◆やんばる対談・解題・対談集(2010〜2018〜)◆ TOP

 *沖縄社会教育研究フォーラム1(2005〜)→■
   同 フォーラム2・やんばる対談(2016〜)→■
   同 フォーラム3・やんばる対談(2019〜)→■  
  戦後沖縄青年団運動の証言(2018→■

対談集・表紙(写真:島袋正敏)



蔓草庵(島袋正敏主宰)120329




◆やんばる対談(第1回)   
 
TOAFAEC 年報『東アジア社会教育研究』第15号・所収
 2010年5月30日
    会場:名護青年の家
 やんばるの地域活動・社会教育と2010年名護市長選
 
     対談者:島袋正敏・小林文人
      記録・解題:山城千秋・山口真理子


左より山城千秋、島袋正敏、小林文人(名護青年の家、20100530・山口真理子撮影)

 やんばる対談の思い−解題
 本対談は『おきなわの社会教育』(エイデル研究所、2002年)の共編者である小林文人と島袋正敏の「ゆんたく」である。この8年の「やんばる」は、普天間基地の辺野古移設問題で大きく揺れ、2010年・名護市長選にいたる激動の歳月であった。基地受け入れ問題をめぐって地域は二分される中、人々の暮らし・集落活動・地域づくりの格闘が続いてきた。これらの、ありのままの地域実像を振り返りつつ、自由な語らいの「対談」が企画された。そのなかから、沖縄本島北部・やんばるを中心とした社会教育や住民運動の歩みを再確認し、名護・やんばるの地域づくりの課題をさぐり、さらに日本の社会教育に向けて新しい展望を模索していこうという「ねらい」も含まれている。
 同書『おきなわの社会教育』“まえがき”で、小林は「…その“沖縄らしさ”の故に、日本各地の社会教育との質的な交流や相互評価はこれまであまり深まりをみせなかった」と述べ、沖縄の社会教育や公民館を評価する日本の物差しの短さを指摘している。発刊から既に8年が経過し、また2年後には沖縄復帰40年を控えた今、沖縄の社会教育や地域づくりの胎動をもう一度丁寧に掘り起こし、新たな「おきなわの社会教育」の方向を再構築しようという思いで語らいは始まった。
 対談の具体的な内容は、島袋正敏と周りの人たちがこれまで取り組んできたこと−やんばるの自然を守る会、博物館・図書館づくり、島酒之会、黒豚、リュウキュウアユ、字誌、ものづくり、青年会活動など−を手がかりに、やんばる文化を育んできた人々の共同性・ユイマール(支え合い)の心に触れるものとなっている。
 島袋正敏は、1943年久志村(現名護市)に生まれ、復帰前の1970年に合併当初の名護市社会教育主事を務め、1973年から博物館づくりの資料収集を始めている。1981年の博物館準備室設置に関わり、以後1984年に同館長、1991年社会教育課長、崎山図書館長を経て、1999年に新設の中央図書館長、そして2002年に市教育委員会教育次長を歴任した。生涯の多くをやんばるの社会教育に尽くした人である。退職後も、精力的に島酒之会や「ものづくり」塾などに携わり、やんばるの地域文化の発展を担ってきたことは衆目の認めるところ。2009年には琉球新報活動賞を受賞している。
 やんばる地域の人々の共同性は、集落自治や祭り、字誌づくりなど、生活文化を持続可能にしてきたと同時に、時には国家の安全保障問題と対峙する市民運動の高揚となって表れてきた。1995年に発生した米兵少女暴行事件を発端とした普天間基地移設の問題は、1997年に名護市辺野古のキャンプ・シュワブ地域を移設候補地とする施策へと具体化された。名護市では、この基地移設問題にどう対応するかという緊迫した政治課題に直面しつつ、これからどのような地域づくりを目指していくか、市民一人一人が問われ続けてきた13年であった。
 2010年1月25日、普天間飛行場移設問題を最大の争点にした名護市長選挙は、前市教育長の稲嶺進氏が勝利し、「辺野古に基地をつくらせないという信念を貫く」と述べた。海上基地建設の是非を問う1997年12月の名護市住民投票では「反対」が過半数を占めたが、今回の市長選で、13年前の住民投票で示された「基地反対」の民意が改めて確認された。
 名護市では、厳しい基地問題に対峙しながらも、地域の伝統文化を愛し育む実践が蓄積されてきた。その中心的役割を担っている島袋正敏やその仲間の実践に学びながら、日本社会が失いつつある家族や地域の共同性・ユイマールの心、そして外部に依存しない住民自治の原点を読み取っていきたい。 
 やんばる対談の第1回は、2010年5月30日(会場:名護青年の家)に行われたが、皮肉にもその二日前に鳩山首相による普天間基地の名護市移設を容認した日米共同声明が出された直後であった。そして、三日後に鳩山首相は辞意を表明した。このような複雑な政治状況を背景に、去る1月の名護市長選挙の具体的な経緯を中心に、それに至る名護の草の根の市民運動や博物館・図書館づくり等にみられる社会教育実践の歩みを回顧するところから対談は始まった。(山城千秋)
対談終了後のビール、蔓草庵(底仁屋)庭にて (20100530)



◆やんばる対談(第2回・第3回)
 2011年2月〜5月 
会場:1,天仁屋「黙々100年塾 蔓草庵」準備小屋2,名護博物館中庭
やんばる対談 A在来資源・生きもの復活ー島袋正敏、
          Bリュウキュウアユを呼び戻す運動の歳月 島福善弘(2011年)    
 記録・山城千秋、山口真理子   
 年報「東アジア社会教育研究」 16号に収録


この日、やんばるは冷たい雨が降っていた。(蔓草庵 110211)

解題
 私たち(TOAFAEC)の沖縄社会教育研究は1976年から始まり、すでに35年の歳月が経過したことになる。当初は、那覇を拠点に戦後アメリカ占領下「琉球政府」時代の社会教育史(八重山・宮古・奄美を含む)資料調査や証言収集の作業が中心であった。『沖縄社会教育史料』(全7集、東京学芸大学社会教育研究室)、『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究』(小林・平良共編、エイデル研究所刊)等にその成果が収録されている。
 その後、次第に(沖縄社会教育の戦後史研究にとどまらず)現代の沖縄社会教育の動向、沖縄独自の集落(字)公民館の取り組み、青年会活動、地域づくり実践などに関心が拡がった。とくに名護を中心とする「やんばる」地域の社会教育や公民館活動についての継続的な研究調査が重ねられてきた。共同執筆『おきなわの社会教育−自治・文化・地域おこし』(小林・島袋共編、エイデル研究所)は、「やんばる」地域についての報告が多く掲載されている。
 周知のように2010年1月、普天間米軍基地の名護・辺野古移設問題を大きな争点として名護市長選が行われ、激闘の末、「名護に基地は造らせない」を公約とした稲嶺進氏が当選した。稲嶺進氏はかって社会教育主事の時代(1980年代)があり、当時の出会いから30年が経過している。
 その後は名護市の総務部長、収入役、教育長等の要職を歴任した人である。いま市長として、日米安保体制と基地(辺野古)問題に奮闘中であることは周知の通り。しかし同時に名護市の市政全般にわたって「基地のない」地域づくりを前進させていく大きな課題に挑戦中である。
 本「やんばる対談」の企画は、名護・稲嶺市政の取り組みについて、これからどのような地域づくりが展開していくか、社会教育と住民自治の立場から追跡していこうという思いから始まった。昨年の第1回「やんばる対談」は、「やんばるの地域活動・社会教育と2010年名護市長選」をテーマとして、稲嶺市政実現にも深く関わった島袋正敏氏(名護市社会教育課長、同市博物館長、同市中央図書館長、教育次長等を歴任)と小林文人(TOAFAEC)の対談として行われた。その趣旨、背景、注目点等については、山城千秋(熊本大学)による「解題」の通りである。
 今回の「やんばる対談」はその第2弾である。一つは「やんばる在来資源・生きもの復活運動と社会教育−名護・稲嶺進市政1年を振り返りつつ」、島袋正敏氏との(昨年に続く)対談Aである。
 名護市では「やんばる」の風土・地域に根ざしながら、1970年の名護市誕生以来、やんばる型ともいうべき社会教育・公民館活動が取り組まれてきた。その背景には1972年の沖縄日本復帰前後からの(海洋博開催を含む)大型開発、環境破壊、地域流動等に対する強い危機意識があったという(島袋正敏)。あらためて「やんばる」の伝統的文化を再発見し、集落自治を守り、在来文化資源を保存し復活する視点から、字公民館を拠点する活動や字誌(地域史)運動が取り組まれ、とくに1980年代の名護博物館の個性的な活動が注目されてきた。
 島袋正敏氏は、「やんばる」型社会教育の中心的リーダーとして力動的な役割を果たしてきた人である。とくに在来家畜・黒豚(アーグー)の保存運動をはじめとして、博物館活動とも連動し、豚だけではなく馬、山羊、猪、琉球犬等への“生きもの”たちへの取り組みには驚かされるものがある。いわゆる文化財資料の収集保存とも連動して、在来動物保存運動は次第に市民たちの共感を呼び、子どもたちに拡がり、高校教師の積極的な支援を得て、地域の文化運動そして、また産業活動として位置づいてきた。対談を終わり記録を読み直しながら、あらためて社会教育における“生きもの”の発見、とも言うべき“やんばる”独自の実践を実感させられた。

