【訪欧・ドイツ短信】(小林文人)      TOP

1986年・1995年、2000〜2005年・ドイツ等訪問記録

 
<目次>
0,
1986年12月〜1987年2月・在外研究(東京学芸大学、米・英・伊) 未入力
  1995年7月〜8月・ドイツ・ポーランドへの旅
(私費) 未入力
1,2000年7月〜9月   「ドイツ短信」(
ドイツ・フランス滞在記録、和光大学1〜20号
2,2000年9月      エジプト訪問「ナイル通信」
(別ページ) 1〜3号
3,2000年10月      社会文化運動講演会(東京)、沖縄訪問
 1〜5号 
4,2001年6月       ドイツ訪問記録「ハンブルク便り」 
1〜7号
5,2005年6月       ドイツ訪問記録(小林文人・富美)
6,石倉裕志2001〜06 「ドイツの旅だより」→
                        
            


ハンブルク市庁舎、この日は市民デモが行われていた (20050616)



0,【1986年12月〜1987年2月の在外研究】 *2016年12月10日記

 
東京学芸大学在職中、2か月あまりの在外研究の機会を得た。その数年前に2期4年にわたる学生部長の激職をなんとかこなし疲れ果てて研究生活のリズムも失ってしまったような小林を憐れんで、蓮見音彦学長をはじめとする当時の部局長会議の各位が用意してくださった配慮かと感謝した。特例のようにも思われ、どなたかの海外チャンスを横取りすることがあってはならず、しかし当方も3年ほど「在外研究」申請を出し続けていた経緯もあり、有難くお承けることとした。テーマは当初は英国・大学拡張に関する研究であったが、せっかくの好機、これに加えて、アメリカ西海岸・コミュニティカレッジ、イタリヤ・カーサデルポポロ(人民の家)調査スケジュールを追加。米(2週間)・英(4週間余り)、伊(2週間)の旅行計画はそのまま認められ、願ってもない欧米の成人教育・地域施設見聞の好機、忘れ難い在外研究となったのである。
 1987年2月10日に帰国後、簡潔な研究報告を提出したが、いま手もとには、その記録さえ残っていない。各國滞在中のノートもどこかに紛れ込んでしまった。もちろんパソコン・メールの時代ではなく、日記代わりの拙い歌も詠んだ記憶があるが、今となってはすべて忘却のかなたに消えてしまっている。それからすでに30年、どれほぼの記録を再生できるか。
 米(ロスアンジェルス→ニューヨーク、1986年12月)、英(ロンドンを中心に、翌1987年1月)、イタリヤ(フィレンチェチェを中心に、同2月) 、いずれも初めての都市。英から伊へ渡る日にフランス鉄道のゼネストと重なり空路となったが、2ヵ月余の旅はほぼ予定通り、順調に進行した。あらかじめ米・コミュニティカレッジについては新田照夫、英・成人教育については諸岡和房、伊カ‐サデルポポロについては松田博など各氏(著作)から予備知識教えを得ていたが、短い日程でもあり、重要インタビューについては通訳を依頼するなどして、できるだけ多くの地点を訪問する努力をした。






【1995年7月〜8月 ドイツ・ポーランドへの旅】


1,1995−ドイツへの旅 南の風3115号(2013年7月4日)
 … 数日前、埃にまみれて、1995年夏のドイツ旅行(約1ヶ月)ノートが出て来ました。最後はポーランドに入って、ワルシャワ・クラコフからアウシュビッツにたどり着いた冒険?の一人旅。ちょうど東京学芸大学「店仕舞い」、そして和光大学に移った年のこと。国立大学での公務員(管理職)拘束は気ままに海外へ旅することを許さず、その反動で、幸い退職金が出たこともあり、乗り放題のユーロパスを手に、ドイツとその周辺を歩きまわりました。
 2000年〜ドイツ等への旅は「南の風」に連載、日誌風にHP(本ページ・下掲)に収録しています。しかし1995年はこれまで無記録。ノートを読んで思い出したことがたくさん。当時のドイツはベルリンの壁崩壊から5年目、東西分裂の傷痕がいたいたしく残っていました。壁が建っていたポツダム広場などはまったくの原っぱ。記録にしておく作業を怠ったまま20年近くが経過しています。毎日(でもないが)メモ代わりに詠んでいた拙い歌。お見せできる代物ではありませんが、ことのついでに座興として、まず幾つかを。
◇マルクスの生家にたたずみ咽かわく 1.2マルクの水買いにけり(トリヤー、1995年7月30日)
◇いつまでも沈まぬ夕陽に照らされて 旅は再びエルベを渡る(ドレスデン、〃年8月3日)
◇ガス室へ渡る通路に緑あり ホロコースト知る清流もあり(ミュンヘン郊外ダッハウ強制収容所跡、8月15日)
◇シャツを替え襟を正してオシフィエンチム わが鎮魂の旅の終わりに(オシフィエンチム=アウシュビッツ、8月20日)
 ノート・メモを頼りに当時の記録を書くことを宿題として残してきましたが、果たしてかたちになるかどうか、記憶を再生する努力をしたいと思っています。

2,20年前の8月 南の風3545号(2015年9月1日)
 昨深更、J:COMのラインで映画「シンドラーのリスト」が流れていました。何度か観た映画なのに、やはり引き込まれて最後までお付き合い。スティーヴン・スピルバーグ監督作品(1993年、米)が日本で公開されたのは、たしか、1994年と記憶しています。この映画の刺激もあって、ぶんじんは1995年夏、ヨーロッパの一人旅のなかに、当時まだ社会主義体制の名残りが色濃く残っていたポーランド行きを企画。ポ大使館で旅券をとり、ワルシャワからクラコフへ、そしてアウシュヴィッツ強制収容所跡への鎮魂の旅に出たのでした。
 ナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)については『夜と霧』(V.E.フランクル、映画アラン・レネ監督)ドキュメンタリーが頭に焼き付いていますが、映画「シンドラーのリスト」もまた衝撃的だったのです。
 1995年の夏は、東京学芸大学から解放され和光大学へ移り、私立大学の自由な学風のおかげで、難なく1ヶ月の欧州・自由遊学が実現、嬉しい一人旅。主としてドイツ(東・西)を動いたのでしたが、そのうち1週間をとって、戦争・東西からの侵略、そして社会主義体制に呻吟してきたポーランドを初めてまわる旅にもなりました。ワルシャワ・ゲットー、少年たちも闘ったワルシャワ蜂起、慰霊碑の前で謝罪のため崩れ伏したドイツ首脳など、アウシュヴィッツだけでなく、深く心に残るポーランド。それらに、クラコフでのシンドラーの挌闘の映像が重なったのです。
 当時まだ「南の風」を発行していませんでしたので、記録は充分ではありませが、旅の報告は、TOAFAEC第4回定例研究会(1995年9月18日)のテーマとなりました。 
 余談ですが1995年は、春に社全協委員長からも解放された年。しかしこの旅が終わってすぐ、秋に社会教育学会長を引き受けることになり、その意味でも、8月の旅は二度と味わえない自由のバカンスでもありました。

3,







1,【ドイツ短信・2000】

(1) July/12/2000 フランクフルト (南の風518号、2000年7月14日)
 <パソコンかかえて>

 ちょうど5年ぶりのフランクフルトだ。機内では「あいにくの雨」などとアナウンスしていたのに、降りてみたら、陽がさしている。すこし肌寒い。
 空港内はあいかわらずの混雑で、到着した人の列と今から乗る客が行き交い、また迷ってしまった。ひとり旅の楽しさとさびしさ。荷物受けとりのところまで、ぞろぞろと歩いていく団体客のうしろについて、ようやくたどりつく始末だ。
 こんどのドイツへの旅は突然に始まった感じだ。もっとも、計画をつくり和光大学がそれを認めて(学外研究)、今日までにかなりの時間はあったのだが、仕事に追われて、ほとんど準備の余裕がなかった。出発の数日前にある原稿の校正刷りが飛び込んできたり、2ヶ月あまりの留守故に迷惑をかけないようにと学会通信記事を急ぎ書いたり、出発前夜はとうとう徹夜してしまった。
 外に出るために内の仕事をさぼってはならじ、と妙に肩に力が入り、大学の講義もゼミ合宿も公開シンポも飲み会もすべて付きあってきた。
 こんなハードな年ははじめてだ! 徹夜あけのドイツ出発の日、家を出る直前に出した「南の風」516号の送信メッセージは、だから「ようやく脱出」と記した(7月10日06:59)。

 5年前にドイツに来たのは、学大から和光へ移った記念の旅、一人でアウシュビッツにも出かけた。あの当時からフランクフルト空港も大きく様変わりした(接続する遠距離列車の駅が新しく出来た)が、私自身もたいへんな変化があった。それはパソコン一式をかかえての旅支度となったこと。
 宿舎に着き、部屋のカギをもらって部屋に入ったその瞬間、まず電話回線に目がいく。谷和明さん(東京外国語大学)が予約してくれた宿はいわゆる「ホテル」ではなく、宗教系の研修施設やドイツ国際教育研究所(DIPF)ゲストハウスなどの非営利的な施設だ(風515号)。清潔で格安なのだが、パソコン・通信にはやさしくない。
 いま着いてちょうど丸二日。この間、マイン川のほとりを散歩してビールを楽しむ以外の時間は、ほとんどパソコンと格闘していた。初日の宿舎は電話回線が装置的にまったくダメ、だから諦めも早かった。2日目のDIPFは可能性ありあり、持参したモデム・ダブラーも機能している(オンラインのランプがつく!)ので、あの手この手の選択肢を駆使して、東京に接触を求めた。しかし、駄目だった。
 いま1泊だけDIPFを抜け出て、フランクフルト中央駅前のホテルに投宿したところだ。実は、8月19日夜に(日本からの訪問団のために)予約したホテル、下見の意味もあろう、というので飛び込んだ。そして部屋に入って直ちに電話回線を抜き取り、私の愛機につないでみた。3度目に見事に接続!
 私がまだ日本にいると思って送った(風515号未見の人たち?)らしいメールなどが8本新着棚に入っていた。やれやれ。まずは、ドイツ短信・第1号でした。

<付記>8月19日夜予約のホテルは駅前のまったく便利なところです。予定の皆さん、ご安心下さい。ヨーロッパのホテルに共通することですが、パジャマとスリッパをご持参下さい。
 別便で、当方に着いていたメールを「南の風」用に回送します。次にいつ東京に接続できるか分かりませんから、上野くんなど、あまりあてにしないで下さい。「ドイツ短信」は(せっかくの機会ですから)やや真面目に書きためていこうと思っています。送れるときに送りましょう。しかし、あてにしないで下さい。


(2) July/13/2000 フランクフルト (南の風519号、2000年7月15日)
 <マイン川のほとり>

 昨夜(12日)は新ノートパソコン・ドイツからの発信が成功したので、自分だけのお祝いに、マイン川の南「ザクセン・ハウゼン」地区に名物のリンゴ酒(アップヘルヴァイン)を飲みにでかけた。夜も9時というのにまだ明るい。
 ザクセン・ハウゼンの一角は、ビールとワインの飲み屋街だ。いわくありげな古い店で、まずどすんと色の濃いビール・ヴァイツェンを注文する。うまい! 日本の最近の地ビールで飲ませるヴァイツェンがなんとも軽薄なだけに、久しぶりの味に妙に感激する。
 ついでふらふらと通りにでて、アコーディオンがひびく雰囲気に誘われ、ある店の客になる。奥まで入って待望のリンゴ酒にありついた。最初はすこし味がよわい感じだが、さわやかで、飲むほどに味わいふかい。おりしも日本人がひとり、案内されて同席となった。聞けばガイドブックに紹介されている店とのこと、それをたよりに探してきたらしい。話しがいろいろとはずみ、杯を重ねた。いくらでも飲める。
 これはいかん、うちのカミさんに叱られる、ようやくにして店を出た。中天には白いお月さま。
 というわけで、今朝はやや頭が重い。ところで、谷和明さんは、どんなお酒を飲むのだろう。

 話をもとに戻そう(私はビールとワインのためにドイツに来たわけではないのだ)。
 こんどのドイツ計画はまったくの準備不足。だが、旅の収穫への予感は大いにある。だからこの「短信」を書き始める気にもなったのだ。まず何よりも谷和明さん(東京外国語大学)から送られてきた資料だ。
 谷さんとは、私と藤岡貞彦共編の本(「生涯学習計画と社会教育の条件整備」)にドイツのことを書いてもらったのがそもそもの縁だが、それから10年余り、しかしこれまで学会でお会いする以外に、深く語りあう機会はなかった。
 こんどのドイツ旅行のことで、そのうちに一度いろいろ教えてもらいたい、と年賀状に書いた記憶があるが、そのままになっていた。5月も下旬になってようやく連絡をとったところ、直ちに会いましょう、ということになり、その翌日に明大前の喫茶店で会って、いくつかこちらの関心を話して助言を求めたところ、「一緒に行きましょう」という願ってもない話になった。この好意には、正直のところ驚きもし、心底から感謝もしている。
 それから我が家には圧倒的な勢いで、メール、フアックス、電話(頻度順)が押し寄せるようになった。それまで読んだことがなかった「社会文化研究」「共同探求通信(特集・ドイツ社会文化運動)」などの一連の資料もどさりと送られてきたのである。
 それからの一ヶ月、私の心のなかは谷さんとの対話が大きな比重を占めることになった。「社会文化運動」のことだけではない。ドイツからEメールによる通信をどう成功させるか、についてもいろいろ教えられた。古いゲストハウスや非営利のホテルなどを、数日おきに転々とするなかでの挑戦、そして用意すべき器具などについて、何度も長いメールを頂いた。聞けばいままで一度も成功したことがないとのこと。恐縮しつつ、私も軽量のノート型パソコンを一台仕入れ、アドバイスにしたがって海外対応のモデムやセーバーなどを買いこんでのドイツ行きとなったのである。
 先号でも書いたように、東京では時間に追われて、せっかく送っていただいた「社会文化研究」などをゆっくりと読む暇がなかった。私は、送られた資料の全部を飛行機にもちこんだ。そして終日、ドイツ「社会文化運動」と谷さんの仕事を読みながら、フランクフルトに着いたのである。(社会文化学会の代表は谷さんらしい。)
 たとえば「ドイツ社会文化運動を探訪するなかで−手紙座談会」(上記・共同探求通信15、2000年5月)は私のために企画されたのではないか(もちろん冗談!)と思うほど、刺激的な問題提起が充ちていて、一気に読んだ。「社会」という意の「ゾツィオ」または「ゾツィアール」をどう理解するか、繰り返しの論議が私を眠らせなかった。

 −7月10日、日本から着いた日、「社会文化研究」を読みながら−
◇マイン川の岸辺に立ちて ゾツィアール・ゾツィアールとひとりつぶやく
◇みずみずし視点にふれてふとしばし 居眠りをする至福ひととき


(3) July/15/2000 フランクフルト (公民館の風75号、2000年7月16日)
 <フランクフルトで公民館を考える>

 東京は暑いそうだが、こちらは異常気象ではないかと思うほど、肌寒い。夏姿で来たので、セーターでも買いたくなるほどの気温だ。そして毎日パラッと雨が降る。空模様がよくないときは本を読み、陽がさせばのんびりと歩きまわる。避暑にきたような気分、猛暑のなか頑張っている皆さんに申しわけない思いだ。
 谷和明さん(東京外国語大学)に教えられたエコハウス“Arche”と、このなかにある社会文化センター「カ・アインス」Ka Einsは、宿舎(ドイツ国際教育研究所=DIPF・ゲストルーム)から歩いてわずか10分ぐらいのところにあった。Sバーン・フランクフルト西駅の前、もう二度ほど立ち寄った。いい雰囲気だ。
 
 先便で書いた「ドイツ社会文化運動を探訪するなかで−手紙座談会」(『共同探求通信15、2000年5月)では、この種の社会文化センターの印象が繰りかえし語られている。
 たとえば吉田正岳氏(大阪学院大学)は次のように言う。「私は(…住んでいたので)国立市公民館をたびたび利用しました。国立市公民館は全国の公民館運動の典型となっているところで、…略…、たしかに日本の他では見ることのできない先進的公民館活動をしているのですが、この先進的公民館活動を念頭においたとしても、(ドイツの社会文化センターと比べて)やはりまったく違った場所のように見えました。……イメージとしてどうもうまく重なってこないのです。」「たとえばアルテ・フオィエルバッヘを訪ねたときにたまたま起こりました。中庭でクルド難民問題に関する集会が行われました。センターの中のダンスホールには布団が運び込まれて積み上げられており、その夜には難民やベルリンからのキャラバンも泊まれる体勢がとられていました。そこで私たちはセンターの説明を受けたのです。つまりセンターは”社会問題の現場“でもあったのです。」
 「センターというのは、社会的問題をかかえこんでいく空間であり、その問題の解決をめざしている場所でもあるわけです。ひと昔前の大学には似たような空間があったのではないか・・(中略)。5時になったから出ていって下さいと、職員が職務上律儀に言ってくる場所(日本の公的施設)とは違うのです。これに比べるとドイツの社会文化センターでは、何のための「公」であるか、が日本とはまるで違っているという印象を持たざるをえませんでした。・・・」
 さらに話しは続いている。私自身の見聞ではないので、中断するが、ずいぶん考えさせられるところがある。「社会問題の現場」という意味では、上記の社会文化センター「カ・アインス」Ka Einsは、環境問題に取り組んでいる現場・センターなのであろう。
 ドイツの市民大学(ホルクスホッホシューレ、公的機関)だけでなく、この種の運動的背景(1970年代)をもった施設と活動を、行政当局は公的に承認し援助している。ハンブルグの社会文化センター「モッテ」(紙虫、体制を蚕食する小さな虫の意)は、1976年に設立されたが、現在26のセンターが生まれ、それぞれ固有の発生史をもっている。もともと「自主管理」的に運営されてきた施設が「1998年にはセンターの建物は州政府によって改造され、ハンブルク市(議会)によって承認」「センターの広範な自律と自己形造権は保証」されているという。(上記『共同探求通信』15、所収、ミヒャエルヴェント「モッテにおける試み」)
 さて、これからどんな旅になるのだろう。谷さんから頂いた資料から、旅の収穫への予感を書き始めたら、いつまでも止まらない・・・。
 いま薄日がさしている。ビールを飲みにいくことにしよう。


