(4)沖縄・竹富島−五つの地域力(上勢頭芳徳)
八重山毎日新聞 2003年1月1日(水)「竹富島の五つの地域力」
*「公民館の風」第382号(2003年新年号・1月3日)【おきなわ短信】(40)
毎日毎日よくもまぁと思えるほどの事件・事故が報道されている。新聞もテレビも見ていないのだろうか、人の話もラジオも聞いていないのだろうかと思わざるを得ない。個性はもちろん尊重されるべきだが、そもそも恥ということさえ教えない中に、知らさない中に自分に正直に生きなさいなんて、わがままを助長するような風潮がはびこっているのでは…なんて聖人君子みたいな物言いではなく、自分の周囲は皆が美しくする、観光業者は公民館に観光税を納めている、ゴミの有料化なんて25年前からやっている。公民館という自治組織がしっかりしていれば、良い地域づくりができる。そういった竹富島の生き方を住民の一人として紹介してみたい。このところマスコミの取材だけでなく、大学生が卒業論文の対象としてまじめに研究に来るケースがとみに増えている。地方の時代と言われながら、なりふり構わないような市町村合併の嵐は、小さくてもがんばっている所さえも切り捨てていくことにならないか。町よりもまだ小さい字単位でも、健全な生き方ができるという地域力の視点から自慢話をしてもいいのではと思った次第。キーワードは“うつぐみ”(一致協力)です。(上勢頭芳徳竹富通信員)
町並み保存と観光
一昨年9・11のあの不幸な事件以来一時落ち込んだかにみえた観光客も、官民挙げての誘客行動で前年を上回る勢いのようだ。世の中不況だといいながらも沖縄は、八重山は恵まれているといえる。しかし12月に泳いでいた修学旅行の高校生がいたとしても、八重山観光は青い空と青い海だけではないことはもう周知の事実だ。
美しい海も含めて各島々がそれぞれの特徴を生かすことで、八重山全体のイメージアップに連なっている。竹富島はもちろん町並み保存が資源となっている、ということに異議はないだろう。
近代化とか観光の為にとかいう時代の流れに抗して、先人たちは沖縄の現風景ともいえる集落景観を保存してくれた。風土に根差した建築、集落は優れて伝統文化といえる。建築物は個人のものでも集落景観や自然は皆のもの、というのは今では常識の域に達している。
観光の語源は中国の科挙試験の必須科目である四書五経の中、易経に出てくる「国の光を観るは以て王に賓たるによろし」だという。
その国、地域が美しく民生も安定していると他国、侵略者に脅かされる事はない、という意味にも取れよう。自律無ければ自立無しということか。昨年9月に広島県福山市鞆ノ浦で開催された第25回全国町並みゼミで、基調講演した法政大学の五十嵐教授が「戦後、自由とわがままをはきちがえた日本人は、ついに美しい町を造ることはなかった」と話していたことは、保存運動を続けてきた竹富島などを勇気づけてくれた。
島では観光キャラバンなどの積極的な誘客活動はしていないが、手をこまねいているわけではない。歴史的環境、自然環境という資源を誇りとして必死になって守っている。そういったことが観光資源となって雇用の場を生み、Uターン・Iターンを促進し、この10年間少しづつだが人口も増加している。昨年11月の調査では314人まで回復していることが確認された。
民宿の稼働率も向上している。文化は経済を救い、地域を穏やかに活性化している。Uターンしてきた若者たちも、当初は規制が厳しいと言っていても町並み保存の意義を理解して、伝統的な家を建てるようになってきた。だが理想の理を求め続けて来たのに、利益の利のみ追求する人が出てくると混乱を巻き起こすことになる。
文化と観光のせっかくの良い関係を持続させるためにと、国の施策に先駆けて住民が提起し現在工事中の集落環状線がもうすぐ完成する。老人、幼児などの弱者に配慮するよう島の交通体系を見直して、観光の在り方も検討しないと持続していかない。せっかくよそにはない沖縄集落の原風景というオンリーワンの資質を持っているのに、短時間で走り回ってはあまりにも軽すぎる。
