【日本図書館協会『図書館雑誌』第86巻8号、1992号8月号 所収】

 アメリカ占領下・沖縄の図書館

                        小林文人(東京学芸大学・教授)


   


 
はじめにー戦争と占領と

 沖縄は、太平洋戦争末期のアメリカ軍上陸(1945年4月)により、日本のなかで唯一地上戦が闘われ、文字通り戦場となった。全島ほとんど焼き払われ、死者は20万人(非戦闘・住民10数万人を含む)をこえた。それだけではなく、その後27年間の長きにわたって日本から分断され、政治主権を奪われ、アメリカの直接的(戦後日本の占領は間接統治)かつ軍事的な占領支配下にあった。そして今年は沖縄の本土復帰(1972年)から丁度20年の年にあたる。
 いったい戦争は、そして異民族による占領支配は、図書館になにをもたらしたのであろうか。不幸なことに沖縄の現代史は、この問題について、日本の他の地域に類をみない断面図を実証的に提供することになってしまった。しかしその事実はいま、次第に風化しつつある。
 沖縄の公立・公共の図書館の歩みは、1910年「沖縄県立沖縄図書館」の創立から始まるといってよいが(1)、初代・伊波普猷をはじめとする歴代館長の努力によって「熱心に蒐集せられた豊富な郷土文献は、沖縄図書館の一大特色として内外学会に知れわたり、郷土研究家の続出を見るにいたった」といわれる(2)。琉球・沖縄研究資料の宝庫というべき県立図書館の貴重蔵書は、40年の歴史と蓄積を経て3万冊に達した。しかし、これらは戦争の激化とともに、ほとんどすべてが消失してしまったのである。
 1944年に館長に就任し、『沖縄図書館の最後と復興』の苦難の責務を担った城間朝教の証言は、当時の厳しい状況を次のように伝えている。「…三万冊の蔵書を如何にして戦災より免れることができるか…本島内(北部)羽地村源河の山奥に…散在疎開することに決めた。まず郷土文献の内最も貴重なものは図書館の大トランクに詰めて…残りは部落内の大きな家を借りうけて移し…、然るにもう既におそかった。…空襲は激しくなり、北部方面までしらみつぶしに空襲にあい…稲嶺部落も源河部落も次ぎ次ぎ焼き払われた。空襲の中でも貴重本の取り出しに必死の努力をしたが、到底力及ばず…ことごとく灰燼に帰してしまった」のである。
 沖縄県立図書館八重山分館の場合は、八重山教育部会が民家を借りて1914年設立した通俗図書館がその前身であったが、太平洋戦争下では「…友軍(日本軍)が家屋を利用し、壁板は炊飯用に、図書はトイレットペ−パ−に使用、終戦時には僅か3冊しか残らなかった」と伝えられる(3)(引用文中の( )は筆者注、以下同じ)

