南の風・末尾記事(ぶんじん日誌)
1450号(4月10日)
■<台湾訪問計画>
5月連休に台湾を訪問するスケジュールがほぼ確定しました。1日より6日までの日程、小林文人、内田純一(高知大学)、上地武昭(沖縄大学)、鷲尾真由美など5名のメンバー。台北を中心として、最近の台湾の社会教育・生涯学習の動きについて資料を収集し、関係の皆さんとの交流を深めよう(久しぶりに一杯飲もう)、「東アジア社会教育研究」第10号編集にも反映させよう、という計画です。
台湾の社会教育については、日本側には専門的な研究者がいないに等しい。台湾からの留学生たちが架け橋になってきたところがありますが、継続的な研究交流の蓄積があまりありません。私たちの「東アジア」研究の歩みは、そういう空白を少しでも埋めていこうという思い。
台湾社会教育との出会いを求めての、初めての訪台は1989年。1996年には台湾師範大学・台北市政府が共催して、日本(TOAFAEC
)との生涯教育をめぐる国際合同シンポが開かれた経過もあります。しかしその後の私たちの研究交流活動には間断あり。沖縄からも近いのに、台湾に行く機会をなかなかつくれない。それだけに、毎年の「東アジア社会教育研究」編集では、台湾についての報告・論説が欠落しないように出来るだけの努力をしてきたつもりです。この間には楊武勲さん(早大院・当時、現在は国立ChiNan大学)や鄭任智さん(早大院)たちが、双方をつなぐ役割を果たして頂きました。
台湾には社会教育法(1953年)の歴史があり、その後の改正、さらに成人教育法草案の試み(1991年)や「邁向学習社会」(白書、1998年)等を経て、2002年に生涯学習(終身学習)法が成立・公布されました。それからの3年、どんな展開がみられるのか。また、大規模な地域づくり(社区総体営造)施策のその後の動きについても興味あるところ。
1149号(4月8日)
■<二つの断章>
ときどき誰かに伝えたくなるような文章に出会うことがあります。その一つ、内橋克人氏の「共生経済が始まる」(NHK
人間講座、2005年3月)に引用されているエーリッヒ・ケストナー(1899−1978)の一文。
「かしこさをともなわない勇気はらんぼうであり、勇気をともなわないかしこさなどはくそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、かしこい人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気のある人たちがかしこく、かしこい人たちが勇気をもったときにはじめて−いままではしばしばまちがって考えられてきましたが−人類の進歩というものが認められるようになるでしょう。」(『飛ぶ教室』、山口四郎訳)
あと一つ。ノーマ・フィールドさん(シカゴ大学教授)とは和光大学時代にお会いしたことがありますが、7日の朝日・夕刊に「小林多喜二テーマの記録映画(時代を撃て・多喜二)−闘う姿勢 現在を逆照射」と題して含蓄ある一文を寄せています。そのなかの一節。
「…ひどい世の中になってきた、と言いだしてはや十年、十五年経ってしまった。日本もアメリカもここ二、三年、速度をましてひどくなっていると感じるのは私だけではないはず。なによりも不思議なのは、そう認識していても−例えば、イラク戦争を支持している人を一人として知らない−何もしようとしない、ということ。何をしても世は変わらない、という雰囲気が蔓延して、実に心地悪い。それに比して、多喜二や他のプロレタリヤ文化運動家たちは20年代、30年代の社会の不正と侵略戦争態勢に真っ向から物書き、音楽家、絵描き、として闘ったのである。理念を掲げることを恐れなかったし、ましてや冷笑しなかった。…」
*前号本欄の数字の一つが間違っていました。395 が正しい数です。
1448号(4月7日)
■<「公民館の風」その2>
前号の続き−
1999年秋から「南」「公民館」の二つの風が、競いあいながら吹き続けることになりました。寄せられるメールを整理しつつ、二つの風に仕分けして、交互に「風」送信。しかし、メンバーの大半は重複していましたから、受け取る側としては毎日の「風」受信、ときに暴風の感あり。いろいろの情報に埋もれて珠玉の記事が読まれない状況も。また発行者としても「風」編集のマンネリを自覚するところがありました。
これはいかん!と「南の風」1000号達成を期して、どちらかの風を止めようということに。客観的にみて「公民館の風」が大事、だが「南の風」の独自性も棄てがたく、それなりのぶんじんの役割は「南」発行にあるだろう、などなどの論議がありまして、「南の風」を残し、「公民館の風」は休止、という経過となったのです。2003年2月7日・395
号が最終号でした。それから2年余り。
このあとを萩原さんが「新・公民館の風」として引き継いで頂きました。395号にあえて萩原さんの全110号を加えれば、計505
号、佐藤さんの新第1号は、通巻506号ということになります。旧「公民館の風」目次一覧は、TOAFAEC−HPに掲載しています。
ちなみに現在の「南の風」配信数は毎号95(+α、ローカル配信)です。2年余り前の「公民館の風」休止後の参加は
44(再加入を含む)、他方で(アドレス帳整理時の呼びかけに反応なく)配信停止数が若干あり、「風」受信者にはかなりの流動・代謝があります。
佐藤さんへ。「2005公民館の風」配信、どうぞよろしくお願いします。
1447号(4月6日)
■<「公民館の風」その1>
この2年余り、川崎の萩原周子さんのところから「新・公民館の風」が発行されてきましたが、この4月1日「閉店・新しい風へ」(110号)が出され、それを引き継ぐかたちで、佐藤進さんを発行人とする新しい「2005公民館の風」がスタートしました(第1号、4月4日)。
4月の年度替わりを象徴するような「風」の交錯。萩原さん、ご苦労さまでした。この2年あまり、やはりやってみないと分からない喜びもあれば、同時に苦しみ?もおありだったと思います。まずは、お疲れさま!と申しあげなければなりません。萩原さんが、これからまた、どんな挑戦をされるのか、楽しみです。
お二人の閉店と開店の言葉のなかには、いずれも、ぶんじん旧「公民館の風」のことが触れられています。この機会に少し古い話をご紹介させて頂きましょう。なにしろ「南の風」メンバーの半数近く(約40人)は、旧「公民館の風」のことをまったくご存知ないので。
「南の風」創刊は1998年2月。翌年1999年9月に「公民館の風」が吹き始めました。沖縄・東アジアだけでなく、広く日本各地の社会教育や公民館について寄せられるメールが増えてきたのです。「公民館」問題に執着して仲間のネットを拡げ、必要な情報を共有していこうとの思いから、新しい「風」創刊となりました。
まず「公民館の風」準備号(9月14日)を発信し、同25日に創刊号。最初の参加は8人、そのなかの一人に佐藤進さん(当時は香川大学)も。創刊号特集は、忘れもしない日本社会教育学会特別年報『現代公民館の創造』(東洋館出版、同年9月15日発行)の宣伝・普及でした。−以下(長くなりますので)次号へ−
1446号(4月4日)
■<海勢頭豊「喜瀬武原」(ぶ)>
前号(沖縄タイムス記事、パピリオンお別れの夜)の続き。琉球新報は3月31日夜の模様を「常連客と最後の熱唱 エル・パピリオンが閉店」と次のように報じていました(4月2日11:53)。
「…この日は最後を見届けたいと多くの常連客が訪れ、店との別れを惜しんでいた。…(略)… エル・パピリオンは癒やしの場、情報の交差点、それぞれの思い入れを話しながら酒を交わし、店の雰囲気に酔いしれていた。…(略)… 交互に舞台に上がり、海勢頭さんのギターに合わせ「喜瀬武原」など代表曲を歌った。娘の愛さんも楽器を持って参加し、1曲ごとに大きな拍手がわいた。…」
この「喜瀬武原」を歌った客は、ぶんじんです。この曲を歌えない学生には単位を出さなかったそうだ、と海勢頭豊さんはみんなに紹介して爆笑となりましたが、もちろんこれは俗説。ただ、歌えない学生は研究室の居心地が悪かっただけのこと。
「喜瀬武原」という曲は、ご存知の通り、県道越え実弾演習の真下にある喜瀬武原の集落から平和への願いをうたった歌です。20年あまり前の朝日新聞のコラム「大学散歩」記事(1983年1月4日)の一部。
「東京学芸大の小林文人教授(社会教育学)の研究室には“ゼミ歌?”がある。沖縄の歌手・海勢頭豊さんの喜瀬武原。米軍基地への闘争から生まれた反戦歌である。
…(略)… それに刺激されてか、沖縄研究を続ける同教授の研究室に出入りする学生たちは喜瀬武原に魅せられてしまった。年に数回、沖縄に出かけるが、行くたびに必ず寄るのが海勢頭さんのパピリオン。
♪喜瀬武原 陽は落ちて 月がのぼるころ 君はどこにいるのか 姿も見せず 風が泣いている 山が泣いている みんなが泣いている 母が泣いている♪ っていうんです。いい歌ですよ、と同教授。…
」
1445号(4月2日)
■<エル・パピリオンお別れの夜>
このニュース、エイプリル・フールではありません。3月31日はパピリオン最後の夜でした。この日の沖縄タイムスの記事(上記)をみて駆けつけた人もありました。パピリオンを支えてきた親しい人たちが別れを惜しんで、ありったけ持ち歌をうたいあい、海勢頭豊さんは4時間近くギターを弾きづめ、最後に海勢頭節「トバラーマ」、いつまでも忘れることが出来ない夜となりました。
花粉症逃れでたまたま沖縄に滞在していたぶんじん、「パピリオン閉店」情報はショックでした。虫の知らせか。最終日が31日と聞いて帰京できなくなりました。
待ちきれず、その前夜(30日)もパピリオンへ。いろんな人が来ていました。久しぶりに安里英子さんと会って、久茂地文庫のこと、象グループ・大竹康市の思い出など話はつきず。そういえば最初にパピリオンに連れていってくれたのは英子さんでした。1977年、まだ店は国道58号線沿い、はじめて海勢頭「喜瀬武原」を聞いたのでした。
でに30年近く経ったことになります。小林一行の那覇の夜は、必ずといっていいほど、パピリオンでした。はじめての学生たちもパピリオンを通して沖縄に出会ったところ少なからず。なんど「喜瀬武原」や「月桃」を歌ったことでしょう。
31日夜のヤマトゥンチュは、ぶんじんだけだったかも。昔の話(次号に書きます)を紹介され、ソバ屋のオヤジさんに助けられて「喜瀬武原」を歌いました(ホームページに写真)。
奥さんから「長いお付き合いでしたね」と、毎日使われてきた「からから」(泡盛用酒器)を頂きました。白い釉薬で「パピリオン」。これで風の部屋の古酒を飲みましょう。「喜瀬武原」を思い出しながら。4月1日午後、ようやく東京へ帰着しました。
付記:前号本欄「ベトナム教育法1998」の本文中、一カ所「1988」と間違っていました。ご訂正下さい。標題が正しいのです。
1444号(2005年3月30日)
■
<ベトナム教育法1998>
津久井純さんから、久しぶりのメール。ベトナムの社会教育そして公民館(地域学習センター・CLC
)のこと、文字通りの南からの風、興味深いものがあります。
「東アジア」研究会としては少し拡がりすぎる「南」ですが、歴史的にはベトナムと中国とは深い関わり。もともと漢字圏、儒教文化圏、そして対米戦争、いま社会主義国家体制、そういうなかでの社会教育とくに「公民館」という用語も使われての地域開発がどう展開しているのか。その施設(地域学習センター、CLC
)は4700館に達するとのこと。一度出かけてみたいものです。ときどきの津久井レポートが楽しみ。
ベトナムでは、1998年に教育法が制定されています。津久井さんと坪井未来子さんのお二人による日本語訳があります。たしか全108
条。その後さらに法整備があるような話も聞きましたが、社会主義教育法制として重要なので、送稿していただき、TOAFAEC/HPにアップしたことがあります。
