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1,戦後沖縄青年団運動の証言
   −祖国復帰運動とアイデンティティ―(2018)

・沖縄社会教育研究フォーラム 編
・東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)発行

    *関連 沖縄フォーラム■  「やんばる対談集」■

目次

〈はじめに〉戦後沖縄青年団運動を担ってきた人たち               小林文人
戦後沖縄青年団運動の証言  聞き手:小林文人 解題・記録:山城千秋
1.占領下中頭郡青年団による祖国復帰運動の胎動
     仲宗根悟・中根章・
東武・有銘政夫・田場盛順
2.沖青連から沖青協へと飛躍する青年運動    外間喜明
3.国頭郡青年会協議会から沖縄県青年団協議会へ  平田嗣功
4.名護市長としての礎を築いた青年団運動と沖青連  渡具知裕徳
5.佐敷村青年会から沖青協、佐敷町議へ  宮城清助
6.基地で分断された北中城村の青年運動と村づくり
   比嘉正儀
7.米軍基地と対峙する読谷村の青年運動
    山内徳信
8.戦後の民主主義・男女同権を実現する女子青年団運動
    諸田(与儀)キク子・伊狩(新垣)
典子・福原(真栄城)千代子
9.郷土復興と青年の自立をめざす産業開発青年隊   永山研次
10
.【座談会】祖国復帰40 年 沖縄青年団運動と復帰闘争を問い直す
    仲宗根悟・喜友名朝昭・有銘政夫・中根章・友寄信助
    田場盛順・徳田米蔵・東武・玉那覇正幸

11.
 復帰闘争期における青年団と学校教員との関係   平良親徳
おわりに  沖縄の青年団と復帰闘争−戦後沖縄青年団運動の証言から− 山城千秋



「戦後沖縄・青年団運動の証言」
【はじめに】 戦後沖縄青年団運動を担ってきた人たち
   
      小林文人(東京学芸大学名誉教授)

