◆韓国(社会教育法など)研究交流−1980〜1995〜2017〜◆

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<目次>
1,韓国社会教育への旅−韓国・社会教育法10年(1980〜1992)
     東京学芸大学社会教育研究室「韓国の社会教育をたずねて」1992
(本ページ)
2,1994〜5 日韓文化交流基金レポート
  「韓国・社会教育及び青少年教育の研究と交流」訪韓事業・報告書
−1995・3・8−(本ページ)
3,韓国・講演記録(小林) 1999年〜2009年
→■
4,2006 黄宗建・小林文人・伊藤長和 編 「韓国の社会教育・生涯学習」
→■
                            −まえがき・序章−
5,黄宗建先生・自分史を聞く・そして追悼のページ→■
6,「躍動する韓国の平生学習が示唆するもの」(韓国本・エイデル研究所、2017)特論(本ページ)






1,韓国社会教育への旅− 韓国・社会教育法10年(1980〜1992)
    
東京学芸大学社会教育研究室「韓国の社会教育をたずねて」(1992)


 1980年“春”

 初めて韓国へ渡ったのは、忘れもしない1980年の晩冬(2・23〜27)であっ た。当時の韓国は、朴正熙前大統領が暗殺(1979・10・26)された後、そして全斗煥政権が登場(1980・8・27)するまでのいわゆる“ソウルの春”といわれた一時 期である。しかし当時まだ夜12時以降は外出禁止、真っ昼間に突然すべての道路を閉鎖して国防演習が行なわれるような時期でもあった。そしてその三ヵ月後には全土戒厳令と金大中連行(5・18)、それに抗議するいわゆる光州騒乱事件が起こり、多数の学生・市民(子どもを含む)が犠牲となるというような政治状況であった。
 訪韓のきっかけとなったのは、韓国・社会教育法策定の動きである。この年1月に、韓国社会教育協会のなかで指導的な役割を果たされている黄宗建氏(啓明大学教授)が、日本・社会教育法の研究調査のため来日された。聞けば、韓国内の社会教育法実現のために、欧米各国の成人教育関連法の研究調査と平行して、いくつかの研究グル−プをつくり、資料収集中とのこと、日本の社会教育法について詳細に知りたいということであった。当時の“ソウルの春”を好機として、積年の課題である社会教育立法を実現したいという韓国社会教育研究者の熱意をひしひしと感じた。少し資料を用意して、日本・社会教育法についていろいろと(弱点も含めて)お話したことを記憶している。黄宗建氏を紹介・同道されたのは同氏の永年の友人である諸岡和房氏(当時、九州大学教授)であった。
 話ははずんで、2月に韓国社会教育協会が開く「社会教育専門家大会」に出席して講演せよということになった。当日の私の話が不十分だったからだろう。いただいた招聘状をみると、主題は「社会教育制度の比較研究」、演題は「日本の社会教育制度について」となっている。まったく慌ただしいことだ。大学は学期末、しかも当時私は学内の選挙で学生部長に選ばれたばかりで、身辺整理に追われていた時期であった。黄さんは日本の諺を逆用されて、「迷惑だが、有難い」ことでしょうと言って、にっこり笑われた。いま振り返ってみて、全くその通りであった。
 韓国社会教育協会「専門家大会」は、1980年2月22〜24日の三日間、忠清南道の百済の古都・扶余のユ−スホステルで開かれた。参加者は35名前後の「専門家」、そこには大学研究者だけでなく、政府(文教部)行政官や韓国赤十字・YMCAなどの団体の指導者も参加していた。私は韓国の冬は厳しいと聞いていたので、皮のコ−トを着込んで(緊張して)金浦空港に降り立ったものだが、迎えてくれたのは韓国赤十字の職員(染寅基さん)、私を扶余まで車で案内して頂いたのは著名な赤十字事務総長の徐英勲氏であった。日本の社会教育関係団体のカテゴリ−を超えるひろがりを実感させられた。
 「日本の社会教育法」についての講演は24日の午前中一杯をつかって行なわれた。通訳は啓明大学の文吉麟氏、まことに日本語の達者な方で、私は幸せであった。なによりも「社会教育法」がそのまま、ひらがなの部分をハングルに換えるだけで参加者に理解されたことが印象的であった。文法的にほとんど同じ言葉であるにもかかわらず、わたしは「アンニョンハシムニカ」「カンサハニダ」ぐらいしか言えないことを恥じた。(この専門家会議の詳細は、小林の講演をふくめて、一冊の記録にまとめられている。)
 この日、午後は申泰植氏(啓明大学名誉総長、 韓国社会教育協会々長)夫妻ならびに文吉麟氏夫妻とご一緒に、扶余を流れる白馬江(錦江)の舟遊びを楽しみ、その夜は車で俗離山(国立公園)に足をのばし一泊した。黄宗建、文吉麟両氏とうら若き尹福南さんと私という顔ぶれ、想い出深い一日であった。翌日は大邱・海印山へ、そして次の日からは一人になって慶州から釜山へと、韓国のゴ−ルデンコ−スを旅して、帰国したのだった。大邱で文さんと別れたあと、一人旅のエピソ−ドもいくつかあるが、それは次の機会にしょう。
 というわけで、扶余は私にとっての韓国の、忘れることができない第一の町になったのであるが、最初の夜の歓迎・交流のパ−テイで、私は次のような趣旨の挨拶をしたことを覚えている。「いま私は日本語でしかご挨拶できませんが、この次の機会には、きっとハングルで話ができるようになってお目にかかります。今度は済州島あたりでセミナ−が開けないでしょうか、−−−」など。
 これは失敗であった。カッコいいことはあまり言うべきではない。その後私のハングルは全く進歩せず、ついには落ちこぼれて、それから簡単には韓国にいくことが出来なくなったのである。黄・文両先生にもお目にかかることが出来なくなった。そして12年が経過したことになる。