 あと一つの対談Bは、名護・源河の「リュウキュウアユを呼び戻す運動」(1985年)についての証言である。同じく“生き物”への取り組みである。運動に深く関わってきた島福善弘氏(現・名護博物館長)にお話しいただいた。すでに30年近くの歳月を重ねてきた「リュウキュウアユ」運動の歩みは、私たちに多くのことを語りかけてくる。地域の川と水への愛着、環境問題への自覚、青年運動としての取り組み、市当局への働きかけ、高校教師の専門的な支援、子どもたちの「アユ放流」、地域を越える「蘇生する会」の活動など、そこには地域にねざす本来の「生涯学習」の在り方が内包されているように思われる。源河区の出身であり、呼び戻す運動の中心として奮闘してきた島福善弘氏がとつとつと語る証言は貴重であった。
 この両対談は、2011年に入って3回の「やんばる」訪問の機会に実現した。いずれも室内ではなく、やんばるの風に吹かれながらの語りあい(@天仁屋「黙々100年塾 蔓草庵」準備小屋、A名護博物館中庭)であった。風の音、鳥のさえずり、蝉の声などを聞きながらのひととき。忌憚のない話をしていただいた島袋・島福のご両人はもちろんのこと、記録にあたっていただいた山城千秋(対談@ 熊本大学)、山口真理子(対談A、TOAFAEC 事務局)のお二人に深く感謝したい。 (小林文人)


名護博物館長・島福善弘さん(左)と小林(名護博物館にて、20110703)


◆やんばる対談(第4回) 2012
屋部の八月踊り、沖縄の民話採集の歩みなど−比嘉久さんを囲む−
出席者(語り手):比嘉久(名護市教育委員会)、島袋正敏(「山原ものづくり塾」塾長)
  (聞き手):小林文人(TOAFAEC顧問)、岩本陽児(和光大学)、金宝藍(東京大学・院)、
   武田拡明(川崎市・元市民館長)、山口真理子(調布市立図書館)、山城千秋(熊本大学)、
   鷲尾真由美(那覇市)

日時 2012328日午後2時〜5
場所 名護市底仁屋「黙々100年塾・蔓草庵」(島袋正敏・主宰)
記録 山口真理子  年報「東アジア社会教育研究」 17号に収録

左・比嘉久さん(名護博物館)、右・小林 (蔓草庵, 20120328)

解題

 「やんばる対談」の企画は、2010年(本誌・第15号−対談@)に始まり、2011年(第16号−対談AB)を経て、本号−対談で第4回を迎えた。この間の経過と対談企画への思いを簡単に振り返っておくことにする。きっかけは2010年1月に全国注視のもと行われた名護市長選挙に稲嶺進氏が当選したことから始まる。周知のように、市長選挙の大きな争点は普天間米軍飛行場の辺野古移設問題にあった。自民党政権下に策定された辺野古移設案を民主党政権(200 9年発足)も−迷走の末−引き継ぐこととなり、基地受け入れをめぐって名護市は二分され、混迷と葛藤のなかでの市長選挙となった。稲嶺候補は「海にも陸にも基地は造らせない」ことを公約に掲げ、激闘の末に市長に当選した。
 稲嶺進氏とは永年の友人である。彼は、私たちの沖縄社会教育史研究の初期、1980年代初頭には名護市・社会教育主事であった。地域のなかで字公民館や集落の自治活動、さまざまな学習・文化活動の展開に携わってきた経歴をもっている。その後、名護市行政の中枢に入り、さらに収入役・教育長の要職をつとめてきたが、2010年以降は、新市長としての重責を担うこととなったのである。市長立候補や選挙の経緯は「対談@」の島袋正敏氏(第15号、186〜87頁に紹介)の証言に詳しい。新市長は、基地問題の重圧にあえぎながら、基地のない地域づくりに取り組むことになる。それまでの自治体行政を刷新し、市民の目線にたった地域政策への取り組みが期待された。基地に依存しない地域づくりをどう進めるか。産業(とくに農業)振興や雇用創出、環境問題への取り組み、子育てと教育、福祉や医療、総じて地域力の再生など、具体的な課題は山積している。
 「やんばる対談」の企画について、島袋正敏と小林が予備的に話しあったのは稲嶺市政がスタートして間もない頃であった。「やんばる」という独自の風土、自然・歴史・文化に根を下ろしながら、復帰・海洋博以降の開発の流れに抗しつつ、その取り組みの蓄積に重ねて、名護市が新しい課題にどう挑戦していくことが出来るか。「基地のない地域づくり」に向けての自治体の取り組みを見守り、そのなかでの社会教育の課題・展望を考えていこう、そんな思いをもって「やんばる対談」企画が始まった。

 沖縄の方言に「ゆんたく」という言葉がある。おしゃべり、とりとめのない語らい、といった程度の軽い表現であるが、あえて積極的な言い方をすれば、自由な語らい、腹蔵のない対話、などの意味合いも含んでいると思われる。本年報の構成は「東アジア」のテーマ性もあって、比較的に研究論文や調査報告の形式が多くなるが、あわせて自由な語らい、仲間的な対話、楽しい読みもの、を盛り込んでみたい、そのなかから事実を共有しつつ、対話を通してお互いの(日本の社会教育を含む)課題や展望を探り出していきたい、そんな「ゆんたく」の思想が動いてきたのである。
 前号「解題」にも書いたことであるが、「対談」それ自体も「やんばるの風」に吹かれながら進められた。緑のそよぎ、鳥のさえずり、虫の音などを聞きながら、本対談Cも楽しい語らいとなった。昨年7月にオープンした名護市底仁屋「黙々100年塾・蔓草庵」(島袋正敏・主宰)を会場として、山原島酒之会秘蔵の古酒と山羊(ヒージャー)のサシミも卓上にならんだ。願ってもない空間を設営していただいた正敏さんに深く感謝したい。
 対談@ABの語り手は、島袋・小林が中心、加えて山城千秋・山口真理子が参加してきた。今回は、これまでの常連だけでなく、少しずつまわりに拡げていこう、若い世代の参加を求めていこうということになった。そこで登場したのが、比嘉久さんである。比嘉久は、1960年生まれ(名護市屋部出身)、沖縄国際大学(文学部国文学科)卒、名護市教育委員会に勤務、文化財・博物館を担当し、現在は社会教育課長(2012年4月〜)。対談はとりとめのない「ゆんたく」から始まり、話題は多岐にわたったが、主として標題(「屋部の八月踊りと沖縄の民話採集運動」)に収斂する方向で記録はまとめられた。他に興味深い内容が語られたが、割愛された部分も少なくない。
 あらためて当日(2012年3月28日)の対談に参加した諸氏(上記)に感謝し、とくに記録起こしを担当された山斑真理子さんの労に深く感謝したい。(小林文人)


