【南の風】発行リスト・ぶんじん日誌 
−901号(2002年7月8日)〜1000号(2003年2月6日)−

*(日誌)801号〜900号    
*(日誌)1001号〜1050号


                               
第901号【2002年 7月 8日】上海とのお別れパーテイ、韓国の研究、裁判傍聴1
第902号【2002年 7月10日】第77回研究会案内、沖縄本注文、裁判傍聴記録2
第903号【2002年 7月12日】上海から感謝をこめて、大連通信、宮古の集い
第904号【2002年 7月15日】上海訪日団の余韻、石垣便欠航、名護出版パーティ
第905号【2002年 7月16日】台風お見舞い、『おきなわの社会教育』、沖縄本のミス
第906号【2002年 7月17日】暑中お見舞い、訃報・山辺賢蔵さん、石垣から平良へ
第907号【2002年 7月20日】9月モンゴル行き日程変更、全国集会課題別部会の準備
第908号【2002年 7月21日】77回定例研究会の報告、モンゴル行きの変更旅程
第909号【2002年 7月23日】大連より帰国、八重山のキャラバン記事(短信26)
第910号【2002年 7月25日】多文化探検隊プログラム、モンゴル行き、本の注文
第911号【2002年 7月26日】伊藤長さんより、イギリスへの“帰宅”、下地隆子さん
第912号【2002年 7月28日】地域史・字誌づくりの討議の柱、沖縄本の発送
第913号【2002年 7月30日】沖縄本の反響、帰国して、定例研究会への追加発言
第914号【2002年 8月 1日】平井夫妻の証人尋問、モンゴルへの旅計画、航空券
第915号【2002年 8月 3日】全国集会へ向けて訪沖、モンゴルへの旅、堀之内町
第916号【2002年 8月 5日】映画特集・この素晴らしき世界、走れ!ケッタマシン
第917号【2002年 8月 7日】ようやく夏休み、夏の夜のモノローグ
第918号【2002年 8月 9日】撫順の平頂山殉難同胞遺骨館など、お盆休み
第919号【2002年 8月11日】78回定例研究会案内、沖縄へ、広州より訪日希望
第920号【2002年 8月13日】石原メール開局、久しぶり野村メール、「狗爺涅槃」
第921号【2002年 8月15日】名護集会会議、「人間の条件」、少年Bの8月15日
第922号【2002年 8月17日】上海呉メール、旭丘高校教研集会、名護エイサー
第923号【2002年 8月19日】歌もあり78研究会報告、名護エイサー、ふるきゃら
第924号【2002年 8月21日】私達の証人尋問、白保メール1年、町田「ばあん」
第925号【2002年 8月23日】アチミスル(朝露)訳詞、9月研究会に参加
第926号【2002年 8月25日】訪韓報告、レディングからの便り、広州より送稿
第927号【2002年 8月27日】沖縄タイムスの書評、アチミスルに思い出して
第928号【2002年 8月28日】緊急連絡!全国集会プログラム変更、研究会々場も
第929号【2002年 8月31日】沖縄本の販売状況、モンゴル行き、名護全国集会開幕!
第930号【2002年 9月 3日】名護全国集会めでたく終了! 教研集会生徒会長の発言
第931号【2002年 9月 5日】第79回定例研究会ご案内、全国集会写真をアップ
第932号【2002年 9月 7日】台湾生涯学習法、中国茶博物館、風の部屋、台風16号
第933号【2002年 9月14日】モンゴルより帰国、白衣を借りて、南亜より、石垣より
第934号【2002年 9月16日】研究会々場の変更、山辺さんを偲ぶ、モンゴル報告1
第935号【2002年 9月19日】東アジア社会教育研究会、ジュネーブの日本茶喫茶
第936号【2002年 9月20日】ベトナムより帰る、韓民の来日、全国集会後援御礼
第937号【2002年 9月22日】八重山の名月、中秋の月を掬う、まあるいお月さま
第938号【2002年 9月23日】故山辺賢蔵さんを偲ぶ、山辺悠喜子さんのこと
第939号【2002年 9月25日】モンゴル祭in 東京の報告、“風の部屋”に泊まって
第940号【2002年 9月27日】第7号・学会に間にあわず、これからの新しい歩み
第941号【2002年 9月29日】北京より、大都市研参加、上海報告書、柳さんから
第942号【2002年10月 1日】沖縄タイムス論壇、台湾「終身学習法」日本語訳
第943号【2002年10月 4日】公民館学会呼びかけ、沖縄の村祭り、江沢民引退?
第944号【2002年10月 9日】バークレー・市民がつくる町、風の部屋、華声和語
第945号【2002年10月12日】80回研究会案内、鷲尾コンサート、ジュネーブより
第946号【2002年10月14日】モンゴルへの旅・私たちの思い、占領下の文化展
第947号【2002年10月16日】愛知川・まちかど博物館、モンゴル報告集づくり
第948号【2002年10月18日】うらそえ青年祭、名護eグループメール閉鎖、竹富
第949号【2002年10月20日】80回研究会報告、韓国へ、「おきなわ」本の普及
第950号【2002年10月22日】台湾の終身学習法、上海の本づくり、モンゴル報告会
第951号【2002年10月23日】桑原重美氏から、街道と居民委員会、モンゴル報告1
第952号【2002年10月25日】上海の本づくりへの期待、山口モンゴル報告2
第953号【2002年10月28日】バークレーツアー、全国図書館大会など、親指作文
第954号【2002年10月31日】訃報・駒田錦一氏逝去、大都市の風創刊、歌の工房
第955号【2002年11月 2日】仮称「社区教育」研究会、新石垣空港問題(白保36)
第956号【2002年11月 4日】広州より、モンゴルより帰日、種子取り祭と多美子
第957号【2002年11月 7日】風アドレス変更、上海本の執筆、モンゴル報告第二版
第958号【2002年11月 8日】名護から“ゆんたく”、奈良正倉院展へ、那覇「ちむ」
第959号【2002年11月10日】番愚市訪日団、11月定例研究会、沖縄研究(科研費)
第960号【2002年11月11日】「社区教育」研究会の立ち上げ、「赤い花白い花」bU
第961号【2002年11月13日】広州の訪日団・名簿とスケジュール、傍聴記録を
第962号【2002年11月14日】保育と就労の保障裁判記録、上海より黄丹青さんへ
第963号【2002年11月16日】広州ようやく来日、今年の和光松本塾、鹿児島より
第964号【2002年11月18日】広州訪日団より感謝、新しい参加、和光松本塾
第965号【2002年11月21日】沖縄本の販売、社教主事募集、長野県地域住民大学
第966号【2002年11月23日】山原島酒之会、新石垣空港問題、上海に風とどかず?
第967号【2002年11月25日】カイロより、12月研究会、韓国の一坪共有運動
第968号【2002年11月27日】フフ・モンゴル・オドム、教育基本法問題シンポ
第969号【2002年11月29日】エイデル新刊本紹介、上海に風とどく、20日研究会
第970号【2002年12月 2日】12月定例研究会、台湾からの来日、上海・呉メール
第971号【2002年12月 4日】沖縄研究会(福岡)メモ1、北海道に戻って、歌四つ
第972号【2002年12月 7日】沖縄の字・集落公民館調査、やんばる青年の集い
第973号【2002年12月10日】ジュネーブから、社会文化学会へ、ガラビ壕、松本
第974号【2002年12月12日】新・市民活動の風bQ,沖縄12・8平和集会
第975号【2002年12月14日】充実した沖縄調査、新空港問題・十年後を考える
第976号【2002年12月16日】韓国で反米集会、ゲルの写真を、大草原に思いはせ
第977号【2002年12月18日】二つの地位協定、開業ナース、奥のリュウキュウアユ
第978号【2002年12月19日】1月恒例の新年会ご案内、和光・松本塾のご報告
第979号【2002年12月22日】82回研究会の報告、社区教育学習会、渡部さんへ
第980号【2002年12月24日】名護市民投票から5年(おきなわ短信38)、眉屋私記
第981号【2002年12月26日】上海の朱榴芳さん、HP「古宇利区長日誌」
第982号【2002年12月28日】1〜3月の研究会、黄丹青さん、楊武勲さん
第983号【2002年12月30日】1月研究会の予定、白保メールHP,これからの風
第984号【2003年 1月 2日】今年もどうぞよろしく、各地から新年のご挨拶
第985号【2003年 1月 4日】高尾山稜の日の出、八重山の雨、裁判3月に結審
第986号【2003年 1月 6日】国立のマンション取り壊し判決、10年ぶり日本の新年
第987号【2003年 1月 9日】ソウルより、和光ドンド焼き、海勢頭豊バレエ公演
第988号【2003年 1月10日】1月定例研究会ご案内、科研費・沖縄研究の胎動
第989号【2003年 1月13日】愛知川で馬頭琴、旧琉米文化会館フィルム、新年会
第990号【2003年 1月15日】新年会おわる、26日打合せ会、きっと春が早い?
第991号【2003年 1月17日】八重山・宮良からの便り、上野景三さんへ文化奨励賞
第992号【2003年 1月19日】1月定例研究会の報告、沖縄本の普及、東京の歩み研
第993号【2003年 1月21日】『東アジア社会教育研究』第7号目次、英文目次
第994号【2003年 1月23日】スロヴェニアより、宮良の種取り祭前日、けーし風
第995号【2003年 1月25日】愛知川だより、「ルイズ―父に貰いし名は」
第996号【2003年 1月27日】風・ここらでちょっと一区切り? オホーツク研究会
第997号【2003年 1月29日】久しぶりのTOAFAEC 事務局会議、風の存続について
第998号【2003年 2月 1日】風「一区切り?」案への意見、「伊藤ルイさんのこと」
風・号外【2003年 2月 3日】お知らせ:海勢頭コンサート、北区と町田の嘱託職員
第999号【2003年 2月 4日】50号ごとに別の人が風を吹く案、堀之内の合併問題
第1000号【2003年 2月6日】新しい風のイメージ、新登録のお願い、平田大一公演




  南の風・ぶんじん日誌(901号〜1000号)

第903号:2002年7月12日
歌の工房
     −7月8日、『おきなわの社会教育』刊行なる!
       ホームページにハイビスカスそえてアップ!
◇七夕の笹の涼風運びくれし待ちし新本さやさやとして
◇荒き世に生きよ幼な子その未来祈りて紅花ホームに飾る