 戦後占領初期・図書館復興の曲折

 沖縄の戦後は瓦礫と米軍の鉄条網の中から始まった。ようやく生命をながらえた人たちも虚脱と放心状態にあり、他方でアメリカ軍政の圧倒的な支配・統制のなかでの戦後復興であった。
 集会・結社・言論を含めてすべての自由がアメリカ軍当局の手に握られていた。たとえば「軍政府はネコで沖縄はネズミである。ネズミはネコの許す範囲でしか遊べない…」(沖縄民政府軍民協議会におけるワトキンス少佐の発言)、「…ヨイ気ニナッテ集合シテ民政府及軍政府ノ方針ヲ批判スルガ如キハ甚ダ不心得極マルモノデアル…沖縄住民ハ未ダ自由ナ身デナク…弁士ハ猫ヲ怒ラセ鼠ヲ咬マサウトシテ居ル」(「集会及集合ニ於ケル言論指導ニ関スル件」軍政府ヨリ知事ニ対スル通告要旨)−いずれも1946年−というような状況であった(4)。戦後初期の図書館復興の努力も、このような政治状況のもとで進められたのである。
 戦後の図書館の再建については、なによりもアメリカ軍政本部の認可を得ることから始めなければならなかった。わずかに残されている当時の資料をたどると、沖縄民政府側の文化部機構図(1946年4月−ただしこれも軍政府指令による)には、軍政府正式認可以前に既に「図書館」の記戴があり、また同年6月文化部資料には「仮図書館1」が、また「将来の計画」として「図書館の設立」があげられている。あわせて同資料は「米軍政府将校ハンナ少佐(当時大尉)の活動に待つもの多大なり」と特筆している(5)
 占領初期において、このハンナ少佐等の開明的・学究的な将校(前掲ワトキンス少佐を含めて)が文化奨励・復興に果たした役割はたしかに大きいものがあった。たとえば戦後いち早く博物館(米国軍政府沖縄陳列館、1945年8月)を設立したのも彼らであった。とくにハンナ少佐については戦後沖縄の「ルネサンス」をもたらした人として絶賛に近い評価が与えられる場合がある。 
 しかし、これらの開明派の軍政要員が推進した文化奨励・伝統芸能復興などの施策も、沖縄の日本からの分離と単独軍事支配というアメリカ占領政策を基底としていたこと、その文化的側面ともいうべき宣撫的な性格をもっていたこと、を見逃してはならない(6)
 ところで「図書館再建ニツイテ」のアメリカ軍政府による認可(1947年3月21日)は次のようなものであった。沖縄民政府側から出されていた申請に対し「A中央図書館ヲ那覇ニ設置シ、他ノ人口稠密地域ニ3箇所分館ヲ設ケルコト、B(雇用人員、図書館長−略)、C本事業ノ資金ハ図書館ガ自営シ得ル時期迄ハ軍学務部ヲ通シテ申請セヨ。軍政府副長官 W.H.クレイグ」(7)
 焦燥のなか、図書館の復興をめざしていた関係者にとって「この指令に接した時の喜びは今に忘れることは出来ない」ものとなった(前掲、城間朝教−同年4月「沖縄中央図書館」初代館長となる)。
 この認可に基づいて、まず4月に石川分館、8月に知念村に本館、10月に首里分館、11月には名護分館が開館した。何れも不完全な間借りの建物に簡単な閲覧設備を用意し、僅か2700冊の図書を4館に分けて運営するという極めて貧弱な、しかし誠に涙ぐましい出発であった。本館は、はじめ民政府構内にかまぼこ型兵舎コンセット(約50坪、館長を含めて職員4人)を借り受けて開館した。しかしその後コンセットは猛台風により飛散し、那覇市内を転々と移動し、結局アメリカ側に引き取られるかたちで「琉米文化会館」に吸収された(1950年12月、当初は「情報会館」と呼ぶ)。石川、名護の両分館の場合はむしろ開館当初からアメリカ「情報会館」としての位置づけをもたされていたように思われるが、同じく51年9月に石川・名護の各「琉米文化会館」として吸収された。
 このように戦後初期沖縄の図書館復興の歩みは、アメリカ軍政府(1950年12月、琉球列島米国民政府 United States Civil Administration of the Ryukyu Islannds,=USCAR)直轄の「情報会館」乃至「文 化会館」の設立となかば一体的なものであった。戦後の制度認可から数年をまたずして、1950年段階で「沖縄中央図書館」の主要部分は事実上解体し、「琉米文化会館」の図書部として機能することになるのである。その結果、沖縄本島ではわずかに「首里分館」のみが、度重なる台風の被害で休館を繰り返しながら、唯一の沖縄側の図書館として生き延びる。当時、知念村の高台で、コンセットの沖縄中央図書館「本館」の開館にたずさわった崎浜秀雄(のちに1972年本土復帰時に沖縄県立図書館初代館長)は次のように証言している。「…本館が米軍に乗取られたものですから、首里が孤立して民間のものとして残ったのです。…首里の方でいくらか資料を確保しているということで譲歩したのだと思います。そうでなければ全部つぶされてしまいますから…それで他の分館も軍が引きとることを反対しなかった。」(8)
 因みに首里分館は1949年「首里図書館」となり、1952年琉球政府創立により、先島の八重山、宮古とともに正式に政府立図書館に移管された(文教局組織規則第9条)。さらに1961年文教局組織規則の一部改正により琉球政府立「中央図書館」となり、1972年の本土復帰を迎えることになる。

