【南の風】発行リスト・ぶんじん日誌 
     −601号(2000年12月26日)〜700号(2001年7月4日)−

                      
                      *(日誌)501号〜600号

<目次一覧>
2000年
第601号【2000年12月26日】「赤い花、白い花」、エイデル、パリ最終便
第602号【2000年12月27日】拝个早年、女王のメッセージ、生活体験学習学会
第603号【2000年12月28日】名護のスケジュールは? 八重山通信(78)
第604号【2000年12月30日】となり台湾の原発、末本帰国、沖縄訪問日程
第605号【2000年12月31日】名護・研究集会、油山の隠れ家の話
2001年
第606号【2001年 1月 3日】新年おめでとう、今年もどうぞよろしく
第607号【2001年 1月 6日】沖縄研究会、久しぶりの華東師範大学・書簡
第608号【2001年 1月 8日】年頭のご挨拶、継続教育学院長・書簡の日訳
第609号【2001年 1月 9日】沖縄・鉄軌道、華東師大「協議書」訳文(呉)
第610号【2001年 1月10日】華東師大・協議書の調印、新垣重雄・参院選へ
第611号【2001年 1月13日】与那国『幻想のティダン』、放送大學の差別?
第612号【2001年 1月14日】レディング通信(44)、新年会の馬頭琴
第613号【2001年 1月16日】福岡市公民館をめぐる動き、レディング通信(45)
第614号【2001年 1月17日】沖縄研究会プログラム、湘潭より「おめでとう」
第615号【2001年 1月18日】八重山通信(81)、文字化け・分割問題特集
第616号【2001年 1月20日】27日那覇の夜、正敏さん開局、新年快楽
第617号【2001年 1月22日】石垣新空港問題速報、ジャパン・ウィーク
第618号【2001年 1月23日】大田区の指導員募集、沖縄研究会に参加したい
第619号【2001年 1月25日】アーデル来日、石垣新空港問題(7)、沖縄日程
第620号【2001年 1月28日】訃報あり、科研費の報告書締め切り
第621号【2001年 1月29日】サービスコーナー廃止の危機、名護研究会
第622号【2001年 1月31日】名護の集いを終えて、おきなわ短信(1)
第623号【2001年 2月 1日】名護の報告、大都市研HPの更新
第624号【2001年 2月 3日】台湾・許銘欣氏の来日、与那国の冬(短信2)
第625号【2001年 2月 5日】与那国行き、「にいな」公演、新宿の許さん
第626号【2001年 2月 6日】赤い花白い花・障害児の保育保障を(特集)
第627号【2001年 2月 7日】裁判に支援を、沖縄USCAR資料研究
第628号【2001年 2月 9日】韓国の動きは? 上海・華東師範大学の動き
第629号【2001年 2月10日】「赤い花白い花」を、与那国より、名護報告2
第630号【2001年 2月12日】第60回TOAFAEC研究会案内、「風」3周年
第631号【2001年 2月14日】韓国より沖縄へ一人旅、社会教育指導員募集
第632号【2001年 2月15日】上海・葉忠海氏との電話、許承範氏の沖縄行き
第633号【2001年 2月17日】置戸・森田さんメール、16日の定例研究会
第634号【2001年 2月18日】魯在化メール、研究会に参加して、上海より
第635号【2001年 2月20日】上海からの共同研究提議、科研費事務は終盤
第636号【2001年 2月22日】許承範さん訪沖歓迎、今年の上海訪問は?
第637号【2001年 2月23日】華東師範大学との研究交流、科研報告原稿
第638号【2001年 2月26日】社区教育(レディング通信50)、油山の柿の苗
第639号【2001年 2月27日】第61回定例研究会案内、社区教育(呉遵民)
第640号【2001年 3月 2日】レディング通信(51)、ウイルス?緊急連絡!
第641号【2001年 3月 3日】英国に流行るもの(52)、ウイルス対策
第642号【2001年 3月 5日】教子(のりこ)さんの闘い、沖縄研究報告
第643号【2001年 3月 6日】ウィルス被害拡大中! 不審ファイル要注意!
第644号【2001年 3月 7日】正敏さん・棚原くんに感謝、レディング通信(53)
第645号【2001年 3月 9日】訪韓日程、中国行き? 忙里愉閑
第646号【2001年 3月10日】ウイルス汚染、レディング通信 (54)、傍聴記録
第647号【2001年 3月12日】「社区教育」研究、八重山通信(85)、国旗・国歌問題
第648号【2001年 3月13日】アドレス帳整理、訪中計画を、レディング通信(56)
第649号【2001年 3月15日】障害児保育への思い、君が代・日の丸問題
第650号【2001年 3月17日】上海への返信、ドイツ行きの計画(研究会報告)
第651号【2001年 3月19日】ゼミ報告集、レディング通信(58)、八重山毎日
第652号【2001年 3月21日】中澤郁美さん参加、「こどものそら」、訪独計画
第653号【2001年 3月23日】裁判傍聴記録、海瀬頭豊の新CD, 湘潭メール
第654号【2001年 3月26日】科研費報告第3集、「社区教育」研究(黄)
第655号【2001年 3月28日】春の話題、宮古へ、科研費報告第3集を
第656号【2001年 3月30日】ハンブルグ行至急連絡、就職、30日夜は花見!
第657号【2001年 4月 2日】華東師大への対応、サービスコーナーの4月
第658号【2001年 4月 4日】八重山通信(86)、故福原実のホームページ
第659号【2001年 4月 5日】助手に就職、BBC歴史番組(レディング62)
第660号【2001年 4月 6日】ハンブルグ行き「薫風」、科研・報告書の発送
第661号【2001年 4月 9日】呉遵民氏の帰国、韓国・中国への旅計画
第662号【2001年 4月10日】62回研究会、『社区教育』、村井さんスイスへ
第663号【2001年 4月12日】科研報告書、韓国行きは? ハンブルグへの参加
第664号【2001年 4月13日】沖縄研究報告書をめぐる反響、訃報あり
第665号【2001年 4月15日】ドイツ社会文化運動(研究会報告)、シンポ記録
第666号【2001年 4月17日】6のゾロ目のご挨拶、上海への返書
第667号【2001年 4月19日】広州へどうぞ、風777へ( レディング通信63)
第668号【2001年 4月20日】沖縄・清明祭、川崎より、上海より、就職お祝い
第669号【2001年 4月21日】5〜6月TOAFAEC研究会、イギリスの朝鮮戦争
第670号【2001年 4月23日】久しぶりの森田メール、図書館新館建設計画
第671号【2001年 4月25日】上海より呉メール、5月〜6月研究会テーマ
第672号【2001年 4月28日】第6号編集についての訴え、上海・広州より
第673号【2001年 4月30日】TOAFAEC のこれから、アルトナーレの薫風(1)
第674号【2001年 5月 6日】学会6月集会の夜に、中国の友人たち、謝々!
第675号【2001年 5月 8日】TOAFAEC総会の試み、教子さん裁判闘争(2)
第676号【2001年 5月10日】合作学院の構想実らず、第6号への投稿案
第677号【2001年 5月12日】5月研究会予定の変更、広州短信(1)ヘビ料理
第678号【2001年 5月14日】第63回研究会案内、「合作学院構想の顛末」の反響
第679号【2001年 5月16日】TOAFAEC総会案内、モンゴル留学生、台湾より
第680号【2001年 5月18日】九・一八70周年シンポ、日の丸・君が代問題(千葉)
第681号【2001年 5月20日】復帰30年目の沖縄、広州短信(2)、ユリの蕾
第682号【2001年 5月22日】秋の上海訪問日程、光州市民連帯、広州短信(3)
第683号【2001年 5月24日】第63回定例研究会に参加して、上海短信(1)
第684号【2001年 5月26日】駐広州日本総領事館より、上海短信(2)
第685号【2001年 5月27日】ハンブルグへの旅程表、思いがけない再会
第686号【2001年 6月 2日】全国集会関連・沖縄訪問、語りえぬものを語る
第687号【2001年 6月 6日】東アジア留学生特別ゼミ、第2回沖縄訪問(続)
第688号【2001年 6月 8日】華東師範大学との打合わせ、ハンブルグ便り(1)
第689号【2001年 6月13日】中山大学附属中学の求人、ハンブルグ便り(4)
第690号【2001年 6月16日】はじめてのTOAFAEC 総会、ハンブルグ便り(5)
第691号【2001年 6月18日】TOAFAEC 総会記録、参院選に向けて沖縄から
第692号【2001年 6月20日】64回 TOAFAEC 研究会案内、「市民活動の風」
第693号【2001年 6月23日】上海・社区教育調査、八重山平和祈念館その後
第694号【2001年 6月25日】64回TOAFAEC研究会報告、反日・意識をどうみるか
第695号【2001年 6月26日】モンゴル祭 in 東京、世界比較教育学会(韓国)へ
第696号【2001年 6月28日】慰霊の日とユッカヌヒー、ハンブルク便り(8)
第697号【2001年 6月29日】上海「社区教育」調査、新石垣空港問題(6)
第698号【2001年 7月 1日】新石垣空港問題(7)、夏のスケジュール、訪沖計画
第699号【2001年 7月 2日】七夕の会、ナチス強制収容所跡・ハンブルグ便り(9)
第700号【2001年 7月 4日】赤い花白い花2・保育と就労の保障を(特集)