(4-1) July/18/2000 フランクフルト (南の風524号、2000年7月23日)
 <ラインの流れに沿って>

 こちらに着いて、はじめての土・日。谷和明さんから、レーマー広場(フランクフルトの観光スポット)からライン川くだりの船がでている、乗ってみてはどうか、という案内を深夜の電話でいただいた。ひとり暮らしの私を心配していただく、有り難いことだ。
 しかし、朝起きてみたら雨模様。また、次の機会もあろうかと断念(それに、ちょっと朝寝坊)した。しかし翌日(日曜日)には、今まで一度も行ったことがないライン川沿いの珠玉の3都市、デュッセルドルフ、ケルン、ボンを1日で訪れてみることにした。列車はマインツあたりから、ライン川にそってひたすら走る。ライン下りしているようなものだ。ローレライあたりも通っていく。
 朝8時に出て、列車に飛び乗り、乗り継ぎして、夜10時頃にはうまくフランクフルトに帰り着いた。(実は失敗談もある、何かの機会に書くつもり・・)
 デュッセルドルフの町並みも、ケルンの大聖堂も、ボン大学の偉容も、聞きしにまさるものだったが、なにより、それぞれの町に自慢の地ビールがあることが感激だった。駅前では男たちがゆったりくつろいで飲んでいる。デュッセルドルフではアルトビア(茶褐色で、香り強し)、ケルンはケルシュ(さわやか)、ボンではさすがに何かを飲む体力が残っていなかったが、終日ほろ酔いの日曜日となった。
 またビールの話になってしまった。宿舎に帰りついたら、谷さんからメールが届いている。フォルクスホッホシューレ(VHS、市民大学)の最近の動き。「公民館の風」にでも、ご本人の了解も得て、ご紹介することにしよう。

 −7月15日、終日の雨模様−
◇朝つげる鳥のさえずり消え失せて小雨そぼふるドイツも梅雨か
 −7月16日、フランクフルト中央駅で朝日新聞を買う−
◇あふれんばかり水をたたえしライン沿い車窓のしじま朝日歌壇よむ

(4-2) July/18/2000 フランクフルト (公民館の風76号、2000年7月19日)
 <ドイツの市民大学の動き>

 谷和明さんのご了解も得て、フォルクスホッホシューレの最近の動きを一部ご紹介する。
 「…略… とはいえ、通信の文面から察せられるかぎり、快適に過ごして見えるご様子でなによりです。Frankfurtで飲むビールの味を夢想しながら、なんとか出発できるように猛暑のなか汗だくであくせくしております。
 すでにエコハウスに2度も行かれたとのこと、脱帽いたします。もちろん、VHSにも(にこそ)関心をお持ちだと思いますので、VHS Frankfurtに関して若干の情報を記します。
 近年ドイツでは地方行財政改革の嵐の中で、VHSのリストラが進められてきました。Frankfurtはその典型といえるでしょう。FrankfurtのVHSは19世紀末に労働運動の影響下で結成されたドイツでも最も古い歴史を誇るVHSです。戦後はフランクフルト民衆教育連盟という法人により運営されていたのですが、70年代の継続教育政策の展開の下で公営化され、「市民大学・民衆教育課」という部局になりました。ところが1998年機構改革により行政部局から切り離され、資本金30万DMの「公企業Eigenbetrieb」に改組されました。
 その結果、自主採算的な努力が要求されることになり、VHSの事業は大幅に縮小されました。簡単にいえば、外国人などを対象とした高コスト・低収益の講座などが減らされたのです。代わりにコンピュータなどの職業教育の講座が強化されています。
 日本のカルチャーセンター+語学学校+コンピューター教室をミックスしたような施設へと変貌しつつあるといえます。いわゆる不利益層のために事業をやろうといった志をもった職員はかなり解雇されてしまったようです。この辺の事情は、そちらに行ってからぜひ確かめてみたいと思っています。
 VHSへのアクセスです。現在Frankfurt VHSは本館と5分館を中心に活動しています。本館所在地は …中略…。また5つの分館のうちヘキスト地区の分館は訪問する価値があるかもしれません。ヘキスト地区は市の西部、アスピリンなどで有名な化学・薬品会社ヘキスト社の本拠地で、独立した工業都市として発展してきたところです。ですからVHSも独自の歴史を持っており、かなり独立性が強い(かった?)のです。さらに興味深いのは施設の形態で、ここは市民館、ギムナジウムそしてVHSが共用する「教育センター」という複合施設なのです。…中略… 
 では、数日後、ともにビールを傾けられることを楽しみにしております。」 (谷 和明)


(5) July/22/2000 フランクフルト (南の風525号、2000年7月24日)
 <リュッセルスハイム市の市民大学>

 フランクフルト中央駅の本屋で、世界の新聞を売っている。日本のは2種類、朝日が7マルク(380円前後)、日経が9マルク。かなり高い。それでも買いたくなる。「国際衛星版」と称して、当日の日付の新聞が、午前中には店頭に出る。そこを通るたびに買う習いとなって、ほぼ2日おきには日本の情報を仕入れる結果となる。すみからすみまで読んでいる。
 だから、神田道子さんが東洋大学・学長に選出されたとか、曙が今場所は案外と調子がよいとか、夏の甲子園に沖縄からは那覇高校が名乗りをあげたとか、細かなこともいろいろ知っている。
 19日夕、谷和明さんが暑い日本からやってきた。飛行機(大韓航空)のなかの新聞を捨てずにもって来てくれた。朝日新聞と韓国時事新聞・コリアニュース(週刊)。だから、韓国ではこの秋から初等学校の教科書に6月の南北会談・両首脳の写真(金大中・金正日両氏が明るく微笑みながらお互いの手を高々と持ち上げている)を掲載するという情報(教育部発表)も読んだ。かっての対決と進攻の「統一教育」時代を考えると、まさに隔世の感だ。
 世界は少しずつ前向きに動いている。日本の政治も動いているのか。

 20日からは谷さんに同道して、ドイツ(フランクフルト)の継続教育・成人教育の主要な機関を訪問する活動が始まった。まず午前は、ドイツ成人教育研究所(DIE)とそのなかの継続教育・テスト部門。1998年以降の有限会社(GmBH)化のなかで、なかなか張り切って課題に取り組んでいる雰囲気だ。
 午後は、ドイツ国際教育研究所(DIPF、私たちはこの機関のゲストルームに滞在している)のDr.Kopp氏。コップさんは日本の研究者にも知己が多く、この日も昼食のあと、コーヒーをのみながらの半日、話がはずんだ。
 21日は、フランクフルトから西へ電車で30分ほど、オペルの企業町であるリュッセルスハイム市の市民大学(フォルクスホッホシューレ)へ。人口6万という格好の小自治体に、がっちりと市民大学の組織と機能が息づいている模様。印象的なことをいくつかメモがわりに。
・夏はしっかりと休んでいる(7月から8月にかけて、40日ほど夏休み)。
・主要なスタッフは5人、それぞれの専門分野だけでなく、マネージメント(人事、財政、経営など)の
 部門を分担する。いわゆる専門職と事務職の分離機構をつくらない。この他に受付事務や施設管
 理(ハウスマイスター) などの職員と講師(パート勤務)集団を多数配置している。
・所長などの代表をおかず、5人の合議制で運営していく。
・1998年に「民営化」への舵をきった。市の補助金はかわらないが、ヘッセン州の補助金はこの春
 30%削減された(反対運動のポスター・葉書がまだ残っていた)。
・四つの主要な施設があり、女性センターと併設の施設ではジェンダー問題への取り組みが、工房
 (もとは町工場だったらしい)をもった施設では失業問題が、それぞれ関連部局の補助金を得て取
 り組まれているらしい。ただし今は休暇中。施設は2階建て、整備され、落ち着いた雰囲気。コンピ
 ュータ室もあれば、保育室もあり、実習・工房の設備も本格的?だ。
・若者向けの1年コース?講座を受講すれば、基幹学校・実科学校(中等学校)修了の資格を付与
 する(学校教育との連携)、などなど。
・昼食をはさんで、話と資料と施設見学と、ゆったりと、しっかりと、対応してもらった。主としてスタッフ
 の代表格のWilli Braun さん。

 夜は、宿舎から歩いていけるボッケンハイマーの植物園・野外ホールへ。ここで催されたロッシーニの歌劇を二人で楽しんだ。緑のなか、幕間のワインがうまい。空は晴れてようやく夏の気配だ。しかし
10時過ぎて、とっぷりと暮れると、かなり冷える。皮ジャンを着ている人もいる。宿舎に帰って、また夏の夜のワインを楽しむ。


(6) July/29/2000 ハンブルク (南の風527号、2000年7月31日)
 <ハンブルク滞在、1週間>

 日本を離れてすでに20日、フランクフルトからハンブルクへ移動してもう5日が経過した。すこし北上?したせいかもしれないが、また肌寒い朝を迎え、今日は小雨も降っている。コートを着ている人もいる。今年はドイツも異常気象らしい。
 しかし絶好の避暑気分で、谷和明さんと弥次喜多よろしく歩き回っている。疲れては休み、休んではビールを飲む。あれこれと話しがはずみ、ついまたワインを注文する。その頃には陽も落ち(10時過ぎ)、次の杯の注文はあきらめて食事をおわり、ようやくホテルにたどりつく、昨晩など11時をまわっていた、そんな(ぜいたくな)生活が続いている。
 この間、毎日新しいことがあり過ぎて、ここには書ききれない。いつもの通りの生活の繰り返しと比べて、すべてが新しい出会いとなるのは、やはり旅の醍醐味というものだろう。
 先便(ドイツ短信5,7月22日)から、あっという間に1週間が経過している。私としたことがどうしたことか。通信を書く余裕さえない毎日、というのが正直なところ。お許し下さい。せめてこの1週間のこと、主な訪問先など、まずはメモだけの記録を届けすることにしよう。
 <フランクフルト>
22日(土)一人で休日、ゲッティンゲン、カッセル両市を歩く。
23日(日)二人でライン下り、帰路はヴィースバーデンでローマ風温泉へ。
24日(月)再びドイツ成人教育研究所(DIE)を訪問。ツァイドラー女史などと昼食。夕食は、Dr.
 コップ氏(ドイツ国際教育研究所、DIPF)と。ドイツ社会民主党(SPD)をどう評価するか、緑の党
 のことなど、興味深い。
25日(火)午前はザールバウ(SAALBAU、19世紀からの民衆教育運動やVHS(市民大学)の歴
 史とも深くかかわるホールづくりの市民運動、いま市が全額出資の会社組織)へ。フランクフルト
 市の市民館(ビュルガーハウス、約30館)を管理・経営する法人。終わってフランクフルト市の
 VHSサービスセンターへ。夏休みでもここは機能していた。
 <ハンブルクへ移動>
 午後4時ちかくのICEでハンブルクへ移動。夜は、谷さん旧知のホッフ女史、トールマン氏 (いず
 れもハンブルク社会文化運動)、社会文化センター「モッテ」(ドイツ短信3参照)運営責任者ベント
 氏による歓迎夕食会。
26日(水)午前、ハンブルク社会文化センターの州連盟?を訪問。
 事務局長ヘニングスマイヤー氏よりハンブルク市の社会文化センターの全般的な状況を聞く。
 午後はホッフ女史の案内で、市民主導で建設中の社会文化センター(シュテルンシャンチェ)づく
 りの感動的な話しを聞く。この夕、Eメール送受信可能のホテルへ引っ越し。
27日(木)「ファビック」(FABIK、工場)へ。1971年、工場跡を文化センター・劇場に脱皮させた
 先駆的な試み。知る人ぞ知る文化運動の拠点。
  午後は待望の「モッテ」見学。その周辺の子ども冒険広場なども。刺激的な1日、この夜は少
 し興奮して眠れなかった。一度、「モッテ」を中心とするこのオッテンゼン地区の市民活動とセンタ
 ーの歩みを、日本の公民館活動と結びつけてしっかりと聞いてみたいと、痛切に思った。
 夜は繁華街を歩き、エルベの川岸に出て、観光船にのる。
28日(金)午前、連邦防衛大学の継続教育にかかわっているDrクヴァイス氏を訪ねる。午後は
 ゴム工場跡の(市民運動でつくられた)「労働博物館」、同じ敷地内の社会文化センターへ。
  夜はホッフさんとトールマンさんのお宅に招かれて手づくり料理のご馳走になる。トールマン
 さん(建築家)が「沖縄に一度ぜひ行きたい」という。
29日(土)ナチスの強制収容所(ノイエンガンメ)跡・記念館へ。
30日(日)ポッダムへ移動予定。


ハンブルク市アルトナ・社会文化センター「Motte」(モッテ)−20050616-


(7) Aug/02/2000 ポッッダム (公民館の風79号、2000年8月2日)
 <1945年・ポッダム会議のホテル>

 7月30日午後、予定通りドイツを時計まわりに移動して、ハンブルクからポッツダムに着いた。5年前に来たときよりも、町並みはきれいになっているが、やはり旧東ドイツの雰囲気を色濃く残している感じ。道路は広くて直線的、大きなモニュメントが目につく。だが、辻々に人々の(夏の宵を楽しむ)生活空間やゴチャゴチャした(いわば曲線的な)たまり場のさんざめきが少ないように思われた。都市の規模が違うにしても、あらためてハンブルクの騒然たる活気が懐かしい。
 ハンブルクの1週間はあっという間だった。あまりの刺激に今はまだ頭のなかが混乱していて、まとまったことは何も書けないが、最も印象的なことを一つだけあげれば、やはり「社会文化センター」(上述「モッテ」や「シュテルンシャンチェ」など)のことだろう。
 施設としての特徴は、地域のたまり場、地域活動の拠点、いろんな事業の企画・発進、など多彩な機能・運営を担っていて、このあたりは、公民館と共通するところがある。しかし、違っているところは、基本的に地域の市民運動によって設立されてきたこと、職員だけでなく、多数のスタッフ、ボランティアの群れによって支えられていること、市民の管理による施設であり「登録」団体(施設)の位置づけをもって、行政当局より大きな援助を受けている(ただし最近は問題もいろいろある)こと、などだろう。
 たとえば、「モッテ」は昔のタバコ工場だった建物を、1976年創立以来、市民の社会文化施設に創りあげてきた。「シュテルンシャンチェ」(英語でいえば「スターチャンス」)は、幼稚園の施設を今年7月に社会文化センターとして新しくオープンさせた。レストランが賑やかだ。「モッテ」の場合、現在は残念ながら(貧しい人たちもともに・・・という地域協同の志を追及しつつ)休業していたが、「シュテルンシャンチェ」のレストランには多数の人が集まっていた。ピヤノも響き、いつまでも暮れない夏の宵を皆さんで楽しんでいた。私も谷和明さんもビールをご馳走になった。市民代表の女性からおごっていただくビールはとりわけ美味しい。
 このような社会文化センターがハンブルク市に30近く動いている。そのすべてに共通して、都市の再開発、老朽・解体施設の改造・再建、市民主導による地域活性化、といったテーマが追求されてきた。市民代表と政党代表(議員など)と行政による(3者)調整委員会が組織され、再開発の方向を決定していく。そのなかに社会文化センターが重要な位置づけをもって、登場してきたのである。
 日本の場合、都市開発は土地所有問題もからんで市民管理(「自主管理」)のかたちにはならない。主として行政の側で方向を決定し、多くは企業や開発業者の手に売りわたされていく。ハンブルクでは、都市そのものの開発・改造に市民運動が関与し、管理的な仕事を直接担い、自分たちの町づくりに積極的に関わりをもって、それが公民館的なセンター施設と機能を生み出してきていることに驚いた。

 いま、1945年7月から8月にかけて連合国側のポッダム会議が開かれたホテルに、しかも同じ時期に、泊まっている。由緒はあるが、古い「城」のホテルだ。投宿時にはメール発信ができず、またホテルを変えようかと相談したが、谷和明さんの奮闘により、なんとかこの「短信」を発信している。
 窓の外は森、その先は湖、冷気ただよい、物音ひとつしない。(7月31日夜)


