南の風・末尾記事(ぶんじん日誌)
1400号(2004年1月12日)
●<調査仮説のいくつかの修正>
今回の沖縄調査で収集し得た資料整理をしなければなりません。他の仕事とも錯綜して、これがなかなか大変。忘れないうちに、いくつかのことを書いておくことにします。
この間、沖縄独自の歴史として集落の育英会活動にテーマをしぼって歩いてきました。集落のもつ(形成的機能とともに)典型的な教育的機能として着目しているつもり。これまでもってきた仮説的な理解は、今回の地域調査によって、いくつか大きく修正を迫られているように思います。以下、思いつくままの覚え書きとして。
1,集落育英会活動は、中村誠司さんや山城千秋さん提供による「ふるさとの顔」記事(風1396号)等で指摘されたように、限られた事例という認識であったが、現実には、かなり広範に展開されてきている。いまのところ25集落ほど。名護では(学事奨励会による「貸付金」制度まで加えると)むしろ育英会「的」活動の取り組みをもたない(もたなかった)集落の方が少ない?
2,集落を基盤に組織を整備し財政基礎をもつ(その意味でフォーマルな)「育英会」活動と、集落行事としての「学事奨励会」とは峻別されるべきと考えてきたが、実際には、歴史的にも両者は連動している。
3,東海岸(宜野座村、金武町、勝連町等)にみられるアメリカ軍用地収入を基盤とする現代的事例は重要であるが、集落の伝統的なユイマールの意識や模合(モアイ)の慣行に根ざしている側面を無視できない。
4,育英会活動の形態は、集落ごとに一様ではないが、集落間の情報交換や相互刺激があった。共同体としてのシマの自尊とシマ相互の響きあいが興味深い。
5,集落の社会的機能としての育英会活動は、その活動を展開することを通して、集落の社会的結合に大きく寄与してきた事実。
6,背景に農家の経営規模や生活基盤の経済的格差が要因として介在するが、育英会活動を組織するリーダーの役割とそれに呼応するシマンチュ(集落住民)の連帯感、共同意識のありようが重要であった。財政的に豊かな集落だから育英会活動が取り組まれてきたというわけではない。むしろその逆の関係を見逃すべきではない。
7,集落育英会の胎動は、歴史的にみて、(1)大正・昭和初期の農村恐慌期、(2)1950年代の戦後復興期、そして(3)復帰後の軍用地代収入を基盤とする1980年代、の三つの系譜を指摘できるのではなかろうか。いま素朴な地図・年表を作成中。
中村誠司、山城千秋、そして島袋正敏、(本号から風を送り始めている)比嘉ひとみ、などの皆さま、いろいろ教えて下さい。
1399号(2004年1月10日)
●<7日・那覇の夜>
7日夜の旧おきなわ社会教育研究会との交流会(会場「あんつく」)は、久しぶりの平良研一、上原文一、喜納勝代、佐久本全、玉那覇正孝、名城ふじ子等の皆さんと。終わりの頃に鷲尾真由美さん、上地武昭さんやその研究室メンバー3人の若者も加わり、賑やかなひととき。学生の一人は名護出身、烟台(山東省)日本語学校への関心あり、地ビール店の看板まで少し話しをしました。(名護より同行希望の宮城満さんは事情あり、結局、来れなくなりました。)
8日午前、10?年ぶりに新川右好さん(ベッテルハイム研究、『琉球と琉球の人々』2003年・沖縄タイムス刊、東京学芸大学・院卒)と会いました。車でぐるぐる買い物、2時間の車中歓談。空港まで送ってもらって、無事に東京へ帰りました。
今回もまたいろんな方にお世話になりました。とくに字の聞き取り調査に関して、東武さん(那覇入管)、比嘉ひとみさん(名護市史編纂室)、もちろん中村誠司さん、調査に協力頂いた方々、まことに有り難うございました。新春気分も楽しみながら、充実した5日間を過ごすことができました。
名護(5日)の夜、岸本力さん(2年前の全国集会事務局)がサンシンを弾きつつ、たくさんの写真を撮ってくれました。その一部をHPへ。ご覧ください。もし不都合な写真があればご一報下さい。ただし、那覇の夜はカメラを失念、久しぶりのメンバーなのに記録が残らず、残念!
●<風・アドレス帳の整理、お願い>
「南の風」次号で1400号となります。この1年あまり、風アドレス帳はとくに見直しをせず、新しく受信者が増えて、やや拡がり過ぎ。風が(リードオンリーどころか、まったく読まれない迷惑の)ゴミメール?に化している状態もあるように思われます。一つの区切り、久々のアドレス帳整理をお願いいたします。
風は双方向に吹きあう原則、この間、まったく返信を頂けない方への送信を控えさせていただきます。該当の方で、もし引き続き風をご希望の向きはご一報下さい。また送信無用の方も、ぜひその旨をお知らせ下さるようお願いします。
1398号(2004年1月7日)
●<名護の夜>
ご存知の方も多い名護「大国林道」(1号店、山田荘の近く)は、隣に店を拡張して、大きな構えに発展していました。古酒瓶が並ぶ新装部分は本格的な古酒コーナーとなるらしく、白い壁に島袋正敏さんが(おそらく「古酒」と)墨筆大書する予定とか。次回が楽しみです。
5日夜は、真新しいこの部屋で賑やかな集い。中村誠司(名桜大学)さんを幹事役に、稲嶺進(教育長)、松田毅(社会教育課長)、赤崎隆三郎(与論島)などの皆さん約10人。もちろん正敏さんも。そして岸本力の三線。チカラくんはすでに師匠格だそうです。新春のさかんな議論がはずみました。こちらも酔って、東アジア・フォーラムの話を。
皆さん、きわめて元気。夏の全国集会(福岡)には、スリサーサー!揃って参加し、油山のぶんじん宅に合宿しよう、という話に及びました。泊まれない場合は、白樺の庭にテントを張るそうです。そんな広い庭でもないのに。
6日夜、別用があって前夜来れなかった宮城満さんが山田荘に現れました。これは逃げるわけにはいかない。旧映画館を改装?した行きつけの店へ。ながい付き合いなのに、この店は初めてだ。昨年秋の島酒の会でお会いした方など馴染みの客がゆっくり飲んでいて、ひととき昔のバーの雰囲気を思い出し、つい飲み過ぎの感。
昼のことを書き忘れました。6日午前、喜瀬の集落育英会についての聞き取り。午後は、孝喜と許田への調査。案内役は市史編纂室の比嘉ひとみさん。今回は調べる余裕がありませんが、「ふるさとの顔」記事では限られていた事例が、案外といろんな集落(宇茂佐、宮里、大西区等)で動いている(いた)ことを知りました。
7日午前、名護市城区の調査。午後は那覇へ。宮城満さんは那覇の夜の会(旧おきなわ社会教育研究会)に興味あるらしく、同行の模様です。
1397号(2004年1月5日)
●<金武町・屋嘉区へ>
今回の訪沖日程を決めたのは旧12月20日前後。慌ただしいスケジュール、連絡も遅くなり、皆さんにご迷惑をおかけしました。勝手気ままな一人旅です。
4日は、朝一番で沖縄県立図書館へ。名護の図書館で見られない字誌を探索するつもりでしたが、まだ開いていませんでした。4日からは御用始めのはず、この日に合わせて3日夜に那覇入りしたのに、とぼやくと、タクシー運転手の同情しきり。そのあと浦添市立図書館へまわる計画でしたが、これも中止。そのまま金武町・屋嘉区へ向かいました。東武さん(那覇・入管、元沖青協会長)を通してお願いしてあったのです。
公民館の皆さんが待っていてくれました。屋嘉区(現在554戸)は1959年から集落として育英会を創設したとのこと。1200万円の基金、現在10名(県内7名に毎月2万円、県外3名に各3万)に給付中・・・と聞き取りが進むうち、この3月に字誌が刊行されることが分かりました。20年来の課題実現なのだそうです。
この情報で、もう調査は進みませんでした。集落の全般的な理解を含め、字誌を読んだ上で聞き取りした方がはるかに精度が高まるからです。新刊字誌の送付をお願いし、4月以降に再訪の約束をして辞しました。
屋嘉区公民館「公民館主事」の伊芸君に隣の伊芸区公民館(ややこしい!)まで送ってもらいました。激しい反基地闘争(都市型ゲリラ訓練施設反対)の先頭に立って闘っている伊芸区公民館長(池原政文さん)と会ってきました。これからが正念場とのこと。
5日は名護へ向かいます。
(お詫び)前号の中村誠司さんと山城千秋さんのメールは、名護市喜瀬についての情報が重複し申しわけありませんでした。千秋さんの「新年あけましておめでとうございます。今日から沖縄にいらっしゃるとのこと、沖縄も意外と寒いのでどうぞお気をつけ下さい。海風が強くて風通しのいい家が多いので、本土よりも寒いです。(以下略)」のご挨拶を掲載する予定でしたが、編集の過程で前メールと混同してしまいました。
1396号(2004年1月4日)
●<那覇にて>
3日夜、那覇に着きました。東京(羽田)では強風のため搭乗機が1時間あまり動けず待機、かなり遅れての到着でした。山城千秋さんと夕食の約束をしないでよかった。
沖縄も案外と寒いです。こんなはずじゃないのに。私たちは沖縄研究の初期から(東京や福岡で正月をすまして)1月初旬、毎年のように沖縄に飛んだものでした。いつも暖かい夜でした。たしか1980年の1月には海勢頭豊さんと喜瀬武原に出かけ、字公民館で“喜瀬武原”を歌いましたよ。昭和天皇が亡くなった1989年は、沖縄でそのニュースを聞きました。それにまつわる強烈な記憶が残っています。東京学芸大学を辞めた1995年の1月初めも、ゼミの皆さんを誘って、やんばるを歩いていました。思い出はつきず。
この時期、寒い日本から飛んでくると、沖縄の1月はいつも春でした。私の心では、沖縄は1月こそが“春宵値一刻千金”なのです。路地を歩くと、どこからか夜来香らしいかすかな花の香がただよい、入り交じって、お餅をつつむサンニン(月桃)の匂いもしてくる。イチャリバチョウデイ(出会う人みな兄弟)の精神で、古い友人たちはもちろん初めての出会いでもウチナンチュの心はみな温かい。それらに励まされ、元気を取り戻して、寒い東京での1年の仕事に取りかかったものでした。
この天気だと、今帰仁城の桜も、まだ咲いていないかもしれませんね。
2005年
1395号(2004年1月2日)
●<2005年・沖縄・平和カレンダー>
明けましておめでとうございます。
戦争と災害の厳しい年から、本年は少しでも平安と繁栄の年になってほしいもの。新しい年、みんなで平和の問題を考えましょう。お互いそれぞれの健康と幸せを大事にしましょう。
沖縄の1フィート運動の正式名称は「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」です。会から平和カレンダーを早速送っていただきましたが、同封されていた年賀状には次のような一文と歌一首。
「新春を迎えましたが、沖縄はきびしい現実でございます。(略)平和の世紀をめざして歩み続けます。ともに頑張りましょう!(略)
沖縄戦六〇年を迎えたり たぐり寄せなん海も山も」
私たちの沖縄研究は、ちょうど三〇年ほど前に始まりました。振り返ってみると、アメリカ支配から脱し本土復帰が実現してまもなくの頃でした。「沖縄戦六〇年」の歳月からすれば、まさに折り返し点だったわけですね。しかし、それから三〇年の間に、いったいどんな変化があったというのでしょう。少なくとも基地問題から考えても、アメリカ占領下から事態はひとつも変わっていない。いまだ「きびしい現実」にあるのです。環境問題など明らかに悪化している!