*(日誌)701号〜800号

             




 南の風・ぶんじん日誌(601号〜700号)

第603号:2000年12月28日
◆<2001年の新年会など>
 今年の油山・新年会は1月1日でなく、2日となりました。風597号に書いたように、福岡に異動してきた樋口知子(エイデル研究所)白井健二(福岡少年院)夫妻の都合にもあわせ、当日の取締役の農中茂徳くんなどと相談の結果です。1日は不在の見込み。福岡周辺の方でご都合がつく方は、2日(午後から夜)、ぜひお出かけ下さい。九大・院の皆さんは、今年はいかがでしょう。どなたさまも、また飛び入りも、歓迎です。新しい世紀の門出を盛大に飲んで元気を出しましょう。

第605号:2000年12月31日
◆<福岡・油山の隠れ家>
 年の暮れだから、何となく心あらたまるところあり、昔ばなしを一つ。私には、福岡・油山に小さな隠れ家がある。別荘という人もいるが、そうではない。なぜ隠れ家なのか。
 油山とは、博多の町からはどこからも見える、福岡市民にとってはなじみふかい山(約670m)。かってのピクニックや遠足などで子どもたちも遊びに出かけた懐かしの山(いま市民の森)。その周辺が宅地開発され、いま高級いや中級?程度の住宅地になっている。
 東京学芸大学に勤めていた頃、30年近く前になろうか、もう時効だろうから(仲間うちに)有り体に言えば、九州大学に移らないかと誘いがあった。とくに学芸大学を離れる理由などない、しかし九州はわが故郷、九大はわが母校。というわけで、麻生誠さん(現・放送大学副学長)など、学芸大学時代の同僚にも相談して、「参りましょう」という内諾の返事をした。しかし、当時の九州大学教育学部は、学内紛争の真っ最中(学生側の闘士は今をときめくM氏)、学部長からは「ここでご苦労を強いることになっては申しわけない、1年待ってもらいたい」という申し出。実のところ、こちら側としては大喜びして(半分は行きたくなかった)、1年延期を有り難くお受けした。
 しかし準備はしなければ、というわけで、その年、日本住宅公団が持ち家政策として開発していた油山の麓周辺の宅地分譲に申しこみ、運よく当選。かなりのローン(その頃、金利は高い!)を組んで、ささやかながら1戸建て自宅を完成させた。竣工の祝いの日には夏の激しい夕立があり、前途多難を予感させた。このとき、東大・院生だった末本誠がなぜか来てくれたことを思い出す。 
 住むべき家は出来上がったが、九州大学へ移る話は、いくつかの経緯あり(これはまだ時効ではない?ので詳細は省略)白紙に返った。そのまま東京の生活が今日まで継続することになって、かえって幸運?(たとえば「月刊社会教育」編集長の仕事も出来たではないかなど、小川利夫説)だったのかも知れないが、しかし、油山の家は無人のまま残ってしまった。
 持ち家政策の条件では、一定の年数が経たなければ売れない。数年は、盆や正月に(久留米の旧宅よりも油山の新宅へ)帰って新しい畳を楽しんでいるうちに愛着もわき、人には貸したくない。蔵書や家具類も次第に整えた。この家を建てたことは、とくに九州大学の関係者には内緒のこと(九大関係者を困らせたくなかった)、当初はごく親しい人だけ知っている、まさに「隠れ家」の存在だった。そして、早くも30年近くの歳月が経ってしまったというわけ。
 この家はいつも無人である。ときどき、西の方の、たとえば宇部市など講演の帰途や、沖縄の行き帰りなどに、家の管理、庭の草取りに寄った。ぼやきながら掃除をしたり・・。
 家としては、定着して住む者が誰もいないわけだから、残念だろうと思う。深夜一人でワインなど呑んで、いい気分になっていると、天井のどこからか、家の悲しそうな声、「どうして住まないの?」という恨み節が聞こえてくる、そんな錯覚がある。申し訳ないので、いろんな人に来てもらって、にぎやかに騒ぎたて、歌などうたって、せめての罪滅ぼしをしているつもりだ。
 この30年の間には実にたくさんの来客が見えた。横山宏・小川利夫・徳永功氏などの長老格から若い学生のゼミ合宿的な利用もあれば、一時的な仮住まいのイギリス人夫妻(半年ちかく滞在して家は荒れたが、粗末な自転車を修理し安い洗濯機を残していってくれた)もいた。深夜来訪の宿泊者もあれば、毎年の盆・正月の恒例飲み会への参加者も少なからず、思わぬ出会いもあり、またいろんな国からの留学生も来訪してくれた。韓民も羅李争もアーデルも。この家に泊まれば将来は出世する?などと冗談を言う人もいたが、もちろんこれはウソだ。実証的なデーターあり、泊まった人で誰ひとり偉くなったものは(まだ)いない。
 沖縄の喜納勝代さんや安里英子さんたちが訪れたし、「ふるさときゃらばん」の女優さんたちも来てくれて、大都市研の川崎メンバーと「ザ結婚」などの歌をうたった思い出も懐かしい。ああ、そういえば八朔友二も泊まった。
 いろんな出来事があった。ビールの密造、大分のカボスや信州の白樺の植樹、泥棒侵入(まったく何も盗むものがない!)、熊ん蜂の大きな巣、寺中作雄さんの油絵など、書いておきたいエピソードがたくさんあるが、いまは余白がない。阪神大震災の1995年は、私の東京学芸大学退官の年。退職金を投入して、地震に強い書庫を増築した。居間の増築と合算して1千万円程かかった。学芸大学研究室の個人蔵書や雑誌バックナンバーの大部分を運び込んで、もう6年になる。この図書・雑誌・資料の公開と利用について、九州大学・研究室メンバーと協議を始めた経過があるが、資料整理など当方の準備が整わず、いま中断している。
 そしてまた、この家で正月を迎える。一つ、年を送り、新しい年を迎える。いや、この正月は新しい世紀の始まりだ。さて、これからまた、どんな歴史を重ねることになるのか。 だがこの隠れ家、その主と同じように、少しいま老朽化してきた。
◇去年(こぞ)今年一すじの道歩きたく −高浜虚子に触発されて− 