読んでいくと、第28条から第43条のところが欠落していることに気づき、津久井さんに調べてもらっています。と言っても、もう6ヶ月余りが経過。はっきりするまで掲載は控えてほしいということになっていますが(実はHPの隅にこっそり隠れている)、あと一度思い出して、完全なものにして下さい。
せっかくの日本語訳出、私たちの「東アジア社会教育研究」第10号にも、津久井・坪井ご両人による解説でも付して、掲載をお願いできませんか。締め切りは7月末日(厳守)です。
1443号(2005年3月29日)
■
<那覇にて>
「名護まで足を伸ばしませんか」との島袋正敏さんのお誘い、有り難うございます。鷲尾真由美さんからも別にメールを頂き、恐縮しています。今回はまったく衝動的に訪沖しましたので、ご迷惑になってはいけないと思いつつ、無計画・無スケジュールの旅というのも滅多にないこと、妙に時間・空間の自由を楽しむ気持ちもあり、面白い数日、また4月下旬には沖縄に参上する予定もありますので、このまま失礼することをお許し下さい。
旧おきなわ社会教育研究会(那覇など)の皆さんにも全くの連絡なし、いつもだと押しつけがましい日程で集まりをお願いしてきたのに、あとできっと叱られることでしょう。しかし幸いに「南の風」は届いていませんので、そっと退散することにいたします。そろそろ東京の仕事も気になってきました。
そうは言っても、新しい古宇利大橋を渡りたいな、名護・大国林道の魚の味噌和えで一杯やりたい、久しぶりに美ら海水族館のジンベエ鮫とも乾杯したい、などの思い、内なる誘惑も少なからず。いずれ次回に。
また(2月末にまとめた調査報告「沖縄の集落育英会」で詳しく書けなかった)東村慶佐次の聞き書きをしたい、という宿題も思い出しました。これは折りをみて山城千秋さん(どなたかご縁があるらしい)を誘ってぜひ実現したい・・・という勝手な計画?をもっています。
ところで、風・前号の台湾訪問の誘いにのる方はいらっしゃいませんか? 航空券の予約など始める必要もありますので。
1442号(2005年3月27日)
■<路地の蘭の小鉢、香りあり>
昨日の那覇のホテル、琉球新報夕刊を開いて驚きました。1枚めくって3面「沖縄戦60年」記事として大きな写真入りで加藤健君の和光大学・卒業論文「沖縄戦を生きぬいたろう者」が紹介されていました。加藤君は和光大学時代の最後のプロゼミ学生、沖縄をテーマに取り上げたグループの一人として、初めて沖縄に渡りました(2001年秋)。一同10名余り、名護では島袋正敏さんたちに歓迎していただき、さかんに飲んだときのメンバーです。
自ら聴覚障害をもっているタケシは、沖縄戦下に障害者たちがどのように生き抜いたかをテーマに卒業論文を完成。私の「風の部屋」最終ぶんじんゼミにも来てくれました。この18日無事卒業式。「…先生には本当に感謝しております。先生と沖縄に出会わなかったら、今の私はありません」「たぶん、一生携わっていくことと思います」(Fri,
25 Mar 2005 14:21)などというメールをもらったばかり。
障害をもった学生のひたむきな歩みを、大きな記事として取り上げた琉球新報にあらためて敬意を抱いています。本土の新聞では考えられない。
早速「小生いま那覇、琉球新報の夕刊で、君の写真を見たよ。おめでとう!」とメール。ビックリしたと返事がかえってきたところ。
ところで福岡から東京へ帰らず、那覇行きの飛行機に乗ったのは花粉症治療のためです。東京よりも福岡の方がましかな、と期待していたのですが、たいして変わらず。地震後のハウスダストの故か、かえって悪化した感じ。再び東京で花粉にまみれるのが嫌になって、やや衝動的に、エイ!と南に飛んだのです。やはり来てよかった。この2日間で傷んでいた眼や鼻の粘膜もほとんど治りました。
沖縄に通いつめて30年余。いつも学生や研究室メンバーと一緒、沖縄に着けば寸時を惜しんでウチナンチュに会ってきました。今回はまったく一人旅、どなたにも連絡せず、なんらの予定もなく、のんびりと春休みの実感を味わっています。
何日に、どの便で帰京しようか、などまだ考えていません。今にしてようやく自由人になった喜びを楽しんでいます。さきほどの散歩で市場の路地に座っていたオバアから、小さな香蘭の鉢を買いました。ホテルの机上で、かすかに香っています。
1441号(2005年3月26日)
■
<モンゴル支援の馬頭琴コンサートを>
昨年6月のアーデル氏結婚披露の会(新宿・中村屋)で、トクターホ君たちモンゴル留学生は、お祝いの馬頭琴演奏をしてくれました。満座に響き渡った馬頭琴の調べ。それを印象深く聴いていた立川ロータリークラブの石毛典夫氏(医師)と先日会った折、「私たちのクラブ例会で馬頭琴を演奏してもらえるでしょうか」と尋ねられました。「もちろん!喜んで参上するでしょう」と応えておきました。そのうち連絡があろうかと思います。どうぞよろしく。
北海道で馬頭琴コンサートの機会を模索しているのは、置戸町図書館の森田はるみさん。その後どんな経過か知りませんが、いま公的機関は年度末の時期、可能性があれば来年度ぜひ実現してほしい(と期待)。
私たちの集いで、初めて馬頭琴を聴いたのはたしか2000年新年会か。プロデューサーはもちろんトクターホ君(和光大学研究生、当時)。その後いろんな機会に馬頭琴を聴いてきました。私の最終講義パーティでも。ぜいたくなことです。
彼の友人たちのほとんどプロ級の馬頭琴奏者が演奏を始めると、私たちの前に突然モンゴルの草原と万馬の轟き。彼らの故郷を想う歌が朗々と流れると、日本人の歌心もよみがえって、負けてはならじ、と会は歌合戦の様相を呈します。お互いの歌声はひびきあって、ぶんじんの下手な歌もなんとか聴いてもらえるようです。
これまで多くの方々のご協力を得てきました。伊藤長和さんのご紹介による川崎の小学校など、あるいは渡部幹雄さんの愛知川町図書館、板橋区その他の集い。コンサートで得た収入はモンゴルの子どもたち支援の運動(フフ・モンゴル・オドム)や焼失したモンゴル族学校の再建の資金になります。わずかの収益でも“塵も積もれば山となる”のたとえ、好機あればぜひ声をかけて下さい。お互いの心が大事、経費はご相談で。
そういえば彼らの沖縄の旅では(青い海と島酒は楽しんだけれど)馬頭琴コンサートはまだ実現せず。旅費負担もあり収益にはならないかも? しかし、沖縄の皆さん、もし何かいい機会があれば、企画をお寄せ頂けませんか。応援団長・ぶんじんともども、すぐに参上いたします。
さきほど福岡から突然に那覇へ到着。この経過は次号で書きます。
1440号(2005年3月25日)
■<5月の台湾訪問計画>
23日早朝便で福岡へ。雨も止んでいました。福岡市内は一見何事もなかったかのよう、いつものたたずまい。しかし聞いてみると、それぞれの住居・暮らしに激震がはしったのです。惨状は玄界島のみにあらず。
油山の我が家は、心配していた雨漏れなし、屋根は大丈夫のようです。安心しました。幸い?高価な骨董類はもともと何もない。
それでも大事にしている記念の品いくつかあり。台湾から頂いた大理石の置物は吹っ飛んでいました。60歳の祝いに沖縄の研究会から贈られた壺屋は幸いにして大丈夫、やれやれです。思わぬところから割れ物が出てきますが、被害僅少というべきでしょう。玄関に飾っているシーサーが守ってくれたように思いました。
散乱した本やテープ・ビデオ類の整理に励んだ2日間でした。破損したもの以外すべて元の場所へ。大方の復旧はできたように思います。もう大丈夫。かねて楽しみにしている八月・全国集会の夜に皆さんをお迎えすることは全く問題ありません。お騒がせし、ご心配をかけました。申しわけありません。
ところで、鄭任智さんメール(5月連休、台湾へ同行可能とのこと)、有り難う!ぜひご一緒しましょう。小生は4月30日朝まで沖縄に滞在予定。午後の那覇−台北便に乗れるよう(連休中の別用の)調整が出来ました。4月30日から1週間前後のスケジュール、内田純一さんとも打ち合わせして、台湾滞在の具体的な計画を詳しく相談しましょう。どうぞよろしくお願いします。訪台の主なテーマは「東アジア社会教育研究」第10号の編集・取材。旧知の皆さんと会い、台湾をかけめぐる旅です。関心ある方の同行もちろん歓迎!
なお第10号原稿の最終締切は7月末日(厳守)を予定しています。
1439号(2005年3月23日)
■<福岡へ>
22日もかなりの余震が続いているようです。同じ福岡でも、地震の被害はかなりの地域差か。玄海島のような激しいところから、海から少し離れた小生宅のような軽微な(と楽観的に考えている)ところまで。案外とマンションによっては激震がはしり、そのままでは住めず、とりあえずホテルに引っ越したという友人もいます。
しかし、22日の福岡は雨。瓦が動いていれば雨漏りが心配だ、すぐに点検した方がいい、早いにこしたことはないぞ、待っていますよ、などの助言をうけて、23日早朝、福岡に飛ぶことにしました。
言われてみると、確かにその通り。母屋はすでに築30年をこえています。1995年の阪神大震災のあとに建て増した書庫は、きっと大丈夫でしょうが、古い座敷はどのくらいの損傷なのか、すでにヒビ割れの情報あり、それだけだといいのですが・・・。いま大急ぎの準備をしているところ。悲しい性、パソコンも抱えて。
というわけで、23日夜の川崎・星野修美さん、ぺ重度さんのお祝いの会には欠席することになり、また24日夜の韓国本編集会議は延期に。伊藤長和さんはじめ関係の皆様にご迷惑をかけてしまいました。お許し下さい。
付:3月20日、K氏(宗像市在住)の日誌。
「…もうすぐお昼というとき、家がものすごい音をたてて揺れた。地震だと気づくまで間があった。巨大な重機ですくい上げられるような揺れ方だった。テレビの上の時計が落ちた。私は、天井から瓦が落ちる、潰される、と思った。揺れがいつまでも続く。もう駄目かと観念したとき、地揺れが止んだ。…」
1438号(2005年3月21日)
■<博多の沖で地震>
今日(20日)の昼近く、玄界島先の海底地層が横滑り、大きな地震がありました。福岡や佐賀の皆さん、お見舞い申しあげます。山城さんのメールでは、熊本もかなりの揺れだったとのこと。博多ではいま(午後11時)なお余震が続いているそうです。玄海の魚たちもさぞ驚いたことでしょう。
小生へのお見舞い、有り難うございます。主のいない油山の家がどうなっているか、やはり心配。さきほど(庭などときどき管理を頼んでいる)知人に見てきてもらいました。キチンのコップ等が割れている、座敷の壁にひび割れあり、書斎や書庫の本が落ちている、(整理中だった)テープ・ビデオ類が散乱している、などの報告。家も塀も大丈夫だとのこと。この程度であれば、まずまずは一安心ということでしょうか。
空も新幹線も動き始めたそうで、すぐに飛んだ方がいいのか、しばらく様子をみるか、などと迷いながらの落ち着かない一日でした。それにしても玄界島の皆さんは全島避難、突然の難民になった方々の映像を見ながら、なにが起こるか分からない世の中だとしみじみ実感。玄海島には、ある日突然、福岡の横山孝雄さんや西恵美子さん(今年の福岡集会実行委員会)とフェリーに飛び乗って、玄海の魚を食べに行ったことがあります。ずいぶん前の話ですが・・・。
トロントの荒井容子さんから、東京「都立」大学関連の集会情報メールをいただきましたが、新・公民館の風に掲載されましたので、受信者にかなりの重複あり、南の風では割愛させていただきます。ご了承下さい。もしご希望の方があればご一報を。お送りします。
1437号(2005年3月20日)
■
<♪古いアルバムめくり・・・♪>
昨夜(18日)の3月定例研究会、花粉症の状態が今年最悪の状態でした。よんどころない用事のため、昼から出歩いていたのです。研究会が終わってからの交流会でも、ビールのお代わりもせず、花粉症のつらい症状に耐えていました。
というわけで、記録の写真を1枚もとることができませんでした。研究会の貴重な画像をホームページに掲載しない(できない)のは初めてか。カメラはバッグのなかに持参していたのです。犯人は花粉症!
