南の島(与那国・竹富島1998〜2008年)フィールドワーク:回想
―「南の風」記事(2020〜2021年、4209〜4230号)ー TOPページ
▼南西諸島・・・竹富島と台湾の間に与那国島・・・右上に九州
1,南の島フィールドワークの記録 *南の風4209号(2020/12/17)
<沖縄社会教育研究の歩み>
戦後沖縄の社会教育史、とくにアメリカ占領下沖縄の特異な社会教育の歩み、米占領当局(USCAR)の反共・宣撫工作的な文化政策の展開、それらを記録し、関連資料を収集・保存しようとして始まった私たちの「沖縄社会教育史研究」。1976年からの取り組みでした。振り返ると、沖縄へのフィールドワークの旅は、学生ゼミや市民を含む交流の訪沖まで加えると(1995年までに)延べ53回に及びました。
そして学会発表が12回、10本を数える論文・報告(共同執筆を含む)、そして、7冊の記録集「沖縄社会教育史料」シリーズ
→■、まとめの科研費報告『民衆と社会教育―戦後沖縄社会教育史研究』(小林・平良編、エイデル研究所、1986年)
など→■が公刊されています。
1990年代、東西冷戦構造終結とともに、東アジアにおいても中国・韓国そして台湾への旅が(円高もあり)回数を増し、沖縄研究は一段落する時期がありました。しかしこの間を含めて、沖縄へのフィールドワークは、本島だけでなく、奄美・宮古・八重山の島々にも及び、調査活動を通しての知己・友人との交流の輪が拡がりました。折に触れて東京学芸大学研究室へ沖縄からの訪問も多くなります。名護から豚一頭を焼いて持参された島袋正敏・稲嶺進(2010年に名護市長)等一行の来学など、忘れられない思い出です。那覇では「おきなわ社会教育研究会」の活動あり、間断を含みながら、今も続けられてきています。
アメリカ施政権下の社会教育史研究、というテーマにとどまらず、九州から台湾に連なる南西諸島の島々の社会教育研究は、ロマンにみちたフィールドワークへの期待を与えてくれました。最西端の与那国、南端の波照間島、あるいは祭りの多良間島、与論島など奄美の島々へも渡ろうという夢。当時、島尾敏雄による「琉球弧」の視点も刺激的でした。島々のそれぞれの歴史は、その島固有の風土と文化、そして社会教育の歩みをかたちづくってきたことにも確信をもちはじめていました。「琉球列島のすべての島に渡ろう」などと、酔って語り合ったこともあり。もちろんそれぞれに本務をもち、時間・経費の制約があり、かなわぬ夢と知りつつ、南に連なる島々への思いは果てしなく拡がるところがあったのです。
韓国訪問や上海閘北区・社区大学との「合作学院」構想(最終段階で実現せず)に追われていた1990年代。あらためて「沖縄研究の再開への思い」を綴り、「南の風」第1号を発信したのは1998年初頭でした。そしてその夏、国境・最西端の島、与那国島へへのフィールドワークに踏み出したのでした。同年7月25日から1週間の旅、小林と内田純一、山口真理子の3名、宮古・八重山そして与那国島へのフィールドワーク(第1回)が始まりました。(つづく)
2,与那国島フィールドワークへの道 南の風4210号(2020/12/21)
与那国への上陸レポートに入る前に、あと少し沖縄研究について、いくつかの回想をお許しください。東京「沖縄社会教育研究会」(1976〜1995)の閉会から「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(1995〜現在、略称
TOAFAEC)のスタートまで3カ月、さらに「南の風」創刊と与那国など「南の島」調査まで3カ年の月日を要しています。この間には、ぶんじんの東京学芸大学の定年退職、新しく教授の席を用意してくれた和光大学への異動があり、また同時に社会教育推全国協議会・委員長(1991〜1995)、続いて日本社会教育学会・会長(1995〜1997)の重責を担う歳月とも重なっていました。定年退職としてイメージされる“リタイヤ”どころではなく、新しい仕事に奔走する毎日が始まったのです。和光大学では「第二の青春」(和光大学最終講義、2002)と称せざるを得ない、半世紀も年齢が離れた若い学生たちと格闘する日々が続きました。それは和光大学退職時(2002年)まで続き、その年には再び日本公民館学会創立へという、新しい学会づくりに忙殺される時期と重なりました。