第606号:2001年1月3日
◆<2001年の新年会など>
 新しい年、皆さんはどんな正月をお迎えでしょうか。北は吹雪のようですが、南は、やや不順ながらも、まずまずの空模様、2日の油山の集いも賑やかでした。夜は議論もありましたし、(取締役・農中氏の包丁さばきで)魚も堪能しました。厳しさと暖かさと・・・、こんな調子で1年が始まりました。今年また「南の風」どうぞよろしく。

第609号:2001年1月9日
◆<市民活動サービスコーナーの危機?>
 東京都の市民活動サービスコーナーが、来年度予算の査定段階で危機的状況にあるらしい、という間接的な情報が来ましたが、どんな経過なのか、いま何をすべきなのか、誰か「南の風」にお知らせ下さいませんか。ここ数年の東京都の野放図な施策・財政の動きを考えても、客観的にみて、いまこそ拡充すべきサービスコーナーをつぶすなど、怒りを禁じ得ません。ぜひ状況を教えて下さい。
 東京・三多摩の市民活動を担っているNPO 関連の市民たちは、この問題を知っているのでしょうか。知っていなければ大問題だし、知っているのであれば、なぜ私たちにみえる運動がスタートしないのでしょうか。急いで、知らせてほしい。

第610号:2001年1月10日
◆<歌の工房>
◇夜ひそかインターネットの窓たたく いずれの友か訪れやあらん  −1月3日、油山にて−
◇東京も「雪の降る音だけが聞こえる」夜ありて しばし眠らず −1月8日、未明−
  *十日町周辺『豪雪と過疎と』(未来社)冒頭の詩の一節

第612号:2001年1月14日
◆<ふるさと・きゃらばん、新年会>
 アーデルくんの「ふるさと・きゃらばん」をエジプトに招待したいという話(アーデル・メール、南の風新年606号に紹介)については、13日の新年会に来た八朔くんと、もちろん話題にしました。いま「ふるきゃら」はかなり大きな劇団になりましたから、スケジュール調整はそう簡単ではないようですが、興味はもちろんないわけはない、問題は経費のこと、そんな話でした。1月末に来日の予定?だそうだから、その時に会って、お金の問題を含めて、具体的な話を聞きましょう、ということです。小林ママあてに来日の日程を出来るだけ早めに知らせてほしい(「できれば電話を下さい」ママより)。
 八朔くんは、昨日は関西のどこからか飛んできて、今日は折り返し雪の会津に出かける。1月末も日本のどこにいるか分からず、早めにスケジュールを知らせる必要があるようです。どうぞよろしく。
◆13日・新年会、皆さん、お疲れさまでした。小林宅の会からレストラン「グランメール」に会場を移すかたちに切りかえたはずなのが、やはり夜にしか来れない人もいて、夜の部の盛り上がりなど、どうも以前の新年会の様相に逆もどりした感じ。しかし10時前には終わりましたから、みな常識人?になってきたようです。ある年などは、深夜になっても宴は終わらず、皆くたくたとなり、掃除をして寝る元気もなく、ちかくのホテルに泊りにいったことなど、懐かしく思いだしました。
 今年は、モンゴル、中国、韓国、そして日本の4民族がともに語り飲み、歌いあう、とくに馬頭琴の名手の演奏もあって、おかげさまで、いい会となりました。漢族よりモンゴル族の参加の方が多い(6人)のも面白く、グランメールのマスターも馬頭琴に感動して、サービスのディシュを出してくれたほど。
 準備にあたった遠藤くんや石倉くんなどで、エピソード等、なにか送信していただけませんか。

第617号:2001年1月22日
◆<軽薄短小なメールを>
 最近「風」は鷲尾(八重山通信)・岩本(レディング通信)メールなどの重厚長大ものが多く、他の皆さんはやや遠慮気味か。もともとは軽薄短小メール歓迎なのです。とくに寒くなって、北の国からはとんと便りがありませんね。淋しいね。今年の厳寒に打ちひしがれて、パソコンを開く気力もなくしているのか、と推察しています。ときには、凍ばれるなかからのカラクチ・コメントでも送ってほしいよ。

第622号:2001年1月31日
◆<名護・研究会の余韻・おきなわ短信(1)> →■

第625号:2001年2月5日
◆<台湾からゲスト>
 台湾から来日した許銘欣さん(台北市中山区永安小学校長、東京学芸大学・院卒)とその友人の徐瑞湖さん(台北駐日経済文化代表部、外交官)を迎えて、4日夜、新宿で歓迎夕食会。台北でもっとも新しいオープンスクールを昨年開校、同校の若い教師たち20数名を連れての来日。元気と自信、満ちあふれる様子。日本の校長・教師よりもはるかに自由に仕事をしている感じ。あらためて「東アジア社会教育研究」6号への協力をお願いしておきました。

第627号:2001年2月7日
◆<3月予定の韓国訪問計画は延期>
 おそらく1994年からだと思いますが、日韓文化交流基金の援助を得て、韓国訪問の旅を始めました。最初の頃は、東京学芸大学研究室として、その後はTOAFAECとして、3月1日記念日をはさんで実施してきました。黄宗建さんや金済泰さんなどを介して、識字(文解)教室や文化院など、あるいは図書館や社会福祉館なども(電撃的に)訪問したことがあります。朴三植君(現在、早稲田大学・院)を講師に応急のハングル学習会を開いたこともありました。
 韓国の友人たちのなかには、この訪韓グループが3月1日を前後して毎年やってくることに興味をもつ人もあり、今年はぜひ実現しようと計画が始まりました。しかし残念ながら今年(も)日韓文化交流基金の補助は出ないことになり、それでも行く方向でしたが、いくつかの事情が重なり(沖縄研究の報告書作成など)、3月1日をはさんでのスケジュールでは無理になりました。…