(8) Aug/02/2000 ベルリン (公民館の風80号、2000年8月7日)
 <ポッダムからベルリンへ>

 予定通りにポツダムの日程を終わって、2日よりベルリンに移動した。かっての東西ドイツ分断を象徴してきたブランデンブルク門、そのすぐ近くのフンボルト大学ゲストハウスに滞在している。
 到着してすぐに、シェフター教授にお出でいただいた。聞きしにまさる親日家、それもそのはず、奥さんは日本人、ご夫妻で歓迎の夕食会をもって下さった。やはりブランデンブルク門のすぐわきのレストラン。ビールの杯を重ね、思わず議論もはずみ、この夜レストランの最後の客となったようだ。シェフターさんもまた「南」日本に関心があり、そのうちご一緒に沖縄を訪問する機会を用意する必要がありそう。
 ベルリンの前に、忘れないちにポツダム訪問の記録を記しておくことにしょう。谷和明さんが、ポツダムに立ち寄るスケジュールを組んだ理由は、ボンからポツダムに移った社会文化センター全国(連邦)連盟・事務局の訪問、あわせて旧東ドイツ時代の歴史をもつ市民大学(ホルクスホッホシュウレ)や「文化の家」のその後の経過を調べることにあったのだろう。社会文化センター・全国事務局は思いがけないかたちで、私たちの前に姿をあらわした。

・7月30日(日)シュロス(城)ホテルに投宿(55年前、このホテルでポツダム会議が開かれた)。ポツダムを歩く(市内、サンスーシ宮殿など)。
・7月31日(月)社会文化センター「ヴァッシュハウス」訪問。もと洗濯工場の再開発による。音楽、映画、造形、青少年活動など、年間利用者約10万、活発な活動の展開。あわせて「芸術の家」の話を聞く。「ヴァッシュハウス」の一角(小さな1室)に社会文化センター・全国事務局およびブランデンブルク州連盟事務局があった。事務局はいずれも休暇中。 全国連盟機関誌?「ユートピア生活」(1993)に日本の公民館が紹介されていることを発見。谷和明「KOMINKAN−GEMEINDEZENTREN IN JAPAN」(1993)、これはオーストリヤ「市民大学」機関誌?にも転載されたらしい。ポツダム旧「文化の家」、現在「リンデンパルケ」(菩提樹公園)へ旧東ドイツ時代の苦労話もきく。
・8月1日(火)ポツダム・ホルクスホッホシューレ(VHS、市民大学)訪問。所長メッケ氏の「講義」を聞く。財政緊縮のなかVHSの経営論をめぐって谷・メッケ論争?らしき場面あり。現在は、一定の職員体制を維持しつつ、これからの動きについてはまったく予測できないらしい。
・8月2日(水)ベルリン・フンボルト大学へ向かう。

 7月31日午後「ヴァッシュハウス」から「リンデンパルケ」までの移動は「芸術の家」(クンストハウス)のノットロフ氏が古い車で送ってくれた。ずいぶん遠回りして、旧東西ドイツの境界となっていたグリニカー橋を渡り、映画パークあたりを通ったが、途中(ポッダム会談の際に)トルーマン大統領が泊まった邸宅を教えられ、ここから広島への原爆投下命令を発したことを知った。あぁ、今年もまた、8月6日がめぐってくる。


(9) Aug/07/2000 ベルリン (南の風530号、2000年8月8日)
 <訪独団のベルリン滞在日程案>

 8月5日、谷和明さんが帰国したので、再びひとりぼっちの旅となった。朝と昼はまだしも、賑やかに楽しみたい夕食がひとりぼっち。その反面、一人だけの自由気ままな選択も可能だ。我がままのし放題という毎日が続く。これはこれでめったにあることではないのだから、一人を楽しむことにしている。
 この機会に、お世話になったフンボルト大学ゲストハウスを出て、しばらくホテル住まいをすることにした。5年前の訪独のときに泊まって、すっかり気に入ったところ。かって西ドイツ時代のベルリンの表玄関・ツオ(Zoo,動物園)の駅から5分という便利さ、大理石を張った古い造り、かなり豪華な朝食、などなど忘れがたく、今月19日から来独する一行(農中茂徳、上野景三、内田純一さんたち)にも予約している。(ハーデンバークク・ホテル、念のため、電話(ベルリン)030−882−30−71)
 ワイマール、トリヤ、それからフランスに出る以外はここを定宿にするつもり。誰か遊びに来てほしいよ。しかし難点がひとつ。古いホテルなので、部屋からメールを出せない。フロントに交渉して、直接に0発信なしで打っている。

 このように書いてきたら、あと2週間で出発する訪独一行のスケジュールのことが気になってきた。今回の短信(9)では、一行のドイツ滞在中スケジュール案を送ることにしよう(予定していた谷さんと歩いたベルリン記録、濃縮の数日のこと、は次回まわし)。
 ご参加の皆さんはもちろん、参加されない方々も(訪独する気分になって)ご意見など寄せていただければ有り難い。最終的には19日夜の打合せ(フランクフルト)で確定することにして・・・、とりあえず。*印はすでに確定(あるいは予約)したもの。
8月19日(土)空港到着・ホテル投宿後、しばしフランクフルト(マイン河畔)を歩く。10時ちかくまで
 明るいから大丈夫。*(泊)Frankfurt:Tulip Inn Hotel Excelsior(中央駅前)
 (49-69)256080, Fax25608141
8月20日(日)*ICE892(10:15発)にてベルリン(14:18着)へ。ホテル投宿後、ベルリン中心部を歩
 く(ウンターデンリンデン通り、ノイエバッヘ、フンボルト大学(焚書)、ブランデンブルク門など)
 *新装なった連邦議会議事堂のレストランでドイツ料理・夕食(シェフター教授夫人の推奨、かなり
 高めだが予約済み。豪華夕食会)
8月21日(月)ポッツダムを歩く(観光)か、郊外のザクセンハウゼン旧強制収容所跡に出かけるか、
 午後はベルリン市内(残された壁・ミュウーレン通り、外国籍市民が多い・クロイツベルグなど、ある
 いは・・)。*夕食、これも豪華イタリーレストラン、ブランデンブルク門近く。
 (同じくマダム・シェフターの推奨、すでに予約済み)
8月23日(火)ワイマールを歩く(ゲーテ、シラーの古典的文化の町、ワイマール憲法を採択した国
 民劇場、そしてナチス強制収容所跡・ブッヘンバルト)。朝早くベルリンを発ち、夜おそく帰る。
 第2案・ドレスデンを歩く(ワイマールより少し近い)。
 以上3泊のホテルは上記・ハーデンバーグ・ホテル:*Hotel Hardenberg Garni Joachimtaler
 Str.39-40 D-10623 Berlin  (49-30)882 3071, Fax (49-30)881 5170  
8月24日(水)エールフランスにてパリへ。ベルリン・テーゲル空港(ツオ駅前よりバスで30分前
 後)より。*AF1735便 13:00(ベルリン)発→パリ・ドゴール空港14:30着。

   −7月19日、ハイデルベルク−
◇「哲学の道」を歩めど疲れ果て思いのごとく哲学者にはなれじ
   −8月6日、旧東ドイツのまちかど−
◇公園の孤老の横にしばし休むわれいまベルリン老人となれり


(10) Aug/11/2000 ベルリン (南の風532号、2000年8月13日)
 <ベルリンの社会文化センターと地域施設>

 7月10日にこちらに来て、ちょうど1ヶ月が過ぎたことになる。そろそろ帰りたくなったでしょう、といったメールや電話などをいただいたが、初秋?のさわやかな気候を満喫し、ビールもワインも安くてうまく、まったく快調そのもの、猛暑の日本などに戻りたくない。朝夕はもう冷たく上着が必要、お日様も心なしか、夜9時過ぎるとゆらゆらと落ちる気配を見せるようになった。
 8月5日に谷和明さんが帰国して、その後は一人であちこち歩いている。8日は梅津由美子さん(シェフター教授・夫人)に誘われて、日本から来た若者たちとドイツの青年の交流・交換のバスに便乗し、1日ドレスデンに行ってきた。梅津さんはなんと20人を越える両国の青年たちの、約3週間に及ぶ旅の面倒をみておられて、正直驚いた。みんな(節約して)お昼は弁当持参、私は久しぶりに、梅津さん手づくりのおにぎりとお稲荷をご馳走になった。このときはちょっぴり東京を思いだし、永福・浜寿司のにぎりをつまみたくなった。
 ドレスデンは、大空襲の惨禍そのものであったフライエン(聖母)教会の瓦礫(戦後50年放置されていた)を分類・鑑定し、「世界最大のパズル」と呼ばれている修復作業がいま進行中。ほぼ半分は出来上がっている感じだ。カンパを呼びかけられ、工事中の地下で話もうかがったし、キリスト教徒ではないが、わずかだが浄財を箱に入れてきた。終日、いい気持ちだ。
 昨10日は、ヴァイマールのホルクスホッホシュウレ(市民大学)を訪問した。シェフター教授の紹介を得て、館長のディルマン氏に会うことが出来た。歴史と現状について話しを聞き、資料など頂いた。真峰伸哉くん(3歳からベルリン育ち、フンボルト大学法学部卒、日本のしかるべき大学・院への留学を希望している、お父さんはベルリン・ドイツ・オペラのヴァイリン奏者)が通訳をしてくれた。
 お礼に「ゲーテの家」の隣り、ゲーテも通ったというレストラン(白鳥亭?Zum Weissen Schwan、)で、「白鳥」とポテトの煮込みをご馳走した。旧東ドイツのヴァイマール、5年前に来たときよりずいぶんと町はきれいになったが、若者たちの失業率は20%ちかく、ネオナチに流れる傾向もあり、荒れる夜もあったという。真峰くんも先回ヴァイマール訪問のとき、暗くなって襲撃されたことがあったらしい。

 こんなことを書いていると、いつまでも話しは続く。記録が前後するが、先号(9号)でも書ききれなかった谷和明さんとのベルリンでの行動記録を簡潔にでも記録にしておこう。
8月2日
・ベルリン工科大学・マルブルガー教授(女史)を訪問。「社会的教育学」学説史に関する著作の
 翻訳について協議(谷さん)。
・フンボルト大学シェフター教授より、成人教育・継続教育の担当講義・ゼミの状況を聞く。財政難
 で大学スタッフの思い切ったリストラが始まっている模様。ベルリンの主要3大学いずれも同じよう
 な動きらしい。
8月3日
・「無宗派」(Paritaetisch、いずれの宗派・既成党派にも属さない独立的な)福祉・教育協議会?事
 務局を訪問。4日訪問の近隣社会会館が加盟する上部機関、1999年度年報などを頂く。
・文化イニティアティフ「フエルダーバンド」訪問。夜のコンサートに招いていただく。
・芸術クラブACUD訪問。応対してくれたユッタ・ブラバンド女史の話が衝撃的だった。彼女はもとも
 とフアッション・デザイナー、旧東ドイツの秘密警察(スタージュ)に4年間協力し、絶望して反政府
 運動に転じ、1979年〜80年にかけて投獄された経験をもつ。壁崩壊後、92年まで連邦・国会
 議員でもあった。現在は自主管理の施設を市民の文化的芸術的な空間(カルチャーハウス)へ
 創出していく運動を展開中。帰り際思わず私もカンパした。
8月4日
・セツルメント運動の系譜をひく社会的文化的地域活動施設・近隣社会会館の「シェーネベルク」を
 訪問。日本の公民館ときわめて近い地域の施設・事業体で、休暇中であったが、市民的な立場
 から、相当に濃厚なサービスを提供し蓄積してきている様子。「シェーネベルク」については、すで
 に1991年「ドイツ連邦共和国の公民館類似施設」(谷和明氏)の1事例として報告されている。
 それから10年経過して、さらに新しい発展の状況がまざまざと感じられ、きっと谷さんが新しい報
 告をしてくれるだろう。
・夜、前日招待を受けた「フエルダーバンド」主催のコンサート(給水塔下)へ。意欲的な挑戦、なか
 なかよかった。                        −未完−


(11) Aug/14/2000 トリヤ (南の風533号、2000年8月15日)
 <ひとまずベルリンから離れて>

 13日は終日DB(ドイツ鉄道)に乗っていた。ベルリンを朝10時に出て、西の端、ルクセンブルグとの境にちかい町トリヤに着いたのは午後5時半。日本にはたとえようもないが、しいて言えば東京から長崎へ、というところだろうか。
 車窓から見る久しぶりのラインの流れが懐かしい。圧倒的な水量でとうとうと流れ下る、その水面が夏の日射しにキラキラと輝いて、なるほど、父なるライン、とうたわれてきた意味を実感する。コブレンツからはモーゼルの流れにそって列車は走る。ところどとろにキャンプがぎっしり。モーターボート、水上スキー、子どもたちの川遊び、その間をぬって遊覧船が就航していく。みなよく楽しんでいる。
 トリヤは人口10万、2000年の歴史をもつドイツ最古の町、ローマの遺跡が町のあちこちに点在する。円形劇場も残っている。それにマルクスが生まれた町だ。5年前の訪独の際にも、1日がかりでその生家を訪ねたことがある。大聖堂の前、町の中央広場を見渡すと、観光客も少なくないようだ。
 私にとってのトリヤは、5年前までは、だから単なる観光の町、というイメージだった。なのに、なぜ今回またトリヤなのか。
 それは、「南の風」の初期メンバーでもあった村井光恵さん(和光大学卒、東京外国語大学ドイツ語科卒、今年春にスイス人の同級生ゼローム・ニコラ氏と結婚)の卒業論文(「ドイツ・トリヤの生涯学習」)が頭を離れないからである。
 村井光恵さんは青梅の出身、高校時代からスイスへ留学した国際派だが、和光大在学中にはトリヤ大学に1年在籍し(1996〜7年?)、トリヤの「生涯学習」的実践を調査して、学部生としては出色の卒業論文をまとめ上げた。
 論文のなかで、今でも鮮明に記憶しているいくつかのことがある。たとえば一つは、ドイツの「社会教育者」(ゾツィアール・ペダゴーゲ)のこと。二つは(フォルクスホッホシューレ・市民大学のことだけでなく)、オールタナティブな社会文化センター(Tuch・Fabric旧紡績工場)、それから多民族社会を背景とする多文化センターのこと、そして都市のなかでの大学(トリヤ大学は1970年代に再建・開学した若い大学)の役割、などなど。
 なかでも社会文化センターTu-Faは、いわゆる登録団体(20あまりの市民・文化団体が参加)として旧紡績工場を市当局とともに所有・管理し、これまでにない文化活動を展開している、運営にあたる職員の人件費は行政職員と同じ位置づけで保障されている、という。
 正直のところ、卒業論文だけでは、その具体的なイメージを充分に読みとることが出来ず、その後、谷和明さんたちの社会文化運動研究などにも触発されつつ、興味を抱き続けてきたのである。
 
 村井光恵・卒論から3年余、その後の動きはどうなのか、とくに社会文化センターTu-Faの実像はどんなものか、この目で確かめてみたい、というのが、今回トリヤを訪問した主な目的であった。それに、もちろん本場のモーゼル・ワイン(それも日本に出回っている甘口ではない、本格的なトロッケンの味)を楽しみたい、というのがあと一つの大きな目的。
 ホテルでは、村井さんの友人、ミリアンさん(トリヤ大学・日本語科、9月から3ヶ月ほど日本に来るらしい)が迎えてくれた。早速、美味しいワインで食事。
 村井さんの卒論のことなど話して、案内役をお願いする。しかし今まさに夏休み真っ最中、どんな数日となるか、まったく予測はつかないけれど・・・。

  −7月29日、ノイエンガンメ(ハンブルグ郊外、強制収容所跡記念館)−
◇チョウ遊びツバメ舞いとぶこの土地に呻きつ倒れし人ありしとは
◇その白きあまたの布に死者の名をきざみて祈る沖縄のごと


(12) Aug/15/2000 フランクフルト (南の風534号、2000年8月16日)
 <グリュンネバルトの錆びた鉄路−8月15日に想う>

 5年前の訪独のときも、8月15日にはドイツのどこかにいた。ちょうど戦後50年ということもあってか、テレビ(とくにBBC)では、繰り返し第二次世界大戦の、とくに対日戦争の記録を映し出していた。その背景に流れる音楽は「クワイ河マーチ」だ。日本では、この歌の歴史的な意味をあまり考えず、軽快で楽しい行進曲と受け取られているようだが、ヨーロッパでは日本の戦争責任を糾弾する際の強烈なバックミュージックになっていた。ロンドンからのその放送を、ヨーロッパ中が見ていた。
 今回は、あまりテレビを見る余裕もないが、8月15日向けの特別番組はとくにないようだ。しかし、あらためて、日本から遠く離れて、戦争のこと、国家的な責任のこと、歴史を伝える世代的な責任、などのことをドイツで考えさせられている。

 ベルリンのSバーン(郊外電車)7に乗って、ポッダム方面に向かい「ユダヤ人の最終(抹殺)計画」会議が開かれた「ヴァンゼー」(湖に面する閑静な館)の駅の、その二つ手前に「グリュネバルト」という静かな駅がある。
 まわりは実に広大な「緑の森」、かっての王侯たちの狩り遊びの場、いまは市民にとっての憩いと緑に親しむ何よりのフィールドになっている(…とガイドブックには書いてあるはずだ)。
 この周辺は高級住宅地、そして別荘地でもあった。富裕なユダヤの人たちも少なからず住んでいた。皮肉なことにヴァンゼー会議の決定にしたがって、このグリュネバルト駅17番ホームから多数のユダヤ人(約5万人)が貨車につめこまれて運び出された。
 行き先はアウシュビッツ、ワルシャワ、ザクセンハウゼンなどなど。1941年10月18日、1251人、から始まって、45年3月27日、18人、で終わっている。アウシュビッツがもっとも多いようだ。ときには毎日、あるいは1両日おきの記録が、細かな日付と人数と行先を含めて、ホームの端から端まで鉄板に刻みこまれている。
 緑の森をわたってくる風の音がひょうひょうと鳴り、訪れる人はわずかだが、しばし粛然として立ちすくむ。鉄路は錆びていた。当時は、毎夜の列車運行にレールは冷たく光っていたに違いない。錆びた線路の進行方向に、DB(ドイツ鉄道)が「この先に線路(Bahn)は敷かれていない!」という標識をたて、事実、そこで鉄路は途切れている。この17番ホームの入口には、同じくDBが組織(AG)として「1941−45年、ドイツ帝国鉄道の列車で死の収容所に運ばれた人々を忘れないために」という追悼の言葉(1998年)を掲げている。