 1982年の冬

 帰国してからの私(東京学芸大学・学生部長)は、大学内の仕事に忙殺されて、社会教育研究者としての看板はしばし棚上げにせざるを得ない状態が続いた。(心身を休めるために沖縄だけは通い続けた。) その後、韓国では全斗煥政権が“ソウルの春”を押し潰し、社会教育法立法の試みは立ち消えになったのだろうと思っていた。
 そして2年あまりが経過して、1982年末(あるいは翌83年の初頭か)のある日、突然に「大韓民国社会教育法」(1982年12月制定)を目にしたのだ。この年、私たちの研究室は初めて韓国からの留学生(大学院生)を迎えていた。梨花女子大学卒の才媛・朴英淑さん、実にきれいな声で「鳳仙花」の歌をうたってくれた人である。この朴さんがある日の社会教育ゼミに「大韓民国社会教育法」をもってきてくれた。それは、失踪した女性が突然に姿を現したような感じであった。私はわが目を疑いつつ(ハングルが読めないまま)条文中の漢字を追っかけていた。そこには日本の社会教育法とかなり類似した構成と、ほとんど同種の用語が並んでいたのである。
 ゼミでは、早速に韓国社会教育法の日本語訳がつくられた。朴さんや魯在化くん(教育哲学専攻、卒業後に一橋大学院生)が骨折ってくれた。当時、研究室では戦後沖縄社会教育史研究の真っ最中で、「琉球政府社会教育法」の全貌がほぼ明らかになってきた段階でもあった。日本と琉球と、これに加えて台湾(中華民國)社会教育法(1953年制定、1980年修正)および韓国の社会教育立法という、いわばアジアの「四つの社会教育法」についての研究課題がにわかに具体性をもち、自覚的に意識され始めたのだ。
 しかし私たちには、日本に最も近いはずの隣国・韓国の社会教育の実態がまずよく分からない。研究的にも実践的にも韓国社会教育についてのインフォメ−ションが無いに等しいのである。私も手紙を書くことを怠っていたが、黄宗建さんからも社会教育法制定についての特段の便りもなかった。(後で分かったことであるが、黄さんはこの年はカナダに研究滞在中であった。)
 海外比較研究がかなり活発な日本社会教育学会でも、韓国についての研究報告は殆どなく、当時としては、諸岡和房氏(九大)による「韓国の社会教育」(九大教育学部付属比較教育文化研究施設紀要28号、1978)論文などが目につく程度であった。その後では、倉内史郎氏(東洋大学教授)が韓国・社会教育法の存在に気付かれて、調査を開始されていたことが注目される(同「韓国社会教育法の性格について」東洋大学アジア・アフリカ文化研究所「研究年報」23号、1989)。私たちの研究室では、調査などの具体的な取り組みはできないまま、しか し研究関心はもち続けつつ、毎年の大学院ゼミでは韓国からの留学生を見付けては韓国社会教育法の報告を求めたり、文化院などについてのレポ−トを依頼してきた。
 その一つの反映として、金慶淑さん(卒業後「釜山留学院」等の経営)の修士論文「日韓の社会教育法比較」(東京学芸大学大学院修士課程、1989年度)として結実し、なかなかの力作がまとめられたのである。

 1992年冬(1月)日韓社会教育セミナ−

 社会教育研究室には、その後韓国からの留学生(研究生)として1990年に文孝淑さん(仁川出身、現在一橋大学院生)が、1991年には金平淑くん(南海出身、現在学大院生)が在籍した。その頃の研究室では、中国大陸と台湾の研究生(あるいはその候補、つまり“もぐり研究生”)を中心にいつも10名前後の学徒たちが在室するようになってきたので、日本語による討論の訓練も兼ねて「アジア・フ−ラム」→■ を発足させていた。週一回のこのフオ−ラムでは文さんや金くんのレポ−トはもちろんのこと、教育史専攻の孔乗鎬くん(孔子さまの末裔、現在名古屋大学院生)が「米軍政期韓国教育政策研究」(修士論文)について内容豊かな報告をしてくれたこともあった。これらの若い留学生たちとの交流(彼らはいつも礼儀正しい)によって、私の韓国社会教育についての知見も少しずつふえていく感じであった。
 黄宗建さんとの再会が実現したのは、1992年1月28日〜30日に大阪で開催された「識字問題と平和教育」に関する「日韓社会教育合同セミナ−」においてであった。私はもともとこのセミナ−にはあまり積極的ではなかった。1月末というのは私の大学ではもっとも忙しい時期である。無理にスケジュ−ルを押しつけられるようなところがあって、最後まで気がすすまなかった。その私を大阪に引っ張りだしたのは、このセミナ−の準備に当たってきた笹川孝一氏(法政大学)である。黄宗建さんも来日する予定だと聞いて、どうしても参加しなければ、と思った。日程を調整してようやく最終日だけでも参加することとした。
 実は1991年刊行の日本社会教育学会年報(第35集)「国際識字10年と日本の識字問題」には笹川氏を通して「韓国識字教育学会会長 黄宗建」氏に原稿を寄せていただいた。タイトルは「民族の独立と文解教育運動」というものであった。この年報の編集委員会の責任者としてもお礼も申し上げる必要があったのだ。腰の重い私を大阪まで連れ出してくれた笹川氏にこの場をかりて感謝したい。カンサハニダ!
 12年ぶりの黄宗建氏は全くかわらず若々しく元気だった。そこに尹福南さんの顔もあった。同じく扶余セミナ−の重要なメンバ−であった金宗西氏(ソウル大学名誉教授・韓国社会教育学会会長)も参加されていた。公開シンポジウムでの黄宗建氏「国連識字10年をめぐる日韓の課題」講演は格調高く、教えられるところが多かった。(なおこの大阪セミナ−については「『識字』に関する日韓合同セミナ−報告書」同実行委員会編、1992年、がまとめられている。)
 最終日夜の懇親会で、私は黄さんの真正面に座った。そして12年ぶりに杯をかわした。扶余の夜からの私のこだわりを話しておく必要があったのだ。その後私のハングルは全く進歩していないこと、ハングルでは今なお挨拶が出来ないこと、こうして再会できて救われた思いであること、などと挨拶した。南相瓔女史(都立大学院生、現在金沢大学助教授)が通訳してくれた。みな酒をのみながら笑った。黄さんは扶余の夜のことなど、全然記憶にもないようであった。
 こうして12年ぶりの黄さんとの再会が済んだ。私のこだわりを解消するためにこの夜のひとときは貴重であった。この翌日から私はしきりにまた韓国に行きたくなったのである。
 