 日本各地の地域青年団が全般的に低調傾向にあるなかで、沖縄の青年団は元気だ。とくに若者たちがエイサーを演じる風景に出会うと、その熱気・エネルギーに驚かされる。“わったーシマ”への思い、郷土の文化と誇りを背負っているからであろう。サンシン・太鼓のリズム、その躍動感と乱れぬ演舞、心に深く響くものがあって、ときに胸にジンときた思い出もある。
 戦争が遺したむごい傷痕、戦後に生きた苦難の道、復興・復帰への取り組み、沖縄の戦後史には若者たちの力が不可欠であった。沖縄がたどった戦後史を思いえがくと、エイサーの躍動はまた違った響きをもって迫ってくる。厳しい時代にもおそらく太鼓は響き、人々の心を励まし、わがシマへの愛着、自らのアイデンティティを確かめることになってきたのだろう。
 沖縄戦後史初期において、各集落の青年組織の役割(保安、自治、祭祀、生活相扶など)は重大であった。アメリカ軍政下においてようやく全琉球規模の「沖縄青年連合会」が結成される(1948年、1958年「沖縄県青年団協議会」へ改称)。巨大なアメリカ極東戦略に対峙するかたちで土地収奪・基地問題への闘い、環境浄化、生活と権利を守る活動、村おこし運動、平和運動、日本復帰運動などへの取り組みが始まった(沖青協編『沖縄県青年団史』、1961年)。沖縄県青年団運動は、戦後沖縄が抱えている諸課題(生活・文化だけでなく)とくに政治的課題に対して果敢に取り組んできた。この歴史は戦後沖縄史だけでなく、戦後日本史として注目すべきであり、社会教育史・青年運動史のなかで、いつまでも記憶されるべき光彩を放つ展開であった。
 アメリカ支配下にあった戦後沖縄の最大の政治課題は、言うまでもなく占領からの解放、日本復帰運動であった。沖青連・沖青協の取り組みは、他団体(政党や労働組合を含めて)に先んじて課題を提起し、人々の意識を掘り起こし、運動の展開のなかで全体をリードする役割を果たしてきた側面がある。1957年「祖国復帰促進県民大会」(沖青連主催)の壇上で手を組みあっている青年たちの高揚した表情(写真)は今も私たちに訴えるものがある。1960年に沖縄県祖国復帰協議会が結成されるが、沖青協はこれに参加することはもちろん、むしろ復帰運動の中心的な役割を担ってきた。復帰協の事務局長は結成当初より沖青協が担い、1963~65年・労働組合(官公労)による時期を除いて、1966年から復帰後1975年まで沖青協出身の仲宗根悟さんが事務局長(専従)として奮闘した(「沖縄県祖国復帰闘争史」資料編、1982年)。仲宗根悟さんは中頭・美里の単位団活動を経て、1950年代に沖青連(当時)の事務局長・副会長を各2〜3期つとめた人である。
 私たち(戦後沖縄社会教育研究会、東京学芸大学)は、もともとアメリカ占領下沖縄の社会教育・文化政策や活動の資料収集を志して沖縄調査に入った。復帰後4年を経過した1976年のことである。当時、沖縄県教育庁社会教育主事(青年教育担当)宮城英次さんを介して、復帰時の沖青協会長・田場盛順さんや、1976年からの同会長・東武さんと出合った。その頃、東さんは米軍による県道越え実弾演習反対の闘い、いわゆるキセンバル闘争の渦中にいた。お二人との交流はいまもなお続いているが、この間に玉那覇正幸(宜野湾市青年会長、おきなわ社会教育研究会)、そして中根章(原水協理事長、元沖縄県議会副議長)、上記・仲宗根悟の皆さんとの出会いが始まるのである。コザの街の中心部にある中根章事務所を拠点に中頭青年会OBたちが集まり、かっての青年会活動の資料収集を始めていることも知った。数回開いた聞き取りや座談会では、全軍労委員長(友寄信介さん)、沖縄教職員組合中頭支部委員長(有銘政夫さん)、読谷村長・参議院議員(山内徳信さん)など多彩な顔触れが登場された。各分野での活発な活動は、若い頃の青年会活動から胎動したと言ってよい。青年会・地域青年団は活動を通して社会正義の意識を育て、尽きることのないエネルギーを培ってきたのであろう。
 仲宗根悟さんや中根章さんは、実に多くのことを語って頂いた。日本復帰という大きな政治課題と格闘してきた意識からは、「いまの青年団はエイサーだけだ」と容赦はなかったが、その眼は若者たちへの期待と愛着に充ちていた。
 私たちの沖縄青年活動史・証言を聞く活動は、もちろん中頭青年会にとどまるのではない。名護で元市長・渡具知裕徳さん(1959年、沖青協会長)との出会いは島袋正敏さん(葛草庵主宰)を介して実現した。沖縄県青年会館・常務理事として活躍した安谷屋幸勇さん(現糸満市教育委員会教育長)が証言収集を進めていく上で重要なキーパースンであった。竹富島調査の途次、那覇滞在の私の動静を知って、日程を調整し、青年団リーダーOBのお宅まで車であちこち運んで頂いた。沖連青の初期・女性リーダーとの貴重な鼎談は安谷屋さんの企画によるものである。
 この証言収集活動を始めてまだ10年余りしか経っていないのに、本書に登場された方のうちすでに4人の方が逝去された。仲宗根悟さんは2015年(享年88歳)、あとを追うように中根章さんも2016年(享年84歳)亡くなられた。地域青年運動・日本復帰運動をはじめ沖縄戦後史を担った当事者・リーダーの退場は惜しみてもあまりあることである。「また続きの話をお聞きしたい」「記録や資料を探し出してください」などとご挨拶して別れたことが昨日のことのように想い出される。貴重な証言・回想・記憶をさらに深く汲み出し、関連する記録・資料と重ね合わせ、歴史を復元し再発見していく課題が残っている。沖縄の地域青年団活動史、アメリカ支配から脱する復帰運動史、各地の地域史、さまざまの民衆史、を掘る作業は次のステップを刻む必要があるだろう。歴史を記録していくことは、必ずや歴史を創ることにつながるはずである。
 本証言集に登場された各位、連絡調整など努力いただいた皆様に心からの感謝を申し上げたい。





2,島袋正敏(名護) 語録 

    2023年11月 東アジア生涯学習フオーラム in 名護→■ 報告
    タイトル:ぶりでい(群手)で地域を元気にー名護の社会教育
  *島袋正敏(初代博物館長、初代図書館長、教育次長) 蔓草庵主宰