報告者の白メイさん、近藤恵美子さん、申しわけありません。奥田泰弘さん(中央大学)も初めて研究会にお出でいただいたのに、記録を残せず、残念です。
そのかわり、というわけでもありませんが、風1435号本欄「安井田鶴子さんを偲ぶ」記事に書いた1981年写真を、ホームページにアップしました(3月スケジュール・13日の頁)。古いアルバムをめくり、ネガも探し出して、デジタル化に成功。ホームページに四半世紀前の画像をアップするのは、もちろん初めてのこと。安井田鶴子さんの横にぶんじん。4人の女性たちに囲まれるかたちで男性1人が中央の位置、大きな顔をして申しわけありません。
この写真は1981年のアルバムから出てきましたが、その前年の写真ではないかとも思われます。撮影した平井(園田)教子さんに問い合わせましたが、確定できず。いずれにしても、デジカメ時代はるか以前の画像であることは確か。難点はすこし容量が重いこと、お許し下さい。
1436号(2005年3月18日)
■<もうひとつのビキニ事件>
内田純一さん(高知大学)から送られてきた資料(前号)は、高知県ビキ二水爆実験被災調査団編(山下正寿・責任編集)『もうひとつのビキニ事件−1000隻をこえる被災船を追う』(2004、平和文化)、高知新聞の連載記事「続・灰滅(かいめつ)の海」(1〜10、2004年12月)と関連する同紙最近記事3点、それに日本テレビ系放映「ドキュメント2004」の「わしも死の海におった・もう一つのビキニ事件−幡多高校生ゼミナール」CDなど。どうも有り難うございました。
1954年のビキニ水爆実験の被爆船は第五福竜丸にとどまらず、アメリカの核実験はビキニ環礁だけでも23回に及び、その被災船は、高知はもちろん全国的にひろがって、1千隻をこえるというわけです。幡多高校生ゼミナールはその事実を追ったのです。テレビはさらにその活動を記録。
幡多高校生ゼミを指導してきた山下正寿氏(四万十川楽舎、被災調査団長)の「おわりに」の一文。
「…現代史で正当な評価・分析がされなかったビキニ事件の実相が忘れ去られようとするとき、高校生たちは強い正義感とヒューマニズムの精神をもって、被災者をはげまし、事件に光をあててきた。高校生であったからこそできた社会への意見表明でもあった。この高校生の活動によって、いくつかの教科書の記述が、第五福竜丸以外にも被災船がいた、と書き換えられた。なお成長していく高校生の姿については、1988年に出版した『ビキニの海は忘れない』(平和文化)をご参照いただきたいと思う。」
ご承知のよう「ビキニの海は忘れない」は森康行監督(夜間中学記録映画「こんばんは」監督)によってドキュメンタリー映画となり、各地で自主上映運動で拡がりました。
1435号(2005年3月16日)
■<安井田鶴子さんの思い出>
3月13日、原水禁運動(安井家)資料研究会は、荻窪駅で待ち合わせ、歩いて約10分、安井家を訪問しました。そこで安井田鶴子さんが亡くなられたことを知りました。2月14日、享年91歳。ショックでした。
竹峰誠一郎君を紹介し、一緒に資料を下見して整理作業の進め方など相談するため、安井家に伺ったのはたしか1月28日。そのわずか2週間後のことだったのです。まわりにあまりお知らせしなかったそうで、このときまで私たちもご逝去を知りませんでした。いつも安井先生の写真が飾ってある応接室に、田鶴子さんのご遺骨と遺影が安置されていて、一同9名でご冥福を祈りました。
安井先生が亡くなられたのは1980年3月2日、当時の私たちは「杉並公民館を存続させる会」で『歴史の大河は流れ続ける』編集を開始していた頃、その集いで先生の訃報に接したのです。今回も安井家資料の調査整理を始めたばかり、不思議な一致を思いながらお線香をあげました。
『歴史の大河は流れ続ける』編集作業は、東京学芸大学社会教育研究室とくに園田(平井)教子さんの役割もありましたが、何よりも安井田鶴子さんの存在なしには語れません。1号から4号までに収録されている杉並公民館や原水禁運動の貴重な資料は、安井家所蔵の資料から田鶴子さんが持参されたものが少なくありません。
「解説」をいくつも書いておられます。たとえば「民主社会の基礎工事」として社会教育を位置づけた安井郁論文について。「故安井郁の書き残したものの中にこの『特別区の社会教育』の原稿はあった。古びて色の変わった、所々汚れた四百字詰の原稿用紙十七枚に、最初の方はペンで、そして終わりの方は鉛筆で書かれている。(以下略)」など(第2号7頁)。安井郁先生が亡くなられて丁度1年を経過した頃の一文です。
この日、帰宅して古いアルバムをめくってみました。1981年夏の懐かしい写真が出てきました。安井田鶴子さんを中心に「存続させる会」代表の伊藤明美さんや園田教子さん、それにちょうど50歳の若いぶんじんなど。コピーして次回の研究会にもっていきましょう。
TOAFAEC ホームページに当日の写真4葉、4月日程などをアップしました。
1434号(2005年3月13日)
■<ひそかな実験>
原水爆運動(安井家)資料整理をどうすすめるか、ここ1両日はさかんにメールが飛び交い、整理の枠組や項目を確定する作業がすすめられました。明日(13日)の安井家訪問には、手持ちのノート型パソコンを各自持ち込んで、資料データーベース化に向けての挑戦を試みます。
幸いに石川敬史さん(工学院大学図書館、和光大学講師)は図書館情報学の専門ですから、わたしたちは大船に乗った気分。しかしひそかに、素人の集団が自分たちのパソコンとエクセルを駆使して、どれだけ専門的な作業をすすめることができるか、一つの実験をしているような気持があります。
もともとデーターベースといえば、情報の基地の意。大型コンピューター時代では、とても素人には及びもつかない次元のことでした。しかし誰でもが(意志があれば)パソコンで気軽にエクセルなどの“すぐれもの”を利用できるような時代になりました。これまでにない世界が開けてきたのではないか、素人も智恵と情熱があれば、かなりのことができる、雑然たる資料がデーターベースとして体系化されることによって光輝く価値を再発見することができる、その可能性を追求してみようというわけです。
課題は単に安井資料のデーターベース化だけではありません。たとえば地域の市民運動や社会教育の実践などの領域を考えても、かけがえのない貴重資料が蓄積されてきている。しかし、さまざまの事実が存在していても存在するだけでは貴重な価値が見えてこない、そのうちあえなく見捨てられ廃棄されていく、そういう現実も否定できません。
素人でも、必要なネットワークを組み、どんな手順で、どんな枠組や項目で、必要な作業をすすめていくか、これからの挑戦、そして一つの実験でもあります。どういう成果を生み出せるか。まずは(ときに悲観的にもなりましょうが)、楽観的に、面白く取り組んでみたいもの。
これから関心ある方々のお知恵も拝借したく、やや煩瑣になりますが、安井資料研究の経過資料などご紹介(別記)した次第です。
1433号(2005年3月11日)
■<松本市町内公民館館長会>
次の一文は松本市「町内公民館活動のてびき」の「はじめに」冒頭部分、同館長会の会長・高木宏之氏(「てびき」編集委員長)によるもの。
「松本市には各町会に385の町内公民館が組織されています。私たち松本市町内公民館館長会は、全町内公民館館長385名による任意組織です。館長会では毎年研修会を開き、町内公民館をどうやって活発にするか、どうやって活動を広げたり深めることができるか等について長年論議を重ねてきました。特にここ数年は、町内公民館のあり方について精力的に研究してきました。この『町内公民館活動のてびき』は、その成果をふまえ、私たち町内公民館館長たちの思いのたけを込めて制作したものです。(以下、略)」
私も松本市町内公民館館長会の研修会に招かれて同市「あがたの森」公民館で拙い講演をしたことがあります。いまから20年あまり前のこと。たしか手塚英男さん(同公民館の初代職員、当時)の企画でした。1976年版「町内公民館活動のてびき」(同改訂版、79年)が出されていて、私はそれをなぞるように話をさせていただいたことを憶えています。
旧制松本高校時代からの講堂には、300名をこえる館長さんたちがぎっしり。市議会議長はじめ来賓祝辞のあと、開会の辞と講師を歓迎する挨拶を述べられた方(たしか副会長さん)が、壇上でくずれるように倒れられました。すぐに救急車。しかし急逝されたのでした。
研修会は、しばしの中断のあと再開され、同じその壇上での、つらい講演でした。この日のことは終生忘れることが出来ません。
1432号(2005年3月9日)
■<松本「町内公民館活動のてびき」>
さきほど(9日昼)どさりと音がして、松本「町内公民館のてびき」、あわせて同実践事例集「自治の力ここにあり−学びと“ずく”のまちづくり」が届けられました。待望の刊行なる!
前者は初版「てびき」(1976年)の全面的な書きかえ−第5次改訂版、B5・93頁。後者は町内公民館の実践事例集(108例)A4・440頁。文字通りの力作、労作です。松本の皆さん(町内公民館館長会、公民館主事会、先輩諸氏、執筆者各位など)、おめでとうございます。
松本は戸数約8万余、人口21万、そこに28公立公民館と385町内公民館(自治公民館)があるといわれています。公立公民館の役割が問われると同時に、集落(町内)の公民館の可能性も大きな課題となってきました。これまでの具体的な活動事例を基礎に、これからの方向を「てびき」としてまとめる作業が3年間にわたって続けられて、その成果がこうして世に出ることになったわけです。今世紀の劈頭をかざる画期的な公民館論というべきか。
これまで日本の公民館研究は、都市公民館の近代化論に大きく傾斜してきたきらいがあります。公立公民館の体制を求めるあまり、集落自治に根ざした地域公民館(自治公民館、沖縄では字公民館など)を理論的に位置づけてきませんでした。字や自治会そして町会等の地域組織の古さのみが指摘され、住民相互の連帯や自治の可能性から目をそむけるところ(近代主義)があったのではないでしょうか。
沖縄の字公民館の動きに接すると、古いどころではない、きわめて現代的な課題に挑戦している住民活動の事例に教えられますが、いま、私たちは(沖縄だけでなく)松本の新しい「手びき」と「自治の力ここにあり」の実践事例を手にして、新たな活力と感動をおぼえます。
矢久保さんにお願い。松本の町内公民館「手びき」「実践事例集」を入手できますか。「手びき」刊行の一文に添えて、代価や連絡先などを「風」にご紹介ください、ぜひ!
