せています。ちょうど7年前です。
「…和光大学・小林研究室には、いまモンゴル族系の研究生が4人いる。そのうち3人は牧民の出身である。ご存知の方も多いボヤンバートル(現在、フフホト在住、内蒙古師範大学)の研究室在籍をきっかけに口コミで(集めたわけではないが、いつの間にか・・・)集まってきた。物価高の東京で苦労しながら、誇り高く顔をあげ、よく飲み、よく歌い、頑張っている。
この人たちを中心に、研究室では(東京学芸大学時代のように)東アジア留学生・特別ゼミが始まろうとしている。上記のチャガンボルグは、すでに来日して3年。昨年末に九州大学大学院(核融合を研究していた)を修士論文作成直前に退学し、社会教育の研究を志して、将来モンゴルのために尽くしたい、と小林研究室にやってきた。すでTOAFAEC定例研究会の常連だ。…」
フフホトに帰っていたこともあり、この間、音沙汰のなかったチャガンボルグから、数日前に突然の電話でした。モンゴル家庭料理「ボルグ」を開店する、5月18日に開店祝いをしたい、とのこと。1月から準備が始まっていたそうです。残念ながらこの日は先約あり、やっと夜8時過ぎに駆けつけることができました。思いのほか広いスペース。いい店です。義兄のトクタホをはじめ、兄弟姉妹の力を結集しての新しいモンゴル料理店のオープン。伊藤長和さんの紹介(本号)にもあるように池袋駅からは至近の距離です。祝開店!の挨拶をしました。ボルグ(泉)の水を涸らすなよ!
みんなの期待に応えて、頑張れ!と。
付記:ホームページのカウンターは、ただいま、99998(19日午後6時現在)、すぐに10万回を超えます。どなたがヒットしたか。またさきほど、那覇の名城ふじ子さんより電話あり。上海・蘇州に旅したこと、上海では、華東師範大学の杜先生、呉先生のお二人にお会いできた旨の報告を頂きました。
2030号【2008年5月18日】
●<体のメンテナンス>
すでに5月も半ばを過ぎました。4月から5月にかけて、転勤や転居、退職や転身など、いろんな「ご挨拶」を頂戴しています。また新しい著作や論文なども。差し支えのない範囲で「風」にご紹介したいところですが、入力の余力なし。
「ご挨拶」のなかには、メールよりも、思いのこもった文言や、含蓄ある決意など少なくありません。メールで送っていただければ、ただちに風・収録の作業ができるのですが・・・。
実は、連休前に右手首に腱鞘炎的な局部の痛みがありました。近くの名医(妻が通っている整骨院)で診てもらったところ、「肩、首、腕にかけて疲労がたまっている、その無理が手首に出ている、あまりつめて仕事しないように、パソコンの打ちすぎはよくない、目にも悪いし、きっと血圧にも・・」など、いろんなコメントを頂戴しました。後期高齢者として謹んで拝聴。
年令の割には元気、そのことが、体の中に滞積してきた老化をかえって見えにくくしているようです。頭が劣化してきていることは充分に自覚している毎日、しかし、体についてはまだ大丈夫!と過信してきたところがあったのです。
背中から首のまわりをしっかりとマッサージしてもらい、手首に膏薬・湿布を張って、痛みは1週間ほどでとれました。しかし「これからは体のメンテナンスが必要、ときどき“手入れ”しましょう」と名医のアドバイス、いまマッサージに通っています。幸い家から近くて助かりますが、待合室の時間が苦痛。以上は、頂いた「ご挨拶」等を入力しない言い訳けでした。余計なことを書きました。
▼ベランダの空調器の蔭に野鳩が巣づくり、卵二つ(永福、080517)
→写真・撤収
2029号【2008年5月16日】
●<沖縄復帰から36年−自治・自立への道>
5月12日に中国・四川省で起きた大地震には驚きました。北京でもバンコックでも大きく揺れたそうです。アジア大陸の大きな断層が動いたのです。その罹災・被害の規模は桁違いの数字になりそう。「南の風」に直接の受信者(TOAFAEC
関係者)はいませんが、心からのお見舞いを申しあげます。
5月15日は沖縄復帰(1972年)の記念日。沖縄の各新聞は社説であらためて「復帰を問う」論説を掲げています。八重山毎日新聞は「今年は何か変だぞ−八重山はどこへどう進むのか」、琉球新報は「平和な県づくり今後も−県民の自覚も問われている」、沖縄タイムスは「5・15体制−克服の道筋を示す時だ」など。たとえば、タイムス社説の一節は次の通り。
「…沖縄戦から今年で63年、復帰からきょうでちょうど36年。沖縄という土地を独特の色に染め上げているのは、時代を超え地下水脈のように流れ続ける「平和」への思い、「自治・自立」を求める渇望の深さだといっていい。
屋良朝苗主席は復帰前年の1971年、沖縄の思いを伝えるため「復帰措置に関する建議書」を携えて上京した。だが、琉球政府の若手人材を動員して作成した渾身の建議書は、全く相手にされなかった。
自立を模索する動きは復帰後も途絶えることなく続く。
自治労の沖縄特別県制構想、経済学者の故玉野井芳郎さんらがまとめた沖縄自治憲章、大田県政時代に打ち出された国際都市形成構想、沖縄自治研究会の沖縄自治州基本法試案。さまざまな自治構想が練り上げられ、語られてきた。…」(5月15日
朝刊)
沖縄でなぜ、「自治・自立」をめぐる議論が見果てぬ夢のように繰り返されるのか。5・15体制を根本から見直し「ポスト5・15体制」をどのように構想していくかの問いかけなのです。
2028号【2008年5月14日】
●<2008総会への期待>
TOAFAEC 創設(1995年)の当初は、とくに規約をもたず、ことあらたに「総会」など開いていませんでした。必要な話し合いは毎月の定例研究会のなかで随時に行ってきたかたち。「東アジア社会教育研究」を創刊(1996年)して数年経った頃から、経費のこともあり、また主として中国からの訪日団受け入れ(招聘状の発送等)の関係から、形式ばった役員体制や規約等を整備する必要が生じました。定例研究会とは別に総会も開くようになったと記憶しています。それまでは予算・決算の報告も必要に応じて処理してきたというのがありのままの経過です。
ホームページには、総会記録(→■)は2001年から記録されています。会場は和光大学、渋谷ロゴスキー、調布図書館、日中学院、そして高井戸の区民センターなど。学会・六月集会に合わせて開催するかたちが定着してきました。
今年の総会時には、代表の末本誠さん(神戸大学)がモロッコ出張予定で不在だそうです。事務局長の遠藤輝喜さんからさきほど届いたメール(13
May 2008 23:47)。
「…末本先生と連絡の結果、TOAFAEC 総会は6月7日(土)に実施することになりました。日程変更もまた難しいとの判断です。末本代表不在であり、伊藤長和さん(副代表)他に声をおかけして実施しようとのこと。開始時間も六月集会会場(日本社会事業大学)からはちょっと時間がかかることを考慮し、19時からではいかがでしょうか。…」 →総会日程■
ご苦労さまです。総会・会計報告等資料の準備など、よろしくお願いします。お互い多忙のなかでも、「役員」など日頃は会わない皆さんが一堂に会すると、やはり元気が出るものです。
2027号【2008年5月12日】
●<韓国との新しい交流の旅計画>
この1年来「南の風」で数回取り上げてきましたので、少し重複するかと思いますが、7月の韓国訪問計画について、あらためてのお知らせ、お願いをいたします。
海を隔てて一衣帯水の位置にある福岡と釜山の両都市、相互の社会教育・平生学習の新しい交流の旅が懸案となってきました。両都市は歴史的に深い関係にあり、船でわずか数時間の距離なのに、また生活的にも同じ玄海灘(南海)の魚を食べているのに、社会教育・平生学習の面では、これまでまったく出会いがなかったのです。
日程は当初3月案でしたが、中国・上海からの来日・訪沖と重なりましたので、故黄宗建先生の命日に合わせて、7月19日〜21日の日程に変更となりました。釜山訪問の後、福岡一行と別れて、22日に(ソウル経由?)忠清北道へ。黄先生が眠る山に私たちの共編著『韓国の社会教育・生涯学習』を捧げる計画。先月に沖縄でお会いした金済泰牧師や魯在化さんにも同道していただく予定です。その後、23日〜24日は、いま準備中の韓国向け出版『日本の社会教育・生涯学習』(ソウル・学志社)の編集会議や、共編者・梁炳賛さんのお誘いもあり、公州を訪問する予定を考えています。