◆やんばる対談(第5回) 2013年  
  *年報「東アジア社会教育研究」 18号に収録
沖縄・やんばる40年―地域史づくりに関わって〜中村誠司さんを囲む〜
語り手:中村誠司(名桜大学名誉教授)、比嘉ひとみ(名護市教育委員会)

     島袋正敏(「山原ものづくり塾」塾長)
聞き手:小林文人(TOAFAEC)ほか参加者
日 時:2013年3月14日(木)午後2時〜5時
場 所:名護市底仁屋「黙々100年塾・蔓草庵」(島袋正敏・主宰)
記録:山口真理子(調布市図書館)
参加者:上平泰博(協同総合研究所)・上平耀介 岡幸江(九州大学) 國吉多美子(エッセスト)、
武田拡明(もと川崎市市民館) 山城千秋(熊本大学)、鷲尾真由美(おきなわ環境ネット・那覇)

中央に中村誠司さん、右は比嘉ひとみさん(名護・蔓草庵、20130314)


経過・解題
 「やんばる対談」は、2010年(年報15号)に始まり、今回で第5回を迎えた。やんばる対談のきっかけは、全国注視の中で行われた名護市長選挙(2010年1月)、そこに立候補した稲嶺進さんが当選したことからであった。前号(2012年)で、企画の趣旨を短く書いているので、再録しておこう。略(年報17号−121頁)
 これまでの「対談」テーマは次のような経過であった。略(上掲)
 今回・第5回対談のメイン・ゲストは中村誠司さん。1970年前後から「やんばる」に深く関わり、その後、名護市職員として市史編さん事業や字誌づくりなど地域史運動の展開のなかで大きな役割を果たされた。引き続いて名桜大学に勤務し教育・研究にあたってきた人である。また加えて、現在の名護市史編さん事業を担当している比嘉ひとみさん(名護市教育委員会)と島袋正敏さんに加わっていただいた。
 中村誠司さんの「やんばる」との関わりとその後の自分史は、対談の中で明らかであるが、はじめに簡単な略歴を紹介しておくことにする。(中村誠司‐名桜大学最終講義−20130221−資料より)
○1948年:大阪市生まれ、1966年:広島大学文学部史学科地理学専攻入学、1970年:同大学院修士課程入学、1972年:博士課程進学、1975年−単位取得・満期退学。
○1975年:名護市役所就職、1977年:名護市教育委員会に異動(崎山図書館、市史編さん室)、1991年:名護市図書館建設準備室勤務、1994年:名桜大学国際学部国際文化学科助教授、1999年:同教授、2013年:定年退職。
○この間の社会的活動としては、沖縄地域史協議会(1978年〜)、沖縄文化協会(1982年〜)、東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC、1996年〜)、名護市史編さん委員(1996年〜、2009年より委員長)、新名護市博物館計画検討委員会(2010年〜)など多彩。1990年には「比嘉春潮賞」(沖縄文化協会、第12回)を受賞されている。 (小林文人)
右に中村誠司さん (名護・蔓草庵、20130314)



◆やんばる対談(第6回) 2014 
 *年報「東アジア社会教育研究」 19号に収録
テーマ:名護社会教育を担う若き群像ー合言葉は「地域を元気に!」
日時:2014412日(土)午後2時〜5
場所:名護市底仁屋「黙々100年塾・蔓草庵」
進行:小林文人(TOAFAEC 顧問)、
記録:山口真理子(TOAFAEC 会計)
参加者Ⅰ・名護市:
島袋正敏(「山原ものづくり塾」)座間味法子(教育委員会教育長),
  比嘉ひとみ(社会教育課長),比嘉久(博物館館長),島袋一平(社会教育係長),
  田畑晶吾(博物館係長)
糸数幸司(社会教育・羽地支所),伊波寿々歌(屋我地支所)
  
大城重浩(同係・久志支所),岸本久美子(同係・育休中),比嘉祥子(同係 新人)、
  大嶺真人(市史編さん係),中村誠司(名桜大学)
参加者Ⅱ・訪問側:小林文人(TOAFAEC桑原重美(元NHKカメラマン), 斎藤真哉
  (東京都板橋区教育委員会大原社会教育会館館長)
佐治真由子(川崎市役所
 
  武田拡明(元川崎市教育委員会),山城千秋(熊本大学准教授)鷲尾真由美
  (
沖縄環境ネットワーク 世話人森田はるみ(北海道置戸町教育委員会 社会教育主事)
  加藤彰彦(沖縄大学名誉教授,前学長、ペンネーム野本三吉)藤田徹(日本労働者
  協同組合ワーカーズコープ連合会センター事業団理事長)
、上平泰博(協同総合研究所)
  宇加治哲郎(同、九州沖縄事業本部)、仲兼久周子(同、名護地域福祉事務所)

    山口真理子(TOAFAEC会計)
第6回対談(名護社会教育を担う若き群像)、テントでの語り合い(蔓草庵,、2014412)


解題−やんばる対談・新しいサイクルへ
 今年(2014年4月12日)の「やんばる対談」は6回目。名護・底仁屋の会場(蔓草庵・島袋正敏さん主宰)には心地よい4月の“やんばるの風”が吹いていた。TOAFAEC・「南の風」の呼びかけに応えて、北海道をはじめ各地から14人が参集し、名護側は社会教育関係者がほぼ勢揃い、合計27人の対談となった。これまでにない規模の「対談」、いままで屋内で開かれてきたが、今年、は庭にテントを張って、笑いや涙も交え、賑やかに開催された。
 振り返ると「やんばる対談」の企画は、2010年の稲嶺市政の誕生を契機として始まった。米軍普天間基地の辺野古移設問題という大きな政治的争点だけでなく、名護の農業振興、福祉や子育て、集落や地域文化の活性化など、総じて地域づくりにどう取り組んでいくか、そこでの社会教育の役割をどう再発見していくか。そんな課題を“ゆんたく”風に自由に語りあい、記録として蓄積していこうという企画である。本年報第15号(2010年)から毎年の「やんばる対談」連載が定着してきた。各年度それぞれのテーマや背景・経過については、各号に解題を付している。大筋の流れは、本対談冒頭の島袋正敏さん「蔓草庵へようこそ」(下掲)にも触れられている通りである。
 今年の第6回「対談」は、いくつか新しい展開があった。第1は、30人近い参加者による対談というだけでなく語り手の主役が名護・社会教育を担う若い社会教育主事集団であったこと。これは稲嶺市政1年後に地域(支所)配置された4人の社会教育主事の登場が背景となっている。第2は、遠く北海道置戸の社会教育が取り組んできた生産教育・オケクラフトの話題を契機として、地域の産業づくり、たとえば第六次産業の視点からの地域づくりの課題が語られたこと。名護では道の駅「わんさか大浦パーク」の活況、民泊事業やエコツーリズムへの期待、と重なるところがあった。第3には、協同労働・地域協同をめざすワーカーズコープ関係者との対話が始まったことである。
 この第1の展開については、当初から企画したことでもあったが、第2、第3の課題は、当日の多彩な参加者によって「ゆんたく」の語りが拡がり、示唆に富む論議となり、今後の課題・展望を考えあう機会となった。視野の拡がりから、その課題を今後どう深めるか、次なる実践にどう取り組むか、そして来年の対談への期待、をも共有することとなった。「やんばる対談」は、いま新しいサイクルに入ったということができよう。
 対談のテープ起こしは、例年のように、山口真理子さんに担当して頂いた。正確かつ詳細な作業にあらためて深く感謝したい。(小林文人)
交流会、名護市長・稲峰進さん、二見情話をうたう(名護市中央公民館、140412)



