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(1)東京学芸大学最終講義 (19950316)


▼最終講義後・二次会、小林ゼミ・留学生、OBGほか有志(東京小金井、1995年3月16日)





(2)和光大学最終講義 (2002年1月26日)
▼和光大学・小林ゼミ学生・OBG、 関連写真→■

▼和光大学最終講義の夜(2002年1月 夜の部“風を囲む会”)







(3)喜寿の祝いー2008年11月29日 関連写真→■


小林文人・喜寿記念講演記録
日時:20081129() 1310分〜   於:吉祥寺トルファン
司会::伊藤長和さん
紹介:平林正夫さん

歩き続けて、社会教育研究の道
   九州・三多摩・沖縄・東アジアへ

 はじめに 
 皆さま、お久しぶりです。大勢の方々にお出でいただき、こうしてお話できようとは思っておりませんでした。もっとささやかな会で、ちょっとご挨拶でも申しあげる程度かと…まして講演めいた企画になろうとは。私はすでに後期高齢者、大した話も出来ないのに。最初は学芸大学の教室を借りたそうですね。講義をさせようと。それはさすがに誰かが止めたそうで、しかしやはり話をさせてやろうという,温かいお気持ちが世話人会の中にあったんですね。私も,半分気が重いな〜と思いながら,正直なところは本当に嬉しい気持ちでいっぱいです。拙い話でも聴いてやろうという方々に心からの感謝です。
 
 私は今までに二度ほど大きな最終講義をする機会がありました。一つは東京学芸大学を
63歳で辞めたとき。そして70歳での和光大学の最終講義。和光大学で辞めるときは、ご一緒に定年になった池田教授が和光での経歴の長い方でしたから,私はほんの30分の話をさせていただきました。あのときも大勢の方がお集まりくださって、一応それで最終の、ラストコンサートと思っていましたが、その後にこういう機会があろうとは思いませんで、まだ現役とお認めいただいているのだと、改めて心から「ありがとうございます」と申し上げたいのです。
 今日は「社会教育の道、ひとすじに歩き続けて」といったタイトル、まあ“自由にしゃべっていい”というメッセージもいただいて、一枚レジュメと、この機会にA4一枚だけのの簡潔な自分史略年表を作ってまいりまして,世話人会で印刷していただいたので、ご覧になりながら聴いていただければと思います。ほんとは
23時間話したいんですけど(笑)、そういう訳にはいかない。30分ぐらいで終わりたいわけですが・・、私の最後の話になると思いますので,ここにテープも用意していただきました。
 テーマは社会教育になりますけれど、ご参加の皆さんのリストを拝見すると,だいたい社会教育でない方が大部分,社会教育とは別の仕事をしておられる方が多い。それから学会の方には、ほぼご案内をしておりませんので,あんまり研究的な話をしてもいけないかなぁと思ったり…。しかし、こういう機会に振り返って話をしろと言われますと,私自身の研究自分史というテーマになってまいります。少し分かりにくいところもあるかと思いますが,お許しいただいて、二次会の席で酒で流していただいてと思っています。また,私のホームページがございまして,毎日遊びながら、色んなことを書き入れています。入れすぎとのご批判もあります。最近,プライベートな情報を抑える傾向がありますが、少しレジストして、プライベートでも社会的に繋がるものは,エイ!と気合をかけて自分の論文にも載せたりしております。資料の最後にホームページのアドレスも出してございますので,写真も含めて、何かの機会に見ていただければ幸いです。

