【日本教育学会『教育学研究』第65巻第4号、1998年12月】
教育基本法と沖縄
ー社会教育との関連をふくめてー
小林 文人(和光大学)
1、はじめにー占領支配下の教育
戦後の沖縄は、1945年アメリカ軍事占領より1972年「祖国復帰」にいたるまで、日本の施政権より分離され、実質的にアメリカの統治下におかれた。日本国憲法は適用されず、もちろん教育基本法をはじめとする一連の教育法制も、そのままのかたちでは認められなかった。いわば異民族による植民地支配下の教育体制を強いられ、政治的な統制と拘束に呻吟してきた27年間の歴史的体験をもつこととなった。
占領支配下の教育の実態はどのようなものであったのか。とくに教育法制はどのような展開をしめしたのか。そこには、教育及びその法制への厳しい統制に対する苦悶の歴史があった。しかし、この“影”の部分とともに、それに抗する民族主義的な教育運動の“光”の部分が見落とされてはならない。戦後日本の他の地域には見られない、教育法制の民衆的な立法運動の、沖縄独自の展開が創りだされたのである。
その中心のテーマは、戦後日本の教育基本法の理念と法制を占領下沖縄へ導入しようということであり、そのために、異民族による教育支配からの脱却と抵抗の運動が取り組まれてきた。日本の教育基本法は、微修正をうけながら、「海を越えて」
(1)沖縄に伝播し跳躍していく流れがあった。この“光”と“影”は複雑に競合し葛藤しながら、戦後沖縄の教育史を織りなしてきたと言えるだろう。戦後日本教育史のなかでも本来もっと注目されるべき貴重な歴史の断面である。
筆者は、この間とくに社会教育史研究の立場から、その空白を埋めるべく、戦後沖縄の社会教育・文化政策にかかわる記録・証言等を収集し復刻
(2)等の努力を重ねてきた。本論では、これまでの収集資料や先行研究に依りながら、アメリカ統治下沖縄における教育基本法制の展開とそれをめぐる諸運動について、とくに社会教育の観点から光をあてながら、主要な歴史をたどってみることにする。紙数の関係もあり、占領下沖縄27年のほぼ前半、主として次の3点にしぼって事実の経過をみていきたい。
(1)戦後教育資料の伝播と初期教育基本法の導入(1946〜1951年)
(2)アメリカ民政府による布令教育法など(1951〜1957年)
(3)教育四法民立法運動の展開(1952〜1958年)
まず以下の記述の理解のために、簡潔に戦後初期沖縄の行政機構の変遷
(3)をたどっておくことにしよう。アメリカ側では、1945年4月1日沖縄本島上陸の時点において、米国海軍軍政府を設け、いわゆるミニッツ布告を発して日本国の主権を停止させたが、この軍政機構(1946年7月に陸軍へ移管)は、1950年12月「琉球列島米国民政府」(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands -略称・ USCAR)となり、さらに1957年6月以降より、高等弁務官制が布かれた。「民政府」といっても高等弁務官等は現役の軍人から選任され、実質的には「軍政」統治が27年間継続された。
沖縄側の行政機構は、米国軍政府の諮問機関である「沖縄諮詢会」(1945〜46年、宮古、八重山、奄美は「支庁」)から出発し、続いて一定の行政機能をもつ「沖縄民政府」(1946〜50年、宮古、八重山各「民政府」、奄美は「臨時北部南西諸島政庁」以下「奄美政庁」という)、さらに沖縄、宮古、八重山、奄美各「群島政府」(1950〜52年)となり、その後は「琉球臨時中央政府」(1951年)をへて、“琉球列島の恒久的中央政府”としての「琉球政府」(1952〜72年、ただし奄美は1953年に復帰)が設置されてきた。琉球政府は激動のなかの20年の命脈であった。
占領支配下の教育行政は、アメリカ側・USCARによる民間情報教育部(CIE)の流れと、沖縄側では民政府・群島政府時代の文化部・文教部等、琉球政府時代の中央教育委員会・文教局等による教育行政との二重構造をもっていた。また教育法令の体系も、USCARが発する布告・布令・指令等と、沖縄側の法律・法令・条例等(いわゆる民立法)の二重の系統があり、占領者アメリカ側の布告・布令が沖縄側の法令にたいして上位法規としての地位を有していた。
2、戦後教育資料の伝播と初期教育基本法の導入
沖縄の教育基本法は、まず宮古(1948年)、そして八重山(1949年)と奄美(1949年)の、それぞれの民政府時代に、また沖縄本島では群島政府時代に教育基本条例(1951年)として姿をあらわす。その内容・構成は戦後日本の教育基本法に基づいていた。当時、政治的には厳しく分離・隔絶されていた本土の教育基本法が、どのような経過で占領下のこれらの島々に伝えられたのであろうか。宮古ー八重山ー奄美ー沖縄の、それぞれの群島ごとの隠れた秘話があり、それにまつわる人間ドラマが織りなされていた。
これに関連する記録としては、興味ふかいことに、まず日本最西端の島・与那国から始まる。与那国の西の岬からは、晴れた日に台湾の山並みが望見できるほどの距離である。与那国の三集落のうち、中心の租納(そない)に設置されている与那国小学校の沿革史
(4)に次のような記録が残されていた。1946年の日誌である。
「9月3日 由浅弘章氏日本々土に於ける国民学校用教科書並アメリカの教育状況、米国教育使節団報告書等の寄贈」という。当時の与那国は敗戦後の混乱のなか、台湾・沖縄・日本本土をつなぐ「密貿易」の島として知られ
