◆小川利夫氏追悼のページ◆
 
          (「南の風」記事など)



小川利夫氏(1988年9月3日、東京にて)


◆故小川利夫氏・写真→■(古いアルバム「掘り出し」)


◆<社会教育の深い森のなかへ>    
  *『小川利夫社会教育論集』月報4(1997年1月) 小林文人

 自由に書いてよろしい、というお話しなので、すこし自分史的な回想になってしまうが、お許しをいただきたい。(ほんとは東アジア的な視野からの公民館論<小川公民館近代化論への若干の意見>を書き始めたのだが・・・、やはり・・・。)
 ふりかえると私の人生の重大な岐路に、小川さん(こう呼ばせていただく)は、少なくとも二度登場された。一度は、私を社会教育研究に誘惑し、その得体のしれない深い“森”に連れこんだ人(恩人?)として、あと一度は、索漠たる東京からようやく念願の九州の大学に帰郷しようとしたとき、それを断念させてしまった人(恩人?)として。
 私はもともと教育社会学の専攻である。大学院から助手時代は、農村社会学をごっちゃにしたようなテーマで九州の山村や漁村をあるきまわっていた。正式の所属は「教育社会学講座」助手であった。そして、忘れもしない1960年の秋、日本社会教育学会の大会(第七回、於九州大学)が開催された。私はその実務を担当することとなった。
 この年、九大教育学部では、日本「教育社会学」会の大会も開催された。所属講座の助手として、私はこの仕事に没頭させられた。その最中、駒田錦一教授(当時)は隣接講座の助手である私に、日本「社会教育学」会の大会開催にも協力してほしいと要請された。そしてようやく開かれたこの大会、その3日間のことを私は生涯忘れないだろう。実に若々しく、刺激的な学会であった。 そこで初めて小川利夫という人にあった。出会った日と時間まで憶えている。一つひとつの言葉のやりとりもまだ脳裏にある。この学会では、大会の準備過程で横山宏さんとの今日にいたる交流が始まり、またその後に九州を石もて追われて上京したあと、(職に恵まれなかった私を)いつも励ましていただいた吉田昇氏などを識った。山本敏夫(当時会長)、宮原誠一、碓井正久、福尾武彦等の方々とも出会った。「学恩」という言葉があるが、私にとっては個人的な恩義というより、むしろ「学会」への「恩」である。この学会がなければ、そして小川さんたちとの出会いがなければ、私は社会教育研究の道に進まなかっただろう。
 振りかえると、それからすでに30年余りが経過している。学会だけでなく「月刊社会教育」編集、社会教育推進全国協議会、あるいは旧自治労系の大都市社会教育研究会、のちには日教組・教育改革研究委員会など、さまざまご一緒させていただいた。沖縄研究について「南方作戦がんばれ」と妙な言い方だけれど、励ましていただいた。大学職場のなかで、いわゆる学閥のしがらみのなかで呻吟・苦闘していた身には、心さわやかに声をかけていただく度に、その度量の広さに感謝してきた。
 あと一つの人生の岐路とは、東京の大学から九州の大学への異動の話である。私には「九州民族派」(小川さんはときに酔って私をこうからかった)の思いあり、ある年に誘いを受けて、九州への転勤を決意した。東京を去る理由はとくにないが、九州への積年の怨念のようなものがあり、荒れなんとするわが故郷に帰ろう、と思ったのである。1972年前後のことである。
 実はローンを組んで、当地に家まで建てた。しかし異動は実現しなかった。いくつか事情が重なった。一つには九州の大学の方で紛争があり、予定通り赴任が出来ず一年の待機を強いられたこと、次の年には東京の大学の方で新しい人事(社会教育)が始まり、責任者として直ちには動けなくなったこと、あと一つは突然に「月刊社会教育」編集長を引き受けざるを得なかったこと、である。結果的にこの人事は白紙にかえった。
 当時「月刊」編集長にはもともと小川さんの就任が予定されていた。しかし小川さんには日教組・教育制度検討委員会事務局長の仕事が降って湧いてきて、「月刊編集長を引き受けることが出来なくなったよ、ぶんじん、たのむ!」というような経過であった。吉田昇さんや横山宏さんや野呂隆さんたちも賛成だ。事情を聞いてもらえないまま、私は月刊の仕事に突入することになった。 
 その後あるときお酒の席で、小川さんがしんみり「ぶんじん! お前に借りがある」と言う。聞けば、このときの月刊編集長のことらしい。当時は他にも事情があったわけだが、私は黙って聞いた。豪放磊落のように見えて、なんと細やかな心だろう、と思った。
 その後、私には九州に帰る機会はない。まったく誘いがなかったわけではないが、結果的にそのまま東京に留まることになった。しかし九州には住む主をもたない家がそのまま今でも残っている。一度、小川さんや横山さんたちに泊まっていただいたことがある。賓客を迎え、せまい寓居も一夜華やいだ。
 小川さんは、やはり私の人生の分岐点において、歩むべき道を、結果的には決めてくれた人のようだ。(和光大学教授、日本社会教育学会会長)