◆やんばる対談(第7回) 2015 
  *年報「東アジア社会教育研究」 20号に収録
名護社会教育がめざすもの社会教育主事たちの思いと課題
日時:2015328日(土)午後230分〜530
場所:名護市底仁屋「黙々100年塾・蔓草庵」
企画・進行:島袋正敏(「蔓草庵」主宰)、小林文人(TOAFAEC顧問)
参加者(名護市):比嘉ひとみ(社会教育課長・4月より図書館長),島袋一平
 (社会教育係長),糸数幸司(社会教育主事・羽地地区),岸本久美子(社会教育主事・
 名護地区),比嘉
祥子(社会教育主事・名護地区),屋良あさの(社会教育主事・屋部)、
 誌上参加:伊波寿々歌(社会教育主事・屋我地地区)、大城重浩(同、久志地区)
参加者(訪問側):李正連(東京大学准教授),石井山竜平(東北大学准教授
 上田孝典(筑波大学准教授),内田純一(高知大学教授),呉世蓮(早稲田大学講師),
  國吉多美子(エッセイスト),桑原重美(カメラマン),
崔一先(韓国慶煕大学教授),
 山口真理子
TOAFAE会計),鷲尾真由美(沖縄環境ネットワーク世話人)
記録:山口真理子(TOAFAEC 会計)



【解題】
 名護・稲嶺進市長の登場(2010年1月)をきっかけに私たちの「やんばる対談」企画は始まった。第1回対談は「やんばるの地域活動・名護の社会教育」をテーマとして年報第15号(2010年)に収録されている。その後毎年の対談が重ねられ、今回で第7回(第20号)を迎えた。当初は島袋正敏・小林文人の二人対談であったが、テーマが拡がるにつれ人もひろがり、とくに昨年は27人の多人数となった。今年度も21人(うち誌上参加2人)を数える。今年は初めて韓国から参加(崔一先・慶煕大学校教授)があり注目された。
 稲嶺進市長は当選の翌年(2011年)、社会教育主事の地域配置・拡充策を打ち出した。中心の名護市街地だけでなく、周辺の4支所(旧村、1970年合併)に社会教育主事を新たに配置(派遣)、名護市としては6〜7名の社会教育主事体制を擁することになる。いずれも大学や社会教育主事講習で専門資格を取得した新鋭の若い世代の登場であった。
 名護市は中央公民館・市民会館を設置しているが、他に公立(地区)公民館はおいていない。地域の活動拠点は55集落の字(自治)公民館等である。各地区の社会教育主事たちは、模索し挌闘しつつ集落に入り、活動に参加し、「地域を元気に」を合言葉に、地域づくりに取り組んできた。もともと少子高齢化が続く地域は、悩みも多く課題は山積するが、新しい可能性をさぐり展望をつかもうと努力が重ねられてきた。社会教育主事の地域派遣が始まって4年の歳月が経過し、模索が続くなかで名護独自の社会教育の方向が姿を現しつつあるとみることもできよう。
 訪問者側では、日本社会教育学会・日本公民館学会の中心メンバー(両事務局長を含む)が初めて対談に参加した。学会関係者には、対談終局の挨拶にかえて、「名護社会教育への期待」などコメントを寄せていただいた。終わりに別掲している。対談のテープ起こしは、今年も山口真理子さんに担当して頂いた。正確かつ詳細な作業にあらためて深く感謝したい。(小林文人)
葛草庵、150328



◆やんばる対談(第8・9回) 2016 *年報「東アジア社会教育研究」 21号に収録
1,学校と地域と社会教育の活力 ー付・夜間中学の歩みと沖縄(対談8)
2,「名護民話の会」の活動−宮城孝子さんに聞く(対談9)

企画・進行:小林文人(TOAFAEC 顧問)、島袋正敏(「蔓草庵」主宰)
日時:2016年4月24日(日)午後2時〜5時半、25日10:00〜11:30
場所:名護市底仁屋「黙々100年塾・蔓草庵」、名護博物館(中庭)
記録:山口真理子(TOAFAEC事務局)、山城千秋(熊本大学)

参加者T(名護市側) 島袋正敏(「蔓草庵」主宰)、宮城孝子(名護民話の会)、佐久川純(社会教育課長)、比嘉 久(博物館長)、島袋一平(社会教育係長)、糸数幸司(社会教育主事)、大城重浩(社会教育主事)、島袋和則(底仁屋区前区長・公民館長)
参加者U(訪問側) 小林文人(TOAFAEC顧問)、見城慶和(夜間中学・えんぴつの会)、関本保孝(夜間中学・えんぴつの会)、小林チヒロ(写真家)、新崎康文(荒川九中卒業生、オリオンビール勤務)、武田拡明(元川崎市教育委員会)、玉那覇正幸(元宜野湾市立図書館長)、鷲尾真由美(沖縄環境ネットワーク)、山口真理子(TOAFAEC事務局)記録、山城千秋(熊本大学)記録
対談後の交流会(名護中央公民館、160424)


【解題】

 いま、やんばる東海岸(辺野古、高江など)は 米基地問題をめぐって機動隊が出動し、怒号飛び交い騒然たる状況にある。やんばる対談の会場の底仁屋「蔓草庵」は、同じ東海岸(辺野古と高江の間)にあるが、緑の風が吹き、小鳥囀り蝶も舞って、私たちを迎えてくれた。今年の「やんばる対談」には、東京から夜間中学ひとすじの見城慶和・関本保孝・小林チヒロの皆さんが特別参加されることもあり、中心のテーマとして「学校」の問題に焦点をあて、地域づくりと学校の関わり、学校支援の動き、社会教育の独自な役割、市民の活動(たとえば「名護民話の会」)について語りあうこととなった。
 沖縄のなかでも特に「やんばる」は、学校と地域が相互に近い関係を歴史的に創出してきたように思われる。景観的にも小さなやんばる型集落に寄り添うように小さな学校が位置し、両者が塀や門で過度に隔てられることのない風景。日常的にも学校行事は地域の行事につながり、地域活動の拠点として学校は機能してきた歴史があった。
 しかしこのような地域と学校の親和的な関係には、近年、大きな変化がみられるようになってきた。一つには学校側の管理的な体制、公的機関からくる制約の増大があり、他方では地域の共同体的な性格の変化、地域行事の変貌や地域形成力の後退などの流れが否定できない。全体的な動向として、学校と地域の近い距離はだんだんと離れていく方向にあることもまた事実であろう。
 加えて「やんばる」の過疎化、少子化が、小学校の統廃合や中小一貫校への動きとなってあらわれてきた。名護の東海岸・二見以北十区の場合、2012年に4小学校を統合して中小一貫校の「緑風学園」が発足した。道路をはさんで蔓草庵の前にある(旧)天仁屋小学校は閉校となり、今後の施設利用が課題となっている。子どもたちの学校は、地理的に集落から遠く離れることとなった。
 対談では、このような動向をうけて、学校と地域との新しい関わりが模索され、地域の悩みとともに、さまざまの努力が語られている。社会教育行政における学校支援事業、地域コーディネーターの取り組み、青少年育成協議会、関連して二見以北十区の集落活動や「わんさか大浦パーク」への期待など。いずれも現段階における「やんばる」型の学校と地域づくりをめぐる貴重なレポートである。
 今回とくに興味深かったのは、40年近い歴史をもつ市民活動としての「名護民話の会」についての証言であった。学校支援活動が、単なる行政事業にとどまらず、民話・昔話・紙芝居等の文化に支えられ、具体的には市民の活動として実践され日常化されている。とくに「名護民話の会」の創設に関わり、その歴史を担ってきた宮城孝子さんに対談2日目に特別の証言をお願いし、「やんばる対談9」として記録を掲載することにした。宮城孝子さんの語りを通して、あらためて名護社会教育の蓄積、博物館・図書館・市史編纂室のそれぞれの役割、学校に関わる市民・地域の実像を知ることができた。
 なお冒頭にふれたように、本対談には夜間中学関係からの特別参加があり、「やんばる」の地で日本の「夜間中宇の歩みと沖縄」について貴重な話を聞く機会に恵まれた。対談の流れにそって「対談8」後半にその記録を掲げている。今年のテープ起こし・記録づくりは、例年の山口真理子さんに加えて山城千秋さんに協力をお願いすることとなった。記して感謝したい。 (小林文人)
対談9−名護民話の会・宮城孝子さん(右)、島袋正敏さん(左)−名護博物館、160425−