平和カレンダーは10部ほど送っていただきました。16日の新年会にでもご希望の方におわけいたしましょう。
1394号(2004年12月31日)
★<今年最後の風、お詫びと御礼>
今年の最後の「風」です。大晦日に、こうして慌ただしく風を吹くことをお許しください。と言っても毎年のこと。せっかく頂いたメールを出来るだけ年内にお送りしたくなるのです。石井山竜平さんから(久しぶりに)静岡の動きについてメールを頂いていましたが、きっと「新・公民館の風」に載るだろうと思って当方では割愛いたしました。旧「公民館の風」関係の受信者とはかなり重複するものですから。
だけど結果的に積み残しもあり。中村誠司さん、山城千秋さんの沖縄・集落育英会について寄せられたメール、川崎・小田切さんの講座案内メールなど。連日の送信は(急ぎの場合は別にして)控える原則、新年の風に収録させていただく予定です。ご了承下さい。
本号は1394号。昨年末の12月31日に出した風が1193号でしたから、この1年で201回の風をお届けしたことになります。ちなみに1号から1000号がちょうど5年、ぴたりと200号平均でした。しかし風が2日に1回の線をこえるというのは、やはり吹き過ぎ。まことに騒がしく、不躾もいいところ。きっと迷惑メールになっている場合もあろうと(いつもながら)恐縮しています。
この1年、まずはお付き合い頂いたことに感謝しております。有り難うございました。いろいろご迷惑をおかけしながらの1年が過ぎようとしています。
お元気でいい年をお迎え下さい。新年への期待をこめて・・・。
1393号(2004年12月29日)
★
<月は貧しい町を・・・>
年の終わり。1年使い慣れた手帳を新しく2005年版に移し替える季節。古い手帳には棄てがたいメモや一言断章あり、ときに未推敲の戯れ歌・書きなぐりもあり。ついつい、この1年の来し方を思い出したりしています。
夏の終わり、猪苗代での社会教育研究全国集会のあと、遠藤輝喜さんに案内いただき会津をまわったときのページ。中村誠司さんとご一緒でした。あの日の手帳の余白の書き写し。
会津市の中央図書館の前庭、かなり大きな石碑あり、佐藤民宝の詩が刻まれていました。
「月は貧しい町を
静かに照らしている
文学はこの月のようで
なければならぬと
私は思っている」
佐藤民宝(1912〜1977)は福島日報の記者、のちの編集局長。白虎隊や小原庄助についての小説や評論集もあるらしい。私はなにも読んでいないので申しわけないのですが、この石碑の一文は気になって手帳にメモしていたのでした。
「文学」を「学問」に、あるいは「社会教育」に、置きかえてみても、だいじなメッセージとなるように思われました。
こんなに押し詰まって・・・、いま、ようやくパソコンの住所録を整理し、年賀状の準備を始めたところ。年賀状をきちんと出すように、というのは父の遺言の一つ。しかし、年々その数が多くなり、ある年に思い切って大リストラを断行したことがありましたが、それでもまた新しい知友来たり、この季節、賀状出しが少々苦痛なのです。1000枚を越えると、宛名カードを打ち出し、ハガキに貼り付けるのが精一杯。出すことに意義あり、などとと割り切って、亡き父の教えをどうにか守っているところ。年内に投函できるかしら?
それにしても今年はどうして、こんなに、年賀状作業が遅くなったのだろう、と反省しきり。飲む回数が多すぎるのか。
頂いたメールが多く、本号(次号も)長くなってしまいました。
1392号(2004年12月27日)
★<今年納めの研究会>
24日から26日にかけて、二つの研究会と二つの編集会議。少し疲れましたが、これで今年の仕事はほぼ“御用納め”となりました。皆さま、お疲れさまでした。
24日夜の12月定例研究会・忘年会の公式報告は別に届くと思いますが、ご欠席の方々にちょいとご紹介しておきますと、神戸大学の末本誠さん、佐賀大学の上野景三さん、高知大学の内田純一さん、和光大学の岩本陽児さんとレディング(英国)から来日中の古市直子さん夫妻など各地からの豪華?メンバー、思い出に残る夜となりました。
ご承知のように、TOAFAEC 研究会の前身は東京学芸大学時代の「沖縄社会教育研究会」です。この研究会が延べ128回、いまの(東アジア)研究会に脱皮して今回が103回、通算231回という勘定になります。歳月にすると25年余り、四半世紀を越えました。
沖縄社会教育研究会時代の初代事務局長は末本誠さん(東大、当時)。その後、学大院生だった平井教子さん(鶴ヶ島市教委)や野村千寿子さん(大田区教委)などを経て、内田純一さんの事務局長時代が長く続き、そして現在の石倉祐志さんへと受け継がれてきたのです。そんな話が出て、ひととき思い出話にふけりました。
この間にどれほどの若い人たち、とくに留学生諸氏が研究会に名をつらねてきたことか、そして東アジアの故郷に帰っていったことか。“桃杏四海”という言葉を思い浮かべました。
お互い飽きもせず、いや、時には倦み疲れながらも、よくぞ今日まで続いてきたものです。
1391号(2004年12月25日)
★<鹿児島市の校区公民館>
久しぶりに小林平造さん(鹿児島大学)へ。
その後、お元気でしょうか。鹿児島市の校区公民館について教えて下さい。日本各地の地域犯罪率が激増するなかで、県庁所在地で鹿児島市だけは減少?しているとのこと。それは、鹿児島市が各学校に校区公民館を設置し、若い世代をまきこんで地域のさまざまな活動に取り組んできたことが大きな要因なのではないか、という評価が興味をそそりました。実際に校区公民館の活動映像も紹介されていました。(NHKスペシャル「63億人の地図5」再、12月23日夜)
とくに子どもをめぐる活発な取り組みと市民の積極的な姿勢が(映像で見るかぎり)印象的でした。背景に行政の前向きの施策も動いているらしく、校区公民館制度についての市長の役割も大きいとか。
校区公民館といえば福岡市。しかし、かっての専任公民館主事嘱託化の経過もあり、現在の状況については評価が分かれるところでしょうか。わが故郷・久留米市の校区公民館にも(最近のことは知りませんが)失望してきました。鹿児島市ではどうなんだろう。折りをみて「風」に紹介していただけませんか。
公民館の歴史や職員体制の実態と同時に、地域の古い組織体制(福岡市にみられる、草の根保守主義につながる?)と校区公民館はどんな関係なのでしょう? 薩摩時代以降の独特の地域組織の歴史的背景もあり、興味あるところです。
もし鹿児島市の校区公民館や地域組織について書かれたものがあれば、教えてください。お送りいただければ更に有り難い。
1390号(2004年12月24日)
★<沖縄からの烈風二つ>
昨日、沖縄から激しい風が二つ吹いてきました。一つは鷲尾真由美さんの「沖縄大学辺野古倶楽部のことなど」と題する長い、なが〜いメール。あと一つは、比嘉佑典さん(東洋大学アジア地域研究センター長)の新著『ゆいまーる福祉リゾート革命』です。
「うちなぁんちゅよ 自立健忘症になっていないか?
補助金もらって 大きな建物造って 借金つくって どうするの。
うちなぁはビリでいいじゃない。
よんなぁ よんなぁ 歩こうよ。
“ゆいまーる”の手作りのリゾートを創ってみないか。
意外と簡単なんだよ。この本読めば分かるよ。
山原の空き屋敷、遊休地をリゾートに変えていこう。
大企業に頼らないで、大学・市民・役場が一緒に出来る仕事だ。」
(2004年11月30日刊、ゆい出版、本体1000円)
佑典先生の添え書きには「とうとう大風呂敷をひろげました」とあります。現職のまま(国内留学)この1年は故郷の屋我地島「やんばる島宇宙博物館」で優雅に暮らしながら、一気に書き上げたそうです。
沖縄・やんばるへの熱い思い、地域へのやさしいまなざし、同時に未来をみつめる大きな視点、“ゆいまーる”をキーワードに、市民・自治体論あり、大学論あり。面白い本です。追われている仕事を放り出して、いま一気に読んでいます。
鷲尾真由美さんのなが〜いメールは、どうも書きためておられたらしい。有り難うございます。数回に分けて掲載します。本号は、ほんの書き出しです。
24日は本年最後のTOAFAEC 定例研究会。当然のことながら忘年会も。佐賀(上野景三さん)そして高知(内田純一さん)からのゲストも迎えて、中国成人教育・社区教育の新しい動きを報告して頂きます。会場がいつもと違います(高井戸でなく永福)。HPでご確認の上、皆さん、お揃いでご参加下さい。
1389号(2004年12月22日)
★<福建・北京への旅(6)−北京での出会い>
最近、とくに中国では幹部クラスの若返りがすすみ、どの会に出ても、あるいは会食をする輪のなかでも、一番の年長だと気づいて楽しくありません。自分では若いつもりなのです。しかし、今回の中国成人教育協会の大会では、長老の方々が壇上にも並び、興味深いものがありました。私も決して最年長ではありませんでした。
初めての参加ながら、旧知の方々あり。私たちの上海本に含蓄ある序文を書いていただいた郭伯農さん(上海)、北京師範大学の顧明遠さんのことはすでに書きましたが(1386号)、上海の顧根華さん、周嘉方さん、福州で知り合ったばかりの朱濤さん(広東五邑大学)など。永いお付き合いの広州・成人教育の関係者を探しましたが、会えず。
6日午後、会場を抜け出して北京市内へ、前門で北京ダックでビール。呉さんと二人、中国教育部・韓民さんを訪ねようということになりました。中枢の国家機関、なかなか会えないという話を体験してみようと。実はこの日の夜は彼と食事の約束をしていたのですが、突然の職場探訪を試みたかったのです。
教育部は西単(繁華街)の一角。ぶらりと中へ入ることは出来ません。せまい受付で手続きが必要ですが、さすが呉さん、難なく突破して、教育発展研究中心(国立教育研究所?)の建物へ。まずトイレ拝借、そして階上に。呉さんはそこに通りかかった人に尋ねたところ、なんと韓民その人でした。横にいる“ぶんじん”にびっくり。昼食のビールで赤い顔をしていましたが・・。局長室のようなところに通され、お茶をいただいて一休み。初めての韓民の車で彼の別宅へ。面白い午後でした。
夜は、北京師範大学の司蔭貞さん、東京学芸大学へ留学していた梁威さん(北京教育研究院・基礎教育研究所)などもお出でいただき、みんなで久しぶりの食事。ひとしきり故横山宏さんの思い出話となりました。
大会最終日(7日)。午後は再び北京市内へ。車を飛ばして中国人民大学出版社(年間出版点数は約一千とのこと)で昼食、成人教育・生涯教育に関する世界名著シリーズについての相談を受けました。その後は末本さんと別れ、呉・小林二人は出版社のソファーで昼寝、ゆっくりと故宮近くの細長い公園を散策。ベンチに腰をおろし、案内の劉葉華さん(出版社の成人教育事業部副主任)の求めに応じて、八重山民謡「月ぬかいしゃ」(珍しや!)を歌いました。HPに写真を載せています。
日がかなり西に沈んだ頃、夜行列車で上海へ帰る呉さんを北京駅に送りました。翌日は講義とのこと。呉さん、お疲れさまでした。王府井で末本さんと合流、張林新さんご一家に迎えられ、夕食をご馳走になりました。夜おそく、北京東方(通州)の宿舎にやっとたどりつき、これで福建・北京の旅は全日程を終了。多くの方々にお世話になり、有り難うございました。
8日昼、予定通りの便で帰国の途につきました。
1388号(2004年12月20日)
★<1月、沖縄行き計画>
「福建・北京への旅」については、あと1回、いろいろエピソードをこぼれ話風に書くつもりでしたが、本号には、呉遵民さんから関連のメール(上記)が届きましたので、次にまわします。
来年1月の沖縄行き計画について。この9月下旬、肉離れの足を引きずっての訪沖から早くも3ヶ月が経過しました。あのときは移動が不自由なのに、よくぞ5日間も頑張ったものです。空港移動は車椅子、松葉杖をすすめられたのに、杖で通しました。完全治癒が多少遅くなったのかもしれませんが、行ってよかった! 今回の中国行きでもまったく支障なく、自信を回復したところです。晴れて普通の体調で、沖縄を歩くことが出来ます。
