【沖縄訪問・交流記録(3)】
沖縄訪問・交流記録3(2009年〜2013日誌)

◆沖縄訪問・交流記録(2)→■

<目次>
1,2009年2月 那覇(沖縄青年団資料調査)名護(島袋正敏受賞祝い)
2,沖青協会長と『大里字誌』(2009年10月)
3,2010・名護市長選・稲嶺ススム当選(2010年1月)
4,名護の動きと「やんばる対談」(2010年6月)
5,沖縄研究フオーラム・第3サイクル(2010〜2011)
,やんばる対談
6,2011年・沖縄県平和記念資料館と「民衆と社会教育」(2011年3月19日)
7,八五の祝い−仲宗根悟さん(2011年3月31日)
8,黙々100年塾 蔓草庵・やんばるの風
(南の風2683号 2011年7月14日
9,2012・沖縄フィールドワーク (南の風2853号 2012年3月30日) 関連→沖縄研究フォーラム
10,2013・沖縄フィールドワーク・やんばる対談 関連・沖縄研究フォーラム
11,
力作いろいろ・沖縄のエネルギー (南の風3055号 2013年3月26日)
12,久茂地文庫       南の風3060号【2013年4月3日
13,沖縄デー・屈辱の日  南の風3074号【2013年4月27日
14,琉球民族独立・学会、41年目「復帰の日」に  南の風3088号【2013年5月18日
15,稲嶺ススムさん次期市長選に出馬     南の風3093号【2013年5月28日
16,沖縄から上京した名護ブタ・想い出話  南の風3096号【2013年6月2日

17,与那国島の動き        南の風3014号【2013年7月4日
18,


沖縄青年運動史研究・沖縄研究フォーラム・やんばる対談(2010〜2014〜)→■


東京竹富郷友会(第83回)総会・親睦会(東京、20080615)





1,2009年2月 那覇(沖縄青年団資料調査)・名護(島袋正敏受賞祝い)

★<名護の祝い> 南の風2164号【2009年2月6日】
 沖縄からの風を期待・・・と本欄に書いたところ(第2162号)、こだまが返ってくるように「名護の風」が吹いてきました。しかも島袋正敏さんの琉球新報活動賞(産業活動)受賞のニュース。比嘉ひとみさん朗報を有り難うございました。
 受賞の様子を聞いてみようと、早速、島福善弘さん(名護博物館長)に電話(5日夕)。なんと授賞式の会場(琉球新報ホール)でした。相次いで電話には稲嶺進さん(名護市前教育長)の声も。皆さん嬉しそう。
 琉球新報活動賞は今年で31回目。社会活動、教育活動、文化芸術と並んで産業活動賞。正敏さんの肩書きは「琉球在来豚アグー保存会会長」。受賞理由は「在来豚アグーの保存活動を行い、県立北部農林高校と連携し、沖縄を代表する肉豚としてのブランドを確立。山原島酒之会会長を務めるなど、地域に根差した活動を幅広く展開」となっています。なるほどなるほど。
 実は、山城千秋さん(熊本大学)たちの沖縄県青年団資料調査が予定されていて、それに合流するため那覇行きのスケジュールを決めたばかりでした(2月20日〜24日)。電話で21日(土)に名護のお祝いに参上することにしました。ピッタシの日程。どこかに出会いの神様がいるような…。昨年の夏、竹富島「西糖大祭」に出かけて以来の訪沖となります。久しぶりの皆さんとの再会が楽しみ。今回は(25日の研究会までに帰京する必要あり)竹富島に行く余裕がありません。お許しください。どなたか名護へご一緒できる方はいませんか?

★<沖縄青年運動史研究会> 南の風2170号【2009年2月20日】
 …やっと沖縄行きの日が来ました。さきほど(19日22:44)山城千秋さんからは「お待ちしています」メール。今日の沖縄は作業しながら汗ばむほど、「うりずん」のような陽気だそうです。山城さんのメール(上掲)には、あえて「沖縄青年運動史研究会」と紹介しておきました。ちょうど3年前、熊本で「沖縄青年運動史研究会をどうすすめるか」などの話しあいをしたのでした。HPご覧ください。
 久しぶりに沖縄調査ノートや資料の準備をして気づいたことは、昨年の7月(那覇・名護・竹富など)以来の沖縄、半年余りのご無沙汰です。だんだん足腰が弱くなってきたのでしょうか。
 今回は、沖縄青年運動史の資料整理が本格的に始まって、部分的にでも参加できることになり、ことさらに嬉しい旅です。

★<那覇・名護の夜> 南の風2171号【2009年2月22日】
 那覇から名護へ、そしてさきほど(2月22日午後)那覇へ戻ってきたところです。沖縄は夜などやや肌寒い感じ、それでも心は熱い人たちとの再会あり、新しい出会いもあり。
 沖縄県青年会館が所蔵していた貴重な青年団運動資料は雑然としたままでしたが、この間に進められた研究者グループ(山城千秋、圓入智仁、野依智子などの皆さん)共同の分類整理作業により、すべてダンボールに仕分けされていました。個々の資料について(パソコン入力による)データーベース化が開始されたところ。これからが楽しみ。安井家資料研究会の4年の作業も紹介しておきました。
 この日(20日)夕刻には、会館常務・沖青協OBの安谷屋幸勇さんと、たまたま出会った懐かしい高嶺朝勇さん(もと県社会教育主事、現在は南城市教育長)とともに熱い語らい。ことさらにビールは美味い。積年の課題・沖縄県青年団運動史をどうまとめていくかについて、これまでにない具体的な提案も。テープにとっておけばよかった。
 21日午後は、佐久本全さん(もと那覇市図書館長)の車に名城ふじ子さんと同乗、名護へ。まず「大国林道」に二人を案内していい気分、オーナー・山城秀夫さんと再会(秘蔵の古酒をいただく)、このときから寝るまで酔いは続きました。
 名護博物館の中庭で開かれた「おめでとう!正敏さん」の集いには、名護市広報「市民のひろば」“号外”も出ました。滋賀県愛荘町・渡部幹雄さんの祝電も披露されました。参加者すべての喜びの顔。当夜の感動はどなたかきっと「風」に紹介していただけるくでしょう。
 一夜明けて、宜野湾から出席していた玉那覇正幸さん(おきなわ社会教育研究会)の車で送っていただき(途中、浦添の元沖青協会長・田場盛順さん宅を急襲)、那覇に戻ったという次第。
 皆さん、有り難うございました。
前列・左より安谷屋幸勇、高嶺朝勇の両氏と青年団資料研究グループ(沖縄県青年会館、090220)