選択肢を増やそうとこれまで試みてきた集落内のガイドツアーも、旅行エージェントとの提携で実施できるところまできた。いずれNPOが発足する時には、それなりの位置を占めるだろう。
(写真・集落全景・略)
竹富小中学校
小学校1年から中学校3年までの全校児童生徒数が22人の竹富小中学校(山盛淳子校長)が、またまた快挙を成し遂げた。ソニー教育財団の「子ども科学教育プログラム」を受賞した。この人数で、これがなんと4年連続となるのだから快挙といってよい。同財団では科学が好きな子どもが育ったかどうかを調査するようにとのことだが、今年は新田耕作君が八重山高校から1浪して、目標通りに広島大学化学科にAO入試で合格した。実証されているので、ご心配にはおよばない。
こういったことは一義的には先生たちの取り組みが評価されることだが、子どもたちの理解力と、その間を結ぶのが地域の力といっていいだろう。先生は普通3−4年で異動していく(5年在勤の先生もいるが)。そんな中で一貫して地域に根差した“ふるさと教育”をと20年にわたって主張し、協力してきた地域の愚直なまでのこだわりがあったことも称賛されよう。
復帰後の学習発表会をみても、あたかも本土化に抵抗するように見事に島文化にこだわり続けている。創立90周年には“勤労生産学習”として裸足で畑に入ることを位置付けて、その延長線上に今の“島の子集会”などがある。その間には“竹富島探検隊”を部活動として、初年度に環境教育活動でいきなり文部大臣賞を受賞。以後ほとんど毎年のように全国レベルの受賞が続いている。
なにも受賞のための活動ではなくても、これだけ続くと調べてみたくもなる。大きい賞だけ校門の内側にパネルではめ込んでいるが、昨年8月に当時の沖縄開発庁長官はこれをみて、こんなところに教育の原点があるとうなづいていた。
この4年間の主なものを挙げてみても、99年には身近な食住。00年はサバニを漕いで由布島へ。01年は伝統的な儀式にのっとってその船を造った。また養蚕の復活を期待して布まで織り上げた。そして昨年の目玉は島での稲作。水田のない竹富島での米づくりは井戸から水を汲み上げるのが大仕事だった。
教師は生徒を教育するのだが、良い教育をしてもらうために地域が教師の力を引き出しているとみることもできる。そのためにも多くの住民は学校の人材バンクに登録して、要請があれば即対応することをいとわない。(写真・ソニー賞・略)
祭 り
島で生まれ、よちよち歩けるようになったら親たち祖父母たちは、種子取祭のミルクのファーマー(子孫)として舞台にあげる。郷友会の子どもたちも参加するので、昨年は30人ほどもいて舞台いっぱいになった。
舞踊の練習場にも子どもを連れて行く。うるさい、面倒と叱らずに、皆であやしたり、しつけたりするので、その場の雰囲気を感じ取って島習いしていく。つまりこれは文化の刷り込みなのだ。後継者がいないと嘆く前に、こんな風に育ててきたかが問われている。
昨年も種子取祭には、那覇からも含めて多くの高校生が参加した。重要無形民俗文化財祭りへの参加だからと、公民館長は欠席扱いをしないようにとの要請書を校長宛に出す。
島を離れた生徒たちも、祭りの時期には居ても立ってもおれないのだ。東京に行ってる大学生も帰ってきて、踊りを奉納した。もちろん夏休みには特訓を受けて、東京ではビデオで練習を繰り返したという。それほどまでして帰って来たいふるさとをもっている人は幸せだ。
これは小さいころからの刷り込みが祭りへの愛着心となっている。これが愛郷心に進化していくのにそう時間はかからないだろう。
放流された鮭の稚魚は4年後には生まれた川に帰るという。文化を刷り込まれた子どもたちも一時都会に出て行っても、懐かしい美しい故郷ならいつかは帰りたいと思っている。そんな人たちが種子取祭には観光の儲け仕事もすべて休んで、金銭負担し、1人で2役も3役もこなし、36時間通しての祭りに参加するような島人に育っていく。人寄せのフェスティバルや“まつり”でなく、神仏への敬愛の“祭”は人の心を動かすものだから。(写真・種子取祭ミルク・略)