 1992年・再会の夜(大阪)、左・黄宗建さん、右・小沢有作さん。お二人とも故人(19920130)

                     
 そして1992年の春・韓国へ

 大阪セミナ−から2ヵ月たって私たちの韓国行きが実現した。研究室で数回、まさにつけ焼刃のハングル学習会を開いた。講師は金平淑くん、過ぎし日の記憶を少し回復した程度で、ほとんど“非識字者”のまま金浦空港に降りたった(3月30日)。 今度の旅では金平淑くんが、私たちの杖であり、柱であった。私たちは、すべて彼の助けで動き、実に充実した一週間をもつことができた。
 金浦空港には黄宗建さんと文解(識字)教育学会の方々が迎えてくださった。12年ぶりのソウル、「朋遠方より来る−」といって黄さんが注いでくれたビ−ルがことさらに美味しかった。
 翌日から、黄さんの助言も得て、私の12年の空白を埋めるセンチメンタル・ジャ−ニイがはじまった。まず大邱(3月31日)へ、そこで文吉麟氏と再会した。高速バスのタ−ミナルに出迎えていただいた懐かしい文さんの姿を見たときは感激であった。そこには大阪で会った尹福南さんもきていた。学芸大学院生であった金永植くん(美術・デザイン専攻、現在釜山大学講師)も駆け付けてくれたし、夜には同じ金泉市出身の留学生であった崔俊鎬くん(教育心理学専攻)とも再会した。崔俊鎬くんは東京の私の寓居に新妻と一緒に遊びにきてくれたことも何度かあるし、また沖縄調査にも同行したことがある懐かしい留学生だ。翌4月1日は慶州泊り。一人で自転車を借りて市内を駆けめぐり、夕陽の半月城にしばし寝転び、思わず懐旧のつたない歌(略)など詠んだ。
 釜山(4月2日)では、あの朴仁求・金慶淑夫妻が私たちを出迎え、歓待してくれた。1989年3月彼女の卒業以来の再会である。釜山の夜は、これに加えてあと一つのおまけの出会い、上野景三くん(佐賀大学講師)が学生40人を連れて隣りのホテルに滞在していた。皆で散歩した竜頭山公園の夜桜は、ほぼ満開であった。しかし韓国の桜は心なしかなにか物悲しい。
 翌日の南海(4月3日)は、金平淑くんの故郷である。慶州金氏の流れをくむという金家のご一統から歓迎の宴をはっていただいた。はじめて農村の小学校やセマウル会館、そのまわりの集落の風景(たとえば共同売店など)に触れることが出来た。沖縄の集落との類似性を“発見”したように思った。
 ソウルへの帰路は光州(4月4日)にまわり、1980年騒乱事件の犠牲者の墓に詣でた。当日たくさんの学生たちが、粛然として追悼の墓参におとずれていた。また1929年民族独立運動に立ち上がった学生たちの記念碑(第一高等学校の一角にあり)にも車を走らせて、日本統治下の韓国の若者たちの独立への心に想いを馳せた。
 4月5日は再びソウル。朝から黄宗建さんに景福宮など案内していただき、又来屋でプルコギをご馳走になった上で、午後はたっぷりと「韓国社会教育法10年」についての深みのある話を聞いた。日は文さんの故郷・仁川へ、マッカアサ−の銅像が印象的であった。(詳細なスケジュ−ルおよび記録は別掲・参照) 最終日・4月6日は朝食前の散歩にパゴダ公園に行き、「独立宣言書」の碑の前にしばしたたずんだ。朝の鳩がクククと鳴いていた。

 韓国・社会教育法の10年

 今度の旅では、1982年制定の韓国社会教育法から10年の現在、いまどのような展開があるのか、その地域への蓄積はどうか、その実態ををみてみよう、というのが主要な研究テ−マであった。1980年当時の社会教育立法研究に、多少なりとも参加させていただいたものとして無関心ではいられなかった。
 しかしあらためて私たちの韓国社会教育についての知識や研究がきわめて不十分であることを痛感させられた。韓国・社会教育立法過程の歴史についても、変転著しい韓国の政治状況との関連をもって深く把握する必要があるし、決して簡単なプロセスではないことを理解しておかなければならないようだ。その点で今回の旅にしても、わずか1週間の短い日程であり、所詮はトラベリング・サ−ベイの域をでるものではないが、今後の研究課題として覚書風に、以下いくつかの所見を記しておくことにしょう。
 (1) 韓国社会教育法の構成ないし内容が、日本の社会教育法とかなり類似したものになったのは何故であろうか。1950年代からの草案づくりの経過によるものなのか、1980年当時の論議はどのように反映されたのだろうか、80年から82年法制定にいたる立法経過はいかなるプロセスだったのであろうか、このような点についてさらに黄氏など関係者の証言を詳しく聞いてみる必要がある。法制定前の韓国社会教育の実情は、「社会教育」という名称は別にして、たとえば啓明大学のエクステンション活動や各種有志団体の民間自主活動にみられるように、日本的というより、むしろアメリカ的な特徴をもっているのではないかという印象が強かった。また文化院の活動スタイルも、一面ではたしかに公民館と類似している側面を持っているにしても、個人奉仕的・民間有志的な特徴は公民館と大きくその性格を異にすると言わざるを得ない。このような現実の社会教育の実態にたいして、いわば日本的な社会教育法はどのような機能を果たしてきているのであろうか。その矛盾構造のようなものをも明らかにする必要があるのではないだろうか。
 (2) 社会教育法が制定されて、行政(職員制度を含めて)や財政などの面で、実際にどのような効果や波及を生みだしたのであろうか。もちろん調査は不十分であるが、法制化に基づく公共的な社会教育の体制や条件整備などの具体的な「法の地域定着」はあまり定かには見えてこなかったように思われる。今後その実相をさらに実証的に調査分析していく必要があろう。
 (3) 社会教育に関する行政機構と実際の機能はどのようになっているのであろうか。國のレベル(教育部)での社会教育(行政)位置づけは必ずしも重くないようであるし、また地方行政レベルでも充実した機構にはなっていないのではないだろうか。他方で、行政による施設の運営や事業の内容は、かなり愛国主義ないし(北朝鮮との対抗関係との必要上)イデオロギ−的性格をもたされていると思われる。ある公的な文化会館の状況などから受けた印象はそうであった。
 (4) 今回の韓国訪問でもっとも印象的かつ感動的であったのは、民間有志によるボランタリ−な奉仕的活動としての社会教育の実践に出会ったことである。例えば、大学の教師が自ら資金を提供して地下室で開設している識字学級(大邱)、カソリック教会が経営している労働者教育センタ−(同)、20年間の報酬をすべて返上して文化院の充実をめざす院長さん(浦項)、ビルの一角に間借りしながら社会教育(識字教育を含む)事業を拡大しようとする平生(生涯)教育センタ−(釜山)、それに積極的に協力している退職中学校長などの集団(同)、そして識字と平和の教育実践を全国的に推進しようと格闘している韓国文解教育協会(ソウル)の活動などはその一端である。これらの実践・運動からは、いずれも日本の社会教育活動に見られない独自のエネルギ−と文字通り自主的な奉仕、そして正義の精神を感じた。それらの活動の中心にはいずれも情熱的なリ−ダ−が躍動していたし、また研究者の役割も小さくないように思われる。
 (5) かっての朴大統領時代のセマウル運動をどう評価するか。農村地区のセマウル会館などの集落レベルの施設や協同活動の実態について、今回は充分に調査する機会をもち得なかったが、おそらく(矛盾を含みつつ)伝統的文化の基盤と新しい住民自治的な活動の相克のなかで地域の社会教育も動いているのではないだろうか。日本の近代化過程と地域(集落)の協同活動の問題とも共通して、今後調査してみたい課題である。