◆やんばる対談(第10回)  
 TOAFAEC 年報『東アジア社会教育研究』第22号・所収
 日時:2017年3月27日 
 会場
:名護市底仁屋「黙々100年塾・蔓草庵」
 テーマ:やんばるの地域博物館  企画・進行:島袋正敏・小林文人
 記録・解題:山城千秋 *山口真理子記録→■(沖縄研究フオーラム2→31)





◆やんばる対談(第11回)
  2018年4月21日 葛草庵  
名護市の基地問題と地域づくり− 稲嶺市政2期8年の軌跡 −
稲嶺進さんを囲む


解題

 2010年1月24日の夜、小林文人先生と山口真理子さんを連れて名護市に向かう道中、稲嶺進さんの当選確実のニュースがラジオから流れた。投票が締め切られた午後8時ちょうどのことだった。名護市大中の選挙対策本部には、すでに多くの支持者が集まり、進さんが姿を見せると、熱気はピークとなり、指笛や太鼓が鳴り響いた。進さんは「辺野古に新基地はつくらせない」と宣言し、東海岸初の市長誕生に地鳴りのような歓喜が包んだ。
 1996年に日米両政府が海上ヘリ基地建設を条件に、米軍普天間飛行場の返還で合意して以来、移設先とされた名護市では、基地容認/反対をめぐって14年も翻弄された。1997年の海上ヘリ基地建設の是非を問う名護市民投票では、52.8%が反対を表明したものの、1998年以降の県知事選、同市長選で基地容認派が連勝した。移設計画が持ち上がって4度目の市長選で進さんが勝利し、ようやく民意のねじれが解消されたのである。
 稲嶺進さんは、現行案で埋め立てられる大浦湾に面する旧久志村三原の出身で、琉球政府立宜野座高校時代は、辺野古の親戚宅に下宿していたという。1971年に琉球大学法文学部を卒業、1972年に名護市役所に就職する。その後、名護市教育委員会社会教育課、総務部長や収入役を経て、2005年に名護市教育長に就任する。2006年4月、辺野古移設「V字案」で政府と基本合意した島袋吉和市長の下で教育長を務めたが、4年後には進さんが市政の舵取りを任された。
 進さんは対談のなかで「社会教育は僕の原点」と言う。社会教育課に11年の在職中、「給料もらいながら勉強するようなもの」で、たとえば各公民館を回って、青年たちと市青年団をつくろうと働きかけたり、職員が少なかったために一人で婦人会や子ども会、青年会などを担当したことが、今でも婦人、青年たちと密度の濃い関係が続いているという。こうした人とのネットワークを大事にし、生活に近いところで仕事をしてきた経験が、市長になって後も、稲嶺市政の「市民の目線でまちづくり」という公約に結実している。
 米軍基地を抱える県知事や市町村長は、往々にして基地から派生する事件・事故、さまざまな問題への対応に追われ、住民の暮らしに関わる経済・産業振興や教育、福祉への政策が後回しになりがちである。ところが名護市では、国からの再編交付金を使わない、行財政改革を進めた。たとえば基地担当副市長を削減し、1人分の報酬に当たる年間1,000万円で子ども夢基金をつくり、8年間で8,000万円を積み立てた。また、財政調整基金や公共施設整備基金などの基金を積み上げて、基地に依存しない財政健全化を進め、新しい事業を展開できることになった。あらゆる施策は「すべては子どもたちの未来のために すべては未来の名護市のために」という考えに基づいている。
 進さんは、2期8年をかけて確実に基地に依存しない名護市政を再構築してきたが、去る2018年2月の選挙では、基地容認派に負けたのである。今まさに辺野古への埋め立てが強行されるなか、名護市長選挙の出口調査で、「辺野古移設」反対64.6%という名護市民の民意を、政府はないがしろにしてはならない。
 名護親方(程順則)が300年前に中国から持ち帰り、日本中に普及した「六諭衍義」の一つに、「和睦郷里」がある。1996年以降の保革対立の「分断の14年」を和睦で郷里を治めようとした稲嶺市政は、沖縄現代史の節目の一つとして刻まれるだろう。(山城千秋)
辺野古ゲート前にて、稲嶺進・前名護市長(20180821)鷲尾真由美・撮影








中央に稲嶺進・新市長、左に小林、右に島袋正敏、右端は山城秀夫の各氏(大国林道、2010年3月7日)



TOAFAEC 沖縄社会教育研究フォーラム・名護やんばるの社会教育を語る会 共編
『やんばるの地域活動と社会教育-やんばる対談集』(2018)所収
名護・やんばるの地域と社会教育、その水脈をたどる
 −「やんばる対談」記録(2010-〜2018)をどう読むか− 小林 文人


1、はじめに−名護との出会い
 2010年春、名護市に稲嶺市政が誕生したのは私たちにとってビッグ・ニュースであった。稲嶺進さんは、1980年代からの友人。かって社会教育主事として活躍し、名護市の要職を担い、市長に当選してからも、社会教育は仕事の原点だと語る人である。選挙戦のさなか応援の気持をもって何度か名護を訪問し、投開票日の当日には、当選の祝い酒を汲む仲間に入れてもらった。新市長に就任されて間もなく、再び名護の居酒屋で、改めてお祝いの乾杯をした写真が残っている(上掲)。その翌日、名護博物館の中庭ベンチで、選対事務局の中枢であった島袋正敏さんと、風に吹かれながら、いろんな話をした。選挙のこと、市議会の様子、稲嶺市政のこれから、地域や社会教育の課題などあれこれ。遠慮も忖度もなしに自由に語り合える関係は貴重だ。
 正敏さんの話はいつも含蓄に富み、とくに「やんばる」について多くのことを教えられる。その場限りの単発のやりとりで終わるのではなく、TOAFAECの本土側グループと名護・やんばるの社会教育関係者で、お互いの興味あるテーマを設定し、年に1,2度のリズムでの「対談」を企画してはどうか、それを記録していこう、そんな話に発展した。少しつっこんで意見も出し合ってみる、同時に「ゆんたく」の気分を大事にする、仮に「やんばる対談」と名付けよう、稲嶺市政下の社会教育の方向や課題について考え合おう、そうだ、若い世代へ対談を引き継いでいこう、そんな話が面白く盛り上がったことを覚えている。5月に再会を約し、それが「やんばる対談」第1回(5月30日)となった。私たちの「やんばる対談」は稲嶺市政とともに始まったようなものだ。
 島袋正敏さんについては、第1回対談「解題」に略歴等を詳しく紹介している。私たちの沖縄フィールドワークのなかで貴重な出会いが始まった。東京の沖縄社会教育研究会は1976年9月の創設。アメリカ占領下社会教育資料調査を志し、那覇(旧琉球政府史料)、具志頭、読谷、そして宜野座や今帰仁、あるいは八重山や奄美など各地への調査活動を重ねた。そして1982年5月・第17回沖縄訪問調査で、ようやく名護と出会った。正敏さんは当時、名護博物館準備室長、当方は中国留学生・韓民を含む6人の学生を連れていた。準備室に輪になって「やんばる」の話を聞いた。山海の珍味で歓迎していただいた日が忘れられない。その後も学生・院生を連れての沖縄訪問は、南部・中部だけでなく、必ず北部「やんばる」へ足を延ばすスケジュールを組むようになった。初めて沖縄と出会う学生たちはとくに名護滞在が強い印象として残ったようだ。小林ゼミ(東京学芸大学、1995年以降は和光大学)は、社会教育主事時代の稲嶺進さんに名護の最も安い宿を交渉してもらったり、島袋正敏さんをはじめとする名護・社会教育スタッフに暖かく受けとめていただく幸せな歳月が続いてきたのである。