沖縄行きは1月3日〜8日の予定。本島のみ。例によって南部から北部へいくつか集落をまわりながら、旧知の方々に新年のご挨拶を、と言っても、杯を汲み交わそう、という計画です。
今回の集落まわりでは、沖縄独自の「集落の育英会活動」調査を予定しています。琉球育英会の歴史や、市町村の育英会事業については、記録等によりほぼ全貌が明らかにされていますが、集落レベルは足で歩かないと分かりません。字誌に貴重な記録が収録されている場合があります。すでに5月の訪沖の際、いくつかの予備調査をしましたが、(字と個人の)プライバシィに関係する部分があり、聞き取りはそう簡単には進行しませんでした。
しかし、かって日本育英会の専門員として禄を食んでいた自分史の思いもあり、また集落の教育機能としてみた場合、育英会活動は見過ごせない意味を含んでいると思われます。(調査の部分は、九州大学・松田武雄さんを代表とする科学研究費・沖縄共同研究の一環。)
名護の島袋正敏さんや中村誠司さんなど、1月初旬の日程は如何でしょうか。名護市城(ぐしく)区の聞き取り調査をお願いしたいのですが、日程等については、またご連絡します。また他の集落で育英会活動の歩みをもっているところがあれば、教えて頂けませんか。
沖縄訪問の際は、誘ってほしいという方もあり、ご都合がつけば、ご一緒いたしましょう。ご希望の方はご一報下さい。1月初旬のこの時期、今帰仁城では、きっと桜が咲き初めている頃でしょう。
1387号(2004年12月18日)
★<福建・北京への旅(4)−共通の課題の模索>
中国成人教育協会の年次大会で講演するのはもちろん初めてのことです。日本にたとえれば、全都道府県の行政担当者とそれにかかわる社会教育指導者の前で話をするようなもの。日本ではお呼びはかからない、中国でそんな機会をもつというのも妙な気持です。
「先生、はじめの方では緊張していましたよ」というのは通訳の呉さん。たしかに・・・。やや肩に力が入り・・・。思い切って話を始めたのです。持ち時間は1時間半。終わったときには、外はもう暗くなっていました。(12月5日)
与えられたテーマは「日本の社会教育と生涯教育」。しかし日本のことだけでなく、少しでも韓国・生涯教育法などについてもふれて、東アジアの視点をにじませてみたい。あるいは、中国の成人教育は内容的に職業訓練に傾斜しているが、文化施設の系統に属する文化館や図書館・博物館にも言及したい。もちろん日本の公民館にも。いろいろと欲張ったことを考えていました。「公民館三階建構想」につながる中国の文化施設。初めて訪問した南京の文化館(1983年)の感動にも触れたい。とくに三つのことを意識して話をすすめました。
1,日本のことを紹介するだけではダメ(そんな時間もない)。違いは当然。違いをこえてお互い共通の課題はなにか、対話と交流の模索。日本の課題を語りつつ、中国成人教育への問題提起ができないか。
2,中国では、日本の生涯学習は進むんでいる、「生涯学習法」も成立し立派だ、という評価が一般的。しかし事実はそうではない。法もすでに空文化している。もし評価がありうるとすれば、社会教育法が基盤にありその蓄積として考えるべきだ。
3,いま中国が挑戦しようとしている生涯教育法制化へ向けての課題はなにか、一緒に考えてみたい、など。
とくに強調した点は、住民主体の視点、自治・分権の思想、施設と職員の専門的体系、マイノリティの学習権保障、新しい生涯学習法制づくりへの挑戦の五つ。法制化へ向けての課題としては、行政的条件整備規定の具体化、専門職の法制化、学校教育体系(とくに大学)との結合、労働・福祉との連携(日本では失敗)について触れました。
何よりも呉さんの通訳(ときどき補足説明つき)が絶妙で、大ホールの皆さんも集中して聞いていただいたようでした。午後の分科会でも話題になったそうで、まずまずの成功か。
なお、この大会に合わせて中国成人教育協会編「科学発展と成人教育の創新」と題する論文集3冊(計780頁、約150論文、2004年版)が刊行されています。ついでに、福建省でも生涯教育フォーラム「論文集」が、また季刊誌「終身教育」2004年3号、が刊行されました。福建省論文集には小林文人「探策“学習社会”的課題」(胡興智・訳)、末本誠「当代日本学習型社会的現状与課題」が収録されています。
1386号(2004年12月16日)
*巻頭に掲載
★
<福建・北京への旅(3)−2004中国成人教育協会・年会>
12月4日夕に北京着。中国成人教育協会の2004年次大会へ参加のためです。
迎えの車は、2008年オリンピックに向け拡張中の北京空港の脇を曲がりくねって進みました。暗がりのなか“民工”(出稼ぎ労働者)たちが疲れて押し黙って歩いている。北京中心部から東の通州の会場「新華聯集団培訓中心」までの道は印象的なひとときでした。
大会は5〜7日の3日間、全中国各省から300人ちかくの出席(例年より参加者が多くホテルの確保に腐心したとのこと)。成人教育・職業訓練にかかわる各省の協会や学会、大学成人教育学院、教育センター、職業訓練機関などからの参加者、大ホールは満席でした。日本には同じ組織はありませんが、強いていえば、社会教育連合会や職業能力開発全国組織(あるかどうか知りませんが)と社会教育学会が一緒になったようなものか。個人加盟の組織ではないとのこと。成人教育関連の学会は別にないようです。
初日の全体会は、まず領導・長老10人あまり(上海・郭伯農さんもその一人)が壇上に並び、それぞれに挨拶が行われたあと、国家教育部副部長による「小康社会の全面建設のなかでの成人教育の使命」と題する講話が約1時間、そして呉遵民氏の学術報告「国際成人教育・生涯教育の趨勢」1時間10分。
午後は、協会副会長・董明傳氏(元教育部社会教育局長)の「科学発展と成人教育創新」について1時間半の報告、後半が小林「日本の社会教育と生涯教育」報告(通訳は呉さん)1時間半。
第2日午前の全体会は、顧明遠氏(中国教育学会々長)「国民教育体系と生涯教育体系」講演ほか。午後は分科会;科学発展と成人教育、成人高等教育、農村成人教育、企業成人教育、老年教育、市場体制下の訓練機構など6テーマに分かれての報告と討論。
最終日(7日)は、中国成人教育協会事務局長・謝国東氏による2004年の経過と2005年活動要点の提起、そのあと、先進単位の表彰(団体、個人)等が行われ、大会総括とすすんで閉幕。
この大会で日本からの講演は初めてとのこと。また長老に互して、若い?呉遵民さんの「学術報告」も異色、檜舞台での熱弁はみごとでした。
中国教育学会々長の顧明遠先生とは久しぶりの再会でした。北京師範大学(外国教育研究所長等)時代に北京で、その後に日本でもお会いしてきました。東京学芸大学の宿舎に泊まられたこともあります。ご存知のように同氏著『魯迅−その教育思想と実践』は横山宏さんによる日本語訳が出版(1983年、同時代社)され、その「あとがき−解説にかえて」は、魯迅を介しての横山さんの強烈なメッセージとなって残されています。顧先生(小生より2才年上)とは7年?ぶり、肩を抱き手を握り合い、懐かしいひとときでした。当日の写真をホームページに掲げています。
この大会での小林講演の内容については次号で。
1386号(2004年12月16日)
★<中国から帰って1週間>
中国滞在中の約10間、風は吹きませんでしたので、その間にいただいたメールやニュースなど滞留していました。「福建・北京の風」記録を優先して、割愛させていただきくものもあり、お許し下さい。
中国にあまり関心ない方にとって、この数号の風は、ご迷惑なのだろうと恐縮しています。しばしご容赦願います。エピソードひとつ。
上海で、ある方から小さな「清涼油」(軟膏)を頂きました。普段は気にもとめないもの、いつの間にかどこかに置き忘れてしまうのですが、いまは大事に愛用しています。
実は、11月福岡滞在中、いつもの店で「煎り銀杏」を食べました。パリッと殻を割ると、中から透き通ったみずみずしい果肉。採ったばかりで、これがなかなか美味しい。ビールにあいます。勧められるままに、皿のおかわりをしました。これがよくなかった!
翌朝未明、突然にジンマシンの症状が出ました。近くの病院にかけこみ、念のため点滴も。すぐに症状は落ち着きました。直ったと思っていました。しかし、数日後、酒を飲むと、痒くなるところがある。それからお酒を控えざるを得ず、楽しくない。中国の旅でも強い「白酒」は我慢してきました。
今でも症状が少し残っています。銀杏恐るべし。というところで、机の上に転がしていた小さな「清涼油」、試みに痒みの箇所に塗ったところ、経過がいいのです。うたい文句どおり清涼感あり、症状がしだいに治まっていきます。「清涼油」おすすめです。
14日夜、来日中の山東省教育庁の面々(5名)の歓迎会。山東人は「乾杯!乾杯!」とよく飲みます。そのなかで北京師範大学卒、顧明遠先生の教え子がいました。「10日ほど前に北京で会ってきた」というと、彼は感激して「東京で顧先生と会っているような気持です」「尊敬します」など言って、再び「乾杯!」を強要。酒は彼ら持参のマオタイ酒。呂律のまわらないカタコトの英語で言うから、ますます分からない。かなりの酔っぱらいでした。
こちらは平然! ジンマシンの症状もなく、いい気分。案内(通訳)の張林新(烟台日本語学校〃長)は完全に酔いつぶれ、山東省5人の客人と同じホテル(小石川・後楽賓館)に急遽1部屋用意してもらい、運び入れました。あとはどうなったやら。
1385号(2004年12月14日)
★<福建・北京への旅(2)−福州から厦門へ>
前号で書き残したこと。上海から福州へ飛ぶ前に、上海教育出版社の袁正守さんと一緒に食事、そのあと紅橋空港へ行く途中、華東師範大学の呉遵民さん宅を訪問しました(12月1日)。聞きしにまさる豪華マンション。また後述の北京でも、ひとときの時間を利用して、中国教育部の韓民さん別宅へ(12月6日)。それぞれの書斎に本がゆったりと落ち着いて−そう見えました−羨ましいかぎり。中国とくに上海の住宅事情はなかなか厳しい、という先入観は完全に吹っ飛びました。東京・永福の“風の部屋”など比べものになりません。
話をもどしましょう。福州は、いたるところにガジュマル(榕樹)が茂り、「榕城」とも呼ばれています。街の並木もガジュマルが多い。しかし同じ榕樹でも沖縄とはなにかイメージが違いますね。福州の独特の相貌あり。梯梧(でいご)の樹もブーゲンビリヤ(三角梅?)も見かけましたが、なぜか紅花(ハイビスカス)はまったく姿をあらわさず。福州は海に近く、料理に魚介類が多く、親近感をもって食文化を味わいました。
◇ガジュマルの並木は続く福州の道にたたずみ“琉球”を想う
◇はろばろと海を越え来し先人もガジュマルの影に癒されしか
12月3日、大学での生涯教育フォーラムが終わったら、もともと武夷山(ユネスコ世界自然遺産)に行く予定でした。私たちを招聘した陳宜安・教授(福建農林大学成人教育学院長)等の配慮に感謝しつつ、地図を見るとかなりの山地、不安もあり。脚力がもつかどうか。怪我は治癒したとはいえ、いま山登りはきつい。
幸い北京スケジュールが決まっていて、武夷山行きは日程的に無理ということになり、ホッとしました。が、少し残念でもあり。予定は変わって、南に約200K走って、1泊ながら厦門(アモイ)に遊ぶこととなりました。
厦門は白メイさん(中大・院)の故郷、海に面したきれいな街。歴史的に、また最近は大がかりな密貿易の基地ともなり、また台湾(金門島)を目の前にした現代の政治状況でも、注目を集めてきた都市です。夜の厦門は雨でした。温潤な亜熱帯の大気を実感しながら、新装の厦門大学国際学術交流センターに宿泊。
しかし4日午後には寒い北京へ向けて移動しなければなりません。美味しい夕食で歓迎していただいた楊友庭・教授(中国古代史、厦門大学継続教育学院長)に「あと数日滞在したいのに残念です」と妙なお礼を申しあげて別れました。
福州から厦門を経て北京まで、私たちに付き添った福建農林大学・成人教育学院の二人の好漢(鄭国華・副院長など)、ご苦労さま!