1994年・韓国社会教育協会年次大会にて、右・黄宗建さんと (利川、20040708)




2,「韓国・社会教育及び青少年教育の研究と交流」に関する訪韓事業・報告書
                          −1995・3・8−
        

  東京学芸大学・社会教育研究室・教授 (韓国社会教育研究会・代表)         
  小林 文人
  住所・東京都小金井市貫井北町4-1-1   0423-25-2111(2470)


 はじめに

 今般、財団法人日韓文化交流基金の助成を受け、1994年12月4日(日)より10日(土) 6泊7日の日程により、韓国を訪問することができた。
 その目的は、韓国の社会教育(文解=識字教育、図書館・博物館等を含む)及び青少年教育の施設を訪問し、関係者と交流することによって、見聞を広め、この分野における両国相互の理解と信頼を深めることにあった。
 韓国は隣国であるにもかかわらず、社会教育ならびに青少年教育関係者との研究交流は少ない。東京学芸大学社会教育研究室では、かねてより自主ゼミ「アジア・フォ−ラム」あるいは「韓国社会教育研究会」を発足させ、研究活動の一環として『東アジアの社会教育・成人教育法制』(1993年)を編集・刊行するなどの努力を試みてきた。今回の訪韓事業は、これまでの研究・学習活動を基礎にして、実際に韓国の社会教育・青少年教育の施設の実態にふれ、知見を豊かにして、今後さらに日韓社会教育の比較研究を拡大し、両国関係者の友好と親善の発展に若干でも寄与したいと考えたからである。
 韓国側の受け入れについては、韓国国際教育文化交流協会(金済泰会長、ソウル特別市永登浦区汝矣洞46-1・783-4511)に依頼した。私たちの要請に快く応じ、協力を惜しまれなかった金済泰会長、魯在化理事ほか関係者の皆様に御礼を申し上げる。
 参加者は、上記・小林文人を代表として10人、訪問先などの日程(行動記録・参照)については、参加者の大部分が初めての訪韓であるため、広く韓国各地の諸施設にわたるよう編成した。あらかじめ次のような課題を設定し、できる範囲での解明を試みた。

 1,韓国「社会教育法」成立(1982)以降12年の経過
 2,社会教育(図書館・博物館を含む)ならびに青少年教育施設の実状
 3,識字(文解)教育活動の状況
 4,関係者との交流親善

 これらの課題については、それぞれ一応の成果はあがったと考えられるが、日程的な事情により、公共図書館の訪問を実現することができず、また青少年教育施設についても充分な実状把握にいたらなかった。しかし図書館については、今後の課題解明のために事前の収集資料と訪韓後の補充調査資料を整理し、以下の報告のなかに収録することとした。

  参加者    
  小林文人 (上記、代表)
  進藤文夫 (東京学芸大学講師、副代表)
  山口真理子(調布市立図書館司書、東京学芸大学卒)
  遠藤輝喜 (東京都渋谷区教育委員会社会教育主事、東京学芸大学大学院卒)
  韓 昌恵 (慶応義塾大学法学部講師、通訳)
  江頭晃子 (東京学芸大学大学院2年)                
  山添路子 (東京学芸大学大学院2年、事務局・会計)
  末田祥之 (東京学芸大学4年)
  藤山友紀 (東京学芸大学3年)
  木下奈美子(東京学芸大学3年)

  全体報告−総論と課題

 本訪韓事業の代表者・小林は、これまでにも韓国・社会教育法の立法過程において、その中心にあった黄宗建氏(当時・啓明大学校教授)等に日本・社会教育法についての資料を提供し、また要請をうけて実際に韓国・社会教育法案の検討会議(社会教育専門家ワ−クショップ、扶余、1980年2月)に参加し講演したことがある。その後、韓国社会教育法 は成立し(1982年12月)、それからすでに12年が経過している。またこの間には、ようやく始まった日本と韓国の社会教育についての研究交流活動に積極的に参加してきた。たとえば日本社会教育学会関係者と韓国社会教育協会による合同開催「日韓社会教育セミナ−」(1992・大阪、1993・大邱、1994・川崎)や、韓国社会教育協会の年次大会(1994・利川)に出席し講演した経過もある。
 このような動きをうけて、東京学芸大学社会教育研究室では、有志による「韓国社会教育研究会」を発足させ、韓国からの留学生を中心に少しづつ資料収集や報告会などを重ねてきた。しかし日本・韓国双方ともに社会教育に関する比較研究資料は乏しく、今後お互いに着実な努力を重ねていく必要が痛感されてきた。そのような時期に日韓文化交流基金の助成を受けることになり、研究室の院生・学生を含めて訪韓が実現したわけである。あらためて日韓文化交流基金に感謝の意を表したい。
 以下の項目に見るとおり、訪韓した10人の参加者で課題を分担し、報告をまとめることとした。まずここでは、総論的にその要点を簡潔に記しておく。