左・島袋正敏、右・山口真理子(語録作成)ー蔓草庵・20110702ー


■1、祭りと芸能の継承
       
   *共編著『おきなわの社会教育』(2002→■ 第5章 祭り・芸能の継承p6364
 沖縄の芸能は、祭祀の中で神人(かみんちゅ)が中心になって村の人々が繰り返す所作と、奉納舞踊といわれる集団演技等の祭祀芸能がある。それらは沖縄各地に伝わる祭祀の場で、主に女性の神職が祖霊神と来訪神を全身で受けて悪霊を祓い、五穀豊穣と子孫繁栄、海上安全などを祈願して演じられる宮廷芸能(国王交代の儀式に来琉した冊封使を歓待する余興芸能として演じられることから「御冠船踊」とも呼ばれる)がある。―中 略―
 各地に伝わる豊年祭、八月踊り、あるいは村アシビ等と呼ばれる行事は、まさにその両者が混然一体となったものである。土着的なエイサー、棒踊り、獅子舞、臼太鼓、地方の組踊りや狂言等、宮古島ではクイチャー、バーント、巻き踊り、八重山島ではアンガマ、地方の古典舞踊等が加わる。      ―中 略― それら祭祀芸能と舞台芸能は、「こねり手」と呼ばれる、いわゆる神と福を招き寄せる所作を基本としながら、沖縄本島でも南部、北部、そして八重山、宮古とその演目や所作、音楽が異なることが多く、多様で複雑である。沖縄の芸能は、その地域的な広がりと一くくりできないバリエーションは説明しがたいほど豊かな文化性を内包している。
 シマ、ムラと呼ばれる集落を単位として行われる豊年祭は、集落公民館が中心になって組織的に取り組まれる。   ―後 略―

■2 名護の博物館づくり  
    *同『おきなわの社会教育』→■   第10章 地域博物館の動きp.136139
 1970年に誕生した56千人の名護市。1町4村が合併してできたが、旧名護町の庁舎を本拠にして行政事務を行い、教育委員会は琉米文化会館の一角に事務所を構えていた。当文化会館は琉米親善センターともよばれ、米国の占領下で、その政策をすすめていくUSCAR(米国民政府)の宣伝機関でもあった。とはいっても、そこは当時としては珍しい図書館や文化ホール、展示ホールなどが整備されており、やんばるの住民は、社会教育施設として日常的に使っていた。
 当時の同会館に事務所を構えた名護市社会教育係は、その翌年の71年から将来の博物館づくりへ向け、資料収集をはじめた。青年会のメンバーや老人会がその収集に積極的にかかわった。主に、5時以降に地域を回って収集、時には夜間に及び、青年たちが水甕や農具類などを運ぶこともあった。復帰前、沖縄国際海洋博覧会が沖縄で開催されることが決まり、その開発に伴って地域の文化、文化財破壊が急速に進むのではないかという危機感から、資料収集に力を注いだのである。自然破壊も心配され、「やんばるの自然を守る会」が結成され、自然保護運動も起こった。実際に、当博覧会前後に墓荒らしが横行し、また民家などからも大量の資料が持ち出されるなど社会問題化した。当時の社会教育主事は、このような荒波に抗するように、職員や多くの市民と共に資料集づくりや自然保護運動にかかわったのである。−中 略―
 準備室がスタートしてから、沖縄の在来家畜に関する調査をしているうちに、そのほとんどが絶滅寸前であることに危機感を覚える。すぐに在来の犬(琉球犬)を手始めに、馬(宮古馬・与那国馬)、山羊、豚の収集と保存に着手した。犬は、繁殖させて全琉に広げ、豚は市内の農家に分けて飼育してもらった。馬と山羊は博物館の近くで直接飼育した。毎日来館する子どもたちが草を刈って世話し、乗馬を楽しんだ。今では、在来犬は県指定の天然記念物に、在来豚(アーグー)は保存会が設立され保存と活用に向けて動いている。
   −後 略― 

■3 名護博物館のアーグー問題への取り組み 
   *出典:『やんばる対談』2(TOAFAEC→■
    「やんばる在来資源・いきもの復活運動と社会教育」p.3334
 幼少年期の頃はアーグーと呼ぶ在来の黒豚がおりました。馬も在来、鶏もヤギも在来のものだったわけです。時を経て、名護博物館づくりに関わり、1981〜83年、あの博物館の準備室時代の資料収集の過程で、いわゆる生活や歴史資料という意味で、民具等の資料だけではなく、在来の作物とか薬草とか。それから在来の家畜も同様な資料として、それを保存するということは博物館にとって重要な意味を持つんではないかと思ったんです。その当時、将来は農家に何らかの形で還元されていくものとして、調査と収集を始めたのがきっかけですね。
 豚・アーグーは当時すでに30頭も残っていなかったです。糸満から国頭まで調査しました。そのうちの18頭を名護博物館準備室で収集をして、市内の理解ある農家にアーグーを飼育してもらいました。ボランティアで養ってもらった。その人たちが頑張ってくれた。