1431号(2005年3月8日)
■<福岡県「庄内村公民館史」資料>
稀少出版の最近ニュース。866頁の『日本PTA史』(PTA研究会編、日本図書センター)は、故横山宏氏の「序文」日付から6年目の刊行。群馬県下の元社会教育職員『光山善二郎の残したしごと』(同刊行会編)は、ご本人が亡くなられてから、なんと26年目の本(「月刊社会教育」3月号に書評、2部残部あり)。出版されるまでの歳月の長さが、その間にあったであろうさまざまの経過を物語っているようです。
先月の福岡(社会教育研究全国集会・合同世話人会)で、東和大学の正平辰男氏(同教授、元福岡県社会教育主事)が故郷・庄内村の戦後初期公民館資料を私費を投じて出版されたことを知りました。早速、電話して、戦後の福岡県社会教育行政を担った群像を偲びあいました。
庄内村公民館は、代表的な戦後初期の「優良公民館」の一つ。かっての筑豊産炭地に位置し、昭和天皇「ご巡幸」公民館としても有名。興味深いのは、戦前「全村学校」の系譜をひく戦後「公民館」の発足だったこと。最近では、小林・佐藤編『世界の社会教育施設と公民館』(エイデル研究所、2001年)に、公民館地域史の典型事例(15例)として取りあげました。
かって福岡県の公民館史調査や九大の資料収集の経過があって、夢でもみるようなかたちで「昭和23年」「昭和24年」両年度の資料がダンボール2箱(公文書綴20冊)発見されたというのです。場所は福岡県立社会教育総合センター。正平さんはこれを自ら入力・復刻し、「定年退職記念のささやかな仕事」として標記・資料集が刊行されました(2005年1月)。文字通りの自費出版。資料は55年ぶりに日の目をみたことになります。5部ほど送ってもらいましたが、すでに売約済み。ご希望の方は直接に正平さんへ(「庄内村公民館資料集1−公文書綴」1部2500円、送料別、Email:masahira@tohwa-u.ac.jp)
斉藤峻資料など東京都社会教育稀少資料が、大事に保管されていたにもかかわらず、どこかに姿を消した運命など思い浮かべながら。
1430号(2005年3月6日)
■<沖縄・トゥシビーの祝いと育英会>
トゥシビーとは生年祝いのこと。自分の生まれた年の干支と同じ年がめぐってくると、旧正月後の干支の日に、無病息災を願い、お祝いをします。数え年の13歳に始まり、12年ごとに。集落(字)公民館では毎年「生年合同祝」が盛大に行われます。とくに88歳の祝いは「トーカチ」といい、また97歳祝いは「カジマヤ」、風車をまわし、行列をして集落あげて祝います。
沖縄では、このトゥシビーの祝い金を字に寄付し、あるいは香典返しや郷友会からの寄付金などを基金に、集落「育英会」に取り組んできた事例があります。名護の喜瀬区では毎年の生年合同祝いの寄贈金を積立てて育英会が始動(1951年)。城(ぐすく)区では立派な「育英会35周年史」が刊行されています(1991年)。最近では、沖縄東海岸のアメリカ軍用地からの地代収入(かなり大規模な予算)を活用して、積極的な育英会を経営している字(宜野座、伊芸、平敷屋など)もあります。
この一両年、東武さん(勝連、元沖青協会長)や比嘉ひとみさん(名護市史編纂室)等のご協力を得て、ムラ・シマを歩きながら「集落育英会」の調査をしてきました。中村誠司さん(名桜大学)の字誌研究に触発され、手当たり次第に字誌も読んできました。
ようやく先日、20余りの集落育英会の事例について調査報告をまとめ、九大・松田武雄さんを代表とする沖縄・字公民館研究(科研費)最終報告書に寄稿。これには中村誠司さんも、別記メールのように「字誌データベース」をまとめられたらしい。報告書が出来上がったら、「南の風」にぜひご紹介下さい。→
松田さんへのお願い。
いつぞや本欄にも書いたように、小生はその昔、大学助手を追われた後、日本育英会に勤めていた一時期があります。3年ほど育英会職員として禄を食みました。その前は学部・大学院を通して育英会の奨学生でした。そんな恩義もあるからでしょう、沖縄のわずか100戸あまりの集落が「育英会」を創出してきた事実に出会ったとき、深く感動しました。ユイマールやモアイの土着の思想が、いいかたちで現代的に息づいている。育英事業とは何か、の“原風景”を発見した思いでもありました。
1429号(2005年3月4日)
■<心意気こそ!>
3月2日夜の原水禁運動(安井家)資料研究会は、にぎやかにスタートしました。1930年代生まれの世代から80年代生まれの若者たちまで10人。半世紀にわたる年の違いをこえて、同じ課題をともに語りあうというのは楽しいことです。
竹峰誠一郎さん(和光大学卒、早稲田大学・院、『ヒバクの島マーシャルの証言』著者)より「ビキニから杉並アピールへ:1954年という時代を探る」、小林ぶんじんは「原水禁運動と安井郁」について、石川敬史さん(和光大学から図書館情報大学・院へ、現在は工学院大学図書館)は「安井資料のデーターベース化」を中心に、それぞれの報告を出しあい、今後の作業の進め方を相談しました。
経費的な条件をまったくもたない集団ですが、いささかの経験とそれぞれの知識をもちより、なによりも課題に取り組む心意気はともに旺盛、いい論議ができました。終わって高井戸駅前の(久しぶりの)レストランでビールと遅い食事。
一夜あけて3日の日誌。風邪気味で欠席された安井節子さんに電話で報告、杉並区教育委員会の心ある人たちに協力要請、江頭晃子さんと打ち合わせ。この研究会の事務局長をお願いした竹峰君から相次いでメール着信。13日の安井家訪問にはある新聞記者の取材希望が寄せられたとか。安井さんにもお話しておきました。
安井郁先生には『永劫の断片』(1977、短歌新聞社)という歌集があります。頁をめくりつつ、思わず拙歌二つ。
◇党派こえ反核の道説きし人の足跡偲ぶ命日の夜に
◇“永劫の断片”とふその生の凝縮の文繰り返し読む
1428号(2005年3月2日)
■<「歴史の大河は流れ続ける」>
原水禁運動資料研究会として、安井家資料のデーターベース化に取り組もう、その前に3月2日(本日)学習会を開こう、という企画については、前号本欄に書いた通りですが、奇しくも、この日は安井郁先生のご命日であることに気づきました。
25年前の拙文を引用させていただきます。「杉並区立公民館を存続させる会」が発行した標記資料集・第一集「解説」(小林)として書いたもの。懐かしいガリ版刷り(1980年4月20日発行)です。
「この資料集の標題『歴史の大河は流れ続ける』は、杉並公民館・公民教養講座(1954年4月26日〜1962年6月16日)における安井郁館長の連続講演“世界の動き”最終会のテーマである。この標題はもともと読書会「杉の子会」のテキスト『新しい社会』(E.H.カー)に流れる一つのテーマであった。
私たちは、このたび、杉並の公民館そして地域の文化運動の歴史を記録するにあたり、このテーマを継承し、資料集第一集にあらためてこの標題を掲げることにした。
その安井郁先生も、すでにこの世を去られた。私たちが杉並公民館の歴史にかかわってこられた方々の聞き書き活動を開始し、そして、この第一集刊行の計画を進めていたさなか、三月二日のことであった。このことについて一度、せめて一度、安井先生から直接にお話しをうかがいたいという私たちの悲願も、遠い夢となった。残念なことであった。私たちはただ哀悼の意を捧げつつ、公民館の創設と地域平和運動・文化運動に大きな足跡を残された先生の意志を復元する努力を続けるほかはない。結果的に本資料集は、先生への追悼集ともなってしまった。」
このあとに「東京の社会教育には“歴史”がない。歴史の事実そのものは、かけがえのない歩みとしてあるが、それが自覚的に記録された歴史がない。日本の社会教育史のなかでも大きな空白となっている」と続くのですが、それから25年、いまもなおその状況は変らない。
実は本号(近藤恵美子さんの訪中報告)は、“桃の節句”に出すつもりでしたが、故安井先生を偲びつつ、3月2日の日付で送信いたします。
1427号(2005年3月1日)
■
<3・1ビキニデー>
51年目のビキニデー。1954年3月1日の米国の水爆実験による被爆者はマーシャル諸島の島民や日本漁船(第五福竜丸など856隻)。今年は広島・長崎の原爆から60年目ということもあり、ビキニデー関連のいろんな動きがあるようです。2月27日から日本原水協・全国集会が静岡市、原水禁国民会議・市民集会は横須賀市で、開かれています。
私たちの原水禁運動(安井家)資料研究会もすでに動き始め、3月2日に学習会を開きます。こちらはとくに「ビキニデー」を意識していたわけではありません。竹峰・石川など参加予定の皆さんの都合を聞いたところ、たまたまそうなっただけのこと。
また、こういう作業を始めたのは「被爆60年という節目だということで行われるのですか?」という問い合わせ(NHK広島)もありましたが、「杉並の市民活動と社会教育を記録する会」活動の流れで、こうなったもの。しかし、あらためて60周年という意味を考えています。
すでに「風」1415号〜1416号(そしてホームページ)でお知らせしていますが、あらためてのご案内。関心ある方はどうぞお出かけ下さい。
○原水禁運動(安井家)資料研究会:学習会
日時:3月2日(水)18:00〜20:30
テーマ:原水禁運動と安井郁
(3月13日作業の打ち合わせ)
報告・解説:竹峰誠一郎(早稲田大学・院)、小林文人(TOAFAEC)
会場:高井戸区民センター3F・第三集会室(特別室)
(京王井の頭線「高井戸」下車)3分
○原水禁運動(安井家)資料研究会:訪問調査
日時:3月13日(日)13:00〜17:00
内容:安井家資料のデーターベース化
場所:東京都杉並区南荻窪3−13−11安井家
集合:JR荻窪・南口西改札(立川寄り)13:00に集合
連絡先:竹峰誠一郎(080-3637-9736)、小林文人(090-7700-7756)
1426号(2005年2月27日)
■<3月定例研究会の日程変更>
近藤さんの長いご報告、有り難うございました。白メイさんからも別にメール頂きました。皆さん、充実した旅で何よりでした。
白さんからは、3月 TOAFAEC 研究会への報告と日程の変更について。「…3月研究会で報告という機会をいただけること、どうもありがとうございました。ぜひ報告させていただきたいと思っています。ご相談したいです。3月の研究会ですが、中国人からの中国と日本人からみた中国という二つの線で報告できたら、面白いのではないかと思っています。しかし・・・」
いつもの3月第4金曜日では、報告予定・近藤さんのご都合がつかず、「・・・もしよろしければ、特別に日程を変更していただけないでしょうか?
たとえば一週間前倒しの3月18日(金)など。無理なこと申しまして申し訳ありません」(Sat,
26 Feb 2005 19:21)とのこと。
早速、石倉さんとご相談して、18日に予定変更、会場は(高井戸ではありませんが)永福地域区民センターを確保できたそうです。さきほどホームページにも書き入れました。追って、正式のご案内を風に掲載することになりましょう。ご報告、どうぞよろしくお願いします。
本格的に花粉症の時期になりました。皆さんは如何ですか? 憂鬱な季節、だけど、救われることもあり。ヒヤシンスの季節と重なるのです。せめて花の香りを。二鉢ほどパソコンの横に。いま部屋にヒヤシンスがかすかにただよい始めました。
1425号(2005年2月26日)
■<沖縄1フィート運動「平和カレンダー」の訂正>
今年最初の風1395号(1月2日)で、沖縄1フィート運動「平和カレンダー」をご紹介しました。なかなかいい出来。同事務局から送られてきた10部、1月16日の新年会(風の部屋)で、まさに飛ぶようにはけました。ありがとうございました。
ところが酔って忘れた人も。部屋に残った忘れ物(2部)、その後、1部は(東京外国語大学・公開講座で沖縄の話を企画して頂いた)谷和明さんのところへ。あとの1部はまだ風の部屋に。
先日、1フィート運動事務局から「平和カレンダー」訂正が届きました。一ヶ所、1959年「石川市宮森小学校にジュエット機墜落・爆発炎上」の日付が間違っていたのです。正しくは「1959年6月30日」です。ご丁寧に(ペタンと貼ればいいだけの)訂正シールと送付用の封筒(10部)つき。これには恐縮。しかし、こちらも当夜酔っていて誰に送っていいか(誰がカレンダーを持っていったか)分りません。本欄で「訂正ですよ」とシールを送ったつもりです。ご了承下さい。
いま2月定例研究会から帰ったところ(25日午後11時)。研究会出席メンバーにはカレンダー訂正シールを持っていきましたが、石倉さん以外は該当者なし。
今晩の研究会プログラムはモンゴルからの報告でした。終わったあと、例によって高井戸「イーストビレッジ」で交流会。新しい参加あり、珍しくフランス人も。修士論文を書き上げた人あり、ドクターコースへの進学予定者あり、遅れて二次会だけに駆けつけた人もあり。楽しく乾杯し、さかんに歌もうたいました。
「南の風」参加希望の留学生お二人。本号より送信アドレス帳に入れました。この風、届きましたか?
