【沖縄・集落(字)公民館研究資料(2)】
◆沖縄・集落(しま)公民館資料・動き(2006年〜)◆

*沖縄の集落(字)公民館研究資料(1)→
*竹富島憲章・全文→
*沖縄の字公民館法制・集落育英会の研究→
*自治公民館研究・分科会記録→
*2006〜沖縄調査・訪問記録(2)→


 <目次>
1,「沖縄の公民館」「おきなわ短信」シリーズ一覧
2,竹富島憲章(上勢頭芳徳、八重山毎日新聞・2006新年号等)
3,シマの憲章−竹富島と来間島(小林文人、「公民館の風」、2000〜02年)
4,奥の共同店(山城千秋、小林文人、「南の風」1603号−2006/02/11)
5,故仲松弥秀先生、共同店サミット(中村誠司、「南の風」1604〜05号−同02/13)
6,奥・共同店サミットへの参加(小林文人、「南の風」1623号、2006/3/17)
7,奥・共同店100周年祝賀会(2006/10/07)中村誠司、沖縄タイムス・琉球新報




第42回社会教育研究全国集会(名護集会)歓迎の青年エイサー(名護、20020831)





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 (1)沖縄の公民館・おきなわ短信・シリーズ(1999〜2003)

        <はじめに>
        1999年10月に創刊した「公民館の風」に、その頃あまり知られていなかった
       <沖縄の公民館>についてのシリーズを載せはじめました。その経過につい
       て、同第29号に次のように書いています(2000年2月6日)
        「公民館の“風”で<沖縄の公民館>シリーズを始めた契機は、名護東海岸
       に普天間基地移設問題が浮上し、辺野古など関係の集落が(自治)公民館組
       織として対応を迫られる事態となり、この機会に、沖縄型の集落公民館の動き
       を紹介しようという思いからでした。…」
        このシリーズは20回続きました。相前後して沖縄研究の再開や、『おきなわ
       の社会教育』本の編集、社会教育研究全国集会(2002年、名護)との関連で
       沖縄に行く機会が増え、また、まわりにも沖縄への関心をもつ人がふくらんで、
       <おきなわ短信>シリーズを「南の風」「公民館の風」に収録するようになりま
       した。沖縄の公民館・社会教育に関連する資料にふれたり、興味深い新聞記
       事に出会ったり、折りにふれての気楽なシリーズでした。この「短信」は、その
       後も「南の風」に継続され、現在は主として新しい動きを報じる新聞記事の紹
       介欄として、2006年1月現在、276回(風1587号)を数えています。
        5年あまりを経過した段階で、なかには興味をひくレポートもあるように思わ
       れます。当時を知る記録として、新聞記事紹介欄に移行していく前の段階の
       目次一覧を掲げておきます。そのうちに本文の入力作業に努める予定です。
       下記収録の竹富・来間島「むらの憲法」はその一部です。(小林ぶんじん)


<沖縄の公民館>シリーズ一覧:「公民館の風」所収

(1) 名護東海岸の集落と公民館(1)   (「公民館の風」第6号、1999年11月9日)
(2)     〃            (2)   (同・第8号、11月24日)
(3) 集落公民館と公立公民館       (第9号、11月29日) 
(4) 読谷村中央公民館、その閉館行事 (第10号、12月2日)
(5) 再び東海岸へ、久辺地区       (第12号、12月9日)
(6) 名護市の集落公民館ー島袋論文  (第14号、12月13日)
(7) 地域史づくりの潮流          (第17号、12月21日)         
(8) リュウキュウ・アユを呼び戻す運動 (第18号、12月28日)
(9) 読谷村字楚辺公民館発行『楚辺誌(民俗編)』紹介 (第23号、2000年1月26日)
(10)集落の公民館と図書館        (第26号、1月29日)
(11)竹富島の公民館・竹富島憲章    (第29号、2月6日)
(12)辺野古区公民館の行政委員会   (第35号、2月22日)
(13)「象グループ」と今帰仁村中央公民館(1)  (第38号、3月6日)
(14)「象グループ」と今帰仁村中央公民館(2)  (第40号、3月24日)
(15)今帰仁村中央公民館その後         (第44号、4月5日)
(16)名護市中央公民館の歩みと本土型公民館への複雑な感情 (第45号、4月9日)
(17)石垣(白保)新空港問題と公民館       (第53号、4月30日)
(18)寺中構想と読谷村波平公民館の二つの門 (第55号、5月10日)
(19)「沖縄タイムス」が報道した公民館・同ホームページより(1) (第61号、6月5日)
(20)「沖縄タイムス」ホームページの公民館記事(2)        (第63号、6月12日)


<おきなわ短信>シリーズ一覧(〜50号)

(1) 名護・研究会の余韻             南の風 622号(2001/01/29)
(2) 与那国の冬の海              南の風 624号(2001/02/02)
(3) 日本最西端の公民館           公民館の風138号(2001/02/07)
(4) 与那国の集落公民館組織        公民館の風141号(2001/02/13)
(5) 与那国の文庫活動              公民館の風143号(2001/02/19)
(6) 古層型の公民館(1)―宮古・西原    南の風 703号(2001/ 07/10)
(7) 古層型の公民館(2)―与那国      公民館の風188号 (2001/07/16)
(8) 那覇市公民館の試み(琉球新報記事)       公民館の風188号 (2001/07/19)
(9) 平和教育に取り組む公民館(沖縄タイムス)    公民館の風199号 (2001/08/19)
(10)沖縄県教育委員会「要覧」等資料にみる公民館 公民館の風203号 (2001/08/30)
(11)最近のエイサー4題(タイムス・新報)        公民館の風213号(2001/09/26)
(12)旧8月15夜・沖縄             南の風750号(2001/10/02)
(13)沖縄のアイデンティティとの対話    公民館の風218号(2001/ 10/08)
(14)あんつく、そしてパピリオンの夜     南の風753号(2001/ 10/09)
(15)やんばるの里から三題          公民館の風221号(2001/10/19)
(16)源河公民館・アユを呼び戻す運動    公民館の風221号(2001/12/10)
(17)小さな公民館の大きな苦悩       公民館の風244号(2001/ 12/26)
(18)山の炭焼き煙と竹富の海開き(新聞) 公民館の風270号(2002/03/06)
(19)沖縄のなかのムネオ           公民館の風272号 (2002/03/17)
(20)南の島から、三つの祝い         公民館の風273号(2002/3/22)
(21)4月の沖縄−選挙・大学・沖縄憲法  公民館の風281号(2002/4/10)
(22)那覇の夜−首里石嶺町公民館     公民館の風283号(2002/4/17)
(23)最近の沖縄の公民館三題(タイムス、新報) 公民館の風292号(2002/5/14)
(23A)台風のすき間をぬって出版パーティ    南の風904号(2002/7/15)
(24)取り返しのつかないミス・本づくり    南の風905号(2002/7/16)
(25) 石垣への旅・難民から賓客へ     南の風906号(2002/7/17)
(26)八重山へのキャラバン記事        南の風909号(2002/7/23)
(27)全国集会に向け琉球列島キャラバン 公民館の風318号(2002/7/24)
(28)沖縄で全国集会を・略史(その1)    公民館の風319号(2002/7/27)
(29)沖縄で全国集会を・略史(その2)    公民館の風320号(2002/7/29)
(30)久留島武彦賞とエイサー論議      公民館の風324号(2002/8/6)
(31)竹富島憲章と来間島憲法     公民館の風326号(2002/8/10)
(32)竹富島憲章と竹富公民館     公民館の風328号(2002/8/14)
(33)来間島憲法             公民館の風330号(2002/8/18)
(34)沖縄の8月15日           公民館の風332号(2002/8/18)
(35)沖縄の公民館二題         公民館の風357号(2002/10/26)
(36)最近の地域の動き(沖縄タイムスほか)     公民館の風364号(2002/11/15)
(37)城辺中央公民館と那覇・高良自治会館     公民館377 12月20日
(38)名護市民投票から5年               南の風980号(2002/12/24)
(39)おきなわの図書館(八重山・図書館経費減) 公民館の風379号(2002/12/25)
(40)竹富島の五つの地域力(上勢頭芳徳)     公民館の風382号(2003/1/3)
(41)沖縄の成人式の動き       公民館の風383号(2003/1/7)
(42)南の島の成人式          公民館の風384号(2003/1/12)
(43)旧琉米文化会館のフィルム    南の風989号(2003/1/13)
(44)竹富公民館、交響詩「ひめゆり」 公民館の風387号(2003/1/18)
(45)九州地区公民館大会、竹富町・合併問題と公民館  公民館の風391号(2003/1/28)
(46)名護屋部区の写真集、戦前の沖縄稀少資料      公民館の風394号(2003/2/5)
(47)シマ酒文化(喜如嘉公民館)、公民館とNPO(竹富) 公民館の風395号(2003/2/7)
(48)沖縄「地名シンポ」、宮良長包資料            南の風1003号(2003/2/12)
(49)戦より人間愛/バレンタインデーにイラク攻撃反対  南の風1007号(2003/2/18)
(50)住民主権の自治基本条例素案、喜納昌吉熱唱    南の風1009号(2003/2/22)