★<祝・島袋正敏さん 琉球新報・産業活動部門受賞> 【おきなわ短信】(456)・南の風2177号
   *名護市広報「市民の広場」2009 年2月21日 号外
  … 名護市からは、産業活動部門として、在来豚アグーの保存活動を行い、県立北部農林高校と連携し、沖縄を代表する肉豚としてのブランドを確立。また、山原島酒之会の会長を務めるなど、地域に根差した活動を幅広く展開したことが評価され、宮里区の島袋正敏氏(65)が栄誉ある琉球新報社・産業活動賞を受賞した。贈呈式には、島袋氏と交友のある友人や知人が貸し切りバスで駆けつけ、受賞を祝った。
 島袋氏は、名護博物館初代館長で1981年に沖縄の生活文化の急激な変化に危機感をもち、在来文化すべての保存に着手。沖縄全島からアグー18頭を引き取り理解のある農家に飼育を委託した。1985年には北部農林高校の故太田朝憲教諭と共同で原種に近いものをかけ合わせる「戻し交配」を行い、現在までアグー純系だけで約150頭、アグーを譲り受農場が西洋種と交配したブランド豚を合わせると千頭以上になる。「経済性だけを追求すると必ず駄目になる。在来の文化資源を評価し、活用を考えることが大切だ」。島袋正敏さんの挑戦はこれからも続く。

★<佐喜眞美術館と“ざわわ〜 さとうきび畑”> 南の風2172号【2009年2月24日】
 2月22日午後の那覇への帰路、玉那覇正幸さんと一緒に宜野湾「佐喜眞美術館」にも寄りました。1年ほど前、上海(華東師範大学)と韓国からの一行を案内した際、丸木位里・俊「沖縄戦の図」の前で、沖縄戦とは何であったのか、熱情的に話をしていただいたお礼を言いたかったのです。あいにく佐喜眞道夫さんは、信州上田「無言館」に出かけて留守。残念!
 あのときの佐喜眞館長の話、それを懸命に通訳した呉遵民さんの努力によって、日・中・韓の教育学者たちは「われらの心は一つ」「平和こそ教育の原点」と語り合って乾杯したのでした。
 想い出したこと一つ。いま手元にありませんが、寺島尚彦(「ざわわーさとうきびの畑」作詞・作曲)を偲ぶ追悼本(たしか琉球新報社刊)のなかで、佐喜眞美術館が印象深く登場してくる場面があります。大作「沖縄戦の図」前の空間で、寺島ファミリーコンサートが行われました。沖縄側からは、「月桃」を作詞作曲した海勢頭豊がゲスト。この二つの歌は、ともに沖縄の野と花をテーマとする平和希求の名歌。「ざわわ」の歌を寺島尚彦(父)自らピアノで伴奏し、声楽家の娘さんが熱唱。歌い終えてしばしの間があり、すすり泣きのなかで、満場が拍手と涙に包まれたということでした。
 たしか2001年秋のこと。あの9・11事件直後の騒然たる時代。このことを妙に憶えているのは、「ざわわ」の感動的なファミリーコンサートと海勢頭豊「月桃」のジョイントを伝え聞き、その次の週、和光大学プロゼミの時間に、♪ざわわ〜ざわわ〜♪ と歌ったことがあるからです。先月、久しぶりに会った旧ゼミ生から「あの日、先生は突然♪ざわわ♪を歌いましたね・・・」と憶えていてくれました。

★<琥珀色の古酒> 南の風2174号【2009年2月28日】
 久しぶりの名護訪問(2月21〜22日)の余韻が残っています。
 「大国林道」の山城秀夫さんより、秘蔵の古酒をカメから汲んで、小瓶にして頂きました。当夜(21日)の二次会の席上のこと。同席の皆さんは「山原島酒之会」メンバーが多く、みな垂涎の表情。思わず瓶の栓を開けようとしたところ、誰かが「そのまま、そのまま!」と制してくれたので助かった。直ちにバッグの奥にしまいこんで、パソコンより大事とばかり抱きかかえるようにして、無事に東京に持ち帰ることができました。秀夫さん、有り難う!
 夜も更けて、一人になると、琥珀色の古酒を小さな杯(古我地焼、昨年7月、韓国の山にねむる黄宗建先生に献杯した記念の品)に移し、口に含むのです。決してゴクンとは呑まない、しずかに拡がるシマザケの刺激と香り。黄先生とともに杯をかわしている気分。静かに酔いがまわってくる。微醺のまま、そのままゆっくりと眠りにつくのです。「美酒少量」とはまさにこのこと。
 当方の永福“風の部屋”にも「島酒之会」メンバーとして、三つの古酒カメが鎮座しています。すでに15年のクースーとなりました。先日の新年会、夜の二次会ですこし汲み出し、同席の諸氏と楽しみましたが、今回いただいた「琥珀色」というわけにはいきません。その上、きちんと「仕次ぎ」する機会がなく、3本のカメ相互の関係がやや混乱気味です。加えて、ある人が別に送ってくれた同じ5升カメ(ただし銘柄は異なる)が並んでいて、そのうち「仕次ぎ」をかねて、カメ・ビンの整理をする機会をうかがっています。
 しかし・・・最近は、TOAFAEC 事務局も安いワインに流れて、本格的に美酒・古酒を味わう構えが弱くなってきたようです。
左より島福義弘(名護博物館長)、島袋正敏、小林、山城秀夫(大国林道オーナー)の皆さん、 博物館中庭 090221


★<「父の生涯」> 南の風2176号【2009年3月3日】
 先日の沖縄滞在中に、「佐喜眞美術館と“ざわわ”」について、本欄で書きました(風2172号)。東京に帰ってすぐに『ざわわ さとうきび畑』(琉球新報社、2007年刊)を確かめました。記憶だけで書いたので、気になっていたのです。
 ほぼ間違いはありませんでした。ヤレヤレの思い。寺島ファミリーコンサートについての記述もまずまず…。まぁ、せっかく本を開いたのだから、少し補足させて頂きます。
 「…寺島尚彦(父)自らピアノで伴奏し、声楽家の娘さんが熱唱」と書きましたが、この娘さんとは、次女の「寺島夕紗子」さんのことでした。夕紗子さんは、本の最終章に「父の生涯」について、約60ページにわたる思い出、追想を書いています。これが実に秀逸なのです。
 父の生い立ち、戦争の時代、音楽への道、沖縄との出会い、多彩な音楽活動、「さとうきび畑」の歳月、涙に海の味がする(小見出し)など、思いのこもった回想が読む人の心にひびいてきます。娘は「あちこち足を運んで・・・」聞き書きをし、父の生涯をたどったのです。上質で情感にあふれる追悼、このような娘をもった父の幸せを思いました。
 この本には佐喜眞道夫さん(美術館長)の一文も収録されていました。2001年の寺島ファミリーコンサートのあと、2004年にも沖縄出身の声楽家・翁長剛さんが、丸木夫妻「沖縄戦の図」の前で「さとうきび畑」を歌ったそうです。「…沖縄戦の体験を心の奥にしまいこんでいる歌手と、聴衆の心が“さとうきび畑”の曲を介して共鳴しあったとき、翁長さんは感極まり、一瞬歌えなくなってしまった。会場にひろがった共感はまさに沖縄の“この悲しみは消えない…”一瞬だった。」(102頁)と。