1384号(2004年12月12日)
★<福建・北京への旅(1)−福建・生涯教育フォーラム>
12月1日、上海を経由して福州に着いたときには、すっかり日も落ちていました。南なのに思いのほか気温は低い。福州・長楽空港から市内まで車で約1時間。市の中心部で温泉大飯店に投宿。これから約1週間、末本誠さんと呉遵民さんとの(やや有名?になった)三世代の旅が始まります。
福建「学習社会に向けて−2004終身教育論壇」は12月2〜3日、福建農林大学において開かれました。省や地方の政府関係「領導」、大学成人教育学院関係者、専門研究者、大学院生などが出席し、中講義室はほぼ満席。福建省だけでなく、上海市や広東、山西などの各省、海外からは日本、台湾からの参加。当日の配付資料は本格的なもので、並々ならぬ力の入れよう。
福建省では、「東アジア社会教育研究」第9号でも取りあげたように、中国各省に先駆けて「生涯教育条例」づくりの作業が取り組まれてきました。今年1月に条例草案の第1案、3月に第2案、6月には第3案が作られています。今回のフォーラムでは、法令検討を直接のテーマにするものではありませんでしたが、「福建省生涯教育条例・草案稿・専門家意見・立法説明」資料(A4版、177頁)が配布されました。そのなかには韓国の生涯教育法、台湾の生涯学習法とともに、日本「生涯学習振興整備法」中文訳も収録されています。
小林・末本の講演は「学習社会に向けて」のテーマに即して、日本の状況をもとにしての、やや原理的な問題提起。なかなか好評だった?ようで、活発な質疑あり、盛んな拍手を頂きました。
夜は、福建省「恵安木偶劇団」公演を見る機会がありました。指であやつる人形劇。東京学芸大学人形劇サークル「麦笛」顧問20年のぶんじんとしては興味深いものあり。ホームページ11月記事の末尾に画像数枚を掲げておきました。
二日目は呉遵民さんが熱弁を振るいました。それが終わったところで福州市内に出かけましたので、広東五邑大学・朱濤氏の講演は聞き逃しました。
慌ただしい日程のなか、ひそかに期待していた琉球人墓や福州琉球館の探訪はお預け。次回にぜひ!というご挨拶をいただいて、一路南へ。これで、また福州行きを計画?することになるのかな。(続く)
1383号(2004年12月9日)
★<8日夜に無事帰国>
今回の中国への旅、パソコンを持っていくかどうか、迷いながら、荷物をつくってみて結局、出発直前に断念しました。というわけで「風」は1週間あまりのご無沙汰。失礼しました。これまでドイツにもエジプトにも、もちろん中国・沖縄にも、つねにパソコンを持参し、風はいつも吹き続けたのでした。1週間余の空白というのは、おそらく2000年夏のフランス農村をまわったとき(パソコンは持って動きましたがホテルが古く発信できなかった)以来のことか。
先月、上海からの速報を求め、内田純一さんが頑張ってくれたあとだけに申し訳ない思い。お許し下さい。いま自らの加齢を自覚中?
出発(1日)の早朝、あわてて家を出たので、サーバーのメール保存期間を延長するのを失念。せっかく頂いたメールが消去するおそれに気づき、あわてて福建省・アモイから石倉祐志さんに電話して、一夜、永福の小林宅でメールを取り込んでいただきました。迷惑かけ、これもお詫びしなければなりません。
あと一つ。出発前に宿泊先の予定が分かりませんでした。ホテルから果たして風をうまく発信できるかどうか。最初の福州の2泊(五つ星)は別にして、その後は大学宿舎や新設の訓練センターなど。国際電話もままならず、家にも公衆電話をさがしてやっと連絡する始末。予感は的中!やはりパソコンはお荷物だったのです。
しかし、8日間の旅は楽しく、実りある毎日。日本からは神戸大学・末本誠さんと二人、福州からアモイ、北上して北京へ。新しい友人(広東の朱涛教授など)と出会い、旧知の皆さんとも再会。大きな講演を二つ、新しい出版構想も二つ。いろいろと思い出に残る旅となりました。
風・前号で「唐旅」は沖縄では「死去」のことと書いて、同行の呉遵民さん(華東師範大学)を心配させましたが、もちろん足も元気、気分爽快、ほとんど疲れなく帰ってまいりました。お世話になった皆様、有り難うございました。
次号から数回にわけて、福建・北京の旅を日誌風にご報告します。
1382号(2004年12月1日)
★<福建省・福州への旅>
一度は行ってみたかった福州。14〜17世紀にかけての「大交易時代」(高良倉吉)と呼ばれる琉球の歴史は、主として福州を海外貿易の拠点として展開されました。ともに同じ亜熱帯に位置し、緯度もそう変わらず。いま那覇に「福州園」があり、福州には「福州琉球館」が開設されています(1992年)。時間が許せば行ってみたいもの。
那覇の久米・三六姓とよばれる人たちは、もともと福州周辺からの渡来人でした。学識も技術も進んでいた「彼らのノウハウは琉球の海外貿易にとって決定的な意味をもっていた」(高良『琉球王国』1993年)と。琉球の貴重な外交文書集「歴代宝案」も久米人の手になるもの。進貢船に乗って海外に派遣された使節団、そのスタッフや通訳、貿易船の操縦も、久米人に頼るところが少なくなかったようです。
東シナ海を横断した明国への進貢船はほぼ一年一貢、びん(みん、門構えに虫)江を上って福州に到着する。数百人にのぼる琉球渡航団のうち、約二〇名は中国側に引率されてさらに陸路を旅し、首都北京へ。難所少なからず厳しい旅。北京では、所定の日に紫禁城で皇帝に謁見し文書や貢品を献納、帰路は琉球国王への相応の賜品をもらって再び陸路を福州へもどり、待機していた一行ともども進貢船に乗って帰国、というのが通常のパターンであったと伝えられます。
この公式の進貢船交易を軸に多様な私貿易があり、さらに福州だけでなく、ルソン、アンナン、マラッカ、また朝鮮や日本へつらなる「万国津梁」のルートが拡がるのです。
アジアの海を越える交流とロマン。とはいうものの、その旅は生死にかかわること少なからず、危険を覚悟の渡海でもありました。福州には琉球人の墓が残っていて、市の文化財に指定されているとのこと。中国への旅「唐旅」は、沖縄の言葉では今でも“死去”の意味で使われるそうです。
12月1日から文字通りの唐旅、夜は福州に着きます。
1381号(2004年11月29日)
★<福州から北京へ>
12月1日より、上海を経由して福州(福建省)へ出かけます。もともとは福建省の生涯教育条例づくり(中国で初めての試み)論議への参加と聞いていたのですが、招聘状によれば「2004生涯教育フォーラム」。日本と台湾からの学者を招き、これからの生涯教育・学習社会をどうすすめるかの講演と討論が予定されています。日本から末本誠さん(神戸大学)と二人。通訳は呉遵民さん(華東師範大学)。
福州の日程を終へて北京へ。全中国成人教育大会への参加。第1日のプログラムのなかで日本から発言する時間が与えられるそうです。呉さんによれば中国成人教育の各省指導者がすべて集まる大会とのこと。やや緊張しますね。
今回は私の講演原稿を胡興智さん(日中学院)が中文に訳して頂きました。どうも有り難う。分かりにくい原稿で恐縮しています。ご苦労をおかけしました。
呉遵民さんには今回またいろいろお世話になることと思います。小生の足の怪我もようやく癒えました。12月1日の上海での再会が楽しみです。上海(浦東空港)到着は
12:05予定。虹橋空港への移動、もしどこかで「ビール一杯」(呉メール)の時間があれば、羅李争さんと会えないだろうか。しばらく会っていない、顔だけでも見たいな。羅さんはこの「風」を読んでいるかしら?
8日帰国予定。いまパソコンを持参するかどうか迷っています。大阪での怪我は、持っていたパソコンを投げ出すことが出来なくて、足をふんばり、結果的にふくらはぎ断裂を招いた反省?あり、どうしようかと。
1380号(2004年11月28日)
★
<12月〜1月のスケジュール>
昨26日夜のTOAFAEC 定例研究会については、風次号あたりに報告が寄せられると思いますが、ゲスト・上原信夫さんの熱のこもったお話しが尽きず、さらに来年1月研究会で、その続編をお聞きすることになりました。関連して、12月〜1月にかけてのスケジュールがいくつか確定しましたので、日程のみ早めにご案内させていただきます。
・12月24日(金)18:30〜20:30 定例(第103回)研究会
上海国際フォーラム報告会(1)、忘年会、於高井戸区民センター他
・12月25日(土)10:00〜12:00 上海国際フォーラム報告会(2)
福建・生涯教育フォーラム報告、これからの研究交流について、
於渋谷区立千駄ヶ谷社会教育館(TEL03-3497-0631)
2005年
・1月16日(日)13:00〜17:00 恒例の新年会
於「グランメール」(杉並区西永福 TEL03-3323-6336)
・1月28日(金)18:30〜20:30 定例(第104回)研究会
ゲスト:上原信夫氏「東アジアを駆けぬけた私の戦後史」(2)
於高井戸区民センター
私たちのTOAFAEC(1995年5月創設)も10年の年輪をきざんだことになります。スケジュール詳細はホームページ(来年1月は工事中)をご覧下さい。
★<全国集会の総括>
8月末に猪苗代で開かれた社会教育研究全国集会(第44回)まとめの報告書が一昨日送られてきました。ご承知のように今年は主催団体・社会教育推進全国協議会(社全協)創立から40年、その「記念集会」と位置づけられ、総括的な集会となることが期待されてきました。
担当常任の上田幸夫さん(日本体育大学)が「社会教育への熱い思いが寄せ集まったほんものの集会」と題する「総括」を書いています。現地実行委員会をおかない社全協単独集会の取り組み、その経過と苦労、悩みや喜びなどが本音で語られていて興味深し。
肝心の総括への取り組みについては、「…記念集会だからこそ、思い出と楽しさを演出するより、克服すべき課題を出し合い、社全協の節目となる集会にもっていきたいと構想しながら、力は尽きた。集会交流部の力不足というほかない」と。「力が弱かった」「力尽きて挫折」などの苦渋の表現が何カ所もあり、「今年ほどつらく厳しい準備はなかった」との“総括”、まことにご苦労さまでした。
分科会の構成等について、小生が参加した新しい分科会「自治公民館・小地域での学習活動と地域づくり」(沖縄集会から発足、3回目)への着目があり、「…今やこの分科会は都市農村を問わず、公民館のあるなしを問わず…」課題に挑戦していることなど。しかしやはり、これまで毎年取り組まれてきた各分科会の蓄積をあらためて総括していく必要を痛感します。
冊子をめくっていたら、集会の写真を毎年撮り続けてきた石川敏さんからの写真数葉、はらりとこぼれました。口絵の「受付風景」もどうやらぶんじん。有り難うございました。
1379号(2004年11月25日)
★<12月の定例研究会>
26日(金)夜は11月定例研究会(風1373号に案内)。上原信夫さんのお話が楽しみです。皆さん、ご都合をつけて、ぜひご出席を。
ところで、懸案になっていた上海国際フォーラム・報告会は12月の研究会プログラムとして確定しました。浦和で開かれた日本公民館学会に参加していた上野景三、内田純一のお二人と相談したところ、うまく日程が合いました。予定の12月24日(金)は別用で揃って上京しているとのこと。クリスマス・イブ当日で騒がしい夜ですが、今年最後の研究会となります。終了後は当然、忘年会!
当夜は、上海訪問団メンバーの岩本陽児さんも参加(ただし黄丹青さんは無理)とのこと。佐賀も高知も・・・と久しぶりの懐かしいメンバーですね。研究会として忘年会もしっかり時間をとりたいので、翌25日午前も上海報告会(その2)を計画することになりました。これには黄丹青さんも出席可。場所は未定ですが、千駄ヶ谷の社会教育会館など部屋がとれないでしょうか。
黄丹青さんから上海国際フォーラム日程の細かな記録が送られてきました。12月研究会の予告と合わせて、さきほどホームページ「上海の風2004」に書き入れ。
HPについて、ついでに言い訳ひとつ。HP表紙の写真「秋深し」は、杉並・和田堀公園の銀杏。実は2年前の画像、一面の落葉に魅せられてアップしましたが、昨年12月・HPにも同じ場所の銀杏の画像を使ったことを思い出しました(Top-page
アルバム)。取りやめて、別写真をアップするのも大儀なので、このままでお許し下さい。もちろん昨年と同じ写真ではありません。秋深く、黄葉に敷きつめられた静かな公園の1日。
1378号(2004年11月23日)
★<日本公民館学会おわる>
20〜21日の両日、さいたま共済会館で日本公民館学会(第3回研究大会)が開かれました。生まれてまだ2年経たない、こじんまりした学会、しかし小さな規模のよさが発揮されて、なごやかないい大会となりました。議論も活発だったと思います。
実は前日から風邪気味、ノドが痛く、体調すぐれず、かえってカラ元気を出して少々しゃべり過ぎ。二日目のすべてのプログラムが終わったときは、飲む元気もないほど疲れてしまいましたが、奥田(中大)事務局長のご苦労さん会をしようという話につられて、近くで乾杯、やっと元気を取りもどしました。帰路は雨にかわり、秋雨に濡れての帰宅。ある人からのお祝いメールが届いていて、この日が誕生日だったことを思い出し、そうだった!