 …以下、略…



  浦添市内間区青年会・エイサー(内間公民館、20011125)





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 (2)竹富島憲章(上勢頭芳徳、八重山毎日新聞・2006新年号)
     *同「沖縄・竹富島−五つの教育力」 同新聞2003新年号
  
 <土地買い占め乱開発防止で生まれた竹富島憲章>
     *八重山毎日新聞 (2006-01-04) 2006年新年号

地域の生き方 自ら決定−制定から20年、全国から高い評価
 昨年11月29日付の新聞各紙の1面に、「竹富島の家並みが手づくり郷土賞大賞を受賞」とカラー写真で報道された。1986年にあの世界遺産の白川村や木曽妻籠宿とともに初受賞して以来、その後も住民が憲章を制定し、守り続け生かしてきたことが大賞として選ばれた理由。子供たちも頑張って、ソニー科学賞を7年連続受賞、今年は2席にあたる優良賞。昨年12月11日の祭りにはユネスコの世界遺産コーディネーターである、フィンランドのヨキレット博士が来島された。また今年の1月19日からは国際フォーラムが島で開催される。小さい竹富島が復帰後、内外の注目を集める大きな要因として、「竹富島憲章」の存在がある。 (上勢頭芳徳・竹富島通信員)

 竹富島憲章は1986年3月の公民館総会で満場一致で採択され、制定から20周年になる。近年まちづくりの基本としての憲章の重要性、有効性が認識されるようになった。石垣市でも白保公民館が憲章を制定しており、昨年は大浜公民館も憲章板を設置した。一昨年には、市民憲章運動推進第38回全国大会が石垣市で開催され、その重要性を再確認した。 自らの地域の生き方を自ら決定するよう共同体では不文律や村内法が機能していたが、個性の尊重や多様化など、耳当たりのいい言葉をふりかざして、地域の実情を認識できない島外企業やわがままな人たちが現れてくると、明文化する必要に迫られてきた。
 1972年の本土復帰のころ、八重山のいたるところで土地買い占めが横行し、竹富島でも、「島外者に土地が買われ、島の自然、文化が変質、崩壊する」と危機感を持った人たちが立ち上がり、土地の買い占め売り渡し反対運動を展開した。
 そのころ、1971年にできたばかりの「妻籠宿を守る住民憲章」を参考に、「竹富島を守る憲章」(案)がつくられた。
 保全優先を基本理念とする「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「生かす」というもので、理念がしっかりしていたため、島外企業の侵入を阻止することができた。 これを島民の総意として明文化し、島の方針を打ち出そうと公民館では3集落の例会で話し合い、“憲章制定委員会”で検討し、公民館議会でさらに検証し、その後公民館総会で「竹富島憲章」として満場一致で決議採択した。
 民主的に手順を踏んだ島民の総意で、この憲章は高く評価され、全国町並み保存連盟では共通(モデル)憲章をつくるために毎年のゼミで討議を重ねたが、それには妻籠、白川、川越、竹富と4カ所の憲章が参考にされた。この共通憲章は、英語版、中国語版も出来ている。
憲章効果(まちなみ効果)
 この憲章制定で沖縄の原風景ともいえる集落景観が守られ、自然環境が維持され、それが観光資源となって年間約35万人もの観光客を引きつけることになった。
 観光関連の雇用ができると島出身者のUターン、移住者のIターンを促し、結婚、出産が相次ぎ人口は14年間連続増加している。
 2005年10月20日の調査だと、島の人口は351人。14年前は251人であり、この間にちょうど100人増えている。
 一時は存続が危ぶまれた保育所も、幼児数は現在21人になり、毎年4、5人ずつ入学しており冨村龍男校長も安堵(あんど)している。
 昨年末、政府は、「日本は初めて人口減少に転じる」と発表し、「超少子国」という言葉も飛び出した。
 竹富島はその流れとは逆の方向を歩んでおり、人口増加が地域活性化のひとつの指標としたら、その基をたどれば竹富島憲章に行き着く。
 20年前にこのような憲章を制定したことは先見の明があったと言えよう。
「おいしい水を飲むときには井戸を掘ってくれた人に思いをはせる」という言葉がるが、私たちはおいしい水を共同のものとして、次の世代へ引き継ぐ義務がある。
新住民への啓発
 しかしながらこの20年の間に、かなりの人の入れ替わりがあった。Uターン、Iターンの人の中には、憲章そのものの存在を知らない人もいる。
 それは決して手をこまねいていた訳ではなく、教育委員会の助成事業である各種学習講座(老人学級、成人学級、婦人学級、青年学級など)でおりにふれて取り上げていても、参加しない人たちには伝わらない。
 新住民への啓発活動として、「島での住み方」というパンフレットを作製して配布する必要もあり、それはもちろんUターンを考えている各地の郷友会の人たちにも当てはまるだろう。
 先日ある講演会で、「戦後自由とわがままをはき違えた日本人はついぞ美しい町並みをつくれなかった」という話があった。わがままは不協調、差別、排除、離反ということで、形は心の現れだという。新住民だけでなく、誇るべきこの憲章を島民各自が自律的、自発的に尊重することが、安心・安全・平和という持続可能な“シマ”を次の世代へ引き継ぐことになる。
今後の課題
 8年前、竹富島の「町並み保存選定15周年記念講演」で、国立民族学博物館の石森秀三教授は易経から観光の定義を話したあと、「2010年には特にアジアで、観光ビッグバンが起こる。対応を怠らないように」と注意を促した。
 いよいよ新石垣空港が現実のものとなると石垣島では、雨後の筍(たけのこ)のようにリゾート開発計画が横行してきた。
 それは十分予測されていたことで、先人から受け継いできた美しいところに、資本の論理で、わがままで、ただ乗りするような行為だ。
 新空港完成までに竹富島もしっかり対応を考えて、吹き飛ばされないように備えておかなければならない時期にきている。私利私欲だけでなく、共同体としての「うつぐみの心」の真価がまさに問われるときだろう。
*竹富島「五つの教育力」(八重山新聞:2003/01/01)上勢頭芳徳


【関連・参考記事−八重山毎日新聞・2005】

■八重山毎日新聞(2005-12-12)
 <大浜公民館憲章碑を除幕−宮良公民館に続き、市内2番目の建立>
 大浜公民館(下野栄信館長)の「公民館憲章碑」がこのほど公民館前に建立され、11日午前11時から関係者らが参加して除幕式が行われた。公民館憲章碑の建立は石垣市内では宮良公民館に続いて2番目となる。
 同公民館では、04年の総会で同地域の発展の指標となる公民館憲章を制定しようと決議、15人の憲章立案委員(廣田辰雄委員長)が審議を重ね、前文と5カ条からなる本文を答申した。
 完成した憲章碑は横190センチ、縦120センチ、重さ1.3トンの中国のミカゲ石で作製され「私たちは自然と伝統文化を守り育て美しい村をつくります」など5カ条が刻まれている。
 除幕式では下野館長が、同碑建立には、東京で活躍する大浜出身の磯雄太郎氏(会社経営者)の援助があったことを紹介するとともに「今後は憲章の精神に基づき公民館と老人、婦人、青年、子ども会が連携し、地域挙げて活力ある地域の力を発揮していきたい」とあいさつ。
 また大浜長照石垣市長が「歴史と伝統ある大浜は村誌の発行など模範的な地域で他の地域の目標になると思う」と祝辞を述べた。

■八重山毎日新聞(2005-11-29)
 <竹富島の家並み 手づくり郷土大賞に選定−来月6日認定証交付>
 【那覇】個性あふれる活力ある地域づくりに役立てようと国土交通省が1986年度に創設した「手づくり郷土(ふるさと)賞」で、創設時に受賞した竹富町の「竹富島家並み」が引き続き地域一体となった活動が行われ、地域づくりに貢献しているとして本年度に新設された大賞部門に選定された。
 沖縄総合事務局が28日発表した。12月6日午後2時から同事務局で竹富町長に認定証が伝達される。
 大賞部門は86年度から90年度に郷土賞を受賞している社会資本を対象に、現在も地域活動が一体的に行われ、地域づくりに貢献しているところから選定。全国では37件が選ばれた。郷土賞を含め、沖縄からは竹富町のみの受賞。
 竹富島家並みは大賞部門の代表事例として「住民が守り育ててきた素朴な石垣の芸術」と紹介されている。86年には竹富島憲章を制定し、住民が道路の清掃、除草などを継続、87年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されるなど、住民と行政が一体となって集落の良好な景観を保っていることが評価された。
 また、郷土賞受賞当時に9万人だった観光客が04年度に約36万人に増加するなど観光に活用されていることも地域づくりへの貢献として認められた