 沖縄の図書館法は−

 異民族による占領支配は、民衆の生活や教育・文化に大きな“影”を落とすものであるが、同時にそれに抵抗し、自立と自治をめざして格闘する実践や運動などのなかにキラキラと輝く“光”の部分があることに感動させられる。逆説的なとらえ方ではあるが、異民族支配の故にそれが創り出した“光”がある。たとえば戦後沖縄の場合、祖国復帰運動やそのなかでの青年運動がそうであるし、あるいは集落自治による「地域興し」エネルギ−の躍動がそうであろう。
 教育運動史に目を注いでみると、なによりも「教育四法民立法運動」があげられよう。アメリカ軍・民政府当局(USCAR)の圧力に抗して、民族主義教育の立場から日本本土の教育四法(教育基本法、学校教育法、教育委員会法、社会教育法)を沖縄に実現しようという運動があった。沖縄教職員会を中心とする民衆運動のエネルギ−に支えられて、USCARの拒否に屈せず、琉球立法院は三度び四法案を可決、最終的にUACARは教育四法を認めざるを得なかった(署名・公布−1958年1月)。苦節5年を越える闘いの歴史であった。日本の社会教育法は、この運動の勝利によって、海を越え、「琉球」社会教育法(一部語句の修正あり)という兄弟を持つことになったのである(9)
 それでは図書館法についてはどうであろうか。興味深いことに教育四法民立法運動の初期の段階では、「教育法令立法要請参考案」(1953年2月)の一つとして図書館法が検討されている。参考案では、社会教育法と並んで図書館法の趣旨が次のように示されている。「1(略)。2 新しい時代の図書館の在り方を明らかにし公衆への図書館奉仕を強調し“動く図書館”としての機能を確立するようにした。3 図書館の健全な発達のために、政府並びに中央教育委員会及び地方公共団体の任務を明らかにした。」(10)
 しかし図書館法は実現されなかった。「教育四法」として成立した教育基本法では本土法と同じ第7条において、また社会教育法では第10条において「図書館」が規定されていたに止まる。因みに同第10条では「図書館及び博物館は社会教育のための機関とする。図書館及び博物館に関し必要な事項は別に立法をもって定める」(本土法と同趣旨)とあるが、アメリカ占領下においては最後まで「立法」されなかった。
 もっとも、ようやく実現した社会教育法の場合も、法の理念や規定がそのまま現実化したわけではない。たとえば同第24条「公民館は教育区が設置する」規定にもかかわらず、実際には教育区(市町村)による公立公民館の設置はほとんど実現しなかった(1970年復帰直前に読谷村中央公民館が設置されたのが唯一の事例)。法を超えて、占領政策そのものが、強い力で社会教育・文化そして図書館の実態を動かしていったのである。その具体的な機関が「琉米文化会館」であった。
 なお占領下の図書館法制としては、先述の琉球政府文教局組織規則のなかに「付属機関」の一つとして「図書館」(名称及び所掌事務の2条のみ)が、あわせて「中央教育委員会規則」として「中央図書館管理規則」(全17条、1966年)が規定されていた。またこの時期には「学校図書館法」(1965年)および同「施行規則」等が整備されたことが注目される。