■4 在来家畜の飼育センター構想
   *『やんばる対談』2→■
    「やんばる在来資源・いきもの復活運動と社会教育」p.3536
 博物館が豚の直接飼育は、なかなか馴染まないんです。一つは糞尿処理や1日に2回も飼料を食わして面倒みなきゃならない。当時、博物館で直接飼育していたのは、宮古馬、与那国馬、それから在来のヤギ、琉球犬ですね。馬やヤギは子どもたちが草を刈って与えました。子どもたちが馬に乗ったりしていましたね。時には沖縄の 赤瓦のある風景を描いていた画家が、博物館飼育の宮古馬を描きにきたことも何度かある。
 馬、山羊などの直接飼育は非常に良かったと思いますね。直に家畜を見る、世話をする、それで乗馬体験などをする、そういう経験を持たない子どもたちや若い世代に、それを経験させることができたのは、大きな意味があったと思います。博物館だからできたのです。
 その後、私たちはやっぱり在来家畜の飼育センターをつくろうとプランを作るんです。それで、キャンプ・シュワブ(米軍基地)西側に大きな市有地があり、そこを想定して体験あるいは宿泊ができる施設、在来家畜の水牛からアヒルまで飼育できる博物館の付帯施設をつくろうと構想をつくったんです。そこは宿泊棟があり農業体験ができ、伝統的な作物がある、薬草もある、というプランです。それを当時の渡具知祐徳市長は了承してくれたのです。その直後に市長が交代して計画は白紙に戻された。当時、名護動植物園ネオパークっていう構想がある時だった。私たちがそれは世界の珍獣を集める動物園ではなくて、沖縄の在来の動物と植物を収集展示、あるいはその地域への還元する動物園にするべきではないかと提案するんですが、当時の市長は「既定方針通り進める」ということで、今のような動植物公園になってしまったんです。あれは方向が基本的に間違っていたと僕は思いますね。

5 アーグーの保存運動 
   *同「やんばる対談」2→■     「やんばる在来資源・復活運動」p.3738
 市民参加型で作り上げた博物館、でも在来家畜もいなくなると、自ずから市民の足が遠のきますね。参加した多くの市民、それから外側から相当応援がありましたから、突然の家畜排除の市長方針と人事に関して、市長宛てにかなり抗議が来るんです。一つは「在来家畜をやっぱりきちっと大事にすべきだ」という抗議、もう一つは「人事に問題があるんじゃないか」と。僕は、そんなことはありうることだとい思っていますから、個人的な抵抗はしませんでした。他自治体の知り合いから同様な話を聞いていましたから、それに比べれば僕なんかなんでもないと思いました。
 アーグーは、私の異動前から農家に相変わらず飼育をお願いしていました。可能な農家ではそのまま飼育を継続していただきました。幸い1985年に北部農林高等学校の太田朝憲先生という方が私のところに尋ねてくるんですよ。市長が交代して間もないころでしたかね。私は非常に危機意識を持っていました。そんな時に高校教員・太田さんが現れて、アーグーを譲ってくれと。その理由は教材として使い、沖縄の大事なものとして残していきたいと。私にとっては本当に渡りに船でした。最初の理解者は、この太田先生です。そして、これが広がっていくんです。それまでは畜産試験場、役所の農政畜産課、農協の窓口、すべて一蹴されましたから。その頃は全く相手にされなかった時ですから。そこに来てくれたのが太田先生で、彼が申し出てくれたのは大きかった。それが今に続くのです。
 博物館がお願いしている農家のものを何頭か引き取ってもらい、恩納村で飼育されている人がいて、私が収集したのとは別に太田先生はそこからも何頭か引き取っていかれました。それを生徒たちと飼育を始めるんですよ。このあたりの記録は、アーグー保存会のメモにありますね。
 アーグー保存会ができたのは1985年よりもずっと後で、私が図書館長から教育委員会教育次長に異動した年です。当時の北部農林高等学校の大城教頭と畜産助手の伊野波さんたちが保存会をつくろうと相談に来た。保存会をつくろうと提案をしたのは彼たちです。よくそこまで言ってくれたなあと。当時は今ほどアーグー、アーグーという人はいなかったですからね。その会長をやってくれと言われ、若い人がいいのではないかと言ったのですが、結局は押し付けられて会長をやっているわけです。そして、保存は北部農林高等学校が中心だったのが、畜産研究試験センターや北部農林高等学校出身の畜産農家など分散飼育をしています。今、いわゆる純粋と言われているアーグーは、ほぼ200頭です。実際には県内に千数百頭くらいいて、県外に出荷していますよね。これはいわゆる純粋のアーグーではなく、西洋豚との掛け合わせでアーグーと称して出しているのもあります。
小林2009年に琉球新報で受賞されたのは、産業活動賞でしょう。つまり、伝統保存の文化賞ではないですよね。ということは、アーグーという在来種を保存して広めて、一つの産業としてのステップをつくったと評価されたことですね。」
 私は、文化産業活動賞だと思うんです。沖縄の長い歴史のなかで、大切に飼育されてきたのはアーグーですね。その文化的価値を評価することが非常に大事だと思うのです。いわゆる経済動物ですが、いきなりお金になるかならないかの話ではないと思うんですね。薬草とか伝統的な作物とか、三線芸能もそうだと思うんですけれど。そのような文化的な側面と歴史的な側面をきちんと評価して、それを残して、どう活用していくかにつなげていくことが大事だと思うんですね。そのような価値が、産業活動賞のなかにどこまで問われたのかはわかりません。