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日本社会教育学会第7回大会(福岡)の夜−1960年

 1960年・日本社会教育学会・第7回大会(会場・九州大学)の夜、博多中洲(小料理屋)「愛染」にて。
当時、小川利夫さん(右)は最も若い学会理事、ぶんじん(左)は会場校の助手(教育社会学講座)。社会教育
研究への道を歩め!と飲みながら誘惑された。カウンターだけの小さな店。駒田錦一(大会々長・九州大学教
授)のほか、宮原誠一、碓井正久(さかんに童謡の熱唱)、横山宏、福尾武彦など理事の方々がご一緒。店の
看板まで貸し切り状態。小川さん34才、ぶんじん29才。各先生はすでに故人。




1986年度・日本社会教育学会にて小川利夫氏(左より2人目に小林もいる)


◆<小川別邸に泊まる>
  【南の風】第34号(1998年5月25日)

○1998年5月22日、TOAFAEC 定例研究会。
 報告者は伊藤長和さん。テーマ「川崎と富川(ぷちょん)」韓国人3人、スイス人、モンゴル人も参加して、いい研究会。
 帰路に伊藤長さんから、碓井正久『虚ニシテ往キー回想の先師・故旧』をいただく。「一カ所だけ小林ぶんじんのことが書いてある」とのこと。帰ってみたら、碓井先生から直接の本がとどいていた。突然の2冊の本を前にして、ひとり恐縮。
 さっそくお礼の手紙を書く。1冊は誰かにお裾分けします。
 読んでみると、故古木弘造氏(もと名古屋大学教授、日本社会教育学会長)の回想のところで、碓井さんとご一緒に東海社会教育研究会に出席し、小川利夫さんの「別邸」に二人で泊めていただいたことが書いてある(同書・207頁)。小生はまったく忘れていた。驚いた。日記をつづる人への尊敬、ますます!
 このように言葉つかいが厳密な方の文を読むと、「南の風」のような雑文、戯れ歌の類を乱発する愚行を恥じるのみ。(小林文人)


1978年、関西六月集会に出席、小川利夫さんと同宿(芦屋)





◆<『東アジア社会教育研究』第3号>
  【南の風】第102号(1998年10月17日)

 小林文人学兄
『東アジア社会教育研究』第3号、ありがとう。改めて敬意を表し、
ご発展を希念いたします。
同封の『心のリハビリ通信』近況ご報告をかねて・・・。
お元気で。(小川利夫、1998・10・14)

○小川利夫『心のリハビリ通信』第7号(9月)より―
◇新聞の 小見出し読めど、本文は 虫メガネにて、読む日来れり。
◇気がむけば、ただむくままに、むくままに。書けばいいのさ、めぐまれた日々。
◇TELのみが、ネットワークと、なりし日が、老いの兆か、今日もTELする。



◆<東京学芸大学・社会教育研究室(小林ゼミ)のなかの小川先生
    ー学大・社会教育研究室(小林ゼミ)、韓民・高峡夫妻を送る夕べ−1988年
名大・院を了えた韓民
(現・中国教育部)・高峡夫妻が中国帰国(多分?)の挨拶に東京に来た(1988年9月)。前列左より船越泰、
浅野浩一、進藤文夫、海老原治善、韓民・高峡(一人おいて)小川利夫(かなり酩酊)、園田教子(かくれて)
小川正美、遠藤輝喜。後列左より武士田忠、小林、田中喜美、山口真理子の皆さん(敬称略・9月24日)