2、沖縄研究のなかの「やんばる」
 私たちの沖縄研究の経過は、まずは戦後沖縄・アメリカ占領下の社会教育史研究が主な課題であった。散逸しがちな資料収集と関係者の証言を記録していく作業を重ねてきた。「戦後沖縄社会教育研究会」(東京学芸大学、那覇「おきなわ」社会教育研究会と合同)による『沖縄社会教育史料』(全7集、1977〜87年、後述)や、小林文人・平良研一共編『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究』(1988年、エイデル研究所)等にその成果を報告している。一時は竹富島や与那国島の調査を含めて、南西諸島を全体的に俯瞰するような夢をもってフィールドワークに励んだ時期もあった。もちろん見果てぬ夢であるが、それぞれの島・地域にそれぞれ固有の地域史が動いてきたことの発見は貴重であった。*研究・交流一覧→■
 名護・やんばるの地域史そして社会教育は、沖縄のなかでも、とくに個性的な独自の展開をみせてきたように思われる。「やんばる型」あるいは「名護型」と呼ばれる諸特徴をもって地域実像が形成されてきたのではないか。若い建築家集団「象グループ」が理論的に関わった今帰仁村の自治体計画(今帰仁村・総合開発計画基本構想、1974年)にいう「やんばる型土地利用」や「集落公民館とまわりの計画」などの「発見的方法」の刺激があったのかもしれない。そしてまた名護市という自治体(名護市総合計画・基本構想、1978年)と、そこで社会教育の仕事を創ってきた島袋正敏、中村誠司、島福義弘、比嘉久など各氏(やんばる対談の語り手)の個性豊かな取り組みによるものであろうか。
 1990年代に入って「復帰20年」に書いた小林「沖縄の社会教育が問いかけるもの」(『月刊社会教育』1993年1月号所収、この報告は多くの人に読まれた)は、名護・東江(あがりえ)の豊年祭に参加した回想、その夜の楽しさから書き始めている。この時期、毎年数回の名護・やんばる訪問が続いてきた。いくつもの経過があって、2002年に名護において第42回社会教育研究全国集会(社全協・現地実行委員会主催)開催という画期的な取り組みがあった。全国的な広がりで社会教育の実践家・研究者が名護の地に参集した年である。この集会に向けて小林文人・島袋正敏共編『おきなわの社会教育−自治・文化・地域おこし』(エイデル研究所、2002年)を刊行した。やんばるを主要な舞台として、地域の社会教育の実践・運動事例が数多く収録されている。
 この間に、年輪を重ねてきた沖縄研究に「東アジア」の視点を加えて、「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC、1995年)が創設された。初期10年の代表は小林文人、副代表は島袋正敏。研究会は年報『東アジア社会教育研究』(1996年創刊)を発刊し、第23号(2018年)までに約80本の沖縄社会教育関連の論稿・報告・資料を掲載してきた(資料一覧を本書末尾に収録)。年報15号(2010年)より「やんばる対談」の連載が始まり、2018年(年報23号)までに11本の「対談」が重ねられた。各年次のテーマ、主要な語り手・ゲスト、収録年報等の経過をあらためて掲げておく。
1、地域活動・社会教育と名護市長選−島袋正敏、2010年、年報15号所収
2、在来資源・生きもの復活−島袋正敏、2011年、年報16号(1)
3、リュウキュウアユを呼び戻す運動の歳月−島福善弘、2011年、 年報16号(2)
4、屋部の八月踊り・沖縄民話採集の歩み−比嘉久、2012年、年報17号
5、名護・やんばる40年・字誌づくり−中村誠司 ・比嘉ひとみ、2013年、年報18号
6、名護社会教育を担う社会教育主事集団の群像(1) 、2014年、年報19号
7、名護社会教育のめざすもの−社会教育主事の思いと課題(2) 、2015年、年報20号
8、地域と学校、夜間中学の動き−見城慶和・関本保孝、2016年、年報21号(1)
9.名護民話の会の歩みと活動−宮城孝子、2016年、年報 21号(2)
10、やんばるの地域博物館をめぐって−各自治体の学芸員等、2017年、年報 22号
11、稲嶺進(前名護市長)を囲む−基地問題と地域づくり、2018年、年報23号

3、「ゆんたく」としての対談−「やんばる」の風に吹かれながら
 TOAFAE年報は、いわば専門研究誌、中国・韓国あるいはモンゴル・台湾など「東アジア」社会教育についての、やや難解な論文・翻訳文や資料が掲載される。類書がない編集・刊行に努めてきた。専門誌だけに、編集努力がなければ、なかなかページを読み進むことにならない。読者がもっとも少ない刊行物と言われる大学の研究紀要や学会の研究年報と同類視されかねない。それだけに、専門的な論文・資料を主要部分としながら、関連テーマによる座談会や東アジアに生きた先達の自分史・証言、具体的な調査ノート、あるいは軽めのエッセイ「ひろば」欄等を盛り込み、いわば読み物を含む「東アジア」研究年報を制作してきた。「やんばる対談」企画もその一つ、名護・やんばるの社会教育を舞台とした関係者の自由な語らい"ゆんたく"を記録していこうと工夫してきた。
 しかし、この種の「読み物」記録は、単なる添え物ではない。練り上げられた研究論文と同レベルではないにしても、独自の研究的な価値をもっていることに確信をもってきた。自由な語らいから生み落とされる関係者の(断片的であっても)貴重な証言・回想、生(なま)の事実、悩みや思い、具体的な課題などについての記録化は、いわば第一次資料として、フイールドワークにおけるノート(かって農村社会学では「野帳」と呼んだ)にも似て、重要な研究資料の意味をもっている。写真や映像、音声記録、交流記録等と並んで、独自の研究価値を内包しているはずだ。
 やんばる対談は毎年3月〜4月に行われた。音声テープを文字化し記録として各年秋に刊行する年報に収録するためである。第1回対談は、小林・島袋の両名に加えて、山口真理子・山城千秋(テープ起こし、リライト、解題など担当)の4名であったが、回を重ねるごとに関心をもつ人が加わり、参加者は次第に増えてきた。各対談の参加者名は、各回の対談トビラに「解題」とともに列記している。会場は第1回のみ「名護青年の家」、第2回からは名護市底仁屋に正敏さんが自力建設してきた「蔓草庵」で開かれてきた。園芸ハウスの骨材をリビルドしたカマボコ型の屋根は、第2回対談ではまだビニール、雨に濡れながら語りあった思い出が残っている。「確か第2回やんばる対談の蔓草庵は、壁はあったが屋根はビニールが破れ、臨時に雨よけのブルーシートを張って、山城秀夫さんが土間に赤瓦を敷き詰めて焚火で暖を取りながらの対談であった」と記されている。(別稿「黙々100年塾 蔓草庵を拠点に、これからも」島袋正敏)
 幸いにその後「やんばる対談」は晴の日が多かった。参加者が増えた年には、庭にテントを張って開かれた。やんばるの風に吹かれながら、蝶が舞い、鳥のさえずり、山羊の鳴き声などを伴奏に、ときには泡盛古酒も供されて、楽しい"ゆんたく"が続けられてきた。
第6回対談(名護社会教育を担う若き群像)、テントでの語り合い(蔓草庵,、2014412) 前掲