公民館学会としてはじめての本格的な研究大会。これまでの定型化した学会のスタイルを少しでも脱皮したいという思いあり、いくつかの挑戦がありました。その一つが「ポスターセッション」の試み。担当の一人としては、沖縄、松本、川崎、横浜などの方々に(無理を承知で)ポスター準備と発表をお願いしました。ご協力いただいた各位、まことに有り難うございました。合計10本の報告が並び、きわめて好評。ほっと肩の荷がおりました。これからの学会プログラムの定番となりそう。
ポスターセッションの群像を含めて、総会や懇親会等の写真10枚ほどをホームページにアップしています。肖像権侵害? もしお気に入らない画像があれば、ご一報下さい。ただちに差し替えます。
大会当日、心配していた学会年報・創刊号もみごと刊行され、またかねて用意されていた公民館学会ホームページも正式にオープンしました。
→ http://www7a.biglobe.ne.jp/~kominkangakkai/
沖縄・九州・北海道はじめ各地から参加の方々、とくに裏方として頑張った学会事務局(中大)の皆さん、お疲れさまでした。
1377号(2004年11月19日)
★<ハーバーマス「知識人」論>
現代ドイツを代表する哲学者ハーバーマスが来日(京都賞の授賞式)。朝日の文化欄が大きくとりあげています(18日夕刊「未来像に建設的提案を」)。写真をみると、ハーバーマスは白髪のせいか、ずいぶんのお年寄りに見えますね。まだ70数歳だというのに・・(1929年生まれ)。
「知識人の役割」についての議論。慎重な言いまわしながら、興味深いポイント少なからず、いくつかご紹介してみましょう。
世界中に拡がる深刻な混乱と亀裂。「… 危機はこれまで以上に大きくなるだろう。…略… 哲学者が何らかのことができるとするならば、新しい別な世界秩序のシナリオを描くことだ。」
インターネットや携帯電話などの技術。コミュニケーションの可能性を「広げているともいえるし、狭めているともいえる。…略… しかしネットワークが作られても、政治的な公共圏が構築されるということにはならない。」
未来への展望が見えにくくなっているときに、それを見えるようにするのが知識人の役割か。「その通りだ。知識人には権力があるわけではない。影響力があるとしても、人々の意識構造の変化に間接的な影響を与えることができるだけだ。しかし、それは必要で、知識人は建設的な提案をし、状況の改善に寄与ができると思えるときには口を開くべきだ。知識人はシニカルであることは許されない。」
1376号(2004年11月17日)
★<HP、2日に1回の更新>
15日夜のビールの語らい。風は受信しているが、TOAFAEC のホームページはまだ見たことがない。おやおや。ホームページはなかなか開けないんです。あれ、それは残念。毎号の風のURL(http://・・・)をクリックするだけでポンと出てきますよ、など。
だれか若い人にでも聞いて、TOAFAEC・HP を一度ぜひ開いてやって下さい。あとは「お気に入り」に入れていただけば、いつでも簡単。
南の風とHPは実は一体的に発信しているつもり。風は画像を付けない原則(重くなる、押しつけになる)、風は研究論文などを敬遠(気軽に吹きたい)、風は短い文章で送信したい(長くなると読んでくれない)。というわけで、写真、研究論文、東アジア資料などはTOAFAEC・HP
にアップしているのです。
まったく素人の手づくりHP編集ですから、見映えはたいしたことない、だけど、思いはこもっているつもり。まずは、自分の記録ノートを(インターネット上に)つくっているだけのこと、あまり親切なページづくりではない、しかし、案外と面白い記録があるかも。
なによりも2日に1回は更新している熱意を買って下さい。「風」送信よりはるかにエネルギーをつかっている。とくに画像のトリミングや色相、彩度などの修正作業、こうでもない、ああでもない、と時間つぶしもいいところ。せっかくのHP訪問の皆様へ、すこしでも歓迎の気持ちを伝えたくて、表紙の写真は15日〜20日おきに更新。彩りに幼な子(孫)のスナップ写真も。
今月に入っての新しい掲載記事は、「沖縄の字公民館研究」「上海の風2004」(いずれも南の風・収録)。このなかには「ぶんじん」以外の方の文章も一部含まれています。控えてほしい、というご意向があれば、急ぎご一報を。すぐにおろします。
1375号(2004年11月15日)
★
<農民のように・・・>
福岡・油山の家はまことに小さな庭です。それでも主のいない間には草ぼうぼうとなり、笹竹がにょきにょきと背をのばす。夏に手入れをしないと半ば藪になってしまいます。
せまい空間に、信州から東京を経由して運んだ白樺の苗、いまは二階の窓にかかるほど伸びて3本、むくげ1株、桜桃1本、農中君が植えた柿1本、誰かがもってきた南天などなど。まわりの生け垣に金木犀をめぐらせていますが、香る季節は案外と忙しく、まだゆっくり楽しむ余裕がありません。「豊後人が植えくれし・・」カボスの苗、ついに花実をつけることなく、いつの間にか枯れてしまいました。申し訳ない。
目隠しがわりの笹藪が、この夏の台風で隣家に倒れかかったまま。枯竹も多く、終日、藪に入りこんで竹を抜き取り刈り込む作業に没頭。二日がかりで焚き火をしました。竹はよく燃えます。ポンポンはじけて怖いぐらい。お隣りにもご挨拶。
運び込んだ15個のダンボールは2階の書庫に担ぎ上げましたし、二日間の庭仕事もなんとか・・・。足ならし腰ならしのつもりの作業、疲れましたが、どうにか無事終了。足もほぼ癒えたようです。
この両日、農民のよう働きましたが、哲学者のようには考えず・・・。14日夜、東京に帰ってきました。
1374号(2004年11月13日)
★<定形の理念より地域の実像を>
上海国際フォーラムについての黄丹青さんの「見聞」記、興味深く拝見。中国ではいまや「学習型社区」づくりは、「政策」として大きな位置づけを与えられているのですね。
それだけに市民(住民)「運動」としての側面や、「自治」「分権」の視点が問われることになるのでしょう。上海・桃浦鎮の例をとって、公式の文書になると画一的に見えるが、実際の活動の実践的展開はかなり多様だというご指摘、まったくその通り。文章と実感がずいぶんと違うのです。いわゆる建前と本音の問題とも関連しましょう。実はそのギャップに重要なヒントがあり、そこに地域の実像があり、これからを考える可能性が秘められていると思のです。
広東五邑大学教授・朱涛氏については、内田純一さんを介して、白メイさんからメール(Friday,
November 12, 2004 9:48)が届けらています。朱涛氏の論文が二つ、手元にあるとのこと。(朱涛「社区教育:学習型社会創建的着力点――新世紀成教創新発展思考之二」『中国成人教育』所収、2003年第11期、同「社区教育:因由・重点・策略」『職成教育』)
「東アジア社会教育研究」第10号では、こんな論文を紹介してはどうかしら。定形の理念よりも、地域の実像を。その間のギャップ、乖離、矛盾・・・の追求と挑戦、そんな課題意識をもって、来年年報への編集作業をすすめていくようにしてはどうでしょう。(福岡にて)
1373号(2004年11月12日)
★<上海・ぶんじん文庫>
「上海の風」、内田純一さん、ご苦労さまでした。上海からの毎夜の送信、お見事でした。今日の風は、最終日の閘北区・上海行健職業学院(社区大学、旧業余大学)の訪問記。
中村誠司さんの私信(Mon, 8 Nov 2004 18:15)の一部。「ここ数日の“上海の風”を拝読して、訪中団の方々の精力的な活動ぶり、特に内田さんの奮闘ぶりに感心しています。会議参加・交流の臨場感あふれる様子が、寸時に東シナ海を越え、それが「南の風」によって私たちに伝わってくる。私には、ありがたく新鮮な驚きです。」
「小林国際交流閲覧室」ものぞいていただいたようですね。通称・ぶんじん文庫。小生としては、わいわいがやがや“たまり場”空間のイメージを提案(HP「上海の風2002」に収録)したのですが・・・、また羅李争さんは、日本語バージョンによるパソコン通信の拠点を夢見た(日本からノート型パソコン5台も運び込んだ)けれど、大学図書館の管理下にありますから、実際は本だけの静かな「閲覧室」となっているようです。日本・社会教育の最新資料を運び込んで、上海・社区教育とのフレッシュな(日常的な)交流拠点にしていこう、との構想も未発。ぶんじんはこの学院の名誉図書館長の称号をいただいていますが、もちろん実務的な権限はなく、こんごの課題です。
今日(11日)午後、久しぶりの福岡・油山へ。今年はいろんなことが重なって久しぶり。昨日15個のダンボールで、東京にあふれた本や資料を送りだし、その受け取りです。あと一つ、大きな台風が通りましたので、庭の白樺が心配でした。1本は少し傾いでいる、という話でしたが、大丈夫!3本ともしっかり残っていました。
1372号(2004年11月10日)
★<ホームページ>
6日夜(重篤が続いていた)叔母が息を引き取り、7日に通夜、そして昨日は告別式、とあわただしい数日が過ぎました。楽しみにしていた日本公民館学会の定例研究会(横浜)も欠席、お許し下さい。今日9日ようやく日常の生活に。しかし、妙な空虚感あり、原稿はどうも手につきません。
思い立ってホーメページの整理作業。かねて名護の中村誠司さんから送られてきた「沖縄の字(集落)公民館研究」(学会パネルセッション、レジメ案)に加えて、二つほど資料(竹富島と来間島の「むら憲法」など)をアップしました。というより「社会教育研究全国集会分科会・自治公民館」のページより移転したのです。すこし整理していかないとHPがだんだん煩雑になって見にくい、そんな声を意識しての作業。HP「更新履歴」一覧も用意しています。多少でもお役にたてば幸い。
11月26日(金)定例研究会の予告プログラム(「上海・社区創建国際フォーラムに参加して」)は報告者のご都合がつかないとの連絡あり(佐賀・上野景三さんより)、急遽、内容を変更しました。
新しくお願いした上原信夫氏は、10月研究会にお出でいただいたばかり(写真アップ)。上原さんは、やんばる「奥」のご出身、13歳で旧満州へ、17歳で兵役に従事、戦後は沖縄初の政党「沖縄民主同盟」に参加、青年部長。しかしその後のアメリカ占領下の政治状況により、1949年に沖縄を離れ、シンガポール、香港、中国へ、という波乱万丈の人生。現在は東京・武蔵野に在住、NPOを結成し、中国からの留学生・研修生の支援活動をされています。
上原信夫さんは、快く引き受けていただきました。タイトル「アジアを駆けぬけた私の戦後史」、聞き手はぶんじん。
ご期待ください、との思いをこめて、ホームページ11月研究会予告を書き直しました。
1371号(2004年11月8日)
★<社会教育における“東アジアの発見”>
私たちが「東アジア」についての研究関心を公けにしたのは、『東アジアの社会教育・成人教育法制』(東京学芸大学社会教育研究室、B5版、137頁)でした。1993年のことです。当時の大学院(修士課程)ゼミ・メンバーによる共同研究。東アジア各地から来た留学生と日本人院生がチームを組んで、なかなか楽しい1年間の作業でした。総勢25名。その「まえがき」に次のように書いています。
「私たちは、これら留学生を迎えて、多くのことを学んできた。それぞれの国の個別の事がらについてはもちろんであるが、総体的にいえば、社会教育における“アジアの発見”“東アジアからの視点”を学ぶことが出来たように思う。…」
とかく欧米研究に終始しがちの海外研究に一石を投じたつもりでしたが、何よりも、一衣帯水の隣の国の、しかも歴史的に深い関わりをもち、同じ文化圏にある国・地域の社会教育・成人教育について、ほとんど無知であることへの深い反省によるものでした。
この報告書の末尾には、TOAFAECの前身の一つ、「小林研究室・留学生特別ゼミ(アジア・フォーラム)」の歩み一覧(1989年〜)も。懐かしい。その後、TOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)が発足し(1995年)、「研究年報」創刊(1996年)と続き、来年で10号となるわけです。石の上にも10年とか。たしかに一つの総括の試みが必要な歳月なのですね。今回の上海・国際フォーラムへの参加もまた、その歳月の一こま。今日7日に皆さん帰国。報告が楽しみです。
1370号(2004年11月7日)
★
<上海の風・続報二つ>
昨夜(5日)遅く呉さんから、今日未明は内田さんから、メールが届きました。上海から毎日の風が吹いてきて、「南の風」も連日の送信となります。お許し下さい。内田メールに添付の写真(大事をとってか、同じものが5枚も)は、さきほどHPへ。
前号で内田さんに「すこし無理をして・・・風を送ってほしい」などと書きましたが、送信時間をみると、睡眠時間をけずっての送信らしい。前言を翻します、無理をしないで下さい。
それにしても、上海・5日夜の皆さんの楽しい語らい、目に浮かびます。日・中・韓の3ヶ国編集会議が開かれたかたちとなり、有り難うございました。ぶんじんとしてはTOAFAEC10年近くの歩みを経て、ようやくここまで来たのかな、とある感慨を抱いています。
呉さんから第10号へ向けての寄稿の申し出あり、編集委員としての提案ですから、もちろん受け止めなければなりませんが、さて誰に日本語訳をお願いできるか?毎回、長老にお願いするわけにはいきませんし。
お尋ねの千野陽一さんメール・アドレスは、石倉祐志(事務局長)さんに聞いて別送します(小生も手元にもちあわせなし)。住所はご存知でしょうか? 日本社会教育学会名簿をご覧ください。
私事ながら、これまでもっとも世話になった叔母が、90歳をこえて元気だったのですが、2ヶ月ほど入院、いま自宅に帰ってきたところで、昨日から重篤の状態になりました。世田谷・烏山の叔母の家に親族が集まっています。幼い曾孫も。大事をとって上海行きを自重したのは、やはりなにか、虫の知らせるものがあったのか。
1369号(2004年11月6日)
★<風よ、吹け!>
4日夜は、東京は上野「今半」で上海からの袁正守さん・羅笈さんの歓迎夕食会。その写真をHPにアップしたところで、上海に着いたばかりの内田純一さんから「上海・創建学習型社区国際論壇」歓迎祝宴の模様と画像が送信されてきました。有り難うございました。上海と東京は、一衣帯水どころか、陸続きの、すぐ隣の街みたい。
今回の訪問団は果たして上海からメールを発信できるか、おそらく無理だろう、羅李争さんがいれば一発でつないでくれるのだが・・・(ぶんじんはいつも彼の力で「上海の風」を吹いてきた)などと案じていたところに、深夜便で内田メールが着信していました。さすが!
