大都市社会教育・研究の系譜(メモ)
  
ー南の風(2021)記事ほか          
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*大都市社会教育・研究と交流の集いー20年・25年ーめざしてきたもの→■
*『大都市・東京の社会教育ー歴史と現在』(2016)→■  *研究史ノート→■


第29回・大都市社会教育研究つどい懇親会(2006年9月10日夜




 はじめに
 ぶんじんの研究自分史をたどれば、1960年代に社会教育の歩みと出会い、70年代に公民館研究、80年代は沖縄研究、90年代に東アジア研究への拡がり、そんな道のりと概括できそうです。加えてあと一つ、70年代から(沖縄研究と平行して)「大都市研究」の取り組みが始まったことを、最近あらためて痛感。5年前の『大都市・東京の社会教育ー歴史と現在』(2016年、エイデル研究所)の出版は、課題を残しつつも「大都市・社会教育」研究のあるまとめを東京を舞台に世に出すことができたように思っています。
 しかい振り返って、「大都市」研究に集中してきたというより、いかにも断続的な取り組み。当の本人も記憶から消えてしまいそうな半世紀の歳月の経過があり、あらためてその「系譜」の大筋をつなぐ作業が必要であることも確認してきました。というわけで思い出すまま、メモ風にその系譜をたどってみる作業を5回ほど「南の風」に書いてきました。戦後初期からの調査や報告など、散逸しがちな軌跡をつなぎ、時代の流れに整序して研究史を綴っておきたいと考えています。あらためてテーマのみ(風への掲載順序を少し変えて)再録しておきます。
1, 戦後初期公民館構想における都市論の空白(南の風4244号【5月14日】
2, 八幡市(現・北九州市)公民館計画の胎動(南の風4244号【5月14日】)
3, 杉並研究ー安井公民館構想「歴史の大河は流れ続ける」(風4237〜9号,【4月8〜18日】) 、
4, 東京・戦後初期の社会教育行政に関する資料収集 (南の風4239【4月12日】)
5, 「大都市社会l教育・研究と交流の集い」(4238号【4月8日】他、TOAFAEC「東アジア」年報26号)

 4月から5月(2021年)にかけて「風」に書いてきた大都市研究「系譜」メモ。しかし故千野・片野そして御塚(福岡)各氏の訃報も重なって、そのまま中断していました。ご容赦ください。この間には、とくに「大都市社会教育・研究と交流の集い」(1978〜2016)の―準備1年を加えれば、なんと40年の歴史―について、年報掲載(25号と26号)の試みもあり、風に何度か書きました。大都市「教育労働」組合と学会等研究者集団の、例をみない協働の取り組みの歩み。今後どう再開できるか。川崎市・北條秀衛さん(元市職労教育支部長、のち同市教育長)や、末本誠さん(湊川短大学長)を含む関係9氏の貴重な回想・課題提起を年報「東アジア社会教育研究」26号に収録→目次■
 1〜5のあと、『大都市・東京の社会教育ー歴史と現在』へいたる「系譜」(メモ)を6〜7本書き足すつもり。.メモに過ぎませんが、後日これをもとに「大都市社会教育研究の歩み」、思い出をふくめて、やや詳しくご披露に及ぶ予定でいます。(南の風4265号、2021/8/31)