4、「やんばる対談」がめざしたもの
 11本の「ゆんたく」記録によって、何を明らかにしたかと問われると、直ちには明確な解答を用意できない。読んでお分かりのように、雑然とも思われる対話が含まれ、年を重ねると繰り返しの論議も目につく。話題はさまざま、宮古馬や黒豚「アーグー」たちも登場し(第2回対談)、次の会では「リュウキュウアユ」を呼び戻す運動が語られた(第3回)。「屋部の八月踊り」の話の流れでは「上野英信さんと屋部」の話題も(第4回)。「民話を語るひと」「名護民話の会」の証言は名護でしか聞けない圧倒的な厚みの報告であった(第9回)。それらが社会教育や博物館・図書館活動あるいは学校教育との関連で語られていく。時を忘れて聞き入ることが少なくなかった。
 報告者だけでなく、参加者(発言者)もさまざま、立場の違いを含んでいる。あえて多様性を尊重し,重複も厭わず、テープ起こしに取組み、そのまま生の記録として後世に残そうとするのはなぜか。記録が共有されるなかで、雑多に思える論議のなかに、貴重な証言・提言が含まれている。今後の歩みをともに考えていく大事なポイントが見え始めているのではないか。大げさに言えば、「やんばる」の地から日本の社会教育や地域活動に向けて、独自のメッセージが胎動しつつあるのではないか、その可能性を予感するからである。
 中心的なメンバーをのぞいて、参加者は年度によって一様でない。初めての参加者を歓迎し、全体としては対談メンバーはむしろ多彩に拡がってきた。話題も多岐にわたっていく。しかし、10年近くの歳月を重ね、11本の対談記録を通覧してみると、やんばる(特に名護)の地域と社会教育の泉から湧きだした実践・活動・運動が、小さな流れとなって、それらが瀬となり淵をつくり、目に見える水脈となって動いてきていること、ゆるやかに、ときに激しく語りあい、論議しながら、少しずつ相互に共有され拡がりをもってきたことを実感してきた。たとえば「字誌」(地域史)づくりの歩みは1970年代にすでにいくつもの源流があり、1980年代に入ってとくに名護市市史編さん室「字史づくり入門」(1989)の発刊による水脈づくりの役割が大きく、名護市だけでなく「やんばる」各地へ、沖縄全域へと拡がっていった(対談5)。全国どこにも見られないこの地域史運動の流れは、それぞれの歴史をきざんで、やんばる特有の大きな水脈となり、相互に共有されてきた。
 いまきちんと理論的に整理できる段階ではないが、そのような拡がりとともに、対談のなかでお互いの基礎理解もまた底流に確かめられてきている。振り返ってみると、次のようなこと(精粗はある)が共通理解になってきたのではないかと思われる。
1、本土復帰後の沖縄開発政策と「やんばる」の環境問題。復帰後のやんばるを襲った開発行政、海洋博に関連する本土資本の跳梁、豊かな「やんばる」の環境破壊、米軍北部演習場にみられるアメリカ軍基地問題、辺野古新基地施策がもたらした地域分裂と自治破壊の問題など。
2、自治体の役割と可能性。東アジアの政治情勢と国家戦略のなかで、自治体がどのように住民自治の原則に立って本来の自治体でありうるか。地域の将来を「市民の手で握ること」(「計画の原則」名護市総合計画・基本構想、1973)をどう実現していくか。自立経済への基盤整備とともに、あらためて「逆格差」論も繰り返し話題となってきた。
3、歴史創造と住民自治復権につながる社会教育の追及。復帰後の名護市社会教育が独自の体制を形成・蓄積してきたこと。住民「ぶりでぃ(みんなの手)」「地域を元気に」を合言葉に、字公民館の活動奨励を基本施策として、独自の構想による名護博物館づくり、住民参加による中央図書館の体制確立。市史編さん室は前述の「字誌」運動だけではなく、膨大な資料収集とともに「市史」編纂・刊行に取り組んできた。
4、社会教育を担う職員集団への期待。当初は教員の出向による社会教育主事が、復帰後は自治体(名護市)の固有職員として位置づき、多面的な役割を果たしてきた。稲嶺市政1年後に中央だけでなく4支所に社会教育主事が増員・配置された。博物館と中央図書館の司書・学芸員体制までを含め自治体独自の社会教育職員集団の形成があり、先輩・教員・ボランティア等の有志的な参加と相まって地域の社会教育・文化活動を担ってきた。世代的な蓄積・継承とともに、職員集団への期待は大きいものがあった。
5、やんばる特有の集落(シマ・字)の共同と地域文化、その基層性。「やんばる」は少子化・高齢化・過疎化の状況にあえぎつつ、基層としての集落の祭祀・豊年祭等の行事・共同意識に深く関わって字公民館が大きな役割を果たしてきた。集落の郷友会が活発にサポートしている場合もある。かっての共同売店や青年会活動が変貌している事実は否定できないが、集落をこえる新しいNPOや文化活動の潮流を含めて、社会教育行政がこれら集落活動と字公民館の活性化に関わって「地域を元気に」していく役割を担ってきた。

5、やんばる対談のこれから、沸き立つ交流・提言を
 やんばる・名護で取り組まれてきた注目すべき実践は、「対談」で当事者たちにゆっくりと語っていただいた。やんばる対談の主要な柱は「やんばる」独自の実践報告である。繰り返すことになるが、在来資源・生きもの復活にかけた島袋正敏さんの情熱(対談2)、リュウキュウアユを呼び戻す源河集落・島福善弘さんの歳月(対談3)、屋部の八月踊りなど集落行事、沖縄全域に広がる民話採集に努力してきた比嘉久さんの奮闘(対談4)、とくに名護民話の会の活動について宮城孝子さんの証言(対談9)、上述した字誌運動や名護市史編纂活動に中心的に関わってきた中村誠司さんや比嘉ひとみさんたちの仕事(対談5)など。これらの取り組みは、いずれも1年や2年限りの歳月にとどまらない。「対談」だけでは語りつくせぬものがあり、詳細な記録・資料を見ていけば、さらに新たな発見があろう。幸い記録・資料が当事者によって保持され、また名護市編さん室が公刊した記録や各地の字誌等が豊かである。本書末尾に「基礎関係資料」としてその一覧を収録している(山城千秋・作成)。
 「やんばる型」「名護型」の諸実践は、字(集落)と住民活動、つまり地域そのものにかかわり、地域課題に直結した字公民館活動であり住民主体の活動であった。社会教育行政もまた積極的にこれらを支援するところに大きな特徴がある。前述したように「地域を元気に」が統一テーマとなってきた。各地の公民館活動にみられる年次ごとの学級講座編成や主催事業の評価レベルではない。地域活動は当然のこと年次を越え、地域課題への取り組みは、課題によるが、10年前後の波長で取り組む姿勢が求められた。「対談」のなかでは、「10年ぐらいの取り組みが大事」と繰り返し強調されたことを思い出す。
 日本各地には、地域それぞれの歴史や課題に対峙して、さまざまの社会教育実践が展開してきた。たとえば東京では「新しい公民館像をめざして」(1973〜74年、いわゆる「三多摩テーゼ」)が提唱され、筆者もその作成に関わってきた。ここで提起される公立公民館像と名護の公民館像(主として字公民館イメージ)は典型的に異なる。地域との関わりについて言えば、むしろ相互に対極にあるようにも思われる。地域ごとの公民館像が各地で多様であることは当然のことであるが、いま日本の公民館の現状をふまえてみれば、名護・やんばる型の公民館と地域への取り組みが提起するものの意義は大きい。

 今後、やんばる対談はどのように展開するのだろうか。この合冊報告書で終わりとなるのか、次へのステップを拓いていくのか、まだ分からない。10年をかけた住民参加による名護市立図書館づくり(1999年開館)の報告もまだ「対談」では聞いていないし、また組織改正(2017年)により市長部局「地域力推進課」に配置された社会教育主事たち「若き群像」のその後の報告も語りあいたいところだ。1年に1度の「対談」だけでなく、「若き群像」による中間フォーラム(仮称)を企画できないかという提案もあり得るだろう。
 やんばるは広い。第10回対談では「地域博物館」をテーマに掲げ、名護周辺の自治体の博物館学芸員に呼びかけ、7自治体が集まった。これに沖縄大学等の研究者(6人)と本土側から博物館研究者を含め9名が参加する賑やかな集いとなった(2017年3月23日、年報22号収録)。
 その夜、恒例の交流・懇親会が名護市中央公民館工作室(「迎賓館」という人もあり)で開かれた。午後・蔓草庵「対談」の余韻が残り、座はその続きのような「まとめ」の議論となった。ビール・島酒も並んで楽しい雰囲気。この情景を山口真理子さん(TOAFAEC事務局長)は「沸き立つ交流」として、次のように書いている(南の風3813号、2017年3月27日)。
 「やんばる対談後、交流会に参加せずに帰った方が少なくありませんでしたが、この会にのみ参加の方も(氏名・中略)。挨拶と発言が相次ぎ、午後の対談の余韻から交流会でも熱気あふれる論議が続いた感じ。やんばる博物館の今後に向けて、「やんばる地域博物館アッピール」「宣言」(仮称)のまとめ案が提起されました。7項目が黒板に書かれました。1、ネットワーク、2、地域個性…それぞれの館の個性、3、ぶりでぃ(みんなの手、住民参加)、4, 次代へつなぐ・子どもの博物館、5、動く(活動的)博物館、6、生活者とつなぐ・くらしに根ざす、7、仕事は楽しい…無理はしない・やらされる仕事よりやりたい仕事を、など。文人先生が打ち上げ、正敏さんが補強し、宜野座の田里一寿さんも積極的に発言。この夜の沸き立つ議論を、どう整えまとめていくか、今後の課題となりました。やんばるの博物館の皆さんに期待しています。」
 やんばる・ゆんたく対談の中から、日本に向けて、不充分であっても、提言・アピール・宣言など積極的な課題提起の作業が期待される。