さらに遡って、沖縄研究の初期(1976年〜)の大事な出会いについても、与那国フィールドワーク以降に関係してきますから、少し書いておかなければなりませんが、それは別稿にゆずることにします。たとえば「久茂地文庫」喜納勝代、「地域の目」安里英子、「象」設計集団の大竹康市、名護やんばるの島袋正敏、宜野座村の長浜宗夫・城間盛春、そして追悼記事を書いたばかりの具志頭・上原文一はじめ「おきなわ社会教育研究会」諸氏との出会いと交流、は振り返って貴重な歳月でした。いろんなエピソードを忘れないように頭の隅にたたきこんで、別稿にまわし、歳月は1990年代に飛んで、与那国島フィールドワークの話に戻ることにします。
1991年11月、東京学芸大学研究室(当時)小林ゼミで初めて八重山諸島をまわる遊びの旅がありました。まず竹富島「種子取祭」へ。さらに西表島へ渡り、西海岸の祖納までまわった夜、もちろん与那国は見えず。その後に石垣島にもどり北端の平久保集落の皆さんと交流(のち同集落に「ぶんじん歌碑」が建立される旅)。約1週間後に那覇に戻った日がはからずも「ぶんじん60歳」の誕生日、一銀通り「あんつく」店で那覇の皆さんが還暦の祝いを開いて下さいました。この旅には台北からの留学生・許銘欣(公立小学校長)が参加した思い出。
忘れられない竹富島から平久保へのゼミ旅行、企画・連絡にあたっていただいたのは渡慶次賢康(もと沖縄県社会教育主事、当時は伊原間小中学校長)。そしてこの旅の中で与那国調査への相談は始まったのでした。与那国に渡る旅路は簡単ではない、風が少しでも強ければ飛行機(プロペラ機)は飛ばない、1回の渡海(どなん)に1週間を予定しておく、八重山諸島とはまた違う独自の島の風土・歴史・祭りがあり、近代史・日本の台湾統治下以降では、むしろ台湾との関係が大きく、加えて集落の共同体秩序をベースに島独自の祭事・芸能を色濃く残している、それと向き合う覚悟が必要などなど。その上で宮良純一郎(与那国教委教育課長・当時、のち石垣市中学校長)を紹介いただいたのでした。その後『東アジアの南向き玄関口・与那国島誌』(南山舎。2016年)を出版した人。得難い出会いとなりました。
3,与那国島の古層文化と公民館 南の風4216号(2021/01/16)
私たちの沖縄研究は、1970〜80年代に大きな作業(アメリカ占領下社会教育の実相・資料発掘)を終え、二つのまとめ
→『沖縄社会教育史料』全7集(1977〜1987)及び『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』(エイデル研究所、1988)公刊により一段落しました。その後、1990年代に入って、中国・韓国など東アジア研究の胎動と並行して、再び沖縄研究の再開を呼びかけ(「研究通信「南の風」創刊、1998年2月)、この時期に先島・与那国調査を開始、その後に竹富島調査への旅(2000年代〜)へと続いていきます。
与那国島フィールドワークを受けとめていただいた方は、前にも書いた宮良純一郎(与那国教委・教育課長)、竹富島調査では上勢頭芳徳(喜宝院蒐集館館長)等の各位。忘れられない人たちです。そして2010年からは、「やんばる対談」が始まり、島袋正敏さんはじめ名護の皆さんにお世話になってきたという経過です。
与那国調査はどんな経過であったのか。第1回の与那国島調査は1998年7月、内田純一(東京都立教育研究所、当時)と山口真理子(現
TOAFAEC事務局長)お二人が参加されました。記録をたどると、1999年3月(第2回)、本格的な三集落調査(祖納、比川、久部良)に入った同年7月(第3回)、さらに2000年1月(第4回)、2001年年1月(第5回)、という流れでした。鷲尾真由美さん(当時は石垣市在住)等が参加されたこともあり、和光大学ゼミ学生が突然に与那国に現れた思い出も印象深く残っています。1980年代までの沖縄調査団と違って、与那国調査は小林の個人研究のかたちで進められ、報告・記録がまとめられました。しかし残念ながら多くの課題を残し、書籍のかたちには結実しませんでした。
調査報告としては、(1)「与那国の歴史と社会教育 」(1998年)、(2) 「与那国の集落組織と公民館制度の定着過程」 (2002年)の2本、その年度の『東アジア社会教育研究』に掲載され、TOAFAECホームページにも収録されています。
→■ また与那国調査の経過のなかで、当時発行していた小林「公民館の風」(2001年)の中の「おきなわ短信」として、日本最西端の公民館、与那国の集落公民館組織、文庫活動、古層型の公民館、などのタイトルで、6本の与那国調査記録を書いています。お暇の折ご覧あれ。
→■