■6 アユを呼び戻す運動と地域史(字史)づくり 
   *「やんばる対談」7→■
     
「名護社旗教育が目指すもの」p.137138
 名護の社会教育の歩みと今、と言う形でかいつまんで話をします。いわゆる環境問題、源河川にアユを取り戻す運動というのがありますね。これは元々社会教育課が青年教室を公民館で開いた。そこに青年達が集まって、高等学校の生物の先生を中心にして講義をずっと続けたんです。
 すると青年達の間から、源河川の今の状況は、かっての源河川とものすごく変わっていると。近くに養豚場があったり、養鶏場があったり、赤土が流れたり、とかね。アユが絶滅寸前だと。アユを呼び戻す運動、清流を取り戻す運動というのが青年会を中心にして拡がって、集落ぐるみでそれに取り組んだのですね。社会教育の青年教室がスタート。社会教育はずっとそれに関わり続けてきた。


 もう一つは地域史づくりですね。名護の市史編纂というのは、もう38年くらい前から始まったわけですね。中村誠司さんが最初に手がけた仕事です。彼の発案で、「市民の手による市民のための市史づくり」を提唱してきた。それ以前から実は集落史を作る、ここでは字(あざ)史と言うんですけれど、それを作る動きがあったわけです。その時までは、一部の郷土史家が中心になっていた。でも名護市史編纂事業が始まると、字史づくりの研修会をやったり、集落で公民館を中心として組織的に取り組むようになった。これがもう40年間続いている、現在も進行中なんですね。(小林「字誌づくり入門」は版を重ねて六版、名著です!))
 ずっと地域史づくりをやってきて、沖縄県の地域史づくりの動きにも名護市の地域史づくりの取り組みがかなり影響を与えてきたと思います。博物館や図書館づくりというものも、いわゆる市民参加型で作ってきた。博物館は資料収集から準備室スタートして開館、現在に至るまで、開館して30年越えていますけれど、幼児から小中高校生、一般の主婦や市民達が関わって博物館づくりに取り組んだきた。
 一つだけ例を申し上げますと、在来家畜、生きた家畜ですよ、それを収集したんですよ。アーグーと言われる在来の豚から、在来の鶏、山羊、宮古馬、与那国馬、琉球犬も収集したんです。過去何百年、我々の先輩たちが関わってきた生きもの、そして現在生きているものを、どういうふうに見るのか。資料的に、そして遺伝子資源として見る、もう一つは地域づくりに生かしてみる、という両面から見て資料収集を始めた。
 皆さん那覇から来る時、国道58号線沿いにアグーとかアーグーとかいうノボリ旗が立っているのを見たと思いますが、実はあれの元は名護博物館が始めたんですね。それが今、沖縄のブランドになったんです。名護博物館は小さな博物館ですけれども、大きな志を持っている。敷居が高くない。市民の図書館も、「こんな図書館を作ろうよ会」という市民運動があって、その市民運動と行政が一緒になって、図書館を作ってきたのです。