 ドイツはつらい国だ。強制収容所跡の記念館といい、政治犯処刑の追悼碑(プレッツエンゼー記念館)といい、このグリュネバルト駅といい、かってのナチス独裁と戦争と惨劇の記録を「鉄の板」に彫り込むようなかたちで、後世に残していかなければならない。そうでなければ世界から許してもらえないだろう。そして、この歴史的な犯罪を決して忘れてはならない、という強い国民的な意志がその背景にあるのだろう。だから、なすべき謝罪を怠らず、必要な保障に踏み切り、事実を後世に刻みこむ努力を重ねているのだろう。
 日本はどうか。ようやく「侵略」の事実を認めつつ、しかし時にそれをごまかし、甚だしきにいたっては「聖戦」などと称する人たちも現れている。私たちは世界を旅しながら、とくに東アジアの人たちと顔を合わせるとき、つらい思いをし続けなければならない。私もそうだが、私の次の世代も、また愛する孫たちも、いつまでも肩身のせまい思いでいなければならないのか。
 だが、日本はナチスのような大規模なホロコーストはしなかった、と言う人がいる。5年前、TOAFAEC研究会でアウシュビッツの報告会を開いたとき、旧満州・731部隊の犯罪を追求されている山辺悠希子さんが「本質はまったく同じです」と断言されたことを思いだす。

  −8月5日、ザクセンハウゼン (ベルリン郊外、強制収容所跡記念館)−
◇「カイネ・ホト!」鋭く言いしそのまなこ光りてにらむ女看守のごと  *カイネ・ホト→写真とるな
  −8月6日、グリューネバルト駅17番ホーム−
◇鉄路錆びその先途切れし空白に一すじ明日の展望を見る
  −8月12日、ヴァンゼー会議記念館、歴教協の訪独団と出会う−
◇教師らのまなこは厳しホロコーストの決定なせし館にあれば


グリュネヴァルト駅17番ホーム「アウシュビッツへユダヤ人 1000人」の刻字(6月17日)


(13) Aug/21/2000 ベルリン (南の風535号、2000年8月23日)
 <日本からの訪独団一行を迎える>

 先信12号(8月15日、トリヤ→ベルリン)から、早いもので、6日が経過している。「南」も「公民館」どちらの風も、それぞれの編集長が東京を離れて発信できないというので、つい当方も送信を遠慮していた。この間にドイツは、突然に残暑厳しくなり、そのなかで連日ロシヤの沈没原子力潜水艦の経過が報道されている。どうも絶望的らしい。
 15日夜にはトリヤからフランクフルトへ移動した。19日夕、日本からの一行4人(上野家族、農中茂徳くん)を、20日早朝には、さらにその第二陣・東京からの3人(内田純一、萩原敬子、染谷美智子の皆さん)を迎えて、ここでようやく予定のメンバーが勢揃い。東京グループは、最終的に期待していた大韓航空のチケット(これがいちばん安い)がとれず、1日遅れ(実質は12時間遅れ)のキャセイ航空で到着した。皆さん、ご苦労さま。元気いっぱいの顔ぶれ、久しぶりに懐かしく、少々疲れ気味だった当方も元気を取り戻したところ。
 しかしその前後からなぜか空模様は思わしくない。やけに蒸し暑い。19日深夜には雨が降り、雷鳴も轟いた。20日は、フランクフルト到着早々、揃ってICEでベルリンへ移動したが、夜には雨模様、いま(21日早朝)また雷が鳴っている。せっかくの訪欧だ、なんとか涼しくさわやかな毎日を願わずにはいられない。

 19日夜は、フランクフルト・レーマー広場の旧市庁舎ケーラーハウスで乾杯。そのあと、無理をおしてこの旅に参加した(らしい)農中くんと深夜のフランクフルトを歩く。もう人かげも少なくなった時間に、照明に美しく映えるアルテオペラから、ゲーテやシラーの像が立つ緑の公園の小道をを散策しつつ、久しぶりに二人でドイツや日本のことなど、あれこれ語りあった。夜の公園には野ウサギが走りまわっていた。ホテルにもどったのは、12時をまわっていた。
 20日午後には、8人でもうベルリンを歩きまわっていた。(東京から着いたばかりの3人には、まったくフランクフルトを案内できず、残念至極だが。) ツオ駅前・廃墟のままの記念教会から始まって、100番バスに乗りブランデンブルク門へ、それからウンターデンリンデン通りをひたすら歩く。よく歩いた。
 ときに立ち止まり、みなで説明をしあったところ。フンボルト大学の「焚書」あと(空の図書館)、ノイエバッハの「子の死を悲しむ母」像(ケーテ・コルビッツ)、教会に入ってみたいという声あり壮大なベルリン大聖堂へ、まだ残っていたマルクスとエンゲルスの像、赤い市庁舎、などなど。
 そして夕食に予約をしていた(新装の)ドイツ連邦議会議事堂・屋上のレストランへ。あいにくの空模様で眺望がさほどでなく、ちょっぴり残念だが、ドイツ料理とは思えぬ繊細な味わいの大きな皿をそれぞれ一つずつ注文をして、まずは満足。こうしてドイツ訪問団一行の旅は始まった。


(14) Aug/24/2000 パリ (南の風536号、2000年8月25日)
 <ベルリンからパリへ>

 この「短信」10号で、フンボルト大学・シェフター教授の紹介をもらってヴァイマールのホルクスホッホシュウレ(市民大学)を訪問した(8月10日)ことを書いた。その記録をまとめて「風」の皆さんにお伝えしたいと思いながら、そのいとまもなく、いま日本からの訪欧団を迎え、連日の対応に追われている(これは言いわけ)。ヴァイマール記録はそのうちお送りすることにして、とりあえずはその後のベルリンでの(先便以降の)足どりをご報告することにしよう。
 ベルリンでの第2日(21日)、案内者「ぶんじん」としては「地球の歩き方」などのガイドブックには載っていない、しかし、あとまで記憶・印象に残る、これがドイツ(ベルリン)だというようなところを案内したいと一晩寝ないで?考えた。
 一つは「短信」(12)に書いた「グリュンネバルトの錆びた鉄路」、二つには1933年の「水晶の夜」事件以降にベルリンを追われたユダヤの人たちの悲しみの軌跡、この歴史を「決して忘れない」と刻んでいる「シナゴーグ」と旧ユダヤ系ベルリン市民の「ゲマインデ」跡。小さな碑の上に重ねられた小石が胸を打つ。
 そして午後は、旧ベルリンの東西の壁、いま残っているところ2カ所歩いて、(ガイドブックに紹介されているが)壁の博物館(チャリーポイント)にたどりつく。5年前に訪問したころから比べると、ずいぶんと広くなった。しかし、ドイツ語が読めない日本人にとってはなかなか厳しい展示。
 夜はブランデンブルグ門近くのレストランへ。日本人シェフ・青木さんがいい料理を出してくれるという話(梅津由美子さん)を聞いて予約していた。噂にたがわず、満腹・満足の一夜。
 22日は早朝からヴァイマールへ。ブッヘンヴァルトなど。(そのうち報告する予定)。

 そして23日午後、ベルリンからパリへ移動した。なんとも慌ただしい旅程だが、欧州なみのバカンスをとれない日本人としては短い滞在も止むを得ない。
 これでもいい方だ、わずか10日の日程のなかで、その間にラインを越えて、ベルリンからパリへ飛ぶ。歴史的にいくつもの相克と葛藤を重ねてきた両国、その首都の間をわずか1時間半の空の旅。二つの都市がまったく同じ国のように結ばれていることを実感しながらドゴール空港に降り立った。
 両国間の協定によりパスポートのチェックさえない。ちょうど東京から福岡へ飛ぶのとまったく変わらない。しいて言えば機内食が出る、ワインも飲める、そんな国際便らしい違いはあるが、国境を越えるという緊張を感じさせない空の旅。歴史を想いつつ、妙に感動しながら1時間半を楽しんだ。アジアで、国を越え海を越えて、こんな旅がいつの日に実現するのだろうと思いながら・・・。
 ドゴール空港では、パリ遊学中の末本誠さん(神戸大学)がいつもの笑顔で迎えてくれた。このときなぜかヨーロッパでなく、アジアのどこかの空港に、あるいは沖縄の那覇空港にでも、着いたかのような錯覚をおぼえた。


(15) Aug/29/2000 パリ (南の風538号、2000年8月31日)
 <フランスからそれぞれの帰国>

 いま、パリからベルリンに帰ってきたところ。蒸し暑かったパリと比べて、ひんやりとした冷気が心地よいベルリン、なんとなく懐かしい。いつものハーデンバーグ・ホテルに無事落ちついた。遅い到着なのに、いちばん奥の静かな部屋を確保してくれていた。我が家に帰ったような気分。
 日本に向けて帰国の途についた独仏訪問団の一行もまだ空の上だろう。皆さんお疲れさま。誰ひとり病気もなく、無事に予定通りのスケジュールを終えることができて、まさに肩の荷をおろした思い。なによりも1週間つきっきり、ご家族あげて私たちを歓迎していただいた末本一家に感謝!
 こんどの1週間のフランス訪問には、レディング(英)から岩本陽児さんが参加し、とりわけ賑やかな旅となった。この人はメールだけでなく実によくしゃべる。そしてよく飲む。ホテルでの深夜バーも、彼がいるから開いたようなもの。正直のところ、別れてほっとしている? 今晩は静かな夜を迎えられる。
 また28日(フランス最後の夜)の夕食会には、驚いたことに、パリに到着したばかりの岩橋恵子さん(鹿児島女子大学、「フランスのエコミュージアム」筆者)が加わってくれた。9月中旬までの滞在らしい。豪勢なメンバーでの夕食会となった。皆さん、どうも有り難う!
*こんどの旅に参加した農中茂徳氏に本通信(先便・14号も含めて)を誰かコピーして送ってほしい。
 他のメ ンバーは皆メール送信可。
 フランス滞在のきちんとした記録は、きっと上野くんや内田くんが書いてくれるだろう(と期待している)。この短信では、私なりにこの1週間、考えていたことを、とりあえずいくつか断片的に・・・。
1,ドイツとフランスとは、空の旅では(パスポート・チェックもなく)まったく同じ国のようだと先便で
 書いたが、やはり相当違うぞ。それは当然のことだ!
  まずフランスではおいしいビールがなかなか飲めない。フランスの地下鉄、RER(高速郊外鉄
 道、ドイツのSバーンにあたる)の非人間的な改札には参ったよ。ドイツの無改札(人間への信頼
 感を前提にしている)にこの1ヶ月半慣れてきたので、とくにそう感じた。
  ときに外国人に生意気なフランス野郎がいる。フランスは案外と激しい階層社会なのではない
 か。3K労働で働いている外国人の無表情が気になったよ。
2,エコミュゼは今ほんとに活力をもって動いているのかしら?
3,エコミュゼの活発な地域(住民による地域づくり運動が活発?)の政治的風土はどうなんだろう。
 ドイツの場合は、社会文化運動が活発な地域はSPD(社会民主党)や緑の党(いま政権党)が
 はっきりと優勢だ。
4,5月革命など60年代末から70年代初頭の学生運動は、市民運動そして政治運動にどうつな
 がっているんだろう?フランスのエコミュゼも、ドイツの社会文化運動も30年前の学生運動の影
 響をうけていると思えるが、さて日本はどうか。
5,フランス独自の成人教育、社会文化運動の地域的な実相と出会いたい、などなど。

 さてこのメールは今ようやくベルリンに帰ってきて出している。それも部屋(古いホテル)からは出せず、交渉して、ホテル・フロントの電話線に直接つないで発信している。
 パリのホテルからはついにだせなかった。言葉の問題もあるが、英語で交渉したが「ノン!」と繰り返し断られた。止むをえずノートルダム寺院近くの末本宅から1本出して(24日の朝)、それから6日が経過してしまった。エコミュゼ見学のため、次の日に泊まったシャロンのホテルは実にいいホテル、ここは部屋から直接発信できたのだが、残念ながらこのときパソコンを持参していなかった(もう諦めてパリのホテルの荷物のなかにしまいこんでいた)。いま小生のホテルの評価は、パソコンへの対応で決まっていく。パソコンの旅の実験は続く。9月8日からのエジプトの旅では、さてどうなるんだろう。


(16) Aug/31/2000 パリ (南の風540号、2000年9月2日)
 <パリの1日、つらい経験>

 パリから帰った翌日(30日)、ベルリン・ツオの駅前で久しぶりに朝日新聞を手に入れた。1週間ぶりだ。こういうとき奇妙に知人の訃報に出合う。8月のある日には、井上光洋(学芸大から大阪大教授)さん、この日は岡本包治(立教大から川村学園女子大教授)さん。ともに激論をかわしたこともある仲だ。とくに岡本さんとはほぼ同じ世代だけに、妙に感傷的になる。
 フランス滞在中、日本の新聞を見つけることが出来なかった。パリ北駅も東駅にも出かけて探したが、ダメ。主要な駅は国際的な十字路だから必ずあるはずだと思っていたのに、パリはどこで扱っているのだろう。あらかじめ情報を仕入れて動くべきだった。
 私はヨーロッパの駅が大好き。単に列車に乗るだけの場所でなく、社会的かつ生活的な便宜をさまざま提供してくれる。困ったときは主要な駅に行けばなんとかなる、食事も買物も銀行も郵便局も、なんでもあるよ。とりわけ(プラットホームを含めて)出入り自由というのがいい。一人旅で寂しくなったら、駅をぶらぶら歩きまわる。フランクフルトの中央駅など何時間いても飽きない。
 「ドイツ社会文化運動」を特集した手紙・座談会(共同探求通信15、本「短信」2に紹介)で、誰かがドイツの公共交通機関で一切の改札がないことに「鮮烈な驚き」を表明していたことを思い出す。同感だ。無改札は、市民相互の信頼の上に「市民が社会をつくっている」ことの具体的な表れなのではないか、それに対して日本の場合など、相互不信感の上に国家と社会の管理システムを縦横に機能させているのだろう。
 実はフランスの都市にも、市民的「成熟」、相互「信頼」的な風景を期待していた。しかし少なくとも交通機関に関しては、日本とよく似た管理的な仕組みがむしろがっちり出来上がっているのではないか。失望した。一つの例として、パリの1日、小生の「つらい経験」をご紹介に及ぼう。

 今回のフランス訪問の最終日(29日、一人だけの自由時間)、午後6時ドゴール空港から出発するまでの貴重な1日、どう過ごすか。少なくとも4時には空港に到着する必要がある。
 まず未見のヴェルサイユに出かけることにした。これが失敗のもと。宮殿を外からだけでなく、中に入って王朝文化の極致を見るべきだという助言にしたがい、行列に加わった。入場するまで2時間。これはつらかった。貴重な時間なのに列は遅々として進まない(なんと長い行列の受付を一人でのんびり対応していた)。途中でなんどか止めようと思ったが、せっかく来たのだからという助平根性が災いした。ようやく宮殿に入って、おどろおどろした「文化」はまったく楽しくない。大急ぎでまわって、外に出たらもう2時だ。ホテルに預けた荷物も取りに寄らねばならぬ。時間がないぞ、昼食をとる暇もあらばこそ、帰りのRERに飛び乗った。
 実は「リュクサンブール」駅から乗るとき、モビリスとかいう1日乗り放題のチケット(ドイツではこれが楽しい)を買えなかった。言葉のせいだろうが、小生の気持ちでは「売ってくれなかった」。結局、往と復で2枚のチケットを買い、往のヴェルサイユの駅では何事もなかったが、復のリュクサンブール駅では、どうしても改札が開かない。かなり立ち往生。ようやく駅員を見つけて懇願し、厳重に調べられて、改札を通してくれた。やれやれだ!
 ホテルで荷物を取り、再び鬼門のリュクサンブール駅へ。余裕の時間がなく気はあせる。空港まで1枚買って、せまい改札のゲートに荷物をくぐらせ、やっとの思いでホームへ。そこで(これは小生の失敗だが・・)いま買ったばかりのチケットがないことに気づく。ガチガチの改札に荷物を通したとき、どこかにふりまいたらしい。何度さがしてもない。ここは外国だ。無賃乗車の汚名をおびてはならじ、とまた荷物をもって上まであがり、切符を買い直そうとしたが、まったく外に出ることができない。厳重な関門だ。
 ままよ、時間がない、無賃乗車のかたちでようやく空港ターミナルへ。日本でいえば着駅精算でいこう、罰金を取られてもよい、誰かに事情を話して、など思いながら空港・改札出口へ、そこで駅員を探すが、誰もいない!
 まったく無人の改札、頑丈な関門、しかしチケットはない。状況をお察しあれ。止むを得ない、背に腹はかえられず、などつぶやきながら、やっとの思いで荷物を改札の先に投げやり、当人はパソコンかかえ、腹這いになって改札バーをくぐりぬけた。国辱ものの図であったに違いない。
 しかし、実は小生、ユーレイル・パスをもっている。ドイツではSバーンすべてこのパスで無料。だが、パリではこのパスを見せて通るゲートがない。結果的に、無賃乗車なぞしてないぞ、とひそか自らをなぐさめている。
 ようやく間に合ったエールフランスのベルリン便、機内でワインを飲ませてくれたので、どうにか気持ちは落ち着いたが・・・。