◆<「心のリハビリ通信」>
  【南の風】第182号(1999年2月12日)

 小川利夫さんが「心のリハビリ通信」というミニコミを出しておられる。【南の風】でも一度紹介した(第102号、10月17日)。
 こんど日本教育学会「教育学研究」(1998年12月、第65巻4号)に掲載された小林文人「教育基本法と沖縄」について、電話いただき、「心のリハビリ通信」第13号(99年1月下旬号)で取りあげていただいた。「小林文人さんの好論」「改めて教えてくれる」などの評価のあと、(小川さんの独特の言いまわしだが)「ただ一点、同論文の弱点」として、孫文「三民主義」(岩波文庫・上下)を援用して「半植民地」「次植民地」の視点からコメントされている。
 次の歌のコーナーに所収の通りだ。
 小生は何よりも、あの「教育学研究」の、あの評判の悪い小さな活字を読んでいただいたことに心底、驚いている。(小林文人)
○小川利夫「心のリハビリ通信」第13号、「唄ごよみ」より―
◇沖縄は、植民地のなかの植民地 本土とオキナワ、半植民地ー次植民地
◇オキナワは、本土のなかの、植民地 本土の鏡、縮図ではないか。
                   ―小林論文を読んで―



◆<小川利夫さんからの短信、1999/12/18>
       【南の風】第404号(1999年12月22日)
前略
 『これからの公民館』(国土社)アリガトウ。
 しっかり学習させていただきます。
 さて、@オキナワはどうでしたか?
    Aエーデルの本は、まだかいな?
    B拙文「公民館の歴史と未来」を論集の第三巻に掲載、来年  
      2月頃公刊の予定ですが、いいでしょうネ?
    C同封のもの(心のリハビリ通信・略)年賀をかねての近況
 のご報告です。
 オクさまによろしく、良いお年を!
 (二伸)そのうち、アイタシ。 おがわとしお



◆<『心のリハビリ通信』の集成(創刊号〜第50号)>
              【南の風】第1128号(2003年3月27日)

 昨日、上記“心のリハビリ”集成を送っていただきました。ある頁に小林文人に関する論評が突然出てきて驚きもしましたが、毎号の「唄ごよみ−老いの日々」を読むと、まさにこの5年間の闘病の記録。
 「あとがき」にも「人は誰しも肉体に支えられて生きていくのだ」と痛切に記されています。小生自身も、昨年のギックリ腰で動けなくなった体験があるだけに、この心境がしみじみよく分かります。
 昨年8月(ちょうど名護集会の頃)の「病床写真」が載せられていますが、往事の頑健・活発な小川さんを知るものにはなんとも痛々しい。それだけに、このような『集成』をまとめられる気力と知性にあらためて敬服。集成はもともとは『小川利夫社会教育論集』(全八巻、亜紀書房)の別巻にするつもりだったとのこと。なんという執念!「論集作成の裏話」も含めてこの通信が貴重な記録になっています。
 3月1日の日中教育研究交流会議の席で、牧野篤氏から、また入院されるらしい、と聞いてすでに1ヶ月近く。その後はどんな経過なのだろうと案じつつ・・・、しかしまた、きっと達観・楽天の心境で「唄ごよみ」を記されているのでしょう。(小林文人)  



◆<訃報・碓井正久先生>
   【南の風】第1353号(2004年10月11日)→こちら■ 目次・追悼U→(23)
   *文章は重複を避け、写真のみ追悼の思いをもって掲げる。

碓井正久先生(20011107 横山宏氏葬儀・横山邸)