1次、1.5次産業
種子取祭の2日間は全島いっせいに金儲けも止めて、祭りに専念するくらいの気概をもっているので観光ボケしている訳ではない。文化と観光の良い関係を持続させる努力もしている。だがやはり土地にしっかりと足を付けていないと、観光も上滑りの底の薄いものになってしまう。畑作や養蚕が無くなったのは残念だが牧畜が伸びてきているし、クルマエビの養殖も順調に推移している。彼らが島の文化を担い、観光の下支えをしている。
なによりも竹富島の観光は復帰前から、集落景観とともに染め織りなどの手仕事が日本民藝協会の人達によって高く評価されて、民芸の島として紹介されていったことに始まる。1.5次産業というのだろうか。これがなかったら今の竹富島は在り得なかっただろう。島で生まれ育って生活している人は、一通り講習は済んでいる。島全体をみても生計のかなりの部分を観光に頼るようになったが、粗雑な観光地にはしたくないという自制心が働いているのも、民芸民俗の研究者による観光から始まったからである。
一昨年に竹富民芸館は新築移転しミンサー、上布の後継者育成事業が継続されている。若い大和嫁が多いが、夫のUターンで島に移住することになった大山満里子さんは、講習作品として夫の祭り用の着物を織り上げた。小学生たちが養蚕から染め織りまで一貫生産したことが刺激となって、いずれ養蚕の復活が待たれる。(写真・民芸館・略)
島外からの移住者
民芸館での後継者育成のほとんどが、島外からの移住者で占められている。そもそも竹富島は民芸の島として評価され紹介されていったのだから、せっかく居場所を定めた人たちが健康な手仕事に励む姿は心強い。日本民藝館の柳宗理館長も「健全な文化は健全な地域に育つ」と言っているように、島習いした人たちが健全な地域を維持していってくれるだろう。
それにしても人口314人の中で、竹富島のDNAをもっていない人が104人いる。実に3分の1の島外者をかかえていても島の景観が守られ、観光が隆盛しているのだから、これは奇跡に近いと言わざるを得ない。島の在り方に協調できる人が住むことができる。
先ず第一に、借りている家の周囲をいつも美しく保てること。共同作業に参加すること。それでいて割り当てられた賦課金を納入すること。まるで人頭税時代のようだが、共同体を維持していくのに必要なことで、都市化とはこういったことが失われることをいうのだろう。こういった島の生き方を移住者に理解してもらうためにもレクチャーがある。毎年の成人学級だったり青年学級だったりするのだが、最近はかえってIターン者よりもUターン者の出席が悪いのが気になる。(写真・青年学級・略)
昨年気になることがあった。港から上がってきて集落の入り口にある、スンマーシャのガジュマルが枯れてしまった。直接の原因は二車線拡幅で島状に取り残され、アスファルト舗装で保水力がなくなったことだろう。しかしスンマーセは集落の入り口で曲がることによって、悪い者などが入って来るのを防ぐ意味があるという。拡幅のために真っすぐになったために、良いのも悪いのもストレートに入って来るようになった。防ぎきれずに立ち往生したかに見える。車社会に過剰に反応して、車の便利さを優先させた結果だろう。
ことほどさように南海の小島も、世の流れとは無縁では有り得ない。しかしつい100年前までの先人たちは、人頭税の重圧に耐えてきたのだし、またその後も時流に流されることなく、賢明にも人の本来的な生き方を見いだしてきた。昨年11月の人頭税シンポでも、どうして八重山で廃止運動が起こらなかったか、ということが提起されたが城間正安が、中村十作がもし竹富島に来ていたらどうだっただろうかと思わずにはおれない。アララガマ精神にも似たイシガンパラ精神は必ずや事を起こしていただろうと。