 −8月29日、パリ、地下鉄にて−
◇アフリカの大地の色かその肌の黒く光れど目に笑みはなく
◇その重くきしむ改札もの悲し人の自由を奪うが如く


(号外) Sep/05/2000 萩原敬子 (南の風543号、2000年9月7日)
 <ボーヌのホスピスを見学して>
  Hospices de Beaune H^otel−Dieu
(オスピス・ド・ボーヌ オテル・デュー)

 訪欧団に参加し、8月27日はブルゴーニュ地方のBeaune(ボーヌ)でH^otel−Dieu(オテル・デュー)を見学しました。随分と以前、看護の教科書でオテル・デューについて読んだことがあるような・・・と思っていましたが、やっぱりそうでした。帰国して、看護史をひっくり返し、他の本もめくってみたので紹介します。随分長くなっちゃった。

 見学したオスピス・ド・ボーヌのオテル・デューは、1443年に宰相ロランによって建てられた。当時は英仏百年戦争(1338ー1453)の影響でボーヌは貧困と飢饉の状態で、市民の士気を高めるために「貧しき者」のためのホスピスを建設するという理由による。1971年から病院の機能は別の施設に移ったが、それまで尼僧により病人の世話がされた。施設には病人を収容した「貧しき者の広場」とその天井の装飾、チャペル、壁絵画、厨房、薬局、衝立画などが展示されている。外観はゴシック様式で、赤・オレンジ・緑・青の七宝の屋根瓦が幾何学模様に配されている(美しい蛇の皮の模様やセーターの模様を想像させ、病人を収容した陰気な感じはない)。
 私はオテル・デューを固有名詞と思っていたが、修道院のホスピスは「オテル・デュー」(神の宿、現在のフランス語では市民病院)と呼ばれたのだという。仏和辞典でHospices(オスピス)を調べると、「救済院」「病院」の意味がある。またH^otel−Dieuの市民病院という語源は、元は寺院付属であったところからだという。ホスピスの語源はラテン語のホスペスがホスピテュウムへ、ホステル、オテル・デュー、ホスピスへ、そしてホスト、ホステスへ、ホテル、モーテル、ホスピタルへと展開していった(以前これを聞いたとき驚いた)。  中世のホスピスは当初、病人・瀕死の人ばかりでなく、空腹の旅人、妊婦、貧しい人、捨て子、ハンセン病患者にも門が開かれていた。その行為を支えていたのはホスピタリティ(温かいもてなし)であり、患者の病気を治すというよりは、寄り集まってきた人々を仲間として保護し、慈しみ、元気にさせる憩いの場であった。やがて、病人の世話をする施設へと移っていく。そこで僧医とともに人々の世話をする中心は神のしもべのシスターで、祈りが主要なサービスであった。
 このオテル・デューの伝統は後のホスピス運動(ホスピス・ケアを普及する運動で、末期の状態にある患者と家族が、死までの残された時間に意味を見つけ、その時間を十分に生きることを可能にするための思いやりのある広範囲なケア)のカトリック系のものにつながり、プロテスタント系のものとしては1967年にロンドンに設立されたセント・クリストファー・ホスピスがある。二つの流れのうち今日では、セント・クリストファー・ホスピスの思想と実践が、世界のホスピス運動に強い影響を与えているということである。
 資料にしたサンドル・ストダード『ホスピス病棟から』、時事通信社(1994年)には、私たちが見学したオテル・デューを取り上げており、……「病人の身体と精神の衛生」は、ボーヌのホスピスでとくに留意されたことだった。そこでは見事な芸術品、建造物、立派な図書館などが、清潔なリネンや十分な食事と同じように、病人や死の床にいる人びとに提供されたのである。
 また注釈には、……貴族の別荘のような外観で、医療施設としては世界中でもっとも美しく設計されたものだろう、とあった。

 現在は建物と付属品しかないので、どんな活動が病人に対しされていたのかはわかりません。実際生活するには、「貧しき者の広場」とは、つまりは巨大な大部屋にベッドが連なっているのだから音、声、におい、室温、プライバシーなどの問題などもあったと思います。近代的な設備の病院の採光に比べ、なんて暗い室内なんだろうとも思いました。でも、暗いから突き当たりのチャペルの宗教画の暗示力も強くなりそうだし。蛍光灯の、目が痛くなるくらいまぶしい白い光の下に死をさらけ出す必要もないんですよね。これまで私が病院で立ち会った死の場所とは大変異なっていたし、ここでは死が最後まで自分のもので、自分の生から切り離されず、終わりに臨める場だったんだろうと思いました。(これは残った建物からの私の想像です。本当に大切なのは展示物の立派さだけでなく、どんな活動が病人にされていたかということですが、それはショップで買ったフランス語とドイツ語の冊子を辞書を手に訳さないといけないようです。)


(17) Sep/03/2000 ベルリン (南の風542号、2000年9月5日)
 <ハノーファーの1日>

 今日は日曜日、ドイツ滞在の最後の日曜日となった(次はもうカイロ)。いまハノーファーで万博が開かれている(6月〜10月)。ドイツでは初めての万博、そのためにだけ来独した人たちもいるわけだから、前から気になっていて、のんびり行ってみよう、ということにした。
 ICEでベルリン・ツオの駅からハノーファーまで1時間半あまり。乗り換えて万博の会場前までSバーン。駅も街並みもきれいになっている。各国の旗がはためく。入場口まで来て、「未来」(テーマ)を標榜した会場の飾り付けが(小生には)やけに唐突、違和感そのもの。(ヴェルサイユのような−前号参照)行列こそないが、なんだか雰囲気がなじめない、こんな感じで各国の見世物小屋をまわらせられるのか、と急にいやになった。
 入場料は69マルク(4000円弱)、あと1時間で半日券(49マルク)という。待つのもいやだし、日本円だと決して高くはないのだろうが、マルクの感覚ではいかにも高価。それより美味しい食事を2〜3度した方がましだ。そのまま中央駅に引き返して、ハノーファーの街を歩き始めた。
 
 駅から5分ぐらいのところにオペラハウスがある。その横の公園の一角にユダヤ人の鎮魂碑があった。おそらくそこに住んでいて姿を消したであろうすべての人たちの名、年齢が刻んである。またしばらく歩く。市立図書館があった(当日は休み)。その壁に小さく次のように刻まれた碑文があった。
 「1929〜31年、カール・エルカルテを初代館長として開館され、(一部略)1955年、1974年に増築された。1943〜45年、ゲシュタポの占拠するところとなり、同ハノーファー本部となる。ここから、1945年2月19日までに、ハノーファー・ユダヤ人は最終処分に送り出された。」
 図書館の入口には、開館時間が次のように書かれている。(なにごともなかったかのように、さりげなく)月・火・木・金 11〜19時  水・土 11〜16時  
 市の中心部の南に、福岡の大濠公園を大きくして長くしたようなマッシュ湖がある。そのまわりを市民がたくさん遊びにきていた。白鳥も群れていて美しい。しかしもう肌寒く、日曜日で着飾ったドイツのおばさんたちのなかにはコートを着て、襟をたてている人もいる。もう秋も終わりに近づいたかのようだ。
 中心の広場に面するマルクト教会(14世紀からの歴史をもつ、100mの高い塔)では、ケーテ・コルビッツ作「母と双子」のブロンズを真正面にして、30点ほどの「失われたパラダイス」企画展が開かれていた。これをまわりに配して、「暴力を克服する」(Gewalt Ueberwinden)趣旨のコンサートの準備がすすんでいた。しばし若いグループのリハーサルを楽しんだ。
 広場のレストランで遅い昼食。もちろん土地のビールも。泡いっぱいのGinbecker というのが出てきた。柔らかく、ゆったり、さわやか。ビールもなかなかだよ。「ワインについて語ることは、良い生活のたしなみ」と誰かが書いていたが、やや高級志向の気分があって気になる。そうかな、南の風らしくないな、ワインもいいが、地ビールも、泡盛もいいぞ、などと一人で論じ立てながら(一人しかいない!)、ビールを楽しんだ。
 ビールの白い泡をみると、オリオン・ビールの泡の効用を語ってやまない島袋正敏を思いだす。やはり、一度は彼といっしょにドイツのビールを飲みにこよう。(今回、ずいぶん誘ったが、実現せず。)
 ある都市の、歴史の重さと、社会的な「成熟」を実感した日曜日。


(18) Sep/05/2000 ベルリン (公民館の風84号、2000年9月5日)
 <ヴァイマールのフォルクスホッホシューレ(市民大学)−その1>

 ヴァイマールは、人口約6万、こじんまりした小都市、ちょうど国立と同じ人口規模である。しかし世界が注目してきたいくつかの歴史的な特徴をもっている。かってのゲーテやシラー(いずれもここで暮らし、ここで亡くなった)に代表される古典的な文化の町、近代デザインの潮流をつくってきたバウハウス発祥の地、1919年ヴァイマール憲法制定とドイツ最初の共和国の誕生、そしてナチス時代(ブッヘンヴァルト強制収容所)と戦後の東ドイツ時代の経験など。そんな歴史の町でどんな民衆教育・社会教育が、たとえばフォルクスホッホシューレが、展開してきたのだろう。
 今回の訪独中に、ヴァイマールのフォルクスホッホシューレには2回行った。一度は、シェフター教授(フンボルト大学)に紹介をお願いしての正式訪問(8月10日)、二度目は、訪欧団が強制収容所跡(記念館)を訪れた際の見学。このときは正式のアポイントメントはなく、上野(佐賀大学)・内田(東京都立教育研究所)両氏などを案内しただけ。
 フォルクスホッホシューレは、ヴァイマールの中心のゲーテ広場から数分のところにある。1999年に「ヨーロッパ文化都市」の指定をうけ、州や市からの援助もあり、改装し、また新しい施設を購入した経過があり、なかなか美しい施設である。

 ドイツの公民館的なもの、どんな歴史と実体があるのか、それを訪ねるのが今回の旅の大きな目的。決してビールを楽しむだけに来ているわけではない。もちろん公民館と同じものがドイツのまちにあるわけはない。しかし、それと共通するものはなにか、どんな特質と相違、あるいは共通性があるのか、興味しんしんの旅を続けている。私の案内人は、東京外国語大学・谷和明さん。彼は8月5日に帰国してしまったが、振り返ってみると、しっかりと主要な流れを私に出合わせてくれたように思う。
 一つは言うまでもなく、民衆教育の運動のなかで胚胎してきたフォルクスホッホシューレ(市民大学)の歴史とその後の活動、二つはセッツルメント運動の系譜をひく戦後の無宗派・無党派・独立系の地域福祉的活動と施設(近隣社会館など)、三つは1970年代以降の、学生運動の影響を受けた都市部の社会文化運動(「自主管理」思想に根ざす)とそのセンター活動、四つにはフランクフルト市などに典型的にみられる市民館(ビュルガーハウス)の機能など。
*これらについては、谷和明氏がすでにいくつか紹介している。(文献略)

 日本の公民館との基本的な違いは、これらが19世紀以降の民衆教育運動の、あるいは1970年代以降の学生・市民運動の、下からの運動的な背景をもっていること、したがって、フォルクスホッホシューレなどが、基本的に非国家的な伝統と性格を形成してきていること、が重要だろう。それを法制的に(部分的に)位置づけ、あるいは行政的に承認し、認可・助成してきたという歴史をもつ。たとえばワイマール憲法も1条を設け、フォルクスホッホシューレ等は行政的に「振興されなければならない」と規定した(と記憶している)。
 したがって、その成立そのものが公的機関として法制的に位置づけられ自治体によって設置されてきた公民館の制度とは、大きな相違点をもっていることになる。
 
 こんな風に書いていくと、論文風になってしまう。いずれ正確には関係文献を見ていただくことにして、以下、具体的に、ヴァイマール・フォルクスホッホシューレについての聞き書きをお送りしよう。(要点のみ)
 とき:8月10日、館長・ディルマン氏に聞く(通訳は真峰伸彦・フンボルト大学法学部、にお願いした。短信10号を参照。)ところ:ヴァイマール・フォルクスホッホシューレ(4階、館長室)
 <歴史>フォルクスホッホシューレは、チューリンゲン州ではイエナ市が早く1918年に創設、その3ヶ月後にヴァイマール市で始まった。いづれも、市民の活動としての性格をもち、市民自らが市民のために取り組んできた。
 <資料>1918〜20年については、若干の資料が残されているが、20年から33年(ちょうどワイマール憲法による共和国時代)までの資料はない。去年が創立80年にあたるので記念誌をつくった。
 <ナチス時代>1933年ヒトラー政権により、フォルクスホッホシューレは解散させられ、ドイツ・ハイマート(故郷)学校と改称され、自由な教育を否定され、ナチス政策の道具にされた。
 <戦後、東ドイツ時代>1946年にソ連はフォルクスホッホシューレの復活を指令。ナチの時代ほどではないが、政治的に利用されてきた。共産主義的な思想啓蒙の場であった。1989年まで、半年ごとにプログラムが改訂され、現物がこのように(ただし分けてもらえず)残っている。(続く)


(19) Sep/07/2000 ベルリン (公民館の風85号、2000年9月9日)
 <ヴァイマールのフォルクスホッホシューレ−その2>

 実は、シェフター先生(フンボルト大学)からお願いしていただいた日は、私たち(小林と真峰くん)が訪問した日と1日ずれていたらしい。先方にはだから突然の訪問のかたちになってしまった。それでも日本からはるばる来たというのだろう、館長・ディルマン氏は快く応対してくれた。そしてさかんに「前に日本からの訪問者がいた」といって、名刺をさがすが出てこない。谷和明さんかな、あるいは・・・。
 前号に引き続くフォルクスホッホシューレについての聞き取り記録(要旨)・続、である。

○聞き書きー館長・ディルマン氏に聞く−承前(18号)−
 <東西統一の影響>ヴァイマールのフォルクスホッホシューレは以前から評価がたかく、これまで(たとえば1986年)に賞を受けたこともあったが、統一後はヴァイマール地区の二つのフォルクスホッホシューレは合併し、機構をまとめ、それが発展にもつながる。組織だけではなく、社会主義体制の崩壊とともに内容も大きな変化があった。東独時代より、コースは多数、多彩になった。
 職員体制は大きく変わった。ヴァイマールの場合、合併もあり、当時の館長は交代し、1992年には西独からの新しい館長が就任した。当時、チューリンゲン州内で30のフォルクスホッホシューレがあったが、統一直後はそのうちの2校だけ館長が交代した程度であった。しかし、現在は(年齢的なこともあるが)当時の館長は誰一人残っていない。私(館長)自身は、1992年に西側から就任した。
 <法制的基礎>チューリンゲン州は統一後の1992年に「成人教育法」を制定した。フォルクスホッホシューレに対する州からの支援を求めていく上で重要な法的基礎である。州内で、現在は23のフォルクスホッホシューレがある。(他の州のように)「継続教育」という言葉で法制化はなされていない。継続教育の概念は「成人教育」の一部であり、職業的な継続教育という意味あいが強い。
 <財政>大きく三つの財源から成る。1998年の場合、州からの援助が41万マルク、市からの援助が22万マルク(残念ながら一番低い)、自分たち(フォルクスホッホシューレ)の収入(受講料など)が48マルク。授業時間数では1993年度に約1万時間の開設であったものが、現在は1万6千時間となり、これが州からの援助が拡大する根拠になっている。(概要、プログラム一覧、統計、財政など資料入手。)
 <施設配置>中心のフォルクスホッホシューレ施設を拠点にして事業を行っているが、市内に別に10数教室をもっている施設があり、他にも関連施設を活用している。また学校施設も利用している。
 <職員体制>専任の職員が、教育を担当する専門職(ゾツィアール・ ペダゴーゲ、その1人は館長)4人、運営管理にあたる職員が4人、それ以外に講座を担当する時間給・教員が約300人以上いる。1989年以降はこの数が増えている。財政的にはいつも充分ではないが、以前のように上(国)からのお仕着せでなく、自分たちで自立的に経営していく(アイゲン・ベトリープ)という立場で努力している。財政削減により市からの援助はよくない。現在も、7万マルクの増額を求めているが、実現するかどうか分からない。
 <社会文化運動について>ハンブルグ市などのような市民運動や、自主管理による「センターづくり」については、ヴァイマールでも動きがある(なくはない)。しかし大都市とは状況が違い、比較はできない。社会文化運動と成人教育とは直接の関係はないが、「社会文化」への視点をもって、若者のための文化センターをフォルクスホッホシューレの活動のなかに組みこんだ経過がある(ゲーテ広場ちかく、施設がきれいになって、かえって若者たちはなじめなかった)。
 <「第二の教育の道」、学校教育との関連>学校(基礎)教育からの脱落者や補習教育について、ヴァイマール・フォルクスホッホシューレではとくに対応していない。州のなかではイエナ市などやっているところもあるが、ここではとくに希望者はない。あれば取り組む。
  …以下、雑談、施設見学、など(省略)…