 ぶんじん・戦争史との関わり
 私は1931年に生まれました。いま77歳。1931年というのはご存知のように,15年戦争,いわゆる満州事変が勃発した年、九・一八の年です。関東軍が南満州・柳条湖線路を爆破する事件があって,私の生まれる2ヶ月前に満州事変が始まりました。私自身は当時のことを知りませんけれども、考えてみますと,その後小学校に入り,旧制中学に入学して2年目の8月15日まで、いわゆる15年戦争の中で少年時代を送ったということになります。
 その意味で戦争のなかで育ったのですが、最近思うことは、私たち世代は戦争をくぐりぬけましたが、やはり子どもでありまして,ほんとの意味で戦争を知らない…と。本当の戦争体験世代は私より数歳上までの方々で,多くの方が亡くなっている。私の学年は一人も死んでいないのです。私の3歳上,いわゆる予科練など色んな少年兵として戦争に飛び込んでいった先輩の学年は,大勢の方が犠牲になっているのですね。今日時間があれば,沖縄のことも申し上げたいのですが,地上戦が闘われた沖縄では私の世代も学徒兵として多数亡くなった。沖縄学の第一人者といっていい外間守善という先生がいらっしゃいますが、
1924年生まれ、法政大学沖縄研究所の代表として多くの仕事をされましたが、最近ようやく出された『私の沖縄戦史』読むと、「前田高地の激戦」という副題がついていますが、「800人の部隊の中で29人が生き残った。私はその一人である」と書いておられます。戦争というものの中で多くの方々が死んでいった時代、生き残った方の戦争体験に打ちのめされる思いがいたします。そういう世代から比べますと、私などはヒヨっ子で,少し空襲を受けたり,戦災に遭ったりしましたが,また勤労動員された山の中で陸軍の伍長が米グラマンの機銃掃射で壮絶に戦死したすぐ横にいましたが、振り返ると戦争世代としては、まだ幼かった世代であります。
 最近,筑紫哲也が亡くなって,いくつもの追悼の記事や番組の中で,「戦争世代が亡くなる」ということを言った人がいるのですが。筑紫哲也も私たちの世代です。しかし上の世代がだんだんと姿を消して、考えてみると,私たちが戦争世代になった感じがする。相対的に「戦争を知らない子ども」ではないということに,最近は付くようになりました。そういう意味で,1931年に生まれたものとしてのある種の歴史的な責任のようなものを思います。これまでもそういう機会があれば,「私は1931年の生まれです。皆さん『九・一八(ちぅ・いーぱー)』という歌をご存知ですか?」と言って、上海の学生たちに話をしたこともあります。中国の若い学生たちと話すときに,私が1931年の生まれ,『九・一八』の歌を知っているよ」と。ちなみに『九・一八』を歌った「松花江上」とは、満州事変によって豊かな故郷を追われ、この日から流浪が始まる、またいつの日に老いた父母・兄弟に会うことが出来るか、という民衆の悲嘆の歌ですが、それを歌わせられると,突然お互いに気持ちが通じるような経験もございました。そういう体験など思い出して、あえて戦争世代だということを,最近思うようになったということをまず申し上げておきます。
 そうしますと,どうしても戦争と平和の問題ということを私なりにも考えていかなければならない。ここにもお見えだと聞いておりますが…私は杉並に住んでおりまして,杉並の安井郁・元法政大学教授,戦後初代の杉並公民館長であり原水協の初代理事長でもあって、安井郁,田鶴子夫妻が戦後の原水禁運動に関わる全ての資料や記録を安井家に残されている。それを今,整理をしてもう一回世の中に出そうという作業をしています。ここ数年,月に一度,安井研究会というのを志を持った人たちで開いてきました。改めて戦争・平和の問題を私なりに考える機会なのだと思ったりしております。
 私は1931年生まれだとだけ言えばよかったんですが,話は初めから錯綜気味。今日は1時間いただいておりまして,なんとかレジュメの最後まで話が行ければよいなと思っております。途中で沈没するかも知れませんので、その時はお許しをいただきます。