第630号:2001年2月12日
◆<南の風3周年>
 「南の風」は1998年2月6日から始まりました。『東アジア社会教育研究』第3〜5号の巻末に年次ごとの発信記録を掲載しています。加えてTOAFAECホームページの各「追加記事」にも。→■
 4日前の「南の風」第626号「赤い花白い花・障害児の保育保障を」(2001年2月6日)で丁度3年を迎えたことになります。単純に計算して、この3年間、1.75日おきに1回、の発信という頻度です。これまで旅行中は「風」は吹きませんでしたが、この半年は、むしろ旅行中の方が話題山積で、可能なかぎり「風」を発信してきました。
 パソコンを持ち歩くようになったのは、昨年夏のドイツ滞在からです。先日の名護・与那国の旅でも、毎日発信していましたから、同行の鷲尾夫妻に「風・パソコン症候群」という病名をつけられてしまいました。いつも約束の朝食時間に遅れていましたので。起きてまず来信メールをチェックし、それを整理したり、「風」に貼り付けたりすると、つい朝食に行くのが遅くなるのです。
 実は「南」に加えて「公民館の風」発信が、1999年9月から(準備号を加えると)139回。両者を合計すると765回。この一年に限定すれば、二つの「風」で317通。平均1.15日に1回。よくも出したものです。もっとも、この間にドイツ滞在の2ヶ月半、石倉祐志・遠藤輝喜のお二人に発行を代行していただきましたが・・。
 自分ながら「風」の吹き過ぎ!を反省していますが、一向に改まる気配がありません。
 ところで、先々号「南の風」628号は2月8日発信となっていますが、日付を9日に訂正させていただきます。あとで気づきましたが、8日午前に「公民館の風」138号を出していました。同じ日に二つの「風」を発信しない方針なので。まぁ、どうでもいいことだけど・・・。

第632号:2001年2月15日
◆<2月16日、TOAFAEC 定例研究会へどうぞ・・・>
 上掲の伊藤長和さん、許模範さん、どうぞお越し下さい。歓迎です。久しぶりに石川敬史くんから連絡(書簡)あり、もしかすると、韓国からの留学生(図書館情報大学・院)を連れて参加したいとのこと、いま引越し直後で、まだパソコンを開けない状況らしいが、久しぶりに顔を見せてほしい。東京出張中の山田順一さん(青森)は来れないかしら? そういえば、いつぞやのメールによれば蘇鶴鳴(都立大・院)も来るらしい。いろんな出会いが楽しみ。
 和光大学の小林研究室は、中国だけでなく、いつの間にか(内)モンゴルからの研究生が増え、モンゴル族が4人となりました。新しい巨泉(チャガン・ボルゲ)氏(九州大学・院をやめて4月から和光大学へ)もすでに東京へ移転、16日・研究会への出席を予定しています。和光大学から沖縄・研究集会へ参加した張文科くん(この人は漢族)、与那国までやってきた山越幸恵さん(この人は日本人)にも声をかけていますが、参加できるかどうか・・・当日が楽しみ。名護研究集会のことなど、みんなで感想を出しあいましょう。小生も時間があれば、与那国のことを短くレポートします。
 想いだした。今年度の小林ゼミ・報告集が先日の卒論発表会に合わせて出来あがった。なかなかの力作です。ふれあい館、夜間中学、沖縄レポート、ドイツ・フランス報告などなど。当日、若干部数を持参してもらう予定(実費)。ぜひ読んでやって下さい。
 ただし小生、当日は教授会です。すこし遅刻のおそれあり。始めておいて下さい。

第633号:2001年2月17日
◆<TOAFAEC・第60回定例研究会>
 東京、風の強い夜、井の頭線「高井戸」駅から会場の区民センターへ。環七をわたる歩道橋の上はさすがに寒く、集まりはどうかな?と少々心配しながら、定例研究会へ急ぐ。思いがけない人も来ている。終わるころには、日本人に加えて、韓国人(3)、中国人(6)、モンゴル人(1)の参加となり、これまでにない賑やかな会。もう60回にもなったんだと感慨ひとしお。いろんな意味で記念すべき会になった。今晩の研究会のこと、誰か「風」に送って下さい。

第634号:2001年2月18日
◆<上海より4冊の本、今年度訪中計画の提案>
 昨年は、華東師範大学からの音沙汰がなく、訪中の計画も具体化しませんでしたが、16日から17日にかけて、突然にぎやかに上海からの二つの便りが舞い込みました。
 一つは、神戸・呉さんが葉忠海教授から託された「社区教育」についての4冊の本と、同封されていた葉さんからの手紙です。手紙には「…われわれの間の友好交流と合作は決して中断することなく、更に一層発展するであろうと確信しています。…われわれの間に創られた貴重な友好関係は永遠に持続することになりましょう。今年は皆様方が揃って再び華東師範大学へお出でになることを期待しています。」とありました。
 4冊の本は葉教授主編によるシリーズ「社区教育学基礎」(葉忠海)、「社区教育管理と評論」「各国社区教育概論」(米、英、北欧、日本、韓国、シンガポール、台湾と香港など)「社区教育の発展と展望」(いずれも2000年6月刊)です。「東アジア社会教育研究」第6号に黄丹青さんあたりに紹介の労をお願いしてはどうでしょう。
 二つめは、華東師範大学継続教育学院・孫建明氏より、協議書・日本文に署名押印した文書、それに添付された今年の「研究と訪問」の提案
です。時期は5月中旬か10月中旬(約5日間)、テーマは「社区教育」についての比較研究(上海と日本・東京)、などとなっています。早速に呉さんにFAXで送りました。後日、きちんと日訳されたものを「風」に掲載したいと思います。

第636号:2001年2月22日
◆<華東師範大学・継続教育学院との研究交流>
 先号「風」635号でご覧の通り、上海からかなり具体的な提案が来ました。さて、どう対応していきましょう? これまでの経過をおさらいしてみますと、話は1998年3月に始まります。ちょうど「南の風」が吹き始めたころ。同9号、13号あるいは同23号等に関連記事があります。この年の11月に上海訪問。こちら側のメンバーは、小林文、末本、松田、上野、魯在化(韓国)、それに呉遵民。この訪問の最終日、華東師範大学側と私たちとの間に研究交流「意向書」が作成されました(風125号、この間の記録はTOAFAECホームページに掲載)。→■
 翌1999年秋には華東師範大学の学長、同継続教育学院・院長などが訪日。私たちは総力をあげてこれに対応(東京、神戸、福岡)。そして昨年は先方からの連絡なく、訪問は中断しましたが、ようやく「研究交流」協議書の交換があり、昨年12月に協議書の正式調印。(詳細はTOAFAECホームページ、また「南の風」635 号等)。
 この協議書に基づき、2月19日(先方発信は12日付)、同大学・継続教育学院・孫建明院長名で、2001年度の研究交流計画案が舞い込んだというわけです。5月か10月の中旬、5日間位の日程で、日本側研究者グループを招聘したいとのこと。主たる研究テーマは「社区教育」、つまり地域社会教育、コミュニテイ・エデユケィション関連のテーマ。上記メンバーでまずは検討を開始しますが、もし関心をおもちの方があれば、ご遠慮なくご意向をお寄せ下さい。
 TOAFAECというのは、正式には「東京・沖縄・東アジア社会教育研究フォーラム」(略称・東亜社会教育研究会)、名称だけはたいへん欲張りの小さな研究会、先方は華東師範大学・継続教育学院(上海)という中国有数の名門大学。とくにここ数年、大規模な機構改革をすすめ、上海市第一、第二教育学院を統合し、教員現職教育の機能を併せもって、これに成人教育(社会教育・生涯教育)領域を含めると世界でも最大規模(むしろ大きすぎる?)の継続教育研究機関だと考えられます。
 相手は大きな大学、こちらは小さな研究サークル、この組み合わせがなんとも奇妙。こんな不釣り合いな関係でよくも「協議書」の正式調印が実現したものだと人は言いますが、むしろフォーマルな大学機構間の研究交流には見られない、相互の人間的な「朋友」間の面白い研究交流が始まれば、と期待しているところです。