(5)ここに登場する由浅弘章なる人物(与那国出身者)も密貿易に従事していた人であった。さまざまの生活諸物資や文物の交流の接点であった当時の与那国には、戦後日本の教育改革関連の資料もいち早く流れついたのであろう。調査によれば、青年団活動や文化運動あるいは「四つ波塾」などの学習活動も活発な島であった。
(6) 米国教育使節団(第一次)報告書からまだ半年も経過していない時期、この種の記録としてもっとも早い。もちろん1946年の段階では教育基本法がもたらされたわけではない。
“琉球弧”をかたちづくる四群島のなかで、もっとも早く教育基本法を制定したのは宮古であった(1948年4月1日)。本土からおくれることわずかに1年、同じ日付で学校教育法も公布され、六三制による新学制を発足させている。宮古教育基本法の制定をめぐっては、当時の宮古民政府文教部長・砂川恵敷の貴重な証言が残されている。
(7) 一部を抄録する。
「本土から切りはなされた当時は、通信運輸の道は全く絶たれ、縦、横の連絡もとざされた現実では、五里霧中の心境をかこつのみであった。……宮古には幸いなことに秘密の活路が開かれていることに気がついた。それは宮古測候所だけは戦前と同様日本政府の管轄下におかれ……諸物資を輸送する中央気象台の補給船が東京・宮古間を年に四往復していた。私は軍政府の通訳担当の松本先生のとりなしでその船の某船員に近づくことができ、東大に在学中の長男恵弘への連絡をとる道が開かれたのでした。……斯様にして私は恵弘から船員を通じて託送されてくる本土における教育法規や参考書等によって、いろいろと知識を吸収することに恵まれた。」
ともに教育改革に取り組んだ宮古民政府文教部教学課長であった与那覇寛長はこう言っている。「われわれが一番知りたかったのは、本土の新学制や教育法規がどうなっているかということであった。……測候所の船にたのんで教育基本法と学校教育法を送ってもらった。この貴重な資料を手に入れたときのわれわれの喜びと感激は未だに忘れることはできない。」
(7)
このエピソードは宮古だけではない。八重山でも似たような努力がみられた。本土から石垣島測候所へ通ってきた船を媒介として教育関係の図書や法規類が伝えられたのである。「こうして入手した本土の教育基本法や学校教育法を拠りどころとして、新しい八重山の教育の基本を確立するための基本法として八重山教育基本法及び学校教育法が、1949年4月1日付で八重山軍政官の認可を得て公布された。」
(8)宮古民政府に遅れること1年であった。
奄美では、驚くことに現職教師2名による「密航」によって、本土の教育法規や学制改革に関する資料がもたらされた。三原明夫(当時、奄美政庁文教部、のち奄美連合教職員組合長)の証言によれば、次のような経過であった。
(9)
当時(1948年前後)はアメリカの教育を強制されるか、日本の教育を守りぬくかの瀬戸際であるという切迫感があった。本土で六三制が始まったことは風の便りで聞いたが、その内容が分からない。本土から奄美への引揚船が着くと小学校の講堂などが宿舎にあてられたが、「引揚者のなかに本土の学校の先生がいるそうだ」「だれか六三制のことを知っている人はいませんか」と尋ねまわったこともある。なかなか詳細は要領を得ない。文教部として現職の教員の中から本土へ密航して、六三制に関する法規類や教科書を取り寄せようという計画になった。二人の教師があらかじめ辞表を文教部に提出し、万一の場合のためにこれを預かって、全島の教育関係者挙げてこれに協力し二人を送りだす、そういう状況だった。幸いに金十丸が神戸のドックへ行くことが分かり、船長に「これは奄美の教育を生かすか殺すかの分かれ目だ、二人連れていってくれ」「自分の首が危ない」「じゃあ、船員として採用してくれ」と頼んだ。1948年6月に出発、苦心惨憺の末、10月はじめようやく二人は名瀬港に帰ってきた。「教育基本法だの、教科書の見本だの、ソーメン箱に入れて持ってきたんですよ。夜遅かったんですけどね、手をとりあって、ああよくやってくれたと……。」
奄美政庁が教育基本法を公布(1949年5月16日)するのは、二人が資料を持ち帰って6ヶ月後のことであった。その後この密航の秘話はいつまでも奄美の人たちの心をとらえてはなさず、名瀬市では復帰25周年を記念して、ドラマ「鉄鎖の島々」と題して上演されている(1978年)。
3,四つの教育基本法
日本の教育基本法は、このように海を越え、島を渡り、跳躍していった。その経過にみられる物語は、情報化社会の現在では想像もできないことである。そこには、戦後民主主義に基づく新しい教育理念と六三制の実施といった日本本土に共通する教育改革への期待とともに、アメリカ占領下の分離・隔絶された島々だからこそ渇望した祖国・日本の教育法制への熱い想いが読みとれる。各島々に共通して、いずれは日本へ復帰するであろうという希望、異民族の教育体制を強制されてはならないという秘かな抵抗の精神、したがって法律も学制も本土と同一にして復帰にそなえるという民族主義的な教育観があり、指導的な教育者たちの機略と熱情が働いたのである。関係者の聞き取りでも、なお枯れずほとばしり出る当時の熱く重い回想には心打たれるものがあった。
ところで宮古・八重山の民政府と奄美の政庁が、それぞれの教育基本法を正式に制定・公布するためには、アメリカ軍政府の認可を得る必要があった。そのためにいくつかの字句上の修正が加えられなければならなかった。