自己紹介をお送りください。
1424号(2005年2月24日)
■<“同じ高嶺の月を…”>
再び前号(原水禁運動資料)の続き。
安井郁氏の杉並区立公民館長就任は1953年11月。その翌年の3月1日(つまりわずか4ヶ月後)にビキニで第5福竜丸被爆。杉並では直ちに署名運動が始まり、5月に原水爆禁止署名運動杉並協議会が結成され、その議長へ。そして同全国協議会に発展し事務局長、1955年には原水爆禁止日本協議会(原水協)理事長に就任。新しい公民館長の歩みは、そのまま日本の原水禁運動の激流と重なるわけです。
杉並での署名運動は公民館長室が事務局だったと伝えられます。公民館ではさまざまな集会が開かれ「公民館がこわれそう」の記事も。全国協議会発足時の事務局は「杉並公民館長室気付」。この激動の歳月、安井先生には法政大学教授の仕事もあり、どんな毎日だったのだろう、と思いを馳せたくなります。(その後、1959年に名誉館長へ。しかし公民館「世界の動き」連続講座は続き、第100
回記念「歴史の大河は流れ続ける」最終講演が行われたのは、1962年11月でした。)
1963年、そのような安井郁氏の原水協理事長の辞任声明(前号)は悲痛なものでした。分裂した原水禁運動は、その後も厳しい意見対立を含んで推移していきます。他方、それだけに運動統一への熾烈な努力が重ねられました。1979年の原水禁世界大会を大同団結に向けて開催しようという流れのなかで、中野好夫氏(評論家、二十一氏「合意文書」の一人)が詠んだ歌一首。
“わけのべるふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をみるかな”
麓から山に登る道はいろいろあるけれど、なんとか統一した大会を成功させて、ともに同じ月をみたいという思いは、多くの関係者の願いを見事に代弁したものだったようです。岩垂弘著『核兵器廃絶のうねり−ドキュメント原水禁運動』は、目次の頁に、この一首を掲げています。
1423号(2005年2月22日)
■<“夕やけ小やけの赤とんぼ”>
前号の続き。故安井郁氏の追悼のために編まれた『道−安井郁・生の軌跡』(法政大学出版、1983年)、その中に森恭三氏(旧制高校・大学の同窓、元朝日新聞論説主幹)がこんなことを書いています。
「ある暑い日、安井君が突然新聞社に私を訪ねてきた。…(略)…安井君はどの政党政派をも、またどの個人をも、非難することはなかった。私が今でもはっきり覚えているのは、“夕やけ小やけの赤とんぼ”をうたったよ、といって笑ったことである。(略)
安井君の説明によると、議論が行詰って動きがとれなくなったとき、皆の気持を一転させようと思い、一人立ちあがってうたいだしたのだという。唱和するものがあったのかどうかという点を私は聞き漏らした。(略)」
第8回(1963年)原水爆禁止世界大会の閉会総会での出来事だったようです。この大会は、参加各派の意見が対立し、分裂状態になりました。森氏の一文のあとに、次のようなコメントが(編者によって)書き添えられています。
「…いよいよ激しくなった内部の意見の対立で、総会は中断されたが、台東体育館にぎっしり集まった全国、全世界の代表たちは、真夏の暑さの中、根気よく再開を待っていた。その時、“赤とんぼ”の歌が、壇上のマイクを通して、静かに流れはじめた。それをきっかけに、各地の代表たちによる歌の交歓が始まり、まるで合唱コンクールか歌の祭典のように、全国各地の民謡があちこちからわき起り、外国代表たちも競ってお国自慢の歌を披露した。長時間待たされていた沈滞をふきとばして、和気あいあい、和やかな連帯の熱気に包まれたハプニングの事件であった。」
この年は,安井郁氏が原水爆禁止日本協議会・理事長を辞任した年でもありました。岩波『世界』1963
年5月号に安井郁「日本原水協理事長辞任について」の声明が掲載されています。
1422号(2005年2月20日)
■<“原爆ゆるすまじ”>
いま取り組もうとしている原水禁運動資料(安井家)調査整理、その事前学習会(3月2日夜・HPに記載)のこともあり、当時の記録を少し調べていますが、実に感動的な記述に出会います(岩垂弘『核兵器廃絶のうねり−ドキュメント原水禁運動』連合出版、1982、など)。
たとえば、第1回原水爆禁止世界大会(1955年夏、広島)。正式参加は3国際組織、14ヶ国52人、国内は97全国組織、46都道府県からの代表2575人、多くの人が会場に入りきれず場外でスピーカーを通して大会の論議を聞いた、実際の参加者は約5000人であった、とされています。
「大会宣言」が採択された時、清水慶子女史がこれを読み進むにつれて、会場全体はものすごい興奮のルツボと化し、基地反対にふれたところでは文字通り万雷の拍手となり、最後には、一斉拍手が怒濤のように巻き起こること五度、約20分間にわたって、感激その極に達した拍手が鳴りやまなかった、とのこと。
フィナーレは“原爆ゆるすまじ”大合唱。指揮は作曲者の日比谷高校教諭の木下航二氏。「この大会にふさわしい幕切れで、歌が終わっても、しばらく誰ひとり会場を立ち去ろうとはしなかった」(今堀誠二『原水禁運動』潮出版社)と伝えられています。
1421号(2005年2月18日)
■<いよいよ花粉症の季節>
今日(17日)、晴れるでもなく曇るでもなく、寒さも和らいで、いい日より。しかしこの季節、こんな日はあまり楽しくないのです。さかんに花粉が飛び始めている。風でも吹けば最悪。楽しくお酒も飲めない(酒のあとに発作的に発症する)季節と相成りなりました。これから2ヶ月ほどは毎日が不機嫌!(ぶんじんに近寄らない方が賢明)です。
だけど、まだなんとか飲める・・・いまのうちだ、というわけで、毎晩、誰かと飲んでいます。
一昨日は、和光大学時代の最後の、この3月に無事?卒業のプロゼミ学生有志が、なんと、書き上げた卒論をもって“風の部屋”にやってきました。最終文人ゼミと名づけて集まった6人の(私にとっては最後の)「閉門弟子」たち。ちょっと嬉しくなって、さかんに飲みました。
社会教育の仕事をしたい、だがどこにも職場がない、なんとかなりませんかなど。嘱託でも臨時でも、社会教育や公民館の仕事があれば、飛んで行きたいのだけど・・。いま、進路を別の方向に考えて、また学校へ通うかとか、思い切って中国に行こうかとか。混迷のなかにいる若者たち、酔っても気勢があがりません。なんとか激励したい。
昨日は、川崎・高津市民館へ(大幅の遅刻)。韓国本の最終原稿督促の打合わせ。3月をめどに頑張ることに。日も落ちて、伊藤長和さんと田園都市線つくし野「栄鮨」へまわりました。相模原の小林良司さんも呼び出して、久しぶり、遠慮のない酒の席になりました。その昔(いや現在でも)神奈川の社会教育をリードしてきた人たち。2年前『おきなわの社会教育』を編んだ話をして、『かながわの社会教育』企画などの提案らしき話題に及んだころ、3人ともすでに酔っていました。
さて今晩は・・・?まだ内緒。書き上げなければならない原稿もあるのに、なかなか進みません。松田武雄さん(九州大学)へ言訳けの(つもりの)一文。お許し下さい。
1420号(2005年2月16日)
■<歴史学習で使える歌教材の研究>
鳥塚義和さんが戒告処分を受けられたとのこと、なんとも口惜しい、そういう時代になったのか、と思いました。ご本人の「ねばり強くたたかっていく」という言葉に救われますが、イヤな世の中になりつつありますね。どう立ち向かっていくか、われわれみんなの課題です。
鳥塚さんとの出会いは、「南の風」です。和光大学ゼミにいた私の学生「はしだにいな」さん(劇団・青年団)が、父親「はしだのりひこ」の「イムジン河」のことを語り、その一文を「南の風」に載せました。たしか1999年秋のこと。HPにその見出しだけアップしていたところ、さすが鳥塚さん、「突然ですが・・・」とメールが来ました。これがご縁で「風」を送るようになりました。私たちの研究会に来ていただいたことも。
鳥塚先生は高校の歴史教師、授業に活発に歌教材を活用し、近現代史に関わるいろんな歌の研究調査をされてきました。15年戦争について中国への取材(たしか九一八「松花江上」?)の旅も。その前後に故横山宏さんにご紹介したことを憶えています。
数年前には休業されて琉球大学大学院へ。昨年は修士論文『歴史学習で使える歌教材の研究』を頂きました。「安里屋ユンタ」研究など実に興味深いものでした。その序章の一節、上記・はしだにいなさんの一文とも関連しますので、ご紹介します。授業に歌をもちこんだ話です。
「…1986年、カセットデッキを持ちこんで“イムジン河”(フォ−シェリークの歌)のテープを流し、フォ−ククルセダーズのレコード盤が幻の曲になった理由を話した。数日後、ひとりの生徒がテープを持ってきた。「これを授業で使ってください。」そのフォ−クルの幻の曲だった。このように、モノ教材を持ちこむと生徒の目が輝き、歌教材が生徒の興味・関心を引き出すということは、多くの教員が経験していることではないだろうか。…」
ついでに私が知っている鳥塚さんの本。『世界近現代史 授業が楽しくなる「歌と演説」』(1996、日本書籍)、『15年戦争教材発掘あれこれ』(1999、同)。千葉から遠いので遠慮していますが、一度、私たちの研究会に来て頂いて「安里屋ユンタ」研究などの話を伺いたいもの。
1419号(2005年2月14日)
■
<アウシュビッツへの旅>
2週間ほど前のアウシュビッツ解放60周年の記事・写真をみて、あらためて強烈な印象の10年前の旅を想い起こしました。
1995年に国立大学から解放され、私立大学に移りました。国立大学では外国に行くのに(自費でさえ)面倒くさい手続きを強いられ、実に不自由。ところが新しい大学はきわめて自由な雰囲気。この年、喜び勇んで夏休みの1ヶ月あまり、ヨーロッパに遊びました。研究旅費も少し頂きました。
主な目的は二つ。一つは東西の壁からようやく解放されたドイツを縦横に動くこと、あと一つはポーランド、とくにアウシュビッツへ行くこと。まったくの一人旅。あれから10年。
ベルリンからワルシャワへ。第2次大戦後の瓦礫をもとの街に復元した市民、ドイツ政府首脳が跪いて詫びたゲットー跡、社会主義の墓標といわれる馬鹿でかい駅前の文化宮など。1日の予定が数日滞在しました。
そして古都クラコフへ。クラコフからオシフィエンチム(アウシュビッツ)への支線の列車切符がどうしても買えず、駅前でうろうろ。英語で話しかけてきたおんぼろ白タクをつかまえて、やっとの思いで、たどりついた収容所(いま国立博物館)。この1日は、終生忘れることがないでしょう。さわやかな夏風も、寒々とした冬の風に感じました。
帰国して、TOAFAEC 研究会(第4回、同年9月18日)で報告しました。文献資料も少し加え、ビデオ画像も。当夜、お出でいただいた山辺悠喜子さん(『七三一部隊の犯罪』訳者)が静かに厳しく指摘されました。「戦時下の日本が中国でおかした犯罪とまったく同じ!」 この言葉も、いつまでも忘れられません。