第904号:2002年7月15日
<台風のすき間をぬって出版パーティ> 【おきなわ短信】(23)
 新本『おきなわの社会教育』が世に出て、やけに台風がやってきます。
これまでにないフットワークで、琉球列島をキャラバンする出版報告会そして名護・全国集会プレ集会のスケジュールが動きはじめたのに、沖縄に渡る日が台風6号の余波をうけ、いま沖縄本島から石垣に移動する日に大型台風7号(955 ヘクトパスカル)の直撃にあい、那覇のホテルから動くことが出来ません。上記・鷲尾メールのように、14日の那覇から石垣へのすべての飛行機が欠航。いま沖縄本島内の路線バス、海と空の便、すべてが止まっています。すごい風です。
 明日予定の石垣の出版パーティに果たしてうまく出席できるかどうか、心配です。東京から参加の私たちはすでに予約席は消滅し、空席待ち整理券のみ、名護実行委員会からの中村誠司さん(名桜大学)は午前11時の席をお持ちだそうですが、それまでに台風一過となって、飛行機が飛んでくれるかどうか。
 ところで13日の名護・出版パーティ(名護市中央公民館、17:00〜 )は、印象深い盛大な会となりました。東京からエイデルの新開英二さんと小林夫妻、九州からは松田武雄さん(九州大学)と小林平造さん(鹿児島大学)、隣の与論島からは赤崎隆三郎さん、浦添市内間の青年会のの皆さん、そして平良宏さん(大宜味村喜如嘉)や島田隆久さん(国頭村奥)など久しぶりのヤンバルの皆さんと名護の方々。
 102歳の長老あり(全国集会・高齢者の分科会で報告予定)、北部地区医師会病院長あり(東大・宮原研究室出身の医師・宮田道夫さん)。
 ぶんじんは、短かく次のようなご挨拶をしました(概略)。
1,四半世紀にわたる名護との交流のなかでも、この日の集いはまことに印象的、いつまでも忘れな いだろう。
2,70名ちかい執筆者が一人の脱落者もなく、ほぼ予定通りのスケジュールで刊行できたことに驚い ている。8月末の第42回社会教育研究全国集会準備に活用していただけるだろう。
3、本の評価は読者によってこれから定まってくるだろうが、編者としては、「おきなわの社会教育」の 現在を俯瞰するこれまでにない本が出来たのではないか、歳月を経てもきっと価値を失わないだろ う(と期待している)。
4,これまであまり深まりをみせなかった沖縄と本土の社会教育の対話と交流を深める本になるので はないか、沖縄から日本の社会教育に向けてのメッセージをよみとってほしい。
5,もちろん課題は少なくない。
6,これからの沖縄社会教育の、活力ある展開の大きな契機となってほしい。  

第905号:2002年7月16日
<取り返しのつかないミス>   【おきなわ短信】(24)
 7月8日夜、新本『おきなわの社会教育』(公式発行日は7月31日)
が刷り上がってもう1週間。毎日、時間があれば飽かずページをめくっています。本を創ったものが共通に味あう醍醐味・・・とも言えましょうが、実は不安と緊張のひととき。どこかにミスはないか、各章の見出しは適切だったのか、本編と資料編の関連如何、目次に間違いはないか、索引はどうか、などなど。
 いまはデジタル・入力になりましたから、単純な誤植は少なくなりました。しかし、やはり落し穴はあるもの。本が出来上がって初めて発見するミスが出てくると、天を仰いで嘆息! 活字になって世に出た以上、取り返しがつかないのです。
 こんどの本では、この四半世紀にわたる「沖縄社会教育研究会」の記録を(沖縄も東京も、いくつかの曲折のあと結果的に)収録することが出来ませんでした。しかし歳月を重ねてきた歩みです。4月の編集会議、たしか中村誠司さんの発言だったかと記憶していますが、巻頭の第1章(ぶんじん執筆)に東京と沖縄の“研究交流史”を付してはどうか、ということになりました。
 紙数はあまりなく、短い文章にまとめなければなりません。しかし当然のことながら記録に間違いがあってはならない。第1章に急ぎ書き足す作業をしましたが、わずか2ページを書くのにかなりの時間を費やしました。
 沖縄研究の初期、現地研究調査(科研費)の事務局長・当間(現在、名城)ふじ子さんからは「先生、最初からのメンバーを書き忘れてはなりませんよ」「△△さんを入れるように・・」などと助言をうけました。再校ゲラで確かに△△さんは追加しました。
 これで万全だ、簡潔ないい記録が出来た、などと思って、最終ゲラ読みの夜など、あとは本の出来上がりを待つのみ、新しいワインのコルクを開けて、乾杯したものです。  沖縄へ発つ日、台風6号の影響をうけて、那覇到着は1日遅れの12日となりました。沖縄へのフライト、飛行機が大きく揺れて悪い予感がありました。その直後の“発見”でした。悪夢の瞬間。大事な人を書き忘れていたのです。おきなわ側の研究会の永年勤続表彰ものの事務局長・玉那覇正幸さん(宜野湾市教育委員会文化課長)のお名前が抜け落ちていました。
 あわせて研究会初期からの主要メンバーである東武さん(もと沖縄県青年団協議会々長)や田場盛順さん(同)など、中頭青年会の猛者たちの名前も欠落している。何たることか!
 取り返しのつかないミスとは、まさにこのこと。本の活字はいつまでも残りますし、また残ってほしいのに、研究交流史のこの部分は1日も早く消えてほしい。
 玉那覇正幸さんとは、旅行中ということもあって、まだ電話にアクセス出来ず、きちんとしたお詫びの機会がありません。宜野湾や中頭地区をもう大きな顔をして歩けなくなりました。

第906号:2002年7月17日
<難民から賓客へ>   【おきなわ短信】(25)
 7月14日、台風7号に見舞われて那覇滞在を強いられた私たちは、「空席待ち整理券」だけを頼りに、15日早朝から空港につめかけました。ホテルで朝食もとらず、なんとか石垣に渡り、この日予定されている出版祝賀会・全国集会プレ集会に出席したい思いからです。
 台風・欠航明けの那覇空港は、まさに“難民”の群れ。私たちもそのなかに立ちすくみ、気を取り直して列に並び、ひたすら忍の一字。若い元気な連中のなかの年寄りは、同じ難民のなかでもとくに惨めです。気を取り直して、やっと石垣行きのチケットを手にしたときは正直ほっとしました。機中でようやくサンドイッチにぱくつきました。
 しかし、石垣空港で渡慶次賢康さんに迎えられ、「よくいらっしゃいました!」の一言からは、文字通り賓客になった気分。中村誠司さんも到着。二人で沖縄本の出版報告会と名護集会呼びかけを無事済ませたあと、夜は石垣グランドホテルで「小林夫妻を囲む交流の夕べ」が開かれ、旧知の方々、八重山の若い社会教育関係者が(驚いたことに与那国からも)多数集まってくださって、感激の夜となりました。
 16日朝は、初めての小林富美のために竹富島へ。上勢頭芳徳さんから連絡がいったらしく、久しぶりに前本(旧姓、鈴木)多美子さんも帰路の埠頭にかけつけてくれて、再会を喜びあいました。
 16日午後は、宮古空港で、下地達男さん(城辺町、元社会教育主事、現在は建築課長)に迎えられ、宮古地区社会教育主事協会の定例会(私たちのために急遽開いてくれた)に出席。いい本が出来ましたよ(小林)という話と、名護集会へどうぞお出かけ下さいよ(中村誠司さん)の呼びかけをしました。
 これで今回の「琉球列島キャラバン」日程はめでたく終了!
いやその後には、宮古の夜の歓迎「お通り」が待っていて、今やや二日酔い気味ながら、爽快な朝を迎えています。
 誠司さん、そして富美・ぶんじん、お疲れさまでした。

<山辺さんを偲んで・・・> 同第906号
 いまから20数年前、山辺さんは私たちと一緒に沖縄を旅されました。そのとき以来、当時・東京学芸大学社会教育研究室で開いていた毎月の沖縄研究会にほとんど欠かさず出席され、一時期の常連でした。戦後、中国に留まって、解放軍とともに転戦されたお話など、貴重な証言を報告していただいたこともあります。恒例の9月18日「松花江上」をうたう会のために、大きなポスターの裏紙に、自ら大書された中国語の歌詞(ピン音付)は私たちの宝物。いまでもクルクルと巻いて大事に保存しています。今年の9月18日は、久しぶりにこれを開いて、「九一八」を歌いたいもの。山辺さんを偲んで・・・。
 想いおこせば、山辺さんグループに同道して訪沖したことがある小林富美が、その後20年間沖縄行きの機会をもちませんでしたが、今回ようやく決断、猛暑と台風の沖縄に来ています。「琉球列島キャラバン」が先島をまわるというので、自ら申し出て参加、いま平良のホテルに一緒に滞在中です。はじめての石垣・宮古の旅です。しばし山辺さんを偲んで思い出話に時間を忘れました。

第909号:2002年7月23日 【おきなわ短信】(26)
<八重山へのキャラバン記事(八重山日報・八重山毎日新聞より>
 「ぶんじん」の記事、ちょっと面映ゆいのですが・・。渡慶次賢康さん(石垣市)から新聞掲載の知らせがありましたので、同新聞のホームページから採りました。
○「地域を見つめ直そう」
 小林文人氏来島、沖縄の社会教育を語る
 沖縄の研究に携わってきた小林文人東京学芸大学名誉教授が石垣市へ来島し、15日に大浜信泉記念館で小林教授を囲む社会教育関係者の研修会及び交流会が開かれた。
 小林教授は、名護市で8月30日から3日間の日程で開催される第42回社会教育研究全国集会沖縄・名護集会(同実行委員会、社会教育推進全国協議会主催)に先駆け、自身も著者の一人である『おきなわの社会教育−自治・文化・地域づくり』(エイデル研究所)刊行の報告などに訪れたもの。
 15日の研修会で小林教授は「戦後、何もないところから自分たちで何とかしなければならなかった沖縄では、字公民館の活動などに代表される地域の自治的な取組みが展開。こうした取組みは“生涯学習”の原点とも言うべきもので、都市部で“地域”が失われつつある現在、見つめ直されるべき」など、沖縄の社会教育がもつ歴史の独自性や重要性について語った。
社会教育研究全国集会が沖縄の地で開かれるのは初めてのことで、今回は「ジンブンよせあって、21世紀の自治・文化・地域を創ろう」をテーマに「集落の自治と文化」など六つの課題別学習会と「字の伝統と現代の子どもの育ち」など22の分科会が開かれ、それぞれの部会で市民団体などが事例発表を行う。
 同集会の問い合わせは名護市教育委員会社会教育課(電話0980−53−5429)まで。
 写真(略)=社会教育関係者等の集い(八重山日報、7月16日)
○「沖縄らしい社会教育を」
 小林文人氏が講話
 8月30日から9月1日の3日間に名護市で開催される「第42回社会教育全国集会沖縄・名護集会」(社会教育推進全国協議会主催)を前に15日、主催者側の小林文人氏、中村誠司氏が大浜信泉記念館で石垣研修会を開いた。
 同名護集会は、「ジンブン寄せ合って21世紀の自治・文化・地域社会を創ろう」をテーマに開催される。
 石垣集会では郡内の社会教育関係者を対象に、小林氏や中村氏が同沖縄・名護集会開催の意義や、小林氏等の著作「おきなわの社会教育」の発刊に当たって講話を行った。
 その中で小林氏は戦後の沖縄の社会教育の流れについて触れ、「沖縄がいかに本土化していくかという社会教育ではなく、沖縄の独自性をふまえ、沖縄的な活力を生かしていくべきだ」と述べた。
 その具体例として、「県内に800を超える字公民館の存在など、本土の社会教育の在り方に対し、ある種のメッセージがあるのでは、と感じられる」と述べ、沖縄らしい生涯学習のあり方について講話した。
 写真(略)−沖縄の社会教育のあり方について講話する小林氏
                     (八重山毎日新聞 7月18日)