1,戦後初期公民館構想における都市論の空白  南の風4244号【5月14日】
 (1) 公民館設置についての次官通牒(1946)あるいは寺中作雄・初期公民館構想は「新しい町村の文化施設」(寺中「公民館の建設」1946)として提起され、都市部への公民館普及については欠けるところがあった。実際の普及にあたっては、次官通牒は全国が地方長官宛「通牒」であり、また時宜よく「新憲法公布記念公民館設置奨励」(局長通達)として全国レベルで教養講座等が催され、公民館制度の周知は全国規模へ、つまり都市部へも広がったと言える。しかし公民館制度の地域創設は、とくに大都市部において消極的なものにとどまった。戦後70年余を経た現在において、大きな空洞をもたらしていることに注目しておきたい。
 (2) 同時にまた、都市部の多くは戦争末期の米軍空襲により焼失し、廃墟からの復旧に追われ、また教育行政としては戦後義務教育年限の延長、六三三制実施という課題がなにより大きな課題であり、当時は社会教育施設の設置まで手がまわらないというのが実態であった。1950年代に戦後復興・新制中学の整備が一段落した段階においても、新しく大都市部への「地すべり」的人口流入の大波に対処しなければならなかった。
 (3) 1947年から始まる文部省・優良公民館表彰は、そのような事情を反映し、当初から農村部の公民館が主流であった。寺中作雄・鈴木健次郎「呼吸のあった二人三脚のコンビ」(寺中)に推奨された15公民館事例が注目されたが、市部は敦賀市と川崎市の2例にとどまる(『公民館シリーズ』6,1948)。大都市部における公民館設置の動きはまったく欠落していた。鈴木は1950年代になると、都市公民館の普及について積極的な発言をし(鈴木健次郎『公民館運営の理論と実際』1951)、また都市公民館連絡協議会等も開催(別府市)されているが、農村・都市の格差はその後も大きな亀裂となってきた。
 (4) このような状況のなかで(前述した)東京都杉並区において、革新区政(新井格区長、1947〜48)が誕生し、高木敏雄区長が文化区政を継承して、本格的な区立図書館(1952)をスタートさせ、併設して翌年に区立公民館を 建設した意義は大きいものがあった。館長に国際政治学者(法政大学教授)安井郁を招いた。女性の読書会(「杉の子」会)や活動が注目されたが、とくにビキニ環礁被爆事件(1955/3/1、第五福竜丸)を契機に広範な原水爆禁止署名運動が公民館を中心に広がり、日本の反核運動の起点になったことは周知のとおり。しかし東京各区でも公民館設置は広がりをみせず、横浜市では公民館設立の動きなど皆無であった。川崎市では市中心部に公立公民館が設立され、のちの「市民館」網設立の基礎となってきた。

2, 八幡市(現・北九州市)公民館計画の胎動 (南の風4244号【5月14日】)
 (1) 上記・鈴木健次郎は、1951年に文部省を離れ、福岡県教育委員会社会教育課長に転出している。福岡県は戦後の公民館制度創出にあたって、1948年・旧青年学校教員給与を専任公民館主事の給与にあて、多数の専任主事を配置した公民館制度を全県レベルで実現した県であった。福岡県は戦後初期、全国比較において「ずば抜けた公民館設置率と専任主事の設置率を生み出すこととなった」(日本社会教育学会編「社会教育法制研究資料」13集、1972)。しかし都市部の公民館は多くの課題を残していた。そのなかで旧八幡市がいわゆる「八幡型公民館」を創設し、都市型公民館の第一のピークを実現した事例は貴重である。そこに鈴木健次郎の役割も少なくなかった。。
 (2) 横山・小林共編『公民館史資料集成』では、西田嵩(八幡市公民館長・当時)の回想を収録して、旧八幡市の公民館史を語らせている。守田道隆(八幡市の戦後初代公選市長、のち全国公民館連合会長)の都市計画構想は、道路・住宅・上下水道・福祉など本格的な広がりをもっていたが、とくに公民館(当初は公会堂・市民館)計画は重要な政策の柱となった。西田の回想によれば、当初は「公民館は全国各町村に設置され」るもとの理解から、八幡市に設置する考えはなかったが、社会教育法(第21条)により「公民館は市町村が設置する」規定によって市全域への画期的な公民館設置が具体化することになった。1952年10月、守田市長は鈴木健次郎(県教委)課長を八幡市に迎え、1,中学校区に地区公民館を設置、2,各公民館に館長と専任主事を配置、3,各公民館には公立幼稚園を併設、といういわゆる八幡型公民館計画を具体化させていく。ちなみに福岡市では小学校区の配置、嘱託主事制による福岡型公民館の体制が具体化していくが、これと対比して八幡型公民館と呼ばれてきた。
 (3) 八幡市中央公民館の開館(1951年)から20年の間に、八幡市全域に約20館の地区公民館が建設された。各公民館には専任館長、主事そして用務員が配置された。そして、その後の北九州市五市合併後に「教育文化事業団」への公民館委託、さらに市民福祉センターへ公民館吸収という嵐がやってくるのである(後述)。
 北九州市「八幡型公民館」については、古賀皓生「八幡型都市公民館の形成過程とその性格−初期都市公民館「守田構想」の再吟味」(熊本学園大学創立50年記念論集、1992年)、小野隆雄ら旧公民館職員6氏による『北九州市八幡公民館五十年通史』2000年)などの貴重な労作が残されている。(つづく)