(1)教育基本法前文の「日本国憲法」の部分は削除されている。
(2)法文中「国家」「国」の表現は「地方公共団体」「公共団体」等に修正されている。 (第一、三、四、六、七、九各条)
(3)「国民」は「人間」(宮古)「住民」(八重山、奄美)「保護者」(宮古)に、「すべて 国民は」は「何人も」(宮古)、「国民全体」は「社会」(宮古)等に修正されている。(第 一、三、四、十各条)
その他にも部分的な修正があり、奄美教育基本法は前文などを簡潔に縮小している。ただ共通しているところは日本に関わる「憲法」「国家」「国民」の部分がすべて否定されていることである。
(10)
しかし本土の教育基本法の構成・内容は基本的に継承されている。当時(1948〜49年)の段階では、アメリカ軍政府が発する教育関連の布告・布令類はまだなく、これら沖縄側の本土教育法制導入についても、後述する「教育四法民立法運動」の場合のように対抗的な関係は生じていない。
(11)
一方で沖縄本島の経過はどうであったのだろう。激烈な地上戦による荒廃があり、戦後は占領軍当局の規制が厳しかった沖縄本島では、当時まだ運輸・移動の自由や言論・集会・結社の自由など大きく制限をうけていた状況があり、教育法制についても認可はさらに遅れる結果となった。教育基本法導入にかかわる上述の気象庁測候船や密航などのエピソードも沖縄本島にはとくに残されていない。沖縄諮詢会及び沖縄民政府の公開されている記録には、学校教育(六三制)なり一部には社会教育についての制度整備が断片的に記されているに止まり、教育法制の体系的な論議は見当たらない。
(12)
したがって沖縄本島に初めての教育法制が姿をあらわすのは、民政府から群島政府の時代に入って、ようやく1951年3月のことであった。宮古・八重山・奄美教育基本法の法制化よりすでに2年ないし3年が経過している。もっとも六三制への移行は1948年にすでに施行されていた。
しかし先行の三教育基本法と対比して新しい展開がみられる。その重要な点は、沖縄本島の三「条例」が、一定の民主化政策(軍政府長官シーツ少将による「シーツ善政」等)のもと、はじめての住民の直接選挙によって選ばれた群島議会で審議され成立したことである。しかも「沖縄群島教育基本条例」、同「学校教育条例」、そして同「教育委員会条例」という体系をもった教育法制の成立であった。議会への教育「条例」提案理由を説明したのは、当時の沖縄群島政府文教部長・屋良朝苗(後の公選主席、初代沖縄県知事)であった。ここで制定された「沖縄群島教育基本条例」は、次のような前文で始まっている。
「われわれ沖縄人は、1945年を境として、新生の歴史を創造すべき使命をになうようになった。そのためには、民主的で文化的な社会を建設して世界の平和と人類の福祉に貢献することが大切である。この理想の実現には、根本に於いて教育の力にまつべきである。―以下略」
宮古教育基本法等と同じく「日本国憲法」「国家」の表現がすべて削除され、とりわけ「国民」はすべて「沖縄人」と修正されている点が印象的である。いわば「沖縄人としての教育基本法」である。全体の構成・内容は本土法と同じであるが、「環境から来る制約を克服し」(前文)「美を愛し」「和の精神に充ちた」(第一条)などの語句が挿入されていて、占領下の悲哀と決意を思わせる苦渋の修正が試みられている。
(13) しかし動向としては、アメリカ側の占領体制が整備強化されていく状況のなか、文言の修正を強いられながらも、自覚的に本土法を取り入れていこうとする意識は明確に一歩前進していると言えよう。この流れが後述の教育四法民立法運動へ発展していく。
この時期にアメリカの対琉球占領政策は、中華人民共和国の成立(1949年)や朝鮮戦争の勃発(1959年)を契機として明らかに新しい段階に入っていた。極東軍事戦略の立場からの基地増強とともに、政治的には、日本からの恒久的な分離政策と徹底したアメリカ化(americanization)ならびに反共産主義「民主化」政策がすすめられた。教育の面では、当初は日本に関する教材・教科書を認めず、英語教育を強制しようとし、アメリカ植民地としての「琉球」と(日本人ではない)「沖縄人」の教育を求めたと言えるだろう。このような占領政策の影響は、とくに社会教育(アメリカ軍政府側は「成人教育」)の面で露骨に現れた。アメリカ「民主主義のショーウィンドー」と言われた「琉米文化会館」が主要都市に設置されるのもこの時期からである。
(14)
いま新しく「沖縄独立」論が台頭してきている今日、
(15) 当時の「沖縄人」としての「教育基本法」の歴史は複雑な感慨を呼びおこす。
4,琉球教育法(布令66号)の登場、その背景
米国民政府(USCAR)は、1952年、各群島を統括する琉球政府の成立(1952年4月1日)に対応するかたちで、USCAR布令66号を全琉統一の「琉球教育法」(Code of Education for the Ryukyus)として公布した(2月26日)。それまでの民政府、群島政府による立法ではなく、USCAR立法によるはじめての教育法制の登場である。教育基本法、学校教育法、教育行政全般、琉球大学等を含む全十六章百六十九条からなる総合的な構成であった。ただし社会教育法制は含まれていない。
(16)