第911号:2002年7月26日
<ニュース・下地隆子さん(城辺町出身)ハガキ>
 旧姓・新城隆子さん、といえば知る人ぞ知る、懐かしい人です。東京学芸大学時代の沖縄社会教育研究会・初期メンバー。那覇の「おきなわ社会教育研究会」会員でもありました。しかし結婚された後、いつの間にか消息が途絶えました。
 今回、琉球列島キャラバンで宮古島を訪れた機会に、同郷の城辺町・下地達男さんに探していただきました。川崎の住所が分かりました。次回以降の研究会案内を差し上げる約束をしました。どうぞよろしく。
 「…(略)… 先生の声を聞くことができ、感謝・感激でした。思えば、長い年月が過ぎて行ったのですね。同世代の“生き様”とは“逆”を生きて、なんとももどかしい日々を送っています。
 なつかしきおだやかな声“日々の怒濤”我を静して我に帰らしむ
 涙でかすむ目をぬぐいつつ、お会いできる日を心待ちして。かしこ
         川崎市中原区下小田中1−25−7 下地隆子」

第913号:2002年7月30日
<『おきなわの社会教育』の反響>
 いまようやく執筆者への送本、献本(学会関係や沖縄関係、校正・索引など手伝っていただいた皆さんへの)作業をほぼ終えたところ。本の公式発行日は7月31日。この間、いろんな方からの礼状や感想が届いています。
 全般的にもちろん好評、静かな反響が始まっている感じです。編者としては有り難いことですが、「風」に収録するには“手誉め”になって、ちと面映ゆい(「時宜にかなった」「記念すべき」「見事」「タイムリーな力作」「とどまることを知らないエネルギー」「沖縄の底力と先生の情熱」などなど)感じ。申しわけありませんが、省略させていただきます。献本への礼状が主ですから、誉め言葉は当然でもありましょう。いただいた各位に、あらためて御礼申しあげます。
 いろんな書状等のなかから1点だけご紹介。7月28日(ハガキ):
「すばらしい『おきなわの社会教育』を有り難う。僕は来週、手術なので沖縄に参加でき ませんが、皆さんに何卒よろしくお伝え下さい。御礼まで。小川利夫(代)」

第916号  2002年8月5日
<「走れ!ケッタマシン−ウェディング狂騒曲」>
 いま各地で上映会が始まっている“走れケッタマシンと”いう映画をご存知ですか。いったい「ケッタマシン」とは何?
 片田舎(ロケ地は長野県飯山)に暮らす平凡な中学生が、日頃ケッタマシンと呼んでいる自転車の競技レース大会を開催し、さびれた商店街の活性化・町おこしの功労者になる(だが、警察に追われる)というストーリー。
 背景には転機にたつ農村、棚田と農業の風景、地盤沈下の商店街、中学生問題、非行、頑固な親父、陽気なオバサン、など。そして若者たちの友情と恋、農協倉庫での結婚式でクライマックス! カメラがなかなか冴えていて、自然活写の素朴かつ大胆な映像が楽しい。
 「ふるさときゃらばん」が初めてつくった映画なのです。石塚克彦監督・脚本。もちろん石塚さんにとっても初めての映画づくり。これまでのミュージカル・ステージでお馴染みの人物とテーマがぎっしりつまって映画になりました。最後の場面では ♪ザ結婚♪ の合唱も。
 「田園ミュージカルというスタイルで日本映画の新しい可能性を開いた上出来の一作」という評(井上二郎/セブンシリーズ/7月号)。出演は、上条恒彦、美保純、風見章子、名高達男、石井苗子など。お馴染みの「きゃらばん」の芸達者たちは、すべて脇役で奮闘していました。
 映画を見にいくきっかけは? ご存知・八朔友二(学芸大学・小林ゼミ卒、ふる・きゃら制作部)が電話をかけてきて、一向に暇にならない“ぶんじん”を憐れんで、一夜(高田馬場・会員制クラブの)飲み会に誘ってくれたのです。そういえば最近「ふる・きゃら」もあまり観ていません。飲み会は、ふる・きゃらの新作・サラリーマン・ミュージカル「パパの明日はわからない」宣伝を口実に集まった感じ。やや怪しげ?なマンション・レストランに、すべて初対面の、女社長、業界誌ディレクター、宗教法人コンサルタント、情報関連ビジネス経営、大手企業企画室チーフ、その友人、など。それにもと大学教授。戦前生まれは一人だけ。
 この席と一緒に「走れ!ケッタマシン」ロードショーの案内をいただきました。8月スケジュールでは、東京は1日だけ(3日、三越劇場)。全国1,000カ所での上映を目指しています。 
 「かって、日本中どこにでも映画館があり、大きな画面をみんなで共有し、泣いたり笑ったり・・街中の話題になったものでした。しかし、映画館が少なくなり、世代毎ごとに見るジャンルが分かれ、大勢で一緒になって楽しむ映画の醍醐味もなくなってしまったかのようです。
 この映画はあえて大手配給会社に頼らず、全国各地の地域型ロードショー方式で公開されます。お問い合わせはふるきゃらシネマまで。」(当日配布のちらしより)
 受付の制作部・倉重千登世さん(「ふるさときゃらばん」100号ピンスポット欄)と初めて挨拶を交わしたところ、同郷の久留米出身、しかも隣の小学校の卒業とのこと。驚きました。いろいろ出会いがあるものです。劇場ホールでは、久しぶりに山形の佐藤藤三郎さん(旧やまびこ学校)とも会いました。この映画を見るためにわざわざ上京してきたそうです。お互いに懐かしく、仲良く写真におさまりました。ホームページにもアップ、どうぞご覧ください。

第917号:2002年8月7日
<夏の夜のモノローグ>
 ようやく夏休み。福岡に来て、案外と(東京より)しのぎやすい夜を楽しんでいます。もう草むらでは、虫が「ちろろ・・」と鳴いていますし、昼には、つくつくぼうしも聞こえてきました。
 4月から自由になったはずなのに、宮仕えをしていた頃より忙しく、「こんなはずではなかった!」とこぼしてみても、あとの祭り。すべて自分がまいた種だ、と自らをたしなめて8月を迎え、やっと休みの気分になったという次第。全国集会準備で頑張っている名護の友人たちには申しわけないけれど、しばしゆっくり、孤独を楽しみつつ、汗を出しては昼からビールを呑んでいます。
 もともと7月下旬から8月は、日本を離れて、旅に出るつもりでした。しかし、7月中旬、琉球列島キャラバンの日程が入り、9月上旬(沖縄から帰ってその足で)モンゴル行きがまっています。すこし体を休めなさいという声もあり。7月下旬からの旅に同行予定だった富美も(まだ仕事に拘束されて)「来年にしましょう」と言い出す始末、そのかわり中旬の沖縄に行きたい・・・、そんな経過でした。彼女は20年ぶりの沖縄、皆さんに歓迎されて楽しそうでした。
 油山では、3月に和光大学研究室から運んだ本・資料類が未整理のまま山積みになっています。今日で福岡滞在・三日目、しかし書庫整理の作業は遅々として進まず。自ら誓いを立てました。「久しぶりに対面した本もけっして開かない!」「こんな資料があったのかと驚いてもぜったいに読まない!」
 思えばこの40年来、書籍・資料の移動に苦心惨憺してきました。九州を追われて東京へ、東京に疲れて九州へ、招かれてまた東京へ、東京での転居が3度、研究室の移転も3度、そして今年また九州へ。1冊・1袋も棄てず、いっしょに引っ越してきました。
 その度に研究室の若い皆さんにご苦労かけました。1995年の3月、ダンボールの重さに階段の下でへたりこんだ石井山くんのことなど、今でも我が家の語り草です。
 4月からは、福岡での生活を中心にしよう、というのが「ぶんじん」の夢でした。なにしろ書庫があり、白樺3本の庭もある。しかし男女の論争があり、時代の趨勢そのまま、もろくも男は敗れて、東京が主たる生活になりました。そうなると、ある程度の本・資料を手元に置いておかねばならない。というわけで、まだ蔵書は東京・福岡に分断されたまま。旅はまだ続きそうです。
 お世話になった皆さんのためにも、雑ぱくなコレクションながら、油山文庫を広く活用していただけるときが1日も早く来るよう、書庫整理に精を出したい、と思っています。あと少し時間をいただきたいのです。 