◆<日本公民館学会七月集会に届いた訃報>
        【南の風】第1880号(2007年7月22日) 小林文人

 悲報はいつも突然に私たちを襲います。7月21日、日本公民館学会・今年度七月集会(「公民館の今日的課題と可能性−赤平市の公民館の事例をめぐって」法政大学)のプログラムが終了し、懇親会に移って、楽しい歓談の最中のこと。小川利夫先生が亡くなられたと。巨星墜つ!とはまさにこのことです。
 戦後日本の社会教育研究のなかで大きな山脈を築き、新しい水脈を拓いてこられました。名古屋大学教授、そして社会教育推進全国協議会委員長、日本社会教育学会会長等を歴任され、多くの後進を育ててこられました。
 大作『小川利夫社会教育論集』(亜紀書房、全8巻、1992〜2002年)各巻に付された「月報」4(1997年1月)に、ぶんじんは次のように書いたことがあります。
 “社会教育の深い森のなかへ”
 「…ふりかえると私の人生の重大な岐路に、小川さん(こう呼ばせていただく)は、少なくとも二度登場された。一度は、私を社会教育研究に誘惑し、その得体のしれない深い“森”に連れこんだ人として、あと一度は、索漠たる東京からようやく念願の九州の大学に帰郷しようとしたとき、それを断念させてしまった人として。…」
 大恩人です。1960年の出会い(第7回社会教育学会、於九州大学)から40年近く親しくさせて頂きました。たくさんの想い出があります。ときに叱られ、いつも励まされ、よく語り飲み歌い、また若輩の身ながら激論も許して頂きました。はるかかなたの、あの笑顔に、心からの御礼を申しあげます。



◆<あらてめて『心のリハビリ通信』を読む>
      【南の風】第1881号(2007年7月23日) 小林文人

 小川利夫先生の訃報が伝わって、「南の風」の皆さんにもご縁があった方が多く、この一両日、各地から追悼の思いが寄せられています。太田政男さん(大東文化大学)も、風・前号を受けて「…小川先生のことはほんとうに残念でした。…ぼくもブログに書かせてもらいました」と「巨星墜つ」の一文を送っていただきました。はじめてブログ「酒中日記」拝見、当方の素人じみたものでなく、洒落たページ制作に感じ入った次第。いただいた文章の前半を紹介させていただきました(上記)。
 22日は終日、『心のリハビリ通信集成』(小川利夫著、創刊号〜第50号、私家版、2003年2月刊)を開いていました。「唄ごよみ−老いの日々」のなかの1首「いたずらに 駄文をのこす こともなし されどヨミ、カキ 生き甲斐なのさ」(2000年9月24日)とあるように、病床にあってなお衰えぬ「読み書き」の意欲と記録化への執念、心打たれるものがあります。
 「創刊の辞」(1996年9月1日)の冒頭には「昨年の五月初旬に大病にかかって…」の書き出し。「あとがき」2003年1月15日の日付。「大病」から今年まで、12年間余を頑張ってこられたことになります。
 この「集成」の終わりちかく、私たちが名護・全国集会(2002年9月1日)の会場から送った寄せ書きが掲載されています(第44号、332p)。「集会成功!ぶじ終わりました、いい集会でした」とぶんじん。平良研一、新城捷也、喜納勝代、名城ふじ子、中村誠司などの沖縄側と、社全協常任委員会メンバーの皆さん、合わせて30名ちかくが書いています。あのとき沖縄では、みんなで小川先生の笑顔を待ち望んだのでした。
 告別式(東京・稲城・醫王寺、20070724)




◆<告別式−棺に花を捧げて・・・>
    【南の風】第1882号(2007年7月24日) 小林文人

 7月24日の小川先生告別式(東京・稲城・醫王寺)当日は、お通夜から一転して、さわやかな晴天。元気なころの小川さんを思わせる晴朗な風、日ざしも強い1日となりました。この日、朝日新聞の朝刊は簡単な訃報を載せ、「後日、しのぶ会を開く予定」とあったせいか、心なしか参列者は少ない感じ。しかし全国から主だった顔ぶれの焼香が続きました。棺に花を捧げてお見送りしたあと、北田耕也、徳永功ほかの皆さんと、駅近くのソバ屋でしばし昔ばなし。
 話に出てくる小川さんは、いつもお酒を飲んでいて賑やか。すこし我が儘ながら少年の稚気あり。まことに情あつく、まわりに元気を振りまいてきた人でした。享年81才。しかし晩年の10年ほどは(5度の大手術を含む)病床にあり。あと少しお元気でいてほしかったというのが、多くの知己後輩共通の願いだったのです。
 南の風は、小川さん逝去の衝撃から、連日の慌ただしい送信となりました。(以下、略)