  “アメリカ民主主義”のショ−ウインド−

 東アジアにおいてソ連・中国と対峙し、1960年代にはとくにベトナム戦争の主役を担ったアメリカにとって、沖縄は重要な戦略的拠点であった。アイゼンハワ−大統領が(アジアに共産主義の脅威がある限り)「沖縄の無期限保有」(1954年)を宣言した当時、沖縄は「太平洋の要石(Keystone of the Pacific )」と言われまた「アメリカ民主主義のショ−ウインド−(Showcaseof Democracy)」とも称された(11)。「琉米文化会館」は、この沖縄占領統治の二枚看板を背景にもっていた。つまりUACARの直轄施設として一方では軍事的かつ統制的な占領政策のなかに位置づけられながら、他方ではそれと結びついて宣撫的ないし奨励的な「民主主義のショ−ウインド−」としての役割を演じさせられたのである。 資料をたどっていくと、琉米文化会館はすでに1947年に発足している。世界各地のアメリカ占領地区がそうであったように、主要都市(戦略地点)に当初は「情報会館」(Information Center)として設置(1947年−石川・名護、1950年−那覇、1951年−奄美、1952年−宮古・八重山)された。ただしこの間に情報会館の名称は、その軍事的ニュアンスを避けるため琉米文化会館(Ryukyuan-American Cultural Center)に改められた(1951年9月)。そして、奄美は1953年に、沖縄の5館の場合は1971年に、本土復帰を前にして閉館し、それぞれの自治体に移管された。20年あまりの命脈であった(12)。      
 琉米文化会館はどのような役割をはたしたのであろうか。四半世紀に近い歴史の展開は曲折を含むが、たとえば初期成立期にめざされた方向は次のようなものであった。1953年のUACAR・民間情報教育部(のち広報局)民事年次報告によれば、琉米文化会館の主要な目的として、?琉球人の自助能力の増進、?アメリカ合衆国とその文化及び目的への共感と理解、?共産主義宣伝の意図・方法の暴露と対抗、?UACARの活動及び目的の琉球人への周知、などが挙げられている。占領軍当局が被占領者へむけて設置した施設として当然ともいえようが、文化的な側面を含みつつ、同時にきわめて政治的な色合いが濃い内容である。その後とくに1960年以降、復帰運動や反基地闘争が拡大をみせる段階になると、政治的・イデオロギ−的性格がさらに濃厚になっていく。「沖縄の帝王」といわれたUSCAR・高等弁務官の個性もまた少なからず影響を与えた。「沖縄の自治は神話である」(1963年)と広言してはばからなかった第3代高等弁務官P.W.キャラウエイ中将の強力な反共・離日そして琉米親善の政策は、たとえば琉米文化会館の書棚から「中央公論などを含めてその(ある程度まで受け入れていた日本雑誌の)数が半分近くに減らされる」など、直接の政治・イデオロギ−的統制となってあらわれた。琉米文化会館は「プロパガンダ活動の長い鎖の重要な連結点」であり「直接に民衆と交わる最前線」という意味においてきわめて戦略的な施設(USCAR・渉外報道部資料)とされていた(13)
 1955年前後の時点で琉米文化会館の職員配置は、那覇21人、名護15人、石川15人、宮古13人、八重山13人、合計77人という堂々たる陣容(1967年の段階では若干縮小されて65人)であった。各館ともに文化事業部(行事部)と図書部から成り、司書長を含めて4〜5人のライブラリアンを擁していた。施設規模は、660u(宮古)〜1366u(那覇)の鉄筋二階建、公共施設が貧弱であった当時の沖縄では、文字どうり文化の殿堂として威容を誇った(14)