国境の島・与那国、戦後一時期は台湾との中継・密貿易基地として国際的な性格をもつ島でしたが、その後は公式定期航路が閉じられ、密貿易の取り締り強化もあって、むしろ(八重山の島々とおなじように)与那国独自の伝統的文化に深く彩られる側面が強くなり、与那国の公民館は集落「古層型」として定着してきたと言えましょう。この点は、関連して下掲「ぶんじん日誌」でも触れることにします。
(中略) ホームページ表紙の写真に、沖縄の「ユイマールでできた公民館」(読谷村大添区公民館)の写真について、新しい動きを書きましたが、回想として上述してきた与那国調査の記録(1998〜2001)との関連で言えば、集落の伝統的な文化、いわば地域の古層に呑み込まれるかたちで公民館制度が定着し機能している姿が印象的でした。「与那国島の公民館は、“しま”の古層に深く呑み込まれてしまっている。近代的制度の土着化の典型事例といってよかろう。中央公民館の年間行事の中核は“しま”の伝統的な祭祀(「願い」「まつり」など)行事であり、集落公民館機構の重要な一角には「司(カァブ)」(神女、のろ)が位置する。公民館の活動組織には、太鼓、三味線、組踊、棒、狂言、舞踊の各「座」があり、それぞれに「師匠」が配置されている。さて、このような古層型の公民館をどう評価すべきか?」「最近ようやく中央公民館の制度に対応して、この古層型公民館が自治公民館として分離される“改革”が進行している。しかし中央公民館は、高等弁務官資金(アメリカ民政府)でつくられたホール(1970年)と本土復帰時の設置条例があるだけで、職員もいなければ運営審議会も設置されていない、そんな状況である。」(小林発行「公民館の風」138号, 2001年2月7日 【おきなわ短信】(3)<日本最西端の公民館> ホームページ
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前号・読谷村大添区公民館の記録、また与那国島の報告からも、すでに20年が経過しています。その後はどんな展開なのか。コロナ禍でなければ、ぶらり再訪して旧友とも会いたいところです。
▼竹富島遠景、石垣島より(2007/07/14)
4,竹富島フィールドワーク (南の風4218号、2021/01/26)
与那国島への旅は、2本目の調査報告(「与那国の集落組織と公民館制度の定着」年報7号所収、2002年)を書いたあと、頓挫しました。せめてあと1本、数回のフィールドワークを重ねて、まとめレポートを加える予定でした。しかし現実は思う通りにはいかぬもの。やはり日本最西端・与那国島は遠いのです。調査経費の問題もありましたが、この年に和光大学を定年(70歳)退職となり、その後、妙に忙しくなりました。普通は逆に余裕ができ、自由な時間を楽しめるはずなのに。
一つは新しい公民館学会創設への取り組み。またその頃「辞典」づくりの作業も始まり、さらに期を同じくして中国本(上海・呉遵民と共編)と韓国本(黄宗建先生と共編)の執筆・編集が重なってきたのです。いずれも2004年から2006年には峠を越えましたが(「辞典」完成のみ10年もかかった)、与那国ははるか遠い島になってしまったのでした。
かねて念願の竹富島フィールドワークへの思い、与那国はあえて諦めて、竹富島へ通い始めることになりました。これが本格化するのは2006年。竹富島には前本多美子さん(学芸大学卒、竹富島在住)や上勢頭芳徳さん(喜宝院・蒐集館館長、竹富公民館主事・館長など歴任)ほか旧知の方々を介して調査が始まりました。なにしろ与那国と違って竹富島は石垣の港から目と鼻の先。竹富ならではの独自の資料・文献があり、しかも「竹富島憲章」制定(1986年)や、町並み保存(重要伝統的建造物群保存)地区指定(1987年)の新しい躍動的な動きがありました。東京では竹富島郷友会の活発な活動あり、一時は毎年の集いに参加させていただきました。この前後から、「やんばる」や那覇訪問のあとは、南に飛んで石垣・竹富島へ渡るようになったのです。
私たちの八重山研究そして先島への旅には忘れがたい恩人がありました。渡慶次賢康さん、残念ながら現在は病臥中。1980年代に初めてお会いしたときは、沖縄県教育委員会社会教育主事(八重山教育事務所)。その後、学校教員に転出され、竹富島の小中学校教頭時代に私たちのゼミは竹富島「種子取祭」を案内いただき、西表島から石垣島・平久保までまわる忘れがたい旅。平久保に「ぶんじん歌碑」建立のきっかけとなりました。1991年の秋、思い出つきず。そして2006年フィールドワークまでの15年間に何度も竹富島への旅があり、渡慶次先生のお世話になってきました。その積み重ねの上に、竹富島への新しいフイールドワークが始まっていくのです。
5,竹富島憲章と竹富公民館 (南の風4220号、2021/02/01)