幸いに釜山→忠清北道には留学中の肥後耕生さんが同道していただくことになり、大船に乗った気分。福岡からの参加は10名前後か。22日からは伊藤長和さんなど韓国生涯学習研究フォーラム・メンバーがソウルで合流する見込み。
釜山の受け入れやスケジュールは今から具体的にお願いすることになります。本号に紹介されている釜山「平生学習中長期発展計画」のこと、平生学習施設や実践現場、あるいは住民自治センター等関係者、そして東義大学校の皆さんとの交流が出来ればと楽しみです。釜山の朴仁求・金慶淑(別府大学)夫妻にもご協力をお願いしています。
福岡の皆さんによる韓国訪問の事前学習会等あれば、風にお知らせ下さい。また福岡以外の方で、参加ご希望の方があれば、ご一報下さい。
2026号【2008年5月9日】
●<竹富島の五月>
福岡から東京へ帰ってみたら、留守中に竹富島の上勢頭芳徳さん(喜宝院蒐集館長)からFAXが届いていました。5月2日夜のNHK・教育テレビ「美の壺・沖縄スペシャル」(5月2日夜)放送のご案内。とくに竹富島からは、シーサーが紹介された模様。
この夜は福岡・油山の庭で、農中さんたちに小林の孫たちが歓待されバベキューを楽しんでいたのでした。竹富島のシーサーをNHKが取材していた日は、ぶんじんも竹富島に滞在中(たしか2月26日)。どんな内容に仕上がったのか、見損なって惜しいことをしました。再放送があるのかしら。どなたか記録されているのでしたら、送っていただけませんか。何しろ「沖縄スペシャル」ですから。
竹富島では、いま「竹富観光センター水牛車営業所移転問題」で揺れています。5月3日夜、竹富公民館で「反対集会」が開かれたそうです。NPOたきどぅん(ゆがふ館)HPでは早速この集会を取り上げ、八重山毎日新聞は7日記事で報じています。「竹富の心を失った工事が進み、みな心を痛めている」こと。公民館議会は「4月28日、臨時議会」を開き、反対決議を採択したこと。4月から就任した新公民館長が「…住民自治の観点から、水牛車営業所移転に反対し、闘う」とアピール文を読み上げたことなど。竹富「公民館議会」については、本欄でも紹介したことがあります。(風2003号、3月22日)
この記事は典型的な集落公民館の動き。いつもの慣わしで本号「おきなわ短信」で紹介しようと用意しましたが、もしかすると新しく創刊された「公民館の風」記事にふさわしいようにも思われ、控えました。
あと一つ、5月吉日付けで「東京八重山郷友会」から第83回総会・親睦会(芸能会)「ご招待」状をいただきました。有り難うございます。昨年は8月でしたが、今年は6月15日(日)、会場は昨年と同じ、品川区大井町「きゅりあん」だそうです。ご関心の方は、ご一報下さい。
2025号【2008年5月7日】
●<福岡−連休終わる>
昨年は家人の怪我もあって、油山の隠れ家にゆっくりと滞在する余裕がありませんでした。今年の連休は久しぶりに1週間あまり、しかも二人だけでなく、連休前半は息子たち一家も来福、孫二人に囲まれて賑やかな毎日を過ごしました。農中茂徳さんたちにもお出でいただき、庭で焚き火をしながらの一夜、幼な子にとっては忘れ難い思い出となったようです。翌日も「焚き火をしようよ!」をせがまれる始末。いつも有り難うございます。御塚隆満さんのご一家にもご足労をおかけしました。
ただ残念なことに、連休中に予定していたプサンの朴・金ご夫妻の来訪が、直前になって無理となり、合流予定の福岡市社会教育研究会・横山孝雄さんたち、滋賀県愛知川の渡部幹雄さん(金さんの友人)などに大慌てで「中止」連絡を差しあげる結果に。連絡がついてよかった。
7月のプサン訪問の計画について、朴・金ご夫妻にも相談したかったのです。ご両人には電話で簡単に経過をお話して、こんご連絡をとりあうことになりました。横山さんたちの福岡グループにご紹介できなかったことが心残り。早い機会にまた会う機会をつくりましょう。
6日午後、風そよぐ油山に誘われて、一人で中腹(展望台)まで山登り。「熊ん蜂、マムシ、猪に注意!」の看板を横目に、まだ足腰の余力がなんとか残っていることを確認。歩きながらの戯れ歌いくつか。
<歌の工房>
◇この山に「イノシシほんとにいるの?」童らの歓声五月風吹く(080506)
◇どんたくの風船ひとつ幼な子の帰りしあとの部屋にころがる(080505)
◇白樺の枯れ枝惜しみつ焚き火とす紅き炎に生命をおもう(080502)
▼白樺燃ゆる(油山、080502)
i
2024号【2008年5月5日】
●<五月の風に乗って・・・新版「公民館の風」創刊!>
南の風と併走してきた「公民館の風」については、2012号で書きましたので、ご記憶のことと思います。1999年9月の創刊、いろんな経過があって、395号で休刊(2003年2月)。その後、お二人の方に受け継がれてきましたが、この3月末、「…いったん創始者に送信者の役割をお返しする…」(佐藤進さん)ということになりました。
それから約1ヶ月余り、今後のことについて数人の方と相談してきました。幸いに内田純一さん(高知大学)がキイステーションを引き受け、まわりの心あるメンバーでこれに協力していただく見通しがつき、さきほど新版「公民館の風」創刊号(5月5日)が送られてきました。5月の風に乗って、新しい「風」の誕生、まずは心からの創刊お祝い!
内田さんは、本号記載の通り、TOAFAEC 発行『東アジア社会教育研究』第13号(本年9月刊行予定)編集長としての役割も担っていただいているので、いささか負担過重の感なきにしもあらず。しかし「風」に関わるこれまでの経過をよく熟知し、また日本各地の公民館・社会教育の動きにも詳しい人、これ以上の適任者はいない!と思います。
ご苦労さまですが、無理をしないで(大げさにいえば)「日本の公民館」のために頑張っていただきたい。必要があれば応援を惜しみません。またお互いの研究・交流の、心を通わせあう「風」に期待される方々もきっと積極的に協力・参加していただけるものと確信しています。
この1ヶ月、新しい「公民館の風」へのエントリー受付け窓口を担当してきましたが、この役割は本日で終了。今後は内田純一さんに直接の連絡をお願いします。→
uchida@cc.kochi-u.ac.jp
今日までに頂いた参加希望の皆さんのメールは、そのまま内田さんにお送りしました。私あてのメール(の一部)が風・創刊号に紹介され、その関係で「小林」がやたら登場、これには当惑しました。言うまでもなく、これからは内田「公民館の風」の時代です。
2023号【2008年5月3日】
●<学会関係の動き>
岡部伊都子さんの訃報は各新聞(4月30日)で報じられましたが、竹富島も深い悲しみに包まれ、NPO法人「たきどぅん」ゆがふ館HPでは直ちに追悼記事(本号)が掲げられました。同館の阿佐伊拓さんから送っていただきました。
竹富島の喜宝院蒐集館に近く、民宿・泉屋の離れ部屋と道をはさんだ古い民家に「こぼし文庫」の看板がかかっています。岡部伊都子さんの寄贈になるもの。母親たちは「こぼし親子読書会」を続け、2006年には野間読書推進賞(第36回)を受賞とのこと。岡部さんと深い交流があった上勢頭芳徳さんからでも、思い出の記などを寄せていただけないかと期待しているところ。
学会関係の動き。本号には日本公民館学会・手打明敏さん(事務局長、筑波大学)から、ユネスコ「
CLC(コミュニティ・ラーニング・センター)に関する国際セミナー」の情報が届きました。今年は6月16日(月)から20日(土)にかけて中国・南京で開催されるそうです。
数日前に郵送で届いた日本教育学会の今年度大会(第67回)案内。京都・佛教大学を会場に8月29日(金)〜30日(土)に開催される予定。公開シンポジウムとして企画されているテーマは「中国における教育改革と教育学研究の現状と課題」。「…日中教育学対話の深化・拡大をめざして」の国際シンポ、中国からの登壇者としては、3月下旬にともに沖縄を旅した華東師範大学の陸有銓教授のお名前があがっています。他に北京大学、北京師範大学から登壇し、佐藤学氏などが指定討論者。
もし陸先生とお会いできる機会があれば、再会の乾杯をし、またぜひ沖縄のことについてお話しし、「われらの心はひとつ」(風2007号)の思いを確かめあいたいもの。
博多は今日から2日間のドンタクの祭り。いい天気です。
2022号【2008年5月1日】
●<エビネ蘭は咲いていた!>
東京は今いい季節です。杉の花粉がすっかり消えただけでなく、ツツジの色あざやか、ハナミズキも今を盛りと咲きほこっています。せまいベランダでは、捨て鉢同様の君子蘭がここ数日で満開となりました。花にはそれぞれに想い出あり、懐かしい人の顔も浮かんできます。