2,沖青協会長と『大里字誌』
       <大作『大里字誌』> *南の風2317号 2009年10月28日 ぶんじん
 今回の沖縄訪問(沖縄県青年団運動史資料調査)の初日、生きのよい若者が元気よく「初めまして!」と挨拶してくれました。差し出された名刺には「沖縄県青年団協議会・第58代会長」、玉城徳智さん。その夜(10月20日)、一緒に楽しく飲み(HPに写真)、翌日の戦後初期沖縄年団運動女性リーダーの証言聞き取り作業(風2314号・本欄)にも参加してくれました。お疲れさま。
 玉城さんは、糸満市大里の出身。そして当日、見事な『大里字誌』を持参してくれたのです。驚きました。並の本ではない、集落共同体の思いのこもった出版。大作とはまさにこのこと。B5版、1048頁、衣張り美装本、堅いケース入り、2009年9月の刊行、出来たてのほやほや。重い、重い1冊をいま開いています。圧倒される思いです。
 「大里」とは由緒ある地名。琉球王朝成立前の三山時代、南山王統は大里按司から始まり、尚巴志に滅ばされる(1429年)までの南山城は、現在の糸満市字大里(桃原)なのです。それだけに、小さな集落史なのに、これほど歴史にこだわった字誌はないのではないかと思うほど。
 「2002年12月に公民館主導で字誌編集委員会が再発足」(編集後記)して7年越しの取り組み、頭が下がります。拍手! あらためて大里の皆様に字誌発行のお祝いと御礼を申しあげます。



3,名護市長選・稲嶺ススム当選(2010年1月)

(1)市長選へカンパ(南の風2361号 2010年1月12日)
 … 旧12月の忘年会で呼びかけた名護市長選候補(予定者)稲嶺ススムさんへの支援カンパ活動は新年会でも継続する予定でした。しかし会が盛り上がるうちに、カンパ・アピールする機会を逸し、当日は何も進展なし。これは新年会の反省点。
 山口真理子さんの集約によれば、前日(9日)までの皆さんからのカンパは、14名(アーデル、伊藤長和、福岡・社会教育研究会、徳永功、内田純一、山口真理子など各氏を含む)の方々から、合計8万7千円が寄せられました。ご芳志ありがとうございました。
 名護では今日(12日)稲嶺ススム候補予定者支援の総決起集会。今から名護へ移動して、私たち社会教育関係者・有志の応援の気持ちをお渡ししてくる予定です。市長選挙の公示は17日、投開票日は24日、これからが本番。引き続きの、檄文・寄せ書き・カンパなど、どうぞよろしくお願いします。

(2) 名護の1日(南の風2362号 2010年1月14日)
 まずご報告。1月12日・稲嶺ススムさん(名護市長選予定候補者)総決起大会の前に、後援会事務所でススムさんにお会いし、皆さんからおあずかりしてきたカンパをお渡ししました。金額は少ないけれど、私たちの熱い思い、ススムさんへの大きな期待、頑張っていただきたい!と。
 後援会事務所の雰囲気は、とくに女性の方々のパワーが満ちあふれている印象。岸本能子さん(前市長・故岸本建男氏の妻)にもお会いしました。当日の総決起大会の終盤には壇上に立ち、感動的な挨拶とともにガンバロウ三唱の音頭をとられた方(上掲・沖縄タイムス等記事)。
 当日の会場(21世紀の森屋内運動場)は人、人、人であふれました。中央に600席程の椅子、おじぃおばぁが座り、ぶんじんも(名護市民でもないのに)その中に入れていただきました。まわりを立ち見の人たち、「稲嶺ススム」の旗・のぼりがかこみ、最終的には3千名を超える参加者だったそうです。当日の名護はとくに冷気厳しい1日でしたが、会場内はまさに熱気ムンムン!
 普天間移設・辺野古問題・名護市長選挙については、いま、琉球新報(「呪縛の行方−普天間移設と鳩山政権」「争点・辺野古移設−1・24名護市長選」等)、沖縄タイムス(「国策に揺れて−名護市長選を前に」等)ともに、シリーズで取り上げていて読み応えあり。当夜の「過去13年間、市民を二分した普天間問題を終わりにしたい」という稲嶺進さんの挨拶の意味を改めて実感しました。1997年(海上ヘリ基地反対の市民投票)以降の、名護のまちの重い歳月。
 大会の前に、名護市史編さん室を訪ねて鳥山淳さんと久しぶりの再会。大会が終わって、大国林道・山城秀夫さんたちと杯をかわし、次回1月24日・市長選投開票日のお祝いの乾杯を約してホテルへ。ながい1日が終わりました。
ススム応援・総決起集会(100124)


(3) 名護市長選の実像(南の風236号 2010年1月14日)
 那覇・名護から15日午後に帰京しました。沖縄滞在中、琉球新報・沖縄タイムス二紙の普天間移設・名護市長選をめぐる一連の報道記事を読みあさりました。東京で両紙のサイト版は丹念に追っかけているつもり、また新報については山口真理子さんから切り抜きサポートを受けているのに、やはり実物の紙をめくっていくと、未見の記事がいろいろ。私たちが沖縄研究をスタートさせた頃(1970年代)、故牧瀬恒二さんが発行する『沖縄事情』(主として沖縄タイムス記事を積極的に紹介)の刺激がいまなお強く残っているようです。
 留守中にたまった郵便物・雑誌のなかで、『週間金曜日』(1月15日号)が、小沢一郎研究とともに、改めて普天間・辺野古を問う(伊波洋一、桜井国俊、川満信一)諸報告を載せていて目をひきました。あわせて浦島悦子さん(フリーライター)の、名護市長選「巻き返しを図る島袋陣営」レポート(金曜アンテナ欄)も興味深い。
 現職・島袋陣営のなりふり構わぬ巻き返し。その采配を振るっているのは、1997年・市民投票の民意とは逆に基地受け入れを表明・辞任した比嘉鉄也氏、その後も「陰の市長」。島袋陣営の各種集会の参加者数は、稲嶺陣営を上回っているが、そのほとんどは企業動員。締め付けは厳しく、稲嶺を支持する企業は入札からはずす、などの脅かしも。
 「…この12年間で補助金漬けになった久志十三区の全区長が島袋支持に名を連ね、一般住民とのねじれが顕著だ。区民を顧みない独裁区長に怒る区民は、区の刷新も兼ねて市長選に取り組もうと燃えている」(浦島レポート)とのこと。