第921号:2002年8月15日
●<8月11日から15日にかけて〜少年Bの1945年8月>
 8月15日が来ると、あの年の真っ白の5日間を思い出す。自失の毎日、細かな記憶は空白、だが、歳月が経過しても忘れられぬ強烈な体験、奇妙な自分史の一コマ。
 風919号にも書いたように、1945年8月11日は故郷・久留米の大空襲。生涯もっとも悲惨な1日。米軍の艦載機も群れ飛んで、ほぼ1時間前後で我が町は紅蓮の炎に包まれ焼け落ちた。天皇の終戦放送のわずか4日前だ。
 少年B(当時・旧制中学2年、13才)は、その日も学徒動員で陸軍需品廠の労役に従事していた。4月からは学校に通った記憶はない。毎日、足にゲートルを巻いて、久留米から東へ約10キロの善導寺へ狩り出されていた。久大線の駅から山中へ軍の需品(日常用品、「突撃イチバン」など)を運ぶ労働が主で、強制連行・朝鮮人と一緒に荷物を担いだ。彼らと少年たちとの間には奇妙な交流があり、アリランやトラジの歌をそのとき覚えた。6月になると(恐らく沖縄が落ちたからだろう)連日のグラマンなど艦載機の襲来があり、機銃掃射を受けて目の前で監督の江上(と記憶している)伍長が戦死した。実弾が“プス、プス”と土にささるあの音がいまも耳にこびりついている。級友も二人、被弾して大怪我をした。少年Bの“戦場”体験だ。
 話をもとに戻そう。ほとんど毎日のように発令されていた空襲警報、11日も爆音に怯えて穴に身を隠していたところ、誰かが「久留米が燃えている!」と叫んだ。小高い丘から見ると、はるか西方は見たこともない黒煙の太い柱が天まで立ちのぼっていた。晴れた日だったが、太陽も消滅し真っ黒の地獄の空。あの光景は生涯忘れないだろう。
 そこから少年たちは、山を駆け下り、黒煙の真下で燃えているであろう我が家を目指して、駆けに駆けた。10キロの道を休まず駆けた。そして異様な臭いの焼け跡にたどり着いたのである。
 少年Bの生家は、その前年、軍需工場(当時・日華ゴム、いま月星ゴム)周辺の「疎開」対象として、久留米師団の兵隊たちの手で引き倒された。いまは道路になっている。その裏の小さな借家に引っ越していたが、辛うじて焼け残っていた。しかし、焼け出されたすぐそばの分家や近くの親戚などが転がりこんで、一夜にして25人前後の大世帯となった。
 みな着の身着のまま、はく靴もなく、食べるものもない。狭い家にどう寝たか、どう食べたか、記憶はまったく喪失している。すでに配給の機能は解体し、八女の農家の知り合いに食料の調達(買い出し)に行ったことだけ覚えている。自転車をこいでの買い出し、少年B(長男)に期待された役割であった。
 その4日後、15日の正午にラジオから天皇の声が聞こえてきた。よく聞き取れなかったが、戦争が終わったらしいことは分かった。かんかん照りの夏の日、しんと静まり、セミしぐれのみ聞こえていた。呆然自失とはあのときのことをいうのだろう。

第929号:2002年8月31日
<第42回社会教育研究全国集会(名護)、見事に開幕!>
 台風15号の影響を受け、名護・全国集会は大幅な日程変更。初日の30日は第1全体会にかわる特別プログラム。しかし、これがきわめて好評!
 夜は、名護ヒンプンガジュマル横のヒージャー(山羊)屋に有志が相集い(約40人)、盛大な交流会となりました。帰路は、名護市「やんばる船」など青年エイサーの「道ジュネー」(全国集会にあわせての行事)の歓迎を受け、心おどるひととき。あらためて沖縄の祭りの豊かさを実感しました。

第930号:2002年9月3日
<名護・全国集会、めでたく終了!>
9月2日夜、さきほど名護から東京に帰ってきたところです。全国集会ご参加の皆さん、心を寄せていただいた方々、お疲れさまでした。有り難うございました。
 9月1日(全国集会第3日)、第2全体会プログラムが終わって、久しぶりに昔の「おきなわ社会教育研究会」(那覇)のメンバーが集まって昼食を一緒にしました。お互いに何か別れがたいものがあったのです。喜納勝代、新城捷也、名城ふじ子、平良研一などの皆さん、それに東京からの山口真理子さんとぶんじん。25年前の研究会発足のこと、その後のいろんな交流など、話はつきず・・・。
 1977年の福岡全国集会(第17回)に沖縄(田場盛順さんや喜納さんなど)が初めて出席した当時のこと、名護(稲嶺進さん・現名護市収入役など)が出会った第22回富士見集会、雲仙集会での島袋正敏さんの挨拶(そのうち「沖縄で開きたい」)など、いろんな歴史を想い出すにつけ、感無量のものがあります。
 この間すでに四半世紀が経過した現時点で、名護での全国集会が大成功!まことに喜ばしいことですが、さて、これから沖縄の在野の研究活動・ネットワークが新しいステップを刻むことになるかどうか。全国集会は終わりましたが、新しい課題への挑戦はいまから始まる!
 そんなことを考えながら、皆さんと別れました。この日、3時からの名護・現地実行委員会と社全協常任委員会との合同ご苦労さん会、引き続いて夜の飲み会。私は名護でもなく、全国常任委員会メンバーでもないのに、両方に参加しているように錯覚しながら、昼から深夜まで終日飲み続け、長い1日が終わりました。久しぶりの解放感。
 珍しく?酔い過ぎない中村誠司さんが、これからです、2〜3年たてば何かの動きが・・・、と例のぼそぼそとした調子で語ってくれました。

第931号:2002年9月5日
<名護・全国集会の写真、ホームページにアップ>
 2日夜、東京にたどりついて、心地よい疲労感。しかし心はたかぶり妙に眠れず・・・。昨夜も写真の整理などしているうち、余韻いまださめやらず、あれこれと明け方まで起きていました。
 TOAFAEC・手作りホームページにアップした写真にまた数葉を加えました。すべて敬称略、肖像権も無視しています、お許し下さい。不都合なものがあればご指摘下さい。すぐに下ろしますので。
○写真は次のようなタイトル。(△印はアップ追加)
8月30日・特別プログラム
 ・山原島酒之会を語る比嘉佑典、手には稀代の古酒(くーすー)
 △ヒージャー(山羊)会50人、玉那覇正幸(宜野湾市)など
 △上勢頭芳徳(竹富島)ほか
 ・稲嶺進(名護市収入役)も
8月31日・課題別学習会・分科会・交流会・青年エイサー祭り
 ・公民館分科会(屋部公民館)
 ・比嘉久(名護市教育委員会)屋部集落の報告
 ・イチャレバチョーディ大交流会、豚の丸焼き
 ・名護市青年エイサー祭り、浦添市内間青年会の友情出演
 ・見物の子どもたちも体が動き太鼓をたたく
9月1日・第二全体会・閉会行事
 ・名護小学校児童120人のサンシン演奏
 ・フィナーレ・カチャーシー(全員)
 ・踊る島袋正敏(教育次長、実行委員会事務局長)
 ・和光大学生たちとぶんじん
 ・中村誠司(名桜大学)の解放感
 ・上野英信「眉屋私記」を紹介しつつ・・・
 △岸本チカラなど事務局メンバー
 ・上地圭子さん(社会教育課長)、すべての日程終了

第932号:2002年9月7日
<台風16号>
 名護・島袋正敏さんとの電話によると、激しく吹いたそうで、かなりの被害ある模様。個人の家だけでなく、教育施設や文化財など。5日午後10時現在、まだかなり吹いているとのこと。停電の規模も広く、お見舞いを申しあげました。
 それにしても、全国集会はラッキーでした。台風襲来の合い間をかいくぐるかたちで開催でき、その後参加者がほぼ沖縄を離れたところでの16号沖縄直撃。名護の皆さんは疲れを癒すいとまもなく、台風復旧の仕事に追われる毎日になりそうです。

<モンゴルへの旅> 同第932号
 沖縄から帰ってすぐのモンゴル行き。少々、強行すぎる日程、ぶんじんを危ぶむ声もありますが、まぁ何とか元気ですから、大丈夫でしょう。
 同行は10人。6日に北京から赤峰(内モンゴル自治区)へ、草原の学校を訪問し子どもたちへ奨学金を手渡ししつつ、通遼から北京に戻ります。草原の旅では、宗慶齢基金のグループ(阿部猛・元東京学芸大学長など)6人とも合流する予定。13日に帰国します。
 この度、いちばん悩んだことはパソコンを持っていくかどうかでした。ここ数年、世界への旅の多くはパソコン持参、しかし、モンゴルの大地にパソコンは似合わない?無理はしないでおこうと、どうにか諦めがつきました。ほんとは「北の風」を吹かせたかったのですが・・・。1週間あまりの「風」休止、ご了承下さい。

第933号:2002年9月14日
<さきほどモンゴル→北京から帰りました>
 予定通り13日夜、無事に帰宅しました。丁度1週間のご無沙汰、風としては久しぶりのこと。早速、パソコンを開いてみると、わんさとメールが舞い込んでいて、嬉しい悲鳴。まずは留守中にいただいた便りのなかから「南の風」関係のいくつかをご紹介します。
 モンゴル(そして北京)への旅、これまでにもまして多くの出会いがあり、またいくつもの新しい課題を実感しました。若い学生たちも実に元気でたくましく、実り多い毎日。和光大学研究生のチャガボルグの生家を訪ね、同じくダフラの一家も大勢で私たち一行を迎えてくれました。
 引率役のトウ君はもちろん大活躍。彼やショウグン・ナラ夫妻(いずれも東京学芸大学院生)を通して、モンゴル草原に新しい友人を得ただけでなく、北京では旧知の韓民(中国・教育部教育発展研究センター・研究室主任)やボヤンバートル(内蒙古師範大学蒙古学学院・副教授)なども駆けつけてくれました。また旅の終わり12日夜は、ご存知・張
林新の両親による招待の宴で盛り上がりました。
 *しかし張林新は、自ら経営する烟台(山東半島)のホテルに小林富美などの一行を迎えて、北京には不在。私たち夫妻は同じ時期に中国に滞在しながら、まったくのすれ違いの旅。モンゴル・北京の旅の記録はまたおいおいに「風」に収録することにいたします。モンゴルの強い酒を飲み過ぎないようにとのご忠告(下記)、有り難く拝読しましたが、すでにとき遅く、連日「蒙古王」や「ジンギスカン」などの名酒を楽しみ、しかも数本を抱いて帰ってきました。
 20日の研究会に持参いたしましょう。お楽しみに。(ぶ)