 
告別式2 (東京・稲城・醫王寺、20070724)




◆<徳永功氏「小川利夫さん逝く−“サヨナラ”ダケガ人生ダ」>
            【南の風】第1885号(2007年7月30日)

 先日(7月24日)の小川先生の告別式あと、文人さんはじめ北田耕也さん、山崎功君、青木紘一君と久しぶりに懇談するこができて、日ごろ一日置きの病院通いのため、なかなか人に会うことができない小生にとってはとても嬉しいことでした。前の日の通夜では、堀尾輝久さんと太田政男さんとも言葉を交わしました。これも小川先生のお陰というべきでしょうか。
 小川先生は要介護度5という病状で長い闘病生活を送られており、予期はしていたものの、本当に逝かれてしまったと聴いたときはショックで、呆然とするばかりでした。淋しさは日増しにましてくる想いです。
 通夜の席で、上田編集長から原稿の依頼があり、急いで「小川先生と私」という文章を送ったところです。
 小川さん(いつもそう呼んでいました)と小生の付き合いは長く、45年以上にもなりますが、最も濃厚な付き合いは三多摩社懇のころ(1964年前後)だったと思います。酒の席での、活発で、熱烈な談論の中から、いわゆる「公民館三階建論」が生まれ、それによって、小生の公民館事業への方向性は明確化を強めていったのです。
 当時のもう一つ忘れがたいことは、社会教育学会年報づくりのことです。「現代公民館論」(1965年刊)は小川さん中心の編集委員に宮原誠一、横山宏、室俊司といった人たちと共に、なぜか小生も加わらせていただき、とても有意義な勉強と嬉しいふれ合いをさせていただきました。
 この年報の特徴は何と言っても「公民館主事の性格と役割」という紙上シホジュウムを実現したことで、いわゆる「下伊那テ−ゼ」に対し全国の主事会が意見や評価を寄せてきたのですが、そのことを全国的な規模で俯瞰し、具体的に実現させたことは、当時としては画期的なことだったのですが、小川さんの顔の広さと熱情なしには考えられなかったことで、これがやがて結成される社全協の下地にもなったと思います。
 小川さんとの酒席での武勇伝は、いろいろ思い出すことができますが、とにかく小川さんとの酒的談論はただ愉快であっただけではなく、あとに勇気をもたせるもので、その意味で、かけがえのないものだった、と感謝をこめて、泣きたい気持ちでいます。
 人生は限りあり。無常である。小川さんがこよなく好きだといって、しばしば吟じた漢詩を以下に紹介します。
 勧 酒 (干武陵の詩を井伏鱒二が訳したもの)
  コノサカズキヲ受ケテオクレ
  ドウゾナミナミツガシテオクレ
  ハナニアラシノタトヘモアルゾ
  「サヨナラ」ダケガ人生ダ
    *徳永功氏(Sun, 29 Jul 2007 10:22)
     (国立市もと公民館長、もと教育長)



◆<小川利夫先生を偲ぶ会>
 
【南の風】第1936号(2007年10月29日)