添付の写真は、明度・色相など若干の補正をして、早速、HP「11月主要スケジュール」に掲載。(「風」には画像を添付しない原則、HPでご覧下さい。)
東京の自室に座って、上海からの写真を電送で受け、その場で誌面にアップ!なんて、大新聞社のデスクになった気分です。閘北区・社区大学の袁允偉さん(副学長)の顔も見え、「第9号」を画面で紹介してくださっている方(写真左端、この方はどなただろう?)もあり、嬉しい限り。第9号がようやく国際舞台に登場した歴史的写真?です。
引き続きの「上海の風2004」を期待しています。無理をしないで・・・、というより、少し無理をして・・・「風」を吹いて下さい。今回は受ける側、なんともいい気分なのです。
「国際論壇」報告集・論文集が相当の厚みで用意されているとのこと。閘北区・国際論壇組織委員会にお願いして、ぜひ1部を(TOAFAEC
記録として)もらってきて下さい。
1368号(2004年11月5日)
★<上海に集う編集委員各位へ>
昨晩(3日)遅く、ソウルより電話あり、魯在化さんからでした。上海「国際フォーラム」に出かける用意をしている、「先生が訪中を断念したと聞いて残念だ・・・」と。お見舞い恐縮、もう足の怪我は心配ないが、大事をとって今回は(皆さんに心配させるおそれもあり)中止したこと、などお話しました。
そんなやりとりから、今回の上海の国際フォーラムには、TOAFAEC 関係の皆さんが国をこえて(3ヶ国)7人も揃うことに気づきました。めったにないことです。来年の「東アジア社会教育研究」第10号に向けて、ぜひ編集会議を開いてほしい、と次のようなメールを各位へ送信しました。うまく届くか、はたしてうまく会議が開けるか。
以下に再録しておきます。
Date: Thu, 04 Nov 2004 09:25
Subject: 上海に集う編集委員各位へ
From: bunjin-k@js4.so-net.ne.jp (小林ぶんじん)
「東アジア社会教育研究」編集委員:呉遵民、袁允偉、黄丹青、魯在化、
上野景三、内田純一、岩本陽児 各位(順不同)
皆さま、お元気で上海にお揃いのことと存じます。
上海「創建学習型社区国際論壇」へ参加され、感想は如何ですか。この機会に「東アジア社会教育研究」第9号をようやく上海へお届けできることを喜んでいます。
これだけの編集委員が同じ地にお揃いの機会はめったにないことです。多忙な日程のなかでしょうが、ぜひ時間をつくっていただいて、来年の「東アジア社会教育研究」第10号へ向けての編集会議を開いて頂けませんか。
第9号までの歩みを踏まえつつ、また第9号の合評も含め、さらに、第10号の編集構想を語り合っていただければ幸いです。
今回の「国際論壇」参加者や、視察された社区や実践のなかで、出色の(これはと思う)方々との出会いがあれば、「東アジア社会教育研究」への寄稿をお願いして頂けませんか。(締め切りは2005年7月末)
また、魯在化さんには、韓国からの第10号・執筆についての編集案をお寄せいただくようお願いします。
このメッセージ、どなたのパソコンに先に届くか、楽しみです。先に開い方は、ぜひ他の皆さまへよろしくお伝え下さい。実りある良い旅となるよう祈っています。
1367号(2004年11月4日)
★<日本公民館学会・第3回研究大会>
昨年5月、日本公民館学会が誕生しました。「南の風」メンバーには会員も多く、そうでなくてもHPで折々に触れてきましたので、ご存知のことと思います。学会発足前の準備段階から勘定すると、すでに3年ちかく。奥田泰弘さん(中央大学)などとご一緒に、この間、ずいぶんとエネルギーを傾注してきました。やや低迷気味の公民館の再生に、何らかのお役にたてば、という思いです。
まだ小規模の学会ながら着実な歩みが始まっています。発足から1年半で早くも第3回研究大会(期日:11月20日〜21日、会場:さいたま市浦和区「さいたま会館」)。
大会プログラムのなかには、これまでにない試みを・・・というわけで、自由研究発表にかわり「ポスターセッション」の企画がすすんでいます。松本、川崎、横浜などと並んで、沖縄からは「字公民館」についての発表が予定され、昨日、その発表レジメ(案)が中村誠司さんから送られてきました。有り難うございました。
当日は詳しい資料も配付されるようですが、何よりも「ポスター」が楽しみです。かっての「象グループ」の筆致で、面白い“絵”が登場するのでは・・・と。
大会に向けて学会「研究年報」創刊号が準備されています。間に合ってほしい。また『公民館・コミュニテイ施設ハンドブック』編集も進行中(来年の大会までに出版予定)。日本公民館学会の「応援サイト」として、近藤恵美子さんが意欲的なHPづくり。第3回大会プログラムが収録されています。ご覧の上、ぜひお出かけ下さい。
→ http://www1.ttv.ne.jp/~gardenpath/
1366号(2004年11月2日)
★<“旗”の思想>
琉球新報が報じた「那覇市松川自治会に新しい旗頭」(10月30日)記事を読みながら、日の丸掲揚問題ともからんで、いろいろ考えることがありました。
沖縄では、那覇という都市社会のなかで「旗頭」の文化が生きていること、しかも、青年たちから「本格的な旗を作りたいという声が上がった」というのです。そういえば、集落の豊年祭ではもちろん、若者たちのエイサーの隊列などで、その中心に「旗頭」が勢いよく掲げられています。
私たちは、普通の生活ではあまり“旗”をもたない。しかしアメリカやヨーロッパを旅すると、(国旗のことは一応別にして)街角にいろんな旗が翻っていることに気づきます。それぞれの集落、ムラやマチ、わがハイマート、自らの共同体、を象徴するものとしての“旗”の思想が生きているように感じたものでした。
20年ほど前、東京学芸大学で学生部長をしていたころ、日の丸掲揚問題で頭を痛めた経験があります。入学式と卒業式には慣例として(式場ではなく)正門にだけ日の丸を掲げていたのです。これに対して、血気さかんな学生たちの反対運動がありました。
もし大学の旗や学生の旗があれば、それをこそ掲げればいいのだ。そんな議論をして、真剣に“旗づくり”を模索したことがありました。実現はしませんでしたが・・。
自分たちの旗をつくろうという発想は、自治会(若者)としての自己主張、自分たちのアイデンティティの確かめあい、でもありましょう。
1365号(2004年10月31日)
★<全国公民館連合会「The Kominkan」英文パンフ>
ベトナムで地域学習センター(公民館)づくり支援の仕事をしている津久井純さん(日本ユネスコ協会連盟)から、「公民館について英文で紹介した資料はありませんか」(南の風1320号、8月14日)と尋ねられた経過がありました。しかし手元にいい資料がない。調べていくと、全国公民館連合会(全公連)が2003年事業として「日本の公民館制度を各国に理解してもらうために」英文資料を作成していることが分かりました。(全公連『日本の公民館』2004年3月、p70)
その未定稿を見せていただく機会がありましたが、本日(30日)、完成版パンフ「The
Kominkan」(A5版、32頁)を送って頂きました。日本語原文「公民館−日本固有の地域学習施設」も付記されています。
項目だけ紹介すれば、はじめに、教育行政機関としての公民館、戦後改革としてスタートした公民館、日本の公民館の特徴、公民館計画の基本理念、公民館の職員、公民館の役割、公民館の事業、施設の設計、公民館の課題、という構成。公民館の基本統計や写真なども挿入されています。
「公民館計画の基本理念」として掲げられている7原則は、東京「新しい公民館像をめざして」(いわゆる三多摩テーゼ、1973年)と同じ項目。三多摩テーゼに関わった一人として興味深いものがありました。
この英文パンフは1部500円(送料込み)。郵送先、電話番号、希望冊子名と冊子数を明記して、全公連あてに現金書留で申し込めば送ってもらえるそうです。
1364号(2004年10月29日)
★<上海訪問団に第9号を託す>
11月4日から7日までの日程で開催される「上海創建学習型社区国際論壇」(風1354号等に既報)、ぶんじんは自重して参加を見合わせましたが、上野景三さん(佐賀大学)を団長として準備がすすんでいます。内田純一さん(高知大学)を含めての報告文の作成、岩本陽児さん(和光大学)による英訳、黄丹青さん(秘書長)の中訳など、準備はすべて万全?の模様。
上海に送付が遅れていた「東アジア社会教育研究」第9号を持参してもらいます。上海ではお二人の編集委員(呉遵民、袁允偉)を通して、執筆者(序文の郭伯農氏、桃浦鎮報告の候全宝・楊少鳴両氏)や関係機関(上海教育出版社、華東師範大学、閘北区社区大学「小林国際交流閲覧室」など)にお届けいただくようお願いします。第9号には呉遵民さん待望の千野陽一氏訳が収録されています。郭伯農さんの序文(黄丹青さん訳)も読み直してみてなかなか含蓄ある内容。日本ではあまり部数が出ていませんが(京都の学会でも頒布が少なかった)、内容的にはこれまでの中でもっとも充実した年報なのではないでしょうか。
また思いつき。北京の編集委員・韓民さん、広州の編集委員・李偉成さんのお二人にも、この機会に上海から郵送していただけないでしょうか。上海訪問団の荷物が増えて申しわけないけれど、送料がぐんと助かります。
上海訪問団の成功を祈ります。何回かに分けて「風」に旅日誌を送って下さい。また来年の「東アジア社会教育研究」第10号に記録を書いてほしい。次回11月の定例研究会(東京、11月26日予定)に上海報告をお願いできませんか。お願いばかりで申しわけありませんが、どうぞよろしく。
本日夕は高井戸で、TOAFAEC 第101回(10月)定例研究会です。
1363号(2004年10月28日)
★<中国・福建省からの訪問要請>
今年の春節を過ぎたころ(2月)、福建師範大学(継続教育学院長・陳安宜氏、当時)より福建省の生涯教育条例策定づくり関連資料とともに研究交流を求める熱烈な書簡をいただきました。
3月末に福建省に来てほしいとの要請も。急なことで、それに応えることはできませんでしたが、TOAFAEC
では黄丹青さんに資料の翻訳をお願いし、4月の定例研究会のテーマを「福建省生涯学習をめぐる動き」と設定して、白メイさん(中大院)が資料紹介・報告をしてくれました。
この間の経過は「南の風」に掲載(1230、1239、1259、1261号など)。また新刊『東アジア社会教育研究』第9号でも「福建省・生涯学習をめぐる動き」を収録しています。ご覧下さい!