 1,韓国「社会教育法」成立(1982)以降12年の経過について。
 韓国では、1952年以降「社会教育法草案」が作成されてきたが、実現にいたらず、ようやく1980年代に入って法制定に向けての具体的な作業がすすむことになった。1980年にはいわゆる第5共和国の発足にともない新憲法が公布施行されるが、そのなかには「平生教育」(生涯教育)を振興することは国家の責務であることが明記されている(第29条)。これをうけるかたちで、当時の文教部(文部省)は社会教育法体制の整備をすすめることになり、社会教育専門学者の協力も得て法案研究がおこなわた。そしてさまざまの経過をへて1982年12月、正式に社会教育法が成立する運びとなった。1952年から数えれば30年の立法運動が経過したことになる。
 さらに翌83年には社会教育法施行令が、85年には同法施行規則が公布されている。これらの日本語訳については、中国、台湾等を含めて、前述の東京学芸大学社会教育研究室編『東アジアの社会教育・成人教育法制』(1993年)に収録している。
 韓国社会教育にとっての1980年代は、80年憲法「平生教育・振興」条項といい、82年以降の社会教育法制の整備といい、これまでにない新しい展開の時期ということができるかも知れない。しかし実態はどんな状況であったのだろうか。
 第一に、ようやく制定された社会教育法そのものが、必ずしも社会教育関係者、専門学者が期待した内容とはならなかった。たとえば日本の公共的社会教育施設の規定(公民館の制度)にあたる「社会教育館」構想は実現しなかった。第二には、法制定にもかかわらず、国の社会教育行政組織は拡充されず、また必要な予算の計上も進展しなかった(黄宗建「韓国社会教育の誕生と足跡」日本社会教育学会紀要30、1994)。「社会教育は名目上の華やかさにもかかわらず、社会教育法の実態は死文化の状態」(黄博士の証言)であった。第三には、社会教育法の地域定着・普及に重要な要因となる地方自治体の制度がいまだ充分に機能せず、「自治体」の自治制度は、長い軍事政権下をくぐってようやく1995年において実質的に再出発しはじめるという状況である。(1995年6月、自治体首長選挙 と地方議会議員選挙が予定されている。なおこの問題については、孫永培「韓国の地方自治の現状と課題」、『月刊自治研』1995年2月号、などに詳しい。)
 韓国では、この社会教育法の“活性化”のために新しい法案(あるいは改正案)の検討が始まっていると伝えられる。その基本構想に関する資料集も作成された(1994年)模様であるが、未だ内部資料の段階であり、今回の訪韓では見ることができなかった。今後の動向に注目していきたい。

 2,社会教育施設の状況
 社会教育法に基づく固有の社会教育施設は、すくなくとも公的施設(たとえば日本の公民館制度)としては未発の状況である。公共的施設としての性格はやや異なるが、公民館の機能に類似した施設として韓国各地に「文化院」が設置されている。韓国文化院連合会によれば、登録されている文化院数は1987年現在で152館という。行政上は社会教育施設 というよりむしろ「文化」施設であり、文化部の行政系列に属し、「地方文化院振興法」(1994年)に法的根拠をもっている。今回はとくに慶尚南道・金海市の「金海文化院」を訪問し、あわせて浦項市文化院の資料も収集し、その実態にふれてみた。残念ながら、金海文化院は現在改築中であり、仮施設での活動ではあるが、一つの典型的な文化院ということはできよう。これと浦項市の文化院にかんする資料を含めて、別稿で報告する。
 また先述したように韓国の図書館については今回の訪問は実現しなかったが、その文献資料を、さらに韓国の代表的な博物館ついての調査・訪問記録を後掲する。

 @韓国の文化院について−金海・浦項文化院について(各論報告?参照)
 A韓国の図書館について−1981年以降の文献より(各論報告?参照)
 B韓国の博物館について(各論報告??参照)

 総じて韓国の社会教育施設は、国家レベルまたは中央レベルの施設(たとえば国立博物館)にたいして自治体レベルあるいは地方レベルの比重は小さく、他方、日本の公民館のような公的施設は少なく、それに比して文化院のような(公共的な性格をもちつつ)民間有志的な運営による施設、あるいは次項の文解教育の実践にみられるような純粋に民間運動による施設がいきいきと活動している点が印象深い。

 3,韓国の文解(識字)教育運動について  
 「大日本帝国」の植民地支配下にあった韓国・朝鮮では、政治や経済上の支配に止まらず、教育と文化の面においても日本「皇民化」政策が大きな影響を残した。1945年8月植民地支配からの解放直後は、民衆の80%が非識字者であったという。当時の韓国各地の学生、教師、地方有志などによる自主的なハングル普及運動や、行政施策としての「公民学校」「国文普及班」設置の努力により、1949年には非識字率は40%までに激減した。しかしその後の「朝鮮戦争」による打撃もあり、また一連の近代化、産業化、経済成長政策の下での教育機会の拡大にもかかわらず、1990年現在においても、15才以上人口の15%が初等教育未就学ないし中退者であり、また8%以上が非識字者であるといわれている(韓国教育開発院調査、1990)。
 韓国の社会教育ないし「平生教育」(生涯教育)の歴史をふりかえってみると、大きな課題として常に「文解教育」(識字教育)が取り組まれてきたことが注目される。この点は日本の社会教育ないし「生涯学習」との特徴的な違いであろう。日本では非識字者の比率はきわめて少ないとしても、社会教育関係者による識字教育の実践は(在日外国人の増加を背景とする識字実践、被差別部落の識字教室は別として)ほとんど見るべきものがない。
 韓国社会教育関係者は、Literacyを「文解」と訳した。「文解」とは、単に文字の理解や文章の解読に止まらず、文字を通しての人間の解放=文化的な解放を含意しているという(黄宗建氏の証言)。傾聴に値する考え方である。そしてとくに「国際識字年」(1990年)を契機として、「文解教育」運動は韓国の社会教育関係者(たとえば韓国社会教育協会、あるいは平生教育・文解教育関連の組織・施設)の努力により、韓国全土への拡がりを見せつつある。
 今回の韓国訪問の旅では、次の二つの施設において、文解教育の実践を学ぶことができた。いずれも民間の専門学校、私設の平生教育機関の事例である。