 琉米文化会館の事業内容はきわめて多彩である。館によって違いはあったが、成人教育の各種講座、音楽、演劇、芸能、美術工芸、写真、映画、展示、軽スポ−ツ、青年活動、子ども活動などのさまざまなプログラムが展開された。施設の利用者・活動参加者も多く(最盛期・1966年、5館合計314万人、USCAR年次報告より)、また会館の活動から生まれた「クラブ」やサ−クル・団体も少なくなかった。この意味では琉米文化会館はいわば多目的文化センタ−であり、当時の本土のどの施設と比較しても遜色ないほどの都市型公民館でもあった。
 しかし、いうまでもなく琉米文化会館の中心的な機能は図書館的サ−ビスにあった。USCAR統計によれば1967年当時において、蔵書冊数は約1万5千(うち英文版5千)であるが、貸出冊数約40万冊、入館者数約78万人(うち学生・生徒・児童58%)という数字が公的に報告されている。なかでも、各館の移動図書館(Mobile Unit)サ−ビスはきわめて活発で、ステエイション数369、巡回文庫数1428、両者の貸出冊数約6万、という水準であった。移動図書館(文化会館)は本を積み、CIEフイルム・映写機を積み、あるいは月刊『今日の琉球』(USCAR広報誌)や『守礼の光』(米陸軍第7心理作戦部隊広報誌)−「紙の爆弾」と呼ばれた−を満載して、字(集落)公民館を走り、学校をまわり、また「琉米親善センタ−」(コザ、嘉手納、座間味、糸満)などを駆けめぐった。沖縄はアメリカ占領下において、はじめて近代的な“動く”図書館サ−ビスを経験したのである。
 前述したように1960年代に入ると、琉球政府立中央図書館・同分館(復帰後の沖縄県立図書館)も機能していくわけであるが、しかし当時の沖縄の図書館界を実質的にリ−ドしたのはむしろ琉米文化会館であった。沖縄図書館協会(1962)が発足し、同『協会誌』を発刊させ(1964)、あるいは豊富なプログラムを盛り込んだ読書週間・図書館週間などの主要行事を展開させてきたのは、これら琉米文化会館の力量によるところが大きかった(15)。これを利用する一般の住民あるいは学生にとっても、占領下の概して公共施設サ−ビスが貧困な中で、琉米文化会館の活動を通してはじめて「近代施設」「文明」「教養」「芸術」などの価値を実感したものも少なくなかった筈である。
 しかしながら琉米文化会館は、所詮アメリカ占領者側が沖縄民衆に与えた施設である、という事実を無視することは出来ない。占領政策の拘束と統制の下で“図書館の自由”は大きく侵害されざるを得なかった。たとえば「文化会館時代はやはり束縛された感じがありますね。息づまるような、異民族に支配されているという感じで人格が無視されていましたよ」「現状をチェックされ、本の内容にも厳しく、ごまかしがきかず、カットされたこともありました」「購入希望のリストを作成するわけですが、反共的なもの、アメリカに有利になる本が許可の対象になるわけです」などの当時の関係者の回想は切々たるものがある(16)。アメリカ側の広報誌『今日の琉球』『守礼の光』については復帰運動の高まりとともに「受け取りを拒否された」「学校や部落によっては配布後そのまま焼却した」事実もあった。1962年に新築された八重山琉米文化会館の場合は、一室がアメリカ民政官オフイスになった関係でもあるが、「共産主義者」「革新の支持者」調査などおこなわれ、「CIA的性格を帯びていくように思えた」という証言も生々しい(17)
 琉米文化会館は、その図書館システムとしてはたしかに近代的な相当の水準をもった公共図書館と言うことができようが、その生命ともいうべき“自由”を半ば奪われた占領支配下の図書館であったという事実は、やはり否定出来ない。