君子蘭の色香に後ろ髪をひかれながら、30日午後、九州・福岡に移動しました。毎年この連休の季節、油山の庭の片隅では、エビネ蘭が楚々とした表情で待っていてくれるはず。その期待をこめて、HP「4月〜5月スケジュール」ページの見出しに、数年前に撮ったエビネ蘭(黄色)を飾りました。
エビネ蘭は「ぶんじん」が植えたものではありません。もう20年ほど前、油山の寓居に英国人夫妻が住んだことがあります。日本(東アジア)社会の差別問題を研究していた人。夏の庭で手づくりビールの会を催すことを条件に半年ほど家をお貸ししました。エピソードはいろいろ、書ききれません。
その折に、油山の自然を象徴するエビネ蘭を誰かが植えてくれたらしい。1株だけのエビネが、庭の環境が気に入ったのか、少しづつ株を増やし、花の色も微妙に変化してきました。自然の交配の妙というべき。
庭の白樺(3本)は今年も元気です。先輩格の1本が昨年より元気なく、心配しましたが、今年の春に新しい芽吹きあり。枯れた枝は落として、これまでの頑張りに感謝し、焚き火をしたいと思っています。
▼庭のエビネ蘭(20050505)
→写真・撤収
2021号【2008年4月30日】
●<28日・4月定例研究会>
沖縄デーの夜、私たちの4月研究会は、沖縄・伊江島から赤崎隆三郎さんを迎え、あわせて37年勤務された調布市立図書館・退職の山口真理子さんの労をねぎらう集い、懐かしい顔ぶれが集まり、思い出にのこる会となりました。
伊江島といえば、過酷な伊江島戦、戦後の激しい土地闘争、故阿波根昌鴻さんの生涯(証言集、映画、ビデオ等)、他の島にみられない独自の厳しいイメージ。赤崎さんのお話は、それと対照的に現代の伊江島の活発な地域づくりの躍動。たとえば、白百合祭り、ハイビスカス、押し花、かりゆしウエア、ファッションショー、百年記念事業や民泊等、むしろ南の島からの明るい動きの報告でした。興味深し。
二次会の「イーストビレッジ」で、もっと詳しい話を聞きたいところでした。ところが山口真理子さん退職お祝いの会ということもあり、体調を整えて出席の近藤恵美子さんから花束贈呈、また昔の研究会仲間が賑やかに集まって、やや同窓会的な雰囲気。百万本のバラや喜瀬武原の歌も続いて、宴は尽きず。
赤崎さんには、伊江島の現在について、また次の機会に“続き”をお願いしよう、その楽しみを残していただいたかたち。お許しください。
次の「やんばる」行きは、7月上旬の予定。その折、村営企業の伊江島フェリーに乗って、島に渡れるかどうか、お楽しみ。
なお次回・5月定例研究会は、当夜ご相談する機会を失しましたが、新しく教育長(滋賀県愛相町)に就任された渡部幹雄さん(前・愛知川図書館長)を囲む会を予定しています。定例曜日を変更して5月20日(火)となる見込み(既報・4月19日−風2015号「5月日程」)。
4月28日・研究会当日の写真は別ページに掲載。
→こちら■
また1996年秋、和光大学のゼミ旅行で伊江島・阿波根昌鴻さんをお訪ねし、一緒に撮った写真がありましたので、そのうちの1枚を記念に(下掲)。
▼1996年10月15日・伊江島・阿波根昌鴻さんと
2020号【2008年4月28日】
●<遠慮のない議論で・・・、本日は沖縄デー>
26日夜の第13号編集会議は賑やかでした。高知からはるばる内田純一さん(編集長)が上京、岩本陽児さんは越後からの帰途(銘酒持参)の参加、中国・韓国・モンゴルをそれぞれ代表?して、黄丹青、金侖貞、トクタホ、加えて山口真理子、江頭晃子の皆さん、それに遠藤輝喜、小林文人の顔ぶれ。ぶんじんは沖縄を代表しているつもり。
最近は(ビールでなく)ワインの乾杯から始まるようになりました。大学・学会や役所等の公式組織でなく、気のおけない仲間うちの会議です。まずは楽しくやろう、遠慮のない議論をしようという構え。夕食は各自済ませてくることにして、飲み物だけは“風の部屋”で用意することになっています。さして高級でもないワイン(豪州かニュージーランドものが多い)も、議論に花が咲いてくると上等の風味がしてくるから不思議です。例によって、ぶんじんは少々しゃべりすぎ。
第13号は「中国」特集構想あり、昨年からの韓国報告の熱気も持続され、それに自由投稿希望(4月20日で締め切り)も数本あって、沖縄の報告をどう入れるかなど影が薄くなってしまいました。
詳しい報告はいずれ編集長から寄せられると思います。東京周辺だけでなく、各地の編集委員の皆さんのご意向も期待されるところ。
本日(28日)は第139回定例研究会です。伊江島から上京の赤崎隆三郎さん(夫妻)を迎え、あわせて山口真理子さんの退職お祝いの乾杯をする予定。宜野湾の玉那覇正幸さんから真理子さんへのメッセージが本号配信の直前に着きましたので、冒頭に掲げました。
この日たまたま「沖縄デー」。沖縄タイムス等も関連記事。1952年4月28日・サンフランシスコ平和条約発効により沖縄が本土から分離された「屈辱の日」として、那覇では海勢頭豊さんが「4・28コンサート」(久茂地パレット市民劇場)を開くそうです。
▼左・山口真理子さんに退職お祝いのケーキ(右・江頭晃子さんより)編集会議終了後
2019号【2008年4月26日】
●<13号・思春期を迎えて>
今日(26日)は、「東アジア社会教育研究」第13号編集会議の予定。新年度・新学期の忙しいなか、集まっていただく皆さん、ご苦労さまです。何人の方がご出席か分かりませんが、期待大。
研究年報の創刊は1996年。最初の段階から、まったく経費的な基盤がなく、組織的な実力もない小さな研究サークルがこの種の刊行物を発行していけるかどうか、全く自信も見通しもありませんでした。あるのは「沖縄」を含む「東アジア」のテーマと、やってみようじゃないか!の心意気だけ。なんとか3号まで続けよう、続けてみたい!というのが正直のところ。
いま13年目を迎えました。よくぞ続いてきたものです。よちよち歩きの幼な子がまさに思春期を迎え、悩みながらも、次の“発達”のステップを刻みつつあります。創刊にたずさわったものとして嬉しい限り。
振り返ってみて、第10号の刊行(2005年)あたりから確かな軌道が見えてきたように思います。私たちの年報は、沖縄のテーマが一つの独自性、そして台湾を含む中国からの寄稿が重要なエネルギー、この間の韓国研究の拡がりが大きなジャンプを生みました。またベトナムやモンゴルからの原稿も掲載できました。毎号ともにB5版・250頁をこえる労作です。とくに維持会員のご支援、ありがとうございます。
昨年の第12号で、はじめて「韓国・平生学習の新しい動向」の特集版を実現。若い世代の韓国研究者の頑張りがあってのことです。今年の特集テーマ案は「中国の生涯教育・社区教育」。昨年末より、北京や上海に向けての依頼が進行中、なんとか成功させたいものです。思春期を歩む若者にご声援ください。
2018号【2008年4月24日】
●<7月・黄宗建先生の命日に・・・>
早いもので3月下旬・華東師範大学グループの訪日・訪沖から1ヶ月が経過しました。この日程に合わせて、韓国から魯在化さんとともに金済泰・申聖勲の両牧師が参加されたことは既報の通り。スケジュールに追われ、ゆっくりとお話しする余裕がありませんでしたが、金先生は故黄宗建先生の在りし日や墓碑の写真を持参されていました。伊藤長和さんとも一緒に、7月20日のご命日前後に追悼の機会をもつ相談をすることができました。
黄先生の晩年は中国の生活(烟台滞在中のぶんじんを訪ねて一夜の歓談あり)、2006年に体調をこわされ、帰国後わずか1ヶ月にして急逝されたのでした。思いのほか孤独な晩年だったようです。
黄・小林・伊藤の三者共編になる記念の本(『韓国の社会教育・生涯学習』エイデル研究所)は、先生が亡くなられて1ヶ月後に世に出ました。痛恨の極み、頭を垂れて、この本を霊前に捧げようと言い合ってすでに2年の歳月。今回ようやくその思いが実現するわけです。予定日として7月22日(月)。場所は忠清北道(ソウルから車で3時間)の山中だそうです。
7月の韓国訪問では、19日にまず釜山に上陸する予定。前号の横山孝雄さん(福岡)メールにあるように、かねて懸案の釜山−福岡(社会教育・平生学習関係者)の新しい交流を模索する旅。今回の韓国訪問の大きな目的です。釜山は21日までの予定。肥後耕生さん(韓国・中央大学大学院)に協力依頼のメールを出していたところ、早速の嬉しい返事を頂きました。有り難う!