第638号:2001年2月26日
◆<福岡にて>
 25日午後は故諸岡和房氏の没後一ヶ月記念会。かっての友人たち20人余が集まった(福岡)。思い思いに語りあった。若い世代からは大島まなさんと方如偉君。当時の九大・研究室の話のとき、(当然のことながら)岩本陽児君の名前も出ていた。大島さんが小生に「機会があったら岩本さんによろしく」とのこと。この風に乗せてお伝えします。
 去年の夏いつの間にか(日本を離れている間に)油山の隣の家が改築され、私の書斎からのせっかくの眺望(油山の峰など)が消えてしまった。正月前後よく小鳥が来ていた柿の木も切られてしまった。これにはがっかり。隣の木だから、文句の言いようもなく・・。
 そこで吾が方の庭に鳥がくる樹木を植えることにした。24日午後。渋柿と山桃の苗を計4本。苗と腐葉土はかねて農中茂徳君に頼んでいたもの。しょぼふる小雨のなか無事植樹終る。体が冷えて風呂に飛び込む。早く実をつけろ、柿の苗。

第640号:2001年3月2日
◆<緊急連絡!ウイルスに冒された?> 
 一昨日から家のパソコンが妙な感じで急変し突然使えなくなりました。いまモバイルの小パソコンで打っています。新しくセットアップし直さなければならないのか、わが師・山口先生の往診をまっているところ。ウイルスではないか、というのが先生のご診断。
 いくつかへんてこな予兆あり。ある人のメールにおかしな添付フアイルがくっついてきた。2度来た。それから、小生から出したメールにフアイル付いていて、開けないとのこと。たとえば次のメール。(3月1日18:42) 「末本です。送っていただいたファイルが、開けません。何のファイルでしょうか。…以下、略…」
 実は小生はフアイルを添付していない。そう言えば、山口真理子さんからも似たような問い合わせがあった。小生に来た妙な添付フアイル名は「I am sorry」「FUCKING WITY DOGS」というもの。これを開こうとしているうちに変調が始まった。誰か関連して情報があれば教えて下さい。妙なフアイルが、もしあれば開かないでください。取り急ぎ緊急のお知らせまで。

第648号:2001年3月13日
◆<恒例のアドレス帳整理>
 早いものであと2号で650号。はるけくも来つるものかな・・。「公民館の風」もたまたま150号直前(いま148号)で同じお願いをしましたが、50号おき恒例の名簿整理をいたします。
 「風」双方向性の原則により、リードオンリーの方には交代していただこうという趣旨。形式的なメンバーには遠慮していただく、新しい方へのある種の新陳代謝、当方で発信する数は出来れば30人前後にとどめたい(負担を多くしない)、そんな理由からです。この間に新しく参加された方はご存知ない(初めての)ことかと思いますが、有り体に申せば、風のリストラ作業。
 もしリードオンリーを自覚の方で、引き続きの配信をご希望の方はご一報下さい。送信を続けます。レスポンスなければ、651号以降の送信を控えさせて頂きます。またその後に復活のご希望があれば、その際はいつでもメール下さい。ご遠慮なく。

第649号:2001年3月15日
◆<パソコン・リセット、これでなんとか・・>
 ウイルス騒ぎ、約2週間。皆さんにいろいろご迷惑をおかけしました。山口よわた先生のお出ましも得て、なんとかパソコンもきれいになりました。上記・内田メール、この送信は(ドイツ行きのために買った)モバイルから出したもの。コイツも汚染されているのかと暗然たる思いです。いま正直パソコンが嫌いになっています。パソコンに振り回された時間が惜しくて・・・。ホームページ関係、「お気に入り」ストック、Al-Mail の送受信ホールダーなど、懐かしい仲間?がすっかり頓死してしまいました。南無阿弥陀仏。
 一時は「風」を休止しようかとも思ったのですが、皆さんからのメールも届くし、結局は出しつづけました。この判断はよかったのかどうか。かえってウイルスを撒きちらしたのではないか、と気になっています。小生に来たあるメールの小さな添付ウイルス(最初は気づかなかった)から始まった騒動、なんとも悔しいよ。今後ともウイルス関係、何か情報あればお寄せ下さい。本号は長くなってしまいました。 

第654号:2001年3月26日
◆<科研費報告書・第3集、ようやく刊行へ>
 先日来より関係諸氏にご協力いただいた科学研究費報告書の作成、ようやく数日後(3月中)に刊行の見通しとなりました。若干の経過報告と御礼を申しあげます。
 大学内の事務上の締切り(3月19日)に間に合わせるか、それとも事務に迷惑かけて予定原稿をすべて収録するか、の判断に揺れましたが、風643、645、647号等の記事でお察しの通り、後者となりました。事務の方はなんとかクリヤーして、遅れた沖縄側の原稿も収録することが出来ました。
 最終的に、例の通り、内田くんに頑張ってもらって、160ページを越える部厚な報告集(いつもの「東アジア」と似た厚さ)。これで3年にわたる作業も有終完美。縁の下の仕事をして頂いた山口真理子さんなどを含めて、関係の皆さまに御礼を申し上げます。
 経費縮小(内田くんの手腕)の上、第1集〜第3集の合本も(わずかの部数、文部省用と関係者分)印刷できる予定。出来次第、送本いたします。お楽しみに。以下、第3集の構成です。
○戦後沖縄社会教育における地域史研究 第3集(2001年3月刊)
まえがき−沖縄社会教育研究の新しいステージ(小林文人)
末本 誠「沖縄の字誌づくり研究の方法」 *関係資料 モーリス・アギュロン
中村誠司「沖縄における地域史および字誌づくりの現在と可能性」
平良研一「“思想”としての戦後沖縄社会教育」
松田武雄「公民館の近代化と集落の再創造−金武町並里区公民館を事例として−」
小林平造「自治体計画における「字別構想」の展開と読谷型地域公民館構想の成立
      −集落公民館の歴史的性格をふまえて−」
上野景三「沖縄県立公文書館におけるUSCAR社会教育・成人教育関係文書について」
比嘉佑典「地域づくりと島宇宙博物館の構想」
小林文人「与那国の集落組織と公民館制度の定着過程 −与那国調査覚書(2)」
*南の風メンバーで、「第3集」ご希望の方は、あらかじめお申し出下さい。部数僅少(恩をきせるわけ ではないが)優先してお送りします。秋の「東アジア社会教育研究」第6号にも収録します。しかし、沖縄だけで1冊になる厚さだから、どう選びましょう? これこそまさに嬉しい悲鳴です。(ぶ)