 @ソウル・高麗学院(各論報告?「韓国の文解教育」参照)
 A大邱・福明平生教育センタ−(同上)

 前者はいわゆる営利的な各種・専門学校による非営利的な教育事業であり、後者は二人の大学教師による文字通りボランティアとしての文解=識字実践である。日本の社会教育研究者としては実に啓発されるところが多い訪問であった。

 4,社会教育・平生教育関係者との出会いと交流

 今回の訪韓日程のなかでは、時間的に可能なかぎり社会教育施設を訪問することが重要な課題であったが、同時にさまざまの活動に献身されている社会教育ないし青少年教育の関係者と出会い、交流と親善に努めることがあと一つの大きな課題であった。上記ならびに下記の施設訪問記録と一部重複するかも知れないが、主要な「出会いと交流」の一覧を列記する。(敬称略、順不同、ほぼ日程順)

 ・金済泰会長、魯在化理事ほか(韓国国際教育文化交流協会)
 ・黄宗建博士(平生教育研究所長、前明知大学校教授、文解教育協会名誉会長長) 
 ・李瑞之(風俗画家)
 ・梁徳F教務課長ほか(ソウル・高麗学院)
 ・魯在化講師、明知大学校社会教育大学院生10名(明知大学校)
 ・崔俊鎬 (金泉市高等学校教諭)
 ・金永植(金泉専門大学産業デザイン科・専任講師)
 ・尹福南(啓明専門大学幼児教育学科長)、啓明大学校大学院生2名(啓明大学校)
 ・下相範(宇星外国語学院理事、亜細亜留学国際センタ−代表)
 ・金鐘淳(浦項文化院・院長)
 ・金鐘G(金海新聞・代表、金海文化院理事)
 ・李康植ほか(金海文化院・事務局長)
 ・金慶淑(東莢女子専門大学観光科・助教授)
 ・朴仁求(海外教育コンサルタント事業団代表理事、釜山留学院長)
 ・金平淑(ベスト外国語学校日本語科主任)
 以上の各位をはじめ、今回の私たちの旅で豊かな「出会いと交流」をつくって下さったその他の多くの方々に心からの御礼を申しあげる。





3,韓国・講演記録(小林) 1999年〜2009年→■




4,2006 黄宗建・小林文人・伊藤長和 編「韓国の社会教育・生涯学習」

                              まえがき・序章(小林)→■




5,黄宗建先生・自分史を聞く・そして追悼のページ→■




6,
特論 韓国・平生教育の躍動が示唆するもの        
        −平生教育・立法運動に関連してー
     小林 文人
   *梁炳贊、李正連、小田切督剛、金侖貞共編『躍動する韓国の社会教育・生涯学習
     −市民・地域・学び』(エイデル研究所、2017年)所収


1、韓国の社会教育・苦節の半世紀 
 韓国の社会教育史は重い。戦前日本植民地支配の重圧に呻吟してきた歴史があり、戦後解放後においても南北分断、朝鮮戦争による破壊・混乱、そして軍事政権下の圧制を強いられてきた歳月が続いてきた。その苦節の歴史を乗り越え、「民主化抗争」(1987年)を経て、新しい改革が胎動し躍動の道が始まるのは1990年代、戦後解放から半世紀が経過していた。
 その間、大韓民国憲法に「国家は平生教育を振興しなければならない」(第31条・現)条項が盛り込まれ(1980年)、「社会教育法」が制定された(1982年)。しかしこの時期は全斗煥政権下、軍事支配・戒厳令のもとで社会教育法はあまり機能しなかった。厳しい国家統制下では社会教育の自由や自治が伸びやかに進展するはずがない。社会教育法の諸規定も実質的に地域定着していく状況にはなかったであろう。
 筆者は、朴正煕大統領暗殺後、全斗煥政権が登場する間隙(「ソウルの春」)に韓国社会教育協会による社会教育立法「専門家会議」に招かれ、日本の社会教育法について報告する機会を得た(1980年2月)。初めての韓国訪問であり国際会議であった。当時の主要な社会教育学者や関係団体リーダーと出会った数日は、いまも鮮明に憶えている。そして2年後に成立した韓国社会教育法が日本社会教育法と比較的に類似した構成であったことに驚いた記憶も残っている。
 法制定から10年を経て、私たちの研究室(東京学芸大学・当時)は「韓国社会教育法の地域定着」調査の旅を企画し、2度目の韓国訪問に出かけた。東アジアにおける「四つの社会教育法」(日本、台湾、琉球、韓国=成立順)に関心をもつものとして、大きな期待を寄せた調査行であった。しかし「もちろん調査は不十分であるが、法制化に基づく公共的な社会教育の体制や条件整備等の具体的な『法の地域定着』はあまり定かには見えてこなかった」と報告に記している。*1

2、平生教育法を生み出した時代激動 
 1990年代のポスト冷戦・グローバル化の国際情勢のなか、韓国の社会教育史は「平生教育」(生涯教育)の時代へと舵を切っていく。目をみはる展開によって、社会教育法は平生教育法へ全面改正(1999年)された。
 平生教育法へ改正されていく時代状況はどのようなものであったか。日本の戦後社会教育史が経験したことのないような歴史的な激動を背景としていた。一つは民主化抗争(1987年)を経て登場した金泳三・金大中と続く文民政権の新しい政治状況があった。金泳三政権のもとで大統領諮問教育改革委員会(委員長・金宗西)は「開かれた教育社会・生涯学習社会」構築をめざす「教育改革方案」(1995年)を提起し、これが平生教育法へ胎動していく契機となった。二つには地方自治制度が復活され(統一地方選挙、1995年)、国家政策の自治的な地域定着の基盤が形成されることとなる。三つには、何よりも1990年代を特
徴づける市民運動(経済正義実践市民連合・1989年、参与連帯・1994年など)、多彩な市民団体の躍動があった。代表的な11市民団体が連合して民主市民教育フォーラムを設立し、民主市民教育支援法の制定運動にも取り組んだ歴史が、本書・金民浩論文(第1章1節)に感動的に記されている。民主化と地方自治そして市民運動の潮流のなかで平生教育の新しい法制がスタートしたのである。
 