あと一つの目的は、もちろん!いま鋭意編集中の韓国向け出版(『日本の社会教育・生涯学習』ソウル・学志社より刊行予定)の共編者・梁炳賛先生(公州大学校)とお会いして編集会議をもつこと。細かなスケジュール・内容はこれからです。関心をもたれる方のために「南の風」でお知らせしていくことにします。
▲左より魯在化、小林、伊藤長和、金済泰、申聖勲の各氏(ホテル・ロビー、名護、080328夜)
●<歌のコーナー・2018号>
南の風・前号日誌で、故長浜宗夫さんと会った年を「1778年」と誤記(下掲・2017号は修正)しました。もちろん1978年の間違い。あらためての挽歌ふたつ。
◇過ぎし日の記憶もおぼろ逝きし人の 回想はるか弐百年を越す
◇「ちょんだら」と若き「盛春」に出会いたり 宜野座の祭りあの人の笑み
2017号【2008年4月22日】
●<沖縄より訃報、そして北に火災あり>
宜野座村の長浜宗夫さんが亡くなられたそうです。今朝(22日)の島袋正敏さんからの電話で知りました。宜野座村の社会教育行政を担い、宜野座区の集落活動を支え、地域の子ども会活動・文化運動、晩年は老人会リーダーとして一筋に生きてこられた生涯。私たち東京学芸大学社会教育研究室(当時)としても、たいへんお世話になった方です。
お会いしたのは、たしか1978年、30年の歳月。宗夫さんを通して、宜野座区の城間盛春さん(当時・公民館長、のち宜野座村議会議長)や同区豊年祭、芸能「京太郎」(ちょんだら)と出会いました。東京での「京太郎」国立劇場公演を迎え、また毎年のようにゼミ総勢で豊年祭に出かけた一時期がありました。下座で元気にサンシンを弾いておられたお姿が目に浮かんできます。
私たちの研究室では、宜野座の「教育隣組」活動をテーマに修士論文をまとめた院生もあり、若い学生たちをいつも心暖かく受け入れていただいたことが忘れられません。家族ぐるみの付き合いもあり、宜野座の浜のバベキューなど懐かしい思い出。私たちの『おきなわの社会教育』(小林・島袋共編、エイデル刊、2002年)には「やんばるの年寄りと老人クラブ活動」について執筆されています。思い出は限りなし。これまでのご厚誼に御礼申しあげ、心からご冥福をお祈りいたします。
他方で、北海道からは火事のニュース。TOAFAEC 年報編集等を担当していただいている江頭晃子さんのお兄さん(十数年前に農業を志して有機農業を経営)、自宅に火災発生(4月20日夜)、全焼だそうです。幸いご家族に怪我はない、しかし全てのものを消失されたとのこと。いち早くNPO「アンティ多摩」でカンパ活動が始まっています。その呼びかけ全文を掲載したいところですが、江頭さんから控えてほしいとの申し出。ニュースのみにとどめました。念のためカンパ先は、〒190-0022 立川市錦町3-1-28-301 アンティ多摩。郵便振替番号00180-8-95352
名義人・山家利子、必ず「江頭兄さんお見舞い」を明記してくださいとのことです。
2016号(2008年4月21日)
●<杉並・安井資料研究会>
4月26日(土)予定の「東アジア社会教育研究」第13号編集会議の案内が届きました。各地からわざわざの上京は無理としても、東京周辺の編集委員・事務局の方々には、無理を押してのご出席をお願いします。今年度年報の骨格を実質的に確定する会議となりますので。
昨日(19日)は、杉並(原水禁運動)安井資料研究会でした。3月の例会は、上海グループと沖縄に出かけて欠席。2ヶ月ぶりの参加。法政大学(旧)安井ゼミの甲山員司さん等も見えて、賑やかな会となりました。数えて第41回、よく続いています。
これからのことを打ち合わせした残りの時間で、故安井田鶴子さん資料のダンボールを少し整理。雑誌・新聞のスクラップ資料に紛れこんで田鶴子さんの日誌も出てきました。1960年当時のもの。取り出して、安井節子さんにお渡ししておきました。
この研究会は、もちろん安井郁(法政大学教授、兼・杉並区立公民館長、日本原水協初代理事長)資料の整理・データーベース化をめざして発足したものですが、連れ添った田鶴子さんの役割が大きかったことがだんだんと分かってきました。安井郁資料がすべて散逸せず保存されてきたことが田鶴子さんの大きな功績、同時に、田鶴子さん自身の資料も少なくないのです。
会誌「杉の子」の最終号(第12号、1969年6月)に安井郁は「有終の美」を書いています。田鶴子さんについて、「杉の子会のしめくくりという…妻の意見に心から賛成」「杉の子は私と妻の生活の一部」「私と妻は杉の子とともに生きてきた…」などの一文あり。深い思いが印象的。ガリ版刷りのページをラブレターのような感じで読みました。
安井田鶴子さんの『歌集・白き風船』(1986年刊)、そのなかに「杉の子」読書会を詠んだ歌もいくつか収められています。
◇「杉の子」と名づけて共にはげみつつ 原水爆禁止の署名集めぬ
◇ ささやかな力と知りつつひたすらに 平和願えり母なるわれら
*参考:1980年当時の安井田鶴子さん(写真)→■
2015号(2008年4月19日)
●<5月4日、5月20日案>
5月連休に、韓国・釜山留学院(代表)朴仁求さん、別府大学(教授)金慶淑さん夫妻が福岡・油山の寓居を来訪されることになりました。金さんと同時期に研究室(東京学芸大学・院)にいた渡部幹雄さん(滋賀県愛相町教育長)にも連絡。5月4日の午後5時頃からの予定です。福岡周辺の方でご都合がつく方はお出かけ下さい。久しぶりの再会、楽しみです。(ご都合がつく方はご一報を。)
渡部さんは5月20日に上京の由。この機会に「教育長を囲む会」をTOAFAEC
5月定例会として企画しては如何でしょう。就任お祝いの乾杯も。会場など事務局でご検討いただければ幸い。
●<いま96人の風>
「南の風」は2001号(3月18日)で新しいサイクルへ。希望された方々による新アドレス帳での配信。旧メンバーより30名ほど少なくなり、また新しく数名の参加があり、いま96名の名簿でスタートしています。追いかけてエントリー希望のメールが舞い込んできた1ヶ月でしたが、最近ようやく落ち着いたようです。
それでも(前号に書いたように)TOAFAEC 常任委員のなかにもまだエントリーのない人あり、まだ少し増えるかも…。しかし100名を越えないことを祈っています。サーバー(ソネット)は100通以上の一括送信を受け付けなくなったからです。(2回に分けて送信しなければならなくなった。)
風の旧サイクルでは、1日おきのリズムで発行してきました。いまは2〜3日おき発行の努力。うっかりすると連日の風になってしまう。できれば週2回(3〜4日おき)ぐらいで吹きたいところです。そのためには、送っていただいたメールの掲載を一部割愛するとか、「おきなわ短信」「各地(中国等)の動き」等の(ぶんじん取材)記事を載せないとかの工夫が必要になりそう。
各号をもっと長文にしてはどうか、の意見もあります。しかし、これ以上の行数になると、目を通すのもイヤになって、かえって風は読まれなくなる。これまでの風・発行経験が教えるところです。むしろ今でも「長すぎる〜、読むのがたいへん!」の感想が多いのです。
ある程度はスリムにして、しかし短くてもピリッとした内容を盛り込んで、週2回ほどのゆっくりしたリズムで、そよ風の感じで吹きつづける、そんなイメージでと願っています。
2014号(2008年4月17日)
●<「麦の郷」のこと>
前号で「麦笛」のことを書きました。麦といえば、「麦の郷」の映画が話題になっています。東京では「ポレポレ東中野」で上映中の「ふるさとをください」、その舞台が「麦の郷」(和歌山市)です。障害者の共同作業所、その所長を藤田弓子が好演しています。
映画は「きょうされん」(共同作業所全国連絡会)30周年記念として製作されました。全国規模で製作基金が集められ、実行委員会(委員長・桂文福)による「上映支援カンパ寄席」も取り組まれたらしい。パンフレットには映画製作基金づくりの登録団体、協賛の一覧が掲載されていますが、あらためて日本の障害者運動・市民文化運動の拡がりを実感しました。各地でも「きょうされん」関連の皆さんで上映運動が始まっているのでしょうか。
監督は富永憲治、脚本はジュームス三木。心ならずも“ふるさと”を失った人たち(障害者)、地域という空間だけでなく時間軸からも“ふるさと”を取り戻していこうというのが映画のテーマ。藤田(麦の郷)所長が地域の人たちに「私たちにもふるさとを分けてください!」と訴える場面に思いが凝縮されているように思いました。
せまい劇場なのに観客は少ない。舞台挨拶で富永監督から「ぜひ、まわりの方々にこの映画を拡げてほしい!」との呼びかけもありました。
14日夜、米山義盛さんが永福に来訪(→■)。いろんな酒を飲みながら、彼もこの映画を観たらしく、ポレポレ東中野のことが話題となりました。米山さんは3年ほど東京暮らしとか。パソコンが通じたら、「風」にご挨拶をぜひ!