第938号:2002年9月23日
<故山辺賢蔵さんを偲ぶ会>
 第79回TOAFAEC定例研究会(9月20日)は、山辺賢蔵さんを偲ぶ会、あわせて、九一八「松花江上」を歌いあいました。国立からは徳永功さん(もと国立公民館長、教育長)や奥原光子さん、平林正夫さん(もと公民館勤務、わいがや喫茶の創設、現在は市役所課長)など旧知の方々が参加され、親しい人たちが相集って、しみじみ故人を語りあう印象的な会となりました。
 山辺さんはTOAFAECの前身・沖縄社会教育研究会(東京学芸大学)時代の常連メンバーだった方。ともに沖縄を旅したこともあり、また自ら国立メンバーなどを案内して中国各地まわり、中国からの留学生を親身になって世話されてきました。1953年まで中国人民解放軍に加わり、帰国後は国立市民としてラディカルな市民運動に関わるなど、これほどの戦後自分史を歩んだ人はそういないだろう、と思いました。
 山辺悠喜子さん(『七三一部隊の犯罪』三一新書、『日本の中国侵略と毒ガス兵器』明石書店、などの訳者)も見えました。辛口の語り口ながら、夫・賢蔵さんの思い出を語られました。

第943号:2002年10月4日
<10月4日より日本社会教育学会(北海道大学)、札幌にて>
 10月3日午後、久しぶりの札幌です。こんどの日本社会教育学会では、学会創立50周年記念プレ企画とかで、「東アジアにおける社会教育法制と研究交流の課題」をテーマに報告しなければなりません。おそらく学会報告はこれが最後(・・・にしたい)、なんとか役割を果たしたいとは思っていますが、さてどうなりますか。
 発表原稿を作らなければならないのに、まずは昔馴染みの寿司屋(写楽)に直行、もういい加減酔ってしまいました。北海道ならではの大きなボタンエビ、大助(キングサーモン)、イクラにウニ、などなど。
 この間、奥田泰弘さん(中央大学)等の公民館学会を創ろうという動きがあり、「公民館の風」一昨日号にはその「呼びかけ文」を載せましたが、「南」にも奥田さんメールを以下にご紹介します。「呼びかけ文」は長いので少し省略(お許しください)。もしご希望の方があれば、ご一報を。全文を送ります。少々、酔っていて、文章になっているかしら。

第944号:2002年10月9日
<札幌から東京へ>
 7日夜、東京へ帰りました。札幌から「南の風」前号(4日付)を送信できたものの、その後は(学会、大都市研等で)日夜忙しく「風」づくりの余裕がありませんでした。思いがけない空白、申しわけありません。今回は「公民館の風」の方が空白わずか3日、「南」は1週間近くの空き、なんとしたことでしょう。反省しています。しかし「風」吹きすぎのご批判もありますから、この程度のゆっくりしたスピードがいいのかもしれませんね。風・メールの速報性は消えてしまいますが・・。
 (いただいたメールの一部は少し時日が経過していて省略させていただきました。お許しください。)
 留守中たまっていた郵便物のなかに、『ジュゴンの海』(ジュゴン保護キャンペーンビデオ)を制作された木村修さん(マブイ・シネスコープ代表)から、新しい作品『バークレー・市民がつくる町』のご案内が届いていました。木村さんは、私たちの研究会にも来ていただいたことがあります。早速、拝見したところ、これがなかなかの出来映え。
 バークレーは人口約10万、UCバークレーの学生運動の歴史(60年代)があり、それが市民運動と響き合って、たとえばフリー・スピーチの運動として定着し、ジェーン・バエスたちの歌もあり、その町に住む人たちの誇りにもなって、かっての国立(くにたち)の青春?の日々など想い起こしました。秀逸というべき作品。
 こんどの研究会でも一緒に観たらどうでしょう。上映時間は35分、手頃のテープです。

第948号:2002年10月18日
<50号おきアドレス張整理・予告>
 公民館の風(350号)に引き続き、南の風も950号で恒例のアドレス帳整理をいたします。当方からの一方向送信となっている方で、引き続きの風をご希望の方は、その旨(950号まで)ご一報下さい。
 また「風」不要の方も、ご遠慮なくお知らせ下さい。
 もうすぐ1000号、さて、今後はどんな展開になるか。送信者としても予測がつきません。これからの「風」について、皆さんからのご要望、率直なご意見などいただければ幸い。

第949号:2002年10月20日
<ぶんじん、9月定例研究会の欠席>
 ぎっくり腰、文字通り身動きできず。日本にいるのに研究会に欠席したのは初めて? いい研究会だったようで何より。
 やっとの思いで「風」だけ送信しています。何とか入院は免れましたが、しばらくは自重しなければならないようで、残念!(ぶ)

第950号:2002年10月18日
<お見舞い、御礼>
 近藤恵美子さんはじめ、皆さまからのお見舞いメール、恐縮しています。有り難うございます。
 福岡滞在中の発症。18日の定例研究会出席のため、17日に東京へ無理して移動したのが結果的に悪かったようです。この数日、打ちのめされたような状態で過ごしています。今年、ようやく自由人になった喜びで確かに少し動き過ぎ。これを薬にして、これからは自重しましょう。
 実は9年前(学芸大学時代)に前科があり、そのとき江頭晃子さんから「もう駆けっこなど出来ませんよ!」と宣告されました。これが悔しくて、なんとかエトウと駆けっこして負かしてやろうと頑張ったことを思い出します。そして皆さんご承知の通り、たいへん元気になりました。駆けっここそしませんが、世界のどこを旅しても、若い皆さんより元気に歩いてきました。しかし、もう無理は出来ない。どうにか入院を免れたのが不幸中の幸い。
 今回、あらためて西洋医学の「整形外科」がいかに無力か、それに比して東洋医学(とくにハリ)がなんと抜群の効果を見せてくれるか、を実感しています。今、どうにかパソコンを開くことが出来る程度になりました。寝っ転がって打っていますが、快復への曙光を見出して、突然元気になっています。単純に喜ぶのがよくないかも?
 あと一つ、初めて杖を使っています。「杖とも頼む」等の意味を実感しています。いろいろの感慨少なからず。

第952号:2002年10月25日
★<いくつかニュース>
○台湾・終身学習法の日本語訳、HPにアップ:
 南の風950号に、台湾「終身学習法」訳文(修正版)についての楊武勲さん(早稲田大学大学院)メールを紹介しました。推敲に推敲を重ねて「定訳」に仕上がったものです。ご要望もあり、TOAFAEC・HPにアップしました。(公民館の風356号に詳録)
○「モンゴルへの旅、私たちの思い」もHPへ:
 ついでに、先日の10月定例研究会当日発刊の「モンゴルの草原と子どもたちに出会う旅」報告集に寄稿した「この1年余の経過、私たちの思い」(小林文人)もHPに並べました。同じく南の風946〜7号に掲載したものです。「風」記事は吹き、しかし消えていきますが、ホームページ記事は残り、風メンバー以外も読むことになります。
○チャガンボルグ(九大院より和光大研究生)が日本へ帰国:
 故郷へ帰っていたチャガンボルグより、昨日、東京に帰りましたとの電話をもらいました。久しぶり。9月のモンゴル紀行のメンバーは、草原の旅の途中に彼の自宅に(ほんのわずかな時間でしたが)立ち寄り、ご両親にも会いました。もっとも、本人はフフホト(新婚)に居て不在。日本への再入国は花嫁と二人連れを期待していたのですが、新婦の母上が入院されたそうで、気の毒に一人での再来日だそうです。モンゴル人グループへの「風」送信は、彼の留守中は途絶えていましたが、これで再開できます。
○「置戸町立図書館21世紀への歩み」発刊:
 森田はるみさんから上記(副題ー新しい図書館づくりへの取り組みの記録)が送られてきました。A4版270ページの大作。新図書館づくりの「基本計画」が柱、新館建設準備の記録が網羅されています。
 森田さん、新図書館・計画理念のエッセンスのようなところを、「風」に送っていただけませんか。

第954号:2002年10月31日
★<駒田錦一先生逝く>
 29日の朝日新聞等が報じましたので、ご存知の方も少なくないと思いますが、26日夜、駒田先生が亡くなられました。享年95歳。脳梗塞のあと、ここ数年は自宅で静養されていました。新聞は死因を脳梗塞と書いていましたが、ご遺族は「老衰のため」。ご逝去のその日もご家族と話しをされ、そのあと眠りについて、いつの間にか亡くなられていたような最後だったそうです。点滴の管につながれることもなく、苦しまれることなく、まさに大往生。
 戦後初期の文部省視学官、社会教育局でとくに青少年行政に関わって、その後は国立教育研究所で画期的な勤労青少年調査を手がけ、青研集会の第1回からの助言者。1954年より九州大学に転じ、教育行政・社会教育講座の立ち上げ。1962年より大阪大学へ、日本最初の人間科学部を創設、同学部長。定年後は東京理科大学へ、81歳まで講義を担当されていました。
 1953〜4年の日本社会教育学会創立メンバーの一人(当時、国立教育研究所)。初代の学会副会長、1972年に学会々長。この間、社会教育の国際交流・比較研究のパイオニア的役割を果たされました。
 私は駒田先生の九州大学教育学部(教授、学部長)在任中に助手をつとめました。先生の努力で第7回社会教育学会(1960年)が九州大学で開かれたことがきっかけとなり、社会教育研究の道を歩むようになりました。助手を辞めさせられた後、失職寸前に日本育英会・専門員のポストを用意していただいたのも駒田先生のご配慮によるもの。
 ぎっくり腰の杖をついて、ご冥福を祈りつつ、さきほど(30日夜)通夜の席から帰宅したところです。
歌の工房
          −ハリに通う午後、10月24日−
◇傷つきし腰いたわりつタクシーに身を沈めれば白雲の見ゆ
◇秋天はあくまで蒼く雲流る動けぬ心を励ますごとく

第956号:2002年11月4日
★<竹富島の種子取り祭、多美子さん>
 国の重要無形文化財にも指定されている竹富島の祭事「種子取り祭」については、ご存知の方も多いでしょう。10年程前には研究室(東京学芸大学)と沖縄研究会メンバーで出かけたこともあります。祭りは約1週間にわたって開かれ、小さな集落で、これだけの祭・芸能を催すことができるのかと感動させられる典型。島をあげての一大行事、いつも立冬のころ、本年は11月中旬、今ごろは祭りの準備と稽古で島は大忙しでしょう。
 そんなこともあって、いくつか竹富島関係のホームページを開いてみました。その一つ、小さなローカル新聞・八重山日報社(八重山毎日新聞とは違う)のホームページの扉には、種子取り祭の写真が飾られていました。「マミドーマ」です。庭の芸能の一つ、女性だけで稲の植付けから収穫までをユーモラスに表現する踊り。「ああ、これこそ竹富の踊りだ」と感動した思い出があります。シマの皆さんが隊伍を組んで、祭場の庭に入ってくる瞬間、何かじんと胸にくるものがありました。
 驚いたことに、その写真のなかに前本多美子さん(旧姓・鈴木、小林ゼミ出身)の顔が見えます。多美子さんは、学生時代に竹富を旅した折、一人の若者と出会い、東京の小学校教師の仕事をやめて、竹富の人になった人です。それからもう四半世紀ぐらいが経過したでしょうか。写真の右の列、前から2番目の踊り手が多美子さん。写真撮影はMASAHIRO YASUDA氏。