沖縄に移住してきた作家の池澤夏樹氏は、伝えられてきたものをきちんと次の世代へ伝えていくのも優れて創造的な仕事といっている。今地域に住んでいる人が、地域にかかわることにどれだけ誇りを持ち得るかどうかが分岐点となる。
(5)むらの憲法−竹富島と来間島(小林文人)
*「公民館の風」第326〜330号 2002年8月10〜18日
■<竹富島憲章と来間島憲法>【おきなわ短信】(31) 公民館の風第326号、8月10日
今回の琉球列島キャラバン・石垣滞在の1日、久しぶりに竹富島に渡った(7月16日)。短い時間であったが、上勢頭芳徳さん(喜宝院蒐集館)と会って「竹富島憲章」(竹富公民館)の新しいパンフを頂く。制定当時(1986年)の保存分がなくなり、来住の住民もあり、新しく印刷されたもの。『竹富島に何が可能か』(第2版、2001年、喜宝院・発行)も頂戴した。巻頭・所収の「町並み保存で何を得、何を失ったか」(上勢頭)が興味深い。
帰りの桟橋には前本多美子さん(竹富在住、旧姓・鈴木、学芸大学卒)が駆けつけてくれた。同道・案内役は渡慶次賢康さん。
その午後の便で、石垣から宮古に飛んだ。空港には下地達男さん(城辺町役場)。宮古・社会教育主事協会の集いまで、わずかの時間を利用して、島巡りをお願いする。何年ぶりだろう。
達男さんは私たち(中村誠司さん、富美)をまず島の南西端、大橋を渡って来間(下地町)の集洛に連れていった。そこではじめて来間島憲法の碑を読んだ。同じ日に、期せずして別の島の二つの集落の憲章・憲法に出会ったことになる。何たる偶然、ある感動、しばし立ちすくむ。
竹富島憲章については、「公民館の風」の初期、埋め草的に連載したシリーズ「沖縄の公民館」で取り上げたことがある(11号、2000年2月6日)。もう2年余りが経過しているので、あらためて再録し、続いて来間島憲法(次号)を収録することにする。
…(略)… この機会に、本土復帰後の本土資本・土地買上げの跳梁に抗してつくられた「竹富島憲章」を紹介しておこう。「竹富島は南島文化を代表する典型な農村集落」であり、伝統的まちなみと「周囲の環境の地域的特色」により「重要伝統的保存地区建造物群」選定(1987年4月28日)の記念碑とともに、シマの広場に「憲章」碑が立っている。
「私たちは祖先から受け継いだ伝統文化と美しい自然環境を誇り『かしくさやうつぐみどぅまさる』の心で島を生かし、活力あるものとして後世へ引き継いでいくためにこの憲章を定めます。
保全優先の基本理念
一、『売らない』 島の土地や家などを島外者に売ったり無秩序に貸したりしない。
二、『汚さない』
海や浜辺、集落等島全体を汚さない。
三、『乱さない』 集落内、道路、海岸等の美観、島の風紀を乱さない。
四、『壊さない』
由緒ある家や集落景観、美しい自然を壊さない。
五、『生かす』
伝統的祭事、行事を精神的支柱として、民俗芸能、地場産業を生かす。
私たちは、古琉球の様式を踏襲した集落景観の維持保全につとめます。
私たちは、静けさ、秩序のある落ち着き、善良な風俗を守ります。
私たちは、島の歴史、文化を理解し教養を高め、資質向上をはかります。
私たちは、伝統的な祭りを重んじ、地場産業を生かし、島の心を伝えます。
私たちは、島の特性を生かし、島民自身の手で発展向上をはかります。
(注)『かしくさやうつぐみどぅまさる』とは「賢さと協同の心が何にもまして優れている」の意。竹富島を「うつぐみの島」と呼ぶ場合もある(竹富町史別巻3,写真にみる竹富町のあゆみ「ぱいぬしまじま」1993)。“うつぐみ”は島びとの“共同体精神”を表している。
■<竹富島憲章と竹富公民館>【おきなわ短信】(32) 公民館の風第328号
8月14日
…承前(公民館の風326号)…
竹富島憲章は、住民の総会で決定されたものであるが、その組織的基盤はもちろん竹富公民館であった。前号にふれた『竹富島に何が可能か』のなかで上勢頭芳徳さんは公民館について次のように語っている。(同「町並み保存で何を得、何を失ったか」。因みに竹富島は、行政的には竹富町に含まれ、人口271人、世帯数127戸の集落。過疎の島と考えられがちであるが、人口はむしろわずかに増えている。)