(4) 名護市長選は激戦(南の風2365号 2010年1月20日)
 …ところで、朝日・沖縄タイムス等が伝える名護市民世論調査によれば、17日公示の名護市長選挙は激戦の様相(上掲記事)。皆さん、あと一度、知人友人を頼って、名護「稲嶺ススム」さんへの支持をお願いして下さい。開票当日(24日)は、何としても名護に行きたいと考えています。
 ところが、福岡で開催される臼杵市長・中野五郎さん、九州大学・岡幸江さん、お二人を囲む会(上掲)と日程重複。時間調整の上、やっとギリギリの時間に那覇空港にたどりつけそうです。山城千秋さんが沖縄県青年団協議会長とともに車を用意して迎えていただくとのこと。名護まで1時間半とみて、開票発表に間に合います。有り難うございます。東京からは山口真理子さんが那覇空港で合流予定です。当日、もし名護行きを考えている方があれば、ご一緒しましょう。ご連絡下さい。…

(5)忘れられぬ1日(南の風2369号 2010年1月25日)
 2010年1月24日は、歴史的な日となりました。一つは、福岡市での「臼杵市長・中野氏と九州大学・岡氏を励ます会」。お二人のお祝いだけでなく、この15〜20年来ご無沙汰続きの面々、たとえば長崎の猪山勝利さんとの再会を含めて、世代をこえて思わぬ出会いのひとときでした。皆さんと別れを惜しんで、沖縄へ。
 名護市長選の開票日。福岡から那覇空港への到着便が少し遅れたこともあって、名護へ向かう車の中で、ラジオはすでに「稲嶺ススム当確!」を伝えていました。まだ投票締め切り前の時間だというのに・・・あるテレビ局の出口調査によるらしい。ススム選挙事務所にはぞくぞくと支持者が集まり始めているとのこと。
 私たちも、遅れてはならじと夕食もとらずに駆けつけました。事務所前の広場には大きなテントが張られ、すでに人がぎっしり。喜納昌吉さんはじめ国会議員も前列に勢揃い。ススムさん登場をまつ間の、人々の湧き出る喜びをおさえたような表情が印象的。「13年間、負け続けてきた、今日やっと勝利!」、「辺野古に基地は造らせない!」などの声。
 普段は「万歳三唱」はあまり好きではありません。しかしこの日は別、何度も一緒に手を挙げました。25日の新聞各誌が報じている「万歳!」写真の後ろの方に、私たちもいました。
 福岡でお預かりした岡幸江さん、石井山竜平さんからのカンパ。ありがとうございました。山口真理子さんのところに集まっている他のカンパと一緒に、稲嶺ススムさんにお渡ししました。
 渡部幹雄さんからいただいた自然薯(上掲)は、“粘り強く!”のメッセージとともに、沖縄青年団協議会長(当夜、運転していただいた)にお裾分け。
稲嶺ススム当選の弁(名護・選対事務所、20100124)


(6) 酔いをさまして…(南の風2370号 2010年1月26日)
 名護市長選についてのニュース、お祝いメールが相次ぎ、「風」の発行も連日となりました。今や「日刊・南の風」?の様相。ご了解を。… いま那覇に滞在しています。昨夜は、おきなわ社会教育研究会の方々と、名護・稲嶺進さんの快挙を祝って乾杯。思い出話いろいろ、つきるところがありませんでした。ホテルに帰って、社会教育推進全国協議会(社全協)通信に“超速報”「稲嶺進さん・当選!」を書きました。上田幸夫さん(社全協委員長)の要請によるもの。短文ですが、酔いが残っていてうまく書けない。あらためて那覇の街へ夜の散歩。ひと歩きし酔いをさまして、なんとか作業終了。→ススム当選速報■
 稲嶺進さんは社全協・会員なのです。1982年・富士見市で開かれた全国集会に参加して以来、すでに30年近くの歳月。私たちの沖縄社会教育研究会そしてTOAFAEC との交流も続いてきました。
 速報の最後に書いたことですが、稲嶺ススム支援カンパを寄せて下さった皆様、「応援する会」代表として、改めて厚く御礼申しあげます。

(7) 名護から−南の風の応援に感謝! (南の風2380号 2010年2月10日)
           島袋正敏(Wed, 10 Feb 2010 11:11)名護市(元博物館長)、稲嶺ススム選対事務局
 稲嶺進の応援に何度も名護まで足を運んでいただきありがとうございました。2ヶ月分の「南の風」を今朝開いているところです。先生の進への応援記事、全国から激励とカンパなど感謝です。
 思えば昨年2月末から約11ヶ月間の選挙戦でした。3月10日出馬表明前後の各団体、個人との調整も難航の中、9月の事務所開き以降は早朝から深夜まで、多くの市民が手弁当で連日応援に駆けつけてくれました。進が生まれ育った二見以北の方々の熱狂的な支援、そして現在住んでいる大北区民は連日の街宣車の運転や街宣アナウンス、各地から食事などの賄い、野菜やシークヮーサー、豚肉などの差し入れ、手づくり立て看板、全国からのカンパ。地盤も看板もカバンもない進にとって、我が事のように支援していただいた気持ちに感動の連続でした。
 寒中80歳を越えるオジーが、連日自転車でビラを配布してくれたこと、勝手にビラを作って配布する人・グループなどなど凄まじいものでした。多くのボランティアに支えられて当選を果たすことが出来ました。
 8日(月)朝9時就任式には、何百名の市職員が整列している前に大勢の支援者が詰めかけ、進の一言一言に大歓声と指笛が響きました。前代未聞の就任式の様相でした。当選を果たして無事に引き渡して安堵しております。
 しかし、基地問題はもとより、山積した諸課題に取り組まなければなりません。この4年間に染み付いた利権がらみの古い体質を改善し、市民事務局である役所職員が明るさとやる気を取り戻し、進が「基地問題で知られたまちではなく、まちづくり日本一の名護市を全国に知らしめたい」というように、これからホンモノのまちづくりがはじまります。
 まだ戦いの余韻とあとの処理などが残っておりますが、多くの方々から「ありがとう」と逆に言われ、涙、涙が続いています。小林文人先生、山口真理子さん、山城千秋さん、そして多くの南の風からの応援団に心から感謝します。ありがとうございました。(島袋正敏)




4,名護の動きと「やんばる対談」(2010年6月)