アウシュビッツ解放60周年の追悼式典、当日は雪、その中を各国首脳が「働けば自由になる」門をくぐっていた映像が印象的でした。
1418号(2005年2月12日)
■
<宮良長包の歌>
島袋陽子さん(葛飾区、もと社会教育職員、いま保健所勤務)からお誘いがあり、10日夜、JR駒込から歩いてすぐの琉球センター「どぅたっち」に遊びました。風1416号にご案内した琉球正月二日のお祝いライブ。宮良多鶴子さん(ソプラノ歌手)の世界そして八重山・宮良長包等の歌いろいろ。琉球物産店のなかに丸椅子をおいて、先着の30名限定と聞いていましたが、寒い夜なのに40名あまりがぎっしり。多鶴子さん手作りのホットワイン、それに琉球料理折詰とオリオンビール、泡盛飲み放題・・・酔った気分で、歌と語りを楽しみました。ちなみに「どぅたっち」とは“自立”の意とか。
宮良長包(みやら・ちょうほう)をご存知ですか? たしか一昨年が生誕120年。沖縄の人であれば知らないものはいない音楽家。宮良多鶴子さんが施設まわりのコンサートで「エンドウの花」など歌いはじめると、普段は黙しているオジイやオバアが、声をあげて、一緒に歌いはじめるそうです。童謡をはじめ郷土色豊かな多くの作品に加えて、校歌や市歌などもあり、この夜も「那覇市歌」が披露され、やんやの喝采でした。
長包の歌は約140曲。しかし戦争で失われた楽譜があり、教え子たち(長包は小学校教師)の記憶の中から採譜して復元の努力。その一つ「春深し」(1934年)も当夜、心しみじみと歌われました。
宮良多鶴子さんがこの歌を採譜した方は、川崎の玉代勢秀子さん。しかし1月20日亡くなられたそうです(享年90才)。驚きました。玉代勢秀子さんは、復帰まで八重山琉米文化会館の館長代理、私たちの東京学芸大学・沖縄社会教育研究会に何度かお出で下さり、アメリカ支配下の貴重な証言と資料を頂きました。『沖縄社会教育資料』第5集(1985年)に収録しています。
沖縄戦で女学生とともに亡くなられたご主人の回想『ひめゆり教師の手紙』刊行も。研究会に「ひめゆり同窓会」の方々をつないでも頂きました。有り難うございました。はるかにご冥福をお祈りいたします。
なお宮良多鶴子さんは宮良長包の弟さんのお孫さん?と聞きました。
1417号(2005年2月10日)
■<「南の風」の由来>
やはり春節、新年のご挨拶などいただき、有り難うございます。昨日に引き続いての連日の「風」となりました。松田泰幸さん(町田)提供の「お知らせ」が急ぎの内容だったのです。毎日の言い訳け。
米山義盛さん(長野県箕輪工業高校)から「南の風」の由来について関心を寄せて頂きました。「南」は「沖縄」です。「風」は、沖縄研究再開の呼びかけとして誕生しました。1998年2月6日のこと、いまちょうど7年目の「風」。
私たちの沖縄研究は1976年に始まりました。その後の盛り上がりあり、停滞・中断もあり。次第に「東アジア」への関心も。この間の経過はHP(「TOAFAEC
の歩み」の頁)に少し書いています。
「風」を吹くようになったのは、沖縄・東アジアの社会教育に関して寄せられるメールに面白いものがあって、一人で読むのはもったいないと思ったのがきっかけ。私から出すメールも関連の方に回していこうと。できれば研究交流のネットワークを拡げられないか、そんな欲張った気持があったのも正直なところです。次第にメンバーが増えてきました。
メールを通して研究上の動向・情報をお互いに共有していこう、研究だけでなく交流の独自な空間を創れないか、とくに若い院生や留学生たちを励ますような“ひろば”の役割を、など模索(実験?)して来たつもり。しかし、ときに出しゃばり、お節介、お邪魔虫、の「風」となる反省もあり、いろいろご意見、ご指摘など頂ければ幸いです。
こんな通信ネットのネーミングを考えたとき、「南の風」は、すんなりと出てきました。沖縄の心を歌いつづけている海勢頭(うみせど)豊の「月桃」の一節、「月桃ゆれて/花咲けば/夏のたよりは/南風」という歌詞が、心のどこかにあったのかも知れません。
その後「風」は大はやり。「公民館の風」「市民活動の風」「磐梯の風」いま福岡・全国集会の通信「玄海の風」など。さてこれから「南の風」は、どんな空を吹いていくことになるのか、それは、成り行き風まかせ。
1416号(2005年2月9日)
■<アジアのお正月>
私たちは旧正月を忘れていました。そうです、今日は「アジアのお正月」。月や海の干満、自然の陰陽、農や漁の暦など、まったく忘れて生活してきました。
アジア各地の旧正月は、どこでもお祝い、お休みの日。中国では春節。沖縄では大和正月と区別して沖縄正月「うちなーそーがゎち」。かってベトナム戦争では、解放勢力側のテト(旧正月)攻勢が大きな転換点となったことを思いだしました。いま平和なベトナムで、どんなテトのお祝いをしているのだろう。ハノイの津久井純さん、元気かな?
テトお休みの便りを下さい。(もしかすると、風が届いていない?)
そういえば学芸大学・研究室では留学生を中心に、毎年の春節に、お祝いの楽しい集いをしたものです。中国の大晦日の夜は、家族そろって“年飯”と呼ばれるご馳走を食べるようですが、北方(小麦文化圏)では餃子が欠かせない。研究室でも、みんなで餃子をつくりました。北京等からの留学生が中心となって、ゼミ室の机の上に小麦粉をしき、餃子の皮づくり。挽肉や卵や野菜など秘伝?の中身を包みこんだ手づくり水餃子は、ほんとに美味しかった。しかし上海や広州からの留学生はあまり上手ではなかった(ほとんど作らなかった)ようです。
終わったあと机の白い粉を消すのが一苦労でした。そのうち公民館の料理実習室の使い勝手がよいことを発見して、国分寺の公民館を利用した年もありました。だけど妙なことに研究室の机の上で(同僚教師の顰蹙を買いながら)包んだ餃子の方が美味しかったのです。
沖縄・古宇利島、おめでとうございます。今日から“離島”ではなくなりましたね。フェリー・古宇利丸との別れはどんな情景だったのでしょう。沖縄で最長の架橋というだけでなく、料金をとらない一般道路としては、全国最長の大橋なのだそうです。
付記:連日の「南の風」、騒がしくて申しわけありません。島袋陽子さんからのご案内を頂き、「今日は旧正月」というメッセージを送りたくなっていたところに、胡メール「新年好!」が届いたものですから。
1415号(2005年2月8日)
■<社会教育研究全国集会・合同世話人会>
昨日(6日)午後、福岡市早良市民センターで、社会教育研究全国集会・分科会合同世話人会が開かれました。全国からの世話人も多く駆けつけて、大きな集会室が満員の盛況。枯れ木も山の賑わい(枯れていない!との声あり)、福岡となるとなにか血が騒ぐところあり、とくに交流会を楽しみに、出席しました。
全国集会は今年で第45回。在外研究などを除いて、これまでほとんど全部の集会に参加してきました。そのなかで、もっとも思い出に残るのは、なんといっても福岡で(九州で)初めて開かれた1977年の集会。私たちの熱い呼びかけに応えて、沖縄から初めての参加をみた年でもありました。なつかしい久茂地文庫の喜納勝代、沖縄県青年団協議会の田場盛順、研究会の上原文一、玉那覇正孝などの皆さん、海をこえて10名近く。喜納さんと上原好美さんが油山に泊まりました。
この集会は、福岡や北九州の公民館を守る闘いが背景にあり、緊迫した思いで準備が進みました。事務局長は故田岡鎮男さん(福岡市公民館主事)、会計は前田恒子さん(主婦卓球愛好会)。集会が成功裡に終了した乾杯のなかで、二人が泣いていた情景を想い出します。
あれから30年近く。この間の蓄積と拡がりを感じつつ、17回集会からの歳月に感慨深く・・・。いくつかの課題のようなことも考えましたが、ここには書ききれない。
交流会で司会の横山さんの口車にのり「やんばるの子守歌」や“同胞”「ふるさと」を歌いました。そのあとの席でも、酔った横山さんと一緒にまた歌いましたが、若い人はあまり歌わず、なんとなく寂しい。もう若くない小林平造さんの久しぶりの歌、これは冴えていた!
第17回集会の実行委員長だった門田見昌明さん(西南学院大学)や猪山勝利さん、石井邦一さんなどの懐かしい顔ぶれに会えない寂しさも。 一夜明けて、今日は、門田見さんと1時間をこえる長電話。
1414号(2005年2月6日)
■<沖縄・古宇利島のホームページ>
沖縄・今帰仁村の沖に、古宇利島(フイジマ)という丸い美しい島が浮かんでいます。かって「象グループ」の故大竹康市さんは、名護に着くとその足で古宇利島に渡り、白い浜に寝ころんだ、そんな話を聞いたことがあります。夢のような島。戸数140戸、人口360人前後のこじんまりした集落です。本島からフェリーでは10分程度、しかし永年の離島苦。その島に待望の古宇利大橋(沖縄では最長)が完成し、2月8日、いよいよ開通式だそうです。
古宇利島は見事なホームページを開いています。とくに区長(小浜美千子さん)日誌は毎日の更新、何も書けない日にも、たとえば「多忙で書き込みがかないません(2月3日)」とわずか1行。気取らない語りかけが魅力的で、ついアクセスしたくなります。
区長日誌のことは、中村誠司さんから教えていただきました。南の風に日誌(本欄)を綴るようになったのは、小浜「区長日誌」に刺激されてのこと。もっとも風は毎日ではない、やっとこさ、隔日です。
→ 古宇利島区長日誌:http://www4.diary.ne.jp/user/459397/
今帰仁村の歴史文化センターのホームページもほぼ毎日の更新を続けています。仲原弘哲さんの「動き」と題する館長日誌。かなり専門的なレポートと写真を含めて、他の追随を許さないとはこのような記録をいうのでしょうか。写真挿入など、私のHPもこの「動き」に触発されること大。1月半ば、「しばらくお休み」の書き込みがあり、心配していましたが、見事復活。入院されていたらしい。お見舞い申しあげます。
→今帰仁村歴史文化センター:http://www.reki.user.tontonme.ne.jp/
いま古宇利区長日誌は、大橋開通を前にして、毎日の記録が緊張と感動と、そして感傷にみちています。「…なんだか聞いてる内に涙が落ちたよ」など。8日は開通お祝いの諸行事、フェリー・古宇利丸とのお別れもあるらしい。9日は旧正月、11日には郷友会の皆さんが那覇から駅伝で大橋を渡り、古宇利に着いて祝賀会とか。歴史的な記念の数日ですね。おめでとうございます。一緒に島酒を交わしたくなります。
小浜美千子さんの区長日誌より(1月21日)。
「古宇利島は本島に近い、美しい島です。
みんながいつでも橋を渡って自然を楽しみにこられます。
沖縄の原風景の残る島です。
みんなで美しい自然を味わっていただきたい思いですが、
そのためには来島者のマナーが大事ですね。
みんなの島だと思って、大切にして欲しいですね。」
1413号(2005年2月3日)
■<TOAFAEC 研究会10年>
2月25日の定例研究会(105回)をどんなテーマでもつか、石倉祐志さんと思案中でした。積極的にモンゴルからの報告を引き受けていただいたトクターホ君(東京都立大学・院)、どうも有り難う!