3,回想・東京杉並研究のはじまり(証言)  南の風4237〜38号【2021年4月08日】
 ≪大都市・東京研究・回想(資料):杉並研究(1)ー1980年≫
 (1)『歴史の大河は流れ続ける』(第1集)「解説」小林文人
  *杉並区立公民館を存続させる会・発行(1980年4月)
第1集・解説
 この資料集の標題「歴史の大河は流れ続ける」は、杉並公民館<公民教養講座>(1954年4月26日〜1961年6月16日)における安井郁(名誉)館長の連続講演「世界の動き」最終回のテーマである。この標題は、もともと読書会「杉の子会」のテキスト『新しい社会』(E.H.カー)にながれる大きなテーマでもあった。
 私たちはこのたび、杉並公民館そして地域の文化運動の歴史を記録するにあたり、このテーマを継承し、資料集第1集に、あらためてこの標題を掲げることにした。
 その安井郁先生も、すでにこの世を去られた。私たちが杉並公民館の歴史にかかわってこられた方々の証言・聞き書き活動を開始し、そして、この第1集刊行の計画を進めていたさなか、3月2日のことであった。一度、せめて一度、安井先生から直接にお話をうかがいたいという私たちの悲願も、遠い夢となった。残念なことであった。
 私たちはただ哀悼の意を表しつつ、公民館の創設と地域平和運動・文化運動に大きな足跡をのこされた先生の意志を復元する努力を続けるほかはない。結果的に本資料集は、先生の追悼号ともなってしまった。 
 東京の社会教育には“歴史”がない。歴史の事実そのものは、かけがえのない歩みとしてあるが、それが実質的に記録された“歴史”がない。日本の(戦後)社会教育のなかでも大きな空白となっている。
 東京の社会教育の歴史とともに、そのなかでの杉並の公民館の歴史もまた、日本の他のどの公民館と比べても比べることができないほどの歴史をもっている。それは日本の公民館史のなかでのあざやかな1頁といってよい。しかし、その“歴史”もいままで綴られることがなかった。 
 杉並公民館の独自の歴史、その歴史を綴ることの意義については、私たちの研究会で5点ほど話しあったことがある。すなわち、(1) 公民館制度をもたない東京都区部のなかでの例外的な公民館であること。(2)原水爆禁止運動との結合、(3)注目すべき「教養講座」の展開、(4)図書館と公民館の併設、(5)安井郁の館長就任、などについてである。
 しかし杉並公民館の創設からわずか四半世紀を経過した現在において、すでに記録は散逸し、歴史は風化しつつある。しかも、杉並区の基本構想によれば、このかけがえのない歴史をもった公民館を廃止しようとする計画さえ進められている。私たちは、「杉並区立公民館を存続させる会」の運動とも結んで、杉並公民館の歴史を記録する作業を急がなければならないと考えた。 
 この第1集では、私たちのこれまでの資料収集・聞き書き活動のなかから、基本的なもののみ選んで収録した。公民館「教養講座」の復元表はまだ不充分な箇所を残しているが、あえて不充分なまま収録することにした。関係者のご協力をえて、こんご空白部分をうめていきたいと考えている。資料集としては、引き続き第二集(証言集1)、第三集(証言集2)、第4集(行政資料集)などの編集・刊行の計画を進めている。内容の面でも、基金の面でも、区民の多くの方々のご参加ご援助をお願いしたい。
 *参考資料→http://www.bunjin-k.net/suginami06kominkan.htm

(2)『歴史の大河は流れ続ける』(1〜4)全目次(1980〜1984) 所収項目→■別ページ
  *杉並区立公民館を存続させる会・発行 旧(東京)杉並区立公民館(手前の木造)1989年閉館