 以上、お聞きの通り、フォルクスホッホシューレは公民館とはかなり異なるところがある。「シューレ」というように、明らかに市民あるいは成人の「学校」である。カリキュラムもフォーマルに作成され、その一覧表は相当のボリュームとなる。ヴァイマールの場合、主要な柱は5つ。1政治、教育、法律等、2文化、音楽、造形等、3スポーツ、ダンス、健康等、4語学、5労働・職業。時間数で延べ1万6千時間。カタログはA4版にして63ページの厚みとなる。ミュンヘン市の場合などは、まさに電話帳の風格であった。強いて、日本の公民館との対比で言えば、三多摩テーゼにいう「市民の大学」(公民館「四つの役割」のうちの第三)の役割、そのさらに学校的な機能、ということが出来ようか。
 対比して、公民館は総合的な性格をもつわけであるが、「総合」とは何か、その特質、またその弱点、が問われることになろう。同時に、行政主導による公的設置という制度の公共性のもつ意味、そして市民がどのように活動の主体として躍動しうるか、など考えた一日であった。
 ベルリンへ帰る列車の時間まで、二人でビールを楽しんだ。かってゲーテも通ったという「白鳥」という名を冠するレストラン、白鳥の煮込みと称する(ほんとかな?)田舎料理の味が妙に舌に残っている。


(20) Sep/08/2000 ベルリン (南の風544号、2000年9月9日)
 <ベルリンを去る夜>

 今日でベルリンを出て、フランクフルトからカイロへ向かう。やれやれというところ。
  →エジプトへの旅記録
 日本を出てまだ2ヶ月が経過した程度なのに、少々、日本が恋しくもなった。外国で生活することの緊張や疲労もさることながら、ドイツの食事は正直のところ私には荷が重く、お腹もかなりお疲れのようだ。
 しかし、7月にカミさんが谷さんに託してくれた各種の薬は、いまのところ全く手をつけていない。愛用の漢方薬だけはきちんと飲んでいるが、よく歩いて、きわめて健康、我ながら「年にしては元気だな」と感心している。
 私たちの世代は、今とちがって、若いころなかなか外国へ行けなかった。私がはじめてパスポートをとったのは1980年。忘れもしない、韓国の黄さんたちから招かれたときである。50才になる直前だ。外国研究をする人たちの姿勢に妙な反発もあって、それまで海外に出る努力をあえてしなかった。九州民族派と称して、できるだけ小さな集落などを歩きまわっていた。
 しかし、こうしてドイツへの関心を持ち始めると、どうしてもっと早く、もっと若いときから研究・交流を始めなかったか、と悔やまれる。いまから四半世紀前に沖縄との出合いがあり、そこからアジア研究への視野は広がったが、考えてみれば、アジアを考えるということは世界を見つめていくことなしにはあり得ず、やはりヨーロッパへの関心を常備しておくべきであった。
 ドイツの成人教育・継続教育の歴史と現在について、私はなんと無知であったことか、いま痛感している。今回の旅で、日本の社会教育や公民館の問題を考えていく上で、実に示唆に富む、刺激的な事実に数多く出合うことができた。私の案内人は谷和明さん(東京外国語大学)、心惜しまず、ドイツの主要都市を歩きまわり、多くの施設をたずね、関係者に会わせてくれた。若い人から教えられるとはこういうことか、と得難い感激を味わった。
 ドイツの成人教育・継続教育から何を学ぶか。いままだ課題を充分に整理できないが、ひとこと言えば、国家装置としての社会教育ではなく、社会装置としての、あるいは市民が生きる地域(都市)装置としての、成人教育・継続教育の歴史的な形成の歩み、専門家集団と市民による努力と運動、その実相(の一端)を知ることが出来た、そのことが大きいように思う。
 日本の公民館関係者も、いまだそのような歴史的な道程を創り出し得ていないのではなかろうか。

 いや、そういっても、まだほとんど分かっていない、ということはよく自覚している。それだけに、この旅でおしまいにしないで、出来ることならば、すこし(可能の範囲で)継続的な研究・交流の機会をもてればと思っている。
 さしあたり、10月にはハンブルク・社会文化運動の関係者が来日するし、そのなかには沖縄に少なからず関心を寄せる建築家(ウーリッヒ・トールマン氏)がいる。またフンボルト大学・シェフター教授もいちど沖縄に行きたいという。出来れば沖縄の皆さんとも連絡をとって、新しい面白い関係が始まればいいな、と夢想している。

  −8月1日、シュロス・ホテル(ポッダム)−
◇朝の宴に友あり花あり陽ざしあり蜂も飛びきてともに食せり
  −8月12日、ハーデンバーグホテル(ベルリン)−
   (戦争の惨禍を残すカイザー・ヴィルヘルム記念教会近く)
◇教会の鐘の音ひびく購いし新聞の記事ひたすら切り抜く
  −8月14日、トリヤにて−
◇マルクスの生まれし隣りのスーパーで2.5マルクの水買いにけり







2000・エジプト訪問記録(9月)

■南の風第546号(2000年 9月15日)ナイル通信(1)
      第547号【2000年 9月16日】ナイル通信(2)
      第548号【2000年 9月17日】ナイル通信(3) に続く





 
2000
・アルトナーレ講演会と沖縄訪問(10月)


(1) <ドイツ・社会文化運動の講演会>
     公民館の風93号(2000年10月6日)

 今年の夏、ドイツの旅でいくつもの新しい出会いがありましたが、なかでも刺激的だったのは、ハンブルク市など主として都市部に胎動している社会文化運動、その活動の拠点としての「社会文化センター」のいきいきとした風景でした。もちろん日本の公民館とは、歴史も制度としての性格も違いますが、地域に息づく類似の施設として、公民館や社会教育センター等のあり方を考える上で、新鮮で面白い問題提起を含んでいるように思われました。
 その刺激を受けて、数年前に日本でも社会文化学会が結成され、ドイツとの活溌な交流が始まっています。いまその代表をしている谷和明さん(東京外国語大学)と話しあって、下記のような講演会を企画しました。社会教育関係者として学ぶものが少なくないように思ったからです。
 今月11日より東京・墨田区向島との交流に来日するハンブルク市メンバーのなかにその中心的な活動家が含まれています。その一人(ヴェント氏)を招いて直接の交流の場をつくろうというわけです。いい機会です、皆さま、ぜひご参加下さい。きっと元気とある種の展望を与えてくれるのではないか、と確信しています。講演のあと、ともに語り合う交流・歓談の時間も用意しています。

 なおハンブルク一行のなかに、この好機にぜひ沖縄に行きたいという希望の建築家(トールマン氏)がいて、23日〜26日に沖縄行きを計画しています。実はこの夏、ハンブルグ滞在の一夜、谷和明さんといっしょにトールマンさんのお宅に招かれ、美味しい手料理をご馳走になりました。一宿一飯の恩義とでもいいましょうか、案内役はぶんじん、那覇や名護の友人たちにも連絡をとったところです。
 日程は小生が決めたのではなく、トールマンさんがハンブルク⇒成田便を確保する際に、羽田⇒那覇(往復)の便を予約してしまったのです。それに合わせて、小生も沖縄入りいたします。ご一緒なさる方はいらっしゃいませんか。大歓迎! 面白い旅になりそうです。

■<講演と経験交流の集い―ドイツ社会文化運動の現状を聞く>
  ―グローバル時代における地域センター型施設の可能性―
 趣旨(よびかけ文):
 日本において都市型公民館のあり方が模索された1970年代以降、(旧西)ドイツでは青年市民たちが老朽工場や倉庫などを自力で改修し、「われわれのHAUS(館)」として自主管理・運営する運動が展開してきた。それは、多様な文化・芸術・教育活動と社会・福祉・政治活動を「一つ屋根の下」でおこなうことにより、地域住民の文化的創造力と社会力を形成することを目標理念とするもので、「社会文化センター」と呼ばれる。
 このような下からの市民の運動を地域文化政策の柱に位置付け、積極的に支援してきたのがハンブルク市。現在、市内の各地域で25センターが市民NPO法人によって運営されている。そのひとつであるオッテンゼン地区のセンター《モッテ(Motte)》は、まちづくり市民運動の「牽引車」として多面的な事業を精力的に展開している。
 その《モッテ》所長のヴェント氏を含む、オッテンゼン地区の市民たちが、墨田区向島地区とのまちづくり草の根市民交流のために来日することになった。そこでこの機会にヴェント氏を招き、ドイツ大都市の下町地域における市民社会文化運動の現状を語ってもらうことにした。ドイツの市民NPOによる地域センターづくり、まちづくりの経験は、わたしたちに新しい展望と元気を与えてくれるだろう。皆さんの参加を心から訴えます。
とき:2000年10月21日(土曜日) 午後1時30分〜4時30分 (終了後、ヴェント氏を囲む交流会)
ところ:杉並区立社会教育センター「セシオン杉並」 視聴覚室
                  東京・杉並区梅里1-22-32(TEL 03-3317-6621)
講演:オッテンゼン地区のまちづくりと《モッテ》の試み
         ミヒャエル・ヴェント(Michael Wendt)氏
      (ハンブルク市アルトナ区オッテンゼン地区文化センター《モッテ》所長)
     ビデオ映像による紹介も
解説(通訳も含めて):谷 和明(東京外国語大学)
呼びかけ人:伊藤長和(川崎市教育委員会)、小林文人(和光大学)、谷和明(東京外国語大学)
共催:社会文化学会(東部部会)、川崎市民文化研究会、社会教育推進全国協議会(社全協)
    三多摩支部有志、社会教育推進全国協議会二三区支部有志、
    東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)


(2) <ドイツ社会文化運動の現状を聞く−新しい出会い(報告)>
         南の風563号:2000年10月23日  石倉祐志(Sun, 22 Oct 2000 15:17)

 10月21日午後1時30分からセシオン杉並(杉並区立社会教育センター)にて「ドイツ社会文化運動の現状を聞く−グローバル時代における地域センター型施設の可能性−」と題して、交流と経験交流の集いが催されました。参加者は市民、社会教育職員、研究者、学生など30名ほど。川崎市、東京など自治体の社会教育関係者だけでなく、社会文化学会の研究者やTOAFAECメンバー、関心ある学生など、これまでに
ない多彩な人々の出会いの場となりました。
 呼びかけ人の小林文人氏(和光大学)の挨拶の後、谷和明氏(東京外語大学)がドイツの社会文化運動についてビデオ上映を交えて解説。続いてハンブルク市アルトナ区オッテンゼン地区文化センター《モッテ》
所長のミヒャエル・ヴェント氏の講演。また、写真家、メディア教育家でもあるリッター女史から、シュテルンシャンシェの新たなセンター建設の経過の報告がありました。
 ヴェント氏は、70年代から始まった新たな社会運動としてのまちづくり運動の経過と現状を報告。ハンブルク市の社会民主党(SPD)政権が市民参加を促したことを背景に、多くの市民グループや個人が、ボランティアで多様な文化的社会的事業を組織してきたなかで、空き家となっていた工場を利用して、社会文化センター《モッテ》を作った経過について述べられました。その中では、まさに今動きつつある市民のまちづくり運動のその当事者たちが抱える財政や職員体制、民主的運営、行政との関係等の課題を率直にまた具体的に報告されました。
 あくまで基本は商業主義的運営を排し、市民による市民のセンターを自ら組織し、国家からはびた一文もらわずに運営するとのことでした。
 また、リッター氏は、難民問題を背景に麻薬の売人が出没するようになったシュテルンシャンシェ地区の変化の中で、そこに居住する市民として「よい街をつくりたい」という端的なスタンスで、地域テレビの活動をしつつ新たなセンターづくりへ取り組んでいく思いを語られました。
 参加者からは質問が活発に出され、報告しきれないほど。ちなみに、「モッテ(MOTTE)」とは布地を食べて育つ“衣蛾(いが)”のことで、古い社会システムを蚕食して新しいものをつくりだすという意味を含んでいるとのこと。興味深い討議でした。会は呼びかけ人の一人、川崎市の藤長和氏(川崎市教育委員会)が感謝の挨拶をして閉会となりました。
 その後、場所を移して行われた懇親会(当然、ビールで乾杯)でヴェント氏は、アルトナ区で今年8月から10月にかけて行われたばかりの市民主導によるカーニバルや多様な催しを含む地域祭り‘アルトナ祭り’についても熱っぽく語られました。10万部を配布したというそのパンフレットに掲載されていたプログラムの充実ぶりにも一同目を見張ったものでした。なによりも《モッテ》という施設を拠点としつつ、そこから地域へ出て、自らの都市づくり、まちづくりへの果敢な取り組みが印象的。‘アルトナ祭り’のポスターのタイトルには Leben-Arbeiten-Lernen(暮らし-働き−学ぶ)と掲げられており、幾人かはポスターをいただいて帰りました。
 同時代の都市地域ハンブルクで暮らす市民の生き生きとした姿が見えてきて大変刺激的であったと思います。行政や企業をも使いこなしつつ市民の主導によるまちづくりを発展させた力量がどのように形成されてきたのか、地域の生活、文化の営みと自治や政治との関係など、これからも交流を深めていく必要を強く感じました。
 来年の‘アルトナ祭り’(6月上旬)への興味(《モッテ》25周年、ファブリック30周年)、あわせてドイツ文化運動との今後の交流、など話題はもりあがって終わりました。 


(3) <ドイツ社会文化運動家と沖縄訪問>
         南の風554号(2000年10月11日)
   −おきなわ社会教育研究会の皆さまへ(書簡)Wed, 11 Oct 2000−
                            小林ぶんじん(和光大学)
 その後、皆さまお変わりありませんか。ご無沙汰しています。この夏、ドイツを中心に“遊”学の旅に出ていました。涼しい夏を満喫して過ごしました。…中略…
 ところで、前にハガキ等でお知らせしたことがあるドイツ人建築家・トールマン氏の沖縄訪問について、あらためてお願いを申しあげます。
 彼との出会いは、7月下旬にハンブルク市を訪問し社会文化運動(市民活動)関係者との交流の中でした。ハンブルグ滞在の一夜、同行の谷和明さん(東京外国語大学)といっしょにトールマン氏のお宅に招かれ、美味しい手料理をご馳走になりました。彼は沖縄へのつきぬ興味をかたりました。一宿一飯の恩義とでもいいましょうか、その機会があればぜひご一緒いたしましょう、と約して別れました。
 その機会は思いがけなく10月に実現することになったのです。かねてより「まちづくり」をキーワードに東京・向島地区とハンブルク市民との交流が重ねられ、今年その訪問団の一人としてトールマン氏が来日することになりました。同行メンバーのなかのM,ヴェント氏・講演会については10月21日午後実施予定。
*向島企画=博覧会についてはホームページ:http://e-sumida.gr.jp/mukojima-expo/)

 トールマン氏の沖縄訪問の日程案は下記の通りです。23〜26日の日程は小生が決めたのではなく、トールマン氏がハンブルグ⇒成田便を確保する際に、羽田⇒那覇(往復)の便も予約してきたのです。その前後の便で、小生も久しぶりに沖縄に参上するつもり。
 <行動日程案>*さしあたりの小林案、諸情報をもとに今後修正予定。
10月23日 午後到着、那覇を歩く、夜・交流会予定。   那覇泊
    24日 名護へ、集落めぐり(どこかで泳ぐ)、交流会。 名護泊
    25日 名護より中部(どこかで泳ぐ?)、那覇へ 那覇泊
    26日 南部戦跡へ、夕刻の便で帰京
 トールマン氏から谷和明氏に来たメールによれば「生きているうちに沖縄に行くことになろうとは考えたこともなかったです」と喜びを語っているそうです。彼の希望は、1,沖縄の歴史を知りたい、2,伝統ある芸能にふれたい、3,離れ島に行って(太平洋で)泳ぎたい、「竹富」に行きたい、4,現代の躍動する音楽ライブに行きたい、など。
 もちろん、竹富島など日程的に行けないことは明らかですが、出来る範囲で期待に応えたく、いろいろと情報やお智恵をお貸し下さい。
 小生も久しぶりの訪沖、皆さまにお会いできることを楽しみにしています。なお同封の新聞切抜きはトールマン氏を報じた朝日記事(1997年7月5日、略)です。ご参考までに。            敬具


(4) <トールマン(Ulrich Thormann)氏との沖縄の旅>
           南の風564号(2000年10月27日) 