2013号【2008年4月14日】
●<人形劇サークル「麦笛」のこと>
いつも起きてまず楽しみに開くのがメール・ボックス。迷惑メールの氾濫に絶望! そのなかに一つ二つと「風」向けのメールが出てくると、人並みの気分に。まずそれを読むことから1日が始まります。例によって遅い朝です。
今朝は、「JICAエジプト事務所」の神谷哲郎さん(東京学芸大学卒、「麦笛」メンバー)からの「海を越えた人形たち」が着信していました。麦笛のことは、南の風に(検索すると)4〜5回載せていますので、ご記憶の方もあるでしょう。また,TOAFAEC・HP「アーカイブス」ページにも「麦笛の歴史を掘れ!」を収録しています。ご参考に(→■)。
2006年、はるばると海を越えて、エジプトに渡った「麦笛」人形たちの話、そこで元気に子どもたちと遊んでいるとのこと。ちょっと嬉しくなって、風・本号に紹介することとしました。ぶんじんは東京学芸大学時代、児童文化系サークル関連の子ども会活動「麦の子」と人形劇「麦笛」両サークルの顧問をしていました(25年ほど)。このサークルから巣立った若者たち(まだ若者?)は多く、今も深い付き合いが続いています。
麦笛は4年に1回(オリンピックの年)、新宿のプーク人形劇場で大「麦笛フエステイバル」を開きます。いつも八月終わりの土・日の二日間。麦笛サークルから生まれたいろんなサークルが登場予定。すでに準備が始まって、「…人形たちの色塗り・衣装も… 脚本・音楽も着々とできてきています」(和気瑞江さん)とのこと。ところが私たちの社会教育研究全国集会(2008年は札幌)日程と必ず重なるのです。
これまでいつも欠席、お詫びの花をステージに送っていました。今年の八月日程をどうしようか?と悩んでいます。麦フエスは4年に1回だ、全国集会は毎年のこと。今年はお許しいただいて、新宿で・・・と書くと、きっと誰かに怒られるでしょうね・・・。
▼人形劇公演をみる子どもたち(エジプト・紅海沿いの町ハルガダ(カイロから450キロ東、080404)
http://worldreporter.jica.go.jp/blog/egypt/ 投稿者名・マテ゛ィーナットエルアハラーム
2012号【2008年4月11日】
●<回想「公民館の風」−帰ってきた風>
「南の風」が吹き始めて1年半ぐらい経った頃、かねて構想していた公民館(研究・実践・運動)に関する仲間うちの通信を出し始めました。1999年9月下旬のこと。当時はまだメールアドレスをもつ人が少なく、30名ほどのメンバー集めに躍起となった思い出あり。
客観的にみれば「南」よりも「公民館」の方が大事だ!と考えながら、二つの風を4年間ちかく発行してきました。連載記事などあり、いま読み直すと資料的にも案外と面白い。しかし、さすがに息切れがあって、助言もあり、「南」1000号に到達した機会に「公民館の風」はひとます休刊(395号)。2003年2月のことです。HPに「公民館の風・目次一覧」
→■を載せています。
ぶんじんにとっては、この時期は和光大学の学生たちと格闘していた“青春”。学会関連では、公民館制度創設50年を記念した日本社会教育学会・特別年報編集や「世界の社会教育施設と公民館」(佐藤一子さんと共編、エイデル、2001年)刊行に取り組んでいた時期。なによりも2002年からは日本公民館「学会」創設の準備期と重なります。公民館学会の設立総会を目の前にして、「公民館の風」を休止するのは複雑な思いでした。むしろ「南」を止めて「公民館の風」に専念する選択肢を真剣に考えたほどでした。
それから5年が経過。この間、お二人のご努力により「公民館の風」は継続されてきましたが、この3月末をもって「…いったん創始者に送信者の役割をお返しすることに…」(佐藤進さん)ということになりました。出戻りの可愛い娘が帰ってきたような感じ。
いま新しい「公民館の風」の発行体制について、数人の方と相談しています。若い世代、複数のスタッフ編成、キーステーションは内田純一(高知大学)さんが担っていただくことになりました。旧「公民館の風」メンバーには、あらためてのエントリーをお願いしているところ。近くその構想や進め方についての表明?があると思います。新しく参加希望の方があれば、ご遠慮なく申し込みください。さしあたり、ぶんじん宛ご一報を。
2011号【2008年4月9日】
●<地域力の再生>
本号冒頭に掲載した上平泰博さんは、この3月末、品川の児童館「公務員生活30年」に終止符を打って、隣の大田区内・NPO法人こども交流センターへ大きくジャンプされました。
便りによれば、
「…経済的損失あまりに大きくその行先きびしいものの、お役所の規制を振り払っての自由と創造の日々を獲得できた喜びはそれ以上に大きく、そこに身を置きながら、子ども若者や幼児ファミリー親子、高齢者たちともう交わっています。そこは世代間を突き抜けた地域力の再生がはじまっており、造形物のようには目に見えないまちづくりが進行しています。…」
「…それにしても、意気揚々と職務に励む若い職員たちの姿とは裏腹に、あまりに劣悪な給与待遇を考えると、わが胸の痛みを禁じえません。とはいえ、未来ある子ども若者たちと若い職員のこれからを切望しながら、前途あるかれらを励ましている地域の高齢者たちの姿を見ると感極まるところがあって、なにがしか救われる思いです。…」
大田区子ども交流センターは、「…疾風驚異のごとく駆け抜けた前任者・竹内敏館長の才覚によって、日本で最も優れた児童館学童保育を形成」してきたところ。これからの活躍が楽しみです。上平さんは和光大学の出身、沖縄にも大きな関心をもっている人、いちど私たちの研究会にお出でいただきたいとお願いしておきました。激動の児童館・学童保育の動き、大都市のなかの地域づくり、そして沖縄との出会いなどについても、お話しいただけるものと期待しています。
2010号【2008年4月7日】
●<酒の座の戯れでなく・・・>
前号で韓国訪問の7月計画を書きましたが、今回の上海・韓国に同道した沖縄行きのなかで、いろんな旅の企画が面白く出ました。記憶が薄れないうちに書いておきます。
いずれも酒の座の戯れ、楽しく話のみ躍るようなところもありますが、案外と具体的な提案も含まれています。不確かな部分はお許しを。
一つは、中国・韓国・日本の関係者が沖縄の地に集った今年の友情を、来年以降に更に継続・発展させていきたいという話。前号所収の伊藤長和さんメール(→■)をご覧下さい。果たしてどう具体化していくか。
二つには、上海の訪沖を歓迎した沖縄の皆さんに、ぜひ上海に来ていただきたいとのお誘い。那覇で別れるときにも、上海の皆さんは口々に「次は上海で会いましょう!」と。名護の島袋正敏さんは「やんばる島酒の会」会長として、中国・古酒に関心あり。那覇−上海の直行便も飛んでいることだし、具体的な検討が始まるのではないでしょうか。
三つ目は、名護からのお誘い。今回の沖縄訪問受け入れに尽力した教育委員会や名護博物館の皆さんから、7月(初旬)「サガリバナ」(澤藤、名護市の花)季節に、天仁屋?で集いをもちたいと。お世話になった稲嶺進・教育長(博物館中庭での絶妙のカチャーシー)のこともあり、ぶんじんは名護行きを計画しようと思っています。この時期に竹富にも、また次の南大東島にも行きたくなって、だんだん忙しくなりますね。
四つ目は、上地武昭さん(沖縄大学)からのお話。ご存知の方もある東寿隆さん(元東京都社会教育主事、社全協常任委員、「月刊社会教育」編集長)は、息子さんが頑張っている南大東島に移住して、いま長期の療養中。一度ぜひ南大東島に行きましょうと。さきほど南大東島に電話しました。東寿隆さんは相変わらずの病状、島の地域おこし等の資料を送っていただくそうです。