 10月28日は東京・新霞ヶ関ビル(灘尾ホール)で「小川利夫先生を偲ぶ会」が開かれました。「強靱な理論と大らかな人柄に思いを馳せて」多数の集まりとなりました。全国から寄せられたメッセージ記録とともに、「偲ぶ会」として編集された重い冊子(226頁)。
 表紙を開くと、在りし日の写真。流麗な直筆「人の幸せ それは 人と人とのふれあいの 豊かさと深さにある」(1993年)、「福祉は教育の母体であり 教育は福祉の結晶である 社会教育は教育と福祉 福祉と教育を結ぶものである」(同)、それと並んで画家・寺中作雄が画く「小川さん」の似顔絵が秀逸な出来映え。続いて、「小川利夫教授最終講義」(名古屋大学、1990年)「九十九里浜でむかえた8・15」(1995年)等が収録されていて、貴重な1冊となっています。
 第一部・式典、第二部・懇親会(HPに写真)では参会者に発言の機会が与えられました。小川先生との初めての出会いは1960年ですから、はや半世紀近く。学会や社全協や「月刊」編集などでのさまざまのお付き合いがありましたが、ぶんじんはとくに労働組合(日教組、自治労)との関わりについて短かく話をさせていただきました。自治体労働運動(ともに全国自治研助言者)と出会うなかで、「大都市の社会教育・研究と交流の集い」が誕生し、今年で第30回を迎えたことも。
 しめやかな「偲ぶ会」は、お酒の好きな小川さんを思い出して、一同だんだん愉快に。徳永功さん(国立市)や進藤文夫さん(国分寺市)は、三多摩で一緒にうたった歌を披露。帰りには式場に飾られたお花をすこし頂いて、いま机上に飾り、小川さんを偲びつつ、本欄を書いています。
 夕食は、来日中の烟台(山東省)張林新さんと。懸案の訪中日程を打ち合わせ。12月7日〜11日の日程、北京→烟台→上海のコース案を話し合い、韓民さん(北京)や呉遵民さん(上海)のご都合も聞いて、数日中に最終確定することになりました。(以下略)

 
第1部・式典

 第1部・懇親会




◆<小川利夫先生のご逝去を悼む
 
  【日本社会教育学会・学会通信】185 (2007年12月)

                           小林 文人

 本学会の創成期から社会教育研究・運動を力強く牽引されてきた小川利夫先生(名古屋大学名誉教授)が二〇〇七年七月二一日に逝去された(享年八一歳)。小川先生は一九六〇年以降、十期にわたって学会理事として活躍され、一九九〇年から四年間は二期にわたって会長としての重責を担われた。名古屋から東京の理事会へ毎回出席されていたお姿をいま想い出す。
  学会の第一回研究大会においてすでに研究報告をされている(テーマ‥近代ドイツ社会教育史序説、「学会五〇年の回顧と回想」)。はじめて理事となられた一九六〇年はまだ三四歳の若さ。当時の若々しい学会の雰囲気を象徴するかのような、清新・自由・闊達な新理事の登場であった。この期の理事会は「宿題研究」テーマに「公民館」を取り上げ、担当理事として、研究・実践を交流する視点を重視した共同研究を組織された。その成果は『現代公民館論』(年報第九集、一九六五年)に結実し、その後の本格的な公民館研究の出発点となったことは周知のことである。
 先生は多くの後進を育てられた。その研究業績はまさに“汗牛充棟”を超えるもの。主著(『国民の学習権と社会教育』一九七三年、『青年期教育の思想と構造』一九七八年、『教育福祉の基本問題』一九八五年)に加えて、主要論文のほぼすべてが集約された『小川利夫社会教育論集』(一九九二年〜二〇〇一年)全八巻が刊行されている。膨大な研究業績を体系的に整理編集し、各巻に「月報」を盛り、各テーマに小川理論に学んだ解題者を配するという稀有の作業を自らやってのけられた。驚嘆に値する。 
 しかし小川先生の晩年は十年余にわたる闘病生活であった。一九九五年五月初旬に大手術をされて以降のことは、『心のリハビリ通信』(一号〜五〇号、、同「集成」二〇〇三年)にさまざま記録されている。生きる限り、時代と格闘されようとした激しい思いに心打たれるものがある。

 豪放・剛胆なお人柄の一面、追憶のなかの小川先生は、驚くほど繊細・細心な心配りをされてきた方であった。多くの人にハガキを書き、若い世代に声をかけ、留学生を励まし、つねに弱い者の味方であった。学会の研究活動を拠点に、沖縄を含む全国の地域自治体や、労働組合、福祉関係者、あるいは市民運動、関連学会等を横に結ぶ独自の役割を担ってこられた。体を惜しまず努力された歳月が、先生の晩年の厳しい闘病生活を招来したのではないかと思われる。まさに巨星墜つ。私たちは偉大な先達を失った。