第957号:2002年11月7日
★<南の風アドレス変更>
 今まで「風」はJustNetを通して配信してきましたが、本年9月1日でJustNetはSo-netに統合してしまいました。この11月一杯でJustNetアカウント(メールアドレス)によるインターネット接続サービスはすべて終了、アクセスポイントも閉鎖とのこと。
 止むを得ずサーバを替えて、新しいアカウントを設定しなければならなくなりました。新サーバへの引っ越しです。 
 この2日間、パソコンと格闘していました。単純な乗り替えだ、すぐに済むだろうと思っていましたが、意外に難航。新アドレスを確定してインターネットには直ちに通じ、メールの受信も出来たのですが、どうしても送信ができない。作った「風」がAl-Mailのメールボックスから出ないのです。
 わが師匠・山口晃弘にお出ましいただくのも恐れ多い?何とか自力で・・・時間もあるし・・・などと悪戦苦闘。つまらない作業にエネルギーを使ってしまいました。結局はこれまでのAl-Mail を作り直して、新規アカウント(ソネット・テクニカルサポートの助言による)にしたところすぐに一件落着。どうにかこうして送信できるようになった次第。
 というわけで、本号から表記のようにSo-net アドレスに変わりました。あと少しの期間はJustNetも使えますが、まずはお手元のアドレス帳を変更していただくようお願いします。
 新アドレス → bunjin-k@js4.so-net.ne.jp
 そのうちホームページも引っ越さなければなりません。この機会に新しいページに創り直す努力をしてみたい、手つかずのホームページ・ビルダーも頂いているし・・・、など考えていますが、うまくいくかどうか。ぶんじんの今の状態そのまま、おそらく“腰くだけ”に終わる?

第958号:2002年11月8日
★<TOAFAEC・HP、今日、1万5千人を超える>
 拙い手づくりホームページながら、今日のぞいてみたら、訪問客数が1万5千人を超えていました。開設して丁度5年目、年平均で3千人ということになります。ページの更新その他で多少は内部の出入りの数が加わっていますが、日曜・祭日も含めて1日8人あまりのお客さん、この数はなんとも有り難く、関心をもっていただいた皆さんにあらためて御礼を申しあげます。最近は定例研究会が充実し、次回にでも“ちょっと一杯”の祝杯をあげたい思い。
 TOAFAECもこのページも、ちろん無(虚像)からの出発、内容的にも手探りの道のり。これからもまた、模索の歩みを続けていくことになります。せっかくのご訪問なのに、内容的にはまことに貧弱、技術的にも拙劣きわまりなく、とくにこの3週間は蟄居謹慎中のため、新しい記事も写真もなく、申しわけありません。ただほぼ毎日、ページの更新を(二つの「風」発行記録のため)続けてきたことだけは、我ながら驚いています。
 前号でも書いた通り、Justnetとの契約が終わりましたので、現ページでこれ以上容量を増やす見通しはなく、新しいホームページづくりに挑戦しなければなりません。今後ともご助言(とくに若いメンバーの)ご協力をお願いします。どうぞよろしく!

第960号:2002年11月11日
★<杖を離れて・・・>
 川村浩達さんより「モンゴルの草原と子どもたちに出会う旅」報告集第2版、を送っていただきました。立派な出来映え。有りがとうございました。
 今日ようやく杖を離れて少し散歩しました。下記・拙歌の「落葉」の上を(山道ではありませんが)、さくさくと歩きました。黄さんが心配されるように確かにせっかちな性分、ゆっくり、ゆっくり、と自ら言いきかせながら。
歌の工房
        −未だわが腰癒えず、11月4日−
◇秋深く紅葉映える山道を落葉さくさく踏みしめたきに
◇月めぐり冬近づきしべランダの忘れし鉢に花芽のありき

第961号:2002年11月13日
★<広州市番禺区訪日団の東京スケジュール>
 まことに慌ただしい訪日決定、なにしろビザが下りたのが8日。それからのホテルやスケジュールの準備・交渉ですから、広州の皆さんもたいへんです。21名の日本訪問を敢行しようという熱気のようなものが伝わり、なんとか少しでも協力したいと思います。
 今回の訪日計画は、もともと広州市番禺区側の発意によるものですが、要請によりTOAFAECとして招聘状を出しました。当初のスケジュール案は10月初旬、私たちの札幌の学会日程と重複するおそれあり、調整の要はあったものの、例によって?在広州日本領事館のビザ交付が遅くなり、今回のスケジュールになったという経過です。
 11日から12日にかけて、内田純一・事務局長と連絡をとりあって、せめてもの受け入れ体制を準備中。深夜の連絡では、到着当日のホテルは東京にとれず横浜になったそうで、急ぎ川崎・伊藤長和さんにメールをうち、さきほど電話をして(いつも困ったときはそうですが)、川崎での対応をお願いしました。有り難うございました。今のところ、次のようなスケジュールになりそうです。
 14日(木)成田着 → 横浜(ホテル)
 15日(金)午前・川崎市民ミュージアム訪問、午後・杉並区社会教育センター(セシオン)へ、夜(18:30〜)81回TOAFAEC定例研究会へ参加、宿泊:東京(ホテル)
 夜の研究会の会場は、いつもの高井戸区民センターですが、大勢のゲストですから、予定の部屋ではせまく、遠藤輝喜さんを通して大きな会場(同センター内)への変更をお願いしているところ。もし無理であれば直接「グルマン亭」でビールの交流から始めるということになるかもしれません。

第962号::2002年11月14日
歌の工房
   −窓から遠く富士が見える、11月9日−
◇茜さす雲もはなやぐ富士峰に秋の夕陽の落ちる一瞬
◇暮れなずむ遙かなる富士望みつつ我れ横たわり童女微笑む

第963号:2002年11月16日
★<広州市番禺区からの訪日団>
 15日昼、広州市番禺区(成人教育関係者)訪日団がようやく成田に着き、その足で夜6時半には都内・高井戸(11月定例研究会々場)に皆さんで来ていただきました。一行なんと21名。研究会参加は主要メンバーの12名。皆さん、ほんとにご苦労さま!
 もともとビザの発給が遅れた上(南の風961号)、さらにまた出発予定の14日にも間に合わず・・・1日待機させられて・・・。なんともお気の毒。ホテルの予約はもちろん、川崎や杉並など私たちがお願いした施設訪問の予定も全部キャンセル、あらためて事情を話して再度のお願いをするという経過でした。あの7月の上海訪日団の時もそうでしたが、こういうこと、なんとかならないものか!
 それでも皆さんきわめて元気。案内役の李偉成を別にすれば、すべて初めての日本、いい旅になってほしいと願わずにはいられません。
 研究会に用意した部屋では入りきれず、挨拶とお互いの紹介を終えてすぐにグラマン亭に移動、ただちにビールの乾杯となりました。広州や番禺の報告は歓談のなかで聞くかたちとなり、ちょっと勿体ない思い。
 当夜の模様を、どなたか「風」にレポートを寄せて下さい。
 個人的ながら、先月に福岡で動けなくなってちょうど1ヶ月目の夜でした。治療以外の(研究活動的な)外出は初めて。念のため杖を携えての参加でしたが、なんとか4時間ちかくお付きあいできました。よろよろしながらの久しぶりのカメラ、数枚をHPにアップしようと思いますが、果たしてうまく撮れているかどうか。

第967号:2002年11月25日
★<女児の誕生!>
 さきほどトッグタホ(套図格)より電話あり、待望のお子さん、無事に誕生とのこと。安産だった由。おめでとう! モンゴル人であれば誰知らぬものはない「草原の革命家=トッグタホ」の娘さん、どんな子に育っていくのか、楽しみです。

第969号:2002年11月29日
★<松本にて>
 今日は松本にいます。休養後、はじめての旅です。1時間の話と3時間のシンポ、その後の懇親会、なんとかこなしました。腰もちゃんと立っています。今朝の松本は零下5度、冷気は腰によくないので、早々に信州を離れて、福岡の会に向います。どうにかこれで復帰の道を歩ければと念じているところ。

第970号:2002年12月2日
歌の工房
            −11月29日、松本空港−
◇槍も見ゆあれぞ乗鞍御岳と一人で決めてアルプスを飛ぶ
            −1ヶ月半の空白、松本から福岡へ−
◇腰萎えて身を横たえて飛びし空いま自立して窓に太陽

第971号:2002年12月4日
★<少年時代の懐かしい道>
 上記・中村報告にある研究会々場の九州大学国際研究プラザは、私の少年時代の懐かしい道、百道(ももち)海水浴場へ行く途中、樋井川沿いであった。大通りのチンチン電車(地行西町)を降りて、この川沿いを少し歩けば、昔はかなり広大な松林があって、きれいな砂浜が続いていた。前に能古島、後に志賀島、遠くに玄界島もみえて、そのあたりからよく夕立雲が涌きあがっていた。
 二日がかりの長時間の研究会、その議論に疲れては、私は窓辺により、横の桶井川に汐が満ちてくる様子、川をのぼる「うねり」に昔を想っていた。(12月3日)
◇電車道駆けて下れば磯の香の百道の浜の夏のざわめき
◇少年ら歓声あげて飛びこみしその海遠く弟も亡く
◇かき氷水飴西瓜卵焼き祖母のつくりし鰊とおむすび
◇桶井川を汐満ちうねりのぼりゆくこの川上に我が家はありき

第973号:2002年12月10日
<ガラビ壕とヒージャー汁>
 もう1年前のこと、2001年の和光・小林プロゼミ(すべて1年生)では、沖縄へのフイールドワーク・プログラムにガラビ壕へ入る計画をたてました。具志頭村役場の上原文一氏に説明役になってもらい、案内をお願いして、壕へ。数名の女子学生が途中で脱落するほどの険しいルート。観光化?されたガマと違って、沖縄戦の臨場感があり、実にいい体験学習となりました。
 終わって、「ご苦労さん!」というわけで、具志頭村役場・会議室でヒージャー(山羊)汁をご馳走になりました。やはり数名の学生(男子学生を含む)が箸をつけたものの、食べきれず、ついに敬遠。しかし、ヒージャー付きのガラビ壕体験など、そうめったにあるものではない!