(1) 屈辱の日
(南の風2444号 2010年5月29日)
 5月28日、「辺野古移設」の日米共同声明が出された日、沖縄は激しく雨が降っていました。ちょうど那覇空港に着いた頃、那覇では日米合意を糾弾する県民集会(県庁近くの県民広場)が、名護では緊急市民集会(市役所中庭)が開かれていました。街角には琉球新報の号外「辺野古移設を日米発表」の大見出し。
 投宿したホテルの部屋に入ってテレビをつけると、稲嶺進・名護市長が雨に打たれながら、怒りに紅潮した顔で激しく訴えていました。
 「今日、私たちは屈辱の日を迎えた。… 私たちの心は怒りの頂点だ。沖縄はまたしても切り捨てられた。(日米の)発表は、地元への説明もなく、市民県民の民意をないがしろにし、地元の頭越しに行われている。許されるものではない」と。
 この日、早くも沖縄防衛局は米軍普天間基地の辺野古移設を明記した日米共同声明を持参して名護市等へ説明に訪れたそうです。稲嶺市長らは「まだ閣議決定されていない中で伝えらるのは手順がおかしい」として拒否(琉球新報、29日記事)。辺野古、久志、豊原のいわゆる久志三区、隣の宜野座村にも説明に。
 この日の深夜番組「朝まで生テレビ−激論・鳩山政権」では9月12日予定の名護市議選挙に向けて、すでに切り崩しの動きが始まっていることが話題になっていました。舞台裏にいろんな動きが始まっている模様。
 ところで、南の八重山からは、松田良孝さん(八重山毎日新聞記者)の新しい本が出たニュース(上掲)。松田記者は、与那国戦後史についても貴重な連載の仕事があり、また2003年10月の石垣・平久保「ぶんじん歌碑」建立を報じてくれた人でもあります。

(2)
「やんばる対談」、やんばるのホタル
 (南の風2445号 2010年6月1日)
 沖縄はいま梅雨。ときに激しく降り、たまに陽がさす、不安定な空模様。さきほど名護から那覇のホテルに帰ってきたところです。
 30日・名護では「やんばる対談」(県立青年の家)の第一弾。主として島袋正敏さんに話を聞くかたちで進められました。ご参加の山城千秋さん(進行)、山口真理子さん、お疲れさまでした。1970年・名護市の誕生から40年。70年代の基本構想「自立」「逆格差」論、80年代の住民運動、90年代後半からの普天間−辺野古問題、今年の稲嶺進・市長選等を含めて、貴重なお話。「東アジア」第15号に向けて、うまくまとまるかどうか。
 終わって、名護城(なんぐすく)の山を下り、東海岸・底仁屋旧小学校前・正敏さんの遊び小屋(手作り建築中)敷地へ。やんばるのホタルを見るためです。日が暮れてくると、松の老木(御神松)に巣をつくっているらしいコノハズク、近くの森からはアカショウビンなどの鳴き声、せせらぎの蛙の合唱にも包まれて、ちらほらとホタルがまたたき始める。心洗われる夜を楽しみました。
 沖縄の童謡「じんじん」(蛍)を口ずさみ、仲宗根政善先生歌集「蚊帳のホタル」を想い出していました。やんばるの自然のなかに当たり前のようにとびかうホタル。そのすぐ近くに日米合意で巨大な軍事基地を造ろうとする政治の醜悪さ、怖さ。
 大国林道の山城秀夫さんたちも合流。(3月に引き続く)日曜休みの店を特別に開いてもらって夜遅くまでの島酒懇談。お世話になりました。
やんばる・底仁屋・正敏さんの小屋づくりの庭で(100530)


(3)名護の動き−分断・切り崩しの策動 (南の風2450号 2010年6月10日)
 名護の新市長・稲嶺進さん、その後は毅然とした姿勢で「基地ノー」を主張し続けている経過はご存知の通り。市民に支えられている自信と誇りに充ちた表情からは、揺るぎない名護市政の姿が浮かんできます。ところが、市長をとりまく現実の状況は、予断を許さない陰湿な策動が渦のように動いているようです。
 もともと市長選そのものが相手候補(前市長)のなりふり構わぬ戦術(聞くだけで不愉快!)との闘い。それだけに票差以上の“快勝”感を味わいました。しかしその後、水面下では稲嶺進市長の包囲作戦、ドロドロとした裏工作、市議の分断作戦等が複雑に進行中。
 基地移設容認派の前名護市長と市経済界の有力者が前原誠司沖縄担当相と都内で会談、新たな地域振興策等について意見交換した(琉球新報5月21日記事)とか、外交評論家・岡本行夫氏(元首相補佐官)と地元容認派・有力者との名護市内での密会など(週刊金曜日・5月28日号)。
 名護市議の切り崩しも始まっているようです。議長は辺野古出身の移設容認派、残り市議定数26人のうち、すでに野党(容認派)が優位となった模様。10日に開会した名護市議会には野党により「辺野古移設の条件付き容認」決議の強行採決が目論まれていると伝えられ、議会傍聴に多数の市民が詰めかけたそうです。移設容認派が巻き返しをはかり稲嶺進市長をリコールで辞めさせようとする耳を疑う情報もあり、これらの跳梁ぶり、驚くばかりです。
 名護市議会選挙は、9月12日に改選を迎えます。これが一つの山場になりましょう。名護市民相互の苦しい分断の歳月がまた新しく始まる。

(4)戦後沖縄・青年団運動の証言 (南の風2464号 2010年7月4日)
 私たちの「東アジア社会教育研究」(TOAFAEC 年報)には、毎号に貴重な“証言”を収録しています。沖縄の日本復帰運動、竹富島の住民憲章、青年団運動などについて、当事者から生(なま)の事実を聞き書きする、その細部を含めて記録していく。「東アジア」の前身「沖縄社会教育史料」(東京学芸大学・社会教育研究室発行)から受け継いできた手法です。学会や大学の研究紀要、諸教育雑誌などでは、出来そうで出来ない作業。“証言”は歳月が経てば経つほど、その価値がくっきりと見えてくるのです。
 戦後沖縄の青年団運動についての証言は、今年の「東アジア社会教育研究」15集で、第8回となります。昨年の秋に聞き書きした戦後初期の女性リーダーたち(84〜79才)の体験と活動の証言を、山城千秋さんがテープ起こし、解説や注記を付して原稿化。この一両日、その校正作業をしています。お話を聞いたときには気づかなかった証言の価値と迫力。読みながら、圧倒されて、昨夜は眠ることが出来ないほど。たとえば、
 「 … 戦後の青年団では、遺骨収集をしていました。方言でカマジイってご存知ですか、袋です。これを一つずつ渡されて・・・遺骨を見て、当時は涙も何も出ません。今は、骸骨を見せられたら、“アキサミヨー、恐い”ってするんですけど、あの時はカマジイを開けて、そこに遺骨の足から入れて、たくさん積めて、一番上に骨のチブル、頭ですよ、それをたくさん重ねて、袋の紐をもって、もう睨みつけるようにして、一歩一歩、南部をを歩いてきました。…」(伊狩典子さん、1951〜53年・沖縄青年連合会・副会長)の証言・一部抜粋。




5,沖縄研究フオーラム・第3サイクル(2010〜2011)→

  2011年「やんばる対談」


2月11日午後、この日やんばるは冷たい風雨。焚き火が用意され、島袋正敏さん(右)は猪肉を焼いた。
 山羊の刺身も。8人の楽しい語らい。やんばる対談Aは始まった。 (名護・底仁屋、20110211)