テーマの案は三つ。これからの課題でもありますから、ご紹介しておきましょう。一つは「原水禁運動50年と安井郁」(報告・竹峰誠一郎と小林ぶ)、二つは、台湾「社区営造運動について」(報告者・依頼中)、そして第三に、モンゴルからの報告案、でした。
第一のテーマは、故安井郁資料の整理(風1410号に既報)の事前学習会をかねる、第二テーマは、台湾からの報告を久しぶりに実現したい、第三テーマは、「民族的アイデンティティの形成と教育」について修士論文を書き上げた(臥薪嘗胆を重ねてきた)トクターホ君の晴れ姿をみたい、という思い。
私たちの研究会も今年で10年を迎えました。第1回は、1995年6月2日、テーマ「韓国社会教育法をめぐる近年の動向」、報告者は文孝淑さん(会場・国立公民館)でした。中国、韓国、台湾、そして沖縄、ときに東京や川崎、など“東アジア”からの視点をもってテーマを設定してきました。
よくぞ続いてきたもの。テーマは東アジア全域に拡がり、ともすると論議は拡散し、ある人には大いなる関心あり、しかし隣の方には難しい、中心メンバーは別にして、参加者の顔ぶれは毎回異なり、院生もいれば、職員もいる、研究者もいれば市民もいる、年寄(ぶ)も若者もいる、研究的なようで、運動の話もあり、お酒の話もあり、などなど、いろいろ。ただひたすら、お互いの“交流”を大事にして、毎回かならず飲み、かつ歌ってきました。もっとも最近は歌が少なくなったけど。
しかし別の言い方をすれば、東アジアからの多角的な視点をもって、他の研究会にはない独自性を創ってきたことは確か。東京学芸大学時代からの沖縄研究会や留学生特別ゼミの歩みも考えれば、数多くの留学生がここから育って各地へ散っていきました。“桃杏四海”です。さて、これからまた、どのような道を歩むことになるのか。6月には記念の会を企画しましょう。
1412号(2005年2月1日)
■
<東アジアを生きぬいた自分史>
上原信夫さんの稀有の人生体験、その「自分史」は1月定例研究会でようやく1946年まで到達しました。さて、これからどのように話は展開するのか。
ようやく故郷(国頭村奥)に帰った上原さんは、1947年から沖縄全島に拡がる政治活動へ。戦後沖縄初の住民大会ともいえる沖縄建設懇談会(同年5月)の発起人の一人、初めての政党でもある沖縄民主同盟(6月)結成に参加し青年部長へ。しかし、その後はアメリカ側に追われることとなり、1950年2月、沖縄を脱出。各地を転々として同年4月ごろ中国へ渡る。中国滞在は30年近く、日中国交回復後、ようやく帰国されます。中国では文化大革命も経験されました。その人生ドラマは想像を絶するものがあるようです。また折りをみて「自分史」を開いて頂きたいとお願いしてあります。まだ語れないこともおありのようですが、今回の研究会では「初めて話します」と断って漏らされたエピソードもありました。
軍隊で死刑宣告を受け、必死の逃走。それを助けた人は北一輝(国家社会主義者)の影響を受けた先任伍長だったそうで、その“侠気”を指摘されました。そういえば「妻を娶らば才たけて」の次ぎに、♪・・友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱・・♪ の歌を思い出し、印象深いものがありました。
沖縄から脱出して中国そして日本へ、文字通り「東アジア」を生きぬいてこられた自分史続編、次の機会を楽しみにしましょう。
ところで前号に書いた「ダイヤモンド富士」の顛末。1月31日は雲多く、なかば諦めていましたが、午後4時頃からお日さまは顔を出しました。西方の山々は丹沢など稜線がくっきり。これはいける!とその瞬間をまちましたが、富士とおぼしきあたりは雲がかかり、結局、輝くダイヤモンド富士は実現しませんでした。残念!
写真の画像を拡大してみても、富士の頂きは雲に閉ざされて見えず。富士に叢雲(むらくも)だ。
1411号(2005年1月30日)
■<ダイヤモンド富士>
永福の私の部屋は、6階建てマンションの5階。嬉しいことに、晴れた日には西の方に富士山がよく見えます。とくに冬、寒い朝は白い富士、夕刻になると茜の空にくっきりと浮かびあがる富士。ただ前景に送電線が走っているのが残念ですが、それはそれで現代的な(北斎の画には絶対に出てこない)富嶽と言えましょう。
ここにもう25年住んでいることになります。ついでにご紹介に及べば、マンションの東方は新宿のビル群を望み、南方からは陽光さんさん、そして西に富士、と三方に大きく開いた窓が気に入って、なかば衝動買い?した住まいです。
親切な友人がこんなことを調べてくれました。1月31日夕、永福より富士を望めば、その真上に陽が沈む、いわゆる“ダイヤモンド富士”が見えますよと。時刻は16時50分。もちろんお天気がよければ、のことですが・・・。
天空のお日さまは、春に向けて沈む地点がだんだん北上し、夏から秋を過ぎると今度は南に下がって、再び11月10日(16時22分)に“ダイヤモンド富士”が見えるそうです。計算に驚きました。
1月31日夕は、折悪しく『公民館・コミュニテイ施設ハンドブック』(日本公民館学会)編集作業委員会の予定。当日、もし晴れていれば、もちろん!“ダイヤモンド富士”を優先か。会議には少し遅刻することになりそうです。
1410号(2005年1月29日)
■<安井家の原水禁運動資料>
1月28日は二つのスケジュール。午後の安井家訪問と夜の1月定例(TOAFAEC
)研究会でした。研究会はご案内の通り、上原信夫さんのお話。あらためて現代を果敢に生きてきた方の輝きを実感しました。2時間にわたって語られた(11月研究会に引き続く)自分史、1945年からわずか1年のところで時間がきてしまいました。折りをみて、1946年以降の続編をお願いしなければなりません。
研究会には、台北の羅建中(作曲家)、名護の田畑昌吾(市教育委員会)のお二人が初めて参加、東アジア・沖縄研究会らしい拡がり。終了後、交流会の話もはずんで、楽しい夜となりました。
ところで今年は、原水爆禁止世界大会(第1回、広島)、そして原水爆禁止日本協議会(原水協)結成から50年の年です。原水協・初代理事長であった安井郁氏(当時・法政大学教授、杉並区立公民館長)の貴重な所蔵資料を整理(データーベース化)して光をあてよう、というかねてからの宿題あり。28日午後、竹峰誠一郎くん(風1408号で紹介)と荻窪の安井さんのお宅を訪問しました。
故安井先生の本棚やダンボールの資料は、一見しただけで第一級資料、宝の山の雰囲気にあふれていました。物置も見せていただきました。関心をもつ若者にも呼びかけて、学習会を企画し、3月〜4月あたりに集中して資料整理の作業をしよう、と話しあいました。いまから呼びかけのメールを打ち始めます。図書館学専攻の石川敬史くんなど皆さん、どうぞよろしくお願いします。
ちょうどいま(28日深夜)、NHK広島のHさん(「原水禁運動発祥の地で署名集めをされていた方にぜひお話をお伺いしてみたい」との希望あり)からメールが来ました。「
… 故安井郁さんのご自宅で作業をされるようなご予定がありましたら教えていただければと思います」(Fri,
28 Jan 2005 23:31)とのこと。残念!1日遅かった。次回は3月になりそうです。
1409号(2005年1月27日)
■<奄美との出会い>
私のJRとの乗り換え駅は渋谷か新宿。1週間ほど前、渋谷東横の8階に立ち寄りました。「日本の職人展(第7回)」に興味があったからです。これがなかなか面白い。全国から30人ほどの名職人が集まっていて、実際に筆をつくっていたり、市松人形手作りを見せてくれたり、革を縫っていたり。時間の経つのも忘れて・・・。
いちばん奥に奄美「大島紬」。三代目仁左衛門と名のる方が座っていました。本場の大島紬にはとても手が出ませんが、ついつい名瀬のことを聞いてしまいました。過ぎし日の日本復帰祈願断食闘争、中心にいた泉芳朗(復帰協議長)のこと、闘争的な青年運動、婦人会の生活擁護運動、など話は歴史に及びました。そういえば当時の奄美共産党を結成した中村安太郎さん(旧大島中学教師、青年たちに大きな影響を与えた)の晩年は京都で大島紬「中村屋」をやっておられましたね、とか。中村安太郎さんは私たちにも実に丁寧に当時のことを語っていただきました、『沖縄社会教育史料』第4集(奄美特集、1982年)に証言を載せていますよ、そんな話を。
故龍野定一氏(名瀬市名誉市民、全公連・初代会長、東京都北区初代公民館長)のこともご存知でした。私も鎌倉のご自宅にお話を聞きに行ったことがありますが、そのときはもう高齢で細かなお話は聞けませんでした。たしか故小川正美さんや園田(平井)教子さんともご一緒。
名刺を交換。伝統工芸士・原正仁さんという方でした。名刺の裏には次のようなメッセージがありました。
「奄美大島は日本に復帰して52年目。これから100年に向けてがんばります。奄美の海、山の緑、自然の空気、暖かい人たちの心、大切に1日1歩、歩んでまいります。奄美大島へ旅してみませんか。」
1408号(2005年1月25日)
■<台湾の地域づくり政策>
台湾では1994年から「地域づくり」を積極的に推進していこうとする政策(社區総体營造運動)が打ち出されてきました。いまちょうど10年が経過したことになります。
私たちは台湾政府の社会教育・生涯教育に関する振興策や法制化の動きに関心をもって、1990年代には、毎年のように台湾に渡りました。1997年1月に、台湾師範大学と台北市教育局から招聘されて「中日終身教育学術検討会」に参加したことも。しかしこの地域づくり運動の動きに直接触れることはありませんでした。教育研究の立場からの調査旅行では、地域や文化の問題とはなかなか出会えないようです。
「社區総体營造」施策は、台湾中央政府・行政府文化建設委員会が所管しているとのこと。教育政策というより、まずは文化政策でありコミュニテイ施策なのです。地域づくりをすすめる住民組織としての「社区発展(開発)協会」が全国5781ヶ所(2001年現在)に設立されているそうです。その後はさらに拡大している?
竹峰誠一郎さん(和光大学卒、早稲田大学大学院博士課程へ、『ヒバクの島−マーシャルの証言」著者)から、早稲田大学台湾研究所主催の台湾訪日団を迎えての講演会(1月24日午後〜夕)案内が届きました。呉密察氏(前行政院文化建設委員会副会長、国立台湾大学教授)による「社區營造運動の十年間、その理念、行動と限界」の報告が行われるそうです。しかし当日、私は日本公民館学会の今年最初の理事会とも重なり、参加できませんでした。
私たちの研究会で、いちど台湾の社区政策そして社区教育についての動きを取りあげたいもの。鄭任智さん(早稲田大学・院)は24日の台湾研究所の講演会に出席したかしら。もし資料でも入手できたら、紹介していただけませんか。台湾に帰った楊武勲さん、もし可能ならば「社區総体營造」に関する最近の動きなど“風”に送っていただけませんか。
1407号(2005年1月23日)
■<宜野座の「京太郎(ちょんだら)」>
本号所収の「おきなわ短信」204号は、沖縄・宜野座区(宜野座村)の「京太郎(ちょんだら)」が、国の無形文化財に指定される見通しとなったホットニュースを紹介しました。琉球新報も沖縄タイムスも大きく報道。
私たちの研究室と宜野座区とのお付き合いは、1979年正月・今帰仁村中央公民館を会場とする北部社会教育関係者の集いから始まりました。その数年後、同区の二才団が演じる「京太郎」が初めて国立小劇場(東京)に出演したとき、研究室あげて応援に馳せ参じ、それも新たなご縁となって、同区の豊年祭(八月遊び)には、毎年といってよいほど参上する一時期がありました。
沖縄の小さな集落に、想像も及ばない厚みで固有の文化(芸能)が伝承されてきたこと、若者と子どもたちがそれを担っていること、その人間形成・教育の機能をまざまざと実感したのは、宜野座の豊年祭に出会ったときだったのかもしれません。祖先の霊を迎え、芸能で遊び楽しみ、最後の日にお送りする、という三日間の祭りは、本土から参加した学生たちにとっては驚きそのもの。記録をみると、1996年9月の同豊年祭百年記念「八月遊び」には、和光大学、中央大学、神戸大学、九州大学の学生・院生が約30人参加。帰路には、台風に遭って那覇に足留めされたのも、今となってはいい思い出です。
私たちと宜野座をつないだのは、同区の字公民館です。出会い当時の公民館長は城間盛春さん(現在、宜野座村議会・議長)、たしか25才でした。一緒だった徳永功さん(国立)や進藤文夫さん(国分寺)などと「若い公民館長」を話題にしたことを印象的に憶えています。その頃、私たちは「三多摩テーゼ」に取り組んだ余韻があり、公立公民館の館長専任化についてさかんに論議していたのでした。
盛春さんは、集落の選挙で選ばれた若いリーダーとして、活気と魅力を漲らせていました。その横には同村・社会教育主事だった長浜宗夫さん(同区出身、のち同村収入役)も。忘れられない思い出いろいろ。皆さん、今ごろはきっと無形文化財指定の祝杯か。今年の9月「八月遊び」はきっと賑やかなことでしょう。
1406号(2005年1月21日)
■
<戦後東京社会教育史料の廃棄問題>
新年会も終わって、取り組むべき課題はいろいろ。辞典づくりや韓国の本づくりなど、夢ふくらむ仕事もあれば、戦後東京社会教育(稀少)史料の廃棄問題などにどう対応していくか、まったく頭の痛い課題もあります。正直言って、いったい東京の社会教育は、いまどうなってんだ、と怒鳴りたくなる。しかし感情的に怒ってみても問題のいい解決になりません。冷静に、ゆっくり、と自分に言い聞かせながら、昨日は終日この問題について関連の方々にメールを打ったり、電話をかけたりしていました。しかし、親しい「社会教育主事」にこの問題を話し始めると、つい「かけがえのない史料を棄てたのは社会教育主事じゃないの?」と声が大きくなってしまいます。Nさん、申しわけない。
この問題は(和光大学が英断をもって受け入れてくれた多摩社会教育会館(旧)サービスコーナー専門資料の問題とは別の)「東京都社会教育史料」コレクションが廃棄された問題です。ご存知でしょうか、「三多摩(東京)社会教育の歩み」全13冊(1988〜1999、同会館事業)が刊行されてきました。当事者が言うべきことではありませんが、この「歩み」研究・刊行については、知る人ぞ知る労作、社会教育研究以外の方からも高い評価を得てきました。なにしろ13年にわたる継続、その過程で、収集・保存されてきた史料、それらを個別・私的に所蔵しないで、社会的公共的に共同利用できるようにしよう、多摩社会教育会館の一角に保存しよう、として蓄積されてきた第一級の史料、それが廃棄されてしまっていたのです。私たちも気づくのが遅かった。ほんらい最も公共的空間であるはずの都社会教育施設に置いたのが裏目に出た!