第974号:2002年12月12日
★<新・市民活動の風>
 ほんとに久しぶり、江頭晃子さんから「風」にさきほど「風」が届きました。新・市民活動の風!
 前半部分の、都立多摩社会教育会館の市民活動資料室についての緊急集いについては、関連する「公民館の風」へ収録することにし、以下には後半部分の「市民活動のひろば・市民版」等について、ご紹介することにします。
歌の工房
                   −12月11日−
◇購いし「現代用語の基礎知識」持てばわが腰癒えしと思う
         −名護からの便り、12月12日−
◇古酒カメの仕次ぎの技法伝えんと手紙の来れば夜は華やぐ

第975号:2002年12月14日
★<満月会>
 フフ・モンゴル・オドムの代表、トッグタホ(套図格)夫妻に待望の女児誕生、おめでとう!
 モンゴルの伝統的な習慣では、女児の誕生から満一ヶ月となる日に友人・知人(おそらく親戚も)が集まって「満月会」を開き、お祝いの会を催すそうです。ちょうど12月24日、クリスマス・イブと同じ日らしい。故郷のご家族の皆さん(今年9月に会ってきました)もさぞかしお喜びのことでしょう。どんな命名かまだ知りませんが、日本での健やかな成長を祈っています。

第976号:2002年12月16日
★<川村浩達さんへのお願い>
 渡部幹雄さん(愛知川町立図書館々長)から最近は打てば響くようにメールが返ってきます。
 先便の渡部メールは、「まちかど博物館」についてのコメントがありましたので「公民館の風」(375号、愛知川だより)に収録しました。
 上記のように、愛知川町図書館では来年2月、フフ・モンゴル・オドムのトッグタホ(套図格)たちを招いて馬頭琴演奏会を開催し、その際にゲルなども組み立て、写真等を展示したいとのこと。
 「そこでお願いなのですが、モンゴルの遊牧生活や大草原を写した写真のネガか写真プリントをお貸し戴ける方はいらしゃらないでしょうか。写真展を開催したいと思っております。……」(渡部)
 9月のモンゴル訪問団で撮った草原やゲルなどの写真を貸してもらえないか、という依頼です。モンゴルの子どもたち支援の一環でもありますので、川村さんの方で対応していただけないでしょうか。

第982号:2002年12月28日
★<どうにか快復へ・・・>
 今年も残すところわずかとなりました。この1年、いろんなことがありました。とくに10月の札幌の学会と大都市研以降の約3ヶ月は、腰を痛めて行動を制限され、人生はじめての経験となりました。杖をつく生活も初めて。自重を強いられ、皆さんにもご迷惑をおかけしました。いまようやく普通の生活に復帰しつつあります。
 「よくここまで快復しましたね」と言ってくれるのはハリの先生。励ましつつ、しかし、ゆっくり慎重にと、忠告もしてくれます。自分の体調のことをまず第一に考えるという生活は、これからの生き方にも関わって、貴重な3ヶ月でした。さて、新しい年をどう歩むか、何を選んでこれからの仕事としていくか、など考えながら、あまり飲むこともせず、はじめて?ゆっくりした年末を過ごしています。どうも有り難うございました。
 いま、古くなった旧「文豪」の年賀状データを廃棄して、思い切って新しい(郵便番号もやっと4桁の)住所録リストを作りはじめたところ。ただし、年内に出来上がるかどうか。

第983号:2002年12月30日
★<年末・研究会での語らい>
 先日の12月研究会・忘年会の話題二つ。
 一つは、毎月の交流会のレストラン・グルマン亭(高井戸駅横)から生ビールが消えました。瓶ビールしか出てこない。詳しい事情は分からないが、営業方針の変更らしい。研究会の活気にとって、交流会と生ビールは不可欠! 
 これまで、学芸大学研究室時代の沖縄研究会はシマ酒(泡盛)、TOAFAECに移行(1996年)してからは高井戸の生ビール、その語らいがエネルギーになってきた、これは間違いありません。だから「なま」が出てこないレストランなんて考えられないよ、次回から、どこか別の交流会場をさがそうよ、など話しあって別れました。さて、どうなるか?
 あと一つは、「風」のこれから、について。もうすぐ「南の風」は1000号を迎え、「公民館の風」はおそらく同じ頃に400号となります。このあたりで一つの区切りをしてはどうか。惰性もありマンネリ化もある、読まれないで捨てられている場合もありそう。一方で、しっかり読まれていて、なかなかいい風だ、という反応もないわけではない。さて、どうするか。
 選択肢は三つ。
1,ここらで、有終の美?をもって、店仕舞いする。
2,二つの「風」を一つにする。
3,二つの「風」の性格を整理する。たとえば、ゆったりの“ゆんたく”風と、研究交流の風にしぼる。二つ目の風は、少し長いメールにして、頻度を少なくする、TOAFAECの連絡・交流の役割をもつことになるだろう、など。いずれにしても、現行のアドレス帳は一度チャラにする・・・そんな話しをしました。
 もちろん、まともに論議したわけではありませんが、折りにふれて、これからの「風」について、ご意見など頂ければ幸い。二つの風の区切りは、おそらく来年2月の後半?でしょうか。
 今年の風は、本号でおしまいでしょうか。本年はとくに、沖縄全国集会や『おきなわの社会教育』刊行、モンゴルへの旅など、いろいろありました。ご協力をいただき、またご迷惑をかけ、お世話にもなりました。有り難うございました。
 私のギックリ腰も影響して、『東アジア社会教育研究』第7号がついに年内発行を実現できなかったこと、これは大きな心残り。また来年、どうぞよろしくお願いします。 

2003年
第984号:2003年1月2日
★<南の風、今年もどうぞよろしく>
 各地からの年賀状、新年のご挨拶メール、有り難うございます。
 今年の正月は(例年と違って)東京です。福岡・油山だと山から除夜の鐘も聞こえて、思い新たなものがありますが、東京は冷たい風の音のみ。なにか旅先で新年を迎えているような錯覚がありました。
 しかし船橋に住んでいる息子たち一家が泊まりに来てくれて、賑やかなお正月になりました。
 今年の「南の風」、またどうぞよろしくお願いいたします。

第987号:2003年1月9日
★<和光ドンド焼>
 1月小正月は何と言っても和光「ドンド焼き」。鈴木頸介さん(鈴木榮太郎先生の御曹司)にどうぞよろしくお伝え下さい。鈴木ゼミを中心とする和光ドンド焼の日程は、毎年こちらの新年会とダブって困りましたが、去年は幸い(最終講義のおかげで)日がずれて、小生もドンド焼きに出かけました。昨年1月のTPAFAEC・ホームページ収録の写真、ぜひ、ご覧下さい。
 12日新年会、もし可能であれば、夜の“風の部屋”にお出かけ下さい。世界の酒を取り揃えてお待ちしています。9時には看板にしたい。

第988号:2003年1月10日
★<科研費・沖縄研究MLの始動>
 2002年度から松田武雄氏(九州大学)を代表者として新しい沖縄研究グループが活発に動いています。その動きは何度か「南の風」にも寄せていただきました。この間、科研費関係者によるML(通称・沖縄シマ公民館研究会)が機能し始めています。いずれも風メンバーの皆さん、この一両日のメールを一部「風」に紹介させて頂きます。
 ただし、関係者のご了承を得ないままの収録、お叱りをいただくかも知れませんが、なにしろ「風」は沖縄研究再開の呼びかけから始まった通信(1998年2月)ですので、お許しをいただくことにしましょう。

第989号:2003年1月13日
★<2003年・新年会>
 今年の正月は福岡に行きませんでしたので、今日(12日)の永福の会が文字通りの新年会。お出でいただいた皆さん、お疲れさまでした。遠くからのご参加もあり、珍しい顔が見え、留学生あり、みやらび・童も賑やかで、楽しい会となりました。
 国立から永福に移った年に七夕の会が始まり、その翌年(1981年)成人式の日に新年会がスタートしました。もう20年あまりになります。当時はたいへんでした。せまいマンションで、会はお昼ごろから始まって、深夜まで、大勢の方が見えました。日の明るい時間帯は子ども連れ、夜は飲んべが座り込み、いつまでも終わりませんでした。
 田中美奈子さんや江頭晃子さん、山口真理子さんなど手伝っていただく裏方はくたくた。私たち夫婦もこの夜は我が家では寝ることができず、吉祥寺のホテルに泊まりいく始末。
 その後、近所の小さなレストラン(グランメール)で開くようになって楽になりました。しかし宴が果てても夜の部は再び恒例となって(夜に来る人もあり)、今晩の“風の部屋”は10時をすぎて、ようやくお開きとなりました。
 斗酒なを辞せず、のかっての若ものたちも、今晩はかなりの酔っぱらいのオジさん。名護から送ってもらった古酒のカメを開きましたが、5年後の楽しみにして、いまは飲まず。よかった、よかった。ぶんじんも今晩は少々酔っぱらっています。
 皆さん、有り難うございました。(ぶ)

第991号:2003年1月17日
★<上野景三さんが文化奨励賞>
 「南の風」創刊時からのメンバーである上野景三さんが、昨年秋、佐賀新聞・文化奨励賞を受賞されていたことが、今年の年賀状で分かりました。いま(とくに大学関係者が)元気のない時代、何よりも目出度い、目出度い!慶事とはこのこと。お互いの景気づけにもしたいもの。
 「公民館の風」386号(1月16日)では、佐賀新聞の関係記事を詳報しましたが、その一部を以下に再録し「南の風」としてお祝い申しあげます。

第993号:2003年1月21日
★<『東アジア社会教育研究』第7号・ようやく刊行ヘ>
 お待たせしている第7号の刊行については、昨年末より編集「最終段階」という表現を繰り返してきましたが、まだその状態が続いています。ご寄稿の各位、期待して下さっている方々にご迷惑をかけてしまいました。刊行が年を越して、異例の事態となりましたが、このほど最後の原稿もようやく到着、いま、ほんと!の最終段階となりました。内田・石倉両氏の努力により、もうすぐお届けできると思います。まずは一足先に最終確定の目次をご紹介いたします。
 『研究』の編集事務局体制、発行への取り組み、ひいてはTOAFAECの運営体制等について、今回の反省をもとに、一歩前進の努力を重ねていく必要を痛感しています。あらためて皆様のご支援、ご協力をお願いします。