■7,暮らすように泊まる民泊事業、ものづくり(東海岸)
   *「やんばる対談」8→■    「学校と地域と社会教育の活力」p.156
 久志地域交流推進協議会というのがあるんですけれど、今度3年目に入ります。これは元々は農水省の支援事業で、交付金を2年間使って、今日に至っています。事業は、一つは民泊事業です。ご覧のとおりとても過疎化が進んでいますから、この地域をどうするかということで取り組んでいます。しかし、民泊はお客さんを呼んで、宿泊させて「ありがとうございました」だけではありませんよと。そこには「モノづくり」があったり、地域のことを学習して、よそから来た人たちと交流しながら、「これは何ですか」「あれはどうなんですか」と聞かれたときに、ある一定程度のことは、その方々に紹介ができるような状況をつくろうと、いま続けているんですね。久志地域交流推進協議会、実は私は会長をさせられて、そこで民泊事業を中心にしていますけれど、キャパとしてはまだ小さいです。まだ1112農家くらいしかなくて、何とか今年度は20軒ぐらいまで農家を増やそうという取り組みです。
 民泊は、主に農業体験をする修学旅行が対象です。一般の方も受け入れているんですけれど修学旅行が中心です。「モノづくり」もきちっとやろうということで、過去1年農家対象にものづくり講座をやってきました。一つは竹を割って「かご」を作るということと、アダンやクロツグの葉っぱを使って、バッグや魚、トンボ指輪、馬など、子どもの頃の玩具を自分たちでもう一度身につけようと、そういうことをやってきております。
 もう一つは、この地域のエコツーリズム推進協議会がありまして、そこも協力して、二見以北振興会、久志地域交流推進協議会と東海岸地域エコツーリズム推進協議会だけは久辺3区(辺野古・豊原・久志)も入っているわけです。そんなところで、何とか自力で地域を再生させていこうという動きがあるわけです。
 そういうなかで、何千万という金ではなく、自分たちで知恵を出しながら、何かをやっていこうという機運ができつつあります

■8,蔓草庵を拠点にして 
 *「やんばる対談」合本(2018→■  『やんばるの地域活動と社会教育』p.246247
 15年前に退職すると名護博物館で山原モノづくり塾を立ち上げ30年前に植えた竹を使ったバーキづくりを始め、自宅でこつこつとやってきた泡盛古酒甕とボトル群も展示場を求めていた。本格的な小屋を園芸ハウス30年の古い骨材を求め、いよいよ「蔓草庵」本体に着手した。大工を一切いれず兄弟や息子たちが作業に取り組んだ。息子家族と同居することになり2階にあった泡盛群を「蔓草庵」に移動展示替えした。
 構想から30年、形になってほぼ10年である。まだまだ完成ではない、これからも創り続け、成長し続ける有機体にあらしめようと思う。
 元高校教員の木下義宣さん等と名護博物館を場にやってきた「山原ものづくり塾」のバーキづくり教室は開始から13年で終了させ、彼は国頭村奥集落で、ボクは蔓草庵で5年前からモノづくりを始め、これまで続けてきたバーキづくりや昔遊びの中の草玩具など、山羊まで飼育するまでになった。
 確か第2回「やんばる対談」の蔓草庵は、壁はあったが屋根はビニールが破れ、臨時的に雨よけにブルーシートを張って、山城秀夫さんが土間には赤瓦を敷き詰めて焚火で暖を取りながら小林文人先生と山口真理子さん3名の対談であった。ずいぶんと昔のように思えるのだがまだ7年前のことである。以来毎年春になるとここを場にやんばる対談が行なわれてきた。
 私たちは、このほぼ50年、さまざまな社会的問題、課題に反応しながら、地域への強いこだわりをもってきた。何と言っても沖縄の復帰運動とその後も続く米軍基地から派生するさまざまな問題、今また、国による新基地建設が民意思を無視して強行されている。その抵抗運動は今日も続いている。これまで社会教育現場から公害講座・源河のアユを呼び戻す運動・地域自治研究会(1973年名護市総合計画基本構想・逆格差論の読み込み、地域巡検など)・自然を守る会・モノづくり塾・民話の継承・在来家畜保存運動・博物館と図書館づくりと市民運動。子どもたちの育ちの環境・文化財の保存と活用・地域史づくりとその支援・泡盛古酒の郷づくり等々と直接間接に関わってきた。そしてそれらのことを次の世代にどのように繋いでいくのか意識しながら同僚、仲間たちと取り組んできたつもりでいる。













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