@第1集ー杉並公民館の歴史(B5版、36頁、1980年4月)
 はじめに(伊藤明美)、民衆と平和(抄)(安井郁)、安井田鶴子氏に聞く、ほか
A第2集ー杉並公民館の歴史(2)(B5版、56頁、1981年5月)
 特別区の社会教育ー民主社会の基礎工事として(安井郁)、幻の原稿(解説・安井田鶴子)など
B第3集ー杉並公民館の歴史(3) (B5版、83頁、1982年8月) 社会教育の基地(安井郁)ほか
C第4集ー原水爆禁止署名運動の関連資料集(B5版、149頁、1984年8月)
 水爆禁止のための署名簿、杉並アピール、原水爆禁止署名運動杉並協議会記録、など
◆第4集「後記」(小林文人、1984年8月)
 「杉並公民館の歴史は貴重だ。日本の公民館史上、杉並の歩みはキラリと光を放っている。この足かけ5年間の作業で、私たちは、そのことを再認識、再確認できらように思う。公民館構想の出発に、ご存知のように「寺中構想」がある。それとは明らかに違う内容で、いま私たちは「安井構想」を“発見”した。安井構想とはなにか。地域と地域、国内と国際、生活と歴史、それらを結合させて、学習を組織し、さらにそれと運動(反核運動)と結合させた。そのような公民館の実践の全体像をいま描き出しておく必要がある。」
◆都市公民館研究―東京都杉並区立公民館『安井構想』の展開過程(園田教子)
 
東京杉並の住民団体「杉並区立公民館を存続させる会」に協力するかたちで進められた杉並区立公民館研究、とくに原水爆禁署名運運と安井郁館長主導による都市型公民館(安井構想)に関する資料収集は、同会発行「歴史の大河は流れ続ける」4冊のなかに記録され、貴重資料として評価を集めてきた。また調査メンバー・園田(平井)教子(東京学芸大学大学院生)によって、杉並公民館・安井構想に関して検討が重ねられ、修士論文「都市公民館研究―東京都杉並区立公民館『安井構想』の展開過程」と題する力作が報告されている。
 小林は、1980年から東京学芸大学学生部長の激職と重なり、充分な論稿・資料を発表するに至っていない。その後約20年を経過し、「杉並公民館50年」(2003年―実際には「セシオン・杉並区社会教育センター」へ移行していた)を記念する学習会や資料展示・博物館活動(区民の自主活動による)を期として、原水禁運動とくに安井家所蔵の資料調査が始まり(2005年3月〜2009年12月、毎月1回の安井家訪問)、退蔵資料のデジタル・データ化の作業が重ねられた。この間、数冊の記録・報告集が刊行された。2000年代の杉並(安井家資料)研究史として後述する。

4, 東京・戦後初期の社会教育行政に関する資料収集  南の風4239【4月12日】
◆経過:
 1976年から始まる戦後沖縄社会教育研究会(東京学芸大学社会教育研究室)は、1985年〜86年に「地方社会教育制度の形成過程に関する実証的研究」をテーマとして二度目の文部省科研費(総合研究A)の交を受けた。作業は沖縄研究が主であったが、福岡・北九州研究と並んで、東京研究に取り組む一時期があった。主要な作業内容のみ列記しておく。
 東京社会教育に関する歴史研究が十分でないこと、先行研究を3点ほど紹介した上で、関係者の聞き取りをおこなった記録がある。「東京都レベルにおいて(戦後初期の)社会教育行政にたずさわった関係者のリストは、石川光隆氏作成の資料が基礎になったので、今後の調査活動の便宜のため当報告・文末に掲載されている。」
 関係者への面接調査は、次のような経過で行われた。それぞれに関係資料の一部を用意し、それに基づいて“証言”を求める方法でおこなわれた。
第1回(1984年12月21日)安井辰雄(元青少年教育課長)、三石辰雄(同)「青年学校から青年学級へ「(吉祥寺・武蔵野青年の家) 第2回(1985年1月12日)織戸勝雄(文部省から東京都へ、元青少年教育課長)「東京都戦後初期の社会教育行政」(東京都教育会館) 第3回(1984年2月16日)長谷川和彦(元東京都視聴覚教育課長、現全日本社会教育連合会)「戦後東京の文化行政・視聴覚教育行政」(東京都教育会館) 第4回(1985年3月16日)宇田川誠(元北区社会教育課)、石川正之(同)、「北区の社会教育行政と公民館の歩み」(赤羽会館文化センター) 第5回(1985年6月28日)杉山一人(東京府社会教育課、のち町田市教育長)「東京の青年学校について」(全国連合退職校長会会議室)
 これらの聞き取りに東京学芸大学社会教育研究室(大学院生)が参加した。研究室内部での分析検討会など行えず、7月以降は沖縄調査とその学会発表、報告書の作成などに集中したため、「東京」研究会・資料作成の余力がなかった。沖縄社会教育研究会発行『沖縄社会教育史料6−宮古・八重山の社会教育』1986年刊のなかに、東京報告はp162〜p173に所収されている。