「島には公民館という組織があります。これは自治会というか、権威と力をもち、島の方針は島で決定できるという組織です。」(p.20)
「観光業者は、いろいろな租税等を納めたほかに、公民館に観光税を納めることになっています。観光税というと支障があるとのことで現在は公民館協力費といっています。これは各業種ごとに、さらにまたABCとランク分けして金額を設定するわけです。観光業者から集めるのが年間65万円くらいになります。公民館の一般会計予算が約240万円ですので、四分の一以上を観光業者からの税で賄っています。ということは、それだけ観光をやっていない人も、公民館への負担が減ることになります。だから観光業者と観光をやっていない人との対立構図が、かなり薄らいでいっているということになると思います。このようなシステムを十年以上前から実施しているのも、地域の見識と思います。」(p.21)
「私ども憲章を制定するまでの順序は踏んできたつもりです。まず公民館長の諮問委員会ををつくりまして、そこで憲章検討委員会をつくり、検討委員会での案を公民館議会にあげていきました。それから公民館総会で決定するという四段階を経てやっていきましたので、これは住民の総意のものであると断言できると思います。」(p.23)
竹富公民館が発行している「竹富島憲章」の全文は、風326号に紹介した文章よりさらに詳細な記述・細則が用意されている。「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」の“
一、保全優先の基本理念”に続いて、次のような基本原則が並んでいる(カッコ内は細則数)。すこし長いが引用しておこう。
二、美しい島を守る
竹富島が美しいといわれるのは、古い沖縄の集落景観を最も良くのこし、美しい海に囲まれているからである。これを保つために次のことを守り、守らせる。(12項目)
三、秩序ある島を守る
竹富島が、本土や本島にない魅力があるのは、その静けさ、秩序のとれた落ち着き、善良な風俗が保たれているためである。これを保つために次のことを守り、守らせる。(8項目)
四、観光関連業者の心得
竹富島のすぐれた美しさ、人情の豊かさをより良く印象づけるのに旅館、民宿、飲食店等、また施設、土産品店、運送業など観光関連業従事者の規律ある接遇は大きな影響がある。観光業もまた島の振興に大きく寄与するので、従事者は次のことを心得る。(10項目)
五、島を生かすために
竹富島のすぐれた良さを生かしながら、住民の生活を豊かにするために、牧畜、養殖漁業、養蚕、薬草、染織原材料など一次産業の振興に力を入れ、祖先から受け継いだ伝統工芸を生かし、祭事行事、芸能を守っていく。(4項目)
六、外部資本から守るために
竹富島観光は、もともと島民が、こつこつと積み上げてきた手づくりの良さが評価されたからである。外部の観光資本が入れば島の本質は破壊され、民芸や観光による収益も住民に還元されることはない。集落景観保存も島外資本の利益のために行うのではないことを認識し、次に掲げる事項は、事前に調整委員会に届け出なければならない。(7項目)
この憲章を円滑に履行するために、公民館内に集落景観保存調整委員会を設け、町、県、国に対しても必要な措置を要請する。 (昭和61年3月31日)
*上勢頭芳徳さんはこの調整委員会・委員長をつとめている。
■<来間島憲法>【おきなわ短信】(33) 公民館の風第330号、 8月18日
宮古島の南西部
1.5Kmの沖合いに浮かぶ小さな島・来間島は実に美しい。面積
2.84平方メートル、竹富島の半分くらい。宮古島とは来間大橋で結ばれている。集落は一つ、人口は200人足らず。島のほとんどがサトウキビ畑である。