 昨夜、沖縄から最終便で帰ってきました。ドイツの社会文化運動家との初めての旅、当初はどうなるものか、と多少心配もしましたが、彼も案外と深いところで沖縄と出会い、その色や匂いや“沖縄の心”にも触れてくれるところがあったようで、やはり、無理を押してでも行ってよかった、と思いました。
 何よりも、沖縄の皆さんたちの友情と豊かなホスピタリティ(“いちゃればちょうでい”の精神)が、トールマンを温かく包みこみ、彼をいたく感動させたようです。秋蝉の唄のしぐれのなか、やんばるの森の緑を歩き、海をわたって水納島で泳いだ2日目(24日)午後あたりから、彼はさかんに「パラダイスだ!」と言うようになりました。ときには写生(浜辺のぶんじん)をし、花を描き(読谷・大添区)、歌もうたいました。最後の日(26日)摩文仁の丘をくだって「健児之塔」「納骨堂」の前では眼をうるませていたようです。
 私にとっても久しぶりの沖縄。裸になって、彼とともに珊瑚礁の海に体を沈めたとき、まさに身も心も洗われる感じ。疲れたけれど、いい休日となり、お互いに「ダンケ・シェーン」と言い合って別れました。
 那覇の夜の平良研一、喜納勝代、佐久本全、名城ふじ子など、名護の夜の島袋正敏、中村誠司、照屋秀祐ほか、楚辺の比嘉豊光、具志頭の上原文一、上門加代子(琉舞)など、集いにお出でいただいた多数の皆さん、まことに有り難うございました。
 車を出してくれた山城千秋(九大・院)、キモノ持参で「花」を踊ってくれた徳江紀子(和光大2年)の二人を含めて、お世話になった皆さんにトールマンにかわって御礼申しあげます。
 たまたま日本図書館大会と重なり、訪沖していた山口真理子、石原照盛(群馬・邑楽)、樋口正(羽島市)の皆さんとも会うことができました。また、平田大一新歌舞団リハーサル(琉球新報ホール)ものぞいてラッキー! 皆さん、有り難う! トールマンとの沖縄への旅については、また機会を見て書くこともありましょう。
 上記・末本メールの楚辺誌「戦争編」については、旅の途中、山城千秋の車で直接に「ゆめあーる」を訪問し、比嘉豊光さんとも話し、たしかに1冊を入手いたしました。ご安心あれ。献本してくれるとのことでしたが、こちらからお願いして頒価(3000円)を受け取ってもらいました。豊光さんは楚辺誌の手法を発展させるかたちで、さらに「琉球弧を記録する会」として「島コトバ(クトヴァ)で語る戦世(いくさゆ)」の証言集(現在、bRまで刊行)づくりやビデオ映像による集落の祭り・御嶽(うたき)の記録化に挑戦中。宮古コトバで語る証言映像を見ていたら、ベルグマン監督「ショウア」(ホロコースト記録、9時間)を想い出したほど。
 この4日間、各位からのメールたくさん有り難うございました。今回は、パソコンをかかえていましたが、ついに沖縄からは発信できませんでした。首里の鳥山淳くんの部屋までお邪魔して受信したり、迷惑をかけました。お詫びまで。

水納島で泳ぐ、右・トールマンさん(撮影・島袋正敏さん、20001025)



(5) <ドイツ・社会文化運動の活力に触れてー福岡・社会教育研究会への送信>
            公民館の風105号(2000年11月9日) 

 二〇世紀最後の夏、大学の「学外研究」制度の援助を得て、ヨーロッパ(とくにドイツを中心)に遊びました。毎日、美味しいビールを楽しんでいたのですから、文字通りの“遊学”(二ヶ月半)です。
 とくにドイツは今年で東西統一から十年。かっての鉄の体制を誇った社会主義を併呑した西の資本主義、どんな状況がいま動いているのか、その歴史的な実験の経過(と矛盾)をこの眼で見たいという思い。同時にそんなドイツで、どんな社会教育(成人教育あるいは継続教育という)が展開しているのか、興味しんしん、というわけです。
 とりわけ旧東ドイツの都市では、この十年どのような変化があったのでしょう。米英などと比べて、紹介されることが少ないドイツの社会教育や、公民館的な地域施設についても調べてみたいと思ったのです。歩いた都市は、フランクフルト、ハンブルク、ポツダム、ベルリン、ワイマール、トリヤ(マルクスが生まれた町)、その他。
 期待にたがわず、実に刺激的な毎日でした。私の向こう見ずな旅を危ぶんでか、ドイツ研究者の谷和明さん(東京外国語大学)が心配?して同行してくれるという、願ってもない案内人を得たこともありましょう。たく
さんの人と出会い、市民大学や社会文化運動や福祉協同的な施設の訪問など、多くの体験、知見を得ることができました。
 その特徴的なことをいくつか・・。なによりも19世紀後半からの民衆教育普及運動の歴史、国家装置として上からつくられてきた日本・社会教育との違い。そして州や都市の分権的な自治の実像。さらに教育機関的な市民大学(ホルクス・ホッホ・シューレ)だけでなく、市民活動による社会文化センターや、地域福祉施設等の多元的な展開。印象的なことは、誇らしげな社会教育専門職員と活気ある市民活動家の表情。夏の休暇(三週間?)をしっかり確保している施設、職員、事業のゆとり、などなど。
 なかでも1960年代後半の学生運動のエネルギーも継承しつつ、さまざまの市民活動(NPO活動)の活溌な取り組みが印象的でした。特にハンブルグ市では、市(州)政府が社会民主党や緑の党の影響が強い都市ということもあるのでしょうが、市行政の姿勢はこれら市民活動の支援、地域の社会文化施設への援助、という姿勢に徹しているように感じました。政党も行政も市民活動も社会教育の専門スタッフも、それぞれの役割を分担しつつ、いきいきと楽しみながら、ドイツ的社会教育の活動に参画している様子でした。
 一部の、まったく行政管理的な公民館の固い構造と比べて、市民の「自主管理」による社会文化センター(たとえばハンブルグ市「モッテ」など)の生き生きとした柔らかな活動が印象的。行政や公民館など公的施設の基本的な役割を、市民の立場から、深く問い直す必要を痛感しました。その意味で、行政の単純な条件整備論だけでなく、市民の主体的な活動の活性化の視点から、行政・施設論(公民館論)を新しく組み立てていく課題を追究していく必要があるのではないでしょうか。
 ドイツ社会教育・市民活動関係者との新しい交流も始まりました。来年は、六月にハンブルクへ行こう、という計画も動いています。関心ある方々の参加、歓迎です。







2001・ドイツ訪問「ハンブルク便り」(小林)

<目次>
2001年「ハンブルク便り」一覧:   
(1)ハンブルク訪問の幕開く(6月7日)   南の風688号
(2)ハンブルクの施設訪問(6月9日)    公民館の風177号
(3)アルトナ祭への関心(6月11日)     公民館の風178号
(4)モッテのレストラン(6月12日)      南の風689号
(5)ハンブルクからコペンハーゲンへ(6月14日)    南の風690号
(6)モッテのレストラン(2)チンケン原則(6月19日)   公民館の風179号
(7)アルトナ祭についてのヴェント総括(6月24日)   公民館の風180号


<ハンブルク・社会文化運動調査団・旅程表> 南の風685号(2001年5月27日)
2001年6月
 6日(水) 成田(関空)発→ハンブルク着 エルベ河畔散策・夕食
 7日(木) 社会教育施設、社会文化施設見学、市庁舎・結団晩餐会
 8日(金) 施設見学、日独文化運動交流会、夜、アルトナーレ開会
 9日(土) 終日、アルトナーレに参加・見学
10日(日) 朝、フィッシュマーケット見学、夜、歓迎夕食会
11日(月) 自由行動、揃って音楽会? お別れ夕食会
12日(火) A組 ハンブルク発→成田(関空)へ B組 フレンスブルクへ、社会教育施設見学
13日(水) A組 成田(関空)着     B組 コペンハーゲンへ、市内・社会文化センター見学
14日(木) B組 コペンハーゲン発→成田へ(15日着)



(1) ハンブルク便りT<ハンブルク訪問の幕開く (6月7日)
              南の風688号(2001年6月8日)
 昨年の訪問からほぼ1年、去年と同様に少し肌寒い。緑の中の空港、バスとSバーンを乗り継いで、ヴェントさん(ハンブルク市モッテ)が用意してくれたホテルに入る。東京(成田)からは8人。すでに関西からの5人(社会文化学会関係者)は先着していた。これにパリやジュネーブなどからの合流組を加えて、総勢16人になる予定。
 「風」のメンバーからは、谷和明(東京外国語大学)、伊藤長和(川崎)、山口真理子(調布)、石倉祐志(東京・生活クラブ)などの皆さんが参加している。もちろん谷さんが案内役。「風」メンバーではないが、沖縄研究会の流れでは、ご存知の桑原重美さん(もとNHKカメラマン、フリーランサー)がビデオカメラ機材を抱えて参加。どんな映像が創られるか、なにしろ熟達の腕(NHK市民大学・外間守善「沖縄の歴史と文化」等の秀でた画像記録はこの人の手になる)だけに明日からの動きに期待があつまる。
 昨年のエジプト旅行でも、詳細な旅の記録をつくった伊藤長和さんが、ヴェントさんを交えた夜の打合会で早くもメモづくりを始めている。きっとそのうち「風」に送ってくれるだろう。
 10時近くになって(まだ外は明るい)、ヴェントさんと入れかわりに、旧知のトールマンさんがやってきた。彼は町づくり建築家、NPOシュタットバウ・メンバー、昨年10月、いっしょに沖縄の旅に出かけ、島袋正敏さんと水納島へ渡り、ぶんじんもともに泳いだ仲だ。抱き合って久闊を叙す。繁華街・レーパーバンを歩き、ビールで乾杯し遅い食事。
 こうして2001ハンブルク(アルトナ祭)訪問の幕は開いた。


(2) ハンブルク便りU<ハンブルクの施設訪問(6月9日)
              公民館の風177号(2001年6月9日)

 6日に到着して早いもので4日目を迎えた。7日夜にはジュネーブから村井光恵さんなども到着して、予定の16名が揃った。
 8日夕はハンブルク市アルトナ区役所中庭で、アルトナ祭2001の開会式が行われ、これに参加。かねてハンブルグの市民と交流を重ねてきた東京・墨田区のまちづくりメンバー、白鳥一信氏も紹介されてステージに晴れやかな顔を見せていた。
 この夜から《モッテ》では清真人(きよし・まひと、近畿大学教授)さんたちの詩の朗読など始まり、日独合同・文化交流のひとこま。なかなか終わらず、かなり疲れて、終わりの部分は失礼し、ホテルにだたどりついたのはもう午前零時をまわっていた。
 9日は終日、市民主導(行政の支援、地元各機関、ビール会社など企業も参加)のアルトナ祭2001に参加。
 これに先だって、6月7日・8日に訪問した社会文化センター、成人教育関係施設の一覧を以下に列記しておくことにしよう。いずれ参加者の誰かが、それぞれの関心に応じて訪問記録を送っていただくことになるだろう(と期待している)。
 6月7日:
1,アルトナ駅前のハンブルク市図書館(アルトナ地区分館)
2,エルベ川を越えてヴィルムスバーグの市民館(ビュルガー・ハウス)
3,アルトナ区役所横の市民センター(日独「線路のない駅」交歓)
4,有名な(ドイツ最初の)フアブリックへ。旧工場を改造して文化劇場、
 空き地を活かした子どもたちの遊び場、自然農園。
 6月8日:
5,ハンブルグ市西市民大学(ホルクスホッホシューレ、VHS)。閑静な住宅地区に位置した成人
 教育施設。
6,外国人多住、歓楽街、ホームレスなどの地域問題に挑戦しているザンクトパオリ(レーパーバ
 ン)地区の社会文化センター・地域活動施設。
7,アルトナ祭の拠点となっているオッテンゼン地区の社会文化センター《モッテ》。
8、ハンブルク市社会文化連盟の中心メンバーと日独の社会文化運動についての交流会。
 
 6月とはいえハンブルク市は肌寒く、ときに風つよく時雨もあり、あらためて北ヨーロッパの陽ざしの有り難さを実感した。しかし祭りに取り組む市民(子どもを含めて)の表情は豊か、日本からやってきた訪問団を歓迎する心の温かさ、昨年秋(沖縄訪問)以来のトールマンさんもなにかと気をつかってくれる。


(3) ハンブルク便りV<アルトナ祭への関心(6月11日)
              公民館の風178号(2001年6月12日)

 ハンブルク・アルトナ地区では、6月8日(18:00より区庁舎中庭で開会式)より10日夜まで、アルトナ祭りで賑わった。今年で3回目、歴史が浅いのに、聞きしにまさるビッグプログラム! 祭りの人混みは駅につづく
オッテンゼン大通りはもちろん、小さな路地まで埋めつくし(30〜40万人か)、9広場のステージと64の社会文化センターなどの文化活動拠点、数えきれないテント(SPD、CDU、緑など主要政党も出していた)、多様な出品・展示・模擬店などの参加、そして祭りのクライマックスとなる大パレードなど、その規模と盛況ぶりには正直いって驚いた。この数日、アルトナの人々は群れ、遊び、踊り、笑いあって、どよめきが町をつつんでいた。
 私たちは、少なくない人数で、なぜにかくも遠く離れた北ドイツのまちの市民祭にやって来たのか。経過は詳しく書く余裕もないが(昨年来からの風・メンバーであればとっくにご承知のこと)、直接には昨10月の墨田区向島地区の祭りにやってきたヴェント氏(社会文化センター《モッテ》所長)講演会とその夜の交流つどいから始まった。その席で「祭りの日程を6月でなく7月に変更できないか、そうすると私たちは参加しやすい」と発言して爆笑となったが、冗談ではあれ、そのような発言をしたことが悔やまれる。《モッテ》を中心とする主要メンバーの(単なるイヴェントでない、自分たちのまちづくりにかけた)思いは容易ならざるものがあり、その取り組みは1年間をかけて積み重ねられてきたのである。
 谷和明、伊藤長和のお二人に伍して、ハンブルクへの旅の発起人となった私なりの関心は、要点のみあげれば、次のようなことであろうか。
(1)ドイツの社会文化運動とその拠点としてのセンターづくりの、この20〜30年の系譜と歩みへ
 の興味。
(2)その典型的な都市ハンブルクと代表的なセンター《モッテ》が、単なる施設活動に埋没するの
 でなく、市民をまきこんでのまちづくり、市民にとっての都市開発を追求しつつ、市民主導の祭り
 を企画してきた。
(3)政治・政党から自立し、独自性をもって行政をまきこみ、同時に地場産業(ビール工場など)や
 地元商店街をも組織した祭りの構想。
(4)子どもと若者へのまなざし。子どもたちも祭りのちらしを配っていた。
(5)NPO的諸団体が中心となり、第三世界を考えるグループ、少数エスニックグループ、環境・ジェ
 ンダーなどの諸運動など、多彩な市民活動の参加。
(6)音楽・ダンス・映画・写真・美術など文化的な催し。私たちも、わずか3日間の間に、演奏を聴
 き、自ら踊り、歌い、飲みかつ談じ合った。

 10日、アルトナ祭の最後の夜、《モッテ》1階の再開なったレストランで、日本からの訪問者(大阪・平野地区、東京・向島地区、私たち社会教育・社会文化学会関係者など)を招いての夕食・交歓会。そこでのヴェント氏やアルトナ区長の挨拶を聞き、振る舞いのビールやワイン、自作の歌を披露したドイツ娘の演奏等に酔いながら、私はしきりに日本の公民館のことを考えていた。
 今回・第3回のアルトナ祭に参加した日本人グループは、向島地区などの10年にわたるハンブルグとの交流の蓄積もあって多彩、市民レベルでの国際交流のひとつの姿をみた思い。
 付記:ジュネーブから駆けつけて、通訳を引き受け、久しぶりに浴衣姿など見せていただいた村井光恵さん(和光大・東京外国語大卒)、お疲れさまでした。10日午後、あの広場から離れて、私はビールを飲み始め、スイスへ帰る貴女に別れの挨拶もしませんでした。お許し下さい。来年、またどこかで会いましょう。(ぶ)


(4) ハンブルク便りW<ハンブルク・モッテのレストラン(6月12日)
              南の風689号(2001年6月13日)

 アルトナ地区の社会文化センター《モッテ》の1階はレストランだ。しかし昨年の7月、谷和明さんの案内で、ここを訪問したときは残念ながらレストラン休止の張り紙が出されていた。「私たちは思いをもって努力してきたが、残念ながら休止の止むなきに至った」という趣旨の掲示だったと記憶している。
 聞けば、1997年の国際成人教育会議がハンブルクで開かれた際、日本からの参加者は《モッテ》を訪問し、レストランを利用したそうで、なかなかの評価だったとのこと。佐藤一子(東大)さんも「味がいい」と賞めていたとか。そのレストランは姿を消していた。
 さて今回の訪問で、閉店のレストランがその後どうなったか、私の大きな関心事だった。1年ぶりに《モッテ》の前に立って、そこに電気が灯り、「今日から開店」の張り紙を見たときは、ほんとに嬉しかった。アルトナ祭の当日を期しての開店のようだ。そして、ハンブルク便り(3) でも記したように、ここで日本からの訪問者を歓迎する夕食交流会も開かれた。ビールもワインも、ことさら美味しかった。
 かって《モッテ》レストランは、富めるものと貧しき者がともに出会うという運営方針をもっていた。その「思い」は(失業対策関連補助の削減もあって)経営的に持続できず、閉店の止むなきに至ったのだろう。さて、今回の再開ではどうか。
 入口ドアの黄色の「Das Zinkenprinzip」<レストラン・ツィンケンの原則>の掲示を読んで、かってと(おそらく)同じ方針を再び掲げてレストラン再開を迎えたことを知り、嬉しさは倍加したのである。
 以下、たどたどしい部分訳。谷さんにぜひ定訳をお願いしたい。
 「貧しき者と富めるものにとってのレストラン:(RESTAURANT FUER ARM UND REICH)
 私たちはツィンケンで何をしようとしているか。
 ゲストのために:(略)
 貧しきもののために:
   私たちはここで得る収益を、貧しい人たちのために還元していきたい。
   六月の正式の開店後に、少ない収入しかない人たちに大きな割引を保証するツィンケ
   ン・カードを用意します。これによって、すべてのツィンケン・カード保持者には午後に
   5マルク(約 300円)の食事を、また夜には、住むべき宿をもたない人ないし全くの貧し
   い人(ganz Armen)たちに無料で食事を提供します。
 ツィンケンの従業員のために:(以下、略)」  