■TOAFAEC年報『東アジア社会教育研究』(2018年・別冊特別号) 
 『やんばるの地域活動と社会教育−やんばる対談集−』 
 沖縄社会教育研究フォーラム・名護やんばる社会教育を語る会共編
 (2018年10月5日発行 頒価(特価)1500円 (送料別)  B5版 280頁)
目次   
◆〈序〉地域の基層を探る社会教育 上野景三
 やんばる対談一覧(表)
 名護市内・やんばる地図
◆〈やんばる対談〉
1.やんばるの地域活動・社会教育と2010年名護市長選  対談:島袋正敏・小林文人
2.やんばる在来資源・生きもの復活運動と社会教育−名護・稲嶺進市政1年を振り返りつつ−
              語り手:島袋正敏
3.リュウキュウアユを呼び戻す運動の歳月 −島福善弘(名護博物館長)に聞く−
              語り手:島福善弘
4.屋部の八月踊り、沖縄の民話採集の歩みなど − 比嘉 久さんを囲む −
              語り手:比嘉 久
5.沖縄・やんばる40年 −地域史づくりに関わって−  語り手:中村誠司・比嘉ひとみ
6.名護の社会教育を担う若き群像 −社会教育主事集団の合言葉「地域を元気に!」−
              語り手:名護市社会教育主事たち
7.名護社会教育がめざすもの −社会教育主事たちの思いと課題−
              語り手:名護市社会教育主事たち
8.学校と地域と社会教育の活力 付・夜間中学の歩みと沖縄
              進行:島袋正敏・小林文人
9.「なご民話の会」の活動 −宮城孝子さんに聞く− 語り手:宮城孝子
10.やんばるの地域博物館   語り手:やんばる・博物館職員
11.名護市の基地問題と地域づくり −稲嶺市政2期8年の軌跡−
              語り手:稲嶺 進(前・名護市長)
◆黙々100年塾蔓草庵を拠点に、これからも   島袋正敏
◆名護・やんばるの地域と社会教育、その水脈をたどる
  −「やんばる対談」記録(2010〜2018)をどう読むか−  小林文人
◆関連資料
〈やんばる対談関連資料〉
 1.関連年表(2000〜2018年)、2.関連資料(市史、字誌を中心に)
〈沖縄の社会教育関連資料〉
 1.沖縄・名護の社会教育小年表(1969〜2018年)
 2.『東アジア社会教育研究』第1〜23号所収 沖縄関連記事索引
 3.『沖縄社会教育史料』第1〜7集(東京学芸大学、1977〜1987年)目次

やんばる対談(11)後の懇親会(名護市中央公民館・工作<迎賓>室 20180421)



■2019やんばる対談(第12回)・ぶんじんトーカチ祝い
   →写真■
  *「やんばる対談」前夜の恒例・那覇「おきなわ社会教育研究会」
   との交流会は「トーカチ祝い」に合流と。
・やんばる対談(第12回) 
 日時:2019年4月13日(土)午後1時〜
 会場:名護博物館1階展示室  
 テーマ:名護・地域青年運動の歩み、今、そしてこれから(仮)
・トーカチ祝い 
 日時:2019年4月13日(土)午後6時
 会場:(博物館の近く)城公民館

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やんばる対談(14)2024年4月 (年報29号)
やんばるの字誌づくり運動    

日 時: 202446 日(土)14:0016:50
会 場:黙々百年塾・蔓草庵(沖縄県名護市底仁屋)
テーマ:やんばるの字誌づくり運動
企 画:島袋正敏・小林文人

参加者:上野景三(西九州大学、TOAFAEC代表)、浦島悦子(名護市三原字誌作成委員会委員長)、小林文人(TOAFAEC顧問)、島袋正敏(蔓草庵主宰)、渡口裕(名護市教育委員会、城区青年会)、中村誠司(名桜大学名誉教授)、比嘉久(名護博物館)、山口真理子(TOAFAEC事務局)、鷲尾真由美(那覇市、沖縄環境ネットワーク)、赤嶺一子(南風原町、社会福祉士)

【解題】沖縄・字誌づくりの潮流
 「字誌」づくりは、沖縄各地の集落(字)の史誌・記録づくり、いわば集落の地域史運動である。郷土史家等の個人業績というより、そこに暮らす集落住民による共同 の取り組みとして、沖縄戦後史のなかで展開されてきた。
 その背景には、1945年・沖縄戦による全島にわたる集落破壊・消失の悲劇があり、また戦後米軍占領下の基地問題、あるいは本土復帰後の地域開発策に揺れた地域激動の歴史もあっただろう。懐かしの郷土「生まりジマ」への思い、復興・地域おこしへの取り組み、稀少な記録や証言の復元・保存への願いが絡み合って、「字誌」づくりの潮流が動いてきた。(別掲「北部12市町村 字誌等一覧」参照)
 字誌づくりの歴史は、中村誠司(名桜大学教授・当時)によれば、先駆的な取り組みとして1950年代に国頭村奥区、八重山川平区等の字誌を萌芽として、60年代にひろがりをみせ、70年代前半には出版が相次ぐ状況になった。80年代61点、90年代65点と隆盛の勢いとなり、2003年までに狭義の字誌211点が出版された。さらに字に関する記念誌、郷友会誌、芸能史、写真集等の出版物(広義の字誌)502点を加え(計713点)、集落数と対比すると、8割近くの集落が何らかの字誌づくりに取り組んできたことになる(「字誌づくり」『社会教育・生涯学習辞典』朝倉書店、2012年)。もちろん字誌づくりの歩みは、その後も各地で続けられてきた。
 この歩みの中で、名護市教育委員会・市史編纂室が果たしてきた役割は大きい。1980年代から名護市編纂室が主催した「字誌づくり研修会」には各地からの参加があり、小冊子『字誌づくり入門』は広く読まれ、1990年代には6版を重ねてきた。名護市では、集落の字誌出版にあたって刊行費「2割以内、50万円以内」助成を行なってきた(「やんばる対談」5、年報18号、20133月)。
 10年前の年報18号「やんばる対談」5では、「字誌づくり」の全体的動向について取り上げた経過がある。今回はその後の字誌の動き、具体的な状況や課題について、集落レベルの具体的な証言をお聞きする企画となった。参加いただいたのは、名護市内の屋部(西海岸)、三原(東海岸)、城(市中部)、天仁屋・底仁屋(東海岸)の4集落、興味深い報告をいただいた。具体的な課題、苦しい経過も語られ、充実した対談となった。ご参加の各位に感謝したい。ただ一部の発言に録音不具合があり、記録から割愛せざるを得なかったことが惜しまれる。
 ユネスコ「学習権」宣言(第4回国際成人教育会議、パリ、1985年)は、学習権について、「読み書きの権利」「問い続け深く考える権利」「想像し創造する権利」に続けて「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」をあげている。名護(及び沖縄各地の)諸集落「字誌づくり」運動は、まさに自らの「歴史をつづる」実践そのものであり、「学習権」運動につながる地域実像ということができよう(小林文人)。


蔓草庵(まんそうあん)入口(第6回、20140412)



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