■八重山毎日新聞(2005-12-07)
 <竹富島に「大賞」を伝達−国土交通省−「街並み保存」に地域一丸>
 【那覇】国土交通省が主催する2005年度「手づくり郷土大賞」の伝達式が6日、沖縄総合事務局であった。「竹富島家並み」で同賞に選定された竹富町の大盛武町長が渡口潔次長から認定証を受けた。大盛町長は「これを機会になお一層地域づくりに頑張っていきたい」と決意を新たにした。
 大賞は、1986年に創設された「手づくり郷土賞」に選ばれたもののうち、現在まで地域に定着し魅力的な地域の実現に寄与しているものを対象に選定。全国で37件が選ばれ、県内では竹富島家並みが唯一賞を受けた。
 伝達式で大盛町長は「竹富町は9つの有人島がそれぞれに特徴があり、島の人たちが地域づくりに頑張っているが、とくに竹富島では街並み保存に地域一丸となって立ち上がった経緯がある。これを機会に島づくり、地域づくりに頑張っていきたい」と述べた。
 渡口次長は「復帰後、本土資本を心配して憲章をつくり自分たちで家並みを守ってきた。そういう精神が大賞につながった。これを機に10、20年後も街並みに磨きをかけてもらいたい」と激励した。
 竹富島の家並みを保存できた秘けつについて大盛町長は「島の人たちの熱意。地域のリーダーが育っている。リーダーが地域を束ねる役割を果たしている。竹富町の誇りです」と語った。

■八重山毎日新聞(2005-05-26)
 <ムーヤマオンを見学−竹富島で御嶽めぐり>
 【竹富】竹富島ビジターセンター管理運営協議会と特定非営利活動法人たきどぅん主催の「竹富島のオン(御嶽)をめぐる〜その2・ムーヤマ(六山)編」が24日、行われた。
 島の御嶽を訪ね、その伝承や神話を聞くことで、島で培われてきた人と自然の関係について学んでもらおうというもの。
 竹富島には、西塘御嶽や世持御嶽など公民館が管理する御嶽をはじめ、個人が管理する御嶽なども含めると全部で28カ所の御嶽があるという。今回はその中でも、神司が管理するムーヤマオン(六山御嶽)を回った。
 この日は、観光客をはじめ石垣市や竹富島から24人が参加。阿佐伊孫良さん、上勢頭同子さんらを講師に2つのグループに分かれて、ムーヤマオンの6つの御嶽を見学した。 阿佐伊さんは「ムーヤマオンは6つの重要な御嶽という意味だけでなく、『もともとあった』御嶽という意味もある」と話し、祭事と御嶽の関係や由来などを説明。
 参加者は講師の話を熱心に聞きながら、島の歴史や御嶽にまつわるさまざまな由来などについて知識を深めた。

■八重山毎日新聞(2005-11-03 )
 庭と舞台で奉納芸能「タナドゥイ」始まる/竹富島
 【竹富】国の重要無形民俗文化財、「種子取祭(たなどぅい)」は2日から世持御嶽で庭の芸能と舞台の芸能の奉納が始まった。おごそかさや軽妙さなど多彩な表情を見せる奉納芸能が次々に奉納され、観光客など大勢の人たちを楽しませている。奉納芸能は、同日の玻座間村に続いて、3日には仲筋村が奉納することになっており、島は「たなどぅい」一色に包まれている。
 種子取祭は五穀豊穣や島民の無病息災を祈願する神事。節祭りから49日後の甲申(きのえさる)の日に「トゥルッキ」と呼ばれる神事を行い、この日から10日間行われる。今年は先月27日に「トゥルッキ」を行い、種子取祭がスタートしていた。
 庭の芸能が午前9時半から奉納されるのに先立ち、同9時すぎには祈願を済ませた神司や公民館役員らが巻き踊りを奉納。世持御嶽は、おごそかさとにぎやかさが混じり合う独特の雰囲気に。
 このあと、勇壮な棒術で庭の芸能が始まった。観光客らは食い入るように見詰めたり、カメラのレンズを向けたりしながら、熱心に見学。女性が2人一組で力比べをする「腕棒(ウディボウ)」では、相手を振り回そうとして真剣に勝負する女性たちに拍手と歓声が起こった。
 舞台の芸能では、「弥勒(ミルク)」や「鍛冶工」などの狂言、「赤馬節」などの舞踊など合わせて35点を奉納した。

■八重山毎日新聞(2005-03-28)
 <地域教育力に役割重大−2公民館が活動報告 石垣市>
 「地域特性を活かした公民館活動」をテーマにした石垣市自治公民館連絡協議会(山田隆一会長)主催の公民館研究大会が27日午後1時半から、平得公民館2階ホールで開かれた。 公民館実践活動の発表を通して、地域に根ざした新しい時代に対応する公民館活動の充実を目指そうと毎年開かれている。
 開会行事で山田会長が「地域住民が各地域の課題解決のための諸活動に参加し、意識や行動を変革し、ゆとりと潤いを持った住みよい地域づくりに向け努力することは大切」とあいさつ。
 事例発表では「パトロールで生まれる地域の輪」と題し真喜良自治公民館(宮国茂男館長)、「公民館活動の原点は憲章の心」と題し宮良自治公民館(嵩田勤館長)がそれぞれ報告した。 真喜良公民館は、青少年の健全育成を目的に団地内や地域のパトロールを行い、最近では夜間出歩く子どもたちが見られなくなったことや、自転車やバイクの盗難防止にも役立っていることを紹介し「団地周辺の居住者の中にも公民館活動に参加を希望する声があり、垣根を取り払うことはできないかと模索している」と述べた。
 宮良公民館は独特の公民館憲章や13年間継続している葬儀用祭壇の貸し出し事業、文化祭など地域ならではの活動や事例を報告。「子どもからお年寄りまで字民すべてが宮良に生まれてよかった。宮良に住むことに誇りを持てる村を建設するため、字民一体となって村づくりにまい進している」と発表した。
 指導助言では宮良和子市教委社会教育委員議長が「青少年健全育成でも家庭や学校、地域が一体となった公民館の取り組みが必要」と話した。
 講演では「公民館活動の活性化をめざして」をテーマに半嶺当純氏(八重山教育事務所長)が地域の教育力を高める公民館活動の推進や青少年の健全育成、青少年活動の活性化のため公民館の果たす役割について話した。
 会場には公民館役員をはじめ学校や老人クラブ、婦人会などから関係者約80人が参加。事例発表や講演を熱心に聞き入っていた。




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(3)シマの憲章−竹富島と来間島
    (小林文人、「公民館の風」記事、2000〜02年)


                              *竹富島憲章全文→■
 
1,竹富島の公民館・竹富島憲章 
   *「公民館の風」第29号(2000年2月6日) 「沖縄の公民館」シリーズ(11)

 八重山郡竹富町の竹富島は、知る人ぞ知る景勝の島、石垣島からわずか6キロあまり、小さな珊瑚礁の小島。国の無形文化財に指定されている「タナドィ」(種子取)の祭りが有名。
 1月24日、老朽化した旧公民館にかわって新「竹富島まちなみ館」の落成式が盛大に開かれた。まちなみ景観保存地区にふさわしく、木造平屋建てで赤瓦と白い石造りの壁を配した美しい仕上がり。総工費1億5千万円。文化庁が特例として公共施設新築修景事業を全国で初めて適用、経費の8割を補助し、残りを沖縄県と竹富町が分担した。完成式では竹富の皆さんが伝統の踊り「ガーリー」(タナドィで踊る、公民館長と長老たちと女衆たちとの群舞)を繰り広げ、体全体で喜びを表現したという。(沖縄タイムス、1月25日朝刊)
 この機会に、本土復帰後の本土資本・土地買上げの跳梁に抗してつくられた「竹富島憲章」を紹介しておこう。「竹富島は南島文化を代表する典型な農村集落」であり、伝統的まちなみと「周囲の環境の地域的特色」により「重要伝統的保存地区建造物群」選定(1987年4月28日)の記念碑とともに、シマの広場に「憲章」碑が立っている。