各群島政府の四つの教育基本法(沖縄は同「条例」)は、布令66号の登場によって、これに併呑され廃棄されることになる。しかし、その第一章「教育基本法」の主要部分は、興味深いことに本土法にほぼ準拠したものになっている。それは「四つの教育基本法」の前史があったからであろう。
「教育基本法」部分の本土法との内容的な違いは、前文をすべて欠落していること、「教育財政上の責任」と「解釈」の二つの条項が追加されていること、また各条項についても具体的な表現は異なる部分があり、「翻訳文のせいもあってか表現上の疑問点も少なくなかった」とされる。
(17) それまで否定されてきた「国家」「国民」の語句がここではかえって残されている。
布令・琉球教育法は、全十六章のなかで、新しく中央教育委員会制度(任命制)、地方の教育区と教育委員会制度(公選制)、連合教育委員会、そして沖縄独自の教育財政制度となった教育税等を規定している。この立案過程では、USCAR側は民(沖縄)側の意見を求める経過もみられた。主として、中央教育委員会や教育区教育委員会制度、そして教育税制度等が争点であった。しかし、屋良朝苗(当時、沖縄群島政府文教部長)は次のように回想している。
(18)
「この布令の公布にあたって、米国民政府は、関係者の意見を聞きたいと、四つの群島政府の文教部長を召集した。私たちはみんな強く反対した。その反対があまり強硬なため、相手のマコーミック情報部員はついにしびれを切らして‘君たちとは話ができない’といった。私は‘われわれが反対しても、あんたがたは結局、公布するだろう。しかしわれわれはあくまで反対する’と応じて、話しあいは物別れに終わった。当時の四人の文教部長は、私ばかりでなくみんな、選挙で選ばれた群島知事政府のもとにいたから、ひとかどの抵抗の気概があった。米民政府は私たちの反対を押し切り、布令教育法を公布した。」
この時期に、アメリカ側の教育立法・政策と沖縄側の教育要求・運動は明確に対立と矛盾の構図を示すことになった。もともと布令琉球教育法は、その前年の沖縄群島教育三条例に対抗する性格をもっていた。その背景には、公選制による群島政府から行政主席任命制の傀儡性のつよい琉球政府への移行があり、また1951年9月のサンフランシスコ対日講和条約の締結(1952年4月28日発効)による琉球の分離統治の固定化があった。アメリカの極東戦略に完全に組みこまれていく沖縄の変則的な位置づけ、その固定化への危機感がつよく意識されて、布令66号のような植民地立法・教育法にたいする教育者たちの反発も厳しいものがあったのである。
沖縄のいわゆる「祖国復帰運動」はこの時期に胎動していく。1960年結成「沖縄県祖国復帰協議会」の前史にあたる「日本復帰期成会」は1951年に運動を開始している。とくに初期の祖国復帰運動では、その大きな柱として教育の問題がつよく自覚されていたことが注目される。「復帰は民族の悲願」というテーマの主要な課題として、民族主義的な教育の復権がめざされ、その運動の担い手に(校長など指導層をも含む)教師たちの活発な姿があった。
屋良朝苗は沖縄群島政府文教部長時代に「全島校長会」を数度にわたり召集している。1952年1月の校長会では「日本復帰」が決議された。具体的には次のような教育の課題が要望されている。「日本復帰が近い将来にあることを信じ、文教政策をそこにおきたいと念じている。その趣旨を実現するために、@教育制度を日本と同一にするだけでなく文部省の直轄下におきたい、A学芸大学を設置し日本政府の直轄にしてもらいたい、B校舎建築、施設充実はアメリカの援助とともに日本政府の協力を得て早急な実現を要望する、C日本の国旗を掲揚し国民行事を同一にすること」(陳情要旨)。
(19) もっとも沖縄の日本復帰は決して「近い将来」ではなく、それから20年の歳月を待たなければならなかったのである。
屋良朝苗は、1952年4月の琉球政府成立とともに野に下り、新しく発足した沖縄教職員会(1971年に沖縄教職員組合)の初代会長となった。この時期すでに沖縄教職員会に代表される教育運動の側では、日本教育法制と全面的に同一の教育法令を沖縄で実現しようという課題意識は極めてはっきりしていた。
5,教育四法民立法運動と布令165号・教育法
上述してきた布令66号・琉球教育法が制定された当初から、新しく発足した琉球政府文教局では、教育諸法規の立法ないし改正が検討され始めている。米国民政府が、布令66号について民立法ができるまでの暫定的なものと言明したことにもよるが、
(20) 他方では、本土教育法制を沖縄に実現しようという教育運動側の宿願を背景にしていたことは当然であろう。沖縄教職員会は発足当初からの重要課題として、この年度に新しく審議を開始した立法院や中央教育委員会へ繰り返し「立法要請」を提起している。
記録に示されるところでは、早くも1952年11月の立法院第1回定例会で「社会教育法の立法要請」が陳情されているし、中央教育委員会会議録によれば、同年12月に「教育法改正案についての公聴会」が各界代表(屋良朝苗・教職員会長をふくむ)を招いて開かれている。その意味では、教育四法(教育基本法、学校教育法、教育基本法、社会教育法)民立法運動は、1952年末に始動し、後述するように1958年1月成立にいたる実質5年間の屈折にみちた歩みであった。