 市町村と集落の図書館
   
 アメリカの対沖縄占領政策は、その政策に必要な範囲で社会教育・成人教育を重視した。しかし、琉米文化会館にみられるようなアメリカ側の直轄施設については力をいれる一方で、沖縄側の施設・職員・財政等の公的な“条件整備”については冷淡であった。1972年復帰の時点では、市町村・自治体の公的社会教育の水準は、本土との比較において三分の一ないし四分の一(住民一人当り社会教育費27%)の低水準に止まっていたと見ることができる(18)。図書館についても同様であって、アメリカ側は沖縄の公共図書館の育成には協力的ではなく、復帰当時の県立図書館の本土との格差はほぼ三分の一、そして市町村立図書館の数はわずかに名護市立(設立時町立)崎山図書館1館のみであった(19)
 「沖縄の帝王」のポケットマネ−といわれた高等弁務官資金(1959年より、毎年20万ドル前後の予算)は、きわめて政治的宣撫工作費の性格が強いものであったが、集落公民館建設にはかなりの件数が支出されているものの、図書館については(一部未見の資料あり)見当らない。
 ところで名護町立崎山図書館は、1966年に崎山喜昌氏の郷土への想いから寄贈・建設された。施設80坪(当時)、図書2800冊(学習参考書を含む)、他にUSCAR寄贈1279冊(うち洋書1164冊)というささやかな出発であった。会館当時から女子青年会員の献身的な奉仕活動があり、また南方同胞援護会(日本政府援助)、NHK、市民団体、崎山喜昌氏をはじめとする個人からの寄贈本によって蔵書が蓄積されるという経過であった。ちなみに1971年度の受入図書は、公費210冊、寄贈758冊(蔵書総計5803冊)であった(20)。公費の貧しさを人々の善意が包みこみながら沖縄唯一の市町村立図書館は復帰を迎えるのである。
 占領下沖縄の図書館については、あと一つ注目すべき動きとして集落(字公民館)の図書館・室の活動があげられよう。沖縄の独特の集落公民館についてここで詳述する紙幅はないが、全琉800をこえる集落共同組織の事務所(ムラヤ−=村屋、1953年頃より公民館と呼ぶようになる)には小さな図書室や文庫が設けられてきた経過がある。いずれも集落の規模はさほど大きくはないが、そこには住民の日常的な暮らしの中での自治と協同の結びつきが基礎条件として(現在でも)生きているという事が出来よう。集落の自治と協同の力が時には図書室をつくり、あるいは文庫の活動を生み出してきたのである。
 例えば北部地区(やんばる)では、かって名護琉米文化会館が移動図書館を山原一円に走らせていたが、そのサ−ビス・ポイントは主要には集落公民館であった。あるいは1963年からは、南方同胞援護会が援護事業の一つとして「図書贈与」運動を行なうが(1971年までに全琉で累計1億3664万円、約16万6千冊、2千セット余)(21)、これらの図書がやはり集落の公民館に多数配本され、公民館を拠点に「巡回文庫」として利用してきた経過がある。当時本に飢えていた住民たちは「本土」への想いと「本」への想いとを重ねあわせて活用したという。名護市東江区では南方同胞援護会からの寄贈本が契機となって、公民館文庫(専従女性1人)が設けられた。あるいはまた「沖縄子どもを守る会」が提唱した「教育隣組」運動(1958年以降)のなかで、集落に家庭文庫が作られた事例もある。 
 中部地区の読谷村波平区公民館は、「経済門」と「文化門」を門柱に掲げ、活発な集落自治活動に取り組んできた公民館として注目されてきたが、「文化門」の脇に「波平公民図書館」が建設(1962年、鉄筋2階建、45坪、司書1人)されている(因みに「経済門」の脇には「共同売店」があった)。集落の図書館としては本格的なものであるが、その前身は1932年「波平青年文庫」まで遡ることができるという。戦争で灰燼に帰したあと、住民相互の献本運動と区(公民館)費による購入、それに南方同胞援護会その他からの寄贈本により、復帰時には蔵書数約3500冊をかぞえた(22)
 このほかにも、名護市久志、宜野座村惣慶、金武町伊芸あるいは並里などの集落の公民館では、専有施設・専従職員をもった「集落図書館」を共同の出費で設置し、現在機能させている。小さく狭い空間ながら、そこに子どもたちが集まってきて本に熱中している姿には感動させられる。このような(本土になかなか見られない)事例をみると、沖縄の戦争と占領の苦難の歴史があるからこそ、かえって集落の協同の力と住民自治のエネルギ−によって必然的にこのような図書館を創り出すことになったのではないかと教えられる(23)。 