 「私たちは祖先から受け継いだ伝統文化と美しい自然環境を誇り『かしくさやうつぐみどぅまさる』の心で島を生かし、活力あるものとして後世へ引き継いでいくためにこの憲章を定めます。
  保全優先の基本理念
一、『売らない』 島の土地や家などを島外者に売ったり無秩序に貸したりしない。
二、『汚さない』 海や浜辺、集落等島全体を汚さない。
三、『乱さない』 集落内、道路、海岸等の美観、島の風紀を乱さない。
四、『壊さない』 由緒ある家や集落景観、美しい自然を壊さない。
五、『生かす』 伝統的祭事、行事を精神的支柱として、民俗芸能、地場産業を生かす。

私たちは、古琉球の様式を踏襲した集落景観の維持保全につとめます。
私たちは、静けさ、秩序のある落ち着き、善良な風俗を守ります。
私たちは、島の歴史、文化を理解し教養を高め、資質向上をはかります。
私たちは、伝統的な祭りを重んじ、地場産業を生かし、島の心を伝えます。
私たちは、島の特性を生かし、島民自身の手で発展向上をはかります。

*ちなみに『かしくさやうつぐみどぅまさる』とは「賢さと協同の心が何にもまして優れている」の意。竹富島を「うつぐみの島」と呼ぶ場合もある(竹富町史別巻3,写真にみる竹富町のあゆみ「ぱいぬしまじま」1993)。“うつぐみ”は島びとの“共同体精神”を表している。このような「憲章」がつくられた背景・経過にはなみなみならぬものがあった。
*小林は、一昨年から、その西方(日本の最西端)の「与那国島」調査を手がけている。第1次レポートは『戦後沖縄社会教育における地域史研究』第1集(1999年3月)に「与那国の歴史と社会教育ー研究覚書(その1)」をまとめ、第3集に第2次レポート「与那国の集落と公民館制度の定着過程」(2001年3月)を掲載している。


・2,シマの憲章−竹富島と来間島
  
*「公民館の風」第326〜330号(2002年8月10〜18日)

<竹富島へ>
 (【おきなわ短信】(31) 公民館の風第326号、2002年8月10日)

 今回の琉球列島キャラバン・石垣滞在の1日、久しぶりに竹富島に渡った(7月16日)。短い時間であったが、上勢頭芳徳さん(喜宝院蒐集館)と会って「竹富島憲章」(竹富公民館)の新しいパンフを頂く。制定当時(1986年)の保存分がなくなり、来住の住民もあり、新しく印刷されたもの。『竹富島に何が可能か』(第2版、2001年、喜宝院・発行)も頂戴した。巻頭・所収の「町並み保存で何を得、何を失ったか」(上勢頭)が興味深い。
 帰りの桟橋には前本多美子さん(竹富在住、旧姓・鈴木、学芸大学卒)が駆けつけてくれた。同道・案内役は渡慶次賢康さん。
 その午後の便で、石垣から宮古に飛んだ。空港には下地達男さん(城辺町役場)。宮古・社会教育主事協会の集いまで、わずかの時間を利用して、島巡りをお願いする。何年ぶりだろう。
 達男さんは私たち(中村誠司さん、富美)をまず島の南西端、大橋を渡って来間(下地町)の集洛に連れていった。そこではじめて来間島憲法の碑を読んだ。同じ日に、期せずして別の島の二つの集落の憲章・憲法に出会ったことになる。何たる偶然、ある感動、しばし立ちすくむ。
 竹富島憲章については、「公民館の風」の初期、埋め草的に連載したシリーズ「沖縄の公民館」で取り上げたことがある(11号、2000年2月6日)。もう2年余りが経過しているので、あらためて再録、−上記・略−、続いて来間島憲法(次号)を収録することにする。

○竹富島憲章 こちら→


<竹富島憲章と集落公民館>
 (【おきなわ短信】(32) 公民館の風第328号 2002年8月14日)
  …承前(公民館の風326号)…

 竹富島憲章は、住民の総会で決定されたものであるが、その組織的基盤はもちろん竹富公民館であった。前号にふれた『竹富島に何が可能か』のなかで上勢頭芳徳さんは公民館について次のように語っている。(同「町並み保存で何を得、何を失ったか」。因みに竹富島は、行政的には竹富町に含まれ、人口271人、世帯数127戸の集落。過疎の島と考えられがちであるが、人口はむしろわずかに増えている。)
 「島には公民館という組織があります。これは自治会というか、権威と力をもち、島の方針は島で決定できるという組織です。」(p.20)
 「観光業者は、いろいろな租税等を納めたほかに、公民館に観光税を納めることになっています。観光税というと支障があるとのことで現在は公民館協力費といっています。これは各業種ごとに、さらにまたABCとランク分けして金額を設定するわけです。観光業者から集めるのが年間65万円くらいになります。公民館の一般会計予算が約240万円ですので、四分の一以上を観光業者からの税で賄っています。ということは、それだけ観光をやっていない人も、公民館への負担が減ることになります。だから観光業者と観光をやっていない人との対立構図が、かなり薄らいでいっているということになると思います。このようなシステムを十年以上前から実施しているのも、地域の見識と思います。」(p.21) 
 「私ども憲章を制定するまでの順序は踏んできたつもりです。まず公民館長の諮問委員会ををつくりまして、そこで憲章検討委員会をつくり、検討委員会での案を公民館議会にあげていきました。それから公民館総会で決定するという四段階を経てやっていきましたので、これは住民の総意のものであると断言できると思います。」(p.23)

 竹富公民館が発行している「竹富島憲章」の全文は、風326号に紹介した文章よりさらに詳細な記述・細則が用意されている。「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」の“一、保全優先の基本理念”に続いて、次のような基本原則が並んでいる(カッコ内は細則数)。すこし長いが引用しておこう。
二、美しい島を守る
 竹富島が美しいといわれるのは、古い沖縄の集落景観を最も良くのこし、美しい海に囲まれているからである。これを保つために次のことを守り、守らせる。(12項目)
三、秩序ある島を守る
 竹富島が、本土や本島にない魅力があるのは、その静けさ、秩序のとれた落ち着き、善良な風俗が保たれているためである。これを保つために次のことを守り、守らせる。(8項目)
四、観光関連業者の心得
 竹富島のすぐれた美しさ、人情の豊かさをより良く印象づけるのに旅館、民宿、飲食店等、また施設、土産品店、運送業など観光関連業従事者の規律ある接遇は大きな影響がある。観光業もまた島の振興に大きく寄与するので、従事者は次のことを心得る。(10項目)
五、島を生かすために
 竹富島のすぐれた良さを生かしながら、住民の生活を豊かにするために、牧畜、養殖漁業、養蚕、薬草、染織原材料など一次産業の振興に力を入れ、祖先から受け継いだ伝統工芸を生かし、祭事行事、芸能を守っていく。(4項目)
六、外部資本から守るために
 竹富島観光は、もともと島民が、こつこつと積み上げてきた手づくりの良さが評価されたからである。外部の観光資本が入れば島の本質は破壊され、民芸や観光による収益も住民に還元されることはない。集落景観保存も島外資本の利益のために行うのではないことを認識し、次に掲げる事項は、事前に調整委員会に届け出なければならない。(7項目)
 この憲章を円滑に履行するために、公民館内に集落景観保存調整委員会を設け、町、県、国に対しても必要な措置を要請する。 (昭和61年3月31日)
 *上勢頭芳徳さんはこの調整委員会・委員長をつとめている。 
 

                                  竹富島(20020716)


<来間島憲法>
  (【おきなわ短信】(33) 公民館の風第330号、 2002年8月18日)

 宮古島の南西部 1.5Kmの沖合いに浮かぶ小さな島・来間島は実に美しい。面積 2.84平方メートル、竹富島の半分くらい。宮古島とは来間大橋で結ばれている。集落は一つ、人口は200人足らず。島のほとんどがサトウキビ畑である。
 来間島をホームページで探すと、多くは観光向けの情報、島と海の写真がたくさん並んでいる。そのなかに『来間島憲法』についての記事も出てくる。たとえば次の通り。

○農村と断崖と亜熱帯の森林。静かで人の手のほとんど入っていないビーチ。いくらか遺跡もあるようで、歴史と自然を味わいながら、何となく一日過ごしてしまいそうな島だ。
 観光スポットといえば、大橋を見下ろす竜宮城展望台。最上階からの眺めは絶品!美しい海は、遠くから見下ろした方がより美しさを実感できる。延々と続くエメラルドと群青の波。宮古の海を特に『宮古ブルー』というのは、特別な色だからだろう。
 展望台の入り口に、『来間島憲法』なる文章をみつけた。来間島の自然と文化を守っていくために、住民と観光客がともに守るべきルールというもの。例えば、住民は庭に1本以上のブーゲンビリアを植えること、などが定められている。島を見る限り、それは守られているようだ。来間島の人々は、守るべきものが何かを知っているのだろう。