▼さがりばな(澤藤、名護市の花、070710)
2009号【2008年4月5日】
●<7月の韓国訪問計画>
韓国・公州大学校の梁炳賛(ヤンビョンチャン)さんから、思いがけず日本語の便りが届きました(本号収録)。名古屋大学・李正連さんを介して「南の風」送信の依頼があり、10日程前から風を送っていたのです。
梁炳賛さんは、2006年出版の黄・小林・伊藤共編『韓国の社会教育・生涯学習』、エイデル研究所)の第9章「住民自治センター・草の根の住民たちの学び」を担当されています(好論文!)。そのご縁もあって、今年秋に出版予定の『日本の社会教育・生涯学習』に編者として加わっていただくことになりました。
信州・妻籠(日本最初の公民館誕生の地)の檜笠を差し上げた経過があり、昨年の「南の風」(1905号、2007年8月30日・日誌
→■)に書いたことがあります。ご記憶の方もありましょう。梁炳賛さんはこの笠を研究室に飾って頂いているらしい。
現在、韓国平生教育総連合会・事務総長の要職。梁さんから次回の韓国訪問についてのお尋ねがありました。今のところ、故黄宗建先生の命日(7月20日)前後に追悼の旅を企画しようと話あっています。まだ案の段階ですが、まず7月19日に釜山へ。海を隔ててすぐ隣の、福岡の社会教育・生涯学習関係者と釜山を訪ね、これからの両市交流のきっかけをつくりたい。21日夜あたりにソウルへ移動。22日に天国の黄先生を追悼する機会をお願いできないものかと。
先日の沖縄訪問に参加された金済泰・魯在化・申聖勲のお三方と日程をすこしご相談しました。帰国を何日にするか、まだ決まっていませんが、日程を調整して近刊『日本の社会教育・生涯学習』編集会議を開くことができれば幸いと考えています。この機会に梁炳賛さんとお会いできることを楽しみに・・・。
2008号【2008年4月3日】
●<訪沖団受け入れの御礼>
本号は、中国と韓国からの沖縄訪問に関する記事・特集号となりました。今回の(TOAFAEC
としては)大事業にご参加・ご協力いただいた沖縄の皆様にあらためて厚く御礼を申しあげます。「風」前号の上海・呉遵民メールにあるように、来訪の皆さんも、初めての沖縄への旅を大変喜んで頂きました。
初日の那覇「おきなわ社会教育研究会」による歓迎会、二日目の名護博物館を会場とする「やんばる」大歓迎会、沖縄大学と名護市教育委員会によるバス提供、訪問した佐喜真美術館、座喜味城案内の読谷村民俗資料館、座喜味区公民館や天仁屋小学校など、多くの方々にお世話になりました。物心両面でのご負担をおかけした面があり、ご好意に甘えてしまいました。
これまでにも、研究室ゼミや市民グループによる沖縄訪問は数えきれません。研究室在籍の留学生もほぼすべて沖縄を訪れました。個別の外国人研究者の案内をしたこともあります。しかし今回のように2カ国の、10人をこえるグループ訪問団の案内は、当方も初めての経験でした。
前号・本号収録の記事にあるように、いくつもの反省や課題があります。うまくいったこと、いかなかったこと、今回のいろいろな経験を忘れないようにしたいと思います。
琉球・沖縄は、日本のなかで歴史的に最も国際的なところ。社会教育や地域研究の上でも、内外に発信すべき多くのものを育んできました。施設・景観だけでなく、字公民館の活動、集落の共同と自治、地域づくりの歩み、祭祀の行事や地域文化など。
沖縄の集落(シマ)が躍動的に動いているとき(たとえば豊年祭やエイサーなど)に合わせて、東アジア・沖縄フオーラムのような企画を考えてみたいもの、その活力と楽しさに包まれて、海を越える人々の友情や連帯もふくらんでいくだろう、そんなことも考えた日々でした。
<写真>中国・韓国の訪沖団を迎えて−佐喜真美術館前庭、中央が佐喜真道夫館長、2008年3月27日ページ→■
2007号【2008年3月31日】
●<われらの心は一つになった>
皆さんより1日遅れで東京に無事戻りました。1週間の旅、心地よい疲れ、ある種の充実感、“旅の終わり”に味あう醍醐味です。
早速に上海の呉遵民さんから過分のお礼メールが届きました。いつも大仰な表現、褒められた本人は恐縮しつつ、しかし、お気持ちですから、そのまま掲載させていただきました。
スケジュールを設定した側として、いくつもの反省があります。上海(そして韓国)の皆さんは、もちろん初めての沖縄。前もっての打ち合わせや事前学習の機会もないままに、着いたその足で、南部沖縄戦跡を回ったのは軽率でした。当初の案では最終日のプログラムでしたが、車(沖縄大学の好意)の手配等の関係から、初日となったのです。
沖縄戦の基礎理解や「ひめゆり」「平和の礎」の説明も不充分。そして摩文仁の丘に立ち並ぶ慰霊碑。当然ながら中国の皆さんには「侵略軍」としての「日本陸軍」イメージがあり、沖縄の旅は強い違和感から始まりました。案内しようとした「ひめゆり平和祈念資料館」には足を踏み入れていただけませんでした。
初日の夜、呉遵民さんはずいぶん心配して、ながい電話での相談がありました。正直のところ、当方もこの夜は眠れず。「戦争」に関わるテーマは難しい。二日目に寄る予定の佐喜真美術館(宜野湾)には丸木夫妻「沖縄戦の図」あり、このスケジュールは割愛した方がよいのかも?と思案しました。
しかし結果的には、佐喜真館長の熱情をこめた説明(沖縄戦とは何であったのか)と呉さんの懸命な通訳が大きな転換点となりました。上海側を歓迎する那覇・名護の皆さんの心もしっかりと伝わって、2日目の名護の夜の歓迎会では皆さんの表情は実になごやか。声をあげて「北国の春」を合唱し、ともにカチャーシーを踊りました。
3日目「大国林道」(名護)での夕食会。陸有全教授(教育哲学、初日はもっとも厳しい表情)の乾杯の連続と海量の酔い。「われらはともに平和を愛する、その心は一つになった」の挨拶を忘れません。
<写真>陸有全(中国)、呉遵民(同)、小林、魯在化(韓国)各氏 名護・大国林道2008年3月28日ページ→■
2006号【2008年3月30日】
●<沖縄日程終わる>
3月26日、桜咲き初める東京を離れて、那覇へ。そして沖縄本島を北上、名護・やんばるを一回りして、昨29日に那覇に戻りました。韓国から参加(黄宗建先生ゆかりの韓国平生教育研究所関係者3名)の方々と別れ、今日はさきほど上海へ帰国される華東師範大学一行(8名)を見送り、予定のスケジュールはすべて盛大裡に終了。いま一段落しホテルで一休み、ようやく本号を書いています。5日間のご無沙汰です。
今回の沖縄を回る旅は、華東師範大学教授グループの訪沖計画をきっかけに、韓国の方々が合流し、これに東京・川崎・高知からのTOAFAEC
関係者5名が同行、総勢16名の大所帯でした。これを迎えて、那覇・おきなわ社会教育研究会の皆さんによる大歓迎会(26日夜、沖縄青年会館)、名護の皆さんによる「上海・韓国・文人一行を迎える夕べ」(27日夜、会場・名護博物館中庭は人であふれた)が開かれました。さらに名護「大国林道」夕食会(28日)、そして、29日夜は華東師範大学側によるお別れ晩餐会(那覇・喰米屋、赤崎メール)、と連日の楽しい夜が続きました。
別ページにいくつか写真を掲げています。ご覧ください。連日の酔いもあり、また疲れもあり、すこし努力はしたのですが・・・、結局のところ5日間「風」を出すことできず。
今回の沖縄への旅では、何よりも中国・韓国・日本の関係者が沖縄の地で出会い、これまでにない友情を深める機会となりました。いつまでも語り継がれることでしょう。「風」に載せたいこと、たくさん!