(21) 社会教育法立法についての要請が早い段階で出されているのは、社会教育が政策的に重要であることの認識と、それにもかかわらず布令66号琉球教育法では社会教育に関する条項が用意されていなかったことによるのであろう。
1953年6月の第10回中央教育委員会記録「立法要請参考案基本方針」では、「全面的に日本本土の教育諸法律に準ずるようにした」として、教育基本法、学校教育法、教育委員会法、社会教育法の四法にとどまらず、教育公務員特例法、私立学校法、産業教育振興法、琉球文化財保護法、図書館法、博物館法等があわせて検討されている。まさに戦後日本の教育法制の全面的な立法要請案であった。しかしその後の展開では、上記・四法の立法化が集中して取り組まれ、他は1965年以降の段階で、本土法に準拠するかたちで(復帰を視野に入れつつ)徐々に法制化されていった。ただしこのうち「教公二法阻止闘争」(1967年2月)の争点となった教育公務員特例法および図書館法、博物館法は琉球政府下では制定されなかった。
はじめに教育四法をめぐる主要な経過を簡単に見ておこう。法案は琉球政府文教局においてすでに1954年5月には具体化されていたが、立法院として本格的な審議に入るのは1955年春からであった。翌56年1月に法案が立法府として可決してからの約3年間、まことにドラマティツクな紆余曲折の展開をたどった。
(1)1956年1月立法院は法案を可決したが、手続き問題を理由として(実質的には米国民政府の不承認により)琉球行政主席の署名が得られず廃案。
(2)同年4月、ほとんど同案で立法院は再度可決したが、同年10月、米国民政府の拒否により再び廃案。
(3)1957年9月、立法院は四法案を三たび満場一致で可決、米国民政府への「進達」。そして最終的には、この時代の沖縄民衆運動、とくに高揚をみせた島ぐるみ土地闘争、那覇市長選挙をめぐる民主主義擁護運動、そして祖国復帰を求める民衆意識といった政治的かつ運動的な状況に押されるかたちで、1958年1月、米国民政府は法案をやむなく承認する、という経過であった。
ちなみに教育四法最終承認の米国民政府側の書簡は次のような文面であった。アメリカ側の複雑な対応、困惑、あるいは悔しさが読みとれる。(抄録)
「琉球政府行政主席殿(1958年1月7日)…略…
三、ここにあげてある大きな欠点は、いくら強調してもしすぎることはない。…(中略)…この法案は、立法院が住民の教育に対する希望を表明せんとする三度の試みである。故にこの法案にある不備、矛盾,或いは違法の点があるかも知れないが、それにも拘わらずこの法案は、将来立法によって必要な箇所は改正されることを信じ、当局は貴殿が該法案を認可することに関して何らの異議をさしはさむものではない。
琉球列島米国民政府・首席民政官(準将)ボナ・F・バージャー」
(22)
教育四法民立法案審議の渦中(上記(2)再度廃案の後)に、これに対抗するかたちで、USCAR側は、布令165号「教育法」(Education Law、1957年3月2日)を公布している。沖縄側の教育四法民立法運動、あるいはその背景にあった基地・土地闘争や反米運動への“反撃”という性格をもっていた。
布令165号は、教育四法の第1回廃案の直後、1956年段階から米国民政府側では準備が始められた模様で、琉球政府文教局は、民立法化を進めている最中の布令公布は承服できないと強く抗議している。しかし「支配者の強権」によって、1957年新学期の直前、しかも即日実施という強引さで、一方的に公布されたものであった。
(23)
布令165号は全十七章百十五条からなり、総則、文教局、教育委員会・教育区、学校教育、そして社会教育までを含む教育総合法の構成となっていた。しかし布令66号にも掲げられていた「教育基本法」部分は完全に姿を変え、内容的には、たとえば親への服従、政府への協力、教員・教育委員の政治活動禁止、集会・出張・休暇の制限、教員の契約制、任期制限、英語教育の強化など、全体として統制的制限的な傾向をもった植民地教育法の色あいが強いものであった。沖縄教職員会は組織をあげて反対運動に取り組み、教育四法民立法運動はそのまま布令165号廃止運動と連動するかたちとなった。沖縄教職員会の中心にいた福地曠昭(のち沖縄県教職員組合委員長)は、当時の運動的な拡がりを次のように記している。
(24)
「1957年4月27日、那覇で教育民立法促進教職員大会を開き、布令教育法反対を全面的に押し出した。(中略)幼稚園から大学の教師まで、さらにはPTA連合会、各地区教育委員会総会、沖青協、労働団体など、つぎつぎと布令教育法反対の意志を表明し、土地闘争の盛り上がりと呼応しつつ、教育法規民立法を要求する陳情は立法院をゆさぶった。」
ところで皮肉なことに布令165号において、はじめて社会教育関係条項が十四条にわたって設けられている。社会教育については、従来まで「四つの教育基本法」に各1条が規定され、また例外的に「奄美社会教育条例」(1951年)が公布された以外には何らの法的基礎もなかったのである。この社会教育関係十四条は、もちろん本土社会教育法とは大きく内容を異にし、また翻訳臭も強く、全体として管理的性格が強いものであった。この時期は同時に、琉球政府文教局・社会教育行政の創設の時期でもあって、依るべき法制が、占領権力により与えられたもの、沖縄側ないし運動側からすれば、それはむしろ否定されるべきもの、という矛盾した関係はまことに残念なことであった。しかし民衆に対して権力的に与えられたかたちの植民地法制は、所詮現実には受け入れられず定着しえない経過であった。