研究グループが収集してきた史料だけでなく、(旧)都立教育研究所に収蔵されていた斉藤峻史料がこれに合流し、戦後初期社会教育関係者の寄贈も少なからず、多くの思いが凝縮されてきたコレクション。この問題については、昨年のTOAFAEC
総会記録と関連して「南の風」でも取りあげた経過があります(2004年6月、1279号、1280号)。
新年会の夜がひとつの契機になって、これら史料の「取り戻し」についての取り組み・・・を始めようという話が、ようやく始まったように思われます。久しぶりに藤田博さん(もと都社会教育主事)にさきほど電話で話しました。問題の経緯をはじめて知り、しばし呆然、声が出ませんでした。これからどう動いていくか。また、経過に応じて、ご報告することにしましょう。関係の方々のご関心、ご協力をお願いします。
1405号(2005年1月19日)
■
<風は毎日吹かない方がいい・・・>
いろいろ書きたいことあり、頂戴して未掲載のままのメールもいくつかあり、毎日の風・配信となってしまいます。せめて隔日に・・・と思いながら、新年会の記事と1400号のアドレス帳整理のことも重なり、お許し下さい。この風が毎日のように騒がしく舞い込んで、迷惑メールとなってしまうことを何よりも気にしています。
昨年11月の日本公民館学会を契機に「風」に参加いただいた小林雄介さん(川崎市教育委員会)から、さきほど届いたメール。
今後も配信してほしい旨の一文のあと、「 …略… 私の毎日はメールを開いて南の風に当たることから始まります。家にいながらにして、各種の研究等の情報にふれることで、どんなに元気付けられていることか、わがままなファンをお許しください」(Tue,
18 Jan 2005 21:39)と。有り難うございます。ホッと気が楽になって、この風を(今晩も)吹くことにしました。
書きたいこと・・・というのは、懸案になっている東京都の貴重な社会教育史料の廃棄問題(この回収にどう取り組むか)、台湾の地域づくり「社區營造運動」展開についての講演会(早稲田大学・台湾研究所)のこと、戦後奄美の社会教育についての出会い、原水禁運動に関わる安井家訪問の計画、昨年から取りあげたいと思いながら出来なかった「草の実」終刊のこと、などなど。忘れないように項目だけでも掲げて宿題にしておきます。
1404号(2005年1月18日)
■<新アドレス帳>
昨日(16日)の新年会、遠藤輝喜さんや田中美奈子さんはじめ世話人会の皆さん、そしてご参加の方々、お疲れさまでした。
二次会の終わりでは、秘蔵の山原島酒古酒カメを開ける成り行きに。場の勢いでそうなったのです。いつぞやの正敏さんの忠告にしたがって、許容の範囲(2合?)だけ別の器に取り分け、その場に残っていた10人ほどで味わいました。皆酔っていて「仕次ぎ」にはいたらず。最後には遠藤さんが紐で蓋をしばりましたが(HPに写真)、きちんと閉まったかどうか心配。仕次ぎを含めて、こんど正敏さんが上京される折りにチェックしていただきましょう。
今年の新年会、ぶんじんはいつもよりお酒を控えていました(衰えた?の説あり)。座がお開きになり、まだ飲んでいる連中を残し上の部屋に戻って、南の風1403号を編集・送信しました。ホームページに写真7葉もアップ(25名余りの肖像、お嫌の方はご一報を)。しかし今朝になって昨夜の風を読み直してみると、やはり失敗!
大急ぎで(記事があふれて)本号に移した小峯みずきさんの「松本なんなん人権平和講座」記事が、目次だけ前号に残って送信していました。やはり酔っていたのです。すみません。いまHPの前号目次を修正したところ。
【新アドレス帳】
1403号より新アドレス帳で配信しています。1400号を区切りとしての整理作業。新しいメンバーは84名の方々となりました。先回整理では81名でした(風1260号・2004年5月2日)。この7ヶ月余の間に、12名の方が参加され、9名の方への配信を(確認メールに応答なく)停止。計21名の方の入れ替えがあったことになります。
もし、風の着信になにか問題があれば、ご一報下さい。新アドレス帳のメンバー一覧についてはどうしましょうか。ご希望の方のみ、お送りするようにしましょう。ご遠慮なくどうぞ。
1403号(2005年1月17日)
■<新年会の夜>
新年会の当日、ボヤンバートルのメールにあるように、ある年は大雪でした。電車(井の頭線)も一時止まるほど。駆けつけた人たちが十数人。仕込んでもらった料理は大余りでしたが、楽しく新年を祝って、思い出に残る年でした。この時期は、かっての共通一次、いまの大学入試センター試験と重なり、なぜか天候はあまりよくありません。今年も雪の予報が出ていましたが、幸いに東京は冷雨にとどまり、雪にはなりませんでした。
新年会のエピソードいろいろ。そのうちまとめて書き留めておきたい。ここでの出会いで結婚したカップルあり、そうでなくても突然に結婚を表明する人もあり、その年々にお祝いの話題にことかかず。さかんに歌をうたいあい、杯を重ねたものです。20年の歳月を越えれば、歌で綴る新年会の歩みの企画など面白いかも。とくに、モンゴルからの留学生が現れて、目の前で初めて馬頭琴を演奏してくれたときの興奮は忘れません。しかし、だんだんと歌の文化は衰えてきましたね。
新年会は午後1時から5時まで。それで散会するのが通例・・・なのですが、そのあと、ぞろぞろと小林宅へ流れてくるかたち。これは失敗しました。グランメールとの距離が少々近すぎたのです。とくに“風の部屋”が出来てからは、昼と夜との二部構成が定着しました。たしかに夜しか来れない人もいる、しかし昼から夜遅くまで飲み続けるのは、疲れ果てます。
だけどやはり新年会。忘年会とは一味違うところがあって、なんとも楽しい夜です。いま(16日午後10時すぎ)、ようやく八朔友二くん(ふるさときゃらばん)の恒例・三三七拍子で今年の頑張りを期待しあって終幕を迎えたところ。別れがたくまだ5,6人は飲んでいるようです。ご一同、今年もいざ、楽しく参りましょう。
1402号(2005年1月15日)
■<16日、恒例の新年会>
新年会の季節となりました。今年にいたる顛末をお聞き下さい。
ずいぶん昔の話になりますが、福岡から東京へ移って(1967年)、国立に住みました。住宅公団の富士見台団地。徳永功さんなどとよく飲んでいました。手狭になって、すぐ近くのマンションを買い、本の置き場にしました。歩いて5分のセカンドハウス。次第にみんなのたまり場に。沖縄の方がいつ来ても泊まれるように久茂地文庫分室という看板も掲げ、東武さんなどいろんな方が泊まりました。1970年代のこと。
その間に、郷里・福岡に移る話があり、景勝の油山に家を建てました。しかし大学紛争の時代、異動の話は白紙にもどり、家だけ残るという経過。その後は、お正月と盆には福岡に帰る習わしとなり、年に2回は農中茂徳くんが幹事役(魚を仕入れる係)となり、案外と盛大な新年会と盆休みの飲み会が定例化してきました。
他方で東京では、国立が住みづらくなり(PTA会長など、いろいろ地域で追われる状況あり)、またセカンドハウスを解消する意図も加わって、1980年、いまの永福に移りました。レンタのトラックを借りて(運転手は東京農工大学生)、研究室の皆さんがわいわい集まり面白い引っ越し作業。はみだす本は福岡へ。それから、すでに25年が経過したことになります。
永福のマンションでも、新年会と七夕の会が始まり、年中行事となりました。新年会は、だらだら飲みに来る客を一日にまとめる算段から。七夕の会は新しく研究室にやってきた留学生を家に招き、平林正夫くんのお父さんもやってきて、激励?する会がきっかけ。
新年会も七夕の会も、田中美奈子・山口真理子・江頭晃子などの皆さんに手伝ってもらって、我が家での手づくりの会でした。しかし破綻!
とくに新年会は人があふれて(のべ60人あまり)、飲兵衛がいつまでも帰らず、悪夢のこの日、我が家は吉祥寺のホテルに部屋をとる始末。
というわけで、新年も七夕も、近くの小さなレストラン・グランメールを貸し切って会を開くようになり(幹事代表・遠藤輝喜さん)、10年ほどが経過したという次第。各地で、かっての留学生と会うと、ゼミの話はともかく、新年会のことなどを懐かしく語ってくれます。
16日は恒例の新年会です。お誘い合わせの上、お出かけ下さい。会費制です。社会人は2000円、留学生と子どもは無料、学生は500円というところがミソか。場所など詳細はホームページをご覧下さい。
1401号(2005年1月14日)
■<つくし野「栄鮨」へ>
12日夜、故小川剛さんの前夜式(通夜)へ。大勢の方が見えていました。新横浜近くの会場はぎっしり、座る椅子もなく、もし足が癒えてなければ、つらいところ。1時間あまりを立ちつくして、皆さんと一緒に祈り歌いながら、霊前に献花。自分が生きていること、足も丈夫になったことを実感しました。それにしても、この1年は、お別れの式が多すぎます。
終わって外へ。冷たい風。そうだ、久しぶりに田園都市線・つくし野「栄鮨」へ行こうと思い立ちました。この店の息子と東京学芸大学時代の中国留学生・黄えん棋さんが結婚したのが10年前。その縁があって和光大学時代はときどき出かけました。「よく勉強した人にだけに美味しい寿司をご馳走しよう!」など冗談を言いながら、研究室に最後まで残っていた学生を連れて行ったものです。学生の数が少なくならないと懐に自信がなかったというのが正直のところ。たまにはこの店で盛大なコンパを開いた記憶もありますが。
和光大学を辞めてすでに3年近く、ずいぶんのご無沙汰、田園都市線に乗ればすぐだ、新横浜の葬儀会場からそう遠くない。しかし、まわりに誘いにのりそうな食通?は見あたらず、結局は一人で、つくし野の駅前並木道へ。まったくの住宅地のなかに突然現れる「栄鮨」の灯り。前からこれは感激ものなのです。やれやれ、定休日でなくてよかった。
以前とかわらず、絶品の寿司をにぎってくれます。トロも穴子もヒラメもサヨリもウニも・・・すべて美味しかった。「お子さんはいくつになったの?」「7才です」「もう小学生か。そして一人っ子政策なの?」「いや、努力しているのですが・・・」などの意味シンの会話。連絡を受けた黄さん(別のマンションに住んでいる)から「先生にどうぞ」と出してくれたのは、生牡蠣の一皿。これも感激!全部を平らげました。
故小川剛さんの研究室はいつも学生に開かれていたそうですが、ぶんじん研究室も同じ。議論だけでなく、よく飲みよく食べたものです。あのときの研究室メンバーで、いつぞやの栄鮨の会を再現したいな、などと思いつつ、やや酔って長居。つくし野駅まで送ってもらう羽目に。
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