○住民活動 憲法作成への取り組み
 宮古来間島は屈指のエメラルドグリーンに光輝く美しい海岸景観を有し、日本一の農道「来間大橋」の開通により、交通の利便性が図られ観光ポイントの一つとして注目されている。
 ところが観光のポイント化によるデメリット面(空き缶のポイ捨て、島外者のトイレ使用者の増加、今まで開けっ放しだった玄関に施鍵をするようになった)も浮かび上がり、住民の間で環境や自然景観の維持管理の気運が高まり、美しいむらづくり委員会が発足した。
 先進地の施設や「我がむら再発見隊」による島のもつ豊かな自然財産の再認識のための島内探検、むらづくり委員会での住民へのアンケート調査等を行い、様々な情報を基に、住民との話し合いを重ね、平成8年2月に『来間島憲法』が策定された。
 誰もが住みたくなる美しいむらづくりを推進するため、住民のビジョンの一つともなる地域協定を作ったのである。
 島の人たち、島外者にもこの憲法は特に強要されるものではなく、各個人の任意の協力を要とする旨、うたわれている。

○美しい環境づくりへの取り組み
 島の憲法はごみのポイ捨ての減少に確実につながった。現在「我がむら再発見隊」は青年会、婦人会、子供会が中心となって活動を継続しており住民の景観の維持管理活動も着実に向上している。
 豊かな自然景観をバックに、さらに今度は、「来間島を香りと花いっぱいの楽園」にしようと「来間島フラワーロード」植栽計画を立て、住民、関係機関の支援の基に美しい島づくりが着々と進んでいる。島のみんなが楽しく、意見を言い合い、夢を持って島づくりに取り組んでいるのである。
       *    *    *
 展望台入口に掲げられている『来間島憲法』(TOAFAECホームページ2002年7月16日・写真参照)は次のような構成である。紙数の関係で骨格のみであるが、以下に紹介しよう。原文にはすべてひらがなのルビが付してある。島内法の現代版といえよう。

【目的】
一条 この住民協定は、来間島を美しく保つため、また、来間集落を「誰もが住みたくなるむら」にすることを目的とし、集落の住民間及び集落を訪れる諸人間に締結されるものである。
【名称】
二条 この住民協定は「来間島憲法」という。
【屋敷内の景観維持の義務】
三条 住民は集落の景観を保つために以下の努力をしなくてはならない。
 一、屋敷内の庭にブーグンビリアの花を1本以上植える。
 二、屋敷内の庭にハイビスカスの花を1本以上植える。
 三、屋敷内の庭に花を植える。
 四、屋敷内の庭に雑草等を放置しない。
 五、屋敷内の庭に集落の景観を著しく損なうものを放置してはならない。
【清掃の義務】四条(3項目、略)
【住民の義務】五条(4項目、略)
【来訪者の義務】六条(6項目、略)
【特約】七条(2項目、略)
【制限】八条 来間島憲法は、特に強要されるものではなく、各個人の任意の協力を要とする。 (むらづくり推進委員会)


                                          ▲来間島(20020716)






  ★★★★★★★
 (4)奥の共同店(山城千秋、小林文人−南の風1603〜04号
                          2006/02/11〜13)


 <奥の共同売店(山城千秋)>
 春節を過ぎたというのに、今日(8日)も熊本では雪がちらつきました。毎日寒い日が続きますが、お元気でいらっしゃいますか。昨年末よりご無沙汰しております。
 ところで、もうご覧になったかもしれませんが、NHKで2月7日夜に放送された「発見・ふるさとの宝」で奥の共同売店が紹介されていましたね。久しぶりに奥の共同売店を拝見し、改めてシマ社会の共同性を認識しました。
 店長さんまで選挙で決めているなど、今回初めて知ることも多くありました。奥は、また郷友会活動も活発なところですし、共同売店も含め、シマ社会を支える人々の郷土意識に注目していきたいと思っています。ちなみに再放送もございますので、ぜひ多くの方々にご覧頂きたいと存じます。3月には、共同売店のサミットも開かれるようです。
 沖縄青年運動史研究会をはじめ、今年は何度か沖縄でお会いできるかと期待しております。まずは3月に奥でお会いしたいものですね。

○NHK「発見・ふるさとの宝」
・再放送:2月14日(火)午前2:15〜(月曜深夜)
 【発見場所】沖縄県国頭村奥地区『共同売店』(1906〜)
・沖縄本島最北端の国頭村にある奥共同店は、今年、誕生から100年を迎えました。
・奥共同店は集落唯一のお店。ここ以外で近い店は車で30分以上のところにあります。店内では生鮮食品から日用雑貨までおよそ2300種類を販売。ガソリンも売っています。
・実は沖縄独特の「共同売店」という店です。奥共同店では、一人一株150円を集落全員が出資し、店長を区民全員による選挙で決めます。店長は区長に次ぐ責任ある立場で、任期2年を担当しています。
・誕生は明治39年、道路もつうじていない陸の孤島だった奥地区で、“ユイマール(助け合い)”の精神で村が一丸となって村を発展させようとつくられました。沖縄の共同売店は、このお店をきっかけに全島に広がりました。
・モノを売るだけの店ではありません。奥共同店は、集落の必要に応じお金の貸し付けをしたり、発電事業を行ったり、人々の駆け込み寺のような役割を果たしてきました。今でも地元の人が必ず通う大切な場所。困り事や集落の将来を話し合う情報交換の場所としても活用されています。(ふるさとの宝・発掘人)糸満盛也さん(国頭村奥地区)

 <沖縄のムラ・シマ(小林文人)
 
仲松弥秀先生が亡くなられました。今ごろ(10日午後)は告別式がおこなわれている時間だ、と思いながら、この日誌を書いています。個人的に教えをうける機会はありませんでしたが、「神と村」「古層の村」などの著作を通して、多くのことを学びました。
 沖縄のムラ・シマについて、日本の農村社会学や民俗学などでは分からないことが多すぎる。仲松先生の本を読むと、なぜか新しい視界が開けて、すっきりみえてくるものがありました。まさに“偉大なるフィールドワーカー”、たくさんの具体的な事実を基礎にしての論究ですから、よく分かるのです。「オソイ(愛護)とクサティ(腰当)」の指摘など、当時の私には衝撃的なものでした。ムラの先輩が、若い世代を温かく抱きとめて(オソイ)、じゅんじゅんと大事な話を説いてくれる、そんな趣き。中村誠司さん(名桜大学)から、弥秀先生の“思い出の記”など送っていただけないでしょうか。 
 ムラ・シマの共同を象徴する「共同売店」。琉球新報の正月元旦特集は見開き2頁にギッシリと「地域が誇る宝」「生活守る知恵」共同売店が取りあげられていて(山口真理子さんから切り抜き)、驚きました。
 80年頃に116店あった共同売店は、現在やんばる(北部)を中心に約70店とのこと。その特質や今後のことについて、宮城能彦さん(沖縄大学)や中村誠司さんがコメントされていて興味深い。
 小林ゼミがやんばるを旅するときは、どこかで必ず共同売店に寄ったものです。たとえば今帰仁村の崎山。ムラの広場の茅葺きアシャギのところで一休み、「お土産買うなら、共同売店で買おう!」と呼びかけて、やんばる茶やサーターアンダギーを買いました。

◆<「オソイ(愛護)とクサティ(腰当)」>
 仲松弥秀先生を偲んで・・・。若い留学生から質問もありましたから、不充分ながら「オソイ(愛護)とクサティ(腰当)」(風前号)のことを。「日本語は難しい」と。いや、日本人にも沖縄語は難しいのです。
 仲松弥秀著『神と村』(伝統と現代社、1975)は次のように書いています。クサティ(腰当)とは、「幼児が親の膝に座っている状態と同じく、村落民が御嶽(ウタキ)の神に抱かれ、膝に座って腰を当て、何らの不安も感ぜずに安心しきって拠りかかっている状態をさしていう」と。
 クサティという言葉は、日常的にも使われています。集落を抱きかかえるように守っているまわりの森を「腰当森(クサティムイ)」、そこに多く御嶽が祀られ、いわば鎮守の森なのです。
 いつぞや名護「大国林道」で飲み始めるとき、ゆったりと壁に寄りかかることができる「クサティの席」を、年長のぶんじんにすすめていただいたことがあります。ハッと思い当たりました。
 オソイとは「襲い」「支配」と解されがちですが、上記の『神と村』では、「臥している子に衣をおそう(蔽う)てやる、鳥が卵を抱いている愛護の動作」と説明しています。たとえば「浦添」は、伊波普猷のように「浦襲い」「浦々を支配する」意でなく、幼子に衣を蔽ってやるように「浦(港)を愛護する」意味だと。仲松説はやさしい響きです。 
 オソイという沖縄らしい言葉を知って、学生たちに「衣を蔽ってやるよう」な関係をもっているだろうか、教師として反省したものです。
 「オソイ(愛護)とクサティ(腰当)」の思想は、ムラ・シマの御嶽や祭祀にかかわる古語としてでなく、現代にも通じる深い意味を含んでいるように思われてなりません。仲松『神と村』を再読しながら、あらためて現代の家族、子育て、学校のあり方など、考えさせられました。
 中村誠司さんからは、別に奥・共同売店のこと、共同店サミットについての一文をいただいていますが、長くなりますので、次号に掲載させていただきます。(1604号 2006年2月13日)