竹富島のフィールドワークに本格的に集中したのは、2006年から2008年。この間ほぼ一人の旅でしたが、多くを学び実りの多い貴重な3年でした。記録をみて正確にしなければなりませんが、10回をこえる竹富島へのフィールドワーク。2007年を中心に折々の訪問・交流の記録はホームページに掲載しています。
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竹富島では、とくに上勢頭芳徳さん(喜宝院蒐集館館長)との忘れ難い出会いがあり、たいへんお世話になりました。この物語には、まず名護を拠点に編集した一冊『おきなわの社会教育―自治・文化地域・づくり』(小林・島袋共編、エイデル研究所、2002年刊)の出版がありました。2002年夏に名護で開かれた第42回社会教育研究全国集会(社全協・名護集会、第42回)に向けて編集したもの。出来立ての本をかかえて八重山へ宣伝・キャラバンに出向いた石垣市会場に上勢頭芳徳さんは来てくれたのでした。もちろん竹富島のことはまだ何一つ本には登場していません。
それからの濃密な付き合い。東京永福「風の部屋」にも何度か泊まっていただいき、重い議論もしました。とくに復帰後の本土資本による島の土地買い占め、その買戻しの苦しい道のり、「星のや竹富島」との協議のことなど。芳徳さんには『竹富島に何が可能か』という公民館への愛着にみちた好著があります。島の未来を担う公民館の主事、公民館「議会」のことなど書き、みずから公民館長もつとめた人です。竹富島独自の公民館の可能性と島の未来を祈り続けて、惜しくも2017年病没。私たちのホームページに「追悼ページ」に諸記録を載せ、冥福を祈っています。
→■ ぶんじんとの間では、2007年「竹富島憲章と竹富公民館」と題する上勢頭・小林の対談がまとめられています。(前本多美子さんによるテープ起こし)
→■(年報「東アジア社会教育研究」12号に掲載) ―続く―
▼竹富島・種子取祭(2018) 東京竹富郷友会も参加
6,竹富島フィールドワーク(その6) 「うつぐみ」の思想 (回想6 )
竹富島調査にあたってお世話になった「たきどぅんちゅ」(竹富人)に阿佐伊孫良さんのことが忘れられません。多くの思い出あり、いろいろと教えられた人。東京在勤中(銀座郵便局など)には、八重山文化研究会メンバーとして東京学芸大学の私たちの研究会に見えたこともありました。郷里の竹富島に帰られて(1982年)、島のリーダーとしてご活躍。歴史に詳しく、たとえば竹富島・公民館のことを尋ねると、即座に「昭和38年、部落会長を公民館長と称するようになった」など、答えが返ってきたものでした。それもそのはず、詳細な島の近代史年表(東京竹富郷友会発行『創立60周年記念誌・たけとみ』1985年)を作成した人でした。竹富町史編集委員会メンバーでもあり、上勢頭亨(とおる)翁(1910〜1984年)についての回想など興味深い記録となっています。(「竹富町史」第十巻、2005年刊)
上勢頭亨氏は喜宝院収集館を創設(1957年、芳徳さんの義父)、法政大学出版局より『竹富島誌』(歌謡・芸能編、民話・民俗編)2冊を刊行されました。2度とは出ない貴重書。外間守善先生(法政大学教授)が「跋」を書いておられます。その「古謡」冒頭3「しきた盆」の一節。「かいしくさ打組どぅまさりよる」(賢いことよ仲間ごころがすぐれている)が、シマ共同体としての竹富島の結集・協同を誓うキーワードとして語り継がれてきました。「うつぐみ」は共同体としての竹富島の理念・精神をあらわすシンボル語。芳徳さんと小林が「竹富島憲章」について対談した記録の冒頭写真、亨翁居宅の床の間の掛け軸に掲げられています。
竹富島についてはは、先島のなかでも毎年、もっとも多く通った島です。対談や調査報告「竹富島の集落組織と字公民館」(2008年)を書いたあと、できれば竹富島について1冊の本をまとめたいと願いながら通い続けたました。しかしその後は東アジア交流にエネルギーの多くをさき、また阿佐伊孫良・上勢頭芳徳の二人が亡くなられたこともあり、加えて亡妻の介護、そして自らの大手術と続き、竹富島へ通うこともできなくなりました。見果てぬ夢をかかえたまま、今日に至っているという次第です。
→http://www.bunjin-k.net/taketomironnbunn08.htm
▼後列左より上勢頭芳徳、阿佐伊孫良、前列左より狩俣恵一(沖縄国際大学)、小林、前本多美子などの皆さん(ヴィラたけとみ、20080225)
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