来間島をホームページで探すと、多くは観光向けの情報、島と海の写真がたくさん並んでいる。そのなかに『来間島憲法』についての記事も出てくる。たとえば次の通り。
○農村と断崖と亜熱帯の森林。静かで人の手のほとんど入っていないビーチ。いくらか遺跡もあるようで、歴史と自然を味わいながら、何となく一日過ごしてしまいそうな島だ。
観光スポットといえば、大橋を見下ろす竜宮城展望台。最上階からの眺めは絶品!美しい海は、遠くから見下ろした方がより美しさを実感できる。延々と続くエメラルドと群青の波。宮古の海を特に『宮古ブルー』というのは、特別な色だからだろう。
展望台の入り口に、『来間島憲法』なる文章をみつけた。来間島の自然と文化を守っていくために、住民と観光客がともに守るべきルールというもの。例えば、住民は庭に1本以上のブーゲンビリアを植えること、などが定められている。島を見る限り、それは守られているようだ。来間島の人々は、守るべきものが何かを知っているのだろう。
○住民活動 憲法作成への取り組み
宮古来間島は屈指のエメラルドグリーンに光輝く美しい海岸景観を有し、日本一の農道「来間大橋」の開通により、交通の利便性が図られ観光ポイントの一つとして注目されている。
ところが観光のポイント化によるデメリット面(空き缶のポイ捨て、島外者のトイレ使用者の増加、今まで開けっ放しだった玄関に施鍵をするようになった)も浮かび上がり、住民の間で環境や自然景観の維持管理の気運が高まり、美しいむらづくり委員会が発足した。
先進地の施設や「我がむら再発見隊」による島のもつ豊かな自然財産の再認識のための島内探検、むらづくり委員会での住民へのアンケート調査等を行い、様々な情報を基に、住民との話し合いを重ね、平成8年2月に『来間島憲法』が策定された。
誰もが住みたくなる美しいむらづくりを推進するため、住民のビジョンの一つともなる地域協定を作ったのである。
島の人たち、島外者にもこの憲法は特に強要されるものではなく、各個人の任意の協力を要とする旨、うたわれている。
○美しい環境づくりへの取り組み
島の憲法はごみのポイ捨ての減少に確実につながった。現在「我がむら再発見隊」は青年会、婦人会、子供会が中心となって活動を継続しており住民の景観の維持管理活動も着実に向上している。
豊かな自然景観をバックに、さらに今度は、「来間島を香りと花いっぱいの楽園」にしようと「来間島フラワーロード」植栽計画を立て、住民、関係機関の支援の基に美しい島づくりが着々と進んでいる。島のみんなが楽しく、意見を言い合い、夢を持って島づくりに取り組んでいるのである。
* * *
展望台入口に掲げられている
『来間島憲法』(TOAFAECホームページ2002年7月16日・写真参照)は次のような構成である。紙数の関係で骨格のみであるが、以下に紹介しよう。原文にはすべてひらがなのルビが付してある。島内法の現代版といえよう。
【目的】
一条 この住民協定は、来間島を美しく保つため、また、来間集落を「誰もが住みたくなるむら」にすることを目的とし、集落の住民間及び集落を訪れる諸人間に締結されるものである。
【名称】
二条 この住民協定は「来間島憲法」という。
【屋敷内の景観維持の義務】
三条 住民は集落の景観を保つために以下の努力をしなくてはならない。
一、屋敷内の庭にブーグンビリアの花を1本以上植える。
二、屋敷内の庭にハイビスカスの花を1本以上植える。
三、屋敷内の庭に花を植える。
四、屋敷内の庭に雑草等を放置しない。
五、屋敷内の庭に集落の景観を著しく損なうものを放置してはならない。
【清掃の義務】四条(3項目、略)
【住民の義務】五条(4項目、略)
【来訪者の義務】六条(6項目、略)
【特約】七条(2項目、略)
【制限】八条 来間島憲法は、特に強要されるものではなく、各個人の任意の協力を要とする。
むらづくり推進委員会
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