その後、しばらく連絡はありませんでしたが、この10日あまりの間に急速な展開。呉遵民さんより頻繁なメールあり、あらためて福建省からの訪問要請と具体的な日程(12月初旬)が届きました。以下に呉メールを抜粋してご紹介しておきます。末本誠さん(神戸大学)と、ようやく足が癒えつつある小林が訪問の予定、準備を始めています。
福建への報告・中文訳については、下記のように胡興智さん(日中学院)に依頼しました。最終的にはぜひ呉さんの方でチェックしていただければ幸いです(胡メール)。
<十日町、堀之内への電話>
地震被災地・越後への電話はなかなか通じなかったのですが、昨日から今日(27日)にかけて、堀之内町、十日町市ほか相次いで話すことが出来ました。
堀之内の森山丈順さん家族はみんな元気(本人ではなく奥さんとの電話)。地震の最初の夜は外で過ごしたけれど、家は大丈夫。しかし今日の余震でまた壁のヒビ割れが増えたそうです。彼は役場で多忙をきわめ、夜おそくに帰るか帰らないかという状態。堀之内町では、明日はじめて(午前中)小学校が再開、教科書保有の確認程度とか。
十日町の田村達夫さんのお宅も被害の少ない方でよかった。ガラスが割れたり壁の一部が落ちたりなどあったものの、当日の明け方には電気が通じるようになり、昨日は水道も復旧したそうです。ただ市の中心部にはかなりの痛手あり。博物館を含めて社会教育施設の被害がどの程度なのか、まだ把握できていない様子。退職されて10年あまりなるのに、もとの職場への心配は並々ならぬもの。
小千谷市や川口町がとくにひどい状態だそうです。もともと豪雪地帯、皆さん、いまから雪の重さと寒さに耐えなければならず、たいへんです。
1362号(2004年10月26日)
★<与那国への旅・回想>
南西諸島の地図をご覧下さい。日本の最西端、ほとんど台湾に近い海に与那国島が浮かんでいます。国境の島、人口は約1800人、三つの集落、(字公民館は5)、1島1自治体(与那国町)。十日ほど前に合併についての住民投票が行われ、「合併しない」意志表示が多数となって、自立の道を選択した島です。ジェット機も飛ぶ空港あり。今頃(25日午後)は台湾を北上している台風24号の暴風圏内か。
沖縄研究を志して以来、この30年近く(奄美も含めて)主要な南の島にさまざま渡ってきましたが、最西端の与那国島には特別の思いあり、かえって未踏の島として残っていました。初めての与那国行きは、たしか1998年か。それから毎年、与那国への旅を楽しみ、調査報告はいままで2本(「東アジア社会教育研究」第3号、第7号)。あと3〜4本の報告を仕上げて1冊の本にしたい野望あり。しかしおそらく無理?でしょう。和光大学を辞めて2年余り、余裕ができたはずなのに、なぜか行く機会がありません。旅の心を失ってきたのでしょうか。
というわけで、与那国の記事があれば、南の風に紹介したくなります。1340号(9月18日)にも与那国島・久部良の港を載せました。25日の沖縄タイムス「潮騒のうた・港風景」は与那国「祖納」(そない)。波多(なんた)浜は、与那国調査の折折に、疲れを癒してよく散歩したところ。懐かしい風景、遠くからサンシンの音が響いてくるようです。
与那国の有名な民謡「すんかに節」(与那国しょんかね)から一節。
◇なんたはま うりてぃ むちゃるさかじきや
みなだあわむらし ぬみぬならぬ
大和口(やまとぅぐち)訳:
波多浜 下りて 持った(別れの)杯は
涙が泡盛らし(杯にあふれて)飲むことができぬ
そういえば、前にも風に「与那国しょんかね」の一節を書いたことを思い出しました。「与那国民謡工工四(くんくんし)」著者でもある宮良保全翁はお元気かしら。私たちに「しょんかね」を歌って、歓迎してくださいました。
★【歌の工房】−新潟中越大地震、被災地の報道写真に見入る、
皮肉にも、画像なべて秀作、10月25日−
◇杖もちし老女の眼(まなこ)そを背負う若ものの顔ヘリをめざして
−余震・寒気も襲う、小千谷市−
◇農作のビニールハウスに避難せし人ひとヒトの視線きびしく(ぶ)
★<上海教育出版社・
袁正守女史(編集副局長)歓迎夕食会>
前号でお知らせした袁正守さんの歓迎会を次のように開きます。
とき:11月4日(木)午後6時半より
ところ:「今半」上野広小路店(03-5688-0754)鈴屋ビル6階
地下鉄「上野広小路」駅すぐ(徒歩0分)、松坂屋デパートの前
TOAFAEC関係や上海本の執筆者・訳者の皆様など、ふるってご参加下さい(会費制)。人数を確認する必要あり、出席ご希望の方は前日までに小林(090-77-00-7756)あてご連絡下さい。
1361号(2004年10月24日)
★<新潟に大地震!>
上海(社区教育)国際フォーラム(11月4日〜7日)に参加予定の皆さん(上野景三、黄丹青、岩本陽児、内田純一)と、報告作成などの打ち合わせを始める寸前、大きな地震がありました。10月23日午後6時ごろ。東京(永福・風の部屋)でもかなりの揺れ。ニュースで新潟地方(小千谷、長岡など)の大地震と知りました。驚きました。
上越新幹線では「とき」が脱線しているとのこと。夜のテレビに映し出される市街地はすべて停電、孤立した集落も少なからず、病院では廊下に横たわっているけが人がたくさん、容易ならざる事態です。
「南の風」メンバーでは、堀之内町役場の森山丈順さんなど、どんな状況でしょうか。十日町市もひどいらしい。すこしでも被害の少ないことを祈るのみ。
この夏から相次ぐ台風、それにつづいての今晩の大地震、天変地異とはこのことか。なんとも不気味な年です。
ところで、上海教育出版社の袁正守女史(編集副局長)が、来月1日から1週間ほど来日され、東京に滞在されるとの連絡がありました。昨年の私たちの上海本(小林、末本、呉共著「現代社区教育の展望」)出版を実現してくれた人。在京の執筆者・訳者やTOAFAECなど関係各位に歓迎夕食会を呼びかけたいと思っています。予定は、11月2日か3日の夜、先方のスケジュールをいま問い合わせ中。日程が決まったらお知らせします。
もともと本欄は、袁正守さん歓迎の一文を書く予定でしたが、大地震のニュースに大揺れ。書いている本人も上海訪問打ち合わせのワインと「グランメール」のビールに少々酔って、揺れています。
1360号(2004年10月22日)
★<都市のなかにシマを創る>
本号は久しぶりに大阪の大前哲彦さんからのメール。前号の中村誠司さん「大都市の中に新しいシマを創る」に触発されて・・・とのこと。横浜の伊東秀明さんへの便りのかたちですが、「南の風」にも届きましたので、掲載させていただきました。
おそらくこのお二人はまだ直接には未見の間柄、風が取りもつ縁です。今年の6月頃、京都「ろばた懇談会」(ろばこん)をめぐって、岡山の美若忠生さんも含め、「ろばこんって何?」などのやりとりがありました(ホームページに収録)。その背景にあったのは、2002年・社会教育研究全国集会(沖縄集会)から始まった集落・自治公民館等の「小地域の学習活動と地域づくり」分科会の取り組み。
今年の会津集会では第19分科会として論議がかわされました。自治公民館等の話題は、とかく沖縄や農山村の固有の形態として限定されがちですが、分科会の世話人として、貝塚の松岡伸也さんや横浜の伊東秀明さんなど都市部の有力メンバーも参加されていて、大都市の状況や実践もまた、岩手・松本・沖縄等の報告と交流し交錯して取りあげられたのです。
いまの生涯学習の流れは、とかく個人の学習ニーズの充足、あるいはその多様な選択・・・といった個別の形態が一般的。しかし、それだけでなく、たとえば学びの共同体づくり、個々の市民が生きている地域づくりの視点、大都市部のなかだからこそ求められている新しいタイプの市民ネットワークへの模索、市民相互の関係性を創り出していこうとする実践、そして、それらへの行政側からの支援、そんな課題がさまざま考えられ始めています。市民の共同と地域づくりへの志向は、農村・都市を問わず、共通の関心事になってきているのです。
中村誠司さん(風・前号)の「大都市の中の小地域に新しいシマを創る課題」とは、そんな動きを意識されてのことでしょう。伊東秀明さんの「メール・マナビン(249)学びあう喜び」の一文もこの点で、たいへん示唆的。大前メールに合わせて掲載させていただきました。
1359号(2004年10月20日)
★<ただいま台風23号の目の中>
相次ぐ台風の襲来。23号はいま(20日正午)高知のすぐ南を北東に進行中です。今晩あたりはまた関東か。
数年前に中村誠司さんから教えてもらった沖縄・今帰仁村の古宇利島ホームページ、とくに小浜美千子さんの区長日誌は毎日(日によっては数時間おき)の更新。これには脱帽。今年1月お会いしたとき「南の風のライバル」とお話したことがありますが、明らかに「風」の負け。
区長日誌によれば、昨夜19日午後6時に古宇利島は台風の目に入っていたそうです。小浜さんには無断ながら(中村誠司さん、お詫びしておいて下さい)、ちょっと引用させていただきましょう。
○「2004/10/19 (火) 台風23号(終日欠航)
(8:30)午前中には暴風雨圏内に入るようです。
風雨が強くなっています。停電しないように祈るだけですネ。
すぐ24号が追いかけてきています。当分、台風の中の島。
我が家の冷蔵庫もカラッポです。しばらく缶詰生活なり。
主婦はラクチン(^○^)。
(12:00)風がデージ強くなってきました。東からの台風のようです。
南からよりは我が家は助かりますがこれで真夜中がピークとニュース。
一人暮らしのお年よりは不安だろうな。停電になりませんように。
(18:00)只今、台風の目の中。
今後、雨台風になるようなので、渡海浜への農道が心配されます。
大所帯の家庭では食料確保も心配されます。
昨日の島のお店では高いグリーンキャベツも全て無くなり(店主の弁)、
私は残る大根一本をゲットしました。
もう、三日間、外への足のない島の生活です。
頑張れ!島人!ですね。
23号では明後日あたりには船は出るかと思いますが、
24号も続いており。。。あきさみよ〜。。
古宇利島特産!ベニイモ!でいくか(^○^)!
(島外にも誇る「古宇利産ベニイモ」健康食品なりダ!)」
○古宇利島はじめ皆さんのまわりに被害のないことを祈っております。
1358号(2004年10月18日)
★<公民館のお風呂場で・・・>
ある中学生が新聞に投書して、「私にとって大切な人は、公民館のお風呂で会うおばあちゃんたちです」と語っています。「1日20分程度しか会わないけれど、いつも私を気遣い、はげましてくれます」(朝日、声欄、10月15日、大分県別府市、14歳、「増えてほしい地域交流の場」)。
たいへん興味をそそられました。中学生とおばあちゃんが公民館で出会っている風景、しかもお風呂場で。ご存知の通り別府は九州随一の温泉地です。この「公民館のお風呂場」は温泉なんだろうかという興味、そしてこの公民館は、公立公民館なのか地区の自治公民館なのだろうか、お風呂場の運営はどうしているのだろうなど、しばし思いをめぐらしました。
どなたか別府をご存知の方があれば教えてください。一度、別府に旅してみたい、公民館のお風呂にも入ってみたいもの。
「だから私は、地域の人が交流できる機会や場所を少しでも多くもうけて、いろいろな世代の人々があたたかい気持ちになれる、そんな地域が日本のあちこちに一つでも多く出来てほしいと思います。」というのが投書のまとめ。
1357号(2004年10月17日)
★<烟台の張林新さん>
内田純一さんからのメールが1週間あまり前に着信、そのままメール・ボックスに退蔵していました。失礼しました。「また台風ですね」とは恐らく22号のこと。いままた南方海上に23号があり、このフレイズ、いつまでも通じますね。
今年の山東省・烟台日本語学校の入学式(9月1日)に訪中できませんでした。猪苗代・社会教育研究全国集会とその後のスケジュールにはさまれて断念したのです。最近、実際にこの目で見ていないので、その後の日本語学校のこと、多少気になっているのですが、先月のTOAFAEC定例研究会に参加した来日中の張林新さん(校長)によれば、きわめて順調に動いているそうです。
看板の日本人教師はいま8〜9人、中国人教師集団とともに充実してきた模様。待遇などの諸条件については、TOAFAECのホームページ「烟台・日本語学校」に書いていますが、やはり直接に張さんに接触して下さい。次の来日は、11月10日以降と聞いています。もし急ぐのであれば、中国携帯:(001−010−86)−139−5451−001、へどうぞ。いつもすぐに出てくれます。
烟台・日本語学校のHP(日本語版)があります。ご参考までに。
→ http://www.schooljapanese.com/doct/gsjj.htm
日本と中国の草の根からの友好のために、「学校」づくりがどんなに大事なことか!