5, 「大都市社会教育・研究と交流の集い」経過  南の風4239【4月12日】他 関連→■20年記録
  TOAFAEC年報26号所収(2021、小林)

 ・・・各年度の「集い」参加者数は一様ではないが、学会(研究者)側が10名前後、各都市(職員労働組合・教育支部)側が2030名。毎年度に各都市から持ち込まれる自治体諸資料を共有しながら、活発な論議が交わされてきた。「集い」のスケジュールは、日本社会教育学会・年次研究大会に合わせ、会場もその近くに設定されてきた。したがって、北は北海道から南は鹿児島まで、全国規模で開催されてきた。学会プログラムの最終日(三日目)午後から大都市「集い」が平行して開始され、翌日まで一泊二日の濃密なプログラムが組まれた。1日目の夜は、全参加者が集う交流・懇親の催しが通例となり、年度により濃淡はあるが、忘れることができない交歓がかわされてきた。
 毎年恒例となってきたこの「集い」が、開かれなくなって4年。昨2020年夏に、「集い」の後半部分(第27回・2004年以降)の事務局を担当された今川義博氏(仙台市職員労働組合教育支部)にお願いして、とくに資料記録が不十分な第25回以降を含め、休会状態に陥っている「集い」記録を一定復元していただくこととなった。年報25号(202012月刊)に収録された「大都市の社会教育・研究と交流の集いに関わって」(今川義博、pp243255)がそれである。第1回(1978年)から第39回(2016年)までの全「集い」記録(開催年、学会会場、集い会場、開催プログラム、論議テーマ、作成資料(25回まで)、懇親会場等)が一覧となって蘇った。仙台市職労・中央執行委員長の激務のなか、労を惜しまず作業を進めていただいたことに深く感謝したい。
 今川復元資料を共通素材にして、大都市「集い」創設に参加してきた主要メンバーに、以下それぞれの立場から自由なコメントをお願いすることとした。大都市「集い」の「これまでとこれから」について、短い紙数しか用意できないが、自由に書いていただいた。各位のご協力に感謝したい。
 「集い」がスタートした1970年代の複雑な高揚を、今まざまざと思い出す。当時の背景を概観すれば、東京三多摩(旧農村部)では「新しい公民館像をめざして」(三多摩テーゼ)の普及があり、自治体レベルの公民館づくりが躍動しつつあった一方で、戦後初期から独自の公民館体制を創出してきた旧八幡市、福岡市(あるいは西宮市ほか)では、すでに職員削減いわゆる公民館「合理化」策が進行していた。北九州市(五市合併)は「教育文化事業団」を発足させ、旧八幡市公民館体制を丸ごと委託(1976年)、福岡市では政令市昇格後に公民館主事嘱託化(1977年)を強行した。つまり地方都市として確立しつつあった公民館体制は、政令市となることによって放棄されたといってよい。そこには戦後社会教育法制の根幹部分(公民館制度)が大都市部に定着してこなかった「非定着の定着」の大きな空洞が口をあけていた。いったい社会教育にとって「大都市」とは何か!
 旧六大都市の公的社会教育体制はなべて貧弱である。人口あたり社会教育費の比較では京都・横浜の貧しさは目にあまる。ところが新政令市・川崎市は旧公民館制度を定着させ、政令市移行後はこれをベースに「市民館」を図書館とともに各区に配置、専門職員を含む職員集団を充実させてきた。自治体職員労働組合運動のなかに「教育支部」が組織されるようになる。自治体計画や公民館研究に取り組んできた日本社会教育学会や社会教育推進全国協議会調査研究部のメンバーと川崎市職労「教育支部」との出会いは1975年前後。前者の北九州の財団委託・福岡の公民館主事嘱託化反対運動と、川崎の大都市社会教育調査を前史として、本「集い」構想へ論議は、1977年から始まっていたように記憶している。とくに川崎の故伊藤長和さんの果たした役割が大きかった。
 当時のこと、「集い」開催のその後の展開については、前掲「大都市の社会教育研究と交流の集い20年−私たちはなにをめざしてきたか」(1998、小林)に証言として記録されている。

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