布令165号教育法は、翌年の教育四法民立法の成立により、わずか1年にも充たない命脈であった。いわゆる布令教育時代はこれで終焉する。
6,五つめの教育基本法、初めての社会教育法
このようにして戦後日本の教育基本法は、教育四法民立法運動により、新たなる跳躍をはたして、沖縄全島統一の法として実現することになった。いわば五つめの教育基本法である。内容的には言うまでもなく「全面的に日本本土の教育諸法律に準ずる」ものであったが、同時に「琉球の行政・財政の線に適合するようにつとめる」ことも留意された(上記「立法要請参考案基本方針」1953年)。
(25) 占領支配下の制約からいくつかの修正もまた必要であった。立法それ自体がアメリカ側の承認を前提としなければならない現実があり、その状況を受忍しつつ、しかしどのようにそこから脱却していく教育の方向を打ち出していくか、が課題であった。
具体的には教育基本法「前文」にいう「われらは、さきに、日本国憲法を確定し」の部分、そして「国家」「国民」の表現をどうするか。「日本国憲法」を削除せざるを得ないとして、それに代わる文言に「日本国民として」を挿入する案が大きな争点となった。立法院(第七回)文教社会委員会の記録(1956年1月7日)を見てみよう。
「中里猛委員…まず前文に挿入したい文があります。“われらは”という冒頭の文句の次 に“日本国民として”を入れたいと思います。布令66号の中でさえ国民となっている のになぜ殊更国民という文句を消すのか、その理由を承りたい。
宮城正行委員…基本法で理想を宣言するのであるから“日本国民として”を入れてもさ しつかえないと思う。
新垣金造委員…私も入れるのにやぶさかではないが、唯しいて強く規定して米国民政府を刺激すると、この立法の成立という点から考えて余りいいとは思われないが、まあいいでしょう。
大湾喜三郎委員…大賛成ですね。委員長、入れましょう。
砂川恵敷委員長…では挿入に決定いたしましょう。(以下略)」
(26)
教育基本法「前文」の当初案は「人類普遍の原理に基き」とだけあったが、これに「日本国民として」を加えること、「国家」「国民」の表現については前文および第一条は本土法のまま活かし、第三条、第四条以下の条文では柔軟に「政府」「住民」と修正する案(中里委員「これについては固執しません」)が確定されたのである。「人類普遍の原理に基き」の表現も本来は日本国憲法「前文」の文言であることにも注目しておく必要がある。短い語句であるが、驚くばかりの「日本国民」と「憲法」への執着である。しかしそこには文字通り「日本国民としての教育」への万感の思いがこめられていた。
しかし米国民政府側にとっては逆に「日本国民として」のくだりが教育四法民立法案を一度ならず拒否する主な理由であったことは明らかである。紆余曲折ののち、当時の島ぐるみの民衆運動の高揚を背景として、民(沖縄)側の教育四法案が「日本国民として人類普遍の原理に基き」の理念を掲げて、結果的に承認されることとなった。屋良朝苗は、その間の厳しい道程を回想するなかでこう言っている。
「その日の夕方、高等弁務官の承認が下りた。当間重剛主席が署名し、教育四法は1月10日公布された。私の今日までの運動の中で、このときが、主席当選の際にもまし、いまもって最もうれしいできごとである。この“日本国民として”のくだりが、その後の復帰運動にとっても大きな支えとなった。」
(27)
紙数の関係からこれ以上の記述の余裕はないが、戦後教育史のなかでも記憶されるべき貴重な教育立法の歩みがみられたことは確かであろう。なお教育四法民立法運動については上沼八郎の詳細な先駆的研究がある。
(28)
このとき同時に成立した学校教育法、教育委員会法、社会教育法を骨格として、その後も一連の教育関係諸法が整備され、占領下沖縄において、戦後日本の教育改革理念に立脚した教育基本法体制が展開していくことになる。しかも、沖縄独自の中央教育委員会制度、連合教育区、教育委員公選、教育税制度(1965年廃止)、さらに米国民政府との対応、教育権返還問題、教育一体化問題、そして復帰対策などの諸課題への取組みが必要であった。それぞれの歴史が興味深い事実を含んでいる。
(29)
社会教育法についても、日本社会教育法(1949年)を基礎にして(1951年・奄美社会教育条例、1957年・布令第165号を介在しながら)はじめて琉球社会教育法が成立したことになる。本土法から9年後のことであった。
沖縄の社会教育は、アメリカ占領下において、独自の経過をたどってきた。前にもふれたように占領当局は自らの政策浸透のために、社会教育・成人教育を“戦略的”に重視した側面がある。たとえば、アメリカ軍政・民政側による反共民主化宣伝(紙の爆弾)、成人学校、琉米文化会館、琉米親善活動、高等弁務官資金による宣撫工作、などのいわば直接的な社会教育・文化政策の流れがあった。他方で、琉球政府・沖縄側の(アメリカ側にとっては間接的な)社会教育行政の施策の流れがあった。前者は物量の面において圧倒的に優勢であり、後者は行財政的にまことに貧弱かつ非力と言わざるをえない。琉球政府による社会教育施策は、公的な条件整備の面で低い水準に低迷し、独自の施設建設などは進展せず、たとえば集落(字)の自治的な公民館の自力建設や、その自主活動の奨励などが典型的な施策であった。この二つの流れ、相互に複雑な競合と矛盾をふくむ二重構造が、占領下沖縄社会教育を切り裂く特徴であり、そのなかでの社会教育法の成立であった。