第656号:2001年3月30日
◆<小田急線沿線「社会教育研究会」「月刊社読む会」など合同交流、花見のお誘い本日夜>
 小田急線沿線「月刊社会教育を読む会」(和光大学)と「小田急線沿線社会教育研究会」ほかいろいろ合同の交流会です。(連絡先=植松賢也・座間市立北地区文化センター、042-747-3361)折しも 東京は桜満開、和光大学の桜も見事、花見をしましょう。お近くの方、どなたでも、お出かけ下さい。
会場:和光大学・小林研究室(A号館9階)044-989-7777+5916
日時:3月30日(金)(18:00〜)
 終了後は大学前「のむぎ」(044-986-9667)で花見・交流会。歩いて1分、いい店です。小林ゼミなどでは、終わっていつもここで飲んでいます。しかし、案外と早く終わる店ですので、早めに研究室から「のむぎ」に移動したい。石川君も来れませんか。関連:TOAFAECホームページ(ぶ) *公民館の風第155号より

第657号:2001年4月2日
◆<市民活動サービスコーナー問題>
 南の風621号( 1月29 日)・江頭晃子「サービスコーナー廃止の危機」、加えて公民館の風147号(3月8日)・奥田泰弘「市民活動サービスコーナーが廃止の危機!」をご参照下さい。この問題は、東京都の社会教育行政と同・社会教育職員集団が激しく後退している象徴的な動きとして捉えるべきでしょう。NPO法の制定など、大きな潮流は、今むしろ「市民活動サービスこーナー」のようなセクターを増強していく、そういう姿勢が要請される時代なのに、見識をもって格闘する力量・エネルギーをすっかり失ってしまった!東京の社会教育よ!
 都の社会教育委員や多摩社会教育会館の審議会など、こういう憂うべき動向について何も発言しないのかしら?
 江頭さんの「行政組織にはまってはいけない」のところ、しみじみと読みました。小生は昨年、ドイツの社会文化運動の動きにふれて、日本の行政社会教育の体質の問題点を同じように感じています。「この後は愚痴になったので削除しました・・」とのこと、次回からは削除しないで下さい。
 本号は(ぶ)が少し書き過ぎ? すみません。

第658号:2001年4月4日
◆<福原和明さん「弟・福原実について」>
 拝復 メール拝受、有り難うございました。ご両親様など皆様お元気でしょうか。TOAFAEC・ホームページをご覧いただいたとのこと。驚きました。「同人誌」とは恐らく「南の風」のことかと思いますが、故福原実君の記事(江頭晃子さんや小生の拙い歌など)が収録されている号(133号、138号、390号、592号等)の関係部分を抜粋して別便で送ります。福原実君とは一度、祖谷谷に遊びにいこうと話したことなど思い出します。貴ホームページ拝見しました。

第660号:2001年4月6日
◆<ハンブルク・アルトナーレ行き>
 「南」「公民館」の二つの「風・特別号」(3月19日)でご案内したハンブルグ行き計画、その後、順調に準備が進んでいます。
 谷さんから「アルトナーレの薫風」(0号)と名づけた通信が送られてきました。いま上記のように13人前後の参加希望者。その後(「公民館の風」155号、3月29日)、希望者(参加検討中の方を含む)はハンブルグ行き直行便を早めに予約しましょう、という谷さんのご提案に応えてエントリーされた方々です。しかし航空便の予約は、充分に大丈夫の模様。迷っておられる方があれば、ぜひ積極的な参加をご検討下さい。
 「風」特別号の呼びかけにも書いたように「ドイツの社会文化運動・地域文化センターのみずみずしい動きは、きっと日本の公民館活動や市民文化運動・NPO活動等に大きな刺激を与えてくれるもの」と確信しています。お問い合わせは、呼びかけ人の伊藤長和(川崎)、小林(和光大)、そして谷和明(東京外国語大)3人まで、ご遠慮なく。
 東京では、4月13日(18:30〜20:30)、いつもの高井戸区民センターで事前学習会(TOAFAEC・4月定例研究会を兼ねる)を開きます。どなたもご遠慮なくお出かけ下さい。 (公民館の風第158号より)

第662号:2001年4月10日
◆<光恵&ジェローム・ニコラ様>
 無事にジュネーブに到着されたことと思います。日本語メールは読めますか? 貴方がたお二人の出発前に、送別・激励の会を開きたかったのですが、私の(お互いの)多忙で、その機会をもてず、申しわけない。残念でした。新しいスイスでの生活が順調であることを祈っています。
 6月6日より1週間、ハンブルクへ参ります。東京外国語大学の谷先生も一緒です。一行は(まだ未確定ながら)15人あまり。その折り、ハンブルクへ来ることは出来ませんか。アルトナーレというハンブルク市アルトナ地区の市民運動の祭りへ参加するためです。これから新アドレスへ再び「南の風」を送ります。

第663号:2001年4月12日
◆<ひとことコメント−7っの仕事>
 かって僕が言ったのは、一人で7つ以上の仕事のチャンネルをもつのは、よくない、いい仕事にならない、ということだったと思います。小生の反省の弁です。
 たとえばその昔、月刊編集長時代(1970年代初頭)などは、本務の…学芸大学の、○○委員長とか△△部長などを含めて…仕事以外に、社全協や学会や自治体の▽▽委員や、あれこれの講師や読む会などなど、夜はほとんど家にいなかった。数えてみたら7どころか、責任をもたせられたものだけでいつも10を越える仕事に追われていた。
 家庭放棄、父親失格はもちろん、肝心のそれぞれの仕事も質の高いものにならなかった。
 ついでにこんなことも言ったことがある。とくに社会教育に携わる研究者が、あちこちの講師に駆り出されて、若い頃から「先生、せんせい」と呼ばれて忙しがっているのは、あまり誉められたものではない、他の学会では見られない状況だ、など。
 7つでなく、せめて5つぐらいに限定して、余裕をもっていい仕事をしていきたい、そういう“夢”を抱き続けてきました。が、この年になっても、まだ、実現しませんが・・・。