 農村社会学に学ぶ―九州農漁村調査
 私は,九州大学に入りました。大学時代の話はもうやめにいたしますが,社会教育との関わりを言いますと,私は社会教育の研究を最初からしたわけではありません。私の父が教員でありましたので,その影響もあるのでしょう,反発しながら教育学部を選びました。そして九州大学教育学部の戦後一期生と二期生が一緒のような1950年の入学、混沌たる世代でありまして,そこで勉強を始めたのですけれども,すぐに教育学に失望いたしました。こんな教育学じゃ駄目なんじゃないか,次第に心は離れていきました。
 大学院に入るのも屈折がありました。横の文学部の社会学に面白い方々がいて,飲む機会があったり,当時、農村社会学の喜多野清一という先生がいらっしゃいまして,先生との出会いがあり、いろんな意味で影響を受けました。私の先生は誰かと聞かれたときに,居ませんという答えと,あえて言えば社会学の先生ですと言うときの先生が,喜多野清一先生です。大学院では教育社会学専攻、伝統的な教育学から一番遠い講座に入りまして,そこに喜多野先生が文学部社会学との兼担教授でお見えになるという幸運がございました。喜多野先生という方は農村社会学の泰斗、鈴木榮太郎という先生(当時,北海道大学),東京の有賀喜左衛門や福武直などという農村社会学者と対峙しながら,同族研究などされていた先生ですが、実に丹念な村落調査をやって来られた人です。いわば実証的社会学派というようなグループに出会うことが出来て,私は最初はむしろ社会学の道を志したわけです。目の前に羽江忠彦さんがいらっしゃいますが,喜多野研究室の主要メンバーの中村正夫さん(熊本大学)、そのお弟子さんが羽江さんです。同じ研究室に執行嵐(九州大学)、山本陽三(山口大学)とか,魅力的な若き社会学者が集っていた研究室でした。籍は教育学部の大学院そして助手ですが、実質は社会学研究室に入れてもらうような形で調査などにも参加することができました。学会発表も九州教育学会よりも西部社会学会のほうが先だったような。調査報告なども社会学的な手法を大事にしてきました。大学の教師になるのは最初は九州産業大学(助教授)ですが、担当は一般教養の社会学でした。その後に社会教育の深い森に迷い込むような経過でありました。
 今また思い出しましたが,羽江さんは,その九州産業大学の社会学の私の後任ですね。頭が上がらないんだ()。ここにお見えの方それぞれにいろんな繋がりがおありなんですけれども…。大学院から助手時代。そして若い大学教師の時代、私は社会学とくに地域研究という学問の面白さに出会ってきたように思います。この道で,自分の道を作っていこうと。
 私には弟が一人おりまして,弟はすぐに大きな企業に就職致しまして,工学部土木の卒業、楽しそうにやっておりました。兄の方は全く金がなくて,大学院時代は家庭教師をしたり,どこかのバイトをしたりしながら,ようやく助手(教育社会学講座)になって一応の給料が出るという生活が30歳まで続いたのですけれども,社会学とくに地域調査で教わったことは沢山ございました。
 その中で一つ二つ,ここで紹介しますと、調査をした村々は,福岡・大分・佐賀・熊本など。ちょうど1960年代の日本の高度経済成長、その直前の日本農村がガラガラと変わっていく時代、まだ村落の共同体と言われるようなものが何らかの形で残っている時代から、大きな経済変動に巻き込まれていく激動の時代を、かなり丹念に調査してきたという記憶です。たとえば、佐賀平野を、北に三瀬方面にのぼって、旧松梅村・三反田から東に入っていきますと,名尾という三つの小さな集落からなる山村がありまして,この名尾地区を喜多野先生門下と教育社会学講座が一緒に3年ほど調査に入ったことなど忘れることができません。四十坊・佐敷・楮原という三つの集落は、いわば佐賀的な農村共同体,もちろん急激な変貌過程にありました。集落各戸それぞれの個票をつくって、その親族・同族組織から婚姻圏さらに集落自治組織から諸行事などのインテンシィブな調査。今だと考えられないことですが明治初期の壬申戸籍に遡っての調査でした。私は集落の年序組織・青年組織から中老・元老組までのテーマで報告を書きました。「教育学研究」(1960年・第3号)や、九州大学比較文化教育研究施設紀要(1963年・11号)などに収録されています。
 あの村落調査の夜の寒い宿舎、山寺での朝飯といっても目刺しが一本と梅干だけという,当時の地域調査の初期体験は忘れられない。社会的事実から考える、事実をしっかり記録していく。そして夜,かなり突っ込んだ理論、ときに激しい批判もある。そういう中で次の日の日程が決まる、それを積み重ねていく。こういう体験から、研究の協同性、一人ではできないこと、もちろん一人でやることが研究の基本だけれども、共同研究の独自な意味を学んできたのですね。集団の中でテーマを考え,そこで役割分担しながら課題を追求していく。それを重ねながら共同報告をまとめていく。そういう体験が佐賀だけではなく、教育社会学会への最初の論文「へき地の学校―村落共同体における学校の性格」(1959年「教育社会学研究」14集)は、大分県日田の調査でした。大分県日田に流れる津江川にそった調査です。津江川の上流・上津江調査。中流の大山地区、そして日田市内の城内地区の調査、R,レッドフィールドではありませんが,アーバニゼイションの視点からとらえる問題意識もありました。天草横浦の地引網集落の調査も興味深い調査でしたが、時間の関係もありますので先に話を進めます。