3、平生教育法改正の躍動性
 前世紀末に成立した平生教育法は、10年を経ずして新「平生教育法」に全面改正された(2007年)。その後の10年において、すでに8次にわたって実質的な法改正が重ねられてきている(資料編・平生教育法改正)。たとえば画期的な障害者平生教育の振興、邑・面・洞の平生学習センター、文解(識字)教育充実等への積極的な法改正が盛り込まれた。日本社会教育法も70年近い歴史のなかで大きな改正をいくつか経てきているが、法は守られるべきものという意識が底流となってきたのに対し、韓国では法はむしろ積極的に変えられるべきものと言えるような、旺盛な改革意識の奔流に注目させられる。法の制定・改正への活力が韓国平生教育の躍動を象徴しているように思われる。
 社会教育法から平生教育法への跳躍と、その後の積極的な法改正のダイナミックな展開が重ねられる過程で、ある種の類似性があった韓国と日本の両法制はいま大きな開きをもつに至った。日本社会教育法は静かに停滞し、韓国平生教育法は明らかに躍動の渦をつくってきている。韓国平生教育法から学ぶべき点は、内容だけでなく、その立法・改正への論議と運動の展開にあるだろう。今世紀に入って韓国の平生教育制度・実践は、この法制と連動する積極的な国家政策と、地方自治体の活発な自治的施策(たとえば地域個性的な自治体平生教育振興条例など)によって、これまでにない歴史的な模索から発展の道を拓いてきていると言えよう。

4、平生教育にかかわる立法運動
 平生教育法の成立から、まだ20年を経過していない今日、法の地域定着や具体的な展開過程にはおそらく多くの屈折・矛盾・課題が内包されているに違いない。韓国独自の平生教育制度はいままさに形成途上にあり、生みの苦しみとの格闘にあえぐ側面もあるだろう。そのことを前提とした上で、私たちは短い韓国平生教育史の流れから刺激的な躍動を教えられてきた。70年近い蓄積をもつ日本社会教育にとって注目すべき点は何か。第一にあげるとすれば、苦節の歴史を含めて、法制定に向けての活発な立法運動、その持続的な取り組みであろう。学会や市民運動は自ら求める法制に向けて数々の論議と運動を重ねてきた。
 まず社会教育法制化の歩みをたどってみると、最初に社会教育法案の提起が行われるのは1949年のことであった。法成立まで34年を要したことになる。その過程ではとくに韓国社会教育協会(1976年創立、学会関係者が主要メンバー)を中心とした積極的な立法運動があった。1990年代の平生教育法に向けての取り組みでは、大統領諮問教育改革委員会による改正「試案」が出され、当局側もまた関連機関・大学・団体の意見を聴取し公聴会等を実施するなど、曲折の論議を経ての法制化の歩みであった。*1
 こうして成立した平生教育法はその当初から、学会関係者・平生教育士当事者等による活発な改正論議に包まれてきた。立法にあたる国会議員が学会論議に参加し、また学会関係者は議会へのロビー活動を行ってきた。この動きが法の全面改正(2007年)につながり、この新「平生教育法」についても、次なる改正に向けての立法論議が持続されてきた。たとえば梁炳賛は2009年の時点で次のように証言する。
 「我々はまた平生教育法を改正しなければならない。得たものも多いけれど、まだまだ限界も多い。」「当時、法改正にあたり、政府や国会の方から我々に意見を求められました。その時に事前に準備ができていなかった点や、学会の間ですら合意ができていなかった点、法改正が切迫してからそれに対応するのはとても大変なことだということが分かったのです。きちんと前々から準備し検討しておく必要がある」という経過であった。*2
 研究者だけではない。平生教育士関係者は、当事者として専門職制度の充実に向けて果敢に法制論議を展開し、さらに全国的な拡がりをめざして実践協議会としての運動に取り組んできた。*3

5,日本の社会教育法制に関して
 戦後日本の社会教育法(1949年)の立法過程と対比してみるとどうか。東アジアでは最も早い法制定であったが、法案は文部省当局によって策定され、国会論議と議決のあと、国民に下達された流れであった。戦後直後のことであり、社会教育の専門的研究や学会等も当時は未発の段階という事情にもよる。しかしその後の法改正や生涯学習関連法の制定(1990年)にあたって、韓国にみられるような専門学会・関係団体による活発な立法論議や運動が広範な拡がりをみせるという経験をもつことはなかった。学会や市民運動の側でも、法の解釈研究や「法改正・反対」の防衛論議はみられたが、立法論・立法運動の蓄積は微弱なままにとどまってきたと言わざるを得ない。
 日本でも社会教育・生涯学習に関わる立法論はもちろん皆無ではない。たとえば日本教育法学会によって教育条件整備法の研究が取り組まれ、その実現のための運動が提起されたことがある。*4 しかし立法・行政当局と学会・社会教育団体との間には距離があり、立法論・改正論議を交換・共有するような関係は残念ながら定着してこなかった。その点で夜間中学関係者等による立法運動が重ねられて実現した今次の「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」(義務教育機会確保法、2016年12月)の立法経過は貴重である。