琉球社会教育法は、もちろん本土法を基本にしている。沖縄の行政機構や地方組織に対応して必要な修正をほどこしているが、その理念、構成、内容は忠実に本土法を継承(ただし第七章・通信教育の項は削除)したものになっている。
(30) もともと社会教育法の基本理念は、すべての住民の自主的な学習・文化活動の奨励と、それに対する公教育行政の条件整備・環境醸成任務を求めているが、当時の沖縄の各市町村(教育区)の社会教育の現実、その公的な条件整備水準は多く低劣なものであった。たとえば社会教育法が定める中核的な施設である市町村設置の公立公民館は、当時は皆無(復帰直前の1970年に初めて公立の読谷村中央公民館が設置された)であり、また市町村の図書館の整備状況も似たような状態であった。新しく成立した社会教育法は、そのような貧弱な現実にあえぎつつ、自らの理念との間に大きな矛盾、乖離をかかえてのスタートであった。
琉球社会教育法は、それから15年の道のりを歩む。1972年の本土復帰の時点で母体としての日本社会教育法と合流し吸収されることになる。
7,占領下沖縄における教育基本法制の定着にかんして
以上見てきたように、戦後沖縄では、本土の他の地域とは大きく異なる教育基本法制の導入・定着の歴史があった。この間の教育基本法制の苦悶の歩みは、沖縄戦後史そのものの重要な断面であり、それにかかわって哀歓にみちた人間ドラマも織りなされてきた。
占領下沖縄における教育基本法制の歴史を振り返ってみて、どのような特徴を拾いだすことができるか。とくに本土の地域定着過程と対比して、沖縄の独自な展開とは何か、またそれは何を問いかけているか。以下、まとめにかえて、いくつかその特徴的なところをあげてみる。
第一は、言うまでもなくアメリカ占領体制の枠組みのなかでの教育基本法制の定着過程であった点である。そこには、一面では屈辱的な植民地法制を強いられる歴史があり、他面では機略と情熱をもって、それに抵抗しつつ、日本の教育基本法制を実現する歴史が創りだされてきた。
アメリカの沖縄統治は、日本の「潜在主権」保有を前提(サンフランシスコ対日講和条約)としていたから、論理的にはこのような矛盾的な関係が成立し得たのであろうが、現実的にはやはり稀少の、その意味では貴重な、歴史的な経験と言うべきであろう。
この過程には、占領者の側の教育法制と被占領者が求める教育法制(日本本土の教育基本法制)があい対峙する関係があった。教育のあり方がそのまま政治的な対立・葛藤のテーマとなり、そのなかで教育基本法の理念、とりわけ「日本国民としての教育」を希求するという方向性が自覚的に認識されていくことななった。占領体制下の制約が、あらためて民族主義的な教育のあり方を問うことになったのである。
第二は、教育法制が「民立法運動」的に取り組まれ、実現した事実である。本土における戦後のさまざまの教育運動では、教育法制そのものにかかわる類似の立法運動はなかったのではないか。法の批判や改正反対等についてはさまざま取り組まれてきたが、理念と法制の実現をめざしての立法運動は経験されなかったように思われる。
教育四法民立法運動を推進した主要な担い手は、もちろん屋良朝苗を代表とする教職員たちであったが、島ぐるみ土地闘争や復帰運動とも結びついて、PTA、青年運動、労働団体、市民団体等への広範な拡がりがあり、民衆運動的な側面をもっていたことに注目しておく必要がある。
第三は、教育法制の地域定着過程における多様なひろがり、その地域史的な視点の重要性についてである。初期教育基本法の宮古、八重山、奄美、そして沖縄本島への“跳躍”の物語は感動的であった。この「四つの教育基本法」から「五つめの教育基本法」の実現は、相互に共通する“伝播”でありながら、それぞれに独自な“跳躍”の側面があり、地域史的な展開が内包されている。戦後初期ではあるが、島にはその島の教育基本法が成立した、という事実からは多くのことを考えさせられる。
教育法制論は国家論と切り離すことは出来ないだろう。しかし、それだけに国家的規模の画一的な論議となり、没地域的な発想に陥りがちである。分権と自治の教育を求めるのであれば、教育を地域史的に捉える視点を欠かすことはできないわけで、その点で、戦後沖縄教育史は多くの示唆を含んでいる。
第四は、教育基本法制の理念とそれが実際に具体化していく現実、あるいは法制の“虚像”と“実像”の問題である。民立法運動によって実現した教育基本法はじめ教育四法の諸理念と諸規定は、現実にどのように具体化されたのか、虚像と実像の二重構造といった問題を考えておく必要がある。
大きな期待をうけて実現した教育法制の理念は、その地域定着過程において、地域の生きた現実の条件のもとで必ずしもそのまま実像化されず、いわば虚像にとどまる場合もあったのではないか。たとえば教育基本法第七条及び琉球社会教育法について言えば、「第二四条、公民館は教育区が設置する」という公立公民館の規定は、本土法に基づきようやく獲得されたものだが、そのまま実像化されなかった。実態としての公民館は(1970年、読谷村中央公民館の設立までー前述)すべて集落が設置した字公民館であった。あるいは「第十条、2図書館及び博物館に関し、必要な事項は、別に立法をもって定める」の規定は、同じく実像化されなかった。