もし許せば1年のうち数ヶ月は烟台に住んで学校に協力したい・・・と思わないでもありませんが、なかなか・・そうもいきません。いい学校に育ってほしいという願いは切なるものあり!
現在の大きな課題は、来年度新入生を迎えるまでに新しい校舎をどのように建設するか(すでに土地は確保)。その実現のために張林新はいま奮闘中。内田さん、こんどの上海訪問の機会に、もし都合がつけば烟台に足をのばしてみませんか。きっと歓迎してくれると思います。
本号はカナダ・フロントからの荒井容子さんのメール。有り難うございました。荒井さんの訴えは、次号に続きます。
1356号(2004年10月15日)
★<上海へ第9号を>
3日前の風1354号で、11月4日からの上海訪問団に岩本陽児さん(和光大学)が参加していただくことになった経過を書きました。急なお願い、当方としては申しわけない思いなのですが、聞けば1983年(学生時代)に上海を訪ね、魯迅のお墓参りをして以来とのこと。
「いささかワクワクしています。ずいぶんと、変わったのだろうなあ」とのメールを読んで、安心しました。上海のこの20年の激変、まったく、別の世界になったようなものでしょう。
ところで、実はあと一つのお願いあり。小生が上海へ持参する予定だった新刊「東アジア社会教育研究」第9号を運んでもらいたいのです。すべて送料の節約(海外便は高い)。TOAFAEC事務局としてご協力下さい。案外と冊数が多い。
執筆者の郭伯農氏(黄丹青さん訳)、呉遵民氏(千野陽一さん訳)、桃浦鎮報告の候全宝、楊少鳴両氏に各1冊、華東師範大学、上海教育出版社、閘北区社区大学「小林国際交流閲覧室」、葉忠海氏、羅李争氏に各1冊献本、それに今回の国際フォーラム組織委員会に1冊贈呈など加えれば合計10冊となります。重い!ので申しわけないが、リュックにでも詰め込んで運んで下さい。お願いします。
昨夜、呉遵民さん(華東師範大学)に「第9号をどこかで受け取ってほしい」とメールをしておきました。
ところが、入れ違いに呉さんから来たメール。福建師範大学への訪問は「だいたい11月20日前後、いまだ最後の調整中です」とのこと。この頃は小生の足は完治しているでしょうが、日程的には日本公民館学会の研究大会と完全に重なります。
「…困りました。動けるのは21日以降です」と折り返しの返メールを打ちました。しかしその後のスケジュールもあり、26日には定例研究会(TOAFAEC)で報告する予定、どうなることやら。
1355号(2004年10月14日)
★<杖をもたずに・・・>
かなり恢復しましたが、まだ多くを歩けず、長時間を立っていることができません。碓井先生の通夜(12日夜)には、雨も降っていましたので、失礼してしまいました。
13日は葬儀・告別式の当日。いつもより早起きして準備し、乗り継ぎの駅の階段やエスカレーターなど思いうかべ、横浜・二俣川の浄性院への道、どのコースがいちばん足の負担が少ないか、葬儀場には椅子があるかしら、など心配しながら出かけました。元気であれば思いもしない心労。なにしろ治療を始めて以来の、タクシーを使わない初めての長距離?の外出です。それにしても怪我直後の八重山への旅によくぞ出かけたものだと、今になって自分ながら驚いています。もちろん後悔していませんが。
幸いに雨はやんで助かりました。三つの電車を乗り継ぎ、ゆっくりした歩きですから、時間もかかって、浄性院ではすでに読経がながれ、焼香が始まっていました。文字通りしめやかなご葬儀。碓井先生の温容あふれる遺影に合掌。楽しい思い出ばかりが心をよぎりました。
この日の遠出は杖を離しての挑戦。葬儀ではいろんな方と会いますから、杖の姿を見せたくなかったのです。見栄をはるのはよくないのですが、やはり無理をしますね。実は折り畳みの杖をバッグにしのばせていたのです。幸いに使わないで済みました。かなりの時間を立っていましたが、大丈夫でした。碓井先生とのお別れはリハビリへの確信の機会となりました。
1354号(2004年10月13日)
★<上海国際フォーラム近づく>
TOAFAEC宛の上海「学習型社区づくり」国際フォーラム組織委員会からの招聘・呼びかけについては、これまでも黄丹青さんのメールなど「風」(1334、1336、1343、1347号ほか)に紹介してきましたので、ご存知のことと思います。
その後、上海からの連絡によると、フォーラムは中国語と英語(同時通訳)ですすめるとのこと。これまでのように中国語と日本語のやりとりではない。参加国は日本のほか、イギリス、スウェーデン、デンマーク、カナダ、オーストラリア、それに台湾と香港。韓国からの参加(魯在化氏)可否についても打診中。この規模の多国籍フォーラムとなると、英語(と中国語)というかたちになるのでしょう。
いま上野・内田のお二人で、期待されている日本からの報告をどういう構成にするか、どんなメッセージを出すか、準備してもらっていますが、急ぎ英語に堪能な岩本さん(和光大学)にも上海行きに参加していただくようお願いしました。
岩本さんに送った小林メール(抄)。「…たまたま(神の啓示か)小生の足の状態がまだ見通しがつかず、自重を求められています。小生と交代するかたちで岩本・参加というかたちに変更できないかというお願い。ご都合いかがでしょう?」
さきほど岩本さんより電話あり、急な話なれど(無理をおして)参加しましょうという返事でした。有り難う! 発表要旨の英訳のこともあり、どうぞよろしくお願いします。
あらためて同フォーラムの概要を掲げておきます。(TOAFAEC:HPより)
○上海「学習型社区の創建に関する国際フォーラム」
−上海市閘北区国際フォーラム組織委員会−
主催(共催):上海市行政学院、上海市教育委員会、
上海市閘北区人民政府、上海市成人教育協会
<スケジュール>
11月4日 受け付け(会場:新梅華東大酒店)歓迎祝宴
11月5日 午前・開会式 午後・各国専門家報告
11月6日 午前・中国都市代表の交流 午後・見学
11月7日 午前・見学 解散
1353号(2004年10月11日)
★<訃報・碓井正久先生>
10日、碓井先生(もと東大教授、日本社会教育学会々長)が亡くなられたとの訃報を頂きました。もう2年以上も病臥・闘病され、お見舞いもせず、お話しする機会もないままのお別れとなりました。
忘れもしない1960年11月の日本社会教育学会(第7回、九州大学)。先生は学会の若き事務局長(30才代)、小生は会場校の大学助手(20才代)、大会準備に奔走したとき以来のお付き合い。当時の九州大学は、故駒田錦一教授のほか社会教育学会関係者は一人もなく、教育社会学講座の助手に仕事がまわってきたのでした。当初は迷惑千万の思い。しかしこの大会で碓井先生だけでなく、山本敏夫(当時、会長)、宮原誠一、横山宏、小川利夫ほか多数の社会教育学者との出会いがあり、社会教育研究の道を志すきっかけとなったのです。
駒田先生から、一晩どこか(中洲?)の飲み屋に誘われ、「小林君、手伝ってほしいよ」といわれた一言が、その後の人生の歩む道を決めることとなりました。何よりも学会のみずみずしい雰囲気とそれを担う碓井先生をはじめとする若い!研究者集団に強く心惹かれるところがありました。
その後、折りにふれて、いろいろと相談にのっていただく機会が少なくありませんでした。学会のことはもちろん、月刊社会教育や社全協のこと、あるいは少し私的なことも。「月刊」編集長の仕事を始めたとき(1973年)、「協力するよ、遠慮なく言ってほしい」と励まされたことをよく憶えています。あのころ碓井先生は、教育科学研究会の活動が中心で、月刊の編集委員でもなく、また社全協常任でもなかったのに、編集委員以上の声援をおくっていただいたのです。
年齢はちょうど10才違い、しかし故横山宏さんと同じく、出会いからなぜか「碓井さん」と親しく呼ばせていただきました。教え子でもないのに文字通りのご指導、ご高誼を賜りました。有り難うございました。伏して御礼を申しあげ、ご冥福をお祈りいたします。
通夜・葬儀については本日(11日)の朝日新聞などが報じています。
1352号(2004年10月9日)
★<台風22号の襲来>
ことし台風の多産年。つい2週間ほど前には21号が沖縄に滞留し日本列島を縦断したばかりなのに、現在、猛烈な22号が首都圏を通過中。東京は終日大雨、そしていま(9日18:00)急に風が激しくなりました。
そういえば、痛い足を引きずって八重山を訪問し那覇空港から離沖したのが先月25日、その翌日から台風21号のためすべての空の便が欠航となり、数日の大混乱。負傷中の身としては危ないところでした。
私たち(内田純一さんも)と入れ違いに訪沖されたのは、桑原重美さん(フリーランス・カメラマン)。届いたハガキによれば、「25日午後に那覇に入りました。着いた足で知念のテダ大川などに立ち寄り、首里城の中秋の宴の催しを見に行き、折からの大雨で途中早々に引き上げました。翌日は台風21号で交通機関は全部ストップしたため、1日中ホテルで過ごしました」とのこと。
しかし、27日からは島袋正敏さんのご案内で、名護の東海岸(天仁屋や嘉陽など)を歩かれたそうで、民俗遺跡や御嶽(うたき)など「これまでの沖縄と違う沖縄」をいろいろと知ることができた、「島袋先生の子どもの頃のお話も感動的でした」と。桑原重美さんは、名作「沖縄の歴史と文化」(NHK市民大学)シリーズの貴重な映像を残し、外間守善氏との共著「沖縄の祖神アマミキヨ」(1990,築地書館)をものにされた方。次回TOAFAEC
研究会でお話をうかがうことになりました。10月29日(金)予定、お楽しみに。
台風22号の情報によれば、ちょうどいま、鎌倉・伊藤長和さんのお宅の真上を通過したらしい。
1351号(2004年10月7日)
★<あれから100号の配信>
最近の「南の風」は100号おき(その昔?は50号おき)の「アドレス帳整理」をしてきました。調べてみたら、1249号(4月12日発行)に次のように書いています。
「1250号で恒例のアドレス帳整理を行います。風は双方向に吹きあいたい、という思いをご理解いただき、ときに返信を頂ければ幸いです。1251号よりは新しいアドレス帳で配信する予定。新名簿が確定した段階で(ずいぶん前に)お約束していた風メンバー一覧をお送りする予定でいます。
こちらの“風”が迷惑メールになることはもちろん本意ではありません。送信不要の場合は、ぜひご一報いただくようお願いします。」
100号を経過して、いまもまったく同じ気持です。どうぞよろしくお願いします。しかし最近は、少々くたびれたのか、アドレス帳整理など「どうでもいいや」という気分も。
5ヶ月前、1260号のメンバー一覧では81名、いま89名。他にリストに記していない学生などへの特別配信を含めれば、約100名の皆さんに風が吹いています。(あらためてメンバー一覧をご希望の方はご一報下さい。お送りします。)
風の最近の悩みは、メールを寄せて下さる方がやや固定化していること。ほとんど読まれていない?場合もあるようで、どうしたものかと気になっています。他方、とくに留学生の皆さんなどには“熱烈”に読まれている実感あり。それに励まされ、ひとまずの役割はまだ保持しているのだろうと勝手にきめこんで、「風」発信を続けている次第です。ただ一つ、迷惑「風」にならないことだけを祈ってる、というのが正直なところ。なんだか、冴えない「あとがき」になりました。
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