6、多元的セクターの拡がり
 平生教育法は、日本社会教育法と相対的に類似の構成をもっていた韓国・旧社会教育法から大きく跳躍(全部改正)するかたちで登場した。日本と韓国の間にはある種の近似性を想定しがちであるが、両者の制度骨格には大きな差異があることに注目しておく必要がある。その違いは、韓国平生教育における機関や施設の提供者(プロヴァイダー)6 の多元的な拡がりに見ることができる。たとえば機関・施設の運営主体はどこにあるか。そこに配置される専門職員の位置づけはどうか。
 平生教育法では、「国及び地方公共団体」(公的セクター)の果たす役割が基本的に重要(第5条)であるが、「平生教育を実施する者」(第7条)「平生教育機関の設置者」(第28条)は行政機関に限定されない。平生教育の提供者・運営主体は制度的にむしろ多様な拡がりをもっている。その意味で日本社会教育法が公的セクターの任務を重視する一元的な構成であるのと対照的に、韓国平生教育法は多元的セクターの拡がりを用意していると言うことができよう。
 たとえば「平生教育機関」(平生教育法第5章)としては、学校、学校付設、学校形態、社内大学形態、遠隔大学形態、事業場付設、市民団体付設、言論機関付設、知識・人材開発関連の「平生教育施設」に関する規定が設けられている(第28条〜38条)。専門職としての「平生教育士」は、平生教育機関に「配置しなければならない」(第26条)規定である(日本社会教育主事のように公的機関・施設に限定されるのではない)から、これら多様な機関・施設にいわば多元的に配置されることになる。法改正直後の「教育人的資源部」内部資料(2007年)によれば、平生教育施設配置の職員(7,145人)のうち、「平生教育士」資格をもつ職員(977人)が、平生学習館(公的セクター設置あるいは指定、第20条)だけでなく(22%)、学校付設(20%)や事業場付設カルチャーセンター(17%)等に多様に配置されている。7 平生教育士の公的セクター配置は全体の4分の1に過ぎない。この「現況」表によって、日本社会教育との制度的な差異を再発見した思いであった。
 韓国平生教育制度における、いわば多元的セクターの拡がりをどう考えるか。日本社会教育法制は「国及び地方公共団体」の公的セクターとしての役割を重視し、社会教育の条件整備・環境醸成の任務を一元的に公的セクターに求めている。私立の図書館・博物館や、社会教育法における公民館類似施設の規定(社会教育法42条)等を別にして、制度的には明確に公的セクターに一元化された骨格が形成・蓄積されてきた。公的な政策動向によってはその骨格そのものへの影響が大きくなってくる。
 逆に(相対的に)多元的セクターの韓国平生教育では、主要な役割を果たすべき公的セクターの充実が求められている。たとえば平生教育士の「公務員職列化運動」の動きはその例であろう。8 他方、日本では近年の新自由主義政策の横行により、それに翻弄されるかたちで「公的セクター」削減や民間セクター委託の動きが拡大し、社会教育制度は停滞・混迷の度を深めている。このような状況から見ると、一元的な制度骨格の脆弱さが露呈していると言わざるをえない。

7,韓国平生教育の躍動から学ぶ
 韓国の平生教育関係者は、この20年、平生教育法の立法・改正に取り組む過程において、日本の公的社会教育の蓄積や施策から吸収するものが少なくなかった。いま新たな目で、日本が韓国の平生教育の法制・実践の躍動から学ぶ必要があるだろう。日本の70年近い歳月を支えてきた社会教育法制について、あるいは自治体の関連条例・規則について、法理念を確かめつつ諸条項を実質化する取り組みが求められる。改めて現代の時点における社会教育法の新たな立法論議を深め、「法を守る」だけではなく「法を創る」視点と運動の重要性を韓国の平生教育現代史は教えている。
 韓国「平生教育」は「生涯教育」の意味である。日本の社会教育もまた生涯教育・生涯学習の思想と潮流から分離するのではなく、積極的にこれと結合し、現代的な施策や計画を構築していく必要があろう。そこでは国・自治体の行政だけではなく、自ずから多元的セクターの拡がりとネットワークが重要になってくる。もともと生涯にわたる人々の学びと文化の活動は、多面的な拡がりをもち、さまざまの課題(地域、環境・人権、健康・福祉、労働・職業、産業など)と取り組むことによって、多元的な関わりをもたざるを得ない。現実の人々の活動や実践の実像は、社会教育・生涯学習の法制の枠組みを大きく飛び越えて、激しく動き、大きく弾んでいる。
 筆者は、1980年・韓国「社会教育法」立法との出会いを契機に、1990年代以降の「平生教育」の胎動・躍動の歩みに折々に触れる機会があった。以上の拙論は、平生教育法制論に関わるものであるが、もちろん韓国平生教育現代史から受ける刺激はこれに尽きるものではない。専門職・平生教育士の全国組織(平生教育士協会、平生教育実践協議会等)の運動、リテラシー(識字、「文解」)への研究・実践の取り組み、平生学習都市造成の政策と地方自治体の自治的な努力、最近の邑・面・洞などの地域平生学習センターの動きなど、日本との対比において書いておきたい課題は多いが、すでに紙幅も余力もなくなってしまった。資料をお寄せいただいた各位にお詫びしたい。

 
1,小林「韓国社会教育への旅−韓国・社会教育法10年」、
 東京学芸大学社会教育研究室『韓国の社会教育をたずねて』1992年
2,李熙洙「平生教育の展開と課題」、
 黄宗建・小林・伊藤長和編『韓国の社会教育・平生学習』エイデル研究所、2006年、所収
3,TOAFAEC年報『東アジア社会教育研究』第14号、
 「東アジアの社会教育・生涯学習を考える」第150回研究会・座談会、2009年
4,李揆仙「共に生きる共同体を夢見る人々ー平生教育実践協議会の設立と活動を中心に」、
 TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第15号、2010年、所収
5,小林「社会教育立法運動の系譜」、
 小林・藤岡貞彦編『生涯学習計画と社会教育の条件整備』エイデル研究所、1990年
6、佐藤一子「草の根に拡がる世界の社会教育施設」、
 小林・佐藤一子編『世界の社会教育施設と公民館』エイデル研究所、2001年、p13
7,梁炳賛「韓国平生教育専門職制度の現況と課題」、
 TOAFAEC『東アジア社会教育研究』12号、2007年
8, 梁炳賛「韓国における平生教育士配置の新たな課題?公務員職列化運動を中心に?」
 TOAFAEC『東アジア社会教育研究』16号、2007年





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