6,沖縄県平和祈念資料館−『民衆と社会教育』  南の風2615号【2011年3月19日
 …(略)…
 本欄は17日「やんばる対談A−本番編」→をご報告するつもりでしたが、次号にまわして、昨18日夜に那覇で開かれた「おきなわ社会教育研究会」のことを先に書いておきます。上田幸夫さんへの報告があるからです。
 風2609号(3月13日)の『民衆と社会教育』を求める記事(永山清さん・沖縄県平和祈念資料館)に応えて、上田さんお手持ちの1冊を提供できるとのメール(風2612号・3月16日)。永山さんに連絡して当日の研究会にお出で頂きました。平和祈念資料館としては、沖縄戦との関連だけでなく、戦後のアメリカ占領下の動きや平和に関わるテーマについて積極的な資料収集や展示活動をしていきたいこと、具体的には、10月企画として「琉米文化会館」などのUSCAR 文化政策をを取り上げるような話でした。こんご研究会にも参加していただける様子。
 上田さんへのお願い:『民衆と社会教育』の送付先:〒901-0333 糸満市字摩文仁614−1 沖縄県平和資料館(主査)永山清氏あて。
 送料負担のこともあり、稀少本の相互恵送については、細かな経過は別にして、刊行当時の原価を送金する原則にしていますので、申し添えます。ご本人も了承済みです。ご協力、重ねて御礼申しあげます。

7,八五の祝い・仲宗根悟さん  南の風2624号【2011年3月31日
 3月28日“ゆんたく”の会に参加予定であったカイロ大学・アーデルさんの来日は1日遅れ(エジプト航空が飛ばなかったそうです)、29日夜に我が家に現れ、“風の部屋”に泊まっていきました。よくぞ、放射能の色にそまりはじめた日本に戻ってきたものだ。
 当夜、ご参加の方々には紹介しましたが、4月以降の沖縄関連スケジュールについて。(書き忘れ)
 一つは、「仲宗根悟氏・八五歳の慶寿を祝う会」の案内。仲宗根さんは戦後初期の沖縄県青年団運動を担い(沖青協事務局長など)、1966年から1975年までは沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を中心的に支えてきた方(同事務局長)です。この間の経過は、「東アジア社会教育研究」年報12号(2007年)に証言として収録されています。
 沖縄では「八五歳」を祝う慣わしがあり、おきなわ社会教育研究会の玉那覇正幸さん(宜野湾)から、数枚の案内状を託されていました。小生が沖縄から帰ったのが23日、その後は皆さんに会う機会なく、お伝えできないまま失礼していました。「慶寿の会」日程は、4月2日夜、沖縄市桃原(ソワ)にて。小生は出席することができず、申しわけありません。戦後沖縄史の生き証人。これまでの労多き足跡を思い、これからもまたお元気にご活躍されることを祈念しています。玉那覇さん、発起人など関係の皆様によろしくお伝えください。
 あと一つは、やんばる・島袋正敏さん「はたけ」の小屋(古酒蔵、ものづくり塾)の完成祝い。7月2日(土)午後・夜の予定だそうです。参加者の会費は、43度以上の島酒1本。大きなカメを用意して、参会者持参の島酒をみんなで注ぎ込む予定とか。この日程は3ヶ月後です、関心ある方は今からご予定ください。ご一緒いたしましょう。

8,黙々100年塾 蔓草庵・やんばるの風  南の風2683号【2011年7月14日
 島袋正敏さん「黙々100年塾 蔓草庵」オープンのお祝い会(7月2日午後〜夜)は盛大な集いとなりました。東京で100名を超える会を開くとなると会場確保から集いの運営まで簡単ではありませんが、さすが!やんばるの大地。猪と山羊の数頭がわれわれをもてなし、張られたテントの下で自由な語らい、いつのまにか陽が落ちて、やんばるの夜風が酔いをさましてくれる、さんざめきに蛍も遠慮したような、そんな1日。
 名護だけでなく、各地から古酒1升(会費)をさげての参会者。1石カメにそれぞれ自分で注ぎ込む趣向。毎年、7月第1週にこの催しを重ねていくそうです。名護とは30年を越すお付き合い、旧知の人も少なからず、この日の新しい出会いもありました。「やんばる島酒の会」や文化団体「みんたまぁ」、写真家、新報記者、大学や自治体関係者などにまじって、県議会・副議長や名護市議会の議長さんもいて、会も終わりを迎える頃には、稲嶺進・名護市長も現れ、久しぶりに乾杯しました。
 名護では2002年に第42回社会教育研究全国集会が開かれたことはご存知の通り。この集会で結ばれたカップル(名護人と福島大学学生・当時)が、一粒種を抱いていました。嬉しい再会。岸本(旧姓・たしか鈴木)久美子さんは、浅野ゼミの卒業生か。この4月から名護市教育委員会で社会教育の仕事に就いたそうです。
 名護の街に帰ったあと「大国林道」へ。皆さんに歓迎していただき有り難うございました。正敏さんご一家、終日お疲れさまでした。
蔓草庵ハタケにて
 左より小橋川共男、小林、島袋正敏、中村誠司、比嘉豊光の皆さん(名護・底仁屋・御神松下、20080706)





9,2012・沖縄フィールドワーク (南の風2853号 2012年3月30日) 関連→沖縄研究フォーラム→
 3月26日〜30日にかけての沖縄の旅。沖縄本島を南から北へ、那覇−中頭−名護−辺戸岬へとかけめぐってきました。最終日程を終えて、29日夜ようやく那覇に戻ってきたところです。ご参加の皆さん(8名)お疲れさまでした。最後に残ったメンバーで、この日に来沖した末本誠さん(神戸大学、TOAFAEC 代表)とも一緒に、打ち上げ・解団式のような夕食会。沖縄研究を始めた当時の想い出話も飛びだして楽しいひととき、疲れを癒しました。
 今回フィールドワークは、年報第17号に向けての証言収集、座談会、対談、加えて(名護)市民フォーラムへの参加など、かなり過密なプログラム。これから証言記録おこしや原稿化の作業が待っていますが、まずは一仕事終わった充実感を味わっています。かっての沖縄ゼミ調査の気分にもなって、帰路の車では西に落ちる夕陽を浴びつつ、ゼミ愛唱歌(喜瀬武原、海の子守歌など)をいくつか唄いました。
 今回とくに「おきなわ社会教育研究会」、中頭青年団OBの方々、名護市博物館関係の皆様に歓迎していただき、いつもながら感謝のほかありません。28日夜・名護博物館中庭での市民フォーラムでは、稲嶺進市長から30年にわたる私たちの名護交流について過分の評価をいただき、忘れられない夜となりました。
 中頭の仲宗根悟氏(もと沖縄祖国復帰協・事務局長)から辺戸岬「沖縄復帰闘争碑」への思いを聞いた経過もあり、29日はあらためて北端・辺戸岬の碑文を読みに行きました。そこから27度線の海、与論島を望見。そして久しぶりに奥の集落へ。終日の運転と案内をいただいた島袋正敏・山城秀夫お二人に、厚く熱く御礼申しあげます。ご参加の皆さんから今回の沖縄フィールドワークの感想や記録などをいただければ幸い。