  ★★★★★★★★★★★★★★
 (5)仲松弥秀先生、共同店サミット
    
(中村誠司−南の風1604〜05号・2006/02/13〜15)


 <仲松弥秀先生のこと>
 仲松弥秀先生の思い出の一端を記します。
 私は1970年7月25日、沖縄のムラを勉強したく、初めて那覇港に下り立った。太陽がまぶしく、道が白かった。重いカニ族タイプのリュックをしょって、その足で琉球大学に弥秀先生をお訪ねした。前年に弥秀先生から沖縄文化研究所発刊の『神と村』をいただき、弥秀先生のいくつかの論文とあわせて読んでいたが、全く理解できていない。恐る恐る調査研究の助言を求めたが、先生は「自分で自由にやりなさい」とおっしゃるだけだった。あれから35年、弥秀先生の『神と村』や『古層の村』から私はまだ抜け出せないでいる。
 沖縄の村落(シマ社会)を理解するには、仲松説をふまえなくてはならない。弥秀先生は、琉球孤 800村落をすべて、また何度も踏査され、地元の先輩(特に神人)の話を丁寧に聴いておられる。1972年の夏のある日、私が今帰仁村兼次でお世話になっているお家に突然やってこられ、御嶽に行こうとおっしゃる。長期滞在調査者の私を後ろにして、先生は細い神道をどんどん行かれ、御嶽の解説までされた。私は恥じ入るばかりであった。不勉強のまま私の兼次調査は空振りにおわった(現在字誌づくりでリターンマッチ中)。
 沖縄研究は、外部(本土)から取り付きにくいとされる。一つには、沖縄の生活・文化・心性を備えているかという課題があるように思う。伊波普猷にはじまり、比嘉春朝・金城朝永・仲原善忠・喜舎場永じゅん・宮城真治、そして仲宗根政善につづいた先達たち。沖縄を体現する最後のお一人が仲松弥秀先生だと思う。先生は平民百姓の立場・視点から沖縄・琉球孤の村落・文化・世界観の姿を明らかにされた。
 名桜大学創設まもない頃、先生から連絡があり、蔵書の大方を名桜大学附属図書館に寄贈するとおっしゃる。私たちは、当時の浦添・前田のお宅にトラックで駆けつけ、ありがたくお受けした。先生の膨大なフィールドノートは公開され、名護市立中央図書館にもコピーが収蔵された。
 昨年、先生の教え子の一人、町田宗博先生(琉球大学教授)から弥秀先生の論文一式のコピーをいただいた。不肖の弟子の私は、これらの遺産・宝をまだ手つかずにおいている。弥秀先生のあの笑顔と張りのあるお声を追憶しつつ、私の「仲松学」への旅、そして山原・沖縄研究をあらためて歩きなおしたい気持ちでいる。(2006年2月12日)

 <共同店サミット(3月17日 in 奥)>
 沖縄本島最北端のムラ・奥は今年10月「共同店創立100 周年」を迎えます。奥といえば「共同店」、先日NHK の「ふるさとの宝」で紹介されたそうです。(再放送2月14日02:15〜月曜深夜=山城千秋さん情報)。
 私はここ20年ほど奥の人々とゆったりお付き合いしてきました。10年前のイノシシサミット、そして「奥・ヤンバルの里」(資料館・宿泊施設)ができる前後からここ5年は、学生の卒論調査(奥民具資料館資料の整理)やゼミ合宿などでお世話をいただき、かかわりが深くなり「奥共同店100周年記念事業」に外部からお手伝い風に参加しています。
 昨年12月には、奥内外の人の「奥共同店研究」の成果を持ち寄って、「100周年記念フォーラム」を開催しました。奥公民館(集落センター)の会場を埋めつくす参加者があり、奥の主催者も驚きました。西表島の大原からも駆けつけた方がいました。奥「共同店」のささやかなテーマと呼びかけに、これほどの関心と人がいるのか、と私もびっくりしました。世の中、地道に変わりつつあるのでしょうか。
 「琉球新報」紙は、元旦号で共同店特集記事を組み、引き続いて年間テーマとして共同店を取り上げています。私たちの「奥共同店研究」のトヨタ財団申請は不発でしたが、地元関係者を主体とし、共同店の存続をテーマにしたゆるやかな共同研究を持続したいと思っています。今年の10月を節目に、来年「奥共同店100 年記念誌」を編集・刊行する計画です。奥は、先輩方と郷友会がしっかりしていて、人口は縮小傾向ですが、元気のあるムラ(シマ)だと思います。
 沖縄の共同店(共同売店とも)は奥から始まり、山原そして全琉に広がった歴史があります。本土復帰後、道路整備とモータリゼーションの波、地方中核都市・名護市周辺での大型スーパーマーケットの立地などのなかで、山原の字の共同店は小型スーパーとしては経営が立ち行かなくなりました。共同店は、字住民が株主となって字が直接経営してきました。復帰後の沖縄経済と生活スタイルの激変の過程で、地方農村の小さな売店は経営難になり、共同店は、住民個人への委託→個人スーパーの設立→廃店へと追い込まれてきました。
 現在、山原には約40の共同店がありますが、どこも経営危機に直面しています。しかし、特にお年寄りの購買行動や住民の日常交流の場としても、共同店の存在と役割を評価する(存続を求める)住民の声は強いのです。奥共同店100 年の歩みを顧みますと、単に「売店」機能だけではなく、地域林産物の集出荷、船を所有した流通業(与論・沖永良部まで)や金融業、住民子弟の育英事業、酒造業、製茶とその流通販売など、共同体を基盤に小さなムラの多様企業体として生きてきました。
 12月のフォーラムをふまえて、というより発言したくてできなかった関係者が多いので、「各地の共同店主が一堂に会し、共通する課題について語らい、何かの糸口を見出す場を設け」たいとの目的で、下記の日程で「共同店サミット」を開催するそうです。切実な課題を抱える地元・共同店関係者の発案・企画です。超高齢化・過疎のムラはがんばろうとしています。この課題と気持ちは、全国の過疎のムラや地方小都市に共通するのではないか、というのが私の考えと課題で、その勉強をはじめています。*共同店サミット日程;
 とき:2006年3月17日(金)午後2時〜5時(6時から懇親会)
 ばしょ:奥(国頭村)集落センター(宿泊可能)





  ★★★★★★★★★★★★★★    *関連・交流記事→■
 (6)奥・共同店サミットに参加して

      (小林文人、「南の風」1623号、2006/3/24)



<奥の共同店サミットに参加して>
 沖縄(主に中・北部)独自の共同店の歩みについては、私たちも沖縄研究の初期から関心をもってきました。この30年、やんばるの道を歩きながら、集落の共同店に立ち寄り、お茶(「奥みどり」)などを買ったり、店の人と声をかわしたりしてきました。
 時代の流れのなかで、共同店をめぐる状況は厳しいものがあり、その数も次第に減少(北部を中心に約40店)。しかし共同店への愛着はなみなみならぬものがあります。インターネットで検索してみても「共同店」は賑やか。とくに昨年来、新聞・雑誌・テレビで取りあげられることが多く、東京にもその動きが伝わってきました。恐らく国頭村「奥」共同店100 周年を契機として、奥の方々の努力はもちろん、中村誠司さん(名桜大学)や宮城能彦さん(沖縄大学)などの研究者の取り組みが動因となっているのでしょう。
 この数ヶ月の動き。まず「フォーラム・奥共同店100 周年記念−皆で考えよう・共同店の将来について」(2005年12月10日)の開催。琉球新報の正月特集(2006年1月1日、2頁にわたって「生活守る知恵・共同売店」記事)。NHK総合「発見ふるさとの宝」(2006年2月7日)で奥共同店を放映。JTA(旧南西航空)機内誌“Coralway”特集「共同店の百年」(2006年3〜4月号)など。この間には、中村・宮城両氏や金城一雄氏(沖縄大学、2000年来の共同店調査)等の諸論稿が新聞(沖縄タイムスを含めて)掲載され、そして今回の「共同店サミットin 奥2006」(3月17日)の開催へと続くわけです。
 もともと共同店は、集落の自治組織と深く関わって、字民の共同出資、共同運営、利益の共有・還元を原型としています。集落・共同体の、いわば経済機能(自治、祭祀、教育、生活相助などの集落機能と連動して)を担うものでしょう。奥の共同店の歴史はそのことを示しています。その意味では、私たちの大きなテーマである「字公民館」の研究とも深く結びつくところがあります。
 17 日午後、奥の集落センターで開かれた「共同店サミット」に参加して、諸報告を聞きながら、年に2〜3度ぐらい、仮称「字公民館サミット」を開けないものか、あるいは思い切って「沖縄公民館学会」を構想できないものか、などと考えていました。







  ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★    
 (7)奥・共同店100周年祝賀会(2006/10/07)

    (中村誠司−「南の風」1728号、新聞社説)


 <奥共同店100周年・報告(中村誠司)>
 10月7日、沖縄本島最北端の小さなムラ・奥は共同店創立100周年の祝賀に沸きました。午前10時半、那覇・南部の奥郷友会の人々を満載した大型バス2台が到着し、奥の小学生13名は太鼓と踊りで、200 名の奥の人々は諸手を挙げて歓迎の出迎え。
 短い開会の挨拶の後、全員10数本の幟を先導に製茶工場に移動し、そこから集落の共同店ゆかりの場所を巡る道ズネーが始まりました。晴天にはためく郷友会や奥各組の幟は勇ましく、あとに従う数百の人々の顔は笑顔に満ち満ちていました。
 午後から集落センター(公民館)を会場に記念式典・祝賀会が催されました。広い公民館のホールに入りきれず、外庭にもテーブル・椅子が用意され、参加者は600 名をこえたそうです。奥関係者はじめ共同店に関心をよせる人々の参加が多くありました。本土の共同店第1号である宮城県丸森町大張地区の、「なんでも屋」の関係者3名も新米を携えて参加されました。
 100 年前、まさに僻遠の地で一人の先覚者が拓いた奥共同店は、ユイマール・相互扶助・「共計在和」の精神と方法に支えられつつ、それを強化して幾多の苦難を乗り越えて今日の記念祝賀に至ったのだと思います。私も会場でだれかれとなく「おめでとうございます」と挨拶を交換しました。会場は笑顔で溢れていました。「奥」には、先人の事績を讃え、後輩はそれに恥じない努力をする文化があるようです。
 式典では、初代から第30代までの共同店主任にたいして感謝状が贈られました。当人は多く故人なので、その孫や子が受けました。小さな地域の歴史と人物評価の連続を見る思いがします。祝賀会の余興の圧巻は、最後の「旧校歌・青年会歌」合唱でした。60歳をはるかにこえた卒業生たちが舞台を埋め尽くして、全員体いっぱい声のかぎり歌いました。私は何に立ち会っているのか茫然として聞き、見入っていました。
 新聞の社説にもいうように、奥には結(ゆい)・つながり・共同・地域の力が健在です。郷友会の力も強いです。
 少し間をおいて,「奥共同店100周年記念誌」づくりの追い込み作業が始まります。奥関係者のスタッフは充実しています。私は外部の支援者の一人としてかかわります。楽しみの反面、課題の大きさ深さにビビッています。(2006年10月9日)

 <奥共同店 区民支え100年>
    沖縄タイムス 2006年10月8日(日)朝刊
 【国頭】共同店発祥の地として知られる国頭村の奥区集落センターで7日、奥共同店の創立百周年記念式典と祝賀会が開かれた。県内最初の共同店として設立され、区民の生活を支え、憩いの場や心のよりどころの役割を果たした百年の節目に、区民だけでなく県内各地から多くの出身者が集まった。参加者は「これからも区の拠点として、共同体の象徴として、区民を支えてほしい」などと共同店への熱い思いを語り合った。(屋良朝輝)
 同共同店は日露戦争が終わった翌年の1906年4月、個人商店を営んでいた故糸満盛邦さんが私財を投じて「やんばる船」三隻を購入。村船として寄贈し、那覇や名護に材木を卸した帰りに、生活用品を持ち帰る運送業としてスタートした。
 その後、区民が構成員として出資し運営。陸路の不便な奥の住民にとって生活用品を手に入れる場というだけでなく、住民が情報を交わす“ゆんたく”の場となった。また同共同店をきっかけに、県内各地に共同店方式が広がった。区民の努力と信頼の積み重ねがあって百年を迎えた。
 記念式典には、区民や郷友会員ら約六百人が参加。中南部の郷友会員がバスをチャーターして大勢駆けつけるなど、人口約二百人の小さな集落はにぎわいを見せた。午前中、旧共同店跡など関連する場所を区民や郷友会員たちが道ジュネー。共同店前では「共同店口説(くどぅち)」を歌い、喜んだ。宮城勝区長は「先人たちは厳しい環境の中、知恵と行動力で素晴らしい共同店を築いた。これからも共同一致の精神を受け継いでいく」とあいさつした。
 共同店主任で盛邦さんの親類に当たる糸満盛也さん(55)は、多くの参加者が集まったことに「共同店の求心力が健在だということを実感した」と感激。「過疎化で人口も減り、厳しい経営が続いている。しかし、新たな住民を呼び込んだり特産品を開発するなど、共同店の可能性はまだある」と新たな発展に期待を寄せた。

 <結の精神、次世代へ 奥共同店が創立100年>
    琉球新報 (2006/10/8)
 【国頭】ことし創立100周年を迎えた国頭村の奥共同店の記念式典と祝賀会が7日、奥区住民や郷友会など関係者約600人が参加して奥区集落センターで開かれ、激動の一世紀を乗り越えた“100歳”の節目を祝った。1906年に設立された県内最初の共同店で、山村集落の維持、発展を図るため、売店以外にも林産物の集荷販売や製茶業など戦前戦後を通して多彩な役割を担ってきた。式典では、地域住民が共に支え合う「共同一致」の精神を再確認するとともに、かつて都市部との交流が困難だった“陸の孤島”で英知を結集した先人をたたえ、新たな100年に向けて決意を新たにした。 
 式辞で第31代目の共同店主任を務める糸満盛也さんは「共同店を取り巻く状況は厳しく、衰退の一途と言っても過言ではない。陸の孤島の住民が知恵を絞り、誰も見たことがない共同店を引っ張り出した、そこにヒントがある。知恵を出し合い、存在の価値を再確認し、誇りをもって新しい可能性を探る。奥区の活性化がおのずと共同店の発展につながる」と述べ、新たな100年への第一歩と位置付けた。
 式典では、歴代主任に感謝状が贈呈されたほか、上原康作国頭村長らが祝辞を述べ、各世代代表が意見発表した。
 宮城昌一さん(89)は「歴史と伝統ある共同店を存続させ、区民の暮らしを支えることを願う」と住民の結束を訴えたほか、奥小学校の全児童13人は「病院があったらいいな」「このまま自然を残してほしい」「友達が増えたらいいな」とそれぞれの夢を披露。宮城吉邦さん(30)は「次の100年を見据え、区民一体となって共同店の繁栄と奥区の発展のために知恵を出し合い、行動するときだ」と強調した。
 式典には、父親が十代目主任で47年前にブラジルに移住した宮城滋さん(74)も出席。「8年ぶりの古里だが、昔を懐かしく思い出す。偉大な先人たちの一致和合の精神が連綿と受け継がれていることは素晴らしい」と目を細めた。
 勤務先の南大東島から駆け付けた宮城邦昌さん(58)は「受験のため、中学3年の夏に那覇に引っ越したが、共同店は遊びの場であり、いろいろな情報が集まる場所だった」と話した。式典に先立ち、道ジュネーも盛大に行われた。