第994号:2003年1月23日
★<スロヴェニア・柳(Hyeon Sook Ryu)さんへ>
 突然の遠方からのメール、驚きました。韓国へ帰国されたとばかり思っていました。お元気のようで何より。なによりも、おめでとう!
 ゆっくり、のんびりと、貴重な機会を楽しんで下さい。教師はやはり自ら楽しむことが第一かと思います。あんまり頑張り過ぎないように。
 あなたのTOAFAEC研究会参加の日々を懐かしく想いおこしています。いつぞや和光大学・小峯みずきさんを通して、CD「アチミスル」を頂きました。有り難うございました。リュブリャーナも美しい古い都とのこと。そのうち落ち着いたら、スロヴェニアからの風のたよりを送って下さい。

第995号:2003年1月25日
★<伊藤ルイさんのこと >
 鷲尾真由美さんからのメール、有り難うございました。私を“発見”していただき、恐縮しています。東京に来る前はたしかに福岡、九州産業大学というところに3年ほど在職していました。当時のことを思いおこしています。
 伊藤ルイさんとは、福岡市鳥飼公民館「くらしの学級」(公民館主事は田岡鎮男さん)で出会いました。いつも和服姿で、教室のいちばん後の席に座って静かに話を聞いておられたのが印象的。その後、瀬戸内晴美「美は乱調にあり」が出版されて(1969年)、その冒頭に博多人形彩色職人としても描かれています。ルイさんは「この本はあまり好きではない」と語っていましたが・・。
 大杉栄・伊藤野枝没後50年の集い(東京・山手教会、1973年)が開かれた折り、ルイさんは請われて上京され、当時私が住んでいた国立の団地に泊まりました。せっかくの機会だ、国立の市民運動の皆さんに紹介しようと思い立って、ルイさんを囲む夜の会が開かれました。10人あまりの方々が集まったでしょうか。皆さん、ルイさんへの興味しんしん、生い立ちからその後の流転?の歩みについて、いろんな質問が相次ぎました。
 ルイさんは初めは寡黙でしたが、いつの間にか熱っぽく自分史を語り始めたのです。彼女にとっても「こんなに自分のことを話したのは初めて」だったとか。寝たのはもう白々と夜が明けそめた頃。この夜の話が、その後の松下竜一さん聞き書き「ルイズ」に結実することになったと思います。
 伊藤ルイさんは、その3年後に「海の歌う日ー大杉栄・伊藤野枝へ、ルイズより」(講談社)という本を出しました。この本には「くらしの学級」はもちろん、福岡の公民館活動や市民運動のことが自分史風に記録されています。
 鷲尾さんの便りで、突然に昔のことを想い出し、本棚の奥から久しぶりに「ルイズ」を開いてみました。亡くなったルイさんからの葉書がいまなお生きているかのように、パラパラとこぼれ落ちました。ことのついでに、その一部をご紹介します。
 「…略… 本が出てしばらく身辺がゴタゴタしましたが、やっと落ち着いて本でも読めそうな気分です。秋が近いせいでしょうか。久しぶりに山崎愛子さんからお便り頂きました。とてもいい書評で、彼女ならではのものでした。くらしの学級、相変わらずボツボツ。メンバーはすっかり変わっていますけれど。福岡へお越しの折はお目にかかれればと思います。学級で沖縄の話でもして頂けたら、と思っています。 …略… 
 広島原爆被爆の日に。(1982年8月6日)」
 文中の山崎愛子さんとは、あの夜の国立メンバーのお一人。ついでにあと一つ。上記「海の歌う日」送本の添え書き。
 「おくればせの自己紹介、松下竜一さんにそそのかされ、はげまされて書きました。装画がステキでしょう。沖縄の聞き書きで童話を書かれる下嶋哲朗さんです。わざわざ今宿の海を見に来て、書いていただきました。くらしの学級、ほそぼそと続けています。いとうるい(1985年11月)」

第996号:2003年1月27日
★<風のこれから―ここらでちょっと一区切り> 
 もうすぐ1000号。いまのリズムでいけば、あと10日前後で大台に乗ります。風の創刊は1998年2月6日でしたから、ちょうど5年。年平均で200通の送信、よくぞここまで来たものだと自分ながらびっくりしています。もしかすると2月6日当日に1000号を発信できるかも?
 横浜・寿町の大沢敏郎さんが続けている識字学級・通信(手書き、手刷りのプリント版、実は「南の風」のひそかなライバル)の号数には及びもつきませんが、それなりの達成感、継続することの楽しさみたいなもの、を味わってきました。しかしその反面で、歳月を重ねるなかでの妙な惰性・マンネリ化も否定できません。ときに疲労感もないわけではありません。
 風を吹きながら気になってきたこと。ご承知のように、送信は2日に1回程度ですが、「公民館の風」と併せて受信している方には、多いときはほとんど毎日「風」が吹いていく勘定になります。これは吹きすぎ、迷惑メールになっている気配なきにしもあらず。迷惑なときは「どうぞそのままゴミ箱へ棄ててちょうだい!」と祈って、発信するような心境でした。お邪魔虫になるのは「風」としてもつらい!
 どちらか一つの「風」に・・・とお願いした経過もありましたが、うまくいきませんでした。どこかで転機が必要だな、と思っているうちに「南」は1000号間近となり、「公民館の風」も400号が近づいたという次第。
 ここらでちょいと一休み?「無理することないよ、どうだい、そろそろ店仕舞いしようじゃないか」、そんな誘惑の声がどこか遠いところから聞こえてきます。悪魔のささやき?は案外と甘美なひびきをもっていますね。
 しかし「風」を心待ちし、頼りにもしていただいている方々を知っています。どちらかといえば大学関係者以外。海外のメンバーも風をよく読んで下さっている。回し読みされている話を聞いたり、あるいは公民館の風メンバーのお一人が「ペルーの黒船」のようだ、と評したメールをもらったときなどは、正直のところ「涙(なだ)そうそう」寸前、冥利につきる思いでした。
 「風のこれから」について、どう決断するか。この1月は、ぜいたくに悩んできました。二つの風が関連しています。この間に、沖縄から教えて頂いた「古宇利区長日誌」や「今帰仁村歴史文化センター」館長のホームページを見ていると、驚くことに毎日の記録・日誌がアップされている。「風」の頻度などまったく驚くに値いしない。そうです、ホームページを活用する手もありますね。しかし・・HPは体裁を整える作業が案外とたいへん、その上に無限定の公開となります。
 名護の中村誠司さんは「風」に関わって強い「課題」「提案」をもっておられるとのこと(南の風992号)。この機会に、お気持ちを漏らして下さい。あと数日で決断したいと思っています。皆さまからの遠慮のないご提起をお待ちしています。
 北海道・森田はるみさんからのメール、有り難うございました。

第997号:2003年1月29日
★<今年のTOAFAECの課題>
 1月26日夜、久しぶりTOAFAEC事務局会議でした。6人(内田、石倉、黄、岩本、遠藤、小林)でいろいろ報告しあい、論じかつ盛んに飲みました。何よりも遅れている『東アジア社会教育研究』第7号発行へ向けての最終確認作業(英文目次など)。当日に用意した「ぶんじんメモ」を項目だけ以下に掲げておきます。それぞれについての説明がほんらい必要なのですが、省略させて頂き、こんごの具体的な活動に委ねることでお許し頂きます。

第998号:2003年2月1日
★<風のこれからについて>
 中村誠司さん、無理に書かせたような経過になって、申しわけありません。有り難うございました。何度も読みました。同じような思いですね。
 「風」についても、皆さんの期待に応える方向で、今、まわりの気兼ねのない数人と相談しています。1,000号で何らかの方向を出したいと考えています。昨年秋のギックリ腰がたたって、もう半年も沖縄に参上していません。3月上旬に訪沖予定。ご存知の同行者あり・・・、どうぞよろしく。宮城満さんにもどうぞよろしく。

第1000号:2003年2月6日
★<風・1000号ご挨拶・・・「公民館の風」休止>
 「南の風」がようやく1000号を迎えました。ちょうど5年目の記念日(2月6日)に、予定通り大台にのり、嬉しい限り。これまでのお付き合い、有り難うございました。ここで一区切りしたいと思います。
 これからのことについては、三つの選択肢(南983号、公民館385号)を記した経過があります。ご意見をたくさん寄せていただき、感激しました。
 その後、あと一つの選択肢(「風」を別の人で受け継ぐ案)が加わって、数名の方での検討も頂きました。「公民館の風」を誰か担当できるかどうか、今日の段階では何ともいえません。
 ひとまず、ぶんじん「公民館の風」については、この段階で休止することをお許し下さい。
 二つの風の歩みに「お疲れさま・・・」とねぎらい言葉も下さって恐縮しています。が、当の本人はそう疲れてはいません。ただ、惰性・マンネリ化を排したい思い。それと、二つの「風」の混交の関係を整理したい気持ちもありました。

 <「南の風2003」のイメージ>
 さて「南」の方は、この間に寄せられたご意見や期待に応えて、「南の風2003」として新たな歩みを始めることにいたします。
 以下のようなイメージを抱いています。これに関心を持たれる方々で参加ご希望の方は、あらためて(ご面倒ながら)その旨のご連絡をお願いします。
1,「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC)の通信・ひろばの役割。とくに沖縄、海外の皆さんとのネットワーク。
2,参加メンバーの自由な“ゆんたく”の場。社会教育・公民館に限定されない、いろんな分野の方(市民、教員、看護師、出版、カメラマン、組合関係者など−現「南の風」の例)を含むおもしろ交流。
3,関連する(社会教育・公民館等を含む)集い、イベント、出版などの情報、案内。これまでの「公民館の風」の部分継承。
4,風・双方向性の原則、お互いに風を吹き合う。
5,週に2回程度の発信。速報性は多少犠牲にしても、新たな継続性を追求していく。必要に応じて(「公民館の風」休止の穴をうめる?)臨時号の企画。
6,ホームページへの「風」書き込みの模索、今後の検討課題とする。
7,従来の「風」アドレス帳は白紙にもどす。あらためて登録をお願いし、一定数に達したところで、1001号送信を開始する。50人前後を上限とする。

 以上7項目。これまでもそうでしたが、ご参加の皆さんからの風をエネルギーとし、ご意見やご提案等を支えとして、発行していきたい。あとしばらく風「2003」としての歩みを続けることといたします。どうぞよろしくお願いします。


*(日誌)1001号〜1050号

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