10,2013・沖縄フィールドワーク・やんばる対談 →沖縄研究フォーラム→


11,力作いろいろ・沖縄のエネルギー  (南の風2853号 3055年3月26日)
 過ぎし昔の“沖縄病”、いま発熱の症状ではありませんが、しかし思いは持続して、1976年冬の沖縄訪問から数えるとすでに35年余。多いときには正月早々に出かけ、2月から3月の休みにゼミ旅行、4月から5月の連休にも遊びに、と毎月沖縄に渡っていた勘定、そんな年もありました。しかし今回は1年ぶりの沖縄、八重山には(なんと!)3年ぶり、こんなご無沙汰は初めてのこと。
 昨年「やんばる対談」も3月でした。この1年は思いがけない入院騒ぎ、殊勝に酒から遠ざかり蟄居謹慎していた時期も重なって、必然的?に沖縄に向かう足どりは鈍ったようです。それだけに久しぶりの訪問・再会の喜びはたとえようもなく、写真・資料を整理しながら余韻にひたっています。
 とくに、ずっしりと重い力作をいろいろと頂戴しました。あまりにも重く2回ほど宅急便。ようやく落ち着いて頁をめくっているところです。他の仕事が進みません。感謝をこめて!いくつかご紹介しておきます。
 まず名護市史・本編8・資料編『芸能』(2012年)。「地域文化誌の金字塔」(三隅治雄・芸能学会長)と絶賛されたもの。南の風でも昨年2965号に「おきなわ短信」(710)として同書評を掲載しました。同じ名護では天仁屋小学校「五十年史」(1994年)。島袋正敏さんが記念誌づくりの中心となられたもの。正敏撮影の写真がたくさん収録されています。やんばる対談の当日に底仁屋公民館で頂きました。
 山城千秋さんが“生まり島”の『津波古誌』(南城市佐敷、2012年)を持参されました。見事な出来映え、地図やDVD も添えられて、美装にも圧倒されました。竹富島・上勢頭芳徳さんたちの『このまちに生きる−成功するまちづくりと地域再生力』(2013年、彰国社)は既報の通り。また国吉多美子さんや喜納勝代さんなどからエッセイ集を含めて資料いろいろ。
 帰京してみたら、鳥山淳さん(沖縄国際大学)『沖縄−基地社会の起源と相克1945〜1956』(2013年3月10日、勁草書房)が届いていました。博士論文が基礎になった力作。出版おめでとうございます。皆様、有り難うございました。

12,久茂地文庫       南の風3060号【2013年4月3日
 『月刊社会教育』が毎号連載していた「働くものの短歌」欄(見開き2頁)に、沖縄の歌人・喜納勝代さんの歌(多分『おなり神』)が紹介されたことがあります。1976年のこと。その掲載に当時の編集長・ぶんじんに長文の礼状が送られてきました。掲載は選者(中井正義さん)の慧眼によるもの、編集長は何もしていないのに…。その年の秋、喜納勝代さんは那覇市久茂地に私設文庫をオープン、同じ時期に東京では私たちの「沖縄社会教育研究会」も活動を開始。両者は同年生、今年で37歳になります。
 沖縄教職員会館の真向かいにあった久茂地文庫(主宰・喜納勝代さん)は、1980年代前半まで私たち沖縄フィールドワークの拠点でした。いつまでもその恩義を忘れません。今回の沖縄訪問では、那覇の集い(13日)に久しぶりにお会いしました。友人の国吉多美子さん(ノースウエスト勤務、当時)にもお出でいただき、再会の懐かしいひとときとなりました。
 喜納さんから受けた刺激に短歌への関心があります。その後、毎年いただく賀状には俳句が飾られていて、短歌(歌集)は拝読する機会がなく、俳句の世界に移られたのかと思うほど。ところが、今回の再会で歌集『くれない』(紅短歌会発行、2012年、19号)を頂きました。毎月発刊の「くれない」(通巻129号)その合同歌集が19号を数えているのです。「人間の鎖」と題する喜納さんの歌50首ほど。その中からいくつかをご紹介します。
◇日の丸と星条旗がはためきて 黄砂で見えぬ故郷の空  
◇あの戦夕べのごとく語り継ぐ 肉親の嗚咽かすかに聞こゆ  
◇人間の鎖となりて雨の中 基地を囲みしこぶしは孤独

13,沖縄デー・屈辱の日      南の風3074号【2013年4月27日
 やや不順ながら、東京は花粉の季節を脱して、今日いい陽がさしています。ようやく風薫る季節に入ったような。TOAFAEC 関連の研究会も活発な動き、皆さん元気で何よりです。
 4月28日は、政府式典「主権回復の日」とか。それにたいして沖縄では「屈辱の日」であることは疑いない事実。対日平和条約発効の1952年当時を想い起こしてみると、「全面講和」とか「破防法(破壊活動防止法)反対」をテーマに連日のデモ、1952年・5月メーデーは宮城前広場「血のメーデー」の年、騒然たる時代でした。
 しかし4月28日を「屈辱の日」とはまだ言っていませんでした。(若い教師になった)1960年代には「沖縄デー」と称して、学生運動のデモの日。4月から5月へ、風薫る初夏の想い出は、沖縄デーから5月メーデーにかけてのデモの季節というイメージでした。4月に入学してきた新入生たちは、ここでデモの洗礼を受け、一人前の学生になるような感覚を覚えたものでした。
 「屈辱の日」という言い方はいつ頃からだろう、案外と1972年・復帰以降ではないかと思っていました。辺戸岬・祖国復帰闘争碑の「屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれ」の文言が印象的だったからでしょうか。今日の朝日新聞(26日記事)が、沖縄県祖国復帰協議会が結成され(1960年)、その翌年の県民総決起大会で「屈辱の日」と呼ぶようになったと書いています。「…誰かが“屈辱”と言い出すと、賛同者が相次いだ。…3時間近い議論の末、この日を“屈辱の日”と呼ぶことが全会一致で決まった」と。