第664号:2001年4月13日
◆<訃報−高円寺・西平守良さん>
 東京・高円寺の沖縄関係古書店(球陽書房)店主・西平守良さんが亡くなられた。4月11日18:30のご逝去。その直後に息子さんから電話をいただいた。私たちの沖縄研究の初期、1977年前後からのお付き合い。東京学芸大学の沖縄文献コレクションは、ほとんどが球陽書房・西平さんの助力によるものだ。ずいぶんとお世話になった。
 最初にこの店を発見したのは、末本くんだったように記憶している。小さな店の奥にぎっしりと沖縄文献が並んでいた。それが驚くほど安い。故郷の沖縄の本で儲けようとは思わない、皆さんのお役に少しでも立てば幸せ、若い人たちの力になりたい、サンシンを弾きましょう、「先生も沖縄を研究するのであれば、サンシンの稽古をしませんか」などなどの語録、いま想い出がよぎる。
 今帰仁の生まれ、沖縄師範を出て、戦後いちはやく東京へ。大田昌秀氏も上京直後、西平さんの部屋にころがりこんだ仲。大田知事が実現して「マサヒデ、まさひで」と喜んだ。昨年から体調をこわし入院、しかし退院後も店に座って、例の笑顔で私たちを迎えていただいた。在野、反骨、正義の人だった。通夜は14日夜、告別式は15日。会ったことがある人は、ぜひ弔電をお願いしたい。東京都杉並区高円寺北3-22-2 球陽書房 あて。<写真>在りし日の西平守良さん、TOAFAEC 第8回研究会(1996年2月) →■

第666号:2001年4月17日
◆<連休近し、骨休めの旅へ>
 6のゾロ目が並んで、風も何となく嬉しいのです。5が三つ並んだときは、たしかイギリスからお祝いのメッセージ(岩本)をいただいたことを憶えていますが、6もまた「六芸」とか「六法」とか、いろいろ多彩な感じで、風には似合いの数字だなぁ、なんて思っています。
 最初は、ちょっと試しに、と吹き始めたものが、6が三つ並ぶ道のりを歩んだことになりました。さて、これからどうしよう、正直やや疲労感もあり、これからのこと、あらためて考えてもいる、そんなときの6のゾロ目という次第。
 科研費報告書や和光大学の紀要づくりや「グラスルーツに根ざす公民館」の本づくりなど、大きな三つの仕事が錯綜して、ドイツから帰ってからの半年、やはり疲れました。私の年齢にしては明らかに仕事が多すぎる、と近くの主治医から注意を受けました。
 疲れたもの同士、内田くんといっしょに(第六号取材・編集の名目で)骨休めの韓国・中国行きを計画したものの、準備の余裕がほとんどなかった、頼みの金子メールも遅くなって、韓国行きのチケットはもう1枚も取れない始末(東京から舟では行けない)。
 そこで数日前に、韓国行きは断念! 全面的に中国行きの計画に切り替えて、ようやく上海と広州をまわるスケジュールが(なんとか)出来あがりました。金子君などからは同行の希望もありましたが、中国行きも急ぎチケットを確保する必要あり、東京だけで決めてしまいました。申しわけありません。もし個別にチケットを取れれば、参加歓迎です(スケジュールの詳細はホーム・ページに入れます)。
 宿は、上海の羅李争や広州の李偉成などの諸君に頼めば、きっとなんとかなるでしょう。もし、日本・中国間のチケットが確保できたら、小林あてご連絡下さい。中国国内便の予約が必要ですので・・。東京からは萩原敬子さんが行く予定です。以上、6のゾロ目の「南の風」、ご挨拶と情報開示不足のお詫びまで。

第671号:2001年4月25日
◆<呉遵民さんへ>
 海を越えての引っ越し、たいへんだったことでしょう。ようやく上海での生活が順調に始まったとのこと、お慶びいたします。これからが楽しみですね。私たちと華東師範大学との研究交流についても、もともとは葉教授と貴君のご来訪(上海滞在中のホテル、1998年2月)から始まったこと。中日・両者をつなぐ貴君への期待は大きい。今後ともどうぞよろしくお願いします。
 今回の私たちの中国への旅は、まったく私的なものですが、ホームページに書き入れたように、大きな目的が二つ。一つは(懸案の)上海・閘北区社区大学(旧業余大学)との合作学院についての最終協議、あと一つは、「東アジア社会教育研究」第6号の取材・編集、です。
 上海滞在は、4月30日に到着して、5月2日朝は広州へというスケジュールですから、実質わずか1日。閘北区の袁允偉、羅李争のお二人に受け入れをすべて任せています。宿泊は、閘北区旧業余大学近くのホテルを予約してもらい、大学から車などの配慮もあるようです。せっかくの華東師範大学・王建盤学長のご招待の話ですが、ご好意はたいへん有り難い、しかし残念ながら、滞在中の時間がまったく少ないこと、次の機会(10月訪問予定)にお願いしたい(あるいは末本、上野両氏の上海訪問の際などに・・・)と、羅・学長補佐にくれぐれもよろしくお伝え下さいませんか。また有名な西郊飯店の宿泊も、次回にでもまたお願いいたしましょう!
 今回の上海でのスケジュールはすべて羅李争、袁允偉両君のところで分かりますので、ご連絡下さい。呉君とはどこか空いた時間、夜でも、お会いできれば幸せです。第6号への上海からの執筆についても、編集委員になったつもりで、考えておいて下さい。  

第673号:2001年4月30日
◆<TOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)の今後−とくに組織・規約について>
 TOAFAEC は妙な出生でした(1995年6月、第1回研究会)。沖縄研究会の前史はあるにしても、ある日突然に始まり、さしたる実績はなく、組織も規約もない、ただ思いと心意気だけで産声をあげました。
 まずは歩き始めよう、具体的な活動のかたちを創っていこう、組織や規約はその過程で、必要に応じて、工夫していけばいいだろう、そんな構えでした。
 具体的には、研究会の定例化、沖縄への旅、韓国・台湾・上海・北京・広州等との交流、上海での合作学院の模索、そして『東アジア社会教育研究』の創刊(1996年9月)など。計画や方針がきちんとしていたわけ
ではありません。いつも半ば思いつきで、まったく手探り、出来ることからやっていこう、というだけのこと。
 このような成り行きですから、代表は「ぶんじん」がつとめるとして、また実務の事務局長を内田純一君に、会計を江頭晃子さんに押しつけるようにお願いしただけで、あとは何一つ役員体制も決まっているわけで
はありません。ただ必要上、『東アジア社会教育研究』の編集委員会とその事務局は個別にお願いしてきました。ただそれだけです。
 しかし見も知らない人からメールで、TOAFAEC への問い合わせが来たり、また次のような書簡(王智新氏)が舞い込むようになって、そろそろ規約・役員・会費などを検討する必要があるのかも知れない、と思います。「南の風」の皆様にご検討をお願いしたいのです。
◆<東京・沖縄・東アジア社会教育研究会「規約」をつくるか?>
 これまでの沖縄研究の歩みのなかで形成されてきたインフォーマルな仲間的なTOAFAEC 活動から、ほかのメンバーの参加も受け入れていく、その意味でややフォーマルな集団に少しずつ移行していくかどうか、皆様のご意見は?
 一度どこかで編集委員会メンバーを中心に集まって議論してみようか、という声があります。具体的には、東京・六月集会(6月16〜17日、日本女子大学、川崎市多摩区生田)が終わった夜はどうでしょう。ご都合はいかがですか。
 実は「規約」案はないわけではない、のです。年会費 5,000円案です。(TOAFAEC として広州市放送大学メンバーを招聘した際に、駐広州・日本総領事館から提出を求められ、作成したもの、1999年秋)
 これをたたき台に、科研費沖縄研究の打ち上げをかねて、楽しく飲み、かつ議論してみる、という提案です。ご意見をお寄せ下さい。