法理念と現実のずれの問題は、必ずしも沖縄「教育四法」だけの問題ではないだろう。むしろ教育四法民立法運動は、激しく「理念」を追求したのかも知れない。それだけに逆にその現実化の問題、あるいは虚像と実像の関係を考えさせられるのである。
教育四法実現の年から早くも40年が経過した。沖縄の祖国復帰運動がそうであるように、教育四法民立法運動もまた、歴史のなかに風化しつつある。現代における沖縄と本土(日本)の関係も、基地問題の認識にみられるように、いまむしろ乖離と不信の淵にあるように思われる。いまあらためて歴史を掘る作業が必要であろう。
<註>
(1)小林文人「海を越えた教育基本法」『季刊教育法』
51号(エイデル研究所、1984年春季号)
(2)東京学芸大学社会教育研究室発行『沖縄社会教育史料』全7集、1977〜1987年、小林・平良共編『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』エイデル研究所、1988年
(3)琉球政府文教局編『琉球史料』第三集、1958年、照屋栄一編『沖縄行政機構変遷史料』 (復帰10周年記念)1982年、など
(4)与那国小学校創立百周年記念誌『創』同事業協賛会・発行、1985年、p218
(5)石原昌家『大密貿易の時代』晩声社、1982年、拙稿「与那国の歴史と社会教育」『東アジア社会教育研究』第3号、1998年、所収
(6)石垣市教育委員会他発行『戦後八重山教育の歩み』(同編集委員会編)、1982年、p671
(7)砂川恵敷伝刊行会編『敬い慕いて・砂川恵敷伝』1985年、pp199〜214、また石原昌家も「教育界に貢献した密貿易」「宮古が八重山、沖縄に先がけて宮古教育基本法を制定したのも密航船との関係がある」ことを指摘している。前掲(5)『大密貿易の時代』 pp125〜141
(8)沖縄県教育委員会編集・発行『沖縄の戦後教育史』1977年、p88
(9)三原明夫「教育は支配に服せず」前掲(2)『沖縄教育史料』第4集、1982年、pp35〜37、同「復帰運動回顧録」鹿児島県教育庁大島教育事務局『戦後の奄美の教育』1963年、
p39、同じく前掲(1)「海を越えた教育基本法」にこの経過を記している
(10)宮古、八重山、奄美各教育基本法については、沖縄県教育委員会編集・発行『沖縄の戦後教育史ー資料編』1978年、また前掲(2)『民衆と社会教育』1988年、p75、など
(11)戦後沖縄教育に関する公的史料としては、前掲(3)琉球政府文教局編『琉球史料』第一集(政治編)、第三集(教育編)、第十集(文化編)、前掲(8)(10)沖縄県教育委
員会編集・発行『沖縄の戦後教育史』同『資料編』が重要である。
(12)沖縄県沖縄史料編集所『沖縄県史料』戦後1〜3(沖縄諮詢会記録、沖縄民政府記録1・2)1986〜1990年
(13)前掲・沖縄県教育委員会編集・発行『沖縄の戦後教育史ー資料編』1978年、p1228〜9
(14)前掲(2)小林・平良『民衆と社会教育』参照。沖縄民政府文教部「成人教育課」のみは「軍政府に直属する」かたちで出発したし、「成人学校」校長、教員は「軍政府の 指令に基づき任免」されるなど、強くアメリカ側の政策的期待と拘束を受けていた
(15)大山朝常『沖縄独立宣言』現代書林、1997年
(16)前掲・沖縄県教育委員会編集・発行『沖縄の戦後教育史ー資料編』1978年、p1127〜1158、改正10次(1956年)を重ねている
(17)沖縄県教育委員会編集・発行『沖縄の戦後教育史』1977年、p107
(18)屋良朝苗『回顧録』朝日新聞社、1977年、pp14〜15
(19)沖縄県祖国復帰協議会他編『沖縄県祖国復帰運動史』沖縄時事出版社、1964年、p69
(20)前掲・沖縄県教育委員会編集・発行『沖縄の戦後教育史』1977年、p143
(21)前掲(2)『沖縄教育史料』第2集、1978年、「教育四法民立法関係資料」の項、同じく前掲(2)小林・平良『民衆と社会教育』第2章「戦後沖縄の社会教育法制」の項等を 参照。以下特記しないかぎり両文献による
(22)前掲・沖縄県教育委員会編集・発行『沖縄の戦後教育史』1977年、p149
(23)同上、p130
(24)福地曠昭『教育戦後史開封ー沖縄の教育運動を徹底検証する』閣文社、1995年、pp123〜127
(25)前掲(2)『沖縄教育史料』第2集、1978年、「教育四法民立法関係資料」の項、p20
(26)前掲・沖縄県教育委員会編集・発行『沖縄の戦後教育史』1977年、p150、ただし委員名など若干補った。なおこのときの砂川委員長は、かっての宮古民政府文教部長である。砂川恵敷は、沖縄の教育基本法民立法の重要な局面に二度かかわったことになる
(27)前掲・屋良朝苗『回顧録』朝日新聞社、1977年、p55
(28)上沼八郎『戦後沖縄教育小史ー教育民立法成立の過程ー』南方同胞援護会、1962年、
同『沖縄教育論ー祖国復帰と教育問題ー』南方同胞援護会、1966年、など
(29)前掲・沖縄県教育委員会編集・発行『沖縄の戦後教育史』、同『沖縄の戦後教育史ー資料編』1977〜78年、に詳しい
(30)前掲(2)小林・平良『民衆と社会教育』p87、横山宏・小林文人『社会教育法成立過程資料集成』昭和出版、1981年、第四部「沖縄・奄美関係社会教育法制」の項、参照
トップページへ