14,琉球民族独立・学会、41年目「復帰の日」に     南の風3088号【2013年5月18日
 ちょうどいま(5月17日〜19日)沖縄では「5・15平和行進」が沖縄島3コースで行われています(宮古・石垣まで加えると5コース)。韓国からも参加だそうです。今年は41年目の「復帰の日」。沖縄はかってない雰囲気のなかで「祖国」を問い(風・前号)、「琉球独立」を考える動きが活発に。昨日の琉球新報・社説は「歴史の局面が転換した」と書き、「琉球民族独立総合研究学会」発足を報じています(本号上掲・抄録)。かっては居酒屋での憂さ晴らしで語られた琉球独立論が、いま本格的に「…学問的な、公的な言論空間の中で論議される時代に入った」と。
 5月15日発足した同学会は、「琉球民族が独自の民族として平和・自由・平等に生きる世を一日も早く実現させる」(趣意書)ことをめざし、会員は「琉球の島々にルーツを持つ琉球民族」に限定。沖縄国際大学で開かれた記念シンポジウムには 250人が詰めかけたとのこと。報道にも力が入っています。たとえば沖縄タイムス(5月16日)「琉球民族に自由を」記事。
 さて当方。16日夕は久留米・花畑駅前の店で飲み始め、結局は古賀皓生さん(元熊本学園大学)宅に上がり込む始末。積もる話に花が咲き、次の集いの相談もしました。福岡への帰路は(酔いを見かねたのか)農中茂徳さんが送ってくれました。車中では、油山書庫を今後どうするかなど…。
 17日は終日、書庫にこもりました。東京社会教育史研究資料をいくつか持ち帰るためです。いちど東京から運びこんだものを、再び東京へという因果に呻きながら…。しかし故外間政彰(元那覇市立図書館長)追悼『爽風一過』(1997)や、故仲宗根政善(元琉球大学)『蚊帳のホタル』(1998)等の棚に立ち止まり、読みふけって仕事は進みません。この方々がいまなお元気であれば、どんな発言をされるだろう、などと思いながら夜が更けていきました。

15,稲嶺ススムさん次期市長選に出馬       南の風3093号【2013年5月28日
 5月25日の新聞各紙、稲嶺進さんが来年1月の名護市長選挙に出馬する意向を報じています。たとえば、沖縄タイムス・当日朝刊は次の通り。「…27日に市内で会見を開き、正式に出馬表明する。稲嶺氏は2010年1月の市長選で、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を容認する前市長を破り、初当選。「辺野古の海にも陸にも新しい基地は造らせない」と移設反対の姿勢を貫いてきたほか、子育て支援施策や行財政改革、農産物の6次産業化などに取り組んできた。…」
 ススムさんは1945年生まれ。名護市三原出身。琉球大学卒業後、72年に名護市役所入り。1980年代は社会教育主事でした。その後のぶんじんゼミ沖縄フィールドワークでは、ススムさんが名護市内のいちばん安い宿を探す役回り。90年代以降は市の中枢へ。総務部長、収入役を経て2004年から08年まで市の教育長。学生と一緒に写った写真がたくさんあります。
 南の風「発行一覧」ページを飾る写真は、2001年・和光大学プロゼミ一行を歓迎していただいた記念の1枚(前にも紹介したような?)。→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/kazeitiran2.htm
 後列左より2人目に稲嶺ススムさん(当時は市収入役)。前列2人目の島袋正敏さんが31日・定例研究会(案内・上掲)ご参加の予定。当日の報告者・白井健二氏(法務省・広報室長)は、ぶんじんゼミで名護訪問の折、まだ準備室時代の博物館で盛大に迎えられた奇しき縁です(1983年12月)。久しぶりの再会でしょう。あの日は、伊藤寿朗(博物館研究者)や韓民(中国教育部・幹部)なども一緒、忘れがたい1日でした。この日の写真は(探したけれど)残念ながら出てきませんでした。

16,沖縄から上京した名護ブタ・想い出話  南の風3096号【2013年6月2日 
 昨夜(31日)の第195回研究会、とくに終了後のお祝い・懇親の集いは、期待通りの賑やかな顔ぶれとなりました。同午後から開かれた法政大学沖縄文化研究所のプログラムを終えて、名護の島袋正敏さん、赤崎隆三郎さんが私たち(高井戸)に合流されたのは午後10時ごろか。当夜の報告・白井健二さんの友人たちも遅くかけつけて、昔懐かしい“夜の集い”。
 3号前の本欄に書いたように、名護博物館長(当時)島袋正敏さんと白井健二さん(当時は学生)は30年ぶりの再会でした。1980年初頭から続く名護の皆さんとの忘れ難い交流。ビールだけでなく想い出話に酔った夜。
 たとえば1990年1月、島袋正敏さんや稲嶺進さん一行が、早朝に名護で焼いた豚1頭、羽田行きの同じ便に載せて、小金井の東京学芸大学社会教育研究室に運び込んだ話。到着は陽も落ちたころ、1日がかりの豚の旅でした。包みを開けると豚から湯気が立ちのぼり、感激の乾杯となったのです。当時の沖縄研究会メンバー(国立や入間の社会教育関係者を含む)による豚を囲む稀有の交流。懐かしい写真が出てきましたので、スキャンして(ただし甘いピント)HP・古いアルバムU(番外編B)に載せました。亡き足立邦彦さん(上福岡市教育委員会)の顔もあり。→■http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/albumhoridasi.htm

17,与那国島の動き        南の風3014号【2013年7月4日
 日本(南西諸島)最西端、台湾にもっとも近い国境の島・与那国島。いま自衛隊配備の問題をめぐって大きく揺れています。6月27日、与那国町長は、町有地を「バナナのたたき売りのような交渉」(沖縄タイムス・社説、6月29日)で沖縄防衛局と仮契約しました。防衛省によると、2015年度までに艦船の動きを監視するレーダーを設置し、陸上自衛隊沿岸監視部隊約100人を配備する方向だそうです。
 与那国島には、いまの尖閣列島問題で日中双方の緊張が厳しくなる以前から、自衛隊の配備をめぐる動きがありました。「…島の活性化策や将来像をめぐって、自衛隊誘致による地域経済への波及効果を期待する人々と、国境の島として周辺国・地域との平和的交流などで島の発展を模索する人々の間」(琉球新報・社説、6月30日)の論議・軋轢もあり。今回の町有地仮契約で、事態は一歩動き始めたようです。8月には町長選の予定。
 「こうした前のめりの作業が町政の判断を縛り、与那国島の民主主義や自治権をゆがめないか危惧する。8月に実施される町長選で再び陸自配備が重要な争点となろう。国は選挙が終わるまで行動を自制すべき」(同社説)。
 与那国は戦前そして戦後「密貿易の島」以降、中国大陸とくに台湾との 関係において注目されてきた島です。島の各集落には、いくつかの屈折を経て、与那国独自の公民館が動いてきました。集落の古層に伝統的な祭祀と結びついた公民館の組織。1998年から4年ほど与那国に渡りフイールドワーク、2本の報告(TOAFAEC年報)をまとめてきた経過があります。→■
 いま公民館では、島の将来をめぐって、どんな論議がかわされているのだろう、久しぶりに訪ねてみたい思い。しかし東京から1900q(台湾からはわずか110q)離れた海のかなた。簡単に足を向ける余裕もありません。

18,


沖縄青年運動史研究・沖縄研究フォーラム・やんばる対談(2010〜2014〜)→■



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