 <奥共同店100周年− 「つながる」ことの大切さ>
       沖縄タイムス社説(2006年10月6日朝刊)
 四つの時代を不死鳥の如く
 国頭村奥区(人口約二百人)の「奥共同店」が創立百周年を迎え7日、記念式典と祝賀会が開かれる。
 日露戦争が終わった翌年の1906(明治39)年、地元で町屋(個人商店)を営んでいた糸満盛邦氏が私財を投じて「やんばる船」三隻を購入。村船として寄贈し那覇や名護に材木を卸し、帰りに生活用品を持ち帰る運送業からスタートした。
 以来、明治、大正、昭和、平成の四つの時代、百年を不死鳥の如く生き抜いてきた。
 住民が出資金を出し合って運営するのが共同店。日用雑貨を扱うほか、生産事業として製茶、精米、酒造、電灯事業も手掛けた。中でも茶の栽培、製造は県下一の産業に発展した。
 利益金は、人材育成のため奨学金や医療費の貸し出しなど福祉事業にも活用した。
 しかし、必ずしも順風満帆ではなかった。産業組合に衣替えした1916(大正5)年に負債を抱えて倒産。第二次大戦の戦災で解散に追い込まれるなど大きな挫折が二度あった。
 奥区民の合言葉は「共同一致」である。公民館の正面には、川崎白雲氏の書「共計在和」が掲げられている。
 共同店主任の糸満盛也さん(55)は「和合一致の理念で、いわゆる奥人魂だ」と説明。「先人たちは、沖縄のユイマールの精神に共同店という求心力を得て挫折を乗り越えてきた。店は今も求心力を失っていない」と、胸を張る。
 2003年12月、奥共同店をモデルにした住民出資の共同店が本土でも開設された。宮城県丸森町大張の大張物産センター「なんでもや」。
 人口約1100人、60歳以上が4割を占める大張地区は、近隣の町への大型店進出などで二つあった商店が相次いで閉店。特に車の運転ができない高齢者にとっては、日用品や食料品を確保するのが難しくなった。
 町商工会などが中心となって呼びかけ、300世帯のうち200世帯が2千円ずつ出資。地元の木材業者や賛同した町職員も1万〜10万円を出し、出資金は計約220万円になった。
 「心の癒やし」という利益
 空き店舗を改装して開設された「なんでもや」は1年目から黒字を記録した。今では「酒屋が地域に二軒あるので酒類は扱わないが、それ以外は惣菜から自動車まで何でもそろっています」と、店長の佐久間憲治さん(65)。
 「一番の効果は、地域住民の交流の場となり会話が復活したこと。一人ひとりの顔が見えるようになった。ここは品物だけでなく、人の心をつなぐ時間、空間、仲間の三間を売っています」と笑った。
 佐久間さんらが共同店に着手したのは、仙台市の民俗研究家・結城登美雄氏から奥の共同店の話を聞いたのがきっかけだった。
 奥共同店を調査した結城氏は「沖縄では衰退の一途をたどっているが、その発想を生かすチャンスは全国の地域にまだ残っている。売り買いを通じた共同体の中で『心の癒やし、拠りどころ』という利益を大切にしたい」と話した。
 今や、「なんでもや」は奥共同店と友好関係を結び、今年3月から奥の新茶も販売するようになった。
 奥共同店にも百周年を記念し、宮城県の新米が並ぶ予定だ。糸満主任は「それぞれの特産品交流のほかに、子どもたちを中心に人的交流もしたい」と構想が広がっている。
 地域の核としての役割担う
 奥を発祥地にした共同店は、宮古、八重山にも広がり、ピーク時には130軒を数えたともいわれる。商店としてだけでなく、情報交換、人材育成の支援など地域の核として重要な役割を果たしてきた。だが、道路網の整備や自家用車の普及、大型スーパー、コンビニの進出などで各地で姿を消し、50〜30軒に激減したとみられている。
 共同店は、集落の助け合いの精神「ユイマール」が形になったものと言える。ならば私たちは、足元の暮らしを見つめ直し、もう一度先人たちの思想と行動を振り返り、ユイ(結い)の原点に立ち返ってみるのもいい。
 今は、かつてのように隣近所や地域が連携し、知恵や労力を出し合わなくても暮らせるようになった。逆にいえば、連携しなくても「豊かさ」や「便利さ」が保てる世の中になっている。
 奥共同店百年の歴史は、地域や人が「つながる」という意味をあらためて教えているように思う。

 <奥共同店1世紀・「地域力」再生のモデルに>
      琉球新報社説 (2006/10/9 10:00)
 独特の互助精神で山村集落の暮らしを守り、コミュニケーションの拠点としての役割も担ってきた国頭村奥の共同店が創立100周年を迎えた。住民や郷友会員ら約600人が集まって7日、記念式典が催されたが、1世紀にわたり“ムラの遺産”を受け継いできた人々の誇らしげな表情に「地域力」再生の格好のモデルを見た思いがする。
 地域社会を形成する基本単位は集落である。集落が暮らしやすく活気に満ちていれば、健全な自治体が形作られるし、住民の結束度は地域力を測る物差しになる。
 その地域力の衰えが、全国的に指摘されて久しい。児童らを襲う残忍な事件の多発が顕著な例で、家庭と学校、地域が一体となった取り組みが叫ばれている。にもかかわらず、核となる地域力が衰えては再発防止もままならない。
 地域力の衰えはコミュニケーション能力の低下、欠如が大きな要因として挙げられよう。個々の生活への関与を煙たがる若者の風潮や、プライバシー保護が進む社会的な背景もあるが、人類が最も優秀な動物とされる一つには、助け合いとコミュニケーション能力を持ち合わせていることがある。この能力を損なって、健全な社会生活は営めない。
 国頭村奥の共同店は、住民らが共同出資して運営する共同店の県内第1号で、地域資産である材木の共同集出荷、船舶所有による海運流通業など多様な機能を担ってきた。小売店にとどまらず、区や各種団体への補助、住民への貸し付けなど生活全般にわたる互助組織として発展したのが特徴で、北部圏域に拡大して1980年代には100店舗を超えていたという。
 現在は約70店に減ったが、ここに来て、独特の仕組みが全国から注目されている。過疎に悩む宮城県丸森町の集落が奥の共同店を手本に「なんでも屋」を開設し、奥の新茶と丸森町の新米を届け合うという交流も企画された。
 都会の若者を中心に「共同売店ファンクラブ」も結成されたというから頼もしい。“陸の孤島”が生み出した知恵が、結いの心と地域力を取り戻してくれている。

 <奥の忘年会・共同店100周年記念誌(中村誠司)>
 この12月10日(日)、国頭村奥で区民+郷友会の忘年会があり、お誘いを受け夫婦で参加しました。豚2頭分(今年から「密殺」ダメ)で、食肉センターから購入。でも、三枚肉・赤身・中身、にくわえて昆布などを丁寧に100数十のパックに腑分けするのは女性たちの手馴れた技。忘年会の余興には、来年米寿を迎えるオバアが3人も楽しく踊っていました。その一人・比嘉俊子おばぁは<婦人会長>であり、奥のウシデークのリーダーで、私が取材いにいくといつも怖い顔をして叱られた。今回は、少し腰が曲がっていたが、顔は強気そのもだった。奥は、高齢者も、熟年も、中年も、とくに女性たちは元気だ。
 忘年会の前に2時間ほど「奥共同店100周年記念誌」の編集会議があった。私と沖縄大学の宮城能彦先生はサポーター参加。素案があり、郷友会の宮城悦生先生を中心に、後輩(後継者)の盛勝・力人さん、実行委員長の島田隆久さん、奥の先輩方と楽しく厳しい論議をした。奥は、「字議事録」「共同店議事録」(PC 入力済み)が記録され残る稀有な地域である。私たち外部の研究者=サポーターは、それを評価しつつ、結局その貴重な資料を活用する方法とマニュアルを作れという課題をもらった。それで、私たちはこれから約1年奥共同店研究に没入することになった。
 今日14日から名桜大学・公開講座(山原学シリーズ)で島袋正敏さんが「山原のくらしと文化−自然・家族・地域との関係をどう取り戻すか」をテーマに写真映像を使いつつ語ります(4回講座)。正敏さんの話・思想をじっくり聞いてみます。(2006年12月14日 中村誠司)

 <奥共同店100周年記念誌第2回編集会議・新年会(中村誠司)>
 …(略)… 
 1月13日(土)は那覇(奥郷友会)で「奥共同店100周年記念誌」の第2回編集会議と新年会がありました。私と沖縄大学の宮城能彦さんは外部サポーターです。これから毎月編集会議(研究会)です。私は奥人による「奥研究」の機会と過程にしたいと希望しますが、奥郷友会の当事者の立場があります。すき間時間をつくって1950年代初期からの「奥区議事録」と「奥共同店議事録」(すでに翻刻入力プリント済み)を読み込み整理する仕事をもらいました。地元主体の本格的な地域研究に関わるのは稀な機会です。
 そう、島田元区長の強い提案で、文人先生にも「記念誌」に一文を寄せていただきたい、とのことです。まだ先のことですが、構成・内容をかためるなかでお願いいたします。
 (2007年1月16日) 南の風第1778号所収
*島田元区長のご提案、まことに光栄!「奥」区にはいろんな想い出があります。私たちを励ましてくれたシマです。(ぶんじん) 


中村誠司さん(20040828、会津磐梯にて)



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