 おわりに

 復帰後20年を経過して、いまようやく沖縄の市町村図書館が躍動を始めている。とくにこの数年の図書館建設の動きは目をみはるものがある。那覇市、浦添市をはじめとして10市のうち9市(糸満市を除く)が本格的な新しい図書館を始動させている。町村部ではまだこれからであろうが、43町村のうちすでに6町村が図書館を設置した。沖縄の図書館の新しい時代が始まったといえよう。
 それだけにいま改めて自らの歴史を問い返す必要があるのではないだろうか。本土からの格差をうめ、本土の先進的な理論と事例に学ぶ視点とともに、それだけではなく、沖縄の独自な歴史と地域のエネルギ−を深く問い直し、それを土台に図書館運動を新しく発展させる課題があるのではないだろうか。沖縄という地域の眼に立脚して、沖縄独自の図書館の理論を創造していくときなのではないだろうか。
 占領下の歴史をたどってみて、沖縄の図書館は本土の図書館が経験したことがない歩みをもっていることを痛感する。それは例えば、@無からの戦後復興の道程、Aアメリカ図書館システムとの出会い、B占領支配と“図書館の自由”の重要性、C地域のエネルギ−と集落図書館の可能性、D本への切ない想い(占領下の図書館づくりは献本運動によって支えられてきた)、などである。かけがえのないこれらの体験を、これからの新しい創造の歩みにどのように生かしていくか、期待は大きい。

〈参考文献〉

(1)山田勉「沖縄の図書館と図書館人」1990、図書館史の項  
(2)城間朝教「沖縄図書館の最後と復興」『琉球史料』3、1958
(3)沖縄県立図書館「八〇年の歩み展」1991、P83
(4)琉球政府文教局『琉球史料』10、1964、P8
(5)沖縄県教育委員会編『沖縄の戦後教育史』資料編、P48
(6)小林・平良編『民衆と社会教育』エイデル研究所、1988、序章・1章
(7)琉球政府文教局『琉球史料』3、1958、P433
(8)「琉球文化会館時代を語る」『沖縄県図書館協会誌』11号、1984 
(9)小林文人・平良研一編『民衆と社会教育』前掲、2章
(10)東京学芸大学社会教育研究室編『沖縄社会教育史料』2、1978、P22 
(11)宮城悦二郎『占領者の眼』那覇出版、1982、P203
(12)小林・平良編『民衆と社会教育』前掲、5章(琉米文化会館)
(13)琉球政府文教局『琉球史料』10、前掲、P16
(14)東京学芸大学社会教育研究室編『沖縄社会教育史料』5、以下この資料による
(15)小林・平良編『民衆と社会教育』前掲、7章(漢那憲治・執筆)
(16)「琉球文化会館時代を語る」(座談会)『沖縄県図書館協会誌』11号、前掲
(17)東京学芸大学社会教育研究室編『沖縄社会教育史料』5、P37   
(18)小林・平良編『民衆と社会教育』前掲,3章(財政、猪山勝利執筆)
(19)安仁屋以都子「沖縄県立図書館の整備計画」「占領下の沖縄の図書館」『みんなの図書館』
 1989・2
(20)「沿革」名護・崎山図書館(1971)
(21)沖縄協会編『南方同胞援護会17年のあゆみ』 1973、P241   
(22)波平公民館発行『波平の歩み』1969、P72〜8
(23)比嘉洋子「アメリカの公共図書館の印象と沖縄の小単位の公共図書館のあり方について」『沖
 縄県図書館協会誌』9号、1978

付記:本稿の作成にあたって、中村誠司、組原洋子ほかの皆様から資料提供をいただいた。
 記して感謝したい。