(5) ハンブルク便りX<ハンブルクからコペンハーゲンへ(6月14日)
              南の風690号(2001年6月16日)

 コペンハーゲンに足を延ばした一行も、スエーデンに渡った森井さんを残して、さきほど15日午後、1時間遅れで無事帰国した。皆様、ほんとにお疲れさま。とくに企画・準備から今日の帰国に至るまでみんなのために苦労された谷和明さん、まことに有難うございました。
 久しぶりの東京はすっかり梅雨。そして、あすからは学会六月集会やTOAFAEC総会など、また忙しい毎日。昼から美味しいドイツのビールを飲んできた身には、仕事に追われるつらい生活が待っている。
 ハンブルグ最後の夜(12日)、自家製ビールを樽から飲ませる(グレーミンガー)店でのお別れ・総括会では、参加者がこもごも感想を出しあってビールの味も格別。とくにこの席には、アルトナーレの全体責任者ヴェントさんも駆けつけて、実に貴重なコメントと自らの総括を語ってくれた。通訳の任にあたってあまりビールも飲めず、メモも取れなかった谷さんのためにも、ここに記録(約20項目)を留める予定であったが、伊藤長和さんメ−ル「コペンハーゲンはいかが?」という関心もおありのようなので、ヴェント総括は次回以降にまわすことにして・・。
 まずは13日に別れてからのコペンハーゲン組の簡単な行動記録メモ。13日昼、デンマーク国境の町フレンスベルグへ到着(列車)。昼食は目の前の海でとれた(であろう)魚を食わせるレストラン。ビールでかなり赤い顔をして、午後はキュルハウス(DBドイツ鉄道の旧冷蔵倉庫跡を活用してつくられた社会文化センター)へ。運営にあたっている職員と実習生の話を聞く。実習生の方がむしろ元気。なかなか面白かった。この記録はきっと同行の山口真理子さんが送ってくれる?
 夕刻、食事前に、森井さんと山口さんがありったけの歌をうたいながら、フィヨルドの湾岸を散策。ヨットが浮かび、波は静かだったが、吹く風は冷たい。駅ちかくのホテルは84マルク(約4,500円)。安くていい宿だった。
 14日朝、タクシーで国境を越え(いま誰もいないゲートが残っているだけ)、デンマーク側のパドボルグ駅から乗車。一路コペンハーゲンへ。デンマークは大小400の島々からなるが、線路は海峡を橋でこえ、コペンハーゲンが位置するシェルラン島へは10キロあまりの海底トンネルをくぐってようやくたどりつく。風は案外と暖かだった。
 デンマークは東京なみの物価、ドイツと比べて、ビールもコーヒーも高い。ようやく確保できたホテルは1000クローネ。日本円で約1万4千円、前夜のホテルと比べて、これは高い!
 午後遅く、セツルメント運動の系譜をひくトーマス・ヘイレス?氏の創設になる地域児童施設を訪問。この記録も真理子さんが送信してくれるかな?
 このあと、海岸をめざし、王宮をつきぬけて、4人はひたすら歩いた。アンデルセンゆかりの小さなマーメイド(人魚姫)に会うためだ。岩の上に可憐に座っていた。ガイドブックは「大きい小さいに関わらずこれが世界一有名な彫像であろう」と自賛している。
 そのあと、これも有名なラウンドタワー(かってロシヤ・ピョートル大帝は馬で駆け上ったという)の教会でブラームスのオルガン・合唱を楽しむ。
 コンサートが終わって再びラウンドタワーへ。夜10時を過ぎているというのにまだ太陽は地平線の上、赤い夕日。これから北国の夏が始まるのだろう。


(6) ハンブルク便りY <モッテのレストラン(2) ツィンケン原則(6月19日)
              公民館の風179号(2001年6月19日)

 <公民館に焼き鳥コーナーを・・・>
 もう30年ちかくも前、美濃部知事のころ。東京で新しい公民館構想を論じあったときに、徳永功さん(国立市公民館長、当時)たちと「公民館1階に焼き鳥コーナー」を提案しようと話しあったことがある。進藤文夫(国分寺市)さんもいて、ビールを飲みながら語りあった。しかし出来上がった「新しい公民館像をめざして」(いわゆる三多摩テーゼ、1973年)には、「自由なたまり場」の記述だけにとどまった。論じながら、結果的
には起草段階で(私自身も)遠慮したのである。
 それでも三多摩テーゼの施設・設備論のなかには「市民交流ロビー」に「軽飲食コーナー」の1項目が記されている。いま、障害者の活動空間として、喫茶コーナーの役割が注目されているが、この間に新しいチャレンジが重ねられてきたのであろう。しかし公民館機能に結びついたレストラン・食堂の例はあまり聞かない。
 ヨーロッパ各地の(公民館に類似する)地域施設・社会文化センターなどには多くこの種のレストランが付設されている。ロンドン中心部の成人教育センター1階にも雰囲気のいいレストランがあったし、フィレンチェのカーサ・デル・ポポロ(民衆の家)では、いちばんいい場所にバールがあって、訪ねた館長さんはそこでゆったりと座ってコーヒーを飲んでいた。
 ハンブルグのいくつかの社会文化センター、外に面した一画のレストラン、その活気とビールの味、そこに集う人々の語らい、などをいま鮮やかに想い出している。とりわけ「貧しい人」とともに集い3段階の料金設定を試みている《モッテ》レストランの取り組みは初め耳を疑ったほど。ハンブルグ便り(4)(南の風689号、6月12日)で、その「原則」の不充分な抄訳を載せたが、谷和明さんに定訳をお願いしたところ、解説を含めて、送ったいただいた。職業訓練機能についても興味深いものがある。

 <モッテのレストランZum Kleinen Zinken>
     谷和明(「アルトナーレの薫風」21号 6月15日)より 
 …略…
 小林先生から『南の風』689号(6月13日)で「お願いしたい」と名指しで依頼(命令?)されましたので《モッテ》の食堂 Zum Kleinen Zinken のメニューに書かれた「原則」と「練習試行営業」の断り書きの部分を取りあえず全訳してみました(定訳とはいえませんが)。
 短文ですが、それだけに若干の予備知識がないと理解が難しいかもしれません。最初に説明を記しておきます。
1)チンケンという我々が食事したレストランの営業主体はJugenthilfe Ottennsen e.V.(オッテンゼン青少年援助 JHO )という団体です。これは《モッテ》の活動から分離独立した弟分の社会事業団体で、職業訓練資格を持つ失業者が無資格青少年を集め、地域内の公共的事業を請け負いながら各種の職業訓練を実施しています。だからチンケンは職業訓練実習の場でもあるわけです。
2)以前書いた文章からチンケンについて抜粋しておきます。
 「多くの社会文化センター同様、《モッテ》でも飲食事業は社会文化運動に共鳴する食堂経営希望者に委託経営してきた。しかし1999年4月から新規事業として「貧者と富者のためのレストラン」「ツム・クライネン・チンケンZum Kleinen Zinken 」を開店した。経営・運営にあたるのは上述の「オッテンゼン青少年援助」である。このレストランの料金は、@チンケン料金(原価の半額くらい)、A自弁料金(原価)、B通常料金(原価プラス利益)の3段階に分かれている。チンケン料金は失業者などに適用され、収入のある社会人は通常料金を払うこととされた。
 このレストランの構想は1995年11月から12月の9日間、《モッテ》をはじめとして地域の20余の社会・文化・芸術施設・団体が実施した「ホームレス問題行動週間」から生まれた。「無視Unbedacht」というテーマを掲げたこの文化・芸術的街頭キャンペーン事業は地域における貧困の存在を直視し、貧者と富者とのコミュニケーションを実現しようとする試みであった。そこで「青少年援助」が駅前広場に「チンケン」という段階料金制のテント食堂を開設し、好評を博した。その試行はその後も地域祭りなどの行事で繰り返され、それが恒常的なレストランとして結実したのである。
 生活困窮者に安価(無料)で食事を提供する施設は《モッテ》周辺にもかなりある。「オッテンゼン青少年援助」自身が、調理の職業訓練の場を兼ねて既にそういう「持ち合わせの少ない人のための食堂」を経営してきている。「ツム・クライネン・チンケン」の斬新性は、単に不利益層の扶助という社会事業ではなく、貧困と豊かさのコミュニケーションの実現という文化プロジェクトとして位置付けられている点にある。普通のレストランに入店することが経済的にも心理的にも困難であり、かつ外見や異臭から歓迎されない人が自分は貧乏だということを堂々と表明して,自己にふさわしい料金で食事ができ、他方「普通の」市民は社会福祉行政や社会事業団体の介在によって自分たちの視界から遠ざけられてきた貧困な隣人に直接関わることになる。
 この両者の橋渡しを、店長(プロジェルト・リーダー)の青年は「ツィンケン文化」と呼んでいる。」
 *谷和明「ドイツの社会文化運動―ハンブルグ市オッテンゼン地区文化センター《モッテ》を中心に」「6、貧者と富者がテーブルを囲むレストランの試み」より(文献・略)
3)今回の再開は試行であり、本格営業は7月からだったのです。だから料理も出なかったわけです。それに関しては,最後の断り書きの部分で明らかになります。皆さんも納得できることでしょう。
 Email:Zinken@amx.chに改善案を提案してください。

 <レストラン・ツィンケンのメニュー、Das Zinkenprinzip(訳)>
 ツィンケン原則
 私たちがチンケンで目指すもの
 利用客に対しては:
 良質の食事と飲み物を納得価格で提供することをめざします。良好なサービスで快適な雰囲気を醸しだし、各人がもっと長く居たいと思うようにします。
 地域に住む貧しい人と不利益者に対しては:
ここで得られる収益を還元することをめざします。正式の開店(7月頃)の後に再度ツィンケン・カードを発行します。これは、収入の少ない人が私たちの店で非常に安い値段で食事できることを保障するものです。
 それに加えて、私たちはJHOオッテンゼン青少年援助の食堂(ホーネン通り68)において、午後はすべてのツィンケン・カード所持者に対し5マルクで食事を提供します。また夕刻・夜間は主にホームレスないし極貧の方に対し無償の食事を提供します。
 ツィンケン活動従業員に対しては:
 ツィンケンならびに上述の食堂での活動を通じて、私たちはすべての人を対象とした意義のある就労支援を達成します。そこでのプログラムは、各人の目標に向けて職業能力・資格を向上させ、通常の労働市場に対応できるようにすることです。

 ご注意ください、練習試行営業です:
 6月9日から私たちの就労支援・職業訓練プログラムを開始します。このことはすべての従業員が必ずしもすべての点で(ツィンケンでの)仕事の全体に習熟しているわけではないことをも意味します。だからちょっとした突発事態がいつ発生するかわかりません。もちろん私たちは開業に向け努力し、かつそれを待望してはおります。ただし、念のために断っておきますが、私たちは実際の営業と同じ条件下での試行をする時間がちょっとしかありませんでした。さらにその後で従業員の交代もありました。新しいコックは6月16日に着任します。私たちは7月にはすべてが正常になることを期待しています。
 それまでは皆さんにこの事情をご理解いただくことをお願いすると共に、改善のためのご提案を寄せられることを期待しております。われわれはそれらのご提案を進んで実行します。
 とはいえ、そのことに関してはみなさまに直接質問するでしょう---。小さなツィンケンで存分にお楽しみください。  ツィンケン-チーム一同

 <無事に帰国、しかし・・・>
 谷さん、有難うございました。
 「公民館の風」はハンブルクから2本送りましたが、本号は東京からの発信です。ドイツからデンマークへ、コペンハーゲンを経由して、15日に帰国しました。約10日間の旅でした。翌16日には、ほとんど休まずに社会教育学会とTOAFAEC総会に出席。
 17日も六月集会に出席する予定のところ、時差ボケで起きたのはもう昼。「父の日」のプレゼントとかで、息子夫婦が最近会わなかった孫を連れて来てくれましたので、とうとう六月集会・二日目は欠席となりました。関係の皆さま、申しわけありませんでした。(ぶ)


(7) ハンブルク便りZ <アルトナ祭についてのヴェント総括(6月24日)
              公民館の風180号(2001年6月24日)

 ハンブルク・オッテンゼン地区社会文化センター《モッテ》は、日本の公民館のあり方を考える上で、きわめて刺激的な施設だ。地域の市民運動・文化運動の背景をもって誕生し、行政的には文化予算からの助成をうけつつ、自主独立の立場を堅持し運動的なエネルギー漲らせている。日本の公民館的な機能だけでなく、児童遊園、蜜蜂など小動物飼育、各種工房(木工、印刷、機械、オートバイ、陶芸、写真、パソコンなど)、ヨット小屋、レストラン(チンケン、先号・便り6参照)、さらには失業対策・職業訓練などの機能も複合的にもっているようだ。職員体制は、谷和明さんの紹介によると、正規職員が10人あまり、それに約120人のボランティア職員。多様なスタッフによって多彩な事業が展開されている。その代表がミヒャエル・ヴェント氏。
 ヴェントさんは同時にオッテンゼン(人口3万あまり)地区の市民祭・アルトナーレの責任者。《モッテ》は施設に閉じこもるのでなく、地域の開発の問題、「まちづくり」に挑戦してきた。地域の「牽引車」とも言われてきた。その集中的な地域活動としての市民祭・アルトナーレの企画・開催。祭りは1999年9月に始まり、今年で3回目。ちなみにアルトナ祭のテーマは「生活、労働、学習」(die altonale:Leben-Arbeiten-Lernen)と設定されている。
 ハンブルク便り(5)(南の風690号)にも記したように、私たちのハンブルグ滞在最後の夜(12日)、お別れ・総括会にヴェント氏は駆けつけ、責任者として、勢いよくアツアツの祭りの総括を語ってくれた。以下は当夜のメモ。とりあえず20項目にまとめてみた。(不足部分、間違いなどは、谷さんはじめ同席の皆さんで修正・補足していただきたい。)

(1)アルトナ祭への参加者は約50万人(実数)。
(2)しかし公式発表は35万人。使用料などの支払い負担等この数で計算。
(3)参加市民運動体・イニシアティヴは140(商業・営利団体はのぞく)。
(4)商業的団体は約130。
(5)主要舞台9、そしてパレード。
(6)舞台に出演した芸術家(大阪からの生活サーカス等を含む)約1,000人。
(7)この他に多数の路上パフォーマンス。実数はつかめない。
(8)64の芸術展示。
(9)アルトナ祭の実行組織は会社形式。ヴェント氏は社長。理事構成(実行委員会)は18名。
 うち会社・企業(DB/ドイツ鉄道、ビール会社、駅前大型店等)数は8名、行政から1名、市
 民団体(《モッテ》も含まれる)は9名。
(10)全体の企画・運営は《モッテ》が中心となって進めた。
(11)「のみの市」など商業的出店関係は、イヴェント企画会社(実行委員の1名)に任せた。
 口出しはしない。企画会社からは出店料?の3%を入金してもらう。
(12)《モッテ》を拠点にして広報活動。PR紙・パンフなど発行。この1年間、ほぼ週1回の頻度
 で実行委員会を開いてきた。   
(13)警察・消防の関係は、モッテが集中的に担当した。
(14)予算・経費は複雑だ。会社・アルトナーレとしては公式?30万マルク(約1600万円)。
 地図・パンフ類は広告収入でまかなう。しかし、これ以外に約50万マルクを使っている。
(15)参加企業としても個別に負担したものがある。たとえば駅前大型店メルカドは約3万マル
 ク、など。
(16)実行委員会、モッテ、各ボランティア等の総労働をすべて商業ベースで換算すれば、
 150万〜200万マルク(約8000万円〜1億1千万あまり)。この額は主観的なものでなく、
 イヴェント会社の見積りもある。会社からは積極的な関与の申し出もある。それを受けよう
 とは思わない。
(17)他の都市からの関心も増え、ネットワークをつくろうとする動きがある、しかし受けようと
 は思っていない。
(18)もっとも苦心したこと(こちらからの質問)。共通の活動目標、共同の責任分担のため、
 どうまとめていくか。傍観的な部分もある。全体的な理念をどう共有するか。地域のアイデン
 ティティ形成のためのさまざまな努力。行政とは一定の協力関係をつくってきたが、政治(議
 会)が市民運動を理解しない場合、対立する場合、がある。基本は市民が(政治でなく)創っ
 ていく姿勢。ただし自ら政党をつくろうとは思わないし、議員になろうとは思っていない。政党
 の役割はこれから消滅していく方向ではないか。
(19)世界のどこかに市民祭・アルトナ祭のモデルはあるか(こちらからの質問)。ない! しいて
 いえば20年前、ロッテルダムで住民の半数が外国籍の地域で、自治体が音頭をとり、マィノ
 リティ・グループを含め文化的な統合をすすめていこう、コミュナールをつくっていこうという試
 みがあったと聞いている。いちどロッテルダムに行ってみたいと思っている。
(20)市民はもっと大きな変化をのぞんでいる。アイデアを新しく出すだけでなく、それを具体的
 なかたちにしていく必要がある。そうでなければ、市民は理解してくれず、拡がらない。アル
 トナ祭は大きな挑戦だ。          
                …その他、略…
左より山口真理子さん、小林、ヴェントさん(ハンブルク・ビール店、20010612) 撮影・伊藤長和さん 







2002〜06 ドイツの旅だより(石倉裕志→■


2003






2004


2005
・ドイツ訪問記録(小林)→







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