東京・三多摩の公民館  
  ―学生運動・市民運動・社会教育運動 
 その後,私は東京に動くことになります。できれば九州での調査を続けたかったんですが、東京で仕事をせよとの要請もあり、東京に流れていく中で,九州でのフイールドワーク・地域調査といった活動はほぼ中断されてしまいました。しかし自分の体の中には,それらが全部、今も残っているような思いがあります。あとで触れる沖縄・東アジア研究にもつながるところがある。もちろんうまくいかない、泥臭い話もありますが、省略させていただきます。
 東京学芸大学へ移ったのは1967年。その前に結婚もしていますし、息子も生まれていました。御手元にあります小林富美さんの紹介を読みますと、素晴らしい良妻で,私が動くと彼女も動く,というようなことが書いてあります。私たち二人は経済的に共同で仕事を続ける必要があった。私はお金があると何処かに旅費として使ってしまうような生活でしたから,富美も仕事を続けなければならなかったのです。東京学芸大学にポストを与えられた同じ時期に、富美さんは東京農工大学へ。私は九州でのような研究手法を続けることはできなくなりますが、新しい天地に挑戦する機会となりました。
 1967年は,美濃部が都知事になった、いわゆる革新都政スタートの年でした。東京は雑然たる大都市,特に三多摩などは都市化過程で,騒然とした雰囲気でしたが、市民運動の活気あふれる展開に出会うことになります。当時は住宅問題も子どもの保育もたいへん。運よく住宅公団の国立富士見台団地が当たりまして,それから国立の居住が13年続くということになりました。そこにお顔が見えますが、国立では徳永功さんが公民館で躍動的な仕事をしておられまして,隣の国分寺公民館に進藤文夫さん、三多摩の公民館を担う群像との、文字通り新しい出会いが始まりました。学芸大学では教育学教室の所属、教育社会学が主たる担当で,当時はまだ1コマだけ社会教育の講義が出来る程度でした。しかしこの三多摩の13年,九州では出会えない、都市的な公民館と市民運動との新しい展開に身をおくことができたのです。
 当時はまだ公民館の問題を中心にやっていたわけではありません。学会の関係でも社会教育学会より教育社会学会が中心でした。三多摩に暮らし、そこで仕事をすることで新しいテーマが湧きおこってきます。三多摩の「騒然たる」状況という意味は,一つはやはり大学での「騒然たる」雰囲気。私が4月に赴任して5月にはもう,学生たちのバリケードで門に入れませんでした。私の学生時代の経験もあり、そう驚きもしませんでしたけれど,掻い潜って中に入ったり。私はまだ三十代で学生とそう年も変わらない。ハンストをしている学生に話かけたり、研究室に議論をふっかにくる連中とも付き合いました。その人たちは今もう六十になって,嬉しい限りであります。
(入力中)










(4)名護・85歳の祝い
名護トウシビー85歳祝い(名護・城(グシク)公民館、20150711) 中央に稲嶺進氏、
関連写真→■


▼名護みやらびの思い深さ


▼左より小林、島袋正敏、小橋川共男、玉城勝雄、大城誠の旧友各氏(20150711)






(5)名護・トーカチの祝い
名護・トーカチ・米寿の祝い (201904)    関連写真→■

▼あやかりの席・トーカチの飾り

▼締めのカチャーシー





(6)東京「トーカチ」米寿の祝い   関連写真→■
後列右2人目にセンジャー(馬頭琴奏者)、同左より2人目に大崎靖史(ギター)、前列右より4人目に
見城慶和(ハーモニカ演奏)の各氏、遠藤輝喜さんなど退出後、撮影・江頭晃子さん(蘭、20190916)





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