第674号:2001年5月5日
◆<中国の皆さん、有り難う!>
 さきほど予定通りのスケジュールで、無事に帰りました。やっと入手したチケットで、わずか6日間の旅。同行は内田純一と萩原敬子のお二人。上海から広州・香港へ、つむじ風のように駆け抜けました。迎えていただいた皆さん、久しぶりの老朋友、懐かしさと慌ただしさと・・・お互い元気な喜びと。そしていま帰りついて、どっと疲れが・・・。
 たくさんの方々にお会いできましたが、なかでも上海の羅李争、袁允偉、呉遵民、広州の李偉成、李力、深せんの張文科(和光大学卒)の皆さんにお世話になりました。『東アジア社会教育研究』第6号の執筆依頼とともに、上海・合作学院のその後の協議、が主たる目的でしたが、いろいろとご報告したいことがあります。いずれ次号以降で。
広州市・中山大学付属中学校訪問、右端・李偉成、前列中央より萩原・小林・内田(20010504)


第676号:2001年5月10日
◆<上海の合作学院構想、学院づくりへの思い、実らず・・・> *別ページ→■

第679号:2001年5月16日
◆<モンゴルからの留学生>
 和光大学・小林研究室には、いまモンゴル族系の研究生が4人いる。そのうち3人は牧民の出身である。ご存知の方も多いボヤンバートル(現在、フフホト在住、内蒙古師範大学)の研究室在籍をきっかけに口コミで(集めたわけではないが、いつの間にか・・・)集まってきた。物価高の東京で苦労しながら、誇り高く顔をあげ、よく飲みよく歌い、頑張っている。
 この人たちを中心に、研究室では(旧学芸大学時代のように)東アジア留学生「特別ゼミ」が始まろうとしている。上記のチャガンボルグは、すでに来日して3年。昨年末に九州大学大学院(核融合を研究していた)を修士論文作成直前に退学し、「社会教育を研究して身を立てたい、将来モンゴルのために尽くしたい」と和光大学にやってきた。すでにTOAFAEC研究会の常連。(

第682号:2001年5月22日
◆久しぶり<戯れ歌コーナー>
           −5月2日、広州の夕食−
◇紅き血と翡翠の胆汁飲みほして いま吾れしたたか蛇とはならん
◇人を射るまなこ鋭き鳥あわれ 首落とされてスープにしずむ

第683号:2001年5月24日
◆戯れ歌コーナー
      −4月30日、閘北区業余大学・新築現場にて−
◇皿ひとつ立ちて食する出稼ぎの若きらの上に上海は建つ
      − 同夜、学長宅、新マンションに招かれて−
◇ふかぶかとソファーにうもれカラオケをうたう幹部の顔輝きて

第686号:2001年6月2日
◆<お詫び>
 身内に不幸あり(27日、ぶんじんのただ一人の弟、ガン、9ヶ月の闘病、享年68才)、風の送信が滞りました。ほぼ1週間のご無沙汰となり、お許し下さい。この間にいただいたお励まし、お見舞い、弔慰など、有難うございました。この場をかりて、御礼申しあげます。
 しかし、いまだなお心さだまらず、虚ろな毎日、しばしご猶予をいただきたく・・・。

第687号:2001年6月6日
◆<鶴見川の風−萩原敬子さんへ>
 和光大OGB関係者への「風」が吹きはじめ、すでに3号。軌道に乗ったようで、喜んでいます。今後も「風」が、そよそよと吹き続いてほしい。
 名称は、小生あるビールの座のたわむれで「鶴川」と言いましたが、どうも小田急のイメージが先にきて、電車の音が聞こえてくる。むしろ「鶴見川の風」の方が、川に遊ぶ水鳥が見えてきて、和光らしいのではないかと思ったりします。みな、川にそって4年ないし5年通ったのですから・・・、改名してはどうだろう? 
 もちろん皆さんで決めることですが、小生にやや責任があるようなので、ちょっと再提案しておきます。
 あと一つ。いま1年のプロゼミを担当(なかなか面白い)していますが、積極的な学生はもうEメール・アドレスを持っています。数年前には考えられないこと。そのうち在学生も紹介しますので、ぜひ和光の風メンバーに入れて下さい。どうぞよろしく。6日からハンブルクです。15日に帰国します。

第688号:2001年6月8日
◆<ハンブルグ便り(1)> 別紙→■

第689号:2001年6月13日 ハンブルク便り(4)
◆社会文化センター・モッテのレストラン Zum Kleinen Zinken の原則 別紙→■

第689号:2001年7月2日
◆<七夕の会、ご案内>
 今から20年ほど前、国立市の平林正夫氏(学芸大・院卒)が結婚し、小生が仲人役を頼まれて、それが縁で平林のお父さんが、年に1回、お手製のワイン持参で拙宅に見えるようになった。それがたまたま7月だったこともあり、いつの間にか「七夕の会」と名付けて、今年に至っている(ただし昨年はドイツ滞在のため中断)。日頃あまり会わない人たちが年に一度会おうではないか、といった感じの会である。
 毎年、その年に新しく研究室に入ってきた留学生などにも声をかけて、正月15日の新年会とともに、小林宅の年中行事になってきた。平林父子のイデオロギー論争や、酔って若い人たちを叱咤激励するお父さんの「年寄りの冷水」を見るのが楽しみ。多くの留学生が「七夕の会」で酒を飲み、歌をうたい、アジア各地(アーデルの場合はエジプト)に散らばっていった。
 数年前までは、永福のマンションの1室で開いてきた。せまい部屋ながら夕刻になれば夕日が美しく、忘れがたい想い出も少なくない。しかし、さすがに小林夫妻の加齢もあり、いまは近所の小さなレストラン・「グランメール」が会場(貸切り)。今年は、下記の日時で「七夕の会」。どうぞお出かけを。

第700号:2001年7月4日
◆<700号の大台にのって・・・>
 南の風が700号まで続くとは、正直言って夢にも思いませんでした。よくもまあ、ここまで歩いてきたものです。各号、平均35通の発信をした計算でいきますと、約2万5千回ちかくのアドレスを「宛先」欄に書き入れたことになります。「風」発信は、ときには風メンバー以外の(関連する)人を含めて、各号とも1人づつ、アドレスをセットしますので、そんな計算になるのです。郵便だと考えられない。妙な時代になりました。
 この間には「公民館の風」(いま183号)が発信され、また波及して「市民活動の風」「大都市の風」とか、「鶴見川の風」「アルトナーレの薫風」、ロンドン補習高の「通信」、私には送ってくれない(同じアイデアの)通信なども、いろいろ動き始めている様子。ご同慶のいたりです。
 701号より、新しい名簿で発送します。名簿を整理し、落ち着いたところで、アドレス一覧をお送りしましょう。今後とも、この「風」に、そちらからの風も吹いてきてほしい、ご愛顧のほどどうぞよろしく。



*(日誌)701号〜800号