ご参加の中国・韓国の皆様、無事にご帰国のことと思います。お疲れさまでした。心いっぱいの歓迎をして下さった那覇・名護等の沖縄の皆さん、そして川崎・高知のTOAFAEC
メンバー、お名前を掲げませんが、ご協力まことにありがとうございました。お疲れがとれたところで、この5日間のこと、追々と「風」に送っていただければ幸いです。
2005号【2008年3月26日】
●<お互いの顔がみえる風ネットを!>
本号には、引き続いて「風」送信を希望された方のメールをいくつか収録しました。すでに2週間を経過している日付もあり、遅くなって申しわけありません。全部の方を載せるのは無理ですが、どんな顔ぶれが「風」に参加しているのか、とくに若い世代を含めて、できるだけ誌面に登場していただきたい思い。かって送信リスト一覧を配信していた時もありましたが、個人情報との絡みあり、いまは控えています。
お互いに顔が見える関係で「風」を吹き合いたい。闇夜に鉄砲のような世界では、いい風は吹いてこないだろう、そんなことを考えてきました。しかし年々歳々、メンバーは少しづつ変わっていきます。顔がだんだんと見えなくなってきました。それだけに「風」編集上でも、心が通いあうような風“ひろば”をつくる工夫をしたいと思っています。皆さんのご意見やご批判も遠慮なく出しあっていただきたい。
2000号まで「風」メンバーは130人余りでした。求められる範囲だけの風、あまり拡げない努力。復刊にあたり、再エントリーをお願いして、2001号を60名前後でスタート、いま95名の方に配信しています。このうち海外からの参加は、北京、上海、広州、烟台、台北、高雄、ソウル、公州など、加えてカイロ、ジュネーブの各都市から計30名余り。これまでのメンバーが中心ですが、2001号以降の新しい参加も2名ほど。
送信リストは(再エントリーの要請を見逃している方あり)まだ確定していません。少し時間の経過を見て、新しい風メンバー一覧をつくり、ご希望の方には(個人情報への配慮をお願いした上で)お届けしたいと考えています。
26日午前の便で、上海訪沖団8名に随行して沖縄に飛びます。もちろん上海の皆さんは沖縄はじめて。どんな旅になるか。これまでにも増して楽しみ、心がはずみます。那覇では韓国から魯在化さんたち3名が合流する見込み。南の地から「南の風」をお届けしたいと思っています。
2004号【2008年3月24日】
●<桜ほころぶ>
東京に桜の開花が報じられました。これから春らんまんの季節。花のたよりに合わせるように、東アジアの風も吹いてきました。
3月22日は韓国(生涯学習研究フォーラム・於川崎)、そして23日は上海(華東師範大学訪日団の歓迎会・於渋谷)からの風。この両日だけで、たくさんの方々に会い、いろんな話をしました。新たな息吹きを感じています。
韓国生涯学習研究フォーラムでは、昨年から取り組んでいる韓国向け出版の編集作業。拝受した原稿の集中的な読み合わせでした。共編者のお一人、梁炳賛さん(ヤン・ビョンチャン、韓国・公州大学校教授)から趣のある花瓶が届けられました。李正連さん(名古屋大学)が大事に抱えて運んでくださったもの。どうも有り難うございました。いつも使っているパソコンの前において、まだ水を張らず、さて、どんな花を挿そうかと楽しんでいます。花の季節のぜいたくなひととき。
華東師範大学・教授グループは9名の皆さん。庄・副学長、杜・学部長を含む一行は、訪日の主日程(第1回・教師教育に関する東アジア国際シンポ)を終えて、これから沖縄へのエクスカーションに出かけるスケジュール。楽しそうな雰囲気でした。いつもの渋谷ロゴスキーの一角を貸し切って盛大な歓迎会となりました。
進行・通訳はもちろん呉遵民さん。上海からのゲストだけでなく、黄丹青さん、呉迪さん、それに新保敦子さん(早稲田大学)の中国語による挨拶を含めると、この席は日本語スピーチが少数派。呉さんに乗せられ、久しぶりに「大海(ターハイ)」(山口真理子さん付き添い)を歌いました。
▼TOAFAEC・華東師範大学一行歓迎会(渋谷ロゴスキー、2008年3月23日) *沖縄訪問記事・写真→■
2003号【2008年3月22日】
●<竹富島「公民館議会」>
久しぶりの風「おきなわ短信」、数えて416 号です。今年に入っての「短信」は、ほとんど竹富島に関するもの。島はいまいくつかの選択を迫られて騒然とした感じ。一つは東部宿泊施設開発(いわゆるリゾート)問題、一つは水牛車観光事業所の移転問題です。ここ数日の八重山の地元紙は、水牛車施設移転問題をめぐって竹富町「伝統的建造物群保存地区等保存審議会」や同町議会の動きを詳しく伝えています。遠くにいるものにはほとんど無関係に見える記事、しかし細かく読むと「竹富公民館の臨時議会」等の記述があり、おや!と驚かされます。
竹富島の公民館には「議会」があるのです。規約にも正式に盛り込まれ、集落の重要事項を審議し、総会につぐ意思決定機関。竹富島憲章もかってこの公民館「議会」で審議されました。地方自治体としての竹富町に議会、行政、財政があるように、集落としての竹富島にも、議会、行政、財政が実質的な重みをもって機能してきました。
先日の竹富島訪問の機会に、数年前の資料を見せていただきましたが、年度「初議会」には6項目の「議案」が並び、本格的な審議・決定が行われている記録でした。
今日(3月21日)、九州大学から沖縄の「字公民館」と地域福祉、青年の自立支援に関する報告書(科学研究費、代表・松田武雄さん)が送られてきました。その中に「竹富島の集落組織と字公民館」についての小論文を掲載していただきました。2007年度調査レポート(副題)、まだ不充分なものですが、竹富島「公民館議会」についても触れています。抜刷り若干あり、もしご希望の方があれば、ご一報ください。
調査でお世話になった竹富島の皆様には、別途お送りする予定です。
<写真>竹富島の水牛車観光(20070211、略)
2002号【2008年3月20日】
●<風の“ひろば”>
南の風の復刊第2号。なにしろ改めてのエントリーをお願いしましたので、これまでにない大量の返信を頂戴しました。恐縮しています。とても収録しきれません。
たとえば、その一部。「やっぴー!!!、貢献度の少ない私がこんなに喜ぶのはどうかと思いつつも、やはり、心の支えとなっている風…」(鶴ヶ島市・平井教子、Mon,
17 Mar 2008 20:31)。「風が吹かなくなってとても寂しく感じておりました。特に職場を異動して、風情報の意義がより理解できました」(松本市・矢久保学、17
Mar 2008 17:46)。「安井家原水禁資料研究会の案内も先生がこまめに風に載せていただき、全国に吹きました」(杉並・丸浜江里子、Sat,
15 Mar 2008)など。
なかには、こんな助言も。「メールを編集作業送信が大変ならば、メーリングリストにすれば、そのまま送信されますよ…」と。たしかにそうですが・・・あぁ、分かってくれてないなぁと嘆息もしました。MLのタコツボ状況、ときに乱雑な情報が流れる、これらをどう乗り越えていくかというところに風“ひろば”の役割があると考えてきました。とかく競争社会を反映する側面あり、便利さだけをもとめないで、おたがいの共同空間をどう模索していくかが課題だと。同時にMLをつなぐ作業も(できる範囲で)やってきたつもり。南の風にはいつも5本以上のML(らしきものを含めて)が交わってきました。
3月19日夜、エジプトに帰るアーデルさん一家を囲む夕食会(渋谷)でした。思い出に残るひととき。泊りの「風の部屋」まで駆けつける方あり、皆さん、ご苦労さまでした。
<写真>Dr.Adel´s family →
2008年3月19日・ページ →■
2001号【2008年3月18日】
●<風・復刊、上海訪日団歓迎!>
南の風復刊・第1号(2001号)です。数日前「号外」を差し上げたような経過により、ふたたび南風(はえ)の作業を始めました。わずか10日ほどの風・休刊ですが、この間に送られてきたメールは山積、ご案内すべき集会行事等ニュースも滞留。
また、3月20日からは上海・華東師範大学教授グループが来日されます。3月16日深夜に届いた呉メールへの対応もあり、歓迎会や沖縄訪問も再掲載の要あり、思い切っての「風」再開という次第です。
ご覧になった方もあるかと思いますが、この間に「新・ぶんじん日誌」を3回ほどホームページに収録しています。10年の「風」発行の妙な習癖から抜けきれず、自分ながら苦笑しているところ。
上海・呉さんへ。日本への引率役としてご苦労さま。3月23日午後の東京散策(後楽賓館・午後1時集合)、夜の渋谷の歓迎会、さらに26日からの沖縄訪問など、諸準備が進んでいます。再会を楽しみに。
またこの間、エジプトのアーデルさんから2通ほどメールが来ました。3月で大阪大学客員教授を辞し、母校カイロ大学(准教授)に戻るそうです。ご家族を連れて、帰国挨拶?のため東京へ、一夜「風の部屋」に泊まるとのこと。都合のつく人だけでも集まろうと歓迎・送別の夕食会を企画しました。
姜乃榮(カンネヨン)さんから来た「第1回・日本希望製作所連続セミナー」案内はやっと本号に掲載できましたが、夜間中学の関本保孝さんからの「東京の日本語教育、日本語学級のつどい2008」に関する学習会(3月15日午後)案内は間に合いませんでした。申しわけない。
拝受しているたくさんのメール(滞留中)は、追い追いと(一部だけでも)ご紹介するようにします。
●2008年3月16日(早朝)
<風2000号・号外・・・南風(はえ)再び・・・>
「南の風」の皆さま:
2000号(3月8日発行)でゴール到達、ただいま風は休刊中です。しかし再刊を期待する声・メールがたくさん。ご期待に感謝しつつ、やや当惑気味でもあります。
3月9日に開いたTOAFAEC「東アジア社会教育研究」第13号の編集(事務局)会議でも意見を交換。
実務的(当面の案内、連絡、記録など)にも支障が生じ始めましたので、やむなく?・・・数日内(上海・華東師範大学教授団訪日の前)に新2001号を出すことにいたしました。
配信ご希望の方は、あらためてメールアドレス(できれば所属も)をぶんじん宛にお送り下さい。
3月以降に(旧「南の風」1997号を受けて)風・継続のご意向を寄せていただいた方には、再度のメール不要です。
ただ、ご苦労さん、のメールだけで、継続希望かどうか明確でない場合もあり、あらためてのエントリーをお願いする次第です。
TOAFAEC メンバー(役員・事務局)の皆様も、ご希望いただいた方のみへの配信といたしますので、どうぞよろしく。
どんな南風(はえ)が吹くか、風の吹くまま。これまでと違って、不定期発行になると思います。ほんらいは数ヶ月後ぐらいに・・・と思っていましたが、混乱は本意にあらず。休憩もままなりませんが、ご期待いただく方々のお気持ちには応えるべき、と考えた次第です。
●2008年3月15日(昼)
<アーデル歓迎会>
濡れていきたくはないけれど、14日の雨は春の気配。しっとりと降ってくれて、花粉症の身には有り難い1日となりました。夜は「たちかわ市民交流大学」企画運営委員会の3月定例会。昨年から委員を委嘱され、ことのはずみで、委員長までも引き受ける羽目に。この1年は無遅刻・皆勤でした。しかしこの日は雨のため、駅前のタクシーに列ができて、遅刻、してしまいました。「たちかわ市民交流大学」については論議いろいろ、そのうち一度書きたいと思っています。
この席でも「南の風、ご苦労さま」という人あり。いつまでも話題が終わりません。「風」についてのメールも相次ぐ毎日。アーデル一家の下記・歓迎会の案内も、「風」があれば載せるべきもの、この場をかりて書いておきます。どの程度皆様のお目にとまるか分かりませんが。
TOAFAEC有志が準備して、アーデル(カイロ大学准教授)結婚お祝い会をしたのは確か2004年7月、もう4年近く前のことです。その後、彼は大阪大学客員教授となり、日本に滞在していましたが、この3月で母校に帰るそうです。あらためて家族を連れて東京にご挨拶?とか。新婦(もう母親)と久しぶり、アーデル2世とは初めて。急なご案内となりましたが、一家が“風の部屋”に泊まる夜に歓迎(そして歓送)の夕食会を催します。
日時:2008年3月19日(水)18:00〜 会場:渋谷ロゴスキー(JR駅西口・東急プラザ9階、電話、03-3463-3665。23日夜の上海歓迎会と同じ会場)、要会費。ご参加希望の方は、ぶんじん宛ご前日までご一報ください。7〜8人の会となる見込みです。
<写真>4年前のアーデル結婚披露宴(於新宿中村屋、2004年7月11日)、回想の1枚→■
●2008年3月12日(夜)
<福岡の花粉症>
これまで妙におとなしかった東京の花粉症、福岡に着いた翌日(11日)にひどい症状が現れて弱りました。それでもカラ元気を出して久留米の実家へ。近くの新幹線工事がすすみ、取り付け道路も姿を現して、ひと騒動の末、やっと残った旧宅の赤煉瓦の蔵、そこだけは明治の風景。
夜は福岡に戻って、非公式にお知らせをうけた福岡市社会教育研究会へ。会報など担当した若いメンバーのご苦労さん会でした。十数人の皆さん(大半は九大メンバー)、元気そう。花粉症の身としては呑まない方がいいのに、誘われればついコップを重ねてしまう。「南の風」のことがひとしきり話題となり、こちらも酔って調子にのり、いろいろ、しゃべる羽目に。皆さん、聞いてくださって有り難う。7月下旬予定の福岡グループによるプサン交流の旅についても期待が語られました。
12日。書庫整理、しかしハウスダストによる花粉症の症状。早々に中止しました。午後4時から農中(親子)来訪、ひととき真面目なゼミの時間。話題に出た懐かしい人たちへの電話をいろいろ。夕食は久しぶりの「壺」(天麩羅)へ。
内田純一さんから、第13号編集(第3回)会議記録が届きました。さっそくHPへアップ。皆さん、ご覧ください。今後のご協力どうぞよろしくお願いします。早くも第13号への投稿希望(予告)が2本ほど寄せられています。嬉しい悲鳴になれば幸い。
●2008年3月10日(夜)
<風の休刊−「第13号」編集会議@風の部屋>
南の風2000号を出したのは、3月8日早朝。この日は個人的に忘れがたい記念日の一つになりました。ようやく(ほんとの)定年を迎えた解放感あり。終日ボケッとしていました。
それでも翌9日は、旧(現ふじみ野市)大井町の公民館まつりで講演。夜は「東アジア社会教育研究」第13号編集会議(風の部屋)。高知から内田純一さん(編集長)が上京して。顔ぶれが揃いました。今年もいい内容に結実してほしいもの。誌上シンポ企画のことで、佐賀の上野景三さんにも電話。北京の韓民さんからの返事がないのが、少し気がかりです。
ワインもすすんだところで、「祝・2000号!」のケーキが登場しました。江頭晃子さんの用意らしい。ありがとうございます。神妙?な顔で二本のローソクを吹きました。一本1000号の勘定だ。
この夜の記録を誰に頼もうか、これまでの「風」の習性で考え始めていました。だが、「風」は終わったのでした。ひとときの脱力感。そう、ホームページに「13号投稿呼びかけ」欄あり、これに編集会議記録を残してはどうか。当夜出席した人で、誰か書いていただけませんか?
2000号には、実は心待ちにしていたメールが二つ、しかし残念ながら間に合いませんでした。一つはカイロ大学のアーデルさん。10日になって、旅行先のイスタンブールからメールが来ました。家族で(アーデル2世を連れて)日本に来る計画あり、19日に東京「風の部屋」に泊まりたいという嬉しいニュース。夕食会でも企画しましょうか。
あと一つは、竹富島からの2000号記念メール。これはまだ未着です。それにしても同号で「悠々自適」を勧めてくれた石倉裕志さんの一文がとてもよかった。久しぶりの便りでもあり、心に残っています。
(2008/03/10・夜、福岡)
*
南の風1951号〜・日誌→■
トップページへ